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2022/08/05

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「文藝時評」

 

[やぶちゃん注:底本のここ(「一 月評家を弔す」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

   文藝時評

 

 

 一 月評家を弔す

 

 往昔の文壇的事故のうちで、凡ゆる月評家はその批評の目的を達することに於て輕蔑されてゐた。卑小、狹慮、仲間褒め、下賤、乳臭、それらの標語は月評家が四方から受ける非難の聲であり、その流れ矢は或は彼等の致命傷となつて彼等の姿を一時沒落させた位だつた。凡そ月評家たらんとするものは徐ろに殺氣立たねばならず、殺氣立つた後に凡ゆる辻斬野盜の類にまで成り下らねばならなかつた。事實彼等は辻斬試斬後掛け拔打ちの外、正面から鯉口を切つた譯ではなかつた。それ故か彼等は此卑しい月評家的糊口を以て、充分に完膚なきまでに輕蔑された。往昔の月評家は例令《たとへ》その動機が辻斬の黨であつたにせよ、一脈の純粹さが無いではなかつた。しかも彼等はその目的を達することに於て敬遠され卑小視せられ、或者は悶悶たる客氣《かくき》を擁《いだ》いて空しく陋巷に飢ゑねばならなかつた。

[やぶちゃん注:「客氣」血気。]

 凡ゆる月評家達は或は勇敢に討死した。死屍の累累たる彼方に作家達は悠然として殘存してゐるのも、彼等にはどうする事もできない存在だつた。彼等の野武士風な好みも其眞向からの遣《やつ》つけ主義もみな攻勢的殺氣のわざだつた。斯くて若い文壇の野武士は次第に討死をした。凡ゆる卑しい汚名の月評の中にある一つの眞實な確證さへも、冷笑の中に封じられて終つた。誰一人として月評家風の業蹟、その仕事の跡を想ふ者とては無かつた。事實彼等のその一行の文章の跡さへも書籍の上に偲ぶことが出來なかつた。名もない犧牲のあとは徒らに文藝の王城を取卷く雜草を肥すばかりだつた。

 そして今自分の立つところの茫茫たる雜草の中から見る文藝的王城に、その一人づつの果し合ひから何物かを取らねばならない。彼等を讀破することによつて自分から「批評」なるものを引摺り出さなければならない。一人づつの手腕と力量とを知らねばならない。降參する時は降參せねばならない。打込む隙は遁すことのできない果し合ひをせねばならない。凡ゆる末路悲しい月評家風な憎しみと不愉快な的にもなり、またそれ故の月評家風な討死をせねばならない。誰一人として囘顧する者もない路傍の死屍となつた凡ゆる過去の月評家のやうに、自分もまた同じい命運の跡を殘さねばならないであらう。彼等を葬《とむら》ふところの自分の立場をも知らねばなず、――啾啾《しうしう》の聲の怨府《ゑんぷ》のうめき聲より、自分は彼らを弔はねばならぬ。そのやくざな碌でなしの墓碑の上にも春花を抛打《なげう》つて遣らねばならぬ。斯くて名譽ある併し結局は討死をする此仕事に就くであらう。

[やぶちゃん注:「啾啾」小声でしくしくと泣くさま。

「怨府」人々の怨(うら)みの集まる所。]

 

 二 肉體と作品

 

  瀧井孝作氏の「父來たる」(改造四月號)の素材は、曾て彼の最も讀者への親しみを繫いでゐる「父親」物の内の一篇である。かういふ素材と讀者との感情的關係は、それだからと言つて身邊小說の非難の的にはならない。却つて隔《はな》れた親しみの密度を感じない素材よりも、我我はどれだけ此素材への親しみを感じるか分らない。身邊的な心境消息の本體は、凡ゆる小說の骨格を爲すものであり、讀者へ生みつける關係は到底出駄羅目《でたらめ》な設計された人生の、放射線風な描寫なぞの比較ではない。五年十年といふ風に作者にも重要な人生であり得るものは、五年後七年後の讀者にも作者を知る爲に重要な人生であつて、決して假定された罐詰的人生の展開ではない。心境小說に非難の聲の起つた昨今にこそ、心境小說への睨みを强調しそれを趁《お》ひ詰めることにより、心境小說經驗者の最後の榮光を擔ふべきであらう。

[やぶちゃん注:「父來たる」昭和三(一九二八)年四月号『改造』発表。私は未読。]

 瀧井氏の描寫の中の辿辿《たどたど》しさ、素朴さ、舌足らずの吃吃《きつきつ》たる勢調、石屋が石の面を落す時の細かい用心を敢てする寧ろ木彫的な接觸は、漸く志賀氏等の文體を突破し完全に「瀧井孝作」へ塡《はま》り込んでゐることは、一讀者としての自分に小さい安心を與へた。彼の如き鈍重な肉體的なねばり氣で押してゆく種類のものは、どういふ場合にも失敗することは尠いものである。何故かといへばその肉體的な壓力の手重《ておも》さは、彼自身に問題を執るよりも今の新銳であるための驕怠の輩に眞似のできないことだからである。新進であるための恐るべき後の日の豫測的な頽廢時期を知り、新進であるための忘失されやすい恭愼の心を約束する彼の立場は、又一文人としての持すべき眞實な傲岸な態度を保つてゐた。尠くともそれは近時の新進氣銳の作家の中に稀に見ることであり、自分の快敵とする抑抑の所以であつた。

[やぶちゃん注:「吃吃」滑らかでないさま。

「手重さ」「容易でないさま」、或いは、「扱いが丁寧であるさま」。私は、あまり彼の小説を読んでいないが(自由律俳句はさわに読んでいる)、ここは後者であろう。]

「父來たる」の描寫力は一行あての叩き込みであり、田舍者の素朴さに溶かれた銳い「氣持」風な疊み込みの仕上げだつた。停車場で半日を待つ彼の氣永さよりも、その氣永さを押し伸べる彼も一種の「力の人」に外ならなかつた。「無限抱擁」の中にある鈍重な行爲とその氣質のネバリは、遂に一批評家の筆端をも煩はさなかつたが、特異な位置、特異な作品としての此一書物を自分は愛讀した。何より彼が俳人として文體にその描写の力を得てゐるといふことは、到底市井の一下馬評に過ぎない。

[やぶちゃん注:「無限抱擁」大正一〇(一九二一)年から同十三年にかけて、『新小説』『改造』などに発表した四篇を昭和二(一九二七)年に合はせて発表した長編私小説の恋愛物。私は若い時に中途で投げ出したまま、完読していない。]

 彼の持つジワジワした味ひが年月とともに硬くなりはしないか、ジワジワがよい意味の皺になればよいが肉體的な皺になりはしないか、皺の中に垢がたまりはしないか、これらの不安はないでもないが、彼は體力的にこの皺をよく用ひ艶を含ませ「瀧井孝作」をこの種の固まつた一作家に膠着させてはならぬ。

 

 三 芥川、志賀、里見氏等の斷想

 

 芥川龍之介、志賀直哉、里見弴氏等は各《おのおの》名文家である。斟くとも芥川氏は凡ゆる大正時代の描寫の最極北、描寫的な文章上の最も著しい標本であつた。その氣質の銳さに依つて從來の文章的な皮の幾枚かを剝脫し、古い明治年代の文章の上に彼自身の「皮」を張り付け是を入念に硏ぎ澄《すま》した人だつた。この年代に芥川氏ほどの「皮」を示した文學者は他にもあつたけれど、彼ほど丹念な磨きの中に精進する文學者は極めて稀だつた。彼にはいい加減の「加減」さへ分らぬ淫文家だつた。打込みは一字づつであり、一行づつの杜撰な打込ではなかつた。それ故か、彼は不思議にその文章上の苦吟に後代への「虹」を豫感してゐたもののごとく、氣質上の鑄刻的な薄命さは、顧みて又首肯《うなづ》けるところが無いでもなかつた。

 

