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2022/08/25

フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の滝沢馬琴「兎園小説余録」に必要となったため、急遽、電子化する。今回は特異的に注は必要と思われるものを文中・文末に入れ、読点と記号を追加し、やや読み難いと思われる語句については、推定で《 》により歴史的仮名遣で読みを附した。一部でブラウザの不具合を考え、底本の文字列の位置・配置を変えた。ポイント落ちは必ずしも全部は再現していない。文書等の切れ目は一行空けた。

 本篇は「千代田の刃傷(にんじょう)」と呼ばれた、文政六(一八二三)年四月二十二日に松平忠寛(ただひろ:寛政三(一七九一)年生まれ。旗本。通称は外記(げき)。彼はその場で切腹した。享年三十三)が引き起こした殿中での刃傷事件(死者四名(一名は深手により翌日死亡)・外傷一名)「松平外記刃傷」の略記である。当該ウィキによれば、この日、『西の丸の御書院番の新参・松平忠寛(松平外記)は、古参の度重なる侮罵と専横とに、ついに』、『鬱憤』、『これを抑えることができず、本多伊織、戸田彦之進および沼間左京の』三『人を殿中において斬り殺し、間部源十郎および神尾五郎三郎の』二『人には傷を負わせ(間部は深手により翌日』(翌々日とも)『に死亡)』(但し、間部源十郎については、以下の資料や、彼のウィキの「間部詮芳」(あきふさ。本名)を見るに、ずっと以前に死んでいるという説や、事件後、生きていることになっていたり、甚だ不審がある)、『自らは自刃し果てた』。『事件発生後に直接の上司である酒井山城守を交えて、事件を隠蔽する工作が行われ』、『目付は正式な見分書には死者が出た事を記載せず、後の保身のために真実を記した文書を封印文書として作成した。本丸から来た侍医は』、『死亡者を危篤状態と偽るために外科的工作と虚偽報告するように頼まれ、一旦は拒んだものの』、『これに従った。血で染まった』二十『畳の畳は深夜のうちに取り替えられた。加藤曳尾庵の』「我衣」に『よれば、外記が大奥に務める伯母に鬱憤を吐露した遺言ともいえる書き置きを渡していたため、大奥を通じて事件が露見したという』。『時の老中』『水野忠成が厳重詮議を行い、殺害された』三『人の所領は没収され、神尾は改易を申し渡された。なお、松平家は忠寛の子栄太郎が相続を許された』。処分者は殺害された三名、及び、外記の父、また、隠蔽工作をした上役連中を含め、実に十三人に及んだ(引用元にリストと処分内容有り。実際には以下を読むと、その隠蔽に関わった(医師などは、無理矢理、関わされた感が強い)者や、刃傷沙汰を知りながら、それを制止・捕縛をしなかったとされた不作為犯も含めると、恐らくはその倍以上の者が何らかの処分を受けていることが判る)。『事件の詮議は』「西丸御書院番酒井山城守組松平外記及刃傷致自害神尾五郞三郞外二拾壱人御詮議吟味一件」に『まとめられている。この史料によれば、松平外記は普段は几帳面で神経質、普段は穏やかだが』、『癇性が強く、人付き合いが下手な人物だったと証言されている』。『また、西丸書院番の酒井山城守組は、古株による新参者へのいじめで有名な職場だった。着任早々に外記の父松平頼母の後押しによって、追鳥狩で勢子の指揮を執る拍子木役に抜擢されるが、慣習を無視したこの人事によって』、『古株の反感を一身に浴びることとなった』。『追鳥狩の予行演習に遅刻した外記は重大な落ち度として責められ、拍子木役を辞退し』、『病気療養として自宅に引き籠もった。追鳥狩の翌日から職場復帰したが、古株からの嫌がらせや面罵は収まらず』、遂にこの仕儀に至ったのであった。『事件の顛末は瓦版で報じられ、落書も数多く作られた。市井の人々は』、『外記を取り押さえる事も出来ず、凶刃から逃げ惑った旗本の不甲斐なさを物笑いの種とした』。『この事件は曲亭馬琴』の「兎園小說餘錄」にも以下の通り、『収められ、歌舞伎狂言にもなった。大正時代には須藤南翠が小説化している』。『宮崎成身の雑録』「視聽草」に『よれば、事件から』七『か月後』、『昌平坂学問所で外記の模倣犯ともいえる事件が発生して』おり、『乱心し』て、三『人を殺傷した狩野軍兵衛は日頃から松平忠寛の仕業を賛美し、事件発生時も千代田の刃傷事件の書き付けを懐に所持していたという』とある。

