多滿寸太禮卷第五 木津五郞常盤國至る事
[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれ(PDF・第四巻一括版。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正(今回は念入りに清拭し、左右の枠を除去し、合成した)して、適切と思われる箇所に挿入した。]
多滿寸太禮卷第五
木津(きづ)五郞、常盤國(ときはのくに)に至る事
去(さんぬ)る永祿の比、越後の國、寺泊と云ふ湊に、木津五郞とて、うとくなる商人(あきうど)あり。
[やぶちゃん注:「永祿」一五五八年から一五七〇年まで。室町幕府将軍は足利義輝・足利義栄・足利義昭であるが、後の木津の語りを読まれると判るが、永禄の末年十三年でも微妙に合わない気がし、もう少し後の、元亀年間(一五七〇年から一五七三年まで)とすべきであった。具体的には元亀四(一五七三)年七月の、織田信長の足利義昭の放逐(室町幕府滅亡)の直前辺りでないと、木津の語りと矛盾するからである。]
多くの酒を作りて、每年(まいねん)、大船(たいせん)に積みて、ゑぞ・松前にわたり、ばいばいをなしけるに、あるとし、例のごとく、舟をしたて、海原はるかにうかみけるに、俄かに氣色(けしき)かはり、東西、墨のごとくに、かき曇り、猛風、せがいを洗(あら)ひ、あまたの舟ども、見るうちに、十方(じつぱう)へ吹流(ふきながさ)れ、五郞が舟も、何國(いづく)を、そこともなく、吹き流されけるに、船中(せんちう)の者ども數(す)十人、生きたる心ちもなく、七日七夜(なぬかなゝよ)、風にまかせて走りけり。
[やぶちゃん注:「せがい」「船枻」。和船の両側の舷 に渡した板。櫓を漕いだり、棹をさしたりする部分を言う。]
風、少し、靜まり、舟も漸々(やう《やう》)、ゆり、すへたり。
人心《ひとごこ》ちある者、十余人の外は、助かる者、なし。
「いかならん所へも、舟をつけて、しばらく、舟を用意して、本國に歸るべし。」
と、五郞、舟ばたにたち、あがりてみるに、いづくはしらず、茫々たる汀《みぎは》へぞ着きにける。
遙かに詠(なが)めやりたるに、一里斗り向ふに、夥敷(おびたゝしき)かまへ、見えたり。
よくよくみるに、二重《ふたへ》の樓門、五重の城(しろ)、瑠璃の瓦、城頭(じやうとう)の金魚(きんぎよ)、日に央《えい》じ、玉のはたほこ、天にひるがへり、猶、奧深く、幾重ともなき大家(たいか)のかまへ、空に聳へて、おびたゝし。
[やぶちゃん注:「金魚」鯱(しゃちほこ)。]
四、五丈(ぢやう)も、たかき石の堤(つつみ)をつき、所〻に高門(かうもん)あり。築地(ついぢ)の上には、廻廊ありて、濱の面(おもて)に見へたり。あらゆる鳥(とり)獸(けだもの)、人に恐れず。
「あはれ、是は、龍宮城に來りけるや。」
と、肝も心も身にそはず。十余人の者ども、
「たとへ身をすつるとも、ゆきて見ばや。」
と思ひ、舟を渚に引き付け、いかりを、かたくして、おぼつかなくも、步み近付くに、四、五町[やぶちゃん注:三百四十六~五百四十五メートル。]も隔つらんと覺ゆるに、遙かに太鞁(たいこ)の音、聞えて、石門(せきもん)、
「はつ」
と、ひらき、數(す)十人出《いづ》るをみれば、髮は赤く、禿(かぶろ)のごとく、貌(かほ)の色、黃色にして、眼(まなこ)、すさまじく、勢(せい)は七尺ゆたかに[やぶちゃん注:二メートル十二センチを遙かに超えて。]、黑き衣(ころも)を着し、一面に丸(まる)きの棒を、つきたり。