 芥川氏の生涯の敵は志賀直哉氏の外に、何人の光背も認めなかつた。志賀氏の中に拔身を提げて這入る芥川氏の引返しには、甚しい疲勞の痕があり容顏蒼みを帶びる辟易があつた。彼の生涯の中に最も壯烈な精神的に戰ひを挑む時は、何時も志賀直哉氏を檢討することだつた。生地で行き、ハダカ身で行く志賀氏は彼の持つ「皮」の下にもう一枚ある、薄い卵黃を保つ皮のやうなものを持つてゐた。芥川氏はそれの一瞥を經驗するごとに彼自身の皮を磨くことを怠らなかつた。志賀氏は素手だつたけれど、芥川氏は何か手に持たなければ行けなかつた。彼等はその描寫の上で斯の如く斷然別れてゐた。そして彼は大正年間の描寫風な文章の型を何人よりも的確に築き上げ、これを兼て彼自身が常に總身に負ひ乍ら感じてゐたものの一つである「後代」へその八卷の全集を叩きつけて去つたも同樣であつた。

[やぶちゃん注:「八卷の全集」最初の「芥川龍之介全集」(通称「元版」)岩波書店から昭和二(一九一七)年十一月から昭和四年二月までに全八巻が刊行された。但し、犀星のこの章は昭和三年のもので、全巻発売にはまだ至っていなかった。しかし、実は室生犀星自身が編集委員の一人であったので、かく書けるわけである。而して、「芥川龍之介全集」の宣伝にも一躍かっている手前味噌でもあるのである。

 以下、一行空けは底本のママ。]

 

 志賀直哉氏の文章の中にある「時代」はふしぎに芥川氏よりも、直接的な長命と新しさを共有してゐた。單なる新しさであるよりも以上に氣持風だつた。氣持の接觸だつた。言葉よりも頭のヒラメキを感じ美に肉感があつた。かういふ文學は凡ゆる大正年代の「文學」に於て試みられた最初のもの、その文學的な耕土の掘返しの一人者だつた。その「氣持」の掘下げは直ちに巧みに卽刻に利用され踏臺にされ、凡ゆる文學的な靑年のもつ文章に作用された。その速度ある作用は彼自身さへ知らぬ間に、美事な次への文學的な下地への吸入を敢て爲されてゐた。もうそれは志賀直哉氏のものであるよりも次の時代のものに違ひなかつた。自分は驚くべき大正年代の鏡のやうな縱斷面に、云ふまでもなく、名文家志賀直哉氏を見ることは、餘りに靜かすぎる光景であつた。その靜かさは芥川氏を圍繞《いねう》するものと同樣な靜かさだつた。

 里見弴氏も亦名文家に違ひない。芥川、志賀氏の正面的な少しもたぢろがないところの、ひた押しに迫るちからを里見氏は背負投げを食はして置いて、徐ろに彼はその巧みな餘裕のある小手先を示しこれを彼の文章の上に試みてゐた。彼のすべり、彼のなめらかさ、そして彼の最も特異な體を開いて見せる小手先、就中、彼の進んで碎けた分りのよい、鮮かさ過るほがらかさを、釣の名人か何かのやうにその糸を縱橫に投げ操つてゐた。芥川、志賀氏とは向きも姿も反對してゐたけれど、不思議な眞實を磨きあげるための描寫の中では、その蒼白い炎を上げてゐることも亦同樣な或名人型を築き上げてゐた。

[やぶちゃん注:「ほがらかさ」の傍点はママ。前の二つの傍点に徴するなら、「さ」にも傍点があるべきである。]

 彼等は日本に於て特記すべき名文家であり、文章と氣質と同樣に秤《はか》られ沁み込みを見せてゐる作家だつた。人生觀上の作家は他に求めねばならぬが、「描寫」の上に充分な記錄的存在としての三氏は、その三面相打つところの新しい「古今」を暗示してゐると言へるであらう。

 

 四 詩人出身の小說家

 

 今から七八年前に時の批評家だつた江口換氏は、自分の或一作を批評して「彼は人間を書くことを知らない。」と云つたことがあつた。自分は小癩な氣持を起して例に依つて聞き流してゐたが、事實彼の指摘する人間が書けてゐないことも、自分の胸に痞へなこともなかつた。彼のいふところは要するに詩人出の小說家が多く低迷する不用な輪廓描寫や、下らない草花や風景的な文章を抉《えぐ》り立てるところにあつた。又同時に各新聞の文藝欄に陣取る月評家等は、言合《いひあは》したやうに自分の小說がいかに詩人的であるために下らないかを品隲《ひんしつ》し、隙もなく自分の行手をふさいでゐた。併し自分は凡ゆる雜誌に腕の限り書き續けてゐるより外に、自分の力量を示すことができないやうな時代苦を經驗してゐた。自分は机にさへ對へば立ちどころに一篇の作を書くことができ、それを直ぐに叩きつけることに依つて些かも後悔を感じなかつた。此恐るべき文學的野性の中に荒唐な作をつづけた四五年の間、自分の詩は漸く衰弱し優雅な思ひは枯渴された。自分は豐かな肉を剝ぎ取られ骨だらけになつて殘存してゐた。江口換氏の所謂人間を書かずにゐて、詩的描寫のいい加減な眞向からの遣つけ仕事に親しんでゐたからだつた。

[やぶちゃん注:「品隲」品定め。]

 詩人出の作家の持つ病癖的な、胡魔化し小說といふより人生には不用な詩的描寫は、自分だけには亂次(だらし)のないものだつた。同時に詩人出小說家の八方の口は開いてゐて、何處を向いても彼の「一篇」は作ることのできるよう、多くの不用の詩や言葉や語彙や感覺を持ち合してゐた。又それ故に詩人出の小說家が飽かれること、本物の人生の眞中に行き着かないまでに沒落するのも、おもに此詩人的な素質上の濫用に原因してゐた。凡ゆる詩人出の小說家が一家を爲さない間に姿を匿し、或は滅亡するのも强ち詩人であるといふ境涯的な排斥ばかりではなかつた。詩的感情の利用から受ける輕蔑自身さへ、多くの文壇的な冷遇の所以を釀すものに近かつた。

 島崎藤村、佐藤春夫の二氏位を殘す外、詩人出に天下に地位を得てゐるものはなかつた。當然天下を二分する位に詩人出小說家の轡《くつわ》を駢《なら》ぶべき筈であるのに、殆ど寥寥《れうれう》二三氏を數へる位だつた。彼等がいかに多く詩人的であることに於て、奈何に小說家に不向きであるかが理解されるであらう。佐藤惣之助、千家元麿氏等の折折の勞作すら、殆ど凡ゆる小說的な片影さへ殘さずに沈湎《ちんめん》した。佐藤氏の「大調和」の二三の作すら決して感覺派の諸公に遲れるものではないが、作家運に惠まれない詩人出小說家の常として酬いられること皆無であつた。均しく彼等の素質的な江口換氏の指摘する「人間」を書く事をしない爲ではなからうか、さういふ江口換氏の評的の確證はともあれ、凡ゆる批評は同時に五六年の後にも猶振返つて肯定すべきものは肯定すべきであつた。月評家の須臾《しゆゆ》にして消失すべき運命的な仕事さへ、後に其作家に思當る光茫を曳くものである事も忘れてはならない。――

[やぶちゃん注:「寥寥」もの淋しいまでに数が少ないさま。

「沈湎」沈み溺れること。特に酒色に耽って荒んだ生活を送ること。

「大調和」雑誌名。佐藤春夫がよく投稿していた。

「須臾」現代仮名遣「しゅゆ」。「暫くの間」「ごく僅かな時間」の意の名詞。元は仏教用語でサンスクリット語の時間単位「ムフールタ」の漢訳。

 以下、一行空けは底本のママ。]

 

 詩人出小說家である島崎藤村氏の近作、(女性四月号)は、どういふ方向にあつて彼は百年の大家であるかといふことを示してゐるか?――「草の言葉」一篇は島崎氏の老いたる感傷の結晶であり、冬の日の植物の心を彼自身に引當て、靜かに詩のごとく物語つたものに過ぎない。小品と銘を打たれてゐるが同時にこの老詩人の溜息を聞くやうなものである。島崎氏に於て初めてそれを公にし是を認められるであらうが、自分のごときさへ此種の文章を發表する氣がしない。かういふ寂しい氣持を盛るに何故に最つと島崎氏は人生的な織り込みを敢てしなかつたかを疑うてゐる。

[やぶちゃん注:「草の言葉」は不詳。「近作、(女性四月号)」と同一かどうかも知らぬ。「島崎藤村全集」には確かに入っていることは確認出来た。私は藤村は人間として大嫌いである。]

 

 五 時勢の窓

 