 また、やや重複するが、ウィキの「松平忠寛」も引いておくと、『桜井松平家の庶流』(第七代忠頼の次男忠直が旗本となって、彼の次男忠治が分家し、さらにその忠治の次男忠輝が分家したできた家)である『松平頼母』(たのも)『忠順』(「ただまさ」か)『の子として』生まれた。『始めは内記と称し、後に外記と改め』た。第十一代将軍『徳川家斉に仕え』、文化八(一八一一)年に『書院番士、蔵米三百俵』となった。『弓術、馬術に長じ、廉直にして剛毅であることから』、『同輩に忌み妬まれた』。『当時、旗本の風紀は大いに乱れ、番士のなかでも新人』と『古参の区別は厳しく、新参者は奴隷のように酷使虐待されていた。その中で忠寛は、常に己が正義と信じるところを主張し、いささかも屈することがないので、ますます憎まれた』。文政六(一八二三)年四月、『駒場野の鳥狩にあたって非常な侮辱を被り』、それからほどなく、『同僚の本多伊織忠重、間部源十郎詮芳、沼間左京、戸田彦之進、神尾五郎三郎を殺傷し、切腹した』。『池田吉十郎、小尾友之進など』、『その場に居合わせた者は周章狼狽し、逃げ隠れ、殿中は大騒動であった。忠寛が部屋住であったため、父』『忠順は職を免じられたが』、『改易されず、忠寛の子の栄太郎が家を相続した。被害者』や関係責任者『らは免職、改易などされ、家禄は削減、あるいは没収など処罰を受けた。その後、番士の風紀は引き締まった。この事件は世間に喧伝され、文学、演劇などの素材となった』。『戒名は歸元院隨譽即證不退』とある。

 以下に見る通り、凄絶な「イジめ」が齎した最悪の事件であった。この「甲子夜話」の記録は、当該事件の原資料に当たっていて、馬琴の記事よりも遙かに細部が示されているばかりか、刃傷に及んだ松平外記の直接の上司が、前代未聞の殿中刃傷事件(結果的には三名が死亡し、一名が外傷を負い、外記は殿中のその場で自害した)を内輪で胡麻化そうとして、幕医らまで巻き込んで、死者を生きていたという噓の上申をした過程さえも、はっきりと暴露されているのが、これ、モノ凄い(逆にそのために同内容の文書が続くという、ややかったるい箇所もあるにはある)。それにしても、――上司から文書を改竄を強要させられ、良心に恥じて自殺された善人を出していながら、墨塗りし、平気の平左で官僚の事件を誤魔化す、どこかの国の、クソ汚ねえ官僚の嘘つき金魚の糞連中より――遙かに正統に捜査し、正当にして極めて厳しい処断をしているぜよ!

 

43―21 西城御書院番、刃傷一件

今年四月廿二日、西城にて、御書院番の松平外記と云《いへ》るが、部屋にて、相番《あひばん》三人を斬殺《きりころ》し、二人に、深手、負はせ、己《おのれ》は自殺してける。是に由《よつ》て、世上、種々の風說なれど、孰《いずれ》か實《まこと》なる、知《しる》べからず。因《よつて》、始に雜聞を擧《あげ》て、終に御裁許の條々を錄す。

[やぶちゃん注:「今年四月廿二日」文政六年癸未。グレゴリオ暦一八二三年六月一日。]

 

外記は西方御小納戶賴母《たのも》、總領、年廿一なり。切られしは、本田伊織、年五十八。戶田彥之進、淸水御用人嘉十郞、總領、年三十二。沼間右京、廿一。この三人は卽死せしとぞ。深手は間部源七郞、年五十八。神尾五郞三郞、年三十。外記が脇指は「村正」にて有《あり》しと。世傳ふ。この鍛冶《かぢ》は御當家に不吉なりと。然るに又、かゝることの生ぜしも不思議なり。外記、自刄せしの狀は、二階を下り、庭に出《いで》、腹、一文字に切り、鋒《きつさき》を口に含み、うつ伏になりて死せりと云。一《いつ》は、柱に倚《より》かかりて、自ら咽を剌《さし》て絕せりと云ふ。孰れか是なるや。又、本田伊織が切られしは、部屋の二階に何か書《かき》て居たるに、外記、立寄《たちより》て、刀を振上ると見へしが、はや、首は向《むかふ》に落《おち》たりとなり。五郞三郞は逃去《にげさり》て逐《お》はれ、臀《しり》を切られたりとぞ。又、この刄傷《にんじやう》の起りは、御場《おば》の騎馬に、外記、年、若けれども、撰ばれしを、年かさなる者、猜《そね》みて、御場演習のとき、不都合なること有しかば、其ときは、病と稱して御場を勤めざりしことを含みしと云。又、外記が、腹、切《きり》たる一說に、腹、切て、咽をかゝんと爲《せ》しが、血、柄《つか》につき、手、滑《ぬめ》なりしかば、立《たち》あがり、衣のすそを割取《さきとり》て、柄にまとひ、咽を刺たりと云。又、この番衆の部屋は、坊主衆の部屋の向《むかひ》にて、隔《へだて》に板塀あり。某と云《いふ》小坊主、見ゐたるに、何か騷動の音なりしが、やがて、外記、血刀を提《さげ》て、椽《えん》に出で、手水鉢の水を吞《のみ》たり。小坊主は、懼《おそろ》しく覺たれば、かの塀の戶口を〆《しめ》たり。其後は知らず、と。諺に「惡事千里」と。この一件、都下一般のとり沙汰《ざた》なれど、理外なるは、廿三日の晝前、朝川鼎《あさかはかなへ》が宅に、杉戶宿より、田夫、來り、玄關に腰をかけ居《をり》、何か話すを聞けば、この騷ぎのことなり。鼎、思ふには、『前日、哺時後《ひぐれどきあと》のことなるに、九里餘、行程ある杉戶の者、翌晝前に、かく話すこと、不審なり。』と、立出て、その田夫に「何《いか》かに。」と問《とひ》たれば、「其ときの書付など、持《もち》ゐたり。」となり。又、御小姓組なる某の示せしもの、有り。「他組のこと成《な》れど、實記にや。」と、左に寫す。

