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« 「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」 | トップページ | 読書のため更新を一時中断する »

2022/08/27

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その2)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ四行目)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

 考古學雜誌五卷十二號八五五頁に、沼田君、和漢三才圖會に鰐口の名の起りを、裂口形似鰐首故名之乎と云るは、慥に當を得て居ると思ふと述らる。山口素絢の狂畫苑卷下に、土佐大藏少輔藤原行秀筆百鬼夜行の圖を出せる其第七葉表に、鰐口を首とし兩脚龍腹魚體魚尾を具えたる怪物有り。鰐口の眞中に一眼有り、兩耳を耳とし、裂口より舌長く出して這行く態なり。藤貞幹の好古小錄上に、百鬼夜行圖一卷畫光重とあるは此圖と同物にや。予一向不案内の事乍ら、百鬼夜行の圖は足利氏の代に成りし由、骨董集等に載せ有りしと記憶す。狂畫苑に寫し出す所ろ、其眞筆に違はずば、彼圖は、足利氏の世、既に此種の鉦鼓を鰐口と通稱せるを證し、兼て和漢三才圖會に先つて、裂口形似鰐首故名之と其義を辯ぜる者と謂べし。

[やぶちゃん注:「沼田君」「選集」によれば、沼田頼輔(よりすけ/らいすけ 慶応三(一八六七)年~昭和九(一九三四)年)で、歴史学者・紋章学者。相模国愛甲郡宮ヶ瀬村(現在の神奈川県愛甲郡清川村)生まれで元の姓は山本。理科大学簡易科第二部を修了し、教師・校長を歴任、明治四四(一九一一)年には旧土佐藩山内家史編纂所主任となった。考古学会副会長・人類学会と集古会の幹事を務めた。より詳しい事績は参照した当該ウィキを見られたい。

「和漢三才圖會に鰐口の名の起りを、裂口形似鰐首故名之乎と云る」事前に『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を電子化注しておいたので参照されたい。

「山口素絢の狂畫苑卷下」「山口素絢」(そけん 宝暦九(一七五九)年~文政元(一八一八)年)は円山(まるやま)派の絵師で円山応挙の直弟子であるが、これは恐ら熊楠の誤りで、酷似した号「素絢斎」を用いた絵師鈴木鄰松(りんしょう 享保一七(一七三二)年~享和三(一八〇三)年)である。に木挽町家狩野派六代目絵師の狩野典信(みちのぶ)の門人。江戸の人で与力であったとされる。「狂畫苑」は明和七(一七七〇)年刊の絵本で、狩野探幽らの粉本を集成したもの。全三巻。「ARC古典籍ポータルデータベース」のこちらの図が熊楠が言う当該図。以下に示す「⽴命館⼤学アート・リサーチセンター」の所蔵画像である(許可有り)。

 

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「土佐大藏少輔」(とさのおほくらせういう)「藤原行秀」(生没年不詳)は室町前期の土佐派の絵師。土佐家系図には土佐行広の兄弟ともされるが、未詳。京洛の丸太町通り春日に居住したため、「春日行秀」とも称した。修理亮に任官し、宮廷の絵所預(えどころあずかり)を務めた。記録では、後崇光院の命による「牛板絵」(応永三一(一四二四)年)があり、現存作には醍醐寺蔵の称光帝御世始三壇法の本尊「普賢延命像」(応永二〇(一四一三)頃か)・清凉寺「融通念仏縁起絵巻」(応永二四(一四一七)年頃)の一部がある。鎌倉期の謹直な「やまと絵」手法の上に、南北朝期の奇矯な形態表現などを加え、室町期の「やまと絵」特徴的なの明度の高い色調の穏雅な作風を持っている。事績・作品ともに少ないが、土佐行広と並び、室町期「やまと絵」様式の確立と、土佐派の画壇における覇権確立に重要な役割を担ったと人物と推定されている(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼の「百鬼夜行」(ひやくきやぎやう)「の圖」は、東大所蔵の土佐行秀の原画を蔭山広迢が摸写した彩色画の当該箇所が、「国文学研究資料館」の「電子資料館」のこちらで見られる。但し、先の模写も、こちらの彩色模写も鰐口の中央にあるのは「一眼」ではなく、金属製の蓮の葉様の飾り花である。以下に示す(パブリック・ドメインで許可有り)。絵巻全部を見、画像のダウン・ロードをしたい場合は、こちらで可能である。

