曲亭馬琴「兎園小説余禄」 深川八幡宮祭禮の日、永代橋を踏落して人多く死せし事
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。祭り番付など、一部を読み易くするために改行を施した。続く馬琴の解説は五段落となっているが、それでも読み難いので、適宜、段落を成形し、頭を一字下げにした。
なお、大惨事となった永代橋崩落は、既に、
『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木』の「永代橋を踏落(ふみおと)し」の注
で、かなり詳しく注を附してある。ここではそれに屋上屋を掛けるつもりはないので、そちらをまず読まれたい。また、
でも詳細注を附してあるから、合わせて先に読まれたい。なお、冒頭の祭り番付などの町名や、判り切った人物その他は労多くして益少なしなれば、注さない。地図もキリがなくなるので、特異的にやらない。悪しからず。その代わり、《 》で読みを推定で歴史的仮名遣で施し、読解の便に供した。]
○深川八幡宮祭禮の日、永代橋を踏落《ふみおと》して人多く死せし事
文化四丁卯年秋八月、深川富ケ岡八幡宮祭禮あり【三十年餘、中絕せしを、今茲《こんじ》、興行すと云。】。十五日に渡るべかりしを、雨天にて延引《えんいん》、八月十九日に渡りし也。番附、左の如し。
△初番【れいがん寺門前。】「龍宮」のだし、一本。
△一番【海邊、大工町《だいくちやう》。】「神功皇后」のだし【引物、二つあり。】。
△二番【蛤町《はまぐりちやう》[やぶちゃん注:深川にあった。]。】「波の龍」のだし【引物、あり。】。
△三番【さが町。】「佐々木四郞」のだし。
△三番の内、附祭【おどりやたい・はやし方、大ぜい。引物、いろいろ。】。
△四番【相川町。】「戶がくし」のだし、一本。
△五番【熊井町。】「えびすに鯛」のだし【「大たこ」の引もの。】
△六番【富吉町《とみよしちやう》。】「ほうらい」のだし。
△七番【もろ町。】「いちむさし野」のだし。
△八番【大島町。】「御所車にさくら」のだし。
△九番【中島町。】「辨慶」人形のだし。
△十番【北川町《きたがはちやう》。奧川町《おくかはちやう》[やぶちゃん注:孰れも深川の内。]。】「和藤内《わとうない》」人形のだし。
△十一番【黑井町。】「武内《たけのうちの》すくね」のだし。
△十二番【元木場町。】「やぶさめ」のだし。
△十三番【木場町。】「はりぬき材木」のだし。
△十四番【木場町。】附祭。大神樂。
△橋前一番【箱崎町一丁目。二丁目。】「武内宿禰」のだし。外に、引物、三本。
△二番【大川端町。】「神功皇后」のだし。「大岩龍神《おほいわりゆうじん》」の引物。
△三番【靈岸じま白かね町一丁目。二丁目。】「白鷄」作り物のだし【「松竹梅」、引物。】。
△四番【靈岸島四日市町。】「源より朝」のだし、引物あり。
△五番【れいがん島しほ町。】「仁田四郞」のだし【大なる「ゐのしゝ」、引物。】。
△六番【靈岸島はま町。】「かぢ原」人形のだし【「梅」に「かぶと」の引物。】。
△七番【南新堀一丁目。二丁目。】「天の岩戶」のだし、一本。
△八番【長崎町一丁目。二丁目。】「よりよし」のだし、外に、引物、三つ。
△九番【川口町。東湊町一丁目。二丁目。】「熊坂」人形のだし、「月にうさぎ」の引物、「くじらぶね」・「牛若」の引物、「金賣吉次」・「吉内《きちない》」・「吉六《きちろく》」。
組合【「紅葉がり」のをどり、やたい・はやし方、大ぜい。】神輿、三社。
番附板元 本屋しげ藏
京屋宗兵衞
[やぶちゃん注:以上の二名の名は底本では「番附板元」の下に割注式で二行ポイント落ちで入るが、吉川弘文館随筆大成版で並置した。
「文化四丁卯年秋八月」八月一日はグレゴリオ暦一八〇七年九月二日。
「佐々木四郞」源頼朝直参の御家人で、山木兼隆追討から「石橋山の戦い」で奮戦した、「平家物語」の「富士川の先陣争い」でも知られる佐々木四郎高綱(永暦元(一一六〇)年~建保二(一二一四)年)。
