「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 火齊珠に就て (その三・「追加」の3) / 火齊珠に就て~了
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ後ろから三行目の中間)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。但し、例によって段落が少なく、ベタでダラダラ続くため、「選集」を参考に段落を成形し、注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。ちょっと注に手がかかるので、四回(本篇を独立させ、後のやや長い「追加」を三つに分ける)に分割した。]
又二卷七號に、吉谷君は玻瓈、硝子の文字もまた隋唐時代の書に初て見ると言われたり。予は本草網目水精の條に、時珍が藥燒成者有氣眼、謂之硝子、一名海水精、抱朴子言、交廣人作假木精盌是此と有る。明朝前に硝子の語、あるを知らず。果して隋唐の世に、此語を用ひたる例有らば、敎示を吝まざらん事を望む。玻瓈に至ては、隋唐前にも此字確かに有り。陳の眞諦が譯せる立世阿毘曇論卷二の第五品に、漏闍耆利象王住所、或有金堂、或有銀堂、玻瓈・瑠璃、亦復如是、第八品に、須彌山王云々、東邊眞金所、西邊白銀所成、北邊瑠璃所成、南邊玻瓈、其一切邊衆寶所成云々。城外四邊七重寶栅云々、其最裏樹、眞金爲成、次是白銀、第三瑠璃、四玻瓈柯。其れより先、姚秦の鳩摩羅什譯大智度論卷十に、瑠璃玻瓈等皆出山窟中云々、若法沒盡時、諸舍利皆變爲如意珠、譬如千歲過氷化爲玻瓈珠。歐州にも古え、水精は氷が凝て成る所と信じたるを、十七世紀にサー・トマス・ブラウンの俗說辨惑(プセウドドキシヤ・エピデミカ)二卷一章、特に之を排せり。後世、支那人が「ガラス」を玻瓈と呼し事、和漢三才圖會卷六十等に見え、飜譯名義集卷八に、頗梨或云塞頗胝迦、此云水玉、卽蒼玉、或云水精、又云白珠、塞頗胝迦は、玄奘譯阿毘達磨藏顯宗論卷四に頗胝迦とせり。「モニエル・ウヰリヤムス」其他の梵語字彙を見るに、水精の梵名スファーティカ、立世阿昆曇論には水精と飜したる所と、玻瓈柯、又、玻瓈と音譯せる所と有り、スファーティカを玻瓈柯と訛略し、又、玻瓈と縮めたるにや。但し、今日の波斯語とヒンヅー語共に水槽をバルールと呼び、梵語に「ガラス」製の飮器をパリグハ、又パーリーと名けたれば、其より玻瓈柯、又、玻瓈の漢字を用い初めしが、水精と硬硝子、時として頗る識別し難きは、大英類典十一板卷十一に見ゆ。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。
「本草網目水精の條に、時珍が藥燒成者有氣眼、謂之硝子、一名海水精、抱朴子言、交廣人作假木精盌是此とある」まず、「漢籍リポジトリ」で校合し、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年版の当該部(右丁二行目末から)の訓点を参考にして以下に訓読する。
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藥にし、燒き成す者は氣眼あり。之れを「硝子」と謂ふ。一名「海水精」。「抱朴子」に、言はく、『交廣の人、假(えせ)の水精の盌(わん)を作る。』とは、是れ此れなり。
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「陳の眞諦が譯せる立世阿毘曇論」(りゅうせあびどんろん:現代仮名遣:正式には「佛說立世阿毘曇論」)は真諦(しんだい:サンスクリット名:パラマールタ 四九九年~五六九年:西インド生まれで五四八年に梁の武帝に招かれて渡来した訳経僧。その後、梁末から陳にかけての難を、蘇州や杭州の地に避けつつ、訳経事業を開始した)の漢訳になる、阿毘達磨(アビダルマ)学の論書(仏教の教説の研究・思想体系及びそれらの解説書・注釈書を指す)。「大蔵経データベース」で校合した。但し、熊楠はどれも、長い原文を漢文めいて作文しており(例えば、以下の冒頭)、さらに掟破りの操作がある。則ち、以下の本書引用中の原本では「玻瓈」は総て「頗梨」と表記されているのを、書き変えてある点である(まあ、先に注したように同一物と見做してよいとは思うので、取り敢えずはそのままとしたが、やはり引用としては捏造レベルであり、完全なレッド・カードで退場ある)。なお、王の名は機械的に音で読んだ。
