「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 火齊珠に就て (その三・「追加」の2)
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ後ろから三行目の中間)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。但し、例によって段落が少なく、ベタでダラダラ続くため、「選集」を参考に段落を成形し、注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。ちょっと注に手がかかるので、四回(本篇を独立させ、後のやや長い「追加」を三つに分ける)に分割する。]
今日、結晶の、比重の、硬度の、成分のと、精査識別の法、備はれる世と異り、古え玉石を種々混同誤錯して、異名もて一物を呼び、一名もて諸種を通稱せしは、吾國で空靑(ラピスラズリ)をも碧銅鑛(アズライト)をも紺靑と呼び、支那で水晶と石英の別、定かならず、梵語に「ガラス」と水晶を「シスヂャン」と通稱し、歐州で古え「トパズ」と云しは、今の「ペリドット」と「クリオライト」で、今の空靑を古え「サッフヰール」と呼びたるにて知るべし。吾國に玉も珠も球も「たま」で通稱し、梵語に水晶をも氷糖をも貝子をも一名で呼びし例さえ有り。されば、說文に火齊玫瑰也と云ひ、集韻に琉璃火齊珠也と有るは、ほんの相似たる物を擧たる迄にて、後世妄りに是等を同一物と信じたるより、彼我混淆、琉璃も火齊珠も玫瑰も苦土雲母も、悉く强て一類と見做すに及びしならん。愚見を以てすれば、火齊と稱せる者或は「ガラス」にして或は「ガラス」に非ざりしに似たり。其事は他日稿を更めて述ぶべし。扨、上にも引ける通り、時珍、又續漢書云、哀牢夷出火精琉璃、則火齊乃火精之訛、正與水精對と云るにて、予の前既に火齊を火精と見て、水精に對する名とせし學者有るを知るべし。愚見を以てすれば、此文、火精と琉璃とは別物なるが如し。其を集韻に誤て一物とせしより、種々の混雜隨て生ぜしなるべく、此一書に琉璃火齊珠也と有ればとて、琉璃の外に火齊無く、火齊の外に琉璃無く、琉璃も火齊も悉く「ガラス」なりと斷ぜば、則ち、大いに鑿せん[やぶちゃん注:「いりほがせん」。「穿鑿し過ぎて的が外れているであろう」の意]。
[やぶちゃん注:「碧銅鑛(アズライト)」藍銅鉱の英語名(azurite)は炭酸塩鉱物の一種で、「ブルー・マラカイト」(blue malachite)と呼ばれる宝石でもある。
「トパズ」トパーズ(topaz)。アルミニウム・弗素などを含有する珪酸塩鉱物。無色・赤・青・緑・黄色などで透明又は半透明、ガラス光沢を有する。斜方晶系。柱状結晶で美しいものは宝石用とする。「黄玉」(おうぎょく)。当該ウィキには、ギリシャ語の『トパゾスは』『古くは』『ペリドットを意味し、「ペリドット」と現在のトパーズが混同されていた』とあった。
「ペリドット」(peridot)はカンラン石(苦土橄欖石)の中で、宝石として扱われるものの呼称。当該ウィキによれば、『含有する鉄分の作用によって緑色を示す』。『夜間照明の下でも昼間と変わらない鮮やかな緑色を維持したため、ローマ人からは「夜会のエメラルド」と呼ばれていた』。『後に』『十字軍によって紅海に浮かぶセントジョンズ島』(現在のザバルガッド島)『から持ち帰られ』、『中世の教会の装飾に使われた』。二百『カラット以上ある大きなペリドットが、ケルン大聖堂にある東方の三博士の』三『つの聖堂を飾っている』とある。
「クリオライト」(cryolite)は氷晶石。産出が比較的稀なハロゲン化鉱物の一つ。物質名はヘキサフルオロアルミン酸ナトリウム(Sodium hexafluoroaluminate)。当該ウィキによれば、一七九九年に『西グリーンランドのイビクドゥト』(Ivigtût:現在のイヒドゥート(Ivittuut)『で発見された。最初は「解けない氷」と考えられ、外観があまりにも氷に似ていることから』、『この名前がついた(ギリシャ語で「冷気の石」)。そのほかの国でも産出が報告されているが、現在でも、結晶として』纏まって『産出するのはグリーンランドだけである』とある。
