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2022/09/30

西原未達「新御伽婢子」 明忍傳 / 「新御伽婢子」本文~了

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注を文中及び段落末に挟んだ。]

 

     明忍傳(みやうにんでん)

 都の西槇尾山(まきの《をさん》)といへる律院は、往昔(そのかみ)、弘法大師の開基とかや。昔は、高雄の別院にて、眞言宗成《なり》し。

 何(いつ)の比《ころ》にや、明忍律師といへる、たつとき僧の、絕《たえ》て久しき律宗を、とり行初(《おこなひ》はじめ)給ひける。此律師は、もと、世の帝に仕へ給ひし公卿の麁子(そし)にて、幼少より、才、人にすぐれ、知、又、自《おのづから》高し。心德、ならびなく、「三重韻(《さんぢゆう》いん)」など、能(よく)誦空(そらん[やぶちゃん注:二字への読み。])じ給ひけるとぞ。兄(このかみ)なる人、父の家を繼(つい)で、上《かみ》につかへ給ふに、世、難有(ありがた)けるを見て[やぶちゃん注:ここの主語は出家前の明忍である。後注参照。]、世俗を、いとふ心、深く、終《つひ》に、家を出《いで》て、高雄の眞海僧正は、親(したし)き伯父(をぢ)にて、をわしければ[やぶちゃん注:ママ。]、常に、したしみ、よられける。

 眞海、彼是(かれこれ)、四人、上(かみ)に訴へ、御ゆるしをかうふり、此宗をひろめ、今に盛に世に行はるゝ。

 律師、又、惠心信德(ゑしんしんとく)の「往生要集」を、ひらいて、西方淨土に生《しやう》ぜん事を、願ひ給ふ。

 或時、たまたま、

「高麗(こま)に、わたり給はん。」

とて、對馬(つしま)に至り給へるに、人、普(あまねく)、律宗の妙なる事を不ㇾ知(しらざり)けるにや、供養する人、なく、つねの烟(けふり)も、たえだえなれば、荒布(あらめ)といへる、あやしの物を聞《きこ》し召《めし》て、泄瀉(せつしや)といふ病《やまひ》をうけ給ふ。

[やぶちゃん注:本篇は以下の通り、実在した僧の伝記風の来迎奇譚の一篇で、特異点である。

「明忍」(天正四(一五七六)年~慶長一五(一六一〇)年)は、江戸初期に廃れていた律を復興した真言僧。京都出身で、俗姓は中原。高雄山神護寺の晋海(しんかい)の下で密教を学び、二十一歳で出家した。西大寺の友尊らとともに、高山寺で自誓(じせい)受戒(戒師がいない場合に仏前で自ら誓って「大乗戒」を受けることを言う)した。また、槇尾山平等心王院(まきのおさんびょうどうしんおういん:現在の真言宗大覚寺派の槇尾山西明寺(まきのおざんさいみょうじ:グーグル・マップ・データ)。平安時代の天長年間(八二四年~八三四年)に空海の弟子智泉が神護寺別院として創建したと伝わり、鎌倉時代の正応三(一二九〇)年に神護寺から独立した。その際、後宇多天皇から「平等心王院」の寺号を受けた)を復興し、そこに住した。慶長一二(一六〇七)年に教えを求め、当時の明に渡ろうとしたが、対馬で病いとなり、他界した。思想的には「律」と「真言宗」の思想を統合した立場をとっており、その思想的流れが、現在の真言律宗となっている(概ね、小学館「日本大百科全書」の主文に拠った)。なお、PDFで読める伊藤宏見氏の論考「対馬海岸寺明忍資料考及び墓塔訪問」もお薦めである。また、「真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺」公式サイト内にある「元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』(解題・凡例)」にも詳しい。

「麁子(そし)」嫡男でないことを言っている。

「三重韻」韻書の内で、室町中期(十五世紀後半)以降に流行した、入声(にっしょう)を除く三つの声調を、上下三段に重ねた「三重韻」と呼ばれる形式を指す。

「兄(このかみ)なる人」これは、「彼の兄」である中原康政のこと。どのような事かは不明であるが、先の伊藤氏の論考に、『二十四才の時、兄康政におもわしくないことがおこり』、弟の彼は出家してしまった、とある。ここは、そのことを、かく挿入してあるのである。

「眞海僧正」前注の通り、「晉海僧正」が正しい。但し、彼が明忍の伯父であったかどうかは確認出来なかった。

「高麗」とあるが、事実は、大陸の当時の明(みん)である。

「荒布(あらめ)」不等毛植物門褐藻綱コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis 。私の「大和本草卷之八 草之四 海藻類 始動 / 海帶 (アラメ)」を参照されたい。

「泄瀉(せつしや)」激しい下痢症状。何らかの消化器系の重篤な疾患を患っていたか。]

 

Myouninnden

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 其病中(びやう《ちゆう》)、猶、念仏の勤行、怠《おこたり》給はず、正しく終り給へるとき、紫雲(しうん)揚々(やうやう)とたなびきて、前なる藪の茂みに、覆《おほ》ひかゝりけるが、偏(ひとへ)に、紫の絹を引《ひき》はへたるがごとし[やぶちゃん注:ママ。「はへたる」は「映えたる」であろう。]。

 對馬の屋かたよりは、程遠《ほどとほ》けれども、失火(しつくわ)のごとくみえしに、人々、馬をはせて、爰に來(く)る。

 此奇異を拜(をがみ)て、甚(はなはだ)、たつとびあへり。

 此《この》終り給へる時、一尺余(よ)の、木の太皷(たいこ)の撥(ばち)やうの物にて、疊をたゝき、臥(ふせ)ながら、念仏し給ひけるに、聖衆(しやうじゆ)の來迎(らいがう)を現(げん)に拜(をがみ)給ひ、淨人に仰《おほせ》て、

「其有樣を記(き)せよ。」

と、の給へ共《ども》、此僧、筆に堪《たえ》ざるにや、書《かき》煩(わづら)ひければ、自(みづから)、筆、取《とり》て、

「此苦は、暫(しばらく)の程《ほど》。あの聖衆の紫雲(しうん)、淸凉雲(せいりやううん)の中《なか》に、若(もし)、まじはりたらば、いかほどの喜悅ぞや。繪に書《かき》たるは、万分(まんぶん)が一《いち》、八功德(《はつ》くどく)の池《いけ》には、七寶《しつぱう》の蓮花、樹林には、瑠璃(るり)の枝葉(し《えふ》)等《など》也。」

と、書《かき》さして、終(をはり)給ひしとかや。

 有がたき事共也。

 其後、此記、おなじく持《もち》給へる「ばち」、淨人、槇尾(まきのを)に持來《もちきた》り、臨終のありさま、語りけるに、又、人、奇異の思ひをなしけり。

 今に此寺の㚑寶(れいはう)として、目下(まのあたり)、拜みける。

 慶長十五の比《ころ》とかや。

[やぶちゃん注:「八功德(《はつ》くどく)の池」「八功德池」(はっくどくち)は極楽浄土にあるといわれている、八功徳の水をたたえた七宝より成る池。

 以下の評言部は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 唐(もろこし)、霊芝元昭律師(れいしげんせうりつし)の、

「生《いき》ては、毘尼(びに)をひろめ、死《しし》ては、安養(あんやう)に生《しやう》ずる。」

と宣ひけるが、うたがふらくは、明忍は、其さいたんなるか。

[やぶちゃん注:「霊芝元昭律師」北宋の僧元照(がんじょう)律師(大智律師 一〇四八年~一一一六年)。南山律学(なんざんりつがく)の復興者として知られる。参照した「奈良市」公式サイト内の「文化財」の「絹本著色元照律師像」のページによれば、彼の『教学を学んだ入宋僧の俊芿』(しゅんじょう 永万二・仁安元(一一六六)年~嘉禄三(一二二七)年)『が、元照の著した』「四分律行事鈔資持記」『(しぶんりつぎょうじしょうしじき)等の多数の律書や、元照と道宣の絵像などを建暦元』(一二一一)『年に請来したことが契機となって、元照の教学が』、『わが国に伝わり』、『戒律復興に影響を与え』た、とある。

「さいたん」「最端」か。

 以下、奥附。「㒸」は「歲」の異体字。天和三年で、一六八三年。]

 

     

新御伽卷六大尾   江戶神田新草屋町

             西村   半兵衞

            京三條通

  天和參㒸      同 市良右衞門

   九月上旬   八幡町通

             大津屋  庄兵衞

西原未達「新御伽婢子」 魂逥ㇾ家

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注を文中及び段落末に挟んだ。]

 

     魂逥ㇾ家(たましひ、いへを、めぐる)

 和刕郡山の邊(ほとり)に、或比丘(びく)の許(みもと)につかふまつる、淨人(じやうにん)あり。

[やぶちゃん注:「淨人」僧職の一つ。寺に住み、出家をしないで、僧たちに仕える者を指す。]

 久敷《ひさしく》給仕しけるほどに、金銀を、たくはへ、所持しければ、自身、

「庵室(あんじつ)をこしらへ、給仕を止(やめ)て居(きよ)を安(やすく)せん。」

と造作(ぞうさく)を始(はじめ)ける。

 其翌日より、心《ここ》ち、常ならず、次第々々に、よわる。

 棟(むね)をあぐる日、人に助け起されて、打見《うちみ》て、よろこびけるが、其日の暮《くれ》に、命(いのち)、終りぬ。

 彼《かの》家に移住(うつりすま)ざるを、本意なく、かなしび、其事のみに、息、絕《たえ》しが、其夜より、彼《かの》ものゝ姿、顯(あらは)れて、彼《かの》庵室に來(く)る事、止(やむ)時、なし。

 或夜、更(ふけて)、比丘の夢に、かの淨人に逢《あひ》て、宣(のたま)ひけるは、

「何とて、かく、淺ましく、かりの世に、心をとゞめて、迷ひ來《きた》る。早く、後世《ごぜ》善所(ぜんしよ)のおもひをなさゞる。」

 淨人の云《いはく》、

「貴僧の御傍(《お》そば)ちかく、久しく侍りて、敎訓を請《こひ》しかば、さほど迄の斷《ことわり》、辨(わきまへ)しり侍れども、多年の勞を積(つみ)、功なり、名とげて、身《み》、退(しりぞき)、心をも、安(やすく)し侍らんと思ひしに、一日さへ、住(すま)ずして、身まかりぬる。殘りおほさえ[やぶちゃん注:ママ。「おほきさへ」の誤刻か。]、こそ、おもひ、やむまじく侍れ。」

と、いふ、と、覺えて、夢、さめぬ。

 汗、雫(しづく)に成《なり》て、人にかたられ侍る。

 此後《こののち》、猶、此かたち、不ㇾ止(やまず)、或時は、もとの姿を顯し、又、或時は、口より、火熖(くわ《えん》)を吹(ふき)けるに、此家、一時(《いち》じ)に燃あがらんとす。

 各《おのおの》寄《より》て打消(《うち》け)しぬ。

 是より、此庵室を、結界せられければ、室内には、いらで、外面(そとも)を、めぐりありきけり。

「とかく、此庵室ある故也。」

とて、他所(たしよ)に、こぼち、移されければ、此後は、庵《いほり》の跡へ來りけるが、ある夕暮、淨人、もとの姿にて、其わたりの人に、見えて、

「此庵は、いづちへ、行《ゆき》しや。」

と、とふ。

「しかじかの所へ、移されし。」

と、いふに、此時、いかれる眼(まなこ)、すさまじく、火熖をふきて、其かたへ行《ゆく》事、風雲(ふううん)のごとく、又、今の庵の所へ行《ゆき》て、暮(くれ)に及(およぶ)より、彼(かの)者、庵を、めぐりけるとぞ。

西原未達「新御伽婢子」 鷄恠

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注を文中及び段落末に挟んだ。]

 

     鷄恠(にはとりのあやしみ)

 若刕(じやくしう)に龜田江右衞門(かめた《がううゑもん》)とかや、いふ人あり。元來、遠州の武臣にて兵術に苦(くるし)み、軍理(ぐんり)に眼(まなこ)をさらしけるほどに、和漢の書に、くはしく、人、敬(うやまひ)て師範とす。

 近昔(さいつごろ)より、病氣、心に不ㇾ任(まかせず)、御暇《おいとま》を申《まをし》、此所《ここ》に住(ぢう)する事、年、久し。

 僕をして野(の)に耕(たがやし)て、渡世とすれば、今は、ひとへに農民のごとし。

 此妻、孕(はらみ)て子を產(うむ)毎《ごと》に、いづくともなく、失せ行《ゆき》、誰(たれ)とりて行《ゆく》とも不ㇾ知(しらず)、五日、三日、若(もし)は、七、八日、其行《ゆく》所を不ㇾ求(もとめず)。

 この故に、一跡(《いつ》せき)を繼(つぐ)べき子もなく、歎(なげき)くらす。

 此妻、又、孕て、十月(とつき)、

「今日や、生れん、あすやは。」

と相待(《あひ》まち)けるが、

「又、此たびも、妖怪《やうくわい》のために取《とら》れなん事よ。」

と、其謀(はかりごと)を、衆義(しゆぎ)評定(ひやうじやう)するに、其比、眞言の奧旨《あうし》にわたり、いと、たうとき法印、修行のため、此国におはしけるを、招(まねひ[やぶちゃん注:ママ。])て、事の樣子をかたるに、此法印、

「哀《あはれ》なる事。」

に覺《おぼ》して、此家(いへに)、滯留(たいるう[やぶちゃん注:ママ。])ましまして、事の恠(あやしみ)をうかゞひ給ふ。

 其翌日、產(さん)の心《ここ》ち付《づき》て、平產(へいざん)す。

 是より、夜毎に、人、五、六人、皆、弓箭(くぜん)を帶(たい)し、とのひ[やぶちゃん注:ママ。]す。

 此上座に、法印、珠數、つまぐり、眞言、唱へ、います[やぶちゃん注:ママ。]。

 既に一七夜(《いち》しちや)に滿(みつ)あかつき、滿座、眠(ねふり)きざじて、不ㇾ忍(しのびず)、まろび臥(ふす)。

 此時、天井より、恠(あやしき)物、ふりて、人々のいたゞきに、とまる、と、寢入る事、まへのごとし。

 法印は、心身堅固に不ㇾ眠(ねふらず)、猶、光明眞言、たからかに唱(となへ)、座し給ふに、年の比、二十斗《ばかり》の女《をんな》、軒の窓より、飛入(とびいる)。

 一身、かろき事、嵐《あらし》にちる雪(ゆきの)ごとく、產所ちかく、うかゞひ、よる。

 

Nihatorinohuttati

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。左の布団を重ねたものに凭れて寝ているのは、出産視した江右衛門の妻である。かくして寝ているのは、出産で体力を消耗していて、横になって寝ると、逆に気道が圧迫されて呼吸が苦しくなるからであろう。私の古い教え子の女子生徒に生来の喘息のため、生れてからずっと、この状態で寝て、「一度も横になって寝たことはありません。」と語ってくれたのを忘れない。]

 

 此時に、呪文を唱へ、珠數を以て、打拂(《うち》はら)ひ給ふに、忽(たちまち)、鷄(にはとり)のかたちを顯(あらは)し、逃去(にげさり)ぬ。

 江右衞門、鷄、飼《かひ》けるに、年々、卵を取《とり》ける。其いきどをり[やぶちゃん注:ママ。]、時を得て、かゝるふしぎを、なしけり。

 法印、加持護念(かぢごねん)し、牛王(ごわう)など、柱に押《おし》給ひてより、此妖恠、出《いで》ず。

 此子、生長して名跡(めうせき)を繼(つぎ)て、今に有《あり》とぞ。

[やぶちゃん注:この、鶏が人に、毎度、卵を食われることを怨み、時に人型を呈する妖怪と化すという話であるが、これに酷似した話を所持する本で読んだことがあった。一九八一年社会思想社刊の今野園輔氏の「日本怪談集 妖怪篇」(氏の同「幽霊篇」(昭和四四(一八六九)年刊)は私の怪奇談蒐集のきっかけとなった名著である)の「付(一) 妖怪外伝」中の一節である(二八八ページ)。引用させて戴く。

   《引用開始》

 『遠野物語』には猿のフッタチの話が出ている。フッタチとは老いて霊力を身につけたモノである。雌鶏のフッタチが家人に祟(たた)ったというつぎのような話は国学院大学の説話研究会が採集した岩手県下閉伊郡安家村[やぶちゃん注:「あっかむら」と読む。現在は下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)安家(グーグル・マップ・データ)。遠野の北約五十キロ。]の報告に紹介されている。年をとった鶏はフッタチになって化けるそうだ。[やぶちゃん注:以下の一行空けは原本のママ。]

 

 昔ある家に相当な雌鶏のフッタチがあった。その家にはいくら子供が生まれても不思議と育たなかった。ところで三人の子供のいる家にある日、六部様が泊って夢を見た。山姥(やまんば)みたいなモノが子供に椎餅を食わせるところだったが、その晩に三人の子供は三人とも死んでしまった。家の人びとは驚いて六部様に八卦(はっけ)を頼んだ。その六部様のうらないにはフッタチになった雌鶏が出て、

 「いくら卵を生んでも人間がとって喰ってしまうので子供が育たない。だから私もその恨みに人間の子供を殺してしまうのだ」といった。(国学院大学脱話研究会『芸能』三―七)

   《引用終了》

恐らく、西村も、この「雌鶏の経立(ふったち)」の話を誰かから、聴いて、本篇の素材としたものと思われる。卵を産むのだから、怨むのは雌鶏である。しかし、挿絵にたまさか出現している実体の鶏は雄鶏であるのは、絵に勢いが欲しかったからであろう。「遠野物語」の「経立」(岩手県・青森県に伝承される妖怪・魔物。複数の生物(私は動物しか知らない)が想像を絶する年月を生きた結果として変化(へんげ)となった(年「経」(へ)て変じて「立」(た)つの意であろう。或いは「立」は「達」のニュアンスもあるかも知れない)もので、青森県では「ヘェサン」とも呼ぶ)は、私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三六~四二 狼』、及び、『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 四四~四九 猿の怪』を読まれたい。前者には、所持する千葉幹夫氏の「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」第八巻所収)からの引用もあるので、是非、参照されたい。]

西原未達「新御伽婢子」 蛇身往生

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注を文中及び段落末に挟んだ。]

 

     蛇身往生(《じや》しんわうじやう)

 江戶品川とかやいふ町はづれの或人の妻、久しく、いたはり居(ゐ)ける。

 此女、若かりし時は、美女のほまれ高く、世の人、爲ㇾ之(これがために)、心を盡(つく)し、身をくだく、たぐひを、はかるを、此男に、えにしをむすびて、離山(りざん)の私言(さゝめ)を、「我ためにや。」と疑ひ、甘泉(かんせん)のむつびを、掌(たなごゝろ)にとりて、年月、契りけるに、いつしか、いたう、いたはりにやつれ、日々に容㒵(ようばう)を失ひ、時々に、艶色(《えん》しよく)、衰行《おとろへゆく》。

[やぶちゃん注:「離山の私言(さゝめ)」「さゝめ」は「さゞめ」でもよい。「ささめごと」の略で、内緒話の意だが、特に男女間の恋の語らいを指すことが多い。さて、「離山」であるが、これ、私は不詳だが、思うに、男女の情事を言う「雲雨巫山」の「巫山」の誤りではないか? 「巫山」は現在の四川省巫山県にある山で、戦国時代の楚の懐王が、昼寝の夢の中で巫山の神女と情を交わしたが、別れに及んで神女は「私は、朝には朝雲となり、暮れには行雨となりましょう。」と約したという知られた故事によるものである。「文選」巻十九に載る宋玉の「高唐賦」見える故事である。

「甘泉」白居易の新楽府の一首「李夫人」の一句「甘泉殿里令寫眞」(甘泉殿里 眞を寫(うつ)さしむ)に基づく。漢の武帝と、「反魂香」や「傾城傾国の美女」の元となった寵愛された側室の李夫人を扱ったもので、「長恨歌」の前に作られ、その淵源となった作品である。同詩篇の全体はこちらがよい。]

 今は、賴なく、朝露(あしたのつゆ)の消《きゆ》るを待《まち》、夕(ゆふべ)の月の入(いり)なん命(いのち)みるめさへ、心ぼそき比《ころ》、女《をんな》、苦しげなる息の下に、夫《をつと》に向(むかひ)、いふ、

「年比《としごろ》日ごろ、馴染(なじみ)侍るほど、さりとも、定(さだめ)なき命を持てる身なれば、ひとりは、先に死し、ひとりは、家にとゞまるならひなれば、一方(《ひと》かた)の空しき時、必(かならず)、同じ黃泉(よみぢ)に友《とも》なはんと、いひかはせし事、枕の度(たび)ごと也《なり》し。今、既に、我が身、此世を早(はや)うせんとす。など、おなじみちの用意なんどし給はぬ事の、うたてさよ。」

と、打恨(《うち》うらみ)ていふ。

 男も、此女の、むべに健(すくやか)なる時こそ、をもはぬ[やぶちゃん注:ママ。]事まで戯(たはむれ)けめ、いつしか、年も老《おい》の始(はじめ)に傾(かたぶき)たるに、月日、經(へ)て、いたはりたれば、昔、見し妹(いも)が垣(かき)ねにもあらず、やつれたれば、打《うち》つけなる物いひさへ、惡(にく)かりけるにぞ、そらうそぶきて、聞(きか)ぬふりに、もてなす。

 女は、猶、たゆべくもなく、面(おもて)、血ばしりて、そゞろごと、するごとし。

[やぶちゃん注:「そゞろごと」「漫ろ言」。「何ということもなく言う言葉」の意で、それが総て恨み言であることを言う。]

 男、をそろしく[やぶちゃん注:ママ。]、病家を出《いで》て、外樣(とざま)に、やすらふ。

 此後にこそ、女房、誠に狂氣して、

「うらめしの夫や。腹立(はらだち)の心ざまや。かう、いひし物を、何《なん》と、契し物を。」

と、年月のねやのむつ言を、くり出《いだ》して、言(いひ)のゝしるに、親(したし)き者ども、耳を覆(おほふ)て去り、召つかふ者にも、つかみつけば、枕によらず、猶、心に任(まか)せ、聲を立《たつ》る。淺ましとも、いはんかたなし。

 爲方(せんかた)なくて、一門、談(だん)じ合せていふ、

「迚(とても)此者、ながく生(いく)べき命ならず。片時も置《おい》て苦痛を增(まし)、身の愧(はぢ)をかさねん事、よしなし。しめ殺して、菩提を、こまやかに弔(とふ)迄よ。」

と、しめし合せて、七、八人、立《たち》より、

「玉の緖の、絕《たえ》なば、たえね。」

と、理不盡に、いため、ころしぬ。

 いとゞ、女のなよやかなるに、久しき病に、影もなくやせたれば、たまりあへず、死《しに》けり。

 各《おのおの》、手にかけたる哀《あはれ》さに、㒵(かほ)を見合せて、袖をしぼり、外《そと》にありし夫を、呼(よび)かヘす。

 男、歸り、其事となく、物いひけると、ひとしく、死せる女、

「がば」

と起(おき)て、

「嬉しや、珍しや、今はの限(かぎり)を知(しり)て、我妻の聲の聞ゆるよ。」

と這《はひ》まはりて、猛(たけり)かゝる。

[やぶちゃん注:「妻」「夫」の意。]

 人々、驚《おどろき》、又、寄(より)て、しめころせども、一身、金剛のごとく、堅固なれば、盤石(ばんじやく)を持《も》て、うつ共《とも》、くだけず。

 干將《かんしやう》・鏌鎁(ばくや)が釼(つるぎ)とても、切《きり》くだく事、不ㇾ可ㇾ叶(かなふべからず)。

[やぶちゃん注:「干將・鏌鎁が釼」「鏌鋣」は「莫耶」とも表記し、中国の伝説上の名剣、若しくは、その剣の製作者である夫婦の名。剣については、呉王の命で、雌雄二振りの宝剣を作り、干将に陽剣(雄剣)、莫耶に陰剣(雌剣)と名付けたとされる。この陰陽は陰陽説に基づくものであるため、善悪ではない。また、干将は亀裂の模様(龜文)、莫耶は水の波の模様(漫理)が剣に浮かんでいたとされる(「呉越春秋」に拠る)。なお、この剣は作成経緯から、鋳造によって作成された剣で、人の干将・莫耶については、干将は呉の人物であり、欧冶子(おうやし)と同門であったとされる(同じく「呉越春秋」に拠る)。この夫婦及びその間に出来た子(名は赤、若しくは、眉間尺(みけんじゃく))と、この剣の逸話については、「呉越春秋」の呉王「闔閭(こうりょ)内伝」や「捜神記」などに登場しているが、話柄内の内容は差異が大きい。近代、魯迅がこの逸話を基に「眉間尺」(後に「鋳剣」と改題)を著わしている。なお、莫耶、莫邪の表記については、「呉越春秋」では「莫耶」、「捜神記」では「莫邪」となっているが、本邦の作品では、孰れも莫耶と表記することが多い。以上はウィキの「干将・莫耶」に拠ったが、より詳しい話柄は、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)』と、『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その2)』を見られたい。]

 去(され)ども、腰のぬけたるにて、立《たち》あがる事の叶はぬぞ、取所《とりどころ》なる。

 身の皮、鱗立(うろこ《だち》)て、木に、えりたる蛇(じや)のごとし。髮、空(そら)ざまにのぼりて、村《むら》だつ芦(あし)のごとし。口ばしる事、前に十倍せり。

[やぶちゃん注:「えりたる」「彫(え)りたる」。]

 此時、傳通院(でんづう《ゐん》)の老和尚を招きける。

[やぶちゃん注:「傳通院」現在の東京都文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗無量山伝通院寿経寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。増上寺・上野の寛永寺と並んで、「江戸の三霊山」と称された。詳しくは当該ウィキを参照されたい。]

 其比、伊勢天念寺懷山和尚(くわいざん《おしやう》)、關山(かんとう)に下向ましませしかば、相伴(《あひ》とも)に、此家に來り給ひ、敎化(きやうげ)し給ふ。

[やぶちゃん注:「天念寺」三重県津市寿町(ことぶきちょう)にある浄土宗地島山天然寺、或いは、同寺と関係の深い三重県津市久居寺町(ひさいてらまち)にある浄土宗見上山光月院天然寺か。少なくとも、伊勢に「天念寺」は現在は、ない。]

 法衣(ほうい)、たとく引《ひき》つくろひ、水晶の珠數、かた手に柄香炉(《え》がうろ)をたづさへ、かしこき香を燒(たき)て、心をおさめ、身を靜(しづか)に、弥陀の宝号(ほうごう)、しめやかに、ずして、病人の、いかれる前に、座し給ふ。

[やぶちゃん注:挿絵(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像の方がよい)で判る通り、香炉に柄がつけられており、持ち運べるようにしたものを指す。サイト「道具学」の「柄香炉」に三種の画像があり、『僧侶が法会の際に携行して香を献じるための仏具(僧具)の一種である』とある。]

 

Jyasinoujyou

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 余(よ)の人、行《ゆき》見れ共、つかみつかれて、命斗《ばかり》を、漸(やうやう)、我が物にして逃(にげ)歸るに、此和尚、目前(もくぜん)に座し給ふに、其勢(いきほひ)の衰《おとろひ》けるこそ、

「先《まづ》、仏力(ぶつりき)の妙(めう)也。」

と、いひあへり。

 時に、此女、老僧を、暫(しばし)、守《まぼ》り、

「我僧(わそう)は、何の用ありて、爰に來《きた》るや。」

と。

「汝、人間に生れて、則身(そくしん)、蛇(じや)のかたちを得。蛇は、人の家に住(すむ)事、あたはず。冷池(れいち)なくんば、あるべからず。此池を、もてるや。若(もし)なくば、我に、いみじき池あり。汝に、あたへんため、爰に來《き》ぬ。」

と。

 女、聞《きき》て、

「賢(かしこく)も、敎《おしへ》給ふ物かな。誠に、我が形、蛇に成《なり》たる事、爰(こゝに)知(しん)ぬ。一身、置所(おき《どころ》)なく、もえこがるゝぞや。其冷池は、いづこに侍る。」

と。

「西方《さいはう》にあり。名を『八功德池(《はつ》くどくち)』といふ。」

[やぶちゃん注:「八功德池」現代仮名遣「はっくどくち」。

極楽浄土にあるといわれている、八功徳の水をたたえた七宝より成る池。]

 女、又、

「そこにゆかんにも、我(わが)夫(をつと)をゐて(ゆか)ねば、よしなし。」

 僧、答《こたへ》て、

「暫(しばらく)、先《さき》に行《ゆき》て待(ま)て。夫をも、ゆかしめん。必《かならず》、たがふべからず。」

 女、聞《きき》て、

「扨《さて》、いかがして、行《ゆく》所ぞ。」

と。

「精進に念仏すれば、たち所に此池を得る也。此所《ここ》の有さま、」

と、ありて、

「かくありて。」

と、淨土の莊嚴の、をごそか[やぶちゃん注:ママ。]なるさま、独(ひとり)來《き》て、独《ひとり》行《ゆく》のことはり[やぶちゃん注:ママ。]、冨樓那(ふるな)の弁(べん)を、かつて、一時斗《ばかり》、説(とき)聞《きか》せ給ふほどに、信心歡喜(しんじんかんぎ)して、いつぞの程に、空ざまなる髮も、やはらぎ、楊柳(やうりう)の風にあへる氣色(けしき)し、鱗(うろこ)だちたる身の有さまも、滑(なめらか)に、端嚴(たんごん)の肌(はだへ)となり、ほつろていきうして、暫(しばし)、袂をしぼり、和尚を礼して云《いはく》、

「淺ましき道に踏まよひ侍りて、永く、黑闇(こくあん)のちまたに、さそらへんとせしを、有難き御敎(《おん》をしへ)に、報土(ほうど)の蓮(はちす)をとなつて[やぶちゃん注:ママ。「訪(おとな)つて」の誤りか。]、微妙(みめう)の音樂にあそばん事よ。今は、夫も、親も、いらず。人々、念仏して、我に力(ちから)を添(そへ)給へ。うれしや、たうとや。」

と、いひし後(のち)、余言(よごん)をまじへず、念仏の下《もと》に、往生しぬ。

 いみじき和尚の敎化にてこそ侍れ。

[やぶちゃん注:最終シークエンスの『……此所《このところ》の有さま、」と、ありて、「かくありて。」』の箇所は、どうも自信がない。当初、「此所の有さま」は、女の台詞かと思ったが、そうすると「かくありて」以下がジョイントが頗る悪い。されば、『「されば、その池の様子はのう、……」と、和尚は、まず、前置きして、「このような場所であってのう。……」』の意で分割した。或いは、「此所の有さまかくありて」に衍字で「とありて」が挟まったものかとも思った。大方の御叱責を俟つ。

「冨樓那(ふるな)の弁」釈迦十大弟子の内、「弁舌第一」と称された富楼那のような巧妙な弁舌。すらすらと、よどみなく、喋ることの喩え。

 個人的には、この話、怪奇談としても、僧の教化異譚としても、よく書けていると思う。]

2022/09/29

西原未達「新御伽婢子」 自業自得果

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注を段落末に挟んだ。]

 

      自業自得果(じ《ごふ》じとくくわ)

「端山(はやま)の花は、散(ちり)つくして、都わたり、名殘(なごり)すくなし。こよや、嵯峨の奧に、しれる所あり。」

と、友、ふたり、みたり、袖ひくにうかれ出《いで》て西にまうず。

[やぶちゃん注:「こよや」「來よや」。「一つ、来ないか?」の意であろう。]

 京ばなれより、はるけき埜路(のぢ)を見渡したる、先(まづ)、めづらし。堇(すみれ)・蓮花菜(けゞな)の、しほらしく、金鳳(きんぽう)・春菊(しゆんぎく)の、おもひなく、はびこりて、色をまじへ、秋の錦にも、おさおさ、おとらず。

 爰なん、平安城(みやこ)の外面(そとも)のしるし、藪の茂り、ながくめぐりて、岸根(きしね)さびたる水の色も、君が代、久(ひさ)に、すみわたるらんと、みやるに、賤が手わざの、いぶせく、はぎ、深く水に入《いり》て、根芹(ねぜり)引《ひく》あり、畑(はた)の畔(くろ)には、よめがはぎ、たんぽゝなど、あやしの草を、㚑照(れい《しやう》)にはあらぬ、愚《おろか》の女《め》の、まばらなる籠につみ入《いれ》て、をのがじゝ[やぶちゃん注:ママ。]、さそひたるも、おかし[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「蓮花菜(けゞな)」季節と、和名の「けげな」及び「菜」の字から、私の好きなマメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus である。永く見ていないな、れんげの群れを。

「金鳳」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属ウマノアシガタ Ranunculus japonicus の本邦の異名キンポウゲ(金鳳花)。標準和名のそれは「馬の足形」。根生葉(こんせいよう:地上茎の基部についた葉)の形を馬の蹄に見立てたものと言われる。なお、「金鳳花」は中国名では、フウロソウ目ツリフネソウ科ツリフネソウ属ホウセンカ Impatiens balsamina の異名であるので、注意が必要。

「はぎ、深く水に入《いり》て」「はぎ」は「萩」で、マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza のハギ類であるが、季節柄、花は咲いていない。そもそもハギ類は水辺には生えていない。前に「賤が手わざの、いぶせく」とあれば、如何なる理由かは判らぬ(だから「いぶせく」)が、雑草扱いして、萩の草叢を刈って、水辺に投げ入れてあったものか。そこからパンして、「根芹(ねぜり)引《ひく》あり」と写したのであろう。

「よめがはぎ」キク亜綱キク目キク科キク亜科シオン属ヨメナ Aster yomena の異名。これも前と同じく、季節柄、花は咲いていないので注意。

「㚑照」草花の精霊の霊的な示現。]

 南に瓦の軒(のき)、淋しく見ゆ。あれよ、西院の煙(けふり)立《たち》さらで、つねなき風の、人をおどろかすといふも、心ぼそし。

[やぶちゃん注:「西院」既出既注。非常に古くは葬送地・遺棄地であった。]

 遠く詠(ながむれ)ば、やはたの山も、霞こめて見ゆ。右に延命地藏、まします。爰を「つぼ井」といふ。小田(おだ)かへす男に、故《ゆゑ》をとへば、

「近昔(さいつごろ)、旱魃のため、道端をほりて、水を求《もとむ》るに、ひとつの瑠璃の壷、あつて、此地藏尊、其上に座(ざ)し給ふを得たり。ほり上(あげ)奉るに、其下より、凉水(りやうすい)、湧滿(わきみち)て、其時のみか、今に至りて、雨なきとしは、此井の水を、わかちて、此わたりの田面(たのも)をやしなふ。現(げん)に、人の命(いのち)をのべ給ふ、たうとき[やぶちゃん注:ママ。]本尊にて、まします。」

と語るに、皆、瑞喜す。

[やぶちゃん注:京都府南西部の八幡(やわた)市にある男山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の別名。石清水八幡宮(=男山八幡宮)が鎮座する。

「延命地藏」「つぼ井」現在の中京区西ノ京北壺井町にある壺井地蔵尊。本書刊行時、存命していた江戸初期の医者にして歴史家であった黒川道祐(どうゆう 元和九(一六二三)年~元禄四(一六九一)年)の書いた太秦広隆寺への参詣の道中を記した「太秦村行記」(うずまさむらこうき)によれば、この井戸から地蔵尊像が出たので、「壺井地蔵」と称し安置されたとされる。現在は水は涸れているが、近年まで湧いていたらしい。ブログ「京都のITベンチャーで働く女の写真日記」のこちらが、詳しく、写真も豊富である。由緒を記した説明版も画像で読める。それによれば、この壺井の水は、江戸時代には、罪人の京都市中引き回しの際の、罪人の末期の水とされたとある。以下、知られた京の寺院がいろいろ紹介されるが(作者は京案内をしたくて仕方がないらしい。展開とは無縁な確信犯である)、私は京都を数回しか歩いていない。従ってその観光ガイドをする立場にないし、しかも最後に出現するカタストロフには、それらの注は不要であるからして、以下、寺院・名跡の注は、ちょっと躓いた箇所を除き、原則、しないこととする。悪しからず。

 北に、妙心寺、打《うち》こして、衣笠山、金擱寺(きんかくじ)は、一峯(ほ)のそなたにすこし見ゆ。義滿公の御開基とかやいふ。

 等持寺は、尊氏公の御菩提寺。昔、軍(いくさ)に立《たち》給ひけるに、祈願して、「若(もし)此軍に勝利を得ば、一日に三个寺(《さん》がじ)建立すべし。」と。軍に打かち給ひて、此寺を、日の内に造立せしと。故に寺號に「寺」といふ字を、三つ入《いれ》て書《かき》けるとぞ。

 龍安寺は、細川勝元の興立。

 眞如寺は、高師直(こうのもろなを)、造(つくる)。

 皆、山のみ峙(そばだち)て、寺は麓に木隱(こがくれ)たり。

 其西に、塔婆、高く見ゆる。寬平の帝のかくれすませ給ひし仁和寺御室とをしゆ。去人のいふ、

「此帝《みかど》は、山を東にあてゝ、都のみえぬかたに住(すま)せ給ひし、といふに、東に山なし。」

といふ。

「其事よ、こなたに御室《おむろ》の古御所(ふる《ご》しよ)といふ有《あり》、昔は、爰にましましき。其前を、ほそ川、ながる。『をむろ川』といふ。川ばたに一宇あり。法金剛院也。左は、太秦。往昔《そのかみ》、聖德太子、秦(はだ)の川勝(《かは》かつ)と、君臣、御心《みこころ》を合《あはせ》て、草創有《あり》けるより、太子の「太」の字と「秦」の字を取《とり》て、此所《このところ》の名とす。」

といふ。本尊、藥師にてまします。

 西南に梅津、桂の里、みゆる。

 今、休(やすら)ふ所をとへば、

「安井村。」

といふ。道の右に、「金目(かなめ)の地藏」あり。

 其先を常盤(ときは)といふ。「乙子《おとご》の地藏」といふ。昔、西光法師、六地藏をつくりて、衆生、結緣の步(あゆみ)をはこぶ。六番目なれば、かく號(なづく)とかや。

「時なれば。」

とて、友どち、古歌を謳(うたふ)。

   ときはなる松のみどりも春くれば

    今ひとしほの色まさりけり

 其末(すゑ)、「中埜」といひて、さもしき者のすめる一村あり。「安堵が橋」・「廣澤」「大澤」あり・「八軒」といふ村は、土器(どき/かはらけ)作りのすむ里。

 其行《ゆく》すゑ、淸凉寺釋迦堂(せいりやうじしやか《だう》)なり。

「いひつゞくれば、「道の記」をつゞるやうなり。」

と、笑(わらふ)。

「よしや、かゝる道は化口(あだぐち)隙(ひま)なくて過《すぎ》ぬは、いとゞ遠く覺えて、足、たゆくこそ。猶、こゝら、古跡尋《たづね》て、物《もの》せん。」

と、いひしらふも、くどしや。先《まづ》、本尊の御戶(みと)、開帳しつ。すせうさ[やぶちゃん注:意味不明。識者の御教授を乞う。]、我のみか、道俗、市をなすも、嬉し。此御仏《みほとけ》》のたとき、昔は、いふも更なり、栖霞寺(せいかじ)、左に建(たち)て。彌陀を安置す。右に文珠院虛空藏の像、牛堂《うしだう》、たうとく、ならびます。此庭も、花は半(なかば)ちりて、空にしられぬ雪の庭に氈(せん)しかせ、小竹筒(さゝ《へ》)とりちらして、ひと、ふたと、のみたる慰(なぐさみ)、たとしへなし。友なる人、口《く》どく、俳諧の發句して、又、笑(わらふ)、

   釈尊も花にはゆるせ飮酒戒(《おん》しゆかい)

やゝやすらひて、猶、是より南にはこぶ。

[やぶちゃん注:「栖霞寺」現在の清凉寺本堂の東に建っている阿弥陀堂のこと。ここはもとかの源融(とおる)が嵯峨で営んだ山荘棲霞観で、彼の子どもらが、その意志を継いで源融が嵯峨で営んだ山荘が棲霞寺であり、それは後に清凉寺となったと、こちらにあった。

「文珠院虛空藏の像」清凉寺にある平安時代作の文殊菩薩木像ならば、ある。重要文化財で、こちらに、『元は本堂の本尊釈迦如来立像の脇に安置されていたが、現在は霊宝館に収蔵されている』とある。「虛空藏の像」は不詳。

「牛堂」サイト「京の霊場」の「 京羽二重大全」に載る仏像と現在の所在地の表の中に、「五大堂不動」が前掲書には「嵯峨清凉寺内牛堂」にあったとし、現在地は「清凉寺」とあるので、「牛堂」があったことは判明はした。]

 往生院より伎王兄弟(ぎわうはらから)と、ぢ仏の御影《みえい》を拜む埜々宮(の《のみや》)は、名のみ、ひろくて、せばき森に祠(ほこら)あり。物さびしさぞ、昔、聞《きき》しに増(まさ)り、

「火たきやの、かすかなるさへ、なし。」

と、いへば、

「なしとは、僞《いつはり》よ、爰に、みゆる。」

といふ。

「いづれ。」

と、とへば、茶を煮る姥(うば)が、葭垣(よしがき)、引《ひき》まはし、わら莚(むしろ)の床(とこ)をおしゆるぞ、かはりたる。尻かけて、茶を吞(のめ)ば、「ちろり」といふ物に、酒、うつして、天目、置双(《おき》ならべ)、

「ひとつ、聞(きこ)しめさぬか。」

といふ。

『ひなびたる所、都の外(ほか)に尋(たづね)ずは。』

と、珍し。又、ひとりの友、狂歌して、

   葭垣(よしがき)はしるしの杉もなき物を

    いかにまがへてよれる酒やぞ

[やぶちゃん注:この狂歌は、「この杉の痕跡もない葭垣の陋屋のくせに、どう紛らわしたって、出された酒を、有難く受けて飲めるものではないわいな。」といった謂いか。]

 天龍寺に入る。爰は夢窓の本願、五山のひとつ。靈龜山といふ、是も尊氏卿、大檀那として建立とぞ。

 南に出《いで》て、臨川寺。天龍寺の別院とかや。

 大井川にのぞめば、水上(すいしやう)、幽谷をしたひて、蕩々《たうたう》たり。

[やぶちゃん注:「大井川」大堰川。南丹市八木地区から亀岡市にかけての桂川の別名。]

 筏(いかだ)に乘(じやう)して、喧(かまび)しく漂(たゞよふ)男《をのこ》の、日に、くろみしも、むくつけし。

 橋を南に越《こせ》ば、山田といふ。僧都道照(だう《しやう》)の丹誠の祈(おのり)に、衣の袖に、ふり給ひし、虛空藏の靈場、法輪寺に參りて、先(まづ)、世のならはしに、現當(げんたう)の冨分(ふくぶん)を祈る、我ながら、欲深さよ。

 

Ayu

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 松尾(まつのを)西方寺、まうでんと、猶、南にゆくに、僕のいふ、

「只今、此所を北にまかりし者あり。『松の尾の者。』とて、『小鮎(こあゆ)くむ事の名人。』と、大勢、尻につきて行《ゆく》に、馴(なれ)し所の者さへ、おもしろがれば、いか斗《ばかり》の上手にや。少《すこし》、見給へ。」

といふ。

[やぶちゃん注:「松尾」西芳寺及び嵐山周辺の広域地名。]

「いづち、悤(ぞめく)も、あそびよ。行《ゆき》て見ん。」[やぶちゃん注:「ぞめく」は「浮かれ騒ぐ。」の意。但し、「悤」(音「ソウ」)の字は「あわてる・いそぐ」、「あわただしい・いそがしい」の意。]

と、又、川ばたに歸(かへる)げにも、去《さる》手きゝにて、水中、頸(くび)ぎは迄、波の行《ゆく》所を、疊の上を步(あゆむ)ごとく、いる、やいなや、小鮎、ふた升(ます)斗《ばかり》とりて、猶、網をつかふ。

 いかゞしたりけん、

「あはあは」

と、水に沉(しづみ)て、あがらず。

 去《され》ども、其邊《そのへん》の人、行《ゆき》て引《ひき》上げんともせず。

「毎(いつ)も水中に入《いり》て、半時(はんじ)、一時、心に任せて、あそぶ。かまはずと、見よ。」

といふ程に、

「さもこそ。」

と見居《みをり》て、

「たばこ、茶よ。」

といふほど、漸々(やうやう)、時、移(うつる)に、更に、あからず。

 一人の男、あつて、

「無興(ぶ《きやう》)なり。京人《きやうひと》も見物なるに、何が、水《みな》そこに、用ある。あがれ。」

と、いひて、おり、ひたり、足を持《も》て、底をさぐるに、かの者、ひとつの杭に、かゝりて、死居(しゝゐ)たり。

 引《ひき》あげてみるに、早(はや)、色《いろ》、反(へん)じ、水に醉《ゑひ》て、ふつゝかに肥《こえ》たり。

 去《され》ども、持《もち》たるあみは、手をしめて、放さず。

 心ある人、是を見て、いふ、

「此者、一生すなどりに、れんまし、水練、鵜(う)よりも、やすし。此網を、はなちて、をよぎ[やぶちゃん注:ママ。]たらましかば、なじか、命を失(うしな)はん、殺生の業《ごふ》、つもりて、身を殺せる事、『自業自得果』といふ物なり。」

と、いはれし。

 げにも、左にては有《あり》けれ。

 此哀(あはれ)さに、けふの遊(あそび)の、興、盡(つき)て、尋(たづぬ)べき花だに、見ず。直(すぐ)に家に歸りぬ。

[やぶちゃん注:私はこれは作者の実体験譚と思う。そう考えることによって、これは怪奇談ではなく、カタストロフとして、悲惨を読者に与える。怪奇談集としては、一つの手法として、全篇に及ぼす、ホラー効果は絶大と言えるし、『やらかして呉れたな』と憎くもなるが、個人的には生理的に、やや嫌な感じがする。それは、その事件の語りの前の三分の二の、「新御伽・番外・京都ムック」との筆致の落差が、あまりに大き過ぎるからであり、作者の最後の添え辞も常套的形式的で、その悲哀感が殆んど伝わってこないからである。

西原未達「新御伽婢子」 太神宮擁護

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。標題中の「擁護」(現代仮名遣「おうご」)は仏語で、仏・菩薩などが人の祈願に応じて、守り助けることを言う。

 注を段落末に挟んだ。]

 

新御伽巻六

    太神宮擁護(だいじんぐう《わう》ご)

 天和三のとしの春、江刕水口(みなくち)、去(さる)土民の女房、伊勢に參宮の心、しきり也。二才の子、ひとり、持(もて)りければ、いだきて出《いで》んも、はるばる難義なるべし。殘し置《おか》ば、飢《うゑ》なん。夫(をつと)に問(とひ)たりとも、やわか、ゆるすまじければ、とかく案じけれ共、唯、一向(ひたすら)引《ひつ》たつる斗(ばかり)、詣《まうで》たくおもひければ、今は堪(たへ)しのぶへくもあらず、或曉(あかつき)より、まぎれ出《いで》ぬ。乳(ち)のみ子を捨置(すておき)、亭主にもしらせずして、出《いで》る。

[やぶちゃん注:滋賀県甲賀(こうか)市水口町(みなくちちょう)水口(グーグル・マップ・データ)。

「やわか」ママ。「やはか」が正しい。副詞で下に打消推量表現を伴って、「よもや」「まさか」の意。

「引たつる斗」ここは民俗社会でよく用いられる、「神仏の招く超自然の力に自然に引っ立てられるかのように」のニュアンスであろう。]

 跡にて、此子、なきさけぶ事、暫(しばし)もやまず、おさおさ、母をみしりたる比《ころ》にて、余所(よそ)の乳味(にうみ)は、ふくみもやらず、男、大きにいかり、腹立て、

「かく、いとけなき子を置《おき》て、日かず、ほどふる物詣(ものまふで)、假令(たとへ)ば、己(おのれ)、所願ありて、身のほゐを祈る共、只、独(ひとり)ある小児(こ)を捨(すて)、爭(いかで)、神慮に叶(かなふ)べきや。哀《あはれ》を知らぬ心、畜類になん、をとり[やぶちゃん注:ママ。]たり。」

と惡口(あつこう)を盡(つく)す。

[やぶちゃん注:「ほい」ママ。「本意」であろうからして、「ほい」が正しい。「かねてよりの願い・宿願」の意。]

 一曰(ひとひ)、二日と過行《すぎゆく》内に、此子、次第に瘦枯(やせほそり)て、賴《たより》なく見ゆるに、父、悲しみ、粥(かゆ)・地黃煎(ぢわうせん)なんど、調(とゝのへ)、もだゆれ共《ども》、嬰児(《えい》じ)の、かひなく、弱果(よはりはて)て、四日といふに、むなしく成《なり》ぬ。やらんかたなく、悲しめ共、力なく、土中(ど《ちゆう》)におさめ、一基(《いつ》き)の主(ぬし)となし、淚の雨にかきくれ、打《うち》しほれたる所へ、女房、いせより、下向しけり。

[やぶちゃん注:「地黃煎」根が漢方生剤「知黄」とされるキク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の甘味のある根の粉末を添加して練った本邦の飴。ウィキの「地黄煎」によれば、室町時代には、同類のものが売り出されており、『江戸時代』『にも、飴としての「地黄煎」は製造・販売されており』、元禄五(一六九二)年に『井原西鶴が発表した』「世間胸算用」にも、『夜泣きに効くという趣旨で「摺粉に地黄煎入れて焼かへし」というフレーズで登場する』。元禄八年刊の「本朝食鑑」には、『膠煎(じょうせん)として紹介され、これを俗に「地黄煎」という、としている』。元徳二(一七一二)年刊の「和漢三才図会」に『よれば、膠飴(じょうせん)と餳(あめ)は湿飴』(しるあめ:水飴のこと)『とは異なり、前者は琥珀色、後者は白色であり、煮詰めて練り固めて製造する膠飴』(こうい:漢方名)『のなかでも、切ったもの(切り飴)を「地黄煎」という、と説明している』とある。

「もだゆれ共」夫は嬰児のために「ひどく苦しんで」世話したのであるが、の意であろうが、ちょっと無理のある表現である。]

 夫、更に目もやらず、歎きの床(とこ)に臥(ふし)ながら、女を、のゝしりて、いふ、

「何條(なんでう)、己(おのれ)參宮の心、切ならば、いとけなき者を、負《おひ》ても抱(いだき)ても、つれゆかぬぞ。つれ行《ゆく》事の、くるしくば、詣(まふで)ぬこそ、まさるべけれ。たまたま、ひとりの子をまうけて、朝(あした)の花、夕(ゆふべ)の月と詠《ながめ》し。情(なさけ)なくも、捨(すて)をきて[やぶちゃん注:ママ。]、あへなく、むなしく、消(きえ)しぞや。ふびんや、かはゆや。」

と、且は、恨(うらみ)、且は、歎(なげき)て、かきくどくに、女、きいて、少《すこし》も、なげかず、

「そなたは、何を、の給ふ。我、此子を置(おき)て出《いで》しを、隣(となり)成《なる》人の、跡を追《おひ》て、つれ來り、我に手渡し給ひしほどに、道のなんぎを思ひしかども、是非なく、つれて參宮せしが、長《なが》の旅路もくるしまず、殊更、健(すこやか)にて、乳(ち)を吞(のみ)て爰にあり。是、見給へ。」

と抱出(だきいだ)す。

 

Daijinguwougo

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 夫《をつと》、誠《まこと》と思はずながら、枕をあげて、見やりけるに、あらそふべくもなき、我子也。

「こは。そも、いかに。不審(いぶかし)。正(まさ)しく、此子、世を早(はやう)し、きのふのくれ、そこそこに土葬し置《おき》たるぞ。」

と。

 急ぎ、其所《そこ》に行《ゆき》て、土を穿(うがち)てみるに、棺の内に、「太神宮」の御祓(《おん》はらい)、箱ながら、いと、たうとくて、おはしける。

 男、甚(はなはだ)、感信(かんしん)して、

「おほけなくも、訇(のゝしり)ける事よ。」

と、悔悲(くいかな)しみけるとぞ。

 誠に、和朝(わてう)は神の御国(みくに)にて、かゝる御《おん》めぐみの數(かず)をしとふに、いか斗《ばかり》と限なきを、とり出て申《まをし》侍らんも、こと更《さら》めきたれど、曉季(ぎやうき)の今の世にも、誠(まこと)、心に祈るには、利生(りしやう)あらたにまします事よ。と有がたく思ひ奉る事の、あたらしければ、是を書《かき》しるし侍る。

[やぶちゃん注:「曉季」既に注したが、末法の世の初めの意であろう。

 因みに、江戸時代、中・後期には伊勢神宮参詣が爆発的に盛んになった。人ばかりではなく、驚くべきことに、犬や豚までが、単独で、参詣した。私の「耳嚢 巻之九 奇豕の事」の本文及び私の訳注を参照されたい。]

西原未達「新御伽婢子」 依ㇾ聲光物 / 巻五~了

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 なお、本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注を段落末に挟んだ。]

 

     依ㇾ聲光物(こゑによる、ひかりもの)

江刕上龍花村(かみ《りゆう》げむら)廣埜といふ山里に、長介といふ者あり。一在(《いち》ざい)より扶持(ふち)して、秋の田に實の入《いる》る時、年毎(としごと)、鹿(しか)を追《おは》する。

[やぶちゃん注:「江刕上龍花村」滋賀県大津市伊香立上龍華町(いかだちかみりゅうげちょう:グーグル・マップ・データ)。

「一在より扶持して」一村の代表者たる庄屋が、収穫直前の頃おいを見て、村内の者を雇い、賃金を与えて。

「鹿」この時期、猪も踏み込んで荒らすので、個人的には「しし」と読みたいところである。]

 近き年より、此者、軒(のき)に出《いで》て、

「ほいほい。」

といへば、一聲(こゑ)一聲に、其むかふたる方より、光物、來《きたつ》て、口に入《いる》。

 南に向(むか)ふていふには、南より、北に向へば、北より、東・西、猶、かくのごとく、百聲、千聲、よぶに、更に、やむ事なし。

 其幅、壱、弐尺もありて、長さ、十ひろばかり、ひとへに、紅絹(こうけん/《くれなゐ》のきぬ)を引《ひき》はへたるがごとし。

[やぶちゃん注:「十ひろ」「十尋」。成人男性が両手を左右へ広げた時の、指先から指先までの長さを言う慣習単位で、長さは一定しないが、曲尺(かねじゃく)でだいたい四尺五寸(約一・三六メートル)乃至は六尺(約一・八メートル)ほどである。えらく細長い紅の光りものを口の中に入れるさまは、イメージとしてはかなりエグい。]

 時々(よりより)、長介にかはりて、女房・子共も、出《いで》て呼(よぶ)に、更に此《この》光、なし。

 長介にとひて、

「此光物、口に入《いる》時、覺《おぼえ》ありや。」

と。答(こたへ)て、

「覺ゆる事、夢(ゆめ)斗《ばかり》も、なし。」

と。猶、

「くるしむ事、いたむ事、なし。」

と。

 いかなるわざと不ㇾ知《しらず》。

 天和の今なれば、末(すゑ)いかゞ終《をは》らん。いぶかし。

 

 

新御伽巻五

[やぶちゃん注:「天和」一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。本書の刊行は天和三(一六八三)年であるから、この謂いからは、本「噂話」は少なくとも数十年前というニュアンスである。]

2022/09/28

西原未達「新御伽婢子」 一念闇夜行

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注を適宜、入れた。]

 

     一念闇夜行(《いち》ねん、あんやをゆく)

 周防の國、或町に安次郞といふ者、隣里(りんり)に、相《あひ》かたらふ女ありて、山埜(さんや)を越《こえ》て、夜毎(よごと)にかよふ。

 ある夜、雨、そぼふりて、いと闇(くらき)に、いつもより、比(ころ)更(ふけ)て、彼(かの)かたに、たどり行《ゆく》。

 坂、ひとつ、あるを、たどりて、あなたにむかふ。

 

Rikonbyou

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。

 

 行《ゆく》べきかたを見れば、鞠のせいなる、火、ひとつ、こなたにむかひ、いそがす。

[やぶちゃん注:「せい」本来は背たけを表わす「背・脊」を大きさの意味で用いたものととる。]

 靜(しづか)ならず。

 地を去(さる)事、一尺余(よ)、足ある物のごとく、のぼり行《ゆく》。

 其光、尋常(よのつね)に易《かはり》、靑々(せいせい)として、もゆるげ也。

[やぶちゃん注:「靑々(せいせい)として」青白い陰火。]

 男、物すごく思へ共、其初(はじめ)、女にいひし事、有《あり》。

「命(いのち)かけて、戀渡《こひわた》し申《まをす》は、千世(ちよ)、ふとも、かわらじ[やぶちゃん注:ママ。]。夜ごとに通ひ來(く)る事を、怠(おこたら)ば、身も朽(くち)、爛(たゞれ)、手足もなく成《なり》なん。」

など、万(よろづ)の神かけて、誓ひたる、かね言(ごと)あれば、

『たとひ、此物に、わざをなされて、とにもかくにも成《なる》とても、此ちか言を、たがへし物を。』

と、おそろしさを、ねんじて、下り坂(ざか)を靜《しづか》にあゆむに、此火、男のちかく、一間斗《ばかり》に成《なり》て、引《ひき》かへし、先に立《たつ》て、もとのかたへ下《お》るゝ。

 猶、氣《け》うとくて、心よからねど、此火のひかりに、ちまたの、明(あか)く、月の夜のごとく行安(ゆきやすき)ぞ、とりへなる。

 男、やすらへば、火も、とまる。

 步は、おなじく、先にすゝむ。

 とかくして行《ゆく》ほどに、此火、外(ほか)へも、ちり失(うせ)ずして、我《わが》行《ゆく》かたの、女の家の、いつも忍ぶ藪の垣ねを、くゞりて、娘の隔室(へや[やぶちゃん注:二字への読み。])に入《いる》と思へば、かい消(きえ)て、なく成《なり》ぬ。

 猶、いぶかしく思ひながら、内に入《いり》て見るに、燈心、ほそくかゝげて、女はいたう寢入(ねいり)たり。

 やおら、ゆすりをこしければ、汗、雫(しづく)に成《なり》て、目を覺(さま)し、

「扨《さて》も。たゞ今、まざまざしき、夢、見し。」

といふ。

「いかに。」

と問《とへ》ば、

「こよひ、待宵(《まつ》よひ)過《すぎ》て、君の遲《おそく》をはする、いかにや。若(もし)、御心《おんここ》ちなど、例ならで、かゝるにや。」

と、覺束(おぼつか)なさの余り、道迄、立出《たちいで》、戀の山路(《やま》ぢ)に分(わけ)のぼり、坂の半(なかば)、行《ゆく》と思へば、其かたざまに、逢參《あひまゐ》らせ、打《うち》つれて歸る、と、思へば、御音(《おん》おと)なひに、夢、さめたり。あら、足、たゆや、あつや。」

と、いひて、語る。

 男、是に驚《おどろき》、

『扨は。』

と、おもひあはすれども、さらぬていに、もてなし、おそろしき心、身にそみければ、此後、虛病(そら《わづらひ》)に、かごとして、かよはず成《なり》ぬとかや。

[やぶちゃん注:「命(いのち)かけて、戀渡《こひわた》し申《まをす》は、千世(ちよ)、ふとも、かわらじ」の「申」は、実は「西村本小説全集 上巻」では、『中』となっている。しかし、同書の当該箇所を再現すると、「命(いのち)かけて恋渡(わた)し中は。千世(ちよ)ふともかわらじ」となるのだが、私にはこれでは上手く読めなかった。無理に読むなら、「恋渡し中」(うち)「は」で、「山を越えて恋路を渡ってくる内は、千年経ったって、変えるまい」の意だろうが、その場合、口上全体には「お前さんのことを飽きることがなかったならね」的なニュアンスを感じ、どうも厭な感じなのである。底本では、ここ(挿絵と同じ画像)の左丁の五行目の上から二字目なのだが、この崩し字は、橫の三画目と縦の最終四画目との接点部分に、明かに上へ跳ね上げた捻りが入っていることが判る。「中」を崩した場合、こうしたものは起こり難い。寧ろ「申」の崩しで時に見られる形であると断じた。意味も、その方がすんなりと躓かないように思われるのである。

 因みに、本篇の怪異は所謂、文字通りの「離魂病」という奴である。それも所謂、ドッペルゲンガー(Doppelgänger)のようなものではなく、本邦のセオリーに則った、シンプルに判り易いところの霊魂のみの離脱としての「火の玉」である。これは、江戸時代の怪談には、枚挙に遑がない。面倒なので引かないが、私の「怪奇談集」の中にも、複数、認める。しかも、少なくとも、江戸の怪奇談では、火の玉になるのは、男よりも断然、生きている就寝中の女の方が多いように思うのである。私は思うのだが、明治以降、「火の玉」が非科学的であるとして、人気が急速に落ちると(これは隅から隅まで露わにしてしてしまう電燈の伝来による、陰翳の徹底した凋落に基づく)、俄然、ドッペルゲンガーが流行り出しているように感ずる。なお、死に瀕した男ならば、ドッペルゲンガーとなって出現する例は、結構、多い。南方熊楠の「臨死の病人の魂寺に行く話」(「南方隨筆」底本正規表現版・オリジナル注附・縦書PDF版)を参照されたい。昨年、電子化注した『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』も参考になろう。]

西原未達「新御伽婢子」 聖㚑會

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     聖㚑會(しやう《りやう》ゑ)

 文月(ふみ《づき》)は、諸寺より始(はじめて)、在家に至(いたつて)て、孟蘭盆會(うらぼんゑ)の仏事を營み、なき人の哀(あはれ)をかぞへて、しるしの墓に詣《まうで》て、櫁(しきみ)、靑く供(くう[やぶちゃん注:ママ。])じ、水、凉(すゞ)しく、汲(くみ)かへなど、夜は、燈炉(とうろ)を高くかゞげ、更(ふく)るにしたがつて、すみ渡るに、年々(ねんねん)の春草(しゆんさう)、生《おひ》のびて、秋風《しうふう》に、やゝ、そよぎ、蚱(まつむし)・蛬(きりぎりす)の、なきかはして、淋しさを添(そへ)たる、いづれか、心ぼそからぬ。

[やぶちゃん注:「櫁」マツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum 。仏事に於いて抹香・線香として利用されることで知られ、そのためか、別名も多く、「マッコウ」「マッコウギ」「マッコウノキ」「コウノキ」「コウシバ」「コウノハナ」「シキビ」「ハナノキ」「ハナシバ」「ハカバナ」「ブツゼンソウ」「コウサカキ」などがある。最後のそれは「香榊」で、ウィキの「サカキ」によれば、上代にはサカキ(ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica )・ヒサカキ・シキミ・アセビ・ツバキなどの『神仏に捧げる常緑樹の枝葉の総称が「サカキ」であったが、平安時代以降になると「サカキ」が特定の植物を指すようになり、本種が標準和名のサカキの名を獲得した』とある。サカキは神事に欠かせない供え物であるが、一見すると、シキミに似て見える。名古屋の義父が亡くなった時、葬儀(曹洞宗)に参列した連れ合いの従兄が、供えられた葉を見て、「これはシキミでなく、サカキである。」と注意して、葬儀業者に変えさせたのには、感銘した。因みに、シキミは全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されていることも言い添えておく。

「蚱(まつむし)」この漢字は不審である。大修館書店「廣漢和辭典」によれば、「蚱」は第一に『くまぜみ、うまぜみ、やまぜみ』とし、第二に『蚱蜢(サクモウ)』とし、これは『ばったの一種。しょうりょうばった。いなごまろ』(これらはバッタ目 Orthopteraではあるが、ショウリョウバッタとイナゴ類は孰れもバッタ科 Acrididaeであり、コオロギ科 Gryllidaeであるマツムシと親和性は全くないから、形態から見てもマツムシをバッタと呼ぶことは私には出来ない)とし、或いは『ひきがえる』の意とする。最後の三番目には「くらげ」(刺胞動物のクラゲ類)が挙がって終わっている。ネットで調べても、この字をマツムシの意で用いているものはない。作者の誤認であろう。音は「サク・シャク・シャ」で、これを以上のバッタ類の鳴く音や飛ぶ音にオノマトペイアしたとするのは腑に落ちるが、マツムシの優雅な鳴き声には相応しくない。マツムシの博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 松蟲」を見られたい。なお、そこで注しているが、私は世間で罷り通っている明治になるまでの日本人は「松虫」と「鈴虫」が逆転していたとする説は正しいと思っていない。

「蛬(きりぎりす)」こちらは問題ない。同じく、「廣漢和辭典」によれば、「蛬」(音「キョウ・ク」)は『こおろぎ【こほろぎ】。古称、きりぎりす』(太字はママ)とある。同前で「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」を参照されたい。なお、前注の最後と全く同じく、定説としてまことしやかに教科書の注にまで書かれている、同前で、「螽斯(きりぎりす)」と「蟋蟀(こおろぎ)」が逆転していたとする十把一絡げ変換説も正しくないと考えている。それについては、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」の私の注の中で芥川龍之介の「羅生門」を素材として検証しているので、是非、読まれたい。

 わきて、十四日の曉(あかつき)より、

「なき玉(たま)の來(き)ます日也。」

と、上(かみ)ざまの貴も、賤山(しづ《やま》)がつの葛(くづ)の屋《や》にも、心の及(およぶ)、座(ざ)をまうけて、鼠尾草(みそはぎ)の、枝もたはゝに、露をもたせ、『槇(まき)の葉に霧たちのぼる』と見る迄、名香(めいかう)のくゆるに、供物(くもつ)、うづたかく、はつ草(くさ)のあつもの、所せきまで備へたる、

「此物かげにこそ、其仏は、まうで給はん。」

「其靈魂は、をはせん[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いひ、もてなすも、恠(あや)しの女童(《め》わらべ)の言種(ことぐさ)のやうなれど、すぜうには、侍る。

「鼠尾草(みそはぎ)」私は「禊萩」の表記が好きだ。フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps 。お盆の頃、紅紫色の六弁の小さな花を先端部の葉腋に、多数、つけるため、盆の供え花としてよく使われ、「盆花(ぼんばな)」「精霊花(しょうりょうばな)」などの名もある。兵十和名ミソハギの和名の由来は、ハギ(萩)に似て、古く禊(みそぎ)に使ったことに由来する。ここに出る「鼠尾草」(そびそう)は、花の咲く先端部のそれを鼠の尾に喩えたもの、また、田の畔や湿地或いは溝(みぞ)に植生するところから「溝萩」(みぞはぎ)とも呼ばれる。

「槇(まき)の葉に霧たちのぼる」「百人一首」の寂蓮法師のそれ、元は「新古今和歌集」の「巻第五 秋歌下」の(四九一番)、

   五十首歌たてまつりし時

村雨(むらさめ)の

 露もまだひぬ

    槇の葉に

   霧立ちのぼる

       秋の夕暮れ

である。]

   正月にうちしは夢か玉まつり

   まざまざといますかごとし玉祭

と、俳諧の發句せしを、哀《あはれ》のたぐひに、書つゞけられし。

 げに左にては有けれ、昔、徹書記(てつしよき)の、鄙(ひなに)さすらへ、日をふりて、都、こひしく佗(わび)けれども、をぼろげの御ゆるしもなきつくしける淚の下に、

   中々になき玉ならば古鄕に

    かへらん物をけふの夕ぐれ

と、よみしも、ことの葉斗《ばかり》、世に殘りて、誰(たれ)か、ふたゝび、かたちを見るありと、みはてぬ水の泡、消(きゆ)るに早き石の火の、賴(たのみ)なき世のならひ、いひ出《いづ》るも、さらなれど、念々に、無常ををどろかすは、時々(じじ)に、罪障のみ、いや、まし侍らんなど、秋の夜のながき後世(ごぜ)ばなし、物一重《ものひとへ》こなたに聽聞(ちやうもん)したる。

[やぶちゃん注:「正月にうちしは夢か玉まつり」作者不詳。小学館「日本大百科全書」によれば、中世末から近世にかけて形成されたと思われる本邦の祖霊信仰が定着してからは、正月は、盆とともに、年に二度の「魂(たま)祭り」(祖霊祭)の機会であって、個の存在を既に失って祖霊として融合同化した先祖の霊を迎え祀る厳粛な行事として形成されていた。『ところが』、『盆のほうは早くから仏教と結び付き、死者の霊の供養行事と考えられ、これに対抗して正月のほうは、死の穢(けがれ)に関係のない、清らかな祭りであることを強調した結果、盆と正月とはまったく別の行事のように理解されてきたが、年の夜に声をあげて死者の霊を呼び迎えるとか、東日本では年末か正月に、御魂(みたま)の飯に箸』『を突き立てて祖霊に供えるとか、主として西日本で元日に墓参をする習俗がある』の『は、いずれも正月の魂祭り(先祖供養)の名残である』とある。

「まざまざといますかごとし玉祭」北村季吟(寛永元(一六二五)年~宝永二(一七〇五)年)の発句。本書の刊行は天和三(一六八三)年であるから、まだ存命中である。]

 心なき身にも哀(あはれ)は知(しら)れぬ其中に、歲(とし)五十(いそぢ)斗《ばかり》の人の、聲して、語れしは、

「孟蘭盆に聖靈の故鄕(こきやう)に來(く)る事、正(たゞ)しく有《ある》事にこそ。予、五とせ已前(いぜん)、七月十日あまり、丹波に下り、園部の御城下に、所用を達して、商物(しやうもつ)の金子(きんす)、少々、うけとり、

「京に歸《かへる》。」

とて、高卒都婆(たかそとば)といふ在鄕(ざい《がう》)に一宿(《いつ》しゆく)しける。

[やぶちゃん注:「園部の御城」現在の京都府南丹市園部町小桜町に園部城跡(グーグル・マップ・データ)はある。

「高卒都婆」不詳。但し、私の古い電子化訳注の「耳囊 巻之三 丹波國高卒都婆村の事」に出るので、参照されたい。]

 此日、十三日、明《あく》れば、十四日成《なり》し

 其曉(あかつき)、宿(しゆく)の者ども其外、一在(《いち》ざい)の男女(なんいよ)、群出(むらがり《いで》)て、いひのゝしる事、あり。

 物さはがしく、目もあはねば[やぶちゃん注:眠れないので。]、あるじに、

「何事ぞ。」

と問《とふ》。

 

Sumibousi

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 されば、

「此となり在所、甲崎(かうさき)といふ所に、喜介と申《まをす》百姓の侍りしが、三十斗迄、妻も、なければ、子も、もたず、親なんどは、先にたち、剩(あまつさへ)、親《したし》き者も、絕(たえ)て、ひとり住(ずみ)にて侍りし。心まつたき者の、農業に怠りなければ、過分(くはぶん)の冨人(ふくじん)といふ迄こそなけれ、邊鄙(へんぴ)の渡世には、豊(ゆたか)なりしに、當年、卯月の中比《なかごろ》、不幸に頓死せしを、里の衆《しゆう》、哀(あはれ)がりて、樣々(さまざま)看病しけれど、終《つひ》に蘇生せず。野外(や《ぐわい》)に葬(はうふ)りて、一ぺんの煙(けふり)となせば、郊原(かうげん)に朽(くち)て、白骨(はつこつ)のみ、殘れり。

 後のわざは、とりいとなむ人も、なかりし。されども遺跡(ゆいせき)・山《やま》・畑(はた)など有《あり》しを、價(あたひ)にかへて、家をてんじて、一宇の庵室(あんじつ)をつくり、田地、少《すこし》、是によせて、發心者(ほつしんしや)を、住持《ぢゆうじ》させ、喜介が跡を弔(とは)せけるに、彼《かの》僧、いたづらにこそあれ、仏事・作善(さぜん)を、とりをこなはず、晝夜、圍碁・雙六・博奕(ばく《えき》)にあそび、得たる所の一室をも、沽却(こきやく)すべきに見えければ、所より、追出《おひだ》し、未(いまだ)、後住《こうぢゆう》、定まらず。

 十余日此かた、主(ぬし)なき庵《いほ》となつて、仏に香花(かう《げ》)を供(くう)ずる人なく、靈前に廽向(ゑかう)をなすわざも絕《たえ》て、偏(ひとへ)に鼬鼠(ゆうそ/いたちねずみ)のあそび所と成《なる》。

 今宵、夜半(よは)の過(すぎ)成《なり》し。

 去(さり)し喜介が聲にて、看經(かんきん)の勤(つとめ)、高らかに聞ゆ。

 隣家(りんか)の人、驚き、物のひまより、見れば、まさしき、昔の、喜介、白き姿に、すみ帽子(ばうし)して、仏前にむかひ居る。

 奇異の思ひをなし、ひとり、ふたりに、語るやいなや、一在所のみか、今のほどに、隣鄕(りん《がう》)まで、かくれなく、騷勤し侍る。

 かく珍しきたぐひ、いざ、友なひ行かん。」

[やぶちゃん注:「すみ帽子」「角帽子」。死者の額につける頭巾。二等辺三角形の布帛(ふはく)の底辺に紐をつけて額に当てて結んだ被り物。平安時代には黒色のものを用いて子ども用としたが、近世に入り、死者の額に白色のものを用いるようになった。「すんぼうし」「つのぼうし」「額烏帽子(ひたいえぼし)」とも言う。]

と、いさひ[やぶちゃん注:ママ。「いさい」(委細)とあるところを誤刻したか。]に語る。

『げに、ふしぎなるためし、都(みやこ)づとに、行《ゆき》てみばや。』

と、おもへど、今日しも、都は年の半(なかば)の仕切(しきり)といふ物にて、下(しも)が下(しも)がの賣人(ばい《にん》)は、とみの事、多し。

 いとゞ、亭主の長咄(ながばなし)に、夜(よ)も、しのゝめに明(あけ)ぬおもひながら、立(たち)よる間(ひま)もなければ、いとまこひて、のぼりけるに、みちみち、かの事に、噂して、埜人(やじん)、村老(そんらう)、甲崎に往還(わう《くわん》)する事、道も去《さり》あへず。

 此後《こののち》、爰に行《ゆく》事なければ、終所(をはる《ところ》)を不ㇾ知(しらず)。

 かゝる事の侍れば、『靈の此日來る』といふ事、白地(あからさま)也。」

と語られし。

[やぶちゃん注:「甲崎」この地名が唯一の期待だったのだが、見当たらなかった。残念。

 この話、俳人でもあった作者が直に語りかけてくる、直談で始まって、その後、寺へ詣でて、そこにいた五十ほどの商人の語りに転じて、死者が甦ったという奇譚となるのだが、その商人自身が、その白骨になったはずが、生身の元の状態に戻って蘇生したとする喜介の姿を見ていない(観察していない)という点で、「噂話」としては、脆弱である。しかし、周囲に、その噂が一晩の内に、物凄い速さで、伝播・感染(集団ヒステリー)して行ったという部分は、周縁的なリアリズムとしては、確かに本当の話のように上手く機能していると言える。而して、この一篇は、「都市伝説」=「噂話」のメタモルフォーゼの過程を暗に示して呉れているとも言える。この実見ではない話を読みながら、挿絵の中の喜介の姿を見た者が、話を面白くしようと、実際に見た、という形で話を書き変えて、尾鰭がつく、というありがちなプロセスである。そこも作者は実は確信犯で狙っているようにも私は思うのである。]

西原未達「新御伽婢子」 一夢過一生

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     一夢過一生(いちむ、いつしやうを、あやまつ)

「『癡人(ちじん)の面前に夢を説(とか)ず。』といへば、愚昧なる人には、我が見し夢も異人(こと《びと》)の咄(はなし)にも恠(あやしき)事、をそろしき[やぶちゃん注:ママ。]事、愁(うれへ)なる事、貧賤に成(なる)といふ事など、心して語り出すべからず。官位にのぼりたるの、冨貴(ふうき)に成《なり》たるの、などいふ、心ちよげなるたぐひは、尾に鰭を添へて、かたれ。」

とて、笑はせたる人、有《あり》。

[やぶちゃん注:「『癡人の面前に夢を説ず』「痴人の前に夢を説く」は朱熹の「答李伯諫書」(「李伯が諫(かん)に答ふる書」か)に基づく故事成語で、「愚か者に夢の話をする」は「無益なことをする」喩えである。]

「三歲の童子(どうじ)をすかす戯(たはぶれ)、髭口(ひげ《くち》)をそろへて、いはれけるこそ可笑《をかしけれ》。」

と、いひもて行《ゆけ》ば、又、小ざかしき有《あり》て、

「『我、夢にだも、周公をみず。』と、孔子も、の給へば、聖人すら、好み給ふ。况(いはんや)文盲(もんもう)の我(われら)をや。能(よき)を能と知らば、何(なん)ぞ惡(あし)き夢の氣味わろからで、あるべき。」

[やぶちゃん注:「我、夢にだも、周公をみず」は「論語」「述而第七」の「子曰甚矣吾衰也章」。「子曰、甚矣、吾衰也。久矣、吾不復夢見周公。」(子、曰はく、「甚しきかな、吾が衰へたるや。久しきかな、吾れ、復(ま)た、夢に周公を見ず。」と。)孔子が理想の君子として崇めた周公旦の夢を見なくなるほどに、老いぼれ、理想を求める志しが綿sから失われてしまったものか、と嘆いたもの。]

などいふに、独(ひとり)ありて、聲、打《うち》ひそめて、

「某(それがし)の隣家(りんか)に、ふしぎ成《なる》事こそ侍れ。夜部(よべ)、恠(あやしき)夢に襲《おそはれ》て、今日(けふ)、病(やま)ひづきて、死(しゝ)たる、といふ。可笑(をかし)や、けふは、夢物がたりに暮(くら)す日にこそ。」

「扨《さて》。それは、いかなる夢の、何として、病(やまひ)には成《なり》たる。」

と。

 語る。

――此男、下賤の町人ながら、少《すこし》和哥(わか)の道を學ぶ。程よりは、其道に自讃して、又、一文不知(《いち》もんふち)の人に向(むかひ)ては、柿本(かきのもと)の深味(しんみ)、山邊(やまべ)の骨髓をも、掌(たなごゝろ)に、にぎつたるやうに、廣言して、人を人ともおもはねば、惡(にく)まずといふ者、なし。

 然《しか》るに、過《すぎ》し夜、不審(いぶかしき)夢を見る。

 其さまをいはゞ、いづちとも知らず、かぎりなき廣き埜に、ひとり、有《あり》て、其わたり、見まはすに、秋草(しうさう)、雨を帶(おび)て、万虫(よろづのむし)の聲、哀(あはれ)に、暮《くれ》かゝる。月、玉《たま》をなして、風、浮雲(ふうん)を吹拂(ふきはら)へば、誠に美景の限(かぎり)ながら、廣野(くはうや)に、ひとり、立(たて)れば、物すごく、をそろし[やぶちゃん注:ママ。]。

 いづち來《き》にけん、露《つゆ》ふみ分し細みちも見えず、雲かゝる山も、なし。千種(ちぐさ)の原(はら)をかき分《わけ》て、たどる事、一里斗《ばかり》と覺えて、行《ゆく》さきを見れば、たえて人里も、なし。

 そのほどに、茂(しげ)き荊(うばら)に手足を破られ、蔦(つた)・栬(かへで)も何ならぬ、もみぢを亂し、麁衣(そい)は、かなしき、つゞりにさけて、身を隱す便(よすが)もなし。時雨(しぐれ)、心もなく、肌をうるほし、秋風(しうふう)、いたく落(おち)て、鬢髮(びんぱつ)をかなぐる。

「かゝる埜は、未(いまだ)見ず。音《おと》にのみ聞く、『日かずわするゝ』と、よみし武藏埜の原は、是にや。古しへ、今の歌人(うたびと)多くとも、驛路(えきろ)より遠詠(《とほ》ながめ)ならん。且(かつ)は、名(な)斗(ばかり)にこそ聞《きき》はせめ、我、此道に達して、たぐひなき人の、みはてぬ此原を、わけつくす事よ。」

と、又、爰にて、自讃す。

「六六の歌仙、中古は定家・家隆(か《りゆう》)・良經(よしつね)・雅經(まさつね)などや、我斗(わればかり)の器量にや在《あり》けん。」

など、空おそろしく身をほめて、夢中に二首を詠ず。

[やぶちゃん注:「栬(かへで)」楓。

「日かずわするゝ」「新千載和歌集」(南北朝時代の十八番目の勅撰集)に載る、「題しらず」の鎌倉中期の公卿・歌人の藤原従三位為理(?~正和五(一三一七)年)の、

 草枕おなじ旅寢のかはらねば

   日數(ひかず)忘るる武藏野の原

である。「日文研」の「和歌データベース」の同和歌集で通し番号を調べ、国立国会図書館デジタルコレクションの「国歌大観」の「五句索引 歌集部」のこちらで確認した。

「六六の歌」三十六歌仙。

「家隆」、鎌倉初期の公卿で歌人の藤原家隆。「新古今和歌集」の撰者の一人で、「小倉百人一首」では、従二位家隆「風そよぐ楢の小川の夕暮は御禊ぞ夏のしるしなりける」で知られる。

「良經」平安末から鎌倉初期にかけての公卿・歌人で、「新古今和歌集」の撰修に関係し、その「仮名序」を書き、「小倉百人一首」では「後京極摂政前太政大臣」として「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねむ」で載り、自撰の家集「秋篠月清集」も頓に知られる九条良経。

「雅經」平安末から鎌倉前期にかけての公卿で歌人の飛鳥井雅経(あすかいまさつね)。やはり「新古今和歌集」の撰者の一人で、「小倉百人一首」の「み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり」で知られる。]

   人はいさ草の名をだにたどるべく

     小萩をかざすむさしのゝ原

   めや遠き心やみると思ふまで

     薄にはるゝむさしのゝ月

と、よみて、爰にをゐて[やぶちゃん注:ママ。]、殊に自慢、甚しく、思ひあがりけるまゝ、野路(のぢ)のさびしさも打《うち》忘れ、猶、行《ゆ》くて見れば、ひとつの小池(しやうち)あつて、汀(みぎは)に、菖蒲《しやうぶ》・芦(あし)・まこも、滄波(さう《は》》にみどりの色をそへて、物すごき所あり。

「爰なん、『堀兼(ほりかね)の井』といふ所なるべし。」

と、心得がほに打諾(《うち》うなづき)、岸にのぞみて、水の面をながめ、

「爰にも、一首なくては。」

などゝ、小くびをひねりゐる所に、めてのかたより、なまぐさき風、一通り、しぶきて、むらたつ葭(よし)・芦、

「さはさは」

と戰(そよぎ)けるより、項(うなじ)のあたり、惡寒(ぞつと)とするおり、をそろしさ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、改めて、初(はじめ)分入(わけ《いり》)し時に、十倍せり。

[やぶちゃん注:「堀兼の井」現在の埼玉県狭山市堀兼にある堀兼神社内にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、そう称するものは他にもあるので、こことは定め難い。以下の引用参照。「狭山市」公式サイト内のこちらに、『堀兼之井は、堀兼神社の境内にあります。直径7.2メートル、深さ1.9メートルの井戸の中央には石組の井桁(いげた)がありますが、現在は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明です。この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができます』。『井戸のかたわらに2基の石碑がありますが、左奥にあるのは宝永5年(17083月に川越藩主の秋元喬知(あきもとたかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものです。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹(おう)形の地としたこと、堀兼は掘り難(がた)かったという意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがったまでで、確信に基づくものではないともあります。手前にある石碑は、天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明(きよはらのぶあき)の漢詩が刻まれています』。『それでは、都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか』? 『神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸後期に編さんされた』「新編武蔵風土記稿」を『見ても「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあります。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは、秋元喬知が宝永5年に石碑を建ててから以後のことと考えられます』とある。因みに、ここには現在は水はない。]

 

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[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 かく、風のをこる[やぶちゃん注:ママ。]方《かた》を見やれば、眞黑なる大木、太さふた抱(だき)斗《ばかり》なるが、此上に、ころびかゝる。

「はつ。」

と驚《おどろき》、逃(にげ)ざまに、其梢を見あげたれば、木にはあらで、名のみ聞《きく》蟒(やまかゞち)といふ物ならん、頭は、つき鐘(がね)なんど、動(うごく)ほどして、紅《くれなゐ》の舌、氷の牙、此男を、のまんとする。

 此時、大きなる聲して、うめきけるを、添臥(そひぶし)の女房、遽(おびたゞしく)起《おこ》しけるにぞ、夢は、覺(さめ)ける。

 起《おき》ても、猶、一身(いつしん)、大熱(《だい》ねつ)し、戰慄(ふるひわなゝく)事、更(さらに)不ㇾ止(やまず)。

 妻女、驚き、藥など、口にそゝぎ、暫(しばし)、靜(しづまる)と見えし。

「扨(さて)、いかなる夢を見て、かく迄、襲《おそはれ》給ふ。」

と問へば、有《あり》し夢中を、細(こまか)に語り、彼《かの》うはばみの所を語る時、俄《にはか》に、又、

「をそろしき物、見えたる。」

と覺えて、顏色(がんしよく)、靑く、眼(まなこ)の内、かはりて、

「あなをそろし。夜部の蟒(やまかゞち)、爰に來たり。あれ、追拂(《おひ》はら)へ、切《きり》ふせよ。」

と、手足を悶(もだへ)、一身、顚倒(てんどう)する事、不ㇾ止《やまず》。

病乱(びやうらん)しけるが、一日、かく、有《あり》て、たゞ今、息、絕《たえ》侍る。命終(めいじう)の有樣、えもいはれず、らうがはしさ、推量(《おし》はかり)給ヘ。」

と、かたられ侍る。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 常の人のならひ、名利(みやうり)につかはれて、慢心を先(さき)とする事、有(あり)。わたるわざながら、たはごとに、身におよばぬ憍心(きやうしん)、和歌の奧旨《あうし》なんどいふ事は、其職にあそぶ人だに、たやすく覺悟するは、なし、といふを、卑賤の、をろ心に[やぶちゃん注:ママ。「おろか」の誤字と脱字か。]、まさなくも、したり㒵かほ)なる、天のにくむ所、鬼神(きしん)の罰するたゝり、さも在《ある》べき事にぞ。

西原未達「新御伽婢子」 沉香合

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

      沉香合(ぢんのかうばこ)

 近曽(ちかごろ)、攝刕大坂に下り、爰かしこ、所用勤(つとめ)ける次(ついで)、大坂より一里隔たる平埜(ひらの)といふ所に尋ねしに、一寺あり、男女老少、參詣、おびたゞし。

「何事にや。」

と、茶店(ちやてん)の姥(うば)に問へば、

「『大念仏』と申《まをす》事の侍り。」

と。

「扨は。殊勝の事なめり。逆緣(ぎやく《えん》)の聽聞(ちやうもん)せん。」

と、仏前にのぞむに、勤行の時節、暫(しばし)、

「早(はやし)。」

と、いひて、傍(かたはら)の道俗、打《うち》もたれ、眠《ねむる》比《ころ》なり。

 此内に、我にひとしき他國の男、一人ありて、家《いへ》に杖つく斗《ばかり》の老人にむかひ、物がたりする有(あり)。

[やぶちゃん注:「逆緣」悪行がかえって仏道に入る機縁となること。ここは自遜。

「家に杖つく斗の老人」「家の中でも杖を突かねばならぬほどに見える高齢の老人。]

『京みやげに、珍しき事もこそ。』

と、ねぢりよりて、もらひ聞《ぎき》し侍るに、翁の云《いはく》、

「當寺の㚑寶(れいほう)に、『沈(ぢん)の香合(かうばこ)』あり。何(いづれ)の工(たくみ)のきざめるとも、知る人、なし。勤行(ごんぎやう)、滿たらん時、拜(をがみ)給へ。」

といふ。

 男、聞《きき》て、

「工のしれぬとは、天竺よりや、わたりし、天よりや、降(ふり)し。」

と。

「左には非ず。是につきて長(ながき)物語あり。念仏の初《はじま》らん迄に、聞(きゝ)給へ。

 近き比、和泉の堺に、松やの何某とて、有德(うとく)の人、あり。息女、ひとり、持てり。

 かたち、世にたぐひなく、情(なさけ)さへ、いとゞ深かりければ、をよぶをよばぬ[やぶちゃん注:ママ。「及ぶ及ばぬ」]音(おと)ふれて、通はす文(ふみ)の恨(うらみ)わび、ほさぬさ月《つき》の雨くらく、迷はぬ者もなかりしに、問《とひ》よる袖の多き中に、わきて、美男(びなん)の有《あり》けるに、早晚(いつしか)、深く、馴初(なれそめ)て、夜半《やはん》の鐘に枕をならべては、偕老のふすまを、うれしと、よろこび、橫雲(よこぐも)の朝(あした)に鳥の鳴(なく)時は、別離の袂(たもと)をしぼりて、悲し、とす。

 男も、親はらから、持てる身にて、いたうしのび、まいて女は、父母(たらちね[やぶちゃん注:二字への読み。])の咎(とがめん)事を恐れて、

『猶、さがなき人の口(くちに)さへ、かゝらん。』

と、限なく包(つゝみ)ければ、やゝ知る人も、なし。

[やぶちゃん注:「をよぶをよばぬ音」「及ぶ及ばぬ」で、「読んで貰えるか、到底、手にさえ及ばない恋文の音信(おとずれ)」の意であろう。

「さ月」「皐月」。陰暦であるから、梅雨の時期なので、「乾さぬ」と枕して、「雨くらく」と続く。

「さがなき人」性質(たち)の悪い人。]

 然るに、世の式に任せて、娘の親、

「誠のえにしを、とりむすび、既に、いつの日、送りむかへん。」

など、いひかはしければ、ふたりの人、おどろきて、今更のやうに歎く。

[やぶちゃん注:父母は当時の例式に従って、仲人を立てて、相応の人物を決め、いついつの日に婿として迎える、と告げたのである。]

 され共、男、女にいふ、

「日比、ふりたる情(なさけ)、すつるにては、なく侍れど、此事、いなび給はゞ、有し蜜事(みつじ)[やぶちゃん注:ママ。]の顯れて、たかしの濱のあだ浪に、うき名を流し給はん。我は、數《かず》なき埋木(むもれ《ぎ》)の、根(ね)ながら、朽(くち)てむなしくとも、花待《はなまつ》身にも侍らねば、たゞ、そこのため、いとおしきぞや。父母の心に身を任せて、そのかたさまに、ましませ。御心《みこころ》の僞(いつはら)ぬは、月ごろ日比、見し事にて、更に恨(うらみ)をのこさず。」

と、袖ほしわびて口說(くどけ)ば、女、更に、うけひかず、

「そも、うつゝなの、御こと葉や。包(つゝむ)ほどこそ久かるべきとは、かねて、いひかたらひし。たとひ、父母には背(そむく)とも、在《あり》し契りを捨(すつ)べきや。あゝ、世は、せばき世也。唯(たゞ)、身ふたりの置所《おきどころ》、此娑婆にては、をもほえず[やぶちゃん注:ママ。]。弥陀の蓮(はちす)のうてなこそ、心の儘に、すみよしの、まつぞ跡より、來ませ。」

とて、剃刀(かみそり)、取《とり》て自害におよぶ。

 男、

「暫し。」

と、とゞめ、

「我も、左こそ思ひしかど、心を引見《ひきみ》んため斗《ばかり》に、かくは申《まをし》》侍り。惡(にく)からずの心や。いで、手を取《とり》て、友(とも)なはん。」

と、最後の念仏、心靜にして、女を、さし殺(ころし)、男も同《おなじく》自害しぬ。

 双方の親、なけゝども、甲斐なし。

 

Jinkounokoubako

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 其比、奧より西国をめくる順礼ふたり、つれて、上がたに、のぼる。

 箱根の山にかゝりけるが、日は、漸々(やうやう)、暮《くれ》ぬ。

 いとゞ、心、せきて、道をいそぐに、上がたより、年十七、八とみえて、容㒵(ようがん)類(たぐひ)なき女の、色、靑ざめ、小袖、白く、裾、引《ひき》て、杖を梓(あづさ)にゆがめ、淚に成《なり》て來(く)る者、あり。

 二人の者共、

『はつ。』

と思ひ、

「いかにや、かゝる遠国(をんごく)の、殊に、人なき山中に、日さへ暮雲(ぼうん)に心ぼそきを、最媚(なまめき[やぶちゃん注:二字への読み。])たる女の、あるべき事とおもはれず。いかさま、化生(けしやう)の類(たぐひ)ならん。」

と、恐《おそれ》て、すゝまず。

 漸々、ちかづくまゝに、女、ほそく、甲斐なき聲やせて、順礼に云《いはく》、

「卒尒(そつじ)ながら、上がたへ、言傳(ことづて)申《まをし》たく侍る。泉州堺のいづこにて、『しかじか。』と尋給ひ、『娘があと、念比《ねんごろ》に弔(とひ)給へ。』と申てたべ。」

と、いひて、息を休(やすめ)る。

 順礼、いぶかしながら、

「御身、何人《なんびと》なれば、左《さ》の給ふ。」

と、いふ。

「恥かしながら、我、其家(や)の娘なるが、刄(やいば)の上に、むなしく成《なり》たり。若き者の、はづかしといふ類(たぐひ)、跡は只(たゞ)、いはずとも推量(《おし》はかり)おぼしめせ。たゞ、左斗(さばかり)申して、たべ。」

と、淚にむせぶ。

 順礼も、今は、思ひたゆめて、

『扨は。蜜夫(みつふ/かくし《をとこ》)などのため、死(しゝ)たる者ならん。』

と打諾(《うち》うなづき)、

「げに。さる事ならば、しるしや、送り給ふ。」

と、いふに、女、懷(ふところ)より、手拭(《て》のごひ)ひとつ、取出《とりいだし》、

「身に添(そふ)る物、是ならで、なし。父母は、是、能(よく)見知給へり。しるしにし給へ。相《あひ》かまへて、賴《たのみ》侍る。」

と、いひて、莪々(がゝ)[やぶちゃん注:ママ。]たる山の、岩が根を、坂道、遠く、たどり行《ゆく》とみえしが、順礼、泪《なみだ》に見送り、上(かみ)にのぼり、敎(あおしへ)し堺に行《ゆき》て、親に、此事、かたり、記念(かたみ)の物を渡すに、

「こは。いかに。」

と、驚《おどろき》、いひし事共、間(まゝ)聞《きき》て、今更に泣悶(なき《もだえ》)しが、順礼を、もてなし、樣々、引《ひき》とむれども、此人さへ、末(すゑ)の長路(ながぢ)を急ぎて、別れ行《ゆけ》ば、むなしき床(とこ)にひれ臥《ふし》ぬ。

 爰に此《この》御寺《みてら》の本尊、靈仏(れいぶつ)なる事をたうとび、當寺に別時大念仏(べつじだいねんぶつ)を執行(しゆぎやう)す。一七日、滿ずる日の旦(あした)、在《あり》し娘、忽然として、仏前に顯(あらは)れ、父母并(ならびに)上人に語《かたり》て云《いはく》、

「我、邪婬の惡執にひかれ、地獄に入《いり》なんとせしを、御弔(《おん》とふらひ)の力に、得脱(とくだつ)しぬ、いかにして報謝せん。」

と、掌(たなごゝろ)を合《あはせ》、本尊を礼し、沉(ぢん)の香合(かうばこ)を如來に捧(さゝげ)、かきけちて失せしを、其座に詣(まふで)たる人々、殘らず、見し。」と語る内に、念仏、初(はじまり)、聽聞し、事《こと》終(をはり)、かの香合を、望みて、拜(をがみ)けるに、げにも、凡卑(ぼんひ)の細工(さいく)とみえず。

 猶、住僧に、緣起、こまごま、とはまほしかりしを、いさゝか、私用を宿(やど)にのこし侍れば、歸り來て、程なく、京にのぼりしまゝ、問(とひ)のこしぬ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 去《さる》人の云《いはく》、

「死せる人は、中陰のほど、中有(《ちゆう》う)にあつて、生所(しやうしよ)、さだまらず、我ながら、仏所にまふでんも、惡趣に入らんも、しる事、なし。只、極善(ごくぜん)の者と、極惡(ごくあく)の者と斗《ばかり》、頓(とみ)に淨土と地獄に、をもむく[やぶちゃん注:ママ。]といへば、今、爰にして、はこねなんど、さまよひありかん事、心得ず、たゞ童(わらべ)の物がたりにこそ、いひふれたれ、信用するにたらず。」

と垣(かき)やぶりにいふに、かたへより、

「よしなきあらそいや[やぶちゃん注:ママ。]。所詮、弥陀の本國に歸らざる内、生(いき)ても死(しゝ)ても、皆、中有なる物お[やぶちゃん注:ママ。「物《もの》を」で誤刻であろう。]。」

と、いはれし。

 是(ぜ)なりや、非(ひ)なりや、大俗(《だい》ぞく)の身なれば、不ㇾ知(しれず)。

[やぶちゃん注:「中有」衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。この七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じ)が、その「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。恐らく、若い読者がこの語を知ることの多い契機は、芥川龍之介の「藪の中」の「巫女の口を借りたる死靈の物語」の中で、であろう。リンク先は私の古層の電子化物で、私の高校教師時代の授業案をブラッシュ・アップした『やぶちゃんの「藪の中」殺人事件公判記録』も別立てである。私は好んで本作を授業で採り上げた。されば、懐かしい元教え子もあるであろう。

 なお、本篇も作者自身の一人称で、実際に聴書した体裁をとった直近の「噂話」の形をとっている。知られた過去の人物に仮託した怪奇談は有象無象あるが、こうした等身大のものは、思いの外、多くはないのである。]

2022/09/27

西原未達「新御伽婢子」 人魚評

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     人魚評(にんぎよの《ひやう》)

 寬文弐の五月朔曰、日本、過半、大地震(《だい》じしん)して、國々、所々の神社・仏閣、或《あるいは》破壞(は《ゑ》)し、散乱し、民家、多く、崩れ、かたぶき、石垣を穿(うがち)、壁を落《おと》すによつて、爲ㇾ之(これがため)、忽(たちまち)、打墊(うちひし)がれ、死せる者、多く、腰・膝・手足を痛(いため)られて、片輪(かたわ)づきたるもの、數(かぞふ)るに不ㇾ足(たらず)。

 其比《そのころ》、江州朽木(くつき)、かづら川のすそ、榎木(えのき)・町居(まちゐ)・小谷(こたみ)村といふ三ケ所は、後(うしろ)より、比良の尾つゞき、吹端山(ふきばた《やま》)といふ大嶽(おほだけ)、崩れかゝつて、一時(《いち》じ)に在家(ざいけ)の上に覆ひ、三所一同に、數百丈の底に埋(うも)れ、人畜(にんちく)、独(ひとり)として、たすかるもの、なし。後々(のちのち)數(かぞふ)るに、三百七十三人とせるせり[やぶちゃん注:ママ。「せり」でよい。或いは「せるなり」か。誤記か誤刻であろう。]。若(もし)纔(わづか)の土の下、木の陰に、うたれたらましかば、多の人の中に少々、助かる者もあるべきを、大山ひとつ、つきあげたる事に、逃(にぐべ)き便《たより》もなかりけるにや、漸々(やうやう)、田と、畑(はた)と、川とにして、三人の死骸を得たり。此外は、二度(ふたゝび)、求(もとむ)る事、なし。他國に子ある者あり、親を殘す有《あり》、歎き悲しむ事、斷《ことわり》に過《すぎ》たり。

 凡《およそ》、地震といふ事、昔より、あまたたび、ふる事にて、古記にも、とゞめ、長明「方丈記」などに、しるされたれども、目下(まのあたり)、見聞(みきく)事社(こそ)淺ましけれ。

[やぶちゃん注:寛文二年五月一日(一六六二年六月十六日)の午の上刻(午前十一時から同 十二時頃)に近畿地方北部を中心に発生した大地震(現在、二つの地震が連続して発生したと考えられている)「寛文近江・若狭地震」。当該ウィキによれば(太字は私が附した)、マグニチュード七・五程度で、『強震は近江、若狭に加えて、山城、大和、河内、和泉、摂津、丹波、美濃、伊勢、駿河、三河、信濃と広範囲におよび、比良岳』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『付近で顕著であった』とあり、震源は、琵琶湖南西の湖底下と推定されている。『本地震は近江国や若狭国において地震動が特に強く甚大な被害が発生したが、震源域に近く、当時約』四十一『万人の人口を有し』、『依然として国内第二の大都市があった京都盆地北部においても被害が多発した』。『京都の被害状況から寛文京都地震、従来、震源域が琵琶湖西岸付近であるとする考えがあったことから、琵琶湖西岸地震と呼ばれることもある』。『地震被害を記録した文献資料を分析した』結果、『近江国や若狭国は「倒壊」「崩壊」の文言が多くあ』る『一方、京都盆地北部の被害状況を記録した文献には「損壊」「大破」の記述が多い事から』、『京都の被害は近江国や若狭国よりも軽微であったとしている』。『この日は大雨で、京都の地震動も強く』、「基煕公(もとひろこう)記」の宝永地震(宝永四年十月四日(一七〇七年十月二十八日)、東海道沖から南海道沖を震源域として発生したもので、マグニチュードは八・四から八・六程度)の『記録において「昔卅六年己前(数え年)五月一日、有大地震、有大地震事、其時之地震ノ五分ノ一也」とあり、宝永地震の京都における揺れは』、『振動が長くとも破損を生じる程で』、『建物が倒壊する程では無かったものの、京都では宝永地震でさえ』、『寛文地震の揺れの』五分の一『程度の強さであったことになる』。「殿中日記」には『京都において二条城の御番衆小屋などが悉く破損、町屋が千軒余潰れ、死人』二百『人余、伏見城も各所で破損したとある』、『また』、『同日記には、近江では、佐和山(現・彦根市)で城がゆがみ』、『石垣が』五、六『百間』(九百九~一キロ九十一メートル)に亙って、『崩れ、家千軒余』、『潰れ、死人』三十『人あまり、大溝(現・高島市)では』家屋が千二十二軒、潰れ、死人は三十八人、『牛馬も多く死に、朽木谷(現・高島市)は特に激しい地震動に見舞われ』、『家が潰れ』、『出火により辺りが残らず焼失したと記されている。膳所や大津(現・大津市)も被害が多く、水口』(みなくち)『城でも門、塀、御殿が破損した』。「落穂雑談一言集」には『伏見で町屋』三百二十『軒余倒壊、死人』四『人、近江志賀、辛崎(現・大津市)では田畑』八十五『町余がゆり込み、並家』千五百七十『軒が倒壊したとある』。「元延実録」には『愛宕神社や岩清水八幡宮が大いに破損、知恩院や祇園も大方破損したとあ』り、「厳有院実紀」によれば『二条城は各所が破損したが』、『禁裡院は無事である旨、また』、『丹波亀山城、篠山城、摂津尼崎城、近江膳所城、若狭小浜城は崩れ、近江国朽木谷では朽木陣屋が倒壊し、多くの家臣らと共に隠居していた先代領主の朽木宣綱が圧死したとある』。『当時の被害の様子や』、『余震を恐れる人々など』、『当時の状況を詳しく記録した読み物として売り出された浅井了意の』「かなめいし」(寛文二年八月から同年末までに成立)が、『災害の社会像を伝える最初の資料地震誌である。上巻は京都での実況見分的に描写、中巻は京都以外の地震の災害の概要、下巻は日本地震の先例をあげる』。『京の方広寺の大仏は』『慶長伏見地震』(文禄五年閏七月十三日(一五九六年九月五日発生。震源は現在の東大阪市内。マグニチュードは七・五前後。なお、この地震などを受けて同年十月二十七日に慶長に改元された)『でも倒壊するなど』、『度々』、『災難に見舞われていたが、本地震でも』慶長一七(一六一二)『年に再建された銅製の大仏が破損したとするのが通説であ』り、『大仏は木造で再建されることとなり、破損した旧大仏は解体され』ている。「慶延略紀」によれば、『二条城や大坂城も破損するほどの揺れであり、江戸でも小震であったとされ』、現在の広島県の『福山でも有感』されており、「殿中日記」には『「長崎表も地震之由」とある。被害の全体では死者』八百八十名『あまり、潰家約』四千五百軒と『される』とある。本「新御婢子」はこの地震から二十一年後の天和三(一六八三)年刊であり、作者の西村市右衛門も京住まいであるから、この地震を体験しているものと考えてよいのではないかと思う。彼の生年は不明だが、以上の書き出しの凄惨な事実提示は、伝聞とは思われない。而して、やや前ではあるが、本篇が真正のあり得たような「都市伝説」としての様相を、冒頭からくっきりと浮かび上がらせる稀有の絶大なる効果を持っているのである。

「江州朽木(くつき)」滋賀県西部(湖西)の高島郡にあった朽木村(くつきむら)。この附近

「かづら川」不詳。

「榎木(えのき)・町居(まちゐ)・小谷(こたみ)村」現在の地名では見当たらない。見当たらないのは、しかし、ここに述べた通り、この地震による全壊・全滅というカタストロフによって、三箇所総てが絶えたと考えれば、逆に納得がゆく。

「吹端山(ふきばた《やま》)」不詳。これも、その山が三箇所を埋め尽くすほどに、致命的にピークが崩れ、消滅したとすれば、同じく納得できなくはない。ただ、ちょっと話を膨らましている可能性は高いように思う。因みに、後背部が比良山地で、旧朽木村の「端」という謂いからは、以上の三箇所があったのは、朽木比良附近(グーグル・マップ・データ航空写真)ではないかとは思われる。しかもここは推定震源地の北西十五、六キロと直近である。

「斷《ことわり》に過《すぎ》たり」「ただ、自然現象だから仕方がないという道理で言い収められても、凡そ、それで納得出来るようなものではない。」。典型的な大震災の後の心的外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorderPTSD)である。

「ふる事」「古る事」ではなく、「經る事」で、「そのれぞれの時代の人々が経験してきたこと」或いは「歴史に記されてきたこと」の意であろう。]

 或人の云《いはく》、

「『聖賢、出《いで》給はんとては、麟・鳳(りん・ほう)、先(まづ)、現じ、国に災(さい)ある時は、異形(《い》ぎやう)の獸魚(じうぎよ)、あらはるゝ。』と云《いへ》り。かほどの凶事に、天神地祇(てんじんちぎ)のしめし給ふ前表(ぜんひやう)もなかりし事よ。今、曉季(ぎやうき)の濁世(ぢよくせ)なれば、惡事は、たゞちに、惡事ありて、兼年(けんねん)のしるしなし。」

といふ。

[やぶちゃん注:「麟・鳳」麒麟と鳳凰。「和漢三才図会巻第三十八 獣類 麒麟(きりん) (仮想聖獣)」と、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう) (架空の神霊鳥)」を参照されたい。

「前表」前触れ。前兆。

「曉季」末(すえ:季)の末法の始まり(曉(あかつき))の意であろう。

「兼年の」「その年よりもかねてから前に」の意であろう。]

 

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[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。この人魚、なかなか綺麗な顔立ちである。]

 

 其席に何がしの兵四郞とかや申されし、

「前表こそ、在《あり》けれ。某(それがし)、所用あつて、九州におもむくに、或浦の漁父(ぎよふ)が、手に、人漁(にん《ぎよ》)[やぶちゃん注:ママ。]ひとつ、䋄(あみ)にかゝりしを見ける。かたちは、順(じゆん)の「和名(わ《みやう》)」に『魚身人面(ぎよしんじんめん)なる物也』と。實(げに)も、そなり。顏は、うつくしき女にて、髮、禿(かふろ)のごとく、手足、人間にかはらず、其外は、魚にて、尾鰭(おひれ)・鱗(うろこ)あり。生船(いけぶね)にあれども、異物のごとく、はねをどる事もなく、め、まじろかず。若(もし)、人音《ひとおと》のする時は、目を閉(とぢ)で[やぶちゃん注:ママ。後の対表現から「て」の誤刻と思われる。]、不ㇾ動(うごかず)。止(やめ)ば、則(すなはち)、目を開(ひらい)て、漂泊(へうはく)す。此浦の者ども、

『是、目出度《めでたき》瑞(ずい)也。昔、北條早雲、壯年の比《ころ》、舟にて、他(た)の国へ渡り給ひしに、ひとつの鯉魚(りぎよ)、船に飛入(とびいる)。「是、吉(きつ)なり。」とて、料理(りやうり)て、船中、賞翫(しやうぐわん)し給ひしが、程なく、大業《たいげふ》をたて、八州(《はつ》しう)をしたがへ給ひし。斯(かゝ)る小魚(しやうぎよ)さへ、まして况(いはん)や、人魚をや。當浦(たううら)の榮(さかへ)、疑(うたがひ)なし。いざ、分(わかち)とりて、たうべん。』

といふ中に、小賢(こざかしき)ものありて、

『是、吉(きつ)に非(あら)ず。凶也。ちかきに思ひ合《あはする》事、あるべし。』

と、いひて、人魚は、もとの海中へ、はなちやりけるが、おもへば、此年、大地震、ふりける。」

[やぶちゃん注:『順(じゆん)の「和名(わ《みやう》)」』源順(したごう)の「和名類聚抄」の巻第十九の「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六」に、

   *

人魚 「兼名苑」云はく、『人魚、一名は鯪魚(りやうぎよ)【上の音は「陵」。】魚身人面なる者なり。「山海経注(せんがいきやうちゆう)」に云はく、『聲、小児の啼(な)くがごとし。故に之れを名づく。』と。

   *

と出る。名を音読みするのは、敬意を示すので問題ない。

「まじろかず」瞬きをしない。

「北條早雲、壯年の比、……」不学にしてこの話は知らない。そもそも、九州のただの漁師の言う台詞なのに、突如、北条早雲が出てくるのは、何だか、場違いだし、こんな語り自体、漁師の話らしくない。而して、この話、「平家物語」の巻第一の「鱸(すずき)」、清盛が未だ安芸守だった頃に、熊野参詣の途中、船に鱸が飛びこむという吉兆があったという話とクリソツで、それを元に作り替えた話であろう。或いは作者は、確信犯で仕込み、真実あった話としての本話が、実話ではないことを、暗に匂わせたかったのかも知れない。

「ふりける」「震(ふ)りける」。]

と、いはれしに、傍(かたはら)なる人の云《いはく》、

「地震のふりける年、出《いで》たるとて、人魚を凶とする事、信用しがたし。昔、上宮(じやうぐう)太子、在(いまそ)かりし時、龍宮より、捧(さゝげ)て、太子の長生(ちやうせい)ならん事を、はかる、と、いへり。凡《およそ》此魚を食すれば、千歲(《せん》ざい)を經(ふ)るともいひ、不老不死也とも、いへり。かゝる目出度類(たぐひ)、是、吉瑞(きち《ずい》)ならずや。人魚なく共《とも》、地震は、ふるべし。地震なくとも、人魚出現の時、あるべし。」

と、いはれし。何(いづ)れを是(ぜ)とし、何れを非(ひ)とすべき、不ㇾ知(しらず)。

[やぶちゃん注:「上宮太子」聖徳太子のこと。この話は「聖徳太子絵伝」にあるが、献上相手が「龍宮」であるはずはなく、そちらでは摂津の国で獲れた人魚が献ぜられたことになっている。しかし、太子はその奇体な異形の異魚を見て、これは吉兆ではなく、災いを齎すものだと断じている。

 最後に南方熊楠の「人魚の話」をリンクさせておく。]

西原未達「新御伽婢子」 幽㚑討ㇾ敵

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

新御伽 卷五

 

     幽㚑討ㇾ敵(《いう》れい、かたきをうち)

 西國の内、いづくとやらん、所は聞《きき》忘れ侍る。

 飯尾何某といふ士、有《あり》。岡沢誰《たれ》とやらんと、途中におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、不慮の口論を仕出(し《いだ》)し、互に惡口の上、既に討果(うちはた)さんとせしを、大勢、取扱(《とり》あつかひ)て押《おし》わけたり。

 理非をいはゞ、飯尾は、智謀、兼備(かねそなへ)て、堪忍(かんにん)を宗(むね)とし、岡沢は血氣の勇者にて、しかも憶病也。早く刀を拔(ぬき)たれ共、人なき間(ま)に切付《きりつけ》ず、大勢を見かけて、

「募(つのり)たり。」

と、人口(じんこう)にかゝりければ、無念にや在(あり)けん、人をして、飯尾を闇討(やみうち)にしけり。

[やぶちゃん注:「募たり」ちょっと話の運びとしては圧縮し過ぎである。止めに入ることになる「大勢」の中の誰かが、臆病な岡沢の癖に、というニュアンスをもって、「あいつ、きちまってるな。」と呟いたのであろう。それで、やおら抜刀したものの、その大勢に、止めに入られた結果、それらを「無念」に思ってか、卑怯にも人に頼んで、飯尾を闇討ちにした、というのである。]

 暫(しばし)は知れざりけれども、のちのち、それと沙汰しぬ。

 飯尾が妻、夫の討れたる時、懷胎したるが、父が死後に生れて、男子なりければ、名を「鬼七郞」と呼(よぶ)。

 襁褓(きやうばう/むつき)の内より、此母、子にかき口說(くどき)て云《いはく》、

「汝が父は岡沢が爲に討れて、世になし。早(はやく)生長(ひとゝなり)て、敵(かたき)をとり、尊㚑(そんれい)に手向(たむけ)よ。」

と。

 過行《すぎゆく》月日、送り寄(よせ)て、鬼七、十四歲に成《なり》けり。

 過《すぎ》こし年月も、只、其事斗《ばかり》を、いひ聞《きか》せ、竹馬に鞭打《うつ》比《ころ》より、只、兵術を稽古けるに、其年よりは、をそろしく[やぶちゃん注:ママ。]、敢(あへ)て討損(うちそんず)べくもなし。

「來年、十五にならば、必(かならず)、敵(てき)の屋敷へかけこみ、一太刀、恨(うらみ)よ。」

と、いひければ、武(たけ)き母が介抱に、いとゞ、すゝみ、勇むで、母にいふやう、

「來年を待《まつ》こそ、遠く侍れ。雷光朝露(でんくわうてうろ)のたのみなき命(いのち)に、ながゝらん月日を、むなしく待《まち》つけ侍らんは、おぼつかなし。我、わかくして、しか也《なり》、敵(かたき)の、さかり過《すぎ》たるを、あんあんとまもり居《をら》んに、若《もし》、病死をせしなどゝいはば、悔(くゆ)とも、益なからん。唯、思ひ立《たつ》時、速(すみやか)に屋敷にかけこみ、討(うち)申さん。」

と、いさむに、母、甚(はなはだ)喜び、

「いでや、敵(かたき)は、用心、きびしくて、容易(たやすく)いらん事、かたかるべし。方便(てだて)を以て討(うた)せん。」

と、是彼(これかれ)、思慮をめぐらす程に、其比《そのころ》、西國、疫癘(えきれい)はやりて、人數《にんず》を盡して、死す。鬼七も此病に臥(ふし)けるが、發病より九日といふに、空(むなしく)成《なり》ぬ。

 母、もだへ、こがれて、喚(さけべ)ども、甲斐なし。

 せめて、なきがらに、むかひ、なくなく、口說《くどく》やう、

「常に、汝にいひ聞せたる事、草の陰にても、忘るゝ事なくば、一念をはげみて、敵(かたき)の命をとれ。相《あひ》かまへて、忘失(ぼうしつ)せば、ふけうするぞ。此太刀は、汝が父の重寶(でうほう[やぶちゃん注:ママ。])にて、汝、存命の時、常に持《もた》せ侍り。今、此棺に、納(をさむ)るぞ。」

と、齒をかみて、淚にむせぶさま、

「理《ことわり》ながら、女にては、余(あまり)なれば。」

と、人、舌をまきて、をのゝく。

 其後、或夜、更(ふけ)て、大崎何がしといふ人、所用ありて、彼《かの》岡沢が表を通りしに、十四、五なると見えし少人(しやうじん)、大崎に向(むかひ)て、いふ、

「某(それがし)は、去(さる)屋敷に仕(つかふ)る者にて侍る。主人なる奧方、物恠(ものゝけ)にいたはり侍る。巫(かんなぎ)の申《まをし》侍るは、『此寢所(しんじよ)より、艮(うしとら)にあたりたる家の、屋札(やふだ)を取《とり》て、病人に載(いたゞかせ)よ。』と申すに、折節、傍(そば)に有合(ありあひ)、此使(つかひ)に當(あた)るに、夜陰(やいん)にて、物の色、あひ安定(さだか)ならず、幸《さひはひ》、そのかたに、一僕(《いち》ぼく)を召《めし》、灯燈《ちやうちん》を持《もた》せ給へば、借(かり)參らせ度(たく)侍る。病(やまひ)、癒《いえ》ば、君《くん》の御厚恩にこそ。」

と、詞(ことば)をたれていふに、大崎、

「容易(いとやすき)事なめり。火を借(かす)迄もなし。それ、札、まくりて得させよ。」

と、いへば、僕、ふりたてゝ、

「めりめり」

と、とると見えし。

「忝(かたじけない)。」

と一禮したるが、いづち行《ゆき》けん、不ㇾ知(しらず)。

「何樣、狐のたぼらかしけん。」

など、主從、笑ひゐるに、彼(かの)屋敷の内、物騷(《ものさはがしく》、聲高(こゑだか)に、

「只今、夜討(ようち)入《いり》て、主人を害せし。出《いで》あへ。」

と、よばわる。

[やぶちゃん注:「屋札」この場合は、神仏の守札を指す。]

 

Iureikatakiwotoru

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 大崎、驚き、

「かゝる所に長居し、罪をふわざも有《あり》なん、『瓜田不ㇾ納ㇾ履、李下不ㇾ正ㇾ冠。〔瓜田(くわでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠《かんむり》を正さず。〕』とこそいへ。」

と、足ばやに、のきぬ。

 三丁[やぶちゃん注:約三百二十七メートル。]斗《ばかり》行《ゆき》て、ほそく流れたる河あり。

 彼(かの)少人、又、爰《ここ》に在《あり》て、血、つきたる太刀を、水に洗ふ。

 大崎を見て、いふやう、

「只今の報恩、申すも、中々、言語(ごんご)に絕《たえ》たり。我は、當庄(しやう)飯尾何がしが悴、鬼七郞。能(よく)覺え給《たまふ》べし。此岡沢は、年來(ねんらい)の親の敵(かたき)なる事、擧ㇾ世(よ、こぞつて)知る所也。我、不幸にして、早世す。一身の妄執のみか、母にも、いたく諫(いさめ)られて、魂、爰に立歸《たちかへ》り、思ひの儘に討(うち)をほせぬ[やぶちゃん注:ママ。]。願(ねがはく)は、君、迚(とても)の情(なさけ)に、母に、此事、語りて給《た》べ。自(みづから)參侍らんが、司錄神(しろくじん)に申せし暇(いとま)の限(かぎり)、近ければ、又、黃泉(よみぢ)に歸る也。」と、頸(くび)と刀を、大崎に渡し、跡かたなく消(きえ)ぬ。

[やぶちゃん注:「司錄神」」地獄の裁判に於いては「司命(しみょう)」と「司録」という書記官が必要な実務処理を担当する。現世での堕獄した者の行いを漏れなく記し、閻魔王を始めとする十王の各冥官の判決文を録する。]

 大崎、奇異の思ひをなし、母に是(これを)授(さづく)るに、母、嬉しき顏ばせにて、語る。

「此太刀は、父が死して後に、此子、身を放さず持《もち》しを、罪ふかき事ながら、『一魂、歸りて、敵(かたき)を取れ。』と、せみやうし、棺の内に入(いれ)たりしが、扨《さて》は。終《つひ》に、此太刀にて、討けるよ。」

と、且は、喜び、且は、歎(なげき)て、淚を流しけるが、是より、妄執はるけければ、則(すなはち)、尼に成《なり》て、妻子の菩提を弔(とひ)けるとぞ。

[やぶちゃん注:「せみやう」訝しいが、「宣命(せみやう(せみょう))」か。しかし、これは、天皇の命令を伝える文書の一形式であって、おかしい。

「妻子」この「妻」は「夫」の意。]

西原未達「新御伽婢子」 名劍退ㇾ蛇 / 巻四~了

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 なお、本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     名劍退ㇾ蛇(めいけん、へびをしりぞく)

 都の外(ほか)、大原といふは、古(いにし)し[やぶちゃん注:ママ。]女院(にようゐん)、世を遁(のがれ)させ給ひし名のみして、其跡、たて[やぶちゃん注:「たえて」(絕えて)の脱字か。]、かすかに、あやしの賤(しづ)の女(め)の柴かづくわざなん、今、所がらとて、おかし[やぶちゃん注:ママ。]。

 其里に安左衞門とかやいふ、隱士(かくれたるさふらひ[やぶちゃん注:左の読み。右にはない。])あり。平生、釣を好(このん)で、夏(なつ)、川になれば[やぶちゃん注:ママ。「川」は誤記か誤刻、若しくは、「夏の川」であろう。]、或時は、鵜(う)の巢(す)前川(まへ《かは》)の浪にひたり、又、或時は賀茂・貴布祢(きふね)の流れにあそびて、いたらぬ渕瀨(ふちせ)もなく、わたらぬ水の氾(よどみ)もなし。

 或日、友をいざなひ、勢田の橋の下(しも)、南鄕(なんがう)といふ所に、適遥(せうやう)して、釣竿を下《おろ》す。

 爰に、ひとつの渕あり。

 昔より、此所に、

「をそろしき主あり[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いひ傳(つたへ)て、更(さらに)、

「殺生禁斷(せつしやうきんだん《の》)所也。」

と、皆人、釣せず、䋄(あみ)する事、なし。

 浪、蒼々と樣流(うづまき)、岸にふりたる松、くらく、水中に陰をひたし、誠に物すごき絕景也。

 友の人は、皆、心々《おもひおもひ》に、別れちりて、漁(すなど)る。

 爰に、此人、ひとり、彼(かの)渕をのぞみ見るに、鮞(はや)・鯥(むつ)などやうの魚、群(むらがる)事、重ねたるごとし。

 見るに不ㇾ堪(たへず)して、針をおろすに、魚を得る事、うつすがことく、

〽間(ひま)なく魚をとる時は 罪も むくひも わざはひも

と、ざれ歌、諷(うた)ひつべう覺えて、面白く、魂(たましひ)、空(そら)に成りてゐる。

 暫(しばし)して、浪、さはがしく、風、一通りして、などやらん、心ちよからぬ所に、水中より、名のみ聞(きく)、※蛇(うはばみ)斗《ばかり》の長(ながき)もの。岸の松の木にのぼるを見れば、一身、鱗(うろこ)だちて、肌のするどなる事、何(いづれ)を松、何れを蛇(じやせい)勢と、見わかず、下枝に蟠(わだかまり)、首(くび)をさげて、のまんとす。

[やぶちゃん注:「※」は「虫」+「白」。]

 をそろしさ[やぶちゃん注:ママ。]、いはんかたなく、竿も、ゑふごも、投捨(なげすて)、刀(かたな)をぬいて、追い拂ひ[やぶちゃん注:ママ。]、尻しざりに、逃去(にげさり)、大路(《おほ》ぢ)に出《いで》て、息も、つきあへず、あやしの茶店(ちやてん)に、少《すこし》、休らひ、猶、大原の里に歸りぬ。

 おもふに、此刀、信国(のぶくに)とかやなれば、近付(ちかづき)得ずして、危(あやうき)命(いのち)、のがれけるとぞ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、小松の重《しげ》もり卿、池どのゝもとに、晝寢してゐられけるに、此池の大蛇、重もりを、のまんと、うかゞひよるに、枕もとなる刀、をのれと拔(ぬけ)て、大蛇を池に歸しける。太刀風《たちかぜ》に目ざめて、此刀のぬけたるを見て、

「かく。」

と、しられしと、「平家」には書《かけ》り。

 是より、此刀を稱美して、「蛇(じや)かゑし[やぶちゃん注:ママ。]」と号(なづけ)られけるとぞ。

 古今(ここん)年數を隔だゝれども、名劍の德、つくる事なく、猶、後世(こうせい)までも、かゝるきどく、なん、在《あり》ける。

 

 

新御伽巻四

[やぶちゃん注:「女院」「平家物語」の「大原御幸」で知られる安徳天皇の母である平徳子。

「鵜(う)の巢(す)前川(まへ《かは》)」不詳。分離させても、京の川に該当するものがない。或いは、宇治川の鵜飼(うかい)を、かく言っているのかも知れないと感じはした。識者の御教授を乞うものである。

「南鄕」現在の滋賀県大津市南郷(グーグル・マップ・データ)。

「樣流(うづまき)」「西村本小説全集 上巻」では、ここは『□流』でルビに『うづまき』とあって、判読不能字となっている。私は脱字なのかと思ったのだが、底本には確かに漢字が書かれてある。私には、「樣」の崩ししか見えなかった。暫くこれを当てておく。

「鮞(はや)」淡水魚で食用とする複数の魚を指す「ハヤ」類(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、それが示す種は、本邦では概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指すと考えてよい。

「鯥(むつ)」上記注の最後の二種。ヌマムツは二〇〇三年に同属別種とされるまで、カワムツの変異型とされていた。

「信国」初代信国(生没年不詳:応安二(一三六九)年没か)は南北朝時代の山城国の知られた刀工。

「小松の重もり」平清盛の長男重盛。但し、ここに出る話は、「平家物語」ではなく、「平治物語」の「待賢門軍(いくさ)の事」の一節で、重盛ではなく、清盛の父(義父とも)忠盛の話。そもそもこのシークエンス、重盛には全く似合わないおかしな話である。筆者は書きながら、そう思わなかったことが、甚だ不審である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを底本として電子化する。

   *

賴盛は兜に熊手を切り懸けながら、取りも捨てず、見も返らず、三條を東へ、髙倉を下りに、五條を東へ、六波羅までからめかして落ちられけるは、中々に、優にぞ見えたりける。名譽の拔丸(ヌケマル)なれば、能く切れけるは理(コトワリ)なり。此の太刀を拔丸と言ふ故は、故刑部卿忠盛、池殿に晝寢(ヒルイネ)しておはしけるに、池より大蛇(ダイジヤ)あがりて、忠盛を呑まんとす。此の太刀枕の上に立てたりけるが、自らするりと拔けて、蛇(ジヤ)に懸りければ、蛇(ジヤ)恐れて池に沈む。太刀も鞘(サヤ)に返りしかば、蛇又出て呑まんとす。太刀又拔けて大蛇を追ひて、池の汀に立ちけり。忠盛之を見給ひてこそ、拔丸とは附けられけれ。當腹(タウフク)の愛子に依りて、賴盛之を相傳し給ふ故に、淸盛と不快なりけるとぞ聞えし。伯耆國大原の眞守(サネモリ)が作と云々(カヤ)。

   *

「池どの」平忠盛の正室で、清盛の継母に当たる池禅尼(いけのぜんに 長治元(一一〇四)年?~ 長寛二(一一六四)年?)。]

2022/09/26

西原未達「新御伽婢子」 憍慢失

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注は最後に置いた。]

 

     憍慢失(きやうまんのしつ)

 城刕市原といふ所に空也の流(ながれ)を繼ぐ念仏師、世に「鉢たゝき」といふあり。寒夜の曉(あかつき)、七所(しよ)の墓所をめぐつて念仏し、廽向(ゑかう)する事、每夜也。

 年々の冬每(ごと)に勤(つとめ)けるに、いつ別形(べつぎやう)の者にも出合《いであは》ず、をそろしき心、夢斗《ばかり》もなし。此男、自讚していふ、

「大かたの世の人は、人家より人家に行《ゆく》をさへ、夜、少《すこし》更(ふけ)ては、をそろしき[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]心を發《おこ》しまして、山埜の淋しきには、其儘も死する心ちに憶(おく)する者あり。我、數年《すねん》、三昧に行《ゆき》かよふといへ共、をそろしとも思ひ侍らぬは、生(むま)れ付《つき》の強勢(がうせい)なると、信心の金剛なるとに、有《り》。」

と、甚(はなはだ)、憍漫して、いつものごとく、詣ずる。

 

Hatitataki

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 ある三昧に廽向し、立歸らんとするに、其長(たけ)、弐丈も有らん、大の男、眼(まなこ)は、鏡に朱をそゝぎたる如く、口、鰐(わに)にひとしく、耳の根へ切れたるが、此男を、

「つくづく」

まもりて、立《たち》たり。

 一目見るより、

「はつ。」

と、おもひ、目くれ、心まどひながら、漸々(やうやう)、余(よ)の道に逃(にげ)わしる[やぶちゃん注:ママ。]。

 半町斗《ばかり》も來つらんほどに、又、前の男に少もたがはぬもの、出《いで》て眞(ま)むかふに、立《たち》ふさがり、

「何と。此《か》やうなるもの、あの三昧にも居(ゐ)たるや。」

といふ。

 此時にこそ、氣を取失(《とり》うしな)ひ、大地に、まろび臥す。

 やゝありて、時雨、一通《ひととほり》して、咽(のんど)をうるほし、天然(てんえん)に心づきて、あたりをみるに、東雲(しのゝめ)、漸々、明《あけ》はなれければ、とかくして、家に歸りけれ共、彼(かの)襲《おび》へ[やぶちゃん注:ママ。]、忘れがたくて、

「俤(おもかげ)に、たつ。」

と、いひしが、二、三日、經て、死《しに》けるとぞ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 すべて、仏法《ぶつぼふ》・世法《せいはふ》の事につきて、

「われこそわ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、慢心をおこす事、是ほどまで、正(まさ)しき妖《えう》をこそ見ざらめ、さしあたりて、知もなく、德もなき人に、おとり見ゆるぞかし。いかに、いはんや、さまでもなき所作をや。

[やぶちゃん注:「市原」現在の京都府京都市左京区静市市原町(しういちいちはらちょう:グーグル・マップ・データ)。

「鉢たゝき」「鉢叩・鉢敲」。平安時代の空也上人が始めたと伝えられる踊念仏(おどりねんぶつ)を元とする民俗芸能。瓢簞(ひようたん)を叩き、念仏を唱えて踊る。中・近世には門付(かどづけ)芸として半僧半俗の芸能者によって演じられた。挿絵の風貌を見ても、本格的な念仏修行者ではなく、普段は、そうした芸能を生業としている者である。但し、、特に十一月十三日の空也忌(これは実際の忌日ではなく、彼が東国教化のため、京の出寺したその日を忌日としたもの)より除夜の晩まで、洛中を勧進し、葬所を巡って念仏を唱えるそれを、曲りなりにも欠かさずにやっている点では、「空也の流(ながれ)を繼ぐ」正統な「念仏師」の一面を持ってはいる人物である。

「三昧」ここは「三昧場(さんまいば)」のこと。葬場・火葬場・墓地を言う。

「半町」約五十四メートル半。]

西原未達「新御伽婢子」 梭尾螺

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 なお、本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     梭尾螺(ほらの《かひ》)

 往昔(そのかみ)、松前に下りし人の語りしは、或山里に、旅店(りよてん)、求(もとめ)て、常ならず、日高(ひだか)なれば、寢もいられず、亭主を招(まねい[やぶちゃん注:ママ。])て、

「上がたになき、珍らしき事や、ある。」

と、万(よろづ)の物がたりさせて、聞《きく》に、だみたる聲の、言舌(ごんぜつ)ふつゝかなるぞ、先(まづ)、可笑(をかしき)。

「此所《ここ》の、さま後(うしろ)に、嶮岨(けんそ)の山、つゞきて、右へ遠く、左の方《かた》は、此山のとまりにて、尾さき、すさまじく、卓々(たくたく)たる岩かど、尖(とがつ)て、釼(つるぎ)のごとく、十町斗《ばかり》こなたに、入江の崩口(くづれ《ぎち》)有《あり》、そばだつ事、三町斗、手きゝの工(たくみ)に、鉋(かんな)もて、けづらせたるに、ひとし。此山上に至(いたつ)て、爰《ここ》を覗(のぞか)ば、いかに心つよき者も、目くれて、水に落《おち》ぬべし。」

[やぶちゃん注:「此所《ここ》の、さま後(うしろ)に」以下は、ここの附近の地勢の細部が描写されていることから、「旅店」=「宿」の亭主の台詞である。

「さま後」真後ろ。後背。

「卓々たる」ひときわ高く抜きんでているさま。

「十町」約一キロ九十一メートル。

「三町」約三百二十七メートル。]

「地震なんどにぞ、斯(かく)崩れたるものなるべし。」

と、とふに、亭主、語つて、

亭主「いくとせに成《なり》とも不ㇾ知《しれず》、某(それがし)の祖父(そぶ[やぶちゃん注:ママ。])にて在し者の語り侍る。是より北一里の間は、民家、多く續(つづい)て、數百軒(《すひやく》けん)、宮寺、有り。士農工商、有《あり》て榮(さかふ)る事、晝夜、市中(し《ちゆう》)のごとし。

 或時、何法眼(《なんのほふ》げん)とかやいふ名醫、此所《ここ》に一宿し給ふ。

[やぶちゃん注:「法眼」中世の以降の武家時代に医師・絵師・連歌師・儒者などに授けた称号。]

 既に寢所に入《いり》て、自(みづから)兩手を拳(にぎつ)て、脉《みやく》をうかゞふに、雀啄屋漏(じやくだくをくろう[やぶちゃん注:ママ。])の死脉、あらはる。

[やぶちゃん注:「雀啄屋漏」「死脈」「雀啄」は雀が物を啄(ついば)むようなリズムを指すか。鍼術で「雀啄術」というのがあり、サイト「東京都はり灸マッサージ師会」のこちらによれば、『直に(まっすぐに)鍼を下し、鍼尖を止める深さは患者の感受性と部位の状態に適宜したがうようにする。適当な深さまで鍼尖を進み入れたら、雀がチョクチョクと餌を啄むように連続的に鍼を上下させる。呼吸四五息も抜き刺ししたら、鍼尖をすっかり離して少し休んでから、またチョクチョクと抜き刺しする。たびたびこの様に抜き刺しして、最後によく捻ってから、直に鍼を引き抜き、鍼痕を速やかに閉じる』とあった。さすれば、緩急或いは間歇のある不整脈のように思われる。「屋漏」同前で、「屋漏術」がやはりあり、『まず鍼を五分ほど直に皮毛の分に刺入し、呼吸五六息ほど鍼を捻り天部の気をうかがってから、呼吸五六息ほど雨漏りの落ちるように荒く鍼を抜き刺しする。また鍼を五分ほど肌肉の分に刺入し、同じく鍼を捻り人部の気をうかがってから、荒く抜き刺しする。また更に鍼を五分ほど筋骨の分に刺入し、同じく鍼を捻り地部の気をうかがってから、荒く抜き刺しする』。『引き抜く時もまた、五分ほど直に引き、鍼を捻った後、荒く抜き刺し、また五分ほど引き、鍼を捻った後、鍼を抜き去り痕を閉じる』とあった。文字通り、雨漏りの雫のリズムで、早い脈を言うか。さらに調べると、「死脈」は日本鍼灸研究会の中川俊之氏の論文「死脈の変遷について」(『日本医史学雑誌』第 六十四巻第二号・二〇一八年発行・PDF)によれば、死脈は、脈の打ち方それ自体が、予後不良を表わす脈状を指すとあり、その論文中にも「雀之啄」「雀啄」と「屋之漏」「屋漏」の死脈が挙げられてあった。さらに、「J-Stage」のこちらからダウン・ロード出来る中谷義雄(なかたによしお)氏の論文「脈診」(『良導絡』第千九百六十六巻 ・一九六六年 ・百二十三号)を発見、そこに、「雀啄」は、『連続に三〜五回脉動がきて一呼吸程、脉動がなく又三〜五回脉動すると云う様に、丁度雀が物をつゝき食べる様にくる脉が現われると、四〜五日はもつが死亡することが多い。これは』、『脾』・『腎』『の機能が全く減退したからである』とあり、「屋漏」は、脉が不整脈を呈し、二呼吸の間に一動したり、雨漏の様に連なりてきたりする様な脉を云う。これも』『胃』『の機能が全く減退した為に死亡する』とあった。]

「恠(あやしい)かな、心神、安くして、更に病(やまひ)なし。」

と、重(かさね)て診(しん)するに、更(さらに)、止(やむ)事なく、死期(しご)近きにあり、と覺ゆ。

 若黨(わか《たう》)・仕丁(してう)其外、家(いへ)の彼是(かれこれ)、集(あつめ)て、脉を診するに、或《あるい》は、彈石(だんせき)、或《あるいは》、魚翔(ぎよしやう)、鰕遊(か《いう》)の脉、出(いで)て、皆、死脉ならぬは、なし。

[やぶちゃん注:「彈石」「魚翔」「鰕遊」総て中川氏の上記論文に載り、再び、中谷先生の前掲論文から引用すると、「弾石」は、『脉は硬く石を弾くが如く強く感じる脉、これは』『腎』『と』『肺』『の機能が全く減退したからである』とあり、「魚翔」は、『指にふれる様な、ふれない様な、脉動は早く去り、次の脉の来るのが遅い。寸部』(右手の手首附近を言う。当該論文の中に図有り)『では脉を感じないで魚の尾だけが、ひらひらと動く形に似ているのでこの名がある』。『腎』『の機能の全く減退した場合に起る』もので、『六時間以上はもたないことが多い』とあり、「鰕遊」は「蝦遊」で出、『浅く細長くふれる静かな中で一度脈動が強くふれているかと思うと又いつの間にかふれなくなる、蛙が水中にあって、にわかに水の底に入り』、『また』、『水の面にあらわれてきた様な感じの脉を云う』。『脾』・『胃』『の機能の全く減退した時に起る。この様な脉を呈すると間もなく死亡する』とあった。なお「蝦」には、「ひきがえる」の意がある。]

「扨は。此家か、若(もし)は、此里か、廣(ひろく)は、一國、同時に、天災にあふ事。必定(ひつ《ぢやう》)。遁(のがれん)には。」

と、亥の刻斗《ばかり》、俄《にはか》に宿(やど)を出《いで》て、道々、駕籠(のりもの)の内にして、自身の脉を見給ふに、壱里此方(こなた)の此山里にて、更に、本脉(ほんみやく)出《いで》たり。

