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2022/09/30

西原未達「新御伽婢子」 明忍傳 / 「新御伽婢子」本文~了

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注を文中及び段落末に挟んだ。]

 

     明忍傳(みやうにんでん)

 都の西槇尾山(まきの《をさん》)といへる律院は、往昔(そのかみ)、弘法大師の開基とかや。昔は、高雄の別院にて、眞言宗成《なり》し。

 何(いつ)の比《ころ》にや、明忍律師といへる、たつとき僧の、絕《たえ》て久しき律宗を、とり行初(《おこなひ》はじめ)給ひける。此律師は、もと、世の帝に仕へ給ひし公卿の麁子(そし)にて、幼少より、才、人にすぐれ、知、又、自《おのづから》高し。心德、ならびなく、「三重韻(《さんぢゆう》いん)」など、能(よく)誦空(そらん[やぶちゃん注:二字への読み。])じ給ひけるとぞ。兄(このかみ)なる人、父の家を繼(つい)で、上《かみ》につかへ給ふに、世、難有(ありがた)けるを見て[やぶちゃん注:ここの主語は出家前の明忍である。後注参照。]、世俗を、いとふ心、深く、終《つひ》に、家を出《いで》て、高雄の眞海僧正は、親(したし)き伯父(をぢ)にて、をわしければ[やぶちゃん注:ママ。]、常に、したしみ、よられける。

 眞海、彼是(かれこれ)、四人、上(かみ)に訴へ、御ゆるしをかうふり、此宗をひろめ、今に盛に世に行はるゝ。

 律師、又、惠心信德(ゑしんしんとく)の「往生要集」を、ひらいて、西方淨土に生《しやう》ぜん事を、願ひ給ふ。

 或時、たまたま、

「高麗(こま)に、わたり給はん。」

とて、對馬(つしま)に至り給へるに、人、普(あまねく)、律宗の妙なる事を不ㇾ知(しらざり)けるにや、供養する人、なく、つねの烟(けふり)も、たえだえなれば、荒布(あらめ)といへる、あやしの物を聞《きこ》し召《めし》て、泄瀉(せつしや)といふ病《やまひ》をうけ給ふ。

[やぶちゃん注:本篇は以下の通り、実在した僧の伝記風の来迎奇譚の一篇で、特異点である。

「明忍」(天正四(一五七六)年~慶長一五(一六一〇)年)は、江戸初期に廃れていた律を復興した真言僧。京都出身で、俗姓は中原。高雄山神護寺の晋海(しんかい)の下で密教を学び、二十一歳で出家した。西大寺の友尊らとともに、高山寺で自誓(じせい)受戒(戒師がいない場合に仏前で自ら誓って「大乗戒」を受けることを言う)した。また、槇尾山平等心王院(まきのおさんびょうどうしんおういん:現在の真言宗大覚寺派の槇尾山西明寺(まきのおざんさいみょうじ:グーグル・マップ・データ)。平安時代の天長年間(八二四年~八三四年)に空海の弟子智泉が神護寺別院として創建したと伝わり、鎌倉時代の正応三(一二九〇)年に神護寺から独立した。その際、後宇多天皇から「平等心王院」の寺号を受けた)を復興し、そこに住した。慶長一二(一六〇七)年に教えを求め、当時の明に渡ろうとしたが、対馬で病いとなり、他界した。思想的には「律」と「真言宗」の思想を統合した立場をとっており、その思想的流れが、現在の真言律宗となっている(概ね、小学館「日本大百科全書」の主文に拠った)。なお、PDFで読める伊藤宏見氏の論考「対馬海岸寺明忍資料考及び墓塔訪問」もお薦めである。また、「真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺」公式サイト内にある「元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』(解題・凡例)」にも詳しい。

「麁子(そし)」嫡男でないことを言っている。

「三重韻」韻書の内で、室町中期(十五世紀後半)以降に流行した、入声(にっしょう)を除く三つの声調を、上下三段に重ねた「三重韻」と呼ばれる形式を指す。

「兄(このかみ)なる人」これは、「彼の兄」である中原康政のこと。どのような事かは不明であるが、先の伊藤氏の論考に、『二十四才の時、兄康政におもわしくないことがおこり』、弟の彼は出家してしまった、とある。ここは、そのことを、かく挿入してあるのである。