其の詞(ことば)、一つも聞き分きがたく、此の者どもを眞中(まんなか)にとり込めて、城中(じやうちう)にいりぬ。
その體(てい)、のがれがたければ、五郞、懷中より筆硯(ひつけん)をとり出し、
「大日本國(だいにつほんこく)越後國の商人 風に流されて 爰に至る 國王の哀れみを受けて 本國 歸らん事をねがふ」
といふ事を、こまごまと書《かき》て、彼(か)の者共が前に投げ出だす。
一人、これをとりて、良(やゝ)しばし、何事やらん、囁(さゝや)きて、やがて、内に入りぬ。
かゝる程に、鐘をならし、鉦(どら)をうちて、立ちさはぎければ、
「あはや、今、ころさるゝか。」
と、十余人の者共、肝も心も身にそはず。
[やぶちゃん注:王の車を牽いているのは羊である。]
良(やゝ)久敷(ひさしく)ありて、車、とどろき、近づくをみれば、數(す)千の官人(くわんにん)、先(さき)を拂ひ、數百(すひやく)の后妃(こうひ)、玉(たま)のかむりをかたむけ、そのさま、水牛のごとくの獸(けだもの)に、金銀を、以、ちりばめたる、あざやかなる車をひかせ、出で來りぬ。
十余人の者共も、
「國王ならん。」
と、頭(かうべ)を地につけて、かしこまり、遙かに車の内をみるに、髮(ひげ)[やぶちゃん注:ママ。]は雪のおどろをみだし、目のうち、黃色にひかりありて、身には、錦の衣を着し、此者どもを一目みて、淚をながし、袂を貌(かほ)におほひて、しばし有て、
「良(やゝ)、日本の者共かや。なつかしの有さまや。」
と、敕定(ちよくぢやう)あれば、此の者ども、覺えず、淚を流し、ひれふしけり。大王、のたまひけるは、
「彼等を、よくよくいたはり、本城(ほんじやう)に伴ふべし。」
とて、入らせたまへば、數(す)十人來り、始めにはちがひ、禮をあつくし、請じ入《いれ》ければ、したがひて、ゆく。
四方(よも)をみるに、そのきれいなる事、云ふ斗りなく、見なれぬ花木(くわぼく)、名もしらぬ草の花、淺むらさき、赤き、白き、咲《さき》つゞけたるよそほひ、更に人間(にんげん)の栖(すみか)にあらず。
匂ひ、よもに、かほりて、玉しゐ、さわやかに、心、たゞびやうびやうとして、雲にのぼる思ひあり。庭の面(おもて)を見わたせば、諸木の梢《こずゑ》には、五色(ごしき)の鳥、飛《とび》かけり、さえづる聲の面白さ、この世の内とも思はれず。池のうちには、淸き水、たゝえて、金銀のうろくづ、游(およ)ぎめぐり、うきしづみ、或は赤き栗、みどりの棗(なつめ)、しきわたしたる眞砂、立ちならびたる岩ほの間より、靜かに水の流れたるも、さはがしからず。
殿中には、無量の寶を粧(かざ)り、みな、金銀を以、ちりばめたり。遙かの玉殿に、豹(へう)の皮をかけたる曲祿(きよくろく)をまうけたり。
[やぶちゃん注:「曲祿」「曲彔」或いは「曲椂」が正しい。法会の際などに僧が用いる椅子で、背の寄り掛かりの部分を半円形に曲げ、脚をX字形に交差させたものが多い。]
暫くありて、大王、出《いで》給へば、左右(さう)の侍人(おもとびと)、ぶがくを奏し、まことに極樂國土に至るかと、心も空(そら)におぼえたり。
[やぶちゃん注:「侍人(おもとびと)」「御許人」の当て訓。貴人の側そば近くに仕える人。侍従・侍女・女房の類い。]