 供の者をうかゞふに、敢(あへ)て、死脈、なし。

 是に驚き、宿の一家・親(したし)き者にも語り、聞せるより、一在(《いち》ざい)、ふれわたりて、周章(しうしやう)す。

 律義なるは、忽(たちまち)、所を去り、信用せざる者は、

「何條(なんでう)、ことなる事、あらん。」

と咋(あざわらひ)て、出ぬ者も、數多(すた[やぶちゃん注:ママ。])なりし。

 其夜の、子の刻の終(をはり)にや、西の方《かた》の高山(かうざん)、鳴(なり)ひゞく事、誠《まこと》に、大山《おほやま》、崩(くずれ)て、海に入《いるる》事なれば、喩(たとへ)をとるに、物、なし。

 此響(ひゞき)、近鄕、二、三里に動滛(どうよう)[やぶちゃん注:ママ。]するとひとしく、山、ふたつに碎(くだく)ると覺えし。

[やぶちゃん注:この「滛」の字には「搖」との同義はなく、「浸す・恣(ほしいまま)・ 淫(みだら)」の意で、代字としては相応しくない。]

 幾憶(いく《おく》)、限(かぎり)なき、ほらの貝、うねり出《いで》て、草木土石(さうもくどせき)、打交(《うち》まじり)、民家の上に覆《おほ》ひかゝりしに、「津波」といふ物、沖より、うつて、今、殘りたる岸(きし)を限(かぎり)に、一時(《いち》じ)に大海に打こみ、一物(《いち》もつ)も、殘らず、なりぬ。

 死たる人、かぞふるに、いとまなし。

 其外、牛馬犬鷄(ぎうばけんけい/  いぬにはとり)、山を家《いへ》とする狐狸兎猿(こりとゑん/きつねたぬきうさぎさる))此ひゞきに、驚き、岩に隱れ、木にのぼれ共《ども》、大地の根(ね)をたつて、崩(くづ)し行《ゆく》。

 波に遁去(のがれさる)便(たより)もなく、卽時に滅沒(めつぼつ)して、夢に夢見るありさま也し。

 それより、かく、家、なく、人、なく、あれ果(はて)て、さはがしき松の風、波の音のみ、枕にかよひて、近きわたりの在々所々にも、柴薪(しばたきゞ)を市(いち)にひさぐ、便りなく成《なり》て侍る。」

と語りしとぞ。

[やぶちゃん注:崩落・地震・津波をメインとした災害型怪奇談で、最後まで読ませる、優れた一篇である。標題を「梭尾螺(ほらの《かひ》)」(底本は「かひ」を「かい」とする)の割に出番は、「幾憶(いく《おく》)、限(かぎり)なき、ほらの貝、うねり出《いで》て」というワン・シーン(或いはカット・バック)だけであるが、これは無論、海産の、本邦の貝類では最大級クラスにランク・インする、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis

である。まず、漢名である「梭尾螺」であるが、「梭」は「ひ」(「杼」とも書く)で織機の付属用具の一つである、シャトルのことである。緯(よこ)糸とする糸を巻いた管を、舟形の胴部分の空所に収めたもので、端から糸を引き出しながら、経(たて)糸の間を左右に潜らせるためのもの。滑らかに確実に通すために舟形の左右が尖っており、ホラガイは著しく大きく、螺頂が尖っているのが目立つ類似性と、螺頂を古人が貝殻の「尾」部と認識したことによる命名と思われるが、そもそもが、腹足類(巻貝類)には螺頂が高く尖っているものは多く、ホラガイのような長巨大なそれよりも、寧ろ、中小型の別種の複数の種の方が「梭」の尾には似ており、実際に「梭」に遙かに酷似した、ズバリ、

吸腔目タカラガイ上科ウミウサギガイ科ヒガイ(梭貝)属ヒガイVolva volva habei

がおり、この漢名は私には全く腑に落ちないのである。次に、「何で地震で、法螺貝が山の中から出るねん?」とおっしゃる方は多かろうと思う。実は、山の崩落や地震時には、本邦では――妖怪のように――山から――法螺貝が出現する――ことが、江戸以前の民俗社会ではかなり頻繁に語られたのである。山に年経た海の法螺貝が住んでおり、それが神通力を得て、龍となって昇天するという「出世螺(しゅっせぼら)」伝承は、実はかなりメジャーで日本各地に残っているのである。というより、ちゃんとした本草書である貝原益軒の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 梵貝(ホラガイ)」でさえも、例外ではないのである。そこで益軒先生でさえ(太字は私が附した)、『今、按ずるに、俗に「ほらの貝」と云ふ。大螺なり。佛書に法螺(ほうら)と云ふ、是なり。海中、或いは山土の内にあり。大雨ふり、山くづれて、出(いづ)る事あり。大に鳴れりと云ふ。本邦、昔より軍陣に用(もちひ)て之を吹く。「源平盛衰記」に見ゑたり。佛書「賢愚經」にも、軍に貝を吹(ふく)こと、あり。亦、本邦の山伏、これを、ふく』とあり、さらに畳みかけるように、『後土御門院明應八年六月十日(ユリウス暦一四九九年七月十八日)、大風雨の夜、遠州橋本の陸地より、法螺の貝、多く出て、濵名の湖との間の陸地、俄(にはか)にきれて、湖水とつゞきて、入海(いりうみ)となる』というトンデモはっぷんの解説を大真面目でやらかしているのでも、お判り戴けるであろう。図入りのものでは、解説を上記の「大和本草」から殆ど丸ごと剽窃している『毛利梅園「梅園介譜」 梭尾螺(ホラガイ)』がよかろうが、「何で、山の中から法螺貝が?」という疑問には、人がまず立ち入らない深山に山伏の吹く法螺貝が置かれているのを、たまたま目撃したのを、「生きた法螺貝が山の中にいる」という錯誤を生んだというのが、最も無理がなく、納得出来るものと思う。或いは、本邦では先史時代より前の隆起によって貝の化石が山間部からもよく出土することとも関係すると思われる。ホラガイの化石が頻繁に出るというのは聴かないのだが、多数の貝化石が山中から出土すること自体が、近世以前の人間にとっては、それだけで怪奇であり、それは、容易に「巨大な貝の石に化けた奴らの親玉妖怪が、山中の洞穴辺りの中にきっといるに違いない。とすれば、それはもう、あの大きな法螺貝に決まってるぜ!」という連想に発展することは、極めて腑に落ちるのである。さらに、山伏が山中で吹くそれは、異様な音として、遠くまで響き、それが山崩れの音や現象と、幻想上の相似性を持って認識されたというのも、異論はあるまい。具体に妖怪としてのそれを見るなら、例えば、私の電子化物では、「佐渡怪談藻鹽草 法螺貝の出しを見る事」、或いは、同書の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や、「三州奇談卷之五 縮地氣妖」がある。なお、この話のモデルになった地震は不明である。本書は天和三(一六八三)年刊であるが、旅宿の亭主の祖父の記憶に基づくとしていること、松前藩が立藩してからのことと推定出来るので、その必要条件を満たし、被害の生じた津波が発生した地震は、慶長十六年十月二十八日(一六一一年十二月二日)に発生した「慶長奥州地震」である。主に被害を受けたのは現在の青森県・岩手県・宮城県で、地震の規模は諸説あるが、マグニチュード八・一と当該ウィキにはある。但し、この時に発生した津波が松前を襲ったかどうかも判らないし、松前藩内の海浜で大規模な山崩れが発生したという話も調べ得なかった。逆に、ウィキでは、『この地震において、現在の三陸海岸一帯は強震に見舞われたが、太平洋側沿岸における震度は』四~五『程度と推定され、地震による被害はほとんどなく、津波による被害が大きかったことから津波地震と推定されている』とあるので、松前で山崩れが起きた可能性は限りなくゼロに近い。ただ、本篇が「津波」を語っている点では、モデルであったという感じはする。]

西原未達「新御伽婢子」 茸毒

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

       茸毒(くさびらのどく)

 貞德翁の「なぐさみ草」といふ物に、『「春三月(みつき)のほど、鮒(ふな)の頭に毒あり。」と。或醫師のもとにて、春、鮒を料理せられしに、頭(かしら)ともに出《いだ》されける。是より、此人の學問のほど、推量(《おし》はかり)侍る。』と書《かけ》り。

[やぶちゃん注:『貞德翁の「なぐさみ草」』江戸前期の俳人・歌人・歌学者の松永貞徳(元亀二(一五七一)年~承応二(一六五四)年)の慶安五(一六五二)自跋のある「徒然草」の注釈書。「新日本古典籍総合データベース」で全ページを一回縦覧したが、発見に至らなかった。余裕ができたら、再度、挑戦してみる。

「春三月(みつき)のほど、鮒(ふな)の頭に毒あり」寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」(リンク先は私の古いサイト版電子化注)の「鮒(ふな)」の項に、

   *

「本草必讀」に云ふ、『鯽の頭、春月、腦の中に、蟲、有り。此の魚、原(もと)、田の稷米(しよくべい)の化生(けしやう)する故、肚(きも)に、尙、米の色、有り。』と。

   *

とあり、そこで私は注して、

   *

「腦の中に、蟲、有り」とあるが、鯉と同様、扁形動物門吸虫綱二生吸虫亜綱プラギオルキス目後睾吸虫上科後睾吸虫科の肝吸虫(肝ジストマ)Clonorchis sinensis及び同上科の異形吸虫科の横川吸虫Metagonimus yokokawaiさらに線形動物門双線綱センビセンチュウ目(旋尾線虫目)顎口虫科顎口虫属ユウキョクガッコウチュウ(有棘顎口虫)Gnathostoma spinigerumの感染が考え得る。ここでも背柱側筋内に多く寄生し、おぞましい皮下移動症状や脳障害・失明等を引き起こす有棘顎口虫Gnathostoma spinigerumを指しているか。

「本草必讀」という書は、東洋文庫版「和漢三才図会」訳注の後注には、『「本草綱目類纂必読」か。十二巻。』とのみあるだけである。中国の爲何鎭なる人物の撰になる「本草綱目」の注釈書であるらしい。

「稷米」はイネ目イネ科モロコシ(コウリャン)Sorghum vulgareを指すか。音読みならば「しよくまい」又は「しよくべい」、訓読としては「きびのもち」又は「きびまい」、二字で「きび」と読ます可能性もあるが、これら後者の訓読みではイネ目イネ科のキビPanicum miliaceumを指すことになってしまう。

   *

とした。以上の寄生虫をここでも候補としておく。最悪は一番最後の有棘顎口虫である。]

 すべて、食事には、旦(あした)暮(ゆふべに)、心を付《つけ》て用ひ、殊(こと)に、形の異相(いさう)なる物、時節の變(へん)なる類(たぐひ)、異(こと)やうなる料理、食する事、なかれ。「色𢙣不ㇾ食臭𢙣不ㇾ食失ㇾ飪不ㇾ食不ㇾ時不ㇾ食割不ㇾ正不ㇾ食不得其醬不ㇾ食」〔色、𢙣(あ)しき、食(くら)はず。臭(か)の𢙣しき、食はず。飪(じん)を失へる、食はず。時(とき)ならざれば、食はず。割(きりめ)正しからざれば、食はず。其の醬(あへもの)を得ずば、食はず。〕とこそ敎(をしへ)給ひけれ。

[やぶちゃん注:以上の漢文は「論語」の「鄕黨第十」にある「食不厭精章」。「Web漢文大系」(新字新仮名)のこちらで全文・訳注が読める。その語注によれば、「失飪」は『煮加減の適度でないもの。半煮えや煮過ぎたもの。』とあり、「不時」には、『「三度の食事以外」という説と、「季節外れのもの」という説の二説ある。』とされ、「醬」は『調味料。ソースの類。』とある。]

 予、先年、坂本の來迎寺に詣《まうで》ける時、小童(こわらは)に、一瓢(《いつ》へう)、提(さげ)させけるを、堂の前、拜して後《のち》、ゑんさきに平座(へいざ)して、小盃(《こ》さかづき)、ひとつ、ふたつ、たうべ、道のつかれを忘れ、御寺《みてら》も、殊更(ことさら)たうとく[やぶちゃん注:ママ。]成《なり》て、心おもしろく、

「惠心(ゑしん)の僧都の尊《たつと》き古(いにし)へも思はれ、他《ほか》に異(こと)なる靈場に、今日(けふ)しも詣來《まうでき》にける。年來(としごろ)の願望(ぐわんもう)、成《なり》し。」

などゝ、童に語りゐるほどに、何やらん、えんの下に、黑きものゝ、

「すごすご」

と跪(うづくまり)たるあり。

 

Kusabiranodoku

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 珍らしく、大きなる蟇(ひきがへる)の、土竜(うごろもち)の死(しゝ)たるを、足にて摩(なで)て、其汁(しる)を、奧に運ぶやうにして、立歸り、立歸り、同じ事、なん、しける。

 不思義にも、恠(あやし)くて、庭におり居(ゐ)、其行方(ゆきがた)を見れば、半間(まなか[やぶちゃん注:二字へのルビ。])斗《ばかり》奧の、つか柱(ばしら)の陰に、大きなる蛇、半死(なかばじに)なるに、此汁を塗る、と見えし。

 忽(たちまち)、蛇、頭(かしら)より、旭霜(きよく《さう》/あさひのしも)のごとく、

「みぢみぢ」

と解(とけ)て、其水、殘りたる跡に、赤き茸、一時(《いち》じ)に生じて、生長する事、〆治(しめじ)・初茸(はつたけ)のごとし。

 彼(かの)蟇、這出(はい《いで》)て、一方(《いつ》はう)より、喰(くらふ)事、心地好(こゝちよげ)也。

 是によつて、是を思ふに、茸といふ物、用捨(ようしや)して、不ㇾ可ㇾ食物也〔食ふべからざる物なり。〕と。

[やぶちゃん注:「坂本の來迎寺」現在の比叡山の東麓、琵琶湖岸に近い滋賀県大津市比叡辻にある天台宗紫雲山聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ:グーグル・マップ・データ)。開山は最澄とされる。単に来迎寺とも呼ばれる。当該ウィキによれば、長保三(一〇〇一)年に『源信(恵心僧都)がこの寺に入り、念仏道場として再興したという。源信がこの寺にいた時、紫の雲に乗った阿弥陀如来と二十五菩薩が現れるのを見たところから、紫雲山聖衆来迎寺と名付けたとされる』とある。

「蟇」本邦固有種であるヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus 。本邦には亜種で二種いるが、このロケーションは二種の孰れかを指すことは不可能である。博物誌及び亜種については、私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」を参照されたい。

「つか柱」「束柱」。この場合は本堂の床下にある短い支柱で、通常は束石と呼ばれる土台の基礎石の上に置く。

「〆治(しめじ)」菌界ディカリア亜界 Dikarya担子菌門真正担子菌(ハラタケ/原茸)綱ハラタケ目シメジ(占地)科シメジ属 Lyophyllum に属するシメジ類、或いは、ホンシメジ Lyophyllum shimeji を指すが、ここは前者でよかろう。

「初茸(はつたけ)」担子菌(ハラタケ)綱ベニタケ(紅茸)目ベニタケ科チチタケ(乳茸)属ハツタケ Lactarius hatsudake

「半間(まなか)」一間(けん)の半分。約九十一センチメートル。

「用捨して、不ㇾ可ㇾ食物也」ここでは、厳しく「茸は、かくも、怪しく、不浄のものであるから、食うことをやめるべきである」と言っている。]

 又、美濃の国にて、或山人(やまうど)、秋の旦(あした)[やぶちゃん注:早朝。]、木を樵(こり)に山へ入《いる》。其道、遙(はるか)にして、人、更(さらに)希也。

 半(なかば)にして、谷あり。爰に、ひとつの朽木(くち《き》)のくぼみに、平茸(ひらたけ)、

「ひし」

と生じて、重(かさな)りたる事、鳥の羽(は)のごとし。

「是は。能(よき)物こそあれ。」

と、木はこらずに、先《まづ》、是を取《とり》て、町に持(も)て行《ゆき》て、價(あたひ)に代(かふ)るに、よのつね、見事成《なり》ければ、若干(そこばく)の德を得たり。

「此たびこそ、誠に、薪、きらん。」

と、行(ゆく)道なれば、初(はじめ)の谷を過《よぎ》るに、彼(かの)朽木に、又、同じほどの平茸、生《おひ》たり。

[やぶちゃん注:この再度の山入りは、後の展開から、当日の午後或いは翌朝の早朝である。]

「是は。いかに。唯今、取《とり》て、片時(かたとき)を經(ふ)るに、又、生ずる事、不審。」

と、心を閑(しづめ)、其わたり、見めぐるに、此朽木の上より、水の滴(したゞる)あり。

 其源(みなもと)を求《もとむ》るに、一段上に、峒(ほら)ありて、大きなる蛇、半(なかば)腐(くさり)て、水に成りたるが、下に滴(したゞ)りて、件(くだん)の平茸となれると見えたり。

 驚《おどろき》、いそぎ、立歸り、彼(かの)町に走行(はしり《ゆき》)て、

「先(さき)の平茸は、聞《きこ》し召《めし》たるや。」

といふ。

「いかにや、未(いまだ)食(しよく)せず。」

と。

「扨は。嬉しや、かうかうの事、侍り。是、大毒なるべし。價(あたひ)を返し侍る。夫(それ)、人の拾はぬかたへ、捨(すて)給へ。」

といふに、此人、肝(きも)を消し、

「此者の正直に、命(いのち)を助(たすかり)たる。」

と、よろこび、價は、强《しひ》て、是にとらせ、剩(あまつさへ)、酒など吞(のま)せ、

「去來(いざ)、後世(こうせい)の物がたりに、其所《そこ》、見ん。」

と、打《うち》つれ行《ゆく》に、實(げに)も、語りしごとくなりし、と。

[やぶちゃん注:「平茸」ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus 「日本山海名産図会 第二巻 石茸(いわたけ)・附記(その他の「きのこ」類の解説)」の私の「天花蕈(ひらたけ)」の注を参照されたい。]

 我、聞《きく》。近き比《ころ》、或人のもとに、客人(まろうど)五人、見來(まみへ《きた》)るに、蕎麥切(そば《ぎり》)を出《いだ》し、其上に西瓜を、すゝむ。此座に在《あり》し人、皆、食傷(しよくしやう)の病《やまひ》出來《いでき》て、吐瀉(としや)、甚しく、明(あけ)の夕《ゆふべ》、二人は、忽(たちまち)、死す。殘る三人、良(やゝ)煩ひて、漸々(やうやう)、命は別義なかりき。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 或人の云《いはく》、「西瓜と蕎麥、同食すべからず。此瓜の切口に、そば切を少《すこし》置《おく》に、忽、五增倍(《ご》ぞうばい)に、ふとく成《なる》物也。」と、いはれし。左もある事にや、此外、食類、さしあひ、世にしれる事を、爰にのせず。猶、宜禁(ぎきん)の事、「本草綱目」の奧旨《あうし》を尋《たづね》んに、委(くはし)かるべけれど、我が道に非らざれば、さしをく[やぶちゃん注:ママ。]のみ。

[やぶちゃん注:「宜禁(ぎきん)」「宜しいこと」と「禁じること」で、所謂、古くからある「食い合わせ」である。ウィキの「合食禁」によれば、漢語で『合食禁(がっしょくきん)、または食合禁(しょくごうきん)』と称するが、『日本で伝えられている合食禁は、元は中国から伝えられた本草学における薬物相互間作用の研究に加えて陰陽五行思想を食材にあてはめたものとされる。このため、科学的根拠の無いものもあるが、中には医学的に正しいとされるものも存在している』とあり、『中国では』「食経」(しょくけい)と『呼ばれる書物で』、『たびたび採り上げられ、例えば、元の忽思慧』(こつしけい)『による』「飲膳正要」には『「食物相反」の章が立てられて』、『「牛肉と栗子」などの例が挙げられている。日本では』「養老律令」の「職制律」に、『天皇に出す食事に合食禁を犯した場合には』、『内膳司の責任者(次官)である典膳は徒』(と:懲役刑)三『年の刑に処されるとある。また、南北朝時代に洞院公賢』(とういんきんかた)『が著したとされる』「拾芥抄」(しゅうかいしょう)や、『江戸時代初期に貝原益軒が著した』「養生訓」には『多くの食禁が記されている。ただし、これらの書籍には鰻(うなぎ)と梅干、天麩羅と西瓜、蕎麦と田螺などのような』、『今日知られる代表的な例は記されていない。これは鰻の蒲焼、蕎麦切り、天麩羅が江戸時代になってから食されるようになった食物であることによる』。「養生訓」には『蕎麦に関する例は一部挙げられているが、ごくわずかである』。『栄養面での合食禁も伝えられている』とある。そちらには出ていないが、この「蕎麦と西瓜」は、食い合わせの悪いものの一つとして江戸時代に挙げられてある。

「本草綱目」明の李時珍の本草書で、本邦で近世まで本草学のバイブル的存在であった。そこに載る「食い合わせ」の一例を挙げておくと、巻四十五の「介之一」の「龜鱉類」の「蟹」の項の「氣味」の条の最後に、

   *

時珍曰不可同柹及荆芥食發霍亂動風木香汁可解詳柿下

(時珍曰はく、「柹(かき)及び荆芥(けいがい)と同じく食ふべからず。霍亂(かくらん)を發し、風(ふう)を動かす。木香(もつかう)の汁、解すべし。「柿」の下に詳かなり。」と。)

   *

とある。そこで、巻三十の「果之二」「山果類」の「柹」の項を見ると、

   *

弘景曰生柹性冷鹿心柹尤不可食令人腹痛宗奭曰凡柹皆凉不至大寒食之引痰爲其味甘也日乾者食多動風凡柹同蟹食令人腹痛作瀉二物俱寒也時珍曰按王璆百一選方云一人食蟹多食紅柹至夜大吐繼之以血昏不省人一道者云惟木香可解乃磨汁灌之卽漸甦醒而愈也

(弘景曰はく、「生柹(なまがき)、性、冷。鹿心柹(かしんがき)、尤も食ふべからず。人をして腹痛せしむ。」と。宗奭(そうせき)曰はく、「凡そ、柹、皆、凉(りやう)たり。大寒に至らずして之れを食へば、痰を引く。其の味、甘なるが爲めなり。日に乾かす者を食へば、多く、風を動かす。凡そ、柹、蟹と同じく食すれば、人をして腹痛し、瀉を作(な)さしむ。二物、俱(とも)に、寒なればなり。」と。時珍曰はく、「按ずるに、王璆(わうこう)が「百一選方」に云はく、『一人、蟹を食ひて、多く紅柹(べにがき)を食へば、夜に至りて、大きに吐く。之れを繼ぐに、血を以つてす。昏(こん)じて、人、不省せり。一道者云はく、「惟(ただ)、木香のみ解(げ)す。乃(すなは)ち、汁を磨り、之れを灌(そそ)げば、卽ち、漸(やうや)く甦(よみがへ)り醒(さ)めて愈(い)ゆなり。」と。』」と。)

   *

とある。注は面倒なのでしないが、「荆芥」はシソ目シソ科イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifolia で、花穂が発汗・解熱。鎮痛・止血作用を持つ漢方生剤であり、「木香」というのは、同じく漢方生剤のキク目キク科トウヒレン属 Saussurea の根で、芳香性健胃作用がある。

 さて。では、この「蟹と柿」の禁忌は現在の認識ではどうかというと、サイト「リケラボ」の「鰻と梅干し、天ぷらとスイカ…「食べ合わせが悪い」組み合わせに科学的根拠はある?」によれば、管理栄養士棚橋伸子氏の曰わく、『蟹も柿も、漢方・薬膳の考え方において体を冷やす性質をもつとされる「寒性」の食物です。蟹も柿も旬は秋から冬。寒くなる季節なので、その時期に体を冷やす食材同士を組み合わせて食べるのは、あまりお勧めできません。冷え性の方は特に注意してくださいね』とあるのである。

 因みに、江戸時代の蕎麦は、今と異なり、蕎麦粉の純度が低く、さらに、精製も粗かった上に、蕎麦自体が食べ易いことから、食い過ぎる傾向があったと考えらえれ、そこに冷たい西瓜を食うと、恐らくは、胃腸には、結構、負担となったと思われ、一概に迷信として退けるべきものではないように私には思われる。

「奧旨」「奥義」に同じ。

 最後に一言。本篇は、怪奇談の中でも、その真実らしさを示す、特異点的作品と言える。何故なら、所謂、有り得そうな「噂話」ではなく、筆者自身の一人称で記されており、メインの前半は、作者自身の体験談として記されてあるからである。後半の美濃の樵りのそれも、また、最後の蕎麦と西瓜の短い話も直近の事件として、筆者自身が聴き書きしたものという体裁を採っている。最後の「食い合わせ」も、当時の読者には、肯ずるところ多かったのではないか? しかも、私のようには、「本草綱目」を辛気臭く引いていないところも庶民にとっては、寧ろ、好感が持てたに違いない。まさに、リアルな真正怪奇談の手本のような作品と言えるのである。

西原未達「新御伽婢子」 三頸移ㇾ鏡

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

        三頸移ㇾ鏡(《さん》きやう、かゞみにうつる) 

 因幡(いなば)の國(くにゝ)、或《ある》有德(うとく)の町人、源之丞とかやいふ、其身、榮耀にほこり、酒に長(ちやう)じ、色にまよひけるほどに、妾(せう/めかけ)といふものを、三人、爰(こゝ)かしこに宿(やど)し、置行《おきゆき》、かよひけり。こなたの事を、あなたに蜜(かく)[やぶちゃん注:漢字はママ。]し、かしこを爰に包(つゝみ)て、

「独(ひとり)の外《ほか》、心をかよはす事、なし。」

と、空(そら)をそろしき[やぶちゃん注:ママ。]ちか言(ごと)の數を重(かさね)ていひ、蜜しければ、女、何(いづ)れも、

「我ひとり、妾たり。」

と、思ひあがりて在《あり》しほどに、いつしか、今は、顯れて、皆、男を恨(うらむ)事、甚し。

[やぶちゃん注:「ちか言」「誓言」。]

 或時、ひとりの女、「さわ」といへるがかたに行《ゆき》て、夜半(よは)過《すぐ》る迄、戯居(たはぶれゐ)る。

 かゝる時、又、ひとりの女より消息(せうそこ)して、

「こよひ 必《かならず》 夜半のかねのならん時 わが方に おはせん」

と、の給ひし。

 早(はや)、子(ね)の時は、過(すぎ)侍り。『鳥は物かは』といひけん、ふるごと、覺《おぼ》し出《いで》ずや、

「つらしや 心づよや」

など、細(こまか)に託(かこち)こしければ、男、此文《ふみ》を見て、

『今なん、其かたに、まからん。』

と思ふに、醉《ゑひ》のあまりに、眠(ねふり)のきざし侍れば、

「あすなん、其かたに、音づれ侍るべし。」

と使《つかひ》を歸す。

 あるじの女も、打《うち》はらだちて、言傳(ことづて)侍る。

「おもひもかけぬ虛言(そらごと)をかまへて、子・丑の時を告(つげ)ずとも、枕を高(たか)ふ臥(ふし)給へ。殿(との)は、こなたの殿なれば、自(みづから)生(いき)てあるほどは、放ちは、やらぬ物を。」

と、さまざまのさがなし言(ごと)をいひて、使の者を追歸(《おひ》かへ)す。

[やぶちゃん注:「さがなし言」意地の悪い言葉。]

 下女、歸りて、

「かく。」

と、いへば、こなたの女、嗔噫(しんい)を焦(こが)し、下女をつれて、有《あり》し男のかたに行(ゆき)、

「此戶(とを)、明《あけ》て給へ。」

と、遽(あはたゞしく)嗃(たゝけ)ども、内にも、早(はや)、

「かく。」

と知《しり》て、敢(あへ)て、音、なし。

 とかくするほどに、今一人の妾(めかけ)も、此男に約せし事あり、

「うしみつ斗(ばかり)に來《きた》らん。」

と、いひこしければ、是も、猛(たけ)りて、爰に來《き》ぬ。

 妾ふたり、下女ともに、四人、門の外に立《たち》て、此戶を、たゝく事、雷(らい)の、をこるがごとし[やぶちゃん注:ママ。]。

 此時、内より、下女、さし心得《こころえ》て、

「さのみ、せばく、の給ひそ。今宵に限るうき世かは。明《あけ》なんあすを待給へ。今(こ)よひは、いたう醉臥(ゑひふし)給へば、步行(ぼこう[やぶちゃん注:ママ。])さへ、叶ひさふらはず。各《おのおの》、歸りをはしませ。」

と、なだめて、いらへけるにぞ、ふたりの女、聲うちかすめて、

「恨めしや、妬(ねた)ましや、よしよし、身こそ隔《へだ》たるとも、心は内に入《いり》なん物を。」

といふ聲斗(ばかり)罵(のゝしり)て、四人の女は、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「嗔噫」「瞋恚」に同じ。

「せばく」「狹く」。狭量に。]

 

Mitukubi

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。半幅一枚であるが、下方から上方の絵の順に時間が経過する。]

 

 男は、前後を忘れて、寢(いね)たり。

 女は、髮、けづりて、姿鏡(すがたみ)に、立《たち》むかへば、鏡の内に、女顏(をんなのかほ)、三人、うつる。

「はつ。」

と驚《おどろき》、

『若(もし)、我ならで、後(うしろ)に、人、ありや。』

と見歸るに、敢て、女、なし。

 暫(しばし)、鏡をうつぶせて、又、取《とり》て見るに、いくたびも、かくのごとし。

 是より、心神(しんしん)腦乱(なうらん)して、樣々、口ばしり、

『荒(あら)腹《はら》たちや、我に難面(つれなき)あの男を、命、取らん。』

と思ふに、肌(はだ)に納(をさめ)たる「盤若(はんにや)」の法(のり)の札に、をそれて、近付《ちかづき》得ず。

 され共、

「物の間(ひま)、求(もとめ)て、終《つひ》には、思ひ知(しら)せん物を。」

と、罵(のゝしる)聲の、地にひゞき、踊(をどり)あがり、飛(とび)めぐりしが、種々(しゆじゆ)の惡相(あくさう)を顯はし、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]明(あけ)の日、むなしく成る。

 男、是を見るより、身のあやまちを覺悟し、本宅にも歸らず、直(すぐ)に遁世修行の身となんぬ。

 すべて、世のわざは、一心の所爲(しよゐ)より、惡趣に漂ひ、一心の所爲より、善所(ぜんしよ)に詣(まふ)ずる事なりかし。女は、我慢より、猶、我慢の奧をたどりて、廣劫(くわう《ごふ》)くらきに迷ふべきを、男は、菩提の心を發(おこ)して、山深く、行ひ、永(なが)く佛道修行の道人(《だう》にん)とぞ成《なり》ける。

[やぶちゃん注:「廣劫」「永劫」に同じ。

 最後の、一般論としての、女性には結縁なくして永劫の瞋恚に迷い、男は菩提心を発心して道心堅固となるという、男女差別は中古旧来の仏教の変生男子(へんじょうなんし)的な差別意識は常套的で、この軽薄男があっさりと出家する都合のよさは如何にも「なんだかな」とは思うのであるが、ちょっと他に類話を見ない愛憎執着物怪談で、鏡の中の女たちの首の出現と、妾の一人の狂乱というカタストロフは、本書の中では、出色の一篇かとも思う。底本の旧所有者も、かく感じたものか、本篇の標題の頭に朱点を打っているのも頷ける。]

2022/09/25

西原未達「新御伽婢子」 金峯祟

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

      金峯祟(きんぷのとがめ)

 大和の金峯山は、往昔(そのかみ)、役行者の、道ふみ開きまして、金台兩部(こんたいりやうぶ)の㚑山(れいざん)、此嶽(だけ)に詣で祈願する輩(ともがら)、成就(じやうしう[やぶちゃん注:ママ。])せずといふ事なく、誠にいみじき御山にぞ在《あり》ける。

[やぶちゃん注:「金台兩部」「金胎兩部(こんたいりやうぶ)」に同じ。真言密教の本尊、大日如来の有する智徳を表わす「金剛界」と、理徳を表わす「胎蔵界」の両界。]

 爰に宮古の片邊(かたほとり)に何某の淨慶といふ禪門、莊歲(さうせい)の昔より、御獄に詣ずる事、年々歲々(ねんえんせいせい[やぶちゃん注:ママ。])、怠たらず。又、河刕より同《おなじく》詣《まうづ》る俗、四人あり。いつも、日の限り、極(きはまり)たる事にて、麓の宿(しゆく)に待合せ、同道にて、山上しける。

[やぶちゃん注:「宮古」「都」。京都。]

 或年、例のごとく、出《いで》あひて、御山《みやま》にのぼる。

 爰に、祕所、あつて、凡俗のあへて詣《まうで》ぬ所、あり。

 淨慶の云《いはく》、

「我、若(わかき)古へより、七旬の今、此御山を仰《あふぎ》て、山上、怠る事、一とせも、なし。縱(たとひ)いかなる祕所なりとも、此功(こう)の至德に依(よつ)て、そこに至らんに、何の罪か、あらん。」

と。

 河刕の人々のいふ、

「よしや、百年をかさね詣《まうづ》るとも、かゝる所へは、淸淨堅固の行者だに、尋常(よのつね)にして不ㇾ叶(かなはず)といふ。况《いはんや》、汚俗(《お》ぞく/けがれ )の身をや。是非に止(とゞまり)給へ。」

といふに、淨慶、更に聞入(きゝ《いれ》)ず。

「何の別事(べつじ)か有《ある》べき。」

と、言捨(いひすて)、器量(いかめしく)、かのかたへ、二杖、三杖、步むと見えし。

 一天、俄(にはか)に、黑雲、覆ひ、慕雨(ぼう/にわか )、車軸をながし、雷電(らいでん)、山を割(さく)かと恠(あやし)く、霧さへ、くらく、そびきて、近く居(ゐ)る人も、目にさへぎらぬ程なれば、互《たがひ》に、名を呼(よび)、聲をかはして、皆、一所に集(あつま)り、淨慶を呼(よぶ)に、更(さらに)、聲、なし。

 とかくして、雨、晴(はれ)、雷(らい)、閑(しづま)るに、終《つひ》に、淨慶、跡かたなく失(うせ)ぬ。

 谷・峯を、分(わかち)、尋(たづぬ)るに、二度(ふたゝび)、求る事、なし。

 力なく、人をして、京へ、

「かく。」

と知せけるに、妻子、大《おほき》に歎き、悲しめども、不ㇾ叶。

 とかくして、三年をへて、淨慶が山にて失せし日を、忌日(きにち)として、三囬忌(《さんくわい》き)の佛事をなす時、家(や)の棟(むね)に、淨慶、忽然として、立《たち》たり。

 向家(《むかひ》や)成《なる》人、見付《みつけ》て、其家へ、

「かく。」

と告(つぐ)る。

 驚《おどろき》、急《いそぎ》、外面(そと《も》》に出《いで》て見る。

 一目、見合《みあひ》て後、閃々(ぜんぜん[やぶちゃん注:ママ。])として、消失(きえ《うせ》)ぬ。

 是より後、

「月の夜、雨の夕(ゆふべ)など、折々、家の棟に、たつ。」

といふ沙汰、不ㇾ止(やまず)。

 思ふに、此人、慢心に繋縛(けばく[やぶちゃん注:ママ。]/つなぎしばら)せれらて、「天狗道」に入《いり》けむ、いぶかし。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、或若き男、妻を伴ひて、金剛藏王(こんがうざわう)の御前《おんまへ》へ詣《まうで》て、其所《そこ》に臥(ふせ)りける。寢(ね)ぼれたる心に、『自《おのれ》の家。』と思ひて、妻を犯しけり。

「住所《ぢゆうしよ》に有《あり》し時だに、精進なんど、怠(おこたる)時は、正《まさ》しくおそろしき事のみあるに、こよひしも、此、誤(あやまり)しつ。」

と、悲しく、川にをり[やぶちゃん注:ママ。]、水あみを、こたり申《まをし》て出《いで》ぬ。是は、はたち斗《ばかり》の事にや在《あり》けん。

 四十餘年を經て後、親しきもの、

「御《み》たけへ、まいる。」

とて、よろづ、けゞしかりければ、かのもの、いふ、

「我、わかき比《ころ》、かうかうの犯し、有《あり》けれども、今に、別事なし。さのみ、なをもくをもわれそ。」

と、いひしが、忽《たちまち》に、ふたつの眼(まなこ)、つぶれてけり。

 佛神の化機(けき)、かくのごとし。凡夫(ぼんぷ)の愚《おろか》なるを、かゞみ給ひ、且(かつ)は、懺悔(さんげ)のなをざりならぬより、その咎(とが)をゆるし給ひけるを、不善の心をもちて、垂跡(すいじやく)の御《おん》まかへを、かろしめ奉り、人の信心をさへ、乱(みだ)らんとせし、ふるきあやまり、更に、あたらしき重き科(とが)と也けり。

[やぶちゃん注:この評言部、私には、まともに読めない箇所が多い。

・「こたり申《まをし》て出《いで》ぬ」の「こたり」は――「水浴(みづあ)」み「を」し、垢離(こり)し「申」して「出」で「ぬ」――であろうか?

・「けゞしかりければ」は――「怪(け)げしかりければ」――で、「心配なことがさわにあるように思った」の意か?

・「なをもくをもわれそ」は「猶も、苦を、思はれそ」――で、「それ以上にご心配なされるな!」の意か?

・「かゞみ給ひ」「屈(かが)み給ひ」或いは「鑑み給ひ」「彼(か)が見給ひ」を考えたが、「給ひ」が前者では、おかしい。判らぬ。

・「乱(みだ)らん」は恐らく「乱そうとまでした」の意であろう。

 識者の御教授を乞うものである。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 婦女を姣童に代用せし事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で訓読を示した。]

 

     婦女(をんな)を姣童(わかしゆ)に代用せし事(明治四十五年五月『此花』二十一枝)

 

 『此花』第十六枝六丁表、紅絹野夫(こうけんやぶ)の西洋男色考末文に、西洋に婦女を雞姦すること、盛んなる記述を結(の)ぶ迚(とて)、「日本の男色は此樣《かやう》な事は無いらしい云々」と云《いへ》り。今日《こんにち》は然《しか》らん、併《しか》し、往昔、斯る事、日本にも有《あり》しは、嬉遊笑覽卷九、若衆女郞《わかしゆぢよらう》、古く有し者と見えて、吾嬬(あづま)物語に、まんさく、まつ右衞門、兵吉、左源太、きんさく、とらの助、熊之助抔(など)いふ男名《をとこな》、餘多(あまた)有り。是れ、もと、歌舞妓をまねびて、大夫と云《いひ》し頃より、佐渡島正吉《さどしましやうきち》抔(など)云《いへ》る大夫も有し名殘と見ゆ。是れ、其のみにも非ず、男寵《なんちよう》の流行(はやり)し故に、後迄も斯樣(かやう)の名を付《つく》る也。されど、大夫《たいふ》には非ず、皆、端(はし)、格子(はうし)の内也。勝山が奴風《やつこふう》の行はれしも此故也。箕山《きざん》云《いは》く、近年、傾城の端女《はしため》に、若衆女郞と云《いへる》あり。先年、祇園の茶屋に龜と云し女、姿貌《すがたかたち》を若衆に能く似せて、酌を取《とり》たり。され共、是、遊女ならず、是のみにて、斷絕しぬ。若衆女郞の初まる處は、大坂新町富士屋と云《いふ》家に、千之助とて有《あり》。此女は、初《はじめ》は葭原町(よしはらちやう)の局《つぼね》に在《あり》しが、自(おのづか)ら、髮、短く切《きつ》て、あらはし居《ゐ》たり。寬文九己酉《つちのととり》年より、本宅の局に歸りて、月代《さかやき》を剃《す》り、髮を捲上げにゆひ、衣服の裾、短く切り、後帶《うしろおび》をかるた結《むすび》にし、懷中に鼻紙、たかく、入れて、局に着座す。粧(よそほ)ひ、かはれる印《しるし》に、暖簾(のれん)もかへよとて、廓主《くるわぬし》木村又次郞が許しを得て、暖簾に定紋を付《つけ》たり。紺地に鹿の角を柿にて染入《そめいれ》たり。是、若衆女郞の濫觴(はじめ)なり。見る人、珍し、とて、門前に市を成す故に、こゝ彼處(かしこ)に、一人宛《づつ》出來る程に、今は餘多に成り、堺、奈良、伏見の方《かた》迄、弘《ひろ》まれり。是れ、衆道に好《すけ》る者をおびき入(いれ)むの謂(いはれ)ならんか。されども、よき女をば、若衆女郞には、し難し。其(それ)に取合《とりあひ》たる顏を見立《みたて》てすると見ゆ。大坂の若衆女郞は、外面より、其と知らしむる爲に、暖簾に、必ず、大きなる紋を染入《そめいる》ると云り。『洛陽集』に、靑簾憐《あはれ》なるものや柿暖簾(有和)(已上(いじやう)、笑覽(せ《ふ》らん)。

[やぶちゃん注:『此花』宮武外骨が明治四三(一九一〇)年一月に発刊した浮世絵研究雑誌。大阪で発行されたが、赤字が嵩んで廃刊となったが、同雑誌に寄稿していた朝倉無声(朝倉亀三)の手によって「東京版」として新たに継続発行されることとなった。第十六枝は明治四十四年七月十五日発行。参照したサイト「ARTISTIAN」の「此花(大阪版)(雑誌)」のリスト・データに「紅絹野夫」著とある。紅絹野夫は不詳。当該記事もネット上では読めない。雑誌巻号を「枝」とするのはなかなかに風流がある。

「雞姦」肛門性交。

「嬉遊笑覽卷九、若衆女郞、……」巻之九の「娼妓」の「若衆女郞」は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここ読みは所持する岩波文庫版(当該書はルビは現代仮名遣)を参考に打った

「吾嬬物語」仮名草子。作者不詳。徳永種久作という説がある。寛永一九(一六四二)年、京都で刊行。全一冊。「あづまをのこ」が江戸に来て,友人と上野・浅草などの名所を見物し、吉原に行く。遊郭の内を見て、遊女の評判を記す。寛永の元吉原の遊女評判記としての唯一の書であり、風俗資料として貴重とされる。江戸名所見物と遊女評判、文中の狂歌などに見るべきものがある(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「大夫」現代仮名遣「たゆう」。官許の遊女の内の最上位。「松の位(くらゐ)」(これは秦の始皇帝が雨宿りをした松を「大夫」に封じたという故事から)とも。

「佐渡島正吉」(生没年未詳)は江戸前期の女歌舞伎役者。京都の遊女歌舞伎の中でも知られた佐渡島座の頭(かしら)で、「和尚(おしょう)」とよばれた。慶長一九(一六一四)年、江戸吉原の興行で、名声を博した。女歌舞伎は寛永六(一六二九)年に風紀を乱したとして禁止され、若衆歌舞伎がこれに代わった。

「端」「端女郞」。江戸時代の下級遊女。「局(つぼね)女郎」「見世女郎」「はしばいた」「はしたもの」「はしたじょろう」などとも呼んだ。

「格子」ここは、遊女屋の格子の所に出て、張見世をする遊女の総称。「見世女郎」「格子女郎」とも。但し、実は、別な、より高位の遊女をも指し、京都島原では遊女の第二級を「天神」をいい、大坂新町では第一級の「太夫」、また、江戸吉原では、それらに継ぐ第二級の遊女をも指した。これは大格子の内に自分の部屋を持っていることからの呼称である。

「勝山が奴風《やつこふう》の行はれし」勝山は江戸初期(十七世紀)、特に承応(じょうおう)・明暦年間(一六五二年~一六五八年)に、吉原で人気のあった遊女の源氏名。元は江戸・神田四軒町雉町にあった湯屋(ゆうや)「丹前風呂」の湯女(ゆな)であったが、承応二(一六五三)年八月、新吉原の楼主山本芳順に抱えられて吉原の太夫となり、明暦三(一六五七)年八月に廓(くるわ)を退いた。当該ウィキによれば、『勝山は元、丹前風呂と呼ばれる私娼窟をかねた風呂屋の従業員(湯女)であったが、そのころから派手な出で立ちで評判になっていたらしい。髪は自分で考案した上品な武家風の勝山髷(丸髷)に結い、腰に木刀の大小を挿して派手な縞の綿入れを着て歩き回り、江戸の若い女性達はこぞって彼女の風体を真似たという』。『人品卑しからぬ容姿と武家風の好みから、勝山は零落した武家の娘であったという説もあるが』、『湯女になる前の経歴は不明である』。『しかし』、『どれほど人気があるといっても丹前風呂は私娼窟であって、建前上』、『公娼を置いている吉原以外での売春行為は違法であった。幕府は吉原から』、『たびたび出される要請もあって』、『商売敵となる湯女や飯盛女などの厳しい取締りを行っていた』。『勝山も後に警動(私娼窟の一斉捜査)で逮捕され、そのまま吉原に身柄を引き渡されて遊女となった。岡場所と呼ばれる私娼窟で働いていた女達などの一部は』、『逮捕されたのちに吉原に身柄を移されて』、『遊女となる刑罰を適用されるが、もともと人気のあった彼女は』、『吉原に勤めて』後、『最高位の太夫にまで上り詰める。彼女の贔屓客になって吉原に登楼してくる諸大名の家臣や豪商によって諸藩に知られる存在となった』。『彼女の人気の程は、大阪の井原西鶴が』「西鶴織留」の『中に一代の名妓として彼女を紹介していることからも伺える』。「勝山風・丹前風」の項。『湯女時代に武家の使用人である旗本奴に人気が高かったこともあり、勝山の好みは男っぽい、武家がかったものが多かった』。『後に丸髷とも呼ばれる武家風の勝山髷は』、『上品な印象から』、『武家の奥方などにも好んで結われるようになり、当時の識者を嘆かせたという』。『現在』、『どてらとも呼ばれる広袖の綿入れ』である『「丹前」も』、『彼女が考案し』、『贔屓客の旗本奴や侠客に広まった。丹前風呂は堀丹後守の屋敷前という土地柄もあってか』、『血気盛んな若者が常連客に多く、彼らのような江戸初期の若者の派手な好みを丹前風とも言う』。『以下』、『勝山が考案し、愛用したとされる品々』を挙げると、「勝山髷」は『髷が大きな輪になっている華やかな武家風の髷』で、「勝山草履」は『鼻緒が朱色で』、『二本ある草履』であり、「丹前」は『派手な縞柄の広袖の綿入れ』で、『袖口などが別』な『布で覆われている』ものを指す。『また』、『のちに「花魁道中」と呼ばれる吉原の「外八文字」を踏む道中の足どり』も『彼女の考案という説がある。 それまでは京都・島原の太夫道中に倣って、吉原も「内八文字」の道中をしていたという』とある。

「箕山」藤本箕山(寛永三(一六二六)年~宝永元(一七〇四)年)は江戸前期の町人。畠山箕山とも呼ばれるが、根拠不詳。名は七郎右衛門。富裕な町人の家に生れ、若くして遊びの道に入り、また、松永貞徳門で俳諧を学んだ。古筆目利きにもすぐれ、「顕伝明名録」を著わし,その後、古筆目利きを職業としたが、家運が傾いて、客から幇間へ立場を変え、大坂新町の評判記「まさりくさ」を著わした。さらに諸国の遊里を渉猟、「色道大鏡」を完成させ、これは、後の浮世草子に大きな影響を与えた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「祇園の茶屋に龜と云し女、姿貌を若衆に能く似せて、酌を取たり。され共、是、遊女ならず」この「おかめ」さんは、あくまで男装の、春はひさがない正当な酌婦であったということ。

「大坂新町」大坂で、唯一、江戸幕府公認だった新町遊廓。現在の大阪府大阪市西区新町一・二丁目にあった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「葭原町」江戸の新吉原であろう。

「寬文九己酉年」一六六九年。

「かるた結」底本も「選集」も、さらに国立国会図書館デジタルコレクションの活字本の原文も「かりた結」なのだが、「かりたむすび」という帯の締め方は不明。唯一、岩波文庫版の「嬉遊笑覧」が、『かるた結(むすび)』とあり、これなら、現在もある帯の結び方で腑に落ちる。サイト「キモノ読ミモノ」のこちらで、「カルタ結び」の結び方が写真で示され、動画まである。見られたい。

「柿」柿渋(かきしぶ)。

「洛陽集」自悦編の俳諧集。江戸前期の成立。 なお、これ以下の部分は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本にはあるが、岩波文庫版にはない。

「有和」不詳。]

 東鑑卷廿、建曆二年十一月十四日、去る八日の繪合の事云々。又、遊女等を召進《めしまゐら》す。此等、皆、兒童(ちご)の形を寫し、ひやう文(もん)の水干に、紅葉、菊花抔(など)を付て之を着る。各々樣々の歌曲を盡す。此上、上手の藝者、年若き屬(たぐひ)は延年に及ぶと成《なり》。是れ、少女、美童に扮(いでたち)て、男童舞《おぐなまひ》を演ぜし也。然るに、天野信景の鹽尻(帝國書院刊行本)卷四十三に、此一節を評して、當時、遊女は男兒の爲(まね)す。今の兒童(ちご)は、遊女の形を爲(まね)す。時風、此《かく》の如歟《ごときか》、と云《いへ》るは、自分と同時代に、若衆女郞、行はれしを知《しら》ざりし也。

[やぶちゃん注:「東鑑卷廿」底本は巻数を「廿」とし、「選集」は『十九』とするが、「選集」は誤りである。以下、「吾妻鏡」第二十巻の建暦二年壬申(一二一二)年十一月十四日の条を示す。

   *

十四日丙辰。去八日繪合事。負方獻所課。又召進遊女等。是皆摸兒童之形。評文水干付紅葉菊花等著之。各郢律盡曲。此上堪藝若少之類及延年云々。

   *

十四日丙辰(ひのえたつ)。去(ん)ねる八日の「繪合(ゑあはせ)」の事、負方(まっかた)、所課(しよくわ)を獻ず。又、遊女等(ら)を召し進(しん)ず。是れ、皆、兒童の形(かたち)を摸(も)し、評文(ひやうもん)の水干(すいかん)に、紅葉・菊花等(など)を付け、之れを著(ちやく)し、各(おのおの)、郢律(えいりつ)、曲を盡す。此の上、藝に堪ふる若少(じやくせう)の類(たぐひ)、延年に及ぶと云々。

   *

この前の十一月八日に御所で「絵合せの儀」が行われた記事があり、大江広元の出品した小野小町の盛衰を描いたものと、同じ組の結城朝光の出品した本邦の四人の大師伝を描いたものを、将軍実朝がいたく気に入ったことから、老齢方の組の方が勝ちとなっていた。「所課」とは「負けた組の罰としての割当」を指し、「評文」は「装束に用いた彩色や刺繡による種々の色の組み合わせ文様を指す。「郢」は「郢曲」で催馬楽(さいばら)や風俗歌・朗詠・今様などの中古・中世の歌謡類の総称。「律」は、ここでは、周期的にくりかえされるリズムを意味する。「延年に及ぶ」とは長寿を言祝ぐ舞いを踊ったか、或いは、それらしい芸を披露したものと推定される。

「男童舞」読みは「少年」を意味する「童男」の読み「をぐな」を当てた。

「天野信景の鹽尻」江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここの右ページの上段十五行目に記されてある。]

 又、必ず雞姦のためならずとも、其頃、僧が、男裝、男動作の女を、寺に蓄(やしな)ひしは、一代女卷二に、「脇塞(わきふさ)ぎを、又、明《あけ》て、昔の姿に返るは、女鐵拐《をんなてつかい》といはれしは、小作りなる生《うま》れ付の德也。折節、佛法の、晝も人を忍ばす、お寺小姓と云《いふ》者こそあれ。我、耻かしくも、若衆髮《わかしゆがみ》に中刺《なかぞり》して、男の聲、遣(つか)ひ習ひ、身振も、大略(おほかた)に見て覺え、下帶、かくも似る物かな。上帶も、常の細きに替《かへ》て、刀、脇指、腰、定めかね、羽織、編笠も心可笑(をかし)く、作り髭の奴《やつこ》に草履持たす抔、物に馴《なれ》たる太鼓持ちをつれ、世間寺《せけんでら》の有德《うとく》なるを聞出《ききいだ》し、庭櫻見る氣色《けしき》に、塀、重門《ぢゆうもん》に入りければ、太鼓、方丈に行きて、隙《ひま》なる長老に、何か小語(さゝや)き、客殿へ呼《よば》れて、かの男、引合《ひきあは》すは、此方(こなた)は御牢人衆(ごらうにんしゆう)なるが、御奉公、濟《すま》ざる内は、折節、氣慰みに御入《おはいり》有るべし。萬事、賴み上(あげ)る抔いへば、住持(ぢうじ)、はや、現《うつつ》になって、夜前《やぜん》、彼方《あなたがた》入《いら》いで叶はぬ子下藥《こおろしぐすり》を、去(さる)人に習ふて參つた、と云(いふ)て、跡にて、口、塞ぐも、をかし。後は酒に亂れ、勝手より、腥《なまぐ》さき風も通ひ、一夜宛《づつ》の情代(なさけだい)、金子二步に定め置き、諸山の八宗《しゆう》、此一宗を勸め廻りしに、何れの出家も珠數切らざるは無し」とあるにて、知るべく、天野氏自らも、鹽尻卷七〇に、享保五年、江城西曹子谷(えどのにしぞうしがや)の日蓮僧、婦人を少男《わかしゆう》に粧(よそほ)ひ、房中の慾をほしいままにせしを、寺男その女なるを知り、挑みて聽かれざりしより事起こり、かの僧その男を殺し、十二月二十七日、女と共に梟首《ごくもん》せらる、と記せり。

[やぶちゃん注:『一代女卷二に、「脇塞(わきふさ)ぎを、……」「世閒寺大黑(せけんでらだいこく)」の冒頭部。国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文学大系」第三巻 「井原西鶴集」(昭和七(一九三二)年誠文堂刊)のここで確認出来る。リンク先の同書は戦前のもので、伏字が多数見られるが、幸い当該部は、その憂き目に逢っていない。読みはそれを一部で参考にした。

「天野氏自らも、鹽尻卷七〇に、享保五年、江城西曹子谷(えどのにしぞうしがや)の日蓮僧、……」国立国会図書館デジタルコレクションの同前のここ(左ページ下段八行目)から次のページかけてで、視認出来る。]

 支那にも女を男裝せし例、齊、景公、婦人にして丈夫の飾をなす者を好み、國人、悉く之を服せしを、晏嬰《あんえい》、諫めたる事あり(說苑《ぜいゑん》卷七)。梁の慧皎(ゑかう)の高僧傳卷十に、宋の劉孟明、二妾を男裝し、異僧碩公に薦め、其操《みさを》を試《ここみ》し話、出づ。

[やぶちゃん注:「齊、景公」春秋時代の斉(せい)の第二十六代君主(在位:起原前五四七年~紀元前四九〇年)。当該ウィキによれば、『兄の荘公光が横死したあと、崔杼』(さいちょ)『に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は』名臣『晏嬰』(?~ 紀元前五〇〇年)『を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により』、『司馬穰苴』(じょうしょ)『を抜擢した。斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第』二『の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は』、『贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い』とある。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで「說苑」の当該部の影印本が視認出来る。

「說苑」中国の歴史故事集。漢の劉向(りゅうきょう)の編。古来の説話・寓話・逸話などを集め、その間に、教訓的な議論をはさんだもの。儒教的な理念によって歴史・政治を解釈しており、当時、既に儒教が普及していたことを示している。五十編あったが。大部分が散逸し、現在は宋の曾鞏(そうきょう)が復元した 二十巻本に拠っている。

「梁の慧皎(ゑかう)の高僧傳」南朝梁の僧慧皎(四九七年~五五四年)の撰になる中国への仏教伝来以来、後漢(西暦六七年)から梁の西暦五一九年までの四百五十三年間に及ぶ期間の高僧二百五十七名及び附伝する二百四十三名から成る壮大な伝記である。高僧の伝記を集めたもの。「梁高僧傳」「梁傳」とも呼ぶ。全十四巻。五一九年成立。当該ウィキによれば、『慧皎以前にも、梁の宝唱撰の「名僧伝」のように数種の僧伝が既に存在していたが、慧皎は、それら先行する類書の編集方針に満足できず、自ら新たに「高僧伝」を撰しようと思い立ったと、巻末に収められる自序において述べている。具体的には、「名僧伝」等は、世間で有名な僧、あるいは著名な僧の伝記を集めている。しかし、仏教の教えの観点から言えば、たとえ無名であっても、すぐれた僧、高僧は居る筈である。そういった僧の伝記が失われてしまうのを恐れて、「高僧伝」という名を立て、また、その観点から見て相応しいと判断した僧の伝記を収録した、と述べている』。以下の当該部は、「中國哲學書電子化計劃」のここで影印本で読める。]

 本邦にも、上杉景勝、女色を好まず、直江兼續(かねつぐ)、京都にて十六歲の美妓を購ひ、小姓に作り立《たて》て、景勝に薦め、一會して、姙む。然るに、景勝、其女なりしを知り、誠の男ならねば、詮なし、とて、之を卻(しりぞ)く。女、之を悲しみ、定勝を生んで、則ち、自殺せりと云ふ(奧羽永慶軍記《あううえいけいぐんき》卷卅九)。其前後、武功を勵むの餘り、女を斷(たち)し人、多く、松永方、中村新九郞は、武名を立《たて》ん爲め、一代男と稱し、妻女を具せず、童子(わらは)を我と均しく仕立て、陣中に連行(つれゆ)き、ともに討死にし(南海通記卷九)、景勝の養父謙信も、武功に熱して、一生、婦女を遠(とほざ)けしが、小姓を愛せる由、松隣夜話等に見ゆ。去(さ)れば、熊澤了介の集義外書卷三、大名抔の美女に自由なるが、男色を好(すき)て、子孫無き者有り、と云《いへ》り。内藤耻叟《ちさう》の德川十五代史に據れば、淺野幸長《よしなが》は此一例也。鹽谷宕陰《しほのやたういん》の昭代記に、元和六年、三條の城主市橋長勝、愛童三四郞を女婿《ぢよせい》としたるを、おのれ、臨終に世嗣ぎとせしを、遺臣ら、從はず、長勝の甥長正を立てんと請ふ。因《よつ》て長正に二萬石、三四郞に三千石を分かち賜ふとあるも、此類で、三四郞に妻《めあ》はせしは養女らしい。隨て、忠臣が主君に嗣(よつぎ)有《あら》ん事を冀(こひねが)ひ、男裝の女子を薦めし者、兼續の外にも多かるべし。

[やぶちゃん注:「奧羽永慶軍記」元禄一一(一六九八)年、出羽国雄勝郡横堀の戸部正直の著になる軍記物。全三十九巻。書名は天文(一五三二年~)・永禄から慶長・元和(~一六二四年)までの戦記の意で、陸奥・出羽両国の群雄の抗争と興亡を詳述している。先行する旧記を考証し、また、古老見聞の直談を聴いて編述されたとする。史実の誤りもあるが、参考にすべき価値があるものである。当該部は「史籍集覧」第八冊のここから視認出来る。予想外にかなり長い。

「松永」松永久秀。

「南海通記」讃岐出身の兵法家・歴史家であった香西成資(こうざいしげすけ 寛永九(一六三二)年~享保六(一七二一)年)南海道の中世史について記した通史。享保三(一七一八)年刊。「卷九」とあるが(「選集」も同じ)、「卷十」の誤り国立国会図書館デジタルコレクションの「史料叢書」の「南海通記」の「卷十」の「松永彈正與三好氏族京合戰記」(松永彈正と三好氏の族との京の合戰の記)の一節。左ページ四行目以下。短いが、一読、私は印象に残った。

「松隣夜話」関東管領足利持氏の死後の北条氏関東制圧から、天正一五(一五八七)年の上杉謙信の宮野城攻略までを記す。一説に兵法家宇佐美勝興(天正一八(一五九〇)年~正保四(一六四七)年:越後流軍学の祖とされる宇佐美定満の孫で、尾張藩・水戸藩を経て、寛永一九(一六四二)年に和歌山藩主徳川頼宣に仕えた)が作者ともされるが、年代の誤りや漢字の当て字が多く、史料としては確度が低いものらしい。

「熊澤了介の集義外書」江戸時初期の陽明学者熊沢蕃山(元和五(一六一九)年~元禄4(一六九一)年:「了介」は字(あざな))の著。全十六巻。宝永六 (一七〇九) 年刊。先行する原論に当たる「集義和書」の、経世治教論を集大成したもの。

「内藤耻叟」(文政一〇(一八二七)年~明治三六(一九〇三)年)は歴史学者・漢学者。元水戸藩士。藩校弘道館で藤田東湖らに学び、慶応元(一八六五)年、弘道館の教授となり、明治一一(一八七八)年、東京府小石川区長、同十九年には帝国大学教授となった。彼は「古事類苑」の編纂にも関与している。「德川十五代史」の初版は明治二五(1892)年から翌年にかけて初刊された。

「淺野幸長」(天正四(一五七六)年~慶長一八(一六一三)年)は和歌山藩主。長政の子。「慶長の役」で蔚山(うるさん)に籠城し、「関ケ原の戦い」では徳川方について功をたてた。

「鹽谷宕陰」(文化六(一八〇九)年~慶応三(一八六七)年)は江戸生れの儒学者。文政七(一八二四)年に昌平黌に入門し、また、松崎慊堂に学んだ。遠江掛川藩主の太田家に仕え、嘉永六(一八五三)年のペリー来航の際には献策して海防論を著した。文久二(一八六二)年、昌平黌教授に抜擢され、修史に携わった。「昭代記」は江戸年代記。没後の明治一二(一八七九)年刊。

「元和六年」一六二〇年。徳川秀忠の治世。

「市橋長勝」(弘治三(一五五七)年~元和六(一六二〇)年)は美濃国今尾藩主・伯耆国矢橋藩主・越後国三条藩初代藩主。当該ウィキによれば、初め、『織田信長に仕え、信長死後は豊臣秀吉に仕えた。九州征伐や小田原征伐に参戦し、文禄・慶長の役では肥前名護屋城に駐屯した』。「関ヶ原の戦い」では『東軍に与して、西軍に属した丸毛兼利の福束城を落とす武功を挙げた。その戦功により、戦後』、『今尾城で』一『万石を加増され』た。後、『伯耆矢橋へ移封され』、「大坂の陣」でも『功を挙げ』、元和二(一六一六)年、『越後三条』五『万石へ加増移封された。同年の徳川家康が死去する直前には』、『堀直寄や松倉重政らと共に枕元に呼ばれ、後事を託されている』。『江戸で病死し』、享年六十四であったが、『嗣子がなく』、『改易の対象になりかけたが、家康からの信任が厚く、長勝が晩年に老中に何度も嘆願書を差し出していたことなどが功を奏して、甥で養子の長政が近江仁正寺に移されることで跡を継いだ』とある。以下は引かないが、どうも、かなり変わった人物であることは確かなようである。

「長勝の甥長正」長政が正しい。]

 印度には、佛在世の時、女人、僧に勸め、非道中《ひだうちゆう》、行婬せし有り(摩訶僧祇律卷一)。佛、又、男裝を作(なし)て、女と不淨を行ふ罰を制せり(四分律藏卷五五)。法律の繁きは、罪人を殖やす理窟で、閑《ひま》多き坊主等《ら》、斯《かか》る物を讀み、好奇上《こうきじやう》より、異樣の行婬に及び、俗人、亦、之を學びて、終《つひ》に若衆女郞抔(など)を設けしやらん。

[やぶちゃん注:「非道中」修行中でない時の意であろう。

「好奇上より、異樣の行婬に及び、……」『なまじっか、「律」の中に、このような淫猥に関わる記載や、その禁制が書かれてあるものだから、それを読んで、逆に変態性欲の嗜好が昂進してしまい、少年を女装させて鶏姦をする行為を起さしめ、それが、後世の風俗社会に於いて、若衆女郎などを生み出す濫觴となったのではなかろうか?』の意。]

 歐州には、希臘、羅馬の昔、男子、婦女の非處を犯せし記、多く、「シーザル」を殺せし愛國士「ブルタス」も、「カトー」の娘で寡居したる「ポルチヤ」を娶《めと》り、每(つね)に斯く行ひしとぞ。諸國基督敎に化せし後も、此事、止まざりし證(しるし)は、十一世紀頃の「アンジェール」の懺法(ざんはふ)に、妻を、後方行《こうはうかう》、犯すれば、四十日、非道行、犯すれば、三年の懺悔を課す、とあり。又、九世紀に、「ロレーン」王「ロタール」、其妃「テウトバーガ」が、早く、其兄「ウクベール」に每(つね)に姣童(わかしゆ)同樣に非路行《ひろかう》、犯され、子を姙みしを、墮胎せし事ありとて、離緣を主張し、羅馬法王の干涉を惹起し、大騷動せり。兄が妹を非處行犯《ひしよかうはん》とは未聞の珍事也、况んや、其(それ)で子を姙みしに於いておや。但し、姙娠豫防の素志《そし》より出《いで》しが、誤つて孕ませしならん。老人が、妾の情夫の種をかづけられ、大分の金をとられしに懲《こり》て、新來の妾の非道のみ弄ぶ内、妾が老人の子と私《わたくし》して、自《みづか》ら入れ合せたといふ話、小柴垣卷二にあるを、參照すべし。又、十七世紀に高名なりし「ジャク・ジュヴァル」の半男女論(デーサーマフロヂト)に、其頃、パリの若き僧、娠(はら)みたるを禁監(きんかん)して、其出產を俟つ由、見ゆ。俗傳に、九世紀の「ジョアン」法王は、女が男裝せる也、難產で死せりといふ。但し、非道受犯の事、無し。

[やぶちゃん注:「ポルチヤ」ブルータスの再婚相手。彼は紀元前四五年に妻クラウディアと、突然、離婚し、シーザー(カエサル)に追討されている小カトーの娘ポルキア・カトニス(ブルータスの従姉妹)と再婚している。ウィキの「ブルータス」によれば、『友人であったキケロの記録によれば、この唐突とも思える行動についてブルトゥスが真意を明かさなかった』ため、『巷では小さな争論へと発展したとされ』、『母セルウィリアとも口論になったという』と、いわくつきのものだったらしい。なお、カエサル暗殺は翌紀元前四四年三月十五日のことであった。

『「アンジェール」の懺法(ざんはふ)』「懺法」は仏教用語では「せんぽふ(せんぽう)」と読み、仏教の懺悔(さんげ)の方法を説いた書やその方法・法事・法要を指すのである
が、ここは、キリスト教の懺悔(ざんげ)に於ける、その罰則としての規則を指している。「アンジュール」は判らぬが、フランス語の“un jour”(アン・ジュール)は「一日」だから、「一日の懺悔の規則」の意か。

「後方行」後背位。

「非道行」鶏姦。

『「ロレーン」王「ロタール」、其妃「テウトバーガ」が、早く、其兄「ウクベール」に每(つね)に姣童(わかしゆ)同樣に非路行《ひろかう》、犯され、子を姙みしを、墮胎せし事ありとて、離緣を主張し、羅馬法王の干涉を惹起し、大騷動せり』ロタールⅡ世(Lothar II 八三五年~八六九年)は中部フランク王国の国王ロタールⅠ世の次男で、中部フランク王国から分裂したロタリンギアの王(在位:八五五年~八六九年)当該ウィキによれば、八五五年、父ロタールⅠ世は『死に際し、自らの領地と皇帝位を三人の息子に分割することを決めた。次男であったロタールは』、『アーヘンを含むフリースラントから北部ブルグント(ジュラ山脈以北)に至るロタリンギアの地を与えられることとなった』。八六三『年に弟シャルルが相続人なく死去したため、ロタール』Ⅱ『世と兄皇帝ロドヴィコ』Ⅱ『世(ルートヴィヒ』Ⅱ『世)はシャルルの領地を分割することとし、ロタール』Ⅱ『世はリヨン、ヴィエンヌ、グルノーブル司教管区を得た』。八五五『年にボゾン家のアルル伯ボソ』Ⅲ『世の娘テウトベルガと結婚した。しかし正妻のテウトベルガとの間に子供を得られなかったので、彼女に近親者との不義密通を告白させて、これと離縁し、愛妾のワルトラーダと結婚しようと企てたが、ローマ教皇ニコラウス』Ⅰ『世らの反対に遭い果たせなかった』。八六七『年にニコラウス』Ⅰ『世が死去、兄ロドヴィコ』Ⅱ『世夫妻の仲介で』、『後任のハドリアヌス』Ⅱ『世との会見を果たし、離婚問題が再審議されることとなったが、それがなされる前』に『庶子のみを残してピアツェンツァで死去した』とある。

「小柴垣」春画の古い絵巻物「小柴垣草紙」の名を借りた好色本であろうが、不詳。

『「ジャク・ジュヴァル」の半男女論(デーサーマフロヂト)』不詳。識者の御教授を乞う。

「ジョアン」女教皇ヨハンナ(Ioanna Papissa, Ioannes Anglicus)。中世の伝説で八五五年から八五八年まで在位したとされる女性のローマ教皇。当該ウィキによれば、『歴史家たちは、創作上の人物と考えている。それは、反教皇的な風刺を起源とし、その物語にいくらかの真実が含まれているために、ある程度の信憑性を持って受け入れられたと考えられる』とある。詳しくはそちらを読まれたい。]

 支那に男が子を產みし記、多し。五雜俎卷五、晉時、曁陽人任谷、耕於野羽衣人與淫、遂孕、至期復至、以ㇾ刀穿其陰下一蛇子、遂成宦者云々、國朝周文襄、在姑蘇日、有男子生ㇾ子者公ㇾ不答、但目諸門子曰、汝輩愼ㇾ之近來男色甚於女、其必至之勢也〔晉の時、曁陽(きやう)の人、任谷(じんこく)、野に耕すに、羽衣(はごろも)の人を見、與(とも)に淫し、遂に孕み、期、至りて、復た、至る。刀(かたな)を以つて、其の陰の下を穿(うが)つに、一つの蛇の子を出だす。遂に宦者(かんじや)となる云々。國朝(こくてう)の周の文襄(ぶんじやう)、姑蘇(こそ)に在りし日、男子の子を生めりと報ずる者あり。公、答へず、但(ただ)、諸(もろもろ)の門子(もんし)に目(めくばせ)して曰はく、「汝輩(なんじら)、之れを愼しめ。近來(きんらい)、男色は女よりも甚だし。其れ、必至の勢ひなり。」と。〕。又、池北偶談廿四、男子生ㇾ子、福建總兵官楊富有嬖童二子男子云々、近樂陵男子范文仁亦生ㇾ子内兄張賓公親見ㇾ之〔「男子(なんし)子を生む」[やぶちゃん注:これは原本では本文ではなく、標題。後注のリンク先を見よ。] 福建總兵管の楊富(やうふ)に嬖童(へいどう)有り、二子を生む云々。近(ちか)くは、樂陵の男子、范文仁、亦、子を生む。内兄(ないけい)の張賓公、親しく之れを見たり。〕。

[やぶちゃん注:「五雜俎」さんざん注してきた、明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。本文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらで校合した。

「池北偶談」清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。康煕四〇(一九〇一)年序。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。以下は、「談異一」の内の、巻二十にある「丙丁龜鑑」の条。「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部が視認出来る。校合した結果、底本も「選集」も「楊審」とする名が「楊富」の誤字であることが判明したので訂した。]

 昔、高野山で姣童たりし人の話に、背孕《せばら》みと云事、有りしとか。所謂る、「小姓の脹滿(ちようまん[やぶちゃん注:ママ。])もしやそれかと和尙思ひ」で、是は、稀れに双生胎兒の一《ひとつ》が、他の一兒の體内にまき込《こま》れ、潜在して漸く長ずる者あれば、丁度、男が子を孕んだと見受らるゝ者と專門家から聞《きき》たり。然し、所謂、男子生ㇾ子は、多くは、婦女、男裝せる者が、出產せし者なるべし。

[やぶちゃん注:以上は、所謂、「寄生性双生児」(Parasitic twin)の内、一卵性双胎の両児が癒合した非対称性二重体(寄生性二重体)、疾患としては「畸形嚢腫」――体内に一方の双生児が完全に取り込まれてしまっているものを言う。極めて判り易く言えば、手塚治虫先生の「ブラック・ジャック」の「ピノコ」である。私の「耳囊 卷之四 怪妊の事 又は 江戸の哀しいピノコ」を参照されたい。但し、取り込まれいて、しかも、数年に渡って生体として反応し続け得るというのは、ちょっと私は信じ難い気はする。なお、二重体を素材として扱った小説として、私は阿波根宏夫作品集「涙・街」(一九七九年構想社刊)の「二重体(ダブル・モンスター)」を第一に挙げる。読まれたことがある方は恐らく少ないであろう。「凄い」の一言に尽きる名作である。

 なお、底本ではここで終わっているが、「選集」では「付言」として以下の付け足しがある。「選集」を底本として、新字現代仮名遣で、以下に掲げておく。

   *

【付言】

 第二一枝に、拙文「婦女を姣童に代用せしこと」出でて後、『源平盛衰記』巻三五、榛澤成淸(はんざわなりきよ)、巴(ともえ)女のことをその主人重忠に話すうち、義仲の「乳母子(めのとご)ながら妾(おもいもの)にぞ、内には童(わらわ)仕うようにもてなし、軍には一方の大将軍して、さらに不覚の名を取らず」とあるを見出だしつ。しからば、巴も姣童風態(わかしゆぶり)して木曾に隨身せるにて、まずは若衆女郎体《てい》のものたりしならん。また『覚後禅《かくごぜん》』第一七回によれば、支那に『奴要嫁伝(どようかでん)』なる書あり、一个(ひとり)の書生が隣りの室女(きむすめ)を非路行犯することを述べたるものの由なり。   (明治四十五年七月『此花』凋落号)

   *

「『源平盛衰記』巻三五、榛澤成淸(はんざわなりきよ)、巴(ともえ)女のことをその主人重忠に話すうち、……」国立国会図書館デジタルコレクションの和装本「源平盛衰記」三のここ(標題は「巴關東下向事」。当該部は左丁の後ろから三行目)で視認出来る。

「覚後禅」清代の小説「肉蒲團」(にくぶとん)の別名。全六巻二十回。李漁(一六一一年~一六八〇年)作とされる。主人公の青年「未央生」(びおうせい)が色道遍歴の末、仏門に帰依するという展開で、その性描写で知られる。確かに、「奴要嫁傳」という書名が同作に出るのは確認したが、それが実在するかどうかは、判らなかった。]

ブログ・アクセス1,820,000突破記念 梅崎春生 莫邪の一日

 

[やぶちゃん注:本篇は三部からなる連作で、それぞれは別な時期に異なった雑誌に発表され、昭和三〇(一九五五)年六月山田書店刊の作品集「山名の場合」に収録された際、三部が題名を章題として残す形で一篇として纏められた。それぞれの初出は後述する底本の解題によれば、

第一章「是好日」  昭和二六(一九五一)年二月号『改造』

第二章「黒い紳士」 昭和二六(一九五一)年四月号『文藝春秋』

第三章「溶ける男」 昭和二六(一九五一)年五月号『別冊文藝春秋』

にそれぞれ発表されたものである。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年七月沖積舎刊)に拠った。

 傍点「﹅」は太字に代えた。文中に注を添えた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日未明、1,820,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]

 

  莫 邪 の 一 日

 

     是 好 日

 

 失業者人見莫邪(ばくや)は、その朝も、午前六時きっかりに、眼が覚めた。

 莫邪は毎朝いつも、この時刻に目覚める。くるっても、五分とずれはしない。天体運行の機微を感応したかのように、ふしぎなほど正確に、彼の意識はとつぜんはっきりと、薄明に浮び上ってくる。それはこの数年来の、彼の動かない生理的習慣になっていた。それから彼は頸(くび)を捩(ねじ)って、枕もとの置時計の文字盤に、習慣的な視線をはしらせる。時刻を確かめ終ると、また元の姿勢にもどり、しずかに眼を閉じながら、手足をながながと伸ばす。猫が寝床にもぐり込んでおればおったで、ついでに外に蹴(け)り出してしまう。さしたる用事もないというのに、きっかり六時に目覚めるのは、すこしばかり迷惑でもあり、またすこしばかり忌々(いまいま)しくなくもない。ずっと若い頃は、こんなことは決してなかった。この戦争末期に、ほんの短い期間だが、軍隊に引っぱられて、そこでこんなやくざな習慣がついたに違いない。莫邪はなかば本気で、そう信じている。なにしろあの頃は、「総員起し」の寸前になると、声なき声に脅(おび)えたように、ひとりでに眼が覚めたものだ。その習慣が、五年後の今でも、彼につづいている。まるで火傷(やけど)の痕跡のように。

 五分間。瞼(まぶた)は閉じたまま、意識だけは安心して醒(さ)めている。今見ていた夢の後味や、昨夜就寝時に読んでいた本の後味を、思いかえすともなく反芻(はんすう)している。この短い時間が、莫邪にはひどく甘く香(かん)ばしい。じっさい彼は、三十五歳になるというのに、小説を読んだり夢を見たりして、涙を流すことがしばしばあった。その時だけの涙だけれども、それは彼に切なく甘美な瞬間であった。眼覚めの五分間に、それらのナッハシュマックを反芻することで、莫邪は今日という一日を、すっかり生きてしまったような気持になる。やがて五分間経つ。莫邪は眼をひらいて、狐がおちたようにむっくりと起き上る。そして廊下に出て、つき当りの浴室に入る。

[やぶちゃん注:「三十五歳」梅崎春生自身は、この発表当時、三十五、六歳であるから、この主人公人見莫邪と年齢はほぼ一致する。しかも、「戦争末期に、ほんの短い期間だが、軍隊に引っぱられて、そこでこんなやくざな習慣がついたに違いない」と言い、「総員起し」に神経症的拘りがあるところなども、海軍に召集された春生の経歴と一致する。後で莫邪が海兵団に属していたことも出る。

「ナッハシュマック」よく判らないが、ドイツ語の“nachschmach”(ナーックシュマーク)で「残光」か。]

 二間しかない手狭な家なのに、浴室だけは不似合に立派につくってある。彼は裸になって、湯槽(ゆぶね)に身を沈める。この家だけが、莫邪の唯一の財産であった。この家は、かつては彼の母の家であったし、それに妾宅(しょうたく)でもあった。浴室などを手厚につくってあるのは、そのせいである。母は戦争中に、肝臓癌(かんぞうがん)であっけなく死んでしまった。それでこの家は、彼のものになった。彼ひとりのものになって以来、この家は急速に荒れてきた。

「おおい。今朝のおつけの実は、なんだね」

 肩まで湯にひたって、莫邪は大きな声を出す。湯から突き出た莫邪の丸い顔は、もう普通の中年の、無感動な表情になっている。

「今日はお豆腐ですヨ」

 浴室の壁をへだてた向うが台所になっていて、そこで女中のお君さんが、コトコトと何かを刻んでいる。声がそこから戻ってくる。お君さんというのは、莫邪より三つ四つ歳上で、ずっと昔からこの家に居付いている。莫邪に属しているというより、この家の付属品にちかい。顔がひらたく、眼がちいさな女である。何をふだん考えているのか判らないけれども、莫邪に縁談がありそうになると、いつも頑強に陰険に、それに反対する。莫邪がいまだに独身でいるのは、ひとつはその所為(せい)でもある。彼女は夜は、廊下ひとつ隔てた四畳半に眠り、昼間はこまごました家事や炊事に従事する。あまり身体を動かすたちではなく、その日その日のことが済むと、あとはぼんやり昼寝をしたり、古雑誌を丹念に読みふけっていたりする。莫邪は時折この女を、疣(いぼ)のように意味のない存在だと思い、なにか無気味な感じにおそわれることがある。じっさいこの女は、馬鹿になった塩みたいなところがあった。彼女は莫邪から金を受取り、それでもって一月の家計を切り廻し、その点においてこの家全体を支配している。莫邪に保留されているのは、それに叱言をいう権利だけであるが、それに対しても、お君さんは、なかなか負けていない。不死身に切り返してくるのである。

[やぶちゃん注:「馬鹿になった塩」安い食塩でも精製度が高くなった現代ではあり得ないが、不純物が混入していたり、或いは湿気を吸収して、味がおかしくなった塩のこと。

「叱言」「こごと」。咎めたり、非難したりする言葉。 小言。 なお、「小言」と表記する場合には「不平を漏らす」といった意味合いを持つこともある。]

 しかし莫邪も、失業して以来、叱言をいう回数が、しだいに少くなった。失業して暇になり、よく考えてみると、自分の叱言も習慣にすぎないことを、うすうすと感じたからである。ある夜ラジオで偶然、落語の小言幸兵衛というのを聞いて、なおその感じが強くなっていた。その代りに、叱言が言いたくなってくると、それに先立って、覚えずにやにやと笑ってしまう癖がついてきた。自然と頰の筋肉が、そうなってしまうのだ。そんな笑いを、自分でも不潔だとは思うのだが、その不潔さすら自分に許そうと、莫邪は近頃は思っている。ほかのことはそのままにしておいて、そこだけ厳しく咎(とが)めだてするのも、変なことではないか。まったく妙な話ではないか。そう考え出して以来、莫邪の肉体はすこしずつ肥り始め、十五貫から十六貫となり、この頃では十八貫近くにもふくらんできた。いま湯槽の中にながめても、莫邪の乳は女みたいにぼったりして、湯のなかでゆたゆた揺れている。まさしく安易な恰好(かっこう)で、その贅肉(ぜいにく)は揺れうごいている。莫邪はなるたけそこらを見ないようにして、タオルをばちゃばちゃと使う。

[やぶちゃん注:「十五貫」「十六貫」「十八貫」順に五十六・二五、六十、六十七・五キログラム。]

 

「なに、ヒッカキ板だって?」

 味噌汁椀を口にもって行きながら、莫邪はそう反間した。

「そうよ。ヒッカキ板ですよ」

 お君さんはお膳の向うに坐って、貧乏ゆるぎをしながら、落着いた声で答えた。彼女はどんな場合でも、驚いたり激したりしたためしがない。いつも同じ調子で抑揚のない話し方をする。

「どこにそれをしつらえたんだね?」

「あそこの、廊下のすみですよ」

 お君さんは手をあげて、その方を指さした。飼猫が近頃大きくなって、むやみと気が荒くなり、襖(ふすま)や壁や障子などを、しきりに爪を立てて引っ搔く。もともと迷い込んできた仔猫で、お君さん一存で飼っているのだから、その被害を黙っている訳にも行かず、彼女に注意したのは、つい二三日前のことであった。廊下に面する障子の紙などは、ほとんど下辺はぼろぼろになっている。今朝も豆腐汁をなめながら、莫邪が言い出したのはそれであった。ところがお君さんの答は、ヒッカキ板というのをつくったから、もう大丈夫だと言うのである。どこかを引っ搔こうとする度に、猫をそこに連れて行くようにすれば、ついには猫も習慣になってしまって、なにかを引っ搔きたい衝動にかられると、ひとりでに、自発的にそこに行って、その板をガリガリと引っ搔くという仕組みである。彼女の落着いた説明では、そうであった。その度に猫を板の前に、誰が連れて行くのか。それをまじめに反問しようとして、莫邪は急に口をつぐんだ。そしてにやにやした笑いが、やがて莫邪の頰にぼんやり浮び上ってきた。

「どれ。ひとつ、見て来ようかな」

 汁椀を下に置くと、莫邪はゆっくり立ち上り、障子をあけて廊下に出た。廊下のすみのくらがりに、一尺四方の板が立てかけてある。そこらの板塀から折り取ってきたような、へんてつもない粗末な薄板である。含み笑いをしながら、その前にしゃがんで、莫邪はしばらくそれを眺めていた。その表面には、まだ爪跡はついていないようであった。

 莫邪がお膳の前に戻ってくると、お君さんは彼をまじまじと見詰めながら、しずかに口を開いた。

 「猫のことは猫のこととして、もうお金がなくなりましたよ。電気代も二三日中にくるし、薪(まき)もそろそろ買い足さねばならないし、八百屋さんにも、ずいぶん借りができたんですよ」

「もう金がなくなったのかな。そこらに何か質草(しちぐさ)でもないかな」

「質屋にもって行けるようなものは、もう家にはありませんよ。それにあたしの今月の給金も、まだ貰っていないし。とても困るんですよ」

「それは困るだろうなあ」

「そうですよ。ほんとに大困りですよ。今日はどこからか、すこし都合つけてきて下さいよ」

 お君さんは経済の一切を握っているくせに、自分の給金は別にきちんきちんと請求して、それをごっそり溜め込んでいる。自分の身の廻りのことは、一家の経済でまかなうから、給金だけは手つかずで、そっくり貯金に廻っているらしい。その額も、長年のことだから、数万数十万にのぼっている筈だと、莫邪はかねてから漠然と推定している。しかしどんなに人見家の経済があぶなくなっても、彼女は自分の貯金を放出しようとはしないし、給金の遅滞をも決して許さない。失業このかた、莫邪身辺の金廻りは、頓(とみ)に悪くなってきているが、彼女のその方針と態度は、当初とすこしも変りなかった。それならそれでもいい。莫邪としても文句はないが、それでも一週間に一度くらいは、彼女を巧妙な方法で亡きものにして、貯金をごっそり横領することを、空想に描かないでもない。今も莫邪はなにか考えこむ顔付になって、黙って箸をうごかし、飯粒を口にはこんだり、豆腐汁をすすったりしている。今朝の豆腐は、ごりごりと固く、妙ににがい。苦汁(にがり)を入れすぎたんだな、などと頭のすみで仔細らしく莫邪は考えている。やがてすっかり食べ終ると、彼はお茶を注がせながら、独白のように言った。

「兄貴のところにでも行って、少しばかり貰って来ようかな」

「それがよございましょ。そうなさいませ」

 お君さんが膳を下げてしまうと、莫邪は大きく伸びをして、莨(たばこ)に火をつけた。とにかく今日は用事がひとつできた。そのことが莫邪に、すこしの安心をあたえた。兄貴というのは、莫邪の異母兄で、つまり莫邪の父親の正妻の子なのである。父親は漢学者のくせに、なかなかの粋人で、女遊びもしたし、妾(めかけ)をたくわえもした。そしてもうずっと前にオートバイに轢(ひ)かれて死んでしまったが、子供はその正妻の子と莫邪と、ふたりしかない。莫邪などという変った名前をつけたのも、この父親の趣味であった。莫邪というのは、古代の名剣の名だそうであるが、父親の望んだほど、実物の子は切味はよくない。むしろ正妻の子の方が羽振りがよくて、丸の内に事務所などを持ち、とにかく一家の風(ふう)を保っている。莫邪より五つ歳上にあたる、やせた機敏そうな男であった。

 莫邪は立ち上って、のろのろと服を着けた。近頃肥ってきたので、ひどく窮屈である。毎朝これを身につける毎に、彼は狂人用のストレートジャケットを着せられたような気分になる。服から出た部分が充血し、眼球もすこし飛び出したような感じになる。どこか自分でないような気がしてくる。しかしはたから眺めると、なかなか血色が良くて、思いわずらうことのないような人に見える。

 靴をはいて、外に出ると、莫邪は背骨をまっすぐに立てて、霜柱をさくさく踏みながら駅の方にゆっくりと歩いてゆく。

[やぶちゃん注:「狂人用のストレートジャケット」“straightjacket”。拘束着。凶暴な状態の人を拘束する手段として、腕を胴体に固く縛りつけるために使われるジャケットのような衣服。]

 

 人見経済研究所所長・人見干将(かんしょう)は、事務所の扉を排して入ってくる人見英邪の姿をみとめると、やせた眉目をかすかに曇らせて、かるく舌打ちをした。莫邪は肥った頰の筋肉をやや弛(ゆる)め、まっすぐに干将のデスクに歩いてくる。干将は眉根を寄せたまま、じっとそれを見ていた。

[やぶちゃん注:既に主人公莫邪の名の由来で語られているが、「干将」・「莫耶」は本来は「干將」、「莫耶」は「鏌鋣」とも表記し、中国の伝説上の名剣、もしくはその剣の製作者である夫婦の名。剣については、呉王の命で、雌雄二振りの宝剣を作り、干将に陽剣(雄剣)、莫耶に陰剣(雌剣)と名付けたとされる。この陰陽は陰陽説に基づくものであるため、善悪ではない。また、干将は亀裂の模様(龜文)、莫耶は水の波の模様(漫理)が剣に浮かんでいたとされる(「呉越春秋」に拠る)。なお、この剣は作成経緯から、鋳造によって作成された剣で、人の干将・莫耶については、干将は呉の人物であり、欧冶子(おうやし)と同門であったとされる(同じく「呉越春秋」に拠る)。この夫婦及びその間に出来た子(名は赤、若しくは、眉間尺(みけんじゃく))と、この剣の逸話については「呉越春秋」の呉王「闔閭(こうりょ)内伝」や「捜神記」などに登場しているが、話柄内の内容は差異が大きい。近代、魯迅がこの逸話を基に「眉間尺」(後に「鋳剣」と改題)を著わしている。なお、莫耶、莫邪の表記については、「呉越春秋」では莫耶、「捜神記」では莫邪となっているが、本邦の作品では、孰れも莫耶と表記することが多い。以上はウィキの「干将・莫耶」に拠ったが、より詳しい話柄は、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)』と、『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その2)』を見られたい。]

「また、金かね?」

 莫邪がデスクのむこうに腰をおろすと、干将はすぐに言った。感情を殺したような、職業的な低目の声であった。

「実はそうなんだよ。よく判るね」

「お前さんが来るのは、いつもそうじゃないか」

「そうだったかな。それほどでもないよ」

 干将は匂いのいい莨(たばこ)に火を点(つ)けながら、莫邪の方から眼をはなさないでいた。英邪は窮屈そうに椅子(いす)にかけて、顔だけはにこにこと笑っている。莫邪の全身にただようその無能な感じを、干将はあまり好きではなかった。こんな男なら、おれでもクビにしたくなると、干将は莫邪を眺めながら、ぼんやりと考えている。天気や家族のことについて二言三言話し合ったあと、女給仕が運んできた渋茶を、莫邪は唇を鳴らして飲んだ。カラーにしめつけられた咽喉仏(のどぼとけ)が、苦しそうに、ごくごくと上下するのが見える。死んだ父親の咽喉仏の形に、そっくりだと思いながら、干将も無意識にごくんと唾を呑みこんで、そしてしずかな声で言った。

「それで、あの復職の件は、一体どうなったんだい?」

「ああ。あれもいろいろ、やっているんだけれどね、署名なんかも、もう相当集まったし――」

 莫邪は茶碗をおいて、服の袖口で唇を拭きながら、語尾をあいまいに濁すようにした。そして何となく、眼を窓の方向に外(そ)らした。窓枠に截(き)りとられた曇り空には、無数の白い鳩が、白濁した汚点のように飛び交(か)っている。莫邪はそれを確かめるように、眼を二三度しばたたいた。

 莫邪が先頃まで勤めていたのは、ある小さな雑誌社で、社長がレッドパージに籍口(しゃこう)して社員を整理した際、彼もその人員の中に入っていたのである。同調者だという名目であったが、莫邪には身に覚えがないことであった。そこで旧(もと)の同僚が、莫邪の身上に同情し、復職嘆願書をつくって呉れ、それを莫邪が持ち廻り、その雑誌社関係の文化人の署名を貰って歩くことになったのだが、どうもこの仕事には彼はさっぱり身が入らなかった。むつかしい仕事ではない。持って行けば、誰でもすぐ署名して呉れるのである。文化人というものは、金を出す用件でないと判れば、急にやさしくなって、親切にしてくれるものであることを、莫邪はしみじみと知った。そしてこの仕事に身が入らないというのは、その際署名者たちの瞳の色の中に、必ずなにか過剰な光があってそれが莫邪を重苦しくさせるからであった。単に署名するだけで、ひとつの運命が好転する。その意識がすべての署名者の心の底を快くくすぐり、それが彼等の表情や動作に、ある過剰なものを付加してくるらしかった。それを見るのが辛いし、また徒労だという感じもやがて強くなって、十人ほどの署名を貰ったまま、莫邪はその嘆願書を茶簞笥(ちゃだんす)の上にほうり放しにしている。その間(かん)の事情を干将に聞かれるのは、ちょっと辛いことであった。

[やぶちゃん注:「藉口」口実を設けて言い訳をすること。かこつけること。]

「署名が集まれば、早く社長に提出すればいいじゃないか」

「うん。そうしようと思うんだけどね」

 莫邪は身体を捩りながら、話題をそこから外(そ)らそうとした。

「なにしろ、急に金廻りが悪くなってね。お君さんも、不機嫌なのさ」

「そりゃ不機嫌だろうな」

「まさかの時は、あの家も売ろうと思っているんだが――」

 干将が鼻で笑うような音を立てたから、莫邪は口をつぐんでしまった。そこへ向うの机から若い所員がやってきて、書類をデスクに拡げて用談を始めたので、莫邪は俄(にわ)かに手持無沙汰になって、窓の外を眺めたり、事務室の内部を見廻したりして、用談の済むのを待っていた。その間に卓上電話が二度もかかったりして、用談はなかなか済まなかった。干将は莫邪の存在を忘れたように、てきぱきと事務に没入していた。

 やがて所員が去ってしまうと、干将はぎいと廻転椅子を廻して、莫邪の方に向き直った。莫邪はさっきと同様に、窮屈そうに腰をおろして、顔をすこしあおむけてにこにこと頰をゆるめていた。この肥った男と父親を同じくしているという意識が、その瞬間妙な違和感となって、干将を不快にさせた。

「なかなか忙しそうだね」

 遠くから聞えてくるような声で、莫邪がぽつんと言った。干将はそれにすぐ返事をしないで、頭の中でいろんなことを考えめぐらしていた。莫邪がクビになったのも、同調者だというのは口実で、莫邪が無能だったからに過ぎないと、干将は察知している。しかしそのことについて、莫邪はどう考えているのだろう。あのにやにやと弛んだ顔のむこうで、この男は一体、何を考えているのだろう。そう思うと、ふとこみ上げてくるいらだちを押えながら、干将はやっと重々しく言葉を返した。

「忙しいね。暇のある人間が、しみじみとうらやましいよ」

「そうでもないだろ。暇なんてものは、疣(いぼ)みたいなもんで、あまり役にも立たないよ」

 それから二人は、さり気ない顔貌をむけ合ったまま、忙しさということについて、二三の意味のない会話を交した。その間に干将は、はっきりと自分の気持を決めてしまっていた。ある気まぐれな、すこし意地の悪い興味が、ちらと干将の心をかき立ててきたのである。

「金のことだがねえ――」

 会話がとぎれたとき、わざと退屈そうな口調を使って、干将は口を開いた。

「毎度々々のことだから、タダで上げるのも、実は僕は気がすすまないんだ。だからね、お前さんに今日一日の用事を頼んで、その分の日当を払おうと思うんだが、それでどうだね?」

「日当?」

「そう。日当さ」

 干将は落着いた声で答えた。莫邪は少し黙りこんで、椅子の上で二三度大きな呼吸をした。それから低い声で訊(たず)ねた。

「仕事って、どんなのだね?」

 干将はおもむろに胸のポケットから、小さな皮手帳を取出した。そしてばらばらめくりながら、今日の予定表を探しあて、ちらと上目で莫邪を見た。

「僕の名代で、会合に出て貰いたいんだ。ただ出席するだけでいい」

「何の会合だね」

「ええと」

 干将は手帳を眼に近づけて、丹念にメモを調べるふりをした。

「――二つあるんだ。ひとつは山形家の婚礼の祝賀会。山形ってのは、おれの軍隊時代の戦友さ。もうひとつは、川口家の告別式。これはおれの高等学校のときの友達。酔っぱらって、崖から落ちて死んだんだ。運の悪い奴だね。この二つだ。――どうだい。引受けるかい?」

「――引受けてもいいな」

 すこし経って、莫邪は無感動な声で、そう答えた。干将は紙入れを取出し、その中の紙幣束(さつたば)を狼のような手付きでバサバサと数え始めた。そしてその一部分を、莫邪の方へ、デスクの上にふわりとすべらせた。紙幣はデスクの端で、あぶなく落ちそうになって止った。見ているような見ていないような視線で、莫邪はそれを眺めていた。

「そこに一万円ある。香奠(こうでん)とお祝いの品を、その中から出して呉れ」

「僕の日当は?」

「日当もその中だ」

「そうすると――」莫邪の指が伸びて紙幣束にちらと触れた。「どんな割合になるんだね。この中から、日当と、香奠と、お祝いを出すとすればさ」

「それはお前さんに任せるよ」瞬間、意地悪い快感が湧きおこるのを感じながら、しかし干将は強(し)いてつめたい声で答えた。「その按分(あんぶん)はまったく、お前さんの宰領にまかせるよ。三三四だって二三五だって、一一八だって、何だっていいんだよ。いいようにおやり」

 莫邪はとたんにぶわぶわした笑いを頰にうかべた。すると干将も唇を曲げて、笑いに似た翳(かげ)をそこにはしらせた。瘦せた兄と肥った弟は、お互いに顔を見合わせたまま、しばらく声なき声を含んで笑い合っていた。やがてどちらからともなく笑いを収めると、莫邪の掌は紙幣束を摑(つか)んで、ポケットにそろそろと入って行った。

「じゃ、そう言うことにしよう。どうもありがとう」

「いえいえ。どういたしまして」

 干将は切口上でそう答え、あり合わせた紙片に、忙しげに両家の地図を書き始めた。莫邪は椅子から不安定に腰を浮かせ、そのすらすらしたペンの動きに、見惚(みと)れたような顔になっている。

 

 午後一時。

 町角の売店で、香奠袋を買った。二枚十円だというので、二枚買った。それから酒屋に寄り、猫印ウィスキーの箱入りを買った。それを小脇にかかえ、莫邪はせまい露地に曲りこみ、小さな中華料理屋の扉を押して入って行った。注文したチャーシュウメンが運ばれるまで、莫邪は卓に頰杖をついて、一万円の按分方法を考えたり、ウィスキーのラペルをぼんやり眺めていたりした。店の中に、客は彼ひとりであった。日が翳り、店内は薄暗く、うすら寒かった。告別式に出ることも、結婚祝いに出ることも、まださっぱりと現実感がない。時間がじりじりと経つとともに、自分自身が死んだ章魚(たこ)のように無意思になって行くのが判った。

[やぶちゃん注:「猫印ウィスキー」明治四(一八七一)年に横浜山下町のカルノー商会が輸入したアイリッシュ・ウィスキー、通称「猫印ウヰスキー」。バークス(“BURKES Fine old Irish Whiskey”)。本邦に輸入されたウィキスキーの最古参に属する。ブログ「たらのアイリッシュ・ウイスキー屋さん」の「日本に輸入された最初のウイスキーはアイリッシュ? 猫印ウイスキー」を参照されたい。猫マーク入りのボトル写真もある。そこに『バークス・ウイスキーがいつ頃まで販売されていたのかは分からなかった』とされつつ、『会社自体は創業が 1848 年、廃業が 1953 年』とあるから、本篇当時、まだあったものと思われる。なお、さらに、このウィスキーが『2017年に復活を果たした』ともある。但し、サイト「WHISKY Magazine Japan」の「戦前の日本とウイスキー【その2・全3回】」によると、『ジャパン・ヘラルドに記載されていた「WHEAT SHEAF」が』、このバークス『より7年早』く日本に舶来しているという記載があったことを言い添えておく。]

「ヒッカキ板、か」

と莫邪は呟(つぶや)いた。瓶のラベルには、猫が躍っている絵が印刷してある。その猫の四股の先は、内側へ丸くぐんにゃりと曲り込んでいる。うちの飼猫と毛並みが似ている。沈みこんでいるところから、両手を伸ばしてずり上るような気持で、彼はふたたび呟いた。

[やぶちゃん注:以上のように猫を描写しているが、グーグル画像検索「BURKE’S Fine old Irish Whiskey」では、躍っているようには見えず、座った後部は、尻尾を手前に巻き込んで後方に立てているように見受けられる。]

「おれにも、ヒッカキ板というものが、ひとつ欲しいもんだな」

 呟いてみたものの、それはどういう意味なのか、自分にもよく判らなかった。ただ莫邪は、一間四方もある板を眼の前に想像し、それをしきりに引っ搔いている自分自身を想像した。そしてためしに、両手を胸の前にそろえ、ちょっと空(くう)を引っ搔く仕草をしてみた。そこへ給仕の男がチャーシュウメンを運んできて、莫邪を見て妙な顔をした。そこで莫邪はその仕草をやめた。

「お待遠さま」

 この給仕男は、誰かに似ている。そう思いながら、莫邪は箸(はし)をとった。二箸三箸食べたとき、彼はそれを卒然として思い出した。軍隊で会ったある衛生兵に、この給仕男は似ているようであった。

 海兵団の医務室で、治療の順番を待っていたとき、莫邪の一人前の兵隊が、足指の瘭疽(ひょうそ)を手術されていた。手術しているのは、色の黒い若い衛生兵である。乱暴にメスを使って爪をごりごりと切り、クギヌキでそれをはさんで、ぐいと引抜く。見ているだけで、莫邪は脳貧血をおこして、ふらふらとしゃがみこんだ。すると手術を終った衛生兵が、莫邪の肩を引っぱり上げて、したたか頰を殴りつけた。

「なんだ、この野郎。貴様が手術されてるんじゃねえぞ。生意気な!」

[やぶちゃん注:「瘭疽」手足の指の末節の急性化膿性炎症。この部分は組織の構造上、化膿が骨膜・骨に達し易く、また、知覚が鋭いので、激痛がある。局所は化膿・腫脹・発赤・熱感を起こす。「ひょうそう」とも読む。]

 あの衛生兵の言葉は、一応理窟にあっていたなと、かたい肉を奥歯でかみながら、莫邪はぼんやりと考えた。あんな具合に割り切ってしまえば、世の中も渡りやすいだろう。しかしとても俺にはできそうにもない。そんなことを考えているうちに、莫邪はすっかり食べ終った。

「――さて」

 丼をむこうに押しやり、香奠袋を出してウィスキーの横にならべ、彼はひとりごとを言った。そしてしばらく考えて、紙幣束をとり出し、その中から五千円を数えて、また自分のポケットに収め、残りを香奠袋の中に押し込んだ。香奥袋は二枚ある。さっき何気なく買ったのだけれど、両方とも使わねば悪いような気になって、彼はまた考えこむ顔付になった。少し経って、彼はポケットからまた千円札を一枚つまみ出し、それをも一つの香奠袋の中に入れた。そして二つの袋にそれぞれ、人見干将、人見莫邪と署名した。そうするとすっかり落着いた気持になって、莫邪はにやと頰をゆるめた。

(兄貴もちかごろ、なかなか意地悪になってきたな)

 代金をはらって外に出ると、寒い風が顔に吹いてきた。町の遠くで、拡声器の試験をしているらしく、機械の声がきれぎれに風に乗って聞えてくる。

「――本日ハ、――晴天ナリ、――本日ハ、――晴天ナリ――」

 空は曇って暗かった。今日の一日に、祝賀の表情と、追悼(ついとう)の表情を、うまく使い分けねばならない。うまく行くかどうか、莫邪は少し心もとなかった。街には人があふれていた。すれ合う人々の表情や、街全体の表情に、莫邪はある歪(ゆが)みをかんじた。そして彼は、二三日前雑誌で読んだ、宇宙が歪んでいるという説を、突然思い出した。宇宙が歪んでいるなら、地球も当然歪んでいるだろう。その歪みの中で生きるには、人間もすこしは歪む必要があるだろう。

(そういう点からして――)

と彼は思った。どういう点からかは、彼にもよく判らなかった。

(今日という日も、なかなか好い日にちがいない)

 思考の尖端が、ぶわぶわと分厚なものに埋没している感じで、莫邪はウィスキーを胸にかかえ、無感覚な人形のように、人波をぬってまっすぐ駅の方に歩いて行った。

[やぶちゃん注:「宇宙が歪んでいる」中学時分に読んだ科学書では、アインシュタインは宇宙を綺麗な球体と予想したが、当時の宇宙物理学の観察では、馬の鞍の様な形をしていることが提唱されていたのを覚えている。しかし今、ネットを調べると、果てしなく彼方に広がり続ける平坦なものというのが優勢であるようだ。]

 

     黒 い 紳 士

 

 人見莫邪が最初にその男の姿を見たのは、くすんだ色調の杉の生籬(いけがき)にはさまれた、せまい路上である。

 赤土まじりのその小路の地肌は、濡れてじっとりと湿り、またいくらかぬかるんでもいた。莫邪がふと眼をあげると、二十米ほど前方を、その男はひとりであるいていた。ぬかるみを避け避け、生籬に肩を摺(す)るようにしながら、気ぜわしそうに背を丸め、ヒタヒタヒタと脚を動かしている。

 空は曇ってくらかった。雲の厚みに漉(こ)されたにぶい光が、まばらな電信柱や生籬や、煤色(すすいろ)の屋根瓦の上に、しっとりとひろがっている。その風景は光線の具合か遠近感がなく、なんだかひらべったい感じがした。そして莫邪の視界に狭隘(きょうあい)な路上をうごいているものは、その男の黒い後姿だけであった。

「まるでクロコみたいだな」

 ぬかるみを飛び越しながら、莫邪はふとそう思った。書割りじみた平板な風景のなかに、なにか人目をはばかる様子で、男の小さな輪郭が、ちらちらとうごめいている。黒具をつけた芝居の後見の動作をそれは何となく聯想(れんそう)させた。男は黒い服を着て、黒い中折帽を頭にのせている。はいている長靴も黒色であった。中折帽子はすこし大きすぎると見え、耳たぶまでスッポリかぶさっている。童話の黒い蕈(きのこ)があるいているようにも見える。妙に非現実的な感じであった。背丈も生籬の半分ぐらいしかない。対比の関係か四尺そこそこの高さにしか見えない。そのミニアチュアめいた奇妙な後姿が、なにか無気昧な滑稽さを瞬間に莫邪に伝えてきた。

「ええと――」

 へんに不安定な感じがやってきて、足がすくんだように、莫邪は立ち止っていた。電柱の下から、腐った木の葉のにおいが、ぼんやりと立ちのぼってくる。立ち止ったつじつまを合わせるように、莫邪の手はいそがしく動いて、やがてポケットの中から、干将が描いてくれた地図をとり出している。男の後姿からその紙片へ、莫邪は落着かない視線をうつした。

「道はこれでよかったのかな」

 異母兄の人見干将の依頼で莫邪は今から、山形家の結婚の祝賀会に出席するのである。山形というのは、干将の軍隊時代の戦友だというのだが、もちろん莫邪はその男の顔も素姓(すじょう)も全然知らない。知っているのは、その会が午後四時から始まるということだけである。なにかお祝いの品を持って行くように、と言ったのみで、他にはなにも干将は説明も指示もして呉れなかった。日当を出すというのでウカウカと引受けてきたのだが、いくら兄の代理とは言え、見も知らぬ男の祝宴に出るのはあまり面白そうなことではない。しかもそのあとで、午後の七時から、これも干将の名代として、川口という男の告別式にも出席しなくてはならないのである。日当を貰ったからには、これもすっぽかす訳にも行かないだろう。やせて神経質そうな干将の顔をちらりと思い浮べながら、莫邪はかすかに舌打ちをして呟いた。

「判りにくい地図だな、これは」

 スベスベした紙片に、万年筆で道順が書いてある。整然と書いてあるようだが、それをたどってここに来て見ると、実際の地形や距離とははなはだしく相違している。げんにこの狭い赤土の小路も、干将が書いた地図の上では、ひろびろとした鋪装路のような印象をあたえる。地理の感覚がないのかしら。紙片を縦にしたり横にしたりして、あやふやな道順をも一度たしかめ終ると、莫邪は面白くなさそうな顔付になって、また足を踏み出した。靴の裏でぬかるみがピチャリと音をたてる。見るとさっきの男の姿は、もう見当らなかった。

「ふん結婚祝賀会か」

 祝い品に買い求めた箱入りウィスキーを、けだるく左手に持ち換えながら、莫邪は足をひきずるようにして歩いた。そして地図が指示する通り、赤いポストから右に折れ、高さ二尺ばかりの地蔵のある辻を、さらに左に折れた。干将の地図では、その地蔵の位置に矢印をして、石造彫刻物などと書きこんである。石造彫刻物とは、いかにも干将らしい名付け方だ。この干将の地図に間違いなければ、山形邸はもう直ぐ近くの筈である。道は相変らずビチョビチョと濡れていて、冷たさがひたひたと靴下にもしみとおってきた。

「ちょっと道をききますが――」

 突然そういう声が近くから聞えたので、莫邪はぎょっとした。道端につみ上げた古材木のかげに、黒い人の姿がひとつ立っていた。

「山形という家は、どこらあたりですか」

 ウィスキーの箱を両手で胸に抱きかかえるようにして、莫邪は立ち止っていた。近頃肥って窮屈なチョッキの下で、動悸がごとごとと不規則に打っている。

「ごぞんじないかな。山形。山形という――」

「それは、そこです。すぐそこ」

 莫邪はあわてて答えた。眼の前に立っているのは、先刻の男である。古材木のかげにかくれて、莫邪が近づくのを待ち伏せていたらしい。さきほどはひどく矮小(わいしょう)に見えたが、向い合って見ると、それほどでもない。五尺二三寸[やぶちゃん注:一メートル五十八センチから一メートル六十一センチ。]はある。黒い帽子と服を着け、手にも黒い風呂敷包みを持っている。帽子も大きすぎるし、服もやはり身体に合っていない。帽子のひさしの奥から、南京玉(ナンキンだま)みたいな小さな黒い瞳が、じっと莫邪を見詰めている。そして色艶のわるい唇がやや開いて、黄色い歯列がのぞいている。動悸がややおさまってくると、莫邪はなにかすこし忌々しくなってきた。この男の顔の印象は、外国の漫画によく出てくる日本人の顔に、どことなく似ていた。

「あんたもそこに行くのかな」

 視線をウィスキーの箱にはしらせながら、男がふたたび訊ねた。なんだか腹話術師みたいに、唇をあまり動かさない。抑揚のない含み声である。そして急に言葉がぞんざいになってきたようだ。男の黄色い歯屎(はくそ)をながめながら、気押(けおさ)されたように莫邪はだまっていた。

「そうだろ。あんたも山形の家に行くんだろう」

 さっき見た後姿も、どことなく異様な感じであったが、今まぢかに相対しても、それと同じ感じが男の全身を、うっすらと膜のようにつつんでいる。歳も莫邪よりはすこし上らしい。そして男の視線は舐(な)め廻すように、莫邪の全身にうごいた。なぜか急に嘔(は)きたいような気分になって、それをこらえながら、莫邪はこっくりとうなずいて見せた。

「それならば話は早い」

 よく聞きとれなかったけれど、そんな風に言ったようである。そして男はくるりと向きを変えて、大き過ぎる長靴をガバガバと鳴らしながら、いきなり先に立って歩き出した。その音にうながされたように、莫邪もつられて足を踏み出している。どこかでラジオの長唄が鳴っている。

 

 祝賀会と言っても、大したことはない。天井の低い八畳の部屋に、机やチャブ台を継ぎあわせ、それにしいた白布の上に、皿や碗や盃やコップが、ごたごたと並んでいる。床の間の大きな壺には、松竹梅が不器用に活(い)けてある。道具立てはそれだけである。卓の上の器物も不揃いだし、白い卓布もうすよごれた感じであった。そして十二三人の男たちが目白押しに居並んで、それぞれの恰好で飲んだり食ったり、私語し合ったりしているのである。その一番すみっこの場所に、人見莫邪は中途半端な表情をこしらえて、窮屈そうに坐っていた。

 莫邪のところからガラス越しに、猫の額ほどの此の家の庭が見える。庭の半分は畠になっていて、ネギみたいな植物が五六本、そこらにヒョロヒョロと立っている。曇天のせいか庭もくらいし、部屋の中はもっとくらい黄昏(たそがれ)どきのような感じである。

「生憎(あいにく)と停電でございまして――」

 主人役の山形夫妻は、縁側の方から出たり入ったりしで、酒や料理をはこんだり、またそこに坐りこんで、酒を注いだりしている。この宴が済むと、午後七時何分の汽車で、新婚の旅に立つという話であった。新婦は度の強い眼鏡をかけた二十四五の女で、新郎は四角な顔をした朴訥(ぼくとつ)そうな男である。やはり一世一代のことだから、顔色もどことなくはればれとして、動作もいくらか生き生きとしているようである。こんな男といっしょに兄貴は軍隊に行ってたんだな、などと仔細らしく考えながら、莫邪は遠慮がちに料理に箸をつけたり、コップに手を伸ばしたりしている。莫邪が持参したウィスキーは、すでに二本とも栓をぬかれて、卓の上に立っているのである。酒はともかくとして、料理は冷えて不味(まず)かった。べつだん食慾はないのだが、黙って坐っているのも手持ぶさたなので、三十秒に一度くらいは、どうしても卓の方に手が伸びてしまう。

「どうも何から何まで行き届きませんで」

 料理がすっかり運び終ったと見えて、山形新婦が縁側に両手をついて、丁寧にお辞儀をした。客は一斉(いっせい)に箸の動きを止めて、そちらを向いて頭を下げたり、うなずき合ったりしている。光線が乏しいので、皆の顔は何だか怒ったような、憂鬱そうな感じをたたえている。座もはずんで来ないし、すこしも祝宴らしい感じがしなかった。

(やはりおれみたいに、お義理で来ている連中が多いのかな?)

 そんなことを考えながら、莫邪は無責任な視線でちろちろと薄暗い一座を見廻している。客の種類は、六十ぐらいの老人から、学生服の若い男まで、いろいろ雑多に並んでいる。客の間に横のつながりはあまり無いらしく、あちこちにぼそぼそと私語が起ってはいるものの、座全体の笑声歓語はすこしも聞えてこない。晴れやかな顔をしているのはだいたい主人役だけで、あとはさむざむとした顔でもっぱら飲食に没頭している。時間の動きがのろのろしていて、なんだか一向にはっきりしなかった。ひどく大儀なような、また肩の凝るような気分を持て余しながら、莫邪はコップに何度目かの手を伸ばしている。

(今夜おれが告別式に出席して、おくやみなどを述べる際に――)莫邪はコップのウィスキーをぐいと乾し、こんどは汁碗をとりあげて蓋をとった。(この一対の男女は宿屋の一室に入り、接吻などを交していることになるのかな)

 莫邪は頭の遠くで、派手な夜具や脱ぎ捨てられた下着の赤い色や、またむれたような炬燵(こたつ)のにおいなどを、ぼんやりと空想した。空想はしてみたものの、なんだかよそごとみたいで、眼前の山形夫妻の存在と、一向に結びつかなかった。腸のあちこちが急に熱くなって、ウィスキーがそこにひりひりと沁(し)み込んでゆくのが判る。莫邪はもったいらしい顔になって何となく低くせきばらいをした。

「さあさあ」

 新郎は中腰になって、やがて客の間に割り込みながら、酒やウィスキーを注いで廻っている。新郎の顔もすこし赤くなっている。弁当箱みたいな四角な顎を、嬉しそうにがくがくと動かしながら、

「さあさあ。たんと飲んで下さいよ。酒はもっともっと用意してあるんだから」

「これはなかなか、良い酒だね」

 盃を透かすようにしながら、そこらで誰かのとってつけたような声がした。

「良い酒ですよ。わざわざ故郷(さと)から取りよせたんだから。こんでも故郷ではね、村雨(むらさめ)という名の通った銘酒だ」

 汁腕に入っていた蓴菜(じゅんさい)が、どろりと気味わるく莫邪n舌をすべってつめたく咽喉に流れこむ。しばらく経つと酒の減りに比例して、座もすこしガヤガヤと浮き立ってくる気配があった。

[やぶちゃん注:「村雨」不詳。現在、非売品の特別醸造で、この名を持つ日本酒(熊本)があるが、この当時、あったとは思われない。「村醒」或いは「村雨」は、強く降ってすぐ止む雨に掛けて、「すぐに酔いが醒めてしまう酒(村を出る前に醒めてしまう酒)」という意から水を割ったような「アルコール度数の低い低品質の酒」のことを言う隠語としてあり、同時に、真逆の「村を離れたところまで来て、やっと酔いが醒める酒」と言う意で、「上等な酒」のことをも指すともされる。酒好きの梅崎だから、お遊びで前者の意で用いたものととっておく。]

「なあ。山形戦友」

 莫邪のすぐ近くの席で、ざわざわした私語の中から、こんどは別の声がとび出した。

「今日はお前はなかなか立派だぞ。死んだ井上戦友に見せたかったぞ」

 なんだか聞き覚えがあると思ったら、さきほどの黒服の紳士の声である。黒い紳士は莫邪から一人おいてむこうの席に坐っている。見るとその横顔は酒がはいったのか、いささか黄黒く変色している。大あぐらをかいて、しきりに盃を乾しているらしい。

「はあ。戦友でいらっしゃるか。それは大変でございましたな」

 莫邪の隣に坐っている老人が、指で焼竹輪をつまみながら、もごもごした声で相の手を打った。この老人も話し相手がほしかったらしい。この黒男が山形の戦友なら、干将の戦友にもなる訳だな、と思いながら、莫邪は横目でそのやりとりを観察している。黒男は掌をくにゃくにゃ動かしながら、いつか老人の方に向き直っている。

「そうですよ。――全くそんなもんだ。生き残った奴は、結婚も離婚もできるが、死んだ奴はとにかくなんにもできやしない。そんなもんですよ」

「はあ。それは道理だね。もっともだ。はあ」

 一座のうごきもだんだん活潑になってくるらしかったが、あたりが薄暗いから、和(なご)やかに浮き立ってくるという風ではなくて、酔いが陰にこもってイライラとふくれ上ってくる様子である。すこしずつ高まってくる濁ったざわめきの中で、莫邪の右手も惰性のように伸びたり縮んだりして、卓のものを口に運んでいる。いささか酔いが廻ってきたので、先刻のような手持ぶさたな退屈な感じは、やっとなくなってきた。そのかわり失業して以来の、久しぶりの酒だから、五体が妙にけだるくなり、眼球が瞼の底に沈下してゆくような感じがする。見も知らぬ男たちと膝を交えて、酒を飲んでいることも、さほど気にはならなくなってきた。とにかくこうやって飲んだり食ったりするだけで、名代としての役目は果たしていることになるのだから、他になにを思い煩(わずら)うことがあるだろう。ただひたすら飲めばいいのだ、と莫邪は心の中で自分に言い聞かせる。

 (日当だからな。なにはともあれ、日当仕事だからな)

 莫邪は肥った頰の筋肉をぶよぶよと弛(ゆる)め、口の中でしきりにそんなことを呟いている。それは本(ほんね)音でもあった。ほんとに山形夫妻が結婚しようと離婚しようと、こちらとは大した関係もないことだ。それよりも卓上の焼竹輪や酢ダコの味の方が、当面上の問題としては、ずっと莫邪に関係がふかいのである。

「ひどい戦争でしたね、あれは」

 黒い男は箸で卓上をなぞりながら、しきりにとなりの老人に説明している様子である。その声がふと耳に入ってくる。

「弾丸はヒュウヒュウ飛んでくるし、戦車はゴトゴトやってきくさるしさ。こちらは小銃だけで、その上弾丸も欠乏しかかっていると来る――」

「はあ。やっぱりね」

「そこですよ。井上戦友はヤケになって、とたんに発狂したんだ。まず銃を投げすてましたな。そしていきなり帯剣を引き抜いて、自分の眼につっこんで、眼玉をけずり落しましたな」

 老人はぽかんと口をあけて、傷(いた)ましそうにうなずいている。黒男は唇の間から舌をちろちろ見せて、憑(つ)かれたように眉根をよせて説明をつづけている。

「見えなきゃ済むと思ったんだね。それが凡人のあさましさ。とてもそうは行かない。耳がある。ちゃんとあるんだ。おっそろしい音が四方から聞えてくるちゅうんだ。だから井上戦友は、憤然と刃(やいば)をふるって、こんどは自分の耳をスポリと切り落しました」

「はあ、はあ」

「ところがまだ、それでは足りない。まだまだ。戦争には臭いというものもあるということだ。忘れちゃいけない。硝煙の臭い、ものの灼(や)ける臭い、血の臭い、言うに言われぬいろんなものの臭いなどが、うようよとだ」

「鼻も切りましたか」

 つまんで口まで持って行ったカマボコを、あわてて皿に戻しながら、老人が情けなさそうな声で反間した。黒い男は黄色い歯をむき出して深刻そうにうなずく。

「切りましたな。もっとも力が足りずに、半分しか切れなかった。あとに残るのは、味だけか。ふん。戦争には味はなかったようでしたなあ。タマは砥(な)めるわけにもいかんし――」

「それでその、井上戦友さんというお方は、一体どうなりました?」

「私らは彼の体を引きずって、土囊(どのう)のかわりにしましたです。もう呼吸もなかったし、なにしろ敵さんのタマがはげしくて、遮蔽物(しゃへいぶつ)のひとつも欲しい状況だったから。人間も五官をなくせば、もうせいぜい土囊ですな。――」

 ウィスキーを舌の先でころがしながら、莫邪は鬱然(うつぜん)たる表情でその問答を聞いている。

「その井上戦友に、この祝賀会を見せたかったという訳ですさ。なあ山形兵長」

 その山形新郎は大きな体を、なだれるように莫邪の傍に割りこませてくる。新郎はもはやいい機嫌になっている。酒でいい機嫌になったと言うより、こんなに大勢が自分を祝ってくれる、その意識に酔っているように見える。実際打ち見たところでは、客のみんなは祝いの感情でなく、その他の感情で酒を酌(く)んでいるように思えるのだが。そして新郎の分厚い掌が、莫邪の肩を親愛の情をこめたようにつかむ。

「兄上が来れなかったのは、じつに残念ですなあ。しかしお兄上もさぞかし、お忙しいことでしょうなあ。なかなか羽振りがきくそうで」

「はあ。なかなか忙しいようです」

「お帰りになったら、山形もやっと幸福な結婚の旅路に出たと、そうお伝えして下さいよ。しかしなんですなあ。人見の奴は瘦せているが、この弟御さんはご立派な体格ですなあ」

 莫邪はすこし顔をあおむけて、頰をにたにたとゆるめている。他人から褒(ほ)められると、莫邪の顔はいつもこんな表情になってしまうのである。縁側の方から、新婦が心もとなさそうな顔付で、しきりにこちらを眺めている。時間が心配なのじゃないかしら。座がようやく乱れてきて、向うの方では人影が立ったり坐ったり、皿や小鉢がふれ合って鳴ったり、またとげとげしい語調で議論が始まったりしている。電燈がつかない上に、日が傾いたらしく、あたりは俄(にわ)かに蒼然とくらくなってきたようだ。

「おい、山形。山形戦友てば」

 れいの男が黒い南京豆のような眼で、怒ったようにこちらを見て言った。

「ローソクぐらいはとぼせよ。暗くってこれじゃ飲めやしないじゃないか。今もこの御老人が、酒と間違えて醤油を飲んでしまったよ」

「ナミコ。おい、ナミコ」新郎は首をのばして、縁側の方を呼ぶ。

 縁側で新婦の姿がそそくさと動いて、やがて黄色い蠟燭(ろうそく)の光が、四つ五つ入ってくる。卓上のあちこちに立てられると、四方の壁に人々の影が、幽鬼のように揺れる。途絶えていたざわめきが、それにあおられたように、また部屋の内にひろがってくる。

「それにしても、なんだなあ。あ。ちょいと失礼」黒男は手足も使った様子もないのに、老人の膝をぐにゃりと乗り越えて、いつの間にかもうこちら側に坐っている。そして山形に盃をつき出しながら「ひょっとすると今夜は雨になるなあ。いや、この調子では雨になる。きっとなるな。すれば旅行も難儀だなあ。全くご愁傷さまなことだ」

「天気予報じゃ、晴れる見込みだというんだけどね」盃を受けながら、新郎は当惑した風(ふう)ににこにこして、朴直(ぼくちょく)な受け答えをする。

「晴れるもんか。それで宿屋はどこだい。もうきまっているのか」

 男の黒い洋服の膝が、莫邪の膝にひたひたとくっついている。それは風袋(ふうたい)だけで中味がないような、妙に手応えのない無気味な感触である。あかぎれの膏薬を熱した臭いに似た、へんに鼻にこもってくるような体臭が、男の体からただよってくる。服のにおいかしら。それともこの男の肌のにおいかしら。急に吐き出したくなるのを我慢して、莫邪はやっと口の中のコンニヤクを呑みこみ、あわててウイスキーの方に手を伸ばす。男はその莫邪を無視したように、言葉をつづけている。

[やぶちゃん注:「風袋」通常は品物の外観・見かけを言う。]

「宿屋についたら、用心しなさいよ。近頃の宿屋は妙なのがあるそうだからな。新婚部屋なんかは、外からのぞかれるような仕掛けになっているのが、時々あるという話だぞ」

「ほう。そんなものですかな」またさっきの老人が、性こりもなく横からもぐもぐと口を出す。

「そうでもないだろう」

「いや。そうでもある。おれも一度見たことがあるが、ありゃあなかなか、巧妙な仕掛けだった。ふん」

「嘘(うそ)ばっかり。嘘だろう」

 新郎はやや苦い顔になって、持て余したように言う。黒男は舌なめずりしながら、しきりに手酌で盃を重ねている。何だかイライラしたような飲みっぷりであった。莫邪は身体の半分だけが酔い、半分だけが醒めているような感じで、じっとそれを眺めている。すると急に追っかけられるような気持になって、下腹がきゅっと収縮し、小便が出たくなってくる。

 「なあ。山形戦友」黒男の声はすこしずつうるさく、すこしずつ高くなっている。無責任な厭らしさがその語調にはただよっている。「あの寒い守備隊でさ、お前といっしょにピイ屋に行っただろう。あのピイ屋の女でさ、蛙みたいな妓がいただろう。手足が細っこくってさ、お腹にはぜんぜんお臍(へそ)がなくってよ。そら、お前さんといっしょに、あの妓を真っ裸にしてさ、あれは滅法面白かったなあ――」

[やぶちゃん注:「ピイ屋」サイト「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館」の「日本軍慰安所」のこちらの証言に、中国の広東省の部落として、『語源は定かではないが、古参兵達は慰安所のことをピイ屋と呼び、慰安婦のことをピイと呼んでいた』とある。]

音となって、便所まで追っかけてきた。

 「妙な祝賀会だな」勢よく尿を放出しながら、莫邪は思ったままをひとりごちてみる。「祝賀会だというのに、みんなあんまり愉しそうでもないじゃないか。もっともそれは俺の責任でもないが」

ら、莫邪はしっかりと頭を働かしたつもりで呟(つぶや)いた。

「そしてあの黒服の男は、どうも他人事(ひとごと)じゃないようだぞ」

 他人事でなければ、何なのか。それは莫邪にもよく判らなかった。脈絡もなくそう呟いてみただけである。しかしただそれだけで莫邪は一応納得したような顔付になって、やがてトコトコと便所から出てきた。手を洗って手巾(ナンカチ)を探そうとして、ふとポケットの中から、がさがさしたものが指にふれてきた。香奠の紙包みなのである。一寸引き出して見て、莫邪はあわててそれをポケットの奥深く押し込んだ。そして自分に言い聞かせるように口の中で言った。

「これはここでは、出すんじゃなし、と」

 便所のすぐ横にうすぐらい三畳間がある。手巾で指をぬぐいながら莫邪は障子のすきまから、なんとなく内部を覗(のぞ)きこんでいた。ごたごたしたものがうっすらと眼に入ってくる。すばらしく大きな棺桶だと見えたが、よく見ると、それはどうも真新しい長特ちのようである。きっと新婦の嫁入道具なのであろう。その上に男物らしい黒い紋つきが、屍衣のようにだらりとかぶさっている。ナフタリンの香が、便所の臭気にまじって、妙に不吉な感じの臭いとなって、莫邪の鼻にながれてきた。

「もうこれだけ居たのだから、そろそろお暇(いとま)しようかな」

 隙間から眼を離してぐふんと鼻を鳴らしながら、莫邪はぼんやりとそう考えた。何だかここは変にチグハグで、どうもうすら寒い感じばかりがする。早くここを辞去して、明るい街の燈の下に行きたい。その思いがちらと莫邪の心をけしかけてきた。

 宴会場の八畳から、なにか甲高(かんだか)い声が聞えてくる。言い争っているような声音である。

 

 便所に立っていたので、その間にどういうことが起ったのか、よく判らない。莫邪がしばらくして部屋に戻ろうとすると、宴席は妙に険(けわ)しく殺気だっていて、人影がものものしく立ちゆらいでいる。狭い座敷にお客も主人役も総立ちになっているらしい。そこらで皿小鉢がチャリンところげ落ちる音がした。たかぶった声で、

「だからさ。話の筋はチャンと通っているんだ。それに君が口を出すいわれは、ないじゃないですか」

「そ、それが失礼だと言うんだ。何だい。今日は山形君のお祝いの席上だぞ」

「まあまあ」

 山形新郎がそこらに割り入って、しきりにあたりをなだめている風である。蠟燭の焰が人の動きにあおられて、ゆらゆらとゆらめいている。様子があぶないと見たのか、ナミコ新婦ももう主婦じみた智慧をはたらかせて、手早くビール瓶などを片付け始めている。別の声が、

「それじゃあこの家に申し訳ない。まあまあみんな落着いて。とにかく話せば判るというこんだ」

「何だよ。こいつが最初に生意気な口を利いたんですよ。しっぱたくよ、ほんとに」

「お、おい。よせやい。鞄(かばん)を、ど、どこに持って行くんだ、よう」呂律(ろれつ)の廻らない別の声が混ってきたりする。

「よう、兄ちゃん。兄ちゃんったら」

「なに。ひっぱたいてみろと言うんだ。やい、そこのきたない黒坊主」

「よせよ。よせってば。ほんとに判らねえのかよ」

 声ばかりが三重にも四重にも乱れ飛んで、誰と誰とがいさかっているのか、いっこう判然としない。とたんにうすっぺらな座布団がヒュツと風を切って飛んできて、莫邪の肩にぐしゃりと当った。急に声が切迫してごちゃごちゃに入り乱れる。

「まだ言うのか。お前たちは」壁ぎわに立ちはだかるようにして、あの黒服の男が服の袖をぐいとまくっている。強いて虚勢をはったような声で「そんならコナゴナにしてやるぞ。こっちに出てこい」

 人々の肩の間から黒男のまくった腕の形が、ちらと莫邪の眼にはいる。この男がいさかいの主体なのかな、と莫邪はひょっと考える。筋ばった牛蒡(ごぼう)のようなその腕には、剛(こわ)そうな黒い毛が一面に生えている。北海道はタラバ蟹(がに)の脚にそっくりじゃないか、と思った瞬間、押えつけたような声とともに、そこらで影がはげしく揺れ動き、何かがぶつかり合うにぶい音がして、莫邪の身体もはずみをつけて、いきなり横ざまに突き倒されていた。誰かの足がぐいと背中を踏みつけたような気もする。こぼれ酒に濡れた畳に両手を支え、しゃにむに体を捩るようにして莫邪ははね起きていた。

「よして。およしあそばして」

 そして短い悲鳴とともに、はね起きた莫邪の眼前で、こんどはナミコ新婦が畳の上に斜めにひっくりかえっている。やはりあおりを食って突き飛ばされたのだろう。派手な裾が勢よくまくれて、ハンペンみたいに真白い両脚の形が、瞬時にして莫邪の網膜に灼きついた。その時床の間でガチャンと音がして松竹梅を活(い)けた壺も倒れたらしい。そして飛んできた新郎にたすけられて、新婦はやっと起き上ろうとしている。切なく悲しそうな声で、

「――眼鏡。あなた、あたしの眼鏡がないわ」

 その声で騒ぎはしゅんとしずまったようである。みにくい昂奮のあとの、こわばったようなしらじらしさが、急に部屋全体を支配してきた。うろうろと立っている者。いっしょに眼鏡を探す者。マッチをともして蠟燭につけようとする者。床の間の壺を置き直そうとしている者。さまざまに動いている人々の上で、いきなり電燈が明るくパッとともる。やっと停電が直ったのだ・みんなの顔が一斉(いっせい)に電燈をまぶしそうに見上げている。わざとまぶしそうな表情をつくることで、うしろめたい感情を全部ごまかそうかとするかのように。

「やれやれ」

「点(つ)きましたか」

 そしてみんなガッカリしたような姿勢になって、そこらの畳をのろのろと拭ったり、皿や小鉢をわざとらしく並べ直したりしている。新婦をつきとばしたのは、どこの誰だか判らない。眼鏡は刺身皿のなかから、ワサビをくっつけて発見された。それから新郎が立ち上って、きまりのつかないような声を出して、一座を見廻した。

「さあ。さあ、どうぞ。一応お坐りになって。どうぞお静かに」

 しかしその声に応じて坐ったのは三四人だけで、あとは思い切り悪く、天井や庭を眺めたり、何となく非難がましい顔を見合わせたりして立っている。莫邪がふと気がつくと、あの黒い紳士の姿は一座のどこにも見えなかった。さっきの騒ぎの最中にうまく姿を消したのか。見ると部屋のすみに置いてあった筈の黒い帽子や風呂敷包みも、そっくり形を消しているようである。どさくさまぎれに巧く逃げてしまったにちがいない。

「汽車の時間のこともおありでしょうから」やがて和服の老人があたりに気兼ねをするような口調で口を切った。

「私どもはこれで失礼つかまつります。このたびはいろいろと、おめでとうございました」

「おめでとうございました」

 五六人の声が口々にそれに和した。そしてそそくさと自分の持ち物をとり上げて、どやどやと玄関になだれ出る。もはや用は済んだという感じである。莫邪の姿もその中にあった。せまい玄関は靴や下駄をはこうとするもので、たちまち大混雑になっている。莫邪はまっさきに玄関に飛び出たので、靴をはき終えるのも一番早かった。見渡すと、居並んだ下足のどこにも、れいの男の黒長靴はやはり見当らないようであった。莫邪の背後では、あとからの客ががやがやとひしめいている。

 (まるで寄席(よせ)のはね時みたいだな)表に出て、一応家内をふりかえりながら、莫邪は気持を引離すようにしてそう思った。(それにしても、あまり愉快な茶番じゃなかったようだが――)

 割り切れない顔で土間にひしめく客達のむこうに、送りに出てきた新郎新婦が並んで立っている。取ってつけたように、済まなさそうな表情をつくろうとしているが、その善良らしい二つの顔はやはり、嬉しさを押え切れない風にゆるむ気配である。瞬間なぜともなく、莫邪はその二つの善良な表情に対して、かすかな憎しみに似た嫉妬の情を、はっきりと意識した。憎まれ口をたたいてみたいような衝動が、矢のように莫邪の胸をひらめいて走り抜ける。しかし莫邪はその二人の顔に、あいまいな笑顔で遠く黙礼をすませただけで、くるりと背を向けて、黄昏(たそがれ)の赤土路を歩き出している。これで日当仕事の半分は済んだじゃないか。もう一方の自分自身に強いてそう納得させながら。

 頭の芯(しん)がかすかに痛かった。

 

 午後七時。

 明るい盛り場のなんとか酒蔵という酒店の片すみに、人見莫邪はぽつねんと腰をおろしていた。酔いが中断されたまま醒めかかってきたので、やがて気持もしらじらしく、身体もぎくしゃくと硬(こわ)ばっている。随意筋が不随意筋に入れかわってゆくような、そしてそのまま板のように凝(こ)ってゆくみたいな違和感が、仝身にひろがってくる。莫邪はポケットに手をつっこんだまま、しきりに背筋をゴリゴリと壁にすりつけていた。告別式に出席するのも、ひどく億劫(おっくう)な感じであった。

 「どうして人間は、何か事があれば、直ぐにあんな風(ふう)に集まりたがるんだろうな」気持を引き立てようとしながら、莫邪はそう呟いていた。「やはりあれも一種の群居本能(グレガリアスハビット)というやつかな」

[やぶちゃん注:「グレガリアスハビット」英語“gregarious habit”。音写は「グレギャリアス・ハビット」に近い。“gregarious”は「群居する・群居性の・群生する・叢生する・集団を好む」の意、“habit”は「気質・性質」の意。]

 立てこんだ客の間を縫って、やっと小女がコップを運んできた。莫邪は不精たらしく背を曲げて、億劫な唇をコップの方に持って行く。一口ふくむと予想通り、それは迎い酒のようににがかった。それから彼はおもむろに手を出して、コップをわし摑(づか)みにする。顔をしかめて残りを一息に口に流し込む。そして大きく呼吸(いき)をはき、しばらく考え込むような、また反応を確かめようとするような顔付になって黙っていた。やがてそこへ二杯目が運ばれてきた。

「やはり行かなくちゃならないだろうな」

 身体のしこりがゆるゆるとほぐれてくるのを感じながら、莫邪は柱時計を見上げる。通夜(つや)はもう始まっている時刻であった。莫邪はうるんだ眼をコップに戻し、干将のことや、自分の家のことや、猫のヒッカキ板のことや、自分の就職運動のことなどを、暫(しばら)くあれこれと考えた。コップの中に入っているのは、透明な焼酎(しょうちゅう)である。「やはり行くことにしよう」二杯目をすっかり飲みほした時に、莫邪はやっと決心したように呟いた。もっともこれは初めから、チャンときまっていた事で、本当は呟くまでもないことであった。「行くだけでいいんだからな。ラクチンな仕事だ」

 足を引きずるようにして店を出ると、夜気がひやりと頰にふれる。しかし駅につく頃には、酔いが快く内側から弾いてきて、身体も軽くなっていたし、情緒もいくらか浮き立ってくるようであった。電車はかなり混んでいた。目的の駅につくまで、莫邪は吊皮にぶら下って、窓ガラスにうつる自分の顔ばかりを、しげしげと眺めていた。ガラスの中の顔の感じた、莫邪の表情の動きに呼応して、さまざま微妙に変化する。結局、うつむき加減に眼をするどくした表情が、莫邪には一番気に入ったと見えて、目的駅のエンジンドアが開くと、彼はその表情をくずさないように保ちながら、しずしずと歩廊に降り立っていた。そして改札口の方にあるくとき、人混みの間二十米ほど前方に、見覚えのある姿を見たような気がして、彼はぎょっとその表情を変えた。

 その小さな姿は、人混みの間をすりぬけるようにして、芝居の黒子(くろこ)みたいにチョロチョロチョロと動いていた。莫邪は思わずそこに眼を据えて、急ぎ足になった。

「あいつだな!」

 うす暗い歩廊の前方を、それは不吉な黒い翳を引いて、ちらちらと隠見している。帽子の恰好や服の感じからして、それはあの黒い紳士の後姿にまぎれもない。と思ったとき、ごちゃごちゃと改札を通る一団にまぎれこんで、その黒い姿はふっと見えなくなったようである。追っかけるように急ぎ足で改札口を通り抜け、莫邪は明るい売店の前に立ち止って、油断なく四周(あたり)をきっと見廻した。へんてつもない商店街が三方に伸びているだけで、黒服の後姿はもうどこにも見当らなかった。だまされはしないぞという眼付になって、莫邪はなおもあちこちの薄暗がりを、暫くにらみつけていた。

[やぶちゃん注:「俺は大探偵リングローズだぞ!」イギリスの作家(インド生まれ・プリマス育ち)イーデン・フィルポッツ(Eden Phillpotts 一八六二年~一九六〇年)の二篇の探偵小説「闇からの声」(“A Voice from the Dark”:一九二五年)と、Marylebone Miser(「メアリルボーンの守銭奴」。邦訳題では「密室の守銭奴」「守銭奴の遺産」)で主役を演ずる探偵John Ringrose。私は推理小説を特には好まないが、前者は擬似怪奇談仕立てで、一九七〇年の夏、中二の時、NHKの銀河ドラマで翻案放映されたの見て、直後に訳本を読んだのでよく覚えている。]

 犯人を探索する大探偵のような表情をつくり、莫邪ははっきりと声に出して、そう独り言を言った。それはつい二三日前読んだ小説に出てくる探偵の名であった。そして肩をぐいとゆすり上げると、おのずからものものしい歩き方になって、明るい街路に足を踏み入れた。干将の高等学校の友人で、酔余(すいよ)崖から落ちて死亡したという、川口某氏宅の方向である。酔いが適当に自分を鼓舞してくるのを感じながら、莫邪はサッサッと空気を切るようなおもむきで、道をその方向にぐんぐんと進んで行った。そして目じるしの洗濯屋の角から、身体をひるがえすようにして右へ曲りこんだ。その狭い凸凹道の入口には、夜だというのに、まだ近所の女の子たちが集まって、わらべ歌を唱和して遊びさざめいている。

 

  かってうれしい花いちもんめ

  まけてくやしい花いちもんめ

  みかんまとめて東京へおくる

  ふるさとまとめて田舎におくろ

 

 女の子の輪が、小さくすぼまったり、道いっぱいに拡がったりして、莫邪の進行の邪魔をした。莫邪はあぶなく溝(みぞ)板からころげ落ちそうになって、やっとそこをすり抜けた。女の子たちはそんなことには無関心に、しきりに道びに打ちこんで歌い呆けている。その唱和は澄みきって夜気を徹って流れた。

 

  いちりっとらん

  だんごくってし

  しんがらほっけきょ

  となりのナミコちゃんちょっとおいで

 

 (あいつらはもう汽車に乗りこんだかな)突然その歌の文句にうながされたように、ナミコ新婦の真白い両足の瞬時の映像が、はっとするほど鮮やかに、莫邪の網膜によみがえってきた。その幻の二本の映像は、赤や緑の色彩の中からパッとおどり出して、一瞬切なくわななきながら捩(よじ)れ合っている。そして次の瞬間、憎しみに似たどろどろしたものが、その映像をじわじわと隈(くま)どってくるのを、莫邪はぼんやりと感知した。頭をふってその妄想からのがれようとしながら、今度は新婦ナミコの白い丸顔が、さきの肉体の映像から切りはなされた形で、ぽっかりと記憶の中から浮び上ってきた。それはとりすました新婦ナミコの顔ではなく、眼鏡をふっ飛ばされたときの、瞼がぼったりとふくらんだあの表情である。そのむきだしになった双の眼は、なにかを求めるように、たよりなげにまたたいている。(あれは好色そうな眼付だったな)気持がそこにつながるのを忌々(いまいま)しく感じながら莫邪はそう思う。しかし眼付それ自身が好色なのか、それを眺めている自分が好色なのか、ふと彼はとまどう気持になっている。そして莫邪はわざとらしい空ぜきをしながら、ポケットから仔細らしく地図をとり出して道をたしかめた。(しかし近眼の女が眼鏡をはずすと、一律に好色な眼付になるのは何故だろう?)