「眞海僧正」前注の通り、「晉海僧正」が正しい。但し、彼が明忍の伯父であったかどうかは確認出来なかった。

「高麗」とあるが、事実は、大陸の当時の明(みん)である。

「荒布(あらめ)」不等毛植物門褐藻綱コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis 。私の「大和本草卷之八 草之四 海藻類 始動 / 海帶 (アラメ)」を参照されたい。

「泄瀉(せつしや)」激しい下痢症状。何らかの消化器系の重篤な疾患を患っていたか。]

 

Myouninnden

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 其病中(びやう《ちゆう》)、猶、念仏の勤行、怠《おこたり》給はず、正しく終り給へるとき、紫雲(しうん)揚々(やうやう)とたなびきて、前なる藪の茂みに、覆《おほ》ひかゝりけるが、偏(ひとへ)に、紫の絹を引《ひき》はへたるがごとし[やぶちゃん注:ママ。「はへたる」は「映えたる」であろう。]。

 對馬の屋かたよりは、程遠《ほどとほ》けれども、失火(しつくわ)のごとくみえしに、人々、馬をはせて、爰に來(く)る。

 此奇異を拜(をがみ)て、甚(はなはだ)、たつとびあへり。

 此《この》終り給へる時、一尺余(よ)の、木の太皷(たいこ)の撥(ばち)やうの物にて、疊をたゝき、臥(ふせ)ながら、念仏し給ひけるに、聖衆(しやうじゆ)の來迎(らいがう)を現(げん)に拜(をがみ)給ひ、淨人に仰《おほせ》て、

「其有樣を記(き)せよ。」

と、の給へ共《ども》、此僧、筆に堪《たえ》ざるにや、書《かき》煩(わづら)ひければ、自(みづから)、筆、取《とり》て、

「此苦は、暫(しばらく)の程《ほど》。あの聖衆の紫雲(しうん)、淸凉雲(せいりやううん)の中《なか》に、若(もし)、まじはりたらば、いかほどの喜悅ぞや。繪に書《かき》たるは、万分(まんぶん)が一《いち》、八功德(《はつ》くどく)の池《いけ》には、七寶《しつぱう》の蓮花、樹林には、瑠璃(るり)の枝葉(し《えふ》)等《など》也。」

と、書《かき》さして、終(をはり)給ひしとかや。

 有がたき事共也。

 其後、此記、おなじく持《もち》給へる「ばち」、淨人、槇尾(まきのを)に持來《もちきた》り、臨終のありさま、語りけるに、又、人、奇異の思ひをなしけり。

 今に此寺の㚑寶(れいはう)として、目下(まのあたり)、拜みける。

 慶長十五の比《ころ》とかや。

[やぶちゃん注:「八功德(《はつ》くどく)の池」「八功德池」(はっくどくち)は極楽浄土にあるといわれている、八功徳の水をたたえた七宝より成る池。

 以下の評言部は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 唐(もろこし)、霊芝元昭律師(れいしげんせうりつし)の、

「生《いき》ては、毘尼(びに)をひろめ、死《しし》ては、安養(あんやう)に生《しやう》ずる。」

と宣ひけるが、うたがふらくは、明忍は、其さいたんなるか。

[やぶちゃん注:「霊芝元昭律師」北宋の僧元照(がんじょう)律師(大智律師 一〇四八年~一一一六年)。南山律学(なんざんりつがく)の復興者として知られる。参照した「奈良市」公式サイト内の「文化財」の「絹本著色元照律師像」のページによれば、彼の『教学を学んだ入宋僧の俊芿』(しゅんじょう 永万二・仁安元(一一六六)年~嘉禄三(一二二七)年)『が、元照の著した』「四分律行事鈔資持記」『(しぶんりつぎょうじしょうしじき)等の多数の律書や、元照と道宣の絵像などを建暦元』(一二一一)『年に請来したことが契機となって、元照の教学が』、『わが国に伝わり』、『戒律復興に影響を与え』た、とある。