「いちむさし野」不詳。武蔵野を代表する風景を合わせてモデリングした山車(だし)か。
「はりぬき材木」リアルに作った紙製の張りぼての材木。
「大岩龍神」京都市伏見区深草にある大岩神社の龍神か。
「白鷄」「はくけい」(はっけい)。白鶏は神慮に叶ったものとされ、祭祀用として神社で飼養され、また、一般でも珍重した。
「仁田四郞」佐々木と並ぶ直参の御家人で、第二代将軍源頼家に命ぜられて富士山麓の「人穴」を探索したことで知られる仁田忠常(仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年)。北条の命で比企能員を謀殺するも、直後に北条から謀反の疑いをかけられ、殺害された。引き物の『大なる「ゐのしゝ」』は、「曾我兄弟の仇討ち」で知られる源頼朝の「富士の巻狩り」に於いて、手負いの暴れる大猪を仕留めたとされることに因んだものである。この話は「曽我物語」で知られる彼の豪勇談であるが、彼のウィキによれば、『その猪は実は山神であり、後の忠常の不幸は山神殺しの祟りであるとする。これは曾我祐成を討った忠常が』、『祐成の怨霊によって不慮の死を迎えたことから着想されたものだろう』とあり、また、『御伽草子「富士の人穴」は』、『忠常が富士の禁を破ったがために忠常は命を縮めたと説明する』とある。
「かぢ原」後の『「梅」に「かぶと」の引物』から、「富士川の先陣争い」で佐々木高綱と競った梶原影季(景時の嫡男)。
「よりよし」平安後期の武将で河内源氏の祖頼信の子であり、八幡太郎義家の父であった源頼義(承保二(一〇七五)年~永延二(九八八)年?)。「平忠常の乱」で父とともに奮戦し、「前九年の役」では陸奥守兼鎮守府将軍として義家とともに俘囚長安倍頼時の反乱を長年月に亙る苦戦の末、鎮定し、勇名を轟かせた。この時の精鋭は父以来の、また、自ら相模守・武蔵守などを務めた際に結びつきを深めた坂東武士たちであった。坂東武者や東国・江戸に於いて、非常な尊崇を受けた人物である。
『吉内」・「吉六」』は幸若舞の曲「烏帽子折(ゑぼしをり)」などで、義経を助けた金売り吉次の二人の弟とされる人物の名である。]
永代橋、當時、かり橋に付、靈岸島・箱崎町・兩新堀等の九番は、船にて河を渡せり。
當日【十九日。】、この祭り、三、四番、渡る折、已の中刻[やぶちゃん注:午前十時から十時半頃。]、永代橋、群集により、南の方、水際より、六、七間[やぶちゃん注:十一~十二メートル半。]の處の橋桁《はしげた》を踏落して、水沒の老若男女、數千人に及べり【翌日までに尸骸《しがい》を引あげしもの、無慮《およそ》、四百八十餘人也。この外は知れず。】。
折から、一ツ橋樣、御見物の爲にや、御下《おんしも》やかたへ入らせらるゝ。御船にて御通行ありしかば、巳の時より、人の往來を禁《とど》めて、橋を渡させず。
この故に、北の橋詰に、見物の良賤、彌《いや》が上に、聚合《あつまりあはせ》たれば、數萬人に及べり。
かくて、御通行、果てゝ、
「すは、渡れ。」
といふ程しも、あらず、數萬の群集、立騷《たちさはぎ》て、おのおの、先を爭ひしかば、眞先に渡りしものは、恙もなく、渡り果《はた》しにけり。迹《あと》より、急ぐ勢ひにて、忽《たちまち》、橋を踏落しけり。
[やぶちゃん注:以下は底本も改行。]
この立込《たちこみ》の人、一坪【六尺四方。】に五十人と推積《おしつも》りても、踏落したる十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]の内だに、四、五百なるべし。況や、跡なるものは、さりとも知らで、人を推しつ、推されて、落《おつ》るもの、いくばくなりけん、想像《おもひや》るベし。
こは、橋板をのみ、踏折りたるにあらず、橋杭《はしぐひ》の泥中へ、めりこみしにより、桁さへ、踏折られし也。前に進みしものゝ、
「橋、おちたり。」
