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2022/08/23

多滿寸太禮卷第五 獺の妖恠 / 多滿寸太禮卷第五~了

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第四巻一括版)。本篇には挿絵はない。本篇を以って「多滿寸太禮卷第五」は終わっている。]

 

   獺(かはをそ)の妖恠《えうけ》

 大永年中に、都五條の洞院に、一人の商人(あきうど)有《あり》、又五郞と名づく。年每に、駿河・遠江に徃來《わうらい》して、染絹を商ふ。

 その比《ころ》、世間も、しばしば、おだやかならねば、徃來(ゆきゝ)も、たやすからず。

[やぶちゃん注:「大永」。一五二一年から一五二八年まで。室町幕府将軍は足利義稙・足利義晴だが、既に戦国時代で大永七(一五二七)年二月十二日には「桂川原の戦い」が勃発、管領細川高国が細川六郎の連合軍に大敗して、将軍足利義晴を奉じて京から落ち延び、評定衆や奉行人まで逃げ出したため、幕府の機能は完全に麻痺していた。

「都五條の洞院」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

 春も末つ方、都を出《いで》、高荷(たかに)は、人、あまた、そへてやり、その身は、共(とも)ひとりを具して行《ゆき》けるが、美濃・尾張を過《すぎ》て、已に三河路《みかはぢ》にかゝりて急ぎしに、二村山《ふたむらやま》のほとりにて、日、漸々(やうやう)、かたむき、人家、程遠くして、足、なづみ、入相(いりあひ)つぐる鐘の音も、聞えず、たつきもしらぬ山の麓に、霞(かすみ)、引《ひき》わたして、おぼろ月よの、ほのかにさしいでけるに、むかふをみれば、一むら茂れる森の木陰に、朱(あけ)の玉垣(たまがき)、かすかに見へければ、

「こよひ一夜(いちや)は、此《この》拜殿にあかさばや。」

と、御燈(ごとう)のひかりにつきて、立《たち》よりみれば、本社・拜殿、きらをみがき、

「さも結構なる御社《みやしろ》なり。いかなる神の御鎭座《ごちんざ》にや。」

と、心靜かに禮拜(らいはい)して、則ち、拜殿にのぼりて、わりごなんど、取り出だして、下部(しもべ)もろとも、食(しよく)して、

「究境(くつきやう)のやどり。」

と、嬉(うれ)しく、前なる川にて、足をあらひ、御寶殿の下に、淸らかなるやどりあれば、主從二人、もろ共に、前後もしらず、うちふしける。

[やぶちゃん注:「二村山」は現在の愛知県豊明市沓掛町皿池上(くつかけちょうさらいけかみ)にある標高七十一・八メートルの山。当該ウィキによれば、『豊明市の最高地点であり、眼下に広がる濃尾平野や岡崎平野のかなたに猿投山や伊吹山地、御嶽山までを一望にしうる景観は名勝として古くから知られる。歌枕ともなり、平安時代の頃から数多くの歌や紀行文の題材にされてきた。現在でも山頂から山麓にかけて、その長く風趣な歴史を物語る歌碑・石碑がいくつか残されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。話柄内時制の二十余年後の「桶狭間の戦い」の戦地の東北直近である(次注の地図リンクで左下方に同「古戦場伝説地」を配しておいた)。

「たつきもしらぬ山の麓」「一むら茂れる森の木陰に、朱(あけ)の玉垣(たまがき)、かすかに見へければ」二村山山麓の神社となると、豊明神社であろうか。但し、後で「二村山八幡宮」と出るのだが、現行では八幡神を祀っているかどうか確認が出来なかった。]

  已に夜更(よふけ)、しづまりけるに、數(す)十人の聲して、どよめきければ、又五郞、目をさまし、ひそかにのぞき、うかゞひみるに、拜殿に、蝋燭《らふそく》、あまた、たてならべ、金(きん)の屛風、引《ひき》まはし、さも、きらびやかに裝束したる、めのと・半者(はしたもの)、ちらちらと、火かげに、みゆ。

「こは、いかに。」

と、よくよくみれば、上座とおぼしき所に、廿(はたち)あまりの上郞、琴(きん)をたづさえて、引しらぶるけしき、いはんかたなく、いつくしきに、年比(としごろ)の尼比丘尼(あまびくに)、そのかたはらにあり、女(め)の子童(わらは)三人、同じごとく出で立ちて、日を出したる扇子(あふぎ)を、一やうに、かざし、此上郞、琴を彈(だん)じ、尼は、ひとよぎりをふけば、めのとは、三味線(さみせん)をならしけるに、かの三人の童(わらは)は、やがて立ちあがり、調子にあはせて舞《まひ》をどりける。

[やぶちゃん注:「ひとよぎり」「一節切」。尺八の一種。長さ一尺一寸一分(約三十四センチメートル)ほどの短い竹製の縦笛。普通の尺八と異なり、節は一つだけある。室町中期に中国から伝えられたとされ、江戸時代にかけて用いられた。]

 くまなき春の朧月は思ふにつらし

 やみは 人めもいとはぬに 雨は

 音せで ふる五月雨《さみだれ》

 に ほさぬ袂は 風吹くかたへ

 引《ひか》ば なびかん花かづら、

 たぐひもあらしの山櫻 余所(よそ)

 の見るめも いかならん

と、おしかへし、おしかへし、立《たち》まふ體(てい)、まことに、又、たぐひなふ、めもあやに詠(なが)めゐたるに、布衣(ほい)のごとくに、白裝束したる、おのこ壱人《ひとり》、たてゑぼしきて、さも、すゝどげなる男、兩三人、松明(たいまつ)ともして、御手洗川(みたらし《がは》)の邊(へん)より出《いで》て、靜かにあゆみ入來り、拜殿にのぼり、上郞共に打みだれて、興を催(もよほ)しけるに、色々の生魚(なまうを)、數々、鉢(はち)にいれて、持ちはこぶ。

