毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 章魚舩・タコブ子 / 図はアオイガイ・解説対象はタコブネとアオイガイの混淆
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。標題部は縦に二つのブロックが並んでいるが、並置させた。]
章魚舩【「たこぶね」・「あをい貝」。】
「譯史記餘」
舤魚(ハンギヨ)
「坤輿外記(こんよがいき)」
舡魚(コウギヨ)【蛮名「ヒツセナーチクス」。「かいだこ」。「乙姫貝(おとひめがひ)」。】
明の艾儒畧(がいじゆりやく)が曰ふ、
『半殼を竪て、舟に當(あ)て、足の皮を張り、帆と當てて、風に乘りて行く。名づけて「舡魚(カウギヨ)」と曰ふ。』は、非なり。章魚舟の帆立貝の事なり。以つて、蓋し、帆と爲(な)して、殻を以つて、舟と爲(な)して走る。
「笈埃隨筆」に、
『越前海、蛸舩の大なるもの、七、八寸【中略。】、其の中に小(ちさ)き章魚(たこ)ありて、両手を、貝殻の外へ出(いだ)し、両足を、梶・竿の如くし、頭を立(たて)て、帆の如くし、游(およ)ぎめぐる故に、其の名あり。其の章魚、大毒有りて、食ふべからず。其の殻、花瓶と爲(す)。』と。
「延喜式」、「主斗式」[やぶちゃん注:「斗」=「計」。]に曰ふ、
『蛸鮨』と云ひ、此れ、『章魚舟』と云ふ。考ふるに、同書に『乾蛸(ほかしたこ)』あり、『蛸の腊(きたい)』あり。「大膳式」に『干鮹』あり。故に『蛸鮨』は『章魚舟』にあらず、『蛸の鮨』なり。[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの別人の写本では、「乾蛸(ホシタコ)」であるが、底本では明らかに「カ」に酷似した文字が認められる。衍字か。]
『蛸舟』は俗名、『貝蛸』【「本名」。】、一名、『弟姫貝(おとひめがひ)』と云ふ。[やぶちゃん注:同じく別人の写本では、この一行がない。]
○「日本書記」[やぶちゃん注:ママ。]敏達天皇五年の條下に『貝蛸皇女(かひたこのひめみこ)』あり。「貝蛸」の名、久し。
○「職方外記」に云ふ、『一種、介属の魚、僅か一尺許り。殼、有り。六足の足、有り。皮のごとし。他に徙(うつ)らんと欲すれば、則ち、半殻を竪て、舟に當て、足の皮を張りて、帆に當て、風に乘りて行く。名づけて「舡魚(かうぎよ)」と曰ふ。』と。
「龍威秘書」巻九「譯史紀餘」に云ふ、『舡魚。六足。殻、有り。皮は、僅かに長さ、尺許り。他に従(うつ)らんと欲すれば、則ち、半殼を竪てて舟に當て、足の皮を張りて帆に當てて、風に乘りて去る。』と。』[やぶちゃん注:「従」はママであるが、別人の写本では「徙」であり、後に示す孫引き元である「栗氏千蟲譜」でも「徙」であるから誤字である。]
乙未八月廿九日倉橋氏
所藏より、之れ、眞寫す。
[やぶちゃん注:まず、言っておかねばならないことは、図は、その形状から、これは、「蛤蚌類」ならぬ、「葵貝」、
頭足綱八腕形上目八腕(タコ)目無触毛亜目アオイガイ上科アオイガイ科アオイガイ属アオイガイ Argonauta argo の♀の貝殻
である。ところが、解説はアオイガイとは似て非なる別種の「蛸舟」、
アオイガイ属タコブネ Argonauta hians の♀
の方にやや傾いて書いてあるように一見、見える(後の「蛮名」の考証を参照)。則ち、この近縁種の二種の♀を全くの同一生物として書いているということになる。しかし、両者の♀の形成する「貝殻」は類似してはいるが、素人が見ても、別な物と認識できるほどには、細分の形と色、さらに構造にも有意な違いがあり、また、形成機序も全く異なっていて、アオイガイが外套膜から分泌した物質で形成するのに対し、タコブネは特殊化した第一腕から分泌する物質で形成する。それぞれの貝殻の違いは、ウィキペディアの「アオイガイ」に載る、♀の貝殻標本写真と、同じくウィキペディアの「タコブネ」に載る、♀の貝殻の同写真を比較して見られたい。因みに、私はアオイガイの殻が非常に好きで、少年の頃、由比が浜で拾った五個体を今も居間に飾ってある。反して、タコブネの貝殻は、水族館や標本屋の店先でしか見たことはなく、そのフォルムは私の好みではないから、食指も動かず、所持していない。私の記事では、両種ともに、まず、梅園が明らかに記載の一部で孫引きしていると思われる(後述する)、文化八(一八一一)年の成立とされる、
栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」(サイト版。画像入り。初版は二〇〇七年の私のサイト記事では最下層のものだが、二〇一四年に全面改訂している)
が最も詳しく、私も力を入れて注釈している。他にブログ版では、
「生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (5) ヘクトコチルス」
がよかろうかと思う。他に変わり種では、『航魚(タコフネ)を見れば凶事有り』とあるだけだが、
「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 7」
も民俗資料として読んでおく価値はあろう。
「あをい貝」(正しい歴史的仮名遣は「あふひがひ」)の和名は本種の♀の殻を二枚、開口部を下にして左右対称に合わせると、丁度、植物のアオイ(葵)の葉に似ることによる。当該ウィキのこちらの画像を参照。
「譯史記餘」「譯史紀餘」が正しい。清の陸次雲の著になる地理書。
「舤魚」「舤」は「舷(ふなばた)・船縁(ふなべり)・船の側面」の意。
「坤輿外記」明末清初に活躍したベルギー生まれのイエズス会士フェルディナンド・フェルビースト(Ferdinand Verbiest 一六二三年~一六八八年:漢名は南懐仁。一六四一年にイエズス会に入り、中国での布教のため、派遣され、一六五九年、中国に到着。陝西での布教に当たったが、まもなく北京によばれ、既に一六二三年から中国にいたドイツ人イエズス会士ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam Schall von Bell 一五九二年~一六六六年:漢名は湯若望)を助けて欽天監(きんてんかん:天文台)で活躍、一時、その任を追われたが、復職し、アダム・シャール没後も修暦に従事、一六七三年には欽天監監正に任ぜられた。西洋式の各種天文観測機械の製作と解説書「霊台儀象志」や、世界地図「坤輿全図」(一六七四年)とその解説地誌「坤輿図説」(一六七二年)を著したほか、大砲の鋳造も指導するなど、幅広く活躍した。宣教面でも中国教区長を務め、北京で亡くなった。以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)が「坤輿図説」から主たる地誌的記事を取り除いて、奇異な話のみを抽出したもの。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の一括PDF版の本邦で写本されたものの、「10」コマ目右丁の終わりから二行から記載がある。起こす。句読点を追加した。
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有介属、之魚、僅尺許、有殻、六足、〻有皮、如、欲徙、則竪半殻、當舟張足皮、當帆、乗風而行。名曰舡魚(ヒウセナーイクス)。
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この本の確認は、実際に梅園が行ったもののようには見える。
