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2022/08/20

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 「相貝經」(石朱仲著)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。図はない。本篇「相貝經(さうばいきやう)」は魏・晋・唐・宋・明の小説を収録している叢書「五朝小説」に載る石朱仲(せきしゅちゅう:詳細事績不詳)の書いた一文である。国立国会図書館デジタルコレクションの「貝盡浦之錦(かひづくしうらのにしき)」に「附録」として収録されてある(その「解題」の磯野直秀先生の解説によれば、『本資料は紀伊徳川家への献上本らしい大型本である。著者大枝流芳』(おおえだりゅうほう ?~寛延三(一七五〇)年頃)『は摂津の香道家』であるが、十七『世紀後半には貝類収集が盛んになり、歌仙貝(和歌』三十六『首に合わせて選んだ貝』三十六『品)の刷物も元禄』二(一六八九)『年頃から板行されはじめていたが、総合的介類書の刊行は本書が最初である』とある)。その掲載の後に大枝は、『石朱仲が「相貝經」、五朝小說、魏・晉の藝術家の中に、之れ、有り。享保乙巳歳八月下浣、泉谷山の中に於て、之れを寫す。』と記している。「魏・晉」は魏晋南北朝時代で、後漢末期の「黄巾の乱」から始まり、隋が中国を再び統一するまでの複数の王朝が割拠していた時期を言う(一八四年~五八九年)。「享保乙巳歳八月下浣」は享保十年八月下旬で、グレゴリオ暦一七二五年九月下旬から十月五日までに相当する。梅園の訓点と比較してみたが、梅園は本書のそれを元にしているものと考えて問題ない。訓読では、私が一部で読みや送り仮名を施し、段落を成形した。]

 

Saubaikei

 

   相 貝 經

 

 黃帝・唐堯(たうげう)・夏禹(かう)、三代の貞瑞、靈竒の秘寳は、其の此れを次(つ)ぐ者、有り。

 貝、尺に盈(み)ちて、狀(かたち)、赤電(しやくでん)・黑雲(こくうん)のごとき、之れを「紫貝(しばい)」と謂ふ。

 素質、紅黒(こうこく)なるを、之れ、「朱貝(しゆばい)」と謂ふ。

 青地(あをぢ)に綠の文(もん)、之れ、「綬貝(じゆばい)」と謂ふ。

 黑き文に黃は、葢(けだ)し、之れ、「霞貝(かばい)」と謂ふ。

 「紫(し)」は疾(やまひ)を愈(いや)し、「朱」は目を明(あきらか)にし、「綬」は氣の障(さは)りを淸(きよ)くし、「霞」は蛆蟲(うじむし)を伏(ぶく)す。齡(よはひ)を延(のぶ)ること、能はずと雖も、壽を増す。其れ、害を禦(ふせ)ぐこと、一(いつ)なり。

 復又(またまた)、此れを下(さが)る者は、鷹の喙(くちばし)・蟬の脊は、以つて、溫を逐(おひはら)ひ、水を去る。竒功、無し。

 貝、大なる者、輪のごとし。

 文王、「大秦貝(だいしんばい)」を得(う)。徑(わたり)、半尋(はんひろ)。

 穆王(ぼくわう)、其の殻を得て、觀(くわん)に懸くる。

 秦の穆公は、以つて、「燕黽(えんまう)」を遺(のこ)し、以つて、目を明にして、遠くを察すべし。

 宣玉(せんぎよく)、宣金(せんきん)。

 南海の貝は、珠礫(しゆれき)のごとし。或いは「白駮(はくかう)」、其の性、寒、其の味、甘く、二水の「毒浮貝」は、人をして寡(か)ならしむに、以つて、婦人に近(ちかよす)る無し。黑白(こくびやく)各(おのおの)半(わか)るる、是れなり。

