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2022/08/30

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その3)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ最終行)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

 同號八八九頁に長井君、「日本に稻荷の崇拜の起たのは何時からかは私は測定することは出來ぬが云々」と前置して、弘法大師、南支部の五羊の傳說を齎らしたる、其羊何時しか狐に換り、又何時よりか稻荷を荼吉尼天と混同せるが、荼吉尼は毫も狐に關係無し、と言れたり。フレザーの大著ゴルズン・バウに、羊、狐、兎、狼等を諸方の民が穀精(コーン・スピリツト)と見做す例を夥しく擧げ、論說せり。吾邦に穀精の信有りしや否は、予、これを斷ずる能はざれど、印度人が田作に有害なる獸類を除くを以て虎を有難がり、古支那で十二月蜡の祭りに、平日、田鼠、田豕を食う功に報ひんとて猫と虎を饗し、吾邦にも玉置山抔、狼を神使とし、祀り迎へて、兎、鹿を誅鋤するを求むる諸例より推して、白井光太郞博士(四年前十一月一日「日本及日本人」神社合祀は國家の深憂)が、「狐を神獸とし蛇を神蟲として殺さざるは、古人が有益動物を保護して田圃の有害動物を驅除する自然の妙用を知り、之を世人に勵行せしむる手段とせし者」なりと說かれたるを、正しと思ふ。乃ち、耕作の業、起つてより、吾邦には古く、狐、狼、蛇等を神物とする風ありしなり。

[やぶちゃん注:「長井君」「選集」割注によれば、東洋史学者長井金風(きんぷう 慶応四(一八六八)年~大正一五(一九二六)年)。秋田県大館生まれ。本名長井行(あきら)。金風は号。法制史から経学に進み、比較言語の学を修め、考証学によって支那学を専攻した。『秋田魁(さきがけ)新報』主筆発行人、『二六新』報主筆、秋田県史編纂主任などを務めた。東洋各地を歴遊し、教育者で評論家の巌本善治や、佐々木信綱・森鷗外らと交遊があった。著書に「江氏四種」「周易物語」、歌書「万葉評釈」、私家版歌集「枯葉集」「拓葉和歌集」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「南支部」(華南のこと)「の五羊の傳說」五羊(ウーヤン)伝説。当該ウィキによれば、『古代中国の広州市を発祥とする』、五『頭のヤギが稲作を伝えたとする伝説』。『「五羊」という表記は最古のものだと唐代の詩で確認されており、関連する伝説は晋にまで遡る。同伝説には幾つかの異聞があったが、明代以降に統一された。一般的なウーヤン伝説は、中原の祖先達によって開拓された嶺南の歴史を反映したものである』とし、『言い伝えでは、古代の広州に旱魃が長年続いた時期があった。食物が極度に不足し、人々は飢えをしのぐことにも窮していた。ある日』、『突然、空で聖なる音楽が奏でられ』、五『色の雲が南シナ海の空から漂ってきた。続いて異なる』五『色の服を着た』五『人の仙人が、異なる』五『色のヤギに乗って』、『その雲と一緒に現れ、それぞれが稲穂』六『本の束を持っていた。仙人達は稲穂を民衆に与え』、『頭のヤギを残して雲で飛び去っ』『ていった。人々がその稲を地面に撒くと、それ以降は広州に風と雨が定期的にやってきて豊作をもたらしてくれた。すると仙人の残したヤギ』五『頭は、丘の上に登るや』、『石になってしまった。これが広州市の愛称の由来となった話である』。『この伝説の叙述記録は晋王朝まで遡ることができ、裴淵』(はいえん)『の随筆』「広州記」に『見られる。北宋の太平興国』八(九八三)年の「太平御覧」もまた、「広州記」の『引用から「広州庁舎にはヤギ」五『頭の絵がある。これは高固』(後の威王(在位:紀元前三三九年~紀元前三二九年)『が楚の大臣だった頃に』五『頭のヤギが穀物を携えてやって来たことから、広大な平野を持つ広州にとっての縁起物として、人々がそのヤギを描いたものだ」と言及している。また唐代の』「郡国志」にも『「三国時代後期の広州に仙人』五『人が』五『色のヤギに乗ってやって来たので、幸運を呼ぶとして今では人々がその絵を描いている」との言及がある』北宋の九八四『年に書かれた』「太平寰宇記」(たいへいかんうき)は、唐代の「続南越志」記述に続いて』、「仙人五人が五色のヤギと稲六粒を』『携えてやって来たとの古い言い伝えがある」と言及している』。『着目すべきは、最も古い晋代の話では仙人たちが出てこない点である。彼らが後世の話で登場して』五『頭のヤギに代わって(民衆に稲を渡す)英雄になった理由は、南北朝時代に道教が盛んになったためだと考えられている』。『唐代以降に「五羊」「羊城」が徐々に古代広州市の愛称となったことからも、同伝説が現地の人々に与えた影響の大きさが見て取れる。唐代の奇譚じみた伝説によると、その当時人々は広州にあった城隍廟でヤギ』五『頭を生贄に捧げていた』というが、『最も古い同様の慣習が南漢にあり、当時の人々が仙人達を祀るために「五仙観」という施設(道観)を建てた。北宋の経略使の張励は』「広州重修五仙祠記」に『ウーヤン伝説をくまなく記録し、五仙観建造の目的が仙人』五『人が到着した場所を記憶に残すためだと説明した。この記録書で、張励は』「南越嶺表遊記」や「図経」を『引用しつつ、以下のように物語を詳細に創作した。「初めから仙人は』五『人おり、それぞれが茎』六『本の稲穂を持ち』、五『頭のヤギに乗って到着した。彼らの服とヤギはどれも違う色で、全部合わせて』五『色だった。人々に稲穂を渡した後、仙人達は飛び去り、ヤギは石像になった。そこで、広州の人達は仙人達が到着した場所に寺院を建てたのである」』と。『伝説の具体的年代に関しては、書物によって様々で』、「太平御覧」では二つの『説を挙げており、楚の時代および三国時代に呉の滕脩が広州の役人に就いた時とされる』。「重修五仙祀記」では三つの』説があり、漢代の趙佗』(在位:紀元前二〇三年~紀元前一三七年)時代と、三国時代の呉の滕脩』(とうしゅう ?~二八八年)の『時代』と、『晋代の郭璞』(二七六年~三二四年:西晋・東晋の文学者・博物学者にして卜占者)『が城を移した時代』が挙げられている。『ところが』、明末清初に『屈大均が著した』「広東新語」は、この物語が周の夷王』(在位:紀元前八八五年~紀元前八七八年)『の時代に起きたと語っている。同書籍にある「五羊石」という話では「周の夷王の時代、南方の海に』五『人の仙人がおり、それぞれが色の異なる服を着て、彼らのヤギもまた服に応じた色である。それぞれ彼らは』六『本の茎を束ねた稲穂を持って現れ、人々にそれを預けて「この地に二度と飢餓が起こらないように」と祈願した。これを言い終えると』、『彼らは飛び去り、ヤギは石へと変わった」と書かれている』。『この話は現代のものと非常に似ており、伝説の重要な要素が全て含まれている』。二十『世紀以降に、「ウーヤン伝説」の神話学研究が行われるようになった。歴史家の岑仲勉は』、一九四八『年、関連する伝説上の話が先史の植民神話にあるという説を提示した。なぜなら、当時のヤギは中原の北西部にいる家畜で、広州がそこの北部だからである。また、仙人達が持っている稲穂は中原でのコメの収穫を表』わ『すものだった。そのため、ウーヤン伝説の歴史的起源は歴史的な出来事が由来とされている。西周の末期、姫姓の一族は楚の人々の抑圧に耐えきれず、彼らは家畜(ヤギ)と穀物(稲穂)を携えて、湘江沿いに嶺南まで南に移動し、その翌年に中国南部でこの』二『つを普及させた。つまりこれは、粤』(えつ:「越」とも書く。中国南部、現在の浙江省以南からベトナム北部にかけて居住しいた南方系民族及びその国を指す)『の人々が中原の先進文化を受け入れて文明の第一歩を踏み出した話の抜粋および改作だという』。『現代研究では、ウーヤン伝説には一般的に多くの史実が含まれていると考えられている。その一つが、楚の人々が生産していた米を嶺南に持ち込んだ点である。楚王朝の祖先一族の姓である「羋(Mi)」には、ヤギの鳴き声を表す擬声語「咩(Mie)」と同じ意味あいがある。二つ目は、西周の末期に楚の抑圧が原因で、姫姓一族がヤギと穀物を携えて』、『広州や珠江デルタに移住した点である。三つ目は』「広州記」の『一節「高固が威王だった頃」に由来するもので、戦国時代には高固とその一族が米と穀物を広州や珠江デルタに持ち込んだと人々は考えていた。高固の子孫の姓は「姜(Jiang)」で、これは漢字の「羊(中国語でヤギ)」と「女」で成り立っていたため、人々は高固一族の事を表すのに「羊」の文字を使っていた』ことなどが、『これらの歴史背景があるという』。但し、『楚の方言だと』、『「羊(Yang)」は実際には「犬(Quan)」を意味するため、ウーヤン伝説は実際のところ』、『チワン族やトン族ならびに南越国の少数民族で共有されていた「犬取稲種」という農耕神話の故事が由来だと考える学者もいる。この嶺南地方の故事が楚に持ち込まれた後、それが中原の知識人によって収集および改訂され、再び嶺南に持ち込まれた。だから「五色羊」というヤギは、実際には』、『色の毛を持つ伝説の犬「槃瓠」の事だとする説がある』とある。以下「関連した事物」の項があるが、省略する。

