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« フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件 | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説余禄」 鼠小僧次郞吉略記 »

2022/08/26

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 西丸御書院番衆騷動略記

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。祭り番付など、一部を読み易くするために改行を施した。

 なお、本篇は「千代田の刃傷(にんじょう)」と呼ばれた、文政六(一八二三)年四月二十二日に松平忠寛(ただひろ:寛政三(一七九一)年生まれ。旗本。通称は外記(げき)。彼はその場で切腹した。享年三十三)が引き起こした殿中での刃傷事件(死者四名(一名は深手により翌日死亡)・外傷一名)「松平外記刃傷」の略記である。本事件については、より詳細な松浦静山の「フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件」を先に電子化注しておいたので、そちらをまずは読まれたい。静山は立場上、より詳しい一次資料文書を記しているからである。

 

   ○西丸御書院番衆騷動略記

西丸御書院番松平外記、其相番に遺恨有ㇾ之。文政六年癸未四月廿二日申の時、於西丸御書院番部屋、及刄傷者如ㇾ左。

          西丸御書院番

            酒井山城守組

          高八百石 卽死  本 多 伊 織

                    年五十八歲

          高八百石 卽死  沼 間 左 京

                    年二十一歲

           式部卿殿用人

             戸田可十郞忰

          高三百石 卽死  戶田 彥之丞

                   年三十二歲

          高三百石 手負  間部 源十郞

                   年五十八歲

          高千五百石 手負 神尾 五郞三郞

                     年三十歲

           西丸御小納戶

             松平賴母伜 

          高三百石 自害  松 平 外 記

                   年三十三歲

一、右相手五人の内、三人者、卽死す。二人は、手負也。此内、一人は、翌日、死す。御書院番部屋二階にての事也。迯去者も有ㇾ之。後及御吟味云。

        其節の外科 天 野 良 節(養イ)

[やぶちゃん注:「養イ」は別な一本では「良養」とするの意。]

一、松平外記者、即時に自害せし也。右遺恨の趣は、御番所新加入の時、故老のともがら、慮外非法[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『非道』。そちらの方が躓かない。]擧動有ㇾ之。依ㇾ之、外記、度々、恥辱に及びしかば、堪忍なりがたく、今日、擊果せし也。懷中に書置有ㇾ之。

一、外記の目ざす相手は、本多伊織と外に一人あり。その人、この日、當番ならざりければ、必死を免れしといふ風聞あり。姓名、憚あれば、略ㇾ之。

當日、番頭酒井山城守と、御目附新庄鹿之助と、内談して、「この儀、内濟にせん。」と執計ひしに、上より御沙汰有ㇾ之。依ㇾ之、内證にて不相濟御詮議の上、酒井山城守、御目附加番新庄鹿之助、本番阿部四郞次郞は御役被召放訖。この日、相番の御番所も、小普請入被仰付、しもの、多く、有ㇾ之【阿部は本番なれども、この日、「いたはることあり」とて、新庄をたのみて、登城せず。翌日、出仕して、新庄とともに御咎を蒙りしとなり。】

[やぶちゃん注:「内濟」(ないさい)は、表沙汰にしないで(この場合は殿中刃傷であるから、当然、正式な幕閣に於てするべき評定を指す)をせずに、内々で事を済ませること。]

一、當日相番の何がし、うろたへて自分の屋敷まで迯かへりしを、所親、諫めて推戾したりなどいふ風聞もありけり。彼故老の輩、非法多かりし中に、外記の着たる肩衣の紋を、墨にてぬり消したること、しばしばなり。その肩衣は御紋つきもありしを、憚らで、ぬり消したりとぞ。外記殿の叔母は、御本丸の老女なりければ、その前日に件のぬりけされたる、御紋服の肩衣の御紋を、いくつか切ぬきて、ふみ箱に收め、叔母御へ委細を消息して、「かゝる事も候へば、堪忍なりがたく、覺悟仕りたり。」など聞えしかば、その叔母御より、ひそかに上へも聞えあげられしにや。上には、はやく知食て[やぶちゃん注:「しろしめされて」。]、廿二日の騷動の折、西丸へ御たづねの旨、あらせられしにより、西廳にも驚せ給ひて、御沙汰ありしかば、頭のはからひ、いたづら事となりて、御咎をかうむりたり、なんど、いふ。これらは下の風聞なれば、虛實はしらねど、さもあらんかと、ある人、いひけり。

一、松平外記、實は二十七歲也。居屋敷は築地小田原町にあり。父松平賴母は御納戶御膳番にて、年來、奉公の人也。外記自害の上は、父に、咎め、なし。相替らず勤めらるゝと言。部屋住たるによりて也。

