毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 ワレカラ / モクズヨコエビ類の一種
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]
ワレカラ
丙申七月七日、眞寫す。
此者、海中、藻に住む虫なり。形、水虱(とびむし)に似て、又、蝦にも似たり。雜魚(ざこ)に交り来(きた)る。水に入るれば、走り跳(をど)るものなり。[やぶちゃん字注:「入るれば」は底本は「入るは」。]
[やぶちゃん注:既に先行電子化したものに、『毛利梅園「梅園介譜」 ワレカラ』と、『毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)』があるが、前者は正真正銘の種としての節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類と比定できるが、後者は図も説明も何だかよく判らない変なものである。而して、本図を見ると、明らかな丸い背を持ち、そこにいかにもエビ様の体節と、触角、複数の対脚、尾棘が確認でき、眼点らしきものも見える。しかし、逆立ちしてもこれはワレカラ下目 Caprellida のワレカラ類ではあり得ない。但し、民俗社会に於ては、これを「われから」と言うのは、強ち誤りとは言えない。平安時代には一般に知られていた「われから」は「古今和歌集」(延喜五(九〇五)年に初期完成したか)の巻第十五の「恋歌五」に、女官の典侍(ないし)藤原直子(なほいこ)朝臣の一首(八〇五番)、
海士(あま)のかる藻にすむ蟲のわれからと
音(ね)をこそなかめ世をばうらみじ
「音(ね)をこそなかめ」は「声を立てて泣こう」の意。ここにあるように、「我から」の掛詞として古く世より使用されており、当初は「乾くと殻が割れる」で「割れ殻」であったことからは、海藻類に附着している甲殻類を広く指したからであり、『毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)』及び、私の栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」(文化八(一八一一)年の成立)巻七及び巻八(一部)を見て戴くと判るが、江戸時代には本草学者の間でも、「ワレカラ」=貝の一種とする見解がかなり蔓延ってさえいたのである。例えば、私の「大和本草諸品圖下 ワレカラ・梅花貝・アメ・(標題無し) (ワレカラ類他・ウメノハナガイ・ヒザラガイ類・ミドリイシ類)」の図と解説を見られたい(これも丹洲と同じく本図の非常によく似ている)。平安の昔から近世まで、乾燥した海藻に附着していた生物は、十把一絡げで「われから」であったのである。
さて、私が直ちに想起したのは、形状がぴったりと一致する、無論、「蛤蚌類」ならぬ、
節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ヨコエビ亜目ハマトビムシ上科モクズヨコエビ科 Hyalidae に属するモクズエビ類、或いは、同モクズヨコエビ属モクズヨコエビ Hyale grandicornis
であった。但し、この類については、私は守備範囲ではないので、当初、躊躇していたのだが、ネットで調べるうち、格好のページを発見できた。サイト「Laboratory for Development, Evolution and Phylogenetics 発生・進化・系統の和田研究室」の「ワレカラの形態進化の謎を解く」の上から二枚目の並列写真である。キャプションには、
《引用開始》
Figure 2. ワレカラとヨコエビ(ワレカラの側系統群)の形態の比較.
(A)コミナトワレカラ Caprella kominatoensis. 数字は胸節の番号を表す.ワレカラには第7胸節より後ろに体節が見られない.また第3-4胸節に付属肢はなく,葉状の鰓(矢印)のみがある.Bar=20mm(B)モズクヨコエビ科の一種 Hyalidae sp.. すべての胸節が付属肢を備え,第7胸節より後ろには腹部体節がある.Bar=10mm.
《引用終了》
この写真のモズクヨコエビ科の一種のそれは、まさに本図にぴったりなのである。
「丙申七月七日」天保七年七夕。グレゴリオ暦一八三六年八月十八日。
「水虱(とびむし)」甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ハマトビムシ科 Talitridae の類。これが海浜に打ち上った海藻に附着していたなら、それもあり得るが、梅園はあくまで「海中」の「藻に住む虫」と言っているから、これは除外される。ハマトトビムシとモクズヨコエビの体制は似てはいる。]
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