「空靑」既出。ラピスラズリの漢名。
「サッフヰール」ウィキの「ラピスラズリ」に、『古代ギリシャでサプフィールといったのは、今のサファイアではなく、ラピスラズリであったという説もある。(古代ローマの大プリニウスが著した博物誌には、サッフィール(サッピルス)の名でラピスラズリが記載されており、「金が点になって光っている」、「最良のものはペルシャで発見される」等と記述されている。)』。「旧約聖書」の「出エジプト記』に出る『祭司の装飾品のひとつである胸当てに』、『はめ込む石と』ある『青い石(sappir)は、ラピスラズリだといわれている。また』、「新約聖書」の「ヨハネ黙示録」では、『世界が終末を迎えた後』、『現れるとされる新エルサレムの都の神殿の東西南北』十二『の礎には』、『それぞれ』十二『種類の石で飾られ、そのうちの』二『番目がサファイア』、十一『番目が青玉と記述されているが、青玉は現在ではサファイアのことを指すので、もしそうであれば』、二『番目のサファイアはラピスラズリのことを指している可能性がある。この他にも』「旧約聖書」で『モーセがシナイ山にて、神より授かったとされるモーゼの十戒が刻まれた石版はサファイアとされていたが、これもラピスラズリであったといわれている』と、まさに熊楠が言う「混淆」が判る。
「貝子」(ばいし)この場合、古代から用いられてきたタカラガイ類の貝貨。
「說文」(せつもん)は「說文解字」の略。漢字の構成理論である六書(りくしょ)に従い、その原義を論ずることを体系的に試みた最初の字書。後漢の許慎の著。紀元後一〇〇年頃の成立。
「集韻」宋代の一〇三九年に丁度らによって書かれた勅撰の韻書。]
又、古谷君は親交なる諸友の助けを假り、後漢書の有らゆる諸本を遍閱して、何れも哀牢出火精瑠璃とはなくて、出水精瑠璃と有れば、類函引く所は誤字也と斷ぜらる。然れども續漢書に火精と有るは、類函成りし前百二十五年、李時珍、亦、之を言へり。續漢書は本草綱目引用書目にも、露人ブレットシュナイデルが引きたる事言要元にも言く、三國の世に、謝承、作る。後漢書は芳賀、下田二君の說に、其八志は晉の司馬彪撰し、本紀と列傳は宋の茫蔚宗、作れり(プ氏のボタニコン・シニクム一九三頁。二君の日本家庭百科字彙明治三十九年板、四〇七頁)。本誌三卷二號に述し如く、予は洋行前、一向、漢學の素養無く、渡英後、故楢原(井上)陳政氏と、「ダグラス」男の大英博物館漢籍目錄編纂を助くるに臨み、愴惶其學に志せし當時、ウヰリーの支那書目を見、初めて范曄の後漢書の外、又、謝承の後漢書、華嶠の後漢書等有るを知り、館より其等を北京書肆に就て購入せん事をダ男に勸め聽かれしが、その書未著到中に退館したれば、謝氏の書果して現在するか否を知ず。然し乍ら、其の康煕朝迄傳存せしは、古今圖書集成や淵鑑類函に多く范氏の書と駢び引れたるにて明か也。
[やぶちゃん注:「本草綱目引用書目」国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版の「本草綱目」の当該部を示した。左丁三行目下段に「謝承後漢書」とある(同書については三つ後の注を見られたい)。
「露人ブレットシュナイデル」「露人」は事実としては正しくない。バルト・ドイツ人の医師で中国学者にして植物学者であったアレクサンダー・ヘルマン・エミール・ブレットシュナイダー(Alexander Hermann Emil Bretschneider 一八三三年~一九〇一年)である。当該ウィキによれば、彼は『ロシア帝国の外交団の医師として北京などで働き、中国の歴史に関する著作を行った』とあり、ロシア語名も持っていることから、熊楠はロシア人と思い込んでいたのであろう。