 「濯貝(たくばい)」は、人をして善(よ)く驚かしめ、以つて、童子に親(した)すむること無し。黃唇・㸃齒にして、赤き駮(まだら)有るもの是れなり。

 「雖貝(すいばい)」は、瘧(おこり)を病(や)ましむ。「黑鼻」・「無皮」、是れなり。

 「爵貝(しやくばい)」は、胎を消(しやう)ぜしむ。以つて、孕婦(はらみめ)に示す勿(なか)れ。赤き帶、通脊(つうせき)せる、是れなり。

 「慧貝(けいばい)」は、人をして善く忘れしむ。以つて、人に近(ちかよす)ること、勿れ。赤熾(せきし)の內殻、赤き絡(つらなり)、是れなり。

 「醟貝(ゑいばい)」は、童子をして愚かに、女人を淫(みだら)ならしむ。靑唇・赤鼻有り。是れなり。

 「碧貝(へきばい)」は、童子をして盜(ぬすみ)せしむ。背の上、縷(いと)の句(く)の唇(くちびる)、有り。是れなり。雨ふるときは、則ち、重く、霽(はれ)るときは、則ち輕(かろ)し。

 「委貝(いばい)」は、人をして志(こころざし)を強くし、夜行(やかう)するに、迷鬼・狼・豹・百獸を伏(ぶく)せしむ。赤くして、中(なか)、圓(まどか)なるもの、是れなり。雨ふるときは、則ち、輕く、霽るときは、則ち、重し。

[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では段落全体が一字下げ。最初の字下げをせずに差別化しておく。]

「緯畧(ゐりやく)」に云ふ、『師曠(しこう)、「禽經(きんけい)」有り。浮丘公、「鶴經(かくけい)」有り。相ひ畜(たくは)ふと雖も、亦た、「牛經」・「馬經」・「狗經」、有り。下(し)も、蟲・魚に至りて、「龜經」・「魚經」有り。唯(たゞ)、朱仲が傳へる所(とこ)ろの「貝經」は、恠竒、甚だし。經を琴髙(きんかう)に受ける。』と。

[やぶちゃん注:以下の頭の「○」は孰れも本文列から特異点で上に配されてある。]

○「綱目」曰はく、『蚌(ぼう)、蛤(ごう)と類を同じくして、形を異にす。長きの者を、通じて「蚌」と曰ひ、圓(まどか)なる者を、通じて「蛤」と曰ふ。故に「蚌」は「手」に從ひ、「蛤」は「合」に從ふ。皆、形を象(かたど)るなり。後世、混じて「蚌蛤」と稱するは、非なり。』と。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が三字下げで、字の大きさも小さい。頭の字下げをやはりやらずにおいた。]

此の説に從ひ、長(ちやう)を「蚌」とし、圓(ゑん)を「蛤」とす。殻、ねじけて厴(ふた)ある者、「螺」と云ひ、亦、「蠃(ら)」と云ふ。一片無對(むつい)の者は、則ち、「石决明(あわび)」の屬(たぐひ[やぶちゃん注:ママ。])なり。亦、竒形(きけい)の品あり。是れは異とす。

[やぶちゃん注:以下の内、終わりの「◦予、……」以下は字が小さい。梅園の附記である。]

○愼懋官(しんぼうくわん)の「花木考」に曰はく、『螺は多種にして掩(けわ[やぶちゃん注:別人の写本(位置が異なる)で確認した。しかし、意味が判らない。「ケツ」かも知れない。所謂、「尻(けつ)」で、以下の続きからは「蒂(へた)」のことのように思われる。])、白にして、香(か)ある者(もの)を、「香螺(こうら[やぶちゃん注:ママ。])」と曰ふ。殻、尖り、長き者を、「鑽螺(さんら)」と曰う[やぶちゃん注:ママ。]。味、之れに次ぐ。刺(とげ)有るを、「刺螺(しら)」と曰ふ。其の味、辛きを「辣螺(らつら)」と曰ふ。「拳螺(けんら)」と曰ふ有り。「劔螺」・「斑螺(はんら)」・「丁螺(ていら)」と』云〻(うんぬん)。◦予、余品(よひん)に「螺」の名を戴載(たいさい)するもの、其の數、少なからず。本條の集説、之れに出だす。