 雜誌の廢刊と圓本的墮落は新しく世に問はんとする作家に、その進路と行手を塞いで見せた。文壇への登龍門は大雜誌の光背に據る事ではなく、小刻みな雜誌によつて少しづつの聲名をつなぎ得ることに於て、漸くその名聲を小出しに羅列することすら肝要な時勢であつた。それ故新進的な湧くが如き光彩を見ることは無いであらう。新感覺と稱せられる作家等も少しづつ遲遲とした步みにより、今日の橫光利一氏、中河與一氏、片岡鐵兵氏等を爲したる外、岸田國士、岡田三郞、犬養健、稻垣足穗氏等と雖も、往年の既成作家の如き喝采の中に現れたものでない、新進の道、つねにあるが如く又その道展《ひら》けざるに似てゐるやうである。

 文藝の事たるや寧ろ小刻みな聲名による恭愼な進み方も、一擧にして表面に現れる事も其執れも惡くはないが、唯時勢は既に既成作家にすら生活的にも危機を、新進には曾て無かつた程の苛酷な試練を與へてゐる。それ故に今後新しい作家が輩出しても、或は往昔の古文人のごとき生活の苦節を敢て偲ばなければならないかも知れない。既に我我既成の徒にはその用意が出來、陋居に破垣を敢て結んでも、說を大衆に求めることも亦自らの立場を危くするものではない。未だ現れぬ新進もまた新緣の窓邊に己れを鍛へるために飢渴位は、平然として併し心で喰ひ止めて行くベき時であらう。 

 

 六 齋藤茂吉氏の隨筆

 

 歌人齋藤茂吉氏は或は文壇外の人であるかも知れぬ。文壇人であることはは齋藤氏の場合何か知ら當つてゐない、と言つても矢張り文壇の人以外ではないやうである。彼は唯作品で戰ふ文壇人でないだけで結局文壇の人であるかも知れないのである。木下杢太郞氏とともに文壇の埃や塵の外に職を持つてゐること、折折の西洋紀行の文章を發表してゐることに於て、啻《ただ》に茂吉氏が歌人でないことだけは解るやうである。

 

 昨春以來齋藤氏の滯歐紀行の數多い發表は、描寫力の素直さや洞察の銳どさに加へて、氣質上の鈍重な併も明るい壓力を自分は感じ、さういふ描寫の少ない文壇に稀に見るよい文章だと思うた。併も齋藤氏の描寫力はいつも明るい一面と又曇天的な風景に接すると同樣な鬱陶しさをも持つてゐた。銳どさは折折文章の下地に網の目のやうに針立つてゐたけれど、それは文章や描寫の上の企圖でさうなる職業的賣文の徒の談《かた》る銳どさではなかつた。氣質と肉體とが行動するごとに感じる、自然な素直な銳どさだつた。鈍重な人間のもつ深い銳どさだつた。「西洋羈旅小品」(中央公論四月號)の一篇の中にも、歌人齋藤茂吉の吟懷は啻に齋藤茂吉の吟懷に止まらずに、その描寫の底にある誠の相貌は、人生の本道へも交涉をもたらす手腕を美事に準備し且つ表現して餘すところがなかつた。山河水色に對する氏の感情はもはやそれらを自然的な獨立性のあるものとせずに、我我と同樣な感情的な位置へまで呼込んでゐることは、彼が歌人として「赤光」以來の秀拔の偉才を示してゐるものであるが、しかし彼は山河の相貌に單に同化作用を起してゐるものでなく、實に彼は淚ある山嶽の姿に接觸するまでの、それらの自然のもろさに抱かれてゐる氣持を經驗してゐる。かういふ感情の微妙以上の微妙さの中にある茂吉氏の描寫は天下の文章に對《むか》うて挑戰せずに靜に隔月位に發表され、識者にのみ愛讀されてゐるばかりである。かういふ秀れた文人の位置に自分は感激の言葉無きを得ない。

[やぶちゃん注:「西洋羈旅小品」「斎藤茂吉全集」(岩波書店版)の目次には見当たらない。不審。

 以下の一行空けは底本のママ。]

 

 歌人齋藤茂吉氏が大正三年代に出現したことは、當時の歌壇を粉碎し根本から建て直した。併しそれにも勝る彼の目立たぬ文章の上の仕事は文壇の外側を靜に流れてはゐるが大河は自ら人の目にふれないでゐない、――それらの描寫には左顧右眄が無く、意識的な調和や作法やうまさを練ることなく、鈍重に尖銳な、細緻に粗大な、折折氣質上の明るい悒《いぶ》せき哀傷を沁み亘《わた》らせてゐる。時にある會話のうまさと美しさ、それは生きてゐることばをそのまま兩手にすくうて、そつと紙の上に置いたやうにまで自然な呼吸づかひを知つてゐる。不思議に文章に時代の匂や調べが査《しら》べられずに、十年後にも古くならないものを持つてゐる。歌人の臭みを帶びず、きざな氣取りが無く、しかも彫刻的であることに於て原始的な鑿《のみ》の冴えをもつてゐる。これを歌人の文章であるといふことに於て片付けることは、彼の何物をも知らぬ者であらう。事實に於て彼は歌人の境涯を拔け出てゐることは、描寫の確實な獨立性のある未來を證明してゐるからである。

 

 七 勞作の人

 

 德田秋聲氏の「日は照らせども」(文藝春秋四月號)を讀んで、何よりも事件の經過の上に、作者として凡ゆる手腕を盡せるものであることを知つた。その複雜な事件的な人生を澁滯なく押し開き、それに解決を與へないでゐるところ、凡ゆる父親の平凡性を一步も出ないでゐること、自ら處理し裁きを强調すること無きところ、尠くとも作品の上に何等の愚痴や口說きのあとがなく、白髮的な嚴霜《げんさう》を偲ばせる一父親の面目の窺はれるのは、讀者として自分の快く感じた所以だつた。

[やぶちゃん注:「日は照らせども」昭和三(一九二八)年四月発行の『文藝春秋』に発表された恋愛小説。

 以下の一行空けは底本のママ。]

 

「目は照らせども」の人生にはその素材の上で、もはや批評的なものの插人されない確實性を持つた作品である。かういふ人生の諸事件的な作品への斬り込みは、無理にその隙間へ鑿を入れてコヂ開けねばならぬ。さういふ俗流の批評は自分にはできない藝當である。このやうな作は若い人のためにどれだけ存在していいか分らぬ。この中に妙に人に敎へる描寫的な人生を物語り、且つ暗示してゐる。これは德田氏の中に持つものの德の一つの現れであらう。決して作品的な剌戟に據るものでなく、或親切な作品はかういふ風に書くべきであるといふ約《つ》ましい指導が、作者も意識せずに讀者はそれを何氣なく獨りで受入れ會得するやうである。作の一つも書かうと意圖する者、作家たり得る者へも此感情が働き繫がつて行くのは、他の作家には全然無いと言つてよい。作家として彼がかういふ位置にあることは、いかに彼が人生への直面的な原稿紙と彼との間に、隙間の無いことを證明するものに外ならないであらう。そして彼が何よりも小說の先生であることを否めない。彼が益益小說の先生であり得ることにより彼の實直な人生記述者である符牒を一層重い位置に押上げるであらう。

 

 昨今の文壇で活躍したのは、北村小松氏や片岡鐵兵氏、又かういふ僕自身でも無かつた。瘦魂《さうこん》よく世評に耐へ信ずるままに生活し、又數多くの勞作を爲し得た德田秋聲氏であつたらう。その人生に處するところの老骨は、彼が末期的の餘燼の中に眞率な正直過ぎる程の組立を敢てした。冷笑と漫罵の中に荒まずに一層愛すベきものを愛し、いそしむべき作を怠らなかつたのは、何と言つても「嚴霜」的であり、何處までも彼自身を以て遂に押し切つたことは美事な勇敢さであつた。數多くの作品の中にある尖りと不安とに震へてゐた愛情も、年を經て作に重要な美しさ素直さを發見されて行くであらう。例令、それが老境に點ぜられた一女性の兎角の事件であつたにせよ、包まず匿さず堂堂と寧ろ人間的なほどの發露を敢てしたことは、遂に彼の場合のみでなく一文學者としての最後の氣魄を示したことは、人目を忍ぶ老醜的痴情の多き現世に、正直なほど壯烈なる人生の最後の炎を上げたことはその作品の上に秀作を求め得られた點に於ても、我我は德田氏を先づ活躍した昨年の重なる人物としなければならぬ。