[やぶちゃん注:かく書かれているが、アップ・トゥ・デイトな松浦静山の「フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件」、及び、ウィキの「千代田の刃傷」及び「松平忠寛」によれば、父松平忠順は御役御免となっているが(心情から、とても続けてはいられぬであろう)、改易はされていないし、忠寛の子が家督も継いでいる。]

一、外記殿、この日、登城の折、用人某、「明日、おん迎は例刻に可指上哉。」と問[やぶちゃん注:「とひ」。]まうせしに、「否、迎は入らず。大かた、駕にて退出するならん。」といはれしを、こゝろ得がたく思ひしに、果して、この凶事ありしとぞ。

一、この年、本多伊織の門松のほとりへ、正月元目の朝、かひ犬が、人の首を啣來て[やぶちゃん注:「くはへきて」。]、捨置たり。未曾有の事なれば、驚きあやしまざるものもなく、主も家來も、いまいましがりて、はやくとり隱せしが、四月に至りて、かゝる珍事あり。「その身は、枉死したりける前兆なりしを、後に知る。」といふ。ある人の話也。

この頃、例の落頌落首、いくらともなく、いでたり。抑、「この騷動ありしより、御番所の風儀、改りて、新加入の人、動[やぶちゃん注:「やや」。]易くなりぬ。この外記の恩澤也。」など、いひけり。

[やぶちゃん注:「枉死」(わうし)は、災害に遭遇したり、殺害されたりして、非業の死を遂げることを言う。なお、他に「冤罪で死ぬこと」の意にも使う。]

按ずるに、寬永五年十一月六日の夜、西丸御番所奈良村孫九郞、その相番鈴木久右衞門、木造三郞左衞門に遣恨ありて擊果したり[やぶちゃん注:「うちはたしたり」。]。是、則、大猷院樣御代にて、今を距[やぶちゃん注:「へだた」。]ること百九十六年、前後、兩度、かゝる珍事あり。奈良村氏の事は、「寬永年錄」に見えたるを、左に抄錄す。

[やぶちゃん注:「寬永五年十一月六日」一六二八年十二月一日。馬琴の言うように、「年錄」(江戸幕府の諸役所で公務について記した日記を類を指す。現在はその中の幾つかが、写本編纂されて、いくつかの伝本が伝えられてある。国立国会図書館デジタルコレクションを調べたところ、この写本の、確かに、寛永五年十一月六日のここからで確認できた)に載っている。但し、この事件、殿中刃傷事件(死者は結果して一名)であるにも拘わらず、ネット上の記載が、何故か、頗る少ない。しかも、

その事件発生時制をネット上の数少ない記事では、圧倒的に「寛永四年」としている

のである(出典不詳)。而して、

もし、この寛永四年が正しいとするなら、実は、この事件が――殿中刃傷の最初――ということになる

のである。雑学専門サイト「草の実堂」のrapports氏の『江戸城での最初の刃傷事件 「豊島明重事件」』(こう標題しているものの、以下に見る通り、本事件が事実としての最初の刃傷とされている)で、「実は」の標題で、

   《引用開始》

実は「豊島重明事件」が起きる前の寛永4年(1627年)116日に、小姓組・楢村孫九郎が木造三左衛門と鈴木宗右衛門を襲った事件が起きた。

江戸城名で一緒に勤めていたものの喧嘩が原因で楢村孫九郎が抜刀したが、木造三左衛門と鈴木宗右衛門は逃げて無事だった。しかし止めに入った別の2人が大怪我を負い、その内の1人が落命している。

襲った楢村孫九郎は切腹となったが、逃げた木造三左衛門と鈴木宗右衛門は「卑怯」として家名断絶となっている。

武闘派で知られる小姓組内で起きた出来事だったが「逃げた」という点で余り表には出ることもなく、「豊島重明事件」が殿中での最初の事件だとされている。

   《引用終了》

とあるのである。ネット上では、何故か、少ない記載であるにも拘わらず、皆、一様に、刃傷犯人の名を「奈良村」ではなく、「楢村」としているから、彼らの引用ソースは国立国会図書館デジタルコレクションのそれではないことは明白である。なお、「wikiwand」の「曾我近祐」(そがちかすけ)に(太字は私が附した)、『江戸時代前期の幕臣』で、後に『大坂町奉行』となったとし、寛永三(一六二六)年に二百俵で出仕し、『寛永4年(1627年)116日夜、西の丸小姓組の同僚楢村孫九郎が木造三郎右衛門・鈴木久右衛門に刃傷に及ぶ事件が発生する。居合わせた近祐は倉橋忠尭とともに傷を受けながらも』、『即座に孫九郎を取り押さえた。この功により』、『下総国小金領400石を与えられ、後に1020石に加増さ』れた、とある。ここでも寛永四年である。なお、この刃傷の原因は、「年錄」でも、『遺恨』とのみあって、具体的な内容は判らない。