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漏闍耆利象王(ろうじやぎりしやうわう)の住む所は、或いは金堂有り、或いは銀堂有り、玻瓈、瑠璃も復た、是くのごとし。
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「第八品」同書の巻二の「天住處品第八」であるので注意されたい。底本を見られたいが(右ページ八行目)、「爲」が「所」になっていたり、「樹」が落ちており、存在しない「用」が入っているので、ここは原本に従い、熊楠の引用を修正した。
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須彌山(しゆみせん)の王云々、東邊は眞金の成す所(ところ)、西邊は白銀の成す所、北邊は瑠璃の成す所、南邊は玻瓈、其の一切の邊は衆寶の成す所云々。城外の四邊は、七重の寶栅あり云々、其の最も裏(うち)なる樹(き)は、眞金の爲(し)成すところ、次は白銀、第三は瑠璃、四(し)は玻瓈柯(はりか)たり。
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「柯」は柄或いは枝状に加工したそれを指すか。
「姚秦」(えうしん)「の鳩摩羅什譯大智度論」「姚秦」(ようしん)は後秦のこと。五胡十六国の一つで、三八四年に羌(きょう)族の長であった姚萇(ようちょう)が前秦から独立して建国した。都は長安で、二代興の時代には華北の西半分を領したが、三代目の四一七年、かの東晋の名将劉裕に滅ぼされた。「大智度論」は「摩訶般若波羅蜜経」(大品般若経)に対して注釈を加えた書。百巻に及ぶ。初期の仏教からインド中期仏教までの術語を詳説する形式になっているので、仏教百科事典的に扱われることが多い。漢訳は鳩摩羅什(くらまじゅう 三五〇年頃~四〇九年頃:中国の仏典翻訳僧の中で最も偉大な者の一人。父はインド人で、母は亀茲(きじ)国(中央アジアに存在したオアシス都市国家。現在の新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ市附近にあった)の王女という。七歳で出家し、仏教を学び、さらに北インドに学んだ。その後、中央アジア諸国をめぐり、大乗仏教に接し、亀茲国に帰国したが、後に後秦に招かれて長安に行き、訳経事業に従事した)による(四〇二年~四〇五年成立)。同じく「大蔵経データベース」で校合した。ここでも熊楠は「頗梨」を「玻瓈」に書き換えている。
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瑠璃・玻瓈等は、皆、山窟中に出づ云々。若(も)し、法(ほふ)の沒盡する時は、諸(もろもろ)の舍利、皆、變じて如意の珠と爲れり。譬へば、千歲を過ぐる氷の、化(け)して玻瓈の珠と爲るがごとし。
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「法」は「はふ」ではないのか? と突っ込む人のために言っておくと、仏教用語の場合は「はふ」ではなく、かく歴史的仮名遣表記をするのが普通である。
「サー・トマス・ブラウンの俗說辨惑(プセウドドキシヤ・エピデミカ)」イングランドの博物学者で名文家としてとみに知られるトマス・ブラウン(Sir Thomas Browne 一六〇五年~一六八二年)が一六四六年に初版を刊行し、最終改訂版を一六七二年に出した‘Pseudodoxia Epidemica ’(プセウドドキシア・エピデミカ:「伝染性謬見」「荒唐世説」などと邦訳される)。
『後世、支那人が「ガラス」を玻瓈と呼し事、和漢三才圖會卷六十等に見え』このためにこちらで当該箇所である『「和漢三才圖會」卷第六十「玉石類伊」の内の「玻瓈(はり)」』を電子化しておいた。