[やぶちゃん注:以下の二段落(行空けはママ)は本文から二字下げで字が小さい。やはり、頭下げを敢えてしなかった。]

貝品(かひひん)、其の數、盡し難し。其の中(うち)、「錦貝」は雅翫(がぐわん)の介の長(たけ)たり。諸州に有りと雖も、丹後・但馬・竹野浦の産、佳(よき)產なり。紀州の者、色、淡く、美ならず。貝品、多く出だすは、紀州和歌浦(わかのうら)・荒濵・加多(かだ)・粟島の北濵等、及び泉州・丹後・太皷(たいこ)の濵・琴彈(ことひき)の濵・紀州・熊野・伊勢・二見の浦、又、相州鎌倉雪の下・江の嶋の邉(あたり)、美貝(びかひ)あり。徃古(わうこ)より、貝賣(かひうる)家、多し。武州鈴ヶ森のほとり、大森の海邉(うみべ)よりも、多く出(いだ)す。又、貝賣家、あり。最も、諸州遠國に及んでは、美貝・竒貝の品(しな)夥(あまた)あるべし。得難(えがた)きをや。

 

貝合(かひあはせ)の事は、髙家(かうけ)女児の戯れにして、久しく傳われり[やぶちゃん注:ママ、]。家行(いへゆき)、「神主の記」ありて、其の始めを「舊事記(くじき)」に出(いづ)る「黒貝姫(いがいひめ[やぶちゃん注:ママ。])」と、「蛤貝姫(うむぎひめ)」とに取(と)れる。然れども、全文を考へるに、揷(さ)して貝合の濫觴(はじめ)とすべきに非らず。只(ただ)、其の名より牽(ひ)き合(あはせ)、附會(ふくわい)せり。景行天皇五十三年、淡水門(あわのみなと[やぶちゃん注:ママ。])に御幸す。白蛤を得る事あり。是れは、只、鱠(なます)と爲(な)して、之れを献ずと云〻。

貝合の事、介譜の説にあつからざれば、此(こゝ)に贅(こぶ[やぶちゃん注:ママ。別人の写本では「ガフ」と振る。普通に「ぜい」と振ってくれれば、躓かないのだがなぁ。])せず。

 

[やぶちゃん注:この「相貝經」は、以上の通り、民俗社会に於ける貝(貝殻)の呪術的な奇怪な記載を固有名とともに示して、所謂、後の六朝時代(二二二年~五八九年)に盛んに書かれ出した志怪小説の趣きを持っている。書誌学的には作者や本文について纏まって考証された文献はネット上にには見当たらない。私が見出せたのは、一つ、鈴鹿市出身の教師で貝類研究家であった金丸但馬(明治二三(一八九〇)年~昭和四五(一九七〇)年)が『ヴヰナス』に長期に亙って連載された「日本貝類學史」の「(8)」の、「第2章 支那本草學の 直譯と我が國本草學の建設」の章で、本「梅園介譜」にも出る林羅山道春の「多識編」で、「相貝經」からの「貝子(たからがひ)」固有名の提示に言及された部分であった(「J-Stage」のこちらからダウン・ロードできる)。そこでは、「説文」の字解から十種の和名を挙げた後に、「相貝經」にある八種について、ただ漢名をそのまま挙げてある。「多識編」原本の当該部は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のこちらの左丁一行目の「浮貝(フバイ)」から三行目の「委(イ)貝」までであるが、金丸氏はその論文で、以上の「相貝經」中の八種について、訳文を以下のように載せておられる45コマ目)。

   《引用開始》

淨貝は人をして寡ならしめるから婦人に近寄らしめてはならぬ

濯貝は人をして驚かしめるから童子に親しましめてはならぬ

雖貝は瘧黑を病ましめる[やぶちゃん注:これは「貝盡浦之錦」や梅園の読みとは異なる。]

