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2022/08/07

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 古き和漢書に見えたるラーマ王物語

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ後ろから三行目の中間)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。但し、例によって段落が少なく、ベタでダラダラ続くため、「選集」を参考に段落を成形し、注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、本篇は内容的にダブるのは仕方がないが、後の大正九(一九二九)年に『太陽』に連載された「十二支考」の「猴に關する民俗と傳說」の「五 民俗(2)」で、全くそっくりの内容が繰り返されてある。新字新仮名で「青空文庫」のこちらに電子化されてある。比較されたい。]

 

     古き和漢書に見えたるラーマ王物語

           (大正三年八月考古學雜誌第四卷第十二號)

 明治二十六年秋、予、故サー・ウラストン・フランクス(エンサイクロペヂア・ブリタニカ十一板十一卷に其傳を載す)を助けて、大英博物館宗敎部の佛像佛具の名を定むる時、本邦俗間所祀の庚申像に必ず猴を副る由、話せしに、其はラーマーヤナに出たるハヌマン猴將軍抔より起れる信仰ならんと言れし。當時、パリのギメー博物館に讀書中の土宜法龍僧正へ此事を問合わせたるに、返書有り、庚申の夜、祭る靑面金剛は、ラーマの本體ヴシュヌ神より轉成せる者の如し迚、其相形を詳記し、斯れはフランクス氏の推測、其實に近からんと述られたり(一九〇三年龍動[やぶちゃん注:「ロンドン」。]發行ノーツ・エンド・キーリス九輯二卷四三〇乃至四三二頁、予の三猿考を見よ)。依て、和漢に古く、ヴシュヌ神、ラーマ王、及、ハヌマン猴將軍の事を傳へたる證左を知人共に求めしも、確たる回答を受ず。不得已[やぶちゃん注:「やむをえず」。]、自ら氣長く藏經其他を閱して、果然、古く和漢の佛典に、件の名號・傳說、竝びに少なからず散見するを知り錄し置きつ。惟ふにラーマーヤナはマハーブハーラタと印度の二大長賦たり。彼國の考古學に最も重大の關係有る者なれば、印度の事物に注意深き人々は、業に[やぶちゃん注:

すでに」。]此物語の槪要古く和漢に知られ居たるを知悉さるゝならんも、今年二月十日の「日本及日本人」に猪狩史山氏のラーマ王物語出て其梗槪を序せるを見れば、一般讀者中には、今も此物語の何たるを知らざる人も多きにや。其人々は、無論、此物語が蚤く[やぶちゃん注:「はやく」。]和漢に傳はり居たるに氣付ざるべければ、遼東の豕の譏を顧みず、舊日の備忘錄に據て鄙見を述る事左の如し。

[やぶちゃん注:「ラーマ王物語」古代インドの大長編叙事詩で、ヒンドゥー教の聖典の一つであり、「マハーバーラタ」(世界最長編(十八編で詩数は十万を超える)の叙事詩。北インドに行われていた伝承がほぼ四世紀頃に形を整えたもので、バーラタ族の大戦争が主題)と並ぶインド二大叙事詩の一つである「ラーマーヤナ」のこと。当該ウィキによれば、サンスクリットで書かれた全七巻で、『総行数は聖書にも並ぶ』四万八千『行に及ぶ。成立は紀元』三『世紀頃で、詩人ヴァールミーキが、ヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされる』とある。シノプシスは引用元を参照されたい。

「明治二十六年」一八九三年。熊楠はこの前年の九月に渡英しており、この頃、大英博物館に出入りするようになっていた。

「サー・ウラストン・フランクス(エンサイクロペヂア・ブリタニカ十一板十一卷に其傳を載す)」オウガスタス・ウォラストン・フランクス(Sir Augustus Wollaston Franks 一八二六年〜一八九七年)は大英博物館の英国・中世古美術及び民族誌学部部長(一八六六年就任)。晩年は博物館理事も兼務した。熊楠を大英博物館に招いた人物で、東洋美術のコレクターとしても著名。熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)のそれは、載るべき箇所は「Internet archiveのここだが、多分、「FRANCKE, AUGUST HREMANN」という別人の記載を見誤ったもので、彼の記載はない。

「副る」「そへる」。

「ハヌマン猴將軍」当該ウィキによれば、ハヌマーンは『インド神話における神猿。風神ヴァーユが天女アンジャナーとの間にもうけた子とされる』。『名前は「顎骨を持つ者」の意。変幻自在の体は』、『その大きさや姿を自在に変えられ、空も飛ぶ事ができる。大柄で顔は赤く、長い尻尾を持ち雷鳴のような咆哮を放つとされる。像などでは四つの猿の顔と一つの人間の顔を持つ五面十臂の姿で表されることもある』とあり、「ラーマーヤナでの記述」の項には、『ハヌマーンは猿王スグリーヴァが兄ヴァーリンによって王都キシュキンダーを追われた際、スグリーヴァに付き従い、後にヴィシュヌ神』(ヒンドゥー教の神。「リグ・ベーダ」では単に太陽を神格化したものであったが、後世、シバ・ブラフマー(梵天)と並ぶ最高神の地位を占めるようになった。宇宙の維持発展を司る。仏陀も、その化身とされる)『の化身であるラーマ王子とラクシュマナに助けを請う。ラーマが約束通りにヴァーリンを倒してスグリーヴァの王位を回復した後、今度はラーマ王子の願いで』、『その妃シータの捜索に参加する。そしてラークシャサ(仏教での羅刹)王ラーヴァナの居城、海を越えたランカー(島の意味。セイロン島とされる)にシータを見出し、ラーマに知らせる。それ以外にも』、『単身あるいは猿族を率いて』、『幾度もラーマを助けたとされており、その中でも最も優れた戦士、弁舌家とされている』とある。