「飜譯名義集」(ほんやくみやうぎしふ)は南宋で一一四三年に成立した梵漢辞典。七巻或いは二十巻。法雲編。漢訳仏典の重要梵語二千余を六十四目に分類し、各語について、訳語・出典を記したもの。「大蔵経データベース」で校合した。
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「頗梨、或いは塞頗胝迦(さいはていか)と云ふ。此(ここ)にては水玉(すいぎよく)と云ふ。卽ち、蒼玉、或いは水精(すいしやう)と云ひ、又、白珠と云ふ。」
「塞頗胝迦」は前に掲げた宮嶋純子氏の論文『漢訳仏典における翻訳語「頗梨」の成立』(『東アジア文化交渉研究』(二〇〇八年三月)収載。「関西大学学術リポジトリ」のこちらからダウン・ロード出来る)に載る。源信の「往生要集」中巻では「頗胝迦寶」と出る。所持する浄土真宗僧で仏教学者の花山勝友(はなやましょうゆう 昭和六(一九三一)年~平成七(一九九五)年)訳「往生要集」(現漢文新字体訓点附・一九七二年徳間書店刊)には注して、『玻璃(はり)と同じで、水晶のこと。』とある。
「玄奘譯阿毘達磨藏顯宗論卷四に頗胝迦とせり」「大蔵経データベース」で確認、四ヶ所出る。
「モニエル・ウヰリヤムス」既出既注。
「立世阿毘曇論には水精と飜したる所と、玻瓈柯、又、玻瓈と音譯せる所と有り」「大蔵経データベース」で確認したが、「水精」が第二に一ヶ所、「玻瓈柯」「玻瓈」は第六に「玻梨柯」で四ヶ所見つけたが、「玻瓈」や「玻梨」はなかった。不審。
「スファーティカを玻瓈柯と訛略し、又、玻瓈と縮めたるにや」これはサンスクリット漢訳語の変遷を推定したものとして目を惹く。但し、その場合、圧倒的に多い「玻梨」を示さねば、不完全である。なお、ここで、たまたま千葉工業大学付属研究所教授岸井貫氏の論文『「ガラス」の語彙と語源』(PDF。『マテリアルインテグレーション』連載(一九九九年)が原形か)を見つけた。本篇にこの箇所や、南方の仮説なども引かれてあり、本論考の「ガラス」の歴史考証としては最新のもので、最も信頼出来るものであろうから、是非、読まれたい。
「水精と硬硝子、時として頗る識別し難きは、大英類典十一板卷十一に見ゆ」既出既注の熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)で、十一版の第十二巻を「Internet archive」の「Glass」の「101」の右に、十四世紀頃には、ヨーロッパで水晶で出来ているように見える硬質ガラスで製品を作ったことが出てくる。]
古へ至硬の寶石を切瑳する術開けざりし世には、諸寶石は唯だ奇物として扱はれ、眞珠、水晶等、較や柔かにして工を施し易き者の佳品が專ら珍重され、從つて佛經に、金剛石抔主として其硬きを稱揚するのみ、眞珠の紅を帶びたるも者(鉢摩羅迦)、眞珠の大にして最も優れたる者(摩尼寶)等を至寶とし、水精の最も純良なるを玻瓈と名けて、金、銀、瑠璃と竝べて須彌の四寶と稱へ、又馬瑙、硨磲等とともに七寶と呼びしなり。玻瓈、水精一物と大和本草にも云り。
[やぶちゃん注:「較や」「やや」。
「鉢摩羅伽」読み不明。「はつまらか」と仮に読んでおく。「大蔵経データベース」で検索すると、「大智度論」・「翻譯名義集」・「淨土三部經音義集」に記載がある。「大智度論」では「七宝」(後注参照)以外に挙げており、信頼出来る論文では、現在のルビーに比定している。
「摩尼寶」「まにほう」と読んでおく。
「須彌の四寶」「しゆみのしほう」。金・銀・瑠璃・玻璃。須弥山(しゅみせん)はそれで出来ているとする。