[やぶちゃん注:「御場」冒頭で引用した中の『駒場野の追鳥狩』で、駒場野は現在の東京都目黒区駒場で、江戸時代の将軍の鷹狩場。広さは約十六万坪もあった。この附近(グーグル・マップ・データ。以下注なしは同じ)。戦前の「今昔マップ」も添えておく。「御場」は「御拳場」(おこぶしば)或いは「御留場」(おとめば)の略で、前者は、将軍が、自ら、拳に鷹をすえて狩りをする猟場の意であり、後者は一般人の立ち入りを止めていたのの意か、厳重な禁猟区で鳥を嚇すことさえも禁止されていた。

「朝川鼎」は儒学者朝川善庵(天明元(一七八一)年~嘉永二(一八四九)年)。鼎は本名。字は五鼎(ごけい)。当該ウィキによれば、本篇の著者『平戸藩主』『松浦氏を初めとして津藩主・藤堂氏や大村藩主』『大村氏などの大名が門人となり』、江戸本所の小泉町』(現在の墨田区両国二~四丁目相当。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版 尾張屋版 本所絵図 本所絵図(位置合わせ地図)」をリンクさせておく)『に私塾を開いていた』とある。

「杉戶宿」(すぎとじゅく)は江戸日本橋から五番目の奥州街道・日光街道の宿場町。現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町にあった。]

 

    四月廿二日夕七時前

手負 高千五百五拾石【西丸御書院番、酒井山城守組。】

          間部《まなべ》源十郞

      宿赤坂三河臺   未四十八

  ひよめき、はすに三寸程、深さ壱寸

  五分程の疵、一ケ所。右の手首、竪

  (たて)に四寸程、深さ弐、三分程

  之疵、一ケ所。同所、大指の脇、弐

  寸程之そぎ疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「夕七時」(ゆふななつどき)不定時法で午後四時半過ぎ頃か。

「宿」「しゆく」と音読みしておく。屋敷。

「未四十八」「未」は本年(干支)のことで、数え年。

「ひよめき」本来は「乳児の頭の前頂部の骨と骨との間の隙間」を指す。

「三寸」約九センチメートル。

「壱寸五分程」約四センチ五ミリ。

「四寸程」約十二センチ。

「弐、三分程」約六~九ミリ。

「大指」「おやゆび」。

「弐寸」六センチ。]

手負 高千五百石 同   神尾五郞三郞

      宿椛町貳丁目谷  未三十

  尻こぶた、橫に三寸程、深さ五、六

  分程之疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「尻こぶた」「尻臀」。尻の左右に分かれた肉付きの豊かな部分。

「五、六分程」約一・五~一・八センチ。]

卽死 高三百俵 同 【式部御用人、可十郞、總領】

              戶田彥之進

      宿小日向冷水番所   未三十二

  かたより、ゑりへかけ、はすに一尺

  三、四寸、深さ二寸程の疵、一ケ所。

  尻こぶた、二寸程の淺疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「一尺三、四寸」約三十九~四十二センチ。]

卽死 高八百石   同    沼間右京

      宿新道壹番町     未三十二

  右の頰の下、咽《のど》え、かけ、

  五寸程、深さ、七、八分程の疵、一

  ケ所。右の手、ひぢの下、竪に三寸

  程の淺疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「五寸程」約十五センチ。

「七、八分程」約二・一~二・四センチ。]

卽死 高八百石   同    本多伊織

      宿北本所津輕西門前南角 未五十八

  耳のわきより、あばら迄、はすに一

  尺二、三寸程の深疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「一尺二、三寸」約三十六~三十九センチ。]

自殺 高三百俵   同 【西丸御小納戶、賴母總領。】

      宿築地小田原町  松平外記

  咽に、突疵、一ケ所。腹に、突疵、一ケ所。

或曰。この外記が自盡せしときは、腹に突《つき》たてし刀、あまり深くして引𢌞すこと、能はず。乃《すなはち》、ぬきて、咽に突たてたれど、死せず。因て、刀をぬきて、席《たた》みに置《おき》たるとき、卽ち、死せり、となり。又、外記の脇指は「村正」に非ずして、關打《せきうちの》平造《ひらづくり》の者にして、一尺三寸なりし、と云。又、一人、厠に居《をり》しを、外記、戶を開き見て、「其《そこ》もとには、遺恨なし。」迚《とて》、そのまゝ立去りながら、「掛金を外よりかけて行たれば、内より出ること能はず、こまりたり。」となり。