「土宜法龍僧正」(どきほうりゅう 安政元(一八五四)年~ 大正一二(一九二三)年)真言僧で真言宗高野派管長。複数回既出既注であるが、再掲しておく。名古屋生まれ。本姓は臼井。四歳の時に伯母の貞月尼を通じて出家し、「法龍」と称した。明治二(一八六九)年に高野山に登って、真言・天台などの教義を学び、仏教教学の研究に努めた。明治二六(一八九三)年、アメリカのシカゴで開催された「万国宗教会議」に日本仏教の代表の一人として参加した。その会議終了後、ヨーロッパに渡り、パリでは「ギメ博物館」仏教部の要請を受けて五ヶ月間、滞在しており、また、ロンドンでは、まさに滞欧中であった南方熊楠と出会い、互いに意気投合して、パリ滞在中にもロンドンの南方と書簡を交わすようになり、西域・チベットへの仏教探訪の旅を語り合ってもいる。また、南方が紀伊に帰ってからも、文通が頻繁に行われ、南方の宗教観、特に曼荼羅論・宇宙論に大きな影響を及ぼしている(この往復書簡は甚だ面白い)。明治三十九年に仁和寺門跡御室派管長、大正九(一九二〇)年に高野派管長となり、真言宗各派連合総裁・高野山大学総理などを兼任した。

「一九〇三年龍動發行ノーツ・エンド・キーリス九輯二卷四三〇乃至四三二頁、予の三猿考を見よ」。同年五月三十日発行の‘Notes and queries’に載った南方熊楠の論考‘JAPANESE  MONKEYS.’。「Internet archive」のこちらで読める。

「猪狩史山」(いかりしざん 明治六(一八七三)年~昭和一三(一九三八)年)は教育者・漢学者猪狩又蔵のペン・ネーム。福島県生まれ。東京文学院哲学科を卒業後、日本中学校の教師となる。大正三(一九一四)年、杉浦重剛(じゅうこう)が東宮御学問所御用掛となり、御進講の「倫理」の草案作りに着手すると、よき女房役として七年間奉仕した。後に日本中学校校長を務めた。著書に「倫理御進講草案」の編纂刊行、「杉浦重剛先生伝」・「日本皇室論」・「成吉思汗」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「遼東の豕の譏」(そしり)熊楠がよく使う故事成句。「後漢書」の「朱浮伝」の中で、遼東で珍しいとされた白頭の豚が、河東では珍しくなかったという故事から、「世間知らずであったために、つまらないことを誇りに思って自惚れること」の喩え。

 以下、「宝物集」(ほうぶつしゅう:平安末から鎌倉初期の仏教説話集。後白河法皇の近習として北面に仕えた平康頼著。康頼が帰洛した治承三(一一七九)年以後、数年間で成立したものと思われる。嵯峨清涼寺における僧俗の談話という「大鏡」「無名草子」などのような座談・問答形式をとっている)を縮約引用しているが、読みが振れるものが多いため、ここでは所持する「新日本古典文学大系」(小泉・山田校注。一九九三年岩波書店刊)版他で本文を可能な限り(熊楠が手を入れているので)校合し、特異的に《 》で読みを示した。太字は底本では傍点「○」。その後の「(本の儘)」は熊楠の注である。]

 治承の頃、平康賴が筆せりてふ寶物集卷五より、本文を、多少、節略して引かんに云く、『昔し、釋迦如來、天竺の大國の王と生れて座《おは》しゝ時、隣國舅氏國《きうしこく》、飢渴して殆んど餓死に及べり。舅氏國の人民、相《あひ》議して、我等徒らに死んより、隣の大國に向ふて、五穀を奪取《うばひとり》て命を活《いく》べし。一日と雖も、存命せん事、庶幾《こひねが》ふ所也とて、已に軍立《いくさだ》つを、大國、聞付て、萬が一の勢《せい》なるが故に、輕しめ嘲りて、手捕りにせんとするを聞て、大王、公卿に宣はく、「合戰の時、多くの人、死なんとす、願くは軍を止むべし」と制し給ひしかば、「宣旨と申し乍ら、此事こそ力及び侍らね、隣國、進み襲ふを、鬪はずば、存命すべからず」と申し侍りければ、大王、竊に后《きさき》を呼て、「我、國王として合戰を好まば、多くの人、死なんとす。我、深山に籠りて佛法を修行すべし。汝は如何《いかが》思ひ給ふ」との玉ひければ、后、「今更に如何に離れ奉らん」との玉ひければ、終に大王に具して、深山に籠り玉ひぬ。大國の軍、國王の失せ玉ふ事に驚て、戰ふ事無くして、小國に順《したが》ひぬ』。

[やぶちゃん注:「舅氏國」「新日本古典文学大系」版脚注に、『丘慈』(きゅうじ)『国のことか。丘慈は亀茲』(きじ)『とも書く』とあり、見よ注で、現在の『中国新疆ウイグル自治区にあった国。仏教東漸の要地であった』とある。]

