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2022/08/11

泉鏡花 怪異と表現法 (談話) 正規表現版 オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:これは表現からも判る通り、談話を記者が筆記したものである。底本とした所持する昭和一七(一九四二)年岩波書店刊「鏡花全集」巻二十八によれば、昭和四二(一九六七)年四月というクレジットが載るものの、原ソースが記されていない。なお、加工データとして、加工データとして嘗つて大変お世話になった(私の鏡花の俳句集のこちらのものは、サイト主が贈って下さったものである)サイト「鏡花花鏡」で公開されていたHTML版の本篇(春陽堂版全集底本で総ルビ)を使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字化した。これは実際、電子化した際に、ユニコードのそれを配しても、気持ちの悪さに変わりはないからである。また、今回は、「Googleブックス」で春陽堂版「きよう花全集 卷十五」をダウン・ロードして参考にした。但し、春陽堂版のルビは談話という性質上、ルビは鏡花が附したものではあり得ず、談話の聴き取り手の編集者が勝手に歴史的仮名遣で附したものと断じ、底本通りで示し、不審な箇所は、注で春陽堂版のルビを参考にして、各段落末の注の中に配して示した。そういう訳で、ルビが殆んどない以上、本篇はPDF縦書版化はしない。但し、底本の九ヶ所のルビと傍点(ここでは太字に代えた)も、読み難いので、恐らくは岩波版編集者が「春陽堂版」を参考に附したものではあろうと推定はする。而して口語で語られた本篇は、寧ろ、現代仮名遣で示す方が原話には相応しいと言えるが、そうしたものは現代の出版物で既に活字化されているから、ここはそれ、底本通りとして電子化し、それらと差別化することとする。なお、幸い、「鏡花花鏡」で公開されていたものとPDF縦書版が、「Geolog Project」のアーカイブで辛うじてネットのこちらに残っているので(私は公開時に保存しているが、そこでは明朝体で、リンク先のゴシックのようには気持ち悪くない)、それを考えれば、なおのこと、縦書版の屋上屋は不要と言えると判断する。]

 

 怪異と表現法

 

 不思議と云ひましても色々ありますが、此處では靈顯、妖怪、幽靈なぞの類に就いて云ふのでありまして、是等のものを文學上に表現致します態度に就て、まあ、お話したいと思ひます。

 不思議を描く。先づ第一に不思議を描くには不思議らしく書いては不可ません。斯うやつてお話してをります中に、疊の中から鬼女の首が出現(あらは)れたなぞと申しましても、あんまり突拍子もなくて凄味もありません。ですから、幽靈を幽靈とし、妖怪を妖怪として書いては怖くない、只何となく不思議のものが出て來て、物を云つたり何かする方が恐しいのです。

[やぶちゃん注:「をります中に」の「中」は「うち」。春陽堂版に従う(以下、断りのないものは同じ)。一方で、「疊の中から」の「中」は「なか」である。]

 其處で幽靈なら幽靈の形を表現(あらは)すのは未だ容易ですが、夫に口を利かせるとなると、サア中々難かしくなつて來ます。何故なら怪異には地方的特色と云ふものがあつて、例へば牛込の化物を京橋へ持つて行けば、工合が惡くなる樣なもんですから、其の時と場所に相當した言葉を使はなければならぬ。是が中々大變です、昔私の故鄕(くに)の某所に、一の橋があつて其處へ每夜貉が化けて出て通行人に時刻を問ひ返事をすると、齒を出してニヤリと笑ふ、と云ふ話がありますが、其時間を問ふ時の言葉は「何時(なんどき)ヤー」と云つて長く引張るのです。其引張る調子が如何にも氣味が惡うござんすが、是を若し巢鴨か早稻田邊の橋の袂で、「君今何時です」と訊かれたつて少毫(ちつと)も恐い事はありません。併し此の場合には、

[やぶちゃん注:「未だ」「まだ」。

「例へば」は春陽堂版では「假令(たと)へば」。

「每夜」「まいよ」。但し、「鏡花花鏡」で公開されていたPDF縦書版では「まいばん」と振り、私はこれが正しいように感じるている。

「貉」「むじな」。]

 註入りの意味 「何時ー」てんですから、東京人にも意味が判りますけれども、或る地方の言葉なぞになると、全く東京人には判らぬのがある。そんな言葉で幽靈が何と云つたつて、東京人には少許(ちつと)も恐(こは)く感ぜられない場合があります。ト云つて「右は何々の意味に侯」と註を入れる譯にも行かないから、どうしても仕方がありません、言葉の難かしいと云ふ例には斯んな話もあります。昔の化猫の話に、猫が鴨居を傳はつて 行つて、鼠を捕らうとして取落したときに「南無三」と云ふ。此「南無三」と云ふ言葉は此場合に一種の凄味があるけれども、若し「しまつた」と云つたら何だか猫が肌脫ぎに向鉢卷でもして居さうで氣が脫けてしまふでせう。

[やぶちゃん注:「難かしい」「難」には「むづ」とルビする。

「化猫」は無論、「ばけねこ」だが、春陽堂版は「猫化」で「ねこばけ」とルビする。]