良(やゝ)ありて、大王、仰けるは、
「汝等、日本の者どもと聞《きき》て、なつかしくおぼえ、希れに對面をなす。吾、この地に住《すみ》て、二百余歲をふるに、異國他國の者、爰に流《ながれ》よる事、數(す)百人といへども、終《つひ》に日本人の來る事なし。抑《そもそも》、この國は北海(ほつかい)の果て、漢東(かんとう)の東面(ひがしおもて)、日本を去る事、一萬(いちまん)八千里、漢唐(かんとう)は、いまだ、北海の濱(はま)にして、稀れに西唐(さいたう)・南和(なんわ)の人、吹きよせらるゝといへども、此の所は、又、漢唐に隔(へだゝ)りて、昔より、漂船(へうせん)の至る事、なし。今、汝等、不思義に爰に來たる事、ひとへに吾が機緣、つきずして、あひみる事のうれしさよ。
我は、過《すぎ》し「元弘の亂」に、關東鎌倉におゐて、高時、滅亡の時節、其名をふるふ、長崎勘解由(かげゆ)左衞門と云ふ者也。亂世(らんせい)をいとひ、何地(いづち)をそこともしらず、或時は海をこへ、或時は山をこへて、みとせの春秋(はるあき)を送りて此所に至る。多くの者をしたがへて、已に國王に幸《さひはひ》して、終に此國を領して、他方(たはう)に奪はれず、榮花を究め、をのづから生長して、年比、吾が朝(てう)にて聞き及びし、常盤國《ときはのくに》と云ひしは、則、この所なり。此國、つねに四季、なふして、寒暑なし。いつも吾が朝(てう)の秋に似たり。凡そ萬木千草(ばんぼくせんさう)、をのづから四季をわかたず、みどりを生じ、五穀、なを、種(たね)をおろすに、月を經ずして實のる。米穀・菓爪(くわくわ)、冨饒(ふねう)にして、萬寶(ばんほう)を地に出《いだ》す。農民、たがやすに力(ちから)をつくさず、生類を食せずして、珍味に、あく。これによつて、魚鳥(ぎよてう)、人を怖れず、畜類、つねに、がひをなさず。さるによつて、唐(たう)には菩薩國と云《いふ》とかや。
今は、としさり、世もおしうつり、いかなる人か、國土を治め、誰の世にてあるらん。委しく、かたり給《たまは》れ。」
[やぶちゃん注:「長崎勘解由(かげゆ)左衞門」「太平記」巻第十によれば、鎌倉幕府滅亡の元弘三/正慶二(一三三三)年、新田義貞率いる攻め手一群が鎌倉の極楽寺坂に攻め入った際、そこを守った武将に、高時の下で実質的な権勢を維持していた得宗被官(御内人)長崎円喜を首魁とする長崎氏の一族の内の、長崎三郎左衛門入道思元(しげん:出家後の法名。俗名は高光(たかみつ)或いは高元(たかもと)とされる)と、その子息勘解由左衛門為基がいた。守勢を維持出来なくなった父は息子に別行動をとるように指示し、自身は東勝寺に戻り、高時・円喜らと自害したが、息子の長崎勘解由左衛門為基はその後どうなったかは未だ明らかではない。彼の生年は未詳でその時の年齢は判らぬが、永禄元年から数えると、二百二十五年前で、話としては合う。]
とあれば、五郞承り、大に驚き、