『大王、深山にして嶺の木《こ》の子《み》を拾ひ、澤の若菜を摘《つみ》て行ひ給ひける程に、一人の梵士、出で來りて、「お伽仕る可し」とて仕へ奉る。大王、嶺の木の子を拾ひにおはしたる間に、此梵士、后を盜んで失せぬ。大王、還りて見給ふに、后の坐《おは》せざりければ、山深く尋入り給ふ。道に大なる鳥有り、二つの羽、折れて、既に死門《しもん》に入る。大鳥、大王に申さく、「日來《ひごろ》、付き奉りたりつる梵士、后を盜み奉りて逃侍りつるを、大王、還り給ふ迄と思ひて防ぎ侍りつれども、梵士、龍王の形を現じて、此羽を蹴折《けをり》たり」と云て、遂に死門に入りぬ。大王、哀れと思して、高嶺《たかきみね》に掘埋《ほりうづみ》て、梵士は龍王にて有けると云事を知《しり》て、南方に向《むかつ》て坐しましけるほどに、深山の中に、無量百千萬の猿、集まりて罵りける所へ坐はしぬ。猿猴《ゑんこう》、大王を見付て、悅びて云く、「我等、年來[やぶちゃん注:「としごろ」。]、領する山を、隣國より討ち取らんとするなり、明日《みやうにち》午の時に、軍、定むべし。大王を以て大將とすべし」と云ふ。大王思ひ懸ぬ所へ來たりて悔しく思召乍ら、「承りぬ」迚、居給ひたりければ、弓矢をもて、大王に奉れり。云ふが如く、次の日の午の時斗りに、池に、萍《うきくさ》、靡きて、數萬の兵《つはもの》、襲ひ來《きた》る。大王、猿猴の勸めに依《より》て、弓を引きて、敵に向ひ給ふに、弓勢《ゆんぜい》、人に勝れて、臂《ひぢ》、背央《せなか》に廻る。敵《かたき》、大王の弓勢を見て、箭《や》を放たざる先に、遁れぬ』。

[やぶちゃん注:「梵士」カーストの最上位に位置する司祭階級のバラモン。]

『猿猴等、大に悅び、「此喜びには如何なる事をか爲《なさ》んずる」と云ければ、大王、猿猴らに告て曰く、「われ、年來《ねんごろ》の后を龍王に盜み取られたり、故に龍宮城に向《むかひ》て南方へ行く也」と宣ひければ、猿猴等申さく、「我等が存命、偏《ひと》へに大王の力也。爭《いかで》か、其恩を思ひ知ざらん、速かに送り奉る可し」とて、數萬の猿猴、大王に隨て往き、南海の邊《ほと》りに到らざりければ、徒《いたづら》に日月を送る程に、梵天帝釋、大王の殺生を恐れて、國を捨て、猿猴の、恩を知りて南海に向ふ事を憐れと思して、小猿に變じて數萬の猿の中に雜りて云樣、「斯くていつと無く龍宮を守ると雖も叶ふべきに非ず、猿一つして板一枚、草(くさ)一把(いつぱ)を儲けて、橋に渡し、筏に組《くみ》て、龍宮城へ渡らん」と云ければ、小猿の僉議に任せて、各々、板一枚、草一把を構へて、橋に渡し、筏に組て、自然(じねん)に龍宮城に至れば、龍王、怒《いかり》をなして、大いなる聲を起こして、くれをやりて(本の儘)光を放つ程に、猿猴、霧に醉ひ、雪に怖れて、顚《たふ》れ伏す。小猿、雪山《せつざん》に登りて、大藥王樹《だいやくわうじゆ》と云《いふ》木の枝を伐《きり》て、歸り來たりて、醉臥《ゑひふ》したる猿共を撫《なづ》るに、忽ち、醉醒め、心猛く成《なり》て、龍を責む。龍王、光を放《はなち》て鬩《ひらめ》きけるを、大王、矢を射出す。龍王、大王の矢に中《あた》りて、猿猴の中に落ぬ。小龍等、戰はずして遁去《にげさ》りぬ。猿猴ら、龍宮に責入《せめいり》て后を取返し、七寶を奪ひ取て、本《もと》の深山に歸る。扨、彼《かの》舅氏國の王、失《うせ》にければ、大國、小國、臣下等、此王を、忍びて、迎え取りて、二箇國の王として有り云々、細かには六波羅蜜經にぞ申しためる』。

[やぶちゃん注:「南海の邊《ほと》りに到らざりければ」底本では「南海の邊りに到りければ」であるが、「新日本古典文学大系」版及び別本を見ても、上記通りで、それでないと、後の「徒に日月を送る程に」以下、筏を作るという展開に合わないので訂した。

くれをやりて」熊楠は意味が判らないので「(本の儘)」と注を入れたのだが、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『眩(れ)れをくらわして。急に強い光をあてて目くらがし』(目暗まし)『をくわせることか。「くれ」は、目の前が、暗さ』、又は『まぶしさで見えなくなること』と注する。龍王の幻術として腑に落ちる。

「大藥王樹」「新日本古典文学大系」版脚注に、『最もすぐれた治病効能のあるという薬用樹。薬樹王とも』とある。

「六波羅蜜經」唐の般若の最初の翻訳になる「大乗理趣六波羅蜜経」のこと。但し、「新日本古典文学大系」版脚注には、但し、『ここに記述されている釈迦如来前生時代の説話は、この六波羅蜜経にはみいだせない。いかなる経典から引いたか、出典未詳』とする。