 あら怨しや 昔の幽靈は紋切形の樣に「あら怨めしや」と云ひますけれども、こんな言葉は近代人の耳には凄くもなんともない。さうかと云つて「チチンプイプイごよの御寶」とも猶更云へず、譯の判らぬ漢語やギリシヤ文字を並べる事ことも固もとより出來できず、全まつたく幽靈いうれいの言葉位厄介ことばぐらゐやくかいなものはありやしません。

[やぶちゃん注:「チチンプイプイごよの御寶」「御寶」は「おたから」と読む。僕らは、母に「ちちんぷいぷい痛いの痛いの飛んでけ!」と言われたものだが、「深川不動堂」公式サイト内の「おまじない!? ~ ちちんぷいぷいのお話 ~」には、『古くは』これは、『ちちんぷいぷい御代(ゴヨ)の御宝(オンタカラ)』と言ったとあり、『この語源には諸説ありますが、江戸幕府三代将軍徳川家光公の乳母である春日局と関係があるという説があります』。『幼少の頃、泣き虫であった家光公に春日局が「知仁武勇は御代の御宝(ちじんぶゆうはごよのおんたから)」と云いました』。『則ち、「あなたは武士の頭領と成るべく徳を備えた徳川家の宝なのですから、泣くのではありません」と諭し、家光公が泣き止んだという伝記です』とある。

「並べる」春陽堂版では「並」は「竝」。]

 夫で話は又後へ戾りますが、不思議をかいて讀者に只の不思議と思はせずに、何となく實(まこと)らしく、凄く思はせる好い例は講釋師の村井一(はじめ)が本鄕の振袖火事の話をして、因緣のある振袖を燒いたら空へ飛上つて、スツクと人の形の樣に突立つて、パツと飛散ると共に本堂の棟へ落ちて、それが爲めあの大火事になつたと話しましたが、其話をする前に、前提として、自分が曾て下谷の或る町を通ると、突然後方(うしろ)の空中で「チヤラチヤラ」と異樣の響がした。不思議に思つて振返ると、夫は風鈴屋が旋風の爲に荷を卷上げられて、風鈴が一度に「チヤラチヤラ」と鳴つたのでした、と云ふ話をしました。比話をしておいて、振袖火事の方をやつたから、普通なら振袖が自然に飛上つて、人の樣な形をするのは餘り不思議で信じ難いのを、此話をきいた爲にそんなに不思議でもなくなつた。是は實に話を人にきかせる周到な用意で、別に人を欺く手段ではないのです。一寸とした事ですが、此用意を吞込まなければ、中々不思議の事を書くのは難かしいのです。

[やぶちゃん注:「好い」「よい」。

「村井一」講釈師としての芸名は「邑井一(むらゐはじめ)」が正しい。本名は村井徳一(天保一二(一八四一)年~明治四三 (一九一〇)年)は江戸牛込南町生まれ。田安家の御家人(御納戸同心)の子として生まれ、幕末には彰義隊に加わったこともあった。十五歳の頃、上方の講釈師旭堂南鱗(きょくどうなんりん)の弟子になろうとしたが、断られ、十六の時、初代真龍斎貞水(二代目一龍斎貞山)に入門、「菊水」を名乗った。後に「巴水」とし、貞水が貞山を襲名した際、「貞朝」と改名、さらに初代貞吉の三代目貞山襲名に伴い、二代目一龍斎貞吉(ていきち)を名乗った。後に本名の村井姓に因んで、二代目邑井貞吉と改め、真打ちとなり、後、長男吉雄に三代目を譲って、邑井一と改名した。得意な演目に「五福屋政談」・「玉菊灯籠」・「小夜衣双紙」・「加賀騒動」・「伊達騒動」・「曽我物語」・「紀伊国屋文左衛門」・「鈴木主水」などがあり、特に写実的な世話物を得意とした。武家の出身だけあって、行儀正しく、品格の備わった名手と伝えられ、無本で弁じたが、地の言葉が、そのまま、文章を成していると称賛された(日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」に拠った)。

「振袖火事」「明暦の大火」の後の異名。明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)に発生した江戸の大半を焼いた大火災。江戸本郷丸山町から出火し、江戸城本丸を始め、江戸市中を焼き尽くした。死者は十万人以上とされ、江戸城も西丸を残して焼失、幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転や、寺社の外辺部への移転などを進め、町屋も道幅を広げ、広小路や火除地を設定し、家屋の規模を定めるなどの措置をとった。翌年には定火消(じようびけし)を置いている。なお、「振袖火事」の名の由来となった、丸山町本妙寺の和尚が因縁のある振袖を燃やした火が同寺本堂に移り大火となったという話は、史実とは言いがたい(ここまでは主に平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。当該ウィキが詳しく、出火については、幕府が意図的に放火したとする驚天動地の説と、火元が老中屋敷であったために、『幕府の威信が失墜してしまう』ことを恐れて、本妙寺が火元を引き受けた、とする説が記されている。なお、そこに、哀れな因縁の振袖供養の出火伝承について書かれた最後に、『小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著している。伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の浅井了意は大火を取材して「作り話」と結論づけている』とあるが、八雲のそれは“ FURISODÉ ”で、私の「小泉八雲 振袖 (田部隆次訳)」で読める。

「實に」「じつに」。なお、春陽堂版では最後に『(話。)』とある。]

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