[やぶちゃん注:「築地小田原町」厳密には「築地南小田原町(つきぢみなみおだはらちやう)」が正しい。現在の中央区築地六丁目・七丁目(グーグル・マップ・データ)。築地本願寺の裏手にして聖路加国際病院の南西並びで、今の勝鬨橋附近の隅田川右岸に当たる。

「一尺三寸」約三十九センチ。]

 

 十月九日於堀田攝津守殿御宅仰渡候之寫

    申渡之覺

          西丸御書院番頭 酒井山城守

                  名代 高木右京

當四月廿二日當番之節、松平外記刄傷之始末、追々被ㇾ遂御詮議候處、夕七つ時過之變事に而《て》、本多伊織、沼間右京、戶田彥之進者《は》、卽死、間部源十郞者、深手に而《て》倒れ、其餘、部屋内之者共、手負候、神尾五郞三郞迄、御番所え、走出、御襖を立候内、外記、自殺候由之處、池田吉十郞儀、刻限其外、諸事、品《しな》能取繕《よくとりつくろひ》、僞《いつはり》之儀、申候旨、御番衆一同申ㇾ之。其方儀、爲ㇾ泊《とまりのため》罷出、大久保六郞右衞門より承り候はゞ、早速、遂見分、御目付、申談取斗可ㇾ申《とりはからひまをすべき》處、大病人之由、相違《さうい》之儀、宜《よろしく》、新庄鹿之助え、申、鹿之助より及催促候而も、有躰《ありてい》之儀、不申達、常躰《つねのてい》病人に可旨、數原《すはら》玄忠え、打合候儀は無ㇾ之由申聞候得共、度々、容躰書《ようだいがき》も爲引替候由、玄忠者、申立、終夜、疵人《きずびと》之療養も不ㇾ加、其分に打過在候者、右程之變事を内分に取斗度《とりはからひたき》心底と相聞、至翌朝手負自殺と申達候而も、屆書御目付見分之節、卽死之者を存命之趣に取斗、其外、諸事、吉十郞、取繕候相違之儀共、其儘に申立候段、彼是、如何之次第《いかがのしだい》、不束《ふつつか》之事候。依ㇾ之、御役御免、差扣《さしつかへ》被仰付者也。

[やぶちゃん注「堀田攝津守」は当時の若年寄(堅田藩藩主)堀田正敦(まさあつ)。

「差扣」江戸時代の刑罰の一つ。公家・武士の職務上の過失、又、その家来や親族に不祥事があった際、出仕を禁じ、自邸に謹慎させることを言う。無論、これは最終的な処罰ではなく、審議途中の臨時刑に過ぎない。

 以下、殆んど同一内容の文書が、二通、示されるが、これは別な複数の人物によって内容が厳重に再検証されているのであり、逆にその精度が資料として、いや高まる。]

 

          同組頭 大久保六郞右衞門

              名代 本多鍵太郞

當四月廿二日當番之節、松平外記刄傷之始末、追々被ㇾ遂御詮議候處、夕七つ時過之變事に而、本多伊織、川間右京、戸田彥之助は卽死、問部源十郞者、深手に而倒れ、其餘、部屋内之者共、手負候神尾五郞三郞迄、御番所え、走、御襖を立候内、外記、自殺候由之處、池田吉十郞儀、刻限其外、諸事、品能取繕、申候旨、御番衆一同申ㇾ之。其方儀、中之口部屋に罷候事に候得共、最初より樣子も及ㇾ承ㇾ申處、手負人之容躰、數原玄忠え、爲ㇾ見《みせ》ながら、最初より不ㇾ殘、病人之由、或者、壱人、自殺、外者、病氣之旨、御目付え、申達、容躰書も、度々、玄忠より爲引替、終夜、疵人之療養も不ㇾ加、其分に打過候者、右程之變事を内分に取斗度心底と相聞、至翌朝手負自殺と申達候而も、屆書御目付見分之節、卽死之者を存命之趣に取斗、其外、諸事、吉十郞、取繕候相違之儀共、其儘に申立罷在候段、彼是、如何之次第、不束之事に候。依ㇾ之、御役御免、差扣被仰付者也。

 