「事言要元」明の陳懋学(ちんぼうがく:一六一二年に科挙に登第)撰の類書だが、「事言要玄集」の誤り。
「三國の世に、謝承、作る」これは最も古いものに属する「後漢書」と称する後漢の史書の一つで、後漢末期から三国時代の呉にかけての官吏で歴史家謝承(しゃしょう 生没年不詳)のもので、全百三十巻であったが、散佚している。以下で熊楠も言及するが、実は「後漢書」と呼ばれたものは、複数、あった。その後、既注の現在知られる「後漢書」=南朝宋の政治家・文学者・歴史家范曄(はんよう 三九八年~四四五年)の「本紀」十巻・「列伝」八十巻が書かれた。その後も、同書名のものとして、呉の華嶠(かきょう 生没年未詳)の九十七巻がある(そして、この後、やはり既に注した通り、東晋の司馬彪の「続漢書」(全八十三巻)が書かれ、その内の「志」三十巻が散佚を免れ、范曄の「漢書」にカップリングされて今にある)。後、東晋の学者で歴史家の謝沈(しゃ しん 生没年不詳)による全百二十二巻や、同じく官僚で歴史家・音楽家でもあった東晋の袁山松(えん さんしょう 生年未詳~四〇一年)にも「後漢書」がある。
「芳賀」例の国文学者芳賀矢一。
「下田」日本の女子教育家下田次郎(明治五(一八七二)年~昭和一三(一九三八)年)。
「其八志は晉の司馬彪撰し」現行では総てが司馬彪が撰したものとされる。ごく最近まで、誤った見解が罷り通っていたらしい。
「茫蔚宗」(はん じょうそう:現代仮名遣)范曄の字(あざな)。
「プ氏のボタニコン・シニクム一九三頁」ブレットシュナイダーの引用元。‘Botanicum Sinicum’ (ラテン語で「中国の植物学者」の意:一八二二年刊の植物学書)。
「二君の日本家庭百科字彙明治三十九年板」前記の芳賀・下田共著。明三九(一九〇六)年富山房刊だが、この版は改訂増補版である。こんな二人の共著の家庭百科なんぞゼッタイに買わねえな、俺なら。
「楢原(井上)陳政」(ならはらちんせい 文久二(一八六二)年~明治三三(一九〇〇)年)は外務官僚。江戸出身。幕臣楢原儀兵衛の長男。維新後、養子となって井上姓となったが、後に復籍した。明治一〇(一八七七)年に政府印刷局勤務する一方、清国公使館で中国語を学んだ。その後、清に渡り、杭州の兪楼(ゆろう)で勉学し、明治二十三年には公使館書記生として渡英、エジンバラ大学に学んだ(この時、熊楠と接触があったことになる)。帰国後、「日清戦争」の明治二十八年の北京での「日清講和条約会議」では通訳を務めている。その後、北京の日本公使館通訳官、明治三十二年には二等書記官となった。しかし、明治三十三年の「義和団の乱」の際、粛親王府を防御中、負傷、破傷風によって亡くなった。
『「ダグラス」男』「男」(だん)はナイト称号の「Sir」を意訳したもの。イギリスの中国学者ロバート・ケナウェイ・ダグラス(Robert Kennaway Douglas 一八三八年~一九一三年)。複数回、既出既注。中でも、「南方熊楠 履歴書(その6) ロンドンにて(2)」をリンクさせておこう。
「愴惶」「倉皇」「蒼惶」などとも書き、「あわてふためくさま・あわただしいさま」の意。
「ウヰリーの支那書目」不詳。
「康煕朝」清の元号(一六六二年~一七二二年)。
「古今圖書集成」十八世紀、清代に制作された類書。現存するこうした百科事典類中、中国史上、最大であり、その巻数は実に一万巻ある。正式名称は「欽定古今圖書集成」である。
「駢び」「ならび」。]