と叫ぶをも聞かで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引拔《ひきぬ》きて、さしあげつゝ、うち振りしかば、是には、人みな、驚《おどろき》怕れて、やうやく跡へ戾りしとぞ。
【此《この》落たる邊の水底《みづぞこ》は「ドロ」なりければ、群集の人の勢にて、橋梁を泥中へ踏込みしなり。後に橋を掛更《かけかへ》らるゝ時、この事、聞えて、「なほ、三、四尺も、杭のとまらずば、永代橋は、のちのちまで、船わたしになるべかりし。」と。この事、よく知れるものゝ、いひにき。】。
通油町《とほりあぶらちやう》なる書肆鶴屋喜右衞門に、年來《としごろ》、使《つかは》れたる飯焚男某【人々、名をいはで、「おぢひ」と呼たり。】、三つになりける主《あるじ》の娘に、
「この祭を見せん。」
とて、背おひつゝ、永代橋を、なかば、渡る程に、前なる人々の、俄に叫ぶ聲せしに、五、六間、先だちて、風車《かざぐるま》をあきなふものゝ、姿は見えざれども、荷にさしたる風車の見えたるが、よろめくやうにて、見えずなりしを、
『怪し。』
と思ふ程に、
「橋の、落たり。」
と叫ぶ程しもあらず、白刄をうちふるものさへあるに、うち驚きつ。
人もろともに、北のかたへ戾りしかば、主從、恙なき事を得たり【この鶴喜《つるき》が娘は、後妻の初子《うひご》にて、兩國なる賣藥店「稀薟丸《きれつぐわん》」の息子に嫁して、いま、なほ、あり。】
[やぶちゃん注:「稀薟丸」底本も吉川弘文館随筆大成版もこの字だが、調べると、「豨薟」(きけん)でキク科の一年草のメナモミ(キク亜綱キク目キク科キク亜科メナモミ属メナモミ Sigesbeckia pubescens )を意味することが判った。あまりに似ているので、この誤りの可能性が高いように思われたので、調べると、漢方薬に「稀薟丸」が現在もあることが判った(例えば、「福岡市薬剤師会」公式サイト内のここ)。
以下は底本も改行。]
この次の年【文化五年。】、元飯田町中坂下《いひだまちなかさかした》なる湯屋《ゆうや》有馬屋與總兵衞《よそべゑ》に使れたる火たき男某と申《まをす》も、永代橋の落たるとき、衆人と共に入水《じゆすい》せしものなり。こは、越後新潟のものにて、海邊にひとゝなりしかば、游ぐわざに熟したれども、入水の女、足にすがりて、思ひのまゝに泳ぐこと得《え》ならず[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」の当て字。]。共に溺死すベかりしを、辛くして水中にて着たる單衣を脫捨、すがるものを蹴返し、拂退けなどしつゝ、やうやく、恙なきことを得たるなり。
「人に擕(すがる)るとき、足をそこねて、奉公なりがたければ、その九月、故鄕へまかりて、養生しつ。病ひ癒《いえ》たれば、この春、又、江戶へ來つ。」
と、いひけり。
この男の話に、
「はじめ、先へ落たるものは、續きて落るものに打れて、矢庭《やには》に死たるも多かるべし。又、おなじ處へいくたりも落累《おちかさな》りて、下になりたるは、泥中へ推埋《おしう》められしも、多かりけん。」
と、いひにき。
[やぶちゃん注:以下、底本も改行。]
予が妻の所緣《ゆかり》ありける山田屋といふ町人、當時、深川八幡門前にをり。このもの、かねてより、
「祭りの日には、子達を擕《つれ》て來ませ。」
などいはれしに、
『富岡の大神は、予が產沙《うぶすな》にてをはします。三十餘年前、彼《かの》祭りの渡りし折、予は尙、總角《あげまき》にて深川に在りしかば、故主《こしゆ》の供に立《たち》て觀たりき。さしも由緣あるおん神の祭なれば、子どもに觀するもよかるべし。」
と思ひしかば、その前夜、妻に誨《をし》へていふやう、