「さいたん」「最端」か。

 以下、奥附。「㒸」は「歲」の異体字。天和三年で、一六八三年。]

 

     

新御伽卷六大尾   江戶神田新草屋町

             西村   半兵衞

            京三條通

  天和參㒸      同 市良右衞門

   九月上旬   八幡町通

             大津屋  庄兵衞

西原未達「新御伽婢子」 魂逥ㇾ家

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注を文中及び段落末に挟んだ。]

 

     魂逥ㇾ家(たましひ、いへを、めぐる)

 和刕郡山の邊(ほとり)に、或比丘(びく)の許(みもと)につかふまつる、淨人(じやうにん)あり。

[やぶちゃん注:「淨人」僧職の一つ。寺に住み、出家をしないで、僧たちに仕える者を指す。]

 久敷《ひさしく》給仕しけるほどに、金銀を、たくはへ、所持しければ、自身、

「庵室(あんじつ)をこしらへ、給仕を止(やめ)て居(きよ)を安(やすく)せん。」

と造作(ぞうさく)を始(はじめ)ける。

 其翌日より、心《ここ》ち、常ならず、次第々々に、よわる。

 棟(むね)をあぐる日、人に助け起されて、打見《うちみ》て、よろこびけるが、其日の暮《くれ》に、命(いのち)、終りぬ。

 彼《かの》家に移住(うつりすま)ざるを、本意なく、かなしび、其事のみに、息、絕《たえ》しが、其夜より、彼《かの》ものゝ姿、顯(あらは)れて、彼《かの》庵室に來(く)る事、止(やむ)時、なし。

 或夜、更(ふけて)、比丘の夢に、かの淨人に逢《あひ》て、宣(のたま)ひけるは、

「何とて、かく、淺ましく、かりの世に、心をとゞめて、迷ひ來《きた》る。早く、後世《ごぜ》善所(ぜんしよ)のおもひをなさゞる。」

 淨人の云《いはく》、

「貴僧の御傍(《お》そば)ちかく、久しく侍りて、敎訓を請《こひ》しかば、さほど迄の斷《ことわり》、辨(わきまへ)しり侍れども、多年の勞を積(つみ)、功なり、名とげて、身《み》、退(しりぞき)、心をも、安(やすく)し侍らんと思ひしに、一日さへ、住(すま)ずして、身まかりぬる。殘りおほさえ[やぶちゃん注:ママ。「おほきさへ」の誤刻か。]、こそ、おもひ、やむまじく侍れ。」

と、いふ、と、覺えて、夢、さめぬ。

 汗、雫(しづく)に成《なり》て、人にかたられ侍る。

 此後《こののち》、猶、此かたち、不ㇾ止(やまず)、或時は、もとの姿を顯し、又、或時は、口より、火熖(くわ《えん》)を吹(ふき)けるに、此家、一時(《いち》じ)に燃あがらんとす。

 各《おのおの》寄《より》て打消(《うち》け)しぬ。

 是より、此庵室を、結界せられければ、室内には、いらで、外面(そとも)を、めぐりありきけり。

「とかく、此庵室ある故也。」

とて、他所(たしよ)に、こぼち、移されければ、此後は、庵《いほり》の跡へ來りけるが、ある夕暮、淨人、もとの姿にて、其わたりの人に、見えて、

「此庵は、いづちへ、行《ゆき》しや。」

と、とふ。

「しかじかの所へ、移されし。」

と、いふに、此時、いかれる眼(まなこ)、すさまじく、火熖をふきて、其かたへ行《ゆく》事、風雲(ふううん)のごとく、又、今の庵の所へ行《ゆき》て、暮(くれ)に及(およぶ)より、彼(かの)者、庵を、めぐりけるとぞ。

西原未達「新御伽婢子」 鷄恠

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注を文中及び段落末に挟んだ。]

 

     鷄恠(にはとりのあやしみ)