「さん候。そのかみ、元弘の始より、今、御當家に及びて、歲霜已に二百二十余年。高時公滅亡の後、しばらく後醍醐天皇、世を知《しろ》し召《めし》、大塔宮尊雲親王(おほたうのみやそんうんしんわう)、天下の權(けん)を執り給ひしに、幾程なく、足利治部太輔尊氏(あしかゞぢぶのたゆふたかうぢ)、天下を奪ひ給ひ、子孫、すでに十三代。征夷大將軍源義昭公の御代にて、盡(つき)、織田信長公、天下の權を執り給ふ。抑《そもそも》、此信長公は、桓武天皇三十二代、平相國淸盛に二十一代の後胤、織田彈正忠(おだだんじやうのちゆう)平信秀(たいらののぶひで)の次男なり。當時も、日本は、半ば、亂れて、猶、諸國に戰ひ、たえず。元弘・建武より以來(このかた)、いまだ一日も易き事、なし。諸人(しよにん)、安堵の思ひに住《ぢゆう》せず、或は、主を殺し、臣を害し、子は親を打《うち》、親は子を殺す。互《たがひ》に國を合はせ、郡(こほり)を奪ひとらんとす。此後、いかなる世にか、一天下、靜謐(せいひつ)して、万民(ばんみん)、安穩(あんおん)成るべしとも、おぼえず。」
と、委細に奏し申せば、大王、たもとをしぼり、
「我、かゝるたのしみに日を送るといへども、越鳥(ゑつてう)、南枝(なんし)に巢をかけ、胡馬(こば)、北風にいなゝく、とかや。常に日のもとに向かひては、淚をながす。傳へきく、朝比奈義秀は、高麗國(かうらいこく)にわたりて、荒人神と成《なり》つるも、異邦のたのしみ、本意(ほい)ならず。今、汝が物語を聞《きき》て、往昔(そのかみ)、戀ひしく、茫然とす。しかれども、數百年(すひやくねん)、亂世(らんせい)をさけ、今、此國に、たのしみを、うへる。生前(しやうぜん)の思ひで、何か、これにしかむ。汝等、妻子を引きわかれ、遠く爰に來り、心を異國にくるしまむ。急ぎ歸りて、此有樣を本朝(ほんてう)につたふべし。」
[やぶちゃん注:「越鳥、南枝に巢をかけ、胡馬、北風にいなゝく」「越鳥、南枝に巣を懸け、胡馬北風に嘶く」は「故郷の忘れがたいことや、故郷を恋い慕うこと」の喩え。望郷の念にかられること、ノスタルジアの意。中国南方の越の国から渡って来た鳥は、樹木の日の暖かな南側の枝に巣を作って南を思い、北方の胡の国から来た馬は、北風が吹いてくると、故郷を懐かしんで嘶くという「文選」の古詩に由来する。
「朝比奈義秀」(安元二(一一七六)年~?)は稀代の剛勇でとみに知られた鎌倉幕府初期の御家人。和田義盛の三男にして朝比奈氏当主。安房国朝夷(あさい)郡に領地としたことで「朝比奈」を苗字とした。建暦三(一二一三)年五月二日、第二代執権北条義時の度重なる挑発を受け、父義盛が決起した際にも大活躍したが、翌三日には劣勢に転じ、義盛を始めとした主だった武将は討ち死にしたが、義秀(当時は三十八歳)は、船六艘に残余の五百騎を乗せ、所領の安房へ脱出している。その後の消息は不明であるが、「和田系図」は、高麗へ逃れたと記している。]
とて、さまざまの珍味をもてなし、
「暫く、舟を用意せんまに、城邊を打ち𢌞りて、心をたのしみ、歸るべし。」
とて、朱衣《しゆえ》の官人(くわんにん)を、かれらにそへて、近隣を見せ給ふ。
大王より外(ほか)は、すべて、その詞(ことば)も通ずる事、あたはず。
その國民、大小の家、冨貴にして、猪・熊、或は羊、見もなれぬ獸物(けだもの)に荷物を負《おは》せ、鳥類は、終日(ひねもす)、田畠(でんはた)をたがやし、夕陽(ゆふひ)には、人家に來りて、食を與(あた)ふ。
東南に冷泉の、ふたつの瀧あり。諸人、こゝに至りて、身を浴す。冷泉の流れは、人家にせきいれて、朝三暮四のたよりとす。
[やぶちゃん注:「朝三暮四」朝夕の粗食の意。]
儒佛の敎なく、神社・道家(だうけ)の禮典も、なし。只、宗廟の玉殿を山上にまふけ、諸人(しよにん)、偈仰(かつご う)の體(てい)有《あり》。