「七寶」(しちほう)は仏教で貴重とされる七種の宝。当該ウィキによれば、『七種(ななくさ)の宝、七珍ともいう。工芸品の「七宝」(七寶瑠璃、七宝焼)の語源と言われている。専ら』、『工芸品の七宝をシッポウとよび、仏教の七宝をシチホウと』呼び、『サンスクリット語』では『サプタラットナ、パーリ語』では『サッタラタナ』と呼ぶ。「無量寿経」に『おいては』、「金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ)・珊瑚・瑪瑙」とされ、「法華経」『においては』、「金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰(まいかい)」と『される』とある。この内、『瑠璃は、サンスクリット語では』バイドゥーリヤ(漢音写:「吠瑠璃」(べいるり))、『パーリ語で』『ヴェルーリヤ』で、『青色の宝玉で、アフガニスタン産ラピスラズリと推定されている。後に、青色系のガラスもさすようになった』とあり、玻璃は、サンスクリット語』漢意訳で「水精」(すいしょう)、『無色(白色)の水晶、後に、無色のガラスを指す』とし、『硨磲は、シャコガイの殻、又は白色系のサンゴ』、『玫瑰は、詳細は不明であるが、赤色系の宝玉とされる』とある。
「玻瓈、水精一物と大和本草にも云り」国立国会図書館デジタルコレクションの原本を見ると、貝原益軒の「大和本草」の巻之三の「金玉土石」の項の「水晶」の条には、この記載は、全く、ない。その後の「硝子(ビイドロ)」の条を読むと、そこで益軒は(訓読する)、「今、俗、用ひる所のガラスをも『琉璃』と云ふ。是は藥物を以つて作る『琉璃』の、にせ物なり。近來、此の製法、中華に傳り、琉璃・火齊珠・南蠻珠・大秦珠等の名あり。皆、ビイドロなり。」と述べた後、「通鑑(つがん)」綱目の註や「本草綱目」の「水精」の集解をダラダラと引いた最後で、「今、按ずるに、皆、是れ、ビイドロなり。」と言い放って終わっているのである。則ち、熊楠は自分に都合のいいように疑問がある箇所をざっくりとカットして語ってしまっていることが判る。益軒は「人工的に作った硝子は水晶ではない」と断言しており、中国で言う「水精」も「琉璃」も、その中に人工的に作った偽物である「ビイドロ」が多量に含まれていることをこそ、言っているのである。ちょっと、熊楠にして、鼻白む杜撰な引用である。]
吾國にても明治十四年の東京博覽會に、一萬圓の水精一顆甲州より出品有りし。金剛石を切瑳する法は、一四五六年(義政將軍の時)レウイ・ド・バールケン、之を發明せしも、十六世紀に至て初て流行せり。支那の一地方に金剛石を出せど、切瑳の術を知らず、纔かに磁器を穿つ鑽として祕藏する由、五、六年前の東洋學藝雜誌にて見たり。西洋にて金剛石の切瑳術、弘まりてより、眞珠等、諸寶の價、大に墮しは、ボーン文庫本英譯ハムボルト回歸線内亞米利加紀行一卷五章に見ゆ。
[やぶちゃん注:「明治十四年の東京博覽會」明治一四(一九八一)年三月一日から六月三十日まで上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会。国立国会図書館公式サイト内の「博覧会 近代技術の展示場」のこちらを参照されたい。
「一四五六年」康正正年十一月末から同二年十二月初めまで。
「レウイ・ド・バールケン」人類史上、初めてダイヤモンドを研磨したとされる伝説のダイヤモンド研磨師ルドウィック・ヴァン・ベルケム(Lodewyk van Berken/英語転写:Ludwig van Berquem)。「BRIDGE ANTWERP BRILLIANT GALLERY」公式サイトのこちら(日本語)を参照されたい。
「鑽」「きり」。錐。
「五、六年前の東洋學藝雜誌」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、題名のみは見られるが、ざっと見たところでは、どの論文か不明。
「弘まりてより」「ひろまりてより」。
「大に墮し」「おほいにおちし」。
「ボーン文庫本英譯ハムボルト回歸線内亞米利加紀行」プロイセンの博物学者・探検家・地理学者として知られるフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt 一七六九年~一八五九年)の英訳の‘Personal narrative of travels to the equinoctial regions of the New continent during the years 1799-1804’(「一七九九年から一八〇四年の新大陸赤道地域への旅行の私的な物語」)か?]