[やぶちゃん注:「北村小松」(明治三四(一九〇一)年~昭和三九(一九六四)年)は劇作家・小説家・脚本家。当該ウィキによれば、『青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)生まれ。八戸中学校』『を経て』、『慶應義塾大学英文科卒。在学中から小山内薫に師事して劇作を学び、卒業後に松竹キネマ蒲田研究所に入社。松竹の』映画「マダムと女房」(昭和六(一九三一)年公開の日本初の本格的トーキー映画。五所平之助監督)など、『多くの映画シナリオを書く。戦後はユーモア小説作家に転じた』。「人物のゐる街の風景』(大正一五(一九二六)年)が『初期代表作で、初期は左翼文学にも手を染めたが、戦時下は戦争協力小説を多く書き、スパイものを編纂した』。また、他に翻訳もある。終戦の翌年、『公職追放を受けて活動停止追放処分とな』ったが、昭和二五(一九五〇)年に解除された、とある。]

 

 八 作家の死後に就て

 

 近松秋江氏の「遺言」(中央公論)の中には、綿綿たる子孫に對する露骨な一文學者の「遣言」的なものが書かれてゐる。かういふ内容は近松秋江氏ばかりでなく、尠くとも子供を持つてゐる作家の陰氣な午後の想念を悒《いぶ》せく曇らせて來るものである。此場合近松氏は最も己を語ることに情熱を多分に持つ饒舌家であり、その事に依つて他を憚るの人ではない。しかも憂慮や懸念の情が寧ろ敍情的な愚痴の形態を取つてゐるのは、その性質的なものの上に止むを得ないことであらうが、さういふ愚痴を愚痴ることによつて死後の「彼」自身を見ようとするのも、現世の苦勞人秋江氏が未來へ働きかける物哀しげな感情の吐息であらう。併乍ら最も壯烈な生活者としての凡ゆる俤《おもかげ》の中には、子供や遺族を思へば思ふ程押强く現世に坐り込むのが、老境の重厚な態度でなければならない、秋江氏には此境の物腰が坐り切らないで、語るに急ぐはその子を愛する感情を誇張してゐると言はれても、それが或程度までの本統[やぶちゃん注:ママ。]であることも首肯けよう。老境にあつて子を思ひ遺族への念ひを潜ませることは、常に鐵の如き意志が無ければならない。若し我我が老境に於て嘆き悲しみを敢てしなければならないとしたら、その鐵を打碎くの槪がなければならないのは、文學的老境の大地盤のできた後に何の不思議があらう。

[やぶちゃん注:「遺言」は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにある「新選近松秋江集」(昭和三(一九二八)年改造社刊)で読めるPDF一括版。「287」コマ目から)。

 次の一行空けは底本のママ。]

 

 我我は作家の遺すべきものは改造社や春陽堂の印稅の計算ではない。吾吾の遺さなければならないものは只一つよき作品の威光や信賴であり、そのよき作品が命令する現世的生活の物質充塡であるとしたら、最も壯烈なる作家は葬費をも用意しないで逝去すべき榮譽を擔ふべきであらう、吾吾の死後の吾吾の遺族は改めて彼等の生活を敢て實行しなければならぬ。そのために彼等の必要とする養育費が、父親の作品の命令による當然の物質的な收入があれば兎も角、それらの收入が無かつたことは作家として後代へ傳へるものの無かつた所以である。吾吾の死後に敢て爲される吾吾の子孫の輕蔑や冷笑こそ、或意味に於ける最も辛辣な批評たり得ることは否めない。一つの叙情、子孫への公開狀であるところの「遺言」の本體も、結局は近松氏の大なる愚痴の中に、彼自身の心に養ひ得た永年の描出的遺言たるに止まつてゐるだらう、綿綿の情はよく人をとらへ得るが、吾吾の聞きたいのは鐵の自ら烈日の下に燒け伸びるごときを、「遺言」の壯烈な中に望みたいのである。しかも彼が彼の精神と肉體への衰弱期にあれほどまでに後慮の愁や心配りを敢てすることも、彼一人ではなく人の親の中にあるものであるが、同時にそのためにこそ腹の底に押し沈めて置くべき生涯の用意ではなかつたか?――何ごとも默然として老の日を步め、口を利かず敢然として御身の途を步め、かういふ言葉こそ若し老の日にあらん時に僕たちの考へることである。

 

 我我はどういふ意味にも吾吾の死後の安らかな遺族を想像することができず、又安らかな遺族を想像し得ても今日の我我には用が無い。吾吾の生きてゐる間にすら不幸な貧しい生活が、吾吾の死後に於て安らかであることは絕對にない。吾吾の遺族は我我と生活を俱にしたため、凡ゆる貧と戰ふくらゐの心の用意は既に覺悟しなければならない。吾吾の生きてゐる間にピアノを習つてゐた娘らも、或は燐寸《マツチ》の箱張りをしなければならないかも知れない。學校も中途で廢めなければならないかも知れない。さういふ窮乏の中にこそ吾吾の子供は生き育たねばならぬ。吾吾の妻はボロと垢とから立ち上り、これらの子供のために凡ゆる燐寸の箱張りや女工、派出婦まで成下り働かねばならぬ。一文人の内妻の成下りは決して不名譽ではない。敢然として一文人の妻として凡ゆる賤業に就くことは、錢餘りて飽食するよりどれだけ文人風であるかも知れぬ。我我が吾吾の遺言を敢てすることは「用意はもうできてゐるか」と唯一言で濟むだけである。この言葉こそ吾吾の全生涯へ雷鳴のごとく傳はるべきである。同時に派出婦とまでに成下つた吾吾の女らやその娘の生涯にも、依然たる此雷鳴のごとき聲を常に落し記憶させねばならぬ。一文人はその一代で亡びてしまへばいいのだ。近松氏の「遺言」一篇に依つて自分は以上數行を考ヘ得たことを謝して置く。

 

 九 「文藝趣味」の常識化

 

  自分の文藝的な生ひ立ちの時代には、單なる文藝趣味といふだけでも極めて少數な仲間にのみ限られ、文藝的な人物といふ目標だけでも可成りに新しい異端者の樣に思惟されてゐた。親兄姉は勿論の事、親戚の間柄にすら一種の左翼的な思想として吾吾の文藝趣味は危險視され嫌厭されてゐたものであつた。それらの頑迷さに最後まで戰うて來た吾吾の今日から見れば、凡ゆる文藝趣味の一般化は、常識としての文藝の存在を意味し、どういふ靑年にもなほ文藝の理解に遲れた者が無く、社會的な日常應酬にも現代の文藝が揷話されるやうになつたのは、彼等靑年の父や母の智識的成長を物語ると同時に、曾ての長髮的文藝趣味の願廢と沒落、文學者風の生活の放埒と衒氣とから完全に脫却されたものであつた。今日の靑年は詩や小說を書かないものは無く、また詩や小說を創作し得るといふことは、往昔の靑年が歌俳諧を作り得ると同程度の、廣汎な意味の常識たる以外に何等「藝術的」なる特種の人物でないことを證明するに外ならないものだつた。それ故文藝批評を以て靑年間の日常生活の目標たり得ることは、何等の疑ひもなき一般的な文藝の普及を物語るものであつた。

 文藝趣味を危險視したところの一つの封建、それらの成長が靑年間に流布されることの憂慮を以て終始してゐた道學者及び吾吾の周圍は、今日の文學的な諸《もろもろ》の表現に依るところの根本的な人間學の要素が玆《ここ》にあつたことに氣付き、再び文藝趣味に鉾を向けることは無くなつた。そして靑年の一般的な解釋による文藝趣味は、それ自身を吸入することによる離れた愛讀者風の好尙と、又文藝を制作することに依る意欲的な好尙との、自ら二手に別れて文藝城を包圍してゐることも實際であつた。文藝を文藝としての位置に客観的眺望を以てするものと、それを制作する側の位置とが凡ゆる靑年間に識別され得たのも、文藝の何物であるかと云ふことの理解を必然に會得したからであらう。才能無くして文藝の使徒たることは往昔の靑年の意企であり、今日に於ては最早問題にすらならない。

 

 十 大センチメンタリズムと長篇小說

 