「翌《あす》、祭を觀にいなば、朝、とく、いづべし。いぬる頃、永代橋を渡りつる折《をり》、見たるに、彼橋の欄干の朽《くち》たる所、あり。安永の末[やぶちゃん注:安永は十年までだが、同年四月二日に天明に改元しており、以下から夏でないとおかしので、安永九(一七八〇)年か。]にか有けん、中洲の凉《りやう》のさかりなりし日、ある夜、『仙臺候の、花火を立らるゝ。』とて、常には、いやましの人、群集せし時に、いと多かる茶店に、人、居《をり》あまりて、大橋に聚合《あつまりあ》ふ人、いくらといふ數も知らざりければ、終《つひ》に、橋の欄干を推倒《おしたふ》して、入水せし老若、多かりき。これを思ふに、翌も亦、永代橋をわたる人多からんには、欄干を推倒すまじきものにもあらず。縱《たとひ》、彼《かの》橋に臨むとも、人、群集せば、引返して、大橋を渡りゆくべし。朝の出立《しゆつたつ》はやからば、さまで群集すべからず。この儀を、よくよく思ふべし。」
と、かねて、こゝろを得させしかば、十九日には、まだきより、支度して、この朝六ツ半時頃[やぶちゃん注:不定時法で午前六時半前後。]より、妻と子供を出《いだ》しやりけり。
かくて午の初刻の頃、出入の肴《さかな》あき人《んど》の來《きた》て、
「今かた、河岸【小田原河岸也。】にて聞候に、祭見物の群集により、永代橋、落たり。さこそ怪我も多からめ、詳なることは、いまだ、知らず。」
といひ罵《ののし》る程に、やうやう、この噂、高く聞えて、人の驚き、大かたならず、近隣のともがら、おのおの、きて、
「今朝《けさ》、おん内《うち》かたの、御子達を倶して、祭、見に、いでませし頃、見かけまゐらせたりき。さぞ、御心ぐるしくおぼすらめ。とく、人を遣して、安否を問せ給はずや。」
と、いはざるものゝなかりしに、おのれ、答へて、
「いな、かねて、思ふよしありければ、知らるゝごとく、今朝、いとはやく、出しやりたりければ、をんな・子どものあしなりとも、五時《いつつ》前後[やぶちゃん注:同前で午前七時半前後。]には、永代橋を渡りけん。件《くだん》の橋の落たるは、四時《よつ》なかば[やぶちゃん注:同前で十時半から十一時頃。]と聞ゆれば、必《かならず》、恙あるべからず。されば、迎《むかへ》は、未《ひつじ》の頃[やぶちゃん注:午後二時前後。]よりつかはすべければ、なほ、はやかり。」
といふに、人みな、いぶかりて、なほ、
「かに。」
「かく。」
といふも、多かり。
かくて、未くだる頃、迎の人に、挑燈、もたして、つかはすときに、示すやう、
「大橋も朽たれば、兩國橋より、かへり來よ。山王神田の祭禮には、しな、かはりて、渡り初《そむ》るも遲かるべく、祭の果《はつ》るは、夜にも、入りなん。かへさば、いよいよ、群集しつべし。足よはどもを扶《たす》けひきて、怪我、なさせそ。」
と、いひ付たり。
これより後、近きわたりの友達より、消息して安否を問はるゝもありしかど、己《おのれ》は件の時刻をはかりて、
『恙あらじ。』
と思ひしかば、初よりして、些《いささか》も、さわがず。
この年、長女は十四歲、その次は十二歲、孩兒《がいじ》は十歲、季女《すへむすめ》は八歲なりければ、
『走りあるきも、人なみなり。いかばかりの事あるべしや。』
と思ひつゝ待つ程に、この夜、戌の半《なかば》頃に、みな、恙なく、かへり來にけり。
扨、事のやうを尋《たづぬ》るに、
「かねて云し給ひしよしも侍れば、今朝は、ことさらみちを急ぎて、まだ五ツにはならじと思ふ頃に、永代橋を渡り果しかば、渡る人も多からざりき。かくて、山田屋へいきて棧敷《さじき》に登り、まつりを觀て侍りけるに、四半時にもや、ありけん、鶴屋のかよひ伴頭金助夫婦が、隣棧敷へ來て、
『只今、永代橋落て候。やつがれらは第一番に渡り果しかば、恙もあらず。迹なるものは、入水せしも、あるらん。』
と、いひにき。さばれ、驚く程の事とは覺《おぼえ》ざりしに、祭りの果《はつ》る頃より、この噂、大かたならず聞えしに、胸、うちさわがれたれど、迎人《むかへびと》に仰《おほせ》つけられしよしも承りて、あわたゞしく歸路に赴くに、
『寺町通りは、なほ、人稠(ひとごみ)ならん。』
とて、木場にまはり、冬木町《ふゆぎちやう》をよぎり、海運橋、又、高橋を渡りし頃は、群集に、みちを、さりあへず、橋は、
『ゆらゆら』
