多滿寸太禮卷第六 片罡主馬之亮敵討之事
[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれ(PDF・第六巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。作中に出る「今様」の唄は、底本では全体が一字下げのベタであるが、句を概ね分割して、字空けを施して示した。]
多滿寸太禮卷第六
片罡主馬之亮(かたをかしゆめのすけ)敵討之(かたきうちの)事
建武の末に、菊池肥後守武光は、九州大半、うちとり、關西親王(くわんさいしんわう)を守り奉り、其威、やうやく、西海(さいかい)にかゝやき、武勇をふるひ給ふ。
[やぶちゃん注:「菊池武光」(元応元(一三一九)年?~文中二/応安六(一三七三)年)は肥後国益城郡豊田庄(現在の熊本県熊本市南区城南町)出身の武将。当該ウィキによれば、『柔弱な弟の武士の代理として』興国六/貞和元(一三四五)年に『阿蘇惟澄』(これずみ)『と共に菊池氏の居城深川城を北朝勢力から奪還する。これを契機に一族中で頭角を現』わし、『後に隈府』(わいふ)『城に入って』、『当主の武士を廃し、武光自らが当主となった』(この後、同城は「菊池城」とも称した)。『その後、南朝後醍醐天皇の皇子で征西大将軍』(本文の「關西將軍」と同義)『として九州へ派遣された懐良』(かねよし)『親王を隈部』(くまべ)の『山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努め』、正平六/観応二(一三五一)年には『筑後国に進出して勢力を拡大』、正平八/文和二(一三五三)年二月には『北朝の九州探題・一色範氏と少弐頼尚』(しょうによりひさ/よりなお)『の争いに介入し、筑前針摺原』(はりすりばら)に於いて『一色探題軍を撃破』(「針摺原の戦い」)し、同年七月には『筑前飯盛山にて』、『再び一色軍を破り、続いて』正平九/文和三(一三五四)年からは、『豊後国・肥前国などに進出して大友氏泰を降伏させ、一色範氏を長門国に追放し、九州における南朝勢力の優勢を確立した』。後、『一色範氏は』『九州へ再度』、『侵攻するが、武光は豊前国でこれを』またしても『撃破』し、『ここに至って』、『一色範氏は九州制圧を断念し、京へ帰還』した。正平一三/延文三(一三五八)年一月には父『範氏に代わって探題となった一色直氏が』、『なおも挑んできたが武光はこれも撃退』、同年十一月には、『日向国の畠山直顕をも破って、ついに』彼は『九州の足利氏勢力をほぼ一掃した』とあるから、冒頭の「建武の末」(同元号は南朝方では一三三六年まで、北朝方では一三三八年まで使用した)という謂いは、展開と時代遅れで、完全に齟齬するため、無効である。]
爰に、武光、寵臣に、片罡主馬亮元忠といふものあり。彼(かれ)が父、片罡和泉守は、畠山基國の家臣にて、武勇剛强の者なり。幼少の比《ころ》、父母にをくれ、姨《をば》なりける人、都(みやこ)、堀川にて養育し、梶井宮(かぢ《ゐのみや》)に給仕して、十三歲の比ほひは、洛中にならぶかたなき美童の聞えありけり。
[やぶちゃん注:「片罡主馬亮元忠」不詳。
「片罡和泉守」不詳。
「畠山基國」(正平七/文和元(一三五二)年~応永一三(一四〇六)年)は守護大名。家系は足利氏一門の畠山氏。彼の「基」の字は初代鎌倉公方足利基氏より偏諱の授与を受けたものとされているが、活動としては基氏の兄義詮から続く足利将軍家に仕えて、室町幕府侍所頭人から第六代管領となり、越前・越中・能登・河内・山城・紀伊守護を歴任した人物である。
「堀川」町名で指すなら、この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「梶井宮」梶井門跡のいた現在の京都市左京区大原にある三千院の古い別称。