 トルストイやドストエフスキイの長篇小說の中に洪水のごとく奔流して盡きなかつたもの、ニイチエやワグネルを包む重厚な城砦《じやうさい》的な感情の壓力、凡ゆるベエトオベンの組織的な會曾ての表現の内で最も完全な表現だつたシンフオニイ、ミケランゼロ、ドラクロア、ゴヤ、それらは一つとして大センチメンタリズムの蘊奧《うんあう》を極めてゐないものはない。最も有害な錄で無しの紙屑センチメンタリズムもその人間の大成期に於て「落着」を表はすことは、猶俗流の間にさへ認められないこともない。

[やぶちゃん注:「蘊奧」(「うんあう(うんのう)」は「うんあう(うんおう)」の連声) 教義・学問・技芸などの最も奥深いところ。「奥義」「極意」に同じ。「薀奥」とも書く。]

 あらゆる長篇小說の軌道に必要なるものは、終始渝《かは》る無き熱情の發揚であり、大センチタリズムに磨きをかけることに依つて、その人生的な建築を爲し遂げることができるであらう。大センチメンタリズムの影を見ること無き長篇讀物は、その讀物としての性質上、ただちに倦怠を腐釀《ふぢやう》することはいふまでもない。長篇小說の上の倦怠は罪惡以上の僞瞞であることを知らねばならぬ。彼等の讀物としての用意と條件との過程に於て時代的であり、凡ゆる人生の相貌の橫縱の幅や奧、そして最も約束されねばならぬことは、何よりも思想的な時代の潛在層が唯一とされることである。彼等はそれ自身で時代の新聞でなければならず、あらゆる反射鏡的な效果ある六百萬人の抱擁をも爲し得る、大通俗のハガネによつて切斷されねばならぬ。「戰爭と平和」「罪と罰」の存在、西鶴物の各物語の存在、ワグネルとベエトオベンの唱道、そして我我は、――我我作家はその生涯の内に三つ以上は決して書き得ない長篇に手を觸れねばならないのだ。種種なデツサンを爲し終へた後の我我が必然着手しなければならない仕事は組み建てられた塔を初めから遣り直すことである。その仕事への打込みは、我我を包圍する大センチメンタリズムに據らなければならないのである。今日まで吾吾の日夜攻勢して來たところの凡ゆる弓矢の巷、あらゆる硝煙の的であつたところの一つしかない、今見紛らすと復永く打ち攻めることのできない大センチメンタリズムを攻め上げることにより、吾吾の長編小說の軌道を明らかに認識することができるであらう。

[やぶちゃん注:「僞瞞」「欺瞞」の誤用の慣用語。]

  吾吾の爲し得たところの凡ゆる作品的經驗とその量積、自然に我我を押し上げたところの一つの人生的なクライマツクス、聳える一つの塔、その塔にともしびを點すことにより、其窓窓を明るくすることに依つて、吾吾の長篇小說、生涯の仕事、吾吾の最後の情熱を盛り上げることができるであらう。吾吾のもう一度立ち上ることをも約束し、又吾吾の過去の或はやくざな仕事すら奈何に「今日」の我我を築き上げるために必要だつたかを人人は知り、人人はこれらの塔を初めて見上げて、絕えず人生への睨みを忘れなかつたところの我我及彼等を注目するであらう。

 

 十一 政治的情熱

 

 今度の選擧で自分も勞農黨のM氏に一票を投じた。政治に興味を持たない自分だつたが、何か旺《さか》んな情熱を感じ其情熱に觸れることは好ましい愉快さであつた。尠くとも其時代的な炎を自分だけのものとして手强く感じることは、日頃の倦怠や文弱の暮しから見て勇ましいものに違ひなかつた。自分は此雜然たる喧騷の中に我我も待ち得、又同感し得る情熱のあることを不愉快に思はなかつた。

[やぶちゃん注:「勞農黨」大正一五(一九二六)年三月五日に創立された左派政党である労働農民党の略称。当該ウィキによれば、前年十二月に『結成された農民労働党が共産主義と繋がっているとの嫌疑で即日禁止された』『ことから、当初は左派を排除した形で結党されていた。中央執行委員長には日本農民組合委員長だった杉山元治郎』(もとじろう)『が就任』したが、『結党後に地方支部が組織されていく過程で左派が流入、親共産主義の立場を取る左派の地方党員と反共主義の立場を取る右派の幹部が対立し』、早くも同年十二月には『右派が脱党して』「社会民衆党」『(委員長は安部磯雄)を結成』、『相前後して中間派が』「日本労農党」『(後の委員長が麻生久)を結成し』、結果して『労働農民党(委員長は大山郁夫)は左派が主導権を握った。三派が鼎立した』。『分裂後の労働農民党は大山郁夫委員長・細迫兼光書記長が指導し、対華非干渉・労働法制定などの運動を進めた。最初の普通選挙となった』昭和三(一九二八)年の第十六回衆議院議員総選挙(犀星の言っている選挙はこれ)では、『権力の干渉は厳しく、香川県から立候補した大山郁夫陣営に対する弾圧は強烈をきわめた。このときの現地の運動員として、当時農民組合の指導にはいっていた後の小説家島木健作がいた。しかし、全国で無産政党最多の』二十八『万票を獲得し、水谷長三郎と山本宣治の』二『名の当選者を出』した(孰れも京都選挙区)。『山本は帝国議会で特別高等警察(特高)の拷問行為を暴露することを得意としたが、右翼青年に暗殺された』とある。

M氏」不詳。]

 菊池寬、藤森成吉《せいきち》二氏の落選には、分けて菊池氏の落選の報を得たときは何か腹立たしかつた。彼だけは公平な眼を以て當選させねばならなかつた。自分は號外を見て暗い街巷に佇んで二重に腹立たしかつた。彼が蒼蠅的新聞記者から文壇の大御所などと謳はれることは取らないが、さういふ下馬評を外にし、勇敢な彼は、文壇的一城主を負うて立つ、他の城主等の持たぬ不斷な「戰國時代」の地圖を開いて見てゐる男に違ひなかつた。神經質ではあるが「粗大」を持つてゐることも事實だつた。かういふ意味では中村武羅夫《むらお》氏もまた「租大」な野性を持ち合してゐた。彼等の此「粗大」は谷崎潤一郞氏の作品の相貌に於ける「大谷崎《おほたにざき》」たる所以のものと自ら異つてゐるが、菊池中村二氏の有つ粗大さに、何時も社會的な時代相ともいふベき、何か文壇の流れを突き拔けたものを持ち合してゐた。と言つても彼等は同時に社會的事業に加はつてはゐないが、ともに文壇社會ともいふべき雰圍氣の中に何時も何等かの「炎」を上げてゐることは疑へない事實だつた。

[やぶちゃん注:「菊池寬、藤森成吉二氏の落選」菊池は同選挙に東京一区から社会民衆党公認で立候補したが、落選し、藤森は長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)生まれで、労働農民党公認として長野三区から立候補したが、次々点で落選した。

「中村武羅夫」(明治一九(一八八六)年~昭和二四(一九四九)年)は、当該ウィキによれば、『北海道岩見沢村生まれ。家は鳥取県からの開拓移民で旧士族の家系。岩見沢村立東小学校卒。岩見沢尋常高等小学校卒業後、進学を望むも家のりんご園経営が没落したため断念。小学校の代用教員を経て、博文館の「文章世界」で小説が次点佳作となったのを』契機として明治四〇(一九〇七)年に上京し、『大町桂月、徳田秋声と親しくなり』、『彼らの紹介で、小栗風葉門下に入』った。『後に真山青果の紹介で『新潮』記者となり、明治末から大正期にかけて同誌の中心的編集者として活躍した。『中央公論』の滝田樗陰と並んで大正期の名編集者と称された』大正一四(一九二五)年には、『プロレタリア文学の勃興と『文藝春秋』への抵抗として『不同調』を新潮社から刊行し、岡田三郎・尾崎士郎・今東光・間宮茂輔らを糾合』したが、昭和四(一九二九)年に休刊した。『代わって『近代生活』を創刊、新興芸術派の拠点とし』、また、前年昭和三年六月には編集長となっていた『新潮』に評論「誰だ? 花園を荒らす者は!」で『マルクス主義文芸派を真正面から批判し』、『「芸術派」の結集をはかったものとして名高い』。昭和一六(一九四一)年八月に箱根の『日本精神道場で行なわれた大政翼賛会主催の第一回特別修練会に、瀧井孝作、横光利一らと共に参加。昭和』十『年代後半には日本文学報国会設立の中心となった。敗戦後は戦争協力者として立場を失い、新潮社を辞して』程無く、『辻堂の自宅で原稿執筆中に脳溢血を起こして死去した』とある。犀星(昭和三七(一九六二)年に肺癌で没している)は結果して「社會的事業に加はつて」『「炎」を上げ』た、彼の末路をどう考えたのか、ちょっと聴いてみた気がする。]

