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2022/08/26

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 熱田宮裁讃橋(「裁讃橋」は「裁斷橋」の誤り)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 標題中の「裁讃橋」は吉川弘文館随筆大成版でも同じであるが、これは「裁斷橋」の誤りである。但し、この橋は現存しない。ここにあった(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「裁断橋」によれば、この『橋は宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られていた』。永正六(一五〇九)年の「熱田講式」には『既にその名が見られるという』とあり、『擬宝珠の銘文には、天正』一八(一五九〇)年の『小田原征伐で死去した堀尾金助という』十八『歳の男性の菩提を弔うべく、その母親が』三十三『回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行ない、その供養としたことが記されている』。『伝承によっては、母親は橋を』二度、『かけ直しているとするものもある。息子の』三十三『回忌の橋の架け替えは』二『度目のことであったが、それを見ること無く亡くなったため、その養子堀尾類右衛門』が元和八(一六二二)年に『架け替えたとされ、この際に「息子(金助)の供養のためにこの書き付けを見る人は念仏を唱えてほしい」との母の願いが擬宝珠に刻まれたとされる』。『しかし、擬宝珠以外にこれらの伝承を裏付ける同時代史料が存在しないことから、擬宝珠に刻まれている内容以上のことは後世の創作とする見方もある』。ともかくも、『この銘文は日本女性三名文』(後の二つは「成尋阿闍梨母(じょうじんあじゃりのはは)の集」(成尋阿闍梨母(永延二(九八八)年?~?)は平安中期の女流歌人。陸奥守藤原実方の子貞叙に嫁し、僧成尋・成尊(せいそん)の二子を生んだ。夫とは早くして死別した。家集「成尋阿闍梨母集」は宋へ渡る子の成尋を思う母親の心情を詠んだものとして、古来、有名。この歌集は日記的なもので、延久五(一〇七三)年五月で終わっていることから、これ以降に没した推定される)と「ジャガタラ文(ぶみ)のお春の消息」(「お春」(寛永二(一六二五)年~一六九七(元禄一〇)年)は江戸初期に長崎に在住し、後にバタヴィア(ジャカルタ)へ追放されたイタリア人男性と日本人女性の混血女性。ジャカルタから日本へと宛てたとされる手紙が「ジャガタラ文」)と注にある)『のひとつにかぞえられている』とあり、本篇に出る銘文も載っている。また、ウィキの「堀尾金助」によれば、『安土桃山時代の武士』で、天正元(一五七三)年出生で、『堀尾吉晴』(後で注する)『の子、若しくは堀尾方泰の子とされるが』、『続柄には異説がある』。天正十八年の『豊臣秀吉の小田原征伐に吉晴と共に参戦したが』、六月十二日に『陣中で死去した。享年』十八で、『死因については病死説と戦死説があり、前者が有力とされるが、信頼に足る記録はなく未詳。弟の忠氏が吉晴の継嗣となった』。『吉晴が菩提を弔うため』、『妙心寺塔頭に俊巖院を建立する。寺名は金助の戒名「逸岩世俊禅定門」による』。『金助については、熱田の裁断橋を架け替えた際に付けられた金助実母の文である擬宝珠銘文にその名が見える』としつつ、以下、「出自と死因」の項では、『諸書の記述によって』、『吉晴との続柄が違う。どの説も決定的なものは無く、金助母の続柄も変わる』として、五つもの説が示されてある。馬琴は結果して、堀尾吉晴の実子説を採用している。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 銘文二種は底本では、孰れも上・下段に分離してしまっているが、トリミングして合成し、補正を加えて掲げた。

 

   ○熱田宮裁讃橋

文政乙酉の首夏《しゆか》、西原梭江《ひこう》、筑後柳川へ移住の後、通家[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはここにママ注記があるが、これは「つうけ」と読み、ここは「昔から親しく交わってきた家」の意で問題ない。]關《せき》氏へ消息の文中に、熱田の宮「裁讃橋」の銘を寫しておこしたりしを、その婿《むこ》關思亮《しりやう》に借《かり》、抄す。