 以下の「六度集経」は「大蔵経データベース」で校合し、「選集」を参考に読みを《 》で挿入した。

 予未だ所謂、六波羅蜜經を見ざれど、三國吳の天竺三藏法師康僧會譯六度集經卷五に、ラーマ王物語有るを見出たれば、節略して引んに云く、『昔し、菩薩有り、大國王たり。常に四等を以て衆生を育護し、聲、遐邇《かじ》を動かし、歎懿《たんい》せざる靡《な》し。舅《しう》、亦、王と爲て異國に在り。性、貪《むさぼり》て恥無く、兵を興して菩薩の國を奪んと欲す。菩薩の群僚、僉(みな)、曰く、「吾、寧ろ、天仁と爲《なり》て貴く、豺狼《さいらう》と爲て賤しからじ」と。民曰く、「寧ろ、有道《うだう》の畜と爲るも、無道の民と爲らじ」と。武士を料選し、軍を陳《つら》ねて振旅す。國王、流涕して曰く、「吾《わが》一躬《いつく》を以て兆民の命を毀《こぼ》たば、國、亡びて、復し難く、人身、獲《え》難し。吾、遁れ邁《ゆ》かば、國境、咸《み》な康《やす》からん」と。王、元妃《もとのきさき》と俱に、國を委《すて》て去り、舅、入《いり》て國に處《を》り、政、苛《か》に、民、困しみ、舊君を思詠する事、孝子の慈親を存する如し。王、元妃と山林に處るに、海に邪龍有り、妃の光顏を好み、化《け》して梵志と爲り、訛《いつは》つて道士の似《まね》して禪定す。王、觀て、心欣び、日に果を採《とり》て供養す。龍、王の出行《いでゆ》くを伺ひ、妃を盜み、挾(さしばさ)んで海居に還る。山に巨鳥有り、翼を張り、徑《みち》を塞ぎ、龍と戰ふ。龍、爲に震雷し、鳥を擊《うち》て、其右翼を墮《おと》し、遂に妃を獲《とり》て、海に還る。王、果を採り、還て、其妃を見ず。乃(すなは)ち、弓を執り、矢を持ち、元妃を尋求《じんきう》す。榮流を覩《み》て、其源を極むるに巨獼猴《きよびこう》を見る。哀慟して曰く、「吾れ、舅氏と肩を竝べて王たり。舅、勢を以て、吾衆を强奪す。子《なんぢ》、今、何の緣有て、此山岨《やまそば》を翔《かけ》るか」と。菩薩、答て曰く、「吾と獼と、その憂ひ、齊《ひと》し。吾、又、妃を亡ひ、之《ゆ》く所を知ず」と。猴曰く、「子、吾を助け戰《たたかひ》て吾《わが》士衆を復さば、子の爲に妃を尋ね、終《つひ》に、必ず、獲ん」と。明日、猴、舅と戰ふ。王、乃ち、弓を彎《ひ》き、矢を持ち、股肱《ここう》、勢ひ、張る。舅、遙かに悚懼《しようく》し、猴王の衆、反《かへ》る。遂に衆に命じ、行《ゆき》て、人王の妃を索めしむ。猴衆、鳥、翼を病むを見る。鳥曰く、「龍、妃を盜めり。吾、勢ひ如《し》く無し。今、海中大洲の上に在り」と言畢《いひをはり》て絕す』。

『猴王、衆を卒《ひき》い、海に臨み、以て渡る亡きを憂ふ。天帝釋、化して猴と爲り、身に疥癬を病《やめ》り。來り進んで曰く、「今、士衆の多き、其れ、海沙に喩《たと》ふ。今、各衆をして、石を負ひ、海を杜《ふさ》がしめば、以て、高山を爲すべし。何ぞ但に彼《かの》洲に通ずるのみならんや」と。衆、其謀《はかりごと》に從ひ、石を負て、功、成り、衆、濟《わた》るを得、洲を圍んで累沓す。龍、毒霧を化し、猴衆、都《すべ》て病み、地に仆《たふ》れざる無し。二王、悵愁《ちやうしう》せしかば、小猴、重ねて曰く、「聖念を勞する無かれ」と。卽ち、天藥を以て、衆の鼻中に傅《つ》け、衆、卽ち、奮鼻して興《おこ》り、力勢、前に踰《こ》ゆ。龍、卽ち、風雲を興し、勃怒霹靂、乾《けん》を震《ふるは》し、地を動かす。小猴曰く、「人王、射に妙なり。天、電耀するは、卽ち、龍なり。矢を發して、凶を除き、民の爲に禍《わざはひ》を除かば、衆聖、怨《うらみ》、なけん」と。霆耀《ていえう》電光の時、王、箭を放ち、龍、胸を射殺さる。猴衆、「善《よ》し」と稱し、小猴、門を開きて、妃を出す。二王、俱に本山に還り、更に相《あひ》辭謝す。會《たまた》ま、舅王、死して、嗣子無し。臣民、奔馳《ほんち》して、舊君を尋ね、君臣、相見《あひまみえ》、哀泣、俱に還り、舅國を併せ獲《と》る。兆民歡喜、稱壽萬歲、大赦寬政、民心欣々[やぶちゃん注:熊楠が面倒になって原文のままに出したもの。訓読する。「兆民は歡喜し、『壽萬歲』と稱(とな)ふ。大赦して政(まつりごと)を寬(ゆる)くし、民心、欣々たり。」。]、含笑《ゑみをふくみ》、且つ、行く。王曰く、「婦、夫《をつと》とする所を離れ、隻行一宿《せきかういつしゆく》するも、衆《おほ》く、疑望、有り。豈况んや旬朔《じゆんさく》をや。爾《なん》ぢ、女《なんぢ》の家に還らば、事、古儀に合《あは》ん」と。妃曰く、「吾、穢蟲《えちゆう》の窟に在りと雖も、蓮《はちす》の淤泥《おでい》に居るが如し。吾言、信《まこと》有らば、地、其れ、拆《さ》けん」と。言畢て、地、裂く。曰く、「吾が信、現ぜり」と。王曰く、「善哉《よきかな》、夫れ、貞潔は沙門の行《ぎやう》」と。斯れより、國内、商人、利を讓り、仕者《つかふるもの》、位を辭し、豪、能く賤を忍び、强弱を凌がず、王に化せられしなり。婬婦、操を改め、危命守貞、欺者尙信、巧僞守眞[やぶちゃん注:同前。しかし底本は誤りが多いので、「大蔵経データベース」で修正した。というよりも、ここは経の伝本自体に誤字が多い。「命を危くしても貞を守り、欺く者も信を尙(たつと)び、巧僞のものも眞を守る。」]、妃に化せらるなり。佛・諸比丘に告ぐ、時の國王は吾身、妃は瞿夷《くい》、舅は調達《ぢようだつ》、天帝釋は彌勒、是れ也と。』