「給仕」稚児として務めること。]
武光、上京の折ふし、宮に昵近(ぢつきん)したてまつり、ひたすらに申請(《まをし》うけ)て本國に歸り、寵愛、なゝめならず。
年月を送るに、今年、已に十八歲、心だて、情(なさけ)ふかく、歌の道にも心をいれ、諸傍輩(しよはうばい)も馴れしたしみけり。
或る時、京なる姨、はからずして、此世をさりぬとて、父が系圖、母の書置(《かき》おき)にそへて、今はの形見の文《ふみ》を送る。
「我 久しく此國にありて 既に年月を送る あまりに戀しく『せめては忍びて行きとふらはばや』と思へども 世の亂れに心ならず あはで空(むな)しく別れにし かなしさよ」
とて、泣きかなしみける。せめては、形見の文をみるに、今はの筆(ふで)と見えて、文字(もん《じ》)もさだかに見えわかず。父が卷物、母の筆のあとを見るに、
「父和泉を討ちし母川丹後(も《かは》たんご)と云者 今は名をかへて 播州しかま津(づ)のほとりに軍師をなして 世をわたると聞出《ききいだ》し 女の身ながらも『本望(《ほん》まう)をとげばや』などゝ思ひし事も夢となり 此世を はやうす 哀れ 成人の後 此本望をとげて 草葉の陰の父母にも 手向(《た》むけ)給へ」
とぞ、かゝれける。
[やぶちゃん注:「母川丹後」不詳。
「播州しかま津」「飾磨津」。旧播磨国飾東郡(しきとうのこほり)、現在の兵庫県姫路市の南部の播磨灘に面していた船場川河口左岸にあった港町で、町の東が入江となっている。古くは「万葉集」に見える「思賀麻江」(飾磨江:しかまえ)で、歌枕としても知られる。長保四(一〇〇二)年に花山法皇が書写山(現在の姫路市の円教寺(えんきょうじ))に参詣するため「飾磨津湊」で下船している。鎌倉中期には、一遍が人々の集住する飾磨津で別時念仏を行っている。一帯には、平安末期から鎌倉期まで奈良薬師寺領の飾磨荘、南北朝期頃からは飾万津別符(べっぷ)が存在し、江戸時代は姫路城下の外港として栄えた。江戸時代の飾東郡飾磨津は野田川下流右岸から船場(せんば)川下流左岸にかけての南北に長い地域を占めており、姫路藩主池田輝政はここを要港として重視し、慶長六(一六〇一)年、入江に向島を建設して船役所・船置場を置き、船手(ふなて=水主(かこ))を配置し、城下から飾磨津に通じる運河(三左衛門堀)を開削、この運河沿いに浦手(うらて)六町と岡手(おかて)五町を含む「飾磨津町二十町」と称された町場も形成された。明治期の地図を「今昔マップ」でも示しておく。]
元忠、おどろき、
「かゝる事とは夢斗《ばかり》もしらで、此とし月を空しく過ごし、無念さよ。しらぬ事とて、是非に及《およば》ず。」
とて、時を移さず、此よし、武光に申《まをす》に、哀れに覺(おぼ)して、
「首尾よく討つて、歸るべし。」
とて、「浪分(なみわけ)」といひて、祕藏しける太刀をあたへ、金(こがね)をあまた給はり、いとまを得て、身ぢかき郞等《らうどう》二人をともなひ、舟に打のり、八十島(やそしま)かけて漕ぎ出づるに、釣舟は多けれど、言傳(ことづて)やらむ方(かた)もなく、鴛鴦《ゑんあう》のまじはりをなせし友も居《をら》ず、猶、ゆくさきは霧こめて、山もみえず、あとの白浪は、風かはるかと、うたがはる。姬島(ひめしま)を過ぎ、硫黃(いわう)のわたり、上(かみ)の關(せき)をこへて、おはたけの瀨戶(せと)・たゞのうみ・とものうら・大嶋(おほしま)・むしあけのせと・からゝと・ひゞきの灘(なだ)とて、名所名所は過ぐれども、もの思ふ心に見捨てて、日數(ひかず)へて、室津(むろづ)に至りて、此の邊(へん)の在家(ざいけ)に宿(やど)をもとめて、思ひ思ひの商人(あきうど)に身をやつし、ある時は、山伏・修行者にさまをかへ、近里遠村(きんりゑんそん)に徘徊し、ひそかに尋ねめぐり、其としも、漸々(やうやう)暮なんとす。