嚼貝は胎を消さしめるから孕婦に示してはならぬ

惠貝は人をしてよく忘れしめるから人に近づけてはならぬ

醟貝は童子をして愚に、女人をして淫ならしめる

碧貝は童子をして盜せしめる

委貝は人をして志強く夜行に迷鬼狼豹百獸を伏せしめる

といふ實に奇怪な說が述べられて居り、學者[やぶちゃん注:林道春。]も之を和譯するのに窮し遂に音譯して置いたのである。

   《引用終了》

なお、金丸氏は基本「相貝經」に載る貝を総て「宝貝」タカラガイ科 Cypraeidaeに属するものと認識されていることが判った。古くから貝貨としてあり、現在もコレクター垂涎の種群であるから、特に異論はないが、果して全部が全部そうであるかどうかは、留保したい気はする。また、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「海蛤」の項にも、良安は本「相貝經」を引いている。私の古い訓読文を一部修正した。

   *

「相貝經」に、所謂(いはゆ)る。「碧貝」・「委貝」の、能く雨-霽(あめふるはるゝ)を知るがごときも、亦、妄ならざるなり【碧貝、背上に縷(る)[やぶちゃん注:糸のように細い筋。]有り。唇、勾(ま)がる。雨(あめふ)れば、則ち、重く、霽(はる)れば、則ち、輕し。委貝は赤くして、中圓。雨れば、則ち、輕く、霽れば、則ち、重し。】。其の他、勝(あ)へて計(かぞ)ふべからず。

   *

私が「相貝經」の他の記載について、冒頭の注の他に追加出来ることは以上に尽きる。以下、語注を禁欲的に附す。貝の同定は、記載が古い上、内容も乏しいので、基本的に種を検討しないが、「多識編」に記載があるのものは示す。

『貝、尺に盈(み)ちて、狀(かたち)、赤電(しやくでん)・黑雲(こくうん)のごとき、之れを「紫貝(しばい)」と謂ふ』る。「多識編」のここの左丁四行目に(太字は底本では四角二十囲み、黒地に白字抜き)、

   *

紫(シ)貝【「唐本草」。】。異名「文(ブン)貝」【「綱目」。】。

   *

『青地(あをぢ)に綠の文(もん)、之れ、「綬貝(じゆばい)」と謂ふ』「多識編」のここの右丁最終行目に、

   *

綬貝 美豆利加゛伊

   *

とある。「みどりがい」で殼背が緑色を呈するタカラガイの種と、林は「説文」などから解釈しているようである。

『黑き文に黃は、葢(けだ)し、之れ、「霞貝(かばい)」と謂ふ』「多識編」のここの左丁一行目に、

   *

霞貝 惠加岐加゛伊

   *

「壽を増す。其れ、害を禦(ふせ)ぐこと一(いつ)なり」「寿命を結果として伸ばすのであある。従って、人体に対する害を防ぐという点に於いて、以上の貝は、孰れも、同一の効果を持っているのである。」。

「此れを下(さが)る者は、鷹の喙(くちばし)・蟬の脊は、以つて、溫を逐(おひはら)ひ、水を去る。竒功、無し」ちょっと意味が判らないのだが、「下る」という部分から、『これらの貝の優れた効果を、有意に減衰してしまう呪物として、「鷹の觜(くちばし)」と「蟬の殻」(私はそう採る)があり、このマイナスの呪物は、体温を下げてしまい、体内の必要な水気(すいき)を除去してしまう。されば、先の貝類の効能を無効化してしまう。』と言っているものか。

「文王」(紀元前十二世紀~紀元前十一世紀頃)は殷末の周国の君主。殷の紂王に対する革命戦争(「牧野の戦い」)の名目上の主導者であり、周王朝を創始した武王や周公旦の父にあたる。後世、特に儒教にでは、武王や周公旦と合わせて、模範的・道徳的な君主(聖王)の代表例として崇敬される(当該ウィキに拠った)。

「大秦貝」諸論文を見るに、上記の周の文王が王権を示す「大貝」を入手したという伝承があり、後にそれを受けた後の中国王朝や西方での噂として生じた伝説の巨大な貝で、実在する種ではないようである。