[やぶちゃん注:先の二つの「花いちもんめ」の前者の歌詞の後半は、私は唄った記憶がないのだが、調べたところ、長野県在住の女性のブログと思われる「桔梗原」の「花いちもんめ」の記事に、よく似た『♪みかんキンカン東京に送る ♪ふるさとまとめて田舎に送る』とあった。後者は本篇のシークエンスとしての繋がりから、最後の「となりのナミコちゃんちょっとおいで」から「花いちもんめ」の続きの歌詞ととったが、前三行の歌詞は、所謂、少女の手毬唄のそれを少女たちが流用した合成ものと思われる。サイト「世界の民謡・童謡」の「いちりっとらい(いちりっとらん) らいとらいとせ しんがらほっけきょ 夢の国♪」を参照されたいが、本歌詞と似たものでは、静岡県焼津市採取の、『いちりっとら らっきょうくってし』/『しんがらほっけきょの とんがらしんがらほい』というのが近いか。]

 歩いてゆくにつれて、道はますます暗くなり、夜気はいよいよ冷えてくるようであった。また生籬ばかりがつづく小路となったらしく、燈影はあたりからほとんど射してこない。真黒な路面は凸凹のまま、靴の下で凍った音を立てている。もはや大探偵リングローズの面影は消え、異土に迷いこんだ旅人みたいなあやふやな表情になりながら、莫邪は一歩々々を探るようにして、暗い露地を進んでいた。そこらの暗がりから、あの黒い紳士の化物じみた姿が突然現われそうな予感が、やがて莫邪の神経をじりじりとおびやかしてきた。その予感に対抗するように、闇にむけて眼を大きく見開きながら、莫邪は自分の考えの脈絡を、ふたたび昼間のあの奇妙な祝賀会の方へ引きもどそうとする。(あるいはみんな無意識裡に、新郎新婦のありかたを嫉妬したり憎悪したりしていたんじゃないかしら)その思いつきが突然莫邪にやってきた。その考えはいくらか彼の胸を苦しくもし、また同時に彼の頰をぶよぶよとゆるめてもきた。精虫を欠如した精液みたいに、たんに不潔なだけで全然無意味などろりとしたものを、そして莫邪は自分の内部にありありと感じ、また人々のなかにありありと感じた。咽喉(のど)の内側の軟肉が収縮したように、ギュツという生理的な音をたてた。(それにしてもあの奇妙ないさかいは、どうして起ったのだろう?)便所から戻ってきた時の、あの宴席のささくれだった不毛な感じの雰囲気を、莫邪はなにか嗜虐(しぎゃく)的な気分におちながらまた憶い出している。人生というものは、何も知らないで通り抜けてゆくのが大部分だから、その設問もほとんど無意味な筈であった。しかし莫邪は手探るようにその情景を反芻(はんすう)し、いきりたった声々の響きや、こぼれ酒を吸い上げた灰色の雑巾(ぞうきん)のにおいや、黒服の男のタラバ蟹の脚に似た腕の印象などを、しみじみと反芻した。それはやがて酔余の嘔吐(おうと)のときのような収縮性の苦しさと放散的な快感を、同時に莫邪の胸にもたらしてきた。つづいて思いつくままを彼は声にしてつぶやいてみた。

「光というものは、あれはいやらしく奇妙なもんだな。ことにあの人工の光線ときたら――」

 電燈がパツとともったあの瞬間の感じを、莫邪はありありとよみがえらせながら、闇の中でわざとらしく顔をしかめている。あの寸前に黒服の男は、鼠のように遁走(とんそう)してしまったのだ。いや遁走という感じはあたらない。ウミを持った傷口が、いよいよ熟し割れて、おのずからトゲを排出するように、あの男は宴席から自然と排出されてしまったんだ。そうだ。するとあの電燈の下に残っていたのは、このおれも含めて、もう御用済みのウミ共ばかりだった訳かな。だからあんな風(ふう)に、ぬけがらみたいにうつけた顔をして、どろどろどろと玄関に流れ出てきたわけだな。酔った頭の遠くの方で、なにかがしきりに合点々々しているのを感じながら、その時莫邪はふと顔を上げて立ちどまった。闇のなかにくろぐろとつづく屋並みの、眼前の一軒だけがあかあかと燈を点じて、黄色い光がその前の露地をほの明るくしているのである。干将の地図の見当からしても、その家が目的の川口家らしい。見ると立ちどまったすぐ傍の電柱に「川口家」と書いた紙片が貼られ、その下に描かれた指さしている手の形が、まさしくその家の玄関を指している。莫邪の眼はそれを見た。あたたかそうな光がその玄関から流れ出て、その燈色はいきなりやわらかくしっとりと莫邪の眼に沁み入ってきた。暗闇の妄想から解き放たれて、楽章の休止のように、思いがけない素直な平静さがとつぜん胸にみなぎってくるのを感じながら、莫邪はしずしずと足をうごかして、自然石の石階をのぼった。先刻のわらべ歌のかろやかな韻律が、その歩調とともに、彼の皮膚にしずかによみがえってきた。その幻の歌声は現実のそれよりも、はるかに縹渺(ひょうびょう)と澄みわたっていた。

 

  いちりっとらん

  だんごくってし

  しんがらほっけきょ

  となりのナミコちゃんチョットおいで

 

 しかし石階をのぼり切って、玄関のガラス扉をそっと引きあけたとき、莫邪の胸はどきんと波打って、思わず足が立ちすくんだ。玄関のコンクリートの床の上、ずらずらと並べられた通夜の客の靴の中に、見覚えのあるれいの黒い長靴が、男のガニ股の形そのままに、傲然(ごう)と突っ立っていたからである。その時玄関の奥の方から、なにかたのしそうな男たちの笑い声が、どっとあふれるようにこちらに流れてきた。通夜の宴がたけなわなのであろう。

「ここにも黒い紳士がいる!」

 莫邪はそっと敷居をまたぎ、肥った自分の身体を玄関の内に運び入れた。靴の裏皮に食いこんだ小石が、コンクリートの床面に摺(す)れて、ギチギチと厭な音を立てる。駅の歩廊でみとめたのは、莫邪の酔眼の見違いではなく、やはりあの黒服の後姿にちがいなかったようである。山形某も川口某も人見干将の友人であるのだから、黒い紳士が両者に対して、同じく友人であるということもあり得るだろう。それを厭らしい偶然だとは、莫邪は毛頭考えなかった。ただそこに脱ぎ捨てられた黒い長靴の形に、莫邪は胸の内側に一瞬ぼんやりした不快な焮衝(きんしょう)のようなものを感知して、思わず眼をそこから外らした。この通夜の宴席で、この長靴の主は、どんな役割を果たそうとしているのだろう。頭のすみでチラとそんなことを考えながら、莫邪は姿勢をととのえ、奥の部屋にむかって低い声で案内を乞うた。なんだか自分の声じゃないような気がしながら、莫邪はその呼び声を二三度くり返した。

[やぶちゃん注:「焮衝」本来は「身体の一局部が赤く腫れて、熱を持って痛むこと・炎症」の意。換喩。]

 

     溶 け る 男

 

 川口玩具製造工場主・川口真人(まさと)は、ある夜、自分の工場宿直室において、小使夫婦を相手に、約三時間にわたり、焼酎一升を酌(く)みかわした。小使老夫妻の勤続五周年をねぎらうためである。

 川口真人は学生時代、水上競技の選手をやった位だから、体軀も堂々として、酒も相当につよい。しかしその夜は、小使夫婦があまり飲まなかったし、川口自身の空(す)き腹のせいもあって、酔いの廻りがなかなか早く、瓶が残り少なになる頃から、呂律(ろれつ)が廻らなくなってきた。身体も言うことをきかなくなったらしく、便所の行き帰りなどにウオオウオオと唸(うな)り声をはり上げて、工場の板の間をごそごそと這(は)い廻ったりした由である。その揚句、宿直部屋を妓楼の一室と思い誤り、妓(おんな)を三四人呼べと強要し、小使夫婦をたいそう困らせた。

 工場の宿直室から、宵(よい)果てて、川口真人がどの道を通り、どんな風(ふう)にして帰って行ったかは、一切わからない。

誰も知らない。

 そして翌朝早く、この川口工場主の身体は、方角違いの某駅近くの崖下に、横たわって発見された。墜落(ついらく)したままの姿勢で、彼は顔を半分泥に埋め、すっかり息絶えていたという。

「保線工夫の方がそれを見、つけて――」黒い絹地の袖口から、白い襦袢(じゅばん)のふちを引出して、トミコ未亡人は眼の下をちょっと押えて見せた。黒白の布地はふれあって、さらさらと乾いた音を立てた。「すぐ警察に連絡して、それで警察からこちらへ、電話で知らせがありましたのですの」

 窮屈そうに膝をそろえて、人見莫邪はそれを聞いている。肥っているので、坐ると洋服の膝が盛り上ったようになる。その膝にのせた掌の血色もよすぎるし、額や頰の皮膚もほのぼのとあからんでいる。この男はここに来る前に、どこかで一杯飲んできたに違いないと、トミコ未亡人はとっさに見当をつけてしまっていた。莫邪は手をもじもじと上げて、カラーと頸(くび)筋の間に指をさしこみ、それを弛(ゆる)めるような動作をしながら、チラチラと祭壇の方を眺めていた。祭壇の正面には、故川口真人の大きな引伸し写真が、取澄ました顔をこちらに向けていた。低いわざとらしいせきばらいが二つ三つ、莫邪の咽喉(のど)から洩(も)れて出た。

「それで、やはり――」器用に追悼の表情がつくれなくて、莫邪は困ったような声を出した。「やはり、その、ずいぶんお酔いになったんで、それで――」

「間違って、おっこちたんですわ。それに生憎(あいにく)とあの夜は、闇夜でございましたし」と未亡人はくやしそうな声でひきとった。「工場の方で気を利かせて、引きとめてさえ呉れれば、まさかこんな羽目にはねえ――」

「そうです。そうです」初めて共感できた顔つきになって、莫邪はしきりに合点々々をした。そしてそれでもすこし言い足りない気持になって、急いで言葉をついだ。「こんなことは、はたの者が、よく気をつけて上げなくちゃあ。とにかく、板の間を這ってあるくほど、お酔いになっていらっしゃったそうだし――」

 三間つづきの部屋の、仕切りの唐紙(からかみ)を全部とりはずして、細長い通夜の座となっている。祭壇がしつらえてあるのは、その一番奥である。祭壇のそばに、黒金紗(きんしゃ)の喪服をまとって、トミコ未亡人がきちんと坐っている。喪服がよく似合って、頸筋がぬけるように白い。そのつややかな皮膚のいろは、人世の幸福とでもいったようなものを、瞬間何となく莫邪にかんじさせた。それをごまかすように莫邪は眼をパチパチさせ、頭をかるく下げながら、ことさら殊勝な声を出した。

「本来ならば、兄が参上する筈でございましたが、今夜はとりあえず、私が代理といたしまして――」

 しびれた膝を横にずらして、莫邪はやっと祭壇にむきなおった。香炉からは焼香の煙が、幽(かす)かにゆらゆらと立ち昇っている。ポケットから香奠(こうでん)包みを二つとり出して、作法通り台の上にそっと積み重ねた。兄のぶんと、自分のぶんのつもりなのである。そして莫邪は両掌を合わせ、顔をすこしあおむけて、額に入った写真をしばらく眺めていた。写真の川口真人氏の顔は、口を真一文字にむすび、アザラシみたいな表情でじっと莫邪を見おろしている。

(――なんてリアリティのない顔だろう!)

 そう思いながら、やがて莫邪はそこから眼を外らして、こんどは銀色の造花のはなびらや焼香台の上のものを、吟味するように眺め廻していた。台の端のところに、玩具の小さな象や狸(たぬき)や熊などが、五六箇ならべて飾ってある。その不似合いな配置が、ふと莫邪の視線をとらえた。それら玩具の動物たちは、そろって祭壇の方に尻をむけ、その小さく透明なガラスの目玉で、通夜の座のざわめきを無感動に見張っている。自分が見詰められているような気がして、莫邪はちょっとたじろいだ。側からトミコ未亡人のしずかな声がした。

「これが今度つくった、工場の新製品なんでございますのよ」

 次の部屋から、居並んだ弔間客たちの話し声や笑い声が、にぎやかに流れてくる。皿や盃の鳴る音もする。莫邪はぴょこんと仏前に頭を下げて、なにかあわてたように厚ぼったい座布団をすべり降りた。その動作を、未亡人の眼がつめたく眺めている。やっと役目を果たした面(おも)もちになって、莫邪は膝の上でなんとなく掌をこすり合わせた。

「ご焼香ありがとうございました。さ、どうぞこちらヘ――」

 そう言って未亡人が手をあげたので、黒い喪服の袖口からなめらかな二の腕が、しろじろとすべり出た。まぶしそうに顔をそむけて、莫邪は通夜の宴の方に眼をうつした。

そこらは莨(たばこ)の煙がいっぱいこもっていて、人影がちらちらと揺れたり動いたりしている。その中に黒っぽいひとつの姿を、彼の視線は寸時にしてとらえていた。腰をなかば浮かしながら、そこに眼を据(す)え、莫邪は思い切り悪くたずねてみた。

「あの黒い服を着た方も、やはり御主人の、学校時代のお友達かなにかで――」

「いえ。あの方は――」と未亡人の軀(からだ)がしなやかに伸び上る気配がした。「あの人はたくと、たしか御同業の方なんですのよ。やはり玩具の方の関係で――」

 莨の煙をゆるがしながら、あたらしい弔問客が部屋に入ってきたので、会話がふいにそこでとぎれてしまった。そこで莫邪は敷居ぎわまで後ずさりして、不器用に立ち上った。脚がしびれて、すこしよろよろする。そばの柱につかまりながら、この通夜の宴に加わるべきかどうか、莫邪はふととまどう表情になっている。あの黒服の男をのぞけば、見渡す通夜の客たちは、彼の見知らぬ顔ぶればかりであった。

 祭壇のそばでトミコ未亡人が、新参の弔問客にたいして、亡夫の横死の前後の事情を、再びくどくどと話し始めている。さきほど莫邪が聞いたその話と、順序から口調から、それはそっくり同じであった。喪章をつけたその歳若い客人は、先刻の莫邪と同じく、頭を垂れたかしこまった恰好で、それに神妙に聞き入っている。柱につかまったまま、よく動く未亡人のうすい唇を、莫邪は横目でチラとぬすみ見た。

「退屈な夜だな。もう帰ろうかな」未亡人の前では殺していた酔いが、じわじわと身内に戻ってくるのを感じながら、莫邪は口の中でうんざりしたように呟いた。「しかし帰るのも勿体ない話だな。香奠は払ったんだし――」

 通夜の座はすでに闌(た)けて、乱れを見せ始めている様子であった。酒盃やコップがしきりにやりとりされ、話し声や笑い声が雑然と湧き起っている。座の温気(うんき)にむされて、外気をさえぎるガラス戸の表面には、つぶつぶの水滴がいくつも宿り、するすると流れ落ちている。夜気のつめたさを、それは思わせた。莫邪はしずかに次の部屋に足を踏み入れた。

 

「どこかでお見受けしたようですな。ええと、どちらでしたかな」

 莫邪が盃を乾すと、かさねて徳利をつきつけながら、黒服の男はそう言った。貧乏ゆすりをしながら、ひどくうれしそうな、浮き浮きした声である。上機嫌に眼をあちこち動かして、落着いて返事を聞こうとする様子もない。

「ええ。さきほど、昼間にね」

 どうでもいいような気分になって、莫邪はそう答えている。そしてまた盃をぐいと乾(ほ)してしまう。安手な素焼の大きな酒盃であった。黒服の男が伸ばした徳利の口が、再びその縁にコツンとぶつかってくる。

「さあ、さ。早く飲まなくちゃ」

「大きな盃ですな。これは」

「なあにね、これは駅売りの茶瓶の蓋(ふた)ですさ」と黒服の男は肩を揺すって大声で笑い出す。「川口って奴は、ケチな男でね。旅行に出たって、そんなものを一々持って帰るんだ」

 莫邪の右手の方では、二三人の男が額をあつめて、切れたトカゲの尻尾は生きているかどうかということを、しきりに議論しているし、左手の席では、眼鏡をかけて顔のしわくちゃな男が、気狂い病院の話を、手振りを交えて相手に聞かせている。

「息子が気狂いだというんでね、その親爺さんが、息子をだましだましして、松沢病院に連れこんだとさ」

「ふん。ふん。それから?」

「そしたら診察の結果ね、息于さんは無事に帰されてさ、親爺さんが病院に入れられたという話なのさ。嬉しい話だね」

[やぶちゃん注:「松沢病院」東京都世田谷区にある精神科専門病院として古くより知られた都立松沢病院。現在は他の各診療科を備えた総合病院となっている。それまで東京市巣鴨にあった精神病院である東京府巣鴨病院が大正八(一九一九)年に現在地に移り、「東京府松澤病院」として診療を始めたのが始まりで、敷地面積も広大で、分棟式建物が並び、当時から開放病棟や作業場が建てられているなど、先進的な精神病院である。「松沢」は原立地の旧村名(当該ウィキに拠った)。]

 黒男は大きな笑い声を立てながら、莫邪にむきなおる。

 「そうだろな。なにしろケチな男さ。勤続五年のお祝いに、焼酎一本だとよ。その揚句に、崖からおっこちたりしてさ。ふふん、だ」

 それから暫く時間が経つ。莫邪はぼんやりした眼付で、向うの祭壇の方を眺めている。敷居や鴨居(かもい)にくぎられて、祭壇のある次の間全体が、額縁に入った異質な別世界のように見える。そこにトミコ未亡人が先刻と同じ姿勢できちんと坐っている。その喪服姿はふと遠近感をうしなって、べったりと平たく眺められてくる。言いようもない退屈な感じが、そこらにうすうすとただよっている。そして祭壇の奥からは、川口真人の照影が、無意思な視線をこちらにそそいでいる。莫邪は急に酔いが廻ってきて、死んだ章魚(たこ)のように身体がだるくなってくるのを、ありありと自覚した。

「板の間をゴソゴソ這ったりして、さ」莫邪は盃をおいて、誰にともなく口真似をしながら、両手で畳のケバをそっとかきむしってみる。「ふん。きっと玩具の熊の真似をしたんだな、あの工場主は」

「台湾の葬式には、泣き女というのがいてね」別の声がキンキンと耳の中に入ってくる。こちらに話しかけているのかどうかは判らない。「それが代表して泣いて呉れるんだよ。日当をもらって、葬列の先頭に立ち、ワアワア泣いて歩くんだ」

「悲しくもないのに、よく泣けるもんだね」

「そりゃ泣けるさ。ふだんから練習しているんだからね。でも、泣くってことは、大してむつかしいことじゃないさ。本来笑いと同じタチのものなんだ」

[やぶちゃん注:「泣き女」葬式に際して雇われて号泣する女性。現在の日本では職業としては存在しないものの、旧習として存在し、中国・朝鮮半島・台湾・ベトナム及びヨーロッパ・中東など、汎世界に散見される伝統的な習俗で、嘗ては職業としても存在していた。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。]

 時間がのろのろと動く。莫邪は柱にもたれて、鬱然とあぐらをかいている。その右の膝がいつの間にか、ひとりでに貧乏ゆるぎをしている。莫邪はそれを動くに任せながら、忌々(いまいま)しく視線をそこにおとしている。そして思っている。(すこし変だな)すり切れかかったズボンの膝頭が、そこだけ独立した生き物のように、しきりに小刻みに律動している。(これが動いていることだけが、今は確実なようだな。しかしそれにしても――)

 「日本という国は、つまり早く亡びてしまえばいいんだ」

 向う側から太いだみ声がやってきて、それがいきなり莫邪の思念を断ち切ってしまう。頭を総髪にした大きな顔の学者風の男が、小型の本のある頁を掌でピタピタと叩きながら、勢いこんでしゃべっている。

「この小説の中に、ペチェネーグ人というのが出て来るんだ。その註に、こういう説明がしてある。その説明がよ、ほんとに、おれの気に入ったんだ。いいか。読むぞ。中世ヴォルガ、ドナウの間に遊牧生活を営んだトルコ系の民族。近世に入って近隣諸民族の圧迫を受け。いいか。遂にはマジャール族と混淆して跡を絶った。な、跡を絶ったとさ。いいじゃないか。サッパリしていてさ。跡を絶つんだってさ。まことにサッパリしたいい言葉だ。そこで我が大和民族も――」

[やぶちゃん注:「ペチェネーグ人」当該ウィキによれば、「ペチェネグ」(Pechenegs:英語)は八世紀から九世紀に『かけてカスピ海北の草原から黒海北の草原(キプチャク草原)で形成された遊牧民の部族同盟』及びその構成民族の名。九『世紀末に遊牧民のハザール人とオグズ人の圧迫によって黒海北岸の草原に移住し、そこからフィン・ウゴル系の遊牧民マジャル人(後のハンガリー人)』(☜)、『ならびにスラヴ系の農耕民ウールィチ人、ティーヴェルツィ人を追い出した』。十『世紀を通じて』、『キエフ・ルーシ、ブルガリア、ハンガリー王国、ビザンツ帝国などの隣国と抗争を繰り広げた』。十一『世紀末に、遊牧民のポロヴェツ(クマン、キプチャク)に圧迫されて』、『ドナウ川を越え、ビザンツ帝国領内へ移住した。残った人々は、ポロヴェツに同化した』。『ペチェネグ人の系統に最も近い現存する民族はガガウズ人である』とあり、『「ペチェネグ」とはテュルク系の言葉で「義兄弟」を意味する』とある。]

 莫邪はしだいに瞼が重くなってくる。疲労と酔いがかさなって、全身の筋や関節から、力と張りをうばって行くらしい。時々引っぱり上げるように瞼を見開いて、彼は盃の方に手を伸ばす。祭壇のある部屋は、さっきと同じくきちんと仕切りにおさまっていて、トミコ未亡人の姿がその片隅に、象眼(ぞうがん)されたように端然とすわっている。盃をとる度に義務のように、莫邪はその方に眼を走らせる。

(辛いだろうなあ)その度に莫邪の皮膚の表面をそんな思いがちらと駆けぬける。(皆がこうして楽しく飲んでるというのに、罰を受けた生徒みたいに、あそこに坐っていなくてはならないなんて)

 しかしあの祭壇の部屋と、こちらの宴会の空気の食い違いも、もうそれほど莫邪は気にならなくなっている。古風で陰気な絵が壁にかかった居酒屋だと思えば、すっかりラクな気持ではないか。その莫邪の肩を、前に坐ったあの黒服の男の掌が、やがて勢よく叩く。

「おい。眠ってるのかあ。しっかりしろよ。おい」

 いつか座は雑然と乱れ果て、人影がそこらを行ったり来たり、またぼつぼつと櫛(くし)の歯がかけるように、立ち上って帰って行く客もあるらしい。戸をあけたてする毎に、玄関の方からひやりとつめたい空気が流れてくる。その都度莫邪はびくりと頰を動かして、柱から頭をもたげる。がやがやした騒音も、もはや大部分は素通りするだけで、いっこうに莫邪の耳の底にたまってこない。莫邪はけだるく鈍磨した心の片すみで、さっきの話の中の泣き女のことなどを考えている。日当を貰って泣いて見せるなんて、なかなかいい商売だな。こういう商売は、失業する憂いはないだろうなあ。考えがそこらあたりを堂々めぐりして、すこしも先に進んで行かない。しかし自分が失業中の境遇であることが、こんな酔いの底でも、まだ莫邪の胸をにぶく押しつけている。それがこの一座の溷濁(こんだく)した空気とあいまって、根源のない悲哀じみた感じとなって、ともすれば膜のように莫邪の全身をつつんでくる。日曜日の夜小学生がかんじる悲哀に、それはどことなく似かよっている。何しろ久しぶりに、しかも昼間からぶっつづけに飲んだんだからな、と思いながら、莫邪はなげやりな手を伸ばして、また素焼の盃をとり上げる。乱立した徳利もほとんど空になっていて、横だおれになったり、畳にころがり落ちたりしている。

 向うの方で、誰かが呂律(ろれつ)の乱れた調子で、俗謡をうたい出す声がする。

 黒服の男は歯をむき出して、間歇的(かんけつてき)に鶏のような笑い声を立てながら、しきりに洋服の袖をまくっている。

「愉快だなあ。ええ。今夜という今夜は」

 剛(こわ)い毛が密生したタラバ蟹みたいなその腕は、酔って血管がふくれ上って、全体が赤黒く変色している。なにか無責任な放恣(ほうし)をたたえ始めた一座の空気の頂角で、この黒男は唇のはしに白い唾をため、キョロキョロとあたりを見廻し、うきうきとしゃべったり笑ったりしている。

「ええくそ。こんな愉快な宴会は久しぶりだぞ。よし。ひとつ俺が、おどってやろうか」

 男が腕をふりまわす度に、アカギレの膏薬に似たにおいが、かすかにそこから流れてくる。鼻にこもってくるような、妙に刺戟的な体臭だ。そのにおいを嗅いだだけで、莫邪は突然この男を憎む気持になっている。布団のなかでふと自分の体臭を嗅ぎ当てたような、そんなやり切れなく屈折した嫌悪感が、莫邪の眉根を瞬間にくもらせている。

「人が死んだってなあ、しょげることはないさ」男の腕がはずみをつけて、莫邪の肩をがくがくと揺すぶる。「人が死んだってことは、残りの人間が生きてるってことさあ。なあ。そうだろう。なあ、おい」

「しょげてなんか、いるもんか」

 眉をしかめたまま、莫邪はそんなことを口の中で、もごもごと呟く。そしてしょげていない理由を説明しようとして、急に面倒くさくなってしまう。

 

 午後十時。人見莫邪の朦朧(もうろう)たる視界。

 そこに誰かが立って、卓をふまえるようにして、演説している。故川口真人の徳をたたえ弔意を表しているらしいのだが、あたりががやがやしているし、入れ歯が抜けたような声なので、なにをしゃべっているのかさっぱり判らない。

 れいの黒服の男は上衣を脱ぎすてて、足をぴょんぴょんさせながら、そこら中を踊り廻っていた。座についている客は、もうほとんどない。

 酒肴(しゅこう)のたぐいはおおむね片づけられて、火鉢や空膳だけがばらばらと残っている。危い足どりでその間隙を縫いながら、その黒い姿は手を伸ばしたり縮めたり、足を交互にはねあげて、出鱈目(でたらめ)な踊りをおどっている。

 ふらふらする足を踏みしめて、玄関に出る敷居の上に莫邪は立っている。もうそろそろ帰ろうと思うのだが、今眼の前のこの風景は、しごくありふれたような、また奇怪極まる状態のような気もして、どうもそこらがハッキリしない。自分がここに立っていることすら、ふしぎに現実感がない。

「――いちりっとらん。だんごくってし」と黒服の男はどら声をはり上げながら、ひょいひょいと奥の間の方に飛ぶように踊って行く。「しんがらほっけきょ。ほうほけきょ」

 川口未亡人にも一度あいさつして帰るべきかどうか、莫邪は乱れた頭でふと迷っている。むらがりおこる騒音が、頭の外側にあるのか、内側で鳴っているのか、とにかく莫邪の神経をざわざわとかきまわしてくる。……誰かがしきりに押してくれるような気がする。押されたまま無抵抗に莫邪は動いているー。――

 そしていつ靴を穿(は)いたのか、どうやって玄関を出たのか、莫邪は模糊として記憶がない。いつの間にか、ふわふわする地面を踏んで、彼はよろよろと歩いている。眼の先は悪夢のように溷濁(こんだく)して、うすぐらく揺れている。道を間違えたらしく、なんだかひろびろしたところに出たようである。夜の光がその広がりをぽんやりと明るくしている。そして莫邪の肩に、腕がかかっている。ひどく重い。誰かが莫邪の身体にとりすがるようにして、並んでよろめき歩いている。

「まだ、遠いのかあ」声がすぐ横から聞えてくる。あえぐような苦しそうな声だ。「道は、これで、いいのか」

「お前がいいって、言ったんじゃないか」

 反射的に莫邪はそう答える。隣の男は息使いを荒くして、黙って足を引きずっている。ここをまっすぐ歩けば、駅に出るのかどうか、全然わからない。莫邪の鼻に、あの膏薬を熟したようなにおいが、ぷんと揺れるようにただよってくる。あの男だな、と莫邪は思う。思っただけで、ただそれだけだ。夜気がひりひりと額につめたい。

「――もう、ここでいい」突然ふいごのように呼吸をはずませながら、その男がとぎれとぎれ言う。急にその軀(からだ)がぐにゃぐにゃと手応えがなくなって、悲鳴を上げるように、

「こ、ここでいい。ここ。が、おれの家だよ。早く寝床にねかせてくれえ」

 男の掌はそのまま莫邪の肩から、ずるずるとずれ落ちる。ぼろ布(きれ)のかたまりみたいになって、濡れた柔かい枯草の上にくずれ折れてしまう。急に莫邪の身体はかるくなる。

 草原にうずくまって、男の軀(からだ)は洋服の中でガタガタとふるえているらしい。歯がカチカチ鳴っているのが、かすかに聞えてくる。莫邪はその瞬間、ある光景を脳裡に髣髴(ほうふつ)と思い浮べている。四角に仕切られたあの祭壇のある部屋。香の煙がゆれるだけで、あとはひっそりと鎮(しず)もっている。喪服姿の未亡人が石像のように、その片隅に端坐している。でたらめなわらべ歌をうたいながら、黒服の男が手足をぴょんぴょん動かして、その部屋に入ってゆく。歯がカチカチ鳴るような音。そして未亡人のまわりをぐるぐる踊ってあるく。いちりっとらん。踊りながら男は猿臂(えんぴ)を伸ばして、端坐した未亡人の頰ぺたを一寸つつく。ぬめつくような皮下脂肪。しんがらほっけきょ。男の脚が未亡人の腰に、よろめくふりをして、ぐりぐりと押しつけられる。未亡人の姿体がくずれて、笛のような悲鳴があがる。とたんに額縁ががらがらと崩れて、水面を引っかき廻すように、その光景は微塵(みじん)に分裂し四散する。これは現実の光景なのか。倒錯した記憶がつくりあげた、虚妄(きょもう)の場面なのか。――

「――寒いよう。寒いよう」脚の下から男がかすかにうめき声を上げている。「寒いよう。早く布団(ふとん)を着せてくれよう」

 莫邪はギョツとして脚下をすかして見て、すぐ頭を上げて忙しく四周(あたり)を見廻す。布団はどこにあるのか。どこにしまってあるのか。周囲は薄暗くひろがった枯草原のように見える。どんなに眼を見張っても、町外(はず)れにぽっかり空いた小広場のような感じしかしない。ここにはだいいち、布団をしまうような押入れすらないではないか。「寒いよう」十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ほど先に、小さな建物らしい黒い影が見えるだけだ。薄黝(うすぐろ)いもやがかかったように、そこらもチラチラとはっきりしない。寒気が急に脚下から莫邪の膝にはいのぼってくる。なにかが追っかけてくるような気がして、思わず地団太を踏みたくなる。声がうめく。

「――早くなにか呉れえ。溶けてしまいそうだ。……ああ……おれは溶けてしまう……溶けてしまうよう」

 溶けたら大変だ。暗がりのなかで、莫邪は顔色を変え、凝然(ぎょうぜん)と立ちすくむ。溶けたら大変ではないか。早くどうにかしなくては。莫邪はピョンと飛び上って、建物らしい黒い影の方角に走り出す。枯芝が靴先にしきりにからまってくる。一目散に走っているつもりなのだが、身体の中心があやふやなので、家鴨(あひる)みたいによたよた進んでいるに過ぎない。つまずきそうになって、やっと莫邪はそこにたどりつく。窓もない暗く小さな建物。ざらざらしたセメントの壁。ただそれだけ。そこらいっぱいに排泄物の臭気がわっとみなぎっている。どう考えても、と壁に荒い呼吸をはきかけながら莫邪はつぶやく。こいつは共同便所じゃないか。押入れなんかであるものか。背後のさっきの地点から、男のうなり声が断続して、莫邪の耳にとどいてくる。莫邪はあわててふりかえる。大きな掌のような植物の葉が、ふと莫邪の手につめたく触れる。八ツ手の葉。莫邪の両手は反射的にいそがしく動いて、その八ツ手の葉をいくつもいくつも引きちぎる。そしてそれを束にして、呼吸をはずませて男のところにかけ戻ってくる。

「溶けるよう。ほんとに、溶けてしまうよう……」

 傷ついた獣のようなうなり声の上に、莫邪は大急ぎで八ツ手の葉をかぶせてやる。四枚、五枚、六枚。男の黒い躯は先刻よりも平たくなって、容積もぐんと減じている。月が雲から出たのか、四周(あたり)がすこしずつ明るくなってくる。男の軀は半分ぐらいに、減ってしまったようだ。駈けて一回往復しただけで、頭がふらふらして、前後もあやふやになっている。呼吸をはずませながら、しかし莫邪は自分では確かなつもりで、脚下の黒いかたまりに眼を近づける。そこらでプチプチプチとかすかな音がする。そして堪え難そうに男がまたうなる。これは身体が溶けてゆく音ではないか。莫邪は我を忘れて又飛び上って、黒い団子のように枯草原を便所の方に駈けてゆく。そして二分ほどして、ハアハアとあえぎながら、八ツ手の葉の束をかかえて駈け戻ってくる。そしてあわててそれらをばらばらと、男の軀の上にかぶせてやる。

「……溶けるよう。溶けてしまうよう……」

 男の声はだんだん幽かに、だんだんもの哀しくなっている。確かに更に容積が小さくなったようだ。黒い男の洋服は、中味を盗まれた米袋みたいに平たくなり、ズボンなどはほとんどぺちゃんこになっている。莫邪はぎくりとする。八ツ手の葉がその上に、不気味な掌のように、いくつも重なり合っては乗っている。莫邪は思わずはげますように口走る。

「――溶けないで。まだ溶けないで!」

「……溶けるよう。溶けるよう……」

 莫邪はまた走り出す。汗ばんできた顔で寒気を押し分けながら、一生懸命に走って行く。葉をいっぱい両手にかかえて、駈け戻ってくる。そしてまた駈け出す。心臓が破裂しそうになって、駈け戻ってくる。葉の束のまま地面にとり落して、そして、莫邪は胸郭を烈しく起伏させながら、声にならない嘆声を洩らす。

「――もう、すっかり、溶けてしまった」

 散らばった八ツ手の葉の下で、黒い姿は完全にぺちゃんこになり、もううめき声も聞えないし、身動きもしない。黒々とした枯草に吸いこまれたように、男の軀はすっかり体積を失ってしまっている。この見知らぬ草原に、唯一人になったことに気付いて、突然言いようもない寂寥感(せきりょうかん)にとらわれて、莫邪は思わずあたりを見廻している。この小暗い闇の色は、なんとしんしんとして、なんとひえびえとしていることだろう。背中や腹のべたべたした汗が気味悪く冷えてくるのを感じながら、莫邪はも一度脚下のふしあわせな同行者の残滓(ざんし)に、しみじみと顔をちかづける。散乱した八ツ手の葉の間から、小さな南京玉みたいな粒が二つ、くろく幽かに光っている。それだけを残して、あとの部分は、すっかり地面に同化し溶解し去っている。莫邪は肩をおとして、声を出して大きく溜息をつく。

「目玉だけ残ったって――」痛いような悲しいような気分になりながら彼は思う。「もう仕方がないさ。このおれだって、一生懸命にやったんだもの」

 もうこの位でいいだろう。莫邪は脚をあげて、男が溶解したそこらの地面を、八ツ手の葉の上から二三度踏みならす。そしてくるりと背をむけて、完全な孤独な酔漢の歩きかたになり、燈も見えない闇の中を、泳ぐように歩き出す。

 

2022/09/24

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 明智左馬介の死期

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文は後に〔 〕で訓読を示した。]

 

     明智左馬介の死期 (大正十四年十月變態心理第十六卷第四號)

 

 變態心理九月號二五頁、下澤瑞世氏の「六十代老人の文化能力」中に、明智光俊が六十五歲で例の湖水乘切《のりき》りを行ふたやうに記されてあるのは、何に據つたものであらうか。飯田氏の野史二七九で見ると、左馬介光俊、或は光春、又、光昌という。光秀の叔父光安の子なり。光安、齋藤道三に仕へ、弘治二年、道三、其子義龍に殺された時、光安、明智城に據つて義龍を拒《ふせ》ぎ、敗死の際、其子光俊を、自分の亡兄光綱の子光秀に托したとあれば、光俊は光秀の從弟で年下である。明智系圖には、光秀、享祿元年生《うま》るといへば、天正十一年五十五歲で死んだので、明智軍記に載せた辭世に、五十五年夢、覺來歸一元〔五十五年の夢、覺(さ)め來(きた)つて一元に歸(き)す〕とあるのに合ふ。明智系圖には、左馬介を光秀の弟としてあるが、五十五歲で死んだ光秀の弟が、光秀に一日後れて、六十五歲で自殺したとは受取れぬ。されば近江輿地誌略一六に、左馬助、安土城に火をかけ、坂本城へ急ぐ途上、堀秀政と打出濱《うちではま》に戰ひ、辛うじて、坂本城に入り、叔父光廣六十七歲、左馬助四十六歲で、光秀の妻女諸共《もろとも》、自殺したとあるが正しく、光俊は六十五歲でなく、四十六歲で湖水を乘切つたと見える。

[やぶちゃん注:「明智左馬介」は本名を明智秀満(天文五(一五三六)年?~天正十年六月十四日(一五八二年七月四日):このウィキの生没年の数字に拠るなら、享年は四十七となる)という。私は鎌倉史ばかりがテリトリーで、戦国史以降には興味がなく、冥い。彼の名と事績も先般の大河ドラマ「麒麟がくる」で初めて知ったという為体である。されば、詳しいウィキの「明智秀満」をほぼ、全部、引用しつつ、自身も学ぶ。『織田家家臣の明智光秀の重臣。女婿または異説に従弟(明智光安の子)ともいうが、真偽の程は定かではない』。『同時代史料に出る実名(諱)が秀満で、当初は三宅弥平次と称し』、『後には明智弥平次とも名乗っている』。『俗伝として光春の名でも知られ、明智光春や満春の名でも登場する』。『左馬助(左馬之助)の通称も有名』。『俗伝では幼名は岩千代、改名して光俊とも』『言い、光遠と名乗った時期があるとする説もあるが、その他にも複数の別名が流布している』。以下、「出自」の項。まず、「三宅氏説」。『秀満は当初、三宅氏(三宅弥平次)を名乗っていた。三宅氏は明智光秀の家臣として複数の名前が確認できる。また俗伝では、明智光秀の叔父とされる明智光廉が三宅長閑斎と名乗ったとも言われる。一説には父の名を三宅出雲、あるいは美濃の塗師の子、児島高徳の子孫と称した備前児島郡常山の国人・三宅徳置の子という説もある』。次に「明智氏説」。「明智軍記」『などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると』、『次男)であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。ただ』、『西教寺所蔵明智系図によれば、実際に明智光春と言う人物は存在せず』、「系図纂要」か「明智軍記」での『名であり、明智光春の正式名は明智光俊であるとも』される。以下、「遠山氏説」。『明治期に阿部直輔によって謄写校正された』「恵那叢書」に『よると、明智光春(秀満)の父・光安が美濃国明知城主である遠山景行と同一人物とされており、それを参考にして遠山景行の子である遠山景玄が明智光春と同一人物、そして明智光春が秀満ではないかとの説が出されている。遠山景玄は元亀元年』(一五七〇年)『の上村』(かみむら)『合戦で戦死しているが、この説によると』、『史料の不整合もあり』、『誤伝であると』する。『また』、『遠山景行の妻が三河国広瀬城主三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだという補説もある。以下、「その他」の条。「細川家記」には『塗師の子であると書かれており』、「武功雑記」では『白銀師』(はばきし:刀身の手元の部分に嵌める金具を作る職人)『の子であったと伝えているが、いずれも信用できない』。以下、事績。『秀満の前半生は』、「明智軍記」を『始めとする俗書でのみ伝わっているが、それは秀満の出自を明智氏と断じていることに留意する必要がある』。『明智氏説では、明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが、』弘治二(一五五六)年、『斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ』、『落城。その際に父は自害したが、秀満は光秀らとともに城を脱出し』、『浪人となったとする』。天正六(一五七八)年『以降に光秀の娘を妻に迎えている』(「陰徳太平記」)。『彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため』、『離縁されていた』。『その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは』天正一〇(一五八二)年四月である。その前年天正九年には、『丹波福知山を預けられて』、堺の商人で茶人の『津田宗及』(そうきゅう)『が当城を訪れた際に、これを饗応して』おり、天正十年まで『在城したとされている』(「御領主様暦代記」)。天正十(一五八二)年六月二日の「本能寺の変」では『先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き』、十三『日の夜、羽柴秀吉との』「山崎の戦い」で『光秀が敗れたことを知』り、十四『日未明、安土を発して坂本に向かった』。『大津で秀吉方の堀秀政と遭遇するが、戦闘は回避したらしく坂本城に入った』(これが本篇に出る「湖水乘切り」。後述される)同『日、堀秀政は坂本城を包囲し、秀満は』、『しばらくは防戦したが、天主に篭り、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名物が無くなる事を恐れて、これを荷造りし、目録を添えて』、『堀秀政の一族の堀直政のところへ贈った。このとき』、『直政は目録の通り請取ったことを返事したが、光秀が秘蔵していた郷義弘の脇指が目録に見えないが』、『これはどうしたのか』、『と問うた。すると秀満は、「この脇差は光秀秘蔵のものであるから、死出の山で光秀に渡すため』、『秀満自ら』『腰に差す」と答えたとされる』。同『日の夜、秀満は』、『光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺した後、腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる』(「川角太閤記」)。『その振る舞いは戦国武将の美学を具現化したようなもので、敵方も称賛している』(「惟任退治記」)。『秀満の父は』、『秀満が死去した後』、『間もなく』、『丹波横山で捕らえられ』、七月二日に『粟田口で磔にされたとあり』、「言経(ときつね)卿記」では、『この父の年齢を』六十三『歳としている』。「島原の乱」で『戦死した肥前国富岡城城代三宅重利は』、『秀満の遺児であったとする説がある』。以下「逸話」の項。『光秀は亀山を出発する前に謀反を起こす決意を告げ、一同が黙っていた中で』、『秀満が』、『まず』、『これを承諾したために、残る四人も承諾したとされる』(「信長記」)。『また別の末書によると、光秀は』二十九『日に亀山に戻り、はじめ』、『秀満に謀反の相談をしたが』。『その諌止にあい、次に利三ら四人に相談したが』、『四人とも反対した。そのため』、『光秀は躊躇したが、翌日』六月一日に『なって、さらに秀満に事の次第を告げたところ、秀満は』、『すでに四人にも語った上はもはや躊躇すべきではないとし、謀反を起こさせたとしている』。なお、『安土城退去の際、秀満軍が天主や本丸に放火したとされてきた』(「秀吉事記・「太閤記」)が、『フロイスの書状によると』、『安土城は織田信雄が焼いたと述べている。信雄は蒲生氏郷らと秀満の去った安土にすぐに入ったのであり』、「兼見卿記」に『安土城の焼失を』十五『日のこととしていることから考えると、安土城を焼いたのは秀満ではなく信雄であろうとされている』。『琵琶湖の湖上を馬で越えたという「明智左馬助の湖水渡り」伝説が残されている。光秀の敗死を知った秀満は坂本に引き揚げようとしたが、大津で堀秀政の兵に遭遇した。秀満は名馬に騎して湖水渡りをしたということになっている。狩野永徳が墨絵で雲竜を描いた羽織を着用し、鞭を駒にあてて琵琶湖を渡したというものもある。騎馬で湖水を渡ったという逸話の初出は』「川角太閤記」で『あるが』、『真偽は不明で』、『実際は、大津の町と湖水の間の道を』、『騎馬で走り抜けたというのが真相らしい』。『坂本城を敵に囲まれて滅亡が迫る中でも逸話がある。坂本城に一番乗りしようとした武士に入江長兵衛という者がいた。秀満は長兵衛と知己があり』、『「入江殿とお見受けする。この城も我が命も今日限り。末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい」と声をかけた。長兵衛は「何事であろう」と尋ねると』、『「今、貴殿を鉄砲で撃つのは容易いが、勇士の志に免じてそれはやめよう。我は若年の時より、戦場に臨むごとに』、『攻めれば』、『一番乗り、退却の時は』、『殿』(しんがり)『を心とし、武名を揚げることを励みとしてきた。つまるところ、我が身を犠牲にして、子孫の後々の栄を思っての事だった。その結果はどうであろう。天命窮まったのが』、『今日の我である。生涯、数知れぬ危機を潜り抜け、困難に耐えて、結局は』、『かくの如くである」と述べた。そして「入江殿も我が身を見るがよい。貴殿もまた我の如くになるであろう。武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」と述べた』(「武家事紀」)。『秀満は今日の我が身は明日の貴殿の身だと、一番乗りの功名を挙げても武士とは空しいものと言いたかったのである。そして秀満は話を聞いてくれた餞別として黄金』三百『両の入った革袋を投げ与えた。秀満の死後、長兵衛は武士を辞め』、『黄金を元手に商人となって財を成したと伝わる』。『光秀が津田宗及を招いて茶会を』二『度ほど催しているが、その際に饗応役を務めており、文化人としての知識もあったようである』(「宗及記」)とある。

「下澤瑞世」(しもさわずいせい ?~昭和六(一九三一)年)は著作物を見るに、文化心理学者のようである。

「飯田氏の野史」飯田忠彦(寛政一〇(一七九九)年~万延元(一八六〇)年:徳山藩(萩藩)出身で出奔し、後に宮家に仕官した国学者・歴史家)が「大日本史」の続編編纂を志して嘉永元(一八四八)年頃までに編纂を終えた「大日本野史」のこと。後、飯田が「桜田門外の変」に関与したとの容疑で逮捕され、それに抗議して自害したという事情もあって、原本は散逸して現存しないが、完成後、飯田が人に乞われて印刷に付されたものを元に、明治一四(一八八一)年、遺族の手で刊行された。

「弘治二年」一五五六年。

「享祿元年」一五二八年。但し、一説に生年を永正一三(一五一六)年ともする。

「光秀」「天正十一年五十五歲で死んだ」死亡年は「天正十年」の誤り。一般に天正十年六月十三日(一五八二年七月二日)に、坂本城を目指して落ち延びる途中、亡くなったことになっている。享年は五十四となる。

「明智軍記」元禄初年から十五年(一六八八年~一七〇二年)頃に書かれたとされる、明智光秀を主人公とした軍記物。著者不詳。全十巻。当該ウィキによれば、光秀の死後百年ほど経った頃に書かれた軍記物であり、『誤謬も多く、他書の内容と整合しない独自の記述が多くあって』、『裏付けに乏しいため、一般的に史料価値は低い』『とされる』とある。以下の辞世の当該箇所は「東京国立博物館デジタルライブラリー」の「明智軍記巻十二」の右上の「ページ一覧」から「16」コマ目をクリックされたい。

「近江輿地誌略」享保一九(一七三四)年に完成した近江国の自然や歴史等について纏めた地誌。膳所藩主本多康敏の命を受け、同藩士で藩儒で侍講でもあった寒川辰清(さむかわたつきよ 元禄一〇(一六九七)年~元文四(一七三九)年)が編纂したが、寛政一〇(一七九八)年に当時の藩主本多康完(やすさだ)によって幕府に献上されるまで、成立から実に六十五年もの間、秘匿されていた。]

2022/09/23

西原未達「新御伽婢子」 禿狐

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。

 注を段落末に挟んだ。]

 

     禿狐(かぶろきつね)

 都、西洞院(にしのとうゐん)柳(やなぎ)の水(みづ)の町といへる有り。此所に名水ありて、淸々冷々(せいせいれいれい)たる事、他(た)に異(こと)にして、いかなる旱魃にも、水、かはく色なく、洶々《きようきよう》として溢流(あふれなが)る。俗、呼(よん)で「柳の水」といふ。

[やぶちゃん注:京都府京都市中京区柳水町(りゅうすいちょう:グーグル・マップ・データ)。「京都市歴史資料館」の『情報提供システム 「フィールドミュージアム京都」』の「柳の水」によれば(コンマを読点に代えた)、『この地は、平安時代末期には崇徳院』『の御所があった所で,清泉があり』、『柳水として有名で千利休』『も茶の湯に用い,側に柳樹を植え』、『直接』、『陽が射すのを避けたと伝える。近世初期には、織田信長の息信雄』『がこの地に住し、寛永初年に北野五辻に移った後,肥後加藤家京邸となった。貞享年間』(一六八四年~一六八七年)『以降』、『明治』三(一八七〇)年『まで』、『この地に徳川御三家の一つ、紀州和歌山藩の京邸があった。この石標は、名水柳の水を示すものである。なお、この地を柳水町というのは,この柳の水に因むものである』とある。

「洶々」水音が騒がしいさま。]

 此町の何某(なにがし)とかやいふ人、南の橫小路聖(よここうぢひじり)町といふ處、友達のもとへがり、行《ゆき》て、夜半(よは)過《すぎ》て、我がかたに、歸る。

[やぶちゃん注:「南の橫小路聖町」現在の京都市中京(なかぎょう)区西ノ京南聖町(にしのきょうなんせいちょう)か。距離にして西に一キロほどの直近である。]

 西のとうゐんの辻にて、門のくゞりに、さしかゝりたるに、何者哉(や)らん、後(うしろ)より、ほそ腰に、いだきつきて、引《ひき》とゞむる、其重さ、磐石(ばんじやく)のごとし。

[やぶちゃん注:「西のとうゐんの辻」現行、西洞院通(にしのとういんどうり)は柳水町を南北に貫通しており、殆んど自分の家に近い。或いは、彼は独り者で、助力する者が周囲にもいなかったため、彼は帰って来た道を、再び、友人宅で戻ったのであろう。

「門」各町内に設置されてあった背戸であろう。]

 此男、あくまで不敵の人なりければ、

「心得たり。」

と、先(まづ)、兩の手を妻手(めて)にてとらへ、弓手(ゆんで)にて、後(うしろ)をつかむに、着物のやうにもあり、毛の生(おい)たるやうにも覺えて、

「むくむく」

と、したるを、とらへながら、出《いで》こし友のもとへ、引《ひき》づり行《ゆき》て、足をもつて、戶を嗃(たゝく)に、人々、驚(おどろき)、

「何事ぞ。」

といふ。

「否(いや)、曲者(くせもの)ひとつ、生捕(いけどり)たり。火を見せよ。」

と、いへば、周章(あはて)て、ともし火を出《いだ》し、後(うしろ)を見るに、長く、大きなる顏の、眞黑なる、人に似て、人にも非ず、髮を、中より、かり揃(そろ)ヘて、禿(かぶろ)といふものゝかたちなるが、

「何樣(なにさま)、恠(あやしき)ものぞ。」

といふ程こそあれ。

 

Kaburokitune

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。この一枚のみ、禿狐の振袖の模様部分と、友人の掲げた手燭(てしょく)の炎の部分に赤い色が着色されている。かなり丁寧な色付けがなされており、はみだしなどは、殆んど見られず、恰も色刷りしたかのようである。少なくとも、子ども手すさびのレベルではない。手間はかかるが、この一枚だけを二色刷りとしたものがあったのだろうか? 但し、以上に掲げた勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」東京大学教養学部図書館蔵の挿絵では、拡大鏡で調べたが、彩色した形跡は認められない。

 

 縄・細引(ほそびき)などを掛(かけ)て、縛り搦(からめ)、

「さらば、手を放せ。」

と、いふに、持《もつ》たる所を、放ち、ねぢ歸り、後(うしろ)を見れば、十重二十重《とへはたへ》にからめたる、繩ばかり殘りて、何も、なし。

 いかなる所爲(しよゐ)と不ㇾ知(しらず)。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 或人の云《いはく》、「前々、此辻に、十四、五なる禿、出《いで》て、人をおびやかす。雨風(あめかぜ)、或は、あやなく、くらき夜、必(かならず)有りて、「かぶろ狐」といふなり。」とぞ。是も此類(たぐひ)なるべし。此人の强力(がうりき)に、をそれてや、此のち、天和の今に至つて、五とせがほど、絕《たえ》て此妖恠《やうかい》出《いで》ずと。

[やぶちゃん注:「天和」一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。本書は事実、天和三(一六八三)年に刊行されている。まさに直近の都市伝説というわけである。本書のように、作中に頻繁に現在時制或いはそれに近き近過去の怪奇談を載せるものは、あまりない。これは本書の特徴と言ってよいと思われる。]

西原未達「新御伽婢子」 仙境界

西原未達「新御伽婢子」 仙境界

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。

 本篇はやや叙述が複層的なので、注は適切と判断した近くに特異的に挟んだ。]

 

新御伽卷之四

     仙境界(せんきやうかい)

 夫(それ)、仙は、霞をくらひ、霧を吞(のみ)、雲にまたがり、空に居(きよ)して通力(つうりき)を得、神便(しんべん)を行《おこなふ》といへる事斗《ばかり》まさしくて、今の世に安定(さだか[やぶちゃん注:二字への読み。])に見たる人なしと、人中(にんちう)にて、いひ出《いで》たれば、其座に、信州七久里(《なな》くり)の鄕(さと)、慈尊寺の僧、輕秀といふ博學廣才の人の語られしは、

[やぶちゃん注:「神便」「神變」の代字であろう。古くは「じんぺん」と読み、人知でははかり知ることの出来ない不可思議な変化を起こす神がかった不思議な力の意。

「信州七久里の鄕」現在の長野県飯田市山本(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に七久里(ななくり)神社があるので、この附近か。

「慈尊寺」不詳。前記地区にはこの寺は現在は認められない。

「輕秀」不詳。この書き方からは、実際にその僧から直談したニュアンスである。]

「仙境に行(ゆき)し者こそ侍れ。我が寺近きあたりに、冨祐(ふ《いう》)の土民あり。男子、ふたり持てり。兄は家を繼(つぎ)て、農業に間(ひま)なく、弟は親の愛子(あいし)にて、万《よろづ》の藝にあそびて、世のうき事をしらず、只、榮耀にのみほこり、長生《ちやうせい》ならん事を願ふ。

 倩(つらつら)思ふに、阿育王(あいくわう)の、七寶(《しつ》ぽう)も命つきんとする時、是をすくふ價(あたひ)なく、秦の始皇の幸《さひはひ》も恠(あや)しき徐福がはかりごとにて、還而(かへつて)崩(ほう)じ給ひし。人傳(《ひと》づて)の不死の藥、かけて、たのむも、愚《おろか》也。

[やぶちゃん注:「阿育王」アショカ王(在位と没年は紀元前二六八年頃 から紀元前二三二年頃)の漢音写。紀元前三世紀頃の古代インドのマウリヤ朝第三世の王。カリンガ国を征服し、ほぼ全インドを統一し、同時に仏教を保護・奨励した人物として広く知られる。

「七寶も命つきん」「七寶」は仏教で言う七つの宝玉・貴石・宝物(ほうもつ)を指すが、ここは仏の御加護が尽きて、命終が近づくことを、比喩的に言ったもの。

「秦の始皇の幸も……」言わずもがなであるが、秦の始皇帝(紀元前二五九年~紀元前二一〇年)は不老不死の仙薬を求めんとして、方士(道教成立以前の呪術師を指すが、後に道士と同義で用いられるようになった)徐福に東海の三神山に不死の薬を探しに行かせたが、彼は逃亡し、遂に戻ってこなかった。日本に来て、熊野や富士山に住んだともするが、これらは本邦で形成された伝説に過ぎない。始皇帝は巡行中に没したが、一説に、彼は宮中の学者や医師らが処方した不死の効果が期待出来る水銀入りの薬を服用していたというから、それが事実ならば、死因はその中毒によるとも考えられる。]

 此等、おもひめぐらすに、命久しき類《たぐひ》、仙人に越(こえ)たるは、なし。我《われ》、

『仙術を學びて、世の珍しきためしとならん。』

と思ひたちけるが、此術道《じゆつだう》に師なし、と。

 爰に、おもひせまりて、又、思ふ、

『今も、深山幽谷には、あらたにあり、といふに、尋《たづね》ばや。』

と出《いで》て行《ゆく》。

 當國《たうごく》の㚑山(れいざん)なれば、先《まづ》、戶隱山(とがくし《やま》)にわけ入り、ふもと、川にして、淸凉(せいりやう)の水に、下浸(《おり》ひたり)、三七《さんしち》度の垢離(こり)をとりて、淸淨身(しやうじやうしん)になり、明神の寶前に詣(まふで)、祈誓しけるは、

「我、仙道を學(まなび)て、長生ならん事を思ふ。一道の師客(しかく)なきに依(よつ)て、御山《みやま》に上(のぼ)つて先達(せんだち)を待《また》んとほつす。願(ねがはく)は、神明の御方便(《ご》はうべん)によつて、此所願を成就せしめ給へ。然らば、五百千歲(ざい)、若(もし)は、三万、五万歲(ざい)、命、全(まつか)からんほど、日毎(《ひ》ごと)に詣で、法施(ほつせ)奉るべし。」

と、丹誠に祈(いのり)て、巍々(ぎぎ)たる太山(みやま)にのぼれば、岩・松、峙(そばだち)て、鳥だに、かけりがだき嶮岨(けんそ)を、木のね・葛(くづ)のかづらにとりつき、漸々(やうやう)にのぼれば、荊(うばら)・刈(か)・榾(くい)に手足をつながれ、身を苦しめ、心をいたましむるに、又、數千丈、絕果(たえは)て人力(じんりき)叶ふべくもなき深谷、あり。

[やぶちゃん注:「刈」「刈萱・刈茅」(かるかや)であろう。原始的なイネ科 Poaceaeである単子葉植物綱イネ目イネ科 キビ亜科 Panicoideaeの多年草のキビ亜科オガルカヤ属オガルカヤ Cymbopogon tortilis var. goeringii オガルカヤと、メガルカヤ属メガルカヤ Themeda triandra  var. japonica の総称。外見は薄(イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis )に似ている。

「榾」ここは人跡未踏の地であるから、「木の切れ端」=「ほだ」の意。]

「かづらきの神も在(まさ)ば、岩橋(いはばし)をわたし給へ。」

と独言(ひとりごと)して、力なく過ごし、山坂《やまさか》を凌(しのぎ)おり、こと道、いくばくを、めぐり、めぐりて、むかふに至る。

 まことに、「雲橫秦嶺家何在」〔雲(くも) 秦嶺(しんれい)に橫(よこた)はつて 家(いへ) 何(いづ)くにか在(あ)る)と、物こゝろぼそし。

[やぶちゃん注:「かづらきの神」「葛城の神」。大和の国葛城山に住むとされた一言主神(ひとことぬしのかみ)。「役(えん)の行者」から、葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋を架けよと命ぜられたが、醜い容貌を恥じて、夜の間しか働かなかったため、遂に橋は完成しなかったという。

「雲橫秦嶺家何在」中唐の詩人韓愈の七言古詩「左遷至藍關示侄孫湘」(左遷せられて藍關(らんくわん)に至り、姪孫(てつそん)の湘(しやう)に示す)の第五句。昔からお世話になっている「Web漢文大系」のこちらで全詩の訓読注が見られる。]

 とかくして、みえわたりたる峯つゞきの内、至《いたつ》て高き嶽(だけ)を求め、ふりたる松がねに、苔(こけ)朽(くち)たる石を、座とし、火打《ひうち》、取出《とりいだ》し、香(かう)を捻(ねん)じ、先《まづ》、明神の御かたを拜して後、虛空にむかひ、一心不亂に其事を祈(いのり)、目を閉(とぢ)て、暫(しばらく)、居(ゐ)る。

[やぶちゃん注:「香を捻じ」「捻香(ねんかう)」。「仏事に香を焚くこと」を意味する。]

 半時《はんとき》[やぶちゃん注:一時間相当。]斗《ばかり》して、風、一《ひと》とをり[やぶちゃん注:ママ。]薰(かうばし)く、物の音なひ、

「さはさは」

と聞ゆ。

 目を開(ひらき)て見れば、七旬(《しち》じゆん)[やぶちゃん注:七十歳。]斗《ばかり》と覺しき老翁(《らう》をう)、忽然と來れり。

 其かたち、珍しくて、未(いまだ)目《め》なれず[やぶちゃん注:見慣れず。]、髮は縮(しゞみ)て、繪に書《かけ》る「出山(しゆつさん)の釋迦」のごとし。皮肉、瘦枯(やせがれ)て、木にきざめる空也(くうや)に似たり。顏色、靑白く、眼に黃なる光あり。

『まさしく、我がこふる人よ。』

と思ひ、石上(せきしやう)をおりて、敬(うやまひ)、礼(らい)す。

 翁《をう》の云《いはく》、

「汝、仙界を尋《たづね》て祈願する事の切なるによつて、當山明神、誼(たく)し給ひて、爰にみえへたり。所望をかなへんに、暫《しばらく》、一七日《ひとなぬか》のほど、修(しゆ)すべき。行作(ぎやうさ)あり。汝、不慮(ふりよ)にして、古鄕(こきやう)を離れ、爰に來れり。親あり、兄あり、朋友あり。數日(すじつ)、相見《あひみ》る事、叶はず、若(もし)、行室(ぎやうしつ)にして、これらの事を思ひ出《いで》て、心、散乱せんには、願・行ともに、無になるべし。一先(ひとまづ)、里に歸り、暇乞(いとま《ごひ》)して來《こ》よ。」

と敎(をしへ)ければ、男、聞《きき》て、

「扨(さて)、其修行の過《すぎ》たらん時、古鄕に歸る事、成《なる》まじきや。」

と。

 翁の云《いはく》、

「左にあらねど、今、歸來《かへりこ》ずば、悔(くゆ)る事、有《ある》べし。只、我が謂(いひ)に任せて、歸り、明日(あす)、山上(さんじやう)すべし。我も爰に來らん。」

と。

「然(しから)ば、仰《おほせ》に隨(したがふ)べし。君、又、爰に來らんとは、常に此山に住《すみ》給ふにては、なきや。」

と問(とふ)。

「我が常の住所《すむところ》は、是より西に去(さる)事、三百余里、伯耆(ほうき)の『釋迦が嶽』、但刕(たんしう)の『妙見山』、心に好む山なれば、常にあそぶ。去(され)ども、思ふに任せて、刹那刹那に、山々を飛行(ひぎやう)すれば、朝(あした)に伯州(はくしう)に有《あり》といへども、夕《ゆふべ》には冨士にものぼり、白山に俳徊、或は、金峯(きんぶ)・淺間・比良・熊埜・夷《えぞ》・松嶋、心に任せ、いたらずといふ所なし。又、座を去(さら)ずして見んと欲(ほつす)れば、壷中(こちう)に天地を藏し、橘裏(きつり/たちばなのうち)に山川(さんせん)を峙(そばだつ)。」

 又、問(とふ)、

「常に、何を以て食とし給ふにや。」

と。

「丹(たん)といふ物、あり。」

「いかなる物ぞ。みまくほし。」

と、いへば、懷(ふところ)より雪を丸(まるめ)たるごとき、白く、うつくしき藥を取出(《とり》いで)、一粒(《いち》りう)を、わかち、あたふ。

 戴(いたゞひ[やぶちゃん注:ママ。])て、口に入《いる》るに、其味、世にたぐふべきなく、

『「天の甘露」といふ物、かくこそ。』

と覺ゆ。

 又、問《とふ》、

「生所(しやうじよ)はいづれの国ぞや。今、いか斗《ばかり》年齡を過し給ふや。」

と。

 答《こたへ》て、

「唐(もろこし)、燕(《えん》の)宣帝の三年、始(はじめ)て、仙も學(まなび)て、凡《およそ》年數(ねんす)二千年、或時、たまたま、風雲に任せて、東に飛行する事、六千余里、此《この》日の本に至る。爰におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、寶地㚑場の、目馴《めなれ》ず、面白きほどに、国、ひろからずといへども、大国の古鄕(こ《きやう》)にかへて、あそぶ事、數百年也。」

と。

[やぶちゃん注:「燕宣帝の三年」西周末期燕国の第十六代国王宣侯(?~紀元前六九八年)。在位は紀元前七一一年から紀元前六九八年であるから、その三年は紀元前七〇九年となる。本話柄内時制を仮に本書刊行時の天和三(一六八三)年とするなら(実際には後の叙述からこれよりも、四、五年前である)、実にこの老人、二千三百九十二歳ということになる。]

 猶、久しき昔の物がたりども、こまごまと、とはんとせしに、翁の云《いはく》、

「汝、我が道にいらば、常に何事をも語りなぐさめん。今日、早(はや)、暮(くれ)に及びぬ。歸らん道、不審(いぶかし)かるべし。麓迄、友(とも)なふべし。いざ、こなたへ。」

と、先にたちて行《ゆく》と見えし。

 未(いまだ)七步にもたらざるに、忽(たちまち)、古鄕の南の端に、つれ來《きたつ》て、明日を契り、かきけちて、失《うせ》ぬ。

 

Senkyoukai

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 男は、里に入《いり》て、親のもとに歸るに、父母は、内にいまさず。

 兄と覺しき男、けさ迄、さかんなりし㒵(かほ)。波と、雪とに、老《おひ》さらぼひ、弟を見て、大きに驚(おどろき)、

「こは。いかに。」

と斗《ばかり》にて、淚にむせぶ。

 ふしぎの思ひをなし、そこら、見めぐるに、今朝見し童僕(どうぼく)ども、或は、小童(こわらは)成《なり》しが、四十、五十のよはひとなり、今みる童・小者(こもの)なんど、覺えたるは、なし。

「いかゞしたる事にや。」

と、兄に、とふ。

 兄(このかみ[やぶちゃん注:ここで初めて「あに」ではない読みが附されてある。])の云《いはく》、

「『いかゞ』とは、うつゝなや。我殿(わどの)は、此とし月、いづくに有《あり》て、音信(おとづれ)ざる。兩親、したしきものども、そこの行衞(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。] )を尋《たづね》わび、『世になき數(かず)になりたり。』と、出《いで》ゆきし日を「忌日(きにち)」とさだめ、廽向(ゑかう)する事、久し。是々《これこれ》。」

と、佛壇をひらくに、げにも、法名の文字、香(かう)の煙(けふり)に、ふすぼりて、みゆる。

 つゞきて、しらぬ位牌あり。

「いつれぞ。」

と、とふに、

「父母のふたり也。」

 此時、殊更に驚き、

「扨《さて》、某(それがし)が出《いで》たる日より、いくほどに成《なり》しや。」

と、とへば、

「其年は其法名に書(かけ)る。『元和(げんわ)七年辛酉《かのととり/しんいう》弥生(やよひ)中《ちゆう》の三日』。其後《そののち》、年號、うつり替り、寬永・正保(しやうほ)・慶安・承應(じやう《わう》)・明曆・万治、今、寬文九年己酉《つちのととり/きいう》、此間《このあひだ》、四十九年也。さるにても、斯(この)久しき間に、其裝(かたち)、昔にかはらぬこそ、ふしぎなれ。」

といふ。

 弟、聞《きき》て、

「去《され》ば、假初(かりそめ)、思ひよりて、仙術を学びん[やぶちゃん注:ママ。]ため、戶隱山に入《いり》て、かうかうの事、侍りしが、『纔(わづか)、一日送る。』と思ひしさへ、さばかり、久しく成《なり》けめ[やぶちゃん注:已然形はママ。]。邯鄲(かんたん)のかり枕に、五十年を夢見しといふに、我は、見ぬ夢に五十年を送りし。夫(それ)は一睡、是は一日(いちじつ)。たとひ、五千、八千歲の命を保(たもつ)とも、人間(にんげん)にあつて、十とせ、二十とせのほどにも覺ふべからず。「神仙不ㇾ死爲何事」〔神仙、死せざるも、何事をか爲(な)す〕といひし、誠《まこと》なるかな。長生も、心に足(た)る事を知らずんば、短命には、をとり[やぶちゃん注:ママ。]なん。憖《なまじい》に此道になづみて、惡趣に落(おち)んも、おそろし。只、凡人(ぼんいん)にありて、佛の道を尋《たづね》んには、しかじ。」

と、いふと、ひとしく未(いまだ)、詞(ことば)も終(をは)らざるに、忽(たちまち)、白頭(はくとう)の翁《おきな》となつて、一時(いちじ)に年來(ねんらい)の老《おひ》を重ねたり。

 此後《こののち》、年、少(すこし)經(へ)て、今は、四とせ斗《ばかり》先にもやあらん、兄弟、おなし年に、身まかり侍り。」

と語られける。

[やぶちゃん注:「神仙不ㇾ死爲何事」出典未詳。識者の御教授を乞う。

 以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、曇鸞(どんらん)大師の「觀無量壽經」のいみじき敎《おしへ》をさとりまして、仙經をやき捨給ひしも、此おとこの、とし月みじかきに驚きて、惡趣を、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、ながく、佛道に入《いり》けんも、かしこきさとり、似かよふべくや。

[やぶちゃん注:「曇鸞」(四七六年?~五四二年或いは五五四年)は北魏後半から北斉初頭にかけての、中国の浄土教僧。浄土真宗では七祖の一人とされる。俗名などについては不明。迦才(かさい)の「浄土論」に、出身地は汶水(もんすい)と記されてあるが、一般には「続高僧伝」によって、雁門(山西省)とされている。その「続高僧伝」によれば、十五歳に満たない頃、五台山中の文殊化現(もんじゅけげん)の霊跡を訪ね、感銘を受け、出家したとする。当時、湖北で盛んであった龍樹の空観を学んだ四論の学匠であった。五十歳を過ぎたころ、「大集経」の注釈の完成のために、長生不死の仙法を求め、陶隠居(六朝時代の医学者・科学者にして道教の茅山派の開祖でもある陶弘景(四五六年~五三六年)の自称)に仙経十巻を授かった。帰路、洛陽で菩提流支(ぼだいるし)三蔵に対面して、「長生不死の法で、この仙経に勝る法が、仏法のなかにあるか。」と問うたところが、地に唾をして菩提流支に叱責され、「観無量寿経」を授かった。これによって、仙経十巻を焼き捨て、深く浄土教に帰依した。以後、著作と念仏の教化とに命を捧げ、六十七歳で没したと伝えられている。迦才の「浄土論」には、学匠としてよりも、民衆とともに浄土へ往生した往生人として伝えられてある。著作には、曇鸞教学の真髄である「浄土論註」二巻がある。ほかに「讃阿弥陀仏偈」一巻、「略論安楽浄土義」一巻などがある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

2022/09/22

西原未達「新御伽婢子」 血滴成小蛇 / 「新御伽婢子」巻三~了

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     血滴成小蛇(ち したたり しやうじやとなる)

 奧州の或《ある》侍、主君の供して、都にのぼり、とある宿(やど)に着《つき》て、日をかさね、住居(すまひ)ける。

 比《ころ》しも、秋の半《なかば》なるに、月は、くまなき影ながら、古鄕(ふるさと)は遠く隔りて、わするなよ、といひし思ひ妻も、雲のあなたにと、おもふにぞ、昔、安部の仲麿の、唐(もろこし)に渡りて、「三笠の山に出《いで》し月かも」と、詠(ながめ)てしなど、思ひめぐらして、枕さびしきひとりねに、古鄕の文とて、持來(もてき)ぬ。

 黑過(くろみ《すぎ》)て、さまざま、書《かき》こしける中に、

   わがせこを都にやりて塩竃(しほがま)の

     笆(まがき)かしまの松ぞこひしき

とあるにぞ、猶、都には、住《すみ》わびける。

 折しも、杉戶一重の(すぎと《ひとへ》)あなたに、爪音(つまおと)、しめやかに、しのびごまして、さうが、しほらしく聞えけるを、

『誰(た)そや。此ふすまのあなたに音するは。』

と、問はまほしく思ひながら、

「心ならで、行《ゆき》かよふ道もなく、問(とひ)よる便(よすが)もがな。」

と、耳をそばだてゝ、聞居(《きき》ゐ)たり。

 さる折から、下つかへの女の、みえしを、うれしくて、招(まねき)よせ、

「此琴のあるじは、たそ。」

と、とふ。

「こざかしきものから、あれは、此家の独(ひとり)むすめにて侍る。年は二八《にはち》に、ひとつ、あまり給ふ。容色、うるはしく、心、又、情(なさけ)の深き事にて侍るを、聞《きき》知る人、多《おほく》いひかよはせ侍れど、親なん、はやく、ゆるしさぶらはねば、ひとり身にて、をはす。」

と、とはず語り迄、口《く》どくいひ、捨(すて)て立《たち》歸らんとするを、此東男(あづまをとこ)、かの女の袖を、ひかえ、

「なふ、その事よ。我ながら、恥かしけれど、此息女(むすめ)の事を、はや、疾(とく)聞《きい》て侍る故、遙(はるか)に遠きみちのくに、思ひは、ちかの鹽がまの煙の末の立《たち》まよひ、こがれて、爰に、のぼりし。哀《あはれ》を添(そへ)て、たび給へ。」

と、かきくどくに。下女は、よしなき物がたりに、

『むつかしき事の侍るかな。』

と思ひながら。一向(ひたすら)にせめければ、是非なく、事を請(うけ)あひぬ。

 男、嬉しくおもひ、何とも、言葉の色は、なくて、

    うちはへてくるしきものは人目のみ

     しのぶの浦のあまのたくなは

と、うすやうのかうばしきに書《かき》て、下女に、わたす。

[やぶちゃん注:「しのびごま」「忍び駒」。三味線の駒の一種。脚の部分が長く、その両端を胴の縁(ふち)に掛けて用いる。弦の振動が胴皮に伝わらないので、弱音になる。

「さうが」よく判らぬ。「奏が」(弾きざまが)の意かとも思ったが、歴史的仮名遣は「そう」で一致を見ない(但し、本書の歴史的仮名遣は異様に誤りが多い)。「箏が」(この時代は既に琴と同義)とも読めるが、とすると、前の「忍び駒」と齟齬する。しかし、ここは三味線ではなく、琴(箏)がシークエンスとしては相応しいとは思う。しかし、私の妻は六十年に及ぶ琴の名手であるが(五歲から始め、一時は本邦初の邦楽研究所第一期生ともなった(修了直前に中退))、琴自体がもともと、音が小さいので、そのような装置は私は知らないとのことであった。識者の御教授を乞う。

「二八に、ひとつ、あまり給ふ」十七歳。]

 女、是を懷(ふところ)にして、人めの隙(ひま)をうかゞひ。娘に渡(わ)たす[やぶちゃん注:ママ。]。

 何心なく、ひらきみて、㒵(かほ)、打《うち》赤め、

「恥かしや。自(みづから)が、年のはたちに近き迄、ひとり起居《おきゐ》のつれづれを、物うき事に思はんとの、心引《こころひき》みるつま琴(こと)の音《おと》に立(たつ)名(な)をなげゝとや。」

と。つれなく、下女に返しければ、侍に、

「かく。」

といふに、猶、絕(たゆ)べくもあらず、さまざまに、いひかよはす。

 女も、今は、心、よはく、

    みちのくのしのぶのあまのたく縄の

     たえずも人のいひわたる哉

と、讀《よみ》て、返しにせしかば、人しれぬ中《なか》となり、逢迄(あふまで)の命もがなと、思ひしも、悔(くやし)き迄に打《うち》とけて、かはらぬいろを、たのみあひけり。

 然るに、限りある鴻臚(かうろ)のならひ、主君、都をたち給ふに、男も同じ東路(あづまぢ)のみちのくにまかるに、女、別れを悲しみて、

「ともに、東に下らん。」

といふに、男、爲方(せんかた)なくて、いふ、

「されば、我もくるしきに、主命(しうめい[やぶちゃん注:ママ。])、重きとがめにて、女をつるゝ事、かたし。我國に下らば、近く、迎(むかひ)にのぼすべし。相《あひ》かまへて、待《まち》給ヘ。」

と、いたう、諫(いさめ)て、下りぬ。

[やぶちゃん注:「鴻臚」本来は中国の官職名で、外国からの来賓の応接を担当した職を指す。後に日本古代の官立の迎賓館「鴻臚館」の名称となったことから、ここは上洛した主君の付添役の意に転じたものだが、私にはあまりピンとこない。]

 男、此事を忘るゝにては、なけれど、本妻なるものゝ、たけく嫉妬する事を恐怖《おそれ》て、迎(むかひ)の事を捨置(すて《おき》)ぬ。

 都の女、戀佗(こひわび)て、まつとしきかばと僞(いつはり)し、昔の世まで思ひ出の、恨(うらみ)の數(かず)の事しげく、文《ふみ》、認(したゝめ)て下《くだ》しける。

 男、是におどろき、

「さりとも、今は、怖(おそろし)や。若《もし》、國の妻(つま)なんど、露(つゆ)斗《ばかり》知るならば、いかなる恥をか、かさねん。さりとて、人をのぼさずば、自(みづから)爰に來(く)る事もあり。所詮、むかひをのぼし、道にて討(うつ)て捨(すて)ん。」

と、下部(しもべ)弐人《ふたり》に、

「しかじか。」

と、いひ含(ふくめ)、都に、のぼす。

 

Syoujya

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 使(つかひ)、かしこにつけば、女、よろこび、取あへず、下りぬ。

 或《ある》舟渡しの川中《かはなか》にて、女、船ばたにのぞみ、手、あらふ、と見えし。

 中間《ちゆうげん》弐人、うしろより、あへなく、首を討(うち)をとせば[やぶちゃん注:ママ。]、むくろは、船に有《あり》ながら、首(くび)は波間に浮沈(うきしづ)む。

 件(くだん)の刀(かたな)を拭(のご)はんとするを、今、壱人《ひとり》の中間、押《おし》とめて、

「汝、国に歸り、何を證據に、『討《うつ》たる。』といふや。」

と、いへば、

「尤《もつとも》。」

とて、血刀(ちがたな)を、鞘《さや》におさめ、国に下る。

 主人に、事のよしを申《まをし》、件(くだん)の刀を渡す。

「何と、最後は、いかゞ有《あり》し、いしくも、能(よく)仕(し)まひし。」

などいひて、刀を拔(ぬき)みるに、頸きつて、十余日《じふよにち》になる刀、鞘より、やすやすとぬけ、きつさきより、鍔(つば)もとへ、血の滴(したゞ)ると、みえし。

 忽(たちまち)、ひとつの小蛇(しやうじや)と成《なり》て、男の頸(くび)にまとひつく。

 取《とつ》て捨(すて)んとするに、不ㇾ叶(かなはず)。

 痛(いた)め、くるしむる事、間《ひま》なし。

 本妻、此由を聞《きき》て、蛇にむかひ、さまざま、恥(はぢ)しめ、訇(のゝしる)に、おもはゆくや、在《あり》けん、皮一重(かはひとへ)下《した》に入《いる》とみえしが、口より、火烟《くわえん》を吹出(ふき《いだ》)し、晝夜、隙《ひま》なく、くるしめ、終《つひ》に、男を、取《とり》ころしぬ。

 ことはりながら、おそろしき怨念には、ありける。

 

 

新御伽卷三

[やぶちゃん注:この妖蛇、身体の皮膚の一皮下に潜り込んだのである。あたかも恐ろしいヒトに日和見感染をしたある種の寄生虫の幼体(鉤虫の一種であるアンシロストーマ属Ancylostoma)が、皮膚の下を蠢くのが確認出来る「エイリアン」レベルの気味の悪さだ(これは医学的には「皮膚幼虫移行症」と呼ぶ。私の「生物學講話 丘淺次郎 一 個體の起り」の「微細な幼蟲が人間の皮膚を穿つて體内に入込んで來るものもある」の私の注を参照されたい)。しかし、前振りがやや退屈に長い分、このエンディングはなかなかに、キョワいぞ!!!

西原未達「新御伽婢子」 野叢火

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     野叢火(やさうのひ)

 都四条の北、大宮の西に、古しへ、淳和天王(《じゆんな》てんわう)の離宮ありける。こゝを西院(さいゐん)と名づく。後に橘の大后(《おほ》きさい)の宮、すみ給ヘり、といふ。

[やぶちゃん注:「淳和天王」桓武天皇第七皇子。先行する平城天皇・嵯峨天皇の異母弟。在位は弘仁一四(八二三)年から天長一〇(八三三)年。彼は薄葬を遺詔としたため、歴代天皇の中で唯一、大原野西院に散骨された。

「西院」既出既注

「橘の大后の宮」嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ 延暦五(七八六)年~嘉祥三(八五〇)年)。当該ウィキによれば、彼女は『仏教に深く帰依しており、自分の体を餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、または、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こすために、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず』、『路傍に放置せよと遺言し、帷子辻』(かたびらのつじ:京都市北西部にあったとされる)『において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれる』。『または、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある』とある。]

 時うつり、世はるかに、宮殿は皆、絕(たえ)て、纔(わづか)に名のみ殘り、今は埜夫(やぶ)のすみかとなれり。

 此南に壬生寺(じんしやうじ)とて、いとたうとき地藏のいまそかりけり。いつも、彌生の比《ころ》、大念佛を始めて、其間に狂言を盡し、猿の面(おもて)、着(き)たるおのこ、縄をつたひて、かるわざの曲(きよく)をなしける。茶店、軒をならべ、參詣の人、更に止(やむ)とき、なし。

[やぶちゃん注:「壬生寺」現在の壬生寺(みぶでら)。西院との位置関係からは、「南東」とすべきところか。

「猿の面、着たるおのこ、縄をつたひて、かるわざの曲をなしける」壬生狂言にあやかって、猿面を被った芸能者(軽業師)が興行を行ったものか。]

 

Yasaunohi

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 此寺の傍(かたはら)に、草茂り、松、生《おひ》たる埜《の》に、ひとつの㚑火(れい《くわ》)有《あり》て、闇夜(あんや/やみのよ)になれば、必《かならず》、其わたり、飛行(ひぎやう)す。

 其火、よの常にかはり、色、靑く光り、或時は、草にあり、或時は、空(くう)に、一所(《いつ》しよ)定(さだめ)ず。

 俗、「宗玄火(そうげんび)」と呼(よぶ)。

 其始(はじめ)を聞(きく)に、昔、此《この》地藏堂に、宗玄といふ下法師(した《ほふし》)、仏《ほとけ》の御燈(みあかし)をかゝげる事を領《りやう》ず。

 かたち、衣鉢にかざれども、心、鬼畜にひとしく、散錢・奉納の類《るゐ》、我(わが)意に任せて、かすめとり、殊に己《おのれ》が所作(しよさ)の燈明の油を盜(ぬすみ)、賣(うり)しろなす事、數年(す《ねん》)を經(ふ)れども、仏天(ぶつてん)、是を惡(にくみ)給ヘばにや、一生、冨貴(ふうきの)花《はな》もなく、榮耀(えいよう)の月を待得《まちえ》ず、終《つひ》に、無常の嵐の前に、業障(ごふしやう)の身を苦しめ、くらきより、くらき道に入《いり》ぬ。

 臨終の惡相に、人、猶、日來(ひごろ)の所爲(しよ《ゐ》)を思ひ合《あはせ》て、舌を卷(まく)。

 此後、此御堂の前後左右の埜中(のなか)に、燈炉(とうろ)の大さなる、火、ひとつ、飛行(ひぎやう)す。

 或時、此里の人の夢に、

「我は壬生寺(みぶでら)の宗玄にて侍り。かやうかやうの事ありて、今、焦熱の猛火(みやうくわ)にこがれ、此惡業を、つぐのふ、くるしさよ。一魄(こん[やぶちゃん注:ママ。])は、此土(《この》ど)にとゞまり、晝夜(ちうや)、くるしみ、身をやく也。」

と。

 猶、此事、繁(しげ)くいはんとせしが。消(きえ)て、跡なく、失(うせ)ぬ。

 それより、埜人(やじん)、此名を呼(よぶ)とぞ。

 寬文の比にや、去(さる)人、西院より、夜更(よふけ)て、京に歸る折ふし、雨さへ降(ふり)て、行路(ぎやうろ)、くらく、覺束(おぼつか)なし。かゝる所に、光、あつて、大(おほき)なる火、かたまりたる中に、法師の頸(くび)、顯れて、出《いで》きたる。

「あ。」

といふ聲の内より、男、忽(たちまち)、絕入(ぜつじゆ)したり。明がたに成《なり》て、行かふ人、藥をあたへ、水、そゝぎ、息出《いで》て、此事をかたりしにぞ。

「扨は。例の火。」

と知りぬ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 或人のいふ、

「宗玄といふ全體、有《ある》物にてなし。『叢原火(さうげん《び》/くさはら )』といふ物也。」と。字訓を、つけられし。一分《いちぶ》の才覺かと、おもはれて、信用しがたし。

[やぶちゃん注:以上は、

   *

 ある人が言うことには、

「『宗玄火(そうげんび)』という怪異の名指しは、実は、実際にあるものではない。それは、「そうげんび」、則ち、「叢(草)原火(そうげんび)」というのが真の名である。」と。この人は、わざわざ以上の左訓のように、字訓までご丁寧に、目の前で添えてくれたのだが、これは「そうげんび」の発音がたまたま一致することにかこつけて、小賢しい知恵を以って、私に示したもののように思われて、信用し難い。

   *

というのである。この附記が、これまた、結果して、本怪異の李愛リズムを、サイドから補強する形になっているのが、見え見えで、寧ろ、私は、「未達さんよ、あんたのこれも一分の才覚かと思われますな。」と言っておこう。

なお、「日文研」の「怪異・妖怪画像データベース」のこちらで、二種の本妖火の絵図が見られる(一つは「そふげん火」と名ざしている)。]

西原未達「新御伽婢子」 旅人救ㇾ龜

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 補篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     旅人救ㇾ龜(りよじんかめをすくふ)

 或人、京より肥後に下るとて、礒(いそぎはを、舩にて行(ゆく)に、濱ばたに、人、多《おほく》、走集(《はしり》あつま)りて、騷(さはぐ)所あり。

「鯨(くじら)さく市人《いちびと》か、將(はた)、鹽やく賤(すづ)の業(わざ)にや。」

と、同船、四、五人、皆、濱に上《あが》つて、

「何事ぞ。」

と見るに、壱間余《あまり》[やぶちゃん注:一・八メートル超。]の、龜、ひとつ、中に取《とり》こめて、浦の者ども、あやしき刄(やいば)を持《も》て、

「頸(くび)を切らん。」

「足をそがん。」

のと、口々に訇(のゝし)る中に、年よりたる男、ひとり、若き者共に詞(ことば)をたれ、手をつかねて、

「ひらに。ゆるして、たうべよ。」

といふを、旅人、

「何としたる事ぞ。」

と問(とふ)。

 翁の云、

「此浦は、皆、無下にいやしき魚獵師(うをれうし)にて侍る。此ほど、ふしぎに、獵のきゝ侍らねば、恠(あやしみ)思ふ所に、今、なむ、此龜、大網(《おほ》あみ)にかゝつて、あがり侍る。『かやうに異(こと)やうにすさまじき生ものゝ、波上(はしやう)を譟(さはがす)時、衆魚(しゆぎよ/《おほきうを》)、隣浦(りんぽ/となりのうら)に去(さつ)て、其邊(ほとり)に住(すま)ず。去(さる)故、是を生(いけ)て歸さば、毎(いつ)までも、障(さはり)となつて、世の諞(たづき)に方便(てだて)を失(うしなは)んずる。』と、若き者どもの、『殺さん。』といふに、此龜、淚をながす事、間(ま)なく、是なん、血にて侍る。見給へ。」

といふに、實(げに)も血の色なり。

「蟲類(ちう《るゐ》)ながら、此悲しみを知る事、哀(あはれ)に侍れば、某(それがし)、『遠き沖につれ行《ゆき》、猶、遙(はるか)に此沖を立《たち》されと申含(《まをし》ふくめ)ん。』と言(いひ)、佗(わび)、宥(なだめ)侍れど、是非なく、たすくまじきに極(きはま)りぬ。色をも、香をも、知る、都人におはすと覺え侍らふ。翁に、力を合《あはせ》給へ。」

といふに、皆、慈悲の心を發して、いふ、

「誠に、糞中(ふんちう)の金とやいはん。わらづとに錦(にしき)を包(つゝむ)たぐひかは。かゝる邊鄙(へんぴ)のはて、しかも、殺生に渡世する中にして、やさしき翁には侍る。」

と、浦人に、鳥目五百疋をあたへて、龜を乞(こひ)とり、翁に渡す。

 老人、よろこび、すぐに、小舩(こぶね)にかきのせ、沖に出《いづ》れば、人々も、もとの舩にうつりて、西へ行《ゆく》事、五里斗《ばかり》あつて、老人、歸る。

「何(なに)と、放ちけるや。」

と。

 翁のいふ、

「舩より出《いだ》して、海に入れ侍るに、さうなく、海に沈まず、兩の手を合《あは》するやうにして、首(かうべ)をうなだれ、禮義をとゝのへ侍る。能(よく)こそ助(たすけ)給ふ、ありがたさよ。」

など、いふ内に、むかふより、白波、一きは、高く立《たて》て來《きた》る者、あり。

「何事にや。」

と周章(あはてさはぐ)に、翁の、早く見付《みつけ》、

「先ほどの龜なり。」

といふに、誠に、そなり。

 此舟にむかひ、礼拜(れいはい)のかたちをなし、掌(たなごゝろ)を合する風情(ふぜい)して、又、水底(みなそこ)に入《いり》ぬ。

 時に、翁、人々にかたりて。

「彼(かれ)は此沖に數百歲を經(ふ)る龜也。各《おのおの》、慈悲に依(よつ)て、危(あやうき)命を、のがれぬ。愚癡(ぐち)の因(いん)によつて、蟲類には生るれども、愁(うれへ)たる思ひ、悅ぶ心、人間に、猶、かはらじ。有《あり》がたき御志(《おん》こゝろざし)や。我、又、かれにおなじく、此沖に住(すむ)もの也。」

といふより、壱つの大龜となり、白波に飛入(とび《いり》)しが、忽(たちまち)、龜、二つ、洋々として首(かうべ)をたれ、人々の船を礼拜する事、暫して、又、水底に入《いり》けるとぞ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

  唐《もろこし》にて、さる者、「龜を煮て、くらはん。」とて、下女にいひ付《つけ》、「甲(かう)を放(はなち)て、あらへ。」といふ。下女、背戶(せど)の礒(いそ)ばたに出《いで》て思ふに、『生としいける類ひ、命惜(いのちをし)まぬものは、非じ。わきて、龜は、四㚑(《し》れい)のひとつ、殊に、いのちながきものと。我、これを海に放さんに、あるじ、とがむる事ありて、我命(わがめい)を、とらん。たとひ、ころさるゝとも、此龜の一生のながきにくらべば、千がひとつならん。』と、慈愛の思ひ、しきりなれば、誤(あやまつ)て取にがしたるていにて、海に、はなち、たすけにけり。あるじ、大きにいかり、せめ、さいなむこと、命、助かりたる迄也。其後、此國、疫癘(えきれい)はやりて、此下女も煩(わづら)ひしを、主人、もとより、情なきものにて、家の外に捨(すて)けるに、件(きだん)の龜、來つて、身(み)、泥(どろ)をぬりけるにぞ、大熱、さめて、本復(ほんぶく)しぬ。又、本朝に、山陰(《やま》かげ)の中納言御子《ちゆうなごんのみこ》に、如夢僧都(によむそうづ)といふ人、ありき。此人、幼(いとけなき)とき、父黃門(くわうもん)・妻子、各《おのおの》、舟にて他のくにぐにに行《ゆき》給ふに、北の方は、僧都の繼母(まゝはゝ)也けるが、此僧都をにくみて、乳母(めのと)に賂可(まいなひ)をとらせ、取《とり》はづしたるふぜいにて、海にしづめけるを、いづくともなく、龜、ひとつ、來(きたつ)て、甲(かう)にのせて、沈めず。初《はじめ》より、あやまつたる躰(てい)なれば、助(たすけ)侍らねば、かなはぬ事にて、引上ゲぬ。是は中納言、其古(いにしへ)、龜の、人にとられて、既に殺(ころす)べかりしを、、助(たすけ)給ひし陰德によつて、今、御子の命をすくふ陽報(やうはう)ありける。夢のごとく、ふしぎに助かり給ふとて、如夢僧都と申けるとぞ。利根博智(りこんはくち)の僧にて、いまそかりけり。

[やぶちゃん注:この前半の中国の説話の原拠を、私は不学にして知らない。ご存知の方は、是非、御教授願いたい。

「四㚑」「㚑」は「靈」の異体字。陰陽五行説の四神の北の「玄武」のことを言う。

「本朝に、山陰の中納言御子に、如夢僧都といふ人、ありき。……」は「今昔物語集」の巻十九の「龜報山陰中納言恩語第二十九」(龜、山陰(やまかげ)の中納言に恩を報ずる語(こと)第二十九)である。以下に示す。本文及び注は所持する小学館古典全集を参考にした。

   *

 今は昔、延喜の天皇[やぶちゃん注:醍醐天皇。在位は寛平(かんぴょう)九(八九七)年~延長八(九三〇)年。]の御代に、中納言藤原の山陰[やぶちゃん注:公卿藤原山蔭(天長元(八二四)年~仁和四(八八八)年)。四条流庖丁式の創始者として知られている。但し、ご覧通り、ここの叙述には時制に齟齬がある。]と云ふ人、有りけり。

 數(あまた)の子、有りけるが、中に一人の男子(をのこご)有りけり。形ち、端正にして、父、此れを愛し養ひけるに、繼母(ままはは)有りて、父の中納言よりも、此の兒(ちご)を取り分き、悲しくして、養ひければ、中納言、此れを極めて喜き事に思ひて、偏(ひと)へに繼母に打ち預けてなむ養せける。

 而る間、中納言、太宰の帥(そち)に成りて、鎭西に下りけるに、繼母を後安(うしろやす)き者に思ひて有る程に、繼母、

『此の兒を、何(いか)で失なはむ。』[やぶちゃん注:「何とかして、この子を殺してしまおう。」。先の優しさは偽りのポーズに過ぎなかったのである。]

と思ふ心、深くして、「鐘(かね)の御崎(みさき)」[やぶちゃん注:現在の福岡県宗像市玄海町(げんかいまち)の響灘に突き出た鐘ノ岬。]と云ふ所を過ぐる程に、繼母、此の兒を抱(いだ)きて、尿(ゆばり)を遣る樣にて、取り□□[やぶちゃん注:「外(はず)し」の欠字。]たる樣にて、海に落し入れつ。

 其れを、卽ちは、云はずして、帆を上げて走る船の程に、暫し許(ばか)り有りて、

「若君、落入り給ひぬ。」

と云ひて、繼母、叫びて、泣き喤(のの)しる。

 帥、此れを聞きて、海に身も投ぐ許り、泣き迷ふ事、限り無し。

 帥の云はく、

「此れが死(しに)たらむ骸(かばね)なりとも、求めて、取り上げて來たれ。」

と云ひて、若干の眷屬を、浮船(うきふね)に乘せて、追ひ遣る。

 我が乘りたる船をも、留(とど)めて、

「何(いか)でか、此れが、有り無し、聞きてこそ、行かめ。聞かざらむ限りは、此に有らむ。」

と云ひて、留るなりけり。

 眷屬ら、終夜(よもすがら)、浮舟に乘りて、海の面(おもて)を漕ぎ行くと云へども、何にしてかは、有らむ。[やぶちゃん注:「どうして見つかることが、これ、あろうか、いや、ない。」。]

 漸(やうや)く、夜、曙離(あけはな)るる時に、海の面(おもて)□[やぶちゃん注:欠字。「靑」(あをあを)辺りか。]として渡るに、海の面を見遣れば、浪の上に、白らばみたる小さき物、見ゆ。

『鷗(かもめ)と云ふ鳥なめり。』

と思ひて、近く漕ぎ行くに、立たねば、

『怪(あや)し。』

と思ひて、近く漕ぎ寄せて見れば、此の兒の、海の上へに打ち□□[やぶちゃん注:「屈み」「屈(かがま)り」などか。]て居(ゐ)て、手を以つて、浪を叩きて有り。喜び乍ら、漕ぎ寄せて見れば、大笠(おほがさ)許(ばか)りなる龜の甲の上に、此の兒、居たり。

 喜び迷ひて、抱(いだ)き取りつ。

 龜は、卽ち、海の底へ入りぬ。

 帥の御船(みふね)の許(もと)に、迷(まど)ひ[やぶちゃん注:大慌てで。]漕ぎ寄せて、

「若君、御(おは)します。」

と云ひて、指し出でたれば、手迷(てまど)ひして抱くままに、喜び、泣きぬる事、極(いみ)じ。

 繼母も、

『奇異(きい)。』

と思ひ乍ら、泣き喜ぶ事、限り無し。

 此の繼母は、内心を深く隱して、思ひたる樣に持て成して有りければ、帥も、偏へに其れを憑(たの)みて有りけるなり。

 此くて、船を出(いだし)て行く間(あひだ)に、帥、終夜(よもすがら)、肝心(きもこころ)、碎けて、寢(いね)ざりければ、晝(ひ)る、寄り臥して寢入りてける夢に、

――船の喬(そば)に、大なる龜、海より頸を指(さ)し出でて、我に物云はむと思ひたる氣色有り。然(しか)れば、我れ、船の端(はし)に指し出でたれば、龜なりと云へども、人の言はむ如くして云はく、

「忘させ給ひにけるや。一と年(せ)、我れ、河尻(かはじり)[やぶちゃん注:淀川の河口。]にして、鵜飼(うかひ)の爲めに釣り上げられたりしを、買ひ取りて、放たしめ給ひし所の龜なり。其の後、『何(いか)にしてか、此の恩を報じ申さむ。』と思ひ、年月(としつき)を過ぐるに、帥に成り下り給へば、『御送(おほむおく)りをだに、せむ。』と思ひて、御船(みふね)に副(そ)ひて行く間に、夜前(やぜん)、「鐘の御崎」にして、繼母の、若君を抱きて、船の高欄(かうらん)を打ち越して、取□□す樣にして、海に落とし入れしかば、其れを、甲の上に受け取りて、『御船に送(おく)れじ。』と搔(か)き參りつるなり。今、行く末も、此の繼母に打ち解け給ふ事、無かれ。」

と云ひて、海に頸を引き入れつ、と、見て――

夢、覺めぬ。

 其の後(のち)、思ひ出すに、一と年、住吉に參りたりしに、「大渡(おほわたり)」[やぶちゃん注:不詳。]と云ふ所にして、鵜飼、有りて、船に乘りて來たるを見れば、大(おほ)きなる龜一つ、面(おもて)を指し出でて、我れに面を見合はせたりしかば、極めて糸惜(いとほ)しく思へて、衣を脫ぎて、鵜飼に與へて、其の龜を買ひ取りて、海に放つ事、有りき。今ぞ、思ひ出でたる。

『然(さ)は、其の龜なりけり。』

と思ふに、極めて憐れなり。繼母の、怪しく、樣惡(さまあし)く、泣き迷ひつる、思ひ合はされて、極めて惡(にく)し。

 其の後(のち)、兒をば、乳母(めのと)を具して、我が船に、乘せ、移しつ。

 鎭西に着きても、心に懸りて後(うしろ)めたく思(おぼ)えければ、別の所に、兒をば、住ましめて、常に行きつつぞ、見ける。

 繼母、其の氣色(けしき)を見て、

『心得たるなりけり。』[やぶちゃん注:「感づかれてしまったのだわ。」。]

と思ひて、何(いか)にも、云ふ事、無かりけり。

 帥、任、畢(をは)りて、京に返り上りて、此の兒をば、法師に成しつ。

 名をば、「如無(によむ)」と付けたり。既に[やぶちゃん注:一度は。]失(しつ)たりし子なれば、「無きが如し」と付けたるなりけり。

 山階寺(やましなでら)の僧として、後には宇多の院[やぶちゃん注:宇多天皇。在位は仁和三(八八七)年~寛平(八九七)年)。]に仕へて、僧都(そうづ)まで成り上(のぼ)りてぞ、有りける。

 祖(おや)の中納言、失せにければ、繼母、子、無くして、此の繼子の僧都にぞ、養はれて失せにける。事に觸れて、何(いか)に恥かしく思ひ出だしけむ。

 彼(か)の龜、恩を報ずるにしも非ず、人の命を助け、夢見せなどしけるは、糸(いと)只者(ただもの)には非ず。

『佛・菩薩の化身などにて、有けるにや。』

とぞ思ゆる。

 此の山陰の中納言は、攝津の國に總持寺と云ふ寺、造りたる人なり、となむ語り傳へたるとや。

   *]

西原未達「新御伽婢子」 夜陰人道

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     夜陰人道(やいんの《にふだう》)

 羽刕最上北寒河江庄(きたさがえの《しやう》)谷地(やち)といふ所に、八幡の社(やしろ)あり。圓福寺城林坊(じやうりんばう)とて、社僧と別當とあり。此二宇の間に、幅五間、長さ、六、七間斗(ばかり)の際目(さいめ)の堀あり。戢々《しゆうしゆう》たる水蓮、自《おのづから》高く、鯉魚群龜(りぎよぐんき)の、水に遊(あそぶ)、誠(まことに)旧池(きうち/ふるきいけ)のさまなり。

[やぶちゃん注:「羽刕最上北寒河江庄谷地」現在の山形県西村山郡河北町(かほくちょう)谷地(やち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「八幡の社」現在の谷地八幡宮

「圓福寺城林坊」ロイヤル麦茶氏のブログ「御朱印の日々」の「谷地八幡宮(山形県西村山郡河北町)」に江戸時代、『三度にわたり』、『大火で社殿等が焼失しておりますが、残存する文献および相伝によりますと、「人皇七十二代堀川院の寛治五年」(一〇九一)、『奥州清原氏平定を果たした源義家が神恩に感謝して白鳥村(現・村山市白鳥)に石清水八幡を勧請して祈願所にした」と伝えられております』。『天正年間』(一五七三年~一五九二年)『に谷地城主・白鳥十郎長久が築城の際、白鳥村より円福寺と共に現在の地に遷し、鎮守社としました。明治元年』(一八六八)『までは別当職円福寺』(☜)『をはじめ、円徒寺六寺坊により真言宗をもって奉仕されておりました』とある。谷内八幡宮の南西九キロ強離れたここに真言宗円福寺があるが、これか。さらに、谷内八幡宮の東直近には曹洞宗定林寺という寺もある。

「五間」約九メートル。

「六、七間」約十一~十三メートル弱。]

 或夜、風(はえ)、一とをり[やぶちゃん注:ママ。]、雨、そぼふりて、月のさやけくもなきに、城林坊の同宿、秀達といふ、聊(いさゝか)、用の事ありければ、緣に出《いで》、何となく、堀のかたを見やれば、隣(となり)の岸より、我方《わがかた》の岸へ、黑毛の生ひたる足を、打《うち》またげたる者、あり。

 


Yainnoniudau

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

『はつ。』

と思ひ、あふのきて見れば、寺の軒(のき)に、大の法師の、頸、三つ、かなへに双(なら)び、秀達を見て、此頸、一度に飛(とび)おるゝこと、蝶(てふ)のごとくなるに、走るとも轉(まろぶ)ともなく、戶の内に逃(にげ)歸りぬ。

[やぶちゃん注:「風(はえ)」「西村本小説全集 上巻」では、この読みを『はん』と判読しているが、意味も不明で、従えない。これは、西日本でよく用いられる南風の呼び名で、夏の南東季節風の地方名である「はえ」と判読した。ロケーションは東北であるが、作者は京の人であるから、これを用いても何ら違和感はないのである。

 余(あまり)の怖《おそろし》さに、

『若(もし)、此事を人に語らば、いかなる怨(あだ)をやなさん。』

と、あへて、いふ事、なし。

 其夜より、面影にたちて、稍(やゝ)煩(わづらひ)けり。

 此後、新發意(しんぼち)と、喝食(かつしき)と、つれだちて、緣に出《いで》たる夜、又、かくのごとし。

[やぶちゃん注:「新發意」僧となって間もない者。

「喝食」本来は、禅寺で諸僧に食事を知らせて食事の種類や進め方を告げること。また、その職名や、その役目をした有髪の少年を指すが、後に広く寺院の稚児(ちご)役を指すようになった。]

 二人の者、是を見るより、忽(たちまち)、死に入《いり》て、音、せず。

 誰(たれ)知るものゝなかりしを、かの同宿、此ものどもの出《いで》たるを、危(あやうく)思ひて、卒度(そつと)、覗居(のぞきゐ)しが、はたして此躰(てい)也。

 去(され)ども、独(ひとり)立出《たちいいで》て、たすけ起《おこす》べき氣力なく、住僧・下部、是彼(《これ》かれ)、をこして[やぶちゃん注:ママ。]、此事を告(つげ)て、漸(やうやう)、内にいだき入れ、さまざま、藥をふくめけるに、喝食は生出(いきいで)、小法師は、再(ふたゝび)、蘇生せず。

 此時に、秀達、こはごは[やぶちゃん注:「恐々(こはごは)」。]、有《あり》し次第を語りけるにぞ、各《おのおの》、初めて、驚(おどろき)ける。

 是より、夜になれば、此緣さきに出(いづ)る人、なし。

 いかなるものゝ所爲(しよゐ)にや、不ㇾ知(しらず)。

西原未達「新御伽婢子」 兩妻夫割

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     兩妻夫割(《りやう》さいをつとをさく)

 五条通むろ町のほとりに、古へ、俊成卿(しゆんぜいきやう)の「玉つしま」を勸請し給ひし地あり。今は、其かたち斗《ばかり》殘りて、人家の後(うしろ)にあり。号(なづけ)て新玉津島町といふ。

[やぶちゃん注:「五条通むろ町」現在のこの附近(グーグル・マップ・データ)。藤原野俊成の屋敷はここから、北の烏丸(からすま)の間にあったとされる。

「玉つしま」文治二(一一八六)年、後鳥羽天皇の勅命によって俊成が自邸内に和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている歌道の神「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」を勧請したのが濫觴。勧請された旧地は明らかでないが、現在は旧地の近いと推定される京都府京都市下京区玉津島町に「新玉津島神社」がある。]

 此所に武右衞門とかやいふ男、江戶に通(かよふ)事、一年を八分にして、二分ならでは、京に住(すま)ず。子、ひとり、持てり。

 此婦(ふ)、夫(をつと)にいふやう、

「常の人の契りには、夫となり、妻と成りては、一時片時(《いつ》ときへんし)の程だにも、はなるゝ隙を悲しみ、待わび、ゆきがてに、思ひなげくならひなるを、いかなりし中《なか》なれば、十とせ契りても、三とせにだに、及ばず。君、東へおもむき給へば、半分、道を送りて、又、半分、道に出向ふと、夢にうつゝに思ふぞや。古鄕(こきやう)を思ひ出《いで》給はゞ、必(かならず)、早く歸京し給へ。」

など、打恨(《うち》うらみ)たるさまに、しみじみとかたるに、男、いと能(よく)事請(《こと》うけ)して、亦、東に下りぬ。

 かくて、江戶に着(つく)に、爰にも馴染(なじむ)女房、在《あり》て、子、ひとり、持てり。

 此女に洵(くどき)し昔、京に定(さだ)まる妻ありといふ事を、深く密(かく)し、

「寡住(やもめずみ)なる我なれば、終《つひ》には、江戶に引越(ひきこし)て、必、二人、住(すむ)べき。」

と戲(たはぶ)れそめし中《なか》なりし。

 然るに、此女、武右衞門に託(かこち)て、

「我殿(わどの)は、都にて、我が身ごとき女をすえて、都は花と愛し、東の我は、えびすなどゝ呼(よぶ)とかや。去(さる)人の知(しら)せしぞや。昔、かはせし誓ひも、あり。殊更に、ひとり過《すぐ》しほどこそ、かやうに幼なきものさへ侍れば、最早、登(のぼり)を止(やめ)給へ。放(はなち)は、やらじ。」

と攜(すがりし)し氣色(けしき)、前々(まへまへ)見しに、事かはり、偏(ひとへ)に、鬼面のごとくなれば、男、甚(はなはだ)怖《おそろし》く、日比《ひごろ》の思ひも絕果(たえはて)けれど、何となく打諾(《うち》うなづき)、

「我も左(さ)こそ思へど、浮世の中の、事繁(ことしげ)く、要用(よう《よう》)盡る期(ご)もなければ、今迄、爰にとゞまらず、『京に思ふものあり。』とは、若(もし)は、そのかたの疑(うたがひ)か、若は、世の人のいひなしなるべし。さほどに恨(うらみ)思ひ給はゞ、今一《いまひと》のぼりを限りにて、万(よろづ)繕(つくろひ)て下るべし。必(かならず)。」

と、いひ捨(すて)、とかくに、袖を引《ひき》はなし、逸足(いしあし)はやく、逃(にげ)のぼる。

[やぶちゃん注:「託(かこち)て」「託つ」は「嘆いて言う・愚痴を言う・怨んで言う」の意。ここは最早、最大最悪の最後の意。

「そのかたの疑か」「その方(ほう)」(対峙している江戸妻)「が疑心暗鬼の妄想を致したものか」。

「いひなし」「言ひ做し」。事実でないことを事実のように言うこと。]

 みつけの宿(しゆく)迄、來《きた》るに、跡より、彼(かの)女子《をんなご》を、前にいだきながら、大聲たてゝ、追懸(《おつ》かけ)、

「さるにても、御身、きよくもなや、心に、我を疎(うとみ)はて、口(くち)によろづの僞(ひとだのめ)、いづち、放(はな)してやるべきぞ。」

と、飛鳥(ひてう)のごとく、早(はや)かりけり。

[やぶちゃん注:「みつけの宿」見附宿。東海道五十三次第二十八番目の宿場で(東海道のほぼ中間点)、現在の天竜川左岸。静岡県磐田市見付の中心部に相当する。

「僞(ひとだのめ)」「人賴め」。形容動詞「人頼めなり」(「人に頼もしく思わせる」の意)の名詞形。この「ひとだのめなり」は、和歌などでは、「実際は期待に反して頼りにならない」ことに言うのに用いられることが多く、ここはそれを究極化して「偽り」の意に転じたもの。

「いづち、放(はな)してやるべきぞ。」反語。「いづち」は「何方・何處」で、「どこだろうが、逃がしてやるものかッツ!」の意。この辺りは、「道成寺」の娘の変容辺りが作者の念頭にあるように感ぜられる(私はサイト内に「――道 成 寺 鐘 中――Doujyou-ji Chronicl」の独立ページを作っている程度には「道成寺」フリークである。]

 男、悶絕《もだえ》て逃(にぐ)れども、いつしか、女、追《おつ》つきて、右の腕《かひな》に攫(つかみ)つく。

 かゝる所に、今迄ありとも覺えぬ、都の妻、忽然と出來《いできた》り、左の腕に取《とり》つき、嗔(いか)れる眼(まなこ)に、東の女を、

「はた」

と白眼(にらみ)、

「二世《にせ》を兼たる我妻(《わが》つま)を、年來(ねんらい)、犯しける妬(ねたま)しさよ。恨(うらみ)、近きに報(むくふ)べし。」

と、聲の、地にひゞく。

[やぶちゃん注:「二世」民俗社会では古く平安時代より、愛し合っている者は、三世(さんぜ:輪廻に於いて生まれ変わりを三度繰り返すこと)に亙って結ばれるともされた。或いは現世の夫婦を数えずに、前世の二つを数えたものかも知れぬ。

「我妻」この「妻」は「夫」の意。

「近きに」ここは「今すぐに」の意でとっておく。]

 東(あづま)の女、いきまきて、

「己、いづちの何者にて、其虛言をかまふるぞ。いやいや、早く心得たり。夫が我をうとみ果て、此女に、いはするよな。よしよし、一たび、取付(とりつき)て、爭(いかで)か、爰を放さん。」

と、腕を持《もつ》て引《ひつ》たつる。

 男、引《ひき》はなさんと、悶絕《もだえ》ども、金剛力士のごとくにて、不ㇾ叶(かなはず)。

 京の女も、こらへず、

「都のかたへ。」

と諍(あらそ)ひ引《ひく》。

 其足音、大山《おほやま》も崩れて地に入《いる》かと、あやしく、互(たがひ)に、嗔(いかり)、罵(のゝしる)聲、譊々《どうどう》として喧(かまびすし)し。

[やぶちゃん注:「譊々」底本は上の一字に「しやう」と振るが、採らない。「譊」は漢音「ドウ」、呉音「ニヨウ」で、「争そう」の意。]

 

Ryousaiottowosaku

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここだが、絵草紙は子どもが悪戯をすることが多く、そちらでは、両婦の鬼面が擦り消されてしまっている。]

 

 次第に、つよく引《ひき》けるほどに、男、ふたつに引割(《ひき》さ)けるにぞ、おんな、東西へ別れ行《ゆく》と見えしが、かきけちて、失(うせ)ぬ。

 京の女の、

「夢うつゝに、半分(はんぶん)、道を行(ゆく)。」

と、いひしが、はたして、爰に、まのあたり來りけるこそ、つみ、深けれ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、ある男、妻に、心ざし、うすくなり行《ゆき》ければ、妾《めかけ》といふものを置《おき》て、わりなく、かたらひけるに、此妻、さらにうらみたるけしきもなく、日かずふるまゝ、秋の夜のながきに、いとゞねられもせず、ともしび、かゝげがちにゐる、折しも、しかの音《こゑ》の聞えければ、

  我もしかなきてぞ人にこひられし今こそよそに聲はきけども

と、すさみけるを、男、はづかしくて、妾を、をい[やぶちゃん注:ママ。]出し、昔に、いや、まさりて、契りける、とぞ。かゝる貞なる心こそ、なからめ。女のはかなき心から、かく、おそろしく、あやしきわざをなしけり。「詩經」には「螽蟖(《しゆう》し/いなご)」の篇を作りて、物ねたみを、いましめられし女たらんもの、つたえても、つゝしみ、おそるべき事にぞ。

[やぶちゃん注:評言の頭に引かれてある話は、「今昔物語集」の巻第三十の「住丹波國者妻讀和歌語第十二(丹波國に住む者、妻(め)の和歌を讀む語(こと)第十二)」である。以下に示す。

   *

 今は昔、丹波の國□□の郡(こほり)に住む者あり。田舍人(ゐなかびと)なれども、心に情(なさけ)有る者也けり。

 其れが、妻(め)を、二人、持ちて、家を並べてなむ、住みける。

 本(もと)の妻は、其の國の人にてなむ有りける。

 其れをば、靜かに思ひ[やぶちゃん注:まことに我慢出来ないように感じ。]、今の妻は、京より迎へたる者にてなむ有ける。其れをば、思ひ增(ま)したる樣也ければ、本の妻、

『心踈(こころう)し。』

ろ思ひてぞ過(す)ぐしける。

 而(しか)る間、秋、北方(きたのかた)に、山鄕(やまざと)にて有りければ、後(うしろ)の山の方(かた)に、糸(いと)哀れ氣(げ)なる音(こゑ)にて、鹿(しか)の鳴きければ、男(をとこ)、今の妻の家に居(ゐ)たりける時にて、妻に、

「此(こ)は何(いか)が聞き給ふか。」

と云ひければ、今の妻、

「煎物(いりもの)にても甘し、燒物にても美(うま)き奴(やつ)ぞかし。」

と云ひければ、男、心に違(たが)ひて、

『京の者なれば、此樣(かやう)の事をば、興ずらむ。』

とこそ思けるに、

『少し、心月無(こころづきな)し。』[やぶちゃん注:「ちょっと、興ざめしたな。」。]

と思ひて、只(ただ)[やぶちゃん注:「直ちに」の意か。]、本の妻の家に行きて、男、

「此の鳴きつる鹿の音(こゑ)は聞き給ひつや。」

と云ひければ、本の妻、此(かく)なむ云ひける、

  われもしかなきてぞきみにこひられしいまこそこゑをよそにのみきけ

と。

 男、此れを聞きて、

『極(いみ)じく、哀れ。』

と思ひて、今の妻の云ひつる事、思ひ合はされて、今の妻の志(こころざし)、失せにければ、京に送りてけり。然(さ)て、本の妻となむ、棲みける。

 思ふに、田舍人なれども、男も女の心を思ひ知て、此(かく)なむ、有りける。亦、女も、心ばへ、可咲(をかし)かりければ、此(かく)なむ、和歌をも讀ける、となむ語り傳へたるとや。

   *

「詩經」『「螽蟖(《しゆう》し/いなご)」の篇』「周南」の中の一篇「螽斯(しゆうし)」。キリギリスの声(ね)の賑やかなさまと、同種の繁殖力に、子孫の繁栄を喩えて言祝いだ歌。以下に示す。

   *

螽斯羽  詵詵兮

宜爾子孫 振振兮

螽斯羽  薨薨兮

宜爾子孫 繩繩兮

螽斯羽  揖揖兮

宜爾子孫 蟄蟄兮

 螽斯(しゆうし)の羽は 詵詵(しんしん)たり

 宜(うべ)なり 爾(なんぢ)の子孫は 振振たり

 螽斯の羽は 薨薨(こうこう)たり

 宜なり 爾の子孫は 繩繩(じやうじやう)たり

 螽斯の羽は  揖揖(しふしふ)たり

 宜なり 爾の子孫は 蟄蟄(しふしふ)たり

   *

訓読は恩師の故乾一夫先生の訓読に従った。「薨薨」は古注は「群衆するキリギリスの声」とするが、どうも納得は出来ない。現代語訳は『崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座』のこちらを参照されたい。]

2022/09/21

西原未達「新御伽婢子」 雨小坊主

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     雨小坊主(あめのこぼうず)

 都、八幡町(《はち》まん《ちやう》)といふ所に、新兵衞とかやいふ人、ある夜、雨しめやかに降(ぶり)て、風まぜなるに、小ぢやうちん、手づからして、夜半(よは)の比《ころ》、三条坊門(《さん》でうぼう《もん》)万里(まで)の小路(こう《ぢ》)を、西へ行《ゆく》に、六つか、七つ斗《ばかり》と覺しき小坊主、門の扉にそひて、雨だりに、そぼぬれ、すごすごと、たてるあり。

[やぶちゃん注:「都、八幡(まん)町」現在の京都府京都市中京区御所八幡町(ごしょはちまんちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)或いはその東の東八幡町辺りか(グーグル・マップ・データ)。

「三條坊門万里の小路」下京区万里小路町。前の八幡町の南直下一キロメートルほどの位置にある。]

 火を寄(よせ)て見るに、其さま、乞食やうの、いやしきものには非ず、いろ㛐娟(あでやか)に、手足の爪(つま)はづれ、淸ら也。衣裳、みぐるしからず。

[やぶちゃん注:「爪はづれ」「爪外れ」本来は「着物の褄のさばき方」であるが、転じて、「身のこなし」の意。]

『いかさま、げしうはあらぬ人の子なめり。』

と思ひ、

「いづく。いかなる人の子ぞ。」

と問ふに、こたへず。

 又、愁(うれへ)る㒵(かほ)もみえず。

 是彼(これかれ)、問定(とひ《さだめ》)て、

「送りもし、さもなくば、今宵は、我《わが》かたに伴ひて、寐(ね)させなん。」

と、いへど、尙、いらへず、萬里小路を、南にあゆむ。

『扨は。親のもとに行《ゆく》にこそ、雨、晴間なく、降(ふる)に傘をだに、着ず、哀(あはれ)。』

に思ひ、慈愛の心、甚しく、かさ、さしかけ、跡に付《つき》て行《ゆく》ほどに、四、五町[やぶちゃん注:四百三十七~五百四十五メートル強。]斗《ばかり》と覺えし道の眞中(まんなか)比《ごろ》にて、此小坊主、ふり歸るを見れば、顏の大きなること、よの常の人に、五双倍(《ご》さうばい)せり。

 三眼にして、鼻も、耳も、なきが、新兵衞を見て

「莞(につ)」

と、わらひ立《たつ》たり。

 見るに、身の毛、よだち、ひざ、ふるひ、目くるめきて、大地に、たふれたり。

 暫(しばし)して、自然(しぜん)と心づき、あたりを探見(さぐり《み》)るに、雨具、其儘、有《あり》て、身は、泥土(でいど)にまみれ、濡(ぬれ)しほれて、取所《とりどころ》なし。

[やぶちゃん注:「取所なし」「取(り)所」は、本来は「取り立てて言うだけの価値のある点」であるが、ここは「如何にも惨めな有様で、何とも言いようのないていたらくであった」というのである。]

 漸々(やう《やう》)、起《おき》あがり、菟角(とかく)する内に、空、しらじらしく、明渡(あけ《わた》)る。

『萬里の小路を南へ行《ゆく》。』

と思ひしが、夜明《よあけ》て、所を見れば三条の西、西院(さいゐん)とて、人を葬(ほうふ)るみちのべに、奄忽(あんこつ)して居(ゐ)たり。

「思へば、遠く、たぼらかされける哉《かな》。」

と、そこら、求(もとめ)て、駕籠(かご)にて、家に歸りしが、此夜より、煩ひて、四十日斗《ばかり》、起《おき》ず。

 され共、後(のち)は、別事なく、本復(ほんぶく)しぬ。

[やぶちゃん注:「西院」この附近サイト「京都ブログガイド」の『西院 読み方の由来は「賽の河原」』によれば、この辺りは平安時代には、京の都の民俗社会にあって、事実上の西の果てに相当した場所であったとし、嘗ては佐井川という川が流れており、そこに「賽の河原」があったとされ、当時は、この佐井川の辺りに、幼くして亡くなった子供の亡骸が遺棄されてあったともある。辺縁は、とかく、異界との接点でもあったのである。されば、この「雨の小坊主」が新兵衛を最後の連れて行ったのが、「西院」というのは、地獄の賽の河原で救われない子らの魂が、ここに向けさせ、回向を望んだものかも知れぬ。こんな話を読んでしまうと、最早。妖怪「雨降り小僧」の話など、しようと思っていたのが、しんみりしてしまって、やる気が亡くなった。妖怪「雨降小僧」は当該ウィキを読まれたい。なお、本篇はネットでは妖怪好きの偏愛する話のようで、現代語訳であるが、多くヒットする。それにしても、この程度の話を原話ではなく、現代語訳しなくては、読んでくれない世界とは、如何にも淋しい世となったものだ。近代以降、妖怪が消えていったのは、大多数が、しみじみとした古典世界で読むことを面倒臭がるようになった末世、真の末法の世界となったからに他ならないという感を、私は、強く感ずるのである。]

西原未達「新御伽婢子」 死後嫉妬

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

      死後嫉妬(しごのしつと)

 河刕に或人の妻、久しく、いたはりて、身まかりぬ。

 本願寺の門徒成《なり》ければ、時の御堂衆(《みだうしゆ》の一老、法敎坊を始(はじめ)、其外、あまたの僧衆を、都より請待(しやうだい)し、明晝《あくるひる》、野邊(のべ)に送らんと、元來、冨祐(ふ《いう》)の人なれば、葬礼の義式、他に異(こと)に、美をつくして經營す。

 其宵(よひ)、各《おのおの》、此家に泊り明かしぬ。

[やぶちゃん注:「法敎坊」不詳。]

 佛前に亡者をなをし[やぶちゃん注:ママ。「正しくおき直す」で「なほし」が正しい。]、其一間に、僧衆《そうしゆ》、各、寢(いね)たり。

 夜、いたう更入(ふけ《いり》)、閑(しづまつ)て、小雨(こさめ)、一《ひと》とをり[やぶちゃん注:ママ。]、風、そよめきて、物すごき比《ころ》、此棺郭(くわん《くわく》)、動(うごく)事、暫(しばし)して、亡者、忽(たちまち)、あらはれ出《いで》て、佛前の御(み)あかし、其外、其間(ま)の燈(ともしび)どもを、皆、吹(ふき)けちて、くらくなしぬ。

[やぶちゃん注:「棺郭」「棺」桶と、それをさらに外側から囲む「郭」、構造物や外側の容器部分を指す。ここは、棺桶そのままではなく、外側に別に設えた外装容器があったことを指す。言われてみると、以下の挿絵の棺桶は、内側に円状に組んだ棺桶板が見えるが、外側は、あくまで、つるんと、している。則ち、棺桶を、より大きな樽状の入れ物の中に入れて、蓋がしてあることが判然とする。]

 衆僧(しゆそう)、旅に疲(つかれ)、能(よく)寢入(ね《いり》)て、知らざりしを、同宿(どうじゆく)の僧、ひとり、始終を見居(ゐ)たれども、餘りの怖しさに、息をも、たてず、まして、聲をあぐる事、なし。

 かくて、晨明(あけがた)になる時、亭主、用の事ありて、箱の鎰(かぎ)を尋《たづね》ければ、從者共のいふ、

「其鎰は、召つかひの『りん』が帶に付《つけ》て、居(ゐ)侍り。」

とて、名を呼(よぶ)に、出《いで》ず。

[やぶちゃん注:「箱の鎰」金箱の鍵であろう。それを侍女が帯につけて持っているという設定自体が、既にして主人と、この女の関係が、家内に於いて、ただならぬものであったことが、臭ってくる仕掛けである。]

 ねやに入《いり》て、尋《たづね》ければ、頸(くび)は失せて、體(むくろ)斗(ばかり)殘る。

「こは、いかに。」

と驚き、騷ぎ、

「何ものゝ所爲(しよゐ)ぞ。」

と、取紛(とりまぎれ)たる中に、又、此事を、騷動す。

[やぶちゃん注:ここも主人自らが、侍女の部屋に入ること自体が、普通でない。番頭なりに起こしに行かせればよい。それをなにごともないかのように入るところ自体が、二人ができていることに他ならない。なお、図で、居間の脇に「りん」が寝ていることになっているが、これは挿絵上の節約のためで、ただ一幅の上下で鴨居で切って描いたに過ぎない。若い僧らの隣りに、襖一つ隔てただけで侍女が寝ること自体が、あり得ない。なお、さらに言えば、この挿絵は、本文に語られない、闇の中で行われた「りん」の首の引き抜いた後と、その生首を摑んで、してやったりと喜悦する亡き妻の凄まじいシーンをカップリングしたものだが、やはり、変則的な上下合成が、逆に、違和感を感じさせる。上部の雲形を半分に減らし、中央の鴨居を横水平ではなく、極少し斜めに渡せばよかったと私は思う]

 

Sigonosituto

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 爰に其宵、能(よく)したゝめたる棺郭の、繩、ちぎれ、蓋の、高くあきたるに、各《おのおの》、よりて、是を見れば、彼(かの)亡者、りんがくびを、引《ひき》ぬき、たぶさを、つかみ、指(さし)上《あげ》、嗔(いか)れる眼(まなこ)を、見ひらき、生(いけ)るがごとくして、死居《しにゐ》たりけるこそ、淺ましけれ。

 後々(のちのち)、此子細を聞(きく)に、亭主、此召つかひの「りん」に目をかけける、とて、日比《ひごろ》、恨(うらみ)、いきどをり[やぶちゃん注:ママ。]、おそろしき迄に、嫉妬が其思ひに煩(わづら)ひて、むなしく成りし。

 罪障、なを[やぶちゃん注:ママ。]殘(のこり)て、死後に恨《うらみ》を報(むくひ)けむ。怖しき事どもなり。

 此事、法敎坊、直(ぢき)の物がたりとて、京の檀主(だんしゆ)の、かたられ侍る。

[やぶちゃん注:これもつい先頃、当事者の一人に等しい偉い僧から、直談として聴いた出来立ての「噂話」という体裁をとっている。本書の著者西原一郎右衛門未達(みたつ)は京の書肆にして作家なわけであるから、所謂、「都市伝説」(urban legend)の際たる設定と言えるのである。]

西原未達「新御伽婢子」 夢害妻

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     夢害ㇾ妻(ゆめにつまをがいす)

 都(みやこの)片原(かたはら)に「絹布(きんぷ)の半衣裏(はんゑり)」といふ物を商買する男あり。

[やぶちゃん注:「絹布の半衣裏」 着物の下に着る下着である長襦袢(ながじゅばん)に付ける襟で、絹製のもの。

 或夜。ゆめ幻(うゝつ)ともなきに、枕に有《あり》し刄(やいば)をぬきて、我女房の傍(かたへに)臥(ふし)たるを、只、一太刀に切殺(きりころ)して、又、始《はじめ》のごとく、いねたり。

 明旦(みやうたん)、此事を、露(つゆ)覺えず、妻を起しけるに、いらへず。

 立《たち》よつて、見るに、切殺《きりころ》して有《あり》。

 

大きに驚(おどろき)、

『若《もし》、盜賊(とうぞくの)所爲(しよゐ)にや。』

と、立《たち》まはり、見めぐれども、戶の樞(くるゝ)、しとゞ落《おり》て、壁・板敷に怪しき道《すぢ》も、なし。

[やぶちゃん注:「樞」戸締まりのため、戸の桟から敷居に差し込む止め木。また、その仕掛け。

「道《すぢ》」私の当て訓。「(それらしい)跡」の意で選んだ。]

 氣を、おさめて[やぶちゃん注:ママ。]、つくづくと夜部(よべ)を思へば、誠にあやしく、などやらん、人と、猛き喧嘩したりと、夢見しにぞ。

[やぶちゃん注:「などやらん」何故だか判らないし、誰が相手だったかも判らぬ(人)。]

「扨は。現(うつゝ)に切《きり》たる成《なる》べし。」

と、あたりの人にも咄(はな)し、親類にもかたりて、恥(はぢ)かなしむ。

 此事、女房の親兄弟(《おや》はらから)、更に夢とせず、上《かみ》に訴へて、男は獄に押こめられけるが、何の意趣なく、誤(あやまつ)て討(うち)たるに糺明(きうめい)し後《のち》、囚(とらはれ)を、ゆるされけるが、直(すぐ)に發心(ほつしん)、修行の身となりぬ。不思議の惡緣より、善道には、入《いり》ける。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 「昔、去(さる)人、旅行の道にて、ある家を見れば、澁(さび)くちたる刀をぬきて、壇上(だんじやう)に崇(あがめ)、注連(しめ)、引《ひき》て、禮拜するあり。旅人、おもふ。

『いかさま、名劍なるが、奇瑞(きずい)などあるに依(よつ)て、かく、たうとむなるべし。』

と、立よつて、子細をとふ。亭主、答(こたへ)て、

「されば。無類の名作にて侍る。予、きのふ、ある所にて、大酒し、沈醉(ちんすい)の上に、覺えず、此刀をぬいて、人に切付《きりつけ》侍るに、しぶ皮もむけず。其浦(うら)の人々、よりて、是非なく、我を寐(ね)させ侍るとぞ。けさ、醉《ゑひ》さめて、始(はじめ)て此事を聞《きく》にぞ、若(もし)、此刀、よく切れ侍らば、人、又、我《わが》命《いのち》をたすけじ。思へば、命の親なる故、かくあがめ申す。」

といひしは、おかしながら、ことはりなり。」

と、いはれし。さもあるべき事にや。

[やぶちゃん注:これは現代で言えば、本人に殆んどちゃんとした記憶がないのであるから、一種の重篤な夢遊病様状態に於いて、則ち――心神喪失状態で――錯誤により、妻を殺害したと認定されたケースとなる。但し、事実そうであっても、江戸時代、こうした裁きが行われた可能性はないと思われる。それを言い張れば、寧ろ、佯狂(ようきょう)として、不届き極まりないとして、より重罪に処されたものと思う。その点でも、奇談ではある。本邦で、夢遊病状態にあったと認定されて、人を殺して無罪となったケースは知らないが、昭和四一(一九六六)年、アルコールに耐性が弱い男性(当時三十四歳)が、酩酊し、上司にガソリン様の液体をかけて殺害しようとしたが、未遂に終り、傷害を与えたが、別に、たまたまその場に居合わせた被告人の妻(同前二十七歳)も、その液体を浴び、それに被告人がライターの火などを以つて引火させ、翌日、妻を全身火傷で死亡させた事件があり、この裁判は精神鑑定(酒精酩酊試験を含む)の結果、裁判所によって『「急性酒精中毒(=酩酊)」により「一過性の精神障害の程度が極めて重篤なため、本件行為当時被告人は是非善惡を弁別する能力もしくはそれに従って行動する能力が全く欠如していたものと認め」、無罪の言い渡しを行った』、則ち、現在の「心神喪失」によって無罪とされた事件を知っている(以上の引用は所持する一九七九年みすず書房刊「日本の精神鑑定」の「愛妻焼殺事件」(秋元波留夫・萩原泉執筆担当分)に拠る)。また、十数年前に女性が男性を車で轢き殺したが、その女性被告人は解離性同一性障害が認定され、轢殺した際は別人格であったとして心神喪失で無罪と裁判所が言い渡した判例があったと記憶している(その後に控訴審などがどうなったかは不明)。]

西原未達「新御伽婢子」  / 則身毒蛇

 

[やぶちゃん注: 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

新御伽卷三

     則身毒蛇(そくしんのどくじや)

 無下に近き比《ころ》、肥前の辛津(からつ)邊に、或人の女房、五十にちかき有り。

[やぶちゃん注:「無下に近き比」ごく直近の出来事。あり得たような「噂話」の時制の必要条件である。

「肥前の辛津」現在の佐賀県唐津市(グーグル・マップ・データ)。]