[やぶちゃん注:「御手洗川」これは固有名詞ではなく、神社に引き込んである浄水に主流であろう。]

 その魚、生《いけ》るがごとし。

 鯉・鮒・鱸(すゞき)なんどの、おどりはねしを、此の男ども、つかみくらいて[やぶちゃん注:ママ。]、男女(なんによ)、入《いり》みだれ、うちふし、不禮なるさま、いふ斗りなし。

 各《おのおの》、女、一人づゝ、かい抱(いだ)きて、たわむれたる[やぶちゃん注:ママ。]ありさま、ひとへに、人間(にんげん)のごとし。

 あまりに、ふしぎにおぼえて、よくよく、みれば、男の貌(かほ)、まなこ、丸く、ちいさく、口とがり、色、黑し。

『何樣(なにさま)、けだものゝ妖(ばけ)たるにこそ。』

と思ひければ、旅の用意に、もたせたる半弓《はんきゆう》を取り出《いだ》し、能(よ)く狙ひすまし、大將とおぼしき者の、胸のほとりを、したゝかに射付(いつけ)たり。

「あつ。」

と、おめく音(おと)して、上下、肝(きも)をけし、とりどり、逃げ出でたり。

 此《この》まぎれに、女共も、いづちいにけん、火も、きへ、闇に成りたり。

 かくて、漸々、明がたになり、しのゝめも、しらじらと明《あく》る比《ころ》ほひ、社司、二人、出で來りて、本社にむかひ、祈念しけるが、あたりに、血、ながれ、生魚(なまうを)、あまた喰《くひ》ちらして、けだものゝ足あと、拜殿に

「ひし」

と有《あり》。

 兩人、

「また、例(れい)の妖(ばけ)もの、出《いで》つらん。」

と、爰かしこ、見廻しけり。

 又五郞主從、社の下より、這《はひ》出ければ、社人(しやにん)、おどろき、

「何者ぞ。」

と、いへば、

「我々は、行き暮れたる旅人にて、夕べ、夜に入《いり》、人里もしらず、此《この》所に、ふしぬ。そもそも、『妖(ばけ)もの』と仰せらるゝは、いかなる事にて侍る。」

と問へば、

「その事にて候。此社は、二村山八幡宮とて、靈驗、あらたにましまし、近里(きんり)遠國(おんごく)より、かつごう[やぶちゃん注:ママ。「渴仰」の歴史的仮名遣は「かつがう」である。なお、「渇仰」は本来は仏教用語である。]の首(かうべ)を傾(かたむ)け奉りけるに、日外(いつぞや)のほどよりか、夜(よ)に入《いれ》ば、妖物(ばけもの)出《いで》て、人を、なやまし、氣を失《うしな》はするにより、あたりへ人の通(かよ)ひも侍らず。かたがたは、ふしぎの命、助かり給ふ。あやしき事も、さふらはずや。」

と語れば、又五郞、

『扨は。』

と思ひ、有《あり》つる事ども、具(つぶさ)に語り、

「則ち、矢を負(おは)せ侍る。此血をとめて見給へかし。さるにても、あまたの女どもは、いかなる妖情《えうせい》[やぶちゃん注:「情」はママ。後で「ようせい」と振られてある。]にてか侍らん。」

と、あたりを見まはすに、御社(みやしろ)に掛られたる繪馬に、けだかき上郞の、琴(きん)をひき、其《その》傍らに、尼・めのと・女共、あまた、あり。一よ切(ぎり)、さみせんを引《ひき》たり。めの童(わらは)、三人、たちて舞ふあり。屛風、そのほか、夕(ゆふべ)みたるに、露もたがはず、所々、血にまみれたり。

「うたがひもなく、此繪馬(ゑま)の情(せい)に、外(ほか)のけだ物の化(ばけ)て、妖情《えうせい》のあつまりける。」

と、則《すなはち》、かの繪馬をおろし、一々、喉(のんど)をつき破りて、かの血を尋ね、村人、大ぜい、催し、したひてみるに、御手洗川の艮(うしとら)[やぶちゃん注:北東。鬼門。]に、大きなる岩穴《いはあな》あり。

 其内へ、のり、ひきて、あり。里人、大勢、かゝりて、これを、うち崩し、ふかく掘り入《いる》程に、次第にうち廣く、一、二丈も掘りければ、獺、數(す)十疋、おどり出たり。

 そのてい、よのつねならず、大きにして、幾(いく)とせふるとも、しらず。

 人をみて、牙(きば)をかみ、とび付《つき》、喰付《くらひつき》けるを、或は、打殺《うちころ》し、切殺し《きりころ》けるほどに、已に十余疋なり。

 其《その》おくに、一つの大なる黑白《こくびやく》まだらの獺、むないたを矢につらぬかれて、齒をくい、牙をかみ出《いだ》して、死(しゝ)てあり。

『是《これ》ぞ、宵(よひ)の大將ならむ。』

と思へり。

 のこらず、うち殺して、をのをの、くらひけるに、更に、よのつねの獺に、かはらず。

 其の後(のち)、この社にばけもの絕《たえ》て、諸人(しよにん)、晝夜(ちうや)、參詣しけるとかや。

[やぶちゃん注:「獺」日本固有種のそれは、日本人が滅ぼした食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon である。近代に至るまで、本邦の民俗社会に於ては、狐・狸に次いで人を化かす妖獣とされていた。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を参照されたい。]

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