[やぶちゃん注:「文政乙酉」文政八(一八二五)年。

「首夏」初夏、或いは、陰暦四月の異称。

「西原梭江」「兎園会」会員の一人であった松蘿館こと柳河藩藩士西原好和、或いは、一甫(いっぽ 宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年)。幼少より、江戸で生活し、定府藩士として留守居や小姓頭格用人などを勤めたが、江戸に馴れ過ぎたせいか、幕府から「風聞宜しからず」として、国元筑紫への蟄居の譴責を受け、この文政八年四月に江戸を退去させられている。「兎園小説」冒頭の大槻氏の序の解説を参照。その「都落ち」での一コマということになるのである。恐らくは、彼の「兎園会」、引いては馴染んだ江戸への惜別の贈り物のつもりででもあったのであろうと思われる。

「關氏」書家關其寧(きねい)。

「關思亮」(しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の前の「婿」は「孫」の誤り。「兎園会」会員で海棠庵で頻出。三代に亙る書家。其寧の孫で、克明(こくめい)の子。常陸土浦藩士。父に学び、藩の右筆手伝などを務めた。書法や金石学などに通じ、父の「行書類纂」の編集を助けた。]

梭江云、『四月廿四日』云々、『宮宿《みやのしゆく》に投宿仕候。宮の宿の入口に橋御座候。この橋の擬寶珠《ぎぼし/ぎぼうしゆ》に何か銘御座候間、すり申度《まをしたく》、駕《かご》より下り申候。文字も、よくわかり申候。誰朽[やぶちゃん注:底本・吉川弘文館随筆大成版孰れもママ注記がある。「擬寳珠」の誤記か。]珠、四所に御座候。東南の柱に「裁讃橋」[やぶちゃん注:くどいが、「裁斷橋」の誤り。以下総て同じ。]とあり。その外は「裁談橋」[やぶちゃん注:これは事実。]とあり。西北の柱には六月十八日とあり。其外は六月十二日とあり。西南の柱ばかり、假名なり。銘、左の如し。

[やぶちゃん注:「宮宿」、東海道五十三次四十一番目の宿場町。東海道でも最大の宿場で、愛知県名古屋市熱田区の熱田神宮の南表の、この附近に当たる。

 以下は底本では御覧の通り、全体が罫線で囲まれてある。電子化では、本文と関好和の附記はそれぞれ繋げた。]

 

Saidanbasi1

 

熱田宮裁讃橋

右檀那意趣者、堀尾金助公、去天正十八年六月十二日、於相州小田原陣中逝去。其法號「逸岩世俊禪定門」也。慈母哀憐餘修造也。此橋以充卅三年忌、普同供養之儀矣。

 好和、按《あんずる》に、天正十八年より三十三年は、元和八戌年に當るか。

[やぶちゃん注:訓読する。

   *

右(みぎ)檀那の意趣は、堀尾金助《ほりをきんすけ》公、去《いんぬ》る天正十八年六月十二日、相州小田原陣中に於て逝去す。其の法號は「逸岩世俊禪定門(いつぐわんせいしゆんぜんぢやうもん)」なり。慈母、哀憐の餘り、修造せり。此の橋、以つて、三十三年忌に充てて、普(あまね)く供養の儀を同じうせり。

   *]

 

Saidanbasi1_20220826142701

 

てんしやう十八ねん二月、十八日に、をだはらの御ぢん、「ほりをきん助」と申《まをす》十八になりたる子を、たゝせてより、又、ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま、このはしをかける事、はゝの身には、ゑんるいともなり、そくしんじやうぶつ、し給へ。いつがんせいしゆんと、後のよの、又、のちまで、此かきつけを見る人は、念佛申《まをし》給へや。卅三のくやう也。

[やぶちゃん注:「ゑんるい」「緣類」(仏縁の類(たぐ)い)か。それだと、歴史的仮名遣は「えんるゐ」である。或いは「緣累」(仏縁を累(かさね)ること)ならば、「えんるい」でよい。

「いつがんせいしゆん」意味不明。或いは「一願成就」の読みの誤りか?