 家(いへ)、時めきて、田園多く、子共、五人、持てり。

 女《むすめ》は外に嫁し、男、別に屋《や》作りて住(すめ)り。

 天和二年の冬、或夜、女《をんな》の夢に、若く、うつくしき女の、此わたりに見馴ぬが、枕もとにかしこまりて、此家《いへ》あるじの、前生(ぜんじやう)より始(はじめ)て、身の終(をはり)迄を、つらつら、語る事、ひとへに書(かき)たる物を、よむごとく、すみやかにして、

「必(かならず)、其月日、來り給へ。」

と言捨(いひすて)、歸ると思へば、正(まさ)しく、聲、耳に殘り、姿、幻術士(まぼろし[やぶちゃん注:三字への読み。])に見ゆ時、夢、覺(さめ)たり。

 甚(はなはだ)醜《おそろし》くて、一身、汗にひたる事、浴(よく/ゆあび)するがごとし。

 されども、夫にも、子にも、かたらず。

『夢は、五臟の虛(きよ)よりなすなれば、はかなく、跡なき事のみにて、誠、すくなし。何の異(こと)なる事、あらん。』

と、日數(《ひ》かず)をふるほどに、其後、家内に、人なく、女房、独(ひとり)、茶なんど、たうびて居(ゐ)る晝の最中(もなか)、紛《まぎらふべくもなき幻(うつゝ)の女、來りて、いふ、

「有《あり》し夜《よ》、枕によりて、こまごま、語り聞《きか》せし事を、大かたの僞(いつはり)と思ひたどり給ふこそ、淺ましけれ。必、其日、其身ながら、生(しやう)をかへんなんぞ。早く、夫(をつと)にもかたり、子共にも名殘(なごり)を惜(をし)み給はぬ、愚(おろか)なる人の、心かな。」

といふにぞ、あるじの女、

「はつ」

と思ひ、

「扨は。正夢といふ物なめり。去(さる)にても、御身、いかなる人なれば、かく念比(ねんごろ)に、我が過去・未來をしめし給ふ。過(すぎ)し夜の夢も、粗(ほゞ)覺え侍れど、なを[やぶちゃん注:ママ。]、此うつゝの時、きかさせ給へ。」

と。

「其事よ。我は溫泉(うんぜん)の麓の池に、數千歲(すせんさい)を經(ふ)る、大蛇なり。來(きた)る何日(いくか)に、三毒の惡苦(あくく)を請終(うけをは)りて雲上(うんじやう)にうかむ。此跡の池に、主(ぬし)を見定めて、其器(き)にあたりたるを、我が世繼(よつぎ)とする也。そこの果報を考(かんがう[やぶちゃん注:ママ。])るに、毒蛇の種姓(すじやう)、のがるゝ事、なし。よつて、爰(こゝ)をゆづる也。知せずとも、あらば、有《あり》なん事ながら、流石(さすが)、自(みづから)が一跡(《いつ》せき)を參らする往昔(わうじやく)の因(ちなみ)あるによつて、情(なさけ)に、かくは、告(つげ)侍る。相《あひ》かまへて、疑(うたがひ)を殘し給ふな。又、世の人に習ひ迷ひて、巫女(ぶによ)・祝(はふり)の祈念なんどに轉(てん)じかふる事も、更に、あたはず。」

と語(かたり)、かきけちて、失(うせ)ぬ。

[やぶちゃん注:「溫泉の麓の池」底本の「溫泉」の読みは「うんせん」。しかし、「うんせん」という特異な読みと、「麓」と言っていること、後で唐津から、その麓の池までの距離を「南十六里」(六十二・八三キロメートル)とすることを総合すると、これは現在の雲仙岳と断定出来る。そもそも雲仙岳の峰の一つである普賢岳一帯は近代に至るまで、「溫泉岳」と呼んでいた事実があるからである。「今昔マップ」の戦前の地図を見られたいが、更に、その地図を少し南西に移動させると、「温泉(うんぜん)」の地名が確認され、その東直近に「矢岳」というピークがあるが、そこから北西に降った標高八百三十一メートル位置に国土地理院図で「温泉(うんぜん)岳」とあるのである。その東の麓に「空池」という池があり、ここが、ここでいう「池」なのではないかと推定する。現在、大きな「鴛鴦ノ池」があるが、これは明治期には形成されていないからである。

 猶、此事につけて、問(と)はましき事ども、多かりしを、いひ出《いで》んとするに、失(うせ)ければ、惘然(ばうぜん)と、我が身を打《うち》まもり、

「情(なさけ)なき過世(すぐせ)かな。」

と、胸、打《うち》さはぎ、おそろしく、恥かしながら、亭主の歸りければ、

「かく。」

と語りて、淚をながし、子どもも呼寄(よびよせ)、生(いき)ながら別れん事を語り、泣(なく)。

 かくて、二日斗《ばかり》の後、座敷に、ひとり、晝寢し、襲(おそ)はれて、喚(うめく)事、すさまじ。

 人々、次の間に聞《きき》て、行《ゆき》て見るに、姿は、もとの姿ながら、大きなる事、ふしだけ、壱丈もやあらん、長き黑髮の、くねり動(うごく)事、浮藻(うきも)の波にさはぐがごとく、其一間(《ひと》ま)の熱さ、恰(あたか)も、燒(たき)たてたる浴室にひとし。

[やぶちゃん注:「ふしだけ」「臥し長(だけ)」で蹲ったその体高のことか。大蛇に化す以上はそれくらいのことは如何にも腑に落ちる。]

 皆、傍(かたはら)による事を恐怖《おそれ》て、敷居のこなたより、呼起(よびおこ)しければ、漸(やうやく)に起《おき》けるが、汗の滴るさま、空(そら)にしられぬ白雨(ゆふだち)なり。

 面色(めんしよく)、赤く、ため息、苦しげに、淚の下より、人々に向つて、いふ、

「今、將(はた)、有《あり》し日の女、枕に來り、むつましげに、万(よろづ)の物がたりし侍るほどに、則《すなはち》、我が身、蛇體(じやたい)と成《なり》て、是《これ》にむかひ、行さき、行末の、有《ある》べきうき身の、住所(すみどころ)の事など、問ひ習ふに、日每(《ひ》ごと)に、三度(ど)づゝ、熱湯を吞(のむ)といふ事を聞(きく)に及(およん)で、一身(《いつ》しん)、猛火(みやう《くわ》)の中にあるがごとし。」

 其内に、たすけ起されたれども、猶、苦しさの增りて、

「あら、あつや、たえがたや、」

と腦亂(なうらん)[やぶちゃん注:「腦」はママ。]する事、目もあてられず。

 漸(やうやう)、本心を失ひて、譫語(そぞろごと)、口《く》どく、手足を、たゆとふ事、水中を漂泊(へうはく/たゞよふ)するごとし。

 おもひなすに、誠に猛蛇(まうじや)のうごくに、似たり。

 水を好(このみ)て吞(のみ)けるが、後には、水の味(あぢは)ひをえらびて、

「是も、氣に入《いら》ず、かれも、あつさを消(け)さず。」

と嗔(いかる)。

 人々、もてあつかひ兼(かね)るに、自(みづから)敎へて、

「是より、南、溫泉(うんぜん)のふもとに、池、有(あり)。爰(こゝ)の水を汲(くま)せて、くれよ。」

と。

「それ也《なり》。」

と號(なづけ)て、近き池水(ちすい)を求(もとめ)、吞(のま)するに、用ひず。

「惡(にく)きものどもの、ふるまひや。我が久しく住(すめ)らん宿(やど)りなれば、兼て、風味(ふうみ)、克(よく)覺えぬ。疾(とく)、汲(くみ)よせて、我に、あたへよ。」

と、

「はた」

と邪睨(にらま[やぶちゃん注:弐字への読み。])へたる氣色(けしき)、白眼(はくがん/しろきまなこ)に、血をそゝぎ、見るより、毒氣(どくき)、備(そなは)れり。

 人、怖《おそれ》て、辛津より南拾六里をへたる溫泉《うんぜん》のふもと迄、人をして、汲《くみ》よせ、是をあたふるに、心よげに打笑《うちゑみ》、寒風に、肩、やせて、一荷(か)求《もとめ》し水を、只、四、五度(ど)に吞(のみ)ほして、猶、跡より、好みけるに、行程(《かう》てい)、遙(はるか)にして、良(やゝ)、隙《ひま》、多くかゝりければ、やるせなく、悶(もだへ)て、

「所詮、我、そこに至り、吞《のま》んには。」

と、

「むく」

と起《おき》て出《いで》て、行《ゆく》。

 辛津、溫泉(うんぜん)、同國ながら、程《ほど》隔たれば、每(いつ)、此女の行《ゆき》見《み》し習ひもなきに、案内もたのまず、其かたに走行(はしりゆく)。

 早卒(いちはやき)事、逸散(いつさん)の馬(むまの)ごとく、一門、打起《うちおこ》りて、跡をしたふに、追付《おひつく》べき力も、なし。

 

Sokusindokujya

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 彼(かの)池の汀(みぎは)に行着(《ゆき》つく)とみえしが、蒼々(さうさう)たる一天に、黑雲(こくうん)、俄(にはか)に重(かさな)つて、冥々(めいめい)たり。

 玉《たま》か礫(つぶて)かと怪しむ雨、うつすがごとく、魔風(まふう)、岑(みね)より動謠[やぶちゃん注:ママ。]し、蒼波(さう《は》)、岸を洗ふ。

 愧(おそろし)なんども、いふ限なし。

 此紛(まぎれ)に、女は、池に入《いり》けり。

 くらければ、みる人、なし。

 蓑笠(みのかさ)の助(たすけ)もなく、歸るに、びんなければ、木の下(もと)、岩の陰に、風雨を凌(しのぎ)て、二時《ふたとき》斗《ばかり》、過《すぐ》るほど、漸々(やうやう)、空、はれ、風、治(をさま)り、各《おのおの》、池にのぞみて、波の上を見渡たすに、二度(ふたゝび)、形、みえずなりぬ。

 日を經て、

「若(もし)、死骸(しがい)斗《ばかり》や、浮(うかぶ)。」

と、人を置《おき》て、守らせけれども、衣服だにみえずなりけるとぞ。

「かゝる事は、傳へても、きかず、正(まさ)しく見しにぞ、一身、縮(しゞまり)て、おそろしく、淺ましき事に覺え侍る。」

と、みし人、かたられ侍り。

[やぶちゃん注:「玉《たま》か礫(つぶて)かと怪しむ雨、うつすがごとく」「うつす」は「バケツから移すかのようにドバっと降る」の意ともとれなくはないが、思うに「す」は衍字で「打つがごとく」の方が躓かないと思う。]

西原未達「新御伽婢子」 樹神罸 /「新御伽婢子」巻二~了

 

[やぶちゃん注: 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇に挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

     樹神罸(じゆじんのばつ)

 上京五辻(《かみぎやう》いつつじ)といふ所有り。其わたり、なべて、絹を織(おり)て業(わざ)とする所にて、つゞきたる軒(のき)、いらかをならべ、誠に賑(にぎ)めけるさまにぞ在《あり》ける。

[やぶちゃん注:「上京五辻」現在の京都府京都市上京区五辻町(いうつじちょう):グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在も西陣織関連の店舗を見る。]

 或絹やの背戶(せど)に、大きなる榎(え)の木あり。此古木に、

「主(ぬし)あり。」

とて、皆人(みな《ひと》)、恐怖(きやうふ/おそれおゝき)し、尊(たつと)びて、枝ひとつをも疎(おろそか)に折《をる》事なし。故に、枝葉(し《えふ》/ゑだは)欣々(きんきん)として、自(おのづから)茂り、黃昏(くわうこん/ひぐれ)に至るより、鳶・烏の、多《おほく》翅(つばさ)を休め、ねぐら求《もとむ》る便(たより)とぞなりける。

 然るに、家(や)の主《あるじ》、此木の茂り、陰、くらく、手もとの明(あか)からぬを、

「うるさし。」

とて、枝をとり、葉を隙(すか)しけるに、流石(さすが)、樹神も、家業(か《げふ》)の切(せつ)なるを、𪫧舊(あはれみ)給ひけるにや、させる快異(けい)もなく、祟(たゝり)もなし。

 家の主、是に侮(あなどり)、嘲哢(てうろう/あざけり)し、

「世の人のまよひより、神の、佛のと、用ひ、尊敬(あがむる)こそ可笑《をかし》けれ。年比《としごろ》、おそれおのゝきて、葉のひとつをも、とる事なきを、某(それがし)、枝葉(し《えふ》)を伐(きり)とるに、何のふしぎもあるにこそ。所詮、根もとを伐(きり)たふし、薪(たきゞ)にくだかんに、明(あか)りは、よく、さして、しかも、わり木は出來(いでき)ぬ。能(よき)事、二たつ、何か如ㇾ之(これにしかん)。」

と、頓而(やがて)、

「日傭(ひよう)といふ者を招(まねひ)て、きらせん。」

と、するに、人、をそれて、うけがふもの、なし。

「おかしの人の心や。將(いで)、某(それがし)切《きつ》て捨ん。」

と、斧を取《とり》て、二つ、三つ、つゞげ打《うち》に切付《きりつけ》しが、忽(たちまち)、眼(まなこ)くらみ、心神(こゝち)あしかりければ、

「明日こそ、切《きる》べけれ。」

とて、休(やすみ)けり。

 其夜(そのよ)、寐(ね)ころび、茶など吞(のみ)て居(ゐ)たる所へ、いづくよりともしらず、若き女の、賤(いや)しからぬが、足に疵《きず》をみせて、亭主が傍(そば)により、うらめしげに、㒵(かほ)をまもり、物いひ出《いで》ん口つきにて、淚にむせび、さめざめと泣(なく)。

 元來(もとより)、ふてきの男なれば、わきかへる茶を、ひとつ、女の㒵に、

「ざぶ」

と、かけ、起(おき)なをる[やぶちゃん注:ママ。]内に、女は、消(きえ)て失(うせ)ぬ。

 是より、男、狂亂して、おめきさけび、己(おのれ)と斧を待《も》て、足手(あして)に切付《きりつけ》、鑊子《くわくし》[やぶちゃん注:鍋。]をとりて、茶を浴(よく)し、

「荒(あら)、あつや、たえがたや、」

と惱乱(なうらん)する事、二時(《ふた》とき)[やぶちゃん注:四時間。]斗《ばかり》して、狂《くる》ひ死《じ》にしけり。

 彼(かの)木を、又の日、見けるに、梢の一茂り、枯凋(かれしぼみ)たり。

「實(げに)も、斧を持《も》て、木を切《きり》たれば、女の足に疵つき、女に茶を浴せければ、此木のいたゞき、枯痛(かれいたむ)事。木は、神にして、神、則(すなはち)、木なりけり。」

と、諸人《しよじん》、弥(いよいよ)、おそれをなす。

 此木、茂りて、今にありとぞ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 なべて、樹神といふもの、其住(すみ)なれたる木ならで、外にやどらぬ物にや。昔、尾州味岡(あじ《をか》)といふ所にて、如法(によ《ほふ》)の衣鉢(えはつ)をかけたる僧、おこなふに、大木(《たい》ぼく)を切《きり》とらんとす。半(なかば)、切(きり)のこしたる時、ある俗に告(つげ)て云《いはく》、

「わがすむ木を、切とり給ふ故、居《を》る所なく成《なり》侍る。此僧に佗言(わびごと)して給へ。」

と。此人、答《こたへ》て、

「何とて、直(ぢき)に佗(わび)侍らぬ。」

といへば、

「我は、是、鬼神(きしん)のたぐひにて、如法の僧に、直(ぢき)に得《え》ちかづき侍らず。」

と。時に、此人、僧に、

「角(かく)。」

といへば、木の殘りを、きらざりけるとぞ。

[やぶちゃん注:「尾州味岡」現在の愛知県のこの附近の旧地区名。

「如法の衣鉢をかけたる僧」師と仰ぐ僧から正しい仏法の奥義を伝えられている禅僧を指す。

「得《え》ちかづき侍らず」この「得」は不可能の呼応の副詞「え」に当て字したもの。]

2022/09/20

西原未達「新御伽婢子」 雁塚昔

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。]

 

     雁塚昔(がんづかのむかし)

 河内國或里に地下侍(ぢげ《ざむらひ》有《あり》て、常に朋友を集め、圍碁・双六(すごろく)に好(すき)、狩(かり)・漁(すなどり)を業(わざ)となん、しけり。

 或時、又、碁を始(はじめ)て、千手百手(ちてもゝて)にいどみ、戰(あらそふ)折節《をりふし》、窓のむかふ、半町斗《ばかり》[やぶちゃん注:五十四・五四メートル。]の田の畔(くろ)に、水底(すいてい)に書(しよ)をうつして、白雁(はくがん)、ふたつ、おりたつ。

[やぶちゃん注:「地下侍」ある土地に土着し、平常は農耕に従事している下級武士。

「書(しよ)をうつして」白い双体の影を書(しょ)さながらに浅い水底に写して。]

 

Ganduka

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 侍、早く見付《みつけ》、頓而(やがて)、床(とこ)なる弓、おつ取《とり》、雁僕(かりまた)[やぶちゃん注:「僕」はママ。「俣」の誤字であろう。]の矢をつがひ、引《ひき》しぼりて、放つ。

 あやまたず、雄のほそくびに、射つけたり。

 雌は、是に驚きて、跡なく飛去(とびさり)ぬ。

 走行(はしり《ゆき》)て見るに、首は射切(い《きり》)て、なく成《なり》しを、さのみも尋(たづね)ず、引提(ひつさげ)て歸り、まさしく料理(りやうり)て饗應(もてな)し、己(おのれも)食(しよく)しつくしけり。

 角(かく)て、その年、暮ゆきて、春、新(あらた)に來り、一花(け)ひらくる朝(あした)より、永日(ゑいじつ)の三十日(みそか)を、三たび、數ふるほどを思へば、こよなふのどけしや。

 更衣《ころもがへ》の夏にうつりて、時鳥(ほとゝぎす)の初聲(はつこゑ)をきくより、一夏(げ)の過(すぐ)る隙(ひま)、又、久し。

 漸(やうやく)にして、文月(ふづき)にかはり、八月になる。

 去年(こぞ)の此比《このころ》を思へば、

「誠に、向(むかひ)の田の畔(くろ)に、雁(かり)の渡りし事、あり。」

と、其かたを見やりければ。又、鳥、ひとつ、おり立《たち》ぬ。

「嗄(すは)、願(ねがふ)所よ。」

と、弓、取り、矢、つがひ、心せきて、切《きつ》て、はなつ。

 思ふ圖(づ)に射付(い《つい》て)、是をも、得たり。

 みれば、白雁の雌なるが、羽がひの下に、雄《をんどり》の首《くび》を懷(いだき)たり。

 侍、驚(おどろき)、淚をながし、日を指折(ゆび《をり》)て思へば、

「去年(こぞ)の今日、雄の首を射切(《い》きり)たるが、其雌(めとり)、雄《をんどり》)の別れを悲しみ、此首を、身に添(そへ)、永き月日の、けふ迄、猶、其事に浮岩(あこがれ)、此所《ここ》には落(おり)たるなるべし。是を惟(おもふ)に、人斗《ばかり》情(なさけ)しらぬものは非じ。或時は鹿笛(しゝ《ぶゑ》)にあやつりて、偕老(かいらう)の契りをさけ、子に身を替(かふ)る猿を害し、鴛鴛《をし》のふすまを、おどろかし、鳩(はと)の比翼を射とる事、罪障(ざいしやう)いかゞ、おそろしや。かばかり、目下(まのあたり)、哀(あはれ)を見て、身の罪、しらぬ、はかなさよ。」

と、慚愧の心、切(せつ)なれば、

「是なん、菩提の知識なるべし。」

と一所(《いつ》しよ)の所帶(しよたい)を沽却(こきやく)し、髮、切《きり》て、ながく、佛道修行の道人《だうにん》となりしが、かの田の畔(くろ)を買求(《かひ》もとめ)て、ひとつの塚を筑(きづ)き、卒都婆(そとば)を建(たて)、二鳥《にてう》の跡(あと)、ねん比《ごろ》に吊(とひ)けり。

 俗、呼(よん)で「雁塚(がんつか)」といふ。今に古跡をのこしぬ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、ある人、鴛鴦《をし》の雄《をんどり》をころしけるに、其夜の夢に、いとうつくしき女、枕に來つて、うらめしげに、此おとこ[やぶちゃん注:ママ。]を打見《うちみ》て、

 日くるればさそひし物をあそ沼のまこもがくれの独(ひとり)ねぞうき

といふ歌をよみて、さめざめと、なく、と、みて、夢、さめ、おどろき、ぼだいしんをおこし、出家せしとかや。かほどまで、まざまざしき事こそなからめ、つまを殺され、子をとられ、恨惑《うらみまど》ふ所の畜類、人よりも、猶、まさるなれば、いとひても、なすまじきは殺生にこそ。

[やぶちゃん注:「嗄(すは)」「嘎」(音「カツ」。擬音語。但し、鳥の声などに用いる)の誤記か。

「偕老(かいらう)の契りをさけ」この「さけ」は「さき」(「裂き」)の誤用であろう。

「ふすま」「衾」。閨(ねや)のそれ。睦み合うことの隠喩。

「是なん、菩提の知識なるべし。」の「知識」は「契機」の意。「この出来事こそが、己(おのれ)が正しく菩提心を発する機会であったのだ!」の意。

「沽却」売却すること。

「昔、ある人、鴛鴦《をし》の雄《をんどり》をころしけるに、……」ここに示された話(言うまでもなく、本篇の種元)は、少なくとも、私は小学校三年生の時、角川文庫の小泉八雲の「怪談・奇談」でしみじみと読んだものだ。私の「小泉八雲 をしどり (田部隆次訳) 附・原拠及び類話二種」を見られたい。そこで、原話・類話なども十全に総て示してある。因みに、私は、来日後の小泉八雲の全作品の翻訳(初版「小泉八雲全集」底本)を、既にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で、二〇二一年一月に全電子化注を終えている。

西原未達「新御伽婢子」 髮切虫

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。]

 

     髮切虫(かみきりむし)

 或家中の侍、煩《わづらふ》事ありて、老醫・鍼醫を日每(ひごと)に招(まねひ)て、君臣佐使(くんしんさし)の術を盡す。

[やぶちゃん注:「君臣佐使」「日本薬学会」公式サイト内の「薬学用語解説」のこちらに、『漢方処方は複数の構成生薬のすべてが同じ重要性をもっているわけではなく、中心となる重要生薬と、その作用を補助し』、『中心生薬が十分』に『薬効を発揮できるようにする生薬で構成されている。このような役割を君臣佐使(くんしんさし)といい、中心生薬を君薬、君薬の作用を補助し』て『強める生薬を臣薬、君臣薬の効能を調節する作用をもつ生薬を佐薬、君臣佐薬の補助的な役割を』成して『処方中の生薬の作用を調節したり、漢方薬を服用しやすくする生薬を使薬と呼ぶ』とある。]

 或朝(あした)、醫師の見舞けるに、未(いまだ)寢所を出《いで》ず。

「こなたへ。」

と請(しやう)ず。

 左右(さう)なく奧に入《いり》て、脈をうかゞひ見んとするに、此病人、一夜の内に法躰(ほつたい)したり。

 醫師、驚き、

「こは、何とて斯法躰し給ふ。御年《おんとし》も若《わか》し。上のゆるしも、早く出《いで》たる事よ。」

など、挨拶する。

 侍、肝を消し、手をあげて、頭(づ)を撫(なづ)るに、實(げ)に、うつくしく、剃(そり)こぼしたり。

「是は。夢にも覺えぬ事。何者の所爲(しよゐ/しわざ)ぞ。外《そと》より、人のなすには、あらじ。召つかふ者共の、遺恨ありて、斯《かく》、はからふなるべし。侍の寢(ね)をびれて、かゝる事を、不ㇾ知《しらず》と、人口(じんこう)遁(のが)るゝに、所なし。仡《きつ》と、僉義(せんぎ)せん。」

と嗔(いかり)けるにぞ、下部共、初而(はじめて)見て、驚きける。

[やぶちゃん注:「かゝる事を、不ㇾ知と、人口(じんこう)遁(のが)るゝに、所なし。」「このような許し難い屈辱的な行いを成しておいて、誰にも知られることないままに、人の噂と、その罪を逃れ得るなどということは、これ、決してありえぬ!」。]

 去れども、吟味の方便(てだて)もなく、惘然(ぼうぜん/あきれ)として居《をり》ける所に、其翌日、同じ家中の侍、壱人、中間《ちゆうげん》といふ男をつれて、町へ所用あつて、出《いで》ける。

 絹卷物(きぬまき《もの》)などやうのもの、見廻り行く。白晝(はくちう/ ひる)に、是も、同じく法躰して、屋敷に歸る。中間、後(うしろ)より見て、

「是は。」

といふに、主(ぬし)も知りぬ。

 是、又、猶、穿鑿すべき道なくて、暫(しばらく)、給仕をも、止(やめ)て居(ゐ)けるが、前の侍の法躰を聞《きき》てぞ、

「扨は。天魔の所行(しよぎやう)と思ひ居りけり。不ㇾ見ㇾ目(めに《みへ》ず)、耳に不ㇾ聞(きかず)、色もなく、音もなくて、かゝる事をなしける、不思義なる事にぞ有ける。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 其比《そのころ》、町人にも、此たぐひ、粗(ほゞ)有けるとかや。俗に「髮切むし」といふもの、飛行《ひぎやう》して、目に見えず。「黑髮を、くらふ。」といひ、匉訇(のゝしり)けり。

[やぶちゃん注:「匉訇(のゝしり)」「訇」は「罵(ののし)る」「匉」は「大きな声の形容」である。

 妖怪「髪切り」については、当該ウィキが博物誌的で一読に値する。]

西原未達「新御伽婢子」 水難毒虵

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。本篇は珍しく標題に読みがない。「水難毒虵」(すいなんどくじや)。「虵」は「蛇」の異体字。]

 

     水難毒虵

 萬治三年庚子(《かのえ》ね)五月の比《ころ》、霖雨(りんう/ながあめ)降(ふり)つゞき、大洪水して、國々、所々の田園を損亡(そんばう)し、民屋(みんおく)、爲ㇾ之(これがため)に、浪《なみ》に漂流(たゞよ)ひ、或は、親を失ひ、子に離れたる者、いくばくといふ數を不ㇾ知《しらず》。

[やぶちゃん注:「萬治三年庚子五月」一六六〇年。五月一日はグレゴリオ暦で六月八日。徳川家綱の治世。]

 都、賀茂川の流れに、ひとつ家、溺れて、夜中に流れ來たる。燈(ともしび)は挑(かゝげ)ながら、女子共のなきさけぶ事、恰(あたか)も蚊虻(ふんばう/かあぶ)のごとし。

 男は、大音を盡して、

「助(たすけ)給へ、淺ましや、家さへあるに、老たる親、いときなき子共迄、河水《かはみづ》のために溺死するぞや、悲しや、情なや、」

と呼(よばへ)ども、舟をも、馬も、のり入《いる》べきたよりなく、河伯・水神も賴《たよる》にいとまなければ、人、川岸(かはぎし)に立《たち》ながら、淚を添(そへ)

て、見送りけり。

 其外、柱・桁(けた)・梁(うつばり)の類、はなればなれに浮沈(うきしづみ)、牛馬犬猫(ぎうばけんべう/うしむまいぬねこ)の獸(いきもの)、逆浪(さかまくなみ)に打《うち》こまるゝに、助(たすかる)事、更に、なし。

 爰に河内國三固(《さん》が)村といふ所に、内介(ない《すけ》)と云《いふ》冨祐《ふいう》の人、田畑あまた持(もち)侍りしが、此洪水(おほみづ)に氣遣ひて、田地の砌(みぎり)に出《いで》て、木を橫たへ、靑竹を伏(ふせ)て、水除(みづよけ)の要害、嚴しくかこひ、

「さりとも、此かまへにては、水難にあはじ。」

と賴《たのみ》をかけて見居(《み》ゐ)たるに、降(ふり)つゞく。

 急雨《きふう》の水上(みなかみ)、日々に、浪、あれて、危《あやふき》事、いふ斗《ばかり》なし。

 時に、不思義の白浪、一かたまりあつて、水の面《おもて》より高く、逆浪(さかまく)事、貳丈余り、偏(ひとへ)に雪山(せつさん/ゆきの )のごとし。

 彼(かの)内介が、命かけておもひし上田(《じやう》でん)の眞中(まんなか)にて、此波、泥中(でいちう)に打《うち》こむ事、凡《およそ》、壱、貳町[やぶちゃん注:百九~二百十八メートル。]も有なんとみえて、窪成(くぼく《なり》)ける。

 間(ま)なく、跡より、せく水に、忽(たちまち)、田畠、池となる。

 内助[やぶちゃん注:ママ。]、見るに、

「心狂し、悲しや、」

といふ一聲して、其儘、池に飛入(とび《いり》》しが、形、ひとつの蛇身(じやしん)となり、首は浪に、みえ、かくれ、尾をもつて、岸をたたき、暫(しばし)のほど、漂泊(たゞよひ)しが、又、水底(みなそこ)に入《いり》ける。

 妻子、歎《なげき》て、此池に來り、「淚に袖を ほしかねて 今日の日も 命の内に」と、よみたりし。

 晚鐘(いりあひ)の比になる迄に、池の面を詠《なが》め居《を》る時に、内介、昔の形に、角(つの)、生《はえ》、いかれる兩のきば、釼(つるぎ)のごとく、池水(ちすい)に、顯然(あらはれ)見えければ、妻子、おそろしながら、嬉しくあれ。

「内介。」

といふ聲の、下より、暗然として、消失《きえうせ》ぬ。

 是より、此池、今にあつて、雨あらき朝(あした)、霧くらき夕《ゆふべ》、必《かならず》、内介が姿、蛇に半《なかば》はなりて、水上(すいしやう/みづのうへ)に顯はるゝを、所の人はみる事とぞ。

[やぶちゃん注:「河内國三固(《さん》が)村」言っておくと、底本では「固」の読みは、「か」であるが、現在の地名を探し、それと一致させるために、「が」とした。現在の愛知県豊田市三箇町(さんがちょう)か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

 以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、天臺の學匠肥後阿闇梨黃圓(わうゑん)、出離(しゆつり)の道を悟(さとり)かねて、五十七倶胝《くてい》六十百千歳を待《まち》て、弥勒慈尊の出世にあひ、成佛を得んに、「生としいける中に、㚑蛇(れいじや)斗《ばかり》、命長きは、なし。」と、遠州櫻井が池に身を沈め、千尋(ちひろ)の大蛇と成《なり》給ふ。法然上人は、「はかなき、あじやりの心にもあるかな。」との給ひしとぞ。此土民、わづかの泥土(でいど)をおしみて[やぶちゃん注:ママ。]、永く、畜生の穢體(きたい)にうつり、世々に至りて、待《まつ》事もなく、身をくるしめけむ、哀なる事どもなり。

[やぶちゃん注:「肥後阿闇梨黃圓」法然の師である天台僧皇圓(承保五(一〇七四)年?~嘉応元(一一六九)年)。諡号を肥後阿闍梨という。当該ウィキによれば、『熊本県玉名の出身で』、『王朝末期に』『日本最初の編年体の歴史書』「扶桑略記」を撰した人物として知られる。『弥勒菩薩が未来にこの世に出現して衆生を救うまで、自分が修行をして衆生を救おうと、静岡県桜ヶ池に龍身入定したと伝えられる。湖畔の池宮神社では秋の彼岸の中日に池の中に赤飯を奉納する「お櫃納め」の行事が営まれる。また』、『皇円を本尊として祀る熊本県玉名市の蓮華院誕生寺では、皇円大菩薩』、乃至、『皇円上人と尊称されて人々の信仰を集めている』。示寂は九十六とされる。『関白藤原道兼の玄孫(孫の孫)で、豊前守藤原重兼の子として肥後国玉名荘(現熊本県玉名市築地』(ついじ)『に生まれた。兄は少納言藤原資隆』、『母親は玉名の豪族大野氏の娘とも推測されるが』、『不明。幼くして比叡山に登り』、『椙生(すぎう)流の皇覚のもとで出家得度し』、『顕教を修め、さらに密教を成円に学び』、『二人の名前からそれぞれ一字を取り』、『皇円と称したとされる。比叡山の功徳院に住み、その広い学徳により肥後阿闍梨』『と尊称された。浄土宗の開祖である法然は、皇円の下で学んだが、その後』、『離れ』た。事績は鎌倉末期に編まれた法然に関する「拾遺古徳伝」や「法然上人絵伝」に『頼らざるを得ない』が、『それらによると』、嘉応元(一一六九)年六月十三日、『遠州桜ケ池に大蛇の身を受けて入定したとされる。平安末期に盛んとなった弥勒下生信仰』、所謂、『弥勒菩薩が釈迦入滅後』、五十六億七千万年後、『この世界に現われ』、『三度』、『説法をして』、『衆生を救済するという信仰のために、その時まで菩薩行をして衆生を救うという願いを立てたものと思われる。遠州桜ケ池は静岡県御前崎市浜岡に現存する直径約』二百メートル『余の堰き止め湖で、湖畔には瀬織津比詳命(せおりつひめのみこと)を祭神として祀る池宮神社』(ここ)『があり、桜ヶ池主神として皇円阿闍梨大龍神をも祀っている。約』十キロ『離れた応声教院』(おうしょうきょういん)『には、大蛇のウロコと称されるものが祀られている』とある。

「千尋」一尋は六尺であるから、一キロ百メートル。

「倶胝」仏語の数単位。「一倶胝」は一千万。「一億」とする説もある。]

西原未達「新御伽婢子」 後世美童

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。なお、標題の「後世」は「こうせい」と読んでいるものの、これは「ごぜ」で、遂に添うことの出来なかった、この二人を、せめても後世(ごぜ)で生まれ変わって結ばれるようにと、作者が添えたものででもあろうか。]

 

      後世美童(こうせいのびどう)

 或國主の小扈從(こごしやう)に「何某(なにがし)の菅(すげ)の丞《じやう》」といふあり。

 御城下に吉四郞とかやいふ、賣人《ばひにん》の子、彼《かの》扈從に訓初(なれそめ)て、人しれぬ兄弟(きやうだい)の約(やく)をなし、比翼、なを、あかず、連理、古しと、相機關(あひかたらふ)。

[やぶちゃん注:「小扈從(こごしやう)」「子小姓」に同じ。しばしば主君の若衆道の相手とされた。

「賣人」商人(あきんど)。]

 

Gosenobidou

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。左の用人と奴二人を引き連れている二本差しは若き国主で、彼らの後にいるのが、「菅の丞」、その後ろの城の御壕の傍に彳んでいるのが、吉四郎であろう。]

 

 去共《されども》、家中法度(はつと)の衆道(しゆ《だう》)なれば、白地(あからさま)には、あひ見る事なく、只、蜜々(みつみつ)[やぶちゃん注:ママ。]の戯(たはふれ)なり。增而(まして)、城中に行(ゆき)て、こととふ事、かたし。

 然るに、此菅の丞、衣更着(きさらぎ)の始《はじめ》より、心神(こゝち)、煩(わづらは)しく、絕《たえ》て吉四《きちし》に疎(うと)かりけり。

[やぶちゃん注:「衣更着(きさらぎ)」如月。二月。]

 吉四、斯(かく)と忍聞(ほのぎゝ)て、あるにもあらず、悶(もだゆれ)ども、爲方(せんかた)なくて、臥沈(ふししづみ)、思ひやりたる悲しさは、見る歎きより、つらかりけり。

 去程《さるほど》に、菅の丞、嵐の前の花鬘(はなかづら)、末の心のむすぼゝれ、ひとひ、ひとひに言甲斐(いふかひ)なく、ながらふべくも見えざりしが、終《つひ》に、其月の後の二日に、息絕(いきたえ)けり。

 吉四、此事を聞しより、罔然(ばうぜん)として、あきれ居る。

 照りもせず、曇もはてぬ。といひし朧(おぼろ)の月、庭の種(くさ)にやどりて、氣色(けしき)、物あはれなるに、吉四、ありし昔を思へば、親の諫(いさめ)、世訕(よのそしり)をつゝむにも、且(かつ)は、

「嬉しき君が爲と思ひしも、それさへ仇(あだ)に成《なり》ける。」

と、或は歎き、或は詢(くどひ)て、寢(いね)もやらず、やるかたなきまゝ、壁にむかひて、去《いに》し每(いつ)、逢見《あひみ》し數《かず》を、爪折(つま《をり》)て、夢とも幻(うつゝ)ともなく、眠居(ねふり《ゐ》)る。

 さる折しも、菅の丞、もとの質(すがた)を其まゝに、卒然として、座(ざ)したり。

 吉四、うれしく、

「是、抑(そも)、いかに、懷敷(なつかし)や、いつはりのなき世なりせば。」

と、いひし。

「今、我が身には入間川(いるまがは)、あはれに消しと聞えしは、人の言葉のあだなりし。こなたへ。」

とて、袂(たもと)を取《とり》て引《ひき》ければ、まさしく、ありし俤(おもかげ)の、雲となり、雨となり、いづくともなく絕果(たえはつ)る。

 されども、ひかえし袂は、ちぎれて、手にぞ、殘りける。

 不思義にも、悲しくて、其行方《ゆくへ》を求(もとむ)るに、二度(ふたゝび)、歸る姿、なし。

「よしや、惡(にく)きは命(いのち)也《なり》。おくれて每(いつ)を期(ごす)べき。惟(おもふ)に、生者必滅(しやうじやひつめつ)の粧(ならひ)、『論ㇾ命江頭不ㇾ繋船』〔命(めい)を論ずれば 江(え)の頭(ほとり)に繋がらざる〕と作りし風前の燈(ともしび)、猶、危《あやふ》し。今、ありとても、つゐに行《ゆく》、獨(ひとりの)黃泉(よみぢ)、覺束(おぼつか)なし、罪障(ざいしやう)の山、足をそばだて、生死(しやうじ)の海(うみ)、手を引《ひき》て越(こえ)なん。」

と獨言(ひとりごとし)て、ありし袂を、引よせ、

   身にあまるなみだの雨をおぼへとや

    戀しき人の袖を添ふらん

と書《かき》て、終《つひ》に自害し終りぬ。

 哀(あはれ)成《なり》し事共也。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 此事は、井崎新右衞門といふ人、此歌、書《かき》たる袂を見たるよし、かたられ侍る。

[やぶちゃん注:「入間川」ルビは「西村本小説全集 上巻」では、『いりまがは』となっている。しかしどうも、落ち着かない感じがして、底本の当該丁を拡大して見たところ、「入」の第二画の末に読みの二字目が掛かっているのだが、それは、その末部分で左に一回転していると私は判読した。とすれば、これは「利」の崩しの「り」ではなく、「留」の崩しであると断じ、「いるまがは」とした。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その6) / 人柱の話~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。本篇は長いので、分割する。特に以下は「追記」とするも、長い。「選集」に従い(そちらでは、第「五」章と第「六」章に分離されてある)、分割する。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

 一四六三年、獨逸ノガットの堰《せき》を直すに、乞食を大醉させて埋め、一八四三年同國ハルレに新橋を立てるに、人民、其下に小兒を生埋《いきうめ》せうと望んだ。丁抹《デンマーク》首都コッペンハーゲンの城壁、每《いつ》も崩れる故、椅子に無事の小兒を載せ、玩具、食品をやり、他意なく食ひ遊ぶを、左官、棟梁、十二人して、圓天井を、かぶせ、喧ましい奏樂紛れに、壁に築き込んでから、堅固と成つた。伊國のアルタ橋は繰返し落ちたから、其《その》、大工、棟梁の妻を、築き込んだ。其時、妻が詛《のろ》ふて、今に、其橋、花梗《くわかう》[やぶちゃん注:花軸から分かれて出て、その先端に花をつける小さな枝茎のこと。]の如く、動搖する。露國のスラヴェンスク、黑死病で大《おほい》に荒らされ、再建の節、賢人の訓《おし》へに隨ひ、一朝、日出前《ひのでまへ》に人を八方に使《つかは》して、一番に出逢ふ者を捕へると、小兒だつた。乃《すなは》ち、新砦の礎《いしずゑ》の下に生埋して、之をヂェチネツ(小兒城)と改稱した。露國の小農共は、每家《まいいへ》、ヌシあり、初めて其家を立てた祖先がなる處と信じ、由つて、新たに立つ家の主人、或は、最初に新立《しんりつ》の家に、步みを入れた者が、すぐ死す、と信ず。蓋し、古代よりの風として、初立《いふだち》の家には、其家族中の最も老いた者が一番に入るのだ。或る所では、家を立て始める時、斧を使ひ初める大工が、ある鳥、又は、獸の名を呼ぶ。すると、その畜生は速やかに死ぬといふ。其時、大工に自分の名を呼ばれたら、すぐ死なねばならぬから、小農共は、大工を非常に慇懃に扱つて己の名を呼ばれぬやう力《つと》める。ブルガリアでは、家を建てに掛《かか》るに、通掛《とほりかか》つた人の影を糸で測り、礎の下に、其糸を埋める。其人は、直ちに、死ぬそうだ。但し、人が通らねば、一番に來合《きあは》せた動物を測る。又、人の代りに鷄や羊などを殺し」て、其血を土臺に濺《そそ》ぐこともある。セルヴアでは、都市を建てるに、人、又は、人の影を、壁に築《つ》き込むに、非ざれば、成功せず、影を築き込まれた人は、必ず、速やかに死す、と信じた。昔し、其國王と二弟がスクタリ砦を立てた時、晝間、仕上げた工事を、夜分、鬼が壞して、已まず。因つて、相談して、三人の妃の内、一番に食事を工人に運び來る者を築き込もう、と定めた。王と次弟は、私《ひそか》に之を洩らしたので、其妃ども、病《やまひ》と稱して、來らず。末弟の妃は、一向知らずに來たのを、王と次弟が捕へて、人柱に立てた。此妃、乞ふて、壁に穴を殘し、每日、其兒を伴れ來らたらせて、其穴から乳を呑ませること、十二ケ月にして、死んだ。今に其壁より石灰を含んだ乳樣《ちちやう》の水が滴《したた》るを、婦女、詣で拜む(タイラーの原始人文篇、二板、一卷一〇四―五頁。一八七二年板、ラルストンの露國民謠、一二六―八頁)。

[やぶちゃん注:「露國のスラヴェンスク」スロヴャンスク(ウクライナ語:Слов'янськ)は現在のウクライナ東部の都市で、ドネツィク州内の行政的な中心都市。今まさに、おぞましいプーチンが不当なウクライナ侵攻の最大のターゲットとしている地域である。ここが「黑死病」(腺ペスト)の猖獗を受けたのは一三四七年である。

「ヂェチネツ(小兒城)」機械翻訳で「子どもの城」をロシア語で変換すると、“детский замок”で、音写すると、「ジヤェッキ・ザーモク」である。

「タイラーの原始人文篇、二板、一卷一〇四―五頁」複数回既出既注だが、再掲しておくと、イギリスの人類学者で「文化人類学の父」と呼ばれる、宗教の起源に関してアニミズムを提唱したエドワード・バーネット・タイラー(Edward Burnett Tylor 一八三二年~一九一七年)が一八七一年に発表した「原始文化:神話・哲学・宗教・芸術そして習慣の発展の研究」(Primitive Culture, researches into the Development of Mythology, Philosophy, Religion, Art and Custom )。原本当該部は「Internet archive」のここ

「一八七二年板、ラルストンの露國民謠、一二六―八頁」イギリスのロシア語学者ウィリアム・ラルストン・シェデン・ラルストン(William Ralston Shedden-Ralston 一八二八年〜一八八九年)の‘The songs of the Russian people, as illustrative of Slavonic mythology and Russian social life’ (「スラヴ神話とロシア社会の生活を象徴するロシア人の民謡」)。「Internet archive」のこちらから、原本当該部が視認出来る。]

 其からタイラーは、人柱の代りに獨逸で空棺を、丁抹《デンマーク》で羊や馬を生埋にし、希臘では礎を据えた後ち、一番に通り掛つた人は、年内に死ぬ、其禍《わざはひ》を他に移さんとて、左官が羊、鷄を、礎の上で殺す。獨逸の古話に、橋を崩さずに立てさせくれたら、渡り初《そ》める者をやらうと、鬼を欺き、橋、成つて、一番に鷄を渡らせたことを述べ、同國に家が新たに立つたら、先づ、猫か犬を入らしむるがよいといふ等の例を列《つら》ねある。

 日本にも甲子夜話五九に、「彥根侯の江戶邸は、本《も》と加藤淸正の邸で、其千疊敷の天井に乘物を釣り下げあり、人の開き見るを禁ず。或は云く、淸正、妻の屍を容れてあり。或は云ふ、此中に、妖怪、居《ゐ》て、時として、内より戶を開くをみるに、老婆の形なる者みゆ、と。數人の所話《はなすところ》、如是《かくのごとし》。」と。是は獨逸で人柱の代りに空棺《あきくわん》を埋めた如く、人屍《じんし》の代りに、葬式の乘物を釣下げて、千疊敷のヌシとしたので有るまいか。同書卅卷に、「世に云ふ、姬路の城中にオサカベと云ふ妖魅あり、城中に年久しく住めり、と。或は云ふ、天守櫓の上層に居て常に人の入るを嫌ふ。年に一度、其城主のみ、之に對面す。其餘は、人、懼れて、登らず。城主、對面する時、妖、其形を現はすに、老婆也、と云ひ傳ふ。(中略)姬路に一宿せし時、宿主《やどぬし》に問ふに、成程、城中に左樣の事も侍り、此所にてハッテンドウと申す。オサカベとは言《いは》ず。天守櫓の脇に、此祠ありて、其神に事《つか》ふる社僧あり、城主も尊仰せらる、と。」。老媼茶話に、加藤明成、猪苗代城代として堀部主膳を置く。寬永十七年極月、主膳、獨り座敷にあるに、禿《かむろ》、一人、現じ、汝、久しく在城すれど、今に此城主に謁せず、急ぎ、身を淨め、上下《かみしも》を著し、敬《つつし》んでお目見えすべし、といふ。主膳、此城主は、主人明成で、城代は予なり、外に城主、ある筈、なし、と叱る。禿、笑ふて、姬路のオサカベ姬と、猪苗代の龜姬を知らずや、汝、命數、既に盡きたり、と言ひ、消失《きえう》す。翌年、元朝《げんてう》、主膳、諸士の拜禮を受けんとて、上下を著し、廣間へ出ると、上段に新しい棺桶があり、其側に葬具を揃え[やぶちゃん注:ママ。]あり、其夕《ゆふべ》、大勢、餅をつく音がする。正月十八日、主膳、厠中《かはやうち》より煩ひ付き、二十日の曉に死す。其夏、柴崎といふ士、七尺ばかりの大入道を切るに、古い大ムジナだつた。爾來、怪事、絕えた、と載せある。

[やぶちゃん注:『甲子夜話五九に、「彥根侯の江戶邸は、……」「フライング単発 甲子夜話卷之五十九 5 加藤淸正の故邸」として、事前に電子化注しておいた。

『同書卅卷に、「世に云ふ、姬路の城中にオサカベと云ふ妖魅あり、……」同前。「フライング単発 甲子夜話卷之三十 20 姬路城中ヲサカベの事」を参照。

「老媼茶話に、加藤明成、猪苗代城代として堀部主膳を置く。……」既出既注。私の「老媼茶話巻之三 猪苗代の城化物」を参照。そちらで詳しい注もしてあるので、繰り返さない。

 垂加文集の會津山水記に云く、會津城以鶴稱之、猪苗代城以龜稱之〔會津城は鶴を以つて之れを稱し、猪苗代城は龜を以つて之れを稱す。〕と。これは鶴龜の名を付《つけ》た二女《にぢよ》を生埋《いきうめ》したによる名か。又、姬路城主松平義俊の兒小姓《ちごこしやう》森田圖書、十四歲で、傍輩と賭《かけ》してボンボリを燈《とも》し、天守の七階目へ上り、三十四、五のいかにも氣高き女、十二一重をきて、讀書するを見、仔細を話すと、爰迄確かに登つた印に、とて、兜のシコロをくれた。持つて下るに、三階目で大入道に火を吹消《ふきけ》され、又、取つて歸し、彼女に火をつけ貰ひ歸つた話を出す。此氣高き女、乃《すなは》ち、オサカベ姬で有らう。嬉遊笑覽などをみると、オサカベは狐で、時々、惡戲《いたづら》をして、人を騷がせたらしい。

[やぶちゃん注:「垂加文集の會津山水記」「垂加文集」は山崎闇斎(あんさい 元和四(一六一九)年~天和二(一六八二)年:江戸前期の儒学者・神道家)の漢詩文・和歌・和文集。刊本は死後の正徳四(一七一四)年。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の刊本のここに出る。但し、「會津山水記」冒頭と、同画像の左丁後ろから三行目に分離してあるのを繋げたものである。なお、後者の話は、「老媼茶話巻之五 播州姫路城」にも全く同じものが載るので、参照されたい。というより、怪力乱心を語らずの儒者の闇斎がこの話を載せるとも思われないので(ざっと全巻を見たが、それらしいものはないと思う)、熊楠は前の「老媼茶話」の話を、ここに書いてしまったに過ぎないように感じている。

「嬉遊笑覽などをみると、オサカベは狐で、時々、惡戲《いたづら》をして、人を騷がせたらしい」所持する岩波文庫版で探してみたのだが、どこに書いてあるのか判らなかった。判明したら、追記する。]

 扨、ラルストン說に、露國の家のヌシ(ドモヴイ)は、屢々、家主の形を現じ、其家を經濟的によく取締り、吉凶ある每に之を知らすが、又、屢ば、惡戲をなす、と。而て、家や城を建てる時、牲《にへ》にされた人畜がヌシになるのだ。類推するに、龜姬、オサカベ等も人柱に立てられた女の靈が城のヌシに成《なつ》たので、後に狐、貉《むじな》と混同されたのだらう。

[やぶちゃん注:「露國の家のヌシ(ドモヴヲイ)」ロシア語で“домово́й”。音写は「ドモヴォーイ」が近い。当該ウィキによれば、『スラブ人の家の精。その名はスラヴ語派の「ドム(dom)」』(「家」・「家庭」の意)『から派生したとされる』。『ドモヴォーイは各家庭にいるとされ、家や家族を守る精霊である。暖炉の下や地下室、玄関に住む』『が、納屋や家畜小屋に住んで家畜の面倒をみるものもいる』。『ドモヴォーイはおおむね、灰色または白い体毛で、髪と顎髭をもつ毛深い老人や小人として表現され』(先に出た「術士メルリン」が、全身を黒毛で覆われており、その名には狼男と関係性があることと、強い親和性があるように思われる)、『角や尾を持つとも言われる』。『さらに、家畜や干し草の姿で現れることもある』。『人間がドモヴォーイの姿を見ることはとても稀なことであるが、それは同時にとても不幸なことである』。『人々はドモヴォーイを本来の名前で呼ばないようにし』、『チェロヴィク(あの人)やデドゥシュカデドゥコ(おじいさん)などの湾曲した表現で呼ぶ』。『しかし』、『ドモヴォーイのすすり泣いたり』、『うなったりする声は』、『よく聞かれるという』。『また、夜に家がきしむ音がするのは、ドモヴォーイが家事などを片付けているためだとされている』。『ドモヴォーイは火と暖かさが好きで、もし』、『ドモヴォーイを怒らせ』たりすると、『その家は火災に見舞われるとされている。そのため』、『人々は、夕食の一部をドモヴォーイに供えて機嫌をとる。また、引っ越しの際はドモヴォーイを連れて行くべく、暖炉の火の燃え木を持参して』、『転居先の新しい暖炉に火を移したり』、『箒などの生活用具の一部を持参したりする。もし』、『ドモヴォーイを古い家に置いていくと』、『転居先では凶事が起きると言われている』。『一方で』、『ドモヴォーイは長く住んだ家を離れるのを嫌がることから、転居前に新しい家の暖炉の下にパンを置いて』、『ドモヴォーイを引き寄せることもある』。『ドモヴォーイは、家族を守るため』、『悪い精霊や侵入者の殺害も厭わない。家族に危険が迫るとそれを知らせ、未来を教えることもある。夜にドモヴォーイの体に触れた時、温かければ』、『幸運があり、冷たければ』、『不運があるとされている』。『あるいは、就寝中にドモヴォーイに締め付けられたら』、『吉凶を尋ね、回答があれば』、『幸運があり、なければ』、『不運があるとされている』。『ドモヴォーイの泣き声は、家族の誰かの死が間近い知らせだともされている』。『気に入らない家族には』、『いたずらを仕掛けたり』、『嫌いな家畜は追いかけ回した末』、『餌を糞に変えて』、『餓死させたりする』。『ドモヴォーイにはドモヴィーハ』『という妻がいるとされて』おり、彼女は『床下や地下室に住んでいるとされる』。『ドモヴォーイは、古い時代の先祖の精霊がその起源だと考えられている』。『それまで』、『部族という単位でまとまっていた人々が』、『家族という単位で区別されるようになった時に、ドモヴォーイの概念が現れたという。それ以前に部族単位の先祖の精霊として知られていたのが』、『ロード』『であった』という。『ドモヴォーイおよび同種の神秘的な存在については次のような伝説がある。彼らはかつては天国に住んでいたが、至高神が天地を創造した際に反乱を起こしたため、至高神によって地上へ落とされたという。彼らの一部は人間の住む家や』、『その周辺に落ち、一部は森や湖や川に落ちた』。『家の中に落ちたのが』、『ドモヴォーイで、その家の人々と親しくなった。人家の周囲に落ちたのが』、『ドヴォロヴォイ、バーンニク、オヴィンニク、フレヴニクで、人間を警戒している。そして自然界に落ちたのが』、『ポレヴィーク、レーシー、ヴォジャノーイ、ルサールカで、人間に危害を加えるという』。『ドモヴォーイはウクライナではドモヴィークと呼ばれる。イングランドにはドモヴォーイとよく似た性質の精霊ブラウニーがいる』とある。私の偏愛するツルゲーネフの「獵人日記」中の優れた一篇「ビェージンの草原」(中山省三郎譯・サイト版)を読まれたい。「家魔(ドモヲイ)」や「水妖(ルサルカ)」が登場する少年たちによって語られる。

 又、予の幼時、和歌山に橋本てふ士族あり。其家の屋根に、白くされた馬の髑髏《どくろ》が有つた。昔し、祖先が敵に殺されたと聞き、其妻、長刀を持つて駈付《かけつけ》けたが、敵、見えず、せめてもの腹癒せに、敵の馬を刎ね、其首を持ち歸つて置いた、と聞いた。然し、柳田君の山島民譚集《さんとうみんたんしふ》一に、馬の髑髏を柱に懸けて、鎭宅除災の爲めにし、又、家の入口に立てゝ魔除《まよけ》とする等の例を擧げたのを見ると、橋本氏のも、丁抹《デンマーク》で馬を生埋《いきうめ》する如く、家のヌシとして、其靈が家を衞《まも》りくれるとの信念よりした、と考へらる。柳田君が遠州相良邊の崖の橫穴に石塔と共に安置した馬の髑髏などは、馬の生埋めの遺風で、其崖を崩れざらしむる爲に置いた物と惟《おも》ふ。

[やぶちゃん注:「山島民譚集」初版は大正三(一九一四)年七月に甲寅(こういん)叢書刊行会から「甲寅叢書」第三冊として甲寅叢書刊行所から発行された、柳田國男の日本の民譚(民話)資料集で、特に河童が馬を水中に引き込む話柄である河童駒引(かっぱこまびき)伝承と、馬の蹄(ひづめ)の跡があるとされる岩石に纏わる馬蹄石(ばていせき)伝承の二つを大きな柱としたものである。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で全電子化注を終えている。その『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(45) 「磨墨ト馬蹄硯」(2)』に図入りで、馬の頭蓋骨の家の梁に掛けられたものが記されてある。

「柳田君が遠州相良邊の崖の橫穴に石塔と共に安置した馬の髑髏」同前のリンク先の文中に、『前年自分ハ遠州ノ相良ヨリ堀之内ノ停車場ニ向フ道ニテ、小笠郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅カナル橫穴ヲ掘リ、【馬頭神】馬ノ髑髏ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。』と出るのを指す。]

 予は餘り知らぬ事だが、本邦でも、上述の英國のパウリーや露國のドモヴイに似た、奧州のザシキワラシ、三河・遠江のザシキ小僧、四國の赤シャグマ等の怪がある。家の仕事を助け、人を威《おど》し、吉凶を豫示《よじ》し、時々、惡戲をなすなど、歐州の所傳に異ならぬ。是等、悉く人柱に立てた者の靈にも非るべきが、中には、昔し、新築の家を堅めんと牲殺《にへころ》された者の靈も、多少、あることゝ思ふ。飛驒、紀伊其他に老人を棄殺《すてころ》した故蹟が有つたり、京都近くに、近年迄、夥しく赤子を壓殺《おしころ》した墓地が有つたり、日本紀に、歷然と、大化新政の詔を載せた内に、其頃迄も人が死んだ時、自ら縊死して殉じ、又、他人を絞殺し、又、强《しひ》て死人の馬を殉殺し、とあれば、垂仁帝が殉死を禁じた令も洵《あま》ねく行はれなんだのだ。扨、令義解《りやうぎのげ》には、信濃國では、妻が、死んだ夫に殉ずる風が行はれたといふ。久米邦武博士(日本古代史八五五頁)も云はれた通り、其頃地方の殊俗《しゆぞく》は國史に記すこと、稀なれば、尋ぬるに由なきも、奴婢賤民の多い地方には、人權乏しい男女、小兒を、家の土臺に埋めたことは、必ず有るべく、其靈を、其家のヌシとしたのが、ザシキワラシ等として殘つたと惟《おも》はる。ザシキワラシ等のことは、大正十三年六月の人類學雜誌佐々木喜善氏の話、又、柳田氏の遠野物語等にみゆ。

[やぶちゃん注:「三河・遠江のザシキ小僧」「ザシキワラシ」に属する妖怪。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「座敷小僧 ザシキコゾウ」を参照されたい(記載は少ない)。同一対象の別名を「座敷坊主」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、「座敷小僧」の異名で、『静岡県周智郡奥山村字門谷(現・静岡県浜松市)などに現れたと言われる』。『村の中のある家の主人がイノシシを落とし穴で捕らえた後、その穴に金を持った人が落ちて死んだ、または盲目の金持ちをその穴に落として殺害したという話や』、『その家に泊まった坊主を殺害した、暗い中に連れ出して殺したなどの話があり』、『その死んだものの霊が現れるのだといい、その家に泊まった人の床の向きを逆にしたり、枕返しをすると言われる』。『その姿は』五、六『歳ほどの子供のようとも』、『坊主姿の按摩のようともいう』。『大津峠には、その殺された者を供養するためといわれる立て石があるが、その家には今なお祟りによって気のふれる者があるという』。『ほかの村でも坊主頭の按摩のようともいう』。『また』、『三河国北設楽郡本郷村(現・愛知県北設楽郡東栄町)では座敷小僧の名で伝わっており、ある酒屋を営む旧家に』十『歳ほどの子供のような姿で現れたといい、雇用人が奥座敷の雨戸を閉めに行ったときによく姿を見たという』。『南設楽郡長篠村大字横川(現・新城市)では、神田という裕福な家に座敷小僧が現れていたが、茶釜にツモノケ(機織りの器具)を当てるという禁忌を犯したために座敷小僧が家を去り、家はそれ以来衰退してしまったという』。『岩手県では旧家に座敷小僧が現れるといい、小児の姿をした家の神とされる』。『下閉伊郡岩泉町のある家では、奥座敷の真中の柱を踏むと枕元に現れたといい』四、五『歳ほどの赤黒い裸の坊主で、身長は』二『尺ほど、赤い綺麗な顔をしていたという』。『岩手県紫波郡のある旧家でも赤い顔の座敷小僧がおり、夜に炉に現れて火を起こしたりしたという。またこの地方では、座敷童子の正体をムジナとする説もある』。『宮城県本吉郡大島村(現・気仙沼市)でも』、『座敷坊主が家に現れて枕返しをした事例がある』。『民俗学者・佐々木喜善の著書においては座敷坊主は座敷童子の一種として分類されており』、『六部(旅の僧)を殺して金銭を奪った者が祟りに遭うなどの「六部殺し」の話が座敷童子の性格に付加され、座敷坊主の姿となったとする説もある』(私も佐々木の説を強く支持する)とある。

「四國の赤シャグマ」当該ウィキによれば、『四国に伝わる妖怪。人家に住み』つく、『赤い髪の子供のような妖怪で、座敷童子の仲間とする説もあり』、『座敷童子と同様、これが住み』つ『いた家は栄え、いなくなると』、『家が没落するともいう』。『詳細な特徴や行動は、地方によって異なる』とし、以下、「地域別の伝承」。『愛媛県(伊予国)での例』として、『新居郡神戸村(現・西条市)などの町村の人家に住み』つ『いていたとされる。夜に住人が寝静まった後で』、『座敷で騒ぎ始め、台所にある食べ物を食べてしまう』。『広見町(現・鬼北町)や宇和島市の伝承では』、『小坊主(こぼうず)とも呼ばれており、山仕事に出かけた男が家に帰ってくると、薄暗い家の中、囲炉裏で数人の赤シャグマが暖をとっており、男の帰宅に気づいた赤シャグマたちは床下へと姿を消したという』。この妖怪は、近代まで生き続け、明治三十二、三年頃(一八九九年~一九〇〇年)、『市ノ川鉱山にいた工学士の技師長が、新居郡の神戸』(かんべ)『村(現在の愛媛県西条市のこの附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の丘に家を建てようとしたところ、そこの土地から多数の人骨や土器が発見された。周囲の人々が「あそこは墓地の跡だ」と噂する中、技師長は平気で工事を進め、やがて家が完成した。その完成後も「あの家には赤シャグマが出る」と噂が続いていた』とある。次いで、『徳島県(阿波国)での例』として、『夜になると』、『仏壇の下から現れ、眠っている住人の足をくすぐるなどの悪戯を働く』。嘗つて『「化け物が出ると」と噂される古い一軒家があり、誰も住もうとしない中、ある老婆がその家を買って自宅とした。しかし夜になると』、『噂通り』、『赤シャグマが現れ、老婆をくすぐって悪戯した。老婆は結局、その家を立ち退いたという』。次に『香川県(讃岐国)での例』。『徳島の例と同様に香川でも、赤シャグマは夜中に人の足をくすぐるといわれる』、『また』、『香川の赤シャグマ独自の特徴としては、家の中のみならず』、『野外でも赤シャグマが現れるとする説があり、山中で大声を張り上げながら空を飛ぶともいう』。『三好郡足代村のある家で、住人たちが夜寝た後、赤シャグマが現れて』、『彼らをくすぐり、住人たちはすっかり疲れてしまった。翌日、その家の』一『人の男が畑仕事に出たところ、そこに赤シャグマが立っていた。それを見た男は、家へ駆け込むなり』、『気絶してしまったという』。『仲多度郡満濃町では、山中の赤シャグマに関する逸話もある。とある若者が仕事に雇われたものの、雇い主は若者を遊ばせておくだけで、若者は仕事がないことを不思議に思っていた。そんなある日』、一『人の村人が亡くなった。雇い主は墓をあばき、その屍を若者に運ばせて山へ行き、屍を餌にして』、『赤シャグマをおびき寄せ、射止めたという』とある。

「豫示」前以って示すこと。

「飛驒、紀伊其他に老人を棄殺した故蹟」南方熊楠は大正七(一九一八)年八月の『土俗と傳說』(第一巻第二号・文武堂店発行)で「棄老傳說に就て」という極めて短い論考で、こことほぼ同じことを言っており(「青空文庫」のこちらで確認出来る)、そこに(一部の正字不全を恣意的に訂した)、『昨年押上中將から惠贈せられた高原(タカハラ)舊事に、「飛驒の吉野村の下に人落しと云ふ所あり。昔は六十二歲に限り此所へ棄てしと云ふ」とある』とあった。これは、調べたところ、岐阜県高山市上宝町(かみたからちょう)吉野と考えられる。

「日本紀に、歷然と、大化新政の詔を載せた内に、其頃迄も人が死んだ時、自ら縊死して殉じ、又、他人を絞殺し、又、强《しひ》て死人の馬を殉殺し、とあれば」「日本書紀」の「卷第廿五 天萬豐日天皇(孝德)」の「大化の改新」(狭義のそれは六四五年~六五〇年)の条の一節。昭和四(一九二九)年岩波文庫刊の黒板勝美編「日本書紀 訓読」下のここの頭注「殉死を禁ず」の以下を見よ。

「令義解」「養老令」の官撰注釈書。十巻三〇編であるが、その内の二編は欠けて伝わっていない。額田今足(ぬかだのいまたり)の建議で、勅命により清原夏野・菅原清公ら十二名によって編された。天長一〇(八三三)年完成し、翌年から法に準じて施行された。「令」の実際に当たっての法解釈の基準を公定文としたもの。しかし、国立国会図書館デジタルコレクションの写本を三度も調べたが、こんなことは出てこない。諦めかけたところ、フレーズ検索で三浦佑之氏の論文「殉死と埴輪」(『東北学』3・東北芸術工科大学東北文化センター・作品社刊・二〇〇〇年十月)を発見、そこに、『『令集解』巻五・職員令の弾正台条には、「信濃国の俗に、夫死すれば、即ち婦を以ちて殉と為す。若し此の類有らば、正すに礼教を以ちてす〔信濃国俗。夫死者即以婦為殉。若有此類者。正之以礼教〕」という記事があり、夫が死んだ場合に妻が殉死する(させられる)という風習のあったことがみえる。ただし、それが事実か否かを確かめることはできないが、家父長制が強固な社会であれば、王や主君に殉ずる臣下や奴婢と同じようなかたちで、女たちの殉死もありえたということは想像に難くない。』とあった。「令集解」は「りょうしゅうのげ」で、平安前期の法制書。全五十巻(現存は三十六巻のみ)。明法博士(律令学者)であった惟宗直本(これむねなおもと 生没年未詳)の著で、貞観(八五九‐八七七)頃の成立。養老令に関する私撰の注釈書で、先行の諸注釈書を集成し、さらに直本の説を加えたもの。大宝令の注釈書である「古記」を引用しているために、失われた大宝令を復元する最も有力な手がかりとなっている。さても、そこで国立国会図書館デジタルコレクションの清原秀賢ら写本(慶長二~四(一五九七~一五九九)年)で当該箇所を見たところ、あった! 「選集」でも、河出文庫の「南方熊楠コレクションⅡ 南方民俗学」でも、「令義解」だが、恐らくは熊楠の誤りで、「令義解」は「令集解」が正しいのだ! ここの左丁罫二行目の左の下方から、

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信濃国俗[やぶちゃん注:下方罫外のミセケチで修正。]、夫死者、即以婦為殉。若有此類者、正之以礼教。

(信濃の国の俗に、夫(をつと)、死すれば、即ち、婦(つま)以つて殉(じゆん)と為(な)す。若(も)し、此の類(たぐひ)有らば、正(ただ)すに、礼教(れいきやう)を以つてす。)

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とあるのだ!

「久米邦武博士(日本古代史八五五頁)」元佐賀藩士で近代日本の歴史学における先駆者である久米邦武(天保一〇(一八三九)年~昭和六(一九三一)年:明治政府に出仕して、明治四(一八七一)年の特命全権大使岩倉使節団の一員として欧米を視察、一年九ヶ月後に帰国して太政官吏員となり、独力で視察報告書を執筆。明治一一(一八七八)年、四十歳の時、全百巻から成る「特命全権大使 米欧回覧実記」を編集、太政官の修史館に所属して「大日本編年史」などの国史の編纂に尽力した。明治二一(一八八八)年、帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員に就任したが、明治二十五年に雑誌『史海』に転載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」の内容が問題となり、両職を辞任した。三年後、大隈重信の招きで、東京専門学校(現在の早稲田大学)で教壇に立ち、大正一一(一九二二)年の退職まで、歴史学者として日本古代史や古文書学を講じた)が明治三八(一九〇五)年に早稲田大学出版部から刊行した「日本古代史」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該部が読める。左ページの終りから三行目の「以上は」から、次のページの段落の終りまで。

 

「殊俗」特殊な限定的風俗習慣。

「奴婢賤民の多い地方には、人權乏しい男女、小兒を、家の土臺に埋めたことは、必ず有るべく、其靈を、其家のヌシとした」熊楠先生!! 「奴婢賤民の多い地方には、人權乏しい男女」などと言うのは早計ですぞ! 縄文人は夭折した子どもは竪穴住居の入り口や台所に相当する場所の地下に土器に入れて葬っている。これは、寧ろ、再生と守護の意味を持っているのであって、その濫觴は「賤」しい「男女」の非「人權」的・反「人」道的行為などではありませんぞ!!!

「大正十三年六月の人類學雜誌佐々木喜善氏の話」「ザシキワラシの話」。同雑誌の三十九巻(一九二四年五月・六月号)の論考。「J-Stage」のこちらから原論考がダウン・ロード出来る。これは何時か電子化する。

「柳田氏の遠野物語等にみゆ」私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一七~二三 座敷童・幽霊」を参照されたい。]

 數年前の大阪每日紙で、曾て御前で國書を進講した京都の猪熊先生の宅には、由來の知れぬ婦人が、時々、現はれ、新來の下女などは、之を家内の一人と心得ることあり、と讀んだ。沈香《ぢんかう》も屁《へ》も、たきも、ひりもしないで、たゞ現はれるだけらしいが、是も、其家のヌシの傳を失した者だらう。それから甲子夜話二二に、大坂城内に明《あか》ずの間あり、落城の時、婦女自害せしより、一度も開かず、之に入り、若《もし》くは、其前の廊下に臥す者、怪異に逢ふ、と。叡山行林院に、兒《ちご》がや、とて開《あ》かざる室《へや》あり、之を開く者、死す、と(柳原紀光《もとみつ》、閑窓自語)。昔し、稚兒が寃死《ゑんし》した室らしい。歐州や西亞にも、佛語で、所謂、ウーブリエットが、中世の城や大家に多く、地底の密室に人を押籠《おしこ》め、又、陷《おとしい》れて、自《おのづか》ら死せしめた。現に、其家に棲んで全く氣付かぬ程、巧みに設けたのもあると云ふ(バートン千一夜譚二二七夜譚注)。人柱と一寸似たこと故、書き添へ置く。

[やぶちゃん注:「猪熊先生」(いのくまなつき 天保六(一八三五)年~大正元(一九一二)年)は国学者で京都白峰宮(現在の白峰神宮)神官・白鳥神社祠官・京都第一高等女学校教諭。明治三九(一九〇六)年に宮中進講を務めた。

「甲子夜話二二に、大坂城内に明《あか》ずの間あり、落城の時、婦女自害せしより、一度も開かず、之に入り、若《もし》くは、其前の廊下に臥す者、怪異に逢ふ、と」事前に「フライング単発 甲子夜話卷之二十二 28 大阪御城明ずの間の事」として電子化注しておいた。

「叡山行林院」現在の延暦寺には、この名を確認出来ない。次の「閑窓自語」を見たら、「竹林院」とあった。「選集」も「行林院」。ちゃんと確認しろよ! 嘗ては比叡山の僧侶の隠居所としての里坊(さとぼう)の一つであった。現在も「元里坊旧竹林院」(庭園・茶室)として大津市坂本のここに残る。公式サイトはここ

「柳原紀光、閑窓自語」柳原紀光(延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇一)年)は公家。安永四(一七七五)年に権大納言となったが、三年後、事のあって免官、さらに寛政八(一七九六)年には、しばしば身分不相応の行いがあったとして、永蟄居となって、そのまま没した。この間、その才識を傾注して、大著「続史愚抄」(亀山天皇より後桃園天皇に至る編年史)を編輯した)の随筆。吉川弘文館随筆大成版を元に漢字を恣意的に正字化して以下に示す。上巻「七六」の「延曆寺竹林院有兒靈語」(延曆寺竹林院に兒(ちご)の靈(れい)有る語(こと):推定訓読)である。読点を増やし、一部の句点を読点にし、濁点を添えた。一部に推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。

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   七六延曆寺竹林院有兒靈語

山門に竹林院といへる坊あり。その内に兒かやといひて、ひらかざる間(ま)あり。寶曆七年[やぶちゃん注:一七五七年。]、法花會(ほつけゑ)の行事に、權右中辨(ごんのちゆうべん)敬明、まかりて、かの坊にやどりけるに、家人をして、ひそかに、かの間をひらき、こゝろみしむ。うちは、いとくらくて、なにもなかりけるが、冷氣、身ををそふ[やぶちゃん注:ママ。]とおぼえて、たちまち、かのもの、わづらひづき、家にかへると、そのまゝに、うせぬ。又、辨も、それより、心地、たゞならず、なやみて、その次のとし、三月ばかりに身まかりぬ。それよりして、行事辨(ぎやうじのべん)、登山するに、此坊に宿することを用ひず、となん。

   *

「寃死」濡れ衣を着せられて死ぬこと。不当な仕打ちを受けて死ぬこと。

「ウーブリエット」Oubliette。ウーブリエット。中世の城や要塞に設置された長期に亙って幽閉させるための地下牢。フランス語ウィキの“Oubliette”が非常によい。英語は“Dungeon”(ダンジョ(ェ)ン)。]

 又、人柱でなく、刑罰として罪人を壁に築き込むのがある。一六七六年巴里板、タヴエルニエーの波斯《ペルシア》紀行一卷六一六頁に、盜人の體を四つの小壁で詰め、頭だけ出して、お慈悲に、煙草をやり、死ぬ迄、すて置く。その切願のまゝ、通行人が首を刎《は》ねやるを、禁ず、又、罪人を裸で立たせ、四つの壁で圍ひ、頭から漆喰《しつく》ひを流しかけ、堅まる儘に、息も、泣くこともできずに、惱死《なうし》せしむ、と。佛國のマルセルス尊者は、腰迄、埋めて、三日、晒されて、殉敎したと聞くが、頭から塗り籠《こめ》られたと聞かぬと、一六二二年に、斯る刑死の壁を見て、ピエトロ・デラ・ヴァレが書いた。

[やぶちゃん注:「タヴエルニエーの汝斯紀行」フランスの宝石商人にして旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)は、一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。これは彼のLes six voyages de Jean-Baptiste Tavernierの中のペルシャ部分か。「Internet archive」に英訳の「Travels through Turkey to Persia」というのがある

「佛國のマルセルス尊者」英文サイトのこちらの“St. Marcellus, Bishop of Paris, Confessor”か。五世紀初頭に殉教。

「ピエトロ・デラ・ヴァレ」(Pietro Della Valle 一五八六年~一六五二年)ルネッサンス期にアジアを旅したイタリアの作曲家・音楽学者・作家。]

 嬉遊笑覽卷一上に、「東雅に、南都に往《ゆき》て、僧寺の、ムロと云ふ物をみしかど、上世に室と云《いひ》し物の制とも、みえず。もと、これ、僧寺の制なるが故なるべしと云ふは非也。そは、宮室に成《なり》ての、製なり。上世の遺跡は、今も古き窖《あなぐら》の殘りたるが、九州などには有り、と云へり。彼《かの》土蜘蛛《つちぐも》と云し者などの、住みたる處もあるべしとかや。近くは、鎌倉に、殊に多く、是亦、上世の遺風なるべし。農民の、物を入れおく處に掘《ほり》たるも多く、又、墓穴もあり、土俗、是をヤグラと云ふ。日本紀に兵庫《へいこ》をヤグラと讀《よめ》るは、箭《や》を納《いる》る處なれば也。是は、其義には非ず、谷倉の義なるべし。因《より》て、塚穴をも、なべて、いふ。實朝公の墓穴には、岩に彫物《ほりもの》ある故に、繪かきやぐらといふ。又、囚人を籠《こめ》るにも用ひし迚《とて》、大塔の宮を始め、景淸、唐糸等が古跡あり(下略)。」。

[やぶちゃん注:『嬉遊笑覽卷一上に、「東雅に、南都に往《ゆき》て、……』岩波文庫版で所持するが、今までの検証から、熊楠の所持するものに近い正字正仮名の国立国会図書館デジタルコレクションの昭和七(一九三二)年成光館出版部刊で当該部(まさに同類書(百科事典)の巻頭である巻之一上の「居處」パートの「○室(むろ)〔やぐら〕」である)を以下に電子化する。書名は丸括弧だが、鍵括弧に代えた。濁点・句読点・記号を追加し、読みの一部を推定で( )を以つて歴史的仮名遣で添えた。《 》(カタカナ)はここでは原本のルビとした。【 】は編者の頭書。上代部分の読みはこんなところで時間を食いたくないので、勝手自燃流。

   *

【むろ】○むろは「神代紀」に窨(イン)[やぶちゃん注:「穴倉・地下室」の意。]をよめるがもとにて、地室(ぢむろ)をいふ。「古事記傳」に、『山の腹を橫に堀(ほり)て[やぶちゃん注:漢字はママ。以下同じ。]、石窟の如く構へたるをいふ。地を下へほりたるには、あらず。』といへり。宮室を造るも、其さまをうつしたれば、「室」を「むろ」とは、いひしなるべし。上つ代の家造は、柱を地中に築立(つきた)て、繩・つなをもて、結固(むすびかた)めしものなり。「書紀」、「顯宗紀」、「室壽御辭(むろじゆのおほんことば)」に『築立(つきたつ)る稚室葛根(わかむろのかづね)』、また、「大磬(だいけい)」の祭詞(まつりことば)に『此の敷坐(しきます)大宮、地底津根(ちのそこつね)乃(の)極美下津根(いやましのしもつね)云々』。古(いにしへ)に『於底津石根宮柱布刀斯理立(そこついはねに、みやばしら、ふとしり、たて)』[やぶちゃん注:これは「古事記」の「上つ巻」の大国主命のパートの一節。]など云ふは、上代、神宮も、人の舍も、伊勢神宮などの製の如く、地を堀て、柱を立(たつ)る故に、この稱あり。【堀立(ほつたて)】今世にも賤が戶には、是あり。堀立と云ふ。石すゑして、柱を立るは、の意のことなり。右の下津石根など云(いふ)は、只、深くほり立るを云なり。「鹽尻(しほじり)」に、『やんごとなき御所に「内室作(うちむろつく)り」といふあり。「いかなる製にや。」といふ人あり。予、云(いふ)、「これを、匠家(たくみ)に聞(きき)侍る。内室とは、天井なく、屋裏《ヤウラ》のまゝに造る事とぞ。紫宸殿・淸凉殿なども、『うちむろ作り』なりとかや。凡(およそ)諸寺の金堂なんども、『内室作』の法といへり。我(わが)熱田の神宮寺も、これ也。「日本紀」廿四、『舘堂』を『むろつみ』と訓ぜし。『室』字のみ、むろ」とよむには、かぎらず。」と云(いへ)り。「事跡合考」に、『坪(つぼ)曲尺《カネ》[やぶちゃん注:宮大工のことか。]の達人、正德[やぶちゃん注:一七一一年~一七一六年。]の比、予に語りて云(いはく)、「龜戶の聖廟の御本殿は、垂木(たるき)のかけやう、『一室作(ひとむろつく)り』といふ造りやう也。當世、あのすみかね作法、知りたる大工は、江戶中に一人もなし云々。誠に、めでたく出來たる宮殿なりしが、延享三年丙寅(ひのえとら)[やぶちゃん注:一七四六年。]二月、隣家よりの類火に燼滅(じんめつ)したるこそ、千歲(せんざい)の恨(うらみ)なるかな。」と、いへる。をしむべき事は、火にかゝる物、これのみならず、いづれか、をしからぬもの、有べき。此殿、絕ては、その製作も世になくなりぬるやうにおもへるは、これを記しゝ人はさら也、坪かねの達人も、わきまヘなきことゝ見ゆ。且ツ、「一室」といふことば、なし。是、内室を訛(なま)りたるにこそ。【虛室(うつむろ)】猶、おもふに、「内室」は「虛室《ウツムロ》」の義にて、「うつむろ」と訓(よむ)べし。「和訓栞(わくんのしほり)」に、『舘をよめるは、室積(むろづみ)の義、「周禮(しうらい)」に、『侯舘有積』と見えたり。「周防(すはふ)のむろづみ」も是なるべし。」といへり。「東雅」に、『南都にゆきて、僧寺の室といふものを見しかど、上世に室といひしものゝ制とも見えず、もと是(これ)、僧寺の製なるが故なるべし。」と、いへるは、非なり。そは、宮室になりての制なり。上世の遺跡は、今も古き窨ののこりたるが、九州などにはあり。』といへり。彼(かの)「土蜘蛛(つちぐも)」といひしものなどの住(すみ)たる處も有べしとかや。【やぐら】近くは、鎌倉に、殊に多し。是又、上世の遺風なるべし。農民の物を入置處に堀たるも多く、又、墓穴もあり。土俗、是れを「やぐら」といふ。「日本紀」に、「兵庫」を「やぐら」とよめるは、箭を入るゝ處なればなり。これは、その義には、あらず、「谷倉」の義也。よりて、塚穴をも、なべて、云ふ。實朝公の墓穴には、岩に彫物ある故に、「繪かきやぐら」と云ふ。又、「囚人を籠(こめ)るにも用ひし。」とて、大塔の宮をはじめ、景淸・唐糸等が古蹟あり(「散木集」)。連歌、堀河院御時[やぶちゃん注:堀河天皇の在位は応徳三(一〇八七)年~嘉承二(一一〇七)年)。]、出納(すいたふ)が腹立て、「へやのしう」とも云ものを、御倉のしたにこむるを聞(きき)て、源中納言國信、「へやのしうみぐらのしたにこもるなり云々、付よとせめ有ければをさめどのにはところなしとて」。又、「古事談」に、伶人助元を、左近府の下倉に召籠られしたぐひにや。されど、こは、窨藏(いんざう)にはあらざるべし[やぶちゃん注:ここに漢文白文の例示引用が割注で入るが、必要性がないという私の判断で略す。因みに岩波文庫版には、ない。]。又、「建保職人盡」、塗師の歌に、「土むろしてもほされざりけり」と有[やぶちゃん注:以上のの「と有」は岩波版で補った。]。今も、漆ぬるに、穴藏を用るとなじ。但し、麹(かうぢ)作るなどには、「むろ」といヘど、塗師などは「風呂」とのみ云ふ。箱の内に、水をそゝぎたるが、風呂の湯氣のやうなるより、「むろ」といふこと、いつしか、轉(なま)りて「風呂」といふにや[やぶちゃん注:ここにかなり長い割注が入るが、同前(岩波版なしも同じ)で略す。]。

   *

さて、ここで喜多村信節(のぶよ)の「嬉遊笑覽」を、熊楠が無批判に引いて、そのまんま言いっ放しである点に於いて、鎌倉の郷土史研究をしている私は、複数箇所、指弾したいことがあるのである。まず、

「上世の遺風なるべし」というのは誤り

である。鎌倉の「やぐら」は戦前には、「上世の遺風」に当たる横穴古墳を模したものとする歴史家の説があったが、これは、現在では完全に否定されている。平地の少ない鎌倉に於いて、幕府創設以来、多くの墳墓が僅かな平地にやたらに作られ、都市機能を脅かす事態となり、かの「御成敗式目」の追加条目で――鎌倉御府内に墳墓や霊堂を建立することは禁じられている――のである。但し、この「御府内」というのは、平地に限るものであったと考えられ、仕方なく、御家人らは、柔らかく加工し易い砂岩の周縁の「鎌倉石」からなる山の斜面に、本来は建立すべき法華堂を模して、「やぐら」を建てたのである。その証拠に、「やぐら」の左右には、堂扉と同じく、木製の開閉式の扉を設置した後が見られるものが多く現存し、さらに「やぐら」の上面の前部に、朱で垂木(たるき)を模して描いた「朱垂木やぐら」と通称されるものや、「やぐら」内上部に天蓋を模した円形の彫り込みがあるものをも認める。龕があるものも有意に多い。構造が一見、横穴式古墳に似たところがあっても、それは偶然であって、「上世の遺風」なんどでは、なく、法規制に迫られて作り出した、鎌倉時代の新墳墓形式(多くは供養塔)なである。その証拠に、旧鎌倉御府内以外では、鎌倉時代に鎌倉の寺院が持っていた関東附近の寺領以外には、この「やぐら」はどこにも存在しないのである。なお、各種の「やぐら」については、私のサイト版の、幕末の文政十二(一八二九)年に植田孟縉(うえだもうしん)によって編せられた鎌倉地誌「鎌倉攬勝考卷之九」の「岩窟」の項を見られたい。貴重な当時の図も添えてある。なお、現在、御府内で現認可能な「やぐら」は凡そ千数百、埋蔵しているものも加えると、有に三千基を越えるものと思われる。

「塚穴」これも厳密に言えば、正確ではない。鎌倉の「やぐら」内から埋葬の副葬品や火葬骨が発見されたものもあるから、それは確かに墳墓であるが、供養塔が有意に多いと私は考えている。供養塔は卒塔婆などが一般化する前には、堂を別に作るのが普通であった。されば、真正の墳墓である「やぐら」の脇に同様の供養塔を安置する「やぐら」を増殖させるのは、頗る腑に落ちるのである。例えば、「百八やぐら」と呼ばれる鶴岡八幡宮の東北の、覚園寺の裏山、天園の西のそこは、アパートのように多層階に「やぐら」がみっちりと形成されているのである。さらに言えば、まさに以下の「実朝の墓」と呼ばれているものが、供養塔以外の何物でもないのである。

「實朝公の墓穴には、岩に彫物ある故に、繪かきやぐらといふ」「鎌倉攬勝考卷之四」の「壽福寺」の項の「右大臣實朝公庿塔」の挿絵が載るので見られたいが、並んだ北条政子の墓とともに、南北朝期の寿福寺復興期に造立された供養塔であって、分骨は、されていないと考えるのが正しい。実朝の首なしの亡骸は大御堂にあった勝長寿院(廃寺)に葬られたが(後の政子の遺骨も同じ)、今は人家が立て込んで、昔を偲ぶよすがもないのである。

「囚人を籠るにも用ひし迚、大塔の宮を始め、景淸、唐糸等が古跡あり」まず、「大塔の宮」だが、今、大塔の宮護良親王を祀る鎌倉宮には、まことしやかに岩窟の牢が「復元」と称して置かれてあるが、より古い記録を見るに、当時の親王は、「やぐら」のような岩牢・土牢(どろう)なんどではなく、ちゃんとした家屋に軟禁されていたというのが、事実と信じられる。平家に仕えた残党で悪七兵衛の名で知られる、頼朝暗殺を企んで捕縛された藤原「景淸」の牢や、同じく頼朝を暗殺しようとして失敗した木曽義仲の家来手塚光盛の娘で、父の仇を討たんとした「唐糸」の「やぐら」も、確かに現存はする。言い出すと、エンドレスになるので、サイト版「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀 附やぶちゃん注」の「葛原岡〔附唐絲ガ籠〕」の私の注を読まれたいが(ブログ単独版はこちら。護良親王の土牢のデッチアゲもそこで説明してある)、これらも、実際には、後世に創作された伝説や物語によって、リアリズムを出すために、勝手に後付けされたエセ「土牢やぐら」であって、何ら関係のない誰かの「やぐら」に過ぎないのである。

 紀州東牟婁郡に、矢倉明神の社、多し。方言に、山の嶮峻《けんしゆん》なるを倉といふ。諸莊《しよしやう》に嶮峻の巖山《いはやま》に祭れる神を、矢倉明神と稱すること、多し。大抵は、皆な、巖《いはほ》の靈を祭れるにて、別に社《やしろ》がない。矢倉のヤは伊波《いは》の約にて、巖倉《いはくら》の義ならんとは、紀伊續風土記八一の說だ。唐糸草紙に、唐糸の前、賴朝を刺《ささ》んとして、捕はれ、石牢に入れられたとあれば、谷倉よりは岩倉の方が正義かも知れぬ。孰れにしても、此ヤグラは、櫓と同訓ながら、別物だ。景淸や唐糸がヤグラに囚われた、とあるより、早計にも、二物を混じて、二重櫓の下に囚はれ居《をつ》た罪人の骸骨が、今度、出たなど、斷定する人もあらうかと、豫《あらかじ》め辯じ置く。

 附 記 本文は、大正十四年六月三十日と七月一日の大阪每日新聞に掲載のまゝで、其の引用書目と揷註《さうちゆう》は、七月十一、十二日書き加へたものに、本年八月、又、增補した者である。

[やぶちゃん注:「紀伊續風土記」紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年に完成した。原本の当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここ(左ページ下段末)で確認出来る。]

2022/09/19

フライング単発 甲子夜話卷之二十二 28 大阪御城明ずの間の事

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧・記号も用いた。標題の「明ずの間」は以下の本文に従って「あけずのま」と読んでおく。]

 

22―28

大阪の御城内、御城代の居所の中に、「明けずの間」とて、有り、となり。此處《このところ》、大《おほい》なる廊下の側《かたはら》にあり。こゝは、五月落城のときより、閉《とざ》したるまゝにて、今に一度もひらきたること、なし、と云《いふ》。因て、代々のことなれば、若《も》し、戶に損じあれば、版《いた》を以て、これを補ひ、開かざることと、なし置《おけ》けり。此《ここ》は、落城のとき、宮中婦女の生害《しやうがい》せし所、となり。かゝる故か、後、尙、その幽魂、のこりて、こゝに入る者あれば、必ず、變殃《へんわう》を爲すこと、あり。又、其前なる廊下に臥す者ありても、亦、怪異のことに遇ふ、となり。觀世新九郞の弟宗三郞、かの家伎《かぎ》のことに因て、稻葉丹州、御城代たりしとき、從ひ往《ゆき》たり。或日、丹州の宴席に侍《じし》て、披酒[やぶちゃん注:ママ。「被酒(ひしゆ)」(酒を飲むこと)の誤判読か誤字と思う。]し、覺へず[やぶちゃん注:ママ。]、彼《かの》廊下に醉臥《すゐぐわ》せり。明日《みやうじつ》、丹州、問《とひて》曰く、「昨夜、怪《あやしき》こと、なきや。」と。宗三郞、「不覺。」のよしを答ふ。丹州、曰《いはく》、「さらば、よし。こゝは、若《もし》、臥す者あれば、かくかくの變、あり。汝、元來、此ことを不ㇾ知《しらず》。因て、冥靈《めいりやう》も免《ゆる》す所あらん。」と、云はれければ、宗三《さうざ》、聞《きき》て始《はじめ》て怖れ、戰慄《ふるへおののき》、居《を》る所をしらず、と。又、宗三、物語しは、「天氣、快晴せしとき、かの室の戶の透間《すきま》より窺《うかが》ひ覦《み》れば、其おくに、蚊帳《かや》と覺しきもの、半《なかば》は、はづし、半は、鈎《かぎ》にかゝりたるもの、ほのかに見ゆ。又、半揷《はんざふ》の如きもの、其餘の器物どもの、取ちらしたる體《てい》に見ゆ。然れども、數年《すねん》、久《ひさし》く、陰閉《いんぺい》の所ゆゑ、たゞ其狀《さま》を察するのみ。」と。何《い》かにも、身毛《みのけ》だてる話なり。又、聞く、「御城代某侯、其威權を以て、こゝを開きしこと有しに、忽《たちまち》、狂を發しられて、止《やみ》たり。」と。誰《たれ》にてか有けん。此こと、林子《りんし》に話せば、大咲《おほわらひ》して曰《いはく》、「今の坂城《はんじやう》は豐臣氏の舊《もと》に非ず。偃武《えんぶ》の後《のち》に築改《きづきあらため》られぬ。まして、厦屋《かをく》の類《たぐひ》は、勿論、皆、後の物なり。總て世にかゝる造說《ざうせつ》の實《まこと》らしきこと、多きものなり。其城代たる人も、舊事《きうじ》、詮索なければ、徒《いたづら》に齊東野人《せいとうやじん》の語を信じて傳《つたふ》ること、氣の毒千萬なり。」と云《いふ》。林氏の說、又、勿論なり。然《しかれ》ども、世には、意外の實跡も有り。又、暗記の言《げん》は的證とも爲しがたきなり。故に、こゝに兩端を叩《たたき》て、後定《こうぢやう》を竢《まつ》。

■やぶちゃんの呟き

「五月落城のとき」言わずもがな、「大坂夏の陣」。慶長二〇(一六一五)年五月八日、大坂城は落城、豊臣秀頼は母淀君とともに城内で自害した。

「觀世新九郞」能の小鼓方(ここの「家伎」はそれ)の流派名。

「稻葉丹州」稲葉正諶(まさのぶ 寛延二(一七四九)年~文化三(一八〇六)年)。従五位下丹後守。享和二(一八〇一)年十月十九日に大坂城代に就任し、文化元(一八〇四)年一月二十三日に京都所司代に転任、従四位下侍従となっている。彼は「寛政の改革」にも加わっている。

「半揷《はんざふ》」現代仮名遣「はんぞう」。「はざふ(はぞう)」等とも呼び、「𤭯」「楾」「匜」等の漢字もある。湯水を注ぐのに用いる器で、柄のある片口の水瓶であり、柄の中を湯水が通るようにしてある。その柄の半分が器の中に挿し込まれてあるところから、この名称がつけられた。

「林子《りんし》」お馴染みの、静山の盟友である儒者林述斎(はやしじゅっさい)。

「偃武」天下泰平。

「厦屋」大きな建造物や家屋内の作り物や調度具。

「造說」根拠のないことを言いふらすこと。

「舊事、詮索なければ」そのような古いことは、調べようがないことであるから。

「齊東野人」物の道理を知らない田舎者。人を軽蔑していう語。「孟子」の「万章(ばんしょう)上」に基づく。「斉東」は斉(せい)国の東の辺境で、「野人」は「田舎者」の卑語。

2022/09/18

フライング単発 甲子夜話卷之三十 20 姬路城中ヲサカベの事

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用いた。]

 

30―20

世に云ふ。姬路の城中に「ヲサカベ」と云《いふ》妖魅《えうみ》あり。城中に年久《としひさし》く住《すめ》りと云ふ。或云《あるいは、いふ》。天守櫓《てんしゆやぐら》の上層に居《ゐ》て、常に、人の入ることを、嫌ふ。年《とし》に一度《ひとたび》、其城主のみ、これに、對面す。其餘《そのよ》は、人、怯《おそ》れて不ㇾ登《のぼらず》。城主、對面する時、妖、其形を現《あらは》すに、老婆なり、と傳ふ。予、過《すぎ》し年、雅樂頭忠以《うたのかみただざね》朝臣に此事を問《とひ》たれば、「成程、世には然云《しかいふ》なれど、天守の上、別に替《かは》ること、なし。常に上る者も有り。然れども、器物を置《おく》に、不便《ふべん》なれば、何も入れず。しかる間、常に行く人も稀なり。上層に、昔より、日丸の付《つき》たる胴丸、壱つ、あり。是のみなり。」と語られき。其後、己酉《つちのととり/きいう》の東覲《とうきん》、姬路に一宿せし時、宿主《やどぬし》に、又、このこと問《とは》せければ、「城中に左樣のことも侍り。此處にては『ヲサカベ』とは不ㇾ言《いはず》、『ハツテンドウ』と申す。天守櫓の脇に此祠《やしろ》有り。社僧ありて、其神に事《つか》ふ。城主も尊仰《そんぎやう》せらるゝ。」とぞ【寬政「東行筆記」。是予所嘗錄下倣ㇾ此。】。

■やぶちゃんの呟き

「ヲサカベ」通常は漢字では「刑部姬」と表記される。「朝日日本歴史人物事典」の宮田登先生の解説によれば(コンマを読点に代えた)、『兵庫県の姫路城の天守閣に祭られている城の地主神といわれる。伝説では、天守閣に棲む妖怪とみなされる老女であり、築城の際に人柱となった女の変化とみられている。各地の人柱伝説では、築城や架橋の際に女性が埋められ、のちに神に祭られたと説明されている。刑部姫がいるという天守閣には、人は近づいてはならないとされ、ただ年に』一『回だけ、城主が対面を許されたという。築城以前に、この地域が聖地であり、土地の神が、そのまま地主神として、城の守護神に昇化したが、その霊異が強調されて禁忌が成立したと推察される。おさかべは、このあたりでは青大将(蛇)をさしており、原型は大蛇が地主神として崇拝されたものである』とある。

「雅樂頭忠以朝臣」播磨姫路藩第二代藩主酒井忠以(宝暦五(一七五六)年~寛政二(一七九〇)年)。

「己酉」天明九・寛政元(一七八九)年。「甲子夜話」で清(静山)自身の記録で、正確なクレジットが示されるのは、それほど多くはない。これは特異点の一つである。数え三十歳の時で、彼は安永四(一七七五)年二月、祖父誠信(さねのぶ)の隠居により、家督を相続している。

「ハツテンドウ」「ドウ」の表記にはちょっと問題があるが(会話だから仕方がない)、これは伝承に従えば、「八天堂(はつてんだう(はってんどう))」である。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の「姫山の地主神」に、姫路城築城を、実務上、指揮したのは池田輝政(永禄七(一五六五)年~慶長一八(一六一三)年)であるが、その『池田家では、鬼門』『にあたる城内北東部に、「八天堂(はってんどう)」という仏堂を建てた、とされて』おり、これに『関しては』、『史料がある』として、『小野市歓喜院(おのしかんぎいん)と多可町円満寺(たかちょうえんまんじ)には、「播磨のあるじ」を名乗る天狗が輝政にあてた書状と言われるものや、それにまつわる記録類が残されているのである』とあり、『この書状は』、『城内に寺院を建てよ』、『と輝政に要請するもので、慶長』一四(一六〇九)年十二『月と、現在の天守閣が完成したばかりのころの年代がついている。この書状は』、一旦は、『城内で発見され、直ちに輝政にも見せられたが、その時は黙殺された、という』。『しかし、その』二『年後、輝政が病』い『に倒れた。池田家では、円満寺の明覚(みょうかく)を招いて祈祷を行わせたが、その最中に、先の天狗の書状が』、『あらためて藩士から提出された。明覚は、この書状が要求するとおりに寺院を建立することを勧めたので、池田家では、鬼門(きもん)にあたる城内北東部に、「八天堂(はってんどう)」という仏堂を建てた、とされている』。『さらにこの』頃、『輝政の病』いは、『城が建っている姫山(ひめやま)の地主神(じぬしがみ)である長壁神(おさかべがみ)のたたりだ、との噂も流れていたという。長壁神は、もともとは姫山の上にまつられていたが、羽柴秀吉』『の姫路築城にともなって、城下の播磨総社(そうしゃ)に移されていた。そこで池田家では、長壁神社をも城内にまつり直した、とされている』とある。なお、引用元では、「諸国百物語」の中の関連怪談の二話を名指しのみしているが、それは私の「諸國百物語卷之三 十一はりまの國池田三左衞門殿わづらひの事」と、「諸國百物語卷之五 四 播州姫路の城ばけ物の事」で既に電子化注してあるので、読まれたい。

「東覲」参勤交代のこと。それ自体を「參覲交代」とも書いた。「覲」は「御目見えする」ことを指す。

『寬政「東行筆記」。是予所嘗錄下倣ㇾ此。』清(静山)は若き日より、筆記魔で、多くの記録を残している。これは寛政期の参勤交代の行き来に記したもの。後の部分は、「是れ、予が嘗つて錄せる所の下(か)」(条下)「に此れを倣(なら)ふ。」である。

フライング単発 甲子夜話卷之五十九 5 加藤淸正の故邸

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用いた。]

 

59―5

鳥羽侯【稻垣氏。】の邸《やしき》は麹町八丁目にありて、伯母光照《かうしやう》夫人、こゝに坐《おは》せしゆゑ、予、中年の頃までは、屢々、此邸に往《ゆ》けり。邸の裏道を隔《へだて》て、向《むかひ》は彥根侯【井伊氏。】の中莊《なかやしき》にして、高崖《たかきがけ》の上に、大《おほい》なる屋、見ゆ。「千疊鋪《せんじやうじき》」と、人、云ふ。又、云ふ。「この屋は、以前、加藤淸正の邸なりし時のものにて、屋瓦《やねがはら》の面には、その家紋、圓中《まるのなか》に桔梗花《ききやう》を出《いだ》せり。」と。又、この「千疊鋪」の天井に、乘物を【駕籠《かご》を云《いふ》】。釣下げてあり。人の開き見ることを禁ず。」。或は云。「淸正の妻の屍《しかばね》を容れてあり。」。或は云。「この中、妖怪、ゐて、時として、内より戶を開くを見るに、老婆の形なる者、見ゆ。」と。數人《すにん》の所ㇾ話《はなすところ》、この如し。然るに、その後、彼《かの》莊、火災の爲に、類燒して、「千疊鋪」も烏有《ういう》となれり。定めて、天井の乘物も焚亡《ふんばう》せしならん。妖も鬼も、倶に、三界、火宅なりき。

■やぶちゃんの呟き

「伯母光照夫人」調べたところ、志摩国鳥羽藩二代藩主(鳥羽藩稲垣家六代)稲垣昭央(てるなか 享保一六(一七三一)年~寛政二(一七九〇)年)の正室は松浦誠信(さねのぶ)の娘で、院号を光照院という。誠信は、長男の邦(くにし)の死後、後継者を三男政信と定めていたが、その政信は明和八(一七七一)年に、やはり、父に先立って死去したため、嫡孫である政信の子の清(静山)を後継者として定めたので、事実上は大伯母であるが、実質的な家督嗣子の関係からは「伯母」と称して問題ない。

「淸正の妻」当該ウィキを見ると、山崎片家娘を正室とし、他に継室の清浄院、側室に本覚院・浄光院・正応院の名が見える。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その5)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇は長いので、分割する。特に以下は「追記」とするも、長い。「選集」に従い(そちらでは、第「五」章と第「六」章に分離されてある)、分割する。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

追 記 英國で最も古い人柱の話は、有名な術士メルリンの傳にある。此者は賀茂の別雷神《わけいかづちのかみ》同然、父なし子だった。初め、キリスト生まれて、正法《しやうはふ/しやうほふ[やぶちゃん注:仏教用語では後者であり、それに準じて、私は「ほふ」と読みたい。]》、大《おほい》に興らんとした際、邪鬼輩、失業難を憂ひ、相謀つて一《いつ》の法敵を誕生せしめ、大に邪道を張るに決し、英國の一富家に禍《わざはひ》を降《くだ》し、先づ、母をして、其獨り息子を、鬼と罵らしめて、眠中、其子を殺すと、母は悔ひて、縊死し、父も悲しんで、悶死した。跡に、娘三人、殘つた。其頃、英國の法として、私通した女を生埋《いきうめ》し、若くは、誰彼の別なく、望みさへすりや、男の意に隨はしめた。邪鬼の誘惑で、姉娘、先づ、淫戒を犯し、生埋され、次の娘も同樣の罪で、多《おほくの》人の慰み物となった。季《すゑ》娘、大に怖れて、聖僧プレイスに救ひを求め、每夜、祈禱し、十字を畫いて寢よ、と敎へられた。暫く其通りして、無事だつた處、一日、隣人に勸められて飮酒し、醉つてその姉と鬪ひ、自宅へ逃げ込んだが、心騷ぐまゝ、祈禱せず、十字も畫かず、睡つた處を、好機會、逸《のが》す可らずと、邪鬼に犯され、孕んだ。斯くて、生まれた男兒がメルリンで、容貌優秀乍ら、全身黑毛《くろげ》で被はれて居《をつ》た。こんな怪しい父なし子を生んだは、怪しからぬと、其母を法廷へ引出《ひきだ》し、生埋の宣告をすると、メルリン、忽ち、其母を辯護し、吾れ、實は强勢の魔の子だが、聖僧ブレイス、之を予知して、生まれ落ちた卽時に、洗禮を行はわれたから、邪道を脫《のが》れた。予が人の種でない證據に、過去現在未來のことを知悉し居り、此裁判官抔の如く、自分の父の名さへ知らぬ者の及ぶ所でないと、廣言したので、判官、大に立腹した。メルリン、去《さ》らば、貴公の母を、喚べ、と云ふので、母を請じ、メを別室に延《ひ》いて、吾は誰の實子ぞと問ふと、此町の受持僧の子だ。貴公の母の夫だつた男爵が、旅行中の一夜、母が受持僧を引入《ひきいれ》て、會ひ居る處へ、夫が不意に還つて戶を敲いたので、窓を開いて逃げさせた。其夜、孕んだのが判官だ、是が虛言《そらごと》かと詰《なじ》ると、判官の母、暫く、閉口の後ち、實《まこと》に其通り、と告白した。そこで、判官、嚴しく其母を譴責して、退廷せしめた跡で、メルリン曰く、今、公の母は件《くだん》の僧方へ往つた。僧は此事の露顯を慙《は》ぢて、直ちに橋から川へ飛入つて死ぬ、と。頓《やが》て其通りの成行きに吃驚《びつくり》して、判官、大にメを尊敬し、卽座に、其母を放還した。

[やぶちゃん注:「術士メルリン」十二世紀に書かれた偽史「ブリタニア列王史」に登場する魔術師アンブローズ・マーリン(Ambrose Merlin)。当該ウィキによれば、『グレートブリテン島の未来について予言を行い、ブリテン王ユーサー・ペンドラゴンを導き、ストーンヘンジを建築した。後の文学作品ではユーサーの子アーサーの助言者としても登場するようになった。アーサー王伝説の登場人物としては比較的新しい創作ではあるものの』、十五『世紀テューダー朝の初代ヘンリー』Ⅶ『世が』、『自らをマーリン伝説に言う「予言の子」「赤い竜」と位置付けたため、ブリテンを代表する魔術師と見なされるようになった』とある。詳細はリンク先を読まれたい。

「ブレイズ尊者」マーリンの英語版ウィキに、彼を出生後すぐに洗礼した司祭として、“Blaise”の名が挙がっている。さらにフランス語ウィキの‘Blaise (légende arthurienne)を見ると、この“Blaise”という名前自体が、ケルト神話に於ける狼男を指し、ここにメーリンが毛に覆われていたということと、強い重層性を見ることが出来るという記載があった。]

 其れから五年後、ブリトン王ヴルチガーンは、自分は前王を弑して位を簒《うば》ふた者故、いつ、どんな騷動が起こるか知れぬとあつて、其防ぎにサリスベリー野《や》に立つ高い丘に堅固な城を構へんと、工匠一萬五千人をして、取掛《とりかか》らしめた。所が、幾度築いても其夜の間に、壁が、全く、崩れる。因つて、星占者《ほしうらなひ》を召して尋ねると、七年前に人の種でない男兒が生まれ居《を》る。彼を殺して、其血を土臺に濺《そそ》いだら、必ず成功する、と言つた。隨つて、英國中に使者を出して、そんな男兒を求めしめると、其三人が、メルリンが母と共に住む町で出會ふた。其時、メルリンが他の小兒と遊び爭ふと、一人の兒が、汝は誰の子と知れず、實は吾れ吾れを害せんとて魔が生んだ奴だ、と罵る。扠は、これが、お尋ね者と、三人、刀を拔いて立ち向ふと、メルリン、叮嚀に挨拶し、公等《こうら》の用向きは斯樣《かやう》々々でせう、全く僕の血を濺いだつて城は固まらない、と云ふ。三使、大に驚き、其母に逢ふて、其神智の事共を聞いて、彌《いよい》と呆れ、請ふて、メと同伴して、王宮へ歸る。途上で、更に驚き入つたは、先づ、市場で一靑年が履《くつ》を買ふとて、懸命に値を論ずるを見て、メが大に笑ふた。其譯を問ふに、彼は、其履を手に入れて、自宅に入る前に、死ぬはず、と云ふたが、果たして、其如くだつた。翌日、葬送の行列を見て、又、大に笑ふたから、何故と、尋ねると、此死人は、十歲計りの男兒で、行列の先頭に、僧が唄ひ、後に老年の喪主が悲しみ往くが、此二人の役割が顚倒し居る。其兒、實は、其僧が喪主の妻に通じて產ませた者故、可笑かしい、と述べた。由《よつ》て、死兒の母を嚴しく詰ると、果《はた》して、其通りだつた。三日目の午時頃、途上に何事も無きに、又、大に笑ふたので、仔細を質すと、只今、王宮に珍事が起つたから、笑うた、今の内大臣は美女が男裝した者と知らず、王后、頻りに言寄《いひよ》れど、從はぬから、戀が妒《ねた》みに變じ、彼れは妾《わらは》を强辱しかけた、と。讒言を信じ、大臣を捉へて、早速、絞殺の上、支解せよ、と命じた所だ。だから、公等の内、一人、忙《いそ》ぎ歸つて、大臣の、男たるか、女たるか、を檢査し、其無罪を證しやられよ、而して是は僕の忠告に據つたと申されよ、と言ふた。一使、早馬で驅付《かけつ》け、王に勸めて、王の眼前で内大臣が女たるを檢出して、之を助命した、とあるから、餘程、露骨な檢査をしたらしい。

[やぶちゃん注:「ブリトン王ヴヲルチガーン」五世紀、サブローマン・ブリテン時代のブリタンニア(現在のグレートブリテン島)に存在したと伝えられるブリトン人諸侯ヴォーティガン(Vortigern)のことか。当該ウィキによれば、『彼の存在は文学的にも注目され、前述の「ブリタニア列王史」にその名が見られた事からアーサー王伝説の登場人物の一人として取り上げられる事となり、さらに後年になってシェイクスピア外典の題材としても取り扱われている。サクソン人の侵攻を誘発した人物として古くから名が記されている事から』、『歴史の流れにおいて彼の役割をした人物は存在すると考えられているが、史的人物としてのヴォーティガンの実在性は、はっきりとしていない』とある。

「支解」遺体の手足を切断すること。死後の凌辱刑の一つ。]

 扨、是れ、漸く七歲のメルリンの告げたところと云ふたので、王、早く、其兒に逢ふて、城を固むる法を問はんと、自ら出迎えて、メを宮中に招き、盛饌を供し、翌日、伴ふて、築城の場に至り、夜になると、必ず、壁が崩るるは、合點行かぬといふに、其は、此地底に、赤白《せきびやく》の二龍が棲み、每夜、鬪ふて、地を震はすから、と答へた。王、乃(すなは)ち、深く、その地を掘らしめると、果して、二つの龍が在り、大戰爭を仕出《しで》かし、赤い方が、敗死し、白いのは、消《きえ》失せた。斯くて、築城は功を奏したが、王の意、安《やす》んぜず、二龍の爭ひは何の兆《きざし》ぞと、問ふこと、度《たび》重なりて、メルリン、是非なく、王が先王の二弟と戰ふて、敗死する知らせ、と明かして消え失せた。後ち、果して城を攻落《せめおと》され、王も后も焚死したと云ふ(一八一一年版、エリス著、初世英國律語體傳奇集例、卷一、二〇五―四三頁)。英國デヴォン州ホルスウォーシーの寺の壁を十五世紀に建てる時、人柱を入れた。アイユランドにも、圓塔下より、人の骸骨を掘出したことがある(大英百科全書十一板、四卷七六二頁)。

[やぶちゃん注:「選集」では、ここで第「五」章(「追記」の標題はない)が終わっている。

「一八一一年版、エリス著、初世英國律語體傳奇集例、卷一、二〇五―四三頁」

「大英百科全書十一板、四卷七六二頁」イギリスの古物収集家にして大英博物館主任司書を長年務めたヘンリー・エリス(Henry Ellis 一七七七年~一八六九年)の著作ではないかと思われるが、原題を調べ得なかった。]

西原未達「新御伽婢子」 人喰老婆

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

     人喰老婆(ひとくひうば)

 京、大宮丹波屋町といふ所に米穀を商ふ六右衞門とかやいふ男、神無月の中比《なかごろ》、夜、いと更て、

「親(したしき)ものゝ、病《やまひ》を訪(とふら)ふ。」

とて、室町錦の小路なる處に行《ゆく》に、月、冷(すゞ)しく、風、いたく、身にしみて、村時雨(むらしぐれ)、間(ま)なく、かよひければ、傘(からかさ)、打《うち》かたぶけて、四条を東に步むに、などやらん、寥落(ものすごき)心、いできて、前後(ぜんご)かへり見がちなり。

[やぶちゃん注:「丹波屋町」現在の京都市上京区丹波屋町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「錦の小路」ここの東辺りの病んだ親しい友の家はあったようである。]

 かく、氣味よからぬ時しも、

「強《しひ》て行《ゆく》べきに非ず。立歸(たちかへり)、あすや、まからん。」

と、道、少《すこし》、踏戾(ふみもど)りしかども、

『おもへば、はなちがたきものゝ病勞(いたはり[やぶちゃん注:二字への読み。])を問ふに、今宵を延(のべ)て明朝(あす)を期(ご)せん事、いとゞ常(つね)なき人の身の、わきて煩(わづらふ)折《をり》》にさへあれば、今もや、いかゞ無覺束(おぼつかなし)、抑(そも)、又、遠境海路(ゑんきやうかいろ)の程か、埜山《のやま》》を越(こゆ)る難所(なんじよ)か、淺ましき心かな。』

と、心に我を恥かしめて、靜(しづかに)運(はこ)び行《ゆき》けるほどに、堀川の辻に出《いで》て、橋の詰(つめ)に渡りかゝる所に、北西の釘貫(くぎぬき)の傍(そば)より、

「なふ、なつかしや、六右衞門。」

と、いふて、逶迤(よろぼひ)出《いで》るものをみれば、月影に、色あひ、安定(さだか[やぶちゃん注:二字への読み。])ならねど、八旬[やぶちゃん注:八十歳。]斗《ばかり》と覺しき姥(うば)の、眞白(ましろ)なる髮を振乱(ふりみだ)し、眼(まなこ)、靑く、ひかりて、口、耳の根へ、きれたり。

 

Hitokuhiuba

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 大手(《おほ》で)をひろげ、攫(つかみ)つかんとする。

 男、

「はつ。」

と、おもひ、木履(ぼくり)・傘(かさ)打《うち》すてゝ、東をさして、逃(にげ)て行《ゆく》事、息も、つぎあへず。

[やぶちゃん注:「堀川の辻」四条堀川。ここに至る道程は「平安条坊図」で確認された方が判り易い。

「釘貫」挿絵の妖婆の向こうに見える「釘貫門」。両方の柱の上部に二本の貫を通し、下に扉を入れた門。「釘門」とも。種々の場所に用いられたが、ここは恐らく町内の木戸と思われる。

「逶迤」は音「ヰイ」、当て訓で「もごよふ」で、「(蛇などが)うねりながら行く・身をくねらせて動いて行く・のたくる」から「足腰が立たずはって行く・よろよろと行く」の意。]

 漸々(やうやう)、病家(びやうか)に至りぬれども、病中なれば、あやしき咄(はなし)もせず、其夜は、そこに明(あか)して、旦(あした)に歸る。

 ありし堀川の辻に至りて、夜部(よべ)を思へば、身の毛、よだちて覺えける。

 爰に脫捨(ぬぎすて)たる履(ぼくり)を見れば、賤(いやしく)大きなる齒がた入《いり》て、咀碎(かみくだき)、傘も、引《ひき》さき、ほねも柄も、打《うち》ひしぎて置けるこそ、醜(おそ《ろ》[やぶちゃん注:脱字。補った。])しけれ。

 何の所爲(しよゐ)ともしらず。

 或人のいふ。

「人喰姥(ひと《くひ》うば)と云《いふ》物、此わたりに有《あり》て、雨、くらく、風、すごき夜は、出る、といふ。それなるべし。」

と。

 又、明曆(めいりやく)の比にや、壬生(みぶ)の水葱宮(なぎの《みや》》に、人喰姥《ひとくひうば》といふもの、住(すみ)て、幼子(おさなひ[やぶちゃん注:ママ。「もの」を略したものか。])共《ども》を取喰ふと、沙汰して、洛中城外の騷(さはぎ)、數日(すじつ)止(やま)ざりき。

 應長の比、

「伊勢の國より、女の鬼に成《なり》たるを、ゐて、登りし。」

とて、京白川(しらかは)のさはぎける、と。

 つれづれに書(かき)しに、似かよひたる事にて、誰(たれ)見たるといふ人もなく、虛言(そらごと)ともいはで、いつとなく、靜(しづま)りぬ。

 壬生に近き堀川なるによつて、此化生(けしやう)を「人喰姥」と号(なづけ)けるにや。

[やぶちゃん注:「夜部」「昨夜(よべ・ゆふべ)」に同じ。「ようべ」「よんべ」とも言った。

「明曆(めいりやく)」現行、「めいれき」と読むのが普通。一六五五年から一六五八年まで。家綱の治世。

「壬生の水葱宮」京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町にある元祇園椰(もとぎおんなぎ)神社・隼(はやぶさ)神社の近世までの呼称。ここは現在の名から判る通り、八坂神社の古跡に当たるという。

「應長」一三一一年から一三一二年まで。]

2022/09/17

西原未達「新御伽婢子」 女生首

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。

 読みの(*/*)は右/左の読み(左は意訳)を示す。]

 

     女生首(《をんなの》なまくび)

 或《ある》若僧(にやくそう)、宮古にて、人の娘に、いひかよはし、深き契りをこめにけり。

[やぶちゃん注:「宮古」「都」に同じ。京。]

 親師(おやし)の坊の仰《おほせ》にて、關東へ學問に下る。

[やぶちゃん注:「親師」ここは出家して就いている親代わりの師僧ととっておく。]

 馴(なれ)し女に、名殘(なごり)ありて、暫(しばらく)、虛病(きよびやう/うそ)に日を送りけれども、かくて有べきにもあらねば、今は歎(なげく)に、力(ちから)なく、女に暇乞(いとまごひ)して、既に東におもむけば、女、やるかたなく、戀悶(こひもだへ)、袖にすがりて、送り行《ゆく》。

 都をば、まだ、夜《よ》とともに出しかど、栗田口(あはたぐち)まで行《ゆき》かゝれば、空(そら)晨明(しのゝめ)に成《なり》にけり。

 僧、女に云(いふ)、

「いつまでも、つきぬ名殘に侍れど、明《あけ》はなれなば、いか斗《ばかり》、余所(よそ)の見る目も見ぐるし。たとへば旅程(りよてい/たびのほど)を雲に隔(へだつ)とも、頓而(やがて)の内に立歸(たちかへり)、空行月(そらゆく《つき》)の、めぐり逢(あひ)なん。是より、歸り給へ。」

と、いへば、女、是非を弁(わきま)へず、

「只今、別れ參らせ、片時(かたとき)、生(いく)べき、命、ならず。さればとて、つき添下(そひ《くだ》)らんも不ㇾ叶(かなはず)。唯(たゞ)、自(みづから)頸(くび)を切《きり》て、記念に持《もち》て、下り給へ。」

と、いひて、懷(ふところ)より小脇指(こわきざし)を取出《とりいだ》す。

 僧、あきれて、思ふ。

 

Onnanoikikubi

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

『是非ともに、此女の、生(いき)て歸らぬ心にて、かく、釼(つるぎ)迄、用意せし成《なる》べし。「歸れ」といふに、行(ゆき)やらず、つれんとするに不ㇾ叶、夜は、早、明《あかる》く成たれば、菟角(とかく)、時刻うつしては、あやしき恥に及ばん。』

と、情(なさけ)なくは思ひながら、雪とあやしむ肌に、氷の釼を押《おし》あてゝ、頸、討《うち》おとし、骸(かばね)をおさめ、頸を油單(ゆたん)に取包(とりつつみ)、袖を淚にひぢながら、東の旅途におもむき行《ゆく》。

[やぶちゃん注:「油單」一重(ひとえ)の布や紙に油を浸み込ませたもの。湿気や汚れを防ぐため、旅装の携帯として、また、敷物や風呂敷などに用いた。]

 飯沼《いひぬま》の弘經寺(ぐぎやうじ)といふ談林(だんりん)に、一所の寮をしめて居(ゐ)たり。

[やぶちゃん注:「飯沼の弘經寺」現在の茨城県常総市豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経寺(ぐぎょうじ:グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、室町時代の応永二一(一四一四)年、『名越流北条氏一族の出で、増上寺開山聖聡弟子だった嘆誉良肇(りょうちょう)の開山により下総国岡田郡飯沼村』『に創建された』。『良肇により僧侶の教育に力が入れられ、二世の松平氏宗家第四代松平親忠開基の大恩寺開山了暁(りょうぎょう)慶善、弘経寺三世の曜誉酉冏(ゆうげい)、徳川将軍家菩提寺大樹寺開山の勢誉愚底(ぐてい)、知恩院』二十二『世周誉珠琳(しゅりん)、松平氏宗家第三代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏(そんげい)などが輩出』した。『のち、北条氏と争っていた下妻城主多賀谷重経の陣が寺内に置かれ、戦禍により荒廃するが、徳川家康』の『次男結城秀康の開基で、結城弘経寺(茨城県結城市)が再建された』。『家康からも信仰されていた』十『世了学により再興され、江戸期には浄土宗の檀林』(仏教寺院に於ける僧侶の養成機関で仏教各宗派の学問所に当たる。「談林」に同じ。さすれば、本篇の時制も共時的と考えてよいであろう)『がおかれた。了学から五重相伝を受けた千姫から本堂の寄進もなされた』、江戸時代はかなり有名な寺であった。]

 此僧、外に出て歸る時、必(かならず)、女の聲して、たからかに笑ふ事、間(まゝ)多し。

 隣壁(りんぺき)の僧、不審をなし、隱間(ものゝひま)より、覗(のぞく)こと、あまたゝび、されども、此僧、獨(ひとり)のみで、人、更になし。纔(わづか)に狹(せば)き内なれば、いづくに、人、壱人《ひとり》、隱(かくす)べき、くまも、なし。

[やぶちゃん注:「獨(ひとり)のみで」「西村本小説全集 上巻」ではここは『独ならで』と起こされてある。確かに崩しからは、そう見えるが、それでは話が通じない。判読では、やや苦しいが、私は「のみで」と判じた。]

 とかくして、三年(《み》とせ)過《すぐ》る。

 其比《そのころ》、此僧の母、

「煩(わづらふ)事あり」

とて、飛脚、下りければ、僧、取不ㇾ敢(とりあへず)、登りぬ。

 其後《そののち》、三十日(みそか)斗《ばかり》して、此寮の内に、女の聲にて、哭喚(なきさけぶ)事、あり。

 各《おのおの》、肝をけし、寺内、騷動し、此戶《ここのと》に、鎖(じやう)のおりたるを、打《うち》ぬきて、内を見るに、あへて、人、なし。

 少《すこし》、澁紙包(しぶがみつゝみ)の内に、此聲、あり。

 醜(おそろし)ながら、ひらき見れば、飯櫃《いひびつ》やうの曲(まげ)たる物に、若く盛(さかん)なる女のくび、紅粉翠黛(こうふんすいたい)、生(いき)たる顏に、いやまさりて、けつらひ、愁へる眼、淚に浮(うき)、腫(はれ)たり。

 人々を見るより、恥かしげに、しほれしが、朝の雪の、日にあへる如く、

「じみじみ」

と、色、變じて、忽(たちまち)むなしく、枯(かれ)にけり。

 いかなる事とは知らねど、衆僧(しゆそう)、葬りて、跡、悃(ねんごろ)に弔とふ)。

[やぶちゃん注:このシークエンスはここまでの本書の中では、最もオリジナルティに富んだ、凄絶な場面である。

「けつらひ」「擬ひ」で「化粧して」の意。

「悃」には「真心」の意がある。]

 其後《そののち》、京より、飛脚下りて、

「かの若僧 急病をうけて 此いつの日 相果(《あひ》はて)ぬ 寮を明渡し申す」

といふ使也。

 各《おのおの》、思ひ合すれば、此頸の哭(なき)たる日、おなじ時也けり。

 後々、京にての、あらまし、聞へけるにぞ、皆人《みなひと》、舌を卷(まき)ぬ。

 一念(《いち》ねん)五百生繫念無量劫戀慕執着(《ごひやく》しやうけねんむりやうごうれんぼしうじやく[やぶちゃん注:ママ。])の報ひをうけん事、淺ましきかな。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、唐(もろこし)に吳子胥(ごししょ)といふものあり。吳王西施といふ后(きさき)にまよひ、政(まつりごと)の不ㇾ正(ただしざる)を諫(いさ)め申せしに、吳王、怒(いかつ)て、子胥が頸を討つ。吳子胥が云《いふ》、「我頸(くび)を吳の東門(とうもん)にかけよ。」と。則(すなはち)、かけぬ。其後《そののち》、吳王、越のとりこと成《なり》て、吳の東門を過(すぎ)けるに、子胥が頸、吳王のありさまを見て、笑ひけるとぞ。本朝(ほんてう)の古(いにし)へ、相馬の將門、謀叛を起しけるが、秀鄕のために討たれて、此頸、三月迄、色、不ㇾ變(へんぜず)、眼(まなこ)を不ㇾ塞(ふさがず)、「將門は米かみよりぞ切られける」とよみし歌にて、此頸、「からから」と笑ひ、眼(まなこ)をとぢ、枯死(かれじゝ)けるとぞ。猛きものゝふは、さる事も、ありなん。かたちやさしき女に、かゝる醜(おそろしき)事、又、類(たぐひ)なからんか。

[やぶちゃん注:「吳子胥」は伍子胥(?~紀元前四八四年)の誤り。私が教師時代、漢文で必ずやった好きな話である。しかし、ちょっと間違いが多い。まず、子胥は討たれたのではなく、夫差から、自害しろという意味で「屬鏤(しよくる)の劍(けん)を賜ふ」たので、「自剄(じけい)」して亡くなったのである。その最期に、彼は家人に告げて、 「必ず吾が墓に檟(か)を樹ゑよ。檟は材とすべきなり」と言う。この「檟」は棺桶に用いる木本の名であり、それは越に責められて死ぬ夫差の棺桶の材となると言うたのだ。そして「吾が目を抉(ゑぐ)りて、東門に懸けよ。 以つて越兵の吳を滅ぼすを觀(み)ん。」と言い放ったのだ。自死の直後に、この遺言を聴いた夫差は、怒髪天を衝き、命じて、子胥の「尸(しかばね)を取り、盛るに、鴟夷(しい)」(馬の皮で作った酒を入れるための袋)「を以つてし、之れを江(かう)に投」じたのだ。だから、彼の眼球は東門には、そもそも懸けられてはいないのだ。十年後、子胥の言った通り、越が呉を伐った。命乞いをしたが、許されず、夫差は、「吾れ以つて子胥を見る無し。」と呟いて、「幎冒(べきぼう)を爲(つく)りて、乃(すなは)ち死す。」(死者の顔を覆うための四角い布であるが、ここは「あの世で子胥に合わせる顔がない」から死の直前に自ら顔を覆ったのだ)と終わるのだ。]

西原未達「新御伽婢子」 古屋剛

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。

 読みの(*/*)は右/左の読み(左は意訳)を示す。]

 

      古屋剛(ふるやのかう)

 九州、或方(ある《かた》)の御内《みうち》に、赤松何某(なにがし)とかや云《いふ》勇猛(ゆうまう/はなはだたけきさふらひ)の士あり。儒窓(じゆさう/ まど)に眠(ねふる)事、良(やゝ)久(ひさしく)、義心、不ㇾ輕(かろからず)、武、また、兼備(けんび/かねそなへ)したり。

 もと、此主人、東(あづま)より爰に國替有し砌(みぎり)、御城の側(かたはら)に異やうに荒果(あれはて)て、いつ、人の住《すみ》たりとも覺えぬ、いたく朽(くち)たる屋敷あり。

 百性(ひやくしやう)[やぶちゃん注:ママ。]共を召(めし)て、問はせらるヽ。

 百性ども、申す。

「此屋敷には、化生(けしやう)、住《すみ》て、幾(いくばく)の人、屋移(《や》うつ)り在りても、一夜《ひとよ》をだに、明(あか)させ申さず。或は、迯去(にげさり)、或は、絕入(ぜつじゆ)し給ふになん、をはす。」

と申《まをす》。

「何条(なんでう)、上(かみ)より拜領し奉る所に、異(こと)ものゝ來て、主(しゆ)たらん事、あらん。赤松何某に爰《ここ》を得さす。堅(かたく)守りて、ぬしたるべし。」

と直(ぢき)に仰在《おほせあり》けり。

 赤松、

「忝《かたじけない》。」

と、御請《おうけ》申し、

『誠(まことに)、家中多きに、撰出(ゑらみだ)され、給はる事、若《もし》、化生住《すむ》事、虛僞(きよゐ/いつはり[やぶちゃん注:ママ。])ならずば、退治せよ。』

との御胸内(《きやう》ない/むね )、

「家門美目(かもんのびもく)、何(なに)が之《これ》に加(し)かん。」

と、日をかへず、直(すぐ)に屋敷に移り、其夜は、

「心だめしに。」

とて、身の出立《いでたち》、甲斐甲斐しく、太刀・鑓・長刀(なぎなた)、武器を雙(なら)べ、鉢巻し、具足櫃(《ぐそく》びつ)に腰をかけ、大蝋燭、日をあざむひて(さゝげ)、下侍(しも《ざぶらひ》)、四、五人、二列(れつ/つらなる)し、四方(よも)の咄(はなし)に、夜《よ》更(ふく)るを待(まつ)。

[やぶちゃん注:『赤松、「忝。」と、御請申し』この部分、「西村本小説全集 上巻」では、『赤松添と御請申し』となっているのだが、これでは、読みようがない。崩し字を見るに、確かに「添」の崩しに似てはいるが、意味からも、崩し方からも、これは間違いなく「忝」が正しいと断定出来る。

 既に半夜(はんや)の鐘、是生滅法(ぜしやうめつぱう)の響(ひゞき)を告(つげ)、世間、靜なるに、嵐雨(らんう/あらしあめ)、蘇鉄(そてつ)にそぼち、いとゞ物すごき比《ころ》、下侍、同時に、眠(ねふり)、きざして不ㇾ堪ㇾ忍(しのぶにたへず)、まろび寢(ね)ぬ。

 赤松は、至剛(しいかう[やぶちゃん注:ママ。])の人にて、氣を奪はれず、燈(ともしび)、猶、かゝげて、待(まつ)。

 時に、したたかなる足音して、來る物、あり。

 

Huruyanokau

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 障子を、

「くわつ」

と、あけ、

「えい。」

と云《いひ》て、座敷(ざしきへ)あがるものを見れば、其長(たけ)、天井にひとしき坊主、顏は臼(つきうす)の大きさして、眼(まなこ)、車輪のごとくなるが、赤松を、

「はた。」

と罵(にらん)[やぶちゃん注:漢字・読みともにママ。]で、立居(たちゐ)たり。

「すはや。」

と、刀をくつろげ、

『柄(つか)も、拳(こぶし)も、くだけよ。』

と、にぎつて、是《これ》も、法師を罵(にらん)で、眴事(まじろぐこと)、なし。

 暫(しばらく)有《あつ》て、法師の云《いふ》、

「天晴(あつぱれ)、男かな。今宵は更《ふけ》ぬ。明夜《みやうや》、疾(とく)まいりて、語らん。」

と、云捨(《いひ》すて)、又、もとの道を行《ゆく》に、其足音、家に響(ひゞき)て、雷(らい)のごとし。

 此時、既に、

『切付《きりつけ》なん。』

と思ひしが、

『否々(いやいや)、明夜來《きた》らんといひし所、面白し。又、いかなる異形(《い》ぎやう/ かたち)を化(け)して來らん、それを見ぬは、無念なり。』

と、靜(しづか)に侍共を動起(うごかしおこ)し、

「此在樣(ありさま)、見けるや。」

と問(とふ)。

 皆、口々に、

「何とは不ㇾ知(しらず)、庭に、物の音《おと》なひ、聞ゆと、ひとしく、一向(ひたすら)、眠(ねふり)出《いで》て、死入(しに《いる》)心ちし、何事をも、見ず。」

といふ。

 赤松、聞《きき》て、

「『明日の夜、必、來べき。』といひし程に、生(いけ)て歸しぬ。待《まち》つけて、各々(おのおの)、見よ。」

と、次の夜を、遲し、と待《まつ》。

 其夜は、早(はや)、戌(いぬ)の過《すぎ》、亥《ゐ》の初(はじめ)[やぶちゃん注:午後九時頃。]なるに、件(くだん)の足音、聞ゆると、宿直(とのゐ)の侍共、寢入事(ね《いること》)前のごとし。

 障子、明《かえ》て、いらんとする所を、すかさず、討(うた)んとしければ、法師、聲をかけて、言(いふ)、

「相構(《あひ》かまへ)て卒爾(そつじ)し給ふな。我は是《これ》、此所《このところ》の主(ぬし)として、數百歲(すひやくさい)を經(ふ)る。『此家に來《きた》る人、心、剛なるをもつて、つれづれの伽(とぎ)とせん。』と思ひ、多くの家うつりの初見(しよけん)に出《いづ》れば、我(わが)形(かたち)にをそれて[やぶちゃん注:ママ。]、絕入(ぜつじゆ)し、われかの氣色に成《なる》もあり、逃(にげ)まどひて、二度、爰に來らず。今、君が大剛なる事、千万人に勝り、向後(かうご)參り、昵語(むつまじくかた)るべし。初《はじめ》て昵近(ちかづき)のしるしに、我《わが》重寶(《ちよう》ほう)を引手物せん。」

と、刀一腰(こし)をあたふ。

 赤松、打諾(うちうなづき)、此刀をとるやいなや、拔討(ぬきうち)に切《きり》つけたり。

 手ごたへ、したゝかにして、法師は、庭に逃去(にげさり)、血は席上に紅(くれなゐ)を亂す。時に侍共を起し、燭(しよく)をかゝげ、血をしたい[やぶちゃん注:ママ。]、跡を求(もとむ)るに、一町斗《ばかり》、巽(たつみ)のかたに、藪あり。

 纔(わづか)の穴の内へ、血、流れたり。

 各《おのおの》、不審をなし、

「何樣(なにさま)、古き狸(たぬき)なるべし。ふすべよ。」

と言《いふ》こそ遲けれ。

 靑松葉をたきて、穴の中へ、あをち入るゝ。

[やぶちゃん注:「あをち」不審。「あふり」(煽り)の誤刻か。]

 暫(しばし)して、少(ちいさき)狸の、いくらともなく出《いづ》るを、突殺(つきころ)し、うちふせ、

「猶、此奧、覺束(おぼつか)なし。」

と、卽時に、弐間斗《ばかり》[やぶちゃん注:三メートル六十四センチ。]、堀(ほり)て[やぶちゃん注:ママ。]見るに、特牛(ことい)のふしたるほどの古狸(ふる《だぬき》》、深き疵(きづ)に苦しみて居(ゐ)けるを、引出《ひきいだ》して、切殺(《きり》ころ)しけり。

 扨、狸のあたへたる刀を、御前に披露するに、御家老の祕藏の名釼(めいけん)にて、刀箱(かたなばこ)に有しを、蓋(ふた)も鎖(じやう)も其儘にて、盜來(ぬすみ《きた》)るこそふしぎなれ、「あふひの刀」にて侍るとぞ。

[やぶちゃん注:「特牛(ことい)」正しい歴史的仮名遣は「ことひ」。古く「こというじ」とも言った。強健で大きな牡牛。頭の大きい牛。また、単に牡牛のこと。「こって」「こってい」等、変化した言い方が多い語である。

 以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、楠正成、㚑鬼(れいき)と成り來りて、大森彥七が名劍を奪はんとはかりしかども、取得る事、叶はざりしに、畜類の妖怪として、かゝる事をなしける、おそるべき事にこそ。

[やぶちゃん注:「楠正成、㚑鬼(れいき)と成り來りて、大森彥七が名劍を奪はんとはかりし」「太平記」由来の怪奇伝承。南北朝時代の武将。通称を彦七(ひこしち)と称した大森盛長。派生話はウィキの「大森盛長」に詳しい。盛長が楠木正成の怨霊に遭った伝説を描いた月岡芳年画「新形三十六怪撰」の「大森彦七道に怪異に逢ふ図」も見られる。「太平記」の原話の梗概は、サイト「日本伝承大鑑」の「愛媛」の「魔住ヶ窪」がよい。]

西原未達「新御伽婢子」 古蛛怪異

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。本話には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。

 読みの(*/*)は右/左の読み(左は意訳)を示す。標題の「恠異」の左にはなにもない。]

 

       古蛛恠異(こちうけ《い》/ふるきくも)

 美濃國本巢(もとず)と云《いふ》所の近邊(きんぺん)に、道の左右に、高木(かうぼく/たかきき)、生茂りたる所、あり。

「爰を夜中に通るもの、必(かならず)、死する。」

とて、暮(くれて)の後(のち)、人、敢(あへて)通路(つうろ)せず。

[やぶちゃん注:現在の岐阜県本巣(もとす)市(グーグル・マップ・データ)。]

 本巢に、牢人(らうにん)、有り、去(さる)子細あつて、武門を出《いで》、暫(しばらく)、彼(かの)在所に居(きよ)す。

 下部(しもべ)にいひ付《つけ》て、

「今宵、急用あつて、そこそこに遣(つかは)す。早く行(ゆき)て來(こ)よ。」

といふ。

 主命なれば、いなといふべきにあらず、彼地(かのち)に行(ゆく)。

 此下人、すぐれて憶病にさへ生(むま)れつきたれば、彼(かの)松原を通らん事、戰慄(みぶるひ)して、おそろし。

[やぶちゃん注:「戰慄」は「西村本小説全集 上巻」では『戦慓』と起こしてあるが、底本をよく見るに、これは「慄」であり、それでこそ、躓かないと判断した。]

『さりとて、𢌞り行(ゆけ)ば、大きなる嶮岨(けんそ/さかしきそば)を越(こえ)て、しかも二里余(よ)の費(ついへ)ありと云《いひ》、殊に、「急用あり」といふに、遲くなるべし。一期゛《いちご》[やぶちゃん注:濁点附きはママ。]の大事、爰(こゝ)にあり。』

と、思ひ思ひ、力(ちから)なく、松原にさしかゝり、足を空に、まどふ。

[やぶちゃん注:「さかしきそば」という読みは「けわしい切り立った崖」の意。]