           西丸御目付 新庄鹿之助

                 名代 春田四郞五郞

其方儀、當四月廿二日當番之節、酒井山城守組御書院番及刄傷候儀、組頭大久保六郞右衞門より、最初は、五、六人病人之由申聞、自殺壱人、病人、四、五人と申ㇾ之、又、山城守より者、六人共、病人之由に而、駕籠斷《ことわり》差出候得共、風聞も承り候事故、駕籠に而、差出候取斗、難ㇾ致、勘辨之上、可申聞旨、及挨拶候處、其後、度々致催促候而も、段々、及延引、至翌朝、自殺・手負之旨、申聞候に付、御本丸當番之外料《ぐわいれう》呼上之儀、申遣候由候得共、殿中不容易變事に而、風聞も承り候儀と申、殊に番顯・組頭申聞候趣も、彼是、致相違、數原玄忠、差出候容躰書も、度々、引替候上者、疑敷《うたがはしき》儀に付、不取敢、遂穿鑿見分取斗可ㇾ申處、翌朝に至迄、等閑《なほざり》に打過罷在候段、内談之趣をも致承知、其筋々之存意に令同意候之儀故と相聞、勤柄《つとめがら》に不似合始末、不束之事に候。依ㇾ之、御役御免、差扣被仰付者也。

[やぶちゃん注:「外料」(現代仮名遣「げりょう」)は、底本では後文再出でも編者によるママ注記があるのだが、これは江戸時代、外科医を表わす語として普通に資料に出(「外科」の誤字ではない)、辞書にも載るので、この注記は甚だ不審である。

 

          同    阿部四郞五郞

               名代 阿部忠四郞

其方儀、當四月廿二日加泊之節、酒井山城守組御書院番及刄傷候儀、當番新庄鹿之助え、組頭大久保六郞右皆門より、五、六人急病人有ㇾ之由申聞、其後、山城守より者、大病人と而已《のみ[やぶちゃん注:二字の読み。]》申立候段及ㇾ承、鹿之助、取斗、可任置《まかせおくべく》、翌朝、自殺手負之旨、申聞候迄、等閑に打過罷在、殿中不容易變事之處、强而《しひて》病人と申張《まをしはり》候は、山城守、存寄《ぞんじより》可ㇾ有ㇾ之事に存候迚、段々、及延引候儀之旨申聞候段、如何之次第、不束之事候。依ㇾ之、御役御免被ㇾ成候。

[やぶちゃん注:「加泊」「かはく」と読んでおく。「泊りの当直をする(仕事に「加」わる)」という意味であろう。]

 

                 松 平 賴 母

                  名代 三枝傳五郞

 西丸御小納戶役、御免被ㇾ成候。

右、於堀田攝津守宅、若年寄・中・西丸共、出坐、同人申

[やぶちゃん注:刃傷に及んだ松平寛の父である。]

 

            御番醫師 數 原 玄 忠

其方儀、當四月廿二日、西丸當詐番に罷在、酒井山城守組御書院番、及刄傷候節、疵所之樣子、乍見請《みうけながら》、其筋筋之意存、離れ候儀、難申立迚、手負人之趣に、御目付え、容躰書、差出し、其後も任内談、色々、容躰書、引替、翌朝、手負・自殺之書面に相直候而も、疵人、何《いづれ》も存命之由、相違之儀、申立、御目付見分之節も同樣之書面、差出候段、不束之事候。

[やぶちゃん注:「其筋筋之意存、離れ候儀」その上司らの言い分と、事実が全く「相違」していることを。]

 

                 竹 内 英 仙

                 名代 田中俊哲

            同外料  曾 谷 伯 安

                 名代 岡本東明

                 河 島 周 庵

                 名代 古田瑞琢

                 天 野 良 運

                 名代 坂本養景

其方共儀、當四月廿二日於西丸酒井山城守組御書院番手負人之容躰見請候節、五人共、疵之淺深者、有ㇾ之候得共、存命之趣、見《これ、けんぶんし》、御目付え、申達書之内、三人は相果候儀候處、相違之儀、申聞候段、其筋筋之存意に相泥《あひなづみ》候事と相聞、不束之事に候。

右於テ同人宅同人申渡之、御目付御手洗五郞兵衞・柴田三左衞門、相越。

[やぶちゃん注:「其筋筋之存意に相泥《あひなづみ》候事」その上司連中の隠蔽工作の仕儀に積極的に添うように振る舞ったこと。]

 

 十月九日 西九御書院番一件落着被仰渡之控

    申渡之覺

[やぶちゃん注:ここに底本(一九七七年平凡社刊中村・中野氏校訂「東洋文庫」版)には『(〈 〉内小字は朱書――校訂者)』とある。太字に代えて差別化した。]

 

   【西九御書院番酒井山城守組】神尾五郞三郞

                     三十

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に致轉寢《うたたね》罷在候處、夕七つ時過、物音に而目覺、松平外記、相番共を及二刄傷一候を乍見受捕押《とりおさへ》も不ㇾ仕、上り口之方え、披《ひら》き、後ろ疵を請《うけ》、二階より落《おち》、白衣、無刀之儘、御番所え缺出《かけいだし》、「蘇鐵之間《そてつのま》」迄、參り候段、卑怯之次第候。剩《あまつさへ》、有躰《ありてい》申立存、遁出《にげだし》候儀を押隱《おしかくし》罷在候段、旁《かたがた》不埓之至に候。依ㇾ之、改易被仰付者也。