『蛮名「ヒツセナーチクス」』この時代の接触出来る外国人の殆んどはオランダ人であるから、まず、オランダ語の「アオイガイ」を調べたが、“schippertje”でオランダ語を知らない私が見ても、このカタカナ音写とは一致しそうもなかった。そこで、「タコブネ」の方を調べてみたところ、図に当たった。タコブネのオランダ語は“papiernautilus”で、試みにネットの機械翻訳機能で発音させたものを音写すると、「パピューナチレス」で、英語のそれは、“brown paper nautilus”(ブラウン・ペーパー・ノーチラス:茶色の紙製のオウムガイ)である。綴りから見て、オランダ語のそれも「紙のようなオウムガイ」の意と推定され、この「パピューナチレス」は、以上で字起こしした「坤輿外記」と殆んど相同であるから、梅園が振った「ヒツセナーチクス」も同じカタカナ音写と断定出来る。
「かいだこ」カイダコはアオイガイの旧和名で、現在は異名とされる。その変遷は当該ウィキを参照されたい。前の注と合わせて、本図譜の本図がアオイガイとタコブネの混同記載となっていることが証明された。
「乙姫貝」栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」に(以下は原文。〔 〕は直前字の誤りを私が訂したもの。太字は私が附した。既に、実は丹洲もアオイガイとフネダコを混同して記載してしまっていることを証明するためにも「乙姫介」の記載以外の箇所にも附した。そちらでは、原文をまず提示し、後に「■やぶちゃん読解改訂版」(カタカナをひらがなにし、訓読整序して読み易くしたもの)も後半に配してある)、
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舡魚 蛮名 ヒツセナーテ〔チ〕リス 右ノ図蛮書落立茅〔弟〕篤中ニアリ直ニ抄出ス
本邦俗ニ章魚船ト呼一名貝章魚ト云此介殼ヲ人〔介〕品ニ入ル紀州ニテ葵介ト云小ナルヲ乙姫介ト云諸州ノ海中ヨリ産ス大ナルハ六七寸小ナル者二三寸純白ニシテ形鸚鵡螺ノ如ク薄脆玲瓏恰硝子ヲ以テ製造スルモノニ似タリ文理アリテ※瓏ヲナス畧秋海棠葉ノ紋脉ニ彷彿愛玩スルニ耐タリ中ニ一章魚ノ小ナルモノコレニ寄居ス六手ヲ殼肩ニ出シ両足ヲ殻後ニツキハリテ櫂竿ノ象ヲナス海面ヲ游行スルコト自在ナリ真ニ奇物ナリ此章魚ハ外來ノモノニ非ス此介ノ肉ナリ徑月大ナルニ随テ此介モ又大ニナルモノ也章魚ノ船ニ乘タルニ似タルニ因テ此名アリ徃年津輕海濱ニ此物一日數百群ヲナスコトアリテ寄來ル人多クコレヲトル然レドモ怪テ食フモノナシ試ニ煮テ犬ニ與テ喰ハシムルニ皆煩悶苦痛ノ体ナリ因テ有毒ノモノト知漁人偶得ルコトアレハ則章魚棄テ殼ノミヲ採リテ以テ珎玩トシテ四方ニ寄ス然レドモ其殼モロク碎ケ易ク久シク用ユルニタヘス[やぶちゃん字注:「※」=(がんだれ)の中に「毛」。読みも意味も不詳。因みに「瓏」は「明らかなさま・はっきりとしたさま」。或いは「尾」の崩しか? としても、「マデ」などの送りが無ければ、意味が通じない。]
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最後の「※」の不明字は現在も同じ。底本写本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページの画像を示しておく(右丁四行目下方)。後に出す「弟姬貝(おとひめがひ)」と同じ。小さいから「弟」の方が当たりなのかも知れない。しかし、相似する薄い美しい殻を美称して「姫貝」と呼んだと措定するなら、アオイガイとカイダコの殻を並べた場合、アオイガイは最大十五センチメートル程度であるのに対し、カイダコの方は八・八センチメートルで、小さい。そうすると、この「おとひめがひ」は、俄然、実はカイダコの方の異名である可能性が物理的には高くなるようにも思われる。