女は錦の織物をいとなみ、おとこは五穀をかりおさむ。
一人として、おとれるもなく、勝(すぐ)れて貴(たうと)きも、なし。
文書(もんじよ)あれども、文字の分(わけ)もなし。
[やぶちゃん注:「文字の分(わけ)もなし」全く判読することが出来なかったの意であろう。漢字でもなかったのである。]
或は、油(あぶら)、洞(ほら)より、わき出で、地より酒の泉(いづみ)を生(しよう)ず。その味、甘露のごとし。
白髮(はくはつ)の男女(なんによ)、幾(いく)とせふると云《いふ》事をしらず。五百、七百の星霜をふるといへり。「北州の千歲」とは、爰の事ならん。
[やぶちゃん注:「北州の千歲」「北州」は仏教の宇宙観に於いて、中央に聳える須彌山(しゅみせん)をとりまくとされる四大洲(四つの大陸)の一つで、北方にあって、他の三洲に勝れ、寿命千歳の楽土とされる「北倶盧洲」(ほっくるしゅう)の略称。「鬱単越」(うったんおつ)とも呼ぶ。]
又、家每(いへごと)に、七弦の琴(きん)のごとくなる物をしらべて、これをたのしみとす。
東西南北、ひろき事、七日を經て、果(はて)に至るといへり。西は、猶、漢唐(かんたう)につゞきて、その幾千万里と云《いふ》事をしらず。
國のうち、若(も)し死亡の者あれば、國郡(こくぐん)、こぞつて是をかざり、宗廟(そうべう)の玉殿におさむ、とかや。
金銀は山河の流れにまろびて、みちみち、銅・鉄は地にみちたり。
一日一夜(いちじついちや)は、猶、日のもとの、五、六日をふるごとし。
日輪、海より出《いで》て、海に沒す。月も又、是におなじ。
此國の人は、夜も、眼(まなこ)、あきらかにして、晝のごとし。
男子《なんし》は少(ちい)さき利劔(りけん)を帶《おび》、或は鉄の棒をつき、女子《によし》は、たんごん美麗にして、同じく髮をみだせり。親子夫婦の禮法、をのづから正しく、ふしどを分かつ。
[やぶちゃん注:「たんごん」「端嚴」(「たんげん」とも読む)で、姿などが整っていて、威厳のあること。]
かゝりし程に、舟、やうやく、なりて、暇(いとま)を申《まをし》て出《いづ》るに、今更、名殘(なごり)おしく、更に、わかれがたし。
大王も、ふかくの淚をながし給ふ。
城中の男女も、をのをの、石門(せきもん)まで送り、これをみる。
米穀・金銀、色々の產物を舟につみ、十余人の者ども、をのをの、一心に太神宮を拜して、順風に帆を擧げたれば、神明の御利生(ごりしやう)にや、舟は矢を射るごとくにして、多くの日數を經(へ)て、佐渡の國まで、漸々(やうやう)と着岸し、それより、浦づたひ、本國、歸りしに、すべて、三年を海中に送り、國に歸り、此《この》事を披露しける。
則ち、受け來たる寶物を、八彥山(やひこさん)の寶藏に納め奉りけり。
更に、歸り來たる方角もわきまへず、何(いづ)れの方とも、しれざりけり。
[やぶちゃん注:「八彥山」「彌彥山」が正しい。新潟県西蒲原郡弥彦村と長岡市との境にある。標高六百三十四メートル。当該ウィキによれば、『新潟県の広い地域から見ることができ、弥彦神社の祭神・天香山命を祀った山として、古くから人々の崇敬を集め、山全体が弥彦』(本来は地名と神霊の名を区別して「いやひこ」と読んでいたが、現在は同じく「やひこ」で慣用化されてしまっている)『神社の神域となっている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]