[やぶちゃん注:「四等」カーストの四階級を指すか。

「遐邇《かじ》を動かし」遠方・近辺に対しても普く慈悲を施すことか。

「歎懿《たんい》」麗しいと感嘆すること。

「豺狼《さいらう》」野良犬と狼。「むごたらしいことをする人」の喩え。ここは触穢の生業をする人々を指すか。

「料選」優れた人材を選ぶこと。

「振旅」兵を整えて凱旋すること。

「禪定」思いを静め、心を明らかにして、真正の理を悟る修法であるそれを、幻術を以ってあたかもそのように見せたのである。

「榮流」大いなる大河の流れ。

「巨獼猴《きよびこう》」巨大な猿。

「股肱《ここう》」腿(もも)と肘(ひじ)。

「悚懼《しようく》」恐れ慄くこと。

「身に疥癬を病《やめ》り」尋常でない状態は、時に異能異才の風貌を与えるものである。

「洲」ここは龍宮城を指す。

「累沓」何度も踏みつけて振動させることであろう。

「乾《けん》」天。

「衆聖」多くの聖人。

「疑望」不詳。後の「旬朔」は十日と一日であるから、「望」は望月で「疑」はその前後で、月の満ち欠けが必ず循環すること、元に戻ることを言っているようには思われる。

「穢蟲《えちゆう》の窟」龍を「穢れた虫」と言い、龍宮を「窟」と言ったもの。

「蓮《はちす》の淤泥《おでい》」清浄な神聖なハスの花の咲く浅く細かな泥で水面は澄んでいる沼の意でとる。

「妃は瞿夷《くい》」こちらに、『十二遊経によると』、『釈迦が太子であった時の第一夫人』の名とする。『第二夫人が耶輪多羅女とされる。しかし太子瑞応本起経巻上では、羅睺羅の生母とされ、耶輪多羅女と同一人物とされている。また同経によると、瞿夷は昔、定光仏の時、儒童菩薩として修行していた釈迦に二茎の青蓮華を供養し、将来、夫婦となることを約束したと説かれている』とあった。

「調達」提婆達多(だいばだった)の別名。釈迦の従兄弟。出家前の釈迦の競争相手であり、釈迦が出家し、悟りを開いて以後、一度はその弟子となったが、後に離反し、阿闍世王と結んで仏教教団に対抗したとされる。仏典では、生きながら地獄におちた極悪人とされるが、仏教から分立した禁欲主義的な宗教運動の組織者としての一面を持っている(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 惟ふに佛出世前斯譚已に印度に存せしを、佛滅後、其徒が金口に假托して、佛と、其在世間時の妻瞿夷と、宗敵調達と後繼者彌勒との本生譚(ジヤータカ)に仕上げたるなるべし。現存パーリ語の本生譚集には此物語無し、と知己のパーリ學者輩より聞けり。ラーマーヤナムは、通說にラーマ王と同時の仙人ヴァールミーキの作と稱せられ、異傳頗る多く、現存する所、三大別本有り、每本載せる所の三分一は他の二本に全く見えず。孰れも梵語もて筆せられしは佛世後の事なれど、此物語、佛世前遍く俗間に歌はれ、種々の改竄と增補を受し樣なり(エンサイクロペヂア・ブリタニカ十一板二十四卷一六九頁)。されば寶物集や六度集經に傳ふる所、現在、梵土の諸本と異所多きも怪しむに足ず。

[やぶちゃん注:「金口」「きんく」で「仏の口」で、釈迦の説法を指す。

「本生譚」(ほんしやうたん)「(ジヤータカ)」仏教説話集。パーリ語で「生れたものに関する」の意。インドに古くからある業報輪廻思想を仏陀に当て嵌めたもの。現世で悟る以前、仏陀が六道で菩薩として様々な姿形をとって善行を行ってきた様を述べる。現在世の物語・過去世の物語・過去と現在のつながりを説く三つの部門から成る。成立年代は明確ではないが,起原前二世紀には、これを題材にした彫刻が出現している。説話数はパーリー語の聖典で五百四十七編を数える。早くから各国語に翻訳されて西方諸国に広まり、「千一夜物語」・「イソップ物語」・「グリム童話」などに影響を与えており、また、本邦の「今昔物語集」にも類話が見られる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「エンサイクロペヂア・ブリタニカ十一板二十四卷一六九頁」「Internet archive」の同原本当該部はここ。]

  序でに言ふ、昨年七月の鄕土硏究二六四頁に、志田義秀君、とぎ(伽)なる語は鎌倉時代に始て現はれしがごとし迚、源平盛衰記や增鏡を引り。然るに上に引ける寶物集の文既に「一人の梵士出來りて、御伽仕る可しとて仕へ奉る」と有り。此文、眞に治承頃の筆ならば、とぎの語は盛衰記や增鏡より早く行れ居りたるを證するに足る。

[やぶちゃん注:太字傍線は底本では傍点「●」。以下同じ。加工用の「万葉文庫」版でも傍点の指示があるので、「選集」も参考にして後の「とぎ」にも同じ処理を施した。

「志田義秀」(ぎしゅう 明治九(一八七六)年~昭和二一(一九四六)年)は国文学者で俳人。明治三六(一九〇三)年、東京帝大学部国文科卒。後、第六高等学校教授・旧制成蹊高等学校教授・東洋大学教授を歴任、昭和一二(一九三七)年、「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」で文学博士を授与されている。

 なお、以下、随所に漢訳経典の白文が入っており(これは総て「大蔵経データベース」で校合した)、甚だ読み難いので、暫くは漢文脈の部分の直後に【 】で私の訓読文を挿入することにする。経典名その他、難読と判断したものは《 》で読みを添えた。経の訓読は「選集」のそれの中には、およそそんな風に訓読は出来ないとものが、複数あるため、「大蔵経データベース」の原本の返り点や、知り得るネット上の経典訓読サイトを参考に使して私の納得出来るものにしてある。