一、十一月大、云々、同月【寬永五戊辰年。】六日夜戊刻、西之丸にて御番所察良村孫九郞と申人、相番鈴木久右衞門、木造三郞左衞門兩人に、意趣にて切かゝり申候。兩人手負、全、敗北。介橋惣三郞と申者、相手には無ㇾ之候へ共、中へ入、深手を負、當座に相果申候。曾我又左衞門孫九郞を組留申候。夜中、燈をふみけし、殊の外、殿中諍動[やぶちゃん注:「じやうどう」。]、諸人、多く、馳參候。

一、鈴木、木造、日來、奈良村をあなどり、堪忍難ㇾ成候得共、相手二人に御座候間、一處に打果し可ㇾ申と存、相待候處、今夕、すでに御夜詰、過申候時、又慮外の儀候間、孫九郞、是をとゞめ、切かゝり申候。此節、相番所、皆、以、小脇指相口[やぶちゃん注:「あひくち」。匕首(歴史的仮名遣:あいくち)鍔のない短刀。懐剣の類。]にて、突留可ㇾ申外無ㇾ之候。孫九郞は、心がけ、日暮時分より、大脇ざしを、つゞらより出し、指替罷在候間、何も[やぶちゃん注:「いづれも」。]刀は手遠に置、小脇指計[やぶちゃん注:「ばかり」。]にて、むかひ、夜中の事なれば、大脇指にて、切たてられ、難儀不及是非。其後、火をたて、幸、鎭り[やぶちゃん注:「しづまり」。]、則、孫九卽は永井信濃守へ御預け被ㇾ成。十一月十三日に、於信濃守所切腹被仰付候。廿四歲。信濃守家來鈴木長作介錯之。孫九郞辭世、

    はたちあまり四ふゆの空の飛鳥川誰わが跡のなきをとはまし

一、其頃、歌人の聞えありし、信濃守内、佐賀和田喜六が、奈良村を追善に詠歌【詞書あり。今、略ㇾ之。喜六は、奈良村と竹馬の友なりしよし、詞書に見えたり。】、

 南  夏さびしわが身ならずば大かたの

       世のことわりに聞ましものを

 無  むら雨のさだめなき世のならひをも

       しらずがほにてぬるゝ袖かな

 阿  あはれてふことのみわびて世の人の

       わればかりなるなげきせましや

 彌  みづくきのあとをとゞむる袖の上は

       かはくときなきものにぞ有ける

 陀  たれか世にあはれをかけぬ人やあると

       とへばこたへずためしなの身や

 佛  ふたつなくみつなき法のちからにて

       にしにうまれん人をしぞおもふ

  寬永五年霜月十六日     高  昌 俊

[やぶちゃん注:「永井信濃守」当時、老中であった永井尚政(なおまさ 天正一五(一五八七)年~寛文八(一六六八)年)。上総国潤井戸藩主・下総国古河藩二代藩主・山城国淀藩初代藩主。当該ウィキによれば、『東京都新宿区の「信濃町」の名は、信濃守となった当時の下屋敷があったことに由来する』とある。

「佐賀和田喜六」不詳。

「高昌俊」不詳。]

 今の御番所は、かゝる事ありとだに聞もしらぬが

 多かるか。さればにや、前車の誡に、うとくして、

 家をほろぼし、身をうしなふに至れり。怕るべし、

 つゝしむべし。

[やぶちゃん注:「前車」(ぜんしや)「の誡」(いましめ)は「前車の覆(くつがへ)るは後車の戒め」は「誰かの失敗は後に続く者の戒めとなること」の喩え。中国で古くから使われている諺。例えば、「漢書」の「賈誼(かぎ)伝」に、紀元前二世紀の文人賈誼の文章に、「短期間しか続かなかった秦王朝の失敗からも学ぶことがある」ということを述べるために、「前車の覆るは、後車の誡」(前を走る車が転覆することは、後から行く車にとって戒めとなる)と引用されており、同様の表現は、「大戴礼記」の「保傅」(ほふ)や、「呉越春秋」の「勾践(こうせん)帰国外伝」などにも見られる(円満字二郎編「故事成語を知る辞典」に拠った)。]

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