[やぶちゃん注:只管、逃げまくった、本事件の最も武士としてあるまじき不面目の男の処分。確かに生きている関係者では、最も重い「改易」お家断絶である。

 

                 池田吉十郞

                    五十二

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階より下り、藪庄七郞と談居《だんじをり》候處、夕七つ時過、致物音、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、驚《おどろき》、白衣・無刀之儘、外《ほか》相番共一同、御番所え、駈出、外記を捕候心付も無ㇾ之、御襖を建、剩《あまつさへ》、井上政之助、着用之、上下・脇差、押而借請《おして、かりうけ》、漸《やうやう》、部屋裏之方より𢌞り、見屆候仕合《しあはせ》故、最早、外記、自殺に及候始末に至り候段、臆候次第に候。其上、有躰申立候而者《ては》、難相濟存じ、刻限は暮六つ時過に而、相番共六人者《は》、張番、六人者、膝代りに出、此者近藤小膳者、組顯部屋え、可シ二相越ス一と、「蘇鐵之間」迄參り候節、變事之由、卽死之者も存命之旨、相違之儀とも此者取繕申張罷在候段、御後《おんうし》ろ闇《ぐらき》致し方、殊に重立《かさねだて》、乍取扱、疵人之手當其外、不行屆取斗方、彼是、不埒之至候。依ㇾ之、御番、被召放。隱居被仰付候。愼可罷在者也。

[やぶちゃん注:「御後《おんうし》ろ闇《ぐらき》致し方」の「御」は将軍に対してのニュアンスであろう。]

 

                 間部源十郞

                    五十八

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に居眠罷在候處、松平外記、此者、頭上切付疊懸《きりつけ、たたみか》け、右之手首えも、疵、請《うけ》、眼中え、血、流れ入、其儘、倒れ罷候段、不意之儀と者《は》乍ㇾ申、油斷之次第、不心懸《ふこころがけ》之至《いたりに》候。依ㇾ之、御番被召放、隱居被仰付。愼可罷在者也。

[やぶちゃん注:これは実際には、深手を負い、事件の翌日(或いは翌々日とも)に死亡したはずの間部隼人源十郎に対する処分。しかし、以上の通り、源十郎は死んでいないことになっている。不審。]

 

                 藪庄 七郞

                    五十一

                  近藤 小膳

                    五十一

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、部屋に罷在候處、夕七つ時過、致物音、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、驚、相番共、一同、御番所え、駈出、外記を取押候心付も無ㇾ之、池田吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰難ク申立テ存、取候樣、吉十郞え、相任、相違之儀ども、但々、申張罷在候始末、古くも乍ㇾ勤、別而《べつして》、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入《こぶしんいり》、逼塞《ひつそく》被仰付者也。

[やぶちゃん注:「逼塞」現代仮名遣「ひっそく」。武士や僧侶に行われた謹慎刑。門を閉じ、昼間の出入りを禁じたもの。「閉門」(門・窓を完全に閉ざして出入りを堅く禁じる重謹慎刑)より軽く、「遠慮」(処罰形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑。夜間に潜り戸からの目立たない出入りは許された)より重い。

                 長野勝次郞

                    三十三

其方儀、當四月廿二日、當番之節、爲使用部屋二階より下り候處、夕七つ時過、致物音、松平外記、及刄傷候由に而、二階之相番ども、駈下り候に付、驚、白衣・無刀之儘、相番一同、御番所え、駈出、御襖を建、吉十郞、部屋内之祿子、見屆候迄、押へ罷在候段、臆候次第、剩、事濟候後も、痔疾、差發《さしおこり》候迚、夜五時《よるいつつどき》頃迄、便所に罷在、殊に有躰申立、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、旁《かたがた》、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

[やぶちゃん注:「夜五時頃」不定時法で午後八時半頃。]

 

                 川村淸次郞

                    五十二

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に致休息候處、夕七つ時過、松平外記、不意に脇指を拔、本多伊織、戸田彥之進え、切付候に付、驚、外記を捕押候心付も無ㇾ之、白衣・無刀之儘、駈下り、外相番共、御番所、駈出候節、出後《でおく》れ、左之手を御襖建付え、被ㇾ挾候事、難儀、葛籠重《つづらがさ》ね、有ㇾ之、側之《そばの》屛風を引寄せ、事濟候迄、其間に隱れ居候段、臆候次第候。剩、有躰申立、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、旁、不埓之至に候。依ㇾ之、御番被召放。小普請入、逼塞被仰付者也。

[やぶちゃん注:「請取當番」先に当番であった者が、後の者に交代することであろう。

「葛籠重ね」竹を使って網代に縦横に組み合わせて編んだ四角い衣装箱の積み重ねたもの。]

 

                  伊丹七之助

                    四十七

                  小尾友之進

                    三十六

其方共儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に休息致し罷候處、夕七つ時過、松平外記、腰物、拵《こしらへ》之咄《はなし》抔致、不意に脇差を拔、本多伊織、戶田彥之進え、切付候付、驚、外記を捕押候心付も無ㇾ之、白衣・無刀之儘、缺下《かけお》り、外《ほか》相番共一同、御番所え、駈出し、池田吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰申立、吉十郞、取候相違之儀、同樣、申候段、旁、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