 六度集經、何の代、何人が述たるを知ず、康僧會の譯文、專ら俗人に敎へんとて、三國吳の俗語を用ひしと見え、其態、特異なり。而して此經、一切、ラーマ、シタ等の人名を擧ず。馬鳴大士(佛敎傳統十二祖)の大莊嚴經論卷三(羅什、姚秦の時譯す)に羅摩造草橋、楞伽羅摩は草橋(さうきやう)を造りて、瑜伽城(ゆがじやう)に至るを得たり。】。羅摩はラーマ、楞伽はランカ、羅刹洲(今の錫蘭[やぶちゃん注:「セイロン」。])の都なり。卷五に、昔し、中天竺の諸婆羅門、爲聚落主、說羅摩延書(ラーマーヤナ)又婆羅他書(マハーブハーラタ)【聚落主の爲に、「羅摩延書」(ラーマーヤナ)、又「婆羅他書」(マハーブハーラタ)を說く。】」と載せ、龍樹菩薩(十四祖)の大智度論(譯人同上)二十三に、問曰有人見無常事至、轉更堅著、如國王夫人、寶女從地中生、爲十頭羅刹、將度大海、王大憂愁、智臣諫言、王智力具足、夫人還在不久、何以懷憂、答言我所以憂者、不慮我婦難得、但恐壯時易過【問ひて曰はく、「人、有り、無常の事の至れるを見て、轉(うた)た更に堅著す。國王夫人のごとし。寶女(はうぢよ)、地中より生じて、十頭羅刹と爲(な)り、將(まさ)に大海を度(わた)らんとす。王、大いに憂愁す。智臣、諫めて曰はく、「王は、智力、具足す。夫人、還(ま)た、在ること、久しからず。何を以つてか、憂ひを懷く。」と。答へて言はく、「我れ、憂ふる所以(ゆゑん)は、我が婦の得難きを慮(おもんぱか)らず、但(ただ)、壯時(さうじ)の過ぎ易きのみを恐るればなり。」と。】」とあり、十頭羅刹(ダサグリヴア)卽ち楞伽鬼王(ラーヴァナ)が、ラーマの妃シタを掠め去し時の話なり。

 北凉譯・馬鳴撰佛所行讃經卷二に車匿《しやのく》、悉達太子に別を惜む辭中、今於空野中、棄太子而歸、則同須曼提、棄捨羅摩【今、空野の中において、太子を棄てて歸らば、則ち、須曼提(しゆまんだい)に同じく、羅摩に棄-捨(す)てられん。】。又、卷五に、七王佛、舍利を爭て戰はんとし、獨樓那婆羅門に諫止され相語る詞中、羅摩爲私陀(シタ)、殺害諸鬼神【羅摩は私陀(シタ)の爲めに、諸(もろもろ)の鬼神を殺害す。】と言り。劉宋譯賓頭盧說法緣經に、優陀延王雄武如羅摩延(ラーマをラーマーヤナと誤記せしなり)、又羅摩害十頭羅刹及數千億羅刹衆【優陀延王(うだえんわう)は、雄武なること、羅摩延(ラーマをラーマーヤナと誤記せしなり)のごとし。又、羅摩は、十頭羅刹及び數千億の羅刹衆を害す。】。苻秦譯鞞婆沙論《びばしやろん》に、問曰何以故佛契經立作章、答曰、欲視佛契經無量義故、此外部少義無義、少義者、誦羅摩那(ラーマーヤナ)十二千章二句義(其頃一萬二千章有しなり)、羅摩泥(ラーヴァナ)、將私陀去、彼羅彌(ラーマ)還將來、無義者、以一女故殺十八姟衆、又衆生多起鬪諍縛云々、婆羅多(ブハラタ)(兄也)、摩訶婆羅他(マハーブハラタ)(弟也)・羅摩(ラーマ)(兄なり)・羅叉那(ラクシユマナ)(弟也)、爲私陀(シタ)(妻也)云々、爲彼一女故殺十八姟人【「問ひて曰はく、何を以つての故に、佛の契經(スートラ)は、立つるに章を作るや。」と。答へて曰はく、「佛の契經の無量の義を視んと欲する故なり。此の外、部に少義・無義あり。少義とは、羅摩那(ラーマーヤナ)、十二千章二句義(其の頃、一萬二千章有りしなり)を誦するにて、羅摩泥(ラーヴァナ)、私陀を將れて去り、かの羅彌(ラーマ)に還(かへ)し、將(も)ち來たるなり。無義とは、一女を以つて、故に十八姟(がい)の衆を殺し、又、衆生、多く、鬪諍縛(とうじやうばく)を起こす云々。婆羅多(ブハラタ)(兄なり)・摩訶婆羅他(マハーブハラタ)(弟なり)、羅摩(ラーマ)(兄なり)、羅叉那(ラクシユマナ)(弟なり)は、私陀(シタ)(妻なり)の爲めに云々、彼(か)の一女の爲め、故に十八姟の人を殺す。」と。】と出で、陳譯婆藪盤頭傳《ばそばんづでん》に、法師婆沙、賓《けいひん》國に往て、毘婆沙論を盜み出さんとし、佯狂失言【狂と佯(よそほ)ひて、失言をなし、】」、大衆、毘婆沙義を論ずれば、乃ち、羅摩延の傳を問ふ、と。唐譯大方廣佛華嚴經善賢行願品に、天阿修羅常與戰、伐十頭羅刹、焚燒南海楞伽大城云々、如是一切皆由女人【天と阿修羅、常に與(とも)に戰い、十頭羅刹を伐ち、南海の楞伽大城を焚燒す云々、是くのごとく、一切は皆、女人に由る。】。

[やぶちゃん注:「車匿」釈迦が出家のために王城を去った際、御者として従い、後に出家した人の名。傲慢で、他の僧と和合することがなかったが、釈迦入滅後は、阿難について学び、阿羅漢果を証したという。