[やぶちゃん注:「姬島」現在の大分県北東部の国東半島沖に浮かぶ姫島(ひめしま)。
「硫黃のわたり」不詳。
「上の關」山口県熊毛郡上関町(かみのせきちょう)。
「おはたけの瀨戶」不詳。
「たゞのうみ」広島県南中部の竹原市に属する忠海(ただのうみ)。
「とものうら」広島県福山市鞆町(ともちょう)鞆の鞆の浦。
「大嶋」愛媛県今治市に属する大島であろうが、瀬戸内海東行のルートとしては、鞆の浦より西南で順序がおかしい。
「むしあけのせと」岡山県瀬戸内市邑久町(おくちょう)虫明への航路の入り口に当たる、長島(瀬戸内市)と鴻島(備前市)との間の瀬戸。虫明は古くは「韓泊(からどまり)」と呼ばれ、朝鮮使節や西国大名などの寄港地であった。
「からゝと」不詳。但し、前者の旧称「韓泊」との親和性が感じられ、その東北位置に「頭島(かしらじま)」があるので、そこを指すか。
「ひゞきの灘」不詳。響灘では西方に激しくずれるので、おかしい。]
「室(むろ)の泊り」といへるは、西海の舟着(ふなつき)にて、うかれ女(め)つどふ里なれば、わたる舟路のかぢ枕、色にぞ出るうつりがの、道行人《みちゆくひと》もひたすらに、心をとむる所なり。されば、近里遠鄕より、貴賤となく、入《いり》つどひ、人足(ひとあし)しげき所なれば、片罡も、折々《をりをり》は所の人にうちまぎれて、明暮(あけくれ)、忍び、うかゞひける。
[やぶちゃん注:「室の泊り」「室泊(むろのとまり)」は兵庫県たつの市御津町室津(みつちょうむろつ)にあった万葉の古代から中世に栄えた港で、「五泊(ごはく)」の一つ。]
たよる木陰のひまよりも、遊女のうたふ棹(さほ)のうた、たれか思ひに吹(ふか)するや、風のまにまに、ほのめくは、むかしを忍ぶありさま也。
爰に、「うてな」と云《いひ》し遊女は、此里の名高き女なりしが、いつのほどよりか、元忠に馴れそめて、ふかき契りをこめけるが、或とき、うてな、申けるは、
「君(きみ)がありさま、世わたるたつきのいとなみとも、おぼえず。形をかへて世を忍びおはしますは、いかなる故に、かくは、まします。かく斗《ばかり》おもふ我なれば、今は、つゝまず、あかさせ給へ。本より、つたなき流れの身なりとも、心は、などか、男子《なんし》にもおとらん。」
元忠も、うらなき心を感じて、
「いまは、何をかつゝむべき。我は菊地肥後守が家臣、片罡主馬元忠と云《いふ》者なり。父を母川丹後と云者に討(うた)せ、ケ樣に樣(さま)をかへて、年月、心をつくせども、姿をしらねば、力、なし。殊更、名を改めて、此近隣に居住するよし、『さもあらば、もしもや、此所へも來るよすがも。』と、かやうに、心をつくす。あなかしこ、必しも、人に語り給ふべからず。うらなき心を感じて、かくは語り申也。」
うてな、
「本(もと)より、さ、承りぬ。只人ならず思ひつるに、案にたがはぬ御物語りにつけて、究竟(くつきやう)の事こそ候へ。當國の住人、志賀鉄山と申《まをし》て、彼(かれ)は赤松の一族なりしが、去(さん)ぬる湊川の一戰に、先をあらそひ、遺恨を結びて、一族をはなれ、此里の向(むかふ)の林に引篭(《ひき》こもり)、隱遁の身となり、住み給ふ。うち物、人にこへ、强力(ごうりき)の勇士にて、賴もしき人にて、所の案内者にて候へば、うちたのませ給はゞ、かの行衞も、しれ申べし。」
と、ねんごろに語れば、元忠、よろこび、急ぎ、わがやに歸り、郞等ども召連(めしつれ)、聲花(はなやか)[やぶちゃん注:二字への読み。]に出立《いでたち》、かの庵(いほり)に詣でゝ、有《あり》し事ども、具(つぶさ)に語り、
「貴僧を、ひとへに、賴み奉る。」
と、禮を、あつふして語れば、入道、うち笑ひ、