「明の艾儒畧(がいじゅりやく)」明末の中国で宣教活動を行ったイタリア出身のイエズス会士ジュリオ・アレーニ(Giulio Aleni 一五八二年~一六四九年)の漢名。アレーニは北イタリアのブレッシャに生まれた。一六一〇年にマカオに至り、そこで数学を教えながら、中国に潜入する機会を待ち、一六一三年に中国に入り、北京で、知られた、優れた暦数学者にしてキリスト教徒であった徐光啓(一五六二年~一六三三年:洗礼名はパウルス(Paulus))の知遇を得、各地で布教活動を行った。一六二五年からは福建省で布教したが、一六三八年にキリスト教排撃事件が発生したため、マカオに引きあげたが、後、再び福建に戻った。一六四六年に清が福建に侵入したため、アレーニは福州から逃がれ、現在の福建省南平市延平(グーグル・マップ・データ)で亡くなった。さて、ここで梅園の小賢しい孫引きが、マタゾロ始まっている。そもそも「明の艾儒畧が曰ふ」という語り出しは奇異なること甚だしい。艾儒畧の、『半殼を竪て、舟に當(あ)て、足の皮を張り、帆と當てて、風に乘りて行く。名づけて「舡魚(カウギヨ)」と曰ふ』という記載元を書いていないのは、甚だ変則的である。これが「李時珍」だったり、「益軒」だったらまだしも、それほど当時の本邦で広く知られた人物ではない(しかも禁教のイエズス会士)彼を、突然、頭に据えるのは、異様だ。そこに梅園のミエミエの引用元隠蔽の仕儀が知れるのである。これは、梅園の解説の後の方に出る艾儒略の「職方外紀」(梅園の「職方外記」の「記」は誤り)の中の記載なのだ。彼が明で編纂した五巻から成る世界地理書で、一六二三年に成立し、同年に杭州で刊行され、一六二〇年代後半に福建で重刊された。福建での重刊の後も、幾つかの叢書に収められ、当時の中国の地理知識の発達に寄与した。さらに日本にも渡来し、禁書とされたにも拘わらず、密かに伝写され、鎖国時代の世界地理知識の向上に貢献した書である(以上は明治大学図書館公式サイト内の「蘆田文庫特別展」の「展示資料の詳細表示」の「職方外紀」の解説に拠った)。而して、ここで既に、殆んどビョーキに近い梅園の孫引きがバレるのである。やはり、これはまたしても、栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」なのである(以下は原文。同前。下線太字は私が附した)。
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職方外記〔紀〕云一種介属之魚僅尺許有殼六足々有皮如欲他徙則竪半殼當舟張足皮當帆乘風而行名曰舡魚龍威秘書巻九譯史紀餘曰舡魚六足行殼有皮僅長尺許如欲他徙則竪半殼當舟張足皮當帆乘風而去
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あたかも、梅園自身が、禁制の地下本である艾儒略の「職方外紀」に親しく当たったようにしか見えない書き出しは、まさしく先行する栗本丹洲「栗氏千蟲譜」からの剽窃を隠蔽するための小賢しい弄くりに過ぎなかったのである。
「章魚舟の帆立貝」これはホタテガイとは無関係で、アオイガイの♀及びタコブネの♀の海上を移動するさまを夢想的に言ったもの(実際にはアオイガイもタコブネも海の表層附近を浮遊移動する)。しかし、「蓋し、帆と爲して、殻を以つて、舟と爲して走る」という記載は、一部の「足」(或いは足の間の皮膜)を「帆」のようにして、と言うべきところを脱字したものか。
「笈埃隨筆」江戸中期の旅行家百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四)年:本名定雄。京都室町の豪商「万家(よろづや)」の次男)の紀行。以下は、巻之五の「変態」の一節。吉川弘文館随筆大成版を元に、漢字を恣意的に正字化して全体を示す。陰陽の当該部の下線は私が附した。ちょっと表現に異同はあるが、まあ、問題ない、というより、梅園は、例の通り、「日本書紀」をあたかも自分が調べたように、改行して載せているが、ご覧の通り、またまた、孫引きであることが判る。読み易さを考えて、読点・記号、及び、推定で読みを追加した。踊り字「〱」は正字化した。
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○變 態