「私陀」 仏典に登場するインドの仙人の名。二人おり、一人は過去世に釈尊のため「法華経」を説いたとする者。今一人は、釈尊誕生の時、その相を見て、「出家すれば、大慈悲の聖師となり、王となれば、転輪王となる。」と予言したという人物。どちらかは、判らぬ。

「姟」數単位。現在では1020とする。但し、南方熊楠は「猴に關する民俗と傳說」の「五 民俗(2)」では、『十八姟(今の数え方で百八十億)』(「選集」に拠る)としているが、根拠不明。

「陳譯婆藪盤頭傳」は見当たらぬので、般若譯「大方廣佛華嚴經」に載る、ほぼ同じ文字列で校合した。「婆藪盤頭」は古代北インドのガンダーラ生まれの仏教瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)学派の僧で、サンスクリット名「ヴァスバンドゥ」の漢音写。「婆藪般豆」等とも音写する。古くは「天親」、新訳では「世親」(せしん)とする。、初め、部派仏教の説一切有部(うぶ)・経量部に学び、「倶舎論」(くしゃろん)を著した。その後、兄無着(むじゃく)の勧めで、大乗仏教に帰し、瑜伽行唯識学派の根底を築いた。「唯識二十論」・「唯識三十頌」・「十地経論」・「浄土論」等の多くの著書があり、「千部の論師(ろんじ)」と称せられる。七高僧の第二祖とする。]

 是等諸例もて、ラーマ王物語古く支那に傳はりしを知るべし。ホヰーラーがラーマの楞伽攻めを釋して、其、所謂、羅刹衆とは錫蘭の佛徒を指すと言ひしは疑はしけれど、佛典中には動やもすれば羅摩の殺生過酷と、私陀一人の爲に斯る大罪を造りしを責る語氣多く、暗に佛敎、印度敎[やぶちゃん注:ヒンズー教。]相容れざりしを示せり。元魏譯入楞伽經に至つては、發端なる諸佛品の初めに、歸命大慧海毘盧遮那佛、如是我聞、一時婆伽婆住大海畔摩羅耶山頂上楞伽城中云々。城主羅婆那(ラーヴァナ)夜叉王、又名羅婆邪十頭羅刹、楞伽請佛聽法【大慧海、毘盧遮那佛に歸命し、「是くのごとく、我れ、聞く、一時、婆伽婆(バガバ)、大海の畔りの摩羅耶山が頂上の楞伽城中に住す云々。城主の羅婆那(ラーヴァナ)は夜叉王にして、又、羅婆邪十頭羅刹とも名づく。楞伽、佛に請ひて、法を聽く。】と有て、明かに鬼王ラーヴァナを揚げ、印度敎の聖王ラーマを貶すの意を露はせり。吾邦俗間に大に行はれし三世相大雜書、又、東海道名所記四に載せたる、牛頭天王、頗利采女を娶りて、南天竺夜叉國の巨旦王を伐つ譚、又、御伽草子梵天國の、中納言、梵天王の娘を娶りしを、羅刹國の「はくもん」王に奪はれたる後、取復せし[やぶちゃん注:「とりもどせし」。]話等、多少、ラーマ物語に似たり。

[やぶちゃん注:「ホヰーラー」不詳。綴りは「Wheeler」か。

「錫蘭」既注。「セイロン」。

「動や」「やや」

「責る」「せむる」。

「印度敎」既注。ヒンズー教。

「大慧海」不詳。

「婆伽婆(バガバ)」梵語「バガヴァット」の漢音写。「世尊」と漢訳する。阿弥陀仏の徳号。

「三世相大雜書」(さんぜさうおほざつしよ)は「雑書」の一つ。雑書とは、各種の暦占に関する書物の総称で、暦注などに記載された八卦・方位・干支・星宿・七曜などに記載された吉凶や様々な禁忌を始めとした、各種暦占について庶民に判り易く解説したもの。陰陽道の書物の影響を強く受けて発達したと考えられている(ウィキの「雑書」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、ズバり、「三世相大雜書」が見られる。明二三(一八九〇)年薫志堂刊の活字本である。

「東海道名所記四に載せたる、牛頭天王、頗利采女を娶りて、南天竺夜叉國の巨旦王を伐つ譚」私の好きな浅井了意の著になる仮名草子。六巻六冊。万治二(一六五九)年の成立。諸国を遍歴してきた青道心楽阿弥(らくあみ)が、まずは江戸の名所を見物し、その後、連れの男とともに東海道の名所を見物、気楽な旅を続けながら、京に上るという構成で、名所名物の紹介・道中案内・楽阿弥らの狂歌や発句・滑稽談などを交えて、東海道の旅の実情を紹介したムック本のはしり。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(四巻目一括PDF版)の板本の「18」コマ目以降に書かれてある。

「御伽草子梵天國」(ぼんてんごく)「の中納言、梵天王の娘を娶りしを、羅刹國の「はくもん」王に奪はれたる後、取復せし話」「梵天國」は室町時代の作かとされる本地物の貴種遍歴談。梵天王の娘と、それを娶った中納言の物語。後に浄瑠璃として語られた。国立国会図書館デジタルコレクションのここから、今泉定介:畠山健校訂になる明治二四(一八九一)年刊の活字本で読める。読むのがかったるい方向けには、子供向けにカラー版の非常に素敵な絵本「梵天国物語」(武田雪夫・文/羽石光志・絵)が、本文はすべてひらがなで、兎も角、絵がとても美しい。超お薦め!