 

                 井上政之助

                    三十二

其方儀、當四月廿二日泊番之節、御番所張罷候處、夕七つ時過、松平外記、及刄傷候由に而、部屋内之者共、疵請《うけ》候五郞三郞迄、御番所え、駈候に付、席《たたみ》を立、狼狽罷候段、勤番之詮《なすすべ》も無ㇾ之、剩、吉十郞、任ㇾ申、上下・脇差迄、貸遣《かしやり》、近藤小膳、着替之上下を着し、事濟候後も、部屋内に、疵人、爲心付罷在候儀、迷惑に存じ、夜五時頃迄、裏、濡椽《ぬれえん》え、出候段、彼是、臆候次第候。殊に有躰申立存じ、吉十郞、取繕候相違之儀を、同樣候段、旁、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

 

                 飯塚甲之助

                    四十八

                  堀長左衞門

                    四十二

                  橫山重三郞

                    三十六

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、部屋に罷處、夕七つ時過、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、外、相番一同、御番所え、駈出、外記を捕押候心付も無ㇾ之、吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰難申立存、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、不埒之至候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、差扣被仰付者也。

                 内藤 政五郞

                    四十二

                  荒川三郞兵衞

                    三十六

                  日 向 政 吉

                    三十一

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、御番所張罷候處、夕七つ時過、松平外記及刄傷候由に而、部屋内之者共、疵、請候五郞三郞迄、御番所え、駈出候に付、席を立、狼狽罷候段、勤番之詮も無ㇾ之、殊に有躰難申立存じ、吉十郞、取候相違之儀を、同樣候段、旁、不埒之至候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

 

                 曲淵大學

                   三十六

其方儀、駒場野追鳥狩《おひとりがり》に付、席下之松平外記、拍子木役に相成候を不心能存じ《こころよからずぞんじ》、宅え、外記、吹聽に參り候節、申《まをしあざわらひ》、同人宅え、寄合之節、半之助、任ㇾ申、致不參、外記、心に留候樣子に而、「病氣」を申立、拍子木役を相斷、當四月廿二日、相番共を、及刄傷候次第に至候段、差迫、致亂心候儀と相聞候。外記、氣狹成生質《きせばなるたち》と存候はば、其心得も可ㇾ有ㇾ之處、嘲哢ケ間敷申成《てうろうがましくまをしなし》候段、不埒之事に候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:ここ以降の複数の人物が、最後に松平外記忠寛に加えられた精神的な意味での「イジめ」の致命的一撃の張本連中であった。特に、この曲淵(まがりぶち)大学と、次の安西伊賀之助の実行犯二人によるそれこそ、外記をして刃傷に走らせたスプリング・ボードであった。外記が実は本当に殺したかった最悪の連中に、この二人は必ず含まれる。曲淵大学は、旗本で二千五十石、ここにある通り、小普請入りとなり、御役御免の上、屋敷も移転させられている。命が助かっただけでも、恩の字と思え!

 

                 安西伊賀之助

                    四十一

其方儀、駒場野追鳥狩に付、席下之外記、拍子木役に相成候を不心能存じ、同人宅寄合之節、遲刻致し、於席上、外記、心に障り候儀、申ㇾ之、鼠山《ねづみやま》稽古之節も、彼是、申嘲《まをしあざわらひ》、廉立《かどだち》候及挨拶、同人、心に留り候樣子に而、「病氣」を申立、拍子木役を相斷、當四月廿二日、相番共え、及刄傷候次第に至り候段、差迫、致亂心候儀と相聞候。外記、氣狹成生質と存候上は、其心得も可ㇾ有ㇾ之處、嘲哢ケ間敷儀申成候段、不埒之事に候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:「安西伊賀之助」は旗本で八百五十石。同前で、小普請入り、御役御免、屋敷も移転させられた。

「鼠山」個人ブログ『Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク』の『江戸期の絵図でたどる「鼠山」』で古地図を用いて細かな考証がなされている。恐らくは、下落合の丘陵地帯で、この「御留山」辺りに近いか。]

 

                 岡部半之助

                    四十三

其方儀、外記を、伊賀之助・大學、嘲哢致し候儀、及見聞、外記儀、「席上之者を越、拍子木役に成、心配。」之旨申聞候儀も有ㇾ之、此者、相拍子木役之儀にも候得者、心付方も可ㇾ有ㇾ之處、其儘に打過候段、不束之事に候。

[やぶちゃん注:この岡部半之助は、外記がはっきりと心配を漏らしていることから、それなりに外記が信頼していた人物と思われる。彼は「イジめ」の不作為犯ということになる。

 