「徑、半尋」殻の長径。当時の「尋」は八尺で約一メートル八十センチであるから、九十センチ。

「穆王」周朝の第五代王。

「觀」道教の神を祀る道観。当該ウィキによれば、『彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせて』、遂には、『西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り』、『西王母に会い、西王母が後に入朝したと言う。このことは穆天子伝としてまとめられている。神話、伝説の要素を多く含む中国最古の旅行記である』とある。

「燕黽(えんまう)」不詳。ネットでも全く掛かってこない。「黽」には「蛙」の意があるが、判らぬ。貝に見える対象物の名で、「目を明にして、遠くを察す」ることが出来るという漢方的効能からは、思うに、例の南方熊楠の英文論文“ The Origin of the Swallow-Stone Myth ”(一般に「燕石考」と訳される)で知られる古生代のシルル紀から二畳紀に生存し、特に石炭紀に繁栄した腕足動物イシツバメ科に属する種の化石「石燕」(スピリファー:Spirifer)のことであろう。鳥が翼を広げた形の石灰質の殻をもち、その表面には放射状の襞がある。殻の中に螺旋形の腕骨を有するのが特徴で、漢名は形をツバメに譬て名づけたものである。私の)『「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「石燕」 (腕足動物の†スピリフェル属の化石)』を参照されたい。

「宣玉、宣金」不詳。それらの宝貝を「玉」や「金」に等しいと歴代の王は宣(のたも)うてこられた、ということか。

「珠礫」ここは単に、貝の礫(つぶて)なのであるが、それが宝石の珠玉に等しい美しさを持っているというのである。なお、「金塊珠礫」の故事成句があり、「贅沢を極めること」を言う。「塊」は「土の塊り」、「礫」は「小石」で、「金を土のように扱い、宝石を小石のように扱う」の意から、晩唐の杜牧の「阿房宮賦」が出典。

「白駮(はくかう)」不詳の貝の名。「白駮」は模様なら、「白い斑(ぶち)」を指す。

「二水」地名らしいが、不詳。台湾に二水郷はあるが、内陸なので違う。

「瘧」マラリア。

「緯畧」南宋の文人高似孫(一一五八年~一二三一年:(一二二五年に処州(現在の浙江省麗水市附近)の知州(知事)を務めたが、ひどい貪官であったという。官は礼部郎であったが、官人としては不遇であった。当該ウィキに拠った)の広範囲に及ぶ雑録集。彼は多才でカニの博物学書「蟹略」(かいりゃく)もものしている。

「師曠」(生没年不詳)は春秋時代の晋の平公(在位:紀元前五五八年~紀元前五三二年)に仕えた楽人。よく音を聞き分け、吉凶を占ったとされる。

「禽經」師曠が書いたとされる鳥類書。但し、偽書説もある。別に晋の博物学者張華の同名の作品が、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。

「浮丘公」仙人王子喬(生没年不詳:周の霊王(?~紀元前五四五年)の太子晋と同一人物とされる)の知人の道士。サイト「中国の図像を読む」の「第二節 鶴は松に巣をつくる?」の「三、長寿と仙禽としての鶴」を参考にさせて戴いた。

「鶴經」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで浮丘公の「相鶴經」が視認出来る。

「相ひ畜(たくは)ふ」孰れも蔵書するの意であろう。

「牛經」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらに「齊」の「甯戚」(ねいせき)の撰になる「相牛經」が載る。

「馬經」李伯樂の「相馬經」。「伯樂相馬經」とも。かの知られた伯楽(紀元前七世紀頃:春秋時代の人物。姓は孫、名は陽、伯楽は字。郜(こく)の国(現在の山東省菏沢市成武県)の人。馬が良馬か否かを見抜く相馬眼(そうばがん)に優れていた)の著とされる。

「狗經」不詳。

「龜經」早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある明の陶宗儀の纂になる佚書の文集「説郛」(正篇・巻第百九)のPDF一括版の「58」コマ目から、作者不詳の抄録のそれが載る。カメ類の博物書であるが、亀卜関連の各個記載も散見される。