 序でに言ふ、二十年斗り前、予が大略上の如く筆記せし時、梵敎の三大尊中、ブラーマは梵天、シヴァは大自在天、此二つは、しばしば、佛典に見ゆるも、ヴシュヌ(ラーマ王の本體)は一向見えず、と說く人、多く、故サー・モニエル・ウヰリアムスも、此事を釋かん[やぶちゃん注:「とかん」。]とて、釋伽佛、原來、ヴシュヌの化身なれば、佛徒、已に釋尊を奉ずる上、更に、ヴシュヌ神を祀るに及ばざるなり、と述べられしと記憶す。爾後、予、久しく宗敎の學に係ざれば、是亦頗る遼東の豕と察すれど、今ヴシュヌ神の事、亦、實は佛經に多く散見する一斑を示さんに、大智度論に云ふ、韋紐天秦言遍聞言、四臂捉貝、持輪騎金翅鳥、【韋紐天(ゐぢ(ゐち)うてん)[やぶちゃん注:ヴィシュヌの漢音写の一つ。]〔秦にては「遍聞」と言ふ。〕、四臂は貝を捉(と)り、輪を持ちて、金翅鳥に騎(の)れり。[やぶちゃん注:〔 〕は原典では割注である。「大蔵経データベース」に拠ってかく処理した。]】是れ、ヴシュヌの相なり。此他、毗搜紐(婆藪盤頭傳)、毘瑟笯天(瑜珈師地論)、毘紐、又、毗瘦紐天子(雜阿含經)、毗沙紐(無明羅刹經)、遍淨天(經律異相十二)、吠率怒天(飜譯名義集)等、譯名多般にて一定せず。眞言の胎藏界曼陀羅、外金剛部院南方六十五尊中に毘紐女あり。ヴシュヌの音譯かと思へど、その棒組に夜摩女、自在女もあれば、ヴシュヌの女身若くは娘てふ意なるべし(曼荼羅私鈔下)。又、唐の湛然述、止觀輔行傳弘決卷十に、一切外人所計不過二天三仙。言二天者、謂摩醯首羅(マヘースヴアラ)天(大自在天、乃ち、シヴア神)毘紐天、亦云韋紐天、亦韋糅天、此翻遍勝、亦遍悶亦遍淨。阿含云、是色天。倶舍云、第三禪頂天。淨影云、處住欲界之極云々、大論云、有大神力而多恚害、時人畏威遂加尊事、劫初一人手波海水、千頭二千手、委在法華疏中、疏云、二十四手、千頭少一、化生水上、齊中有千葉蓮華、華中有光、如萬日倶照、梵王因此華下生、生已作是念言、何故空無衆生、作是念時、他方世界衆生應生此者、有八天子忽然化生、八天子是衆生之父母(吾邦の兩部神道にも八王子有り)、梵王是八天子之父母、韋紐是梵王之父母、遠推根本、世所尊敬、故云世尊。胎藏界、外金剛院西方四十八尊中に毘紐天を列せり。

[やぶちゃん注:「止觀輔行傳弘決卷十」の引用は「大蔵経データベース」で校合した。誤字・異体字がかなりあり、「云々」で判る通り、カット部分がある(そこは私は復元していない)。以下に訓読を独立させる。

   *

一切外人の計る所は、二天三仙に過ぎず。二天と言ふは、「摩醯首羅天」(マヘースヴアラ)(大自在天、乃(すなは)ち、シヴア神)・「毘紐天」を謂ふ。亦、「韋紐天」、亦、「韋糅天」とも言ふ。此(ここ)にては「遍勝」、亦、「遍聞」、亦、「遍淨」とも翔(うつ)す。「阿含」に云はく、是れ、「色天」たり。「倶舍」に云はく、「第三禪頂天」たり。淨影(じやうやう)言はく、『處(お)つて欲界の極みに住めり』云々、『大神力(だいしんりき)有りて、恚(いか)り害(そこな)ふこと、多し。時の人、威を畏れ、遂に尊(たつと)び事(つか)ふることを加へたり。劫初(かふしよ)に、一人の手にて、海水を波(なみだ)たすに、千頭・二千手なり。』と。委しくは「法華疏」の中に在り。「疏」に言はく、『二十四手にして、千頭、一(いつ)を少(か)き、水上(すいじやう)に化生(けしやう)す。齊(もすそ)の中に千葉(えんえふ)の蓮華あり、花の中に光りあり、萬日(ばんじつ)俱(とも)に照らすがごとし。梵王、この華によって下生(げしやう)し、生じ已(をは)りて、是の念(おも)ひを作(な)して言はく、「何の故に空しくして衆生無きや。」と。是の念を作す時、他方世界の衆生、應(まさ)に此(ここ)に生まるべき者たり。八天子、有り、忽然として化生(けしやう)す。八天子は、是れ、衆生の父母(ぶも)(吾邦の兩部神道にも八王子有り)、梵天は、是れ、八天子の父母、韋紐は是れ、梵王の父母なり。遠く根本を推(お)すに、世の尊敬する所を世尊と云へり。』。

   *

「淨影」不詳。或いは、北周から隋にかけての地論宗の僧の慧遠(えおん 五二三年~五九二年)のことか? 彼は東晋の僧で廬山の慧遠がいるため、それと区別して「浄影寺の慧遠」と呼ばれるからである。

「齊」は「大蔵経データベース」のものを採った。底本も「選集」もここは「臍」となっており、「選集」では『ほぞ』とルビする。これも確かに意味として通じるが、「齊」には「臍」の意はない。茎を蓮花の裳裙(もすそ)と喩えるのは自然であると私は判断したからである。或いは、「止觀輔行傳弘決」には、「臍」とするものがあるのかも知れぬが、「大蔵経」の校異には挙がっていない。

 以上、経典に校合と訓読をメインとして、延べ五日もかけている。まだ注し足りない不服な箇所があるが、ちょっと疲れた。これで終わりにする。但し、私個人としては、以上で全体の九割以上は南方熊楠の言わんとしていることを捉え得たと感じている。

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