例せば、類函一二八廉潔一に、後漢書曰、李忠字仲都云々。謝承後漢書云、高弘字武伯云々、華嶠後漢書曰、樂松家貧云々。又一八二挽歌三に、司馬彪續漢書をも引り。是は范氏の書に併せ行はるゝ者ならん。又謝氏の後漢書を單に續漢書として、他の後漢書と別てる所多し。卷二四九兄弟二に、續漢書より姜肱傳を引き、次に後漢書の班固傳を引ける如し。依て察するに、後出の范氏の後漢書に、前輩たる謝氏の續漢書より採れる事多からんも、二書各々記する所同じからざる者亦多ければこそ、斯く別々に引れたるなれ。前出爲正の義に遵はゞ、續漢書の哀牢出火精瑠璃が正文にして、後漢書の水精は火精を誤寫せしと判ずるの外無らん。然るを其名の相似たるより、何の精査を爲さず、漫然續漢書の文字を論ずるに後漢書の諸本を以てするは、舊唐書や長門本平家物語、又、埃囊抄や東海道名所記を見ずに、新唐書、普通の平家物語、塵添埃囊抄、東海道名所圖會にのみ就て、其文字の正否を彼れ是れ論ずるに同じからずや。續漢書に出火精と有るを予自ら見ざれど、類函の外、本草綱目、亦、同樣に文を引き、特に火齊の原意は火精と迄附記したれば、輕々しく水精を火精と誤讀したりと見えず。况や、火精は水精に對する名と論じたるに於ておや。兎に角予は古谷君及び其親交諸君に對し、續漢書の存否、續漢書に火精の二字の有無、及び李時珍が續漢書を引て火齊は火精の訛りとせるの當否を問ふ。
[やぶちゃん注:「淵鑑類函」は例によって「漢籍リポジトリ」で確認して校合した。
「類函一二八廉潔一に、後漢書曰、李忠字仲都云々。謝承後漢書云、高弘字武伯云々、華嶠後漢書曰、樂松家貧云々」ここの[133-2a]の終りから[133-3b]までの抜粋)。訓読する。
*
『「後漢書」曰、李忠、字は仲都』云々。『謝承が「後漢書」に曰はく、『高弘、字は武伯、』云々。『華嶠が「後漢書」に曰わく、樂松、家、貧しくして』云々」。
*
「一八二挽歌三に、司馬彪續漢書をも引り」ここの[187-35a]を参照。
「卷二四九兄弟二に、續漢書より姜肱傳を引き、次に後漢書の班固傳を引ける」ここの[254-5a]を参照。
「前出爲正」「前に出づるを正と爲(な)す」。
「遵はゞ」「したがはば」。
「舊唐書」(くとうじょ:現代仮名遣)は中国五代十国時代の後晋の出帝の時に劉昫らによって編纂された歴史書。「二十四史」の一つ。唐の成立(六一八年)から滅亡まで(九〇七年)について書かれている。当初は単に「唐書」だったが、「新唐書」が編纂されてからは、かく呼ばれるようになった。完成は九四五年。
「長門本平家物語」寿永四/元暦二・文治元(一一八五)年頃に基本形ができ、宝治三年・建長元(一二四九)年頃に現在の形となったと推定されている。
「埃囊抄」(あいのうしょう:同前)室町中期に編纂された辞典。勧勝寺の僧行誉の著で、文安二(一四四五)年または翌年の成立。
「東海道名所記」浅井了意作の仮名草子。万治年間(一六五八年~一六六一年)成立。僧侶の楽阿弥と連れの青年が、狂歌や洒落を織り交ぜて綴った江戸から京都までの道中記。駅間の里数・名所旧跡・産物などが詳細に記載されている。
「新唐書」単に「唐書」とも呼ぶ。北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰で一〇六〇年成立。
「普通の平家物語」ウィキの「平家物語」によれば、『平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は』『合戦が本格化した』時期から、「治承物語」と『呼ばれていたと推測されているが、確証はない』とあり、『正確な成立時期は分かっていないものの』、仁治元(一二四〇)年に『藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし』「治承物語」が『現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実』ではない。『少なくとも延慶本の本奥書』延慶二(一三〇九)年『以前には成立していたものと考えられている』とある。
「塵添埃囊抄」(じんてんあいのうしょう:同前)天文元(一五三二)年に僧某(本文では釈氏某比丘)によって「埃囊抄」を改訂を施したもの。
「東海道名所圖會」江戸後期に刊行された江戸の名所図会。寛政九(一七九七)年刊。]
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