と、ゆらめくにぞ、
『この橋も、今、落《おつ》るぞ。』
と、人の罵るに、胸、潰れ、からうじて、兩國橋まで、來にければ、活《いき》たる心地し侍りき。」
と、いひけり。
「吾は、『彼橋の落つべし』とは思はざりしが、安永の頃、大橋の欄干を推倒せし事もあれば、『人、多く出《いで》ぬ程に。』とて、今朝、はやく出しやりしは、われながら、よくも量《はか》りつるかな。」
と、いひ誇りて、笑ひにけり。
[やぶちゃん注:「長女」幸(さき)。文政七(一八二四)年馬琴五十八の時、馬琴は隠居となり、剃髪して「蓑笠漁隠」(さりつぎょいん)と称するようになり、この長女幸に婿養子吉田新六を迎え、清右衛門と名乗らせて、元飯田町の自身の家財一切を譲り、分家させた。
「その次」次女祐(ゆう)。事績不詳。
「孩兒」「幼(いとけ)い童子」の意しかないが、ここは「男の幼児」の意で特異的に使用している。言うまでもなく、馬琴最愛の嫡男瀧澤(琴嶺舎)興繼である。馬琴は彼に武家瀧澤家の復興を頼みとしていた。彼は医術を修め、文化一一(一八一四)年には「宗伯」と名乗ることを許された。文政元(一八一八)年には神田明神下石坂下同朋町(現在の千代田区外神田三丁目の秋葉原の芳林(ほうりん)公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として宗伯を移らせている。二年後の文政三年には宗伯が当時は陸奥国梁川(やながわ)藩に移封されていた藩主松前章広(あきひろ)出入りの医員となった。これは馬琴の愛読者であった老公松前道広の好意であった。章広は後に旧領松前藩に復した。而して、かく宗伯が俸禄を得たことから、武家滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いの半ばは達せられたかに見えたが、宗伯は生来の多病虚弱であり、馬琴六十九の、天保六(一八三五)年五月八日、三十九歳の若さで亡くなっている。私は以前から気になって、盛んに調べているのだが、おかしなことに、複数の正規論文や小説風の作品を見ても、『不治の病』とか、或いは重い癲癇発作を起こす精神疾患であったとかを臭わせる記載はあるものの、正確に死因を名指しているものがないのである。識者の御教授を乞うものである。
「季女」三女鍬(くは)。後に渥美氏に嫁した。以上の子女記載は、概ね、主文をウィキの「滝沢馬琴」に拠った。]
かくて、その次の日【八月廿日。】、
『彼橋の落たる光景を見ばや。』
と思ひて、晝飯を、はやく果しつ。孩兒を將《ひきい》て、兩國橋を、うち渡り、御船藏通り、大橋のほとりより、永代橋の南の詰までゆく程に、水死の櫃《ひつ》【「早桶」と唱《となふ》るものなり。】を舁《かつ》ぎつゝ、こなたざまに、來るもの、引《ひき》もきらず。そが中には、
「市ケ谷のものぞとよ。兄弟三人、祭、見に出て、三人ながら、溺死せし。」
など、呟きつゝゆくも、ありけり。
この日、かへさに、大橋のほとりなる茶店に憩ひて、なほ、きのふの事を聞《きく》に、茶店の女房のいひけるは、
「きのふ、こゝより、永代橋の落たる折、見けるに、橋のなかばに、忽然と、白氣《はつき》、立《たち》て、煙の如くに見えけり。
『あれは、船火事にあらずや。』
など、いひつゝ、人も、われも、眺望して有けるに、しばらくして、永代橋の落て、人、あまた、入水せしよし、聞えしかば、
『さては。嚮《さき》の白氣は、落る人の驚きたる息なりけん。』
と、思ひ合し侍りき。」
と、いへり。
この水沒の尸骸に、主《あるじ》ありて、引とりしは、四百八十餘人、こは、町奉行へ訴出《うつたへいで》たる書あげの趣也。
この後、品川・上總・房州の浦々へ、流れ當りしも多くあり。
又、
「主ありて尋ねしに、知れざるも多かり。」
といへば、凡《およそ》、二、三千人も死したらんか。いまだ知るべからず。
むかし、貞和年間に、京なる四條河原にて、勸進猿樂の棧敷《さじき》、崩れて、人、多く死たるよしは、「太平記」に見えたれど、此永代橋の落たるは、それにも彌增《いやまし》ぬべき禍《わざはひ》にぞ有ける。