再び按ずるに、頗梨を玻瓈に作る事、東晉の朝、已に有り。卽ち、佛陀跋陀羅譯、觀佛三昧海經卷一、阿私陀仙、悉達太子の眉間白毫を相するに、卽取尺度量其長短、足滿五尺、如瑠璃筒、放已右旋、如玻瓈珠、顯現無量百千色光と出たり。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「○」。
「東晉の朝」三一七年~四二〇年。
「佛陀跋陀羅」(ぶっだばったら:サンスクリット語/ブッダバドラ 三五九年~四二九年)は東晋の中国で活動した北インド出身の訳経僧。
「觀佛三昧海經」「大蔵経データベース」で校合し、頭に少し追加した。
「卽ち、尺を取り、その長短を度量するに、五尺に滿つるに足り、瑠璃の筒(つつ)のごとし。放(はな)ち已(をは)れば、右に旋(めぐ)りて、玻瓈の珠のごとし。無量百千の色光(しきくわう)を顯現す。」。]
序に言ふ、一八八五年第三板、バルフヲールの印度事彙卷一頁一二一一に、當時印度てに「ガラス」作る料品、多きに拘らず、普通の德利すら作り得ず。是れ「アルカリ」を用ること過多にて、舌を「ガラス」に充るに、其味を覺ゆる程なるに因ると有り。大英類典一二卷九七頁に、古フヰニシア人、鍋を粗鹸(不純なる炭酸曹達)もて支え、物を煮て、鍋下に「ガラス」樣の物を見出だしたるが「ガラス」の始め也と傳ふるは、多少の本據有り、全く火勢に因て、鹸と砂と結合して、「ガラス」に酷似せる珪酸曹達を作り、其より進んで珪酸曹達を耐久性「ガラス」に仕立てたるなるべしと云へり。想ふに、往時、支那人も、硝石等の「アルカリ」鹽を夥く用ひて「ガラス」を作りしより、硝石より生ずるとの意で、硝子と名づくるに及びたる者か。
[やぶちゃん注:「一八八五年第三板、バルフヲールの印度事彙」「選集」では書名に『ゼ・サイクロベジア・オヴ・インジア』と振る。これは南方熊楠の論考に複数回既出既注のスコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年)で、彼はインドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した。彼はインドに関するCyclopaedia(百科全書)“The Cyclopaedia of India” を出版し、その幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の原本のこちらの右ページ左に「GLASS」の項がある。
「充る」「あつる」。
「大英類典一二卷九七頁」既出既注の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)で、「Internet archive」のこちらの、右ページの右の段の下から七行目からが当該部。
「古フヰニシア人」Phoenician。セム族の一派であったフェニキア人は、紀元前一五〇〇年頃からシリア地方の地中海沿岸地域に都市国家群を建てたが、その総称は「フェニキア」。主な都市国家はシドン・ビブロス・テュロスで、紀元前八世紀以降は政治的独立を失い、起原前四世紀にマケドニアに敗れ、起原前一世紀にはローマに併合された。因みに、彼らのアルファベットをギリシア人は採用した。
「粗鹸」(そけん)「選集」では『ナトロン』とルビする。「natron」は炭酸ナトリウムの水和物と炭酸水素ナトリウムを主成分とする天然の炭酸塩鉱物。アフリカや北米の塩湖や干上がった湖に産出する。古代より石鹸やガラスの原材料として用いられた。
