毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海盤車・盲亀ノ浮木・桔梗貝・ヱンザヒトテ・タコノマクラ・海燕骨(キキヤウカイ)・総角貝 / ハスノハカシパン
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]
海盤車【「盲亀(まうき)の浮木(ふぼく)」と云ふ。「桔梗貝(きけうがひ)」。】
【「ひとで」【相馬。】。「ばんしや貝」【尾刕。】。】
【「ゑんざひとで」。】
【「たこのまくら」。】
表を「桔梗貝」と云ふ【伊勢二見浦。】。
裏を「蓮葉貝(はすはがひ)」と云ふ【同上。】
[やぶちゃん注:以上は前が上部の図の、後が下部の図のキャプション。]
海燕骨(ききやうかい)【「百貝圖」に出づ。「総角貝(あげまきがひ)」。「圓座貝(ゑんざがひ)」。】
「海盤車」、生(せい)なる者、其の色、此くのごとくにして、表・裏、細毛あり。輕虚(けいきよ)にして、其の肉、無きがごとし。大小共(とも)、各(おのおの)、うらに、中穴(ちゆうけつ)あり。其の香(か)、甚だ腥臭(なまぐさ)し。品川の貝商(かいしやう)に求めて、其の生なる者を親見(しんけん)す。其の者、小なり。伊勢より求め送れる者は、方(はう)、三、四寸、其の者は、曝(さら)されて、其の色、白し。
丙申四月五日、伊勢詣(いせまうで)の旅士(りよし)、之れを送る。眞寫す。
[やぶちゃん注:これは、「蛤蚌類」ならぬ、
棘皮動物門海胆(ウニ)綱タコノマクラ目ヨウミャクカシパン科ハスノハカシパン属ハスノハカシパン Scaphechinus mirabilis
(和名は「蓮の葉菓子麵麭(パン)」とする説がある。「蓮の葉」は下部(開口部側の口器周縁の面に「蓮の葉」のような放射状の溝があることに由来する)である。ここに出る「海盤車」「盲亀の浮木」及び「海燕」の異名に就いては、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 紅葉貝(モミジガイ) / トゲモミジガイ(表・裏二図)』及び『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海盤車 / ハスノハカシパン』で既に注してあるので見られたい(「細毛」も後者に注してある)。また、寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「海燕(もちかひ)」も見られたい。「もちかひ」とは「餠貝」のことで、彼らを言い得て妙である。
「桔梗貝」カシパンやタコノマクラの殻上にある花弁上に五つ広がる管足帯(歩帯)をキキョウの花弁に喩えた異名である。
「ひとで」『「ゑんざひとで」は、まだ、「圓座人手」で腑に落ちるが、何でただの「人手」なんや!?』と不審に思われる方がいよう(「圓座」は藁・菅(すげ)・藺草(いぐさ)などを渦巻形に丸く編んだ敷物。「わろうだ」)。そこは、「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」の磯野直秀先生の「タコノマクラ考:ウニやヒトデの古名」を参照されたいのだが、実は、江戸時代の「タコノマクラ」は、第一に「ヒトデ」類の総称として、第二に「クモヒトデ」類を、第三にカシパン類を指すという三通りの使い方あった一方、現在、我々が普通に「タコノマクラ」呼んでいる上記の種を『指す用例はこれまで発見できず』、『おそらくは江戸時代には現われなかったと考えられる』と述べておられるのである。そこでは、無論、この梅園の「介譜」の本篇も検証されてある。而して、現在の標準和名が最初に正しく上記種に当てられた最初は明治一六(一八八三)年のことであったようである。
「百貝圖」複数回既出既注。寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書Ⅺ」(『慶應義塾大学日吉紀要』(第三十号・二〇〇一年刊・「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」のこちらからダウン・ロード可能)に拠った)。
「総角貝(あげまきがひ)」「総(總)角」は髪形の一種。平安期までの小児の髪形の一種で、髪を額の中央から左右に分けて、それぞれを「みずら」(本邦の古代の男性の髪形。頭の額の中央から左右に分けて、耳のところで一結びしてから、その残りを8字形に結んだもの)のように結ったもので、江戸時代には遊里の太夫が兵庫髷に金糸の組紐を蜻蛉(とんぼ)形に結んだ髪飾りを用いたのに始まり、この髪飾りのついた髷をいう。ここは、その髪型の髪部分を先の花弁型の管足帯に擬えたもの。
「丙申四月五日」天保七年。グレゴリオ暦一八三六年五月十九日。]
« 毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 「相貝經」(石朱仲著) | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説余禄」 奸賊彌左衞門紀事 »