 爰に、大きなる榎(え)の木、松に爭ひて、生出(おひ《いで》)たる、あり。

 此下を通る時、何とは不ㇾ知(しらず)、黑く、丸くて、一尺余りなる物、鑵子(くわんす)など、ひらめくやうに、榎の木より、

「つるつる」

と、おるゝ。

 星さへ出《いで》ぬ、くらき夜《よ》に、雨さへ、そぼちて、物すごく、此男、進退(しんたい/すゝみしりぞく)、爰にきはまり、彼(かの)木のかたを詠(ながむ)るに、七尺余(あまり)の女、色白きが、みどりの髮を、さばきて、眼(まなこ)もなき顏の、忽然として出來(いでき)たる。

 男、一目見るより、

「あつ。」

と、いふて、うつぶしにたふれて、死《しに》けり。

[やぶちゃん注:「死けり」言わずもがなだが、古典では広く気絶することを言う。]

 主人、下部の遲(おそく)歸るを、不思義に思ひ、外(ほか)につかふ僕(ぼく)もなければ、炬(たいまつ)取《とり》て、自(てづから)、彼(かの)道に行《ゆき》て見るに、彼男、木(こ)の下(もと)に、死《しし》てあり。

 主人、驚(おどろき)、水、そゝぎなどし、呼生(よびいけ)ければ、漸々、人心ちつきて、ありし次㐧を語る。

 召連(めしつれ)、歸らんとするに、彼(かれ)が臥(ふし)たる下に、恠(あやしき)もの、あり。

 火を、ふりたてゝ見れば、すさまじく大(おゝ[やぶちゃん注:ママ。])きにして、針のごとき毛の生(お)ひたる、蛛(くも)の死せるにて在《あり》けり。

 思ふに、是は、下部の、息を切《きつ》てはしる所を、取《とつ》て喰はんと、木よりさがる時、あやまつて、蛛に行《ゆき》あたり、其上へ打《うち》たふれたるに依(よつ)て、怪我の高名をしてんと、見ゆ。

 誠に、年來(ねんらい/としごろ)、此原(はら)に、化生(けしやう)、住(すみ)て、人を取《とる》といひし、是なるべし。

『「天晴(あつぱれ)、此蛛を、我(わが)平(たいらげ[やぶちゃん注:ママ。])たる。」と披露し、猛(たけ)き名を取《とり》、今一度(ど)、知行(ちぎやう)にも望姓(もとづ[やぶちゃん注:二字への読み。])かばや。』

と、おもひ、

『下部を生《いけ》ておかんに、此奸曲(かんきよく)、顯(あらは)るべし、所詮、切《きつ》て捨てん。』

と、心もとを、さしとをし[やぶちゃん注:ママ。]、死骸(しがい)を、深く、原上(げんじやう)に埋(うづ)み、彼《かの》蛛を引提(《ひつ》さげ)、里に歸り、所の者を寄(よせ)て、手柄を語る。

 人皆(《ひと》みな)、肝(きも)を消して、

「强力(がうりき)の人。」

と稱す。

 然るに、死《しに》ける下部、里中(さと《ちゆう》)の者の夢に、見えて、いふ。

「我、ケ樣(かやう)の事によりて、非業(ひ《ごふ》)の命を、とられぬ。不審あらば、其所(《その》ところ)の松が根を、穿(うがち)て見給へ。」

といふ。

 人々、よりて、夢を語るに、皆、ひとつことにして、露(つゆ)たがはず。

 ふしぎの思ひをなし、かの松原に行《ゆき》、見るに、實(げに)も、新(あらた)に埋(うづみ)たる、土、あり。

 ほりて見れば、下部が死骸なり。

 此故に、牢人は殺害(せつがい)せられけるとぞ。

[やぶちゃん注:作者は後半の人の心の鬼にこそ主眼をおいているように思われる。]

西原未達「新御伽婢子」 生恨

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

新御伽巻二

     生恨(いきてのうらみ)

 ある若人(わかうど)、女色にふけりて、是彼(これかれ)、いひかよはすかた、おほかるに、或時、かりそめ、傾國に泥(なづみ)てより、絕(たえ)ず、その里にかよひけり。

 わきて、わりなく思ひかたらふ女あるに、一夜もあはぬ折は、千とせを隔(へだつ)心ちし、春の日の永きには、暮を待わびて、駕僕(かぼく/のりもの おとこ[やぶちゃん注:ママ。右/左の読み。以下同じ。]をはしらしめ、夏の夜の短きには、鳥《とり》の鳴音(なくね)に、きぬぎぬの恨(うらみ)を數へて、かへり見がちの、わかれをなげき、年ごろ日ごろ、過(すぐ)る程に、女も、もとは川竹(かはたけ)のながれの身には侍れど、一夜(ひとよ)二夜の昔こそあれ、今は、さすがに、打とけて、むすびし紐を、ひとりして、あひ見る迄はの末ながく、千々の万(よろづ)の神かけて、空(そら)おそろしき誓言(ちかごと)を書(かき)、うば玉の黑髮を、切《きつ》ては、いとしき筋(すぢ)の數々(かずかず)を見せ、たらちねのゆづりし指を、そぎては、紅深(くれなゐふか)き思ひの色を送りけり。

 さるに、世の人の心の水のあすか川、かはるふちせのはやければ、浪行(なみゆく)花のよしのやま、去年(こぞ)の枝折(し《をり》)の道かえて[やぶちゃん注:ママ。]、余所(よそ)に男のかよひけり。

 女、さまざま、うらみ音(ね)の琴・三味線(さみせん)に慰(なぐさめ)ども、糸(いと)による物ならなくにと、いひしふることさへ、そひて、物がなしく、心ぼそさなん、増(まさ)りけり。

 

Ikitenourami

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここであるが、製本時に誤ったらしく、左右が逆になっている。

 

 去(され)ども、此男、ありし哀(あはれ)を思ひもかけず、妾(せう/てかけ)といふものに、心そめて、かたへ凉しき閑居(かんきよ/しづかにゐる)をしつらひ、木(こ)の下(もと)の床机(《しやう》ぎ/ゆか)に腰かけ、酒、打《うち》のみ、庭の草花を、二人、詠めて、

 塵をだにすべしとぞ思ふうへしより

  妹と我ぬるとこなつのはな

[やぶちゃん注:「ぬる」は「寢る」。]

などいふ、たんざくを付《つけ》て、たはぶれゐる折ふし、草の陰より、二尺斗《ばかり》の蛇、首(かしら)は、小指に目・口つきたるが、

「するする」

と、這出(《はひ》いで)、首のかたは、男の手に、尾の方は、女の手に、

「ひたひた」

と、まとひつき、しめ、呵責(さいなむ[やぶちゃん注:二字への読み。])事、たえがたし。

 此時、男、先非(せんぴ)を悔(くい)て、さまざま、云侘(いひわぶ)れ共《ども》、放(はなち)もやらず、次㐧《しだい》に、強(つよく)、痛むる。

 妾(せう)は、なを[やぶちゃん注:ママ。]、㒵(かほ)をも、あげず、苦(くるし)がりて、なくのみなり。

「かゝる㚑《りやう》には、佛神の力なくて、たすかる事、かたし。」

と、高僧を請(しやう)じ、「尊勝陀羅尼(そんしやうだらに)」其外、有驗(うげん)の法を修(しゆ)し、毒虫(どくむし)の禁物(きんもつ)を、かけなど、しけるにぞ、漸々(やうやう)、二十日斗の程して、蛇は解失(とけうせ)ける。

 去共(され《ども》)、其まとひたる手の跡は、くい入《いり》て、正(まさ)しく、今に殘れり。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げで、字も小さい。]

 此物がたりは、則(すなはち)、かのおとこ[やぶちゃん注:]の、「罪障懺悔(ざいしやうさんげ)のため、此卷に入《いれ》よ。」と、ありしまゝ、望(のぞみ)に任せぬ。ぬしの名も、遊女の名も、書《かき》あらはさんも、あらはなれば、やみぬ。

[やぶちゃん注:これも、所謂、共時的都市伝説で、この最後の添書によって、俄然、リアリズムを打ち出す狙いがある。当事者がこのような思いで、この怪奇談集に入れてくれと望んだとし、主人公の男の名も遊女の名も知っている、というのは、ちょっと例を見ない趣向ではある。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その4)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇は長いので、分割する。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

 

 こんな事が外國へ聞こえては、大きな國辱といふ人も有らんかなれど、そんな國辱は、どの國にもある。西洋にも人柱が多く行はれ、近頃まで、其實跡、少なくなかつたのは、上に引いたベーリング・グールド其他の民俗學者が證明する。二、三例を手當り次第列ねると、ロムルスがロ-マを創《はじ》めた時、フスツルス、キンクチリウス、二人を埋め、大石を覆ふた。カルタゴ人はフヰレニ兄弟を國界に埋めて護國神とした。西曆紀元前一一四年、羅馬が、まだ共和國の時、リキニア外二名の齋女《さいぢよ》、犯戒して男と交はり、連累、多く、罪せられた體《てい》、吾が國の江島騷動の如し。この不淨を祓はん爲め、ヴェヌス・ヴェルチコルジアの大社を立《たて》た時、希臘人二人、ゴール人二人を生埋《いきうめ》した。コルムバ尊者がスコットランドのヨナに寺を立てた時、晝間仕上げた工事を、每夜、土地の神が壞すを、防ぐとて、弟子一人(オラン尊者)を生埋にした。去《さ》れば、歐州が基督敎に化した後も、人柱は、依然、行はれたので、此敎は一神を奉ずるから、地神などは、薩張《さつぱ》りもてなくなり、人を牲に供えて[やぶちゃん注:ママ。]地神を慰めるてふ考へは、追々、人柱で土地の占領を確定し、建築を堅固にして、崩れ動かざらしむるてふ信念に變つた、とベ氏は說いた。是に於て、西洋には基督敎が行渡《ゆきわた》つてから人柱は、すぐ、跡を絕たなんだが、之を行ふ信念は變つた、と判る。思ふに、東洋でも、同樣の信念變遷が、多少、有つただらう。

[やぶちゃん注:「ロムルスがロ-マを創めた時」伝承では紀元前七五三年に初代ローマ王ロムルスが建国したとされる。

「齋女」神に仕える未婚の若い女性。本邦では「いつきめ」と訓ずる。

「江島騷動」江島生島(いくしま)騒動。江戸中期の正徳四年一月十二日(一七一四年二月二十六日)、時の第七代将軍家継の生母月光院に仕える大奥御年寄の江島(絵島とも)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者千四百名が処罰された綱紀粛正事件。江島は高遠藩お預け、生島は伊豆大島へ遠島となった。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「ゴール人」ガリア人。「ガリア」は現在のフランス・ベルギー・北イタリアなど一帯の地名で、そこに住んでいた先住民(ケルト人(=ガリGalli)が主体)を指すローマ時代の呼称。フランス語では「ゴール」(Gaule)となる。紀元前三世紀初めから前二世紀初めに、ローマ人が、その一部を征服、カエサルの遠征により、ほぼ全域がローマ領となった。

「コルムバ尊者」聖コルンバ(Saint Columba 五二一年~五九七年)はアイルランド出身の修道僧で、スコットランドや北部イングランド布教の中心となったアイオナ修道院(Monastery of Iona:以上の本文の「ヨナ」はここ)を創設した。]

 なほ、基督敎一統後も、歐州に人柱が行なわれた二、三の例を擧げれば、ヘンネベルグ舊城の壁額(レリーヴィング・アーチ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]には、重賞を受けた左官が自分の子を築《つ》き込んだ。其子を壁の内に置き、菓子を與へ、父が梯子に上り、職工を指揮し、最後の一煉瓦で穴を塞ぐと、子が泣いた。父、忽ち、自責の餘り、梯子から落ちて頭を潰した。リエベンスタイン城も同樣で、母が、人柱として、子を賣つた。壁が、段々、高く築き上げらるゝと、子が「かゝさん、まだ、見える。」、次に「かゝさん、見えにくゝなつた。」、最後に「かゝさん、もう、みえぬ。」と叫んださうだ。アイフェルの一城には、若い娘を壁に築き込み、穴一つ、あけ殘して、死ぬまで、食事を與へた。オルデンブルグのプレクス寺(無論、キリスト敎の)を立てるに、土臺、固まらず、由《よつ》て、村吏、川向ふの實婦の子を買つて、生埋にした。一六一五年(大阪落城の元和元年)、オルデンブルグのギュンテル伯は、堤防を築くに、小兒を人柱にする處へ行合《ゆきあは》せ、其子を救ひ、之を賣つた母は禁獄、買つた土方親方は、大《お》お[やぶちゃん注:ママ。]目玉、頂戴。然るに、口碑には、此伯、自身の城の土臺へ、一小兒を生埋にしたといふ。以上は、英人が、獨逸の人柱の例斗《ばか》り、書き集めた多くの内の四、五例だが、獨人の書いたのを調べたら、英、佛等の例も多からうが、餘り、面白からぬことゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、是だけにする。兎に角、歐州の方の人柱のやり方が、日本よりも、殘酷極まる。其歐人、又、其子孫たる米人が、今度の唯一の例を引いて、彼是れいはゞ、是れ、百步を以て、五十步を責《せむ》る者だ。

[やぶちゃん注:「選集」は以上で第「四」章が終わっている。

「ヘンネベルグ舊城」ドイツのハイデルベルク城(Heidelberger Schloss)。

「レリーヴィング・アーチ」relieving arch。「隠しアーチ」。ドアや窓の鴨居等にかかる力を分散させるアーチで、通常、壁に埋め込まれている。

「アイフェル」Eifel。ドイツ西部からベルギー東部にかけて広がる標高の低い山地。多くの中世の城跡があることで知られる。

「オルデンブルク (Oldenburg (Oldb))は、ドイツのニーダーザクセン州北西部に位置する代表的な都市である。

「プレクス寺」不詳。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その3)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇は長いので、分割する。

 太字は底本では傍点「◦」。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

 五月十八日薨ぜられた德川賴倫《よりみち》候は、屢《しばし》ば揮毫にてい(編輯者曰く、臥虎の二字を合せた字なれど、活字なき故、かなの儘にしておく[やぶちゃん注:「グリフウィキ」のこの字。音「テイ・ダイ」、意味は「臥す・臥せる」及び「虎の寝息」。])城倫《だいじやうりん》と署せられた。和歌山城を虎臥山竹垣域《とらふすたけがきじやう》といふ所へ、漢の名臣第五倫といふのと音が似た故のことと思ふ。そんな六《むつ》かしい字は印刷に困ると諫言せうと思ふたが、口から出なんだ。これもお虎てふ女を人柱にしたよりの山號とか、幼時、古老に聞いて面白からずと考へたによる。なほ、築城の人柱の例若干を書《かき》集めて置いたが、病人を抱へてこの稿を書く故引出《ひきだ》し得ぬ。扨、家光將軍の時、日本にあった蘭人フランシス・カロンの記に、日本の諸侯が城壁を築く時、多少の臣民が礎《いしずゑ》として壁下に敷かれんと願ひ出ることあり。自ら好んで敷殺《しきころ》された人の上に建てた壁は損ぜぬと信ずるからで、其人、許可を得て、礎の下に掘つた穴に自ら橫《よこた》はるを、重い石を下《おろ》して碎き漬さる。但し、かゝる志願者は、平素、苦役に飽き果てた奴隷だから、望みのない世に永らへてるより、死ぬが、まし、てふ料簡でするのかも知れぬ、と(一八一一年板、ピンカートン水陸旅行全集七卷六二三頁)。

[やぶちゃん注:「德川賴倫」(明治五(一八七二)年~大正一四(一九二五)年)は田安徳川家第八代当主徳川慶頼(よしより)の六男。明治一三(一八八〇)年に紀州徳川家第十四代当主徳川茂承(もちつぐ)の養子となった。学習院中等科中退。明治二九(一八九六)年にはイギリスのケンブリッジ大学に留学し、政治学を専攻、留学中には熊楠の案内で大英博物館を見学したり、熊楠の紹介で孫文と出会ったりしている。明治三十一年に二年間の留学と欧州視察を終えて帰国した。明治三九(一九〇六)年に家督を継ぎ、襲爵して貴族院議員となった。「南葵文庫」を創設、日本図書館協会総裁も務めた。心臓麻痺で死去。享年五十四。

「和歌山城を虎臥山竹垣域といふ」和歌山城の建つ山が、海上から見ると、虎が伏せたように見えることから「虎伏山」と呼ばれることに因む。

「第五倫」(だいご りん 生没年不詳)は後漢の能吏・政治家。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「家光將軍の時」在位は元和九(一六二三)年から慶安四(一六五一)年まで。

「蘭人フランシス・カロン」(François Caron 一六〇〇年~一六七三年)は江戸初期の平戸オランダ商館長。ブリュッセル生まれ。一六一九年に「オランダ東インド会社」の船に乗り、翌年、バタビアに至る。寛永三(一六二六)年、平戸オランダ商館の助手となり、以後、通訳・商務員を経て、寛永一六(一六三九)年に館長に就任(寛永一八(一六四一)年まで務めた)、ポルトガルの勢力を排除し、オランダの対日貿易独占の基礎を築いた。妻はキリシタン江口十左衛門の姉で、六子をもうけた。平戸の商館閉鎖後、離日し、バタビア執行官・台湾長官・バタビア政務総監を歴任したが、植民地行政を巡って、本国の理事会と対立、一六五一年に帰国した。一六六五年には、コルベールによって設立された「フランス東インド会社」の首席理事に就任、インドで活動したが、現地で軍人らと対立した。一六七三年、帰国の途中、リスボン湾で乗っていた船が、座礁・沈没して亡くなった。「日本大王国志」を著している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「一八一一年板、ピンカートン水陸旅行全集七卷六二三頁」スコットランドの古物学者・地図製作者・作家で、ゲルマン人種至上主義理論の初期の提唱者であったジョン・ピーンカートン(John Pinkerton 一七五八年~一八二六年)の一八〇八年から一八一四年にかけて出版された ‘General Collection of Voyages and Travels’ (「航海と旅行の総合コレクション」)か。]

 ベ-リング・グールドの「奇態な遺風」に、蒙昧の人間が數本の杭に皮を張つた小屋をそここゝ持ち步いて、暫し、假住居した時代は、建築に深く注意をせなんだが、世が進んで礎をすえ、土臺を築くとなれば、建築の方則を知ること淺きより、屢々、壁、崩れ、柱、傾くをみて、地神の不機嫌ゆえと心得、恐懼の餘り、地の幾分を占《し》め用ふる償ひに、人を牲に供へた、と。フレザーの「舊約全書の俚俗」には、英國の脫艦水夫ジャクソンが、今から八、九十年前、フィジー島で、王宮改築の際の目擊談を引き居《を》る。其は柱の底の穴に、其柱を抱かせて、人を埋め、頭はまだ地上に出て有つたので、問合《とひあは》すと、家の下に人が坐して柱をささげねば、家が永く立居《たちを》らぬと答へ、死んだ人が柱をさゝげるものかと尋ねると、人が自分の命を牲にして迄、柱をさゝげる其誠心を感じて、其人の死後は神が柱をささげくれると云ふた、と。是では、女や小兒を人柱にした譯が分らぬから、雜とベーリング・グールド說の方が一般に適用し得ると思ふ。又、フレザーは、敵城を占領する時などのマジナヒに斯《かか》る事を行なう由をも說いた。今度、宮城二重櫓下から出た骸骨を檢する人々の一讀すべき物だ。

[やぶちゃん注:『ベ-リング・グールドの「奇態な遺風」』イングランド国教会の牧師で考古学者・民俗学者・聖書学者であったセイバイン・ベアリング=グールド(Sabine Baring-Gould 一八三四年~一九二四年)の‘Curious myths of the Middle Ages’(「中世の奇妙な神話」)。一八七七年版が「Internet archive」のこちらで視認出来る

『フレザーの「舊約全書の俚俗」』「金枝篇」(The Golden Bough  一八九〇年~一九三六年)の著者として知られるイギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)の一九一八 年刊の‘Folklore in the Old Testament: Studies in Comparison Religion, Legend, and Law’(「旧約聖書の民間伝承:比較宗教学・伝説学・法律学の研究」)。

「宮城二重櫓下から出た骸骨」この論考(九月発表)の僅か二ヶ月前の大正一四(一九二五)年六月三十日附『東京朝日朝刊』第七面の『發掘された白骨は十六體 黑板博士宮城前を調査 人柱ではない――と語る』という見出しの原記事が「朝日新聞DIGITAL」のこちらで、写真と電子化したもので読める。必見。]

 國學に精通した人より、大昔し、月經や精液を日本語で何と呼んだか分からぬときく。滿足な男女に必ずある物だが、無暗に其名を呼ばなかつたのだ。支那人は太古より豚を飼ふたればこそ、家という字は屋根の下に豕と書く。アイユランドの邊地でみる如く、人と豚と雜居したとみえる。其程、支那に普通で因緣深い豕の事を、マルコ・ポロがあれだけ支那事情を詳述した中に、一言も記し居らぬ。又、是程、大きな事件はなきに、一錢二錢の出し入れを洩らさず帳付けながら、今夜、妻が孕んだらしいと書いておく人は、先づ、ないらしい。本邦の學者、今度の櫓下の白骨一件などにあふと、すぐ、書籍を調べて、書籍に見えぬから、人柱抔、全く無かつたなどいふが、是は日記にみえぬから、吾子が自分の子でないといふに近い。大抵マジナヒ事は祕密に行ふもので、人に知れるときかぬといふが、定則だ。其を鰻屋の出前の如く、今、何人、人柱に立つた抔、書付《かきつ》くべきや。こんなことは、篤學の士が普《あま》ねく遺物や傳說を探つて、書籍外より材料を集め硏究すべきである。

[やぶちゃん注:このマルコ・ポーロの話は、南方熊楠の柳田国男宛書簡の『明治四十五年三月十一日夜九時』のそれにも書かれてある。私の『南方熊楠・柳田國男往復書簡(明治四五(一九一二)年三月・三通)』を参照。

 以下の一段落は底本では全体が一字下げ。追記。]

 中堀僖庵《なかぼりきあん》の萩の栞(天明四年再板)上の十一張裏に、「いけこめの御陵《みささぎ》とは大和國藥師(寺か)の後《うしろ》にあり、何れの御時にか采女《うねめ》、御門《みかど》の御別れを歎き、生きながら籠りたる也。」。是は垂仁《すいにん》帝の世に、土偶を以て、人に代へ、殉葬を止められたに拘らず、後代までも稀れに自ら進んで生埋《いきうめ》にされた者が有つたのが、史籍に洩れて傳說に存した、と見える。所謂、殉葬の内には、御陵を堅むる爲めの人柱も有つたと察する。と、書き了《をは》りて、又、搜《さぐ》ると、明德記、既に之を記し、藥師寺の邊りに、其名を今に殘しける、池籠めの御座敷、是なるべし、とあり。其より古く、俊賴口傳集上にも、いけごめのみさゝぎとて、藥師寺の西に幾許《いくばく》ものかであり、と見ゆ。

[やぶちゃん注:「中堀僖庵の萩の栞(天明四年再板)」天明四年は一七八四年。中堀僖庵(生没年未詳)は江戸前・中期の俳人。元禄の頃、梅月堂閑酔に学ぶ。「荻(おぎ)の栞(しをり)」は俳書で享保三(一七一八)年刊。「しをり萩」とも。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の初版原本のここで視認出来る(右丁五~六行目。これで読みを補った。

「垂仁帝の世」当該ウィキに、実在したとすれば、三世紀後半から四世紀前半頃の大王と推定されるが、定かではない、とある。

「明德記」「明徳の乱」(南朝 : 元中八/明徳二(一三九一)年)を題材にした室町期の軍記物。通常は三巻。乱後、一年足らずで成立したか。「看聞御記(かんもんぎょき)」の応永二三(一四一六)年七月三日の条に、物語僧の語り物として享受されていた実態を記す。山名一族の挙兵から、没落に至る経緯を描き、世情の鎮静化を祝って結ぶ。反乱を批判し、将軍足利義満の存在を絶対視しているところから、作者は将軍側近かともされ、また、山名氏没落の哀話に時宗の僧との関わりを想定する説もある。「太平記」に次いで登場し、合戦記録化してゆく後期軍記物の分岐点に当たる佳作である(小学館「日本大百科全書」に拠った)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに読み易い慶長一九(一六一四)年の古活字本があるが、調べる気にならない。悪しからず。

「池籠めの御座敷」「いけごめのみさゝぎ」不詳。

「俊賴口傳集」歌論書「俊賴髓腦」の異名。天永四・永久元(一一一三)年成立と考えられている。

「幾許《いくばく》ものかであり」底本では「幾許ものかくあり」である。暫く「選集」のそれで示しておく。]

 又、そんな殘酷なことは、上古、蒙昧の世は知らず、二、三百年前に在つたと思はれぬ、などいふ人も多からんが、家康公、薨ずる二日前に、三池典太《みいけてんた/みいけでんた》の刀もて、罪人を試さしめ、切味、いとよし、と聞いて、自ら、二、三度、振り廻し、我、此劍で、永く子孫を護るべしと、顏色、いと、好かつたといひ、コックスの日記には、侍醫が、公は老年故、若者ほど速く病が癒らぬと答へたので、家康、大《おほい》に怒り、其身を寸斷せしめた、とある。試し切《ぎり》は、刀を人よりも尊んだ、甚だ不條理且つ不人道なことだが、百年前後迄も、まゝ行はれたらしい。なほ、木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米賃《ぐまいちん》(是は、領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英國にもやゝ似たことが十七世紀までも有つて、ペピース、自ら行つたことが其日記に出づ)、其他、確たる書史に書かねど、どうも、皆無で無かつたらしい。殘酷なことは多々ある。三代將軍薨去の節、諸候、近臣、數人、殉死したなど、虛說といひ、黑《くろ》め能はぬ。して見ると、人柱が德川氏の世に全く行はれなんだとは思はれぬ。

[やぶちゃん注:「選集」は以上で第「三」章が終わっている。以上の段落の家康の話は、前の熊楠の一考「德川家と外國醫者」で既に述べており、そちらの私の注を参照されたい。また、くどいが、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も読まれたい。江戸時代どころか、明治の初期にさえ、人柱をやっていたのだ!

「三池典太」光世(みつよ 生没年未詳)は平安末期の筑後国の刀工。「典太」「伝太」と称し、法名は元真。三池に住んでいたため、かく呼ばれた。参照した当該ウィキを見られたい。

「ペピース」不詳。

「三代將軍薨去の節、諸候、近臣、數人、殉死した」サイト「ぶらり重兵衛の歴史探訪2」の「徳川家光」のページによれば、慶安四(一六五一)年四月二十日、第三『代将軍徳川家光が死去』すると、『その後を追って家光の家臣』五『名が殉死、さらに』、『その家臣や家族が殉死した』とあり、上野公園内の現龍院墓地には、『家光の家臣』四『名と、その家臣』八『名の墓がある』とあり、『家光への殉死から』十二『年後』の寛文三(一六六三)年、『幕府は殉死を禁止』し、『その後、この風習はほぼ絶えた』とある(台東区教育委員会による説明板によるものらしい)。

「黑《くろ》め能はぬ」白眼のままで、まともな話とは思わず、噓に違いないとして、無視することを言っている。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その2)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇は長いので、分割する。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

 日本で最も名高いのは、例の「物をいふまい 物ゆた故に 父は長柄《ながら》の人柱」で、姑《しばら》く和漢三才圖會に從ふと、初めて此橋を架けた時、水神の爲に人柱を入れねば成らぬと、關を垂水村に構へて人を捕へんとす。そこへ同村の岩氏某がきて、人柱に使ふ人を袴につぎあるものときめよ、と差しいでた。所が、さういふ汝こそ袴につぎがあるでは無《ない》かと捕はれて、忽ち、人柱にせられた。其弔ひに大願寺を立てた。岩氏の娘は河内の禁野《きんや》の里に嫁したが、口は禍ひの本《もと》と、父に懲りて啞《おし》で押《おし》通した。夫は幾世死ぬよの睦言《むつごと》も聞かず、姿有つて媚《こび》なきは人形同然と飽き果《はて》て送り返す途中、交野《かたの》の辻で、雉の鳴くを聞き、射《いる》にかゝると、駕の内から、妻が、朗らかに、「物いはじ父は長柄の人柱 鳴かずば雉も射られざらまし」とよんだ。そんな美聲を持ちながら、今迄、俺獨り、浪語《らうご》させたと、憤るうちにも、大悅びで、伴返《つれかへ》り、それより、大聲、揚げて累祖《るいそ》の位牌の覆へるも、構わず、ふざけ通した慶事の紀念に、雉子塚を築き、杉を三本植えつけたのが、現存す、てな事だ。

[やぶちゃん注:「長柄」「橋」現在のそれはここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが、古代から近世に至るまで、淀川や神埼川の川筋は、現在とは、かなり異なっていたため、時代によって現在の場所とは異なる別な場所にあった。基本、現在の大阪市淀川区東三国付近と吹田市付近とを結んでいた橋と考えられているが、正確な場所については、実ははっきりしていない。

「和漢三才圖會に從ふと、……」同書では、別な条の二箇所で言及されている。一つは「巻第七十四」の「攝津」の「川邊郡」中の「大願寺」の項。所持する原本から、まず、白文で、原本通りに起こし、後に訓点を参考に訓読した。【 】は割注。原本では標題(一行目)は一字上に抜きん出る。訓読中に〔 〕は私が補ったもの。なお、この大願寺は淀川区東三国(ひがしみくに)一丁目に現存し、本堂からちょっと北の離れた独立した場所に現在の「長柄人柱碑」(グーグル・マップ・データ航空写真)が建っている。「大阪市」公式サイトのこちらに碑の写真がある。その説明では、『長柄の人柱伝説はいろいろあるが、ここでは吹田垂水に巖氏長者という者が、財産もあり、なに不自由なく暮らせる身分であったが、この恩返しに架橋に難渋していた長柄橋の人柱となったと伝えられている(大願寺縁起)。』とあった。

   *

大願寺  在長柄【號孤雲山】

本尊無量壽佛 昔初作長柄橋時沂浪費人力而不

成或曰爲水神如入人柱則可成因玆埀水村置關待

往來埀水有岩氏何某者戲言曰如有人處著袴之跨

[やぶちゃん注:「戲」は(「霍」+「戈」)であるが、異体字のつもりらしいが、こんな字体ないので、「戲」とした。後も同じ。同様の処理をしたものが、他にもあるが、煩瑣なだけなので、注を略した。]

有綴縫者捕之爲人柱則可矣而岩氏處著袴卽然也

因爲人柱乃橋成就而後爲岩氏菩提所建寺

 夫木長柄なる橋もと寺もつくる也おこさぬ家は何にたとへん

岩氏女嫁河州禁野里悔父戲言不言如啞【詳見河内下】

△按嵯峨天皇弘仁三年依勅造西生郡長柄橋

又日本紀曰仁德天皇堀高津宮北之郊原引南水以

入西海因以號其水曰堀江又將防北河之澇以築茨

田堤是時有兩𠙚之築而壞之難塞時天皇夢有神誨

之曰武藏人強頸河内人茨田連衫子二人以祭於河

伯必獲塞則覔二人而得之因以禱于河神爰強頸泣

悲之沒水而死乃其堤成焉唯衫子取全匏兩箇臨于

難塞水乃取兩箇匏投於水中請之曰河神祟之以吾

爲幣故來也必欲得我者沉是匏而不合泛則吾知眞

神親入水中若不得沉匏者自知僞神何徒亡吾身乎

於是飄風忽起引匏沉水匏轉浪上而不沈則滃滃沈

以遠流是以衫子雖不死而其堤且成也【俗云人柱之始是也蓋茨田堤河内國雖非當郡因類附于此】

   *

大願寺  長柄に在り【孤雲山と號す。】。

本尊 無量壽佛

 昔、初めて長柄の橋を作る時、沂浪(ぎらう)[やぶちゃん注:岸に寄せる波浪。]〔がため〕、人力(じんりよく)を費しても、成らず。或るひと、曰はく、

「水神(すいじん)の爲めに、如(も)し、人柱(ひとばしら)を入るれば、則ち、成るべし。」

と。玆(これ)に因りて、埀水村(たるみむら)[やぶちゃん注:現在の大阪府吹田市垂水町(たるみちょう)。ここ。]に關を置いて、往來を待てり。埀水に、岩(いは)氏何某(なにがし)といふ者、有り。戲言(たはぶれごと)に曰はく、

「如(も)し、人、有りて、著(き)る處の袴(はかま)の跨(まち)[やぶちゃん注:袴の内股に当たる箇所。]綴-縫(つぎ)有る者を〔して〕、之れを捕へて、人柱と爲せば、則ち、可ならん。」

と。而(しか)るに、岩氏が著る處の袴、卽ち、然り。因つて、人柱と爲し、乃(すなは)ち、橋、成就す。而(しか)る後(のち)、岩氏が菩提の爲め、建〔つる〕所の寺なり。

 「夫木」

    長柄なる橋もと寺もつくる也

      おこさぬ家は何にたとへん

[やぶちゃん注:「夫木和歌抄」巻三十四の「雑十六」に所収する鎌倉中期の歌人で宮廷画家でもあった藤原信実(のぶざね 生没年未詳/一説に文永二(一二六五)年没とする)。藤原定家の甥。「日文研」の「和歌データベース」で確認したところ(16400番)、下の句の「おこさぬ家は」は、「おこさぬ家を」の誤りである。]

 岩氏の女(むすめ)は河州(かしう)禁野(きんや)の里に嫁(よめい)りして、父が戲言を悔(くい)て言(ものいは)ず、啞(おし)のごとし[やぶちゃん注:所持する平凡社「東洋文庫」訳注版では、ここに原拠を「国花記」と記す。]【詳(くはし)くは、「河内下」を見よ。】。

△按ずるに、「嵯峨天皇の弘仁三年[やぶちゃん注:八一二年。]、勅に依りて、西生(にしなり)の郡(こほり)に長柄の橋を造る。」と云云(うんぬん)。又、「日本紀」に曰はく、『仁德天皇、高津宮(たかつのみや)の北の郊原(かうげん)を堀(ほ)りて[やぶちゃん注:「堀」はママ。]、南〔の〕水(みづ)を引きて、以つて西の海に入るる。因りて以つて、其の水を號して「堀江」と曰ふ。又、將に北の河の澇(らう)を防(ふせ)がんとして、以つて「茨田堤(まむたのつつみ)」を築く。是の時、兩𠙚の築(つき)有りて、而(しか)れども、之れ、壞(く)〔えて〕、塞(ふさ)ぎ難し。時に天皇、夢に、神、有りて、之れを誨(をし)へて曰はく、「武藏の人(ひと)、『強頸(こはくび)』、河内(かはち)の人、『茨田連衫子(まむたのむらぢころものこ)』、二人を以つて祭らば、河(かは)の伯(かみ)、必ず、塞(ふさ)ぐことを獲(え)ん。」と。則ち、二人を覔(もと)めて、之れを得。因りて、以つて、河の神を禱(いの)る。爰(ここ)に、強頸は之れを泣(なき)いさち[やぶちゃん注:「泣きいさつ」は「激しく泣き叫ぶ」意の古代語。]、悲(かなし)〔びて〕、水に沒して死す。乃(すなは)ち、其の堤、成れり。唯(ただ)、衫子(ころものこ)は全(おな)じ匏(ひさご)兩箇(りやうこ)を取りて、塞ぎ難き水に臨みて、乃(すなは)ち、兩箇の匏を取りて、水中に投(な)げて、之れに請ひて曰はく、「河の神、祟(たゝ)りて、吾(みづから)を以つて、幣(ぬさ)と爲(せん)〔んとする〕故(ゆゑ)、來たるなり。必ず、我を得んと欲(ほつ)さば、是(こ)の匏を沉(しづ)めて、な合-泛(うかば)しそ。則ち、吾、『眞(まこと)の神』と知りて、親(みづか)ら、水中に入らん。若(も)し、匏を沉む〔る〕ことを得ずんば、自(みづか)ら、『僞(にせ)の神』と知(し)りて、何ぞ徒(いたづら)に吾が身を亡(ほろぼ)さんや。」と。是に於いて、飄風(つむじかぜ)、忽ち、起こつて、匏を引きて、水に沉めんとす。匏、浪(なみ)の上を轉(まろ)びつゝ、而(しかれ)ども、沈まず。則ち、滃--沈(とく すみやかに うきをど)り、以つて遠く流る。是れを以つて、衫子(ころものこ)、死せずと雖も、其の堤、且(ま)た、成るなり【俗に云ふ、「人柱の始め、是れなり。」と。蓋(けだ)し、「茨田堤(まむたのつつみ)」、河内の國なり。當郡(たうこほり)に非ずと雖も、類(るゐ)に因(よ)れば、此(ここ)に附す。】。

   *

「西生(にしなり)の郡(こほり)」読みは私が附したものだが、ウィキの「西成郡」によれば(そこでは標題を「にしなりぐん」とする)、『「日本書紀」に、大阪湾の中央に南北に突き出した上町台地の東部(河内湖沿い)を「難波大郡」(なにわのおおごおり)、西部(大阪湾沿い)を「難波小郡」(なにわのこごおり)と称したことが記載されている。大郡・小郡とは大化の改新の制度で、五十戸を「里」とし三里で「小郡」、四里~三十里で「中郡」、四十里以上で「大郡」となる。つまり外海に面しているわりには西側のほうが小さな集落だった』。和銅六(七一三)年に『郡・郷の名称が公式に定められ、東部の難波大郡を東生郡(後に東成郡)、西部の難波小郡を西生郡と称するようになった。西生の「生」は「生る」に由来し、「上町台地の西側に新たに生まれた集落」という意味であった』とある。位置は引用元の地図を参照されたい。

 次に、「巻第七十五」の「交野(かたの)郡」の「三本杉雉子塚」の条を示す。

   *

三本杉雉子塚 在甲斐田與片鉾村之間

攝州垂水村岩氏女嫁于當郡禁野里而曾不言夫以

爲瘂也還送之過交野阡陌有雉鳴夫將射之女掲聲

詠歌聞于駕外

 物いはじ父はなからの橋柱なかすは誰も射られさらまし

夫聞之知不瘂喜相共歸家今有三株杉其地也長柄

橋柱仔細畧之

   *

三本杉雉子(きじ)塚 甲斐田(かひだ)と片鉾村(かたほこむら)の間[やぶちゃん注:現在のこの附近。]に在り。

攝州垂水(たるみ)村の岩氏が女(むすめ)、當郡禁野里(きんやのさと)[やぶちゃん注:現在の大阪府枚方市禁野本町附近。]に嫁(よめい)りす。而(しか)るに、曾(かつ)て言(ものい)はず。以つて、夫(をつと)、「瘂(おし)なり。」として、之れを還へし送る。交野(かたの)[やぶちゃん注:現在の大阪府交野市。]を過(よ)ぎる阡陌(ちまた)に、雉、有りて、鳴く。夫(をつと)、將に之れを射んとす。女、聲を掲(あ)げて、歌を詠ず。駕(のりもの)の外に聞(きこ)ふ[やぶちゃん注:ママ。]。

     物いはじ父はながらの橋柱なかずは雉も射られざらまし

夫、之れを聞きて、瘂ならざることを知りて、喜びて、相ひ共に、家に歸る。今に、三株の杉、有り、其の地なり。長柄(ながら)の橋柱の仔細あり〔→あれども〕、之れを畧す。

   *

この塚は現存しないようである。なお、この娘の話は、実際には父が迂闊にも、かく、言い、其の当人が惨酷にも人柱とされたことによって、心的外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorderPTSD)となり、一時的な失語症様の障害が起こったものと考える方が自然である。

 この類話が外國にも有り。埃及王ブーシーリスの世に、九年の飢饉あり、キプルス人フラシウス、每年外國生れの者一人を牲《にへ》にしたらよいと勸めたところが、自分が外國生れ故、イの一番に殺された由(スミスの希羅《ギリシアローマ》人傳神誌名彙卷一)。左傳には、賈大夫が娶《めと》つた美妻が、言はず、笑はず、雉を射取つて見せると、忽ち、物いひ、笑うた、とある(昭公二十八年)。

[やぶちゃん注:「埃及王ブーシーリスの世」ギリシア神話の人物。当該ウィキによれば、『エジプト王エパポスの娘リューシアナッサ』、『あるいはナイル川の河神ネイロスの娘アニッペーとポセイドーンの子で』、『アムピダマース』、『メリアーの父』。『ブーシーリスは残虐なエジプト王で、異国人をゼウスの生贄にしたが、ヘーラクレースに退治されたとされる』。『このブーシーリスの名は明らかにエジプトのオシーリス信仰の中心地ブシリスに由来している。エウリーピデースはサテュロス劇』「ブーシーリス」を『書いたが』、『散逸した』。『エジプトが長い間作物が実らなかったとき、キュプロスから予言者プラシオスがやって来て、毎年ゼウスに異国人を生贄にすれば作物は実ると告げた。そこでブーシーリスは』、早速、『その予言者を殺して生贄とし、毎年』、『異国人を殺してゼウスに捧げた。ヘーラクレースはヘスペリスの黄金の林檎を取りに行く冒険の』折りに、『エジプトにやって来て、ブーシーリスに捕らえられた。しかし縄を引きちぎって自由となり、ブーシーリスとアムピダマースを殺した』。『ヒュギーヌスによれば予言をしたのはピュグマリオーンの兄弟の子トラシオスで、トラシオスは予言を証明するために自ら犠牲になった』。『また』、『ブーシーリスは異国人を殺し続け、それを知ったヘーラクレースはわざと捕らわれて、ブーシーリスと神官たちを殺したという』。『シケリアのディオドーロスによれば、ブーシーリスはアトラースの娘たちヘスペリティスを手に入れようとし、海賊たちにさらわせた』。『しかし』、『ブーシーリスは異国人を生贄にしていたため』、『ヘーラクレースに殺され』、『ヘスペリティスをさらった海賊たちもヘーラクレースに退治されたという』とある。

「左傳」「春秋左氏傳」。孔子の編纂と伝えられている歴史書「春秋」(単独の文献としては現存しない)の代表的な注釈書の一つで、紀元前七〇〇年頃から約二百五十年間の魯国の歴史が書かれてある。

「賈大夫が娶つた美妻が、言はず、笑わず、雉を射取つて見せると、忽ち、物いひ、笑うた、とある」中国お得意の喩え話として昔話として挿入されてあるもの。所持する一九八九年岩波文庫刊「春秋左氏伝」下(小倉義彦訳)によれば、賈大夫は容貌が醜かったとある。

「昭公二十八年」紀元前五一四年。魯の第二十五代君主。昭公姫稠(ひちゅう)。在位は紀元前五四一年から紀元前五一〇年。

 以下の一段落は附記で、底本では全体が一字下げ。]

 攝陽群談一二に、嵯峨の弘仁三年六月、岩氏、人柱に立ったと見え、卷八に、其娘、名は光照前《てるひのまへ》、美容、世に勝れて、紅顏、朝日を嘲るばかり也、とある。今二つ、類話は、朝鮮、鳴鶴里《めいかくり》の土堤《どて》、幾度、築いても、成らず、小僧が、人柱を立てよ、とすゝめた處ろ、誰《たれ》も其人なきより、乃《すなは》ち、かの小僧を人柱に入れて成就した。ルマニア[やぶちゃん注:ママ。「選集」も同じ。]の古い唄に、大工棟梁マヌリ、或る建築に取懸《とりかか》る前夜、夢の告げに、其成就を欲せば、明朝一番に其場へ來《きた》る女を人柱にせよ、と。扨、明朝一番に來合せたは、マヌリの妻だったので、之を人柱に立てたと云ふのだ(三輪環氏傳說の朝鮮二一二頁。一八八九年板、ジョーンスとクロップのマジャール俚譚、三七七頁)。

[やぶちゃん注:「攝陽群談」江戸時代に編纂された摂津国の地誌である。全十七巻。岡田徯志(けいし)編。元禄一一(一六九八)年序(開始時)で三年後の元禄十四年完成した。江戸時代に刊行された摂津の地誌としては、記述が最も詳しく、和歌名所も多く収録されてある。巻十二のそれは、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本の当該部が視認出来る。

「卷八に、其娘、名は光照前《てるひのまへ》、美容、世に勝れて、紅顏、朝日を嘲るばかり也、とある」同前で、巻八(PDF一括版)8コマ目以下の「雉子畷(きじなはて)」の項(挿絵有り)にある。

「三輪環」(みわたまき 生没年未詳)は当時、「朝鮮平壤高等學校普通學校敎諭」であった人物。国立国会図書館デジタルコレクションで同書(大正八(一九一九)年博文館刊)が視認でき、当該話は「人柱」で、ここ

「ジョーンスとクロップのマジャール俚譚」不詳。マジャル人(ハンガリー語:magyarok)は国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族の名。]

 此程の本紙(大正十四年六月廿五日大阪每日)に、誰かが、橋や築島に、人柱はきくが、築城に人柱は聞かぬ、といふ樣に書かれたが、井林廣政氏から、曾て伊豫大洲《おほず》の城は立てる時お龜てふ女を人柱にしたので、お龜城と名づく、と聞いた。此人は大洲生れの士族なれば、虛傳でも無《なか》らう。

[やぶちゃん注:「本紙」私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』(リンク先は私のサイト版)を受けての謂いで、本決定稿は大正一四(一九二五)年九月発行の『變態心理』第十六巻第三号であるから、この謂いは本来は相応しくない。リンク先の「上」の第三段落に出る。「選集」では、冒頭が、『大正十四年六月二十五日『大阪毎日新聞』に、』となっている。但し、本篇の最後に「附記」があり、『本文は、大正十四年六月三十日と七月一日の大阪每日新聞に掲載のまゝで」ある旨の断り書きはある。

「井林廣政」不詳。

「伊豫大洲の城」四国の伊予国喜多郡大洲(現在の愛媛県大洲市大洲のここ)にあった城。当該ウィキによれば、『この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で』、元徳三/元弘元(一三三一)年の『ことであると伝わる』とあり、「伝説」の項に、『人柱伝説」』として、『川に面した高石垣の工事が難航したため、人柱を立てる事となり、籤によって「おひじ」という若い女性が選ばれ、おひじは』、『やむなく生き埋めにされ人柱となった。その後、工事は無事完了し、おひじの最期の願いにより、大洲城下に流れる川を肱川と名付け、大洲城を「比志城」とも呼んだという』とあった。名前が違うが、以下の段落で補填されてある。

 以下、底本では全体が一字下げの追記。]

 橫田傳松《よこたでんまつ》氏よりの來示に、大洲城を龜の域と呼んだのは後世で、古くは比地《ひぢ》の城と唱へた。最初、築いた時、下手《しもて》の高石垣が、幾度も崩れて、成らず、領内の美女一人を抽籤《ひきくじ》で人柱に立てるに決し、オヒヂと名づくる娘が中《あた》つて生埋《いきうめ》され、其より、崩るる事、無し。東宇和郡多田村關地《せきぢ》の池も、オセキてふ女を人柱に入れた傳說あり、と。氏は郡誌を編んだ人ときくから、特に書き付けて置く。

[やぶちゃん注:「橫田傳松」(明治一二(一八七九)年~昭和一五(一九四〇)年)の詳細事績は判らないが、愛媛県喜多郡内子町(うちこちょう)城廻(しろまわり)にあったと思われる戦国時代の城についての「曽根城史」(昭和八(一九三三)年瑞雲堂刊)や、論考「伊予の蔵川珍談」等の著作がネット上では確認出来るので、郷土史研究家であろう。

「東宇和郡多田村關地の池」現在の愛媛県西予市宇和町(うわちょう)信里(のぶさと)に「関地池」が確認出来る。]

 淸水兵三君說(高木敏雄氏の日本傳說集に載す)には、雲州松江城を堀尾氏が築く時、成功せず、每晚、其邊《そのあたり》を、美聲で唄ひ通る娘を人柱にした、今も普門院寺の傍《かたはら》を東北《とうぼく》を謠ひながら通れば、必ず、其娘、出《いで》て泣く、と。是は、其娘を弔ふた寺で、東北を謠ふ最中を捕《とら》はつたとでもいふ譯であらう。現に、予の宅の近所の邸に、大きな垂枝松《しだれまつ》あり、其下を、夜更けて八島を謠ふて通ると、幽公《いうこう》がでる。昔し、其邸の主人が、盲法師に藝させ、八島を謠ふ所を試し切りにした、其幽《いう》じるしの由、いやですぜ、いやですぜ。

[やぶちゃん注:「淸水兵三君說(高木敏雄氏の日本傳說集に載す)」「日本傳說集」はドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年:大正二~三年には、『鄕土硏究』を柳田国男とともに編集している。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した)が郷土研究社から大正二年八月に刊行した「日本傳說集 附・分類目次解說索引」のこと。「人柱傳說第二十」があり、「(ロ)源助柱」があり、『出雲國の大橋』の人柱の話が載り、最後に情報提供者を『淸水兵三君』とあるのだが、話が全く違う。不審。なお、この話は、小泉八雲も記している。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (七)・(八)』を読まれたい。

「雲州松江城を堀尾氏が築く時」ウィキの「松江城」によれば、慶長五(一六〇〇)年、「関ヶ原の戦い」で『戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、隠岐・出雲』二十四『万石を得て』、『月山富田』(がっさんとだ)『城に入城し、松江藩が成立。月山富田城は中世山城であり』、『近世城下町形成には不利であったので、運送などに有利な宍道湖と中海を結ぶ太田川の近く、末次』(すえつぐ)『城跡を城地の候補とし』、慶長一二(一六〇七)年に『末次城のあった亀田山に築城を開始』し、四年後の慶長十六年正月に、『松江城は落成し』た、とある。「松江城」公式サイトのこちらに、『築城の際、石垣に積み上げても積み上げても』、『どうしてもうまくいかない部分があったため、人柱を立てることとなった。折しも盆踊りの時期であったため、城下で盆踊り大会が催され、その中で一番美しく踊りのうまい娘が攫われ生きたまま人柱にされた。その石垣は無事に積み上げることができたが、城下で盆踊りが行われると天守が大きく揺れ動き、御城下に災いがあるとされ、いまでも松江城近くでは盆踊りは行われていない』。『松江藩の藩主が』二『代続けて改易になったのも娘の祟りだという人もいる』とある。

「東北」謡曲。三番目物。旅僧が都の東北院で梅を眺めていると、昔この梅を植えて愛でていた和泉式部の霊が現われ、当時の様子を語るもの。

「八島」謡曲。二番目物。伝世阿彌作。「平家物語」に依拠する。旅僧が讚岐国八島の浦で塩屋に一夜の宿を乞う。主(あるじ)の老漁夫は、求められるままに源平合戦のさまを語り、自分が義経の霊であると、仄めかして、姿を消す。その夜、僧の夢の中に義経の亡霊が現われ、屋島の合戦で波に流された弓を命がけで拾い上げた弓流しの有様を語り、修羅道で苦しむさまを示すというもの。]

 英國とスコットランドの境部諸州の俗信に、パウリーヌダンターは、古城砦、鐘樓、土牢等にある怪で、不斷、亞麻《あま》を打ち、石臼で麥をつく樣《やう》の音を出す。其音が例より長く、また、高く聞ゆる時、其所の主人が死又は不幸にあふ。昔し、ピクト人は、是等の建物を作つた時、土臺に人血を濺《そそ》いだから、殺された輩《やから》が形を現ずる、と。後には、人の代りに、畜類を生埋めして、寺を强固にするのが、基督敎國に行はれた。英國で犬又は豚、瑞典《スウェーデン》で綿羊《めんやう》抔で、何《いづ》れも其靈が墓場を守ると信じた(一八七九年板、ヘンダーソン北英諸州俚俗二七四頁)。甲子夜話の、大坂城内に現ずる山伏、老媼茶話《らうあうさわ》の、猪苗代城の龜姬、島原城の大女、姬路城天守の貴女等、築城の人柱に立つた女の靈が、上に引いた印度のマリー同然、所謂、ヌシと成りて、其城を鎭守した者らしい。ヌシの事は末段に述ぶる。

[やぶちゃん注:「選集」では、ここで第「二」章が終わっている。

「パウリーヌダンター」不詳。綴りも不明。以下の原本の他の箇所を見る余裕はなかった。悪しからず。

「ヘンダーソン北英諸州俚俗」イギリスのウィリアム・ヘンダーソン(William Henderson 一八一三年~一八九一年)なる人物が書いた‘Notes on the Folk-lore of the Northern Counties of England and the Borders’ (「イングランド北部の郡と国境域の民間伝承に関するノート」)。「Internet archive」の原本の当該ページはここ

「ピクト人」Picti或いはPicts。古代スコットランドにいた民族。その言語はインド=ヨーロッパ語系には属さないとされる。 pictiは「彩色された」などの意味があり、彼らが入墨の習慣をもっていたことを暗示させる。三世紀末から記録に現われ、三六七年頃から王国を形成し、ローマを攻撃した。七~八世紀に強盛を誇り、八四三年頃には、スコットランドの他部族と合し、ピクト人の王にして最初のスコットランド王とされるケネスⅠ世(ケネス・マカルピン Cináed mac Ailpín 八一〇年~八五八年)が支配権を握った(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「甲子夜話の、大坂城内に現ずる山伏」「フライング単発 甲子夜話卷之二十六 15 大阪御城代寢所の化物」。事前に電子化注しておいた。

「老媼茶話」三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した、会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ怪奇談集。私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇を電子化注してある。

「猪苗代城の龜姬」「老媼茶話巻之三 猪苗代の城化物」を参照されたい。

「島原城の大女」「老媼茶話巻之五 嶋原の城化物」。同前。

「姬路城天守の貴女」「老媼茶話巻之五 播州姫路城」。同前。知られた姫路城の女怪長壁姫(おさかべひめ)である。]

フライング単発 甲子夜話卷之二十六 15 大阪御城代寢所の化物

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用いた。]

 

26―15

或人曰《いはく》、「大阪の御城代某侯【名は不ㇾ聞りし。】、初て彼地に赴かれしとき、御城中の寢處は、前職より、誰《たれ》も寢ざる所と云傳《いひつたへ》たるを、この侯は心剛《かう》なる人にて、入城の夜、その所にねられしが、夜更《よふけ》て便所にゆかん迚《とて》、手燭《てしよく》をともし、障子をあけたれば、大男の山伏、平伏して居《ゐ》たり。侯、驚きもせず、山伏に、『手燭を持《もち》て、便所の導《みちびき》せよ。』と云はれたれば、山伏、不性《ふしやう》げに立《たち》て、案内して便所に到る。侯、中に入《いり》て良《やや》久しく居て出《いで》たるに、山伏、猶、居たるゆゑ、侯、『手水《てうづ》をかけよ。』と云はれたれば、山伏、乃《すなはち》、水をかけたり。侯、又、手燭を持《もた》せて、寢處へ還られ、夫《それ》より、快《こころよ》く臥《ふさ》れし。然るに、後《のち》、三夜《みや》の程は、同じかりしかど、夫よりは出《いで》ずなりし。」と。總じて、世の怪物も、大抵、その由る所あるものなるが、この怪は何の變化せしにや、人、その由を知らず。又、此侯は、本多大和守忠堯と云はれしの奧方、相良《さがら》氏【舍侯の息女。】、後、榮壽院と稱せし夫人の從弟にてありける。此話も、この相良氏の物語られしを、正く傳聞す。

■やぶちゃんの呟き

「本多大和守忠堯」(ほんだただとう 元文二(一七三七)年~宝暦一一(一七六一)年)は江戸中期の大名。播磨国山崎藩第四代藩主。官位は従五位下・大和守。本多政信系本多家第五代。

「奧方、相良氏【舍侯の息女。】」忠堯の正室於鷹は肥後国人吉藩第六代藩主相良長在(ながあり/ながあきら 元禄一六(一七〇三)年~元文三(一七三八)年)の娘。

2022/09/16

西原未達「新御伽婢子」 遊女猫分食 / 新御伽婢子卷之一~了

西原未達「新御伽婢子」 遊女猫分食

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

      遊女猫分食(ゆふぢよ、ねこのわけ)

 肥州の長崎は、唐舩(《たう》せん)着岸の津(つ)にて、綾羅錦繡(《りやう》らきんしう)の織物・糸類・藥種其外、種々の珍貨、來朝(らいてう)する事、年毎(としごと)に、やむ事を不ㇾ得依ㇾ之〔得ず之れに依つて〕、京・大坂・堺の商人(あきびと)、此所《ここ》に集(あつま)りて、賣買(ばいばい)をなせば、賑(にぎ)めける事、難波(なには)にもこえ、京都にも不ㇾ異〔ことならず〕。

 所の丸山といふは古へ江口・神崎(かんざき)などいふにひとしき遊女町なり。

[やぶちゃん注:「丸山」現在の長崎県長崎市丸山町及び寄合町にあった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。鎖国令によりオランダ商館と同様、寛永一八(一六四一)年に平戸の丸山から名称と一緒に移設されたもの。

「江口」現在の大阪府大阪市東淀川区南江口附近一帯。神崎川が淀川から分かれる分岐点に当たり、平安末期、当時盛んだった熊野三山・高野山・四天王寺・住吉社などの参詣には、淀川の水運に依ることが多く、江口はその行き来の要衝で、湊の宿場町として発展し、社寺参詣の貴族や往来の客をもてなす遊女が集まり、遊郭が形成されていた。江口の君と西行の問答歌でよく知られる。

「神崎」兵庫県尼崎市神崎町(かんざきちょう)附近。延暦四(七八五)年に神崎川と淀川が結ばれ、瀬戸内海方面から京に登る船舶が停泊する交通の要衝となった。次第に河口の港町として繁栄し、「天下第一の楽地」と呼ばれるようになった。遊女たちは今様など諸芸を泊り客に披露し、宴遊に興じる人々で賑わった。]

 

Nekobake

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 或(ある)夕暮、年の比《ころ》十六、七の少人《しやうにん》、衣服、いやしからず、腰刀(こしがたな)金銀をちりばめ、菰(こも)あみ笠、ふかぶかと、引《ひき》こみ、顏(かほ)ばせ、たとへなくうつくしきが、僕は、つれず、唯、独(ひとり)、見物の躰(てい)にみえて行《ゆく》。

 爰(こゝ)をたどる人、目をつけて、

「かゝるやさしき容色(ようしよく)も、世にある物にや。」

と、あやしむまでに、譽(ほめ)のゝしる折節(をりふし)、「左馬の介」とかやいへる女良(ぢよらう)、此人におもひ泥(なづみ)ければ、一筆、書(かき)て、「禿女(かふろ)」となんいへる女(め)の童(わらは)に、もたせ、つかはしける。

 若衆《わかしゆ》も、流石(さすが)、其わたり、行見(ゆきみ)る心から、いな舟(ふね)のいなにはあらず、家に入《い》つて、機關(あひかたらふ)。

 蜀錦(しよくきん)の褥(しとね)の上に、えならぬ香を、くゆるかし、櫻・海棠のふた木の花、色をならぶるさま、世にたぐふべき事、又、なし。

 其程《そのほど》に、家のあるじより、種々(しゆしゆ)の饗應、有り。

 然るに、此人、精進のあつものには目もふれず、魚鳥(ぎよてう)の、あざらけき食物(しよくもつ)を、程よりは過(すぎ)て、好みけり。

[やぶちゃん注:「あざらけき」「鮮らけき」。ここは生(なま)の魚鳥の肉を指す。刺身。]

「美童の、目ざましきふるまひかな。」

と、人、物陰より、つぶやきける。

 漸々(やうやく)、旦(あした)に及(および)、歸りなんとする時、金子、五兩を留置(とめ《おく》)に、亭主、悅び、道送りし女も、遠くしたひ、又の日を、かねごとし、あかで、別るゝ橫雲の空など、名殘(なごり)惜み、行衞《ゆくへ》しらず成《なり》けり。

[やぶちゃん注:「かねごとし」「豫言し」「兼言し」で、「かねごと」は再来・再会の約束の言葉を指す。]

 其後《そののち》、爰にかよふ事、二十度(はたゝび)斗《ばかり》、手跡、つたなからず、歌、よくうたふさま、何わに、よしありげなる人がらなれば、時々(よりより)、住家(すみか)をとふに、

「いたう、しのぶ身に侍れば、白地(あからさま)に、しらせ參らすべきにも非ず。」

など、いひて、㒵(かほ)、打《うち》あかめければ、『問ふも、うるさし。』と思《おぼ》すにこそ、

「いかに、やごとなきかたの御子《みこ》ならん。若(もし)は、御城主などの小扈從(こごしやう)といふ人なるべけん。」

と、いひあへり。

[やぶちゃん注:「何わ」「難波(なには)」。言葉に関西方言があったか、或いは、語る話がしばしばそちらの方に係わったものであったからであろう。

「小扈從」小姓に同じ。美少年を選び、しばしば同性愛の相手とされた。]

 或時、ひそかに、人を付《つけ》て、宿を見せければ、長崎の町の、ある家に入《いり》ぬ。

 其屋のあるじに逢《あひ》て、

「此家に、かうかうの御子息(《ご》しそく)や、をはする。若(もし)、又、上《かみ》がたの客人や、ある。」

と、とふ。

「思ひよらず、何事に、かく尋(たづね)給ふ。」

といふ。

「しかじかの事、侍り。」

と。

 此時、亭主、嘿然(もくぜん)として、打《うち》諾(うなづき)、

「思ひ合《あは》する事、有《あり》。此家に、年久しき猫あり。世の人、是を、『能(よく)、化(ばけ)る。』と、いへど、我、いまだ、見とがむる事、なし。必定(ひつじやう)、此猫の所爲(しよ《ゐ》)なるべし。」

と。

 聲を和《やはらげ》て、呼(よびけるに、早(はや)、此音に、風《かぜ》くふて、いづち行《ゆき》けん、不ㇾ知〔知らず〕。

[やぶちゃん注:「風くふ」「風を食(く/くら)ふ」で、「事を察知したり、感づいたりする」、多くは「悪事が露見して逃げ去る」場合などに言う近世語。]

 其あたり、狩(かり)たてゝ尋ねければ、三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル強。]斗《ばかり》隔たる人の家の、板敷(いたじき)の下に隱居(かくれゐ)て、すさまじく猛(たけ)りけるを、大勢、よつて、突殺(つきころ)しぬ。

 此事、國内(こくない)に、かくれなく、「左馬の介」は「猫のわけ」と異名(《い》みやう)し、一分(《いち》ぶん)、すたりけるとぞ。

[やぶちゃん注:「猫のわけ」「猫の分(別)(わけ)」或いは「猫の化(ば)け」か。

「一分」あれほどの人気。

 以下は、底本では全体が二字下げで、字も小さい。]

 やしなひ、かふ物には、牛馬(ぎうば)つなぎくるしむるこそ、いたましけれど、なくてかなはぬ物なれば、いかゞはせん。犬は、まもりふせぐつとめ、人にもまさりたれば、必(かならず)、あるべし。されど、家ごとにある物なれば、ことさらに求(もともめ)飼(かは)ずとも有《あり》なん。其外の鳥獸、すべて用なき物也と、かけるげにさることに侍る。ある人、猫鼠(ねうそ/ねこねづみ[やぶちゃん注:右/左の読み。ママ。]を評して云《いはく》、

「凡(およそ)、猫といふ物、先《まづ》、家の貧賤をねがふこと、備はれり。器財・調度の多くては、鼠をとるに、足場、わろし。人しげゝれば、物音、かしがましと、くるしむ。鼠は、異(こと)にして、家財・雜具、多くて、くまぐまのあるを、よろこび、米穀、つみならべて、食物のこぼれちるを、たのしむ、と。是、おのづから、冨貴をねがふ德、備はれり。」

と、いはれしは、欲、ふかく、さもしきやうなれど、さもあらんかしと、覺え侍る。飯(いゝ)をあたへ、魚肉(ぎよにく)をむさぼらせて、おそろしき物を飼(かは)んより、しかじ。鼠を安樂にすませんには、慈悲のかたなん、まさり侍らんものか。

[やぶちゃん注:「かけるげ」不詳。「缺ける氣」で「欠けていても(居なくても)問題ないと感じるような雰囲気・認識」の意か。]

2022/09/15

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その1)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇は長いので、分割する。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

     人 柱 の 話(大正十四年九月變態心理第十六卷第三號)

 

        (南方閑話にも收めたれど、一層增補したる者を爰に入る)

 

 建築、土工等を固めるため、人柱を立てる事は、今も或る蕃族に行なはれ、其傳說や古蹟は文明諸國に少なからぬ。例せば、印度の土蕃《どばん》が現時も之を行なふ由、時々、新聞にみえ、ボムパスのサンタル・パーガナス口碑集に、王が婿の强きを忌んで、畜類を供えて[やぶちゃん注:ママ。]も水が湧かぬ涸池《かれいけ》の中に乘馬のまゝ婿を立《たた》せると、流石は勇士で、水が湧いても退かず、馬の膝迄きた、吾が膝まできた、背迄きたと唄ひ乍ら、彌々《いよいよ》水に沒した、その跡を追つて、妻も亦其池に沈んだ話がある。源平盛衰記にも又、淸盛が經《きやう》の島を築く時、白馬白鞍《はくばしろくら》に童《わらは》を一人のせて人柱に入れたとあれば、乘馬の儘の人柱も有つたらしい。但し平家物語には、人柱を立てようと議したが、罪業を畏れ、一切經《いつさいぎやう》を石の面《おもて》に書いて築いたから經の島と名づけた、とある。

[やぶちゃん注:「土蕃」土着の先住民。未開の野蛮人のニュアンスを附帯するので死語とすべきレベルの単語である。

「ボムパスのサンタル・パーガナス口碑集」イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になる‘ Folklore of the Santal Parganas ’ (「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらにあるが、そこでは書誌にボディングが共著者として記してあるものの、原本(一九〇九年版)には、ボディングの名はない。

「源平盛衰記にも又、淸盛が經《きゃう》の島を築く時、白馬《はくば》白鞍《しろくら》に童《わらは》を一人のせて人柱に入れたとあれば」当該ウィキによれば、「経が島」(きょうがしま)は『日宋貿易の拠点である大輪田泊(摂津国)に交易の拡大と風雨による波浪を避ける目的で築造された人工島』で、承安三(一一七三)年竣工。『その広さは』「平家物語」に『「一里三十六町」とあることから』三十七『ヘクタールと推定されている。経ヶ島・経の島とも書く。後世、兵庫津にちなんで兵庫島とも称された』。塩槌山(しおづちやま)を『切り崩した土で海を埋め立てた。工事の際、それが難航したために迷信を信じる貴族たちが海神の怒りを鎮めるために人身御供をすることになる。一説には、平清盛は何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考えて、石の一つ一つに一切経を書いて埋め立てに使う(経石)。その後、事故などもなく』、『無事に工事が終わったため』、『お経を広げたような扇の形をしたこの島を「経が島」と呼ぶようになったとされる』。但し、『実際の工事は清盛生存中には完成せず、清盛晩年の』治承四(一一八〇)年には『近隣諸国や山陽道・南海道に対して人夫を徴用する太政官符が出され、最終的な完成は平家政権滅亡後に工事の再開を許された東大寺の重源によって』建久七(一一九六)年に『なされたとされている』。「平家物語」では、『清盛自身、死後に円實という僧によって経が島に埋葬されたと記述されている』。『現在では、度重なる地形変化等により場所が特定できずにいるが、おおよそ神戸市兵庫区の阪神高速』三『号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地であるとみられており、松王丸の石塔が伝えられている兵庫区島上町の来迎寺(築島寺)』(しまがみちょう)『周辺とする説もある』とある(後者はここ)。「源平盛衰記」の第二十六の「入道非直人附慈心坊得閻魔請事」(入道、直人(ただびと)に非ず付(つけたり)慈心坊閻魔の請(じやう)を得る事)の冒頭部。今回は、サイト版の注と差別化させるために、国立国会図書館デジタルコレクションの同和装本の書当該部のここから視認して、訓読し、カタカナをひらがなに直して電子化した。読みは一部に留め、私が漢字を正字化したり、歴史的仮名遣を訂したり、勝手に送り仮名や読みを添えた部分もある。

   *

 一年、吉社(ひよしのやしろ)へ參られけるにも、上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)、數多(あまた)、遣し、連れなどして、一の人の賀茂・春日などへ、御參詣あらんも、加程の事はあらじとぞ覺えし。社頭にして、千人の持經者(ぢきゃうしや)を請じて、供養あり。社々(やしろやしろ)に神馬(じんめ)を引(ひか)れ、色々の神寶(じんほう)を奉(たてまつ)らる。七社權現、納受(なふじゆ)して、緋玉墻(あけのたまがき)、色(いろ)を添(そへ)、一乘讀誦の音(こへ)、澄みて、和光の影も長閑(のどか)也。ゆゝしく目出(めでた)かりし事共也。

 又、福原の「經嶋(きやうたう)」、築(つ)かれたりし事、直人(ただびと)のわざとは覺えず。彼(か)の嶋をば、阿波民部大輔成良(あはのみんぶのたゆうなりよし)が承(うけたまは)つて、承安二年癸巳歲(みづのとみのとし)、築き初めたりしを、次の年、南風(なんふう)、忽ちに起つて、白浪、頻りに扣(たた)きしかば、打ち破られたりけるを、入道、倩(つらつら)、此の事を案じて、

「人力(じんりき)、及び難し。海龍王を可宥(なだ)め奉るべし。」

とて、白馬(はくば)に白鞍(しろくら)を置き、童(わらは)を、一人(ひとり)、乘せて、人柱(ひとばしら)をぞ入れられける。其の上、又、

「法施(ほつせ)を手向(たむ)け奉るべし。」

とて、石面(せきめん)に「一切經」を書寫して、其の石を以つて、築(つい)たりけり。誠に、龍神、納受(なうじゆ)有けるにや、其の後ちは、恙(つゝが)なし。さてこそ、此の島をば、「經島(きやうのたう)」とは名付けたれ。上下、往來(わうらい)の船の恐れなく、國家の御寶(みたから)、末代の規模也。唐國(たうごく)の帝王まで聞(きこ)え給つゝ、「日本輪田(にほんわだ)の平親王(へいしんわう)」と呼びて、諸(もろもろ)の珍寶を送くらる。帝皇(てうわう)へだにも參らざるに、有り難き面目(めんぼく)なりき。(以下略)

   *

「平家物語には、人柱を立てようと議したが、罪業を畏れ、一切經《いつさいぎやう》を石の面《おもて》に書いて築いたから經の島と名づけた、とある」「平家物語」巻六の「築嶋」「平家物語」巻六の清盛入道死去直後のパート。今回は同前で、所持する「新潮古典集成 平家物語 中」の本文を参考に、漢字を恣意的に正字化して示した。

   *

 葬送の夜(よ)、不思議の事ども、あまたありき。玉をみがき、金銀をちりばめ造られし西八條殿、その夜、にはかに燒けにけり。人の家の燒くるは、つねのならひなれども、いかなる者のしわざにやありけん、

「放火。」

とぞ聞えし。

 また、その夜、六波羅の南にあたつて、人ならば、二、三十人が聲して、

〽嬉(うれし)や 瀧の水

〽鳴るは 瀧の水

〽日は照りとも たえず

と拍子(ひやうし)をいだし、舞ひ、をどり、

「どつ」

と、笑ふ聲、しけり。去(い)んぬる正月、上皇、かくれさせ給ひて、天下、暗闇(くらやみ)になりぬ。わづかに一兩月をへだてて、入道相國、薨(さう)せられぬ。あやしの賤(しづ)の男(を)、賤の女(め)にいたるまで、いかでうれひざるべき。

「これは、いかさまにも、天狗の所爲(しよゐ)。」

といふ沙汰あり。平家の侍(さぶらひ)どものなかに、はやりをの[やぶちゃん注:血気にはやる。]若者ども、百餘人、笑ふ聲について、たづね行きて見ければ、院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に、この二、三年は院もわたらせ給はず、御所預りの備前前司基宗(びぜんのぜんじもとむね)といふ者あり。基宗、あひ知つたる者ども、二、三十人、夜に紛れて來たり集まり、はじめは、

「かかるをりふしに、音な、しそ。」

とて、酒を飮みけるが、次第に飮み醉(ゑ)ひて、さまざま舞ひをどりけるとかや。押し寄せて[やぶちゃん注:主語は「はやりをの若者ども」。]、酒にける者ども、一人ももらさず、三十人ばかりからめて、六波羅へ參り、前(さき)の右大將宗盛卿のおはしけるまへの坪の内にぞひつすゑたる。事の仔細をよくよくたづね聞き給ひて、

「げにもさ樣に醉ひたらん者は、切るべきにもあらず。」

とて、みな、ゆるされけり。

 人の失ぬるあとには、いかなるあやしの者も、朝夕(あさゆふ)に、磬(けい)、うち鳴らし、例時(れいじ)、懺法(せんぽふ)[やぶちゃん注:懺悔(さんげ)を行う法を指す。]讀む事は、つねのならひなれども、入道相國は死せらてのちとても、供佛、施僧のいとなみといふことも、なし。ただ、朝明けても、暮れても、いくさ合戰のはかりごとのほかは、他事、なし。

 およそは、最後の所勞のありさまこそ、うたてけれ共ども、まことには、ただ人(びと)とも覺えぬ事ども、おほかりける。日吉の社へ參り給ひしときも、他家の公卿、多く供奉(ぐぶ)して、

「籙臣(ろくしん)[やぶちゃん注:摂政・関白を指す語。]の春日の御參籠(ごさんろう)・宇治入(うぢいり)[やぶちゃん注:摂政・関白が氏平等院に就任後に初めて参入することを指す。]なんどといふとも、いかでかまさるべき。」

とぞ、人、申しける。また、何事よりも、福原の經の島、築(つ)いて、今の世にいたるまで、上下往き來(き)の船のわづらひなきこそ、めでたけれ。かの島は、去んぬる應保元年[やぶちゃん注:一一六一年。但し、改元はこの年の九月。]二月上旬に築きはじめられたりけるが、同じき八月に、にはかに、大風(おほかぜ)、吹き、大波たちて、搖(ゆ)り失ひてき。同じく三年三月下旬に、阿波の民部成能(しげよし)を奉行にて、築かせられけるが、

「人柱、たつべし。」

なんど、公卿、僉議ありしかども、

「それは、罪業なり。」

とて、石の面(おもて)に「一切經」[やぶちゃん注:「大蔵経」。但し、その一部を書いたということであろう。]を書きて、築かれたりけるゆゑにこそ、「經の島」とは名づけられけれ。

   *

 以下、「……白蟻を招き害を加ふる術ある樣にきく。」(「選集」ではここまでが、第「一」章である)までは、底本では全体が一字下げである。長いが、附記のつもりであるらしい。

 今少し印度の例を擧げると、マドラスの一砦《いちとりで》は、建築の時、娘一人を壁に築《つ》き込んだ。チユナールの一橋は何度かけても落ちたから、梵種の娘を、其地神に牲《にへ》にし、其れがマリー、乃《すなは》ち、其處《そこ》の靈と成り、凶事ある每に祭られる。カーチアワールでは、城を築《きづ》いたり、塔が傾いたり、池を掘るも、水が溜らぬ時、人を牲にした。シカンダールブール砦《とりで》を立てた時、梵種一人とズサード族の娘一人を牲にした。ボムベイのワダラ池に水が溜らなんだ時、村長の娘を牲にして水が溜つた。シヨルマット砦建立の際、一方の壁が繰返し落ちたので、或る初生の兒を生埋《いきうめ》すると、もはや、落ちなんだといふ。近頃も人口調査を行なふ每に、僻地の民は、是は橋等の人柱に立てる人を撰ぶ爲めだと騷ぎ立つ。河畔の村人は橋が架けらるゝ每に、嬰兒を人柱に取られると驚惶する(一八九六年版、クルック北印度俗宗及《および》俗卷二卷頁一七四。一九一六年版、ホワイトヘッド南印度村神誌六〇頁)。

[やぶちゃん注:以上の地名等は、私には労多くして益少なきによって調べない。後の段落でも同じとする。悪しからず。

「梵種」後のクルックの原本の“Brâhman girl”から、「カーストのバラモンの娘」の意である。

「ズサード族」不詳。

「初生の兒」新生児。

「クルック北印度俗宗及《および》俗卷二卷頁一七四」イギリス人のインド高等文官で東洋学者であったウィリアム・クルック(William Crooke 一八四八 年~一九二三年)の‘The Popular Religion and Folk-lore of Northern India’。「Internet archive」のこちらが当該部。そこで以上の地名の原綴りが判る。位置を知りたい方は、それを打ち込んで検索されたい。悪しからず。

「ホワイトヘッド南印度村神誌」イギリス国教会司教でインドに移住したヘンリー・ホワイトヘッド(Henry Whitehead 一八五三 年 ~一九四七 年:彼は著名なイギリスの数学者・哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)の兄である)の‘The Village Gods of South India’。「Internet archive」の原本のここが当該部。以上の後半の部分の原文に当たる。]

 パンジャブのシアルコット砦を築くに、東南の稜堡《りようほ》が幾度も崩れたので、占者の言に據《よ》り寡婦の獨り子の男兒を牲にした。ビルマには、マンダレイの諸門の下に人牲《ひとにへ》を埋めて守護とし、タツン砦下に一勇士の屍《かばね》を分《わか》ち埋めて、其砦を難攻不落にし、甚しきは土堤《どて》を固めん爲め、皇后を池に沈めた。一七八〇年頃タヴォイ市が創立された時、諸門を建《たつ》るに一柱每の穴に罪囚一人を入れ、上より柱を突込んだ故、四方へ鮮血が飛び散つた。其靈が、不斷、其柱の邊にさまよひ、近付く者を害するより、全市を無事にす、と信ぜられたのだ(タイラー原始人文篇二版、一卷一〇七頁。バルフォールの印度百科全書三版、四七八頁)。

[やぶちゃん注:「稜堡」城壁や要塞の内、外に向かって突き出した角(かど)張った部分、或いは、そのような形式で造られた堡塁。外敵の大砲などの火器による攻撃の死角を無くすために考案されたもので、堡塁全体は星形となる。ヨーロッパで発達した。

「タイラー原始人文篇二版、一卷一〇七頁」イギリスの人類学者で「文化人類学の父」と呼ばれる、宗教の起源に関してアニミズムを提唱したエドワード・バーネット・タイラー(Edward Burnett Tylor 一八三二年~一九一七年)が一八七一年に発表した「原始文化:神話・哲学・宗教・芸術そして習慣の発展の研究」(Primitive Culture, researches into the Development of Mythology, Philosophy, Religion, Art and Custom )。原本当該部は「Internet archive」のここ。]

「バルフォールの印度百科全書三版、四七八頁」スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India ” (一八八五年刊第三巻)の原本のここ。項目はズバり、‘SACRIFICE.’。]

 支那には、春秋時代、吳王闔閭《こうりよ》の女《むすめ》滕玉《とうぎよく》が素敵な疳癪持ちで、王が食ひ殘した魚をくれたと怒つて自殺した。王、之を痛み、大きな冢《つか》を作つて、金鼎、玉杯、銀樽等の寶と共に葬むり、又、吳の市中に白鶴《はくつる》を舞はし、萬民が觀《み》に來たところ、其男女をして鶴と共に冢の門に入らしめ、機を發して掩殺《えんさつ》した(吳越春秋二。越絕書二)。生を殺して、以て死に送る、國人、之を非とする、とあるから、無理に殉殺したのだが、多少は冢を堅固にする意も有つたらう。

[やぶちゃん注:「吳王闔閭の女滕玉が素敵な疳癪持ちで、王が食ひ殘した魚をくれたと怒つて自殺した」「臥薪嘗胆」で誰もが漢文で習った呉王夫差の父である。この話、しかし、何か隠喩があるような気がした。滕玉が食べ残しの魚を父に出されて辱められたと悲観して自殺する娘というのはイカにも「ヘン」だ。だいたい魚というのは、中国ではしばしば性的なニュアンスを含んでいるからである。調べてみたところ、図に当たった。個人サイト「石九鼎の漢詩館」の「千秋詩話 (30)」に「呉王闔盧と、その娘・滕玉  (呉越春秋)」で分析されてある。私は実は父娘の近親相姦のメタファーを考えていたのだが、そこまでは踏み込んではおられない。しかし、非常に腑に落ちた。そちらを読まれたいが、サイト主は『娘の想う人に父親・闔盧が反対の意を暗に表したの』ではなかった『か?』 『他の男に嫁がせることは』出来ない(心理的近親相姦感情)、『おまえには一生そいとげる男性は現われないのだ、この魚が半分のように』という『父親の屈折した思いが込められていたのだろうか』と述べておられるのである。是非、読まれたい。なお、「吳越春秋」の当該部が「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここで視認出来る。なお、「掩殺」は「暗殺」に同じで、「機を發す」とは「機会を見定めて急に襲う」の意ととれるものの、どうも原文の「發機以掩之殺」という文字列は見ていると、例えば、墳墓の中に巨大な石弓(「發機」には「石弓を放つ」の意がある)のようなトラップ・システムが設計されてあり、一気にそれを「機」動「発」動させて圧殺し、そのまま人柱として埋めたということを意味しているんではなかろうか? と勝手に夢想した。

 史記の滑稽列傳に見えた、魏の文侯の時、鄴《げふ》の巫《ふ》が好女《かうぢよ》を撰んで河伯《かはく》の妻として水に沈め、洪水の豫防としたは、事頗ぶる人柱に近い。ずつと後に、唐の郭子儀が河中を鎭した時、水患を止めて吳れたら自分の娘を妻に奉ると河伯に禱ると水が退いた。扨、程なく其娘が疾《やま》ひなしに死んだ。其骨で人形を作り廟に祀つた。所の者、子儀を德とし、之を祠り、河瀆親家翁、乃《すなは》ち、河神の舅《しうと》さまと名づけた。現に水に沈めずとも、水神に祀られた女は、久しからぬ内に死すると信じたのだ。又、漢の武帝は、黃河の水が瓠子《こし》の堤防を切つた時、卒、數萬人を發して、之を塞がしめたのみか、自ら臨んで白馬玉璧を堤の切れた處に置かしめたが、奏功せず。漢の王尊、東郡太守たりし時も此堤が切れた。尊自ら吏民を率ひ[やぶちゃん注:ママ。「率ゐ」が正しい。]、白馬を沈め、珪璧《けいへき》を執り、巫をして、祝し、請はしめ、自身を其堤に埋めんとした。至つて貴い白馬や玉璧を人柱代りに入れてもきかぬ故、太守自ら人柱に立たんとした。元代に、浙江蕭山の楊伯遠の妻王氏は、其夫が里正たる所の堤が切れて、何度築いても成らず、官から責めらるゝを歎き、自ら股肉《ももにく》を割《さき》て水に投げ入れると、忽ち、堤が成《なつ》たから、股堰《こえん》と名《なづ》けたとは、河伯も、よくよく、女の股《また》に、思し召しがあったのだ(琅邪代醉編《らうやだいすいへん》三三。史記河渠書《かきよしよ》。淵鑑類函三六、三四〇、四三三。大淸一統志一八○)。

[やぶちゃん注:「史記の滑稽列傳に見えた、魏の文侯の時、鄴《げふ》の巫《ふ》が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め、洪水の豫防とした」「中國哲學書電子化計劃」のここから以下を参照。かなり長い。主人公は鄴(ぎょう)の令(地方長官)であった西門豹(せいもんひょう 生没年不詳)。小学館「日本大百科全書」によれば、彼は戦国時代の魏(二二〇年~二六五年)の文侯に仕えた官僚であった。当時の鄴では、黄河の氾濫を防ぐため、黄河の神である河伯の嫁として毎年、娘を黄河に捧げる迷信的生贄の儀式が行われていたが、彼は、果敢にも、『この行事の指導者である巫(ふ)を河に投じ、これを廃止させた。その後、彼は民を徴発して』十二の渠(きょ:用水路)『を開き、田を灌漑した。当初、民衆は、この工事に不満を漏らしたが、やがて長く利益を受けることになり、この地は富裕になったという。この説話は、迷信の残る地方に対して、新しい開明的な思想や技術を握った中央の君主権力が、官僚を通じて支配や開発を推進していった当時の状況を反映するものと考えられる』とある。

「巫」シャーマン。中国古代では男性であったが、この魏の頃は既に巫女であった可能性が高いものと思われる。

「好女」見目麗しい女。

「唐の郭子儀が河中を鎭した時、水患を止めて吳れたら自分の娘を妻に奉ると河伯に禱ると水が退いた。扨、程なく其娘が疾ひなしに死んだ。其骨で人形を作り廟に祀つた。所の者、子儀を德とし、之を祠り、河瀆親家翁、乃ち、河神の舅さまと名づけた」「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の「山川典第二百三十卷」「河部紀事二」の、「旧唐書」と思われる「代宗本紀」「大曆十二年」(七七七年)の条に、「河溢」とあって(一部の漢字と記号を変更した)、

   *

乾𦠆子郭、汾陽鎮蒲、欲造浮橋、而急流毀墠。公酹酒、許以小女妻之。其夕水退、木立墠上。遂成橋、而小女尋卒、因塑廟中、人因立公祠、號爲河瀆親家翁。

   *

とあった。

「漢の武帝は、黃河の水が瓠子の堤防を切つた時、卒、數萬人を發して、之を塞がしめたのみか、自ら臨んで白馬玉璧を堤の切れた處に置かしめたが、奏功せず」薄井俊二氏の論文「古代中國の治水論の思想的考察――漢武の宣房の治水事業をめぐって――」(日本中国学会『日本中國學會報』第三十八号・一九八六年発行・PDF)の七六ページ下段五行目にこの事実があったことが(成功しなかったことは記載がない)、確認出来た。

「漢の王尊、東郡太守たりし時も此堤が切れた。尊自ら吏民を率ひ、白馬を沈め、珪璧《けいへき》を執り、巫をして、祝し、請はしめ、自身を其堤に埋めんとした。至つて貴い白馬や玉璧を人柱代りに入れてもきかぬ故、太守自ら人柱に立たんとした」後で熊楠が示す「淵鑑類函」(清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍)の「四百三十三巻」の「獸部五」「馬一」に(「漢籍リポジトリ」のここ[438-18b]以下。表記の一部を変え、推定で句読点を打った)、

   *

王尊遷東郡太守、河水盛溢、從浸瓠子金堤、老弱奔走。尊、躬率吏民、沈白馬、親執珪璧、使巫䇿祝請、以身塡金堤。因止宿堤上。

   *

とあった。「珪」は「玉」に同じ。

「元代に、浙江蕭山の楊伯遠の妻王氏は、其夫が里正たる所の堤が切れて、何度築いても成らず、官から責めらるゝを歎き、自ら股肉を割て水に投げ入れると、忽ち、堤が成たから、股堰と名けた」「維基文庫」の「古今圖書集成」のこちらの「楊伯遠妻王氏」に(影印本で起こし、電子化物を参考に記号を打った)、

   *

按、「浙江通志」、『楊伯遠妻王氏、蕭山西興人。至正間、江水爲患、伯遠爲里正、築堰不就、日受責。王氏痛之、割股投于水、沙漲堰成固、名曰股堰。』。

   *

とある。「浙江通志」は明の一五六一年刊の現在の浙江省の地歴書。後代の清・中華民国版もあるが、取り敢えず古いそれを示しておいた。

「琅邪代醉編」明代の官吏張鼎思(ちょうていし)が著した類書。校刊本は一五九七年。

「大淸一統志」清代の全支配領域について記した総合地誌。清建国(一六四四年)から約四十年後の一六八六年に着手され、一八四二年に完成した。]

 本邦にも、經の島人柱の外に、陸中の松崎村で白馬に乘つた男を人柱にし、其妻共に水死した話がある(人類學雜誌三三卷一號、伊能嘉矩君の說)。江州淺井郡の馬川は、洪水の時、白馬、現じて、往來人《わうらいびと》を惱ます。是は、本文に述べた、白馬に人を乘せ、若《もし》くは白馬を人の代りに沈めた故事が忘れられて、馬の幽靈てふ迷信ばかり殘つたと見える。其から、大夏の赫連勃々《かくれんぼつぼつ》が叱干阿利《しつかんあり》をして城を築かしめると、此者、工事は上手だが、至つて殘忍で、土を蒸して、城を築き、錐で、もみためして、一寸《ちよつと》入《はひ》れば、すぐ、其處《そこ》の擔當者を殺し、其屍を築《つ》き込んだ。かくて、築き立てた寧夏城は、鐵石ほど堅く、明の拜の亂に官軍が、三月餘り、圍んで、水攻め迄したが、内變なき間は拔けなんだ。アイユランドのバリポールトリー城をデーン人が建《たて》た時、四方から工夫を集め、日夜、休みなし、物食はずに、苦役せしめ、仆《たふ》るれば、壁上に其體をなげかけ、其上に壁を築かしめた。後ち、土民がデーン人を追拂《おひはら》ふた時、この城が最後に落ち、父子三人のみ、生きて、囚はれた。一同、ただちに殺さうと言つたが、一人、勸めて、之を助命し、其代り、アイリッシユ人が常に羨むデーン人特長の、ヘザー木《ぼく》から美酒を造る秘訣を傳へよ、と言ふた。初めは、なかなか聽き入れなんだが、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]承引して、去《さ》らば傳へよう、だが、吾れ、歸國して後ち、此事が泄《も》れたら、屹度、殺さるゝから、只今、眼前に此二子を殺せ、其上で秘訣を語らう、と述べた。變な望みだが、一向、此方《こちら》に損の行かぬ事と、其二子を殺すと、老父、「阿房共め、吾《わが》二子、年若くて、汝らに說かれて、心動き、どうやら秘訣を授けさうだから、殺させた。もはや秘訣は大丈夫、洩るゝ氣遣ひがないわい。」と大見得を切つたので、アイリツシユ人、大《おほい》に怒り、其老人を寸斷したが、造酒の秘法は今に傳はらぬさうだ。是等は、人屍を築き込むと、城が堅固だ、と明記はし居らぬが、左樣信じたればこそ、築き込んだので、其信念が堅かつたに由つて、極めてよく籠城したのだ(近江輿地誌畧八五。五雜俎四。一八五九年板、ノーツ・エンド・キーリス撰抄、一〇一頁)。

[やぶちゃん注:「陸中の松崎村で白馬に乘つた男を人柱にし、其妻共に水死した話がある(人類學雜誌三三卷一號、伊能嘉矩君の說)」これは人類学者・民俗学者伊能嘉矩(いのうかのり 慶応三(一八六七)年~大正一四(一九二五)年:明治時代に於いて逸早く人類学を学び、特に台湾原住民の研究では膨大な成果を残した。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた)の「陸中に於ける馬に就きての諸傳說及行事」。「J-Stage」のこちらPDFで原雑誌でダウン・ロード可能。その「㈥ボナリ傳說に顯はるゝ馬の犠牲」が当該記事で、『陸中上閉伊郡松崎村字矢崎』とある。現在の岩手県遠野市松崎町松崎九の「矢崎だんご」店附近に相当する(グーグル・マップ・データ)。

「大夏の赫連勃々」五胡十六国時代の夏の創建者である武烈帝赫連勃勃(かくれん ぼつぼつ 在位:四〇七年~四二五年)。匈奴の出身。

「叱干阿利」武烈帝の家臣の武将。ウィキの「赫連勃勃」によれば、四一三年、『勃勃は胡漢合わせて』十『万人を動員してオルドスの地(現在の陝西省楡林市靖辺県)に都統万城を築いた。その位置はオルドスの中心地であり、隴東や関中への進出に便利であった』。『統万の名は天下を統一し万邦を臨むという勃勃の言が元である。この都の建設は将の叱干阿利に命じた。叱干阿利は残虐な性格(錐を打って一寸以上』、『壁に食い込めば』、『その部分を築いた者を即座に殺して壁に埋めた)であったが、勃勃は叱干阿利を信任した』とある。

「デーン人」(デンマーク語:Daner)は現在のデンマーク及びスウェーデンのスコーネ地方に居住した北方系ゲルマン人(ノルマン人)の一派。現在のデンマーク人の祖先に当たり、ヴァイキング時代にイングランド及び西ヨーロッパ一帯に侵攻した(当該ウィキに拠った)。

「ヘザー木から美酒を造る」「ヘザー木」は我々日本人が「ヒース」と呼んでいるツツジ目ツツジ科エリカ属 Erica の常緑小木。嘗て、この花から採れるヘザー・ハニーはウイスキー・リキュールなどの香りづけに使われていた。

「近江輿地誌畧」享保 八(一七二三)年に、膳所藩主本多康敏(ほんだやすとし) の命を受けて藩士寒川辰清(さむかわとききよ 元禄一〇(一六九七)年〜元文四(一七三九)年)が編纂を始めた地誌。享保一九(一七三三)年に、全百一巻百冊の大著として完成した。近江国全域を対象にした初の本格的な地誌で、滋賀県地理研究の基礎文献として著名である(「滋賀県」公式サイト内のこちらに拠った)。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。「維基文庫」のこちらで当該部が電子化されて(記号と表記の一部を変更した)、

   *

寧夏城、相傳赫連勃勃所築、堅如鐵石、不可攻。近來哱拜之亂、官軍環而攻之、三月餘、至以水灌、竟不能拔、非有内變、未卽平也。史載勃勃築城時蒸土爲之、以錐刺入一寸、卽殺工人、並其骨肉築之。雖萬世之利、慘亦甚矣。近時戚將軍築薊鎭邊墻、不僇一人、期月而功就、城上層層如齒外出、可以下瞰、謂之「瓦籠成」、堅固百倍、虜終其世不敢犯、則又何必以殺僇爲也。

   *

とある。叱干阿利の名は出ないが、築城は赫連勃勃が命じたわけだから、何ら、違和感はない。

「ノーツ・エンド・キーリス」‘Notes and Queries’(『ノーツ・アンド・クエリーズ』。「報告と質問」)は南方熊楠御用達の一八四九年にイギリスで創刊された読者投稿の応答に拠ってのみで構成された学術雑誌。]

 予が在英中、親交したロバート・ダグラス男が玉篋卦《ユツヘアケ[やぶちゃん注:「選集」で補った。]》てふ占ひ書から譯した文をタイラーの原始人文篇、二板一卷一〇七頁に引いたが、「大工が家を建て初めるに、先づ、近處の地と木との神に牲を供ふべし。其家が倒れぬ樣と願はゞ、柱を立てるに、何か活きた物を下におき、其上に柱を下《おろ》す。扨、邪氣を除く爲め、斧で柱を打ちつゝ、よしよし此内に住む人々は、每《いつ》も溫かで、食事足るべし、と唱へる。」とある。之に反し、工人が家を建《たつ》るに、種々《いろいろ》と、其家と住人を、まじなひ破る法あり(遵生八牋《じゆんせいはつせん》七)。紀州西牟婁郡諸村には、大工が主人を怨み、新築の家を呪して、白蟻を招き、害を加ふる術ある樣にきく。

[やぶちゃん注:「選集」では、ここで第「一」章が終わっている。

「ロバート・ダグラス男」ロバート・ケナウェイ・ダグラス(Sir Robert Kennaway Douglas 一八三八年~一九一三年)はイギリスの中国学者。サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、『中国領事館に勤務』後、『大英博物館へ』移り、『東洋書籍部の初代部長を務め』た。『大英博物館館長フランクス卿の後見を受けてやって来た』熊楠『と出会い、その知識に瞠目したダグラスは熊楠に東洋書籍部の仕事を手伝わせ』たが、『熊楠は大英博物館内で何度ももめ事を起こし、その度にダグラスが事態の収拾に当た』ったとある。

「玉篋卦《ユツヘアケ》」《 》は「選集」のルビで補った。本書は不詳。綴りも判らぬ。

「タイラーの原始人文篇」既出既注で前と同じで、原本当該部は「Internet archive」のここ

「遵生八牋」明の高濂(こうれん)の著になる随筆。全二十巻。一五九一年自序。日常生活の修養・養生に関する万端のことが述べられ、また、歴代隠逸者百名の事跡が記されており、文人の趣味生活に関する基礎的な文献とされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

2022/09/14

西原未達「新御伽婢子」 亡者廽向誂

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した(但し、以下の「序」はベタのママとした)。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

      亡者廽向誂(まうじや、ゑかうをあつらふ)

 城刕山科の花山(くはざん)といふ所に、隱遁の僧あり。堅固の念佛者にて、六時不斷(《ろく》じふだん)の勤行、若きより、年高く成《なる》まで、怠る事、なし。其名を西月(さいげつ)といふ。

[やぶちゃん注:「山科の花山」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「六時不斷」仏語。「六時」は昼夜を六分した念仏読経の時刻を指す。晨朝(じんじょう)・日中・日没(にちもつ)・初夜・中夜・後夜(ごや)の称。その六時、則ち、一日中、絶え間なく勤行をすることを言う。

「西月」不詳。]

 或夜、晨朝(じんでう)の念佛して、首(かうべ)を傾(かたむけ)、廽向し給ふ所へ、窓の間(ひま)より、女の聲にて、

「『勸修寺(くはんじゆじ)村の妙理《めうり》』と、ゑかうして給へ。」

と明(あきらか)にいひ、去りぬ。

 ふしぎの思ひをなし、戶を開きて、其わたり、見給ふに、あへて、人の行衞(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。] )、なし。

 菟(と)もあれ、

「あつらふるまゝに、𢌞向せん。」

と、臨時の念佛、一《ひと》せめ申《まをし》て、いひしごとく、となへ終りけり。

 其朝(あした)、鉢(はち)に出《いで》て、勸修寺村に至り、知る人に尋ねて、

「此里に、かやうの戒名のある人を、しれるや。」

と問(とふ)。

 此者、聞《きき》て、

「いかにも。遠く侍らず、此向(むかひの)家、そこそこの、誰の女房、一昨日(をとゝひ)、身まかり侍るを、『妙理』と申侍る。何の爲にか、尋給ふぞ。」

といふに、西月、有《あり》しやうを語りて、僧も、俗も、奇異の思ひをなしけり。

 それより、此里、一向(ひたすら)、念佛をたうとび、野(や)に耕す男、里に柴(しば)かづく女迄、修行の志(こゝろざし)をはげましけるとぞ。

[やぶちゃん注:「勸修寺(くはんじゆじ)村」山城国山科勧修寺村(現在の京都市山科区勧修寺東北出町(かんしゅうじひがしきたでちょう:グーグル・マップ・データ)。「勧修寺」は「かじゅうじ」「かんじゅじ」とも呼ばれる。なお、ここの西念寺の開基は「勧修寺村の道徳」(生没年未詳)で、彼は蓮如上人の門弟である。]

西原未達「新御伽婢子」 火車櫻

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

       火車櫻(くはしやのさくら)

 攝刕大坂にちかき平埜(ひらの)といふ所に、或老人夫婦あり。娘二人、持てり。皆、外(ほか)に嫁(か)しけり。

 或時、此老母、いたく煩《いたはり》けるに、二人の娘、晝夜(ちうや)、つき添(そふ)て、看病する。

 日數(ひかず)經て、漸々(やうやう)、快氣の色、みえける時、娘ども、自《おの》が家に歸る。

[やぶちゃん注:「火車」「狗張子卷之六 杉田彥左衞門天狗に殺さる」の私の最後の注及びその中の私の記事リンクを参照されたい。

「平埜」現在の大阪府大阪市平野区(グーグル・マップ・データ)。]

 

Sigonoketumiyaku

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。] 

 其夜、ふたりの娘の夢に、牛頭・馬頭(ぎうとう ばとう/うしのかしら むまのかしら[やぶちゃん注:右/左の読み。])の獄卒、火車を引來《ひきいた》つて、母を取《とり》のせ、呵責(かしやく)して、つれ行(ゆく)。娘兄弟(《むすめ》はらから)、もだへ、此車を引《ひき》とゞめ、庭前の櫻の木に結(ゆひ)つければ、綱も、櫻も、燃(もえ)きれて、火車は虛空(こくう)を引歸ると見しが、忽(たちまち)、夢、覺(さめ)て、額《ひたひ》に汗し、手の内、あつく覺えける。

 兄弟ともに、おなじ夢也。

 驚(おどろき)、急(いそぎ)、親の方に行(ゆく)に、早(はや)、道迄、使(つかひ)、來たつて、

「たゞ今、老母、御果(《おん》はて)なされたる。」

といふに、肝(きも)、きえ、心、狂(きやう)ずる斗《ばかり》也。

 扨、なき骸(がら)にむかひ、面色(めんしよく)を見るに、よのつねの人にかはりて、目をいらゝけ、齒を喰しばりたる惡相、淺ましといふも余り有《あり》。

 夢に見し事、身にしみて、庭前の櫻を見るに、炎《ほのほ》に燃(もえ)て、枯凋(かれしぼみ)、つなぎたる縄目《なはめ》のあと、明らかに、くい[やぶちゃん注:ママ。]入《いり》て、殘りけるこそ、ふしぎなれ。

 今に此櫻、庭にありとぞ。

 業障懺悔(《ごふ》しやうさんげ)のため、ほりも捨(すて)ぬなるべし。

[やぶちゃん注:「業障懺悔(《ごふ》しやうさんげ)」「懺悔」は近世以前は「さんげ」と濁らない。「ざんげ」は近代以降、キリスト教が一般化して以降の読みである。

「ほりも捨(すて)ぬなるべし」「なる」は伝聞推定の助動詞。上記の理由のために、枯れてしまっているが、そのままにして、「掘り起こして捨てることも、しておらぬとのことであるらしい。」の意。]

西原未達「新御伽婢子」 死後血脉

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した(但し、以下の「序」はベタのママとした)。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

      死後血脉(しごのけつみやく)

 宮古百万返(みやこ)は、往昔(そのかみ)、法然上人のすませ給へる御寺にて、いとたうとき㚑場(れいじやう)也。上人の御弟子せいくはん坊、相續ありてより、代々の知識、念佛三昧の敎(をしへ)を、諸人に施し給ふ。

[やぶちゃん注:「血脉」在家の受戒者に仏法相承の証拠として与える系譜。「けちみやく」とも読む。

「宮古百万返」の「宮古」は「都(みやこ)」で「京の都」の意であり、「百万返」は元は「百万遍念仏」で、弥陀の名号を、七日又は十日の間に百万回唱えることを言う。古く中国の僧道綽(どうしゃく)に始まると伝えられるが、本邦の浄土宗では元弘元(一三三一)年に後醍醐天皇の勅により、知恩寺八世善阿空円が疫病退散のために行なったのが、最初とされる。単に「百万遍」とも称する。而してその発祥とされる、現在の京都市左京区田中門前町(たなかもんぜんちょう)にある浄土宗大本山である長徳山百萬遍知恩寺(グーグル・マップ・データ)。一般には単に「知恩寺」と呼ばれているが、現在の宗教法人としての正式名称は「百萬遍知恩寺」である。京都における浄土宗四ヶ本山の一つであり、毎月行われる、念仏を称えながら大念珠を繰る「百萬遍大念珠繰り」で知られる。

「せいくはん坊」法然没後の京都に於ける法然の浄土宗教団の維持に努めた勢観房源智(寿永二(一一八三)年~暦仁元(一二三九)年)。父は平重盛の子師盛とされる。]

さいつ比《ころ》、内裏災上の砌(みぎり)、寺地を田中といふ東山に移されしかども、猶、佛法、はんじやうして、老若(らうにやく)、袖をつらね、男女(なんによ)、堂内に充濤して、詣(まう)ずる事にぞ、在《あり》ける。

[やぶちゃん注:この時制は、以上の記載を閲するに、明確に直近の「さいつ比」で、「内裏」が「炎上」し、百萬遍知恩寺が「寺地を田中といふ東山に移」したという記載から、ウィキの「知恩寺」を見ると、江戸時代の寛文元(一六六一)年に『火事で焼失するが』、翌寛文二年には、第三十九世光譽萬靈(こうよまんれい)上人(本文の主人公「万㚑大和尙」である。没年を知りたかったが、見出せなかった)に『よって現在地に移転し』、二『年後の』寛文四(一六六四)年に『本堂の釈迦堂が建てられ』、『再興された』とある。さらに京都の歴史的災害データを調べると、個人のサイト内の「京都のおもな災害(天災・人災)年表」で、この寛文元年の火災について、万治四年四月二十五日(一六六一年五月二十三日)に『「万治から寛文」へ改元』(この大火災がその改元理由である)、『内裏の火災』が先立つ同年一月十五日(グレゴリオ暦一六六一年二月十四日)巳の下刻(午前十一時頃)に『公家の二条家屋敷から出火し』、『大内裏、仙洞御所を焼く。公家屋敷』百十九軒・寺院十六ヶ所、町家五百六十八軒『を焼失』とあった。さて、本書は、京で天和三(一六八三)年に刊行されたものであるから、知恩寺の再建から数えても、僅かに十九年しか経っておらず、その閉区間内が本話柄内時制ということになる。則ち、これこそ、所謂、直近で起こったとされる、京の都のホヤホヤの湯気が立つような噂話=「都市伝説」(アーバン・レジェンド)ということになるのである。私は多くの怪奇談の電子化を手掛けているが、これだけ直近の時制が正確に指定されたそれは、決して多くない特異点的同時制的怪談と言えるのである。]

其比《そのころ》、万㚑大和尙(まんれいだいおしやう)と申《まをし》て、いとたうとき上人、或夕暮、方丈の緣さきに御出有《おいであり》て、垣(かき)ほの、牽牛花(あさがほ)・南天(なてん)の葉のくまに、風の戰(そよぐ)に、折からの哀《あはれ》を覺《おぼ》しやりて、ねんず、引ならしおはしけるに、いづこともなく、藐(かたち)うるはしき女房、物かげに、すごすごと、たてる有り。思ひかけずや、

「何ものぞ。」

と問せ給ふに、苦氣(くるしげ)なる聲して、

「自(みづから)は、京三条の邊(ほとり)、わくやの何某(なにがし)と申《まをす》ものゝ娘にて侍る。上人の御血脉(《おん》けつみやく)を戴き參らせたく、詣で來り侍《はべり》。」

と、いと恥らへるさまに、いふを、上人、

「やすき程の事。」

とて、やがて、授(さづけ)給ふ。

 をし戴(いたゞき)、伏拜罷出(ふし《をがみ》まかりいで)たり。

 弟子なる僧を召(めし)て、の給ふ。

「此者(《この》もの)の風情(ふぜい)、心得ぬ所有《ところあり》。見《み》がくれに、行《ゆき》てみよ。」

と仰《おほせ》あるに、此僧、後(うしろ)につきて行(ゆく)。

 日さへ、影なく入《いり》て、物の色あひ、覺束(おぼつか)なく、暮果(くれはて)たれば、

『見もらさじ。』

と、したひ行《ゆく》に、一町余(あまり)の程して、跡、きえて、なく成りぬ。

 立歸《たちかへ》りて、

「かく。」

と申さば、御氣(《ご》き)の早き和尙にていますれば、御腹あしき事もや、

「聞(きか)ん。」

と、直(すぐ)に、かの女のいひし、わくやの何がしが所に至り、有し次第を語れば、あるじ夫婦、淚にかきくれ、

「我々、独(ひとり)の娘を、けさなん、死(しな)せ侍り。今はの時に、『知恩寺の御血脉を受(うけ)申《まをし》たき』よし、申せしを、『さりとも、今一度(《いまひと》たび)、病(やまひ)本復(ほんぶく)せん。いまいまし。』などゝ、只(たゞ)、藥(くすり)・祈(いのり)と、のみ、取《とり》まかなひ侍るほどに、あへなく、息たえ侍る。扨は、猶、死後迄も、その事を忘れやらず、御寺《みてら》に詣で侍りけるよ。」

と、なみだの内に、和尙の御《おん》かたを礼拜(らいはい)しけり。

 扨、僧を佛前にいざなひ、

「𢌞向(ゑかう)なし給はれ。」

といふに、右の手に彼(かの)血脉を持《も》て、ねふれるごとくして、往生しぬ。

 末世といへど、佛法のふしぎ、卑凡(ひぼん)のあらそふ事に、あらずかし。

[やぶちゃん注:「牽牛花(あさがほ)」サイト「日本科学未来館」の松浦麻子氏の「牽牛花をご存じですか? =七夕とあの植物のお話=」によれば、『アサガオ、別名を牽牛花(けんぎゅうか)といいます』。『昔々、中国で、ある農夫が、アサガオのタネを服用して病気が治ったので、自分の水牛を連れてアサガオのある田んぼにお礼を言いに行ったことから、「牽牛花」と呼ばれるようになったとか(牽牛とは、本来は「牛を引く」という意味です。)。日本では奈良時代に伝わってきて以来、生薬や園芸植物として親しまれてきました』。『江戸時代には、七夕の頃に咲くことも相まって、花が咲いたアサガオは「彦星(=牽牛星)」と「織姫星」が年に一度出会えたことを現しているとして、縁起の良いモノとされたとか』と記しておられる。ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil は、当該ウィキによれば、『種子は「牽牛子」(けにごし、けんごし)と呼ばれる生薬として用いられ、日本薬局方にも収録されている。中国の古医書』「名医別録」では、『牛を牽いて行き』、『交換の謝礼』を『したことが名前の由来とされている』。『粉末にして下剤や利尿剤として薬用にする』。『種子は煮ても焼いても炒っても効能があるものの』(☞)『毒性がとても強く、素人判断による服用は薦められない』。『朝顔の葉を細かに揉み、便所の糞壺に投じると』、『虫がわかなくなる。再びわくようになったら再投入する』とあることを明記しておく。有毒成分はファルビチン・コンボルブリンである。――因みに――私の家では朝顔の花が庭に植わることはない。私の母の実家は笠井という。母の父は、父の母の実の兄であるから、私の父母は従妹同士なのであり、私には色濃く笠井の血が流れている。笠井家は加賀藩の家老だったらしいが、その後裔の先祖の一人は、主命であったのか、自由意志であったか、はたまた乱心であったのかは判らぬが、脱藩して浪人となり、中部地方のどこかへ流れて行き、何でも、朝顔の植わった庭の中で切腹して果てたのだと伝えられており、笠井の家では代々邸内に朝顔を植えてはならぬという家訓がある。考えて見れば、私も小学校の時、理科の宿題で、シャーレで朝顔の発芽をさせた経験以外には朝顔の花を見たことがなかった。これは面白い禁忌の民俗伝承の一つとして、ここに場違いに注しておくだけの価値は――一種の奇談として――あろうかと思う。

「南天(なてん)」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica当該ウィキによれば、『葉は、南天葉(なんてんよう)』『または南天竹葉(なんてんちくよう)という生薬で』、『健胃、解熱、鎮咳などの作用がある。葉に含まれるシアン化水素は猛毒であるが、含有量はわずかであるため』、『危険性は殆どなく、食品の防腐に役立つ。このため、彩りも兼ねて弁当などに入れる』。『熊本県旧飽田町』(あきたまち)『(現熊本市)では、すり潰したナンテンの葉の汁を濾したものを小麦粉の生地に加えた麺料理「しるかえ」』『を作る』。『もっとも、これは薬用でなく、食あたりの「難を転ずる」というまじないの意味との説もあり』、『当初から、殺菌効果があると分かって赤飯に添えられたり、厠(手洗い)の近くに植えられたのかは定かではない』。『実は、南天実(なんてんじつ)』『または南天竹子(なんてんちくし)といい』、『実が成熟したときに、果穂ごと切り取って採取し、天日で乾燥して脱粒する』。各種の生薬成分が含まれているが、『鎮咳作用をもつドメスチンは、温血動物に対して多量に摂取すると、大脳、呼吸中枢の麻痺作用があり、知覚や運動神経にも強い麻痺を引き起こすため』、『素人が安易に試すのは危険である』とある。私は毒性のあるものは、必ず注することを節としている。悪しからず。

「ねんず」「念珠」。

「藐(かたち)」一見、「貌」の異体字かと見紛うが、これは誤字である。本字は「貌」とは全くの別字で、意味は「蔑(さげす)む・軽んじる・蔑(ないがし)ろにする」の他、「遙か・遠い」の意味しかない。

「京三条」二条城の南の、この東西(グーグル・マップ・データ)。

「わくや」漢字表記不詳。「涌谷」「和久屋」か。

の何某(なにがし)と申《まをす》ものゝ娘にて侍る。上人の御血脉(《おん》けつみやく)を戴き參らせたく、詣で來り侍《はべり》。」

「一町」百九メートル。

「御氣(《ご》き)の早き」一般には「怒りっぽい」ことを言う。

「御腹あしき事もや」何か、理由は判らないけれど、腹に据えかねた印象でもあったものか。

「いまいまし」「忌々し」で、「縁起が悪いことだ」「不吉ではないか」の意。

「佛法のふしぎ、卑凡(ひぼん)のあらそふ事に、あらずかし」「仏法の大慈大悲の神妙なる不可思議は、貴賤や賢愚の違いなど、ないものなのである。人智を超えて、広大にして無辺なのものなのである。」。]

2022/09/13

西原未達「新御伽婢子」 髑髏言

 

[やぶちゃん注: 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した(但し、以下の「序」はベタのママとした)。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。漢文脈部分がある場合は、白文で示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

     髑髏言(どくろ、ものいふ)

 摂刕丸橋(まるばし)といふ所に、大欲不道の男あり。

 隣鄕《りんがう》に「賴母子(たのもし)」といふ事をむすび置(おき)て、或時、そこに行《ゆき》ぬ。

[やぶちゃん注:「摂刕丸橋」現在の大阪府高槻市芝生町のこの附近か(グーグル・マップ・データ)。

「賴母子」「賴母子講(たのもしかう)」。近代以前にあった金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、籤(くじ)や入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったところで解散するもの。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行した。「無尽講」とも言う。]

 其道に、墓所、あり。

 爰を通る時、後(うしろ)の𧞓(もすそ)に、何やらん、重くかゝれる物、あり。

 ねぢむきて見れば、ひとつの髑髏(されたるかうべ)、着物に喰(くひ)つきたり。

 蹴(け)はなして行《ゆか》んとするに、此首(かうべ)、聲を出《いだ》して、男を呼歸(よびかへ)す。

 恠(あやし)ながら、

「何ぞ。」

と問(とふ)。

「我は、其昔、我殿(わとの)に厚恩(こうおん)を蒙(かふふり)し者也。『いかにもして、一世の内に、此恩を報はん。』と思ひしに、無常の世の習ひ、不幸にして身まかり侍る。今はのきは迄、其事のみ忘れざる一念によつて、」『君、若(もし)、此墓所(むしよ)を通り給はゞ。』と待し社(こそ)、久しけれ。我がいふ所を信じ給はゞ、大分(《だい》ぶん)、冨貴(ふつき)に成《なり》給ふ事を敎參《をしへまひら》せん。聞《きき》給はんや。」

と。

 男、恠怖(あやしくおそろし)ながら、「冨(とめん)」といふに、嬉しく、事請(ことうけ)しぬ。

 首(かうべ)のいふ、

「今夜、隣在(りんざい)の『賴母敷《たのもし》』に行《ゆき》給はゞ、其座にて、『唯今、路(みち)にて、古き髑髏の言(ものいふ)を聞(きゝ)し。』と申されんに、座中、動(どよみ)、笑ひて、誠に信ずる人、あらじ。『否(いや)、我、行《ゆき》て、ものをいはせて聞《きか》すべし。』とあらんに、猶、强《しひ》て、『僞(いつはり)。』とすべし。我(が)をつのりて、いはん時、多分、「かけ錄(ろく)」にならん。あひかまへて、少分(しやうぶん)のかけにし給ふな。『身代一跡(しんだい《いつ》せき)。』と定《さだめ》らるべし。其上、相違なき證文を書《かき》かはして後《のち》、爰に來り給へ。我、かくのごとく、ものをいふべし。然《しから》ば、其座に在《あり》あふものゝ、一跡を取給はん。かくてこそ、我が年來(ねんらい)の妄執は、はるけぬべけれ。さるにても、『髑髏(どくろ)の、ものをいふ事、有べき事にあらず。若(もし)狐狸(こり/きつねたぬき[やぶちゃん注:右/左の読み。])の諷掌(たぶらかす[やぶちゃん注:二字への読み。])にや。』と疑(うたがひ)給ふ事、有べし。昔、慈惠大師(じゑ《だいし》)の白骨(《はつ》こつ)の首(かうべ)、女人に「法花經」を敎へ給ひし事、有《あり》。小埜小町(おのの《こまち》)が「秋風の吹《ふく》につけてもあなめあなめ」と歌の上《かみ》の句をつらねしためし、世もつて傳へ知る所也。必《かならず》、つよくいひ募(つのり)て、此德をつぎ給へ。」

と、念比(ねんごろ)に敎へければ、男、甚(はなはだ)喜び、後《のち》を契りて、別れ行《ゆく》。

[やぶちゃん注:「かけ錄」「賭祿」が正しい。物を賭けて勝負すること。

「」平安時代の天台僧で第十八代天台座主で比叡山延暦寺の中興の祖として知られる良源(延喜一二(九一二)年~永観三(九八五)年)の諡号。は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の「元三大師」(がんざんだいし)の名で知られる。ここに出る話は、「撰集抄」の巻二の「第六 奥州平泉の郡(こほり)の女人、「法華經を授かる事(十四)」による。「大日本仏教全書」所収のものでは、「〔十四〕慈惠(じゑ)大師白骨の首(かうべ)女人に『法花』を授くる事」となっている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを見られたい。]

 扨、彼(かの)座に至れば、此物、かたりを仕出(しいだ)すに、案のごとく、一座、笑ひに成《なり》て止(やま)んとす。

 男、いきまき、せき切《きつ》て、

「各《おのおの》、愚癡文盲(ぐちもん《まう》)の心より、物のふしぎを知(しら)ぬ也。我、まざまざと、詞(ことば)を、かはし侍るを、垣破(かきやぶり)に、いひさくる、人の心の虛(うつけ)さよ。」

と、惡口(あくこう)して、氣をたてさするに、各、嗔(いかり)て、

「然らば、慥成《たしかなる》「かけ錄」を究(きは)めて、聞《きき》にまからん。」

といふ。

 男、

『嗄(すは)哉《や》、思ふ圖(づ)にのつたり。』

と、よろこび、家屋敷・諸具・田苑(でんゑん)に至る迄、相互(《あひ》たがひ)にかけに入《いれ》て、證據(しやうこ)の堅狀(《けんじやう》/かたき[やぶちゃん注:左のそれは「堅」のみの読み。])、取《とり》かはし、座中を卒《ひきゐ》て、此墓に、おもむく。

 

Syarekoube
  

 

 件(くだん)の首あり。

 男、立よりて、

「我、今、爰に來りぬ。いかにも聲を發して言(ものいへ)。」

と、いふに、此首(かうべ)、更(さらに)、音、なし。

 相手の衆中(しゆぢう)、動(どよ)めきて、嘲(あざけ)り、笑(わらふ)事、暫(しば)し。

 男、此時、赤面して、彼(かの)首を押動(《をし》うご)かし、後(うしろ)にまはり、前により、さまざま、いひ含(ふくむ)れども、更に其《その》甲斐なく、猶、人中(にちう)の大笑ひになる。

 かくて、大勢、罵(のゝしり)て、

「此者の所帶を請《うけ》とらん。」

といふ。

 種々(しゆしゆ)に侘(わび)るといへ共、人々に惡口しつ、日比(ひごろ)も、人の惡(にくんずる)者なりければ、堪忍を、くはへず。

 妻子に、漸々(やうやう)、襤褸(つゞり)一重づゝを、ゆるして、追出し、田地(でんぢ)・山・畑(はた)、悉く、わかち取《とり》ぬ。

 男、瞋噫(しんい)を焦(もや)して、又、彼《かの》墓所(むしよ)に行《ゆき》て、首に、いふ、

「我、汝に約せし事あり。なんぞ、多勢をつれて爰に來《き》し時、一言(《ひと》おと)を出さゞる。古く聞置《ききおき》し事、有《あり》。人、惡趣に落《おち》て、苦しみ多き中にも、閣王にいとまを申せば、罪の輕重によつて、一日片時(《いちじつ》へんし)のいとまをつかはし、娑婆に歸《かへ》し給ふとかや。始(はじめ)、片時の間(ひま)を得て、我に言葉をかはしけるか。又、呵責(かしやく)の時、來つて、冥路に歸りたる跡へ、人々を、ぐして來る物なるべし。然《しから》ば、又、爰に歸る時、有《ある》べし。其期《ご》を示してたうびよ。此者どもの疑(うたがひ)をも晴(はら)し、我(わが)奪(うばゝれ)し家財を、とり戾し、しかも、相手の所帶を、多く、我が物になさん時、其方《そのはう》の跡をも、懇(ねんごろ)に弔(とひ)て、得さすべし。」

と、淚に成《なり》て、かきくどく時に、首、又、聲を出して、いふ、

「我、昨日、名を隱して、名のらず。只、『若干(そこばく)の恩を請《こひ》たるもの也。』と斗《ばかり》いひしを、いかゞ心得たるや。汝、一生、造惡の罪をのみつみて、芥子(けし)斗《ばかり》も、何の慈悲をか、なせるや。我は、往昔(そのかみ)、此丸橋の里におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、有德冨祐(うとく《ふいう》)の者なりしを、汝が父と、汝として、非道の猛惡を構(かまへ)て、我《わが》一跡(《いつ》せき)を諒取(かすめとり)、身の彳(たゝずみ)もならず、所をさへ、追失《おひうしな》はれし内山新三郞、我也。其恨み、骨髓に透《とほつ》て、飮食(いんしい[やぶちゃん注:ママ。])を斷(たち)て、此墳前(ふんぜん)に縊死(くびれしゝ)たり。今、此時、至(いたつ)て思ひのまゝに報(むくひ)し事、妄念、はれて、嬉しや。」

と、笑噱(あざわらふ)聲なり。

 男、是を聞(きけ)ども、己(おのれ)が惡も悔(くい)ず、猶、腹立(はらたち)嗔(いかり)て、大きなる石を取て、彼首を打碎(うちくだく)。

 去共(され《ども》)、一滴の血も流れず、痛(いたむ)けしきもなくて、やみぬ。

 誠に、死後に宛(あだ)を報(むくい)し事、おそろしき恨《うらみ》には在《あり》けり。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げで、字も小さい。]

 唐(もろこし)の昔、眉間尺(みけんじやく)といひしものゝ頸(くび)、七日七夜、釜に煮られて、此頸、爛(たゞれ)ず。口より、劍の先を吹出《ふきいだ》し、恨《うらみ》を死後に報(むくい)し。本朝の昔、相州三浦の荒次郞義意(よしもと)が、北条の爲に討たれて、此頸、三とせ、死せず、小田原久埜(くの)の總世寺(さうせいじ)の禪師(ぜんじ)、此頸にむかひて、

  うつゝとも夢ともしらぬ一ねふりうき世のひまを明ほのゝ空

と、よみて、手向給ふにぞ、肉、くちて、死せると也。かりにも、惡行をいとひて、善事にはすゝむべき事、とぞ。

[やぶちゃん注:「西村本小説全集 上巻」では、評言の「小田原久埜の總世寺の禪師」「禪」を『弾』と活字化しているのには、この髑髏ではないが――呆れてものが言えなかった。上下巻で二万五千円もした本が、この――為体(ていたらく)――だ!