[やぶちゃん注:『貞和年間に、京なる四條河原にて、勸進猿樂の棧敷《さじき》、崩れて、人、多く死たるよしは、「太平記」に見えたれ』「太平記」巻二十七所収の「田樂(でんがく)の事付けたり長講(ちやうかう)見物の事」貞和五(一三四九)年六月十一日に発生した四条橋の橋勧進ために田楽が興行された。その際、見物用に組み上げた桟敷(上・中・下の約四百五十メートル)が多数の観客の重量に耐え切れなくなって、一気に将棋倒しに崩落、一瞬にして地獄の惨状を呈し、当時の日記によれば、死者百余人とする。国立国会図書館デジタルコレクションの「續帝國文庫」版の当該部冒頭をリンクさせておく。]
このころ、
「夜な夜な、彼橋の邊の水中に、陰火のもゆる事もあり。又、鬼哭《きこく》の聲のせし事もあれば。」
とて、南の橋詰に、板壁の小屋を造りて、一個の法師、鉦、うち鳴らし、常念佛《じやうねぶつ》を唱へて、をり。
爾後《こののち》、橋を掛更《かけかへ》られて、常念佛はあらずなりにき。
[やぶちゃん注:「鬼哭」浮ばれぬ亡者の泣き声。]
又、その翌年八月、一周忌を弔ふ豪家《がうけ》の施主ありて、囘向院にて、大施餓鬼を興行せし事あり。河施餓鬼《かはせがき》をしつるも、ありけり。
[やぶちゃん注:以下、底本も改行している。]
永代橋・大橋・新大橋は【一名「あづま橋」とも云。】、是まで、受負人ありて、橋の南北の詰に、板壁の小屋をしつらひて、番人二人、をり、笊《ざる》に、長き竹の柄を付たるを持《もち》て、武士・醫師・出家・神主の外は、一人別《ひとりべつ》に、橋を渡るものより、錢二文づゝ、取《とり》けり。人のわたらんとするを見れば、件の笊をさし出すに、その人、錢を笊に投入れて、渡りけり。この故に橋の朽たるも、掛更ること、速《すみやか》ならず。已むことを得ざるときは、假橋を造りて、本普請を延《のば》したり。こゝをもて、
「こたびの如き愆《あやまち》あり。」
など、いふものも、多かりしにや。
當時、願ひ人《びと》、ありて、
「以來、海船、江戶入の荷物、大小により、一個に付《つき》、水揚運上《みづあげうんじやう》、いかばかりづゝ、取ㇾ之《これをとる》を、御免あらば、右の三大橋の掛更《かけかへ》は、公儀は申上《まをしあぐ》るに及ばず、町人・百姓より、錢二文づゝ取ことなく、破損以前に掛かヘ可ㇾ仕《つかまつるべし》。」
と、願ひまうしゝかば、御詮議の上、
「その願ひに任せ給ひし。」
とぞ。こは、遠からぬ事にて、只今、四十前後の人は、よく知りたるもあらんを、遠きさかひの人の爲、又は、わかうまごらのこゝろ得《え》にもならんか、とて、そゞろにしるして、みづから警め、且、人をも、いましむるもの也。必、人々、群集せる祭見物に、女・子どもをつかはすは、えうなきこと也。かの日、わがやからの恙なかりしは、幸にして免れたる也。必、是、わが智惠のすぐれたるには、あらずかし。
[やぶちゃん注:「永代橋・大橋・新大橋は【一名「あづま橋」とも云。】」この記載は混乱しており、よろしくない。ただ、この異名の方は複数あって、それが誤認として多くの江戸庶民の中でも混同があったようである。整理すると、この「大橋」は「両国橋」の異名で、隅田川河口から順に記すと、「永代橋」・「新大橋」・「大橋(両国橋)」となる。架橋位置は概ね現在のそれぞれの橋とそれほど変わらない。異名の「吾妻橋」は、以上の三つの橋とは、本来は別物で、三橋のさらに上流の、ここ(グーグル・マップ・データ。ここでのみ例外的にリンクさせた)にある。ところが、この橋、別名を「大川橋」と呼ぶので、混同に拍車がかかったわけである。若干、名前が異なるが、江戸時代のこれらの橋の位置関係を示した図が載るサイト「ビバ! 江戸」の「江戸の大川(隅田川)の橋」を見られたい。]
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