「魚經」不詳だが、これに類したものは、わんさかある。

「琴髙」「立命館大学アート・リサーチセンター」の「ArtWiki」の「琴高」に、漢の劉向(りゅうきょう)の「列仙傳」を訳して、『琴高は趙の人である。よく琴を弾いたので、宋の康王』(戦国時代の宋の第三十四代にして最後の君主。在位は紀元前三二九年~紀元前二八六年)『の舎人となった。涓子や彭祖の術を実践し、冀州・碭郡の地方を放浪すること二百余年。のち、碭水に潜って竜の子を取ってくると言い遺し、かつ弟子たちと約束して当日はみんな潔斎して水辺で待ち、祭場を設けておくようにと伝えた。すると、果たして赤い鯉に乗ってあらわれ、水から出て祠の中に坐した。翌朝には多数の人がこれを見にやってきた。こうして一月あまり滞在していたが、再び水中に入って去った』とある人物が遠い昔に書いたものか。この話自体が時間が異様に離れており、伝説的で信じ難い。

「綱目」李時珍の「本草綱目」の「蚌」の項からの引用。「漢籍リポジトリ」のこちら[108-4b]以下を参照。

『愼懋官(しんぼうくわん)の「花木考」』明の万暦年間(一五七三年~一六二〇年)に刊行された愼懋官(官人慎蒙(一五一〇年~一五八一年)の子)の撰になる博物書。以下は巻之七の「華夷鳥獣考 羽毛鱗介昆虫」の「螺」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の一括PDF版(巻之六と巻之七の合冊)88コマ目。単体画像はこちら

「香螺」(かうら)は、本邦では、「甲香」、音では「カフカウ(コウコウ)」或いは「カヒカウ(カイコウ)」(「貝香」の当字)、または「へなたり」と訓ずる。吸腔目カニモリガイ上科キバウミニナ科 Cerithidea Cerithideopsilla 亜属ヘナタリ Cerithidea(Cerithideopsilla) cingulata 及びウミニナ(類形を有する複数の別種の通称)の仲間で、特にこれらの持つ角質の蓋を燻して香に利用した種群の総称である。

「鑽螺」現代中国では、尖塔の鋭い盤足目スイショウガイ(ソデボラ)科トンボガイ属スイショウガイ Terebellum terebellum terebellum に当てる。「鑽」は「錐」の意。

「刺螺」現代中国では、平板の螺形に放射状に棘が出る古腹足目リュウテンサザエ科リンボウガイ Guildfordia triumphans に当てているが、ここは広く腹足類の殻上に棘を多く出す種群を言っているものと思う。

「辣螺」ニシ類などの複数の「肉が辛い巻貝」を示す総称語。

「拳螺」これはサザエ型の種群を広く指す。

「劔螺」不詳。ナガニシのような尖塔性の縦長で長大な類か。

「斑螺」斑点紋を持つ巻貝の総称ととっておく。

「丁螺」不詳。画像検索をかけると、中文サイトでは盛んに螺塔が突き出た貝画像が出てくる。学名を調べようとしたが、一向、判らなんだ。

「本條の集説、之れに出だす」梅園も「相貝經」の対象が総て巻貝であることを認めているようである。

「錦貝」これは種名ではなく、広く色紋様が多色で美しい貝のことのように思う。確かに、斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科カミオニシキ亜科カミオニシキ属ニシキガイ Chlamys squamata があり、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページでは、『市場に入荷することも、食用とされることもない』としつつ、『貝の収集の対象』で、『淡い紅色が美しい』とはあるが、二枚貝で、私の食指はその形からもちょっと動かないし、以下の称揚に相応しいとは思われない。

「雅翫(がぐわん)の介の長(たけ)たり」「雅びな玩弄の対象としての貝の長(おさ)、チャンピオンである」。

「竹野浦」兵庫県豊岡市竹野町(たけのちょう)竹野の竹野海岸附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「紀州和歌浦」和歌山県和歌山市の、この湾の旧広域呼称

「荒濵」不詳。但し、前後から考えると、現在の和歌山県和歌山市二里ヶ浜の磯ノ浦のように思われる。

「加多」現在の和歌山市加太(かだ)