「眉間尺」私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)』、及び、『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その2)』の本文と私の注を参照されたい。

「三浦の荒次郞義意」(明応五(一四九六)年~永正一三(一五一六)年)は戦国時代の武将にして相模三浦氏最後の当主。荒次郎は通称。官途名は弾正少弼。当該ウィキによれば、『三浦義同』(よしあつ)『の嫡男』。『父から相模国三崎城(新井城とも。現在の神奈川県三浦市)を与えられ』、永正七(一五一〇)年頃、『家督を譲られる。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏や上杉朝良に従って』、『北条早雲と戦』ったが、永正一〇(一五一三)年『頃には岡崎城(現在の伊勢原市)・住吉城(現在の逗子市)を後北条氏によって奪われ』てしまい、『三浦半島に押し込められた』。『父と共に三崎城に籠って』三『年近くにわたって籠城戦を継続するが、遂に三崎城は落城、父』『義同の切腹を見届けた後』、『敵中に突撃して討ち取られたと言う。これによって三浦氏は滅亡し、北条氏による相模平定が完了する事になる』。三浦浄心の「北条五代記」には、背丈は七尺五寸(二メートル二十七センチ)と『伝え、最期の合戦で身につけた甲冑は鉄の厚さが』二分(六センチ)もあり、『白樫の丸太を』一丈二寸(三メートル六十四センチ)に『筒切りにしたものを八角に削り、それに節金』(ふしがね)『を通した棒(金砕棒)をもって戦い、逃げる者を追い詰め』、『兜の頭上を打つと』、微塵に『砕けて』、『胴に達し、横に払うと』、『一振りで』五人や十人が『押し潰され、棒に当たって死んだものは』五百『余名になった。敵が居なくなると、自ら首をかき切って死んだ、と記されている』。但し、「北条五代記」より『前に成立したと推測されている』「北条記」には、『そのような記述はなく、永正』一五(一五一八)年七月十一日、父『義同や家臣たちと共に討死した、と記されている』とある。

「小田原久埜の總世寺」神奈川県小田原市久野(くの)にある曹洞宗阿育王山総世寺(グーグル・マップ・データ)。]

西原未達「新御伽婢子」 蟇㚑

 

[やぶちゃん注: 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。漢文脈部分がある場合は、白文で示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

      蟇㚑(ひきの《りやう》)

 伊勢の桑名の町に有得なる人の子、六つになれる歲、前栽(せんざい)の花畠(はなばた)に出《いで》て、遊び居(ゐ)けるが、草の葉陰に、蟇の居けるを、捕(とらへ)て、石にのせて、同し石を持《も》て打ひしぐ。

 傍(かたへ)に妻蟇(めかへる)あつて、是を見、苦しき聲を出《いだ》し、鳴悶(なきもだゆる)事、喧(かまびす)しく、其聲、方壱町(はう《いつちやう》)[やぶちゃん注:百九メートル九センチ四方。]に響(ひゞき)渡りし。去共(され《ども》)、此《この》児(こ)、斯(かゝる)哀(あはれ)を思ひもしらず、終に、たゝき殺し、捨(すて)けり。

 是を見て、妻蟇も、忽(たちまち)、所を去らず、鳴死(なきしゝ)けり。

 乳母も、そひ侍りしが、情(なさけ)しらぬ者にや在劔《ありけん》、助救(たすけすくふ)事もなかりし。

 其後《そののち》、此兒、門(かど)の外に出て、友に交り、遊び居けるが、俄(にはか)に戰慄(わなわなとふるひ)て、驚(おどろき)、なき入《いり》けるを、かきいだき、内に入るゝに、喚叫(うめきさけび)、泡を吹《ふき》、汗を流し、さまざま、苦(くるしみ)けるを、父母(たらちね[やぶちゃん注:二字への読み。])、悲(かなしみ)、老醫(らうい)・鍼醫(しんい)を招(まねき)、療するに、效(かう/しるし)もなく、半時(はん斗《ばかり》して、悶絕(もだへしゝ)けり。其《その》病腦(びやうなう)の枕もとに、大き成《なる》蟇、二つ、幻(うつゝ)のごとく跪(つくばふ)て居けるを、そこに行《ゆき》し醫師の、正に見けるよし、物がたりせられし。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 凡(およそ)、蟇は、ひとつの靈蟲にて、物の妖恠《えうくわい》をふせぐにも、蟇目(ひきめ)といふ物をならす時、おそれて、退去す。わきて、聲のすぐれたる事、宮(キウ)・商(シヤウ)・角(カク)・徵(チ)・羽(ウ)の五音《ごいん》にもこえ、十二調子(てうし)にもはづれ、音樂、糸竹(しちく)にも、のらぬ物とぞ。方一町に、ひゞきたる事、さも有べし。昔、少《わかき》沙彌(さみ)が蟻(あり)の河水(かすい)におぼれて死なんとせしを、すくひ助(たすけ)たるに、定業《ぢやうがふ》の命(いのち)のびたるは、此童子に、雲泥のちがひ、あり。助る迄こそ、なからめ。非業《ひごふ》の命をとらぬ迄の心、大人《おとな》は、自(みづから)も辨(わきま)へ、小児《こども》には、おしへしらしめん事也かし。

[やぶちゃん注:「西村本小説全集 上巻」では、評言の最後の一文中の「非業」を「兆業」と活字化しているが、先行する底本の本巻中の「非」の字は、ここの崩しと、全く同じである。

「蟇」博物誌は「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」の私の注を参照されたい。

「蟇目」朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったもの。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。

「宮(キウ)・商(シヤウ)・角(カク)・徵(チ)・羽(ウ)の五音」「ごおん」とも読み、「五聲」(ごせい)とも言う。中国由来の音楽理論用語。一オクターブ内の五つの音からなる音列(五音音階)のこと。下から順に宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)と呼ぶ。徴の半音下の変徴(へんち)、宮の半音下の変宮(へんきゅう)を加えたものは「七声」と呼ぶ。各音の相対的な音程関係は、西洋音楽での「ド・レ・ミ・ソ・ラ」に等しい。日本の古代及び中世の音楽理論では、中国の理論で言うところの「五声」を「呂(ろ)の五声」とし、そのほかに「律の五声」を設け、その場合の音程関係は「ソ・ラ・ド・レ・ミ」に等しくなるとした。近世以降の音楽種目では、理論上の五声の各音の名称は、音程関係を示す階名としてよりも、音階中の順位を示す語として使用されるようになった(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「少沙彌が蟻の河水におぼれて死なんとせしを、すくひ助たるに、定業の命のびたる」「比喩経」に記されている説話。未だ僅かに八歳の若き修行僧の寿命が七日しかないことを師は知っていた。少年僧は「両親が淋しがっているので、里帰りをして、八日後に戻ってきます。」と師に告げて暇乞いした。八日後に彼は戻ってきたが、至って元気であった。驚いた師が、それとなく話を聴くと、里からの途次、大雨が降り出し、そこあった蟻の巣に雨水が流れ込みそうになっていたのを見て、彼は急いで雨水を土で塞ぎ、一千匹以上の蟻の命を救ったことが、彼の寿命を八十歳まで伸ばしたというもの。]

西原未達「新御伽婢子」 化女髷

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した(但し、以下の「序」はベタのママとした)。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。漢文脈部分は白文で示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。

 挿絵はない。なお、本篇については、始動ページの冒頭の私の注に引用を参照されたい。]

 

     化女髻(けぢよのもとゞり)

 

 武刕淺草の邊に、甲良(かうら)の何某(なにがし)とかやいふ人、在《あり》けり。

 一年、江城(こうじやう)の民家、燒失する事、有《あり》。

 甲良の何某も爲ㇾ之〔之れが爲に〕、住宅、一時の煙(けふり)となれり。其跡に、假屋(かりや)をしつらひ、暫(しばし)の居(きよ)とす。

 其家來、太田三郞右卫門(《おほ》だ《うゑもん》)といふ者、幼少より螢雪のもとに、文學を好み、詩に眠(ねふり)、書(しよ)に倦(うむ)で、いを、やすく、寢ず。

 或《ある》雪の夜、杜子美(としび)が七言律詩に、稍(やゝ)味はふ事ありて、卷臺(けんだい)に膝を容(いれ)て、夜、既に、いたう、更(ふく)る冬の月の影、冷(すさま)じく障子にうつるまゝ、そのかたを見やりたるに、色、うす靑き女房の、黑齒(かね)くろく付《つけ》たる其顏の、大き成《なる》事、たとへば、車輪のごとく、其長(たけ)、亭々(ていてい)たる深山木(みやまぎ)にひとしきが、太田にむかひ、

「莞爾(につこ)」

と笑ひて、立てり。

 尋常の心に見ば、其儘(《その》まゝ)も絕(たえ)ぬべきを、太田、元來、文武兼備の侍(さふらひ)やはか、少《すこし》も、猶豫《いうよす》べき、

「すは。」

と、拔《ぬい》て、切付《きりつく》る。

 𢶉(てごたへ)して、女は、消(きえ)ぬ。

 此《この》太刀風《たちかぜ》に、燈(ともしび)、消《きえ》て、闇し。

 下人を呼(よび)て、火を乞(こふ)に、いたく寢つきて出《いで》ず

 遽(あはたゞしく)、起(おこす)にぞ、漸々(やうやう)、火を挑來(かゝげく)る。

「かうかうの事、あり。」

と、下人に聞(きか)せ、主從、血をしたひて、跡を尋《たづぬ》るに、其行方(ゆきかた)、なし。

 滴(したゝ)る血の中に、女の髮の、いとうつくしく結(ゆひ)たるを、もとゆひながら、一ふさ、切落(《きり》おと)し在《あり》ける。

 いかなるものゝ、變化(へんげ)と、しらず。

 此黑髮は、年月經ても、かはる色なく、失(うす)る事もなく、正(まさ)に人間(にんげん)の髮なりけり、とぞ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げで、字も小さい。]

 「昔、三崎の何がしとかやいへる武家女郞《ぢやらう》の、此やしきに住(すみ)わびて、軒、かたぶき、門(かど)、むぐらに生(おひ)とぢられける人の、世にも人にも捨られて、恨死(うらみじに)にし給ひしが、それより、恠(あや)しき女のかたち、雨の夜、あらしの夕《ゆふべ》は、あらはるゝ。」

と、古き人の物がたりせられし。此たぐひなるべきや。

西原未達「新御伽婢子」 始動 /序・「男自慢」

 

[やぶちゃん注:「新御伽婢子(しんおとぎぼうこ)」は浮世草子時代に入って間もない、天和三(一六八三)年に刊行された怪異小説集で、京の本屋で俳人で浮世草子作家の初代西村市郎右衛門(?~元禄九(一六九六)年?)著になる。彼は宝暦二(一六七四)・三年から天明年間(一七八一年~一七八九)年まで続いた、俳書・各種小説類・実用本を板行した書肆の初代であった。名は久重、号は未達(みたつ)、嘯松子(しょうしょうし)など。市郎右衛門は代々の称である。「誹家大系図」によれば、元は山岡元隣門と記される俳諧師でもあったが、特に書肆版元と作家を兼ねた人物として著名である。江戸の西村半兵衛(同姓であるが縁戚かどうかは不明)と共同で、蕉門初期から其角編を中心とする俳書を、多数、出版した。天和から貞享年間(一六八一年~一六八八年)には井原西鶴を意識した「宗祇諸国物語」(ブログの独立カテゴリで古くに全電子化注済み)や「諸国心中女」など、所謂、「西村本」と呼ばれる一連の浮世草子を書き、西鶴作品の人気に対抗しようとしたが、結果的には質的には及ばなかった。刊行書には、近松門左衛門の弟岡本一抱(いっぽう 承応三(一六五四)年~享保元(一七一六)年)の医学書や、立花(りっか)書・料理本などの実用書が多く、江戸町人層をも読者層として意識した活動を行った(事績部は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

 本書は全六巻六冊(内題では標題を「新御伽」と略称)。挿絵は江戸の菱川師宣と並び称された京の絵師吉田半兵衛(生没年未詳:名は定吉。貞享から宝永(一六八四年~一七一一年)頃に上方で浮世草子などに挿絵を描いた。「好色訓蒙図彙」や西鶴の「好色五人女」などの挿絵が特に注目される)で、寛文六(一六六六)年に板行された浅井了意の名作「御伽婢子」(ブログの独立カテゴリで全電子化注済み)に倣ったものである。但し、以下に示す「西村本小説全集 上巻」の解題によれば、『御伽婢子」が中国小説の翻案であったのに対し、これは日本各地の民話を集めてい』る点で特徴があるとし、『この書は享保十二年(一七二七)「御伽大黒の槌」として解題再版されているので、「雨月物語」の上田秋成もこの作にヒントを得たのではないかと思われる節がある』とされ、『たとえば、「化女髻(けじよのもとどり)」(巻一)の妖怪の髻のみが残っていたというのは「吉備津の釜」に、「髑髏言(どくろものいふ)」(巻一)』「人喰老婆』(ひとくひうば)は『「青頭巾」に、「生恨(いきてのうらみ)」(巻二)「蛇身往生」(巻六)の蛇が男に取りつくのは「蛇性の淫」にというように、共通した部分が発見される』とされ、更に『井原西鶴の「西鶴諸国咄」に先立つこと二年前』で、『西鶴も』、『この作に刺戟を受けたのであろうか』と記されてある点でも、本書は後代の怪奇談集に与えた影響力は看過出来ないどころか、甚だ興味深いと言えるのである(なお、「青頭巾」は私の偏愛する作品で、サイト版で雨月物語 青頭巾(原文)、私の現代語訳及び私の高校教師時代のオリジナル授業ノートを公開している)。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した(但し、以下の「序」はベタのママとした)。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。漢文脈部分は白文で示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

新御伽婢子序

『よき人は、あやしき事を、かたらず。』といへど、予がごときの愚(おろか)なるは、其たぐい[やぶちゃん注:ママ。]には、あらじ。近(ちかく)、宮古(みやこ)に見、遠(とほく)、鄙(ひな)に聞(きゝ)し世のふしぎの、哀《あはれ》にも、おそろしくも、すせうにも、あやにも、覺えしさまざまを、反古(ほうご)の端(はし)にしるして、わかくより、集(あつめ)侍る高麗(こま)、もろこしの、はるかなるさかひは、いたらざれば、しらず、此國の事にも、昔の物がたりあるは、ちかくても、草子(さうし)・物がたりなんどにあらはし、とゞめたるきはゝ、是を殘しぬ。心に品(しな)をわかたずといへども、自(おのづから)、神祇・釋敎・戀・述懷・無常・妖恠(ようくわい[やぶちゃん注:ママ、])・雜詞(ざつし)の、又なく、めづらなるなど、纂(あつめ)、記(き)す。部を立《たて》んも、其《その》要なければ、思ひ出《いづ》るにまかせて、つゞけたるのみ。且(かつ)、實名(じつめう[やぶちゃん注:ママ。])、假(け)名のたゞしきを聞知(きゝしり)侍るも、憚(はゞかり)あるかたは、是を、はぶきて、いはず。事は、たゞしくて、もとより、其名を知らざるは、しらずとして、さし置《おく》もあり。國所《くにどころ》は、其里に至りて、聞《きき》得たるもおほく、そこら、すみこし人の語るたぐひも、しげし。言葉、愚《おろか》に、筆、いやしければ、希有(けう)におかしきあらましも、思ふ斗《ばかり》得つゞけ侍らねば、興あるかたは、失(うせ)なむ。命(いのち)きゆるほどの、おどろおどろしきいきほひも、其《その》けぢめ、白地(あからさま)にわけ兼(かね)たれは[やぶちゃん注:ママ。]、耳おどろかすゆへ[やぶちゃん注:ママ。]よしもなけれど、我にひとしき癡人(ちにん)のために、わくらはに、邪(じや)を、いとひ、正(しやう)におもむかんよすがにも、成《なり》なんかし、と梓(し)にちりばめて、世に行(おこなふ)名をとなへて「新御伽」と、しかいふ。

 

  天和三年

   無射良辰日       洛下寓居書

 

[やぶちゃん注:「よき人は、あやしき事を、かたらず。」知られた「論語」の「述而」篇の孔子の言葉。「子、不語怪力亂神」(子、怪・力(りよく)・亂・神を語らず)。「力」は「腕力・暴力沙汰・武勇」、「亂」は「醜聞・乱倫・背徳」、「神」は「超自然の人智で説明出来ない霊的現象」。

「宮古(みやこ)」「都」。京都。

「すせうにも」意味不明。以下との対から形容動詞であろうが、ぴんとくるものがない。「すずろにも」(漫ろにも)で「度が過ぎていて」「思いがけず・不意に」「心が落ち着かず」などの意がこの文脈には合うとは思ったが、判らぬ。

「あやにも」「奇(あや)にも」。「なんとも不思議で、言い表わしようがない」。

「すみこし」「住み來し」。

「得つゞけ侍らねば」「得」は不可能の呼応の副詞「え」に当て字したものに過ぎない。

「わくらはに」「わくらは」は「邂逅(わくらば:後世には「わくらは」とも)で、形容動詞。「まれに・偶然に・たまたま」の意。

 以下、全巻目録が載るが、それは最後に電子化する。]

 

 

 

新御伽巻一

    男自慢《をことじまん》

 或《ある》公卿の御内《みうち》に侍りて、おさなきより、詩歌のもてあそびに馴《なれ》つかふまつりし若人(わかうど)、有り。額(ひたひの)、圓(まど)なるより、形、たぐひなくて、若上達部(わかかんだちめ)・宮女(きうぢよ)なんど、品(しな)かはりたる戀草(こひぐさ)の、目に見、音に聞《きく》限り、筆のすさみの、事しげく、筑波山・はやま・しげ山の奧を尋ねて、十重二十重《とへはたへ》の閨(ねや)に忍び、鐘(かね)を恨み、橫雲(よこぐも)をねたみ、かきくどき、独寢(ひとりね)の床(とこ)の浦風になびかぬ煙(けふり)の、胸をやく、とかこち來(く)る。なれど、色深き心にて、大かたの思ひには、露の情をも、ゆるさず、盛の花の春を送り、錦をかざす秋を暮して、徒(いたづら)に年月を重ねけり。

[やぶちゃん注:「筑波山・はやま・しげ山の奧を尋ねて」「新古今和歌集」の巻第十一「戀歌一」の「題しらず」の源重之の一首(一〇一三番)、

 筑波山(つくばやま)

  端山(はやま)茂山(しげやま)

    しげけれど

   思ひ入るにはさはらざりけり

である。「端山」「はやま」は里に近い低くて奥深くない独立峰の小山。「しげけれど」これは繁茂する意に、人の目が「繁けれど」、多いの意を掛けたもの。「さはら」は「障ら」で、「私の恋する強い思いがあればこそ、何の障害にもなりはしないよ」の意。何のこれは男女の歌垣である風俗歌「筑波山」の、

 筑波山は山しげ山茂きをぞや

  誰(た)が子も通(かよ)ふな

 下(した)に通へ

       わがつまは下に

の本歌取り。この「下に」は「秘かに」の意。]

 二十歲(はたとせ)になれる年の、菖(あやめ)月初(はじめ)の日にや、「賀茂のくらべ馬の足揃(あしぞろへ)」とて、人、上(かみ)ざまにのヽしり行《ゆく》。

[やぶちゃん注:「菖(あやめ)月」五月の異称。

「賀茂のくらべ馬の足揃(あしぞろへ)」は京の賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ=上賀茂神社)の年中行事の一つである陰暦五月五日(現在は六月五日)に行なわれる馬術競技「賀茂競馬(かものくらべうま)」(左右十人ずつに分かれて勝負を競うもので、寛治七(一〇九三)年に始まり、天下太平・五穀成就を祈るためとされる。「賀茂の神事」「賀茂のけいば」とも呼ぶ)に先だって(現行では五月一日)、実際に参加する馬を走らせ、その組み合わせを決める儀式を言う。

「上(かみ)ざま」ここは都の北方の意であろう。]

 此《この》若人も、供の童(わらは)、独(ひとり)にて忍びの物見(ものみ)に出《いづ》るに、安閑小路(あんなんこうぢ)といふ所にて、恠の小家の後(うしろ)に新(あらたに)造りたる茅(かや)が軒の、ひろくはあらぬが、異(こと)やうに住(すみ)なしたる家あり、作庭、奧深く見ゆ。

[やぶちゃん注:「安閑小路」不詳。]

 其(そこ)にかよふ、竹のあみ戶(ど)、軒につゞきて、たてり。斯(かく)おもしろき家ざまなれど、心なき人は、目もとめぬにや、たゞ、大路を北にのみ行《ゆき》て、此所《ここ》を見やりたるけしきもなきに、彼(かの)男、独(ひとり)、そこに心とまりて、やおら、立《たち》よりて、家居(《いへ》ゐ)を、つやつや、見めぐり、あみ戶によりて庭を覗(のぞき)たるに、小(ちいさ)き山を、西のかたに筑(きづき)、瑪瑙(めなう)・瑠璃(るり)の彩(いろどり)、うつくしき石の間(ひま)より、蘇鐵、伊吹のたくましきを植へ、おもとしの薄の靑葉、細く生《おひ》たち、高根より、瀧、しかけ、遣水(やりみづ)、𥻘々(りんりん)として、淸く淙々(そうそう)として聲をかよはせ、「沅湘曰夜東流去」〔沅湘(げんしやう) 曰夜 東(ひんがし)に流れ去れ〕ば、たまり江に、しほらしき魚の物、おもはで、水に遊(あそぶ)など、誠に一目に見る時、數(かず)ならぬ小地(しやうち)なれど、其品(そのしな)、其品に、心を付《つけ》んに、旦(あした)の日の、西の岑(みね)に入《いり》なん時を、忘るべし。

[やぶちゃん注:「つやつや」つくづくと。じっくりと。

「伊吹」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属 Juniperus の常緑小高木。東北地方南部から南の山地に自生する。樹皮は赤褐色で縦に裂け、枝の下部の葉は針状であるが、先の方は鱗状を成す。雌雄異株で、四月頃、楕円形の雄花、紫緑色で球状の雌花をつける。生け垣や盆栽に用い、ビャクシン属イブキ Juniperus chinensis の他、カイヅカイブキ・タマイブキなど多くの変種・品種がある。「かまくらいぶき」「いぶきびゃくしん」「びゃくしん」。自身の身を裂いて生長するところから、禅宗寺院に好んで植えられる。

「おもとし」「表年(おもてどし)」か。「果実などがよく出来る年・生(な)り年」の意であるが、「よく成長していること」の意で採る。

「𥻘々」水の流れが澄みきっているさま。

「淙々」水が音を立てて、よどみなく流れるさま。

「沅湘曰夜東流去」中唐の詩人戴叔倫(七三二年~七八九年)の七言絶句「湘南卽事」の転句。

   *

  湘南卽事

盧橘花開楓葉衰

出門何處望京師

沅湘日夜東流去

不爲愁人住少時

  湘南卽事

 盧橘(ろきつ) 花 開きて 楓葉(ふうえふ) 衰へ

 門を出でて 何れの處にか 京師を望まん

 沅湘 日夜 東に流れ去り

 愁人の爲めに 住(とど)まることを 少時(しばらく)もせず

   *

「盧橘」は柑橘類の一種であるが、金柑や枇杷など、諸説ある。「沅湘」沅江(沅水)と湘江(湘水)。孰れも洞庭湖に注ぐ河川名。この転・結句は「徒然草」第二十一段に引用されており、本邦でも古来、著名な句であり、著者もそこを念頭においていよう。当該部のみ示す。

   *

月・花はさらなり、風のみこそ、人に心は、つくめれ。岩に砕けて清く流るゝ水のけしきこそ、時をもわかず、めでたけれ。「沅湘 日夜 東(ひんがし)に流れ去る 愁人の爲めに とどまること しばらくもせず」といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。

   *

「しほらしき」「上品で優美な様子の」、或いは、「かわいらしく可憐である」の意。

「おもはで」無心に。]

 

左方(ひだりのかた)は、主(あるじ)の侍る一間成(な)りと覚えて、やゝ舊(ふり)たる簾下(すだれした)、すこし卷(まか)せて、人音(《ひと》おと)は聞えず。

 

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[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 若人、思ふ、

『此ありさまを見るに、人め、物深く、隱れて、翠簾(みす)なんど、高くあげぬは、まさしく、女主(《めの》あるじ)なめり。さぞな、もてる調度、かざす袂(たもと)迄、物好(《もの》ごの)み、一きは、心ありて、珍しからん。

など、見ぬくま迄、思ひめぐらして、立歸らんとするに、内より、十二、三と見えし女(め)の童(わらは)、男の袖をひかへて、何とはしらず、物、ひとつ、男の懷(ふところ)に押(おし)入《いれ》て歸る。

『うつゝなや、何事ぞ。』

と、取《とり》て見るに、からの紙の、かうばしく燒(たき)しめたるに、うつくしき手して、

   なかれては妹背(いもせ)の山の中に落(おうつ)る

    よし埜の川のよしや世の中

といふ古歌あり。

 男、歌を味ふに、更に解(とけ)ず。

 歌の端に、細(こまか)に、書(かけ)る事、あり。

「唐(もろこし)の よし埜にはあらぬ 大和のそこそこにて 何がしと申者の妻なるもの 此後(うしろ)めたき心有《あり》て かくなん はからひまいらする そこの御爲《おほんため》さへ恥かしく侍へ共 思ふ事 いはで たゞにや 止(やみ)なまし 繾綣(やるかたな)さの まゝに候ぞ 哀を覺しなば ちかく よしの川を渡らせ給へ 夏は旅寢のすみかにして 主(あるじ)の男《をとこ》を友(とも)なひ侍れば 我が闇路(やみぢ)のはるけぬへき便(よすが)も侍らず 今なん 晝寢(ひるいね)に休(やすみ)侍るを せめての神の助(たすけ)と覺えて申すには侍り 返々《かへすがへす》」

と書《かき》たり。

 手は、うつくしながら、いたう、心せきたるとみえて、筆のかよひぢ、そゞろに、とびちりてみゆる。

「扨は。此主(あるじ)の人は、和州の者なめり。爰(こゝ)なん、京に、遊所(あそび《どころ》)にかまへ置《おき》て、今も妹背と共に登りたるが、近日に下る、と覺えたり。我が美(び/うつくしき[やぶちゃん注:右/左の読み。以下同じ])なる容貌(ようぼう/かたち)になづみて、多(おゝく)、女の艷書《ゑんじよ》、つもれども、かく迄思ひ寄る事、なし。是なん、賀茂の神の結び給ひし、えにしにこそ。珍(めづら[やぶちゃん注:ママ。])にも、ふしぎの物思ひこそ出來(いでき)たれ。賀茂の物見も、心そまず。」

とて、家に歸り、此人の下るを待つ。

 其翌日、闇(くらき)より起(おき)て、昨日(きのふ)つれし童を密(ひそか)に見せにやりけるに、童、走(はしり)歸りて、

「けさ、早(はや)、縣(あがた)に下ると見えて、馬なんど、門につなぎ、駕(のりものゝ)仕丁(じてう[やぶちゃん注:ママ。])、多く庭に侍り。」

と。

 男、よろこび、其又の日、是も隱密(ひそか)に京を出《いで》て、和州に行(ゆく)。

 態(わざと)、日暮(《ひ》ぐれ)とまり兼(かね)たる躰(てい)にもてなし、夜に入《いり》て、彼(かの)女の敎《をしへ》し所に至れば、松栢、高く茂りて、星をだに見せず、葛かづら、這《はひ》ひろごりて、入《いる》べき道も覺束なきを、とかくして十町斗《ばかり》[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]行《ゆく》に、燈(ともしび)、またゝきて見ゆ。

「爰なん、敎へし家よ。」

と、嬉しく、僕(ぼく)をつかはし、

「上(かみ)がたの者にて侍り。當國の名所を尋ねにまかるとて、しらぬ山路に行暮(ゆきくれ)、此所《ここ》に迷ひ侍る。一夜を明させて給へ。」

と、いはするに、内より答《こたへ》て、

「爰は、驛路(えきろ)ならず。旅人(りよじん)をとむる事なけれど、案内(あない)しらぬ人の、ふみ迷ひたるが痛はしければ、入《いり》給へ。」

といふに、男、傾悅(よろこび[やぶちゃん注:二字への読み。])、入てみるに、住なしたる躰(てい)、侍(さふらひ)めきて、手鑓(てやり)・長刀(なぎなた)、美をつくしかけ双(なら)べ、弓・寀(うつぼ)[やぶちゃん注:矢を携帯する「靫」(うつぼ)に同じ。]、尋常(よのつね)に立《たて》かけ、若黨・中間などやうの者、遠く居(ゐ)たり。

 實(げに)も、昨日、今日、都より下りしさま、しるくて、旅の具、取ちらして下部ども、草臥(くたびれ)たる氣色に、睡(ねふり)がちなり。

 亭主と覺しきが出《いで》て、一間(ひとま)成《なる》所に入れて、念比(ねんごろ)にいたはりて、いふ。

「某(それかし)も、折々、遠國(おんごく)にまかる事の侍るが、しらぬ里に行暮たるは、苦しき物也。何事も、心を不ㇾ置(おか《ず》)申さ給へ[やぶちゃん注:ママ。「まをさせたまへ」の脱字か。]。此一重《ひとへ》、あなたが我々の閨(ねや)にて侍る。疾(とく)休み給へ。」

と、いひて、入ぬ。

 男、思ふ、

『今宵は、外に出る氣色(けしき)もなく、女房にそひぶしとみゆれば、いかゞはからん。』

と、案じ、わづらふ。

 たつきもしらぬ山中に、遠寺(ゑんじ)の鐘、ほのかに響(ひゞき)、物すごき宿に、その事をのみ、思ひそふれば、いとゞ、目さへ、あはで、よろづ、覺束なく更(ふく)るほどに、夜半の頃にや、門(かど)を、あららかに、たゝく。

 主が聲にて、

「おつ。」

と、答(こたへ)て出《いづ》る。

「是は、いかに。」

と、肝、消《きえ》て、物の透(すき)より見るに、浴衣一重を、輕(かろ)く着(き)、髮を亂し、鉢卷し、太刀・刀、橫(よこた)へ、長刀、打振(《うちふつ》て表(おもて)へ出る。

 外(そと)より、

「早く、いざ、給へ。」

「足場、よき所なり。」

など、いひつれ行《ゆき》ぬ。

『いかなる事。』

と不ㇾ知(しらず)、胸(むねうち)、周章(さはぎ)、なを[やぶちゃん注:ママ。]、いねがてに、世のなりをとを聞く。

[やぶちゃん注:「世のなりをとを聞く」歴史的仮名遣がおかしいが、屋形の外の様子を音をもって注意深く探っているのである。]

 暫(しばし)して、かの主が敎へし閨の内に、いと、けだかき爪音(つまおと)して、「想夫戀(そうふれん)」を彈じける。

『是こそ、我(わが)愛着(あいぢやく)の源(みなもと)には有《あり》けれ。正しく我を招く、ばち成《なり》。』

と聞《きき》て、妻戶に立《たち》より、

  みぬ花の都にきゝしよしのやま

   なをこかくれは待わひにけり

[やぶちゃん注:「なを」はママ。]

と、聲ぶるひして、よみ入れければ、内より、戶をしめやかにあけ、白く、うつくしき手して、しとねの上に友(とも)なひ行《ゆく》。

 君やこし、我や行けん、おもほえず、かたへに、燈(ともしび)、覺束なく挑(かゝげ)たるに、生衣(すゞし)の蚊帳(かちやう)の外(と)の方(かた)に、えならぬ香の、

「さつ」

と聞え、蚊遣(かやり)くゆらせたるも、いぶせきたぐひかは。

 蛍、みつ、ふたつ、帳(ちやう)に放ちいれたる、よろづ、はつか成《なる》心にや、めづらかならぬ事、なし。

 ねぬに、あけぬ、といひ置《おき》し枕とる間(ま)も、夏の夜の、いづれ、夢、いづれ、うつゝと、あらそふに、晨明(しのゝめ)、白く、橫(よこ)をれ、山郭公(やまほとゝぎす)音(おと)づれ行(ゆく)。

 女のいふ、

「漸々(やうやう)、主(あるじ)の歸る時に成り侍り。若(もし)、見とかめば、御爲、恥がましき目にや逢(あひ)給はん。其かたに、歸り給へ。猶、此儘に別れ參らせんも、名殘(なごり)悲しく侍れば、ひとひ、二日は、虛病(そらやまひ)にかごとして、逗留し給へ。」

など、念比にもてなしける。

 男のいふ、

「去(さる)にても、此主の人の、夜更(よふけ)、出《いで》給へる事の遽(あはたゞし)さは、何事にや。」

と、問(とふ)。

 女、一入(ひとしほ)、聲をひそめて、

「猛き敵(かたき)を持《もて》る身に侍り。夜每に、その事を、心にこめて出《いで》侍る也。あひかまヘて、人に物し給ふな。」

ど[やぶちゃん注:ママ。]、いふ程に、時、移(うつり)ければ、いたくも問答せず、問殘(とひのこ)して、我かたに歸れば、程をへず、主、外より歸りぬ。

 此後《こののち》、二日斗、僞(いつは)り病(やみ)て、そこにやどるほど、夜每に契る事、前のごとし。

 かくても、流石(さすが)、在《ある》べきに非ねば、主に、暇乞(いとまこひ)て、

「又の便(たより)に音信(おとづれ)侍らん。」

と、式臺(しきだい)、こまごまとして、出《いで》ぬ。

[やぶちゃん注:「式臺」「別れの挨拶」の意か。]

 去(され)ど、外山(とやま)の朝日、影さして、いづこに行べき、かたもなく、心ならず、三輪・滝田(たつた)・南都(なら)・泊瀨(はつせ)など、さまよひ、十余日(《じふ》よ《にち》)を經にけり。

 此日數(ひかず)にも、猶、其情(なさけ)のみ、捨(すて)がたく、露《つゆ》忘られ侍らねば、又、もとのよしのに、分入(わけ《いり》)て、在《あり》し家居(《いへ》ゐ)を尋《たづね》に見しにも、非《あら》ず。

 木深(こぶか)く、草、茂り、靑々(せいせい)たる巖(いはほ)而已(のみ)、そばだちて、凌兢(すさまじき)幽谷(《いう》こく/かすかなたに)の、人抔(など)、住(すむ)べき所に非ず、鳥獸(てうじう/とりけだもの)も里にめなれたるは、なし。

「不思義や。爰に門の建(たち)しが。爰に閣(かく)の有しが。」

と、見めぐる内に、今迄、有《あり》とも見えぬ。

 雲、冪々(べきべき)として、東西に覆ひ、偏(ひとへ)に暗夜(あんや/やみ)のごとく、雨、頻々(ひんぴん)として、車軸をなす。

[やぶちゃん注:「羃々」雲が物を覆うさま。]

 是に恐怖(おそれ)て、僕(ぼく)、木(こ)の下(した)に踞居(うづくまりゐ)る。

 

Otokojiman2

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 暫(しば)して[やぶちゃん注:ママ。]、雲、晴(はれ)、雨、止(やみ)て、又。蒼々たる空となる。

 僕、人心(ひとごゝ)ち付《つき》て、彼(かの)若人を尋《たづぬ》るに、行方(ゆきかた)なし。

 遙(はるか)なる山の、杉の茂りたるに、二つにさかれ、全身、赤(あけ)に成《なり》て居《をり》けり。

 僕、此事を見て、魂(たましひ)、空中(くう《ちゆう》/そら)に脱(ものくる)斗《ばかり》、われかの氣色に逃(にげ)まどふ程に、漸々(やうやう)、里に出《いで》、直すぐ)に都へ上り、若人の父母(たらちね[やぶちゃん注:二字への読み。])に、

「かく。」

と、かたるにぞ、初而《はじめて》、驚(おどろき)ける。

 彼《かの》見初《みそめ》たる安閑小路(あんなんこうぢ)ヘ行《ゆき》て見るに、爰も、もと見し跡かたなく、恠(あやし)のくずやのみ、たちゞきけり。

[やぶちゃん注:「くずや」屑屋。所謂、廃品を売買する賤民の住居。]

 よしのに、さまよひし日、纔(わづか)二十日(はつか)の比《ころ》とおもひしに、僕、歸りて、人にかたるに、一とせ過《すぐ》る、又の卯月の比にて在けるとかや。

 不思義なりし事共也。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げで、字も小さい。]

 或人、評して云、

「是、ふしぎにして、ふしぎならず。もと、此男、美男の容貌を憍慢《けうまん》する事の甚しきによつて、まよひの前(まへに)、分身して、男女のかたちを化(け)し、我と我を、たばらかし、我《われ》、則《すなはち》、我を害する也。」

と、いはれしは、さもあらん事にや。

[やぶちゃん注:この最後の一種の驕慢が祟った離人症的怪異とする考証は、他に例のない解釈としての推理で興味深い。但し、そのせいか、登場人物らの個性が、今一つ、リアルには伝わってこない怪談としての瑕疵の憾みは感じる。]

2022/09/12

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 佐渡州妙法山蓮長寺瘞龜碑

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。今回は全文漢文であるため、まず、底本通りに示し(但し、底本は全部が読点であるが、吉川弘文館随筆大成版に従い、句読点交りとした)、注で推定訓読を示して、注を附した。なお、「瘞龜碑」は「えいきひ」と読み、「瘞」は「うづめる」「地中に犠牲対象や玉などをうずめて地を祭ること、或いは、その祭祀」「墓」の意である。以下、読んで戴ければ判る通り、佐渡で実際に捕獲された巨大なウミガメ(種は不詳)を埋めて祀った碑の記載である。後注で記すが、現在、この碑自体は、残念ながら、現存しない(碑の拓本はあるという)。]

 

   ○佐渡州妙法山蓮長寺瘞龜碑

瘞龜碑記【碑自然石、高匠尺四尺一寸餘、橫二尺八寸、系欄長與題額共、二尺七寸二尺三寸、五行一行十八言、字大一寸一二分。】、海之漫々。無ㇾ涯無ㇾ底。其爲ㇾ大也。固勿ㇾ論也已。故水族之怪。出沒乎其間者。鼋鼉蛟龍。不一而足也。予嘗奉吏職事佐州。居北海之濱。與魚鰕遊久矣。文政二年己卯春。州之南鄙。澁手浦漁夫獲巨龜。形狀不ㇾ凡。壯者十數人。舁以過ㇾ市。予睹而奇ㇾ之。後數日。有ㇾ人語曰。前日之龜。已就屠家。吾儕食指頗動。予聞ㇾ之惻然曰。君子之於ㇾ物也。見其生不ㇾ忍ㇾ見其死。況食其肉乎。且夫龜者靈物也。而今困於予且。死於鼓刀之手。何其慘也。何其慘也。於ㇾ是乎倍價以貿其肉殼。使州人島充睦。瘞諸妙法山蓮長寺側。寺僧曰。此寺嘗有妙見祠。夫妙見薩埵。崇德北極。耀威一天。或謂元武之神是也。今安措靈龜於此。亦如ㇾ有因緣。然請立ㇾ石記ㇾ之。充睦[やぶちゃん注:底本は「充睡」であるが、吉川弘文館随筆大成版を採用した。]亦數爲之慫慂。予性不ㇾ嗜浮華。懶放修辭遲。緩數年[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『敷年』だが、底本を採った。]。懇請不ㇾ已。遂書其事貽ㇾ之云。飯田近義撰。田中淸題額。島邦俶書。

 是碑文政十丁亥年落成。同年夏五月廿四日。借謄其拓本於關潢南父子。予戯批云。建是碑者。初看其龜不ㇾ拯焉[やぶちゃん注:一・二点を吉川弘文館随筆大成版で補った。]。死後貿肉與殼而瘞ㇾ之。則與ㇾ弔枯魚于市亦何異焉。仁乎慈乎。其不ㇾ及齋宣也遠矣。

 

[やぶちゃん注:まず、訓読を試みる(読みは推定で歴史的仮名遣で附した。また、一部で返り点とは異なる読みをした)。読み易さを考えて、段落を成形した。

   *

「瘞龜碑(えいきひ)の記」【碑は自然石、高さ、匠尺(しやうじやく)四尺一寸餘、橫、二尺八寸、系(つな)げたる欄の長さ、題額とともに、二尺七寸、二尺三寸、五行、一行は十八言(ごん)、字の大いさ、一寸一、二分。】

 海の漫々として、涯(はて)無く、底、無し。其の大(おほ)ひなるるや、固(もと)より、論ずる勿(な)きのみ。故に、水族の怪、其の間(かん)に出沒せる者は、鼋(おほがめ)・鼉(わに)・蛟龍(かうりゆう)、一つとして足らざるなり。

 予、嘗つて、吏職を奉りて、佐州に從事し、北海の濱に居(きよ)せり。魚鰕(ぎよか)と遊ぶこと、久し。

 文政二年己卯(キボウ/つちのとう)の春、州の南の鄙(ひな)、澁手浦(しぶてのうら)の漁夫、巨龜(おほがめ)を獲れり。形狀、凡(ぼん)ならず。壯者(さうしや)、十數人(じふすにん)、舁(か)きて、以つて、市(いち)を過(よ)ぎる。予、睹(み)て、之れを奇(き)とす。

 後(のち)、數日(すじつ)、人、有り、語りて曰はく、

「前日の龜は、已(すで)に屠家(とけ)に就(つ)けり。吾れ、儕(ともがら)は、食指、頗(しき)りに動かす。」

と。

 予、之れを聞きて、惻然(そくぜん)として曰はく、

「君子の物に於けるや、其の生(い)きたるを見れば、其の死せんとするを見るに忍びず、況んや、其の肉を食ふをや。且つ、夫(そ)れ、龜は靈物(れいぶつ)なり。而して、今、予且(よしよ)に困(くる)しみ、鼓刀の手に死せり。何ぞ、其れ、慘(いたま)しきや、何ぞ、其れ、慘しきや。」

と。

 是(ここ)に於いてや、倍の價(あたひ)を以つて、其の肉と殼を貿(か)ひ、州人の島充睦(しまあつむつ)をして、諸妙法山蓮長寺の側(かたはら)に瘞(うづ)めしむ。寺僧曰はく、

「此の寺、嘗つて、妙見(めうけん)の祠(ほこら)有り。夫れ、妙見薩埵(めうけんさつた)、崇德北極(そうとくほくきよく)、耀威一天(きいいつてん)、或いは謂ふ、元武(げんぶ)の神、是れなり。今、靈龜を此(ここ)に安(やすん)じ措(お)くは、亦、因緣、有るごとし。」

と。

 然(さ)れば、請ひて、石を立て、之れを記(しる)す。充睦も亦、數(たびたび)、之れを慫慂せんと爲(す)。

 予、性(しやう)、浮華(ふくわ)を嗜(たしな)まざるも、修辭に遲れ、懶放(らんはう)たり。緩(かん)たること、數年(すねん)、懇請、已(や)まず、遂に其の事(こと)を書して、之れに貽(のこ)して云へり。

   飯田近義            撰

   田中淸             題額

   島邦俶(しまはうしゆく)    書

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が最後まで一字下げ。馬琴の附記。]

 是の碑、文政十丁亥(テイガイ/ひのとゐ)の年、落成す。同年の夏、五月廿四日、其の拓本を關潢南(せきわうなん)父子、借りに謄(うつ)せり。予、戯れに批(ひ)して云はく、「是の碑を建つるは、初め、其の龜を看るも、拯(すく)はず、死後、肉と殼とを貿(か)ひて、之れを瘞む。則ち、枯魚(こぎよ)を市(いちにう)れるを弔ふに與(くみ)するに、亦、何ぞ異ならんや。仁か、慈か。其れ、齋宣(さいせん)に及ばざるや、遠し。」と。

   *

「妙法山蓮長寺」現在も新潟県佐渡市相川下寺町にある日蓮宗の寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。Lllo氏の佐渡島の総合ブログ「ガシマ」の「佐渡相川郷土史事典」の「亀碑(かめのひ)」に、『相川町下寺町の日蓮宗蓮長寺には、「瘞亀碑」が建てられていた。現在は、この碑がどのように処分されたか不明であるが、拓本が掛軸にして残されている。縦一二五㌢、幅八五㌢という大きなもので、碑文には経緯が記されている。文政二年(一八一九)己卯春に、渋手浦(真野町豊田)に漂着したウミガメ(種不明)を、佐渡奉行所の役人飯田近義』(☜)『が買い取った。碑文は相川町の島□(川嶋)充睦』(☜)『が書き、島家の菩提寺へ埋葬した。現在は、碑石の跡に亀石が置かれている』とあり、『【参考文献】 本間義治・佐藤春雄・三浦啓作『両生爬虫類研究会誌』(四一号)、本間義治・北見健彦『新潟県生物教育研究会誌』(三二号)、本間義治・石見喜一『新潟県生物教育研究会誌』(三六号)』とする。また、サイト「佐渡人名録」のこちらの「亀碑(かめのひ)」の項にも、全く同一の文章が確認出来る。せめてもと以上の参考文献が見られないかと探したが、見当たらなかった。

「匠尺」通常の曲尺(かねじゃく)のこと。

「四尺一寸餘」一メートル二十四センチ超。

「二尺八寸」八十四・八四センチ。

「系(つな)げたる欄」柵と入口の上に額を掛けた高欄があったものか。

「二尺七寸」八十一・八センチ。

「二尺三寸」約六十九・七センチ。

「一寸一、二分」三・三三~三・六三センチ。

「鼋」大型のウミガメ類。一九九三年三月発行の『富山市科学文化センター研究業績』第百四十三号の南部久男氏の短報「富山湾四方沖からのオサガメの記録」PDF)によれば(コンマを読点に代えた)、『佐渡を含む新潟県沿岸のウミガメ類の1922年から1990年における記録(漂着、定置網、刺網等)では、オサガメが56例と最も多く、次いでアカウミガメ27例で、その他、アオウミガメ11例、ヒメウミガメ6例である(本間、1990)。このうちオサガメは9月から3月まで記録があり、1月が多い。』とあるから、可能性が高い順に種は、

脊索動物門脊椎動物亜門爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科オサガメ科オサガメ属オサガメ Dermochelys coriacea

ウミガメ上科ウミガメ科アカウミガメ亜科アカウミガメ属アカウミガメ Caretta caretta

ウミガメ科アオウミガメ亜科アオウミガメ属アオウミガメ Chelonia mydas

ウミガメ科ヒメウミガメ属ヒメウミガメ Lepidochelys olivacea

となる。

「鼉(わに)」サメ類。

「蛟龍」所謂、想像上の海龍の一種である「みづち」。

「一つとして足らざるなり」一種というのでは、到底、言い尽くせない。

「文政二年己卯春」グレゴリオ暦で一八一九年一月二十六日から四月二十三日。

「澁手浦」現在の真野港のある新潟県佐渡市豊田地区の海辺。真野湾の小佐渡川の南東。

「屠家」動物類の屠殺業者。

「惻然」あわれに思って、心を傷めるさま。

「予且」「予且之患」(よしょのかん:身分の高い人が気付かれないように出掛けて、不幸な出来事にあうこと。「予且」は人名で、天帝の使者である白い龍が、魚の姿になって泳いでいると、漁師の予且に目を射抜かれて捉えられた、という故事に基づく)を元にした表現。

「鼓刀の手に死せり」「鼓刀」は「刀(とう)を鼓(こ)す」とも訓じ、「包丁を使って音を立てる」こと、則ち、「野生の中・大型の動物や家畜を殺して料理すること」を意味する。

「貿(か)ひ」「買ひ」に同じ。

「妙見」妙見菩薩(みょうけんぼさつ)は、北極星又は北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。妙見信仰はインドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星及び北斗七星信仰や星学と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来した。詳しくは参照したウィキの「妙見菩薩」を読まれたい。

「薩埵」菩薩に同じ。

「元武の神」五行思想の易や道教で言うところの「北」に応ずる四神の一つ「玄武」に同じ。

「浮華」うわべは華やかであるが、内実の乏しいこと。見掛け倒しの虚飾性(しょう)。

「修辭に遲れ」文章で表現するのに時間がかかり。

「懶放」「放懶」に同じ。「ものぐさ」の意。

「緩(かん)たること」ずるずると、文を成さずに延引すること。

「貽(のこ)して」残し伝えて。

「飯田近義」前注以外の事績は見当たらない。

「田中淸」不詳。

「島邦俶」不詳。先の引用に従うなら、正式な姓名は川嶋充睦。島邦俶は雅号或いは唐風の名乗りであろう。

「文政十丁亥」「五月廿四日」グレゴリオ暦一八二七年六月十八日。

「關潢南」は「せきこうなん」と読み、江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。彼は兎園会の元締であった曲亭馬琴とも親しく、息子の関思亮は「海棠庵」の名で兎園会のメンバーでもあった。

「批して」批評して。

「拯はず」命を救わず。

「枯魚」魚の干物。

「齋宣」意味不明。識者の御教授を乞う。]

2022/09/11

富永太郎拾遺詩集及び断片(やぶちゃん版)完全リニューアル

遠い昔のサイト版「富永太郎拾遺詩集及び断片(やぶちゃん版)」を完全リニューアルした。創元文庫版と思潮社版の詩集を校合したものであるが、再度、一篇ずつ、再校訂と検証をして注も増やした。さらに、劣化が著しいが、創元文庫の中に挿入されている、四葉の画像もトリミング補正して収録した。

2022/09/10

富永太郎詩集 第三部 翻訳詩異同(やぶちゃん版) 完全リニューアル

午後、「富永太郎詩集 第三部 翻訳詩異同(やぶちゃん版)」を完全リニューアルした。同時期の「富永太郎拾遺詩集及び断片(やぶちゃん版)」もリニューアルする予定だが、これは結構、骨折りそうだなぁ……

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 車渠・シヤコ / シャコガイ類

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここと、ここと、ここの見開きで三箇所となる。最後の部分は図のみでキャプションはない。なお、この最初の見開きの前の、ここの見開きの二図は、本カテゴリで、当初、ランダムにやっていた時に、二図ともに『毛利梅園「梅園介譜」 老海鼠』と、『毛利梅園「梅園介譜」 ダンベイキサゴ』とで、電子化注済みである。個人的には前のマボヤの図は、本「梅園介譜」中の白眉の図と感じている。]

 

Syakogai1

 

《見開き第一図》

[やぶちゃん注:左右を殻を合わせて、恐らくは右殻を上にし、腹側から写した図。]

車渠【「しやこ」。】 通名。

 𤥭磲・硨磲【「雀甕」條下。】

 阿札噶【「中山傳信録」。】

[やぶちゃん注:「噶」の字は(つくり)の下部の「人」が「匕」であるが、別人の写本のここでは、「噶」となっていること、「中山傳信錄(ちゆうざんでんしんろく)」(「中山」は「琉球」の異称。清代に書かれた独立国琉球の地誌。全六巻。琉球王尚敬への使者の副使として派遣された徐葆光(じょほうこう)の著。一七二一年成立。前年に清の外交使節として訪れた際の見聞を、皇帝への報告書として纏めたもので、琉球国の王府の事情や、中国との外交関係及び王系・地理・制度・風俗・言語などを記す)の原本に当たったところ(早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの右丁の六行目)、「硨磲【阿札噶(アサカ)】」とあったので、この字を用いた。]

 

   保丁酉年孟春初五日、眞寫す。

 

《見開き第二図》

 

Syakogai2

 

[やぶちゃん注:左右の殻を合わせて、右殻を上にして蝶番を手前にした図。]

車渠【卽ち、「海扇」、「をほみ貝」。】

 

○「夣溪筆談」(むけいひつだん)に曰はく、『海物に、「車渠」有り、蛤(がふ)の屬なり。大なる者、箕(み)のごとし。背、渠壟(きよろう)有り、蚶(あかがひ)の殼のごとく、故に以つて噐(うつは)と爲(な)す。緻(きめこまやか)なること、白玉のごとし。南海に生ず。』と。

[やぶちゃん注:「夣」は「夢」の異体字。一番近い字を採用した。書名からも「夢溪筆談」(北宋の沈括(しんかつ)による随筆集。全二十六巻。特に科学技術関係の記事が多いことで知られる)で、「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本で確認した。]

○「月令廣義(がつりやうかうぎ)」に曰はく、『「霏雪録(ひせつろく)」に『海中に甲物(かうぶつ)有り、扇のごとし。其の文(もん)、玳瑁(たいまい)のごとし。惟(ただ)、三月三日の潮盡(しほひ)、乃(すなは)ち、出づ。「海扇」と名づく。』と。

○「綱目」に、「海扇」を「車渠」の一名とす。葢(けだ)し、「海扇」、二種あり。「車渠」をも「海扇」と名づけ、「帆立貝」も、「海扇」と云ふ。「月令廣義」の、『紋、玳瑁のごとし。』と云ふは、又、別種なり。

○車渠は、極めて大なる者あり。其の貝、磨(す)り琢(みが)きて、玉(ぎょく)とし、「緖(を)じめ」とし、又、釣花生(つりはないけ)とし、壓尺(けさん)とす。

○「丹鈆録(たんえんろく)」に曰はく、『車渠、盃に作(な)し、酒を注(い)れ、滿(み)てゝ、一分(いちぶ)を過ぐるも、溢(あふ)れず。』と。

 

《見開き第三図》

 

Syakogai3

 

[やぶちゃん注:左殻の蝶番を前にした内側の図。キャプションなし。]

 

[やぶちゃん注:所謂、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ亜科 Tridacnidae に属するシャコガイ類

であるが、図の個体は左右殻の腹側の辺縁の形状は、所謂、現存する二枚貝の世界最大種として知られ(殻長は二メートル近く、重量二百キログラムを超えることがある。これまでに記録された最大のものは体長一・三五メートル、重量二百三十キログラムに達したとされ、寿命は、自然状態で百年以上とされ、中には四百年以上生きた個体も存在すると当該ウィキにはある)、沖縄以南に棲息する、

シャコガイ亜科オオシャコガイ Tridacna gigas

ととるには、湾曲の波状の形状の波長部分が、緩やかで、違うように思われ(梅園は殻のサイズを全く述べていないのに憾みがある。しかし、例えば、横幅が三十センチを超えるような大型個体ならば、梅園は忘れずに、そのサイズを書くであろうと思うのである)、私は、

オオシャコガイの幼体

か、或いは、横幅が十七センチメートル前後で、奄美大島以南に棲息する、

シャコガイ亜科オオシャコ属ヒメシャコガイ Tridacna crocea の成体個体

ではないかと感じた。

「車渠」は本来は「シヤキヨ(シャキョ)」で「車の轍(わだち)」を意味する。本来は後に出る「硨磲」の「硨」は「家畜に曳かせる二輪或いは四輪の大型の荷車を指し、「磲」(=「渠」)は「溝」を意味する。李時珍の「本草綱目」では、巻四十六の「介之二」「蛤蚌類」に、「車渠」で立項し、「釋名」で、『海扇。時珍案、「韻會」云、『車渠、海中大貝也。背上壟文如車輪之渠、故名車溝曰渠。』とある。所持する相模貝類同好会一九九七年五月刊の岡本正豊・奥谷喬司著「貝の和名」(相模貝類同好会創立三十周年記念・会報『みたまき』特別号)では、以上を「目八譜」で武蔵石寿が引用していることを示された後で(コンマを読点に代えた)、『どうしてこの貝が車輪に見えるのか不思議だが、殻を180°完全に開いた状態で表面側を見ると、左右殻の腹縁が車の外側、各5条の深い溝(渠、壟=あぜみち)が放射状の車輻と見えないこともない。』と述べておられる。

『「雀甕」條下』意味不明。前に書名を出さずに、こう書かれても、判らない。「甕」は「大きな瓶(かめ)」を意味するから、これは親和性があるが、例えば、本草書類では、これは「雀甕(すずめのたご)」で、危険がアブナい鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目ボクトウガ上科イラガ科イラガ亜科イラガ属 Monema に属するイラガ類或いはその近縁種の作る繭である。「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 雀甕」の私の注を見られたい。試みに「本草綱目」を調べて見たが、圧倒的に上記の繭であり、貝類の条々に出るものが、数箇所あったものの、シャコガイとの関連性は私には見出せなかった。識者の御教授を乞うものである。

「保丁酉年孟春初五日」天保八年一月五日。一八三七年二月九日。

「海扇」後で梅園は、これには、『二種あり。「車渠」をも「海扇」と名づけ、「帆立貝」も、「海扇」と云ふ』とある通りで、これは、実は、彼が好きで、何度となく描いているイタヤガイ、例えば、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 錦貝(ニシキガイ)・イタヤ貝 / イタヤガイ・ヒオウギ』でも言及している。そこで注したように、恐らくはホタテガイ・アコヤガイ、さらには、本シャコガイ類を広汎に指していると考えてよく、二種どころではない(というか、梅園は「二種」を「複数の異種」の意で用いていると考えるべきである。この辺の混淆は、既に、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」でも見られるからで、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 海扇」の本文及び私の注も参照されたい。

「をほみ貝」『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 酌子貝(シヤクシガイ)・イタラ貝 / イタヤガイ(四度目)』で注した通り、私は「大身貝」の意と思う。

「渠壟」前に注した通り、「溝」と「畝(うね)」である。

「蚶」少なくとも、彼がこれを「あかがひ」(或いは「きさ」)と訓じているであろうことは、先行する『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 𩲗蛤(アカヽイ) / アカガイ』で明らかである。

「白玉のごとし」古くより、シャコガイ類の殻は、切って磨くと、細かな文理(もんり)が浮き出し、仏寺の荘厳(しょうごん)や、広く装飾品として、仏教の七宝(しっぽう)に於いて、「玉」(ぎょく)に次ぐものとして重用された。

「月令廣義」明の官僚で学者の馮応京(ふう おうけい 一五五五年~一六〇六年)が万暦年間(一五七三年~一六二〇年)に著した、中国の伝統的な年中行事・儀式・仕来りなどを解説した本。当該ウィキによれば、『先秦時代の一年間の行事を理念的な観点から紹介した』「礼記」の「月令篇」を『補足するという形式をとる。そのため』、『古書からの引用が多く、古くは六朝・梁代』(六世紀中頃)『の、すでに原典が失われてしまっている文言小説』『などからの説話を傍証として多く収録しており、中国の民間伝承を研究する上での貴重な資料となっている』。『例えば』、『七夕の「織姫と牽牛の恋愛譚」が、現在知られているストーリーとほぼ同じ型になった最も古い時期を考証できる史料も、本書に引用されている梁代の殷芸(いんうん)が著した』「小説」(「殷芸小説」)の中の一節であるほか、『慣用句「一年の計は元旦にあり」の原典らしきもの』『や、「花咲か爺」の原典のひとつとされる説話』『など、今日の日本における身近な慣用句・諺や説話の出典にもなっている』とある。なお、「がつりょう」の読みは、私の大学時代の漢文の先生たちが、一様に、そう読んでいたことに基づくもので、私には「げつれい」では、凡そありがたい感じがしないのである。

「霏雪録」明の文人鎦績(りゅうせき:劉績とも)の撰になる随筆。

「玳瑁」カメ目潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイEretmochelys imbricata 『毛利梅園「梅園介譜」 龜鼈類  瑇瑁(タイマイ) / タイマイ(附・付着せるサラフジツボ?)』を参照されたい。梅園は後で、シャコガイ類ではないと否定しているが、タイマイの甲羅の様子を眺めていると、オオシャコガイ辺りとの仄かに親和性を感じてしまうのは、私だけであろうか?

「三月三日の潮盡(しほひ)、乃(すなは)ち、出づ」大潮の時に海中から年に一度だけ、姿を現わすというのは、どデカいオオシャコガイにこそ相応しい気はする。

「緖(を)しめ」「緒締(をじ)め」。袋や巾着(きんちゃく)などの口に廻した緒を束ねて締めるための具。多くは球形で、玉・石・角・貝殻・練り物などで作る。

「釣花生」花生(はない)けの一種。上から吊るすようにしたもので、竹・金属・陶器・貝殻などで、船形や月形に作る。「釣り花瓶」。

「壓尺(けさん)」文鎮のこと。「けさん」は、別名の「卦算」の当て読み。文鎮が易に用いる算木(さんぎ)の形に似ているところから、かく言ったもの。

「丹鈆録」「鈆」は「鉛」の異体字であるから、「本草綱目」も引く明代の楊慎撰の「丹鉛録」(幾つかの作に分かれた博物書のようで、本編は正しくは「丹鉛総録」というらしい)のことかと思われる。

「一分」縁の部分から三ミリメートルほど表面張力を起こして零(こぼ)れないというのである。]

ブログ・アクセス1,810,000突破記念 梅崎春生 山名の場合

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年十一月号『群像』に発表された。既刊本には収録されていない。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年七月沖積舎刊)に拠った。本篇は梅崎春生の作品の中では、相対的にルビが多い作品である。

 傍点「﹅」は太字に代えた。文中に注を添えた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、先ほど、1,810,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]

 

   山 名 の 場 合

 

     

 

 まず五味司郎太のことから始めましょう。

 五味司郎太という男の頭は、ちょっと一風変った、なかなか印象的な形をしています。一目見ると忘れないほどです。どんな形かと言うと、つまり左右にだけ拡がっている。うしろは平たく切り立っている癖に、前から見ると、不自然なほど鉢が開いている。灰色がかった毛髪が、そこら一面にぼやぼやと密生していて、いわゆる巾着頭(きんちゃくあたま)というやつです。きっと赤ん坊の頃、上ばかり見て寝ていたに違いありません。これは当人のせいでなく、きっと母親の責任でしょう。

 いつか学校の忘年会の折、年寄りの博物の教師がひどく酔っぱらって、五味司郎太の頭に抱きつき、このが頭蓋骨(ずがいこつ)をどうしても土産(みやげ)に持って帰るんだ、と言い張って聞かなかったことがあります。博物の教師が言うのだから、学術的な見地からしても、珍らしい型に属するのかも知れません。その時、当の五味司郎太はといえば、さほど動ずる気色(けしき)もなく、頭を抱きつかせたまま、いくらか迷惑そうな曖昧(あいまい)な笑いを浮べて、ゆっくりと盃(さかずき)を乾(ほ)していたという話です。五味司郎太は酒は強かった。いくら飲んでも内にこもって、外に出ないような酒でした。

[やぶちゃん注:「博物学」明治・大正・昭和初期までの小・中学校に於いて現在の科目で「生物学」に当たる動植物学や、同前で「地学」に相当する鉱物学を内容とする教科の名称。なお、次の段落中に、この学校を「夜学校」としていることから、ウィキの「夜学」によれば、『第二次世界大戦前の日本では主に、旧制専門学校、中等学校(旧制中学校・実業学校)の夜間部のことを指していた。また、青年学校のように夜学が前提の学校が存在した』とある。しかし、と言っても、以下、最後まで読んでみても、本篇の作品内時制を戦前・戦中ととることは出来ない。梅崎は自身の経験上から「博物学」という教科(正確には科目)を用いているだけで、これは発表時と同時代である。次の段の「燭光」の注も見られたい。後で山名と五味の年齢も出、同い年で申年と出、しかも近い過去に兵隊に行ったという記載も出、決定打は「原子雲」「終戦後」と言う表現もあるからである。従って、舞台は既に新制となった夜間中学か高校ということになる。]

 五味は今年三十一歳になります。しかし見たところ三十五六に見えます。頭は大きいけれど顔は小さく、身体は小さいものですから、なんだかしなびたような感じで、老(ふ)けて見えるのです。背丈(せたけ)は五尺二寸ぐらい。歩くときは、ひょいひょいと拍子をとって、足が地に着かないような歩き方をします。この五味が出席簿を小脇にかかえ、学校の長い廊下を足早に歩いてゆく姿は、ちょっと特異な印象を見る人に与えました。だからここの生徒たちの中にも、その動作を真似たりあざ笑ったり、そんな不心得者も少しはいたくらいです。しかし大体において、五味は生徒の受けは悪くなかったようです。叱ったり怒鳴ったり、ひどい罰点をつけたりしないからでしょう。生徒が聞こうが聞くまいが、教えるだけ教えてさっさと教員室に戻ってくる、それが五味司郎太教諭のやり方でした。だから真面目な生徒の間には、五味先生の授業はすこし食い足りない、そんな不平の声もある程でした。この学校は夜学校でした。夜学校でしたから、本当に勉強したいと思って通ってくる生徒も、相当にいたのです。生徒の年齢もまちまちで、若いのがいるかと思うと、二十歳過ぎた生徒がいたりもしました。

 教員室は玄関の横にある、南向きの大きな部屋でした。南向きと言っても、夜間の学校のことですから、日当りがいいも悪いもありません。電燈はまんなかに二百燭光がついてはいますが、ただ一つきりなので、隅の方まで光が充分に行きわたらない。五味の席はそのいっとう片隅の、うすぐらいところにありました。

[やぶちゃん注:「五尺二寸」一メートル五十七・五センチ。

「二百燭光」「燭光」は光度の単位で、日本では昭和二六(一九五一)年以来(本篇の発表年であるから、新時代の科学的印象を与えたであろう)、同三十六年に「カンデラ」を採用するまで用いられた。一燭は一・〇〇六七カンデラ。単に「燭」とも言った。換算過程は省略するが、「二百燭光」は現在の凡そ二百五十ワットに相当する。]

 五味の隣りの席は山名申吉という、やはり若い国語の教師でした。山名申吉も五尺二三寸しかなく、人並以下の背丈ですが、その代りまるまると肥って、いくらか動作の鈍い男でした。瘦(や)せた五味司郎太といい対照をなしていました。

 日がすっかり沈んで、夕闇(ゆうやみ)がせまってくると、校門のうすら闇を押し分けるようにして、生徒が続々と登校してきます。すると教員室にも、どこからともなく教員たちの姿が、ぽつりぽつりと現われて、やがて席はいっぱいになってしまう。あまり話し声も立てません。教員室を停車場の待合室にたとえた人がありますが、まったくここは夜の待合室に似ています。ぼんやりと始業の合図を待っているだけで、活気というものがほとんどないのです。それも無理もありません。ここの教員たちの大部分は、昼間は別の仕事や用事を持っていて、ここに教えに来るのは、おおむね片手間の内職や学資稼ぎが目的なのですから。机も本当は自分の机ではないのです。この校舎も校庭も、もともと昼間の学校のもので、夜学校は夜だけそれを使わせて貰っている形なのです。ですから教員室の机の引出しや本棚には、昼間部の教員の私物や公物が入っていて、夜間部の教員が割込む隙はほとんどないのです。机は与えられていても、その前に腰を掛けるだけで、実際にそれを使用するわけには行かない。なんだかひどく中途半端な状態で、落着かないのも当然です。夜間部専用の教員室をつくれと、しばしばかけ合ってみたのですが、ここの経営者であるところの老獪(ろうかい)な学校長は、予算がないとか空室がないとか、言を左右にしてなかなか応じて呉れない。だからますます待合室じみてくる。

 山名申吉(肥って若い国語教師です)は、教員室のこの落着かない雰囲気を、あまり好きではありませんでした。皆うろうろ立ったり動いたり腰掛けたりして、いっこうに統一がなく、何となく鶏小屋を聯想させるからでした。山名は鶏が嫌いでした。山名は子供の頃、小学校から戻ってくると、鶏小屋の掃除が彼の役目になっていて、その頃から鶏という動物にはうんざりしていたのです。毎晩この教員室でじっと待っていると、なんだか自分も一羽の鶏になってゆくような気がしてくる。立ったら立ったで、そっくり鶏じみているし、坐ったら坐ったで、まるでトヤについたみたいです。しみじみとやり切れない感じです。山名申吉という男は、その風貌に似合わず、こんな風に屈折した自意識の持主でした。

[やぶちゃん注:「トヤ」言わずもがなであるが、「鳥屋」(鳥小屋)である。]

 また山名申吉は、自分の教材や書籍をしまっておく場所のないことも、あまり面白くありませんでした。彼に割り当てられた机は、古びてがたがたの机で、引出しは昼間部の教員の持物でいっぱいです。机には大きな引出しがひとつと、小さな引出しが縦に五つ、それだけついています。この机のあり場所は隅っこの方で、薄暗いところですから、山名は時々こっそりと引出しをあけて、中味を調べてみたりします。引出しの中には、宿題用紙の束だとか、使い古しのノートだとか、三ダース入りの鉛筆箱とか、教育雑誌やパンフレットの類、そんなものがごちゃごちゃと詰めこまれていますが、一番下の引出しだけは、もっぱら私物用らしく、爪切鋏(ばさみ)とかハンカチとか小説本とか、映画のプログラムとか化粧品の空瓶などが、雑然と入っています。山名はこの引出しを調べるのが好きでした。あけるとぷんと白粉や香水の匂いなどがして、後ろめたいような微妙な快感が山名の神経をくすぐるのです。この机の昼間の主は、女教師なのでした。もちろん山名は、その女教師の顔も姿も見たことはありませんが、机にぶら下った名札から、その名前だけは知っていました。島津鮎子、そういう名前なのです。授業開始までのやり切れない時間、それを紛(まぎ)らすために、山名はしばしばその一番下の引出しをそっとあけて、島津鮎子のことなどを考えるのでした。山名の空想の中では、島津鮎子はすらりとした若い女性でした。鮎子という匂やかな名前をもった婆さんなどを、山名は想像することさえ出来ませんでした。それはそうでしょう。私にだって想像できません。

 引出しをこっそりあけるなど、何程のこともないと思うでしょうが、山名申吉にとっては、これはなかなかの難事なのです。一番下の引出しに手をかけるためには、背を曲げてうんと屈(かが)まなくてはいけない。ところが山名の身体は、人並はずれて丸々と肥っているのです。椅子に掛けたままそこに指を届かせるのは、山名にとってはやっとの事なので、顔は充血し、もちろん呼吸もちょっと止めねばなりません。大っぴらに出来る仕事ではなく、隠微に迅速(じんそく)にやらねばならないのですから、ひどく気骨が折れるのです。幸い薄暗いからいくらかたすかるようなものの、やはりどこからか見られているような気がする。どうも具合がよろしくない。

 山名の机は五味司郎太の机とくっついています。隅っこの席はこの二人だけで、あとは少し離れています。そこらに衝立や書棚などがあって、うまく外からの視線をさえぎって呉れる。しかし五味との間には何もないのですから、ここは筒抜けです。そして悪いことには、山名の机の五つの縦の引出しは、五味側の方にあって、つまり丸見えなのです。五味が実際に眺めているかどうかは知らないが、山名が屈みこむ背中にいつも感じるのは、その五味司郎太の視線でした。五味のやや灰色がかったような、ぼんやりした感じの眼玉なのでした。

 五味司郎太の眼玉は、いつもどんより沈んだ色をたたえています。幅の広い額の下に、その眼はふたつ並んでいます。睫毛(まつげ)もほとんど生えていない。色の薄い眉毛がぼやぼやとかぶさっているだけです。どうもこの男には、メラニン色素か何かが不足しているのではないか、と山名はいつも五味をそんな風に考えています。そしてその眼ですが、これがちょっとばかりおかしい。なんだか妙に焦点が合ってない感じなのです。たとえば五味が机の上の花瓶を見ているとする。そうすると彼の眼は、花瓶の二米[やぶちゃん注:「メートル」。]ぐらい向うを見ているような眼付になるのです。だから対坐して話していても、視線はこちらを向いているのに、こちらの顔を透過して、背後を見られてるような気がして来るのです。それが山名には時々、なんだか放っておけないような、また何となくいまいましい感じを起させるのでした。この男の網膜(もうまく)には一体何がうつっているのだろう。その向うでこいつは一体何を考えているのだろう。時に山名は本気でそんなことを考えたりします。ひょっとするとあの網膜には、何もうつってないのかも知れないな。どうもあの眼は、病気した鶏の眼にそっくりだ、などとも考えます。とにかく山名にとっては、何だか気にかかる、あまり面白くない眼でした。授業開始前のひととき、五味はいつも短い脚を椅子からぶらぶらさせ、れいの眼であちこちを見廻しています。山名にむかって世間話をしかけることもあります。また貧乏ゆすりをしながら、ぼんやりと天井を見上げていることもあります。そんな隙をねらって、山名はさも自分の引出しみたいな表情をつくって、軀(からだ)を曲げて一番下の引出しに手を伸ばします。今日はどんなものが入っているか、その仄(ほの)かな期待を楽しみながら。

 その引出しの中味は、いつも少しずつ変化していました。たとえば書籍のたぐいにしても、フランスの近代小説が入っていたかと思うと、次には万葉集や手相の本が入っていたり、あるいは源氏鶏太と椎名麟三が同居していたり、料理の本や流行歌集や住宅設計案内書などが入っていたりする具合です。島津鮎子の読書方針には、てんで一貫性というものが欠けているようでした。また映画が好きだと見えて、よく映画館のプログラムがつっこんであります。そんなのを自分の私物のような顔をして、山名はつまみ上げ、机の上で点検したりするのです。

 やはりある晩の授業前のことでした。山名がいつものように背をかがめて、よいとこしょと引出しをひっぱりますと、白い丸まった形のものが、隅っこに押し込んであるのがちらと見えました。山名の指は何気なくそれをひょいとつまみ上げました。つまみ上げるとそれはだらりとほぐれ、山名の指からしっとりとぶら下ったのです。山名はたちまち狼狽(ろうばい)しました。その布の指触りと言い、ぶら下った形と言い、それは明かに婦人の下着だったからです。山名はまっかになって、ぶら下げた手はそのまま、あわてて周囲を見廻しました。すると隣席の五味司郎太のどんよりした眼玉が、山名の指にぶら下ったものを、ぼんやりと見ていました。

「柔かそうだね。ああ、とても良い色だ」

 と五味は独り言のように言いました。そして自分も手を伸ばして、その布地の端をつまむようにしました。薄暗い光のなかで、その白い布は軟かく微妙な陰影をはらんで、ふらふらと揺れました。五味は再び口を開きました。

「このくらいの明るさの中だと、白いものは何でも美しく見えるね」

「そうだね」

 やっとのことで山名はそう答えました。そして急に怒ったような顔になり、ぶら下ったものをたぐり上げ、両掌でくるくると丸めると、引出しの元のところにぐいぐい押し込みました。それから何時もなら手でしめるのですが、この時ばかりは靴の裏を使って、ぴしゃりと引出しを乱暴に押し込みました。そし。で大きな呼吸(いき)をふうっと吐きました。

 五味司郎太は、掌の玩具を突然取り上げられた幼児のような顔をして、その山名の横顔をしずかに眺めていました。

 この出来事は山名の胸に、いつまでも厭な後味を引いていました。時折これを思い出す度に、山名は「何をあの巾着頭(きんちゃくあたま)!」などと呟(つぶや)いて、気持をごまかそうとするのでした。あの巾着頭が、何を見、何を感じ、何を考えているか。それがうまく摑(つか)めないものですから、なおのこと山名の気持は屈折して、やり切れないのです。へんに圧迫されるような感じでした。

 山名は五味と知り合って、まだ一年になりません。山名がある先輩の世話で、この夜学校に赴任(ふにん)して一週間後に、五味が赴任して来たのです。だからここでは山名の方が、一週間先輩になる訳でした。机を並べているのも、そんな関係からです。五味は社会科を受け持っていました。同じ頃赴任してきたのだし、肥瘦(ひそう)の別はあれ背丈は同じくらいだし、席も隅っこにかたまっているし、年頃も同じなものですから、教員室の面々は、この二人を同類として取扱う傾向が多分にありました。実際にも山名がここで一番親しいのはまず五味でしょうし、五味からいっても同じことでしょう。親しいといっても、これは比較的余計に会話を交えるというだけで、特別の友情や親近感をもっているというのではありません。だいいち山名は、五味が平常何を考えているのか、それもまだよく判らないのでした。

 山名申吉も五味と同じく、申歳(さるどし)生れの三十一歳です。二人ともまだ独身であることも共通していました。そしておどろいたことには月給の額もぴたりと同じなのです。そのことをある時偶然に、山名は知りました。

[やぶちゃん注:「申歳生れの三十一歳」発表時から、彼らは大正九(一九二〇)年庚申(かのえさる)であることが判り、この年齢は未だ数え年であることが判明する。因みに梅崎春生は大正四年生まれである。]

 この夜学の会計事務をやっている魚住浪子という女が、ある月の給料日にうっかりして、二人の月給袋を間違えて渡したのです。その袋を開いて見て、山名は初めて五味と同給料であることを知ったのです。山名はその瞬間、何故だかひどくいやらしい気持がしました。自分でも説明出来そうにない妙に不快なしこりが、胸にこみ上げてくるのを感じました。そこで直ぐ、魚住浪子のところに押しかけて行ったのです。会計の部屋は教員室の隣りでした。そこは細長い部屋で、入口側の半分が校務や会計の席となり、窓側の半分は富岡という教頭の席になっています。学校長は夜は出て来ないので、富岡教頭が校長代理として、すべてを委(まか)せられているのです。富岡教頭はそれがいささか得意で、わざわざこんなところに机を据(す)えさせ、いい気持になっているのでした。魚住浪子の席は、そこから四米ほど離れたところにあります。彼女は杭にかぶさるようにして、一心に算盤(そろばん)を弾(はじ)いていました。

[やぶちゃん注:「学校長は夜は出て来ないので、富岡教頭が校長代理として、すべてを委(まか)せられている」現在も(少なくとも私が国語教師をしていた十年前までの神奈川県の公立高等学校の夜間部を持つところは)、このシステムは変わっていない。]

「なんだい。給料袋が違ってるじゃないか」

 山名申吉はその机の前に立ち、頰をふくらましてそう言いました。

「これは僕んじゃないぞ。五味君のじゃないか」

「あら。そう」

 魚住浪子は算盤の手を休め、ちらと給料袋を見ながら、無感動な声を出しました。

「じゃ五味さんと取換えといてよ」

「取換えるたって――」

 と山名はちょっと口をもごもごさせました。なるほど当人同士で取換えるのが、一番早道だったかも知れません。そうと気がついたけれども、しかし山名は行きがかり上、おっかぶせるように言葉を継ぎました。

「そんなこと出来るかい。君の手違いなんだから、改めて君から渡し直してもらう」

「あら、そんな官僚的なこと言わないでよ。忙しいんだから」

「官僚的だって?」山名はズボンのバンドをぐいと引き上げました。「僕が官僚的なんかであるものか。官僚的というのはそんなんじゃないぞ。とにかく僕が五味君の給料を貰ういわれはないんだから、これは返すよ」

 給料袋がばさりと算盤の上に落ち、魚住浪子の眼鏡がとたんにキラリと光りました。魚住浪子は度の強い眼鏡をかけていて、そのために眼が浮き上って見えるのです。金魚という綽名(あだな)がついていました。そして彼女は目に立たない程ですが、足が少しびっこでした。色は白いし、じめじめした性格ではないのに、そんなことのためか、二十八歳の今日までまだ独身です。ここに八年も勤続しているので、事務にも明るく、なかなか鼻柱の強いところがありました。若い教員なんかは、いつも彼女につけつけと言いまくられます。

「ほんとに面倒なひとね」

 しかし押問答の末、ついに彼女はそう言いました。つまり折れたのです。

「じゃ仰(おお)せの通りにしますよ。すればいいんでしょ。五味さんの方がよっぽどサッパリしてて良いわ。七面倒くさいことは言ってこないし」

 ふん、と山名は鼻の先で笑いました。

「同じ金額だから、どちらを貰っても同じなのにねえ」

 そう呟きながら、魚住浪子は算盤の上から給料袋をつまみ上げました。ぽっちゃりとふくらんだ掌です。その掌の形を見ると、山名は妙な小憎らしさをそれに感じながら、口をもごもごさせました。

「ふん。五味君と僕とは、少し違うさ」

 何が違うのか、自分でもはっきりしないまま、山名はそう口走りました。すると今度は魚住浪子が、ふん、と鼻の先で笑いました。

 山名はこの魚住浪子を、初めからあまり好きではありませんでした。女らしい優しさがなく、態度にもものの言い方にも、こちらを莫迦(ばか)にしたようなところがあったからです。まだ男を知らないせいだろう、と山名は思ってもみるのですが、富岡教頭が魚住浪子に手をつけているという噂も、教員室の一部には流れているのです。山名もそれを耳にはさんだことがあります。魚住浪子が事務の勢力を握っているのは、教頭の後楯(うしろだて)があるせいだというのです。もちろん噂ですから、真偽のほどは判りません。しかし富岡教頭がなかなかの精力家であり、好色漢であることは、その風貌から推しても、ほぼ確かなことでした。厚目の眼鏡をかけた女の顔は、とかく男の好き心をそそるものだ、そういうことを言った人がありますが、それはどんなものでしょう。

 富岡教頭は好色家であると同時に、なかなかの野心家でした。顴骨(かんこつ)の高い青黒い顔をした、五十がらみの男です。鼻下にはチョビ髭(ひげ)をたくわえています。しゃべる時に口の端に泡をためる癖があります。そして何時も、自分は若い人の味方であると公言し、自らもそう信じていました。本当は、自分自身の味方である以外の何ものでもなかったのですが。――校長代理になって以来、彼はしゃべり方まで変ってきたようです。以前のような一本調子のしゃべり方でなく、急に秘密らしく声をひそめてみたり、時には磊落(らいらく)そうな笑い声を立ててみたり、猫撫で声を使ってみたり、突然重々しい口調になってみたり、話術の変化をつくすようになりました。人心収攬(しゅうらん)のために必要だと、当人は考えているのですが、はたから見ると少しわざとらしく、また少し滑稽(こっけい)でした。

「山名申吉教諭」

 ある夜のこと、何を思ったか、富岡教頭はわざわざ山名を自分の席に呼びつけて、もったいぶった声で言いました。

「君はたしか、国文学が専攻だったね」

「はあ、そうです」と山名は不審げな顔で答えました。

「まあ掛けたまえ」と教頭は重々しくあごをしゃくりました。そして急に優しい声に変って、「――文学の研究も大へんだろうね。いや、大へんなことは判っておる。君みたいな真摯(しんし)な学究の徒が、いろんな悪条件にさまたげられて、やりたい研究も遅々として進まない。私は以前から見るに忍びなく、どうにかしたいと思っていましたじゃ」

 山名はきょとんとした顔をしていました。どうも話がおかしかったからです。教頭は唇に泡をためながら、かまわず話を続けました。

「それでじゃ、いろいろ考えた結果、君の研究を文部省に推薦して、ひとつ研究費を交付いて貰おうと思ヽっておる。むろん私の一存でじゃ。それによってますます研究を深め、本校の名誉を上げて貰わねばならん。異存はなかろうね」

「はあ」わけも判らないまま、急に世間に認められたような気がして、山名はかすかに胸を張りました。「はあ。それで――」

「そいで君の文学部門における専攻は、何時代の文学だったかねえ?」

「は。そ、それは、ええと――」と山名は少しあわててどもりました。実は研究などは、何もしていなかったからです。そして苦しまぎれにとんちんかんな答え方をしました。「ええと、それはやはり、時代的に言えば、ずいぶん昔の方でして――」

「ははあ。そうすると、古代というわけかな」

「はあ。コ、コダイ文学です」

「私は国文学は専門外じゃが――」

 教頭はおもむろに薬指の腹で、鼻下のチョビ髭のさきを満足げに撫でました。

「先頃知人にすすめられ、古事記だの日本書紀だのいう本を、ちょっと読んでみたが」そこで教頭はきたない歯ぐきを出してにやりと笑い、急に声を落しました。「――あの頃の、それ、何ちゅうか、つまり男女間の愛欲じゃね、あれはなかなか烈しくて、率直で、しかも健康なもんじゃな。あのあり方を分析研究すれば、現代人にとっても定めし有意義じゃろうと、私はその時しみじみと感じたよ。どうじゃね。私の感想は間違っておるかね」

「ごもっともな感想です」

 小さな声で相槌を打ちながら、山名はそっと額の汗をふきました。教顛はえへんとせきばらいをして、ふたたび重重しい声に戻って言いました。

「そうか。君もそう思うか。では、君のテーマは、本朝古代文学における愛欲のあり方について、とでもするか。よかろう。それは面白かろう。ではそういうことに決めて、なにぶん一生懸命にやって呉れ給え」

 それから教頭は机の引出しから、科学研究費交付金等取扱規程とか、研究助成補助金申請手続きとか、そんな書類を何枚も引っぱり出して、山名の方に突きつけました。気持もろくに定まらないまま、山名はぼんやりとそれを受取ってしまいました。そして立ち上ろうとすると、教頭が再び口を開きました。

「ええと、五味司郎太教論に、一寸ここに来るように言って呉れ給え」

 山名が教員室の方に戻ってくると、五味司郎太教論はいつものように、短い脚を椅子からぶらぶらさせて、天井の節穴を眺めておりました。それは遠くから見ると、薄暗いところに生えた蕈(きのこ)みたいに見えました。山名は今度自分が書こうと思っている小説のことを、頭の中でちらと考えました。そして今貰った書類をそっと丸めて、何となく背中の方に廻してかくしながら、そろそろと自分の席に戻って来ました。

「教頭が君を呼んでるよ」

「あ、そう」

 五味はそう答えて、おもむろに椅子からずり降りました。

 ひょいひょいと歩いて行く五味の後姿を見た時、教頭は研究交付金のことを五味にも持ちかけるつもりだな、と山名は初めて気が付きました。山名は丸めた書類をぽいと机の上に投げ出し、しずかに腕を組みながら、

「ふん。古代の愛欲か」

 と意味もなく呟きました。視線は五味の後姿に固定したままです。なにか憎しみに似たような感情が、磅礴(ほうはく)と山名の胸を満たしていました。

[やぶちゃん注:「磅礴」元は「交じり合って一つになること・混合すること」であるが、ここはそこから派生した「広く満ちること・広がり塞がること」の意。]

 

     

 

 山名申吉は五味司郎太を、いつかぼんやりと憎んでいたのです。

 何時頃からこんな感情が、胸に忍びこんできたのか、山名自身にもよく判りませんでした。初対面の瞬間から、その感じの原形があったような気もするし、またずっと後のような気もする。どうもはっきりしません。でも初めの中(うち)はやはり、憎悪という定まった形ではなく、漠然と屈折した関心、そんなものだったのでしょう。机も隣り合わせだし、年頃も独身であることも同じだし、皆からも同類項みたいに眺められている。そのことがまず山名の意識に、微妙にはたらいていたに違いありません。同類意識。競争意識。いや、それらとも少し違う。

 実を言うと最初のうち、彼はむしろ五味を軽(かろ)んじ、その頭の恰好や不器用な歩きぶりや気の利かない言動などを、莫迦(ばか)にする気持も確かにあったのです。その気持はやや形を変えて、今でも山名の胸にほのかに動いている。妙に間の抜けたところが五味にはあって、それが教員室の愛嬌のひとつにもなっていました。山名ですらふき出したくなるようなことが、時々ありました。

 それにも拘(かかわ)らず、独りで下宿にいる時などに、ふと五味司郎太の顔を思い浮べたりすると、山名は故もなく、なにか放って置けないような気持になってくるのです。大事な忘れ物をしたみたいな、思い出そうとしてもどうしても思い出せないような、咽喉元あたりがえぐいような気分です。その感じが山名には、どうもうまく摑(つか)めない。一方では憫笑(びんしょう)をかんじているくせに、他方では頰が硬ばって、笑いがそのまま笑いでなくなってしまう。そんな感じも強く胸に来るのではなく、遠くからおいでおいでをする具合に、かすかに神経の尖(さき)にからまってくるのです。

 こういう自分の気持にはっきり気が付いたのは、小説をひとづ書いてみようと、山名が思い立ってからでした。

 山名はもともと作家志望者ではありません。学校では国文学を修めたのですが、国文科が一番やさしそうだったからで、特に文学が好きだったからではありません。しかしこの一二年ほど前から、自分というものをハッキリさせるために、小説というものを書いてみようかなという気持が、少しずつ山名の胸に萌(きざ)し始めていたのでした。ぼんやりとあてもなく生きている自分が、そろそろやり切れなくなってきたのです。

[やぶちゃん注:「学校では国文学を修めた」梅崎春生は熊本五高を昭和一一(一九三六)年三月に二十一歳で卒業(二年時に落第したため。卒業時も試験の成績が悪く、卒業認定で教授会は三十分近く揉めた)し、四月に東京帝大文学部国文科に入学したが、自主留年した一年を含め、在学中の四年間は試験日以外の講義には一日も出席しなかったとされる。昭和一五(一九四〇)年三月、二十五で卒業、卒業論文は「森鷗外論」(八十枚・現代小説のみを対象としたもの)であった。卒業後は朝日新聞社・毎日新聞社・NHKなどを志願したが、総て不合格で、友人で後の作家霜田正次の紹介で、東京都教育局教育研究所の雇員(但し、教員でも何でもない、やっていることも怪しげで意味のない教育関連研究公機関の下っ端である)となっている。]

 近頃特に山名申吉は、生れて今まで、目的も志もなく、何となく生きて来たような気がしてならないのでした。やはり年齢のせいもあるでしょう。田舎の平凡な家庭に生れ、周囲のすすめるまま学校に行き、卒業して何となく会社に勤め、自分の意志でなく兵隊に引っぱられ、今はこんな夜学の教師になっている。どんな者になりたいとも思わず、人を愛したこともなく、人生の片隅でのろのろと肥り、その日その日をぼんやりと過している。どうも最初のでだしが悪かったのではないでしょうか。彼は十二人兄弟の末弟に生れ、そのせいで両親からもうんざりされ、あまり構われもせず育ってきたのです。初めから何か茫漠としているのです。麻雀(マージャン)で言えば、最初からバラバラの手が来ていたようなものでした。平和(ピンホウ)を志そうとか、清二色(チンイーツウ)をねらってみようとか、対々和(トイトイホウ)に仕立ててやろうとか、山名の人生には、そんな目的や方針は、最初から立っていなかったのです。どうにかなるだろうと、いくらかたかをくくって、他人事(ひとごと)みたいに人生の摸牌(モウパイ)を繰返しているうちに、茫々(ぼうぼう)として三十一年が経ってしまったという訳でした。

[やぶちゃん注:私は麻雀を知らないし、やったこともないので、以上の三種の役も説明しようがない。ネットのオンライン麻雀サイト「麻雀豆腐」の「麻雀の役 一覧表 シンプル見やすい!」を参照されたい。「摸牌(モウパイ)」は『盲牌(モウパイ、モウハイ)』の古い表字で、『麻雀用語のひとつ。指の腹で牌の図柄の凹凸をなぞり、その感触で牌の腹を見ずにどの牌か識別すること』とウィキの「盲牌」にあった。]

『とにかく俺という人間は――』と山名申吉は近頃考えるようになりました。『生きることに生甲斐を感じなくてはならぬ。先ず生甲斐を!』

 こうして山名は小説を書こうと思い立ったのでした。もちろん他人には秘密です。小説を書けば少しは何かがハッキリしてくるかも知れない。山名はそう思ったのです。では先ず小手慣らしに、自分の身辺に題材を求めることにしよう。

 そして彼はいろいろ考えた揚句(あげく)、島津鮎子を書くことに決めました。あの机の昼間の女教師のことです。机を共有する見知らぬ女性、なかなか小説的構想ではないか。下宿の机に殊勝に向って、山名はひそかに沈思にふけります。ジョン・モールトンの小説にも、確かそんなのがあったようだ。あれはボックス氏とコックス氏の話だったかしら。――

[やぶちゃん注:「ジョン・モールトン」Jon Moultonだろうが、不詳。従って、「ボックス氏とコックス氏の話」=「小説」というのも不詳。]

 ところが下宿に閉じこもっていても、小説はなかなか進行しませんでした。どんな風に書き出したらいいのか、一向にめどがつかないのです。だから机の前に坐って、ぼんやりと島津鮎子のことを空想しているだけ。あの引出しに入っていた白い下着、その色や感触などがあざやかに頭にうかんで、もやもやと悩ましくなってきたりする。すると意識の入口に、急にうすぐろい陰影みたいなものを感じて、山名は舌打ちをしながらペンを投げ出します。

『一体あいつは何を考えてんだろうな』

 それは何時もあの五味司郎太のことでした。この俺が近頃くよくよしたり、あせったり、気がねしたりして生きているのに、あいつは劣性遺伝の型録(カタログ)みたいな恰好をしてる癖に、平気でぬっと生きているようなところがある。あの巾着頭は、人から笑われたって貶(けな)されたって、そんなことにはてんで無関心で、自分だけでこっそりやっているような趣きだ。無感覚なクラゲみたいなとこが、あいつには確かにある。そして山名はだんだん腹がたってくるのでした。俺があやまってつまみ出した下着を見て、冗談(じょうだん)に紛(まぎ)らして呉れるのならともかく、いい色だねえとは何ごとだろう。見て見ぬふりをするのが礼儀ではないか。だいいちあの眼玉が気に食わない。見ていながら、こちらを全然認めていないような眼付だ。よし、そのうちにきっと本音(ほんね)をはかしてやるぞ。

 寝床にもぐり込んでも、山名はひとりで力みながら、そんなことをしきりに考えたりするのでした。相手が眼の前にいないので、ひとたび考え出すと果てしがないのです。五味のひとつひとつの言葉や表情などが、現実をはみ出て誇張され、なまなましく歪(ゆが)められ、そして山名の神経を剌戟してくるのでした。あるいは山名は自分でも気付かぬ心の奥底では、そういう思念や空想を愉(たの)しんでいたのかも知れません。と言うのは、実際に五味を前にすると、空想ほどは憎らしくもなく、それほどいらいらもしないのです。いくらか風変りな一人の同僚というに過ぎません。こだわりなく話し合うことさえ出来ます。ところが居ないとなると、なんだか頰がこわばるような感じで、放って置けない気持になってくる。

『俺はいつも架空の憎悪でもって他人につながっているのではないか?』

 ある夜ふと、山名はそう考えました。彼は今まで、実際の人間を愛した記憶はほとんど無く、あるのは憎んだ記憶ばかりでした。彼にとって、他人に関心を持つというのは、淡い憎悪を抱き始めるということでした。少くとも今までの例ではそうでした。些細(ささい)なきっかけで人を憎む傾向が、山名という男には多分にありました。しかし彼はそれを表現はしない。その憎しみは山名の心の中で屈折し、内攻し、いくらか変形し、そしてそこで完了する。――五味を憎み始めたというのも、つまりは五味への関心が深まってきたせいでしょうか。無意思な蕈(きのこ)みたいな五味の顔を瞼(まぶた)に描きながら、山名はぼんやりと考えます。

『それにしても、あいつは何でもって他人につながっているのだろう?』

 どうもつながっていないらしい。そう山名は漠然と感じる。すると五味の存在そのものが、急に山名の自尊心をするどく傷つけてくるのでした。自意識の強い男の例として、山名はひどく敏感な自尊心を持っていました。ふん、まるで俺だけがバタバタしているようじゃないか。

 毎晩こんなことばかりを考えているものですから、どうも寝付きが悪いし、朝目覚めても頭がさっぱりしない。季節のせいもありました。むしむしと暑苦しい気候が、とかく彼の眠りを浅くするのです。それに悪いことには、彼の部屋に春先以来、鼠がやたらに繁殖したらしく、ひっきりなしに天井を走り廻るし、部屋の中にも平気で出没する。蒲団の上を駈け抜けたり、寝ている枕を齧(かじ)ったりするのですから、おちおち眠れたものではありません。

 あれやこれやで山名申吉は、しだいに睡眠が不足し、とうとう神経衰弱気味を自覚するに到りました。

 肥った男の神経衰弱なんて、瘦せた男の股(また)ずれと同じく、しごく不似合いなものですが、おかしなことにはこんな状態になってから、山名の体軀はいよいよ肥って来るようでした。それに従って動作も鈍重緩慢となり、何をするのも大儀になってきました。肥ったのではなく、むくんできたのかも知れません。

「ますます肉付きが良くなられて、私なんかうらやましいですな」

 蟷螂(かまきり)のように痩せて骨ばったある同僚が、ある時山名に向って言いました。この同僚はユネスコ精神の信奉者で、『ホネスコ』という綽名(あだな)がついていました。

「はあ」

 と山名は悪事を見つけられた子供のような顔になり、そして仕方なさそうに笑いました。肥る原因もないのに肥って行くことに、彼はいくらか引け目を感じていたのでした。

「君が傍に坐っていると、教員室が半分しか見えない」

 別の夜の休憩時間に、椅子から脚をぶらぶらさせながらあたりを見廻していた五味司郎太が、ぽつんとそんなことを言いました。ごくあたり前の口調でです。ふと思ったままを、率直に口に出したという感じでした。よろしい。言ったな。今夜いろいろと考えてやるぞ。そう思いながら、しかし山名は強(し)いて微笑を頰に浮べ、わざとのろくさと答えました。

「そうかね。多分それは遠近の関係だろう」

 すると五味は、両掌で枠(わく)の形をつくり、自分の顔の前にかざし、その間から山名の方を無遠慮にのぞきました。視野の中に山名の体が占める大きさを測定しようと試みるらしい。山名は尻がむずむずして、立ち上りたくなってきましたが、じっと我慢しながらおだやかに言いました。

「――僕はこれでもいいけれど、君はあまり肥らないようだね。体質の関係かな」

「いや」五味は掌の枠をゆるゆると解きながら、確信あり気に答えました。「僕はしょっちゅう頭を使うんでね、それで肥らないんだ」

 山名の鼻翼がぴくりと動きました。そうすると俺はまるで頭を使ってないみたいだぞ、などと山名が考えている中に、五味はその話題に興味をなくした風にそっぽ向き、もう腕組みをして天井の節穴などを眺めておりました。言い返すきっかけもなくなり、山名はむしゃくしゃした気分になって、その五味の方をちらと横目で眺めました。原子雲に似たその頭の恰好が、へんに憎たらしく、同時にへんに遠く隔った感じとして、山名の視神経をいらいらと圧迫しました。気弱く眼をそらしながら、山名は心の中で呟きました。

『よし。この巾着頭のことを書いてやる』

 山名の下宿の肌上の原稿用紙には、まだ一字も書いてありません。島津鮎子のことを書こうと、毎晩あれやこれや空想しているうちに、空想の中ですべてが完了してしまって、何も書くことがなくなってしまったのです。つまり心の中で小説を書き終ったという訳でしょう。

 その夜遅く、山名は机の前にきちんと坐り、眼を閉じたり開いたりして、しきりに何かを考えていましたが、やがてペンをとり、原稿用紙の第一枚目に大きな字で。

『五味の場合』

 と書きました。いよいよ五味司郎太のことを書く決意をかためたのです。『五味の場合』とは、自分ながら仲々しゃれた題名だと、山名はいささか満足な気持でした。初め『五味司郎太における人間の研究』としようかと思いましたが、すこし長すぎるし、またどこかで聞いたような語呂だと思って、やめにしたのです。今度こそはあまり空想にふけらず、五味司郎太の人となりを、着実に執拗(しつよう)に描いて行かねばならぬ。前の失敗にかんがみて山名はしみじみとそう思いました。先ずこの小説の書出しは、あの巾着頭の即物的な描写から始めよう。志賀直哉みたいな文体がいいかしら。それとも坂口安吾式の奔放な文体を採用しようかしら。

 文体もまだハッキリ決めかねている中に数日が過ぎ、あの研究費交付金の通知の日がきました。この日は山名にとって、いくらか運命的な日でした。

 その夜山名が授業から戻ってくると、魚住浪子が呼びに来たのです。この間の事件から、彼女は少し彼につんつんしている傾きがありました。

「教頭さんがお呼びだわよ」

 山名が教頭室に入って行くと、富岡教頭は卓上鏡と顔をつき合わせ、伸びた鼻毛をしきりに抜いておりました。山名の顔を見るなり、磊落(らいらく)そうな大きな声で言いました。

「やあ、君、残念なことじゃったよ」

 何のことだか咄嵯(とっさ)には判りませんでした。研究費交付金のことなんか、山名はすっかり忘れてしまっていたからです。そのきょとんとした顔を見て、教頭は補足するように急いで言葉を継ぎました。

「――君のあの研究費交付金のことな、あれは駄目じゃったよ。却下されたよ」

「はあ」

 やっと思い出して、山名は気のない返事をしました。駄目なら駄目でもよかったのです。なまじ貰えば、論文をまとめねばならぬだけ面倒な話でした。そんな論文をまとめるより、『五味の場合』をまとめる方が、山名にとっては緊急事なのでした。しかしその返事を聞いて富岡教頭は、山名ががっかりしたと思ったらしく、とたんに慰めるような猫撫で声になりました。

「まあまあ、そう落胆せんでもええ。来年ということもある。君のあれは何じゃったかなあ。ええと、古代文学における色欲のあり方、と言うんじゃったな」

「愛欲のあり方、です」

「ああ、そうそう。愛欲も色欲も似たようなもんじゃ。なかなか面白いテーマだからして、ま、元気を落さず、そのまま研究を続けた方がよかろう。時になんだね、君はまたすこし肥ってきたようだね。健康第一。先ず健康。なによりのことじゃ」

「それが、その――」神経衰弱気味だと言おうとして、山名は途中で止めました。ふと頭にひらめくものがあって、そのことを訊ねることにしました。「それで、落っこちたのは、僕だけですか?」

「いや、なに」

 富岡教頭は具合悪そうに、ふたつの鼻孔を指の腹でこすりました。そして口の中で適当な言葉を選んでいる風でしたが、やがて思い切ったように重々しく口を開きました。

「五味司郎太教諭はパスした。あれは社会部門だから、志望者が少かったせいじゃろ」

 山名のふくらんだ瞼が、その瞬間ぴくりと慄えました。それから彼の体は大儀そうにぶわぶわと立ち上り、ゆっくりとお辞儀をして椅子を離れました。そして山名の顔は、向うの席に掛けている魚住浪子の顔と、ぴたりと会ったのです。彼女は机に頰杖をついて、どうも話を盗み聞きしていたらしい様子でした。視線が合うと、彼女はおもむろに頰杖を離してうつむきながら、片頰だけでにやりと笑いました。気の毒そうな笑いでもあり、照れたような笑いでもあり、憐れむような笑いでもありました。その机の前を、山名申吉はむっと表情を崩さず、しずかな足どりで通り抜けました。

 自分の席に戻ってくると、隣りでは五味司郎太が、帰り支度を始めていました。山名申吉はその側にぼんやり立ち止り、空気でも見るような眼付でそれをじっと眺めていました。なんだか歯の奥がぎりぎりと鳴ったようです。やがてかすれたような声で話しかけました。

「研究費が降りることになったそうだね。よかったね」

「うん」風呂敷を結ぶ手をやめず、五味は答えました。それほど嬉しそうな顔でもありませんでした。「まあ雀の涙みたいなもんだね」

「ええと――」山名もやっと我にかえったように帰り支度を始めながら、感情を押し殺したような声で訊ねました。「それで君の研究題目は、何というの?」

「詐欺罪(さぎざい)の研究というのさ」

「サギ?」

「そら、広告詐欺だの、ペーパー詐欺だの、土砂流しだのって、よく新聞にも出てるだろう。あれだよ。人間のインチキのことだよ」

[やぶちゃん注:「広告詐欺」当時のそれは、新聞広告や雑誌広告で求人・物品売買などを謳って、手付金だけを奪取する詐欺のことであろう。

「ペーパー詐欺」詐欺商法の一つで、「ペーパー商法」とも言う。現物紛(まが)い取引で、金(きん)などの現物を売るとして代金を受け取り、現物の裏付けのない預かり証を渡す詐欺商法を指す。

「土砂流し」詐欺の一種の隠語。「御天気師」とも呼ぶ。単独又は共謀で行うもので、一人が贋造の金品を、通行人の来る前路の上に落しておき、他の同類が、通行人と一緒にそれ拾い上げ、警察へ届けようとする途次、種々の口実を設けて、拾得した金品をその通行人に預けて、信用させ、逆に、その人の所持する金品を借り受け、逃げる詐欺を指す。]

「へええ」

 と言ったきり山名は口をつぐんでしまいました。五床司郎太と詐欺、なんだかあまり奇妙な組合わせなので、その感じが咄嵯(とっさ)に頭にすっと入ってこないのでした。そして山名はちょっと手を休め、頰の肉をたるませながら、ふと遠くを見るような眼付になりました。瞼の裡(うら)に、あの原稿用紙に書かれた『五味の場合』という文字が、ぼんやりと浮び上ってきたからです。やがて彼はぐふんと咽喉(のど)を鳴らし、椅子を机に押し込みながら、さり気ない調子で言いました。

「もうそろそろ一年になるね、お互いにここに勤め始めてから」

「そんなものになるかな」

 気のない返事をして、五味は包みを小脇にひょいとかかえました。そして二人は机の間を縫って、出口の方に歩きました。薄暗い廊下に出て肩を並べると、ふたたび山名は口を切りました。

「それで、二三日前から考えたんだけれども――」上衣なしのシヤツの肩がちょっと触れ合いました。なんだかねとねとした感じがして、山名は反射的に肩をすくめました。

「一周年記念ということで、君と一献(いっこん)酌(く)み交したいと思ったんだけれどね」

 二三日前に思い立ったということは事実でした。『五味の場合』を書き始めるには、まだまだ材料不足で、もっとデータを集めねばならぬことに気が付いたのです。

「飲むのは結構だね」

 ひょいひょいと踊るように歩を踏みながら、五味はどっちとも取れる答え方をしました。もちろん山名は、たいヘん結構だ、という風に解釈して、予定の言葉を続けました。

「この間よそから上等ウィスキーを二本貰ったんでね」これは嘘でした。「今度の日曜、そいつを君んとこにぶら下げて行くよ。僕んとこは間借りだから、ちょっとまずいんだ」

 五味が『何々方』ではなく、独立家屋に住んでいることを、庶務の名簿で調べて山名は知っていたのでした。独身で扶養家族もないのに、ちゃんと一軒の家を構えている。どんな恰好の家に住み、どんな生活をしているのだろう。『五味の場合』を書くためにも、是非それは見る必要があるのでした。しかし今はその必要だけでなく、なんだか遮二無二押しかけて見たい嗜欲(しよく)が、しきりに山名を駆り立てていました。もはやこのまま放って置くわけには行かない。

 校門で五味と別れ、侘(わび)しい下宿の部屋に戻ってくると、山名は汗ばんだシャツを脱ぎ捨て、裸になって部屋の真中にどっかと坐りました。身体は疲れている癖に、神経はいらいらとたかぶっていました。天井裏を鼠がゴトゴトガタガタと走り抜け、細かい埃(ほこり)のようなものが、山名の肩にはらはらと降りかかりました。その乱雑な部屋のさまをぐるりと見廻し、山名はやがて呻(うめ)くように呟きました。

「却下されたのは、別に口惜しかない」

 そして山名は、あの青黒い富岡教頭の顔や、魚住浪子の片頰の笑いなどを、ありありと思い浮べました。胸の奥がきりきりと疼(うず)き出すような感じがして、山名は思わず大きく息を吐き、自然と据えた眼付になりました。その視線は偶然、机上の『五味の場合』という字の上に、ぴたりととまっていました。その字のあたりにも、細かい埃がうっすらとつもっていました。その時山名の視野の端、丁度部屋の隅あたりに、黒い影のようなものがちらっと動いたようでした。

『五味の場合か。五味の場合と。そしてこの俺の場合と。俺が落っこちたのに、あの五味がパスしたということは――』と山名は唇を嚙んで思いながら、右手だけをしずかに横に伸ばし、そこに転がった古雑誌をそっと摑(つか)みました。くるっと体をひねると、その古雑誌を力まかせに部屋の隅に投げつけました。黒いものはぴょんと飛び上り、するりと唐紙(からかみ)の向うに姿を消しました。それは一尺以上もありそうな大きな黒鼠でした。

「また猫もどきの奴だな!」

 ぜいぜいと呼吸をはずませながら、山名は吐き出すように言いました。それはこの家の鼠族の王様らしく、図抜けて巨大な体と髭(ひげ)をもった一匹の老鼠なのでした。それはちょいとした猫ぐらいの大きさがありました。だから山名はかねてからこの鼠を『猫もどき』という綽名(あだな)で呼んでいたのです。この間学校の机の引出しから、苦心して持ち帰ったあの島津鮎子の下着を、たちまちくわえて逃げたのも、この『猫もどき』でした。それ以来山名はこの『猫もどき』をひどく憎んでいるのです。鼠にすれば巣をつくる材料にくわえて行ったのでしょうが、山名にしてみれば、自尊心をも犠牲にし、疑われるかも知れない危険まで犯してやっと手に入れたものを、あっさり持ち逃げされて、腹に据(す)えかねるのも当然でした。現物は手から離れ、思い出すと身もすくむ恥かしい罪の引け目だけが、そっくり残っているのです。とてもやり切れた話ではありませんでした。

『とにかく何かを早く調整しなければならぬ。このまま放って置く手はない』

 山名はむっと顔を硬(こわ)ばらせ、乱暴に押入れの戸をあけて、布団を引きずり出して、バタンバタンとしきながら思いました。

『このままでは俺は、何のために生きてるのかも判らない』

 燈を消して布団のなかに山名はまるまると転がり、やがて息苦しく眼を閉じていました。暗い瞼の裏に、いろんなものの形がむくむくと動き、ふとしたはずみに鼠のような形になったり、巾着頭の形になったりしました。眠りをさまたげる幻想の小悪魔が、今夜もしげしげとおとずれて来そうな気配でした。

「先ず生甲斐を。とにかく生甲斐を!」

 れいの架空の憎悪が、今夜に限って急に距離をちぢめて、なまなましく意識にからみつくのを感じながら、山名は念ずるようにそう呟き、どたんと寝返りを打ちました。

 

     

 

 五味司郎太の住居は、郊外のしずかな場所にありました。

 どこか素人(しろうと)くさい奇妙な建て方で、家というよりも小屋に似ていました。二十坪ばかりの敷地のまんなかに、それは建坪三坪かせいぜい四坪の、出来そこなった玩具のような不器用な家でした。敷地をぐるりと囲っているのは、不揃いな棒杭とチクチクした有剌鉄線で、その一箇所に人間がやっと出入りできるだけの狭い門が設けてありました。この家も囲いも門もみんな、五味が自分ひとりでこしらえたものでした。

 五味司郎太は窓の縁に腰かけて、脚をぶらぶら揺りながら、灰色がかった眼でぼんやりと表の方を眺めていました。そして、さっきから、ちょっとセメントの空樽がころがって来るみたいだな、などと考えていました。有刺鉄線を透かした向うの道を、山名申吉の肥った姿が、午後四時頃の影を引いて、こちらに歩いてくるのです。なんだかふらふらしたような足どりで、両手には重そうにウィスキーの瓶を、一本ずつぶら下げていました。その姿が門を入ってきた時、五味司郎太はやっとこの間の約束を思い出しました。『ああ、そうそう。一周年記念とか何とか言ってたっけ』

 五味ははずみをつけて、ぴょんと窓框(まどかまち)から床に飛び降り、部屋をななめにひょいひょいと横切って、扉を内側から押し開きました。

「やあ」

 と言って山名申吉がくたびれた恰好で入ってきました。ぶら下げた瓶をだるそうに床に置き、手巾(ハンカチ)を出して顔いっぱいの汗を拭きながら、じろじろと部屋の中を見渡しました。

「まったく暑い日だね。目がくらくらする」

 その部屋は板敷になっていました。家の中はこの部屋ひとつだけなのでした。部屋の一隅が炊事場所になり、そこに吊られた低い棚の上にコンロや飯盒(はんごう)やパンのかけらや大根の尻尾などが雑然ところがっていました。手製のまな板の上には、そこらで摘んできた野草らしい植物が、ひとつかみ乗っかっているのも見えました。

「自炊してるんだね。大変なことだ」

 靴を脱いで部屋に上りながら山名が暑苦しそうに言いました。

「なに、兵隊の頃から慣れているんだ」

 と五味はそっけなく答えました。座布団がひとつしかなく、主の五味がその上に坐ったものですから、客の山名は仕方なく板床の上に尻をおろす羽目になりました。そして肥満した山名が坐ると、床がみしみしと音を立てました。

「いい家だけど、なんだか妙なつくりだね」

 物珍らしそうにきょろきょろしながら、山名は言いました。尻の下がみしみしと軋(きし)むので、なんだか落着かないのでした。

「僕がつくったんだよ。材木を買いあつめて」

「へえ。君が。そんな器用なことがやれるのかい」

「兵隊で覚えたんだ」五味は手を伸ばしてよごれたようなコップを二つ前に置きました。「僕はこれでも工兵だったんだよ。南方に三年も行ってたんだ」

 それから二人はウィスキーを飲み始めました。暑くて仕様がないので、山名は失礼してシャツを脱ぐことにしました。シャツを脱ぐと山名の上半身は、まるでビニールの風船のように、肩だの胸だのが、ぶよぶよと不恰好にふくらんでいました。五味の眼はそれをちらちらと眺めていました。裸になってもやはり汗はじとじとと流れてくるのです。ガラス窓を透して西日がしたたかさし込むからでした。

 それでも汗を垂らしながらしゃべったりコップを傾けているうちに、やがてほのぼのと酔いが廻ってくるようでした。山名は時々眼をくゎっと見ひらいたりして、出来るだけその酔いを戻そうと試みていました。今日はいろいろデータを集めねばならぬ関係上、野放図に酔うわけには行かないのでした。

 北の壁際には、本がぎっしりと高く積み上げてありました。法律の本とか、そんなかたい本ばかりのようでした。乱雑に取散らした山名の部屋にくらべると、それだけでも堂々としていて、山名は先ほどからそこに漠然たる圧迫を感じていたのでした。そしてその傍の窓ぎわには画架(がか)が横向きに据えられ、二十号ほどのカンバスがそこにかけられているようでした。さっきからそれも気にかかっていて、山名はコップを持ったままやっと立ち上り、ふらふらとその前に近づきました。

「――君が描いたんだね」

 カンバスの隅の Gomi という署名を読みながら、山名は言いました。それはこの家を表から描いた風景両らしいのでした。山名は絵のことはあまりよく判らないのですが、どうもこの絵は、構図や配置はわりに正確なのに、色の調子が変な感じでした。それはなんだかはっきりしない、色素の不足したような、ぼやけて濁った色調でした。やがて五味の声がうしろでしました。

「どうだい。いい色だろう」

 山名は咽喉(のど)の奥であいまいな返事をしながら、心の中のメモに〈色素不足の風景画〉と書き込みました。その幻のメモには既に〈元工兵のお粗末な手製の家〉だとか〈床板のみしみし〉だとか〈座布団の横着〉だとか書き込まれてあるのでした。

 最初の一本が空(から)に近くなる頃から、五味も酔ったと見えて、とたんに饒舌(じょうぜつ)になってきました。おかしなことには酔ってくると、ふだんはどこを見てるか判然(はっきり)しないぼんやりした五味の眼玉が、徐々にはっきりと焦点を定めてくるような気配がありました。つまりふつうの人間と逆なんだな、と思いながら山名はその眼を観察していました。それから五味はしきりに皿の野草のおひたしをつまみながら、詐欺の話や南方の兵隊生活の話などを始めました。この巾着頭がどんな戦闘帽をかぶっていたのかと思ったとたん、山名は烈しくウィスキーに噎(む)せかえり、飛沫をそこら中にとばして、すっかり恐縮したりあやまったりしました。詐欺の話とは、五味の父親が詐欺にかかって恨み骨髄に徹し、そこで苦労して息子の司郎太を法科大学まで通わせ、詐欺罪の研究をさせたという話でした。父親の話をする時でも、五味はれいの抑揚のない口調で、他人事(たにんごと)みたいなしゃべり方をしたので、かえって妙に間の抜けた可笑(おか)しさがありました。やはりこの巾着頭はどこか間が抜けている、南方ぼけでもしたのではないか、と山名は観察しながら、それでも感心したふりして相槌を打ったり、わざとにこにこして見せたりして聞いていました。いっぽう五味の方でも、山名のだらしなくたるんだ頰のへんを見い見い、どうもこの風船男には間の抜けたところがある、あまり肥り過ぎたので頭に血が充分のぼらないせいだろう、などと推察しながらしゃべっていたのでした。いつかあたりは薄暗くなり、ウィスキーはもう二本目に手がついていました。五味はゆらゆらと立ち上って電燈をつけました。

「ここは静かだね」瓶の方に手を伸ばしながら、山名が思い出したように言いました。確かなつもりでいても、もう相当手付きが怪しいようでした。「虫の音も聞えないじゃないか」

「静かなところじゃないと、僕は勉強できないんだ」と五味もコップを取上げました。彼も舌が怪しくなったらしく、いささか言葉がもつれる風でした。「雑音が入ると何も出来やしない」

〈雑音嫌悪の傾向〉山名はすぐにそれを心のメモに刻みつけました。酔っても忘れてはならないことでした。そしてついでに訊ねてみました。

「やはり勉強は夜なんだろうね」

「そうだね。昼間はいろいろ用事もあるし、今度の論文もどうしても夜の仕事になるだろう」

「あの文部省の交付金は、もう貰ったの?」

 と山名は何気ない表情をつくって探りを入れました。

「ああ、貰ったよ」五味はウィスキーをごくりと咽喉(のど)におとしました。「身の廻りの品を買おうと予定してたのに、皆本屋の借金の方に廻ってしまった。いろいろ買いたいものがあったんだけれど」

「貰えただけでもいいさ。僕なんか――」ウィスキーのせいだけでなく、腹の中が急に熱くなるような気がして、山名はそう言ってしまいました。「僕なんか何も貰えなかった。中請書は出してみたんだけれどね」

「そうだってね」と五味は大して興味なさそうに言いました。「魚住浪子さんが、そう言ってた」

 魚住浪子の名を発音する時、五味の舌はちょっともつれて、へんに粘っこい響きを立てました。山名はなんとなく面白くない気分になって、また瓶の方に手を伸ばしながら、呟(つぶや)くように言いました。

「どうして僕のは落っこちたのかな。別段欲しいという訳じゃないけれど、落っことすには落っことす理由がね――』

「研究費をやる価値なしと」五味はそっけなくさえぎりました。「審議会でそう認めたんだろ」

 山名は鼻翼をびくりと動かして、じろりと視線を五味にむけました。電燈の光の具合か、五味の頭の鉢は、ふだんよりひとまわり大きく見えました。その頭をうつむき加減にして、五味は掌をうしろに廻し、老成した恰好で、しきりに首筋をもんでいました。山名の咽喉(のど)の奥がグウと鳴りました。

「南方にいた時神経をやられてね」頸(くび)をとんとんと叩き終え、五味はけろりとした顔になって言いました。「あちらの暑気は大へんなもんだった。なにしろ風が熱いんだよ」

「今でも悪いのかい」じっと見詰めたまま山名は探るように訊ねました。

「いや。もういいんだ。すっかり治ったんだ」

「全然異状なしか」

「なしだね。でも、まあ医者に言わせると、なにかショックを受けたりすると、ぶりかえすおそれもあるなんて言うんだけどね」

「ショックというと精神的の?」

「いろいろだろうね。でも医者の言うことなんか、あてにならないさ。あいつらはちょっと詐欺師みたいなところがあるな。オドシやハッタリを使ったりしてさ」

「僕も近頃、すこし神経衰弱気味なんだ」頰をわざとらしくゆるめながら、山名が言いました。妙にうわずった、うれしそうな声でした。「僕にもショックは悪いかな」

 それを聞くと五味司郎太は、とつぜん咽喉を痙攣(けいれん)させるような声で、甲高(かんだか)く笑い出しました。それにつられたように山名申吉も、胸の贅肉(ぜいにく)をたぶたぶさせて、その笑声に和しました。二人は顔を見合わせたまま、しばらくの間その笑いの合唱を続行しました。やがてどちらからともなく笑いを収めると、それぞれ何か納得の行ったような顔になり、めいめいのコップに手を伸ばしました。

 それから二人のコップを傾けるピッチが、急に早くなりました。それにつれておしゃべりの声も高くなり、呂律(ろれつ)もしだいに乱れてきました。そして一時間後には、両人とも気を合わせたように、すっかり酩酊(めいてい)してしまいました。

 山名の胸の贅肉を指さして、土人女の乳房を思い出すと五味が笑いこけますと、山名は上半身をゆたゆたとくねらせて、踊りの真似をしました。床板がみしみし、きいきいと悲鳴を上げました。そしてそれからの聯想なのか、こんどは魚住浪子の名前が飛び出したりしました。なにしろめいめいでウィスキ一本ずつあけたのですから、お互いに朦朧(もうろう)となって、相手が何を言ってるのかもさっぱり判りません。それでも山名は、この訪問の目的がかすかながら頭に残っているらしく、

「なになに、魚住浪子が大好きだと。浪子ちゃんにべた惚れだと」

 などと呂律も廻らぬ口で言いながら、心の中のメモでは不安心なのか、ズボンのポケットから本物の手帳を引っぱり出して、鉛筆でメモをなすくり始めました。すると五味も何を思ったのか、よろよろと自分も鉛筆をもってやって来て、そのメモを手伝おうとしました。

[やぶちゃん注:「なすくり」「擦(なす)くる」で、「表面を撫でるようにする」の意。私は使ったことがない。]

 山名が、

「ええと。べた惚れと。べた惚れの五味の場合と」

 と手帳に何やら書き込みますと、こんどは五味がその手帳を引ったくって、

「ええと。水ぶくれと。水ぶくれの神経衰弱と」

 などと訳もわからないことを書き込む。皮手帳はあっちの手に行ったりこっちの手に渡ったりして、とうとうどの頁も乱れた鉛筆の跡でいっぱいになってしまいました。

 それから先何がどういう具合になったのか、記憶がほとんどありません。朝ふと目を覚ますと、山名申吉は自分の下宿の部屋に、布団もしかずに寝ていました。頭ががんがん痛んで、そこらあたりが一面黄色に見えました。

「昨晩はどういう風(ふう)にして帰って来たのかな」

 こめかみを指でぎりぎり押え、朦朧たる記憶を探りながら、山名は苦しげに呟きました。どこかの歩廊の上から線路めがけて放尿したような記憶もあるし、五味の家の門のところでつまずいて転んだような覚えもある。五味の頭に抱きついて、これを標本に持って帰るんだと、わめいたような気もする。みんな曖昧(あいまい)で断片的で、思い出すと身体が縮むような記憶ばかりでした。こんなにだらしなく酔っぱらったのは、山名は終戦後初めてでした。そして舌打ちをして体を起そうとすると、あちこちの節々がぎくぎくと痛み、山名は思わずうめきました。

「あまり良いウィスキーじゃなかったな。あんなものを飲ませやがって」

 自分が持って行ったものであることもうっかり忘れて、山名は顔をしかめてぼやきました。

 昼頃になって、表に出て濃い珈琲(コーヒー)を二杯ほど飲み、やっと人心地がつきました。それからまた宛(あ)てもないので、ふらふらと下宿にまい戻り、ぽんやり机の前に坐り込みました。漠然たる自己嫌悪でうんざりするような気分でした。そしてふと眼をおとすと、机上の大切な原稿用紙の上には、斑々(はんぱん)と薄黒い模様が散らばっているのでした。それは鼠の足跡でした。なかんずく『五味の場合』という文字の上に印された足跡が、いちばん毒々しくはっきりとしていました。自分が書こうと思った小説を侮辱されたような気がして、とたんに山名はむっとしました。

「また猫もどきの奴だな!」

 二日酔いの状態にある時、人間はとかく情緒がたかぶりやすいものですが、この日の山名もそんな具合でした。彼は心中にかたく復讐をちかいながら、それをばりばりと破り捨て、次の一枚にあたらしく『五味の場合』と書き入れました。それからふと昨夜のメモを取っておく気になって、〈雑音嫌悪の傾向〉だとか〈神経ショック〉だとか、彼は心覚えを探り探りノートを取り始めました。その仕事をつづけながらも、実は昨夜のことを考えると、山名はなにか忌々(いまいま)しく、五味にうまくしてやられたという感じもするのでした。いろいろ収穫はあったにしろ、いい加減莫迦(ばか)にされたような感じが、心のどこかに残っていました。そしてそのままメモを進めている中に、山名は濛漠(もうばく)たる記憶の底から、とつぜん魚住浪子のことを思い出しました。それに続いてあの皮手帳のことが、ぱっと頭にひらめきました。山名はあわててペンを置いてポケットを探りました。手帳は折れ曲ってそこにありました。

 手帳に書かれた文字はほとんど判読できないものばかりでした。昨夜の泥酔をそっくり描いたようなものでした。山名は顔をしかめて、一枚一枚めくって行きました。四B鉛筆で書かれたのは、五味の字です。五味の字もやはりわけが判らない。ぐにゃぐにゃした四B鉛筆の跡を、やっと『水ブクレ』などと判読して、山名は呟いたりしました。

「水ぶくれなんて、あいつ足にマメでもつくってたのかな」

 ある頁にはやはり五味の鉛筆で、乱暴に絵が描いてありました。もちろん酔っぱらいの絵だから、めちゃくちゃな線です。頁の上方に描いてあるのは、爪がついているから、どうも指のつもりらしい。その指らしいものが二本。何かをつまんでる形かな、と思った時、山名の顔はさっと赤くなりました。それは指が何かをつまみ上げたところの絵でした。指からぶら下ったものの形は、そう見るとあの時のものの形とよく似ていました。いかにも皺(しわ)くちゃな布地の感じでした。絵の横には何か文字らしいものが書いてありましたが、それは支離滅裂でとても判読できませんでした。

「やったな」頰をびくびくさせながら、山名は暫くその字をにらみつけていました。「スケベエとかなんとか書いてあるんだろう!」

 ――その夕暮れ、山名申吉は顔をむっとふくらまして、学校の教員室に入って行きました。身体の節々が痛く、不機嫌でもあったのですが、昨夜の醜態を照れる感じもいくらかあったのでした。五味司郎太はもう来ていて、いつものように自分の席から、ぼんやりと教員室を眺め廻しておりました。二人は顔を合わせて、ちょっと目顔で挨拶し合っただけでした。山名のはどう見てもふくれっ面でしたけれども、五味の顔はいつもと同じ表情でした。別に親しげな色もなければ、その反対の色もない。初対面以来相も変らぬ、あのぼやっとした無感動な顔付です。昨夜一晩の交歓も、五味の情緒に何の影響も与えていない。全くそんな感じでした。莫迦にしてやがるな。山名も椅子に腰をおろし、不味(まず)い莨(たばこ)をしきりにふかしながら、何となくそう思いました。そう思うと彼はまた腹が立ってきました。力みかえっていたところを、ふいと肩をすかされた感じ。それが彼の鬱屈した怒りを行き場のないものにしました。

『やっぱり南方暑気の関係で――』とやがて山名は屈折した気持を持て余しながら、こんなことも考えてみました。『こいつの神経はどうかなったのに違いない。治ったなんて、嘘だろう』

 するといくらか可笑(おか)しさがこみ上げてきて、山名はすこし頰の硬(こわ)ばりをゆるめました。そうでも考えなければ実はやり切れないのでした。その山名のズボンの膝のあたりを、さっきから五味は巾着頭をかしげて、じっと眺めていました。

「面白い形だね。ちょいと九州の形に似ているよ」やがて五味は背をかがめ指をそこに近づけながら、いつもの声で言いました。「鼠が食ったんだね」

 そして五味の指が膝の皮膚に直接ひやりと触れたものですから、いきなり思考が中断され、山名はびくりとしてそこに眼をやりました。すると今までは気が付かなかったのですが、そこには直径二寸ほどの不規則な穴があいていました。その穴の形からしても、あきらかに鼠の仕業(しわざ)だと思われました。昨夜脱ぎ捨てたところを、嚙み破られたに違いありません。山名は狼狽しました。

「ちくしょうめ」

 山名は思わずそこに掌をもって行きました。夏のズボンはこれ一着しか無いのでした。だからあわてるのも当然でした。その山名のあわてた指が穴のところで、五味の指にちらと触れ合いました。五味の指はへんにつめたく、湿ったゴムのような感触でした。

「ウィスキーをそこに零(こぼ)したんだろ」五味はその手を引込め、小さな欠伸(あくび)をしながら言いました。「鼠という動物は、あれで案外アルコールが好きなんだ。僕も南方で経験がある」

 その声も耳に入らないように、山名は一心に穴を点検している風(ふう)でした。やがて充血した顔をのろのろと上げ、

「君んちには、鼠はいないのかね」

 と聞きました。それはなんだか調子の外(はず)れたような変な声でした。

 

     

 

 翌日の昼間でした。

 ある盛り場の大通りを、人混みの間を縫うようにして、五味司郎太はひょいひょいと歩いておりました。買物袋を提げているところを見ると、何か買物に出て来たのでしょう。

 偶然その時、その通りのある金物屋から、山名申吉が買物をすませて出て来ました。小脇にかかえているのは、特大の鼠取り器でした。そして彼はふと、歩いて行く五味の姿をそこに見付けました。呼び止めようとして、山名ははっと思い止った風に口をつぐみました。

 五味は何も気付かない様子で、ひょいひょいと歩いて行きます。十米ほど遅れて、山名は見え隠れに五味の跡をつけ始めました。

 ある大きなデパートの前までくると、五味の姿はふいに立ち止り、それから吸い込まれるようにその中に入って行きました。山名も直ちにそのあとを追いました。

 ある売場のガラス棚の前に立ち止り、五味は頭をかしげて、その中の品物にじっと見入っておりました。買おうか買うまいかと考えている風でしたが、やがて思い直したと見え、ふっと離れて歩き出しました。

 柱の陰から様子をうかがっていた山名申吉が、そこを飛び出して、足早にその売場の前にやって来ました。今しがた五味が眺めていたそのガラス棚には、爪切鋏がずらずらと陳列されてありました。山名はちょっと考え込む顔付になり、それから急に何かを思い付いた風に女店員を呼び、その一個を買い求めました。

 その時五味は文房具売場の前に立ち、ガラス棚の中をのぞき込んでいました。そこには油絵具のチューブがきれいな配列で飾られていました。やがて五味は諦(あきら)めたように頭を振り、そこを離れました。

 すると待ちかねたようにそこらの物陰から、山名の丸っこい姿が飛び出して来て、その前に立ちました。そしてチューブの配列を眺めてちょっと戸惑ったようでしたが、やはり直ぐに店員を手招きして、レモンイェローのチューブを指さし、そそくさと代金を支払いました。そして品物を受取ると、再びいそいで五味のあとを追いました。

 今度は五味は帽子売場の前に立っていました。

 山名は万年筆売場のかげにかくれて、その五味の姿をじっと見張っておりました。そしてなんだか嬉しそうなうすら笑いを浮べて、口の中で呟きました。

「神経ショックか」

 五味が欲しそうに眺めたものを全部買い求めて、そっと気取(けど)られないように買物袋の中に入れてやる。家へ帰って買物袋をひろげると、五味は愕然(がくぜん)とするだろう。おれは心神喪失の状態で万引したのかな、と疑ったりして惑乱するだろう。などと考えて山名はうす笑いをしていたのでした。そのショックで南方の神経病がぶりかえすとなれば、なおのこと面白かろう。

「おや。あんなものが欲しいのかな」

 向うの方でさっきから、五味は台から帽子をひとつつまみ上げて、その生地(きじ)を調べていましたが、今度はそれをひょいと頭に乗せました。かぶり心地を試してみるのでしょう。それはベレー帽でした。ベレー帽をいただいた巾着頭を遠望した瞬間、痙攣(けいれん)的な笑いがいきなりこみ上げてきて、山名の咽喉はしゃっくりのような音を立てました。体をよじって笑いを忍んでいるこの肥った男に気付いて、万年筆売場の売子のひとりが、気味悪そうな顔で後しざりしました。

 五味はベレー帽を台の上にもどし、またぶらぶらと歩き出しました。

 山名は笑いを収めてかくれ場所を飛び出し、そのベレー帽を摑(つか)みました。金を払ってそれを包ませ、五味のあとを追ってまたせかせかと階段をのぼりました。五味の姿はその登り口付近には見えませんでした。

 あわててきょろきょろすると、はるか彼方に、あの特徴のある頭が、やっと見当りました。この階は、客の影がすくないので、山名は背丈を縮めるようにして、忍び足で、五味の方に近づいて行きました。

 柱のかげからそっと覗(のぞ)くと、五味は楽器売場の前に立って、一合のグランドピアノに一心に見入っておりました。

「ピアノじゃとても買い切れない」自分の財布の中味を思い、山名はがっかりしたように呟(つぶや)きました。「第一あの買物袋に入り切りゃしない」

 しかし実は五味はピアノを眺めているのではありませんでした。その黒いすべすべした楽器の肌にうつる自分の顔に見入っているのでした。この顔にベレー帽が似合うかどうか、そんなことをぼんやり考えていたのでした。やがて五味は首を振り振り、そこを離れました。

 それから五味は階段をひょいひょいと降り、ふたたび表の通りに出ました。そこから近くの交叉点の安全地帯に立ち、やがてやって来た都電に乗り込みました。都電はなかなか混んでいて、すし詰めでした。五味は窓際に押しつけられて、呼吸(いき)苦しく外の景色を見ていました。

 その五味の直ぐうしろに、山名申吉の肥った体が、人目を忍ぶようにちぢこまって立っていました。そして顔の筋肉を奇妙に硬ばらせ、電車の動揺を利用して、手をもそもそと動かしました。五味は外の景色にすっかり気を取られていたので、買物袋までには注意が廻りませんでした。まして山名がうしろに立っていることにも全然気がついていませんでした。――

 その夕暮れ、この両人は教員室で顔を合わせました。いつもの通り目顔で挨拶し合っただけでしたが、山名は昨夜のふくれっ面と違って、今夜はにこにこと生甲斐のありそうな顔をしていました。五味の方は別段変化は認められないようでした。その五味をちらちらと横眼で窺(うかが)いながら、山名は落着かない風に貧乏揺すりをしてみたり、ひょいと顔をねじ向けて、近頃何か面白いことはないかね、などと話しかけたりしました。

 五味は言葉すくなくそれに答え、あとは何時ものように脚をぶらぶらさせ、教員室を見廻したり、ぼんやりと天井を眺めたりしていました。

 それから四五日が過ぎました。

 真夜中のことでした。

 山名申吉はぱっと眼が覚めて寝床からはね起き、急いで電燈をつけました。そして部屋の一隅に眼を走らせました。

 そこに仕掛けた鼠取りに、黒いものが入っていて、がたがたと動いていました。

「しめた。猫もどきだ」

 山名はわくわくしながら、顔をそこに近づけました。それはまさしくあの『猫もどき』でした。特大の鼠取りでしたが、『猫もどき』が入るとそれだけでいっぱいでした。

「やい」

 と山名は呼びかけました。『猫もどき』はじっと山名を見返しました。もっとも顔を外(そ)らそうにも、金網いっぱいの超満員なので、首も動かせないのでした。入っているのはやっと体だけで、尻尾は全部外にはみ出ているような始末でした。山名はその顔をしばらく一心に見詰めていました。

「全く厭な眼付だ。五味の眼にそっくりだ」

 やがて吐き出すように山名はそう言いました。鼠の視線もじっと山名に固定していました。そう言えば、それはどこか五味司郎太の眼玉に、感じが似ていました。それはこちらを見ているくせに、こちらを通り抜けて向うを見ているような眼付でした。恐れも悲しみも喜びも、その眼にはないようでした。

「ほんとなら殺してやるところだが――」

 島津鮎子の下着のことやズボンの穴のことを思い出して、山名はことあたらしくその顔を睨みつけました。あのズボンの穴は、山名は一晩つぶして、不器用につぎを当てたのです。実は新しいのを買おうと思ったのですが、五味にあの奇妙なプレゼントをしたおかげで、予算が無くなってしまったのでした。やがて山名は鼠から眼をそらしながら、忌々(いまいま)しそうに呟きました。

「まあ命だけはたすけてやる」

 翌朝、病気欠勤の速達を学校宛てに出し、日が暮れるのを待ちかねて、山名は外出の支度をととのえました。そして大きな風呂敷を出し、その鼠取りを『猫もどき』ごと包み込みました。包まれると『猫もどき』は急に不安を感じたらしく、キュウキュウと啼(な)きました。それには耳もかさず、山名はその包みをしっかと小脇にかかえて立ち上りました。

『一体あいつはすこしはショックを受けたのかな?』

 三十分ほどの後、山名はしきりにそんなことに考え耽(ふけ)りながら、電車に揺られていました。あの日ベレー帽其の他を、うまく五味の買物袋に辻(すべ)りこませたにも拘らず、歴とした反応がまだ五味にあらわれてこない。それが山名にはすこし不満なのでした。

『もし俺があんな目にあったとすれば、とても平気じゃおれないんだがな』

 あいつは特別だからな、などと呟きながら、山名は包みを持ち換えました。包みは嵩(かさ)の割に不気味な重量感があるのでした。やがて電車から降りると、山名は心覚えの道をまっすぐ五味の家さしてとっとっと急ぎました。

 五味の家は燈が消えていました。主は今頃学校の教壇に立っているのでしょう。山名は体を横にしてそっと門を入り、跫音(あしおと)を忍ばせて家のうしろ側に廻りました。そこに空気抜きの小窓があるのを知っていたのです。あたりにはかすかに虫音が聞えるだけで、あとはしんと静かでした。『こんど轡虫(くつわむし)をたくさん持ってきて、この庭に放してやろうか』山名は風呂敷包みの結び目をときながら、そう思いつきました。雑音があると勉強ができない。その五味の言葉を思い出したのです。『いずれそれも実行することにしよう』

 小窓に鼠取りをあてがい、そろそろと落し戸を引きました。暗がりの中で鼠の体がじりじりと後しざりするのが見え、そしてふっと鼠取りが軽くなりました。小窓から家の中に入り込んだのです。

『さあ。あれが五味家の鼠の第一号だぞ』

 門をすり抜けて道を戻りながら、山名は声なき声をたてて笑いました。五味の家には一匹も鼠がいない。ズボンの穴に気付いたあの時、山名の質間に答えて、五味はそう言ったのです。実はそれを聞いた瞬間に、山名の胸にこのアイディアが天啓のように湧き上ってきたのでした。鼠を生捕りして、そっとこの家にほうり込む。しかしその鼠をつかまえるとしても、まさか『猫もどき』がかかろうとは、昨夜まで予想もしなかったことでした。

 その夜下宿に舞い戻り、ごろりと寝床に横たわったまま、山名は眼をぱちぱちさせて何かを考え込んだり、時々低い声で独り笑いをしたりしていました。五味の炊事場が荒される有様とか、天井をかけ廻る『猫もどき』の足音などが、山名の想像にまざまざと浮んでくるのでした。それから五味の困惑や狼狽を想像したり、今夜の自分の成功を祝福したりしているうちに、山名は突然妙なことに気が付きました。

『そう言えばこの俺もおかしいことはおかしいぞ』

 あのアイディアが心に浮んで以来、山名は自分の胸の中に、今まで感じたこともない奇妙な情熱の高まりをずっと感じていたのでした。

 生れて以来あてもなくぼんやり生きて来て、情熱などというものには自分は縁がないと思い込んでいたのに、三十一歳の今になって、とつぜんこんな情熱が湧き立ってきた。しかもその情熱が、五味司郎太という個人への厭がらせ、その一点だけに燃え上っている。そう気がつくと、山名はなんだか妙な感じがしないでもありませんでした。おかしいと言えば、少しおかしな話でした。

「しかしおかしいのは、なにもこの俺だけじゃない。人間はみんなおかしいよ」

 どしんと寝返りを打ちながら、山名はそう呟きました。おかしいたって、あれ以来の毎日を充実して過してきたのは事実だから、それならそれでいいじゃないか。山名はそう自分に言い聞かせました。実際気がつくと、あれ以来夜もよく眠れるようになったし、彼を悩ましていたあの神経衰弱気味の感じも、すっかりけし飛んだような感じでした。

 それからまた一週間ほど過ぎました。

 二人は相変らず毎晩教員室で顔を合わせていました。別段変ったところもありませんでした。五味はいつもの五味だし、山名はまあいつもの山名でした。

 ある夜の休憩時間、山名は膝に手を伸ばして、ズボンのつくろった箇所を何となく撫でていました。五味のぼんやりした視線が、ふとそこに止りました。

「修繕したんだね」

 と五味はぽつんと言いました。

「ああ。自分でやったんだ」と山名は五味の方に顔をねじむけました。何だかいそいそとした動作でした。「実際鼠って奴は仕様がない動物だなあ。うちにはぞろぞろ居るんだ。君の家がほんとうにうらやましいよ」

 実を言うと、鼠のことを訊ねてみたい欲望が、この数日しきりに胸をそそのかすのですが、山名はじっと我慢していたのでした。うっかり訊ねると尻尾(しっぽ)を出すおそれがあるからでした。しかし今は絶好の機会のようでした。それで山名はさり気(げ)なく言葉をつづけました。

「でも君の家に鼠が住みつかないのは、不思議だねえ」

「ちっとも不思議じゃないよ」

 と五味はそっけなく答えました。

「不思議だよ、やっぱり」

 山名は顔を元に戻しながら、つづけてさも自然らしく訊ねてみました。

「全然出て来ないのかね?」

「四五日前、一匹出て来たよ」と五味はあたり前の調子で言いました。「久しぶりに旨(うま)かった」

 ぐっと咽喉(のど)が詰まるような気がして、山名は五味の顔を見ました。そして思わず押えうけたような声を出しまし

た。

「君は鼠を食べるのか?」

「ああ」と五味は気のなさそうにうなずきました。「南方でもずいぶん食べた」

 山名はそれでしゅんと黙ってしまいました。南方の元工兵を忘れたのは、全くの不覚でした。これでは鼠が居付かないのも、当然の話でした。

『よし今度は轡虫(くつわむし)だ』

 そっと唇を嚙みながら山名は心の中で呟きました。

 あの一日の苦労が無駄になったことも、忌々しい極みでしたが、あの大鼠の運命を想うと、かつての憎しみも忘れて妙に可哀そうな気がするのでした。五味なんかに食べられるなんて、なんと不幸な鼠だろう。よし、俺が仇をとってやる。黙りこんだまま、むらむらと湧き上るものを体内に感じながら、山名はひそかに力んでいました。

 それからまた十日ばかり、風のように過ぎました。

 巷(ちまた)にはもう秋風が満ちていました。

 ある夜、山名は相当に酔っぱらって、よろよろと自分の部屋に戻ってきました。学校の帰途、そこらの屋台で、ひとりで一杯ひっかけたのです。実は今日は学校から月給が出たのでした。しかし山名が酒を飲む気になったのは、そのせいだけではありませんでした。あまり面白くないことが今夜あったのです。

 それは五味が今夜、しごく平気な顔をして、あのベレー帽をかぶって来たからでした。

 あの買物袋への投げこみの効果については、いくらか危惧(きぐ)はあったにしろ、山名はまだまだ充分な自信を持っていたのでした。ところが今日はその自信を全然くつがえされたような形だったのです。

 今夜ベレー帽に山名が気がついたのは、課業がすっかり終ってからでした。ふと隣りの席を見ると、五味がそれをちょこんと頭に載せていたのです。山名はぎょっとしました。

「それ、買ったのかい」

 少し経って、山名はかすれた声で、そう訊ねました。

「いや」

 と五味はかんたんに首を振りました。それだけでした。

「じゃ、貰ったのかい」また少し経って、山名はも一度訊ねました。

「いや」と五味は帽子に手をやって、位置を少し直しました。「買物から戻ってくると、僕の荷物の中に紛(まぎ)れこんでいたんだ」

「へんな話だね」

「へんでもないよ。誰かが間違えたんだろう」と手をおろしながら、五味は変哲もなく言いました。

「間違いということは、誰にでもあることだからね。珍らしくはないさ。どうだい、似合うかね?」

 君の顔に似合うわけがない。そんな言葉が山名の口から飛び出る前に、背後からとつぜん魚住浪子の声がしました。

「あら、素敵ね。よく似合うわ」

 その声を聞いて五味は嬉しそうに笑いました。五味のこんな笑い方は、山名はあまり見たことがありませんでした。

「はい。給料よ。五味先生」

 魚住浪子は月給袋を持って来て呉れたのでした。五味には先生と呼ぶのに、俺には先生をつけない。そんなことを考えながら、山名は鬱然(うつぜん)とした表情で自分の月給袋を受取りました。全く面白くない気持でした。

 こういう経緯(いきさつ)があって、山名はつい酒を飲む気持になったのでした。

 しかし飲んでいるうちに、やはり酒というものは有難いもので、ふしぎな力が山名の胸にすこしずつ盛り上ってきたようです。

「よし、魚住浪子は俺がものにしてやる」

 盃を傾けながら、山名はしきりにそう呟(つぶや)き、肩を力ませていました。五味はたしかに魚住に惚れている。その五味を打ちのめすには、確かにこれは効果的な方法だ。そう思うとあの奇妙な情熱が、ふたたびむくむくと山名に湧いてくるのでした。まったく不死身な情熱でした。

 今は真夜中です。

 山名申吉は布団の中に丸々と眠っています。酔っぱらって電燈を消し忘れたので、淡い光が彼の顔をしずかに照らしています。それは全く健康そうな、むしろ無邪気な感じの寝顔です。満ち足りた寝息が規則正しく鼻孔から出入りしています。

 四五日前の夜五味の庭にそっと投げ込んだあの轡虫たちが、生憎(あいにく)とその庭の先住者たる蟷螂(かまきり)に、すっかりその夜のうちに全滅させられたことも知らないで、この肥った男はひたすら眠っているばかりです。

 机上の原稿用紙は、『五味の場合』という題名だけが記されたまま、うっすらと埃をかぶっています。電燈の光はそこにもあわあわと落ちています。この『五味の場合』という小説は、おそらく題名だけで、中味は永久に書かれないのではないでしょうか。どうもそんな気が、私にはします。もうその必要も、山名にはなくなったでしょう。

 

2022/09/08

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海膽・ウニ・香箸貝(コウバシガイ) / ムラサキウニ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここ。見開き全部。細部を観察し易いように百%のものをダウン・ロードし、四方をカットして、そのままの大きさで掲げた。]

 

Uni_20220908150701

 

「福州府志」。

   海膽【「うに」。「うにかい」。】

 

甲螺【「延喜式」。】

霊螺子【「和名抄」。】

 

俗に「雲丹(うに)」・「海丹(うに)」の字、用ゆ。又、「海栗(うみぐり)」と云ふ。其の形、栗の「いが」に似れり。

「がぜ貝」【佐州方言。「がぜ」は「海膽」の古名なり。】

「をきのかんす」【阿州。】

「しほちがぜ」【遠州、荒井。】

   兠貝(かぶとがひ)【「かぶと貝」。「星かぶと」。】

 

   表 仰圖

 

                裏 俯圖

 

[やぶちゃん注:以上二つは、図のキャプション。音で読んでいる可能性が高いやも知れぬが、私は「おもて、あふぐ、づ。」、「うら、うつむける、づ。」と読みたい。なお、ここで注してしまうが、この表の中央部に穴が開いているのは、この描いた個体が、最早、死ウニであることを意味する。生体のウニには、こんなぽっかりとした開口部は、無論、ない。則ち、この生物学的に頂上系と呼ばれる領域には、正常の生個体では、小さな生殖板・多孔板・終板・囲肛板によって覆われおり、そこにまた疣が点在し、而してそれらに微細な生殖孔・終板孔と、それらに比すると、やや大き目な肛門があるからである。本個体は、死んでそれらの部位が、ざっくりと抜けてしまっているのである。 

海膽、殻、圓(まろ)く、外に密刺(つの)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]あり。毬(まり)をなす。漂轉(され)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]たるは、刺(つの)、落ちて、狀(かたち)、星に似たり。兠に似れり。故に「甲貝(かぶとがい)」と云ふ。其の落ちたる角(つの)を「香(かう)ばし」と云ふ。海膽、内に、肉、無し。皆、膓(はらはた)のみなり。海膽の醤(しほから)、越前福井の産、最上とす。肥前大村、奥州仙臺の産、次(つぎ)とす。

  催馬樂(さいばら)の歌に、

「みさかなには 何よけん あはび さだをか かぜ よけん」と云へり。 

     香箸介(こうばしがい) 

倉橋勝尚、所持、之れを乞ふて、丙申八月廿六日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:棘の感じからは、

棘皮動物門ウニ綱真ウニ亜綱ホンウニ上目ホンウニ目ホンウニ亜目ナガウニ科ムラサキウニ属ムラサキウニ Heliocidaris crassispina

と思われる。因みに、私が食したウニの記憶は、一九七〇年の夏、志布志湾のホテルの敷地内の岩場で、伯父と一緒に、二、三時間もの間、採りに採った、ムラサキウニ四、五十個のこれ以上ない満腹感、それと、二〇〇九年夏、訪れた礼文島のホンウニ亜目オオバフンウニ科バフンウニ属バフンウニ Hemicentrotus pulcherrimus の養殖場の主人が、私が妻にいろいろとウニの生物学的蘊蓄を聴かせているのを傍で聴いて、「あんた、よっぽど、ウニ好(ず)きだな!」と言われて、「特別だ!」と奥から出し来て呉れた、自分用の塩水一夜漬けの卵巣が、至上の味だったことである。

「福州府志」明代の「福州府志萬歷本」の方で、著者不明。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、以下の通り、確認出来た(手を加えた)。

   *

海 膽 殼圓如盂、外結密刺、肉有膏黃。土人以爲醬。

   *

「うにかい」「海膽(胆)貝」。

「甲螺」これは「棘甲蠃」(音(現代仮名遣)「キョクコウラ」)或いは「甲蠃」(同前「コウラ」)の誤り国立国会図書館デジタルコレクションのの活字本の「延喜式」巻二十四「主計上」のここの五行目に、

   *

--蠃(ウニ)・甲蠃(カゼ)各六斗。

   *

という記載を見出せる。

「延喜式」平安中期の法典。全五十巻。延喜五(九〇五)年に醍醐天皇の命により、藤原時平、継いで、弟忠平らが編修し、延長五(九二七)年に完成。「弘仁式」・「貞観式」及びそれ以降の式を取捨し、集大成したもの。康保四(九六七)年に施行された。

『霊螺子【「和名抄」。】』これも「靈蠃子」(同前「レイ(リョウ)ラシ」)の誤り。「倭名類聚抄」巻第十九「鱗介部第三十」の「亀貝類第二百三十八」に(国立国会図書館デジタルコレクションのこちら)、

   *

靈蠃子(ウニ) 「本草」に云はく、『靈蠃子【「漢語抄」に云はく、『𣗥甲蠃は「宇仁(うに)。」と。】、貌(かたち)、橘(たちばな)に似て、圓(まど)かなり。其の甲、紫色にして、芒角(ばうかく)を生ずる者なり。』と。

   *

「雲丹(うに)」「海丹(うに)」通常は、これらはウニの卵巣を加工した塩蔵品(塩辛)を指す。

『「がぜ貝」【佐州方言。「がぜ」は「海膽」の古名なり。】』「佐州」は佐渡国。ウニの古語「がぜ」の語原はよく判っていない。現在、地方によってはヒトデもガゼと呼ぶ。私は古くは棘(とげ)の短いものも長いものも(普通のヒトデでも体表に細かな凸部を持つ)、皆、かく呼んでいたのではないかと考えている。触ってツンツンした感触があるものから、刺せば、激しく痛む棘の長い種をひっくるめて、かく呼んだのではなかろうか。

『「をきのかんす」【阿州。】』「阿州」は阿波国。「沖の管子」か。細い尖った折れやすい中空の棘を針治療の「管」に擬えて、かく言ったか。

『「しほちがぜ」【遠州、荒井。】』「遠州、荒井」現在の静岡県湖西(こさい)市新居町(あらいちょう)か(グーグル・マップ・データ。浜名湖の海開部の西部分)。

『兠貝(かぶとがひ)【「かぶと貝」。「星かぶと」。】』図の下方の、棘が抜け落ちた死殻を見れば判る通り、また、梅園も説明するように、鋲を、さわに打って強化した兜(かぶと)の鉢に似ていることから。

「密刺(つの)」全体に、概ね、密(み「つ」)に鋭い棘状の角(つ「の」)が生えているのだから、当て読みとしても、言い得て妙ではある。

「漂轉(され)たる」風波に曝された。

「香(かう)ばし」高価な香道のごく小さな香を、必要なだけ、僅かに挟むものに似ているというのは、雅びな名ではないか。

「催馬樂の歌に」『「みさかなには 何よけん あはび さだをか かぜ よけん」と云へり』「催馬樂」は雅楽の曲種名。平安時代に起こり、宴遊の際に演奏された歌曲。当時の民謡などをもとにして、雅楽風な旋律にのせて、雅楽楽器の伴奏をつけたものだが、十五世紀頃には、殆んどが廃絶した。今日、雅楽の一種として宮内庁楽部に伝承されてはいるが、これは十七世紀以降に復興されたものである。なお、催馬楽の語源については定説がない。「伊勢海》《更衣》などの曲がよく知られる。サイト「紅玉薔薇屋敷の秘密」の「催馬楽篇(その三)」の中に、

   *

我家

 我が家は 帳(とばり)帳(ちょう)も垂れたるを

 大君来ませ 婿にせむ

 御肴(みさかな)に 何良けむ 鮑(あわび)栄螺(さだを)か

 石陰子(かせ)良けむ

 鮑栄螺か 石陰子良けむ

   *

とあった(現代語訳もあり)。これを含め、全体を読むに、実は歌詞の裏に極めて性的な含みが濃厚にあることが判る。

「倉橋勝尚」「倉橋尙勝」が正しい。既注であるが、再掲すると、本カテゴリで最初に電子化した『カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺』に出る、梅園にオウムガイの殻を見せて呉れた「倉橋尚勝」であるが、彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)である(国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」PDF)を見られたい)、

「丙申八月廿六日」天保七年八月二十五日。グレゴリオ暦一八三六年十月五日。]

家蔵版「富永太郎詩集」完全リニューアル

十七年前にサイト創始の三ヶ月後、右腕首の骨を事故で粉砕した中で公開した家蔵版「富永太郎詩集」を完全にリニューアルし、表紙絵や挿入作品三点も追加した。

2022/09/07

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 砑螺・ツメタ貝 / ツメタガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。本図を以って見開き丁は終わっている。〔 〕は私が添えた訓読。「𨊫」は中文サイトで「乃」の異体字とあった。]

 

Tumetagai

 

砑螺【「福州府志」。「つめた貝」。】

つめた貝【「てすり貝」。越後新潟。

    「あさかほ貝」。】

 

以上、勢州二見浦産。所藏。

丙申年二月、大生氏、勢刕、大神宮拜詣、帰〔(かへ)るに〕、𨊫〔(すなは)ち〕、土産と爲(な)して、予に之れを送〔れるを〕、眞寫す。

 

 

[やぶちゃん注:入手経緯と写生の記事は、梅園にしては、ちょっと書き方が難しくなっているが、謂うところは、「この見開きに描いた個体群は、総て、伊勢の二見ヶ浦産で、現在は私自身の所蔵になるものであるが、もとは私の知人の大生氏(読みは現代仮名遣で「おおばえ」・「おおう」・「おおぶ」・「おおしょう」などがある)が、伊勢神宮を参詣して帰るに際し、土産として私に送って呉れたもので、それを写生した。」ということのように私はとった。

 これは殻表が黄褐色ではなく、紫褐色を呈した、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ属ツメタガイ Glossaulax didyma

である。本図譜では、既に一度、「蛤蚌類 片津貝(カタツガイ・ツヘタ貝・ツメタ貝) / ツメタガイ」として登場している。そちらは、比較的知られる黄褐色の個体である。『武蔵石寿「目八譜」 ツメタガイ類』(リンク先は私の二〇一五年六月の電子化注。近縁種を含めて詳細に注を施してある)も、是非、参照されたい

「砑螺」この「砑」の字は、音「ガ」で「磨く・擦る・艶を出す」の意で、本種の殻表面の平滑であるのを言ったもの。私は個人的に同種の黄褐色のそれは、生体では光沢があるように見え、ついつい拾ってしまう好きな貝である。

「福州府志」明代の「福州府志萬歷本」の方で、著者不明。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、以下の通り、確認出来た(手を加えた)。

   *

曰紫背螺、紫色、有斑點、俗謂之砑螺。

   *

「つめた貝」この和名は「津免多貝」などと搔き、「ツベタガイ」など、異名が多い。詳しくは「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたいが、その「由来・語源」の項に、「ツメタガイ」は『東京湾周辺での呼び名で』「渚ノ丹敷」『より。語源は不明だが、馬や牛の爪に似ている貝なので「爪貝」なのかもしれない』とある。私は幼少より、何か、本種の光沢が冷たい感じで美しいから、と思い込んでいた。

「てすり貝」前のページにはないものの、同サイトで異名検索すると、「テスリガイ」が掛かってきた。この異名は殻表の平滑な感じから、「手摺(磨)貝」であろう。

「あさかほ貝」これは現在は異名として残っていないか。「朝顔貝」で、アサガオの花の開いた形に擬えたか(あんまり似ていないと思うけどね)。

「丙申年二月」天保七年二月。グレゴリオ暦一八三六年で三月中旬より後。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 䀋(シホ)シリ貝 / タテジマフジツボ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。データとクレジットは左丁の左下に、「以上勢州二見浦産 所藏」「丙申年二月大生氏勢刕大神宮拜詣帰𨊫爲土産予送之眞寫」とある。最後の「砑螺・ツメタ貝」で考証・訓読して注をするが(「𨊫」は中文サイトで「乃」の異体字とあるのを漸く見つけた)、謂うところは、「この見開きに描いた個体群は、総て、伊勢の二見ヶ浦産で、現在は私自身の所蔵になるものであるが、もとは私の知人の大生氏(読みは現代仮名遣で「おおばえ」・「おおう」・「おおぶ」・「おおしょう」などがある)が、伊勢神宮を参詣して帰るに際し、土産として私に送って呉れたもので、それを写生した。」ということのようである。]

 

Sihosirigai

 

「百貝圖」

   䀋(しほ)しり貝

 

[やぶちゃん注:」の字はピッタリくる異体字が見つからないので、最も近いものに代えた。底本では、下部全面が「皿」、上部は=(左側:「比」の字の(へん)部)+(右側:「<」左下がりにしたものを上に、その下に「囗」の中に「タ」、そのさらに下に「亠」)である。

 まず、「しほ尻」は「塩尻」で、小学館「日本国語大辞典」に、『塩田で、砂を円錐形に高く積み上げて、塚のようにしたもの。これに海水をかけて、日にかわかして、塩分を固着させる。』とあり、ご存知の通り、富士山のなりをした海浜の砂などによって形成された自然物や銀閣寺の庭の銀沙灘の近くにある向月台のように、富士山を模倣しかのような庭園の人工物のそれなどを広く指す。また、「広辞苑」には、以上の内容に続いて、『②擂鉢(すりばち)の異称。』ともある。而して、形状を見るに、まず、

節足動物門甲殻亜門六幼生綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚下(フジツボ)綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balanomorpha の周殼

であることは間違いない。しかも、白地に青紫の縦縞を持ち、表面が平滑であることから、私は、

フジツボ亜目フジツボ上科フジツボ科フジツボ( Amphibalanus :シノニム Balanus )属タテジマフジツボ

に同定してよいと思われる。殻口が鞍型になっているが、周殻上部が一様に幅を持って白くそげて見えることから、これは損壊したものと考えられる。

「百貝圖」何度も出てくるが、再掲しておくと、寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」(『慶應義塾大学日吉紀要』(第三十号・二〇〇一年刊・「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」のこちらからダウン・ロード可能)に拠った)。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 雲貝 / 同定比定不能

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。データとクレジットは左丁の左下に、「以上勢州二見浦産 所藏」「丙申年二月大生氏勢刕大神宮拜詣帰𨊫爲土産予送之眞寫」とある。最後の「砑螺・ツメタ貝」で考証・訓読して注をするが(「𨊫」は中文サイトで「乃」の異体字とあるのを漸く見つけた)、謂うところは、「この見開きに描いた個体群は、総て、伊勢の二見ヶ浦産で、現在は私自身の所蔵になるものであるが、もとは私の知人の大生氏(読みは現代仮名遣で「おおばえ」・「おおう」・「おおぶ」・「おおしょう」などがある)が、伊勢神宮を参詣して帰るに際し、土産として私に送って呉れたもので、それを写生した。」ということのようである。]

 

Kumogai

 

雲貝(くもがひ)

 

[やぶちゃん注:半月ばかりもペンディングしてしまったのだが、こ奴のためである。海綿動物門六放海綿綱 Hexactinellida(ガラス海綿類)の骨格かと思ったが、乾燥標本では、このような群体を示すことはないと思われた。容易に想起されるのは、伊勢土産であることから、サンゴの残骸らしきものが土産物として売られていたことは十分に考えられることから、刺胞動物門花虫綱 Anthozoa の珊瑚様の何らかの種の群体ではあるものの、しかし、どうもピンとくるものが思い浮かばない。実は私の『博物学古記録翻刻訳注 ■17 橘崑崙「北越奇談」の「卷之三」に現われたる珊瑚及び擬珊瑚状生物』の「図版Ⅴ」のこれが、

 

Image_20220907084101

 

やや似ているように思われるのだが、そちらで注したように、海綿動物門石灰海綿綱 Calcarea に属する種群を措定してみたものの、彼らは、『炭酸カルシウムから成る方解石やアラレ石で出来た骨針を持ち、死後も他の海綿と異なり硬い』ものの、『同綱の種群は群体を造っても小さく、高さも直径も十センチメートルほどの淡褐色で、ここに示されたような大きさにはならない。お手上げである。図を最初に見た時には、容易に同定出来ると思ったのだが。識者の御教授を乞う』とした。或いは、本図の方が、海綿動物門石灰海綿綱 Calcarea に属する種群の一種の骨格とするには、相応しいのかも知れぬが、やはり、ネット上の骨格標本を見ても、今イチなのであった。二つともに、再度、識者の御教授を乞うものである。なお、梅園のそれは、或いは海産生物ではなく、何らかの石、鉱物が変成を受けたものではなかろうか? という疑問も起ったことを附記しておく。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 德川家と外國醫者

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、本篇は昔、「選集」版で電子化したものが、「人柱の話」(次で電子化注する)の注で「徳川家と外国医者」として電子化しているが、今回は正規表現版として零から電子化し、注も附した。]

 

     德川家と外國醫者 (大正十四年六月變態心理第十五卷第六號)

 

 『變態心理』五月號五〇四頁に、三田村鳶魚《みたむらえんぎよ》先生は、家綱將軍の病中、支那醫を殿中に招くの議が遂行されなんだ事を記して、「其當時は、未だ異國人といふ者を氣嫌ひする樣な傾きがあつて、技倆は認めても、宮樣とか將軍とか、偉い人は決して診せなかつた云々。」とある。これを讀んだ人々は、延寶以前には貴人や諸侯は決して外國醫者にかゝらなんだと思はぬとも限らないから、述べて置きたいのであるが、武德編年集成に、家康が天正七年八月、其妻、築山殿を誅した原因は、此夫人は、甲斐から來た支那人減慶《げんきやう》といふ醫師を、治療の爲め、招きて、淫行を恣《ほしいまま》にし、又、彼を通じて武田氏に内應した、と記してゐる。それから、元和《げんな》二年五月二十二日、リチャード・ヰリアムが、リチャード・コックスヘ京都から贈つた狀には、家康最後の患ひを、主治醫が、癒す能はず、老體の病ひ故、壯者程に速く直らぬと云ふたのを怒り、縛つて寸斷せしめた。由つて、島津殿、其侍醫たる支那人を薦め、效驗著《いちじる》しと聞く、と記してゐる。

[やぶちゃん注:「三田村鳶魚」明治三(一八七〇)~昭和二七(一九五二)年)江戸の風俗・文学・演劇の考証家として知られる。本名は玄龍(げんりょう)。武州八王子生まれ。新聞記者・僧侶などを経て、自由民権運動に入り、明治末年から、広範な江戸文化研究に専心し、「未刊随筆百種」二十三冊の編纂の他、四十余種の著作を刊行している。私は不学にして殆んど読んだことがない。

「家綱將軍」徳川家光の長男で江戸幕府第四代征夷大将軍(在職:慶安四(一六五一)年~延宝八(一六八〇)年(没年:享年四十))。当該ウィキによれば、彼は生まれつき体が弱く病弱で、延宝八(一六八〇)年五月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥り、直後の五月八日に死去した。『死因は未詳だが、急性の病気(心臓発作など)と言われている』とある。

「武德編年集成」江戸中期に編纂された徳川家康の伝記。当該ウィキ他によれば、成立は元文五(一七四〇)年で、著者は幕臣で歴史考証学者であった木村高敦(延宝八(一六八〇)年~寛保二(一七四二)年)。『偽書の説、諸家の由緒、軍功の誤りなどの訂正が行われており』、寛保元(一七四一)年に『徳川吉宗に献上される』とある。「家康が天正七年」(ユリウス暦一五七九年)「八月、其妻、築山殿を誅した」という当日の記事は、「国文学研究資料館」の「電子資料館」の写本の同年八月「廿九日」の条にあるが(家康の家臣から自害を求められたが、拒否したため、斬首された)、熊楠が言うところの、その理由を記すのは、その前の七月「四日」の条の一節の五~七行目。但し、「唐人」の医師とするが、名は記されていない。築山殿(瀬名姫)の事績は当該ウィキを見られたい。

「減慶」この唐人の医師の名は、当該ウィキによれば、減敬げんきょう 生没年不詳)は、『戦国時代後期の医師とされる人物。滅敬(めっけい)とする記述もある』とあり、孰れにしても熊楠の「慶」は誤りである。「三河物語」に『よると、徳川家康の嫡男信康の正妻徳姫が実父織田信長に十二箇条の文を送っているが』、「三河後風土記」に『よれば、その中に築山殿(家康の正妻、信康の母)が甲州浪人医師減敬』(☜)『と密会し、これを使者として武田勝頼のもとへ送って、信康が甲州方に味方するとした旨の条がある。その他の条も合わせ、この十二箇条の内容により、信長は家康に築山殿と信康の殺害を命じたとされる。だが』、「三河後風土記」には『偽書説があり、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は信長の命ではなく』、『家康と信康の対立が原因とする説も出されている』とあって、解説中には、一切、「唐人」という記載はない

「元和二年」一六一二年。徳川秀忠の治世。

「リチャード・ヰリアム」不詳。或いは、関係があった、徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士三浦按針=ウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~ 元和六(一六二〇)年)の誤りか?