 若刕(じやくしう)に龜田江右衞門(かめた《がううゑもん》)とかや、いふ人あり。元來、遠州の武臣にて兵術に苦(くるし)み、軍理(ぐんり)に眼(まなこ)をさらしけるほどに、和漢の書に、くはしく、人、敬(うやまひ)て師範とす。

 近昔(さいつごろ)より、病氣、心に不ㇾ任(まかせず)、御暇《おいとま》を申《まをし》、此所《ここ》に住(ぢう)する事、年、久し。

 僕をして野(の)に耕(たがやし)て、渡世とすれば、今は、ひとへに農民のごとし。

 此妻、孕(はらみ)て子を產(うむ)毎《ごと》に、いづくともなく、失せ行《ゆき》、誰(たれ)とりて行《ゆく》とも不ㇾ知(しらず)、五日、三日、若(もし)は、七、八日、其行《ゆく》所を不ㇾ求(もとめず)。

 この故に、一跡(《いつ》せき)を繼(つぐ)べき子もなく、歎(なげき)くらす。

 此妻、又、孕て、十月(とつき)、

「今日や、生れん、あすやは。」

と相待(《あひ》まち)けるが、

「又、此たびも、妖怪《やうくわい》のために取《とら》れなん事よ。」

と、其謀(はかりごと)を、衆義(しゆぎ)評定(ひやうじやう)するに、其比、眞言の奧旨《あうし》にわたり、いと、たうとき法印、修行のため、此国におはしけるを、招(まねひ[やぶちゃん注:ママ。])て、事の樣子をかたるに、此法印、

「哀《あはれ》なる事。」

に覺《おぼ》して、此家(いへに)、滯留(たいるう[やぶちゃん注:ママ。])ましまして、事の恠(あやしみ)をうかゞひ給ふ。

 其翌日、產(さん)の心《ここ》ち付《づき》て、平產(へいざん)す。

 是より、夜毎に、人、五、六人、皆、弓箭(くぜん)を帶(たい)し、とのひ[やぶちゃん注:ママ。]す。

 此上座に、法印、珠數、つまぐり、眞言、唱へ、います[やぶちゃん注:ママ。]。

 既に一七夜(《いち》しちや)に滿(みつ)あかつき、滿座、眠(ねふり)きざじて、不ㇾ忍(しのびず)、まろび臥(ふす)。

 此時、天井より、恠(あやしき)物、ふりて、人々のいたゞきに、とまる、と、寢入る事、まへのごとし。

 法印は、心身堅固に不ㇾ眠(ねふらず)、猶、光明眞言、たからかに唱(となへ)、座し給ふに、年の比、二十斗《ばかり》の女《をんな》、軒の窓より、飛入(とびいる)。

 一身、かろき事、嵐《あらし》にちる雪(ゆきの)ごとく、產所ちかく、うかゞひ、よる。

 

Nihatorinohuttati

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。左の布団を重ねたものに凭れて寝ているのは、出産視した江右衛門の妻である。かくして寝ているのは、出産で体力を消耗していて、横になって寝ると、逆に気道が圧迫されて呼吸が苦しくなるからであろう。私の古い教え子の女子生徒に生来の喘息のため、生れてからずっと、この状態で寝て、「一度も横になって寝たことはありません。」と語ってくれたのを忘れない。]

 

 此時に、呪文を唱へ、珠數を以て、打拂(《うち》はら)ひ給ふに、忽(たちまち)、鷄(にはとり)のかたちを顯(あらは)し、逃去(にげさり)ぬ。

 江右衞門、鷄、飼《かひ》けるに、年々、卵を取《とり》ける。其いきどをり[やぶちゃん注:ママ。]、時を得て、かゝるふしぎを、なしけり。

 法印、加持護念(かぢごねん)し、牛王(ごわう)など、柱に押《おし》給ひてより、此妖恠、出《いで》ず。

 此子、生長して名跡(めうせき)を繼(つぎ)て、今に有《あり》とぞ。

[やぶちゃん注:この、鶏が人に、毎度、卵を食われることを怨み、時に人型を呈する妖怪と化すという話であるが、これに酷似した話を所持する本で読んだことがあった。一九八一年社会思想社刊の今野園輔氏の「日本怪談集 妖怪篇」(氏の同「幽霊篇」(昭和四四(一八六九)年刊)は私の怪奇談蒐集のきっかけとなった名著である)の「付(一) 妖怪外伝」中の一節である(二八八ページ)。引用させて戴く。