 ともあれ菊池氏の落選はその報を得てそれを知つた自分を極度に陰鬱にした。同じ文壇の空氣を吸つてゐる同士のよしみは、平常彼と言葉を交す機會のないにも拘らず、自ら異常な意識の下に潜り根强く働いてゐることを、自分自身のために發見もし喜びもした。藤森氏は鄕里の鬪爭ではあり當選するものと思うてゐたが、自分はその不幸な報を得て意外な思ひをした。溫恭《をんきよう》なる彼のために自分も逆流する殘念さを感じるのであつた。藤森氏が勞働もされ其道につかれたことには、自分は別に說をもつてゐる者であるが、ともあれ、あれ程の勞苦を思ふだけでも彼も疑ひなき當選者でなければならなかつた。この苦き經驗は或はよき次の時代を形づくることを自分は信じて疑はない。

[やぶちゃん注:藤森成吉は明治二五(一八九二)年生まれで、犀星より三つ年下。昭和五二(一九七七)年、散歩中、トラックに轢かれたことが原因となって死去した。]

 

 十二 大衆作品本體

 

 自分は大衆文藝といふものに未だどれだけも親愛の情を感じてゐない。一つには大正年間に發展した此新樣式の作品が、自分を根本から動搖させ感激させないからである。自分を敎育した今日までの諸種の純文藝作品は、人としての手ほどきから細かな其心持の構へにまで入り込んで、殆ど完全に自分の人間學を卒業させたと言つてよい。かういふ今の自分を建て直し牽制すべき新樣式の陣容は、全きまでに自分を壓倒して來るところの、今までに無かつた素晴しさを持つものでなければならない。尠くとも自分を永く考へさせる凝視的な集中を此新樣式の文藝の上に注ぎたい熱望を持たねばならぬ。

 大衆文學は僕のごとき文藝の士の讀物である限り、僕程度の讀書力への剌戟と牽制である限り、又凡ゆる讀書階級を抱擁する通俗の可能性を持つものであるとすれば、タテからも橫からも隙間のない渾然たる新作品の發揚でなければならない。凡ゆる過去の純文藝の銳どさ深さをもつ作者の用意があり、それらの純文藝的氣質からも岐《わか》れて出た目覺ましい一つの進み方としての、これらの大衆作品の陣容が存在し得るとしたら、それは軈《やが》て僕を人にならしめた諸の小說中の人生への睨み方の訓育と同じい效果を、大衆自身の頭や心臟へ抛げつけるであらう。讀み物は單に面白い範圍のものは絕對に作者側の良心から抹消さるべきことであり、讀者側からは面白かつたといふ興味ではなく、面白くもありタメにもなつたといふ事實、その作品自らにあるよき營養ある人生學や人間學の諸相が、一作品の讀後にすら影響するといふことが、大衆作品のよき標準であり目的であらねばならない。大衆作品の陰鬱な過去――中間讀物時代から今日までへの脫却と進路には、まだ嚴格な内容への檢討が爲されてゐないことは、漸く大衆的なといふ呼聲の流行の鎭まりかけた今日に於て、辛辣にこれを解體し批判する必要があり、彼等がどの程度までの心臟的讀物であり得たかに就て、大衆自身が旺盛な大俎《おほまないた》を搬出するであらう。それは時を經て彼等自身の反省によつてのみ此新樣式の存續を意味するであらう。

 圓本流行の今日の大衆階級の進み方は、トルストイやドストエフスキイ、イブセンやストリンドベリイの中にある大衆性、その莫大な通俗性を嗅ぎ出したことも事實である。尾崎紅葉、夏目漱石にある通俗への妥協、凡ゆる大作家の持つものが常に藝術的であり得ると同時に、又通俗的な透明な太い線を全作品の中に刺し貫いてゐることも事實である。

「レ・ミゼラブル」の大通俗の用意、「罪と罰」の伏線、「復活」の人間學初步、これらは今日に於て殆ど何人もその大衆性のある作品であることを否む人はなからう。讀書階級が進むことは奈何なる峻峯的作家をすら一先づ大衆自身の大群衆へまで引き下ろさねば承知しない。芥川龍之介、谷崎潤一郞すらも、大衆自身は敬意ある眼付をして「面白さ」の中へ引き込んで、今日に於ては既に消化してゐるではないか。吾吾のいふ大衆作品が生やさしい樂ないい加減な仕事ではなく、一時の流行的作爲を弄するものではなく、純文藝の本流に交流すべきものであることは明白であらう。中間讀物の成上りや純文藝の苦節に耐へなかつた輩が、此群衆的な大センチメンタリズムの本道を濶步することは、軈て初めて自ら滑𥡴であつた彼自身の姿な見出すであらう。凡ゆる大衆作家は手厚い重みのある濶步を純文藝の本道の上にまで踏みつけ得ることにより、光榮ある此新樣式の中に文學としての古今に氣脈を通じるであらう。今の混戰された中ではどの程度までの大衆作品であるかといふことを識別しがたいと言つてよい。

 

 十三 稻垣足穗氏の耳に

 

 稻垣足穗氏の近代文明に對する解說、及びそれらに根をもつ制作は一時のやうに自分にその「新鮮」さを感じさせなくなつたのは、氏がその特異な材料にのみ每時も同じい開拓をしてゐる爲ではなかつたか。自體最も危險である「新鮮」を目ざして進むことは、巧みな轉期や速かに體をかはすことに於て、その「新鮮」を支持して行くものであるが、當然行くべき重厚さへも辿り着かずにゐるのはどうしたものであらう。

「黃漠奇聞《くわうばくきぶん》」を書いた彼の文學は、凡ゆる感覺派の作品の上に輝いてもゐたし、またああいふ文學は三度出ることも尠いであらう。空想の建築的量積がどの程度まで歷史的考證に運命づけられてゐるか。人間の空想力が決してその作者が一代にのみ釀成されるものでなく、稻垣氏の祖先からそれらの空想が存在してゐたものであり、彼により初めて形を爲したと言つてよいのである。さういふ「黃漠奇聞」の作者たる稻垣氏が性來の怠け癖から、樂な物ばかりを書くといふことは、我我讀者から彼の「耳」に囁いて奮勵を望まねばならぬ。彼の「耳」がそれを聞かない風をしたときに、自分は囁いた序に彼の「耳」に嚙みついてやらねばならぬ。

[やぶちゃん注:「黃漠奇聞」私は未見なので、サイト「ラバン船長のブックセイリング」のこちらを参照されたい。因みに稲垣は私は生理的にだめで(多分、若い時に見た彼の写真が原因と思う)、最後の一撃はいかにも犀星らしく、非常に爽快である。]

 

 十四 情熱と良心

 

 我我作家に恐ろしいものは情熱の膠化《かうくわ》された時代、良心の燻ぶりかけ麻痺されかかつた時である。どういふ作品の劣性の中にも情熱が一すぢ起つてない時は踉《つ》いてゆけない。讀むことも情熱の作用のない限り讀めるものではない。吾吾の不斷に鍛へかけるものは最《も》う情熱を搖り動かすことより外に、その作者としての良心の打込みがないやうである。情熱の沈潜された時はそのままの「沈潜」で讀めるものであるが、乾燥され膠化されることは作者の危機とまで言つてよい。我我にさういふ膠化した狀態は何時でも來てゐるが、それを敲き破るか、そこでもう一度振ひ立つかしなければならぬ。殆ど目に止らぬ膠化狀態にある自分を自覺することも作者の良心だ。自分で自分を胡魔化すことは止すがいい。いい加減なところで「濟す」ことはもう止めるがいい。

[やぶちゃん注:「膠化」ゼリー状に固まること。ここは「固まり始めてしまうこと」の意。

「踉《つ》いてゆけない」この「踉」には「躍る・飛び上がる」の意の他に、「行こうとするさま」の意がある。その当て訓と採った。ネットで「踉いて」で検索すると、複数の作家が「踉(つ)いて行く」というような表現を使っていることが判った。因みに、「ウェッジ文庫」版でも「つ」とルビを振っている。]