「リチャード・コックス」(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)はステュアート朝イングランドの貿易商人。スタフォードシャー州生まれ。江戸初期に日本の平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めた。在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks:元和元(一六一五)年から元和八(一六二二)年)はイギリスの東アジア貿易の実態や、日本国内の様々な史実を伝える一級の史料とされる。]

2022/09/06

「多満寸太礼」全目録 / 「多滿寸太禮」全電子化注~了

 

[やぶちゃん注:底本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の各巻のそれをいかに集成した。漢字表記は可能な限り、再現してある。読みは振れると判断したもののみに附した。送りがなや助詞で済むものは上付き小文字の挿入で処理した。漢文式のそれは後に訓点に従った訓読文を( )で附した。歴史的仮名遣の誤りは概ね訂した。〔 〕は私の添えた読み。リンクはしない。カテゴリ「続・怪奇談集」で開いて戴ければ、自ずと下方にそれぞれのリストが載る。]

 

多滿寸太禮卷㐧一

  目錄

 天滿宮通夜物語

 宰符僧蒙淸水觀音利生事(宰符(さいふ)の僧、淸水の觀音の利生(りしやう)を蒙むる事)

 佛御前霊會録

 仁王冠者之事(仁王冠者(にわうかじや)が事)

 

多滿寸太禮卷㐧二

  目錄

 丹刕橋立曉翁登銀河事(丹州橋立(はしだて)の曉翁(げうおう)、銀河(あまのがは)に登る事)

 岩成内匠夢の契の事(岩成内匠(いはなりたくみ)、夢の契(ちぎり)の事)

 芦名式部妻鬼女となる

 四花の爭論(四花の爭論(じやうろん))

 

多滿寸太禮卷㐧三

  目錄

 秦兼美幽冥録

 强盜河邊惡八郞事(强盜(がうだう)河邊惡八郞が事)

 柳情霊妖(柳情(りうせい)の霊妖(れいえう))

 冨貴運數之辨(冨貴(ふうき)運數の辨)

 

多滿寸太禮卷㐧四

  目錄

 上杉藏人逢女强盜事(上杉藏人(くらうど)、女强盜(をんながうだう)に逢ふ事)

 弓劍明神罰邪神事(弓劍(ゆつるぎ)明神、邪神を罰する事)

 火車之說猫取死骸事(火車(くわしや)之說、并〔ならびに〕、猫、死骸を取る事)

 

多滿寸太禮卷㐧五

  目錄

 木津五郞常盤國に至る事(木津五郞、常盤國(ときはのくに)に至る事)

 村上左衞門が妻貞心の事

 永好律師魔類降伏の事

 獺の妖恠(獺(かはをそ)の妖恠(やうけ))

 

多滿寸太禮卷㐧六

  目錄

 片罡主馬之亮敵打之事(片罡(かたをか)主馬之亮、敵打(かたきうち)の事)

 直江常髙冥婚の恠(直江常髙(なほえつねたか)、冥婚の恠(あやしみ))

 堀江長七逢狐妖情事(堀江長七、狐の妖情(やうせい)に逢ふ事)

 行脚僧治亡霊事(行脚の僧、亡霊を治むる事)

 

多滿寸太禮卷㐧七

  目錄

 萬石長者の事(萬石長者(まんごくちやうじや)の事)

 望海二女の情(望海(あうかい)二女(じぢよ)の情(なさけ))

 龍法坊拜七星事(龍法坊、七星(しちせい)を拜する事)

 花木弁論并〔ならびに〕貧福問答

 

多滿寸太禮卷第七 花木弁論并貧福問答 / 多滿寸太禮・本文~了

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第七巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。標題中の「并」は「ならびに」と読む。最後の方の漢文の偈のようなものは、まず、白文で示し、後に( )で訓点に従って訓読したものを示した。但し、歴史的仮名遣の不全は訂した。]

 

  花木(くわぼくの)弁論貧福問答

 中比(なかごろ)、攝津國武庫山(むこやま)のおくに、一人の隱士あり。

 もとは住吉の神官の司(つかさ)にて、時めき、世に名をふれし秀才成りしが、最愛の妻にわかれて、忽ちに、世を、はかなく、位をしりぞき、あとを、かくして、山林の獨居をたのしみ、年比《としごろ》の財產を以《もつて》、居住の地を廣くもとめ、小童(こわらは)一人を仕丁(しちやう)として、うき世を、かろく、住けるが、自然と、諸木を愛し、四、五丁四方を、あらゆる植木をうへ込み、常は菓物を食(しよく)とし、四季の天變、飛花落葉に無常を增し、月にめで、花にたはむれて、年月を送る。

[やぶちゃん注:「攝津國武庫山」現在の兵庫県宝塚市武庫山(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 

Kabokunobenron

 

 いつの比よりか、見も馴れぬ二人の老人、常に庵(いほり)にとぶらひ來りて、友となりぬ。淸弁廣智(せいべんくわうち)にて、其物語り、古今(ここん)に、くらからず、むかしを、今、みる心地(こゝち)に語り、ひねもす、夜(よ)すがら、語りあかすに、あく時、なし。

 そのさま、一人(ひとり)は、容貌、ゆふびにして、白色に、白髮(はくはつ)の翁(おきな)、常にみどりの帽子をかうむり、一人は靑衣《せいえ》を着(ちやく)す。貌(かほ)、まどかに、うす赤く、黑き帽子に、黃色(き《いろ》)なる衣(ころも)をきたり。

 或る時、二人、入來り、例のごとくに、論談しけるが、黃衣《くわうえ》の老人、申《まをし》けるは、

「凡そ、人のたのしみとする第一は、春は花、秋は紅葉(もみぢ)と、みな人の賞翫(しやうぐ《わ》ん)し、もて遊ぶ。其品、多しといへども、花もみぢといふうちに、すべてみな、こもり侍るべし。是れにこそ、心得わかちがたき事こそあれ。惣(そう)じて、菓(くだもの)の類、栗・柹(かき)・ありのみ・かや・椎《しひ》・櫟(いちゐ)・金柑・橘(たち[やぶちゃん注:ママ。])なんどゝ、人の重寶、飢《うゑ》を休むる助けとも成《なり》なむ。花は仲春にひらき、さかりは、わづか一炊の眠《ねむり》のうちに、ちりみだれ、庭のちりあくたとなり、後(のち)は、はき淸めに、隙《ひま》なく、實(み)は殘れ共、人を養ふよすがも、なし。紅葉(もみぢ)は又、色付(いろ《づき》)たるといふ斗《ばかり》にて、花の香にも、おとり、木も、又、させる用木ともならず。色づく日より、かつ、ちりて、殿守(とのもり)の伴(とも)の宮づとの朝ぎよめにも、うみつかれ、拂ひもあへぬ落葉(おちば)をかなしみ、秋、すさまじき、夜もすがら、雨のふるがごとく、軒を埋み、木こり、鹿(しか)のかよひぢを、うづむ。何かは、おもしろき。さるに、むかしより、花紅葉(はなもみぢ)と、もてあそび、詩歌によまれ、愛せらるゝ事、甚だしきは、いかに。只、菓物の、枝もたはゝに成《なり》つらねたるは、見事なるに、人をもてなす德(とく)、ふかし。其外に、閑人(かんじん)のねふりをさまし、月花《つきはな》の詠(なが)めも、多くは、是れにぞ、心を養へる。かゝる、德深き物をさしこへて、用にもたらぬ花紅葉を愛するは、ひとへに愚智のなす所成《なる》べし。」

と語れば、一人の翁、眉に、しわをよせ、

「仰《おほせ》は、さる事にて侍れども、いにしへより、かしこき人の詩歌にもよまれ、春秋の賞翫、としどしに絕《たえ》ず。つらつら、是れを思ふに、身と心とを、たくらべみるに、何れか尊(たつと)しとするに、身は心ある故にこそ、形はのこれども、心さりぬれば、忽ちに愛念を捨てて、却つておそれとし、遲しと野山に送り捨て、土となし、煙(けむり)とのぼりし後(のち)は、玉のありかを、そことしも、しらず。年月《としつき》を過ぎては、事《こと》とひかはすもの、なし。されば、菓物は、口に味はへ、身を養ふ便《たより》なれど、心をなぐさむ事は、花紅葉に、いかで、たぐゑむ[やぶちゃん注:ママ。]。尊きは申《まをす》に及《およば》ず、賤(いや)しき山がつ、木こり、草かりわらんべも、薪(たきゞ)に花を、折《をり》そへ、めかごに秋の千種(ちくさ)の花を刈りて、心をなぐさむ。およそ、一花(いつけ[やぶちゃん注:ママ。])ひらきては、冬ごもるうつ氣(き)を散(さん)じ、漸く、ちりがてになれば、心ある人は、世の盛衰を察し、限りなき哀れを興(もよほ)す。あるひは、花の下(もと)の半日(はんじつ)の客(かく)は、酒をのみ、詩歌に千々(ちゞ)の思ひを、のぶ。紅葉の比は、年の暮れやすき事を思ひ、生者必滅のことはりを觀じ、その身の便りとなし、すべて心を養ひ、めを、よろこばす事、誠に是れに過《すぎ》たるは、なし。口を養ふと、心をやしなふは、いづれか、まさらん。」

[やぶちゃん注:「たくらべみる」「た比(較)べ見る」。「比べてみる」の意。]

と、漢家本朝(かんかほんてう)の事を引《ひき》て、互ひに論義、數尅(すこく)に及ぶ。

 黃衣《くわうえ》のおきな、重ねて云く、

「最も、花咲けば實(み)のるといへども、千草萬木(せんさうばんぼく)の、用ひらるゝ所は、みな、熟實(じゆくじつ)の時にあり。花ありて、實(み)のらずんば、誰(たれ)か一日の飢《うゑ》を助けむ。五穀、冨饒(ふねう)にして、人を冨ましむ。金銀は、至《いたつ》て寶(たから)と成りといへ共、米穀なくんば、何の益かあらん。冨貴の根本、みな、これより生(しやう)ず。夫れ、冨貴の勝利、無量の中に、第一、衆人(しゆにん)愛敬(あいぎやう)の德、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]ありて、その家、にぎはひ、ゆたかなれば、萬物(ばんもつ)に、ともしからず。金銀米錢。つねに絕ゆる事なければ、出で入る人を、もてなす。故に、上一人(かみ《いちにん》)より、下万民(しもばんみん)に、したしみ、ふかし。此の德あるとしれども、貧究(ひんきう)にては叶(かな)ひがたし。したしきは、うとみ、うときは、なを[やぶちゃん注:ママ。]、うとし。是れ、貧なる故にあらずや。」

靑衣《せいえ》のおきな、うち笑ひ、

「貧人(ひん《にん》)には愛敬(あいぎやう)なしとは、おろかなる事也。人のしたしむ德は、誠の道にあり。輕薄表裏をむねとし、酒食を以《もつて》まじはらんに、ともなふ人も、その心にひとしき故に、其《その》好む所、うすくなれば、心にそむきて、互ひに恨み出來(いでき)、千代(ちよ)と賴みしことばも、忽ち、變じ、誠なき愚人(ぐ《じん》)のまじはりは、かへつて嘲(あざけ)りの端(はし)成るべし。されば、其の友をみて、その心をしる、といへり。利慾(りよく)の爲(ため)にしたしむは、愛敬とは云(いふ)べからず。道理(だうり)にともなふをこそ、誠(まこと)のよしみならん。理(ことはり)にたがはざれば、德人(とくにん)の利欲の友には、まさるべし。凡そ、眞理(しんり)をさとる本智といふは、利欲の眼(まなこ)に見るべからず。一旦の榮花に、おごりをきわめ、主人の愛敬に、人をあなどり、無礼(ぶれい)を致すたぐひ、人のにくみを受け、身命(しん《みやう》)あやうき躰(てい)、かぞへ難し。しかある時は、德人(とく《じん》)にのみ、愛敬ありとも云ひがたし。貧しき者も、すなを[やぶちゃん注:ママ。]ならば、心あるは、哀れとも云ふべし。」

 一人の翁(おきな)の云はく、

「仰せは、さる事なれども、凡人(ぼんにん)と生れては、無學無能にしては、尤も、人倫のたぐひならず。物を學び、おこなふ事も、貧しきにしては成りがたし。能き師につかへて、學文(がくもん)し、或《あるい》は藝をならはむにも、金銀を惜しまず、行(ぎやう)せんほまれをとる事、すみやか也。貧なれば、いたづらに年月(ねんげつ)を送る事は、石の、火の、うたざれば、出でざるたぐひならめ。」

 黃衣《くわうえ》の翁(おきな)、こたへて、

「されば、貧なるとて、學問諸藝にとぼしからむや。世わたるたつきに、隙(ひま)なふして、暫くのいとまを得ては、たねんなく、つとむる故に、片時(へんじ)のつとめも、冨める人の、數日(すじつ)の功にも、まさるべし。いにしへより、學德才能の達人、多《おほく》は貧しき人にあり。さるほどならば、冨貴は、かへつて、さまたげなるべし。許由(きよゆう)は、ひさごをだにすて、孫晨(そんしん)は藁一束(そく)をたのしむ。財、多(おゝ)ければ、身を守るに、まどし[やぶちゃん注:「貧(まど)し」で、ここは「不十分である」の意。]。智惠と心こそ、眞(まこと)の寶なれ。聖賢の道をもとむる心ざしは、玉(たま)を淵になげ、金(こがね)は山に捨つべし、と見へたり。一旦の榮花は、おろかに賤しき者も、時にあへば、高き位にのぼり、をごりを、きわむ。冨貴にして、器用なりとも、身を治め、心をたつる事、愚かならば、しらぬ人よりは、おとり成るべし。」

 靑衣の翁、重ねて、

「身を治め、心をたつる人も、冨める人こそ、やすかるべし。書籍(しよじやく)をもとめ、能き師にしたがひつとめむに、貧者の三とせの功より、冨める人の三日は、まさるべし。貧者は、心にけだい[やぶちゃん注:「懈怠」。]なしといへども、見語(けんご)すべきちから、なければ、いたづらにその利をかくして、愚人となり、冨める人は、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、病ひのうれへもなく、寒きに、衣服をかさね、あつきに暑氣(しよき)を除き、春は、花のもとにて、たはむれ、秋は、月のまへに、心をはらし、食(しよく)するに麁食(そじき)もなければ、心身、ゆたかにして、榮耀の上に命(いのち)も、ながし。諸病は辛苦より生(しやう)ずる。何ぞ貧者の及ぶ所にあらんや。」

 黃衣の翁、こたへて云《いはく》、

「冨めるは、おごりにおこたりあれば、學に、うとし。一分(《いち》ぶん)の邪智に高ぶり、廣學大才(くわうがくたいさい)の躰(てい)たらく。をのれが恥ぢを、しらず。冨めるに病《やまひ》なしとは、愚かなる事ならずや。萬(よろづ)にゆたかなれば、冨める人は、身のはたらき、なふして、かへつて、病ひに犯され、短命なり。貧人(ひんにん)、心のごとくならねば、身躰、やすむ事、なふして、病ひもなく、一生をやすらかに過ぐるも、あり。福人は、命期(めいご)に至りて、金銀財寶に心を殘し、着(ぢやく)をはなれず。貧者は、心をとむべき寶もなければ、遠離(ゑんり)の心、つよくして、且つは、佛果にも至らんかし。」

 靑衣の翁、

「ひとへに、後世(ごぜ)も、冨める者こそよからめ。身(み)、冨(ふ)ゆふなれば、心のまゝに、慈悲、ふかく、飢《うゑ》たるには食をあたへ、堂塔伽藍を建立し、佛像經卷をいとなみ、沙門を供養し、善根を殖(う)ゆる事、貧にしては成りがたし。しゆだつが、古(いに)しへも、祗園精舍を建立し、阿闍施太子(あじやせたいし)の万燈(まんとう)、みな、是れ、冨貴の德たるべし。貧者は、心ざしあるといへども、力(ちから)なければ、人の善根をうらやみ、修(しゆ)せざれば、むなし。されば、現在の果(くわ)をみて、未來をしるといへば、因・果の二つ、まことならば、善をなせし德人(とく《にん》》、其の果(くわ)を受けて、なんぞ成佛、うたがはむや。」

[やぶちゃん注:「しゆだつ」「須達」サンスクリット語「スダッタ」の漢音写。釈迦の時代の中インド舎衛城の長者。波斯匿(はしのく)王の大臣。釈迦に帰依し、祇園精舎を献じた。「給孤独(ぎっこどく)」「須達多(しゅだった)」「すだつ」とも呼ぶ。

「阿闍施太子」阿闍世。]

 黃衣の翁、こたへて云はく、

「一切衆生悉有佛性、如來といへば、天地萬物草木(さうもく)、みな、佛性を、ぐす。春は、花咲き、秋は實(み)のる。是れ、正(まさ)に眞佛(しんぶつ)也。人、其《その》是非をさとり、よろしきにしたがふを、「天姓(てんせい)」といふ。此心、無我にして、見る事なしといへども、身(み)に善行(ぜんぎやう)あるにて、しるべし。「無我の善(ぜん)」とは、名聞(みやうもん)の利用、慢心、なく、行(ぎやう)するを、「大善(だいぜん)」とす。されば、達广大師(だるまたいし)は、無功德(むくどく)を武帝にしめし、貧女(ひんによ)が一燈(いつとう)、思ひはかるべし。古堂(こだう)に土(つち)をぬりし栴檀香(せんだんかう)、佛(ほとけ)に、はくを押(おし)たる阿羅漢(あらかん)、あげて、かぞへがたし。されば、地獄の罪人(ざい《にん》)に、羅刹(らせつ)ども、向(むかつ)て、『など、善根をなさずして、かゝるくるしみに、あへるぞ。』と、いかるに、罪人、『娑婆にて、身(み)、貧にして、をのづから善を、なさず。』と、こたへければ、『野べにさく花、川に流るゝ水一滴をも、佛(ほとけ)に供養せざらんや。いくたび、娑婆に往來し、『此たびは、さり共《とも》。』と、云《いひ》おしへつるに、『又、我々が手に、かかる。』と、いかりて呵嘖(かしやく)すると、いへり。一世(いつせ)の寶にまよひ、永き來世(らいせ)までを、くるしむ。淺ましき事ならずや。」

 靑衣の翁、

「かさねて、何ぞ寶をよしなしといはんや。龍女(《りゆう》によ)が、寶珠(ほうじゆ)を釋尊に奉りしに、『我献納受(がけん《なふ》じゆ)。』と悅び給ひ、大施太子(たいせたいし)の寶珠を、龍宮に、もとめ給ふ。佛(ほとけ)も『世界㐧一。』とこそし給ふに、なんぞ益なからんや。」

 こたへて云く、

「龍女が玉を捧げしも、大乘妙典を悟り得て、佛法の實寶(じつほう)には過ぎずと、無上の寶珠に執心を、とどめず、佛(ほとけ)に供養し奉る故に、我献納受し給ふ。されば、一水一花(いつすいいちげ)を、誠の心よりほどこすを、善根とは、いへり。龐居士(《はう》こじ)が、寶を江《え》にすてたりしためし、思ひやるべし。」[やぶちゃん注:「龐居士」(ほうこじ ?~八一五年)は唐代の仏教者。名は蘊(うん)。衡州(現在の湖南省衡陽)の人。馬祖と石頭に参禅し、印可を得るが、出家せず、晩年は家族と襄陽の鹿門山に住み、禅風を起こした。梁の傅(ふ)大士とともに、「東土の維摩」と称される。禅僧との問答が多く、その偈頌(げじゆ)三百首と合せて、早くより語録として纏められた(節度使于頔(うてき)の編と伝える)。宋代になって、禅宗が士大夫の信を得るようになるとともに、水墨画や文学の対象となり、「居士」の意味が拡大し、「龐居士」の伝記が大きく変貌していった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

と語れば、一人の翁、

「陰陽(《いん》やう)・貧福・善惡不二、何れか分きて、いはむ。天あれば、地あり。貴邊(きへん)あれば、われあり。身を離れて、心も。なし。」

 則ち、一句の語を、なす。

  冨攀芳樹愁花盡

  (冨(とみ)は 芳樹(はうじゆ)を攀(よ)ぢて 花の盡くる事を愁ふ)

と吟詠しければ、黃衣の翁、やがて、付く。

   貧戀重衾覚夢多

  (貧(ひん)は 重衾(ぢゆうきん)を戀(した)ふて 覚(さま)すこと 夢 多し)

かく詠じけるほどに、漸く、晨明(ありあけ)の月も、山のはに、かたむき、しのゝめの穴も、ほの%\と明わたれば、二人の老人(らうじん)も、かきけすごとくに行方(ゆきかた)なし。

 あるじも、茫然(ぼうせん)として聞(きゝ)ゐたりしに、夢(ゆめ)のさめたるごとくに覺(おほ)えければ、

  とことはに身をもはなれぬ友だにも月入ぬれば面(おも)かげもなし

と詠じて、あまりふしぎに覺え、此の事を、つくづく思へば、年比、諸木を愛しけるに、かの妖情(ようせい)、顯はれて、かゝる爭論(じやうろん)をなしけるにや。此事を悉く、かきあつめて、世につたへけるとぞ。

  

             文臺屋次郞兵衞

             中 村   孫 兵 衞

             杉生五郞左衞門 

                  板行

 

[やぶちゃん注:以上の奥附版元表示のみ、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを元にした。基礎底本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の再板本(推定)では、

            日本橋南一丁目

         東都書林 須 原 茂 兵 衞

            寺町松原下ル丁

         東都書林 勝村治右エ門

となっている。]

多滿寸太禮卷第七 龍法坊拜七星事

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第七巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。標題は「龍法坊(りうほうばう)、七星(しちせい)を拜する事」と読んでいる。「龍法坊」は不詳。「七星」は中国の星学で北斗星の中の最も大きい七つの北斗七星。則ち、貪狼星・巨門星・祿存星・文曲星・廉貞星・武曲星・破軍星の総称。]

 

        龍法坊拜七星

 去(さん)ぬる嘉祿年中に、王城の東に當りて、白氣(びやつき)、遙かに天にのぼり、よるは、その色、黃赤(わうしやく)にして、末ながく、蒼天にむらがりたり。此氣、西は九州、東は奧州まで、みゆる。

「まことに、先例、いまだ、かくのごときの事を、聞《きか》ず。」

と、家々の勘文(かんもん)、陰陽師(おんやうし)、巷(ちまた)にはしり、近里遠村(きん《り》ゑんそん)は勿論、遠國波濤(をんごくはたう)のうらうらまで、不思義をなさずといふ事、なし。後(のち)は、此の光り、次第に、つよく、折々、ひかりを生(しやう)ず。諸人(しよ《にん》)、此氣を尋ねみるに、粟田山(あは《たやま》)の峯にあたり、いたゞきに、大きなる穴、出來(いでき)、その穴より、此光り、出《いで》たり。數(す)萬人立《たち》つどひ、みるに、此穴より、風の出《いづ》る事、なゝめにして、小石(《こ》いし)をなげ入《いる》るに、吹き上《あげ》て落ちず。

「さらば。」

とて、大きなる石に、繩をつけて、おろしみるに、すべて、はかり、なし。

 此事、いそぎ、うつたえければ、

「何とぞ、人をして、見せられん。」

と、しけるに、誰(たれ)、いるべしと、云《いふ》者、なし。

「さあらば、斬罪の囚人(めしと)を入《いれ》らるべし。」

て、僉義(せんぎ)有《あり》しほどに、爰に、「龍法」といへる法師、さがの邊(ほとり)に一寺を住持したるに、余僧(よそう)の妬(ねたみ)によりて、犯戒(ほんかい)ある由(よし)を政所(まん《どころ》)に訴へられ、斗《はか》らずに、牢獄の身と成りけるが、此僧、つたへ聞《きき》て、

「我、無實の科(とが)を受《うけ》て、かく、とらはれ、諸人に恥ぢを、さらしはつべし。ひとへに、宿業(しゆく《ごふ》)とは云ひながら、身を置くに、せんなし。しかじかの穴へ入《いり》て、早く、死なんには、しかじ。」

と、達(たつ)て望み申しかば、則ち、

「此者を入らるべし。」

とて、大なる篭(かご)をつくり、あまたの石をおもりに付《つけ》、大綱(《おほ》づな)を千尋(ちいろ)つけて、かの穴へ、入《い》られけり。

[やぶちゃん注:「嘉祿年中」一二二五年から一二二七年まで。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。

「勘文」小学館「日本大百科全書」によれば、「かもん」とも呼ぶ。天皇・院などの上意を受け、その裁断の資料として先例や故実を考査して提出する答申書を言う。令制の諸寮司が提出する「諸司勘文」と、明経(みょうぎょう)・明法(みょうぼう)・文章(もんじょう)、及び、天文・陰陽(おんみょう)や暦道(れきどう)などの担当官が提出する「諸道勘文」の二種があった。前者の例として「主計寮勘文」・「主税寮勘文」「率分勘文」などがあり、後者の例としては、年号・革命・穢(けがれ)・日時・吉凶・日食・月食・地震などに関する勘文がある。室町時代には武家故実に取り入れられ、将軍の諮問による勘文が徴された、とある。小学館「日本国語大辞典」には、『諸事を考え、調べて、上申する文書。平安時代以後、明法道、陰陽道など諸道の学者や神祇官、外記などが、朝廷や幕府の諮問にこたえて、先例、日時、方角、吉凶などを調べて上申したもの。勘状。かもん。かんがえぶみ。かんぶん』とある。ここはこの異常な天変地異に関する「諸道勘文」に相当するような文書(各家の私的なものも含む)が、名家の間に飛び交ったということであろう。

「粟田山」現在の東山区蹴上(けあげ)の南の、将軍塚から北へ延びる山。標高百八十メートル。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 漸々(やうやう)に一時《いつとき》斗りに、落付〔おちつき〕たるとおぼえて、繩、たるみたり。

 相圖の時をまちて、諸人、立ちつどひけるに、ろくろを以《もつて》、卷き揚げたり。

 此僧、たゞ、茫然として、色を失ひおる[やぶちゃん注:ママ。]。

「いかなる事にや。」

と、いへども、更に、いらへも、せず、只、

「急ぎ、政所へ、つれゆくべし。」

と、いへば、則ち、かきつらねて行きけり。

 

Ryuhohu

 

 奉行・頭人、對面して、

「いかなる事にや。」

と問へば、此僧、申《まを》けるは、

「穴の中(うち)、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ほども入《いり》たると、おぼしき時に、ほのかに、日の光り、明らかなり。ふしぎに思ひて、あたりをみるに、大《おほい》なる白砂(《しら》す)に落ち付《つき》たり。金銀を以《もつて》、ちりばめたる樓門、有《あり》。篭より出《いで》て、門のほとりに、よりてみるに、左右に、四天のごとくなる鬼形(きぎやう)の者、數《す》十人、十五、六斗《ばかり》なる鬼童(おにわらは)を、六、七人、からめ付《つけ》、大なる三鈷杼(《さん》こちよ)を以《もつて》、これを、かはるがはる、打擲(てうちやく)す。其《その》跡、破れ、たゞれて、血の出る事、甚だし。此鬼童ども、おめきさけぶ聲、大地にひゞく。これをみて、あまりの怖ろしさに、遙かの片すみに、かゞまり居(ゐ)たれば、一人の靑衣《せいえ》の官人、來りて、[やぶちゃん注:「三鈷杼」ここは密教法具の金剛杵の一つとして知られる、元は古代インドの武器であった三鈷杵(さんこしょ)のこと。挿絵では殆んど先端が三岐になった鑓である。]

『御坊(《ご》ばう)、こなたへ。』

と、いざなふ。ぜひなく御階(みはし)のもとへうづくまり、遙かに簾中(れん《ちゆう》)をみ入《いり》たれば、七人の帝王、をのをの[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、いすに上《のぼ》りて、光明(くわうみやう)、四方(よも)にかゝやけば、あまりの目(ま)ばゆさに、それとは、見へず。かたはらなる官人に、

『いかなる所にて、天子の御名(み《な》)は何(なに)と申《まをし》侍るぞ。』

と問へば、官人、答へて、

『爰は、地界の中輪(《ちゆう》りん)、星宿(せいしゆく)の司土(しと)なり。此七人の天子こそ、七曜星(《しち》ようせい)の精靈(せいれい)にて、おはす。あらゆる星氣(せいき)、皆、此《この》界に住(ぢう)し給ひて、別殿(べちでん)を造りて、すませ給ふなり。』

とぞ語りける。僧[やぶちゃん注:僧の語りであるはずが、ここから齟齬を生じ出す。せめて「拙僧」にして欲しかった。]、重ねて、

『我、きく、諸星は、をのをの、天に浮かびて、いまだ、地に下(くだ)らず。いかにとしてか、此地に、まします。又、門前の罪人は、いかなる者にて、かく罪せられ候や。ねがはくは、示し給へ。』

と申せば、官人(くわんにん[やぶちゃん注:ここで初めて「にん」と振る。])、聞きて、

『其事也。惣じて諸星は、中天を主(しゆ)として、其の世界を別にす。中にも七星は、中央の大星(《だい》せい)、三千界の專星(せん《せい》)の第一なり。しかるに、近年、天運、逆にして、五穀、みのらず。飢饉・ゑきれい[やぶちゃん注:「疫癘」。流行り病い。]、多く、人馬(にんば)、道路に、うへ[やぶちゃん注:ママ。]、死ぬる事、其數(かず)、あげて、かぞへがたし。承久の初《はじめ》より、天下の政事、すなを[やぶちゃん注:ママ。]ならず、國家の政事、絕《たえ》て、君(きみ)は臣を殺し、臣は君を弑(しい)す。父は子を殺し、子は父を討つ世となり、兵亂(ひやうらん)、うちつゞき、風雨、順(じゆん)ならず。これによつて、天の怒り、甚敷(はなはだしく)、諸星、其世界に落ちて、地界に居(きよ)をしむ。かゝるほどならば、世の人民(にんみん)も種(たね)をたつべし。諸天善神、哀れみ給ひ、北辰七星(ほくしんしちせい)に命じて、暫く、地界に住して、ゑき鬼(き)をかり、遂(おひ)て、これを、いましめ、地福(ちふく)を冨饒(ふねう)にして、五穀を熟し、人民を救はむ爲に、今、爰に、來臨まします。門前の鬼形(きぎやう)ども、皆、人の命をたち、しかばねをくらふ疫神(ゑきしん)たり。粗(ほゞ)、これを、いましめ給ふといへども、佛神の威力(ゐりき)、よはく、邪神のちから、つよふして、悉(ことごと)く、かりおひ給ふ事、あたはず。此事を人民にしらしめて、諸佛諸神に祈り、大法會(だいほうゑ)をとげおこなはしめむ爲に、大地に穴をひらきて、此事を、見せしめたまふ。汝、急ぎ、歸りて、此事を一天下(いつてんか)に披露し、はやく。神威を、ますべし。』

と、つぶさに語り給へば、僧、かうべを、地に、つけ、

『われ、不肖の身をうけ、あまつさへ、無實の罪をかふむり、禁獄の者なれば、此よしを申共《まをせども》、更に、うたがひをうけて、信ずべからず。ねがはくは、いかにも正しき證據を給はりて、此事を披露し侍らむ。』

と申せば、官人、

『さらば、其事をうたがひなば、天の七星、暫く、世の靜まらんまでは、天に出づまじ。そのうへ、洛中・五畿内のうちは、ゑきれい[やぶちゃん注:ママ。]、童子の形を顯はし、死人(しにん)の骸(かばね)を取りくらふべし。此の事を告げしらせて、信(しん)を致すべし。』

と、あれば、僧、ふしぎの思ひをなし、いそぎ、もとの地に走り歸りて、又、篭にうちのり、かへり來る。」

よしを語れば、奉行をはじめ、諸人、きどくの思ひをなし、急ぎ、上(うへ)に訴へたり。

「いよいよ、その僞りなき所を見るべし。」

とて、七星をみるに、すべて、夜ごとに出《いで》ず。貞永元年[やぶちゃん注:一二三二年。]より、洛中を始めて、畿内の國々に、十四、五斗《ばかり》の童子、出《いで》て、死人を取《とり》くらふ。

 これによつて、將軍家(しやうぐんけ)、鎌倉より、上洛ましまして、諸社に參詣し給ひ、一天下に命じて、「最勝經(さいせうきやう)」を轉讀有《あり》。ならびに、二十二社に奉幣使を立《たて》られ、さまざまの御祈禱(《ご》きたう)、ななめならざれば、やうやう、これより、少《すこし》、靜まりけり。

 此の法師も、ゆるされて、もとの官職にふせられ、御祈禱の料(れう)として、地領を寄附せられけるとかや。

[やぶちゃん注:「將軍家、鎌倉より、上洛ましまして、諸社に參詣し給ひ」史実では、頼経は、一度だけ、上洛している。暦仁元(一二三八)年で北条泰時や連署北条時房(時政の子で泰時(八つ下)の叔父に当たる)らを率いて正月二十八日に鎌倉を出た頼経は、二月十七日に京に入り、十月十三日まで九ケ月(この年は閏二月があった)滞在した。参照した当該ウィキによれば、『この間に祖父母や両親、兄弟たちと再会した他、権中納言、検非違使別当を経て』、『一気に権大納言まで昇進、更に』六月五日には『北条時房』『らを率いて春日大社に参詣した。また、既に』正妻であった『竹御所』(頼家の娘)『が亡くなっているため、代わりとなる正室を然るべきから迎えるための候補者選定も目的であった可能性がある』とある。言わずもがなだが、無論、本篇にあるような目的ではない。]

多滿寸太禮卷第七 望海二女の情

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第七巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。初めの方の和歌・漢詩(訓読文)は、本文入れ込みであるが、改行した。後に出る漢詩は白文をまず示し、訓点に従って( )で後に訓読文を示した。底本は二段組であるが、一段で示した。]

 

    望海二女(ばうかいじぢよ)の情(なさけ)

 建久の比(ころ)、伊豆の御崎(みさき)の海邊(かいへん)に、三木入道靜永(みきのにうだうじやう《えい》)といへる、冨貴(ふうき)うとくの者あり。常に賣米(うりまい)をもつて業(わざ)とす。

[やぶちゃん注:「建久」一一九〇年から一一九九年まで。鎌倉初期。

「伊豆の御崎の海邊」これだけでは、特定の比定地は難しいが、後で「伊豆の大しまもまの前に」とあることから、城ヶ崎海岸(グーグル・マップ・データ)が有力か。]

 只、娘、二人有《あり》。姊(あね)を「蘭(らん)」といひ、妹(いもと)を「𢞨(けい)」と名づけ、いかなる故にか、おさなき比より、聽明(ちやうめい)秀麗にして、手跡、ならびなく、和歌・文章に妙を得て、一をきゝて、十をさとる。

[やぶちゃん注:「𢞨」は「惠」の異体字。]

 其の屋(をく)の後ろの海岸に、かけづくりの大家(たいか)をかまへ、なづけて「望海樓(ばうかいろう)」と云ふ。誠に、眺望(ちやうまう)かぎりなく、南海、遙かに、天につらなれり。

[やぶちゃん注:「望海樓」これは中国の西湖湖畔の建物「望湖楼」の別名(現存しない)。後に出る蘇東坡(蘇軾)詩篇に、二篇、そこで詠んだ詩を見出せた。]

 伊豆の大しまもまの前に、春は一片の霞、白浪をつゝみ、夏は納凉のたのしみ、秋は海月(かいげつ)の詠(なが)め、冬は一しほ、浦さびて、かの貫之の詠めにも、

 霜だにもおかぬかたぞといふなれど波の中には雪ぞふりける

又、東坡が、

 魂(たま)飛びて、雪州(せつしう)に咤(たく)す

といへるも、目前にうかび、心も詞(ことば)も及《およば》れず。出入の舟の有さま、あら磯の汀(みぎは)に、黑き鳥の、いくらともなく、むれ居(ゐ)るに、しら浪の、隙(ひま)なく打《うち》よするけしき、

「白濱(しらはま)に、すみの色なる、しまつとり、筆(ふで)の及(およ)ばゝ。」

と云ひしも、さる事ぞかし。

[やぶちゃん注:「霜だにもおかぬかたぞといふなれど波の中には雪ぞふりける」「土佐日記」の「正月十六日」の条に出る。この一首は「白氏文集」巻十六の「酬元員外三月三十日慈恩寺相憶見寄」の『誰云南國無霜雪 盡在愁人鬢髪間』によるとされる。

「東坡が、魂(たま)飛びて、雪州(せつしう)に咤(たく)す、といへる」蘇軾の五言古詩「鬱孤臺 再過虔州和前韻」の一節。「維基文庫」のこちらで、原詩が見られるが、ちょっと後半の意味が判らない。]

 かの高樓の四壁に、當世、名を得し、何がしとかやが、書きし、松・櫻を、透きまもなく、かきつらねたり。適々(たまたま)入《いり》てみしもの、あたかも春風(しゆんぷう)の室(しつ)に入《いる》がごとし。

 ふたりの娘、明暮(あけくれ)、こゝにありて、吟詠、やまず。四季の和歌、數百首(すひやくしゆ)をつゞりて、「望海集」と名づく。この道の數奇(すき)もの、往々に、これをつたへて、もてはやせり。

 又、同じほとりに、一竹堂(いつちくだう)といへる隱者、「虛海集」といへる、和歌・文章をあみて、かの二女(じぢよ)のあめる「望海集」を、なんぱす。

 二女、これを、つたへみて、笑つて、かさねて、「橫竹集(おうちく《しふ》)」といへる草子をつくりて、返答す。

 これより、いよいよ、近國に、その名、高く、まみえ、もとめん事を思へり。

 爰に、おなじ國(くに)、下田といひし所に、入江喜藤五(《いりえ》きとうご)と云ふもの有《あり》。かれが次男に、長次といへる、やさもの有。かれらも同じ商人(あきうど)にて、數百石(すひやくこく)の米石(べいこく)を舟に積みて、日夜、運送しける。

 或る時、長次、舟の支配して、御崎に舟泊(ふなどま)りしけるが、折ふし、風、あれて、數日(すじつ)、此の浦に、とゞまる。本(もと)より、靜永、父の喜藤五とは、したしき中《なか》なれば、日每に、入道、これを、もてなし、我が子のごとく、奔走す。

 長次、とし、いまだ、廿(はたち)斗り、氣質、溫和にして、形ち、人に勝れ、情け、又、ふかし。

 

Rankei

 

 折から、夏の夕暮、舟にかへりて、湯あみするを、ふたりのむすめ、樓の上より遙かににこれをみて、堪へずや思ひけん、熟瓜(じゆくくわ)ふたつを、なげ送る。

 長次、かねてより、心に忘れず、又、今の情け、かたがた、その心をかよはすといへども、あふのきみれば、書院、高く、身に羽を生(しやう)ぜざれば、飛行(ひぎやう)の手足も、なし。

 已に夜(よ)もふけ、波、靜かに、月、海上に出でて、四方(よも)、晴れわたり、何となく、舟屋形(ふなやかた)の上にのぼり、吹きくる風に身をゆだね、茫然としていたるに[やぶちゃん注:ママ。]、帶紐(おびひぼ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])を、むすびあはせて、大きなる篭(かご)につけ、さげたり。

 長次、大きによろこび、これにのりて登る。

 互ひに、かよふ心の、下紐(したひぼ)、とげて[やぶちゃん注:ママ。]、打ちかたらひ、

 世〻かけて契る心はかたくとも命のうちにかはらずもがな

𢞨(けい)、すこし、うちかたむきて、

 いつはりと思ひながらや契るらんかねてしらるゝまことならねば

と、よみて、かこちければ、長次、おさなき比(ころ)より、山寺にのぼりて、詩文のみ好みて、更に和歌の道は、うとかりけるに、此の返しゑ[やぶちゃん注:ママ。]せぬ事をふかく恥ぢて、一詩を題して曰《いはく》、

 誤入蓬山頂上來

 芙蓉芍藥兩邊開

 此身得似偸香蝶

 遊戯花叢日幾廽

 (誤(あやま)つて 蓬山(ほうざん)頂上に入り來り

  芙蓉 芍藥 兩邊 開く

  此の身 得(う)香(か)を偸(ぬす)む蝶《てふ》に似たるを

  遊戯(《いう》げ)して 花叢(くわさう) 日(ひゞ)に幾廽(いくばく)ぞ

 すでに曉に致れば、また、篭にのりて、歸り下る。

 これより、夜ごとに逢ひぬ。

 二人の吟詠、多く、しるすに、いとまなし。

 ある夜(よ)、長次がいわく[やぶちゃん注:ママ。]、

「我れ、はからずも、君が情けに引かれて、日かずを送る。此の事、入道殿に、もれ聞え、たがひに、へだてられなば、いと恥づかしき、うきめにあひ、君がため、身のため、かたがた、いかゞせん。明日(あす)は、とく、舟、出《いだ》すべし。さもあらば、又、いつとか、ごせん[やぶちゃん注:「互せん」であろう。]。再會、はかり難し。」

と、淚をながせば、ふたりの娘も茫然として、

「君を爰にいざなふ事、わが身のつみ、いはん方なし。然(しか)れども、互ひの情けに、おやの結(むす)ばぬゑにし[やぶちゃん注:ママ。]をなす。たとへ、いかなるうきめを見、いかなる責めにあふとも、いかでか、情けを忘れん。ながく君が妻となりて、諸共(もろ《とも》)にゆく末を契らん。今更、いかに、かくはへだて給ふ。親のいさめ、世のそしりをうくるとも、外(ほか)の情けは思ひたえ侍る。若(も)し、ふかく罪をうけば、身を、なきものにして、ながき後(のち)の世をこそ、ちぎり參らすべけれ。」

と、なくなく、すがれば、さすが、見すてがたくて、ひとひ、二日と、暮すほどに、喜藤五、文《ふみ》、をこして[やぶちゃん注:ママ。]、長次を、ふかく、いましめ、家に歸らしむ。

 其後《そののち》、蘭、これを、ふかく嘆き、終《つひ》に病ひの床(ゆか)に、ふしければ、いもと、さまざま、これをいさめ、

「御(おん)命だにながらへば、又の逢瀨(あふせ)のなかるべきかは。」

と、ひたすらに力をそへぬれども、しだひに、おとろへ、今はのきわになれば、父母(ちゝ《はゝ》)、大きにおどろき、跡枕(あとまくら)[やぶちゃん注:枕元。]にたちそひ、泣きかなしむ事、限りなし。蘭、やうやう、くるしき息をつぎ、

「わが身、不幸にして、此世を、はやふす。いまは、妄執の障りともなれば、つゝみ候はず。去りし夏の比(ころ)、かうかうのこと、侍れども、そこたちの御心、又は、身を歎きて、二たび、音信(おとづれ)もなく、いかに成り給ひしぞと、首尾の間《ま》もなく、わするゝ時なく、かやうに成《なり》侍る。妹(いもうと)を、必(かならず)しも、かの人にあはせて、わがなき跡をも、とはせ給へ。」

と、なくなく、語り、いきの下より、かく、よみける、

 思ひきや逢ふはむかしのうつゝにてそのかねごとを夢になすとは

 けふのみとかぎるいまわの身なれども思ひ馴れにし夕暮の空

[やぶちゃん注:「かねごと」「予言・兼ね言」で「前もって言いおいた言葉・約束の言葉」のこと。]

 兩手をあはせて、ねふるがごとくに、なりぬ。

 父母、けんぞくに至る迄、泣きさけべども、かひなし。

「いかにふかくつゝみて、いまゝでしらざりしことの悔しさよ。わが子の思はん人、いかに、つらく、思ふべし。」

とて、うちふし、うちふし、なげゝども、叶(かな)はぬ無常のみち。

 さまざまの佛事をなして、七日、七日と、ねんごろに弔(とぶ)らひぬ。

 入道、心に思ふやう[やぶちゃん注:以下、ジョイントが悪い。]、長次が心ざし、やさしく、身上(しん《しやう》)、又、あい[やぶちゃん注:ママ。]ひとしければ、此あらましを、念比(ねん《ごろ》)に書きて、長次が父に送る。

 喜藤五も哀れにひかれて、云《いふ》にまかせて、長次を送る。

 入道、多(おほ)きによろこび、二たび、娘の歸り來《きた》る心地して、急ぎ、吉日をえらび、婚姻を、とゝのふ。

 姊は、年、廿《はたち》にしてうせ、長次は二十二、妹(いもうと)は十八にして、ながく、いもせを語らひけるが、第三年に當りければ、長次、一紙(《いつ》し)の祭文(さいもん)をかきて、其端(はし)に、一連の詩を詠ず。

 名花兩朶色偏嬌

 愁傷落一花去遥

 絕似章臺楊柳樹

 獨殘手裏舞長條

 (名花兩朶(りやうだ) 色(いろ) 偏へに嬌(こ)びたり

  愁傷に落ちて 一花 去ること 遥かなり

  絕(はなは)だ似たり 章臺(しやうだい)楊柳(やうりう)の樹(き)に

  獨りは殘つて 手裏(しゆり)に舞(ぶ)す 長條(ちやうでう)を

 此後《こののち》、ながく家をおさめて[やぶちゃん注:ママ。]、榮へける。

 其比《そのころ》、都鄙(とひ)に聞えて、「望海樓(ばうかいろう)の女文(《をんあ》ぶん)」とて、貴賤となく、もてはやしける。

 近きほどまで、人のしりける事とぞ。

 

多滿寸太禮卷第七 萬石長者の事

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第七巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。]

 

多滿寸太禮卷第七

        萬石長者(まんごくちやうじや)の事

 中比(なかごろ)、安藝の宮嶋のほとりに、一人の、さすらへのはて、あり。何某(なにがし)の入道とかやいひて、いと、やむ事なき人なりしに、父は朝家(てうか)に不孝(《ふ》かう)の事侍りて、かの國に移されて住み佗びしに、獨りの娘あり。容顏、ならびなく、美麗なりしかど、いかなる杲去(くわこ)の宿業《しゆくごふ》にや、言(ものい)ふ事なくて、瘖(おし)にてなむ有ける。

[やぶちゃん注:「中比」あまり遠くない昔。室町・戦国辺りの設定か。

「杲去(くわこ)」ママ。「杲」は音「カウ(コウ)」で、「明らか」・「高い」の意であり、「過」の意はない。思うに、この字、上下を反転させると、「杳」(音「エウ(ヨウ)」)の字となり、この字ならば、「影も見えないほど遠いさま」となり、「遠く過ぎ去った過去世」の意ととることは可能。但し、「杳去」で「過去」の意はなく、「杳(えう)として去りて」などの文脈などでしか使用例はない。

「瘖」で仮に表示したが、底本では(やまいだれ)の中に「亜」に似た字体である。これは恐らく「唖」を、かく造字したものと思われる。以下、この字で通した。]

 父の入道も、本意(ほい)なき事に思ひて、

「かゝる異樣(ことやう)なる者、人に見すべきにもあらず。」

と、とし月を送るに、父母さへ、うちつゞきて失せにしかば、たより、なぎさの捨小舟(すて《お》ぶね)、よるべもあらぬ身のさまを、めのとの女房、かひがひしく養育しける。

 朝(あした)には、孤舘(こくわん/はなれや[やぶちゃん注:右/左の読み。以下同じ。])にゐて淚をながし、暮れには、孫庇(そんひ/まごびさし)に、はらわたを、たつ。

[やぶちゃん注:「孫庇」寝殿造りなどで、母屋から出ている庇を付けても、なお、居住空間が足りない場合、さらにそれに継いで添えた庇を言う。「またびさし」とも。]

 かゝりしほどに、同じほとりに、滋野某(しげのゝなにがし)といへる武士あり。嫡子、十郞元方といひて、勇士の譽れありて、器量、勝れたる若者有《あり》しに、或る時、遊臘《いふれふ》のため、かの所に、さまよひありきけるに、蛾眉のよそほひを、物のひまより、かいまみて、ひそかに、かよひそめけるほどに、互ひに契り、あさからず。よろづ、はしなく語らひける程に、此女《をんな》、惣(そう)じて、物、いはず。初めのほどこそ、

『つゝましきにや。』

と思へども、

「何とて、さのみ口なしの、木幡(こはた)の里の與所(よそ)ならで、かばかり恥ぢらひ給ふぞ。」

と、かこたれて、心うちに、うごき、淚、外にあらはれければ、男、もはや、こゝろ得て、

「人はこたへぬむつごとを、いつまで、吾は、いわつゝじ[やぶちゃん注:ママ。]、いはねばこそあれ、戀しさの、かはる心は、なけれども、秌(あき)もはてなで、あだし野の、かれがれにこそ、成《なり》にけれ。」

[やぶちゃん注:「滋野」「元方」不詳。

「かこたれて」「託(かこ)たれて」「自然、心が満たされぬために、不平を言う。ぐちをこぼす。嘆く。」の意。

「秌」「秋」の異体字。言うまでもなく、「飽き」を掛ける。]

 女は又、

『忍車(しのびぐるま)のうき思ひ、片輪(かたわ)なりとて、こざりけむ。』

と、心のうちの身のうさを、やるかたなさのあまりに、めのとを具足(ぐそく)し、いつく嶋の明神にぞ參りける。

「わがこの病ひを轉じて、ものいわせて[やぶちゃん注:ママ。]、たび給へ。」

と、一心に祈誓して、朝(あした)には、三十三度(ど)、禮(らい)をなし、五體を地になげ、夕(ゆふべ)には、卅三度の花をそなへ、丹精をそなへて、歎きける。

 

Sigenomotokata

 

 六日に當つて、錦帳(きんちやう)の内より、童子、一人、出給ひ、蓮花を一葉(《いち》よう)、口の内へ入《いれ》給ふ、と、夢を、みたり。驚きて、

『所願、成就すべし。』

と、貴(たつと)く思ひける所に、宮中山(みやなかやま)に、圓成坊(ゑんじやうばう)阿闍梨とて、大驗(たいけん)の聖(ひじり)有《あり》けるが、同じく參籠し給ひ、彼女《かのをんな》の苦行せしを見給ひ、

「おことは、何事をか、祈り申させ給ひ候や。」

と、問ひ給へば、めのと、ことのよしを、こまごまと語りければ、阿闍梨、宣ひけるは、

「我、ひとへに、衆生利益(りやく)の爲に行者となる。何ぞ、人の愁へを助けざらんや。大聖(だいしやう)の御前《おんまへ》にて、速やかに加持し奉らん。法花《ほつけ》の妙用、聾(りう/つんぼ)・盲(もう/めくら)・瘟(おん/おし)・瘖(あ)、諸根(しよこん)不具は、此經を謗(そし)れる逆罪(ぎやくざい)なり。いかに況んや、其趣きを說き、きかせんをや。」

と、念珠、おしもむで、祈られける。

[やぶちゃん注:「圓成坊阿闍梨」不詳。]

 此女、忽ち、口より淡(あは)を吐く事、一時斗《いつときばかり》ありてのち、ものをいふ事を、得たり。

 女、なくなく、阿闍梨を拜し、

「心斗《こころばかり》のしるしに。」

とて、馬惱(めなう)のじゆず、奉る。

 阿闍梨、これをとりて、本山(ほんざん)に歸り給ひけり。

 女は、猶、明神に仕へ奉りけり。

 さるほどに、彼(か)の男は、

「女の失せにし。」

と聞きて、今は、中々、哀れに、かなしく、

『したふ淚も唐(もろこし)や、芳野の山のおくなりとも尋ねむ。』

とのみぞ思ひける。思ひのあまりに、

『此上は、遁世修行の身となりて。尋ねばや。』

と思ひたち、年比、敎化(けうけ)を受くる圓成坊に詣でけるに、彼(か)の馬惱の念珠を、檀のうへに置れたり。

 ふしぎに思ひ、よくよくみれば、年比、馴れし人の、玉の緖(を)なれば、淚の露も、くり返し、事の謂《いは》れを聞ば、主(あるじ)の僧、

「此の念珠は、さりし比、いつく嶋の神前にて、瘖(おし)の女ありしを、祈(いの)りなをして、ものいはせ侍しを、よろこむで、其女性(によしやう)の布施したり。」

とぞ、答へ給へば、

「扨、その女性は。何方(いづかた)へ行《ゆき》侍りぬらん。」

と、いへば、

「明神に、こもれり。」

と、語り給ふ。

 此おとこ、さあらぬ體(てい)にて、いとま乞ひ、嚴嶋に尋ねいり、彼《かの》女に行き逢ひて、わが身の科(とが)を、かなしみければ、女も又、過ぎにし恨みを語りて、互ひに袖をしぼり、各《おのおの》、明神を恭敬(くげう)して歸りける。

 かくて、領家(れうけ)の何がし、此女房の翠黛紅顏(すいたいこうがん)を傳へきゝ、

『いかにもして、これを得む。』

とぞ思はれける。

 これによりて、彼(か)の元方にしたしみ、遊宴に事よせて、弓の勝負を決しける。

 國司、のたまひけるは、

「我方《わがかた》、負けたらば、百兩の金(こがね)をあたふべし。汝、負《まけ》たらば、妻女を、あたへよ。」

と、やくそくしてけるに、本(もと)より、元方、名を得たる達者なりければ、かけ鳥草鹿(《どり》くさじゝ)、ともに領家の者ども、雙(なら)ぶもの、なかりけり。

[やぶちゃん注:「かけ鳥草鹿」「かけ鳥」は「翔け鳥」は飛んでいる鳥を弓で射る競技で、「草鹿」は鹿の形に作った弓の的(檜の板で鹿が首を上げている姿に作りなし、牛皮や布を張って、中に綿を入れ、横木に吊るしたもの)を射る競技。作法を伴った競技として、鎌倉時代に始まり、室町時代には「大的」・「円物(まるもの)」(檜で作った直径五~八寸(約十五~二十四センチ)の小型の半球状の的を枠の中央にぶら下げたものを射る)とともに「歩立(かちだち)の三物(みつもの)」として盛んに行われたが、近世には衰退した。]

 則《すなはち》、勝負に勝ちければ、百兩の金をぞ、取《とり》たりける。

  國司、本意(ほい)なき事に思ひ、重ねて、

「我、最上の、すまふ、持《もち》たり。汝と合はせん。若し、わが方(かた)、負けたらば、當國の海貢(かいぐ)を、永代(ゑいたい)、參らすべし。我方、勝ちたらば、汝が妻を、とるべし。」

と約束して、相撲(すまふ)をとつたりける。

 元方は、ひとへに明神の應護《わうご》を念じ、一心に祈誓をしける。

 國司のすまふには、近國に名を得たる、「あらかねの仁王」といへる上手(じやうず)なり。

 扨、庭におりたち、取りあふたりけるに、手にも、ためず、三番まで、投げ打ちたり。

 國司、大《おほき》に色(いろ)を損じ、

「誰(たれ)かある、今、一番。」

と、怒りけるに、「泊(とまり)七郞」とて、おしゆく船(ふね)のへさきを、つかむで擧ぐるほどの大力(たいりき)、

「主(しう)の大事、こゝなり。」

と、ひたゝれの袖、引きちぎるや、

「をそき[やぶちゃん注:ママ。]。」

と飛んで出(で)たり。元方、兩の肩先をとらへて、犬居《いぬゐ》に、どうと押し付けたりければ、忽ち、すくみて、はたらかず、とらへし手のあと、二、三寸に、元《もと》入《いつ》たり。

[やぶちゃん注:「犬居《いぬゐ》に」尻餅ちをついた姿、また、這い蹲った姿の形容。多く、このように助詞「に」を伴って副詞的に用いられる。犬が前足を立てて座る姿勢に喩えたもの。]

 此の勢ひに怖れて、誰(たれ)、出で逢ふ者、なし。

 終《つひ》に、すまふにかちけれは、ぜひなく、海貢の「ゆるし文(ぶみ)」を書きてあたへ給ふ。

 此の後(のち)は、いよいよ、冨貴(ふうき)の身となり、數百(すひやく)のけんぞくを召しつかひけり。

 國司も、口惜しき事に思ひ、

「忍びて、かれを、うつべき用意あり。」

と聞きて、元方、

『一期(いちご)の大事。』

と思ひ、ひそかに都(みやこ)へ忍びのぼり、件(くだん)のあらましを奏聞(そうもん)しければ、國司の非道、顯はれ、やがて、流されたまひし。

 さるほどに、元方は、いよいよ、冨み、さかえ、男女(なんによ)十人の子をまふけ、をのをの、千石づゝの地をあたへて、「萬石長者」と謂れしは、此の元方が事なりけるとかや。

  是れも、ひとへに嚴嶋の御利生・方便あさからずとぞ、感じける。

 

多滿寸太禮卷第六 行脚僧治亡霊事 / 多滿寸太禮卷第六~了

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第六巻一括版)。挿絵はない。標題は「行脚僧(あんぎやそう)、亡霊(ばうれい)を治(をさ)むる事」(底本では「治」に「おさむる」と振る)。今回も、特に敢えて語注を設ける対象を感じなかった。一つ、話柄内時制は、「世のさはがしき事、出來て、をのをの、身まかり」という辺りから、戦国末から、「近きころ」と言うからには、或いは、江戸初期・前期の設定のようである。]

 

   行脚僧治亡霊

 近き比《ころ》、ひとりの遁世者(とんせいしや)あり。

 もとは、ひえい山そだちにて、天台の奧旨《あうし》を究め、學匠の聞え有《あり》けるが、連歌の道にも達しけるが、ふと、思ひ立つて、西國(さいこく)、行脚しけるに、肥後國の片里(かたさと)に、『さも』と覺しき寺の、軒(のき)も、まばらにあれ果てて、草は道を埋み、戶ざし、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、ひらきたるに、さし入《いり》てみれば、松のあらしに、塵を拂ひ、こぼれ落ちたる窓の内には、人、一人《ひとり》も、なし。

「いかなる所やらむ。」

と、里人(さと《びと》)にとへば、

「そのかみ、養興寺とかや云ひて、めでたき寺にて、僧衆(そうしゆ)も、あまた、にぎはひ、詩歌の翫(もてあそ)び、遠里遠村の數奇(すき)人、多く集まり、月次(つきなみ)の連歌などして、繁昌の地なりしが、いつの比よりか、ふしぎども、ありて、人、更にすまず、かく年々(とし《どし》)に荒れ侍る。いまも、たまたま望みて入來《いりきた》る人しもあれば、二夜(ふたよ)をかさねずして、逃げ歸る。御僧(おそう)も修業者とみえたり。心見(こゝろ《み》)に、行きて。やどりて見給へ。」

と語れば、

「それこそ、かゝる身に望み侍る事なれば、こよひは此の堂にあかすべし。」

と申せば、

「さもあらば、結緣(けちえん)し侍らん。」

とて、食(しよく)じなど、あたへて、かの寺に送り、

「明けなば、問ひ侍らん。」

とて歸りぬ。

 此僧は、中(なか)の間(ま)とおぼしき所に、いろりの侍るに、あたりの柴木(しばき)、こりあつめて、燒火(たきび)なんどして、何(なに)となく、心をすまし、

『さるにても、いかなるふしぎか、あるらん。』

と思《おもひ》て、物をまつ心ちにて、ゐたるが、漸々(やうやう)、夜半まで、さしたる事もなければ、臥しぬ。

[やぶちゃん注:「柴木、こりあつめて」「木こり」を「薪」の意で用いるのは、ありそうだが、実は一般的ではないので、容易に取り込める柴や枯れた木片などを「多く集めて」で、「凝り集めて」の意でとった。]

 夢まつほどのうたゝねに、枕をかたぶけて聞けば、客殿とおぼしき方(かた)に、あまた人音して、追々に戶を明《あけ》て來(く[やぶちゃん注:底本は「くる」と振る。])る音あり。

『是こそ。』

と思ひて、障子の透まより、さしのぞきみれば、座上には、四十余(よそぢあま)りの半俗、素絹(そけん)の衣(ころも)の、すそみじかなるを着(ちやく)し、二八斗(ばかり)[やぶちゃん注:十六歳。]の兒(ちご)、淸らかなるが、前に卓(たく)をひかへてあり。

 扨、或は上下(かみしも)、又は白衣(びやくゑ)の者共、七m八人も圓居(まどゐ)いたり[やぶちゃん注:ママ。]。猶、入り來たれる者も、おなじ體(かたち)なり。

『何事を、おこなふやらむ。』

と、守り居(ゐ)たるに、連歌の體(てい)と見へて、次第に、一順、廻りける程に、

舟のうちにて老ひにけるかな

と云ふ句に、何(なに)とか思けむ、とかく案じ入《いり》たる體(てい)にて、暫くありて、

「かなしや。」

と、一同に、おめきて、霜のきゆるごとくに、跡方、なし。

 又、暫く有りて、あらはれ出《いで》、まへの句に至り、同時に、きゆる事、すべて、隙(ひま)なし。

 此の僧、つくづく案じみるに、

『一定《いちぢやう》、この者ども、此の句を付《つけ》かねて、終りけるに、なを[やぶちゃん注:ママ。]、執心、此の地に留(とま)り、うかびも、やらで。まよひぬるよ。』

と思へば、不便(ふびん)の事に思ひて、

『何とぞ、能(よ)き句をつらねて、罪を、たすけばや。』

と思ひて、かさねて、顯はれ出《いで》て、前のごとくに句を打ち出だしける時、

    浮草の筧(かけひ)の水にながれきて

と大音(だいおん)にて、付出《つけいだ》しければ、各《おのおの》、大きに感じ、よろこびて、手を合はせ、拜して、

「我々は、むかしこの所にて、月次(つきなみ)の連歌しける者どもなりしが、此の句を付け煩らひて、月日を送るほどに、斗(はか)らざるに、世のさはがしき事、出來《いでき》て、をのをの[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、身(み)まかり、一朝(いつてう)の煙(けぶり)となる。其の執心、此の地に殘りて、加樣(かやう)に、くるしみに、しづみけるほどに、しかるべき名師(めいし)にもあひて、罪をさんげして、苦海(くかい)をも離るべきと、姿をまみえて、顯はれ出《いで》しに、はかなくも、我等に恐れ、人すまぬ地と、あれはて、うかぶ世もなきくるしみを、忽ちに、一句の秀逸にて、をのをの、苦海を出《いで》し事の、うれしさよ。」

とて、千《ち》たび、禮拜(らいはい)して、

「この寺を、僧に送りまいらする。此の後(のち)、守りの神となりて、永く魔障のさまたげを、のぞき侍らむ。」

と、かきけすごとくに、うせにける。

 夜(よ)もすでに、明けければ、里人、をのをの、かけきたりて、

「いかなる事か、侍りけむ。」

と問へば、ありし事ども、委しく語りければ、里人、をのをの、肝(きも)をけし、

「その亡者どもは、皆、此の里の者どもの、先祖なりしが、連歌をこのみ、身まかりしが、扨は、その執心、のこりて、かゝるありさまを現(げん)じけるを、有り難くも、助《たすけ》させ給ふものかな。」

と、をのをの、よろこび、かつごうして、此の寺の中興として、近里の者ども、よりあひ、もとのごとくに建立して、ながく寺門を、かゝやかしけるとぞ。

2022/09/05

多滿寸太禮卷第六 堀江長七逢狐妖情

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第六巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。標題は「堀江長七、狐(きつね)の妖情(ようせい[やぶちゃん注:漢字も読みもママ。])も逢ふ」と振る。今回は、特に敢えて語注を設ける対象を感じなかった。]

 

    堀江長七逢孤妖情

 中比(なかごろ)、尾張國金山(かなやま)のほとりに、堀江何某(なにがし)といふ者あり。家、とみ、ゆたかにして、けんぞく、數《す》十人を扶持して、近隣を領し、そこばくの林地(りんち)をひかへたり。

 然(しか)るに、一人の息(そく)あり、名を長七(ちやうしち)と名づけて、いつきけり。器量、やさしく、情けふかく、手跡、つたなからず。家、ゆたか成りければ、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、ゆうに、そだちける。よはひ、すでに廿(はた)とせに及(および)しかば、

「いかなる妻(つま)をも迎へばや。」

と、父母(ちゝはゝ)、これを願ふといへども、明暮(あけくれ)、色(いろ)をこのみて、更に、心に、まかせず。

 春の半ばより、らうらうと成りて、さらに、人にも逢はず、一間(ひとま)に、とぢ篭り、常は、筆(ふで)をとりて、詠吟し、艶書(えんしよ)を書き、たまたま、人の立ちいれば、これを、かくす。

[やぶちゃん注:「らうらう」「らうろう」で「牢籠」ではないか。この語には、まさに「引きこもること」の意があり、「衰えること」の意もある。]

 又、おりおり[やぶちゃん注:ママ。]、おさなき[やぶちゃん注:ママ。]女(をんな)の聲して、語る事あり。

 人、ひそかに、のぞきみるに、更に、形ち、なし。その物語りは、中立(なかだち)の使(つかひ)をなすの詩(ことば)也。

 かやうにする事、廿日(はつか)計(ばか)り過ぎて、長七、忽ちに所在を失ふて、みへず。

 父母、けんぞく、大きに嘆きて、住みし跡を見るに、ひたすら、艷書計りなり。反古《ほうご》に、

 草の戶をひらきもあへず梅(むめ)が香のにほひもつらき獨(ひとり)ねのとこ

 淚川逢瀨(あふせ)もしらぬ身をつくしたけなす程に成りにけるかな

とぞ、書きたりける。

 家、こぞりて、ふしぎに思ひ、

「若(も)し、いかなる戀路に、まよひ、いづ方(かた)へか、行きけん。」

と、數(す)十人の者共を、八方へ走らかし、尋ね求むに、更に、行方(ゆきがた)、なし。

「せめては、なきがら成りとも、いかなる山野淵川(さんやふちかは)にもあらば、なからん姿なりとも、みばや。」

と、さまざまに尋ね、くまなく、さがせども、なし。

 こゝに、ある貴(たうと)き聖(ひじり)の、常に、この家に出で入りしけるを、招きよせ、

「いかがせん。」

と語るに、此の僧、聞きて、

「人力(にんりよく)の及ばざる事は、佛神をたのみ奉るに、しくは、なし。年比(としごろ)、その人、信心あれば、觀世音の尊像をきざみ奉るべし。」

と誓ひて、栴檀(せんだん)の木、長七がたけに切りて、これを佛檀に建て置き、普門品(ふもんぼん)を讀誦し、禮拜祈誓(らいはいきせい)す。

 さるほどに、十三日を經て、長七、其の家の藏(くら)の下より、忽然と、出で來たる。

 顏色(がんしよく)、憔悴し、ひとへに、黃病(くわうびやう)をやめるものゝごとし。

 其の土藏石垣の敷板(しきいた)の間、わづかに、三、四寸、中々、人の身を入《いる》べきやうもなきに、其の中(なか)より、這ひ出《いで》たり。

 父母(ちゝはゝ)をはじめ、みなみな、驚き、あやしめり。

 歸るやいなや、打ち臥しぬ。

 

Horietyouhiti

 

 漸々(やうやう)、四、五日過ぎて、人心ちつきて、語りけるは、

「吾、日比、ひとり居(ゐ)をうれへ、あはれ、心に叶(かな)ふ妻もがなと、常に心に思へり。或る日、一人(ひとり)のうつくしき女(め)の童(わらは)、文(ふみ)を菊の花につけて、持ち來り、

『我等がたのみ奉る姬君の、殿を戀ひわびて、「文(ふみ)を忍びて、わたし奉れ。」と仰せ有《あり》し。』

と、一通の玉章(たまづさ)を、わたす。我、ひらきてみれば、心、詞(ことば)、みやびやかにして、心ち、まどひ、歌をよみ、文をかきて、書通往來(しよつうわうらい)、數(かず)をしらず。一日《いちじつ》、あじろのぬりかごを、かきて來り、我れを、むかふ。前後の侍、四人、ゆく事、數(す)十里、野山をこえて、大なる屋形(やかた)に入《いり》、老《おい》たる女性(によしやう)ありて、

『よくこそ、わたらせ給ひつる。姬君、待ちわびさせおはします。こなたへ、いらせ給へ。』

と、我れをみちびき、殿中に、いざなふ。其體(てい)、國主、郡司(ぐんじ[やぶちゃん注:ママ。])のごとし。多くのまを、こへ、奧の一間に入《いり》たり。綾(あや)の帳(ちやう)をかゝげ、四方(《し》はう)、みな、色々(いろいろ)の花鳥(くわてう)を繪書き、かざれり。暫くありて、珍膳をすゝむ。かの姬、ゆうゆうと出《いで》給ふをみれば、容貌、衣服、中々、詞(ことば)にも、のべがたし。蘭麝(らんじや)あたりを薰(くん)じ、天上界に至るかと、心も空(そら)に成りたり。中夜(ちうや)、燭(しよく)を背(そむ)けて、帳中に入《いり》て、交はる。肌(はだへ)、雪のごとく、そのおもしろ事[やぶちゃん注:「き」の脱字。]、死するとも悔まず。ひるは、則ち、酒宴をなし、夜(よる)は、同じく、ぬる。ひよく連理のかたらひ、淺からず。

 年月を經て、遂に一男(いちなん)を產む。

 利根發明にして、かたち、うつくしく、明暮、いだきかゝへ、膝をおろさず。

 居《を》る事、三年にして、忽ち、一人(ひとり)の異俗(いぞく)、あり。

 頭(かしら)に金甲(きんかう/こがねのかぶと[やぶちゃん注:右/左の読み。])を着(ちやく)し、そのさま、四天のごとく也。

 一つの杖(つえ)を持ち、殿中に至る。

 姬をはじめ、局、女房、ことごとく、逃げ行きたり。

 又、杖を以《もつて》、わが背中を突く。

 我、せばき所よりして、出《いで》て、跡をみれば、まさしく家の藏の下なり。」

と語る。

 人々、不思義の思ひをなして、則ち、かの藏を、こぼち、ほりてみるに、狐、數(す)十疋、おどろき、走り、逃げさりぬ。

 藏の下土(したつち)の上に、長七が、いねたる跡、あり。

 わづかに、十三日の間を、『みとせを過ごす』と思へり。

 藏の板敷の下、三、四寸の高さを、大家高殿(たいかかうでん)と見せつるも、みな、これ、妖狐《やうこ》の、たぶらかしたる也。

 誠に、大悲菩薩の靈威、いまに始めぬ事ながら、既に、狐の穴に死せむとしけるを、救はせ給ふ。

 有り難かりし、ためし也。

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 農民文次郞復讐略記

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○農民文次郞復讐略記

武藏州豐島郡小具《おぐ》村【里俗、「おふた村」と唱ふ。】王子村、近村《きんそん》のよし。

        大御番水野伯耆守組

         阿部鑑一郞知行所

          名主       利 右 衞 門

        利右衞門養子   文  次  郞

        新御番岡田勝五郞組

         羽田鐵之助知行所

               名主   次郞右衞門

小具の渡しは、元來、百姓渡しにて、古來より、あげ錢などいふ定めはなかりしに、右の次郞右衞門、近來《ちかごろ》、あげ錢をとりて、私《わたくし》に、つかひ捨たり。然るに、かのわたし船にて、修驗者と、渡し守と、鬪諍《たうじやう》いで來《き》し折、「この沒匁(いりめ)は、渡し船のあげ錢にて、つぐなふべし。」といふにより、次郞右衞門が私慾、あらはれにけり。よりて、名主利右衞門、これを憤りて、次郞右衞門と問答に及び、「件《くだん》のあげ錢は、以來、渡し場の入用に充つべし。」といへども、次郞右衞門、したがはず。且《かつ》、「年來《としごろ》、つかひ捨たるあげ錢は、さらなり、向後《かうご》も、己《をのれ》のみの利得にせん。」といふをもて、利右衞門、いよいよ、怒《いかり》に堪ず、今茲《こんじ》、文政九年春二月十四日、「次郞右衞門を擊果《うちはた》さん。」とて、渠《かれ》が宿所に赴きしに、利右衞門は、還《かへつ》て、次郞右衞門に、きり殺されけり。こゝに利右衞門が養子文次郞といふもの、この日、親の爲體《ていたらく》を、心もとなく思ふよしありて、跡より、ゆきて見るに、親利右衞門は既に殺されたりければ、即座に、かたき次郞右衞門を討《うち》とめしといふ【或《あるい》は、いふ、利右衞門は、その身の脇差を、次郞右衞門に奪ひとられ、その刄《やいば》にて殺されたり。次郞右衞門は、既に利右衞門を殺して、兩手を組み、思案して居《ゐ》たる處へ、文次郞、走り來て、矢庭《やには》に、又、その刄を取《とり》て、次郞右衞門を擊《うち》とめしとぞ。】。しかるに、次郞右衞門に、子供、二人あり。此ものども、僞りて、わが親をも、利右衞門をも、殺したるものは、文次郞也。次郞右衞門と利右衞門と鬪諍の上、組《くみ》あひたる處へ、文次郞、走り來て、次郞右衞門を切るときに、利右衞門をも切殺《きりころ》せし也といふにより、外に雙方《さうはう》の證人もなければ、吟味の筋、分明ならず。地頭の下吟味、滯りて、埒明かねし故、二月廿三日に至《いたり》て、やうやく、公儀へさし出《いだ》しになりしかば、御勘定奉行の掛りになりしといふ。裁許の事、いまだ知らず。なほ、又、異日《いじつ》に聞くことあらば、追書すべくになん【この節、ちまたを賣《うり》ありきしものは、「文次郞」を「文吉」とし、且、『利右衞門と次郞右衞門は、劍術をよくせしより、恨みを結びし。』など、書《かき》しるせしは、そら言《ごと》也。この「小具の渡し」は兩村のかゝりにて、この事より、利右衞門は、ふかく次郞右衞門を憎みし也。次郞右衞門は、元來、心ざま、よからぬものなりとぞ。】。丙戌二月二十七日雨窓《うそう》に識《しるす》。

[やぶちゃん注:「小具村」嘗つて、東京府北豊島郡に存在した尾久町(おぐまち)の旧村か。現在の荒川区北西部に当たり、「尾久」を含む地名が今も残る。「今昔マップ」のここを参照されたい。旧荒川(現在、隅田川に分岐)の右岸に当たる。左の戦前の地図を見ると、旧荒川の尾久村の北西に「上尾久」と書いた左に「小渡」とあるのが判る。或いは、舞台はここか

「丙戌二月二十七日」文政九(一八二六)年。

「雨窓」雨降る窓辺。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 八木八郞墓石

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○八木八郞墓石

江戶伊皿子《いさらご》【臺町の先。】大圓寺に、薩藩の大力士、八木八郞の墓あり。縮圖、左の如し。【◎圖、略ㇾ之。墓石高、八尺餘[やぶちゃん注:二・四三メートル超え。]、頂部、厚、一尺二、三寸[やぶちゃん注:三十六・三~三十九・一センチ。]、底部、厚、一尺四、五寸[やぶちゃん注:四十二・四二~四十五・四五センチ。]。】。

 貞享三丙寅六月十七日

 正山常眞庵主

  薩州生緣     八 木 八 郞

                行年十九歲

傳云《いはく》、八木八郞は多力也。この石、泉嶽寺の揚げ場にて、數《す》十人かゝりて、船より引あげんとしつゝ、あげかねたる折、八郞、其處《そこ》をよぎるとて、見つゝ頻りに笑ひしかば、船頭、車力等《ら》、これを怒りて、その笑ふゆゑを問ふに、八郞こたへて、「汝等、かばかりの石を、數十人して、なほ、引あげる事、得ならぬか。わが笑ひしは、この故也。」といふに、衆、みな、いよいよ怒りて、「おん身、今、この石を引あげて見せ給はゞ、石を、まゐらすべし。」と、いひけり。折から、雨後の事なりければ、八郞、木履《ぼくり》をはきながら、件《くだん》の石を引かつぎ、大圓寺の門前へもて來て、寺へ、あづけおきけり。この寺は八郞が菩提所なるによりて也。そのゝちに、八郞、早世しければ、則、その石をもて、墓表にしつと、いひ傳へたり。予、この事を聞《きき》て、その墓を見ぬるに、享和中の事なりき。大圓寺の墓所に到れば、衆墓に抽《ぬきんで》て、いと高きをもて、聞ずして、八郞が墓なりけりと知るに足れり。かくて、文政のなかばに至りて、「鱗齋漫錄」といふ寫本を閱《けみ》せしに、その書に、亦、この墓の事を載たり。鱗齋云、『余が近き邊の伊皿子に、大圓寺といへる薩州の菩提所あり。其墓所に「八木八郞」といへる士の石碑あり。竪の長さ、七、八尺、橫幅、下に至りては三尺程もあるべし。此石、もとは高輪なる薩州の下やしきの庭に、年久しく埋みありしが、其時分の主候、一時の戲れに、「かゝる石を引起す力量の者もあるべきや。」など聞えしに、八郞なるもの、年十九歲なりしが、たゞちに彼石を震起《ふるひおこ》し、大きなる井戶綱やうのものにて、身にからみ、庭上、二、三遍、負《おひ》あるき、又、もとの所に居置《すへおき》たり。主候をはじめ、其怪力に驚かざる者、なし。かゝりし程に、彼《かの》八郞、其夜、總身《さうみ》、いたみ、氣息、頻りにつまりて、終《つひ》に十九歲を一期《いちご》として、なき人の數に入たりし。主候、殊に惜み給ひ、「益なき事に、あたら若者を失ひしは、我言によれり。」とて、其跡、念頃《ねんごろ》に佛事、なし、彼大石《だいせき》を、とりあへず、墓じるしとは、なしたり。今、其石をはかるに、究竟《くつきやう》の鳶のもの、手引、十、四五人ならでは、車にて引くこと、なしがたしといへり。卽ち、八郞は延享の頃の人なりし。「南史」に、『羊侃嘗戲以數石、人八尺大圍者、執以相擊、悉皆破碎。』。「五雜俎」に、『三原王大孃、以ㇾ首戴十八人而舞。』など、昔より怪力のことを、和漢にしるせしもおほければ、疑ふべきことにもあらず。』。【以上、「鱗齋漫錄」の全文なり。この書には、墓石の圖もなく、歲月も、しるさず。只、延享の比の人といふのみ。延享は貞享のあやまりか。】。今、按ずるに、「漫錄」にいふ所、その實を得たるが如し。とまれかくまれ、八木八郞は、蜀の五丁力士《ごていりきし》の風あり。もし、戰國に生れなば、妻鹿《めが》孫三郞と伯仲すべきものなるに、この墓石をだも、知るものゝ多からぬは、遣憾ならずや。

[やぶちゃん注:サイト「科学技術振興機構」のこちらから、問芝志保氏の論文「明治大正期の東京における名墓の観光化」(『宗教学・比較思想学論集』第二十所収・PDF)がダウン・ロード可能であるが、そこに八木八郎の紹介がなされてある(墓碑写真有り)。ところが、そこには、彼の死について、驚天動地の別説が示されてある。以下である。『小姓の八郎が、薩州家の庭で家臣らに対して頻りに力自慢をするので、皆は「この大石を担いで池の周りを歩けるか」と八郎を煽った。すると八郎は本当にその石を担いで池を三周してみせたため、一同は大変驚いた。ところが』、『八郎の父は、八郎は』、『生来』、『人を侮る癖があり、このままでは』、『いずれ』、『主君に害を及ぼす』、『と厳しく咎めた。しかし』、『八郎がそれを聞き入れなかったため、立腹した父は』、『なんと』、『八郎を手討ちにしてしまった』というのである。こちらの方が、私は本当らしいと感じたことを言い添えておく。

「江戶伊皿子【臺町の先。】大圓寺」旧芝伊皿子町(しばいさらごまち)にあった曹洞宗泉谷山(せんこくざん)大圓寺。この当時は、現在の港区三田四丁目の「NTTデータ三田ビル」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のある位置にあったが、同寺は後に東京都杉並区和泉(いづみ)に移転している。

「貞享三丙寅六月十七日」グレゴリオ暦一六八六年八月五日。綱吉の治世。但し、後に「八郞は延享の頃の人なりし」とある。しかし、延享は一七四四年から一七四八年までで、この「貞享」よりも後になるから、これは筆者が「貞享」とすべきところを誤ったものとする馬琴説に従う。

「行年十九歲」「貞享三」年から数えで機械逆算すると、彼の生まれは寛文八(一六六八)年。家綱の治世。

「享和中」一八〇一年から一八〇四年まで。

「文政のなかば」文政は十三年までで、一八一八年から一八三〇年まで。

「鱗齋漫錄」不詳。

「其時分の主候」第二代薩摩藩主島津光久。

「南史」中国の正史で「二十五史」の一つ。唐の李延寿の撰。高宗(在位:六四九年~六八三年)の代に成立。南朝の宋・斉・梁・陳の四国の正史を改修した通史。南朝北朝の歴史が、それぞれ自国中心であるのを是正し、双方を対照し、条理を整えて編集したもの。

『羊侃嘗戲以數石、人八尺大圍者、執以相擊、悉皆破碎。』推定訓読する。「羊侃(やうがん)は、嘗つて、戲れに數石(すうせき)を以つてし、人の八尺の大圍《だいゐ》の者、執りて、以つて、相ひ擊ち、悉く、皆、破碎せり。」。羊侃(ようがん 四九五年~五四九年)は北魏及び梁の武将にして政治家。文武孰れにも秀でた人物とされる。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「三原王大孃、以ㇾ首戴十八人而舞。」「三原王大孃(さんげんわうだいじやう)、首を以つて、十八人を戴(の)せて舞ふ。」。「三原王大孃」は不詳。

「蜀の五丁力士」伝説上の人物。蜀の王が、山道を穿たせるために、命じた五人の力士。

「妻鹿孫三郞」南北朝時代の武将妻鹿長宗(めがながむね 生没年未詳)の通称。播磨妻鹿の功山(こうやま)城主。「太平記」によれば、力が勝れ、相撲では日本六十余州に無敵とする。正慶/元弘三(一三三三)年の「元弘の乱」では、一族十七名とともに、赤松則村方に組みし、北条勢と戦った(講談社「日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 女性に於る猥褻の文身

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。標題の「文身」は「いれずみ」。なお、底本では「陰戶」が『○○』と伏字にされてあるが、引用元を参考に漢字を当てた。読みは私の推定である。

 

      女性に於る猥褻の文身 (大正十四年六月變態心理第十五卷第六號)

 

 『變態性慾』六卷四號に、田中君が、此の題の中《うち》に書かれた中《なか》に洩れたことを、聊か記《しる》さう。三十五年前、米國に在つた時、故鈴木倚象男に聞いたのであるが、其數年前、警視廳で婦女の文身を調べたら、最も奇拔なのは、東京のどこかの女博徒で、吉舌に蛞蝓《なめくぢ》を入れ墨した、其の形がよく似たのみか、巧技絕妙でナメクジの背の細點具さに備はり、眞に逼つた物の由。又、廿八年前、龍動(ロンドン)で故中井芳楠氏に聞いた話は、維新前、泉州貝塚に名題の美女兼賭博女お芳は、祕部近く、蟹をほりつけ、走り込《こま》んとする狀、頗るよく出來て居《をつ》た、と。甲子夜話にも同例を二ケ所に記してあるから、賭博女は每度したことらしい。其の一を擧げると、卷十八に、「或る人の話に、湯島に鳶の者の妻よし、寡婦と成つて任俠を以つて聞こえたり。湯島の劇場に、狂者、刀を振り廻し、人皆、手に合はずと聞いて、我れ、之を取るべしとて、衣をぬぎ、丸裸に成つて、ズカズカと、其の傍らにより、何をなさると云へば、狂人、呆れて立ちたるに、其の手を取つて、刀を取り上げ、事穩《ことおだや》かに濟《すま》せし、となり。この婦、陰戶《ほと》の傍らに蟹の橫行《わうぎやう》して入《いら》んとする形を入れ墨したり、と。凡そ、豪氣、此の類《たぐひ》なり。卅年ばかり前のことにて、その婦を目擊せし人の言に、膚、白く、容顏、ことに美艶なりしとぞ。かの亡夫の配下なりし鳶ども、强情者、多かりしが、皆な、隨從し、差圖をうけ、一言いう者も、なかりし、と云へり。」。

[やぶちゃん注:「鈴木倚象男」軍医大佐の鈴木(片倉)倚象(文久二(一八六二)年~大正九(一九二〇)年)か? 個人サイト「The Naval Data Base」のこちらに拠った。「男」は名の一部か、男爵の意かは、不明。

「吉舌」「きちぜつ・きつぜつ」で、女性生殖器の陰核(クリトリス:Clitoris)を指す隠語であるが、古語では「ひなさき」と呼び、早く、平安中期の辞書である源順(したごう)の「和名類聚抄」の巻第三「形体部第八」の「茎垂類第三十九」に(国立国会図書館デジタルコレクションの板本でここ)、

   *

吉舌(ヒナサキ) 「楊氏漢語抄」云はく、『𠮷舌【和名、「比奈佐岐(ひなさき)」。】』と。

   *

と載っている。小学館「日本国語大辞典」にも載る。

「中井芳楠」(よしくす/ほうなん 嘉永六(一八五三)年~明治三六(一九〇三)年)は銀行家・教育者。「南方熊楠 履歴書(その4) 父のこと」の私の注を参照されたい。

「泉州貝塚」現在の大阪府貝塚市(グーグル・マップ・データ)。

「甲子夜話にも……」事前に後者の方を確認、「フライング単発 甲子夜話卷之十八 11 鳶の妻於よしの事」で電子化した。

「お芳」引用の「甲子夜話」の女丈夫と同音であるが、「甲子夜話」の人物を伝え聴いた女が、同名を称し、蟹の文身まで真似たと考える方が無理があるまい。]

フライング単発 甲子夜話卷之十八 11 鳶の妻於よしの事

 

[以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠の「女性に於る猥褻の文身」(いれずみ)に必要となったため、急遽、電子化する。今回は特異的に読点と記号を追加し、やや読み難いと思われる語句については、推定で《 》により歴史的仮名遣で読みを附した。こういう姐さん、私は好きだ。]

 

18―11

或人の話しに、湯嶋に鳶者《とびのもの》の妻、名を「よし」と云《いふ》ありしが、寡婦《やもめ》となりて、任俠を以て聞へたり。其一事をいはゞ、湯嶋の劇場《しばゐ》に、狂人ありて、刀を拔《ぬき》て振《ふり》まわし[やぶちゃん注:ママ。]、人皆《ひとみな》、手に合はずと聞《きき》て、「我、これを取るべし。」とて、衣を脫ぎ、まる裸になり、ずかずかと、狂人の傍《かたはら》に寄り、「何をなさる。」と云へば、狂人、あきれて立《たち》たるを、其手を執《とり》て、刀を取《とり》あげ、事、穩《おだやか》に濟《すま》せしとなり。此婦、陰戶《ほと》の傍に、蟹の橫行《わうかう》して、入らんとする形をほり、入墨に爲《し》たり、と。凡《およそ》、豪氣、此《この》類《たぐひ》なり[やぶちゃん注:「比類」の誤字かとも思ったが、南方熊楠も、こう引いている。]。三十年前計《ばかり》のことにて、其婦《をんな》を目擊せし人の言《いひ》し。膚《はだへ》、白く、容顏、殊に美艷なりし、とぞ。かの亡夫の配下なりし鳶ども、强性者《がうじやうもの》多かりしが、皆、此婦に隨從して、指圖を受け、一言、云者も、なかりし、となり。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 屍愛に就いて

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇はやや長いので、分割する。上代特殊仮名遣紛いの当て字箇所や、漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。

 本篇は二〇〇七年一月十日にサイトで「選集」版で「屍愛について」として公開しているが、今回は全く零から始めた。なお、標題下の書誌は底本では月が『五月』となっているが、古書サイトで当該原雑誌表紙画像を見たところ、「選集」の六月が正しいことが判ったので修正した。]

 

     屍愛に就いて (大正十四年六月變態心理第十五卷第六號)

 

 大正十四年二月の『變態性慾』九〇頁に、「江戶時代の文献に見えたる屍愛と殺人淫樂」の一篇がある。屍愛の例として唯一つ雨月物語にある、一僧が美童を寵愛の餘り、其の死屍に戯れ、終《つひ》には、其の肉を食ひ盡した話を擧げて有る。是は同性間の屍愛であるだけ事頗る異常を極めて居るが、異性間の屍愛を一例も擧げられなんだは殘り多い。但し、異性間の屍愛も江戶時代の文献に無いではない。

[やぶちゃん注:「江戶時代の文献に見えたる屍愛と殺人淫樂」調べてみたが、筆者不詳。『變態性慾』は日本精神医学会が大正一一(一九二二)年から大正一四(一九二五)年まで六巻を発行したもので、本篇初出の『變態心理』誌は、同会のその発展誌であるが、孰れも原雑誌に当たることは出来なかった。

「屍愛の例として唯一つ雨月物語にある、一僧が美童を寵愛の餘り、其の死屍に戯れ、終《つひ》には、其の肉を食ひ盡した話を擧げて有る」上田秋成の「雨月物語」の中でも、私の偏愛する「青頭巾」を指す。高校教師時代、オリジナルに何度も授業で用いた。私のサイト版で本文はこちらにあり、その授業案も雨月物語 青頭巾  授業ノートにあり、別に私が現代語訳したものも、雨月物語 青頭巾 やぶちゃん訳として公開しているので、参照されたい。]

 例せば、寶永四年板、千尋日本織《ちひろやまとをり》二の四に、「下總の本庄といふ所は、隱逸の人、道心、比丘尼抔の餘多《あまた》住む處也。六時不斷の鉦の音いと殊勝に聞ゆる中にも勤め怠らず、朝に鉢を開き夕に戶ざすより、行きかう人もなく出《いづ》ることも稀なる道心あり。賤しからぬ生れ付き乍ら、鼻、落ちて、念佛の聲の、其れと知らるゝおかしさなりし。或時、其の邊《ほと》りに隱れまします智識の許《もと》に參りて懺悔しけるに、我れ、俗にて候ふ時は、小身の武家に勤め侍りし。主人の娘、優れて美はしく、十五歲の頃より痛《いた》わる事侍りて、緣にも付かず、兩親、いと惜しみ深く、もてなし玉ふ。我れ。勤めと云ひ乍ら、少し所緣なる者なれば、内外許され、行き通ふに、彼《か》の娘、いつとなく、我等に心をよせ、埋み火の下に焦がるゝ抔、ほこりかに聞かせ、文《ふみ》を袂に投げ入れなんどせしかど、當時、主人と仰ぐ上、人目の程、恐ろしく、よそ事《ごと》に打紛《うちまぎ》らかし過《すご》しぬ。兎角、月日重なり、病氣、重く、藥の業《わざ》も叶はず、祈る驗《しる》しもなくて、惜しきは、十七の秋の霜と消えぬ。たらちねの歎き申すに、言葉も續かず、戀慕ふよそ人は、ともに死なんとのみ歎きあへえり。漸く人々を勇め、野邊の送りも明日《あす》と定まり、今宵許りの名殘だに物言ひかはす事なく、誰彼《たれかれ》と集ひしも、みな、泣き寢入りて、夜も更《ふけ》ぬ。去れば、我《わが》思ひの切なるもこれまでぞと、猶も、死人《しびと》の一間に入りて、明くるを待ちて、守り居《ゐ》たりしが、流石、此の世の別れ、又有るまじき面影の、せめて變れるを見て、思ひ切らばやと、薄衣《うすきぬ》を引きのけて伺ふに、顏、貌《かたち》、世に美はしく生《うまる》る時に變らず、所々の温まり、未だ有りて愈よ、思ひを增《まし》つもりて、此時、倭里南紀一念起隣、空新奇人爾肌父憐弟世仁稀難累契離緖茹結眉指〔此の時、わりなき一念、起こり、空しき人に肌をふれて、世にも希(まれ)なる契りをぞ、結びし。〕。我乍ら、淺ましく、恥かしき、ありさまなり。明《あく》れば、野邊に送り、秋夕妙月《しうせきみやうげつ》と聞きて、驚くなき名のみ殘り、人々の歎きも、我れ一人の心に忘れもやらず、ふらりふらりと病み出《いだ》せしが、死人の肌を、ふれて、息冷《そくれい》の氣を受けける故にや、惣身《そうしん》、崩れ、鼻、落ちて、見苦しくなり行きぬ云々。」。かく懺悔した上、其の娘の幽靈、每夜、來ると告げたので、上人、機智を運《めぐ》らし、これを、退散、杜絕せしめた次第を載せて居る。

[やぶちゃん注:「寶永四年板、千尋日本織」同書は浮世草子で、作者は神秀法師、宝永四(一七〇七)年に京都で板行された。以上の本文引用は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにある同巻原本一括版PDFを参考にして(11コマ目以降)、一部に修正を加えた。熊楠が漢字にした箇所は、概ね、優先して残したので、原本そのままの表記ではない(因みに、「選集」も校合したようだが、一部におかしなところがあるので、殆んど参考にしていない。また、奇妙な当て字の箇所は、参考底本原本は普通にひらがな漢字交りで表記されている。他にそのように書き換えた版本があるのかどうかは判らない。どうも、熊楠が、わざと、面白がって、或いは、そこを猥褻として指摘されないように、確信犯として、かく、したのではないか? と私は疑っている。

 予の現住、紀州田邊町の或る人に聞いたは、黴毒《ばいどく》は、もと、屍犯より起つた、屍《しかばね》は、冷え切った物故、黴毒を、ひえと呼ぶ、と。シャレだらうと思ひ居《をつ》たが、本文を見れば、寶永の頃、既に、そんな說が行はれたのだ。明治十八年[やぶちゃん注:一八八五年。]頃、小石川の墓地で、屍と會へば、黴毒が癒ると信じ、掘出《ほりだ》す處を、寺僧に捉へられた者が有つたのも、病毒を本へ還納するといふ本意に出たものか。

[やぶちゃん注:「小石川の墓地で、屍と會へば、黴毒が癒ると信じ、掘出《ほりだ》す處を、寺僧に捉へられた者が有つた」調べてみたが、記事は見当たらなかった。所持するある本で読んだ記憶があるのだが、書庫の底に沈んで、ものを発見出来なかった。見つけたら、追記する。]

 元亨釋書《げんかうしやくしよ》、一六に、釋寂昭、俗名大江定基、官に仕へて參州の刺史に至り、會《たまた》ま配《つれあひ》を失ふ。愛の厚きを以て、喪を緩《ゆる》ふす。因つて、九相《くさう》を觀て、深く厭離《おんり》を生じ、出家した、と述ぶ。九相は、人、死んで、九たび、變形するので、佛敎大辭彙卷一の八四四――五頁に圖を示し、詳說してある。愛の厚きを以て、喪を緩ふすとは、屍愛だ。宇治拾遺四には、「其女、久しく煩ひて、よかりける形も、衰えて、失せにけるを、悲しさの餘りに、兎角もせで、夜も、晝も、語らひ、臥亭口吸堂隣家樓〔臥して、口を吸ひたりける〕に、淺まし奇《き》、香の、口より出《いで》で來たりけるにぞ、疎《うと》む心、出で來て、泣く泣く、葬りてける。」と載つてゐる。是に似た印度の例は、明治四十五年七月に『此花』凋落號五一頁に出た予の「奇異の神罰」に引いて置いた通り、觀佛三昧海經七に在る。妙意といふ婬女を化度せんとて、世尊が美童を化成《くわせい》し、婬女、之と歡會すると、十二日、立年《たたね》ば、離れぬから、婬女も飽果《あきは》てゝ、死んでしまへ、といふ。そこで、美童、自殺して、其の屍が、七たび、變化するも、一向、離れず。婬女、慚愧して救ひを乞ひ、佛の神力で助かつたさうだ。之と反對に、佛說如來不思議秘密大乘經二には、菩薩が美女と現じて、男子の思ひを晴《はら》せやり、扨、忽ち、瘠せ死に、根門敗壞、臭穢不淨なるを見て、男子、逃げ去る時、その死女の身から、自然に聲を出し、法要を說《とき》て、かの男子を發心せしむ、とあり。此の方が、定基出家の話に、一層、起源をなしたらしい。源平盛衰記や遊女五十人一首には、定基の愛した女を赤坂の遊君力壽とし、三河雀七には、或る僧、參州本根の原で、力壽の靈に逢ふた時、彼女は「命終、近づきし時に、君(定基)名殘を惜しみつゝ、目乎殊肥口呼吸彼舌呼〔目を吸ひ、口を吸ひて、かの舌を〕吸出《すひいだ》し玉ふ。此愛念に輪廻して、終《つひ》に、惑ひの種となり、斯《かか》る苦《くるし》み、見玉へ、とて、左《さ》も美しき丹花の唇より、一丈餘りの紅の舌を、フツ、と吹き出だし、噫《ああ》、悲しや、と倒れ」、終に消え失せたので、其の僧、文殊山舌根寺と云ふ寺を立て弔ふた、と記してゐる。

[やぶちゃん注:「元亨釋書」鎌倉後期に書かれた仏教書。全三十巻・目録一巻。鎌倉末・南北朝初期の臨済僧虎関師錬(こかんしれん 弘安元(一二七八)年~正平元/貞和二(一三四六)年:京生まれ。一山一寧らに師事し、東山の法を継いだ。儒学・密教を学び、東福寺・南禅寺などに歴住し、東福寺に海蔵院を開創した。五山文学の先駆者とされる)著。元亨二(一三二二)年成立。仏教渡来から七百年間の高僧四百余名の伝記と史実を漢文体で記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「通俗元亨釈書和解」巻之中のこちらで当該箇所が読める。

「九相は、人、死んで、九たび、變形する」「佛敎大辭彙」は閲覧出来ないが、私も所持する「九相図絵巻」の類である。グーグル画像検索「九相図」をリンクさせておくが、閲覧は自己責任で。「宇治拾遺四」以上の大江定基の「宇治拾遺物語」所収の話は、私の「青頭巾」の「オリジナル授業ノート」に引用してある「宇治拾遺物語」の「三川(みかは)の入道遁世の事」[巻第四・七]を参照されたい。

『此花』宮武外骨が明治四三(一九一〇)年一月に発刊した浮世絵研究雑誌。大阪で発行されたが、赤字が嵩んで廃刊となったが、同雑誌に寄稿していた朝倉無声(朝倉亀三)の手によって「東京版」として新たに継続発行されることとなった。第十六枝は明治四十四年七月十五日発行。参照したサイト「ARTISTIAN」の「此花(大阪版)(雑誌)」のリスト・データに確かに載る。当該記事はネット上では読めない。雑誌巻号を「枝」とするのはなかなかに風流があったが、大坂版の終刊号を「凋落號」としたも、いい。

「奇異の神罰」本底本の後のここに出る。新字新仮名でよいのであれば、私のサイト版「奇異の神罰」がある。

「觀佛三昧海經」全十巻からなる仏典。東晋のインド僧仏駄跋陀羅(ぶっだばだら)訳。十二品に分けて、仏を観想する際の方法とその功徳について詳述する。仏駄跋陀羅(三五九年~四二九年)は漢訳略称を覚賢・仏賢・覚見とも言い、北インド出身であったが、当時の東晋に渡り、仏典の漢訳に携わった訳経僧であった。「大般涅槃経」「華厳経」「摩訶僧祇律」等、禅関連の経典漢訳で知られる。南方の引用するエピソードについては、森雅秀「『観仏三昧海経』「観馬王蔵品」における性と死」(PDFファイル)に詳しい。一読をお薦めする。

「佛說如來不思議秘密大乘經」西晋の法護の訳。漢文でよければ、「維基文庫」のこちらで読める。

「源平盛衰記」巻七の掉尾。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「源平盛衰記」三のここ(前ページ最終行に標題「近江石塔寺(あふみせきたうじの)事」のみがある)で視認出来る。

「遊女五十人一首」安田蛙文著の彩色絵草子。文化八(一八一一)年刊。「聖心女子大学図書館デジタルギャラリー」のこちら9コマ目で視認出来る。

「三河雀」林花翁著。全四巻。宝永四(一七〇七)年自序。]

 又、源氏物語に、光源氏、自ら藤壺を烝《じよう》した覺え有れば、夕霧が其の眞似をして紫の上を烝せんと用心して、紫の上に近付かしめず。然るに、秋風、暴《あら》く吹く混雜の折り、夕霧、初めて紫の上を見て、親とも覺えず、終夜、其の面影を念じて、眠らず。後、紫の上、死するに及び、野分の折り、見初めた面影、忘れられず、屍骸でも今一度見んと、几帳の帷子を引揚げて見ると、燈の、いとあかきに、御色《おほんいろ》は、いと白く光るように臥して、とかく打ち紛らすことありし生前の粧ひよりも、何心なく打ち伏したまえる死姿の方が一層よかつた、と有る。是も、屍愛が、外に發露せなんだもので、較《や》や、ローマ帝ネロが生母アグリツピナの屍の美をほめたと、似ておる。又、明治八年[やぶちゃん注:一八七五年。]頃、どこかの男が豫《かね》て戀して居《をつ》た女が死んだので、せめて、其の屍に逢はんと、掘り出すと、蘇生したので、女の兩親、許して婚姻せしめた例があつた。

[やぶちゃん注:「烝」「丞淫」の略。「目上の人と情交すること」。漢文から出た語。

「紫の上、死するに及び、野分の折り、見初めた面影、忘れられず、屍骸でも今一度見んと、几帳の帷子を引揚げて見ると、……」「御法」の帖の一節。「源氏物語の世界 再編集版」のここ

「どこかの男が豫て戀して居た女が死んだので、せめて、其の屍に逢はんと、掘り出すと、蘇生したので、女の兩親、許して婚姻せしめた」これも読んだ記憶があるが、先のケースと同じで、発見したら追記する。]

 支那で著しい例は、淵鑑類函三一四に、范曄《はんえふ》の後漢書に、「赤眉發掘諸陵、取寳貨、汙辱呂后、凡有玉匣者、皆如生、故赤眉多行淫穢」〔赤眉は諸陵を發掘し、寶貨を取り、呂后を汚辱す。凡そ玉匣(ぎよくこう)の有る者は、皆、生けるがごとし。故に赤眉は多く淫穢を行なふ。〕。呂后は夫高祖の在世、既に、色、衰へて、寵を戚夫人に奪はれ、七十一歲で崩じたと云へば、赤眉の嫉《そねみ》も、大分、物好きだ。又、列異傳を引いて、漢の桓帝の馮夫人、歿後七十餘年に、賊ありて、其の冢《つか》を發くと、顏色如故、但小冷、共姦通之、至鬬争相殺〔顏色は故(もと)のごとし。但し、小(すこ)しく冷えたり。共に之れに姦通し、鬪爭して相ひ殺すに至る。〕。後《の》ち、竇氏《とうし》、誅せられて、竇太后の代りに、馮夫人(ひようふじん)を桓帝に配せんとした時、陳公達と云ふ者、馮夫人は先帝の寵姬だつたが、屍骸が公園の溷《かはや》の如く、多人兒汚作例當上〔多くの人に汚(けが)された上は〕、天子に配食すべからず、と抗議したので、おぢやんと成り、依然、竇太后を据え置いた、とある。降つて、淸の蒲留仙の聊齋志異一四に、二八の處女商三官が、犬坂毛野同樣に、宴席果てたあとで、父の仇を討つ話あり。この女姣童の裝ひして、仇の枕席に侍し、之を殺し、自分も縊死する。仇の僕《しもべ》共、驅け付て、其屍を驗するに、女と知れたので、二僕、留まつて之を守るに、其貌、玉の如く、肢體溫軟、二人、謀つて、辱《はづかしめ》を加えん[やぶちゃん注:ママ。]として、先づ、近付《ちかづい》た一人、卒死したので、一同、大に驚き、神の如く敬った、とある。

[やぶちゃん注:「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」の当該巻のそれぞれの当該部で校合したが、字の異同はあるものの、特に問題はないと判断した。以上の人物については、事績を示す気がしない。悪しからず。

「淸の蒲留仙の聊齋志異一四に、二八の處女商三官が、……」所持する柴田天馬氏の訳によれば、敵討ちの動機は、父が酒に酔って、同じ村の豪家に逆らうような冗談をいったために、殴り殺されたことによる。中文サイト「漢川草廬」のこちらで原文なら見られる。]

 佛典には四分律藏一に、若死屍半壞行不淨入、便偸蘭遮、若多分壞、若一切壞偸蘭遮、若骨間行不淨偸蘭遮〔若し、死屍の半ば壞《く》えたるに、不淨を行ひいて入るれば、便(すなは)ち偸蘭遮(とうらんじや)なり。若し、多分に壞え、若(もしく)は、一切、壞えたるも、偸蘭遮なり。若し、骨の間にて、不淨を行へば、偸蘭遮なり。〕。卷五五に、爾時比丘在塚間行、遙見死女人、身猶衣服莊嚴、卽便行婬、已疑、佛言汝波羅夷〔爾(そ)の時、比丘は塚(つか)の間に在りて行くに、遙かに、死せる女人の、身に、猶ほ、衣服の莊嚴(そうごん)なるを見る。卽ち、婬を行ひ、已(をは)りて疑ふ。佛、言はく、「汝は波逸夷(はいつ)なり。」と。〕。十誦律一に、難提比丘、林下に正坐するを、魔神が、之を破戒せしめんとて、美女と化け、前に立つた。比丘、之を見て、禪定、退失し、欲摩女身、女人卽却、漸漸遠去、便起隨逐、時彼林中有一死馬。女到馬所、則身不現。是比丘婬欲燒身故、便共死馬行婬、既行婬已、欲熱小止〔女身を摩《ま》せんと欲するに、女人、卽ち、却《しりぞ》き、漸々として遠く去る。便(すなは)ち、起ち、隨ひて逐(お)ふ。時に、彼(か)の林中に一つの死馬、有り。女、馬の所に到れば、則ち、身、現はれず。是の比丘、婬欲に身を燒く故に、便ち、死馬と婬を行ふ。既に婬を行ひて已(をは)れば、欲熱、少しく止む。〕とある。又、妙光女の死體越五百群賊俄汚〔死體を、五百の群賊、俄かに汚〕して五百金錢を置去《おきさつ》た珍譚は、大正五年一月の太陽に出した「田原藤太龍宮入の譚」に詳述して置いた。水鏡に、惠美押勝、敗軍して、其女が五百兵士に犯された、と有り。生きて居《をつ》てそんな多勢の相手はなるまいから、多分、妙光女の話の模造か、左も無くば、五百兵士の多分は、屍愛者だつたと見るの外はない。

[やぶちゃん注:仏典とするものは、大概、「大蔵経データベース」で校合し、幾つかの不審箇所を訂した。

「田原藤太龍宮入の譚」」所謂、「十二支考」の「龍」に当たるもの。「青空文庫」のこちらで、新字新仮名で読める。「竜とは何ぞ」の第五段落目を見られたい。

「水鏡に、惠美押勝、敗軍して、其女が五百兵士に犯された、と有り」国立国会図書館デジタルコレクションの活字校定本「水鏡」で見る(頭注の「押勝の叛逆」パート内。右ページ二行目)と、倍の千人とあるんですけど? 熊楠先生?]