「曹達」「ソーダ」。
「硝石」天然に産出する硝酸カリウムKNO3。チリ硝石及びペルー硝石は硝酸ナトリウムであるが,硝石の壁は硝酸カルシウムで、幾つかの洞穴の壁で見つかっている。]
〔追記〕支那にて「ガラス」を玻瓈、琉璃と稱するは、外國名の音譯にて、火齊珠なる語は漢代より見ゆるも、此三名共に「ガラス」の外に種々の石をも指す名たる事、上述の如し。硝子は遙か後に出で來たりし名也。然るに、漢代の書に陽燧を載す(秦の呂覽にも載せたりと思へど、記憶のみにて今其書を見ざれば確かならず)。准南子註や古今注に據れば、金屬にて製り、火を日より取る物なれど、後漢の初め、王充が筆せし論衡の率性篇に、陽燧取火於天、五月丙午日中之時、消鍊五石、鑄以爲器、磨礪生光、仰以嚮日、則火來至、此眞取火之道也、と有り。是れ、確かに漢代既に石を鎔して「ガラス」を作り、「レンズ」を製せしを證するに足る。之に反し、琉璃、火齊等に人造物有る由は、漢以後の書に始めて見る所なり。又、女媧が五色の石を鍊て天を補ひしてふ文有れど、小說なれば信じ難し。
[やぶちゃん注:「秦の呂覽」(りよらん)は「呂氏春秋」の別称。秦の呂不韋(りょふい ?~紀元前二三五年)の撰になる、先秦の諸学説や諸説話を集めた類書。全二十六巻。
「製り」「つくり」。
「王充が筆せし論衡の率性篇に、陽燧取火於天、……」王充(二七年~100年頃)は後漢初の思想家。会稽上虞 (浙江省)出身。若い時、洛陽に出て班彪 (はんぴょう:「漢書」の著者班固の父)について学んだ。家が貧しかったので、書店で立ち読みして暗唱したという。郷里に帰って郡に仕えたが、世俗に合わず、辞職した。当時としては珍しく合理的批判精神の持ち主であった。「論衡」は全三十巻八十五篇(但し、一篇は篇名のみで散佚)から成る思想書・評論書。実証主義の立場から自然主義論・天論・人間論・歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で、非合理的な先哲や陰陽五行思想・災異説を迷信論として徹底的に批判した書である。「論衡」の巻第二の「率性篇」の以下は、「漢籍リポジトリ」のこちらで校合した。訓読する。
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陽燧(やうすい)とは、火を天より取るものなり。五月丙午(へいご)の日中の時、五石(ごせき)を消鍊し、鑄(い)て以つて器と爲(な)し、磨礪(まれい)して、光を生ぜしめ、仰(うはむ)けて、以つて日に嚮(む)くれば、則ち、火、來たり至る。此れ、眞(しん)に火を取るの道なり。
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「陽燧」とは、火を作りだすために太陽光線を集光する銅製の鏡を指す。「五石」古代の五種の薬石。石層(堆積岩か)・丹砂(たんしゃ:辰砂(シナバー:cinnabar)。硫化水銀からなる鉱物)・雄黄(砒素の硫化鉱物)・白礬(はくばん:明礬)・青磁石(せいじしゃく:青色を帯びた磁性を持った石か)の総称。多くは道教で不老長生薬の原料として道士が用いたものとして出る。「消鍊」熱を加えて溶かすこと。「磨礪」磨き上げること。]
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