飛騨國高山府下滄州といふ人より、一奇物を送れり。其さま、笹の細きに、葉も、よのつねなり。其本なる葉のところ、二寸餘の物、生(な)り、末、細くして、魚の尾の形にして、兩目と覺しき所ありて、鰭も備はり、丸くして、鱗の樣に、笹の葉、有て、全體、細工物の如し。谷川の笹に自然と出來て、三、四月のころ、忽然と枝を放(はな)れ、水中に落入れば、魚と化す。號(なづけ)て「笹の魚」と云。尤も味ひ美なりと云々。これ、いまだ、諸書にも出ざる一變物なり。かゝる事は、往々、深山幽谷・海邊などに有べき事なるべしといへども、人、常に見ざる所なれば、いはず。適(たまたま)、一人、見て、その實(まこと)と告(つぐ)るといへども、信ずべからず。但し、我、見ざる事とて、誣(そしる)べからず。陰陽の氣變、はかり知り難し。人、天を覆ふ知ありとも、理は盡すべからず。「天化」あり、「氣化」あり、「心化」、「體化」あり。佛者、胎・卵・濕・化(け)の四生を說(とく)事、理、有(ある)哉(かな)。予、幼少の時、「宗祇諸國物語」とかやいふものを見しに、子供心にも珍らしとおもひし故に、今に記臆せり。何國の事にや、春の頃、蛇、多く出來りて、海中に走り、入(いり)て蛸となれり、といふ事ありき。甚だ怪しき事におもへり。近頃、越前に通ふ商人の語るを聞しに、春三月のころ、彼(かの)國に有(あり)しに、所の人々、誘ひて、「蛇の蛸になるを、見に行(ゆく)べし。」とて、破籠(わりご)樣の物を携へ、長閑(のどか)なる日に、濱邊に遊ぶ。暫くして、とある山の尾崎(をさき)より、蛇、出來りて、眞一文字に濱を下り、海中に游(およ)ぎゆらめき、十間許りも出(いづ)るや、尾を上(あげ)て打(うつ)事、數遍(すへん)しぬれば、尾先、裂(さけ)て、足、長く別かれ出(いづ)。「コハ、ふしぎ成(なる)事哉(かな)。」と、目を、はなさず、見留居(みとどけを)るうち、いまだ、半身は、蛇の儘にゆられけるが、また、水に打返り打返りするかと見れば、忽ち、全體、蛸と化して、沖の方へ行(ゆき)、夫より、追々、出(いで)ては、みな、斯(かく)のごとし。その化して、しばらくは、つかれ、苦みぬるや、惱める樣なり。是等、世にいふ、』『「手長蛸」に毒あり。』とするの本(もと)かと聞(きき)て、扨は、浮(うい)たる事にもあらざりしと覺ふ。又、同じ北海に一奇物あり。「蛸舟」と號し、大なるもの、七、八寸、色、淡白にして、貝、薄く、秋海堂の葉に似たる文理、麗(うるは)し。その中に、小き蛸、有りて、兩手を貝殼の外に出(いだ)し、兩足を梶・竿のごとく、頭を立(たて)て、帆の如くし、游ぎ𢌞るゆへ、その名あり。「その蛸、毒、有(あり)。」とて、人、食せず。その殼を取(とり)て花甁とす。按ずるに、「延喜式」「主計式」に、「貝蛸鮨(かひだこすし)」といふものあり。是(これ)歟(か)。「蛸舟」は、俗名・本名「貝蛸」、又、一名「弟姬貝(おとひめがひ)」といふ。『「日本書紀」敏達天皇の條下に、「貝蛸皇女(かひたこのひめみこ)」あれば、其名、久敷(ひさしき)事なるべし。』と、勢州谷川氏も、いへり。又、近江の湖水に、「アメノ魚」、「太刀魚」とて、魚あり。小さくして、鮱(ぼら)のごとし。
*
引用部以外にも注を附したいところだが、そうすると、注が脱線して長くなるので、諦める。但し、一つだけ指摘しておくと、『予、幼少の時、「宗祇諸國物語」とかやいふものを見しに、子供心にも珍らしとおもひし故に、今に記臆せり。何國の事にや、春の頃、蛇、多く出來りて、海中に走り、入(いり)て蛸となれり、といふ事ありき。』とあるのは、私が同書の電子化注をしてあり、その「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 無足の蛇 七手の蛸」である。「春」とはないが、「ある日うらゝに風靜かな」日のこととして、以下に蛇が蛸に変ずるのを目撃したとするので、完全に合致する。