 西洋にはイタリアの古い小說、シンチオのエカトンミチや、バンデロのノヴエレ等に散見したと覺えるが、委細は忘失した。一八八 [やぶちゃん注:字空けはママ。「選集」に『一字欠字』の割注がある。]年巴里板、ボールの色痴篇に、臨終を勤めに行《いつ》た僧が其死尸《しかばね》を汚した等、數例を擧ぐ。ブラントームの艶婦傳一には、ダルマチアの士人が姦夫を殺し、其屍と姦婦を同衾せしめ、屍臭に害されて、數日中に、姦婦は死んだ、とある。ヘロドトスの史書に、埃及の豪族の妻女や美女や名女は、死後、直ちにミイラ師に委ねず、三、四日して、初めて、渡す。曾て、新死の女屍を、ミイラ師我汚尸他事〔ミイラ師が尸(しかばね)を汚した事〕、其同輩より、ばれてから、こんなに成つたと述べ、又、希臘のコリンチアの王ペリアンドロスが、尋ぬべき件があつて、亡妻メリツサの靈を招かしむると、靈、現じて、其の使に向ひ、吾れ、死んだ時、吾が衣を燒かず、其の儘、吾《わが》屍體に、きせて、埋めた。故に、衣が吾に添はず(是は、支那人同樣、神靈に寄る物は、燒いて後、初めて達する、と古ギリシアで信ぜられたから)、裸でふるへ居《を》る次第で、何にも答へ得ぬ。但し、吾れ、眞にメリツサの靈たる證據として、王は冷たい竈《かまど》に王のパンを入れたと語れ、と云つて消え去つた。是は、王、一旦の怒りに、妻を打殺《うちころ》して後、其體に不淨を行ふた。王の外、誰も知らないのに、其を使ひが還つて告げたから、王も仰天して、確かに妻の靈が現われたと信じたのである、と記している。陰相を竈、陽相をパン又は忰《せがれ》と見立《みたて》るは歐人の習ひで、ブラントームの艶婦傳七に、老女の情事衰へぬ例を擧げて、「火燒きの名人より、古い竈は新しい竈より焚《たき》易く、一度焚けば、よく熱を保ち、よいパンがやける、と聞いた」と言つた。十六世紀に高名だつたジォヴァニ・デラ・カサの「竈の賦」には、陰相を大釜、後庭を小釜と云《いふ》た。日本で、昔は陰相を、今は後庭をお釜とよぶに、よく似ておる[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「シンチオのエカトンミチ」不詳。

「バンデロのノヴエレ」イタリアの修道士で作家のマッテオ・バンデッロ(Matteo Bandello 一四八〇年~一五六二年:詳しくは参照した当該ウィキを見られたい)の代表作である“Novelle”(ノォヴェレェ:イタリア語で「説話集」「短編物語集」の意)。一五五四年に出版された二百十四篇からなる物語集。『ボッカチオ以来の伝統であった大きな物語の中に短篇を挿入していく形式をやめ、短篇を独立させ』ている。『物語の素材は』、『いろいろな場所からとられているが』、十六『世紀初頭の有名な王侯貴紳の逸話に取材される場合が多く、年代記のような趣を与えている。シェイクスピアの』戯曲「空騒ぎ」「ロミオとジュリエット」は、実は『この物語集から素材がとられている』とある。

「ボールの色痴篇」不詳。

「ブラントームの艶婦傳」フランスの作家で、嘗ては軍人・廷臣でもあったブラントーム(Brantôme 一五四〇年頃~一六一四年)。本名はピエール・ド・ブールデイユ(Pierre de Bourdeille)。サン=ピエール・ド・ブラントーム修道院の院長も勤めた。当該ウィキによれば、『名門の貴族の出で、ナバラ王国』(中世のイベリア半島北東部パンプローナより興った王国)『の宮廷で成人し、パリ、ポワティエで法律を学んだ。生涯の大半をフランス各地、ヨーロッパ諸国の漫遊と』、『戦争への参加に費やした。ユグノー戦争ではカトリック側に参加したが』、一五八四年に『落馬して重傷を負い』、『公的生活から引退』した。『自身の豊富な体験や見聞を記した』「高名貴女列伝」( Vies des dames illustres )や「貴紳武人列伝」『などを書いた』。『今日も読まれている』ものは、「著名貴婦人伝」の第二部の「好色女傑伝(艶婦伝)( les Dames galantes )で、『性的に奔放であったルネサンス末期の貴婦人たちにまつわる生々しい逸話を描いた作品である』とあるのがそれであろう。

「ダルマチア」Dalmatia。現在のクロアチア共和国南西部の一地方。リエカ以南のアドリア海岸部(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を指す。

「希臘のコリンチアの王ペリアンドロス」(Periandros ?~紀元前五八六年)は古代ギリシアのコリント(コリンソス)の僭主(本来の皇統・王統の血筋によらず、実力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となった者を指す)で在位は紀元前六二七年から没年まで。「ギリシアの七賢人」の一人とされる。交易の要地をよく掌握し、怠惰や奢侈を禁じ。産業・商業を奨励したため、コリントは繁栄を極めた。エジプトやリュディアとの友好を結び、アテネとミュチレネの調停をするなど、外交でも活躍し、詩人アリュオンを招くなど、コリント文化の繁栄にも寄与した人物である。サイト「臨床心理学用語事典」の「ペリアンドロス」によれば、『ペリアンドロスはリュシデを妻としましたが、彼はその妻をメリッサと呼んでいました』とあり、さらに、『ある日、妊娠中の妻リュシデがペリアンドロスを愚弄している、という噂や中傷を側室が流しました。それを真実と信じたペリアンドロスはリュシデを殺害してしまいます。後になって、側室の誹謗中傷だと知ったペリアンドロスは、その側室達も全員焼き殺してしまったそうです』とある。

『ジォヴァニ・デラ・カサの「竈の賦」』フィレンツェの詩人・作家にして司教・外交官・異端審問官でもあったジョヴァンニ・デッラ・カーサ(Giovanni della Casa 一五〇三年~一五五六年)の淫猥な詩篇“ Capitoli del forno ”。

「陰相」女性生殖器の膣周辺。

「後庭」肛門。]

 序にいふ、會津風土記に、城長茂《じやうのながもち》の妻、名は竈御前とある。本朝俚諺(正德四年)を嬉遊笑覽に引いて、本國の俗、妻を呼《よん》で釜といふは、據《よりどこ》ろ、あり。酉陽雜俎に、賈客が家に歸る道中で、臼の中で炊《かし》ぐ、と夢み、卜者王生に問ふと、歸つても妻を見じ、臼中に炊ぐは、釜がないのだ、と答へた。客、歸れば、妻、既に死んで居《をつ》た、とある。俚諺より六年前(寶永五年)に出た美景蒔繪松《びけいまきゑのまつ》は、伊勢古市《ふるいち》の艷女(アンニヤ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]のことを書いた物で、その凡例に、艶女を、もりする中居女、見通りは、下女乍ら、襷、掛けず、手拭、さげず、木綿の不斷着《ふだんぎ》に、絹布の二つ割り、廓《くるわ》にての遣手《やりて》に似て、遣手にあらねば、客と艶女の中に立つて、諸事世話をなす女、歷々方の前をも憚からぬ故、釜と名付けたるとみえたり、とあって、卷一に、「アンニヤの廊下のしゞら島か、あれは中居女のよしといふ釜、釜乍ら、大體では厶《ござ》んせぬ、兩町の内で指折りになる四天王の一人。」とある。是に據れば、本《も》と、茶席で釜を重んじた故、主婦、又、世話役の女を釜と呼んだのだ。但し、慶長十八年頃の寒川入道筆記《さむかはにふだうひつき》に、主人が、六尺[やぶちゃん注:下男の意。]に風呂をたけと命ずるに、たかれぬ、という。何故《なにゆゑ》と問ふと、「それに、かみ樣の御座《ござ》あるほどに、分かり申すまい。なぜに、苦しからず申せと、せつかれたれば、さらば、申さう、釜が、われ申した。それがかみ樣に構ふか、なかなか、構ひ申する。なぜに。たつに、五、六寸ほど、われ申した、と云つた」。それより六十年前に、八十九で死んだ山崎宗鑑の附句に、「臍能邊里遠途岐寶筮理解理」〔臍(ほぞ)の邊(あた)りを突(つ)き掘(ほ)ぜりけり」、「生柴《なましば》を小釜の下に折りくべて」ともあれば、陰相を釜ということは、天文頃、既にあつたのだ。

[やぶちゃん注:「城長茂」(?~建仁元(一二〇一)年)は平安後期から鎌倉初期の武将。越後国白河荘(現在の新潟県北蒲原郡の東南部)に居館を置いていた。兄資永の死後の治承五(一一八一)年六月に一万余の軍勢を率いて、信濃国に進軍、横田河原(長野市)で木曾義仲と戦ったが、敗北、同年八月には越後守に任命されるが、元暦元(一一八四)年の春以降に、越後に進攻した鎌倉方の軍勢に捕らえられ、囚人として鎌倉に送られた。文治四(一一八八)年九月、熊野の僧定任のとりなしで、頼朝と対面するが、御家人となることを、拒否した。しかし、翌年七月、頼朝から奥州征伐に参陣することを許され、その後、幕府御家人となったものと思われる。しかし、頼朝没後の正治三(一二〇一)年一月、鎌倉幕府打倒を企て、京で挙兵するが、失敗、同年二月に討たれた。長茂の京での挙兵に呼応して、甥の資盛や、妹坂額(ばんがく)が越後国で蜂起したが、幕府軍に討たれて、城一族は滅亡した(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「本朝俚諺(正德四年)」(一七一四年)「を嬉遊笑覽に引いて、本國の俗、妻を呼《よん》で釜といふは、據ろ、あり。酉陽雜俎に、賈客」(旅上人)「が家に歸る道中で、臼の中で炊《かし》ぐ、と夢み、卜者王生に問ふと、歸つても妻を見じ、臼中に炊ぐは、釜がないのだ、と答へた。客、歸れば、妻、既に死んで居《をつ》た、とある」井沢蟠竜(はんりょう)の著になる俚諺辞書。探すのに手間取ったが、巻之九の「娼妓」の「阿釜(おかま)」にあった。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本で、ここ。編者頭注の左ページの「阿釜と云事」。なお、原本「酉陽雜俎」では巻八の「夢」の中の一条で、「中國哲學書電子化計劃」の影印本で、ここの二行目「卜人徐道昇言、江淮有王生者、榜言解夢。賈客張瞻將歸夢……」以下が、それである。

「寶永五年」(一七〇八年)「に出た美景蒔繪松」市中軒 の著になる浮世草子。

「伊勢古市」現在の三重県伊勢市古市町(ふるいちまち)。伊勢内宮の門前町。個人サイト「古い町並みを歩く」の「伊勢市古市町の町並み」によれば、伊勢参りが江戸中期以降、全国的に流行り、『時に異常な大群衆が一時期、爆発的に伊勢参りに押し寄せ』、「おかげ参り」と呼ばれたとされ、『このおかげ参りは』、宝永二(一七〇五)年・明和八(一七七一)年・文政一三(一八三〇)年に『おこった。その折の人数については』、『本居宣長が「玉勝間」に』宝永二年四月九日より五月二十九日までに三百六十二万人と『記していて、「伊勢太神宮続神異記」にも』三百七十『万とほぼ同数あげている』とある。そして、この『おかげ参りで賑わったのは』、『古市から中之町にかけての間の山地区で、油屋・備前屋・杉本屋という三大妓楼のほか、柏屋・千束屋などの遊郭が並び、天明頃』(一七八一年~一七八九年)の『最盛期には遊郭』七十『軒、遊女』一千人、『大芝居小屋』二『軒・人家』三百四十二『軒を数え、一大歓楽街となった』とある。後に出る「兩町」は「りやうちやう」で、この古市町と中之町を言っているのかも知れない。

「艷女(アンニヤ)」遊女の意であるが、「アンニヤ」は「兄女」「兄姉」か。

「慶長十八年」一六一一年。江戸幕府開府から十年後。

「寒川入道筆記」は随筆。著者は定かではないが、松永貞徳ではないかと言われている。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「史籍集覧」第二十五のこちら(右ページ五行目)で確認できるが、どうも、この文の意を捉えかねている。この下男或いは一種の愚鈍で、この主人の妻と密通したものか? 「たつに」は「縱(たて)に」の意か? 判らん。]

 誰も知る通り、西曆十一―十二世紀の間だ、敏辯無比の名を擅《ほしい》まゝにしたアベラールは、廿二も年下な才色兼備のエロイサを、名歌と美聲で、自分にべたぼれさせ、孕ませて後ち、拐去《かどわか》した仕返しに、エロイサの叔父に宮《きう》せられ、折角の令譽を大いに墮《おと》したが、二人の情愛は死に迨《およ》んで止まず(男六十三で死んだ時、女が四十一歲、是れも六十三で、一一六三年、死んだ)。エロイサ尼の臨終の言により、廿二年前に死んだアベラールと同葬せんとその墓を開くと、屍、忽ち、兩臂を擴げて、エロイサを抱きしめ、全たき愛は、死もこれを消す能はざるを示した。偕老は出來なんだが、確かに永々同穴を樂しんだ者だ。穴賢《あなかしこ》しと今に至つて讃稱さる(一八一一年トロア板、ムーシヨー戀話名彙一卷、其の條。ヂスレリ文海奇觀二板、一卷二二一頁以下。一八九一年板、エルドマン、哲學史。英譯、一卷一六一章)。屍が屍を抱いたのも、亦、別格の屍愛だ。

[やぶちゃん注:最後の参考書誌は注さない。悪しからず。

「アベラール」中世フランスの論理学者にしてキリスト教神学者であったピエール・アベラール(Pierre Abélard 一〇七九年~一一四二年)。当該ウィキ他によれば、『「唯名論」学派の創始者として知られ、後にトマス・アクィナスらによって集成されるスコラ学の基礎を築いたとされる。弟子であるアルジャントゥイユ』(Argenteuil)修道院にいた『エロイーズ』(Héloïse:最高の貴族の子孫の非嫡出子)『とのロマンスでも有名』。『ラテン語式のペトルス・アベラルドゥス(Petrus Abaelardus)という名前でも知られる』。『ナントに近いパレ(Pallet)で生まれ、音声言語論者ロスケリヌス』(Roscelinus)と、『実在論者のギヨーム・ド・シャンポー』(Guillaume de Champeaux)『に師事、パリのノートルダム大聖堂付属学校で神学と哲学の教師となって非常な名声を博した』。一一一七『年頃、アベラールはノートルダム大聖堂参事会員フュルベールの姪エロイーズ』(一一〇一年~一一六四年)『を知った。エロイーズは容貌もよく、学問に優れていたため』、『国内でも有名であった。アベラールはエロイーズに魅力を感じ、フュルベールに住み込みの家庭教師となることを申し出た』。二十『歳以上年の離れていた』二『人は熱烈な恋に陥り、やがてエロイーズは妊娠した。アベラールはエロイーズをひそかにブルターニュの妹のところに送り、そこで男の子アストロラーベ(船乗りが航海で使う天文観測器の意)が生まれた』。『このスキャンダルに叔父フュルベールは激怒したが、アベラールは和解を申し出て、エロイーズと秘密の結婚をした。しかし』、『叔父が和解の条件を守らないことや』、『エロイーズを虐待することなどから、エロイーズをアルジャントゥイユ修道院に移した。これにフュルベールは激怒し、縁者らにアベラールを襲撃させ、睾丸を切断させた。アベラールは後にこれを』書簡の中で、『「罪を犯したところに罰を受けた」といっている。実行犯』二『人は捕らえられ、眼をえぐられ、陰部を切除された。この事件の後、アベラールはパリを離れてサン・ドニ修道院に移り、修道士となり、エロイーズはアルジャントゥイユ修道院の修道女になった』とある。]

 予は東洋にこんな例が有るか知らぬが、十六國春秋に、後燕《こうえん》の昭文帝、符后を愛することが非常で、后が、夏、凍魚鱠《こほれるうをなます》を思ひ、冬、生地黃《まなじわう》を欲した時、皆な、有司に下して、必ず、見出だして、献《たてまつ》れ、ないでは、濟まさず、死刑に處す、と命じた。后、崩ずるに及び、帝、氣絕し、久しうして、蘇へり、百官を宮内に召して、哭せしめ、淚出《いで》た者を、忠孝とて、淚出ぬ者に罪を加へたので、一同、口に辛い物を含んで、淚を催した。帝は又、自分の兄の美妻に逼つて、后に殉死せしめ、廻り數里なる陵を營ましめ、それが成つたら、后に隨つて、此の陵に入るべし、と言った。斯る虐政に堪えず、臣下らは、謀反して、帝を殺した。元經薛氏傳七には、此の時、帝の屍を、符后の墓に會葬し、國人、之を笑ふたとあるが、是れ程、后に惚《ほ》け込んだ帝なれば、死した後も、地下に兩手を擴げて歡迎し、長夜の會を貪つたゞらう。又、本元の支那の書に見えぬが、俗傳が渡日したものか、今昔物語十の一八に、霍光、其の妻の屍を、柏木の殿に葬り、朝暮、食物を供へ禮して返る。一日、晚方に例の如く、食物を備ふると、其の妻、本《もと》の姿を現じ、光を捕へて、懷抱せんとす。光、恐れ迯る。其の腰を、妻の手で打たれ、家に還つて、腰、痛んで死んだ、と出てゐる。是は、妻の幽靈に、强いて据膳をすゝめられたのだ。屍が起きて來たとも見えるから、記して置く。

[やぶちゃん注:「後燕の昭文帝」慕容熙(ぼよう き/在位:四〇一年~四〇七年)。おぞましい事績は当該ウィキを見られたいが、そこに、四〇七年に皇后『苻訓英』(ふ くんえい)『が死去すると、悲しみのあまり屍を抱いて気絶し、棺を作らせて』、『その中で交合した。粥しか食べず、臣下にも悼んで泣くことを強要し、泣けない者は辛子を含んで涙を流した』とある。

「今昔物語十の一八に、霍光、其の妻の屍を、柏木の殿に葬り、……」「今昔物語集」巻第十の「霍大將軍値死妻被打死語第十八」。以下に電子化する。「新日本古典文学大系」版を参考に漢字を概ね正字化して示した。

    *

 今は昔、震旦(しんだん)の漢の先帝の時に、霍大將軍(くわくたいしやうぐん)と云ふ人、有りけり。心、猛くして、悟り、有り。此の人、國王の御娘を妻(め)として有り。

 而る間、其の妻、死ぬ。將軍、限り無く戀ひ悲しむと云へども、亦、相ひ見る事、無し。而るに、將軍、忽ちに、栢(かしは)の木を伐りて、一(ひとつ)の殿(との)を造りて、此の死せる妻を、其の殿の内にして、葬(さう)しぬ。

 其の後(のち)、將軍、悲しみの心に堪へずして、朝暮に、彼(か)の殿に行きて、食物(じきもつ)を備へて、禮(らい)して還る。此(かく)の如くして、既に一年を經(へた)る間に、將軍、日晚方(ひのくれがた)に、彼の殿に行きて、例の如く、食物を備ふる時に、昔の妻(め)、本(もと)の姿にして、出で來(きた)れり。

 將軍、此れを見て、戀ひの心、深くして有りと云ふとも、恐(お)ぢ怖るる事、限り無し。

 妻、將軍に語りて云はく、

「汝ぢ、我を戀ひて、此の如く爲(せ)る事、實(まこと)に、哀れに、貴(たふと)し。我れ、喜ぶ所也。」

と。

 將軍、此の音(こゑ)を聞くに、彌(いよい)よ、恐ぢ怖る。

 夜、深くして、人、無し。

 將軍、

『逃げ去りなむ。』

と思ふ間に、妻(め)、將軍を捕へて、忽ちに、懷抱(くわいはい)せむとす。

 將軍、怖ぢ迷(まど)ひて、逃げなむと爲(す)るを、妻、手を以つて、將軍の腰を打つ。

 將軍、打(う)たれて、逃げて去りぬ。

 家に歸りて後(のち)、卽ち、腰を痛(いた)むで、夜半に死ぬ。

 其の後、天皇、此の事を聞き給ひて、此の女(むすめ)の靈(りやう)を貴(たふと)びて、封(ほう)百戶を加へ給ふ。

 其の後は、國に災(わざはひ)起らむと爲(す)る時には、彼の殿の内、鳴る事、雷(いかづち)の音の如く也。

 加之(しかのみならず)、新たなる事、多し。

 其の殿の鳴る時は、世の人、

「例の栢靈殿(はくりやうでん)の音(おと)、鳴る。」

とぞ云ひける。

 然(さ)れば、人を戀ひ悲しむ心、深くとも、然(しか)の如きの事をば、爲(す)べからず。靈(りやう)と成りぬれば、本(もと)の人の時の心は、失せて、極めて怖しき事也、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 此の篇の初めに言つた同性間の屍愛に較《や》や似た例は西洋にも有つて、ソーシーの懺悔篇七章に、佛皇アンリー三世は嬖童《へいどう》の屍に跪《ひざまづ》き、其兩山のあいだに著口《くちづけ》したと載す。此皇は小姓遠幸州留事〔小姓(こしやう)を愛すること〕、度に過ぎ、小姓共、閉口して神使の聲色で、皇に外色《がいしよく》を嚴戒したといふ。

[やぶちゃん注:「ソーシーの懺悔篇七章」不詳。

「佛皇アンリー三世」アンリⅢ世(Henri Ⅲ 一五五一年~一五八九年:暗殺死)はヴァロワ朝(dynastie des Valois)最後のフランス王(在位:一五七四年~一五八九年)。当該ウィキによれば、『アンリ』Ⅲ『世の死後』、『長い間、彼はホモセクシャルか、少なくともバイセクシャルであると考えられていた』。『アンリ』Ⅲ『世がホモセクシャルであることを示す良質な史料』『は多く』『あるものの、この件については』、『依然として議論がある』。ある研究者たちは、『アンリ』Ⅲ『世が多くの愛人を抱えており、ホモセクシャルではない(バイセクシャルかもしれないが)証拠を発見した。そこには男性の名前はなく、当時の彼は美しい女性を好むことで有名だった。アンリ』Ⅲ『世がホモセクシャルであると考えられたのは、彼が戦争や狩猟を嫌ったことが女々しいと受け取られており、また』、『同性愛者の男性は女々しいものであるという偏見があり、この事から敵対勢力(ユグノーと過激派カトリック)が』、『フランスの人々を彼に敵対させるよう』、『仕向けるために作った話であると結論付けている』とあった。

「外色」男色。]

 ボールの色痴篇に吸血鬼(ヴアムピール)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。底本では「ワムピール」であるが、「選集」の表記(そちらではルビ)を採用した。]を屍愛と同事異名としてあるが、吸血鬼は佛經に見えた起屍鬼の類で、死人の靈が惡性の者に成ったり、他の惡鬼が死屍に付いたりして、其の死屍が、夜間、起きて、出步いて、人を害するので、さらに屍愛に關係せぬ(委細は、コラン・ド・プランシー、妖怪辭彙。大英百科全書、十一板、二七卷。トマス・ライトの中世英國論集第九論。アッボットのマセドニア俚俗、二一六頁已下。ガーネットの土耳其女と其の俗傳卷一の一三六―四一頁)等で見るがよい。

[やぶちゃん注:最後の書誌は、既出既注にものが多いので、注は附さない。悪しからず。]

 之に反し、諸國に墓所や死人置場に近く宿つて、死人の靈と通じた多くの譚が有るが、その内には、多少、屍愛の事實に基いたのもあらう。搜神記一[やぶちゃん注:「選集」も同じだが、これは巻「十六」の誤り。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本を市にされたい。]に、駙馬なる語の源を說いて、辛道度《しんだうど》なる者、遊學して、雍州城西五里の地に至り、一つの屋敷に就て食を乞ふと、下女が引入れて、主人の女に目見《おめみ》えしめ、食事を振舞はれた。其がすむと、女曰く、我は秦王の娘で、曹國へ行つたが、夫なしに、死して、二十三年、此宅に獨居するのが淋しい、君と夫婦に成らうと逼つて、三度《みたび》、振舞つたのち、生きた人と、死んだ我れと、三晚以上、宿れば、禍ひあり、とて、紀念に金椀一を與へ、下女をして、送り出させた。數步、行かぬ内、顧みれば、家はなくて、荊棘《いばら》茂つた、一つの塚のみ、あり。怪しんで、懷中を調べると、只今、貰ふた椀は、ある。それから、秦國に至り、市に出して、其の椀を賣る折りも折り、王妃、車に乘《のり》て來り合せ、椀を見て、由來を問ふ。道度が、仔細を語るを聞き、妃、大いに悲しみ、且つ、疑ひ、人を遣はして、彼の塚を發《あば》き、柩を開かしむると、王女の屍と共に葬つた物が、皆な、有つたが、金椀のみは無かつた。衣を解いて、其の體をみると、情交の跡、確かだつた。王妃、始めて、道度の言を信じ、死んで廿三年にもなるに、生《いき》た人と交つた我《わが》娘は大聖だ、此の男は我が眞の婿だと在つて、彼を駙馬都尉に任じ、其に相應の金帛車馬を賜ひ、本國へ還らしめた。以來、女婿のことを駙馬と云《いふ》のだ、と。

[やぶちゃん注:「駙馬」元は、「馬車で、予備に外側につけておく馬・副馬(そえうま)」のことで、特に、「天子の乗輿に用いる副馬」であったが、そこから、天子の副馬を司る官名となり、さらに魏晉以後に、皇女の婿となった者は、必ず駙馬都尉の官に任ぜられたことから、「皇帝・貴人の婿」を指す語の変じた。]

 法苑珠林《ほうをんじゆりん》九二[やぶちゃん注:「大蔵経データベース」で原本文を確認したところ、巻第七十五の誤りである。]に、晋の時、武都の太守李仲文、在郡中に十八歲の娘を死なせ、假りに葬つた。其の後、仲文、官職をやめ、張世之が之に代つた。其の子、字は子長、年二十で、厩にとまつて居《をつ》て、五、六夕、同じ夢を見た。十七、八の女の、顏色、常ならざるが現れて、吾は前の太守李仲文の娘で、早く死んだが、汝と相愛《あひあい》し、樂しむべく參つた、といふ。それから、一日、忽ち、白晝に、殊の外、よい匂ひの衣服を着て現はれ、遂に夫妻と成つたが、寢た時、衣が汗に沾《ぬ》れて、體が、全く、處女の如し。其の後ち、仲文は、婢《はしため》をして、娘の墓へ詣らせる途次、その婢が、世之方《のかた》に立ち寄り、仲文の娘の履《くつ》片足、子長の牀下《とこした》にあるを見付けて、此人は、吾《わが》主人の娘の墓を掘つたと呼《よば》はり、持ち歸つて、主人に示すと、仲文、驚いて、世之を詰《なぢ》り、世之は、其子に問ふて、始終を聞き知つた。そこで、李張、共に、怪しみ、棺《ひつぎ》を發《あらはに》して見ると、娘の體に、肉、生じ、顏、姿は元の如く、右脚に履をはき、左脚に履無し。其の後ち、娘、全く、死し、肉が落ちてしまつたから、泣いて別れたと云ふ。衣皆有汗如處女〔衣、皆、汗、有りて、處女のごとし。〕とは、破素された際、汗が衣に通ると云ふので、源氏物語に、源氏が、紫の上に、新枕の條に、「思ひの外に、心うくこそ、おはしけれな、人もいかに怪しと思ふらんとて、御衾をひきやり玉へば、汗に押し浸して、額髮も、いたう沾れ玉へり。」。難波江に、狹衣や、とりかへばや物語を引いて、女の世馴れてあると、無きとは、初めて逢へる男の心に知られる由を說きあるも、こんな事からであらう。

[やぶちゃん注:「法苑珠林」唐の道世が著した仏教典籍の一つにして類書。全百巻。六六八年成立。当該ウィキによれば、『引用する典籍は仏教のみならず』、『儒家、道教、讖緯、雜著など』四百『種を超え、また』、『現在は散逸し』てしまった「仏本行経」・「菩薩本行経」・「観仏三昧経」・「西域誌」・「中天竺行記」などの引用があり、旧『インドの歴史地理研究の上で』も『重要な史料となっている』とある。

「破素」(はそ/はす)」は「破瓜(はか)」に同じ。処女喪失。

「源氏物語に、源氏が、紫の上に、新枕の條に、「思ひの外に、心うくこそ、……」第九帖「葵」のこちら(サイト「源氏物語の世界 再編集版」当該部)。

「難波江」不詳。てっきり、安永の頃に記したとする、かの松平定信の十七条から成る女訓書のそれと思って、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を何度も視認したが、熊楠の言うような部分が見当たらなかった。]

 珠林同卷に、又、云ふ、唐の王志、益州縣令に任じ、期、滿ちて、歸鄕の途中、綿州で、其娘、未婚で死んだから、棺を其の地の寺に停め、そこに累月、留まつた。其の先より、此の寺に留《とま》つて居《をつ》た學生《がくしやう》の房内へ、此の死んだ娘が盛裝して來り、戀慕の情を明かしたので、相知つて月を經た(爰に知ると云《いふ》は交《まじは》るの義で、英語に同じ)。後ち、女が鋼鏡一つ、巾、櫛、各一を學生に與へ、辭別した。家來共が出發に臨み、件の物件、紛失に驚き、寺中を搜し、學生の房中で見出したから、盜人と見て縛つて置いた。學生は事實を說き、まだ衣服二枚も紀念品として貰ふたと云つたので、棺を開き見れば、衣服が、二枚、ない。女の身をみれば、人に幸された徵《しるし》あり。因つて、解放して、どこの人かと聞くに、元、岐州生れで、父が南の方へ任官して往くのに隨ふたが、兩親共、死んだに由つて、諸州を廻り、學問し、程無く岐州へ還る積りであると云ふ。王志もまた、岐州へ還る者であるから、扨は同鄕の人だとて、衣馬を給し、著《き》飾らせ、つれ歸つて娘の夫とし、甚《いた》く憐愛した、とある。これは殯禮《ひんれい》の爲め、棺を寺内に置《おい》たと知つて、其學生が私《ひそ》かに、棺を開き、每夜、屍愛を肆《ほしい》まゝにしたので、これに似た例がボールの色痴篇に出ている。屍に付いた物を盜んで、其の女の靈に逢ひ、又は、相愛した證據とし、女の親を騙《かた》つた話は續沙石集五下、本朝虞初新誌卷上等に見えてゐる。

[やぶちゃん注:先に同じく、「大蔵経データベース」で原文を確認した。

「英語に同じ」“have sexual intercourse”、“have sex”、“have coitus” 、“make love”等。

「續沙石集五下」「新日本古典籍総合データベース」のこちらから視認出来るのだが、今、余裕がなく、ざっと縦覧した限りでは、どの話か判らなかった。

「本朝虞初新誌」は文人・漢学者の菊池三渓(文政二(一八一九)年~明治二四(一八九一)年)が本邦の俗伝や古典を漢文訳したもの。明治一六(一八八三)年刊。「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで視認出来るが、同前で子細に読んでいないものの、恐らくは「嬌賊」の後に附属してある「附記騙盗」であろうとは思われる。孰れも悪しからず。]

 

【追記】

 左の經文の方が寂昭の話によく似て居《を》る。

 趙宋の西天三藏傳梵大師法護等が譯した佛說如來不思議祕密大乘經卷の二に曰く、若し、或は、男人、染心を貪る者ありて、殊妙端嚴の色相に愛着せば、菩薩、即ち、其前に於て、爲めに、端嚴女人の相を現じ、彼《か》の弟子、染愛の心に隨ひて、悉く其意の如くす。時に、彼《か》の女人、染着を以ての故に、形容、枯悴し、卽ち、命終に趣き、根門、敗壞、臭穢不淨なり。時に、彼の男子、無智を以ての故に、厭惡《えんを》して去る。即ち、其人、死滅の身、自然、聲を出《いだ》し、爲めに、法要を說き、彼の男子をして、心に開悟を生じ、阿耨多羅三貌三菩提《あのくたらさんみやくさんぼだい》に退轉せざらしむ、と。

[やぶちゃん注:「大蔵経データベース」で確認したが、多少、漢字表記が異なるが、熊楠の訳なので、そのままとした。

「寂昭」先に出たが、大江定基の法号。

「趙宋」宋(ここは北宋)に同じ。この呼称は王室の姓に基づくもの。

 以下は、底本では全体が三字下げ。]

追 補 (大正十五年十月五日夜十時記)

 大江匡房《おほえのまさふさ》の續本朝往生傳に、寂昭、妻の屍を早く葬らず、九相を觀て道心を起したことを記した前に、沙門賢救住因幡國、德行被境内、威重ㇾ自刺史、造密室之間、不ㇾ令人見、獨自入ㇾ此觀念坐禪、或云昔所ㇾ愛之小童、早夭天年、不早瘞埋、見沒後相、起不淨觀、此觀成熟、證入日深[やぶちゃん注:底本は「氵」+「茶」であるが、「選集」に従った。]、凝斷一分無明、臨終正念、端坐念佛遷化」〔沙門の賢救、因幡の國に住し、德行(とくぎやう)は境内に被(かふむ)り、威は刺史よりも重し。密室の間を造りて、人をして見せしめず。獨り自(みずづか)ら此(ここ)に入り、觀念坐禪す。或るひと云はく、「昔、愛する所の小童(せうどう)、早く天年を夭(よう)す。早くに瘞-埋(うづ)めずして、沒後の相(さう)を見、不淨觀を起こす。此の觀、成熟(じやうじゆく)して、證入(しやうにふ)すること、日に深し。凝(こ)りて、一分(いちぶ)の無明をも斷(た)ちしか。臨終には正念し、端座念佛して遷化す」と。〕と記しおる。前年、中學敎科書に編入されて、問題を惹起した上田秋成の雨月物語五なる、下野のある阿闍梨が童子の屍を愛する餘り、之を啖《くら》ひ盡した譚は、この賢救法師の事より、案出した物か。

[やぶちゃん注:「大江匡房」(長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)は平安後期の公卿で儒学者・歌人。詳しい事績は当該ウィキを見られたい。

「續本朝往生傳」慶滋保胤(よししげのやすたね)の撰になる「日本往生極楽記」(寛和年間(九八五年~九八七年)成立。唐の「浄土論」・「瑞応伝」に倣って日本の往生者の伝を集め、四十二項目四十五人を僧尼・俗人男女の順に漢文体で記したもの)の後を継いで、往生者四十二人の事績を漢文体で記したもの。康和三(一一〇一)から天永二(一一一一)年にかけて成立したもの。天皇・公卿・僧侶・在俗男女(尼を含む)の順で記すが、この記載順序は他に類例を見ないものである。国史・別伝を素材とする伝もあるが、匡房に近い人々の伝が多いこと、匡房が国司として在任した大宰府・美作(みまさか)の往生者が加えられるなど、自己の見聞によるところが多いと考えられている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。当該部は、「新日本古典籍総合データベース」のここ(右丁五行目以降)から視認出来る。

 底本では、この最後に、出版元「岡書院」の「編者」と署名する『右「追補」は印刷完了後追送せられたものなるを以て著者の指令に遵』(したが)『ひ別刷貼付する事とせり、諸彥』(しよびん:多くの優れた人。ここは「読者諸氏」の意)『御諒承を乞ふ。』とある。]

2022/09/03

多滿寸太禮卷第六 直江常高冥婚の怪

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第六巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。作中に出る「今様」の唄は、底本では全体が一字下げのベタであるが、句を概ね分割して、字空けを施して示した。なお、太刀川清先生の論文『「牡丹灯記」受容の系譜 (二)』(一九八八年十二月発行『長野県短期大学紀要』巻四十三所収・PDF)によれば、本篇は唐の伝奇小説「才鬼記」『所収の「曽季衡」の翻案で』あり、浅井了意の「伽碑子」の巻之十の「祈(いのり)て幽靈に契る」で既に先行翻案がなされており、本篇はそれに『因んだものであるが、翻案に過程で「牡丹灯籠」はなくてはならないものであった』と述べておられる。私はそちらでは、原拠考証には手をつけないことにして電子化注しているが、ここで因んで、「伽婢子卷之三 牡丹燈籠」とともにリンクを張っておくこととする。

 漢詩部分は白文をまず示し、以下に読みに従って書き下したものを附した。底本では二段組であるが、一段で示した。]

 

  直江常高(なをえつねたか)冥婚(めいこん)の怪(け)

 石刕津和野の城は、そのかみ、尼子(あまこ)義久の家臣、皆川玄蕃頭(《みながは》げんばのかみ)居城として、代々城主たりしが、毛利家の一族、吉川(きつ《かは》)、小早川(こばや《かは》)、兩將として、攻め落し、直江和泉守が嫡男、又太郞常高といふものに、軍士、あまた、指しそへて、此城を守らせらる。

[やぶちゃん注:「直江常高」不詳。主人公が架空であればこそ、以上の実在武将らの注を附す必要性は感じない。話柄内時制は安芸の戦国大名毛利元就の大内氏領周防・長門への侵攻作戦である「防長経略」(天文二四(一五五五)年~弘治三(一五五七)年)辺りと考えてよかろうか。]

  此常高は、手、いまだ三十にこへず[やぶちゃん注:ママ。]、勇力(ゆうりき)の聞えあり。文武に達し、容貌、又、ゆうびにして、智謀、尤も、ふかし。當城(《たう》じやう)を預り、すでに、みとせが内に、十一度、城(しろ)をかこまるゝといへども、更に事ともせず、堅固に、これを持ちかためければ、元就公も、『世になき者』に思召て、數ヶ所(すかしよ)の大庄(たいしやう)、あまたよせられければ、軍士、多く、つのりて、此城を根城(ねじろ)として、數ヶ所の砦をかまへ、石刕、大半、うちなびけたり。

 爰に、本城の戌亥に、一かまへの別殿(べちでん)あり。

 そのかまへ、後(うしろ)の山に寄せ、前には流れをうけて、並木の松・櫻、こずゑをそろへ、白き眞砂、きよらかに、色々の「まき石」、木(こ)のま木のまの釣灯炉(つりどうろ)、玉(たま)なす濱かと、あやしまる。やり水の流れにそふて、鴛(をし)。厂金(かりがね)の、人になれて、岩まの陰にやどり、梟(けう)、こずゑに身をうごかし、庭より階(はし)をあがれば、繪かきたる杉戶をひらき、長廊下、うちつゞき、書院、きらびやかに、奧には、たれ簾(す)の數(かず)をさげ、絹ばりの障子、紅《くれなゐ》の房(ふさ)付《つき》し繩に、鈴をつけて、引《ひき》わたし、四壁(《し》へき)は、金地(かな《ぢ》)に色々の花紅葉(はなもみぢ)を、手を、つくして、かきたり。いかなる禁闕(きんけつ)も、是には過じとぞ、おぼえし。

 向ひの築山の陰に、いとやさしき藁屋をつくり、和歌の三尊を床(とこ)にかけ、四方に歌仙三十六人の姿を、さも、いつくしく書きたり。とし月をふると、おぼしくて、草はさながら、軒を埋み、蔦かづら生ひ茂りて、壁をつらぬき、見るに哀れを催《もよほ》せり。

「いかなる人の、こゝを栖(すみか)としつらむ。」

と、しらぬ昔を思ひやり、近邊(きんぺん)の里の長(おさ)をよびて、此事を聞くに、

「前(さき)の城主、皆川どのゝひとり姬(ひめ)、近國不雙の美人の聞え候ひしが、さる色好みにて、常に和歌を友とし、月にめで、花にたはむれて、寵愛、いはむかたなし。『いかなる人をも取《とり》むかへて、榮ゆる末をみ給はん。』と、いたづらに年を送り給ひしが、十七の春、いさゝかのえやみにて、はからず、空しく成り給ひ、父母(ちゝはゝ)の御歎き、申《まをす》も計(はか)りなし。かの人、明暮、住み馴れ給ひし御屋形(《おや》かた)とて、少《すこし》も、こぼちたまはず。常には、これにおはして、ふかく跡をしたひ給ひしとかや。その御前(《ご》ぜん)の御所とこそ承はり候へ。」

とぞ、くはしく語りける。

  常高、情けある者なれば、敵(かたき)とはいへども、さすがに余所(よそ)の哀れを感じ、其まゝにうち置き、折々は、かの亭にて、興を催し、遊びけるに、何(なに)とや覽(らん)、むかしの、その面影も戀しく、いつとなく、心に、ふかく、思ひやりける。

 ある夜(よ)、月あかきに、名香(めいかう)を燒(た)き、茫然とながめしが、來(こ)しかたを思ひやりて、

 寂歴苑林趣不稀

 蝉聲漸帶夕陽微

 深更開戶假寢坐

 月歩錦帳影尚赴

 (寂歴 苑林(おんりん) 趣き 稀(まれ)ならず

  蝉聲(ぜんせい) 漸く帶びて 夕陽(せきやう) 微(ほそ)し

  深更 開きて 戶を假寢して坐すれば

  月 歩(ほ)して 錦帳を 影(かげ) 尚《なほ》 赴(はし)る)

と詠吟して、

『哀れ、よからん歌もがな。』

と、心に深く打ち案じけるに、並木の松の木陰より、いとやさしき聲にて、

 いかにかく心にむかし目に淚うかぶもつらき水の月かげ

かく、聞えければ、ふしぎに思ひて、庭の面(おも)を詠(なが)めやりけるに、そのさま、ゑん[やぶちゃん注:ママ。]にやさしき上﨟(じやうらう)の、容顏、月にかゝやき、みどりの眉墨あざやかに、紅(くれなゐ)のはかま踏みしだき、ねりきぬを、うちかづき、さもうつくしき女(め)の童(わらは)をぐして、忽然と、たゝずみたり。

 

Naouetuneaka

 

 天人のあま降(くだ)りけるか、巫山(ふざん)の神女(しんによ)の雲と成りし俤(おもかげ)も、かくや、とあやしまる。

 此の心に、怖ろしさも打忘《うちわす》れ、常高、いそぎ、庭におり立ち、近く、よりそひ、御手をとり、

「いかなる人にておはしませば、夜更(よふけ)、人まれなる所に、かく、たゝずませたまふ。」

と、いへば、女、うち笑ひ、

「またせ給へばこそ來りたれ。いかなる者とは、のたまふぞや。君、いにしへをしたひ給ひ、御《み》こゝろ、切(せつ)にわたらせ給へば、しばらくのいとまを得て、かく、まみへ奉るぞや。」

と、打ち笑ひて宣へば、常高、心に思ふやうは、

『何樣(なに《さま》)、わが心中を察し、いかなる魔緣化生《まえんけしやう》の者、我をたぶらかすらん。たとひ何(なに)にもせよ、かゝる人に、一夜(いちや)もそひてこそ、此の世に生(むま)れし本意(《ほ》い)にもあらめ。』

と思ひ、

「いとやさしきおんこゝろ、いつの世にかは忘れ參らすべき、夢の中なるうたゝねも、しばしのほどのかり枕、いさらせ給へ。」

と、御手(みて)をとり、寢殿にいざなひて、酒をすゝめ、興をなす。

[やぶちゃん注:「いさらせ給へ」意味不明。「いざる」(躄る・膝行る)で、「どうぞ、奥へお進みなされませ。」の意か。]

 余所(よそ)の目には、更に、見えず、唯(たゞ)、言(こと)ばのみぞ、かよひける。

 是れよりして、曉にわかれ、暮に來《きた》る。

 已(すで)に月日を送るに、政道用心の心も、うせ、ひたすらに、うち篭(こも)りゐけり。

 諸士《しよさむらひ》をはじめ、みなみな、うとみ、ふしぎの事にぞ、思ひける。

 又太郞がめのと子に、上木(うへき)八郞といふ、老功(らうこう)の武士(ものゝふ)あり。

 常高、にはかに、かく不行義(《ふ》ぎやうぎ)をふるまふ事、不審に思ひ、身近くつかはるゝ者を呼びて、ひそかにとふに、始終(はじめをはり)を語り、

「皆人《みなひと》の目には、かゝらざれども、只人(たゞびと)に逢ふて、うつゝなく語らひ給ふ。」

といへば、八郞、

『すはや。』

と思ひ、

「我、きゝつたふる事、あり。」

と、かの亭に忍び入《いり》、壁を、少し、つき明けて、これをのぞくに、常高、一連の骸骨と、手枕(たまくら)をかはし、さまざまの、むつ事を、かたる。

 その傍らに、少《ちさ》きぼうこの、人のごとくにうちわを持ち、これを、あふぐ。

 上木、つくづくとみるに、ものごし、女の風情(ふぜい)、すべて、人のはたらきのごとし。

 能々(よくよく)見課(みおほ)せて、歸り、夜明けて、急ぎ、常高に近づき、御姿(おんすがた)を見奉るに、憔悴して、神氣(しんき)を奪はれ、眼肉(がんにく)、おち入《いり》て、毛口(もうこう/けのくち[やぶちゃん注:右/左の読み。])、悉く、不淨を、ふくむ。

「いかさまにも。御命(おんいのち)、すでに近きに、うせん。これ、ひとへに、妖怪(ようけ)のなす所なり。いかなる事のおはしますぞ。」

と、淚をながし、申せば、常高、おどろき、ありし事ども、具さにかたり、

「先の城主の娘、來り、夜ごとに、契りかはす也。」

 上木、承はり、

「吾、これを聞きて、忍び見しに、骸骨、來りて、君が情(せい)を吸ふ。凡そ、人、死しては、陰に歸り、受生(じゆしやう)の間(あいだ)は、中有(ちうう)にまよひ、此の氣(き)、役病(えきびやう)となり、或は、氣にのつとりて、祟りを、なす。陰氣、陽に克(か)つ時は、種々(しゆじゆ)の姿を顯はし、異形(いぎやう)の殃(わざは)ひあり。これ、全く、求めて來(きた)るに、あらず。我が心と、生(しやう)ずるところ也と社(こそ)承はり候へ。君(きみ)は、暫く篭居(らうきよ)し給へ。我等、まかりて、退(しりぞ)け侍らむ。」

と申せば、常高、此の事を聞きて、忽ち、顏色(がんしよく)かはり、身の毛、よだちたり。

 上木は、たゞ一人、かの亭に徃きて、心を靜めて待つに、案のごとく、人音(《ひと》おと)して、來(きた)る者(もの)あり。能々(よくよく)みれども、更に、その姿も見えず。上木、大音あげて申《まをし》けるは、

「死する者は、陰にして、にごれり。生(しやう)は、陽にして淸(す)めり。なんぞ、みだりに妖怪(ようけ)をなして、神氣(しんき)をうばふ。速やかに立ちさるべし。然らずんば、天神地祇(てんじんちぎ)に申て、神罸(しんばつ)を、くはふべし。」

と叱(しつ)すれば、

「あな、侘びし。何者にや。」

といふ聲して、音もせず成りにき。

「猶も、ふしぎのありもやする。」

と、其の夜(よ)は、かの亭に、ふしぬ。夜半比(よなかごろ)まで、いねも、やらず、曉方(あかつきがた)に、少し、まどろみける夢に、さも、いつくしき上﨟、

「我、死して、五とせ、世界に逍遙す。しかれども、とし比、この所に住みなれて、執心、はなれやらず。たまたま、宿世(すくせ)の緣ありて、人にまみえけるに、ながく、階老のちぎりをなさむと悅びしに、計(はか)らずも、汝に、へだてられつる恨めしさよ。」

と、いかれる姿(すがた)、面(おもて)も替(かは)りてすさまじく、はしりかゝるに、枕本(まくらもと)に立(たて)たる太刀(たち)につまづき、倒(たふ)るゝとみえて夢(ゆめ)さめぬ。

 ふしぎにおぼえて、あたりをみるに、さらに、人、なし。夜も漸々(やうやう)、明けければ、急ぎ、かへりて主(しう)にかたるに、肝(きも)をけし、禰宜・山伏を呼びて、祈らするに、更に、きどくも、なし。

 かくて、廿日(はつか)あまりを過《すぎ》て、ある夜(よ)、月、さえて、何(なに)となく戀ひしかりければ、常高、かの亭に、うかれ出けるに、例(れい)の女、又、あらはれ出《いで》、常高が手をとりて、恨み、くどきけるに、心、ひかれ、卽ち、ともなひて、女の住家(すみか)に入りぬ。

 かくて、夜明けても、常高、みへざれば、上木をはじめ、郞等ども、不思議の思ひをなし、彼(か)の亭に押し入《いり》てみるに、なし。

 遙かの築山の陰を過ぎて、岩際《いはぎは》のかくれに、一つの卵塔、あり。

 ゆきてみるに、石を以つて、四邊の垣となし、同じく、靑(あを)めの石にて、卵塔の戶びらを立てたり。

[やぶちゃん注:「靑めの石」青瑪瑙のことか。]

その扉(とびら)の合せめに、小袖の裾(すそ)、少《すこし》、みえたり。

 頓(やが)て、大勢、立ちかゝりて、ひらきみるに、さも、結講なる棺(くわん)に、一具の骸骨をいだきて、常高、前後もしらず、伏したり。

 郞等ども、肝を、けす。

「おどろかすは、何者なれば、わが遊興を妨(さまた)ぐるぞ。遺恨なれ。」

と、太刀に手をかけしを、漸々(やうやう)と取りこめて、本城にうつし、扨、その墓を、ほりこぼちて、悉く、取りあつめ、燒き捨てたり。

 常高は、心、ばうばうと成りて、人心(ひとごゝ)ちなかりしを、とかく、いたはりければ、月を越《こえ》て、人心ち出來(いでき)けり。

 されども、此の事、つゝむとすれど、世につたへて、嘲(あざけ)り笑ひけるを、口惜しき事に思ひて、其の後(のち)、いくばくなく、「濱田の合戰」に、比類なき働きして、其の身も討死しけるとかや。

[やぶちゃん注:「濱田の合戰」不詳。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 釘ぬきに就て(その5) / 釘ぬきに就て~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ六行目から。図は前回に掲出したもの)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇はやや長いので、分割する。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。]

 

 考古學雜誌十卷六號板津君の一文と右に出《いだ》せる三氏の報知を見れば、和漢三才圖會に萬力と稱せる釘拔が、縱ひ其圖と些さか差《たが》ふとも、大體に於て一致して、近年迄、信濃、陸中等に行はれ、現今と雖も、全く跡を絕《たた》ざるを知る。故に、沼田君が、萬力の圖說は、決して寺島氏の虛構に非ず、何《いづれ》の地にか、其器、現存すべし、との推斷は中《あた》れり。此萬力は、足利時代、初めて用られしに非ず、鎌倉時代の世、既に、これ、有しを、沙石集が立證す。後世(維新前)、邦人、萬力の梃と、座を結合して、便利優等のコゼヌキを作れり。別に萬力の外に、其功を助くる釘戾し、又、反拔板あり來たりしを、後世、合せ攷《かんが》へて、萬力の梃に、釘戾し穴を加へたるが、今も盛岡地方に殘存する萬力なり。

 

追 記

 釘貫を忍び返しと解せし例、黑川君が引かれし嬉遊笑覽、故事要訣の外、上に引ける戲曲、曾我姿富士に、忍び返しの釘貫、と出づ。

 黑川君は引かねど、嬉遊笑覽一上、釘貫[やぶちゃん注:底本・「選集」ともに「貫」だけであるが、誤りであるので、「釘貫」とした。以前に示した国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 上」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここの右ページの「釘貫 忍び返し」の項の最後にある「○今」、「門戶のかんぬき……」以下を参照されたい。]の木の條に、「一代女と云《いふ》雙子《さうし》に、江戶すきや橋の邊を云《いふ》に釘貫《くぎぬき》の木陰《こかげ》とあり。天和・貞享頃迄は街の木戶の圍ひを斯云《かくいへ》りと見ゆ」と見ゆ。塵添壒囊抄《ぢんてんあいなうせう》五の三十四を見れば、町々の木戶を釘貫と云し樣子なれど、詳言せば、木戶自身で無く、其圍ひを云たる物か。寶永三年、門左作、曾我扇八景、中卷、「ヤアがいに生温つこい番太めと、奴が潛る大門の釘貫、松皮、木村鄕、三浦の平六兵衞が迎ひ也と、いかつに蹈込む奴が臑《すね》」。是も大門の側に續ける、間の明《あき》たる柵の圍ひを潛《くぐ》り入る意なるべし。此釘貫のヌキはツラヌク、又、サスの義か。クヮンヌキ(鐶貫)、指ヌキ(門左の門出八島發端及び薩摩歌、中卷、婦女の指サシと見ゆ)、繩ヌキ(繩をさし結ぶ皮履)、踏ミヌキ(足底に立てる刺)等、同例也。享保四年、門左作、平家女護島一に、惡僧南大門の貫の木、日向釘貫、周防、とあるは、何か所據《よりどころ》あるにや。多分、近松の手製なるべし。

[やぶちゃん注:「一代女」井原西鶴作の浮世草子「好色一代女」。貞享三(一六八六)年刊。

「天和・貞享」一六八一年から一六八八年まで。徳川綱吉の治世。

「塵添壒囊抄五の三十四」先行する原「壒囊抄」は室町時代の僧行誉の作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に、巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明したもので、「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて、七百三十七条としたのが、「塵添壒囊抄」(じんてんあいのうしょう)全二十巻である。編者は不詳で、享禄五・天文元(一五三二)年成立で、近世に於いて、ただ「壒囊鈔」と言った場合は、後者を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。当該部が「日本古典籍ビューア」のこちらで視認出来る。

「寶永三年」一七〇六年。

「享保四年」一七一九年。]

 

Kuginukimon

 

[やぶちゃん注:キャプションは、「第七圖」・「紋章釘拔と一ツ巴」。]

 

○釘貰紋を用ひし、最も高名な人の隨一は福島正則也。鹽尻卷九五に出づ。辱知《じよくち》、上松蓊氏說に、氏の家紋、熊楠と同じく、丸に釘拔なり、木曾に上松てふ地有り、其邊より、出でしやらんと考へ居《をり》たるに、五年前、義仲の裔、木曾源太郞氏より、知《しり》得しは、義仲七代の孫、上松氏の始祖たり(熊楠、木曾系圖を按ずるに、義仲十三代の孫、家信、上松氏元祖也。)。德川幕府の世、木曾七人衆の内、三人迄、其祿を食む。金杉、芝園、二橋の間に、將監橋有り。七人衆の一人、改姓して、小笠原將監と名乘りしが、其邊、今の遞信官吏養成所の處に住んで、三千石を食《はみ》し、この家も丸に釘拔を紋とせり、と。續群書類從一二四の小笠原系圖、小笠原氏の門葉家老を列せる内に、南方氏あるは、上に云《いへ》り。而して又、木曾氏あり。木曾路名所圖會三に、木曾の分家、千村政知、小笠原貞慶に通じて、食邑《しよくいう》を沒すと記し、千村の始祖の兄より出でたる馬場氏は、釘貫を紋とす(黑川氏論文二五八頁)。推考するに、阿波に入《いり》たる小笠原の支流が、始めて、釘貫を紋とせりと言えど、其前より、信濃の小笠原家が、多少、釘貫を紋用せしか、若《もし》くは、三好氏の盛時、一家の好みに由《より》て、其釘貫紋を受《うけ》用ひしかで、木曾氏、衰へて、其支族、小笠原に降《くだ》り、其氏を冐《おか》し、其釘貫紋を受用ひし者、少なからざりしならん。

○中道氏通信に、斗南《となみ》藩の或人、第七圖のごとき紋、附たる羽織、著《き》たるを、尋ねしに、釘拔と一つ巴と答へぬ、となり。余に取《とり》て、未曾有の物なれば、記し置く。(大正九年三月十一日稿成)。

[やぶちゃん注:「福島正則」織豊時代から江戸前期の大名福島正則(永禄四(一五六一)年~寛永元(一六二四)年)。通称は左衛門大夫。豊臣秀吉に仕え、「賤ケ岳の戦い」の七本槍の一人として勇猛を馳せ、「小牧・長久手の戦い」や朝鮮出兵などで活躍した。文禄四(一五九五)年、尾張清洲城主。「関ケ原の戦い」では、徳川方につき、それによって安芸広島藩主となり、四十九万八千石を得たが、広島城の無断修築を咎められ、領地没収となり、元和五年、信濃川中島四万五千石に移封され、高井野に蟄居し、享年六十四歳(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「鹽尻卷九五」江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。

「辱知」「知をかたじけなくする」の意で、「知り合いである」ことを、遜って言う語。

「上松蓊」(うえまつしげる 明治八(一八七五)年~昭和三三(一九五八)年)は熊楠の粘菌研究の門弟の一人。「南方熊楠 履歴書(その24) 小畔四郎との邂逅」の私の注を参照。なお、以下の「上松氏」の紋と考証には興味が全く湧かないので、注しない。私は姓氏や家紋などというものには全く関心がないのである。悪しからず。

「斗南藩」戊辰戦争に敗れ、領地を没収された会津藩が明治二(一八六九)年十一月に再興を許されて移住した、現在の青森県むつ市田名部斗南岡(グーグル・マップ・データ)にあった藩。翌年四月から旧藩士らが転住を開始したが、寒冷の僻地の、過酷な自然条件の中で苦しい生活を強いられた。明治四(一八七一)年七月十四日の廃藩置県で「斗南県」となり、さらに九月には青森県に編入され、僅か二年足らずで斗南藩は消滅した。

 以下、底本では、一行空けで、全体が二字下げ。「考古学会」への恨み節である。]

 

 本篇は考古學雜誌に揭載されしも、其號を一部も考古學會より送りくれず。本誌(考古學雜誌)上にて學會外の者が學會員の說を駁する文を載するは不都合なりとて、爾來、熊楠に、一切、雜誌をくれず(それまでは投書を乞ふとて、一篇一號以來、數年、間斷なく贈られたる也。)。自分の文が揭載され乍ら、自分の手に入らぬ事となり、止を得ず、沼田賴輔氏に賴み、數本を手に入れ、予に材料を給せられたる人々に頒てり。學會の所行としては未曾有の、仕方、卑劣きわまることと、今に苦笑しおる[やぶちゃん注:ママ。]。(大正十五年九月十六日記)

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 釘ぬきに就て(その4)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ二行目)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇はやや長いので、分割する。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。]

 

 以上、書き終りて發送せんとする内、破傷風に罹り、臥蓐《ぐわじよく》半月に涉る。其間、知己の二君、余が萬力の存否の問に對へて、委細の通信を送られたり。本題に關し、頗る重要と認め、要分を左に出す。

 (長野縣松本市住、平瀨麥雨氏書翰。)

 當市女子師範學校付屬小學校の敎員にして、鳶職の硏究を爲居《なしを》る小池直太郞氏に問合せ候所、川中島地方の仕事師の間に、今も大形の

Hirase1

が用いられおる由にて、梃の方は使用に際し、角が擦れて了ふ故、時々、鍛冶屋に燒入《やきいれ》しむる由に候。橋抔に用《もちひ》たる大形の

Hirase2

如斯《かくのごと》き釘は、此器の外に拔くこと能はず、とせられておる由に候。マンリキとは申さずとの事に候。拙妻、申すは、萬力は祖父の代より持傳へたる木工の小道具箱中に在《あつ》て、幼時の心覺え、形態は明瞭ならざれど、

Hirase3

如斯く、鐵棒の下方に圓盤の如き鐵が附居《つきを》り、釘抔をコジル場合に上の棒を廻し居る所を見たりと申候。今から二十年位前の事と存候。當地にては、莖菜《くきな》を漬けるに壓《お》しをする時、圖の如き(第二圖)事をするを、萬力を掛くる、と申す處もあれど、通常は萬力と云《いへ》ば滑車の事に候。

 

Tukenamanriki

 

[やぶちゃん注:キャプションは、「第二圖」・「菜漬の萬力仕掛」・「板」・「石」(左右二ヶ所)。総て、底本のここからトリミング補正した。前の三つの図は底本では、本文中に入れてある。]

[やぶちゃん注:以下は熊楠の附言で、段落全体が一字下げで、頭の字下げもない。]

熊楠謂く、萬力とは、和三に言《いへ》る通り、强剛の義に取りし名なるべし。奧州石河系圖に、義家五男、義時、其次子、義資、二條院判官兵衞尉萬力祖、とあれば、萬力てふ名も古し。但し、何に基きし家名なるを知《しら》ず。竹田出雲等作、小野道風靑柳硯四(寶曆四年)に、「釣上《つりあげ》た額の綱、しつかりと留《とめ》ておこ、ヲツと合點と人夫共、綱、しつかり、萬力へ、笠木へ掛《かけ》た此綱を、下へ取《とつ》て、こう、留めたれば、落《おつ》る氣遣ひ、微塵もない」。其續きに、道風の妻、謀つて、惡人を殺す處に、「たわけの有丈《あるだけ》萬力の、綱を、ずつかり、奧霜が、切つて落《おと》せし鐵の額《ぬか》、東門、極樂、引き替えて、地獄落しに、息、絕えたり」。此萬力は、釘拔ならず、滑車の大なる物と、平瀨氏の狀、讀みて、始めて知れり。

[やぶちゃん注:「平瀨麥雨」既出既注

「莖菜」茎漬にする大根・蕪などの野菜を総称する語。

「今から二十年位前の事」執筆時は大正九(一九二〇)年内と推定されるので、明治三三(一三〇〇)年前後。

「萬力とは、和三に言《いへ》る通り、强剛の義に取りし名なるべし」『「和漢三才圖會」卷第二十四「百工具」の内の「千斤(くぎぬき)」』を参照。

「奧州石河系圖」平安時代中期から戦国時代にかけ存続した石川姓の武家で陸奥石川氏の系図。「続群書類従」巻第百十七に「奧州石河系圖」として所収する(ネットでは視認不能)。当該ウィキによれば、『本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・大和源氏の一門、源頼親の子源頼遠を祖とする。他氏との混同を避けるため』、『陸奥石川氏または奥州石川氏と呼ぶことが多い。仙台藩一門首席』。永承六(一〇五一)年、『頼遠は子の有光とともに陸奥守源頼義に従って奥州に下向』、「前九年の役」に『従軍した。厨川に戦死した頼遠に代わって有光が軍を指揮』し、康平六(一〇六三)年、『有光はその軍功により従五位下安芸守に任じられ、陸奥国(後の磐城国)白河郡から分離された石川郡を下賜された。有光は同郡泉郷を拠点として三芦城を築城して居住し、それ以来』、『石川氏を称した』とある。

「源義資」(?~治承四(一一八〇)年)以上の人物も、みな、ウィキがあるが、彼のそれのみを引いておく。源義資は平安末期の武将で、『二条院判官代であったことから』、『石川兵衛判官代源義資と称した。河内源氏(石川源氏)の源義時の子。子に有義(一説に武田信義の子ともいう)。孫の信盛が万力氏』(☜)『を称した』。『山城国鳥羽において、平家方の飯富季貞、平盛澄の軍勢の夜襲を受けて大敗。その乱戦の中で討ち死にした』とあり、「系譜」に、『源義家―源義時―源義資―源有義―(万力二郎)』(☜)『源信盛―(万力二郎太郎)源信宗』とある。

「竹田出雲等作、小野道風靑柳硯」(おののとうふうあをやぎすずり)「四(寶曆四年)」は、義太夫浄瑠璃の作品で、歌舞伎の演目の一つ。五段続きで、宝暦四(一七五四)年十月に大坂竹本座にて初演。竹田出雲・吉田冠子・中邑閏助・近松半二・三好松洛の合作。梗概は当該ウィキが詳しい。因みに、「奧霜」は「選集」もママだが、登場人物の名だが、「置霜」(おくしも)の誤りである。]

(平瀨氏宛、長野縣松本市淸水町、木彫職、淸水湧見氏狀。)

小生知人の大工に尋ね候處、御質問の如き釘拔有之、現に數年前まで使用致し候由。名前は、唯、釘拔とのみ申候。使用法は如此《かくのごとく》[やぶちゃん注:以下のキャプションのない図。]して、コジル時は、いかなる長大の物をも拔得《ぬきう》るのみならず、全く是に依《よら》ざれば、拔く能はざる者も有る由に御座候。

 

Simizu

 

[やぶちゃん注:底本にはキャプションがないが、「選集」では『第三図』とキャプションがあり、以下、底本の図版数字とは、ずれている。問題がないので、底本に従う。

 

(靑森縣三戶郡小中野浦、中道等氏、熊楠宛て書翰、槪要。)

和漢三才圖會の萬力は、拙宅に舊藏し、形狀を熟知せり。昔流の釘を拔くに究竟の具とて、諸方よりも借用されしが、近年、西洋釘の丸頭、盛行して、自然、此器、無沙汰となり、此五、六年間、三度、轉宅に紛れ、見失《みうしな》へり。仙臺市出生、加藤兵五郞てふ故人に貰ひし物で、維新前所《どこ》ろで無く、德川中世[やぶちゃん注:「中期」の意。]頃に求めしと見ゆ。第三圖の如く、鐵製の座は、每邊長さ二寸[やぶちゃん注:六センチ。]の正方形、每邊幅四分[やぶちゃん注:一センチ二ミリ。]、厚さ八分[やぶちゃん注:二センチ四ミリ。]、内徑一寸二分ばかり[やぶちゃん注:約三センチ六ミリ。]、梃の長さ一尺五寸程[やぶちゃん注:約四十五センチ五ミリ弱。]、幅、厚さとも、一寸二分位、略ぼ正方柱なるが、イなる前端を稍々《やや》薄手に、必ず、方形乍ら、桿より、狹く作り、是も鐵製、但し、裏面と、イの端、表裏とも、一分五厘許りは、鋼を被ふ。桿の表の四穴大に、之れに通ぜる裏の穴は、小さきこと、煙管の羅宇《ラオ》殺し(一名、羅宇痛め。)の穴の如し。大穴の徑、今時、普通の煙管雁首の點火穴程にて、小穴の徑は、其半分程と記憶す。

[やぶちゃん注:「靑森縣三戶郡小中野浦」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」で旧「青森県三戸郡小中野村」なら、判る。海直近で「浦」とあっても不審ではない。現在の八戸市のこの附近(グーグル・マップ・データ)。

「中道等」(なかみちひとし 明治二五(一八九二)年~昭和四三(一九六八)年)は郷土史家・民俗学者。宮城県登米(とめ)郡登米町(とよままち)生まれ。旧姓は「砂金(いさご)」。後に青森県八戸市に移り、青森県立八戸中学校に進学したが、一年で中退し、二松學舍を経て、大正七(一九一八)年に京都帝大教授内藤湖南の下で、東洋文献の考証学を学んだ。同年、八戸の中道トシの養子となり、姓を改め、その後、八戸に戻って、『実業時論』という雑誌を手がけ、さらに推薦を受けて、青森県史編纂委員や青森県史跡名勝天然記念物調査委員を務め、また、かの「南部叢書」の編纂にも従事している。以降の事績は参照した当該ウィキを見られたい。]

 

Nakamiti

 

[やぶちゃん注:底本では、最上部と最下部の穴がほぼ潰れて真っ黒になっているので、「選集」を参考に白抜きにし、梃の左の一部が欠損しているので、線で繋げた。キャプションは頭に「第三圖」、右方に「中道氏舊藏萬力」である。しかし、以下の説明中の指示記号「イ」が存在しない。「選集」を参考にして(そこでは手書きで『(イ)』として当該部に打たれてある)あるべき場所に私が「イ」を活字で打って入れた。実は、次の図の説明との混同が生じるのが気になるので、こちらは丸括弧無しで入れ、本文の以下の「第四圖」の説明の「イ」には、底本が丸括無しで記されてあるので、逆にそっちでは丸括弧を附して明確にした。

 

Manriki4

 

[やぶちゃん注:キャプションは最上部に「第四圖」でその下に「萬力で釘拔く處」とあり、「(イ)」パートが上から下に「釘角」・「板ノ橫截靣」(いたのわうさいめん)・「梃」・「大穴」・「小穴」。「(ロ)」パートが「甲」・「乙」。「(ハ)」パートが「釘頭」(私はこれ、「くぎのあたま」と読みたい)・「梃」。「(ニ)」パートが「乙」・「甲」・「板水平面」。]

 

 第四圖、(イ)の如く、梃の裏面の小穴を釘尻の尖端に嵌め、裏面(虛線もて示す如く、この際《きは》、大穴は見えず。)を鐵槌で叩けば、釘尖、確かに小穴に入る爲め、些《いささか》の屈曲無しに釘頭が板の上に拔け出づ。爾時《そのとき》、梃の表面の大穴を釘頭の曲り角に、一寸《ちよつと》引掛《ひつか》け、桿を、左右にくねり、搖《うご》かす。釘、大にして、小穴に入らずば、大穴に嵌めて、叩き上げる。斯《かく》て拔け始めたる釘の頭へ、無雜作に座を冠《かぶ》らせ、梃の前端を(ロ)の如く、座中の釘根を目指して斜めに揷込み、カチリと合ふ程落《おと》し入る。その體《てい》を上より見れば、(ハ)に示す如し。扨、梃の尾の邊を持ち、座の甲部を力點として押へたる儘、ウンと、コヂ上《あぐ》れば、乙部の座端が甲部に集中せる力に負《まけ》て浮き足になる事、(ニ)に示す如し(事實は釘根に接せる梃の前端は此圖より遙かに板面に近し。)。斯て、座の乙側が、釘を、座の内方に向《むかつ》て强く壓し挾めんとする刹那、座と釘と梃との三者、各《おのおの》、力を緩めずんば、其關係、非常に緊張して分厘の隙《すき》無く、止《やむ》を得ず、釘根が、梃の前端の壓力に迫られ、逃路を求めて、易々と拔出《ぬけいづ》るの外、無し。其釘、細く短くば、一度、座を掛けたる斗りで、容易に拔出《ぬけいづ》れど、若し、木板、堅緻《けんち》にして、釘、太く長ければ、一度、掛けたる儘では、樂に拔けず、グイと、出乍《いでなが》ら、まだ、殘る。その時は、梃を緩めて、上に拳ぐれば、座はカラリと浮足《うきあし》を止《やめ》て、無雜作に、板と水平をなし、舊位に復《かへ》る。所ろを、再び、梃端を釘根に當て、支へ、家の土臺に梃を掛け動かす體《てい》に、力を入《いれ》て、梃を、座の一端に下ろせば、釘は、再び、グイと、出づ。かく、手疾《てばや》く、三、四囘も行へば、いかな難物の釘も、いと面白く、拔き得べし。此器を、當地方で、釘拔、又、萬力と呼ぶ事、和三所說の通りなれど、萬力と稱ふる方《はう》、よく、通づ。その桿、方柱ならず、圓柱形なるものありし。方柱形で、表裏に、大小、穴、四つ宛《づつ》あるを、穴なきものと、別つため、特に八ツ目と唱へしと記憶す。釘は方形なるに、此穴は圓きが常なりしも〔熊楠謂く、本誌十卷六號、板津君の反拔板《そりぬきいた》の穴、方形なるに反す。)、別段、差閊《さしつか》へざりしと、記憶す。

 又、和三、圖《ゑがく》所《ところ》、座に嵌《はむ》べき梃の前端が、不動尊の劍刄《つるぎば》狀をなせば、

Hudousonturugi

座に嵌《はめ》たる三角尖の兩側に、兩隙間を生ずる、其一つに釘を挾み拔《ぬき》しと見ゆ。沼田氏も斯《かか》る物を製作したるならん。然し、座の力點部より推せば、兩隙間にて、二本の釘を一度に拔く場合の外は、大分、力を冗費《じやうひ》すべし。小生、試用せし萬力は(第四圖(ハ))、梃の前端、方形で、座の一内側に接して、一小隙のみを構成せり。前書、萬力梃の前端、必ず方形なるを須《ま》つ如く述《のべ》しも、いかに鋼《たがね》を被せ、摩損を防ぐも、何百囘となく、使用せば、方形、漸く、耗殺され、甚だしきは、釘が恰好に入り留《ど》まる斗りに、矢筈形を成すに及ぶあり(第五圖)。是れ、却つて、細釘を、イキナリ、挾むに宜し迚、直さずに使ひしを見しことあり。二月十九日、一つ穴ある長一尺の萬力の梃のみ、發見せり。其の座を失ひし後は、唯、此一つ穴もて、釘を動かしたるにや。叩きし半面が、甚しく潰れまくれ居れり。同二十一日、盛岡市に出で、古金物店、數軒を搜せしに、其二、三は、ツイ四、五日前迄、店頭に在《あり》しを、在方の輩、釘拔は是に限るとて、買去《かひさり》し、と申す。試みに知《しら》ぬ振りして、二十九歲斗りの店主男と、三十四、五の店主婦に、其形と用法を問しに、答ふる處、異口同音に、小生、知るところに符合す。以て、今も南部地方奧在に之を用ひ居るを知《しる》べし。何とか一對を手に入れ、捉影して進上せんと搜索中なり。

 

Maniriki5

 

[やぶちゃん注:キャプションは「第五圖」で、以下、「萬力梃の前端」「矢筈形」(やはずがた)「に磨耗されたる處」。]

 

 當地方で、目今、船大工等が萬力と稱へ使用するは、一段と、進步工夫したる者にて、御來示のコゼヌキと酷似す(第六圖)。小生、取寄せて、爰に寫出《うつしいだ》すものは、桿の長さ二寸八分(鯨尺)[やぶちゃん注:九・五センチメートル。]、重量一貫四百六十匁[やぶちゃん注:五キロ四百七十五グラム。]あり〔熊楠謂く、是れ、コゼヌキに外ならず。但し、尾尖も釘拔用を爲すと見え、狹き三角形の切込みあるが、紀州の者に異なり。〕。前述、古態の萬力の座は、カラリカラリと、桿を離るる心配あれど、この萬力は、枠の兩端が鋲止め故、一々手にて直す必要なく、至《いたつ》て便利乍ら、雅趣は遠く及ばず。此萬力の使用も、前頭の空隙へ、船釘を挾み、桿を下へ押える樣に揚ぐる、其理は一《ひとつ》なり。船釘は、潮水の爲め、太く錆び付き居れば、是ならでは、拔き得ず。(以上、中道氏書翰、槪要。)

 

Manriki6

 

[やぶちゃん注:キャプションは、「第六圖」、その下方に「靑森縣中野浦町邊」、「船工」、「所用」、「萬力」。最上部の図に「幅二分」・「厚さ三分」・「鐶」(かなわ)「橫長さ一寸四分」。中の図下に、「上の桿の方へ反りし所」。「下方へは」、「枠」、「行かず」。「桿」、「六分六厘宛」(づつ)「正方」、「柱形」(はしらがた)。最下部の図に指示線で「尖尾」(せんび)。]

 

[やぶちゃん注:以下は、熊楠の附記で底本では全体が一字下げで頭の一字下げもない。]

 熊楠謂く、紀州でコゼヌキを用《もちふ》るに、釘が木に深入して、此器の掛り處なき時は、釘を尖端より鐵槌で叩き上げ、又、可成《なるべく》、釘を眞直《まつすぐ》に拔出《ぬきいだ》さんとせば、釘戾しを用ひたり。是は、板津君の反拔板と同功一體の物で、長《たけ》八寸[やぶちゃん注:二十四・二センチ。]、幅八分[やぶちゃん注:二・四センチ。]、厚さ四分程の壓尺(ケサン)、又、竿樣《さをやう》の鐵製器、前部は四角、後部の柄らしき處は、稍々圓みを帶ぶ。前部の表裏に鋼を被せ、相對《あひたい》し、相通《あひつう》ぜる、大小の穴、各四、五、ある體《てい》、中道君所說、萬力の桿に異ならず。其穴に釘を突入れ、槌で敲き上《あぐ》るも、同樣なり。扨、釘頭、可成り出でたる後、コゼヌキで、コジ拔きたるなり。

[やぶちゃん注:「壓尺(ケサン)」は「あつしやく(あっしゃく)」と読み、書物や紙が飛び散らないように「重し」として用いる文鎮のこと。「卦算(けさん)」とも呼ぶのを当てたもの。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 釘ぬきに就て(その3)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(左ページ四行目)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇はやや長いので、分割する。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。]

 

 後三年合戰繪詞に、將軍義家、兵に命じて、千任が舌を拔《ぬか》しむる處に、かなばしにて引き出す、とあり。凡そ箸と云《いふ》は一條《ひとすぢ》なるを、折り曲げて、兩の端、相對《あひむか》ひたるが本義なり。されど、其圖をみるに、今の釘拔に同じ。今、金物の匠は、唐剪刀《からばさみ》の如き物をキリバシと言えり。カナバシに似たる剪刀《はさみ》なれば、然云歟《しかいふか》。沙石集卷二、眞言の法をいふ所、之を譬へば、釘拔のさをは如來の加持力、坐は法界力、我手は以我功德力なり、釘拔の寄合て大なる釘を容易《たやす》く拔くが如し。重障、のぞこる事、自《おのづか》ら知られ侍り難し(紋にある釘拔とても、其器の兩端の向ひ合たるに似たればなり。關戶抔の釘貫は其義に非ず。上に見ゆ。)(以上、笑覽の文。)。

[やぶちゃん注:最後にあるように、以上の段落部分は全部が「喜遊笑覧」の先に示した「もぢ」の後の三分の二相当の完全引用文である(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション。右ページ七行目から終りの十三行目まで)。則ち、熊楠は実は「後三年合戰繪詞」を自分では見てはいないのではないかと私は思うのである。

「後三年合戰繪詞」現存する最古のものが作られたのは、鎌倉幕府が滅びた後の南北朝期の貞和三(一三四七)年。全六巻であったと考えられるが、現在は後半の三巻のみが残る。但し、この失われた詞書は、比叡山の学僧玄慧(げんえ)の著わした「奥州後三年記」などによって補うことができ、また、後代に描かれた同名の絵詞で視認可能である。サイト「北道倶楽部」の「武士の成立・論点4   奥州後三年記と義家の郎党」の、「『奥州後三年記』の残虐性」の項に図があり、中央に千任の舌抜きの図、左に木にぶら下げられ、足下に武衡の首がある図(次注参照)があるが、良く見えないものの、舌を引き出すのに用いているのは、何となく、「やっとこ」(=釘抜き)のようには見える。

「千任」千任丸( せんとうまる ?~寛治元(一〇八七)年十一月十四日)は陸奥の豪族清原家衡の家臣。「後三年の役」で家衡・武衡の軍が金沢柵(秋田県横手市)に立て籠もって源義家と対戦した際、千任丸は楼上から義家を激しく罵った。そのための敗北後、舌を抜かれ、木にぶら下げられた、足の下方には、先に斬首された主家の武衡の首が置かれて、力尽きて死ぬに至って、武衡の首を踏んで亡くなった。残虐極まりない光景である。「後三年合戦絵詞」の下巻の第三段にそれが以下のように書かれてある(以下は消滅したサイト「絵巻詞書集」のキャッシュから当該部を抜き出し、恣意的に漢字を正字化し、読み易くするために句読点や記号を挿入、段落・改行・記号を施し、推定で歴史的仮名遣の読みを添えた。下線太字は私が附した。

   *

 次に、千任丸を、めし出《いだし》て、

「先日、矢ぐらの上にていひし事、只今、申《まをし》てんや。」

といふ。

 千任、首をたれて、ものいはず。

 その舌を切《きる》べきよしを、「をきつ源直」といふ者、よりて、手をもちて、舌を引出《ひきいだ》さむとす。

 將軍、大《おほき》に、いかりて、いはく、

「虎の口に手をいれむとす、はなはだ、おろかなり。」

とて、追立《おつた》つ、こと兵、いできて、えびらより、金はしを取《とり》いでて、舌をはさまむとするに、千任は、をくひ[やぶちゃん注:両頤のことか。]、あはせて、あかず。

 かなばしにて、はを、つきやぶりて、その舌を引出《ひきいだし》て、これを切《きり》つ。

 千任が舌を、きりをはりて、しばり、かがめて、木の枝につりかけて、あしを地につけずして、足のしたに、武衡が首をおけり。

 千任、なくなく、あしをかがめて、これをふまず。

 しばらくありて、力、つきて、足をさげて、ついに、主の首を、ふみつ。

 將軍、これを見て、郎等どもに、いふやう、

「二年の愁眉、今日、すでにひらけぬ。但《ただし》、なを、うらむるところは、家衡が首を見ざる事を。」

といふ。

   *

ここで「かなばし」(金箸)とあるが、ただの金属製の箸では、歯を突き破って、舌を引き出すことは困難であろう。「やっとこ」状のもので挟んでこそ、舌は引き出せ、それを固定して、やおら、小刀で舌を切るという順序を考えると、釘抜き状のものであって合点がゆくのである。

「沙石集卷二、眞言の法をいふ所、之を譬へば、……」先に示した「八 彌勒行者の事」の一節で、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫(昭和一八(一九四三)年刊)のここの右ページ九行目以降。

「紋にある釘拔とても、其器の兩端の向ひ合たるに似たればなり」しかし、南方家の丸に釘抜の紋はそのようには私には見えない(周囲の丸を梃(てこ)に見るのは無理がある)。但し、「梃釘抜(てこくぎぬき)」紋は如何にもそれらしい(リンク先はサイト「家紋のいろは」の当該紋)。

「關戶抔の釘貫は其義に非ず。上に見ゆ」前記の「もぢ」の最後の部分。この「關戶」云々は、これよりも前の「喜遊笑覧」の「釘貫 忍び返し」の終りにある「○今」、「門戶のかんぬき……」の部分で説明されており、最後の「天和貞享こと迄は街の木戶のかこいをかく」(釘貫)「いへりとみゆ」とあって、実際の釘貫とは違う、というのである。]

 黑川君は、何故か、更に此《この》沙石集の文を引かず。笑覽の著者喜多村氏は之を引き乍ら、和漢三才圖會に釘拔を、二種、圖記せるを參酌せず。古來、本邦の釘拔は、和三所謂《いふところの》、一種形如鋏而肥、其頭圓以挾舊釘拔之〔一種、形、鋏のごとくにして、肥(ふと)く)、其の頭(かしら)、圓(まる)く、以つて、舊釘を挾(はさ)み、之れを拔く。〕ものに限れる樣心得て、釘拔紋を、其兩端向ひ合たるに似たる故の名と斷ぜるは遺憾なり。沙石集、述ぶるところの釘拔のさおは、梃《てこ》、坐は、和三、所謂、方寸半許鐵器、隨透穴〔方(はう)、寸半(すんはん)許(ばか)り)の鐵器にして、隨ふに穴を透したり。〕俗に云ふ座金を指せば、其釘拔は和三の、俗云萬力たるや、疑を容れず。若し、其が、今日普通なる如鋏而肥其頭圓以挾舊釘拔之ものを指《さし》たるならんには、サヲと云はずに、手とか、足とか、云たるべく、動いて用を爲す頭(俗稱クヒキリ)を動かずして役に立つ坐と唱ふべき道理なし。

[やぶちゃん注:私の『「和漢三才圖會」卷第二十四「百工具」の内の「千斤(くぎぬき)」』を参照されたい。]

 予は萬力てふ釘拔を見し事、無し。但し、亡父は維新前より明治十四年まで和歌山市で金物商を營みたれば、維新前後、夥しく、名も出處も知れぬ雜多の金屬具を扱ふたる殘り物で、年久しく店頭常用の煙草盆の引出しにありたる方寸半ばかりの鐵器、和三の圖其儘なるが有りし。幼時の事とて記憶定かならねど、國の家老の邸の表門に打付有りし乳房狀の金屬製飾具の底に潛在せし座金と聞《きき》しと記憶す。兄なる者、每度、此座金を舊釘《ふるくぎ》にかぶせ、鑢(ヤスリ)、又、鉛の小棒を梃《てこ》として、和三所記同樣に拔き出すを樂みとし、鑢を損じ、鉛を曲げ了《をは》るとて、其都度、父母に叱られしを慥に覺え居り、十三歲で始て和三の千斤の條を見し時、卽座に萬力の何物たるを解せり。爾來、別段、萬力といふ器具を睹《み》ざるも、物理學の初步をも讀みし身の、釘に相應した座金と梃さえ[やぶちゃん注:ママ。]あらば、其釘は拔かれ得ると呑込み、隨つて、昔しは、特に萬力なる釘拔具ありしことと、和三の圖說を信じ居りしに、黑川君が萬力の圖說を寺島氏の假想に過ずと說れしと聞き、和三の圖說を疑ふに及べり。是より前、昨年五月末日、平瀨作五郞氏來訪されし際、此人も福井縣人なるが、白井博士と等しく、余の家紋釘貫なるを見て、自分も同紋なるは奇遇と言《いは》れ、この紋は萬力てふ釘拔の畫なり、と語られたる事有り。因て、書《ふみ》を飛して、委細を問しに、釘貫紋は萬力に象《かたど》るとは、氏の先君の話にて、自分は萬力という具を見し事無しと答られ、予、大に失望せり。之に屈せず、萬力の存否を諸方の知人へ書面で問合せ、自身も尋ね步く内、田邊町の車力の棟梁、三谷福松氏(六十五歲斗り)、藏に萬力類似の物有りと聞き、借り來つて寫せる圖を爰に出す(第一圖)。

[やぶちゃん注:「亡父」熊楠の父南方弥兵衛(文政一二(一八二九)年~明治二五(一八九二)年:後に「弥右衛門」と改名。逝去時、熊楠はロンドンにおり、死に目に逢えていない)は和歌山城城下町の橋丁(現在の和歌山市)で金物商・雑賀屋を営んでいた。

「國の家老の邸の表門に打付有りし乳房狀の金屬製飾具」所謂、「釘隠し」のこと。

「兄なる者」次男坊であった熊楠の腹違いの兄(前妻との子で七つ違い)南方藤吉(安政六(一八五九)年~大正一三(一九二四)年)。ウィキの「南方熊楠」によれば、明治一一(一八七八)年より家督を継ぎ、「弥兵衛」を名乗ったが、好色にして気儘であったため、「破産するだろう」という父親の予言通り、妾を、五人、囲い、相場に手を出し、明治三〇(一八九七)年に破産、南方家を継いだ熊楠の実弟常楠の世話になった。

「十三歲で始て和三の千斤の條を見し時」ウィキの「南方熊楠」や各種年譜によれば、数え八歳の明治七(一八七四)年頃、近所の産婦人科佐竹宅で、「和漢三才図会」を初めて見、二年後(小学校を卒業し、鍾秀学校速成中学科に入学した)、売りに出ていたものを父にねだったが、買ってもらえず、岩井屋津村多賀三郎から「和漢三才図会」全百五巻を借覧し(持ち出しは禁じられた)、恐るべきことに、その場で記憶しながら、家に帰り、筆写をするということを始めている。この他、並行して十二歳までに本邦で本草学のバイブルとされた明の李時珍の「本草綱目」や、貝原益軒の「大和本草」、各種の諸国名所図会等の筆写も本格的に行っている。

「寺島氏」「和漢三才図会」の作者寺島良安。

「昨年」大正八(一九一九)年。

「平瀨作五郞」(安政三(一八五六)年~大正一四(一九二五)年)は植物学者。越前国足羽郡(あすわぐん)生まれ。福井藩中学を卒業し、明治八(一八七五)年、岐阜中学の図画教師となる。明治二十一年からは東京帝大理科大の小石川植物園内にあった植物学教室に勤め、明治二十六年には正規の助手となった。ここで教授用・研究用の画や顕微鏡用のプレパラートを作ったりしていたが、農学部の池野成一郎助教授(後に教授)の示唆を受け、植物園内のイチョウの雌の木になる銀杏の実を材料として、裸子植物に初めて精子を発見、受精の過程を追跡し、明治二十九年、「いてふノ精蟲ニ就テ」として発表した。同じころ、彼はソテツの精子も発見している。これらの発見は、植物分類学・細胞学・進化学上の一大事件であり、海外の学者にも称賛された。明治三〇(一八九七)年に大学を退職、その後は彦根中学や京都の花園中学の教員を勤めた。大正七(一九一八)年にはクロマツの受精に関する報告もしている(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 

Kozenuki

 

[やぶちゃん注:「第一圖」「コゼヌキ」の図。底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像をトリミング補正した。指示記号「イ」(二ヶ所)・「ロ」・「ハ」とある。]

 

 此器《き》、方言コゼヌキ、釘をコジ揚《あげ》て拔くの義、長さ二尺一寸[やぶちゃん注:六十三・六センチ。]の方柱形の鐵梃の頭尾に鋼を裝へる者にて、幅も厚さも平均七分[やぶちゃん注:約二センチ。]乍、尾を急に三絃の撥樣に廣く薄くして柱等をコジ起すに便にす。其頭部は全長の凡そ十分一を占め、前端に近づくほど、微少乍ら漸く其幅を增し、著しく其厚さを增す。頭部は桿《かん》と直《す》ぐに續かず、稍々《やや》傾斜せる狀、三絃の海老尾《えびを》に似たり。扨、頭部の後端近き兩側に、堅固の鐵鋲もて、長持の鐶《かなわ》の如き鋼《はがね》の鐶《かん》を留《と》む。この鐶、自在に前後に廻り動けど、梃の頭部の前端に近き兩側、やや膨れあるに妨げられて、一定の姿勢(第一圖ロ)を踰《こえ》て梃頭を廻り下る能はず。蓋し、此姿勢に在《あり》ては鐶頭の上緣が、梃頭の上面と殆ど一平面に見え、鐶脚の上緣が梃頭の上面と八度程の角度を構え、梃頭の前端と鐶頭の間に幅三、四厘[やぶちゃん注:〇・九~一・二ミリ。]の透き間を生ず(第一圖イ)。鐶が後に向《むかつ》て廻るほど、この透き間が大きくなるは、言を俟《また》ず(第一圖ハ)。釘をして、この透き間に入れしめ、梃頭の前端を釘に當つれば、鐶、廻り下って、梃端と力を戮《あは》せ、釘を、〆つけ、緊持して、滑り動かせず。その時、梃をコジ揚ぐれば、いかな釘も、たやすく拔かる。大釘は、是でなければ、拔けず、甚だ重寶なる物なり。

[やぶちゃん注:「海老尾」三味線の、竿の端の、海老の尾のように後方に曲がった部分の名称。]

 三谷氏所藏の品は、明治九年[やぶちゃん注:一八七六年。]鍛工《たんこう》[やぶちゃん注:鍛冶屋。]に作らしめたと語らる。今でさえ[やぶちゃん注:ママ。]不便極まる田邊に、其頃、外國より傳ふる筈も無く、其上、山本幸次郞とて實體《じつてい》なる六十三歲の左官頭領の話に、七、八歲の時、既に此器を見たりといひ、又、最近拙妻の麁緣《そえん》有る[やぶちゃん注:ちょっとした縁がある。]東牟婁郡請川《うけがは》村の舊家須川氏(昔し、饑饉年に窮民に業を與えん[やぶちゃん注:ママ。]爲め、八棟造りの大厦《たいか》を建て、棟上げの節、山茶《つばき》の木で作りし槌《つち》を天井へ忘れ置しに、每夜、化けし。其大厦の煙突に、盜賊三人、年久しく住みしなど、珍談多き家なり。この家の支流に須川德卿あり。世に希なる算學者で、甞て、川を航する船を算盤で置き留《と》めたと云ふ)に、維新前より此器を藏するを、誰も彼も、其何物たるを知らず有りし由、確かに聞たれば、此コゼヌキは、必ず、本邦在來の物なるべく、全く鎌倉時代、既に行れたる、萬力の座と梃とを結合して、邦人が作出《つくりいだ》せるに外ならじ。此事、東洋にも自生せる器械の進化、灼然たるものありし好例として、ピツト・リヴアース將軍に告げまし物をと思へど、物故して、はや、二十年なるを如何せん。

[やぶちゃん注:「東牟婁郡請川村」現在の和歌山県田辺市本宮町(ほんぐうちょう)請川(うけがわ)周辺。

「ピツト・リヴアース將軍」イギリスの軍人・考古学者で、「イギリス考古学の父」と呼ばれるアウグストゥス・ヘンリー」レーン=フォックス・ピット=リバーズ(Augustus Henry Lane-Fox Pitt-Rivers 一八二七年~一九〇〇年)。ヨークシャー出身。「クリミア戦争」に従軍した。武器・土俗器などを収集・分類し、一八八三年にオックスフォード大学に寄贈している 。一八八二年の退役後、ウィルトシャーの所領で、先史・古代ローマやアングロ・サクソン時代の遺物の発掘を行なった。大規模な発掘という、当時としては画期的な考古学の方法を導入し、また、進化論的立場を取り、武器の形態的な発展を研究した。主著「クランボーン・チェイスの発掘」(Excavations in Cranborne Chase :一八八七年~一八九八年)は考古学の古典とされる。クリミア半島やエジプトのテーベの発掘なども行なった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。彼と南方熊楠が接触した事実は諸本では見当たらないものの、両者の学問的嗜好は合い、熊楠のロンドン滞在は一八九二年から一八九九年であるから、対面する機会は十分にあったとは思われる。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 釘ぬきに就て(その2)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(左ページ後ろから四行目下方)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇はやや長いので、分割する。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。]

 

 元祿十四、巢林子《さうりんし》作、曾我五人兄弟二、小袖紋盡しの發端に、「釘貫、松皮、木むらごう、此《この》木むらごうと申すは、三浦の平六兵衞義村の紋也。」。正德四、紀海音作曾我姿富士三、祐信、狩場の幕の紋を、時宗に告ぐ、「立て續けたる小屋作り、手は盡さねどそれぞれに、主じの心白壁の、高塀板塀、忍び返しの釘貫(考古學雜誌十卷五號、黑川君の論說二五二頁末行參照)、松皮、木むらごう、此木村ごうと申すは、三浦平六兵衞義村の紋なり。」。

[やぶちゃん注:「元祿十四」一七〇一年。

「巢林子」かの近松門左衛門の別号。

『曾我五人兄弟」二、小袖紋盡しの發端に、「釘貫、松皮、……」国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「近松全集」(頭注附き)第六巻のここ

「木むらごう、此木むらごうと申すは、三浦の平六兵衞義村の紋也」不審。義村というか、三浦氏の紋は「黒地に三浦三引紋(中白)」である(リンク先はウィキの「三浦氏」の家紋)。

「正德四」一七一四年。

「紀海音」(きのかいおん 寛文三(一六六三)年~寛保二(一七四二)年)は浄瑠璃作家・狂歌師・俳人。本名は榎並善右衛門、後、善八。大坂生まれ。父は大阪御堂前の菓子商鯛屋善右衛門(俳号「貞因」)。

『曾我姿富士三、祐信、狩場の幕の紋を、時宗に告ぐ、「立て續けたる小屋作り、……』国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここ(左ページ後ろから二行目途中から)。

「黑川君」「選集」の編者割注に従うと、黒川真道(まより 文政一二(一八二九)年~明治三九(一九〇六)年)は国学者で歌人にして東京帝国大学教授。国語学が専門。]

 是等、何か古い紋盡しの文を、其儘、踏襲したので、その一番に釘貫、松皮を擧たるは、三好氏執權として威を振ひし日の作たる證か。惟《おも》ふに、三好氏の盛時、其家に舊緣ある者や、其下風《かふう》に立つを好みし者に、其家紋、松皮釘貫の一部分たる釘貫を割《わ》き與へて好意殊遇を示せし事あるべし。關白秀次、初め、長慶の叔父康長の養嗣として、三好氏を稱せしと云《いへ》ば、定めて釘貫を紋とし、用ひたるべく、其重臣白井備後守範秀は、古今武家盛衰記四に、秀次の乳父《めのと》にて、三好譜代の士なり。一萬三千石を領せしが、秀次、關白職を繼ぐ時、六萬石となるとあれど、若狹郡縣志三や山縣本武田系圖より推《お》せば、秀次と同時に亡びし熊谷直澄の父祖と共に、本《も》と若狹の武田氏の被官たりし白井民部丞の子が一類らしく思はるれば、福井縣人たる白井博士の釘貫の家紋は初め之を三好氏より受けたるに非るか。

[やぶちゃん注:「白井備後守範秀」豊臣秀次の家臣白江成定(しらえなりさだ ?~文禄四(一五九五)年)の別名。当該ウィキによれば、『豊臣秀次が養子入りした三好家の臣であったとも伝わり、また』、『秀次の乳父であったともされる』。『秀次に仕え、天正』一二(一五八四)年の「長久手の戦い」で『水野勝成と戦い、秀次と共に敗走した。秀次が関白に就任すると』、『重臣として』六『万石の知行地を賜った』。『秀次に豊臣秀吉に対する謀反の嫌疑がかかると』、『弁明に奔走し、また』、『秀次に対しては、京都での居館であった聚楽第に留まったまま』、『大坂城の秀吉に対して弁明を行うことと、場合によっては聚楽第での籠城戦を主張したが、秀次は高野山に自主的に移動し、追って自刃を命じられた(秀次事件)。成定は高野山を下りて、かねて昵懇だった京の四条の大雲院貞安寺に一切を話し、殉じて自刃した』。『また、室は成定自刃の後「心をも 染めし衣のつまなれば おなじはちすの 上にならばん」と辞世の句を残し、四条道場で後を追って自刃した』とある。

「古今武家盛衰記」戦国・江戸期の武将ほかの伝記集の写本。別名「近代武家盛衰記」「諸家栄衰記」。作者不詳。先の黒川真道編になる国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここから。

「熊谷直澄」熊谷直之(?~文禄四(一五九五)年)の別名。当該ウィキによれば、『若狭国三方郡大倉見城(井崎城)主。武田四老の一人』。『当初は若狭守護であった若狭武田氏の家臣』で、『元亀元』(一五七〇)年に、『武田元明に付いて』、『織田信長に従属したと思われ』、『同年の朝倉攻めに参陣』している。天正九(一五八一)年の『馬揃えの際には若狭衆として丹羽長秀の下で行進した熊谷氏は彼である可能性がある』。翌天正十年の「本能寺の変」の『後は豊臣秀吉に仕えた』。『その後』、『関白豊臣秀次に配され、家老とな』った。文禄四(一五九五)年七月、『秀次が譴責使を受けた時』、「川角太閤記」では、『謀反を勧めたとされる。秀次が高野山蟄居となると、これの責任を取って京都嵯峨野二尊院』『で自ら切腹して果てた。秀吉は使者を送って止めようとしたが』、『間に合わなかった』。『辞世は「あはれとも問ふひとならで問ふべきか 嵯峨野ふみわけておくのふるてら」』とある。

「白井民部丞」若狭武田氏の重臣白井勝胤。]

 又續群書類從一二四の「小笠原系圖」に、小笠原氏の門葉家老の名を列せる内に、東方、西方、南方、北方の四氏あり(近頃、平瀨麥雨氏、來示に、今も松本市付近に南方、北方てふ地あり、殊に南方は小笠原氏舊城地の山麓にあり、と)。紀伊の南方輩が釘貫を家紋とするは、何か小笠原より分れたる三好氏に因緣すと想はる。紀伊續風土記一八、名草郡《なぐさぐん》三葛村《みかづらむら》に南方てふ字は、もと、御名方神《みなかたがみ》を祀りしが、他へ其社を移してのち、若宮八幡宮を氏神とす。此字に、南方氏、甚だ多し。諏訪明神を氏神とせるは信州に緣ありし如し。

[やぶちゃん注:「平瀨麥雨」俳人で民俗学者でもあった胡桃沢勘内(くるみざわかんない 明治一八(一八八五)年~昭和一五(一九四〇)年)。長野県筑摩郡島内村平瀬生まれ。「平瀨麥雨」は別号の一つ。十八歳で俳句を上原三川(さんせん)に学び、二十歳の時、三川の勧めで、伊藤左千夫に師事。『比牟呂』・『馬酔木』・『アララギ』で活躍した。歌集「胡桃沢勘内集」がある。後に民俗学を研究し、「松本と安曇」・「福間三九郎の話」などを著わしている。『松本時論』にも多く寄稿した(講談社「日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「紀伊續風土記」は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成した。「国立公文書館」の「デジタルアーカイブ」で同巻をダウン・ロードして「三葛村」を確認したが、熊楠はかなり粉飾している。まず、「南方」というのは姓ではなく、字地名で、『今廢絶す』とあり、『今村中』に『南方八軒』という語を含む『諺のこれり』とあるだけである。なお、三葛村は現在の和歌山県和歌山市三葛(みかずら:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。和歌山市の海浜に近く、紀三井寺(きみいでら:寺と地名と同一)の北直近である。

「御名方神」建御名方神(たけみなかたのかみ)に同じ。

「若宮八幡宮」和歌山県和歌山市紀三井寺のここ。]

 扨、此釘貫の紋と云ふ事、和漢三才圖會に二種の釘拔を出《いだ》せる。其第一種、俗云萬力〔俗に萬力(まんりき)と云ふ。〕と有るに、象《かたど》つて畫きしなり。弘安中の作、沙石集《しやせきしふ》二卷八章に、「念佛は他力と云《いひ》ながら、自力もあり。されば、二力なり。眞言は以我功德力《いがくどくりき》、如來加持力、及以法界力《きふいほふかいりき》とて、三力なり。之を譬へば、釘拔のさをは、如來の加持力、座は法界力、我手は以我功德力なり。釘拔の寄合《よりあひ》て大きなる釘をも易く拔くが如し。中略。是れ、古き人の譬へに聞かずと雖《いへども》、私《わたくし》に思ひより侍べり」と筆せるを見れば、和漢三才圖會の成《なり》しより、四百三十年程の昔、鎌倉幕府の世、既に萬力種の釘拔が用ひられたるを知るべし、と。(已上、白井博士への文意記憶の儘。但し、書名、卷數等は、一々、調べて記す。)

[やぶちゃん注:「和漢三才圖會に二種の釘拔を出せる」事前に電子化注しておいた。『「和漢三才圖會」卷第二十四「百工具」の内の「千斤(くぎぬき)」』を参照。

『弘安中の作沙石集二卷八章に、「念佛は他力と云ながら、……』鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。臨済僧の無住一円の著になる。弘安六(一二八三)年成立。「八 彌勒行者の事」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫(昭和一八(一九四三)年刊)のここの右ページ八行目以降。

「以我功德力」その人自身が現世に於いて修行によって得た能力。絶対自力。

「如來加持力」如来が請願し、加持祈禱を行って衆生を救った大慈大悲心の力。絶対他力。

「及以法界力」その人自身が既に持っているところの仏性(ぶっしょう)。謂わば、極楽往生を決定づける唯一真実の内因。なお、底本も「選集」も「乃以法界力」とするが、所持する「日本古典文学大系」版で訂した。

 考古學雜誌十卷五號二四二頁に、黑川君は埃囊抄《あいなうしやう》を引て、釘拔なる造作具は、足利時代、用ひ初られたる樣述られしも、實は其以前、北條時宗執權の世、既に用いられ居りしなり。吾邦に古く、釘を拔く具ありしことは嬉遊笑覽一上に出《いづ》るを、白井博士へ上述の書信を出して後ち、見出せり。其文、一向、黑川氏の論說に引れざる故、念の爲め、爰に引んに云く、モヂ、和名抄、考聲切韻を引て錑鑽なり、漢語抄に毛遲とあり。新猿樂記に、大工の容顏を云處、「臂者曲尺、肩者錑柄、足者鐵鎚」〔臂(ひぢ)は曲尺(かねじやく)、肩は錑柄(もぢりえ)、足は鐵鎚(てつつい)。〕抔云り。諸家、之を詳らかならず。思うに、此器、鐵にて作り、戾《ねじ》る物なれば、俗に錑字を當て用ひなれたるを、字書に據《よつ》て註したるより、分らぬ事と成《なり》ぬるか。是れ、恐らくは、今、いふ、釘拔にや。木の道にも何にも必用の具なるを、是なくば、あらじ。

[やぶちゃん注:「埃囊抄」(あいのうしょう:現代仮名遣)は室町中期に編纂された辞典。勧勝寺の僧行誉の著で、文安二(一四四五)年又は翌年の成立。

「北條時宗執權の世」在職は文永五(一二六八)年から弘安七(一二八四)年。

「嬉遊笑覽一上に出る」同書は国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作で、諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻・付録一巻からなる随筆。文政一三(一八三〇)年成立。私は岩波文庫版で所持するが、異なった版の国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 上」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここの右ページに「釘貫 忍び返し」の項がある。

「モヂ、和名抄、考聲切韻を引て錑鑽なり、漢語抄に毛遲とあり」「倭名類聚抄」の巻第十五」の「調度部下第二十二」の「工匠具第百九十七」に、

   *

 錑(もち) 「考聲切韻」に云はく、『錑は【「雷」・「内」の反。又、音「戾」。「漢語抄」に『錑、毛遲(もち)。』と。】、「鑚」なり。』と。

   *

とあった。因みに、「考聲切韻」というのは、論文を見るに、散佚しているらしく、本邦での研究者も一人しかいないと、ある国語学者がQAで回答されておられた。

「新猿樂記」平安後期の漢文体の芸能の記録。全一巻。藤原明衡(あきひら)の著。当時、都で流行していた猿楽の種類を挙げて、芸人を評した後、見物人の様子を述べ、観衆の一人である右衛門尉の家族を紹介する形で、当時の人事全般に亙る樣々な事物の名称や所作を列挙する。「堤中納言物語」を始め、多数の書に引用が見られる(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

[やぶちゃん注:以下の一段落は補注らしく、底本では、頭の字下げ無しで、全体が一字下げとなっている。]

熊楠按ずるに、和漢三才圖會二四には、錑にモジリと假名振り、按錑大鑚也、柄橫於頭、如丁字樣、先以三稜錐、次敲入之、以柄紾捩(モジル)○南蛮鍍、捻如眞糕餅形、功倍於常と載せ、二圖を出すを見るに、英語で pod auger 及び screw auger と呼ぶ栓拔き狀の鑽《きり》らし。別に、捕り物に用うるモジリ(和三、二一に三才圖會の狼牙棒《らうがぼう》に充つ)をも錑と書く事あり(民俗第一年第一報、志田君の「辨慶の七つ道具」)。新選類聚往來上、番匠鍛冶具に䤤字をモジりと訓せるは何物か知れず。康煕字典に音、開、器名となり。釘拔は戾《ねじ》る物故、錑、書きしならんてふ笑覽の說は、黑川君の釘を喰ひ〆て拔取る故、釘拔を、又、釘〆と名《なづ》く、との說に類す。拔取る時に限らず、押込むにも、曲れるを直すにも、釘を喰ひしめる故、釘拔を英語で pinchers(喰ひ〆る物)と名く。

[やぶちゃん注:「和漢三才圖會二四には、錑にモジリと假名振り、按錑大鑚也、……」事前に『「和漢三才圖會」卷第二十四「百工具」の内の「錑(もぢり)」』で電子化注しておいたので、訓読や注はそちらを見られたい。

pod auger」「auger」は木工用の「螺旋錐(らせんきり)」を指す語。「pod」は「エンドウなどの鞘」・「鞘状の物体」・「蚕の繭」などの意。

「和三、二一に三才圖會の狼牙棒に充つ」『「和漢三才図会」の巻二十一に「三才図会」の「狼牙棒」に「錑」(もじり)を当てている』の意。事前に当該部である『「和漢三才圖會」卷第二十一「兵器 征伐」の内の「長脚鑚」』を電子化注しておいた。そこでは「三才図会」の原本画像もリンクさせてあるので、是非、見られたい

「志田君」『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 古き和漢書に見えたるラーマ王物語』で既出既注の国文学者。

「新選類聚往來」数多ある「往来物」(平安後期から明治初期まで広く使用された初等教科書の一群を指す)の一つで、手紙文例集。成立年未詳。作者は丹峯和尚(たんぽうおしょう)と名乗る人物。江戸前期の成立。アーカイブがあるが、調べる気にならない。悪しからず。

「釘拔は戾る物故、錑、書きしならんてふ笑覽の說」これは、先に示した国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 上」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)の箇所ではなく、少し後のここの右ページの「もぢ」の項であるので、注意されたい。

「pinchers」音写「ピンチャーズ」。この単語は、広く、挟んで抜いたり、切断したりする工具である「ペンチ」(pincerscutting pliers)や、小型の「ラジオ・ペンチ」(和製英語:radio pinchers)、「プライヤー」(pliers)、「ニッパー」(nipper)などの総称である。]

2022/09/02

「和漢三才圖會」卷第二十一「兵器 征伐」の内の「長脚鑚」

「和漢三才圖會」卷第二十一「兵器 征伐」の内の「長脚鑚」

[やぶちゃん注:〔○○〕や〔→○○〕は、表字・訓読が不完全で私がより良いと思う表字・訓読、或いは送り仮名が全くないのを補填したものを指す。]

 

Sasumata

 

[やぶちゃん注:キャプションは、右から「鐵把(ツクボウ)」・「長脚鑚(サスマタ/コトヂ)」・「狼牙棒(モジリ)」。「ジ」はママ。]

 

さすまた    長脚鑚

ことぢ     【左須末太

長脚鑚     又琴桂棒】

        鐵把

        【今云釚棒】

        狼牙棒

        【今云毛知利】

三才圖會有長脚讃鐵把狼牙棒之圖曰植釘於上如狼

牙者名狼矛棒又無刄而鉤者曰鐵抓

△按長脚鑚有叉可以挾敵【曰剌叉】形似琴柱【故名古止之】鐵

 把今云釻棒也鐵抓今云熊手【詳于農具項】狼牙棒今云錑

 棒也以上關守門番必用之不强傷抮捕以徽索可虜

 

   *

 

さすまた    「長脚鑚〔(ちやうきやくさん)〕」。

ことぢ     【「左須末太〔(さすまた)〕」。

長脚鑚     又、「琴桂棒〔ことじぼう〕」。】

        「鐵把〔(てつは)〕」。

        【今、云ふ、「釚棒〔(つくぼう)〕」。】

        「狼牙棒〔(らうが)〕」。

        【今、云ふ、「毛知利〔(もぢり)〕」。】

「三才圖會」、「長脚讃」・「鐵把」・「狼牙棒」の圖、有りて、曰はく、『釘を上に植ゑ、狼の牙のごとき者、「狼矛棒〔(らうむぼう)〕」と名づく。又、刄〔(は)〕無くして、鉤(ひつか)くる者、「鐵抓〔(てつさう)〕」と曰ふ。』と。

△按ずるに、「長脚鑚」は、叉(また)有りて、以つて、敵を挾む【「剌叉(さすまた)と曰ふ。】。形、琴柱(ことぢ)に似たり【故に「古止之」と名づく。】。「鐵把」は、今、云ふ「釻棒(つく《ぼう》)」なり。「鐵抓」は、今、云ふ「熊手」〔なり〕【「農具」の項に詳らかなり。】。「狼牙棒」は、今、云ふ「錑り〔→(もぢ)り〕棒」なり。以上、關守・門番、必〔(かならず)〕、之れを用ふ。强〔(しひ)〕て傷せず、抮捕〔(ねじりとらへ)〕、徽索(はやなわ[やぶちゃん注:ママ。])を以つて虜(いけど)るべし。

 

[やぶちゃん注:「三才圖會」本書が明の李時珍の「本草綱目」以上に引用・体裁を意識した絵を主体とした類書(百科事典)。明の一六〇七年に完成し、二年後の一六〇九年に出版された。王圻(おうき)と、その次男の王思義によって編纂された。全百六巻。本篇の指示するそれは、「器用」第六巻及び八巻。国立国会図書館デジタルコレクションの原本で、「長脚讃」と「鐵把」はここ(後者は「鐵扒」(「扒」(音「ハツ」は「搔く」の意)となっているのがそれであろう)、「狼牙棒」の図はここである。

「釻」この「つく」は訓であるが、「突く」の意ではなく、「担ぎ棒の両端にある突起」を指す。]

「和漢三才圖會」卷第二十四「百工具」の内の「錑(もぢり)」

 

[やぶちゃん注:〔○○〕や〔→○○〕は、表字・訓読が不完全で私がより良いと思う表字・訓読、或いは送り仮名が全くないのを補填したものを指す。]

 

Mojdiri

 

[やぶちゃん注:下方の螺旋のあるスクリュー釘附きの図の上にキャプションで「南蠻錑」。]

 

もじり    錑

【音戾】 【和名毛遲。】

ルイ

 

△按錑大鑚也柄橫於頭如丁字樣先以三稜錐次敲入

 之以柄紾捩

南蛮鍍 捻如眞糕餠形功倍於常

 

   *

 

もぢり    「錑」

【音戾】  【和名、「毛遲〔(もぢ)〕」。】

ルイ

 

△按ずるに、錑は大〔きなる〕鑚〔(きり)〕なり。柄は頭〔(かしら)〕に橫〔→にあり〕、「丁」字樣〔ちやうじやう〕のごとく、先〔(ま)づ〕三稜錐〔さんりようきり〕を以つてし、次いで、之れを敲〔(たた)〕き入〔→れ〕、柄を以て、紾-捩(もぢ)る。

南蛮鍍〔(なんばんもぢり)〕 捻〔(ねぢ)〕ること、眞糕餠〔(しんこもち)〕の形のごとし。功、常に倍す。

 

[やぶちゃん注:「錑」は「錑錐(もぢりぎり(もじりぎり))」のこと。現行では初めから先が螺旋状を呈し、丁字形(ちょうじがた)の柄を回しながら穴を開ける錐を言う。但し、図の右手上方の物は螺子山が視認出来ないので通常の釘の太いものが附いているようである。特に螺旋の捩子山(ねじやま)のあるものを、ここでは「南蠻錑」と呼んで区別していることが判る。謂わば、ワインのコルク開けをごくごく小型にしたような、打ち込んだら、反対方向に回さない限り抜けない固定具である。他に割注にあるように、「もぢ(もじ)」とも呼んだ。

「眞糕餠」「志んこ餅」「新粉餅」「糝粉餅」などと表記し、上新粉(「うるち米」を引いた粉)を用いて作られる餅菓子の一つ。「もち米」作られる「餅」と比べ、弾力があり、歯切れがよく、すぐ固くなりにくいのを特徴とする。主に新潟県などで作られ、食べられており、新潟県の郷土菓子・地方銘菓として知られる(サイト「日本の食べ物用語辞典」のこちらに拠った)。]

「和漢三才圖會」卷第二十四「百工具」の内の「千斤(くぎぬき)」

「和漢三才圖會」卷第二十四「百工具」の内の「千斤(くぎぬき)」

[やぶちゃん注:〔○○〕や〔→○○〕は、表字・訓読が不完全で私がより良いと思う表字・訓読、或いは送り仮名が全くないのを補填したものを指す。本篇は、訓点や読みが、かなり杜撰である。]

 

Kuginuki

 

くぎぬき  千斤

千斤   【久岐奴木俗云万力】

類書纂要云千斤起舊釘之噐

△按千斤方寸半許鐵噐隨透穴別長尺許鐵梃大應穴

 嵌之如鐔而鐔與梃之間挾舊釘拔起之千斤万力之

 名共取強剛之義矣

一種形如鋏而肥其頭圓以挾舊釘拔之

 

   *

 

くぎぬき  「千斤」。

千斤   【「久岐奴木〔(くぎぬき)〕」。俗に「万力〔(まんりき〕)」と云ふ。】

「類書纂要」に云はく、『千斤は舊釘〔(ふるくぎ)〕を起〔→こす〕の噐〔(き)〕なり。』と。

△按ずるに、「千斤」は、方〔(はう)〕寸半〔(すんはん)〕許〔(ばかり)〕の鐵噐〔→にして〕、隨て〔→ふに〕穴を透し、〔→したり。〕別に長さ尺許〔→(ばかり)の〕、鐵の梃〔→(てこ)あり〕。大いさ、穴に應〔→じ〕、之れを嵌(は)めて鐔(つば)のごとくにして、鐔と梃の間に、舊釘(ふるくぎ)を挾んで、之れを拔〔→き〕起〔→こす〕。千斤・万力の名共〔(なども)〕、「強剛」の義を取〔→るなり〕。

一種、形、鋏のごとくにして、肥〔(ふとく)〕、其の頭〔(かしら)〕、圓く、以つて、舊釘を挾〔(はさみ)〕、之れを拔く。

 

[やぶちゃん注:図の、右側のものは、多くの人が実際に見たこともあるもので、使用法も「一種、形……」以下の解説なしでも判るのだが、左手のそれは、訳さないとちょっと判り難いかも知れない。現行ではこうした分離した釘抜きというのを見ることはまずない(私自身も見たことがない)。『「千斤」は、……』以下を判り易く敷衍訳しておく。

   *

「千斤(くぎぬき)」は、四方が一寸半ほど(約四センチ五ミリ)の正方形の鉄器で、中央に穴が開いている。それとは別に、長さ一尺ほど(約三十センチ)の鉄の棒状(一方が箆(へら)状に平たくなっている)の挺(てこ)があって、その箆型の部分の太さは、前者の穴の大きさに、丁度、応じている。まず、刀の鐔のように、これを嵌め込み、前者と後者との間に抜くべき対象である古釘を挟み込んで、而して、梃子(てこ)の原理を用いて、抜き超こすのである。

   *

「類書纂要」二種ある中国の類書(百科事典)。一つは十二巻本の明の璩崑玉(きょこんぎょく)の撰。今一つは、三十三巻本の清の周魯の撰で。一六六四序刊。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 釘ぬきに就て(その1)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇はやや長いので、分割する。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。]

 

     釘ぬきに就て (大正九年四月考古學雜誌第十卷第八號)

 

 過る大正四年三月二十五日、白井光太郞博士紀州田邊へ來訪されし際、余の羽織の家紋、丸に釘貫なるを見て、奇遇も有る物なり、自分の家紋之に同じと拙妻に語られし由、後日聞き及び、博士へ書信の序に此紋について述べたる大要は、續群書類從一二五所收、小笠原三家系圖に、三好氏家紋釘貫、同一二六所收、三好系圖に、小笠原阿波守長隆の時、阿波の住人、江《がう》と號《なづ》くる侍、數年來、宮方にて、足利氏に降《くだ》らず、長隆等《ら》の力に及ばざりしかば、當時無雙の勇將小笠原信濃守義長を京より招下《しやうげ》して長隆聟〔長隆が聟〕とし、宮方を悉く退治す。然るに、敵人江の亡靈、殘りて、人民を罰せしより、義長、之を一社に祀り崇め、千部經を供養し弔ひ、江の家紋、釘貫を、我家の幕紋としたので、亡靈、靜まる。義長、阿波國三好郡に住し、在名を三好と號く、とあり。同一二四所收、小笠原系圖には、三好の家紋、松皮釘貫、同一二五所收、小笠原系圖に、家傳云、昔神功皇后平三韓時、以王字爲旗紋、今之松皮是也、康平年中、勅源賴義、誅安部貞任同致任時、送年月未能平、於是新羅三郞義光、奉勅發向之時、帝賜松皮旗義光云々、自義光相傳、至相模守長淸、故以松皮爲小笠原家紋〔家傳に云はく、昔、神功皇后、三韓を平らぐる時、「王」の字を以つて旗の紋と爲す。今の松皮は是れなり。康平年中、源賴義に勅して、安部貞任・同致任を誅せしめんとする時、年月を送るも、未だ平らぐる能はず、是(ここ)に於いて、新羅(しんら)三郞義光、勅を奉じて發向するの時、帝、松皮の旗を義光に賜ふ云々、義光より相傳へられて、相模守長淸に至る。故に松皮を以つて小笠原の家紋と爲す。〕と有《あり》て、從前、小笠原氏の家紋、松皮なりしに、義長、阿波に下つて江氏を滅ぼし、其釘貫紋を松皮に合わせて、松皮釘貫を紋とし、又、時として、釘貫ばかりをも、紋とし用ひしと見ゆ。

[やぶちゃん注:「白井光太郞」(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)は植物学者・菌類学者。複数回既出既注。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。熊楠は神社合祀の反対運動のために彼に協力を求め、白井はそれに応じていた。この白井の来訪も主にそれが目的であったものと推定される。柳田國男を通して知り合って文通を始めた。ここで少し言っておくと、文通を始めて二か月もたたない内に、熊楠は紀州の野中王子及び近露(ちかつゆ)春日社の老大杉の保存協力を白井に依頼し、白井はそれを受けて和歌山県知事宛で請願書を提出したが無視されている(因みに、この時、熊楠は事態の不首尾に責任を感じ、長男熊弥ともども剃髪している)。また、その後、熊楠は神社合祀令の不当さを海外の学者に訴えようとしたことに対して、白井はそれは日本の恥曝しと見做して、熊楠に絶交状を送っている(柳田の仲裁で納まり、二人は白井が亡くなるまで文通が続いた。以上は所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九三年講談社刊)に拠った)。

「余の羽織の家紋、丸に釘貫なる」「南方熊楠顕彰会のブログ」のこちらで、当該紋のイラストが見られる。所持する「南方熊楠アルバム」(一九九〇年八坂書房刊)の巻頭に配された昭和四(一九二九)年五月二十四日撮影の紋付姿の肖像写真で、三分の一が隠れているが、確かにこの家紋であることが確認できる。

「續群書類從」以下、孰れの巻もネット上では視認不能。

「三好系圖に、小笠原阿波守長隆の時」鎌倉末期か後期の武将と思われる小笠原長隆(生没年未詳)は、三好義長(?~至徳三/元中三(一三八六)年:後の南北朝期の武将)を養子としている。義長の父は足利尊氏の功臣小笠原貞宗の孫小笠原長興。外祖父の養子となり、阿波三好郡(現在の徳島県の西最奥部一帯。当該ウィキの地図を確認されたい)に住んで、「三好氏」を称したとある。ここに出る「小笠原義長」が彼であろう。

「三好の家紋、松皮釘貫」サイト「戦国大名研究」の「三好氏」を参照されたい。「松皮菱紋」と「釘抜紋」のイラストが挙げられてあるが、この二つを合成した、「松皮菱紋」の下方に複数の「釘抜紋」を配した家紋も存在する。サイト「家紋のいろは」の「三階菱に釘抜」を参照されたい。そこに、『使用家』として『三好』とあり、『代表家』に『戦国大名三好氏』、『使用者』の欄には『三好長慶』とある。

「康平年中」一〇五八年から一〇六五年まで。

「勅源賴義、誅安部貞任同致任時、送年月未能平」「前九年の役」。詳しくは、当該ウィキを見られたい。但し、「新羅三郞義光」以下は「後三年の役」の記載であり、熊楠はちょっと端折り過ぎである。

「新羅三郞義光」頼義の三男源義光(寛徳二(一〇四五)年~大治二(一一二七)年)近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから「新羅三郎」と称した。当該ウィキによれば、『左兵衛尉の時、後三年の役で長兄の義家が清原武衡・家衡に苦戦しているとの知らせを受けると、官奏して東下を乞うたが』、『許されず』、寛治元(一〇八七)年に『官を辞して陸奥国に向かい、義家と共に金沢柵で武衡・家衡と戦った。その戦いの際、武衡が降伏しようとして義光に連絡を入れてきた。そして義光自ら金沢柵内に交渉しに入ろうとしたが』、『義家に止められ、代わりに郎党である藤原季方を使者にやっている。結局は義家が降伏を拒否して戦いは継続、金沢柵は陥落し、武衡・家衡は脱出に失敗して捕縛され、斬首。合戦は終了した』とある。]

2022/09/01

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鏡磨に石榴を用ひし事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。引用の一部の記号を変更した。なお、本標題は「かがみとぎにざくろをもちひしこと」と読んでおく。]

 

     鏡磨に石榴を用ひし事(大正五年六月考古學雜誌第六卷十號)

 

 京傳の骨董集上編上十六に、室町時代鏡磨に石榴を用ひし由云《いふ》た後に、「じやくろなりけりいのちなりけり」「かゞみとぎさ夜の中山けふ越《こえ》て」と守武の句を引いて、斯《かか》れば天文の頃も石榴を用ひたるべしと云ひ、次に鏡磨の古圖を出し、畫風をもて考《かんがふ》るに貞享、元祿の初め頃、畫きたらんと見ゆれど、元祿三年板人倫訓蒙圖彙に、鏡磨には錫《すず》かねのしやりと云《いふ》に水銀を合せて砥《と》の粉《こ》を雜《まぢ》え梅酢にてとぐ也とあれば、當時は石榴は用ひざるべし。古畫に基きて畫けるにや、と有る。其圖は、矢張り、水銀と錫の合せ物を用ひ、梅酢の代りに石榴汁を使ふ所と見ゆ。按ずるに、犬子集(寬永十年成る)九、重賴の句に、「秋は柘榴の實を好む人」、「月程な鏡のくもりときはらひ」、同十、貞德の句に、「鏡によきは白みなりけり」、「ひともじにまぜて出だせるこゝり鮒」とあれば、寬永年中も白み(錫、汞《こう》の合金)を用ひ、同時に梅酢でなく、石榴汁を用ひたらしい。(四月九日)

[やぶちゃん注:「骨董集」岩瀬醒(さむる:戯作者山東京伝の本名)の随筆。大田南畝序。全三巻四冊。文化一一(一八一四)年から翌年にかけて刊行された考証物。江戸の風俗・服飾・器具・飲食等の起源や沿革を考証したもので、図解が多い。寛政改革の出版取締令による手鎖五〇日の刑に処せられて以後、京伝は洒落本の筆を断ち、考証随筆に精力を注いだ。「近世奇跡考」に次ぐものが本書であるが、著者の逝去により、上編のみで未完である(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションでは、「竹馬」の項はここで、図は二つが次にある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像は補正しても、地が焼けていて不満足なので、所持する吉川弘文館随筆大成版のそれをトリミング補正して、以下に示し、電子化する。太字は原本では囲み字。句読点や記号を打った。【 】は二行割注。読みは振れそうなものに限った。一部に濁点を打った。

   *

石榴風呂 鏡磨十六

 

醒睡笑【元和九年[やぶちゃん注:一六二三年。]作、萬治元年[やぶちゃん注:一六五八年。]板。】二之卷に云(いはく)、『いづれもおなじことなるを、つねにたくをば、風呂といひ、たてあけの戶なきを拓榴風呂とは、なんぞいふや。「かゞみいる」とのこゝろなり』、醒に云、『かくいへるは、庾詞(なぞ)なり。「屈み入(いる)」といふを、「鏡鑄(かゞみいる)」といふに、とりなしたるなり。昔は、鏡を磨(とぐ)に石榴(ざくろ)の實の醋(す)を用(もちひ)たるゆゑなり。今は梅の醋をもちゆ。

 七十一番職人盡歌合「かゞみとぎの月」の歌に、

  水かねやざくろのすますかげなれやかゞみと見ゆる月のおもては

繪にも、鏡磨(かゞみとぎ)のかたはらに、石榴をおきたる所を、かけり。此歌合は文安・宝德[やぶちゃん注:一四四四年から一四五二年。室町後期。]のころに、つくりしものといヘば、因(より)きたること、久し。

 守武獨吟千句天文九年[やぶちゃん注:一五四〇年。]吟、慶安五年[やぶちゃん注:一六五二年。]刻、

  前句 じやくろなりけりいのちなりけり

  附句 かゞみとぎさ夜の中山けふこえて

かゝれば、天文の比(ころ)も、石榴を用たるべし。是等をもて、案(あんずる)に、今、江戸の錢湯に「石榴口(ざくろぐち)」といふ名目(みやうもく)あるは、「石榴風呂(ざくろぶろ)」のなごりなるべし。然(しかれば)、則(すなはち)、「石榴口」は「石榴風呂」より出たる名目にて、「ざくろ風呂」は、鏡磨より出(いで)たる名目なり。かゝるやくなきことも、參考して、よくしるれば、おもしろし。

[やぶちゃん注:「石榴風呂」というのは柘榴口を持った湯屋(ゆうや)のこと。]

 

Kagamitogi1

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

 七十一番(ばん)職人尽(しよくにんづくし)

    鏡磨圖(かゞみとぎのづ)

   文安・宝德は、今、文化十年[やぶちゃん注:一八一三年。]より、およそ三百六十余年の昔なり。

である。]

 

Kagamitogi2

 

[やぶちゃん注:キャプションは(《 》は私の推定読み)、

鏡磨(かゞみとぎの)古圖

 画風をもて考(かんがふ)るに、此繪は貞享・元禄のはじめのころ、ゑはきたらんと見ゆれど、元禄三年[やぶちゃん注:一六九〇年。]板人倫訓蒙啚彙に、『鏡磨(かゞみとぐ)には、「すゞかねのしやり」といふに水銀(みづがね)を合(あはせ)て、「砥(と)の粉(こ)」をまじへ、梅酢にてとぐ也。』とあれば、當時(そのころ)は、石榴は用《もちひ》ざるべし。古画にもとづきてかけるにや。

である。]

 

Kagamitogi3

 

[やぶちゃん注:同前で、

因(ちなみ)に云(いふ)、「鶴岡職人尽歌合」、「かゞみ磨の恋の歌」に、

〽露ふかきかたばみ草(くさ)をたもとにてしばりかくればおもかげもなし

  かゝれば、昔、酢醬草(かたばみぐさ)の酢をもちひて、かゞみを磨(とぎ)たることもありしならん。

とあり、さらに、下方の柘榴の実の右に、

ざくろ

とあって、左下方に、絵師の、

 蘭斎縮冩

という署名がある。「酢醬草(かたばみぐさ)」はカタバミ目カタバミ科カタバミ属カタバミ Oxalis corniculata のこと。当該ウィキによれば、『葉や茎は、シュウ酸水素ナトリウムなどの水溶性シュウ酸塩を含んでいるため、咬むと酸っぱい。シュウ酸は英語で oxalic acid というが』、同物質が初めて『カタバミ属』 Oxalis 『の葉から単離されたことに由来する。また、葉にはクエン酸、酒石酸も含まれる』とある。

「犬子集」(ゑのこしふ(えのこしゅう))は江戸初期の俳諧集。全十七巻五冊。京の俳人松江重頼(しげよし)の編になる。寛永一〇(一六三三)年刊。「守武千句」・「犬筑波集」以後の発句・付句の秀作集。

「汞」水銀のこと。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 大三輪神社に神殿無りしと云ふ事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。引用の一部の記号を変更した。]

 

     大三輪神社に神殿無りしと云ふ事

                  (大正五年二月考古學雜誌第六卷第六號)

 考古學雜誌第六卷第五號「本邦上古の戰鬪」二六八頁に、大類博士は、本邦古俗、神を森林に祀りし事を述べ、其著しき例として、大和の大三輪神社が神殿を有せざりし由を擧げらる。此事は、先年和歌山縣選出代議士中村啓次郞氏の衆議院に於る「神社合祀」に關する演說にも述られ、又、明治四十五年三月の「扶桑」誌其他に白井光太郞博士も述られ、信濃諏訪社、又、熊野地方の諸社に森、乃《すなは》ち、神社で、別に神殿を有せざりし者、多く、Mannhardt, ‘Der Baumkultus der Germanen und ihre Nachbarstamme,1875, passimGubernatis, La Mythologie des Plantes,1878, tom.i, p.71 seqq. et p.272 seqq.Dennett, At the Back of the Black Man's Mind,1906, p.246Leonard, The Lower Niger and its Tribes,p.288 等に載たる多くの例より推すも、本邦上世の風俗、まことに、かくありしものと知らる。但し、大三輪神社が創立より、徹頭徹尾、神殿なかりしというは、誤見にあらざるか。古事記傳卷二十三、意富美和之大神前《オホミワノオホカミノミマヘ》の傳の註に、『扨、此御社、今の世には御殿《みあらか》はなくして、たゞ山に向ひて拜み奉るは、いかなる故にか有む。古えは御殿有つと見えて、卽ち、書紀、此御代(崇神天皇)の八年の大御歌にも、「みわのとのゝあさとにもおしひらかねみわのとのとを」と詠み給ひ、開神宮《かみのみやの》門《みかど》云々」抔も見ゆ。又、日本紀略に、長保二年七月十三日、奉幣二十一社、依大神社寶殿鳴動也。有辭別と見え、童蒙抄に、三輪明神の社に詣りて此女に逢ふべき由を祈り申す程に、其社の御戶を押開き見え玉ふ、抔も見えたり。』と宣長は、いへり。(一月十日)

[やぶちゃん注:「大正五年」一九一六年。

「大類博士」西洋史学者で東北帝国大学教授大類伸(おおるいのぶる 明治一七(一八八四)年~昭和五〇(一九七五)年)。博士号は大正四(一九一五)年に日本城郭史の研究により東京帝大から授与されている。

「大三輪神社」現在の奈良県桜井市三輪にある現行の正式表記は「大神神社(おおみわじんじゃ)」である。大和国一宮。旧来は「美和乃御諸宮」「大神大物主神社」と呼ばれ、中世以降は「三輪明神」と称された。現行でも後背の三輪山を御神体とする。伝承等については、当該ウィキを参照されたい。

「中村啓次郞」(慶応三 (一八六七)年~昭和一二(一九三七)年)は政治家。和歌山県士族吉川定之進の二男。生れて間もなく、先代宗兵衛の養子となった。明治二三(一八九〇)年、英吉利法律学校を卒業、日清戦争では占領地行政に従事し、遼東半島還付後、台湾に赴任、後に台北弁護士会会長となり、日刊新聞『台湾民報』を創刊、同社重役となり、和歌山県郡部から推されて衆議院議員に立憲民政党から出馬、五回、当選している。熊楠と同じく神社合祀政策に批判的であった。

「明治四十五年」一九一二年。同年は七月三十日に大正に改元。

「白井光太郞」(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)は植物学者・菌類学者。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。熊楠は神社合祀の反対運動のために彼に協力を求め、白井はそれに応じていた。

Mannhardt, ‘Der Baumkultus der Germanen und ihre Nachbarstamme, 1875,」ドイツの神話学者・民俗学者ヴィルヘルム・マンハルト(Wilhelm Mannhardt 一八三一年~一八八〇年)の「ドイツ人とその周辺部族の樹木信仰」。

passim」「各所」の意。

Gubernatis, La Mythologie des Plantes, 1878, tom.i, p.71 seqq. et p.272 seqq.」イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年:著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる)の「植物の神話」。

Dennett, At the Back of the Black Man's Mind, 1906, p.246」二十世紀初頭、現在のコンゴ共和国を拠点として活動したイギリスの商人で、西アフリカの文化についての社会学的・人類学的・民俗学的研究に影響を与えた本を数多く執筆したリチャード・エドワルド・デンネット(Richard Edward Dennett 一八五七年~一九二一年)の「黒人の心の奥で」。

Leonard, The Lower Niger and its Tribes, p.288」アメリカの地質学者アーサー・グレイ・レオナルド(Arthur Gray Leonard 一八六五年~一九三二年)のニジェールの民俗誌「下ニジェール及びその諸民族」。「Internet archive」のこちらで当該箇所が視認出来る。

「古事記傳卷二十三、意富美和之大神前《オホミワノオホカミノミマヘ》の傳の註に、「扨此御社、……」国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここから(昭和五(一九三〇)年日本名著刊行会刊)。

「日本紀略」平安末期に成立した歴史書。「編年紀略」とも呼ぶ。全三十四巻。成立年・著者不詳。神代は「日本書紀」そのままで、神武から光孝までの各天皇は「六国史」の抄略、宇多天皇以後、後一条天皇までは「新国史」や「外記日記」などに基づいて編集されているが、「六国史」の欠逸を補う重要史料とされる。

「長保二年七月十三日、奉幣二十一社、依大神社寶殿鳴動也。有辭別」長保二(一〇〇〇)年七月十三日、二十一社に奉幣す。大神社が寶殿、鳴動せるに依つてなり。辭、別に有り。」。

「童蒙抄」「和歌童蒙抄」。平安後期の歌学書。全十巻。藤原範兼の著。久安元(千百四十五)年頃の成立か。「万葉集」以下の諸歌集の歌を、「日」・「月」などの二十二項の部類に分けて語釈・出典を記し、さらに雑体・「歌の病」・歌合判について述べたもの。]

多滿寸太禮卷第六 片罡主馬之亮敵討之事

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第六巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。作中に出る「今様」の唄は、底本では全体が一字下げのベタであるが、句を概ね分割して、字空けを施して示した。]

 

多滿寸太禮卷第六

   片罡主馬之亮(かたをかしゆめのすけ)敵討之(かたきうちの)事

 建武の末に、菊池肥後守武光は、九州大半、うちとり、關西親王(くわんさいしんわう)を守り奉り、其威、やうやく、西海(さいかい)にかゝやき、武勇をふるひ給ふ。

[やぶちゃん注:「菊池武光」(元応元(一三一九)年?~文中二/応安六(一三七三)年)は肥後国益城郡豊田庄(現在の熊本県熊本市南区城南町)出身の武将。当該ウィキによれば、『柔弱な弟の武士の代理として』興国六/貞和元(一三四五)年に『阿蘇惟澄』(これずみ)『と共に菊池氏の居城深川城を北朝勢力から奪還する。これを契機に一族中で頭角を現』わし、『後に隈府』(わいふ)『城に入って』、『当主の武士を廃し、武光自らが当主となった』(この後、同城は「菊池城」とも称した)。『その後、南朝後醍醐天皇の皇子で征西大将軍』(本文の「關西將軍」と同義)『として九州へ派遣された懐良』(かねよし)『親王を隈部』(くまべ)の『山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努め』、正平六/観応二(一三五一)年には『筑後国に進出して勢力を拡大』、正平八/文和二(一三五三)年二月には『北朝の九州探題・一色範氏と少弐頼尚』(しょうによりひさ/よりなお)『の争いに介入し、筑前針摺原』(はりすりばら)に於いて『一色探題軍を撃破』(「針摺原の戦い」)し、同年七月には『筑前飯盛山にて』、『再び一色軍を破り、続いて』正平九/文和三(一三五四)年からは、『豊後国・肥前国などに進出して大友氏泰を降伏させ、一色範氏を長門国に追放し、九州における南朝勢力の優勢を確立した』。後、『一色範氏は』『九州へ再度』、『侵攻するが、武光は豊前国でこれを』またしても『撃破』し、『ここに至って』、『一色範氏は九州制圧を断念し、京へ帰還』した。正平一三/延文三(一三五八)年一月には父『範氏に代わって探題となった一色直氏が』、『なおも挑んできたが武光はこれも撃退』、同年十一月には、『日向国の畠山直顕をも破って、ついに』彼は『九州の足利氏勢力をほぼ一掃した』とあるから、冒頭の「建武の末」(同元号は南朝方では一三三六年まで、北朝方では一三三八年まで使用した)という謂いは、展開と時代遅れで、完全に齟齬するため、無効である。]

 爰に、武光、寵臣に、片罡主馬亮元忠といふものあり。彼(かれ)が父、片罡和泉守は、畠山基國の家臣にて、武勇剛强の者なり。幼少の比《ころ》、父母にをくれ、姨《をば》なりける人、都(みやこ)、堀川にて養育し、梶井宮(かぢ《ゐのみや》)に給仕して、十三歲の比ほひは、洛中にならぶかたなき美童の聞えありけり。

[やぶちゃん注:「片罡主馬亮元忠」不詳。

「片罡和泉守」不詳。

「畠山基國」(正平七/文和元(一三五二)年~応永一三(一四〇六)年)は守護大名。家系は足利氏一門の畠山氏。彼の「基」の字は初代鎌倉公方足利基氏より偏諱の授与を受けたものとされているが、活動としては基氏の兄義詮から続く足利将軍家に仕えて、室町幕府侍所頭人から第六代管領となり、越前・越中・能登・河内・山城・紀伊守護を歴任した人物である。

「堀川」町名で指すなら、この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「梶井宮」梶井門跡のいた現在の京都市左京区大原にある三千院の古い別称。

「給仕」稚児として務めること。]

 武光、上京の折ふし、宮に昵近(ぢつきん)したてまつり、ひたすらに申請(《まをし》うけ)て本國に歸り、寵愛、なゝめならず。

 年月を送るに、今年、已に十八歲、心だて、情(なさけ)ふかく、歌の道にも心をいれ、諸傍輩(しよはうばい)も馴れしたしみけり。

 或る時、京なる姨、はからずして、此世をさりぬとて、父が系圖、母の書置(《かき》おき)にそへて、今はの形見の文《ふみ》を送る。

「我 久しく此國にありて 既に年月を送る あまりに戀しく『せめては忍びて行きとふらはばや』と思へども 世の亂れに心ならず あはで空(むな)しく別れにし かなしさよ」

とて、泣きかなしみける。せめては、形見の文をみるに、今はの筆(ふで)と見えて、文字(もん《じ》)もさだかに見えわかず。父が卷物、母の筆のあとを見るに、

「父和泉を討ちし母川丹後(も《かは》たんご)と云者 今は名をかへて 播州しかま津(づ)のほとりに軍師をなして 世をわたると聞出《ききいだ》し 女の身ながらも『本望(《ほん》まう)をとげばや』などゝ思ひし事も夢となり 此世を はやうす 哀れ 成人の後 此本望をとげて 草葉の陰の父母にも 手向(《た》むけ)給へ」

とぞ、かゝれける。

[やぶちゃん注:「母川丹後」不詳。

「播州しかま津」「飾磨津」。旧播磨国飾東郡(しきとうのこほり)、現在の兵庫県姫路市の南部の播磨灘に面していた船場川河口左岸にあった港町で、町の東が入江となっている。古くは「万葉集」に見える「思賀麻江」(飾磨江:しかまえ)で、歌枕としても知られる。長保四(一〇〇二)年に花山法皇が書写山(現在の姫路市の円教寺(えんきょうじ))に参詣するため「飾磨津湊」で下船している。鎌倉中期には、一遍が人々の集住する飾磨津で別時念仏を行っている。一帯には、平安末期から鎌倉期まで奈良薬師寺領の飾磨荘、南北朝期頃からは飾万津別符(べっぷ)が存在し、江戸時代は姫路城下の外港として栄えた。江戸時代の飾東郡飾磨津は野田川下流右岸から船場(せんば)川下流左岸にかけての南北に長い地域を占めており、姫路藩主池田輝政はここを要港として重視し、慶長六(一六〇一)年、入江に向島を建設して船役所・船置場を置き、船手(ふなて=水主(かこ))を配置し、城下から飾磨津に通じる運河(三左衛門堀)を開削、この運河沿いに浦手(うらて)六町と岡手(おかて)五町を含む「飾磨津町二十町」と称された町場も形成された。明治期の地図を「今昔マップ」でも示しておく。]

 元忠、おどろき、

「かゝる事とは夢斗《ばかり》もしらで、此とし月を空しく過ごし、無念さよ。しらぬ事とて、是非に及《およば》ず。」

とて、時を移さず、此よし、武光に申《まをす》に、哀れに覺(おぼ)して、

「首尾よく討つて、歸るべし。」

とて、「浪分(なみわけ)」といひて、祕藏しける太刀をあたへ、金(こがね)をあまた給はり、いとまを得て、身ぢかき郞等《らうどう》二人をともなひ、舟に打のり、八十島(やそしま)かけて漕ぎ出づるに、釣舟は多けれど、言傳(ことづて)やらむ方(かた)もなく、鴛鴦《ゑんあう》のまじはりをなせし友も居《をら》ず、猶、ゆくさきは霧こめて、山もみえず、あとの白浪は、風かはるかと、うたがはる。姬島(ひめしま)を過ぎ、硫黃(いわう)のわたり、上(かみ)の關(せき)をこへて、おはたけの瀨戶(せと)・たゞのうみ・とものうら・大嶋(おほしま)・むしあけのせと・からゝと・ひゞきの灘(なだ)とて、名所名所は過ぐれども、もの思ふ心に見捨てて、日數(ひかず)へて、室津(むろづ)に至りて、此の邊(へん)の在家(ざいけ)に宿(やど)をもとめて、思ひ思ひの商人(あきうど)に身をやつし、ある時は、山伏・修行者にさまをかへ、近里遠村(きんりゑんそん)に徘徊し、ひそかに尋ねめぐり、其としも、漸々(やうやう)暮なんとす。

[やぶちゃん注:「姬島」現在の大分県北東部の国東半島沖に浮かぶ姫島(ひめしま)。

「硫黃のわたり」不詳。

「上の關」山口県熊毛郡上関町(かみのせきちょう)。

「おはたけの瀨戶」不詳。

「たゞのうみ」広島県南中部の竹原市に属する忠海(ただのうみ)。

「とものうら」広島県福山市鞆町(ともちょう)鞆の鞆の浦

「大嶋」愛媛県今治市に属する大島であろうが、瀬戸内海東行のルートとしては、鞆の浦より西南で順序がおかしい。

「むしあけのせと」岡山県瀬戸内市邑久町(おくちょう)虫明への航路の入り口に当たる、長島(瀬戸内市)と鴻島(備前市)との間の瀬戸。虫明は古くは「韓泊(からどまり)」と呼ばれ、朝鮮使節や西国大名などの寄港地であった。

「からゝと」不詳。但し、前者の旧称「韓泊」との親和性が感じられ、その東北位置に「頭島(かしらじま)」があるので、そこを指すか。

「ひゞきの灘」不詳。響灘では西方に激しくずれるので、おかしい。]

 「室(むろ)の泊り」といへるは、西海の舟着(ふなつき)にて、うかれ女(め)つどふ里なれば、わたる舟路のかぢ枕、色にぞ出るうつりがの、道行人《みちゆくひと》もひたすらに、心をとむる所なり。されば、近里遠鄕より、貴賤となく、入《いり》つどひ、人足(ひとあし)しげき所なれば、片罡も、折々《をりをり》は所の人にうちまぎれて、明暮(あけくれ)、忍び、うかゞひける。

[やぶちゃん注:「室の泊り」「室泊(むろのとまり)」は兵庫県たつの市御津町室津(みつちょうむろつ)にあった万葉の古代から中世に栄えた港で、「五泊(ごはく)」の一つ。]

 たよる木陰のひまよりも、遊女のうたふ棹(さほ)のうた、たれか思ひに吹(ふか)するや、風のまにまに、ほのめくは、むかしを忍ぶありさま也。

 爰に、「うてな」と云《いひ》し遊女は、此里の名高き女なりしが、いつのほどよりか、元忠に馴れそめて、ふかき契りをこめけるが、或とき、うてな、申けるは、

「君(きみ)がありさま、世わたるたつきのいとなみとも、おぼえず。形をかへて世を忍びおはしますは、いかなる故に、かくは、まします。かく斗《ばかり》おもふ我なれば、今は、つゝまず、あかさせ給へ。本より、つたなき流れの身なりとも、心は、などか、男子《なんし》にもおとらん。」

 元忠も、うらなき心を感じて、

「いまは、何をかつゝむべき。我は菊地肥後守が家臣、片罡主馬元忠と云《いふ》者なり。父を母川丹後と云者に討(うた)せ、ケ樣に樣(さま)をかへて、年月、心をつくせども、姿をしらねば、力、なし。殊更、名を改めて、此近隣に居住するよし、『さもあらば、もしもや、此所へも來るよすがも。』と、かやうに、心をつくす。あなかしこ、必しも、人に語り給ふべからず。うらなき心を感じて、かくは語り申也。」

 うてな、

「本(もと)より、さ、承りぬ。只人ならず思ひつるに、案にたがはぬ御物語りにつけて、究竟(くつきやう)の事こそ候へ。當國の住人、志賀鉄山と申《まをし》て、彼(かれ)は赤松の一族なりしが、去(さん)ぬる湊川の一戰に、先をあらそひ、遺恨を結びて、一族をはなれ、此里の向(むかふ)の林に引篭(《ひき》こもり)、隱遁の身となり、住み給ふ。うち物、人にこへ、强力(ごうりき)の勇士にて、賴もしき人にて、所の案内者にて候へば、うちたのませ給はゞ、かの行衞も、しれ申べし。」

と、ねんごろに語れば、元忠、よろこび、急ぎ、わがやに歸り、郞等ども召連(めしつれ)、聲花(はなやか)[やぶちゃん注:二字への読み。]に出立《いでたち》、かの庵(いほり)に詣でゝ、有《あり》し事ども、具(つぶさ)に語り、

「貴僧を、ひとへに、賴み奉る。」

と、禮を、あつふして語れば、入道、うち笑ひ、

「我、子細ありて、久布(ひさしく)[やぶちゃん注:二字への読み。]武門をはなれ、かく、邊土に身をかくし、たれしる者もあらぬに、遙々と國を越《こえ》て、父の敵(かたき)をうたむ事を、たのみ給ふ。誠に、入道を人と思ひて、語らひ給ふこそ、本望なれ。されば、母川丹後と云者、今は、俗名(ぞくみやう)、引き替へ、『自德齊』と名のり、當國に徘徊し、軍師を業(わざ)とし、數(す)十人、召し遣ひ、常に所をも定めず、幸《さひはひ》、此の室津の遊女になれて、折々、通ふと、きく。然れ共、數十人の弟子ども、常に付きそひ、用心すれば、率尓(そつじ)には打ち得じ。何とぞ、かの所にて、智略をめぐらし、打ち課(はた)させ給へ。さもあらば、此庵室(あんしつ)を心がけ、早速、退來(のききた)り給ふべし。追手の事は、某(それがし)にまかせらるべし。」

と、委細に手段(てだて)を云ひふくめてぞ、返しける。

[やぶちゃん注:「志賀鉄山」不詳。

「赤松」鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将で守護大名の赤松則村円心(建治三(一二七七)年~正平五/観応元(一三五〇)年)。当初、建武政権に尽力するも、不当な扱いを受けたために決別、それ以降は足利方につき、延元/建武三年五月二十五日(一三三六年七月四日)に勃発では、尊氏・直義兄弟らの軍に組みし、後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍に勝利した。]

 元忠、

「天の、あたへ。」

と、嬉しく、うてなが方へ立ちこへ、右のあらまし、語り、

「若(もし)、左樣の物は、來らずや。」

と、とへば、

「それこそ。むかふの家に、常に來りて、『にしきゞ』と申《まをす》女郞に、ふかくちぎり、折々、かよふが、若き殿原(とのばら)、すくなき時は、五、三人、或は、十二、三人ともなひて、獨り來ること、なし。かの『にしきゞ』と申は、分(わき)てしたしくさぶらへば、我、手段(てだて)にて、醉ひふさせ、やすやすと討たせ參らせん。」

 則ち、相圖の約速(やくそく)[やぶちゃん注:「速」はママ。]を究めてぞ、歸りける。

 或日、自德齊、若き者、四、五輩、うちつれて、彼(か)の亭に赴き、めんめん、遊女にたはむれ、酒宴、興を、もよほす。

 うてなをはじめ、遊女ども、はからずも、來りあつまり、

「御客の御もてなし、いつよりも、めづらしく、なぐさめ申せと、あるじの仰せにて、みなみな、推參(すいさん)申《まをし》てさふらふ。御ゆるされも候はゞ、一曲を、かなでゝ、御心をも、いさめ候はん。」

と申せば、自德齊、大に悅び、主(あるじ)の情(なさけ)を感じ、をのをの、酒宴を催しける。

 うてな、聞ゆる琴の上手(じやうず)、「今やう」の、めい人成《なり》ければ、

 誰(たれ)となく よせては歸る浪枕

 浮きたる船の跡もなく

 その人とわきてまつらん妻よりも

 たのむ人にはたのまれて

 そのたはれめのうさつらさ

 定めぬ夜々《よよ》の契りだに

 猶 夕暮は身もこがる

 げにはかなしや

 むなしき床(とこ)に明けくれて

 雲 をしはるゝ春風(はるかぜ)に

 ゑみをふくめる花もがな

と、うたひおさめければ、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]感にたへ、酒たけなはにめぐりて、うつゝなきさまにぞ成《なり》にける。

 夜(よ)も更けかば、自德齊をはじめ、其の外の者共、前後もしらず、醉《えひ》ふしたり。うてな、

「時分は、よし。」

と、悅び、

「かく。」

と案内すれば、元忠、二人の郞等、何(いづ)れも出で立ち、武光より給はりし、「浪分の太刀」を帶(は)き、日比祕藏しける「折金(おりかね)」といへる腹卷(はらまき)し、眞先に忍び入《いり》、まづ、君(きみ)たちを忍ばせ、五人の者ども、一々、首(くび)かきおとし、扨、母川が跡先(あとさき)につつ立ち、枕をけかへし、驚かし、

「兼ても聞き及ぶらん、片罡和泉守が一子、主馬亮元忠といふ者なり。正體なき有樣哉《かな》。起きて勝負をせよ。」

と、太刀のむねにて、ふと、腹をしたゝかにうちつけおどろかせば、丹後もさる剛(がう)の者、

「心得たり。」

と、枕に有りける太刀、とつて、ぬきうちにはらへば、妻手(めて)に立つたる郞等が諸足(もろあし)、

「ずん」

と切つて、おとす。

「元忠、是れにあり。」

と、右の肩先より切り付けたるに、太刀は、もとより聞ゆる名劍、左の腰へかけ、二つに、

「さつ」

と切りわけたり。

 やがて、うへにのりかゝり、

「父聖靈(しやうりやう)に手向《たむけ》奉る。」

と、首、うちおとし、兼て用意の、首入(くびいれ)のうつわ物に入《いれ》、やがて、表に走り出《いで》けるが、一人の郞等、いまだ、死もやらず、不便なる事なり。

「是(これ)までつきそふ心ざし、いかに、ほうじざらん。」

と、元忠、又、立かへり、引《ひこ》おこしみれば、郞等、

「きつ」

と、みて、

「我、已(すで)に深手おひ、忽ちに死すべきもの也。我、故に、かひなく、大勢に取り篭められ給はん事の淺ましさよ。とくとく、のかせ給へ。」

と、みづから太刀をくはへて、伏しければ、力、及ばず、主從二人、其の場をのきけるに、松明(たいまつ)、天をこがし、聲々に呼ばはりて、おひかくる。

 

Kataokasyume

 

 漸々(やうやう)と、ある入り江に望み、舟は、なし、橋は、なし、跡は、しきりに追ひかくる。

「是までなり。」

と、最後を究むる所に、一村(ひとむら)の芦陰(あしかげ)より、

「しばし。」

と、呼びかけ、

「急(いそ)ぎ、これよ。」

と、小舟(をぶね[やぶちゃん注:ママ。])さしよせ、此の者共をのせ、入江にそひて押し行く。向ふの藪かげより上れば、鉄山の庵室の外面(そとも)也。

 心靜かに用意して、

「こよひの内に、急ぎ、港に出《いで》、此の曉の舟に乘り、とくとく、歸國有るべし。又の便(たより)に、互ひの左右(さう)を語るべし。」

と、

「追手(おひて)の者は、我に、まかさるべし。」

とて、別れぬ。

 透間もなく、追手の者共、數十人、蒐(か)け來り、

「此入江に船も、なし。汐(しほ)みちて深し。向ふにこすべき便りも、なし。いかさまにも、此芦原にかくるゝと覺《おぼゆ》るぞ。」

とて、草を分けてさがしける。

 鉄山、弓手(ゆんで)に網をもち、芦間より顯はれ出で、

「何事にや、方々(かたがた)は、かく、夜更けて、いかに。」

といへば、追手の者ども、有《あり》つる次第を語るに、

「我、霄(よひ)より、此の入江に魚取(すなどり)し、心をすましゐたるに、更に左樣の者、來らず。むかふの山道、心元なし、尋ね給へ。」

と、敎ゆれば、

「實(げに)も。貴樣、霄よりおはしませば、しらせたまはぬ事、あらじ。扨は、山道へや、落ち行きけむ。」

と、各《おのおの》、取つて返し、おめきて、さりぬ。

 入道、一旦の計略にて、多くの者を返し、しらぬよしして、庵(いほ)に歸りぬ。

 主馬は、思ひのまゝに本望をとげて、二度(《ふた》たび)、國にかへり、武光に、

「かく。」

と申ければ、大きに悅び、大庄(たいしやう)、あまた給はれば、

「我、かく、本望をとげしも、ひとへに、『うてな』が情(なさけ)。又は、鉄山のうしろみ。旁(かたがた、恩をも報ぜばや。」

と、二度(《ふた》たび)室津に至り、鉄山に對面し、淚をながし、

「君が情(なさけ)により、あやうきを、まぬかる。年來(としごろ)の本意(ほんい)を達つす。當國は、おだやかならず。何がしが領内に、心靜かに世を送らせ給はゞ、此上の御恩たるべし。」

と、さまざまに、いざなひ、則ち、金銀財寶に、うてなをこふて、古鄕(ふるさと)へ具して、家門、ながく繁榮しけるとぞ。

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