 

 十五 流行と不流行

 

 最近作家生活の危機を暗示しそれに屬する自分の道を瞭《あきら》かにした。自分の如き思ひを摧《くだ》くの作家も自ら生活の内外を警戒したであらう。雜誌や單行本の不振と作家に作を求むる事尠き近時に於て、徐《おもむろ》に破顏一笑を以て是に當るは、文人の心漸く我我に宿つたも同樣である。紅葉、露伴の昔、秋聲、白鳥の苫節の時代を思へば、今日吾吾の赤貧を以て文事に從ふは、寧ろ壯烈な誠の期臻《きた》れるものに違ひない。

 由來文壇の流行と非流行の影響が作家の心境に及ぼす憂欝なる極印《ごくいん》くらゐ、その作家を悒《いぶ》せく苛酷に取扱ふものはない。或は作家を再び立てない程度にまで卑屈にするものも、その作を求められる事無き懊惱《あうなう》の時期にあるのだ。作者はそのプロレタリアの徒であると否とに拘らず、作品を以て常に歇《や》むなき彼を示し、或は休息なき我を押し立てねばならない。それこそ苦痛に鞭打ち蒼白い嘆息の中からも、寧ろ戰慄すべき作家的炎を搔き立てねばならない。此作家的炎の中に弱り果てた彼や我を寧ろ宗敎的な雰圍氣の中にさへ押立ててジヤアナリズムの墮性と麻痺とによるものと對抗する外はない。絕對的なまで作品のみによる作家生活の本道は、この作品の苦節と打込み以外には立てないのである。今目の產業或は事業的不況に墜落した底の中でこそ、誠の作家は流行不流行に拘らず煮湯を飮み喘ぐのも亦面白い興味のあることであらう。

[やぶちゃん注:「極印」元は江戸時代に金・銀貨や器物などの品質の保証や偽造の防止などのために打った印を指し、転じて、「動かしがたい証拠・証明・刻印」の意となった。]

 作家は作中にゐない時は氣持の速度に平和はあつても、嚴格な鉾先の銳どさを失うてゐることは事實である。作家はその作を示さない時に進步はあり得ても、それを釣り上げる鈎《はり》を失うてゐることは危險である。やはり作家は絕えず書き、書くことと同樣な頭にヒラメキを起らせる機會を失うてはならない。求められる事により一層彼は彼の鍛へを彼自身に加へなければならない。今日に於て作を求められることは其物質的表現に拘らず、それは誠の彼を求められるものに違ひなからう。全く自分らは精神の碎片(かけら)を手渡してゐる自信を持ち得てゐるのである。精神の碎片、氣持の中の雲霧、それらによりヘトヘトに疲れた大切なものを手渡しすることは、好況時代に於ける濫作時の彼や我の比較ではないであらう。

 凡ゆる編輯者は作家の中の銳い星を射《い》り當てるものでなければならない。作家の苦節に對する一つの友情でなければならず、彼等と吾吾のよき挨拶と情熱とによる朗かな提携以上のものでなければならぬ。編輯者は又慘酷な拒絕者であり得ても、同樣に作家の雰圍氣の熾烈さを搔き分け見立てるものでなければならぬ。よき編輯者によるよき作家のつどひの美しさ、彼等と我我はその喜びに昂奮するお互ひの氣持を忘れてはならぬ。さういふ表顯《へうけん》が形づくる一つの雜誌は最早「雜誌」なるものを超えて、直接友情なるものをその讀む人人に囁くであらう。「雜誌」が何よりも輕薄な雜誌の役目を果す前に、これらの後後までも讀まれる永い讀書の種子を撒いて置かねばならないのである。

[やぶちゃん注:「表顯」具体的な形で広く世にあらわし示すこと。]

 又凡ゆる編輯者は流行不流行に拘らず、文壇にすみずみに目を行き亘らし作家の精進と努力とに絕えず眼を放つてゐなければならない者である。作することによりよくなる作家を見失うてはならず、其作家に鍛へを呼び起すものも亦大なる編輯者でなければならぬ。編輯者は同時に批評家の位置にも亦作家同樣の實力をも抱擁し、作家に肉迫し作家も編輯者へ肉迫し壓倒しなければならぬ。自分はかういふ二つの迫力の世界に我我や彼等を置きたい希望に燃えてゐるものである。

 

 十六 文藝家協會に望む

 

 文藝家協會の事業は着着實行され成績を擧げてゐることは、殆ど何人と雖も肯定し得るところである。自分は先般來圓本流行の折にも協會が干與《かんよ》し、其人名の遣漏を指摘するやうな立場に有り得たならば、作家を網羅する上に萬萬粗漏が無かつたらうにと思へる程である。

[やぶちゃん注:「文藝家協會」正式には「日本文藝家協會」。大正一五(一九二六)年に「劇作家協会」と「小説家協会」が合併して発足。初代会長は菊池寛。昭和一七(一九四二)年に一度、解散して「日本文学報国会」に吸収されたが、昭和二一(一九四六)年に再発足した。

「干與」「關與(関与)」に同じ。但し、「關與」の場合は歴史的仮名遣は「くわんよ」となる。]

 圓本に於ける作家の選定は出版書肆の成算にあることは勿論であるが、同時に書肆は協會にも建議し、協會は協會の認めるところの有爲の文人を推薦する權利を持たねばならぬ。書肆の意嚮《いかう》外の文人であつても協會の嚴格なる推薦に據る文人は、一層手强くその文人的に不滅な光榮ある作家でなければならぬ。さういふ意味に於ける作家をも書肆はこれを加へるところの、當然な雅量を自覺せねばならぬ。圓本の如きは元元作家と書肆との美事な二面相打つことに依つて、その事業を完成すベき性質のものであり、決して書肆の獨立的な事業ではない。これは强《あなが》ち圓本に限らず凡ゆる書物を出版する時に於て、著者と出版書肆の間によき感性上の融合があつて後に、世に問ひ其美や淸さや値を品隲《ひんしつ》さるべきものである。圓本の如き現象には最も親切であり事務的である協會が、自ら作家の間に甚しき遣漏を努めて避ける如きことをも、その事業の一項に加ふるべきである。上演料や著書其他と同じい結果を最近に協會が其成績の上に擧げられんことを希望する。一つには改造社あたりの文學全集が誠の全集だとするには、餘りに巨鱗を逸してゐる恨《うらみ》があるのである。併しそれは單なる片片たる改造社の問題ではなく、以後協會の爲によき指導をその杜撰な集篇の上に加へることを忘れてはならぬ。

 一代の文人は大厦高樓《たいかかうろう》の中に住むのはよい。又一代の文人は當然に其得べきものを得ずして赤貧に甘んじるのもよい。只さういふ現象が習慣的な世俗意識の中に加へられることは、各作家のために警戒すべきことであらう。同時に大厦高樓に住む文人も自ら警《いまし》めて此文藝的な溫かい愛情からも、協會と相伍して今日の資本家に當るべきであらう。

[やぶちゃん注:本邦の著作権は、国際的な著作権を定めた「ベルヌ条約」が締結された翌年の明治二一(一八八七)年に「版権條令」が制定され、二年後に「版権法」を制定しているが、「ベルヌ条約」に日本が加盟したのは、明治三二(一八九九)年年四月十八日で、同年七月十五日から国内法として「旧著作権法」が制定履行された(「版権法」等の関連旧法は同時に廃止された)。現行の「著作権法」は昭和四五(一九七〇)年であった。]

 

 十七 批評と神經

 

 自分は十年間殆ど月評する立場にあつたことがなく、從つて他人の作品に自說を持ち出した機緣の無かつたものである。自分の考へを僞瞞無く人に傳へる困難は、槪ね卑劣な場合を除く外はよく思はれる例しがない。他の作品に自分を食ひ入れることは神經の痛みを感じてならないものである。自分は他人の平穩な氣持に交涉を求めることの影響を恐れてゐるものである。さういふ細心な神經の震へに觸れる作品、神經が隈なく作品を網の手に搔き搜ることは、自分の批評の中では阻止しがたいものである。