                 内田伊三郞

                    四十

                  細井吉太郞

                    二十一

                  松平九郞右衞門

                    三十

其方共儀、外記を伊賀之助・大學、致嘲哢候儀及見聞候はゞ、心付方も可ㇾ有ㇾ之處、其儘に打過候段、不行屆《ふゆきとどきの》事に候。

[やぶちゃん注:彼ら三人も「イジめ」の助勢罪の不作為犯である。]

 

           吉十郞、總領 池田市之丞

           病氣に付、名代

                御書院版八木丹波組   三島六郞

父吉十郞儀、御番被召放、隱居被仰付、知行高之内、被ㇾ減五百石。此者え、被ㇾ下、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:これは盛んに出た、現場にいて、事態収拾を小賢しい悪知恵を以って虚偽に塗り固めようとした張本人池田吉十郎の処分である。病気というのも怪しいものだが、親父さん九百石から四百石を召し上げの処分を食らった。幕閣を騙そうとしたのだから、正直、ここまでの記載を見る限り、本人を重い逼塞以上にすべきであろうと思うのだが、ウィキの「千代田の刃傷」によれば、彼は養子で三島政春(九百石)の実子とあるから、或いは、この実父が幕閣にパイプを持っていたのかも知れない。]

 

           源十郞、總領 間部隼人

                   三十一

父源十郞、御番被召放、隱居被仰付候。此者儀、家替、無相違被ㇾ下、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:これは実際には、深手を負い、事件の翌日(或いは翌々日とも)に死亡した間部隼人源十郎の子に対する処分。しかし、やはり、父源十郎は死んでいないことになっている。]

 

右之通、未十月九日於評定所大目付岩瀨伊豫守、町奉行筒井伊賀守、御目付金森甚四郞、立合ヒ、落着被候申渡書之寫。

   西丸御書院番頭え、相渡候御書取寫。

   手負、相果候に付、知行、上《あげ》り候。

           酒井山城守組 本多 伊織

   同斷に付、知行・屋敷・家作、上り候。

                  沼間 右京

   同斷に付、御切米、上り候。

                  戶田彥之進

   自殺に付、御切米、上り候。

                  松平 外記

右之通候間、可ㇾ被ㇾ得其意候。尤御勘定奉行、御普請奉行、小普請奉行え可ㇾ被ㇾ談候。

[やぶちゃん注:以上の「上り」というのは、幕府が取り上げてしまうことを指す。例えば、本多伊織(膳所藩本多家一門の本多忠豪養子)は子の右膳が事件後に家督相続をしてはいるが、米三百俵支給に減ぜられており、沼間右京は改易・絶家、戸田は、職禄米の召し上げを受け、結果的には絶家となっている。]

 

  西丸御小性組番頭え、相渡候御書取寫。

   西丸御書院番酒井山城守組

    伊織養子 大久保豐後守組 本 多 右 膳

右養父伊織、相果候に付、知行上り候。尤、右膳儀、御構《おかまひ》無ㇾ之、取米三百俵幷屋敷家作共、其儘被ㇾ下候間、其段可ㇾ被申渡候。

  未十月十日森川内膳正殿、西丸御徒士頭永田與左衞門え、御渡御書取寫。

 

       西丸御徒士頭 佐 山 左 門

當四月廿二日、松平外記、及刄傷候節、其方組當番に而、組頭鈴木伴次郞取扱方、行屆、組之者共、心懸け宜《よろしき》趣、相聞候。此段、無急度沙汰候事。

[やぶちゃん注:「無急度」「きつとなく」。緩み怠ることなく厳重に(今の状態を維持せよ)。]

 

       西丸表六尺  源  太郞

其方儀、西丸御書院松平外記儀、於御場所柄刄傷候上、致自殺候一件に付相尋候處、不埒之筋も無ㇾ之間、無ㇾ構。

右、於評定所、岩瀨伊豫守・筒井伊賀守・金森甚四郞、立合、伊豫守・伊賀守、申二渡之

 

   十月九日

  彼一件後、諸向《しよむき》へ被仰達書付

西丸御書院番松平外記、相番共を及刄傷候始末、被ㇾ掛御詮議之處、相番共、常々、嘲哢ケ間敷仕成《てうろうがましきしなり》も有ㇾ之に付、差迫亂心候樣子に相聞、變事之期《へんじのご》に至候而《いたりさふらふて》も、相番共、立候者も無ㇾ之段、不覺悟之事共に候。出勤之作法、組中も申合等は、前々度々、被仰出候趣も有ㇾ之處、兎角、心懸、等閑《なほざり》に相成、古番《こばん》之者は權高《けんだか》に我意《がい》を立《たて》、新規之者を爲ㇾ致迷惑之儀《めいわくいたさすのぎ》、組え、風儀之樣に成行候而は《なりゆきさふらうては》、如何之次第に候。向後《かうご》、御番方は不ㇾ及申に、何《いづ》れ、之《これ》、向々に而も《むきぬきにても》、非常之事有ㇾ之節、勤方、相立候樣、申合、一同、相互に致和熟、御奉公相勤ムル事、專一に心懸ㇾ申候。

右之通、向々《むきむき》え、可ㇾ被相達候。

   十月

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