曲亭馬琴「兎園小説余禄」 筑後稻荷(とうか)山の石炭
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]
○筑後稻荷(とうか)山の石炭
西原老人與二關生一書中云《にしはららうじん、せきせいにあたふるしよちゆうに、いはく》、『黑崎よりの道は、深浦・深谷・手鎌・橫洲・大ぬた・すは・かなう・早米、磯にて御座候。此出先は「四ツ山」に御座候。是より、大ぬた迄、歸り、三池に入《いり》、「とうか(稻荷)山」と申《まをす》所より、石炭を出し申候。燒かへ申[やぶちゃん注:底本にはママ注記がある。]燒たて候間、近きつもりにて、登りかゝり候處、甚《はなはだ》遠く御座候。行なやみ候へ共、馬の足跡をしるべに登り申候處、石炭をほり候穴を「まぶ」と申候。今日は朔日故、休みにて、穴の内、暗く、入《いり》がたく候よしに付、番人をたのみ、松明《たいまつ》にて二十間ほど入り申候。去《さる》冬も、三人、石にうたれ死候由、危き事に御座候。穴の内は、外と、ちがひ、甚、冷氣にて、汗を入申候。其石を掘り候もの、每日百人餘づゝ穴に入申候。二、三間に燈火をてらし申候。鍬と鶴の觜《はし》にて、外《ほか》におもしろき道具は無ㇾ之。燈火も、かわらけにて御座候。山間に、二、三間四方程に、かりに屋根を拵へ、一尺ほど、生石《しやうせき》を敷並《しきなら》べ、火を入候て、其《それ》、宜《よく》燒《やき》候時、灰をかけ候へば、かたまり候よし、勘解由《かげゆ》の領分、草野と中山よりも出候』云々【解、云、「石炭は余るも、二、三種、藏弃《ざうきよ》す。その圖、「耽奇漫錄」にあり。合せ見るべし。】
[やぶちゃん注:「西原老人」「關生」柳河藩藩士西原好和と書家関其寧(きねい)。先のこちらの注を参照。
「黑崎」現在の福岡県北九州市八幡西区黒崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。北九州市の副都心に位置付けられており、江戸時代は長崎街道の宿場町として栄えた。
「深浦」「深谷」孰れも不詳。「今昔マップ」で戦前の地図を見ると、福岡県北九州市八幡西区野面附近に「深田」「山浦」の地名が見出せる。
「手鎌」福岡県大牟田市手鎌。
「橫洲」不詳。
「大ぬた」福岡県大牟田市があるが、ここでは柳川を通り越してしまう。
「すは」福岡県久留米市諏訪野町(すわのまち)なら、ある。
「かなう」福岡県福岡市西区今宿上ノ原に叶嶽(かのうだけ)がある。
「早米」福岡県大牟田市早米来町(ぞうめきまち)なら、あるが、ここも柳川の先である。但し、古くはここは「磯」であったと推定される。一言言っておくと、西原はずっと江戸住まいで、実際には九州の地名には弱いのではないかと思われ、或いは、以上の幾つかの表記も怪しい気がしている。
「四ツ山」熊本県荒尾市四ツ山町(よつやままち)は前の早米来町の直近であり、ここは東北直近に「三池炭鉱宮原坑」の跡があるから、どうも、西原は素直に蟄居を受け入れて、おとなしく帰藩していないのではないかと思われ始めた。蟄居する前に存分に周辺を遊山したくなる気持ちは判る。しかし、藩では、相当、ヤキモキしていただろうな。
「とうか(稻荷)山」サイト「大牟田・荒尾の歴史遺産」の「江戸時代の三池炭鉱 1.三池炭山の発見」に、『三池で初めて石炭が発見されたのは、文明元』(一四六九)年一月十五日の『こととされている。伝承によると、三池郡稲荷村(とうかむら)の農夫である伝治左衛門』『夫婦が、薪を拾いに出かけた稲荷山(とうかやま)において、焚き火をしている折に石炭を発見したという。この伝承が正しければ、国内で最も早く石炭が発見されたのは三池の地ということになる』。但し、『この話が採録された最も古い文献でも安政』六(一八五九)『年のものにすぎ』ず、『そのため』、『この伝治左衛門による石炭発見の伝承がどの程度』、『事実を伝えているものなのか分からない』とあった。以下、この「稲荷山(とうかやま)」の考証が行われているが、一筋縄ではいかない問題のようである。ともかくも、その最終的な推定では、大牟田市のこの辺りの広域が旧稲荷山(グーグル・マップ・データ航空写真)であったらしい。
『石炭をほり候穴を「まぶ」と申候』小学館「大辞泉」に出、漢字表記は「間府・間分・間歩」とし、『鉱山で、鉱石を取るために掘った穴。坑道』とあった。石炭に限らず、金属の鉱山の坑を言うようである。因みに、今に「マブダチ」(本当の親友)の意の語があるが、これは実は、この坑道の意から出たものだ、という説がサイト「雑学ネタ帳」の『「マブダチ」の語源・由来』に載っていた。それによれば、『「間歩」というのは「鉱山の坑道」(トンネル)を表す言葉だった。なぜ「トンネル」が「本物」という意味に変わったのか』というと、『盗賊たちの間では「金脈に通じる」ことから、「本物である」「良いものである」という意味に変化していった。江戸時代の盗賊にとって鉱山のトンネルは本物の金や銀が』ウマウマと『盗める場所だった』。そこから、『「本物」という意味だけが残り、現在の「マブ」になったと考えられている』『そして「マブ」に「友達」を意味する「ダチ」が付けられ、「マブダチ」という言葉が生まれた』とある一方、『一説によると「マブ」は、祭りや縁日などに露店を営む的屋が使っていた隠語だったという情報もある』とある。私は微妙に留保したい気がしている。
「今日は朔日故、休みにて」流石に重労働で過酷にして危険であったから、月の一日には全休となっていたらしい。
「二十間」三十六・三六メートル。
「汗を入」「汗がひく」の謂いであろう。
「二、三間」三・七~五・四五メートル。
「鶴の觜」鶴嘴(つるはし)。
「生石」掘り出した原石の石炭。
「勘解由」江戸幕府の勘定方の異称。
「草野」旧常磐炭田の福島県いわき市内の草野地区か。
「中山」山形県新庄市鳥越にあった中山炭鉱。
「藏弃」整理しないで、所蔵していること。
『「耽奇漫錄」にあり。合せ見るべし』国立国会図書館デジタルコレクションのこの「花炭」か。『豊後國臼杵の産』とある。]
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