「粟島の北濵」現在の淡路島の北東岸の兵庫県淡路市佐野附近か。

「太皷の濵」京都府京丹後市網野町掛津の太鼓浜。そこの北東と南西に「琴彈の濵」、鳴き砂で知られる現在の京都府京丹後市網野町掛津の琴引浜(ことひきはま)がある。

「武州鈴ヶ森」旧鈴ヶ森刑場があった、現在の東京都品川区南大井。現在は干拓で原「大森の海邉」は存在しないので、「今昔マップ」で示す。

「家行」度会家行(わたらいいえゆき 康元元(一二五六)年~正平六/観応二(一三五一)年?)は伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の神官で、伊勢神道の大成者。当該ウィキによれば、『度会有行の子で、村松を姓とし、はじめ行家といったが、禰宜昇格に際して改名した。徳治元』(一三〇六)年に『度会行忠の死没による欠員で禰宜に昇格し、以後累進して』、興国二/暦応四(一三四一)年には伊勢内外宮の十禰宜の上首である『一禰宜となり、南朝から従三位に叙せられ』、正平四/貞和五(一三四九)年に『職を退いた』。『伊勢神道の外宮の神官として、内宮より外宮を優位とする伊勢神道を唱えて、仏より神が上位であること(反本地垂迹説)と、外宮信仰を主張した』。『家行は学者・祠官としてのみならず』、「建武の新政」『挫折後の南北朝の動乱で』は、『南朝方の北畠親房を支援し、南伊勢地区の軍事的活動にも挺身した。後醍醐天皇の吉野遷幸に尽力したほか、その神国思想は北畠親房の思想に大きく影響し、親房の師とされ、また、他の南朝方にも影響を与えた』。『家行の著作の中では、特に』「類聚神祇本源」が『後世の神道に大きな影響を与えた』とある。

「神主の記」不詳。「類聚神祇本源」かどうかは判らない。調べる気も起らない。悪しからず。

「舊事記」平安時代の史書。全十巻。著者未詳。序に蘇我馬子らの撰とあるが、大同年間(八〇六年~八一〇年)以後、承平六(九三六)年以前の成立とされる。神代から推古天皇までの歴史を述べたもの。「先代旧事本紀」「旧事本紀」とも称する。

「黒貝姫」「蛤貝姫」ともに貝を神格化した女神で、天地開闢の神々の一柱である神皇産霊尊(かむみむすびのみこと)の子。前者は他に「蚶貝比賣(きさがいひめ)」「支佐加比賣(きさかひめ)」「枳佐加比賣(きさかひめ)」とも書き、後者は「宇武賀比比賣(うむかひめ)」とも書く。参照した、昔からお世話になっているサイト「玄松子の記憶」のこちらによれば、『八上比売』(やがみひめ『を得たため、兄弟八十神の怒りをかった大穴牟遅神』(おおなむちのみこ=大国主命)『は、伯岐』(伯耆に同じ)『の国で手間山』(てまやま)の『上より落とされた焼いた大石を麓で捕らえたことにより』、『焼死する。泣き憂えて天に上った御祖の命の願いにより、神産巣日神に派遣された𧏛貝比賣と蛤貝比賣が、母の乳汁(赤貝の貝殻の粉末に蛤の汁を混ぜたもの)によって、 大穴牟遅神を蘇生させた』とある。『𧏛貝比賣は、赤貝を神格化した女神』で、「先代旧事本紀」には「黒貝姫」と『ある。一説には、赤貝に刻(きさ:貝の年輪)があることによる』といい、『蛤貝比賣は、ハマグリを神格化した女神』であるとある。

「景行天皇五十三年、淡水門に御幸す。白蛤を得る事あり。是れは、只、鱠(なます)と爲(な)して、之れを献ず」国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」(昭和六(一九三一)年岩波書店刊)の当該部をリンクさせておく。左ページの終りの部分である。

「介譜の説にあつからざれば」「介譜の類いでは、細かくは書かれていないので」。]

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