 

Waniguiti

 

「這行く」「選集」は『這い行(ある)く』とするが、私は「はひありく」と読みたい。

「藤貞幹の好古小錄」藤貞幹(とう ていかん 享保一七(一七三二)年~寛政九(一七九七)年)は考証学者。京の僧家の出身。十八歳で還俗した。儒学・国学・有職故実に精通し、特に各地の金石文・古文書などを実地に研究。「衝口発」(しょうこうはつ)・「古瓦譜」(こがふ)」などを著わした。本姓は藤原。号は無仏斎・好古。「好古小錄」は考古書で寛政六(一七九四)年の序があり、京で板行されたもの。国立国会図書館デジタルコレクションの同板本のここに、『五十七百鬼夜行圖【一巻𤲿光重】』とあるのを指す。「光重」は土佐光重 (生没年未詳)は南北朝時代の画家。土佐行光の子。明徳元/元中七(一三九〇)年に絵所預となる。「畠山記」によると、その前年、父とともに、河内守護畠山基国の求めにより、八尾・飯盛・竜泉の城を描いている。正五位下・越前守(講談社デジタル版「日本人名大辞典+Plus」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのここで原本の写本(彩色)があり、構図は概ね同一である。以下に最大画像で示す(パブリック・ドメイン)。

 

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「骨董集等に載せ有りし」「骨董集」は岩瀬醒(さむる:戯作者山東京伝の本名)の随筆。大田南畝序。全三巻四冊。文化一一(一八一四)年から翌年にかけて刊行された考証物。江戸の風俗・服飾・器具・飲食等の起源や沿革を考証したもので、図解が多い。寛政改革の出版取締令による手鎖五〇日の刑に処せられて以後、京伝は洒落本の筆を断ち、考証随筆に精力を注いだ。「近世奇跡考」に次ぐものが本書であるが、著者の逝去により、上編のみで未完である(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。【二〇二二年八月二十九日改稿・追記】所持する吉川弘文館随筆大成版で発見した。本文ばかり読んでいて、図を見なかった。「上之巻」の「竹馬」の項の図と、そのキャプションが相当する(吉川弘文館随筆大成版では画像のみ)。国立国会図書館デジタルコレクションでは、「竹馬」の項はここからで、当該図はここにある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像は補正しても、地が焼けていて不満足なので、吉川弘文館随筆大成版のそれをトリミング補正して、以下に示し、電子化する。太字は原本では囲み字。句読点を打った。

 

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   * 

狂畫苑【安永四年印本。】に百鬼夜行(ひやくきやぎやう)の古画(こぐわ)を縮(しゆく)し、出(いだ)せり。其うちに此(この)啚(づ)あり。戯画(けぐわ)なれども、當時(そのとき)の竹馬(たけうま)のさまをみる便(たより)にはすべし。好古小録本朝畫史を合考(あはせかんがふ)るに、今、こゝに、文化十年より、およそ四百二十餘年(よねん)の昔(むかし)なり。駒(こま)の頭(かしら)の形につくる竹馬もふるくありし物(もの)なるべし。 

百鬼夜行(ひやくきやぎやう)は、すべて、戯画(けぐわ)の怪物(かいぶつ)、多ければ、竹馬に足をかきたるなどは、そらごとなるべし。唯(たゞ)、そのおほむねを、みんのみ。

    *

絵図のそれは鰐口の付喪神(つくもがみ)というより、俵のそれのように私には見える。「狂畫苑【安永四年印本。】」尾張藩士で喜多川歌麿に師事した絵師でもあった牧(月光亭)墨僊(安永四(一七七五)年~文政七(一八二四)年)の作品。「ARC古典籍ポータルデータベース」のこちらで、原画像を視認出来る。先と同じく、無許可で使用が可能であることが判ったので、以下に示す。「⽴命館⼤学アート・リサーチセンター」の所蔵画像である。

 

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「本朝畫史」狩野派の江戸前期の絵師狩野永納(えいのう)によって延宝六(一六七九)年に開板された日本画人伝。日本絵画史の基礎資料の一つとされる。「文化十年」一八一三年。「およそ四百二十餘年(よねん)の昔」単純に文化十年から「四百二十」年前としても、明徳四(一三九三)年で、室町時代の足利義満の治世である。

「違はずば」「たがはずば」。

「彼圖」「かのづ」。]

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