「フレザーの大著ゴルズン・バウ」ギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一八九〇年から一九三六年の四十年以上、まさに半生を費やした全十三巻から成る大著で、原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した「金枝篇」( The Golden Bough )。私の愛読書の一つである。当該部は「第四十八章 動物としての穀物霊」の「一 穀物の動物化身」以下(一九六七年改版岩波文庫刊「金枝篇」(三)永橋卓介訳の二四〇ページ以下に拠った)。

「十二月蜡の祭り」「蜡」は「蠟」の異体字で、旧暦十二月は「蠟月」と呼ぶが、調べてみると、「蜡」とは、中国古代にあっては、「求め集めること」を意味し、ここでは、毎年十二月に万物の霊を呼び集めて饗応する祭儀を指すようである。

「田鼠」モグラ。

「田豕」ここでは猪(イノシシ)の意。

「玉置山」(たまきさん)現在の奈良県吉野郡十津川村にある、大峰山系の霊山の一つである玉置山の山頂直下の九合目にある玉置神社(グーグル・マップ・データ)、或いは、習合していた修験道の進行対象としての玉置山そのもの。この周辺には狼信仰があったことが、oinuwolf氏のブログ「狼や犬の、お姿を見たり聞いたり探したりの訪問記―主においぬ様信仰―」で判る。

「誅鋤」(ちゆうじよ)は「有害対象物や悪人などを殺して絶滅すること」の意。

「白井光太郞」(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)は植物学者・菌類学者。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。熊楠は神社合祀の反対運動のために彼に協力を求め、白井はそれに応じていた。]

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