「くやう」「供養」。]

 

解《とく》、按《あんずる》に、堀尾帶刀《たてはき》先生吉晴、天正十八年の秋、遠江州濱松の城を賜ふて居ㇾ之《これにをり》。かくて、慶長五年の春二月、豐臣家の仰《おほせ》として、越前の府の城に移り、關ケ原の役《えき》、果て、出雲・隱岐二州を下されて、廿三萬五千石餘を領したりしに、吉晴の孫山城守忠晴、寬永十九年九月廿日、三十五歲にて卒《そつ》しぬ。子なければ、家、絕《たえ》たり。吉晴の内室、領分にもあらぬ尾州宮驛《みやのえき》の橋をかけ給ひしは、故《ゆゑ》あらん。なほ、考ふべし。

解、云《いはく》、この「裁讃橋の銘」は、「東海道名所記」をはじめとして、近ごろの印本「東海道名所圖繪」にも漏《もら》したれば、人の知ること、稀なりしを、抑りべ人、とー來、好事《かうず》の甲斐ありて、よくも見いだしぬるものかな。錄しもて、好古の人に示すのみ。

[やぶちゃん注:「堀尾帶刀先生吉晴」(天文一二(一五四三)年~慶長一六(一六一一)年)は安土桃山・江戸前期の武将。尾張丹羽郡の土豪堀尾泰晴(吉久)の長男。初め、織田信長に仕えたが、早くに主を豊臣秀吉に変え、天正元(一五七三)年、近江長浜の内に百万石を与えられ、同十三年には近江佐和山城主四万石となった。同十五年の「九州攻め」の後、従五位下・帯刀先生に任ぜられ、同十八年の「小田原攻め」の後、遠江浜松城(十二万石)に移った。秀吉の信任厚く、所謂、「三中老」の一人に任ぜられたが、秀吉死後の慶長四(一五九九)年、越前府中で五万石を与えられた際に、家督を子忠氏に譲り、越前府中に隠居することになった。翌五年七月に新領地へ赴く途中、三河の池鯉鮒(ちりふ:現在の知立市)で、同じ秀吉の家臣加賀井重望(しげもち:「秀望」とも称した)に切られて傷つき、九月の「関ケ原の戦い」には参戦できなかった。戦後、子の忠氏が出雲に転封されたのに従った。忠氏の早世後は孫忠晴(慶長四(一五九九)年~寛永一〇(一六三三)年:享年三十五。彼は亡くなる直前に末期養子を幕府に申し立てたが、その嘆願は認められず、無嗣・断絶、改易となり、大名家としての堀尾家は消滅してしまう)を補佐し、松江城を築いている(主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「東海道名所記」私の好きな浅井了意の著になる仮名草子。六巻六冊。万治二(一六五九)年の成立。諸国を遍歴してきた青道心楽阿弥(らくあみ)が、まずは江戸の名所を見物し、その後、連れの男とともに東海道の名所を見物、気楽な旅を続けながら、京に上るという構成で、名所名物の紹介・道中案内・楽阿弥らの狂歌や発句・滑稽談などを交えて、東海道の旅の実情を紹介したムック本のはしり。

「東海道名所圖繪」は六巻六冊。寛政九(一七九七)年刊行。京都三条大橋から江戸日本橋までの東海道沿いの名所旧跡・宿場記事・特産物などに加え、歴史や伝説などを描いたもので、一部には東海道を離れて、三河国の鳳来寺や遠江国の秋葉権現社なども含まれている。著者は京の俳人秋里籬島(あきさとりとう 生没年未詳)。絵師は円山応挙・土佐光貞・竹原春泉斎・北尾政美・栗杖亭鬼卵など錚々たる絵師約三十名が二百点を越える挿絵を担当している(当該ウィキ他に拠った)。]

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