 月評も亦修養の一つでないことも無い。頭のハタラキを自然に試驗されるところの、彼自身莫迦なら莫迦をこれ程叮嚀に告白する機會に立つてゐるものはないからである。彼等の多くは勇敢であるために倒れ、鯱のやうに尖り立つて沒落した。

 自分は批評の眼目に於て既に殺氣を感じてゐた。併も今は自分にあるものは殺氣ではなかつた。朗かな正當な、顏を赧《あか》らめる必要なき自分を握ることができたのである。凡ゆる批評の靜かさの中にゐてこそ、他人の作品の中へ入ることはできるが、文藝の値は騷騷しい殺氣の中に品隲され得るものではない。靜かな上にも靜かな、呼吸の通ふ音すらも聽えないところで自分は詰め寄るより外はないのである。さういふ自分の批評の立場にあることを闡明にすることは、或は一つの德望であるかも知れぬ。

 

 十八 武者小路氏と「時代遲れ」

 

「殺される男」(中央公論)武者小路氏のこれまで見た多くの作品の中に脈打つ、思想的な問題を取扱つたものであり、自分は何度も見たやうな氣がしたのは、恐らく彼の單純な同じい韻律を含む表現に據つたためであらう。武者小路氏のかういふ表現の型は自分には頭に這入《はひ》り過ざ、這入り過ぎてゐるために再描寫の感覺を强ひられるのである。その簡素な日常の言葉どほりの表現は、その内容の死に直面したものをありありと感じさせても、自分の心を二重三重に取圍み染染と沁み徹らせて來ない。死の問題にしても其作者の氣持の眞劍さはあつても、コナれるだけコナれてゐない。心にぴつたりと吸ひ付いて來ないのである。

[やぶちゃん注:「殺される男」は「殺される人々」の誤り。昭和三(一九二八)年五月号『中央公論』に載った。「書肆田高」のこちらを参照されたい。同号には、室生犀星が「山のほとり」を掲載していることが判る。]

  武者小路氏の新しい文章や感激といふものも、其値の新しさは持ち乍ら何か時代遲れの感じである。それは一つは時代の險惡さが灰汁のやうに押し寄せてゐるためであらう。今の世に彼の持つ淸潔な、靑年のままの考へを今までに大切に持ち越したやうな思想的な明快さは、もう今の靑年の心には作用しなくなつてゐることは事實である。併乍ら今の靑年の大背景の中にある巨石としての武者小路氏は、蘚苔《こけ》をおびながらゐることも是亦事實である。自分は彼を時代遲れといふことを肯定するものだが、彼の中にある何か一本の道、孰方《どつち》にしても人間がそれを辿るべき要素をもつ本道だけは、初めから時代遲れではあつたが、其十年前の時代遲れと今日のそれと尺度が同じいことを發見しなければならぬ。恐らくその一本の軌道だけは今後十年も適用し又時代遲れの相を帶びながらも、不思議な地位を保ち得るものであらう。それは彼の狙ひが的を外れてゐない、的確な一つものをねらうてゐるからである。神、運命、人間、さういふ彼の狙ひは十年をも打通して執拗に弓矢を番《つが》へてゐるからである。彼は最も古いものを摸索し手摑みにしようとしてゐるのだ。彼が新しいといふことは彼への氣の毒な誤謬だつた。

「殺される男」の中に自分は武者小路氏の「炎」を感じない。ラクに書いたとしか思はれない弛みを感じるのだ。或は彼の表現の流暢さは何時も其爲に彼を爲し彼を築き上げてゐるといへば云へるが、あの通りの流暢さの中にも自分に影響する銳どさを缺いてゐる。或は上演の效果からいへば相應の成績を上げるかも知れぬが、併し我我看客は「言葉」だけを聞いて「心」を感じ得る事は出來ないであらう。何故と云へば彼は此一篇に於て運命へのどうどう𢌞り、それの輪廓を彼の流儀に依つて表現した單なる筋書に過ぎないからであつた。

[やぶちゃん注:前の二ヶ所の読みは私の好みの読みで附した。なお、私は中学二年の夏、旺文社文庫で「真理先生」を読んだ時、全く以って古臭いという印象を持ち、時間を無駄にしたと感じて以来、彼の作品を全く評価していない。]

 

 十九 背景的な作者

 

 谷崎潤一郞氏の「續蘿洞先生《ぞくらどうせんせい》」は何時か「改造」に掲載された續篇であり、相渝《あひかは》らず谷崎物である以上に何等の交涉を新時代に齎《もたら》すものではない。さういふ意味でまた菊池寬氏の「半自敍傳」を品隲するのは妥當ではないが、併し此二作家が新時代と沒交涉であるところは一致するやうである。谷崎氏はそのグロテスクな人を莫迦にするやうな時代の桁外れの大味で行き、菊池氏は飽迄眞面目な一本氣で生ひ立ちの記を綴る點に、對蹠《たいせき》的な作家の道のりを物語つてゐる。

「續羅洞先生」の完璧は骨董的な時代味であり、過去の記錄的な作品の延長である。同時に谷崎潤一郞といふ美名が正札を附けるところの、創作欄的な宣傳風な作品でなければならぬ。創作欄を何となく後援し裝飾し宜傳するところの作品は、それは作家の現在よりも逈《はる》かに過去の作品の背景が物語る魅惑であり業蹟であらう。しかも谷崎氏は特に此一作を以て何等の彼自身の起直りや勉强のあとを暗示してゐない。彼は音に彼の圖圖しい猛猛しさで突立つてゐるだけである。その圖圖しいところのものは又どういふ時代にも跨ぎかける圖圖しさである。自分はかういふ作者をもつことは新時代にあつては、何よりも歷史的である點で認めたいものだと思うてゐる。彼はその一つ一つの作品よりも何時も「谷崎」を大きく纏め上げ、すぐ「谷崎」全體を感じさせるからである。

 菊池氏の「半自敍傳」はまだ一回しか出てゐないが、創作欄の抱擁力を示す以外に充分な菊池寬氏の、一文人の中期の作品の叩き込みや起直りの精進を續けなければならぬ。第一回の作品速度には思ひ出風な韻律のままで書き出してゐるが、其處に氣質的な作の炎を上げることは何よりも肝要とすべきであらう。凡ゆる自敍傳は作者の「眉と眉との間」がくらくらする程度の、その作品の炎の中に立たねばならぬ。自分も自敍傳を書き直してゐる時に菊池氏の作品に接したのであるが、決して樂な氣持でスラスラとした味ひで行つてはならぬと思うてゐる。自分の經驗では何かもう一度息づまる創作苦を再驗しなければならぬのだ。

 菊池氏は此作品で何等文壇に寄與する考へはないらしいが、自分は彼がさういふ自敍傳を書き出したことは見遁せない。過去の作品を完全に締め付けるものであり彼の中期の氣持のスルドサとダレとの孰方かを示すべきものだからである。谷崎氏のごときは初めからの「あの調子」であるが、菊池氏は眞面目な人であり其處に彼自身の立場があり、自分は今後に於てそれを見たいと思うてゐる。

 彼等二作家の背景的な過去作品を引提げて立つことは、さういふ背景なき作家との比較では、殘念乍ら彼等の手重さを感じなければならぬ。よき文人は皆過去の光背を以て立つところのものであり、それ故にこそ彼等が寸分隙間なく疲勞なら疲勞そのものにも鞭打たなければならぬのだ。

              (昭和三年)

[やぶちゃん注:「續蘿洞先生」は大正一四(一九二五)年四月号『改造』に発表した正編「蘿洞先生」の続編で、昭和三(一九二八)年五月号『新潮』に載った。正編は「青空文庫」のこちらで読め、続編は個人サイト「悠悠炊事」のこちらで読める。因みに私は「惡魔」を始めとした、この手の変態的な谷崎の作品が生理的に受けつけられない。小説では「蘆刈」(リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)ぐらいしか評価しない。但し、「陰翳禮讃」「厠のいろいろ」は別格で称揚するものである。リンク先は創元社昭和一四(一九三九)年刊の作品集「陰翳禮讃」の国立国会図書館デジタルコレクションの当該作の冒頭である。後者は「谷崎潤一郎 厠のいろいろ (正字正仮名版)」として私のブログで電子化してある。

『菊池寬氏の「半自敍傳」』は昭和三(一九二八)年から翌年にかけて書かれた後、続編を含む完本として亡くなる前年の昭和二二(一九四七)年に出版されている。私は未読。]

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