「我、子細ありて、久布(ひさしく)[やぶちゃん注:二字への読み。]武門をはなれ、かく、邊土に身をかくし、たれしる者もあらぬに、遙々と國を越《こえ》て、父の敵(かたき)をうたむ事を、たのみ給ふ。誠に、入道を人と思ひて、語らひ給ふこそ、本望なれ。されば、母川丹後と云者、今は、俗名(ぞくみやう)、引き替へ、『自德齊』と名のり、當國に徘徊し、軍師を業(わざ)とし、數(す)十人、召し遣ひ、常に所をも定めず、幸《さひはひ》、此の室津の遊女になれて、折々、通ふと、きく。然れ共、數十人の弟子ども、常に付きそひ、用心すれば、率尓(そつじ)には打ち得じ。何とぞ、かの所にて、智略をめぐらし、打ち課(はた)させ給へ。さもあらば、此庵室(あんしつ)を心がけ、早速、退來(のききた)り給ふべし。追手の事は、某(それがし)にまかせらるべし。」
と、委細に手段(てだて)を云ひふくめてぞ、返しける。
[やぶちゃん注:「志賀鉄山」不詳。
「赤松」鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将で守護大名の赤松則村円心(建治三(一二七七)年~正平五/観応元(一三五〇)年)。当初、建武政権に尽力するも、不当な扱いを受けたために決別、それ以降は足利方につき、延元/建武三年五月二十五日(一三三六年七月四日)に勃発では、尊氏・直義兄弟らの軍に組みし、後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍に勝利した。]
元忠、
「天の、あたへ。」
と、嬉しく、うてなが方へ立ちこへ、右のあらまし、語り、
「若(もし)、左樣の物は、來らずや。」
と、とへば、
「それこそ。むかふの家に、常に來りて、『にしきゞ』と申《まをす》女郞に、ふかくちぎり、折々、かよふが、若き殿原(とのばら)、すくなき時は、五、三人、或は、十二、三人ともなひて、獨り來ること、なし。かの『にしきゞ』と申は、分(わき)てしたしくさぶらへば、我、手段(てだて)にて、醉ひふさせ、やすやすと討たせ參らせん。」
則ち、相圖の約速(やくそく)[やぶちゃん注:「速」はママ。]を究めてぞ、歸りける。
或日、自德齊、若き者、四、五輩、うちつれて、彼(か)の亭に赴き、めんめん、遊女にたはむれ、酒宴、興を、もよほす。
うてなをはじめ、遊女ども、はからずも、來りあつまり、
「御客の御もてなし、いつよりも、めづらしく、なぐさめ申せと、あるじの仰せにて、みなみな、推參(すいさん)申《まをし》てさふらふ。御ゆるされも候はゞ、一曲を、かなでゝ、御心をも、いさめ候はん。」
と申せば、自德齊、大に悅び、主(あるじ)の情(なさけ)を感じ、をのをの、酒宴を催しける。
うてな、聞ゆる琴の上手(じやうず)、「今やう」の、めい人成《なり》ければ、
誰(たれ)となく よせては歸る浪枕
浮きたる船の跡もなく
その人とわきてまつらん妻よりも
たのむ人にはたのまれて
そのたはれめのうさつらさ
定めぬ夜々《よよ》の契りだに
猶 夕暮は身もこがる
げにはかなしや
むなしき床(とこ)に明けくれて
雲 をしはるゝ春風(はるかぜ)に
ゑみをふくめる花もがな
と、うたひおさめければ、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]感にたへ、酒たけなはにめぐりて、うつゝなきさまにぞ成《なり》にける。
夜(よ)も更けかば、自德齊をはじめ、其の外の者共、前後もしらず、醉《えひ》ふしたり。うてな、
「時分は、よし。」
と、悅び、
「かく。」
と案内すれば、元忠、二人の郞等、何(いづ)れも出で立ち、武光より給はりし、「浪分の太刀」を帶(は)き、日比祕藏しける「折金(おりかね)」といへる腹卷(はらまき)し、眞先に忍び入《いり》、まづ、君(きみ)たちを忍ばせ、五人の者ども、一々、首(くび)かきおとし、扨、母川が跡先(あとさき)につつ立ち、枕をけかへし、驚かし、