『「延喜式」、「主斗式」[やぶちゃん注:「斗」=「計」]』「主計式」(音で「しゆけいしき」と読んでおく。巻二十四に「上」が、第巻二十五が「下」があるが、「主計寮上」(「主計寮」は訓では「かずへのつかさ」)であろう。には、全国への庸・調などの作物の割り当てなどが書かれており、当時の全国の農産物・漁獲物・特産物を記すが、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年大岡山書店刊の皇典講究所・全国神職会校訂の「延喜式 下巻」のこちらの左ページ一行目に、「蛸の腊(きたい)」に当たる「鮹(タコ)ノ醋四斤」と載る。「鮨」であったら、「熟(な)れずし」だが、直後に「鮨ノ鮒」とあるから、これは恐らく「鮹の醋(きたひ)」(正しい歴史的仮名遣はこれ)で、現在で言う「タコの丸干し」かと思われる。同じ画像の右ページの後ろから二行目に、「乾蛸(ほかしたこ)」に相当する「乾鮹(ホシタコ)九斤十三兩」とあるが(「蛸の醋」と直近で差別化しているところからは、こちらはタコを刻んで乾したものか? よく判らぬ)で「蛸鮨」は少なくともこの前後には見当たらない。私は「タコの馴れ鮨」というのは寡聞にして知らない。ここには多くの魚介類の「鮨」(なしもの)が載るから、それを桃井が見誤ったものを、無批判に梅園は孫引きしたのだろう。こういうところで、知らんぷりの孫引きの墓穴を掘ることとなってしまったのである。
「大膳式」「大膳職」(だいぜんしき/おほかしはでのつかさ)は律令制において宮内省に属する官司で、朝廷にあって臣下に対する饗膳を供する機関を指す。「延喜式」の巻三十二・三十三に「大膳」(信頼出来る論文を見ると、これを「大膳式」と別称するらしい)の「上」・「下」があるが、同前で「上」の冒頭「御膳ノ神八坐」の中に(ひらがなの読みは私の推定)「嶋鮑(しまあわび)。熬海鼠(イリコ)・鮹(タコ)。雑ノ醋(キタヒ)各六斤」とある。「熬海鼠」は、ナマコの腸(わた)を抜き去って茹でて乾燥させたもの。
「『蛸舟』は俗名、『貝蛸』【「本名」。】」現行では「カイダコ」は「アオイガイ」の異名である。
『「日本書記」便辰天皇五年の條下に『貝蛸皇女(かひたこのひめみこ)』あり』菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ 生没年未詳)は飛鳥時代の皇族で、敏達天皇と額田部皇女(後の推古天皇)の間に生まれた皇女。以下、途中に入れたのは、国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読」下巻(昭和七(一九三二)年岩波書店刊)の当該部)聖徳太子の従姉妹であり、妃となった(右ページ四行目)が、子なくして、結婚後、まもなく逝去したとされている。「日本書紀」の敏達天皇七年に「菟道皇女」が伊勢神宮に任ぜられるも、すぐに池辺皇子(いけべのおうじ)に強姦されたため、解任された(左ページ二行目)と記されているが、この「菟道貝蛸皇女」と同一人物であるかは定かでない、と当該ウィキにある。
「龍威秘書」清の馬俊良の手になる稀覯珍奇な書物を集めた叢書。
「譯史紀餘」清の陸次雲の撰したもので、画像で管見すると一種の類書のようなもののようである。これもまた、栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」からの孫引きに過ぎない。
「乙未八月廿九日」天保六年で、グレゴリ曆一八三五年十月二十日。
「倉橋氏」既出既注であるが、再掲すると、本カテゴリで最初に電子化した『カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺』に出る、梅園にオウムガイの殻を見せて呉れた「倉橋尚勝」であるが、彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)である(国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」(PDF)を見られたい。]
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