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2022/08/04

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 惡黨半七・平吉等、刑書寫

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。]

 

   ○惡黨半七・平吉等、刑書寫

(堀イ)田相模守殿御差圖、土屋越前守掛。

          通新町與兵衞店

            藤八方に居候

                 半  七

            右同町家持

                 平  吉

右半七儀、手合の者、拵、人々、名前を僞り、五ケ所より、小兒五人、貰請、右養子證文添書、謀判いたし、禮金都合五兩三分請取、右小兒五人〆殺、或は乍ㇾ生土中へ埋、又は菰に包、川中へ打込、畑地へ捨候も有ㇾ之。里子に遣置、病死いたし候死骸請取、川へ投げ捨候儀共、人倫に有ㇾ之間敷仕業、重々不屆至極に付、爲見懲の町中引廻の上、日本橋にて三日晒の上、於淺草磔申付之

右平吉儀、同町藤八方に居候半七、人の名前を僞り、四ケ所より小兒貰請候口入、又は世話いたし遣、右小兒を、半七、殺害におよび、或は捨候儀には、申合は不ㇾ致候得共、半七儀、巧を以、色々、方便を替、金銀爲ㇾ可ㇾ取、小兒どもを貰請候儀は乍ㇾ存、半七任賴候に、淵底も不ㇾ存儀を取拵、先々え申達、養子證文に、僞りの名前有ㇾ之をも存罷在、半七より受取候印形押し、且、半七、餘人の名前を僞候を先方へ引合、剩、貰受候小兒の行先をも不存、其上、養育金の内、禮錢等受候段、重々不屆至極に付、町中引廻の上、死罪申付之

[やぶちゃん注:「依(堀イ)田相模守殿」編注の「イ」は「一本」或いは「異本」の意。「土屋越前守」が以下の人物であれば、指図すべき立場にあるのは老中と考えられる。すると、まず、老中に依田姓の者はいないことから、「堀田」が正しいとして、その当時、「相模守」で「老中」であった人物に佐倉藩初代藩主堀田正亮(ほったまさすけ 正徳二(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年)がいるので彼であろう。堀田は延享二(一七四五)年十一月に老中となり、翌年、出羽国山形藩から佐倉藩に国替えされ、寛延二(一七四九)年には老中首座となっている。但し、官歷がやや悩ましく、享保一六(一七三一)年に従五位下相模守に叙任されているが、延享元年に従四位下となり、翌二年には侍従となっている。但し、通称を「相模守」で通したとすれば(彼は在職のまま死去している)、土屋が南町奉行であった時期の六年足らずの間が合致する。

「土屋越前守」彼かどうか確定は出来ないが、前の指図している人物の姓が確定出来ないことから、一つ、旗本土屋越前守正方(宝永六(一七〇九)年~明和五(一七六八)年)ではないかと推定した。彼は宝暦二(一七五二)年二月に京都町奉行(東町奉行)に昇任し、同年四月に従五位下・越前守に叙任されており、宝暦三(一七五四)年十二月二十四日に江戸町奉行(南町奉行)となっている

「通新町」下谷通新町(したやとおりしんまち)であろう。現在の東京都荒川区南千住一丁目に相当する(グーグル・マップ・データ)。

「手合の者、拵」「てあひのもの、こしらへ」。同心する悪党仲間らを集めて。

「貰請」「もらひうけ」。

「謀判」ここは里子を受け取るに際しての証文を偽造すること。

「〆殺」「しめころし」。

「乍ㇾ生土中へ埋」「いきながら、どちゆうへうづめ」。

「菰に包、川中へ打込」「「こもにつつみ、かわなかへうちこみ」。

「里子に遣置、病死いたし候死骸請取、川へ投げ捨候」里子として他人に預けたが、病死してしまった、その元里親から、その子を埋葬すると偽って金を受け取っておきながら、その実、遺体を川へ投げ込んで済ましておいたということであろう。

「有ㇾ之間敷仕業」「これあるまじきしわざ」。

「爲見懲の」この返り点はママ。吉川弘文館随筆大成版でも同じ。当初、打ち間違いと思ったが、どうもこれでいいようだ。則ち、「みこらしのため」で、「人倫に悖る所行の見せしめのために」の意。

「日本橋にて三日晒」(みつかさらし)は付加刑。ウィキの「晒(刑罰)」によれば、『罪人の名誉や社会的地位を奪う目的で一定の手続きのもとで公衆に晒すこと』で、『江戸時代の日本では主に付加刑として』、『罪人を縛り上げ』、『路傍に置き見せしめにする刑として晒があった』。『江戸では日本橋高札場』(☜)『の正面東方の空き地で行われ、囚人は手だけを自由にして本しばりされた』。『晒の時間は朝五ツ時から夕七ツ時までとされた』(不定時法で「朝五ツ時」は夏で午前七時少し前、冬で午前八時半、「夕七ツ時」は夏で午後五時過ぎ、冬で午後三時四十五分頃に当たる)『主人を殺した者は晒のうえ』、『鋸引き、負傷させた者は晒のうえ』、『磔にされた』。『僧の女犯には単独の刑罰として晒が課されたこともあった』とある。

「貰請候口入」「もらいうけさふらうくちいれ」。直接の仲買役を担当すること。

「申合は不ㇾ致候得共」「まをしあはせはいたさずそうらえども」。「そのように殺処分等をする件については、半七とちゃんと申し合わせていたものではないが」の意。

「巧」「たくみ」。

「方便を替」犯行行為を臨機応変に変え。

「爲ㇾ可ㇾ取」「とるべくなし」。

「乍ㇾ存」「ぞんじながら」。

「半七任賴候に」ここも同前。半七に「たよりさふらうにまかせ」。後のことは、総て半七にまかせっきりで。

「淵底も」(えんていも)(副詞的に用いて)「深くも・詳しくも」。

「不ㇾ存儀を取拵」「存ぜざる儀を取り拵え」。尋問の際、平吉は「殺処分等を全く知らなかった、それとは関係ない」と偽証したのである。しかし、実際には「先々え申達、養子證文に、僞りの名前有ㇾ之をも存罷在」里子に出したい親に対してその仲介をなし、里子受け取りの証文に、いもしない偽名が用いられていることを「ぞんじまかりあり」(よく判っていた)というのである。

「印形」「いんぎやう」。印鑑。

「餘人の名前を僞候を先方へ引合」偽名の人物を仲間に演じさせて、里子の親に引き合わせ。

「剩」「あまつさへ」。

「貰受候小兒の行先をも不存」平吉は買った子どもが、どうなったかに全く関心を示さず。]

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