「兼ても聞き及ぶらん、片罡和泉守が一子、主馬亮元忠といふ者なり。正體なき有樣哉《かな》。起きて勝負をせよ。」
と、太刀のむねにて、ふと、腹をしたゝかにうちつけおどろかせば、丹後もさる剛(がう)の者、
「心得たり。」
と、枕に有りける太刀、とつて、ぬきうちにはらへば、妻手(めて)に立つたる郞等が諸足(もろあし)、
「ずん」
と切つて、おとす。
「元忠、是れにあり。」
と、右の肩先より切り付けたるに、太刀は、もとより聞ゆる名劍、左の腰へかけ、二つに、
「さつ」
と切りわけたり。
やがて、うへにのりかゝり、
「父聖靈(しやうりやう)に手向《たむけ》奉る。」
と、首、うちおとし、兼て用意の、首入(くびいれ)のうつわ物に入《いれ》、やがて、表に走り出《いで》けるが、一人の郞等、いまだ、死もやらず、不便なる事なり。
「是(これ)までつきそふ心ざし、いかに、ほうじざらん。」
と、元忠、又、立かへり、引《ひこ》おこしみれば、郞等、
「きつ」
と、みて、
「我、已(すで)に深手おひ、忽ちに死すべきもの也。我、故に、かひなく、大勢に取り篭められ給はん事の淺ましさよ。とくとく、のかせ給へ。」
と、みづから太刀をくはへて、伏しければ、力、及ばず、主從二人、其の場をのきけるに、松明(たいまつ)、天をこがし、聲々に呼ばはりて、おひかくる。
漸々(やうやう)と、ある入り江に望み、舟は、なし、橋は、なし、跡は、しきりに追ひかくる。
「是までなり。」
と、最後を究むる所に、一村(ひとむら)の芦陰(あしかげ)より、
「しばし。」
と、呼びかけ、
「急(いそ)ぎ、これよ。」
と、小舟(をぶね[やぶちゃん注:ママ。])さしよせ、此の者共をのせ、入江にそひて押し行く。向ふの藪かげより上れば、鉄山の庵室の外面(そとも)也。
心靜かに用意して、
「こよひの内に、急ぎ、港に出《いで》、此の曉の舟に乘り、とくとく、歸國有るべし。又の便(たより)に、互ひの左右(さう)を語るべし。」
と、
「追手(おひて)の者は、我に、まかさるべし。」
とて、別れぬ。
透間もなく、追手の者共、數十人、蒐(か)け來り、
「此入江に船も、なし。汐(しほ)みちて深し。向ふにこすべき便りも、なし。いかさまにも、此芦原にかくるゝと覺《おぼゆ》るぞ。」
とて、草を分けてさがしける。
鉄山、弓手(ゆんで)に網をもち、芦間より顯はれ出で、
「何事にや、方々(かたがた)は、かく、夜更けて、いかに。」
といへば、追手の者ども、有《あり》つる次第を語るに、
「我、霄(よひ)より、此の入江に魚取(すなどり)し、心をすましゐたるに、更に左樣の者、來らず。むかふの山道、心元なし、尋ね給へ。」
と、敎ゆれば、
「實(げに)も。貴樣、霄よりおはしませば、しらせたまはぬ事、あらじ。扨は、山道へや、落ち行きけむ。」
と、各《おのおの》、取つて返し、おめきて、さりぬ。
入道、一旦の計略にて、多くの者を返し、しらぬよしして、庵(いほ)に歸りぬ。
主馬は、思ひのまゝに本望をとげて、二度(《ふた》たび)、國にかへり、武光に、
「かく。」
と申ければ、大きに悅び、大庄(たいしやう)、あまた給はれば、
「我、かく、本望をとげしも、ひとへに、『うてな』が情(なさけ)。又は、鉄山のうしろみ。旁(かたがた、恩をも報ぜばや。」
と、二度(《ふた》たび)室津に至り、鉄山に對面し、淚をながし、
「君が情(なさけ)により、あやうきを、まぬかる。年來(としごろ)の本意(ほんい)を達つす。當國は、おだやかならず。何がしが領内に、心靜かに世を送らせ給はゞ、此上の御恩たるべし。」
と、さまざまに、いざなひ、則ち、金銀財寶に、うてなをこふて、古鄕(ふるさと)へ具して、家門、ながく繁榮しけるとぞ。
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