   《引用開始》

 『遠野物語』には猿のフッタチの話が出ている。フッタチとは老いて霊力を身につけたモノである。雌鶏のフッタチが家人に祟(たた)ったというつぎのような話は国学院大学の説話研究会が採集した岩手県下閉伊郡安家村[やぶちゃん注:「あっかむら」と読む。現在は下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)安家(グーグル・マップ・データ)。遠野の北約五十キロ。]の報告に紹介されている。年をとった鶏はフッタチになって化けるそうだ。[やぶちゃん注:以下の一行空けは原本のママ。]

 

 昔ある家に相当な雌鶏のフッタチがあった。その家にはいくら子供が生まれても不思議と育たなかった。ところで三人の子供のいる家にある日、六部様が泊って夢を見た。山姥(やまんば)みたいなモノが子供に椎餅を食わせるところだったが、その晩に三人の子供は三人とも死んでしまった。家の人びとは驚いて六部様に八卦(はっけ)を頼んだ。その六部様のうらないにはフッタチになった雌鶏が出て、

 「いくら卵を生んでも人間がとって喰ってしまうので子供が育たない。だから私もその恨みに人間の子供を殺してしまうのだ」といった。(国学院大学脱話研究会『芸能』三―七)

   《引用終了》

恐らく、西村も、この「雌鶏の経立(ふったち)」の話を誰かから、聴いて、本篇の素材としたものと思われる。卵を産むのだから、怨むのは雌鶏である。しかし、挿絵にたまさか出現している実体の鶏は雄鶏であるのは、絵に勢いが欲しかったからであろう。「遠野物語」の「経立」(岩手県・青森県に伝承される妖怪・魔物。複数の生物(私は動物しか知らない)が想像を絶する年月を生きた結果として変化(へんげ)となった(年「経」(へ)て変じて「立」(た)つの意であろう。或いは「立」は「達」のニュアンスもあるかも知れない)もので、青森県では「ヘェサン」とも呼ぶ)は、私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三六~四二 狼』、及び、『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 四四~四九 猿の怪』を読まれたい。前者には、所持する千葉幹夫氏の「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」第八巻所収)からの引用もあるので、是非、参照されたい。]

西原未達「新御伽婢子」 蛇身往生

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注を文中及び段落末に挟んだ。]

 

     蛇身往生(《じや》しんわうじやう)

 江戶品川とかやいふ町はづれの或人の妻、久しく、いたはり居(ゐ)ける。

 此女、若かりし時は、美女のほまれ高く、世の人、爲ㇾ之(これがために)、心を盡(つく)し、身をくだく、たぐひを、はかるを、此男に、えにしをむすびて、離山(りざん)の私言(さゝめ)を、「我ためにや。」と疑ひ、甘泉(かんせん)のむつびを、掌(たなごゝろ)にとりて、年月、契りけるに、いつしか、いたう、いたはりにやつれ、日々に容㒵(ようばう)を失ひ、時々に、艶色(《えん》しよく)、衰行《おとろへゆく》。

[やぶちゃん注:「離山の私言(さゝめ)」「さゝめ」は「さゞめ」でもよい。「ささめごと」の略で、内緒話の意だが、特に男女間の恋の語らいを指すことが多い。さて、「離山」であるが、これ、私は不詳だが、思うに、男女の情事を言う「雲雨巫山」の「巫山」の誤りではないか? 「巫山」は現在の四川省巫山県にある山で、戦国時代の楚の懐王が、昼寝の夢の中で巫山の神女と情を交わしたが、別れに及んで神女は「私は、朝には朝雲となり、暮れには行雨となりましょう。」と約したという知られた故事によるものである。「文選」巻十九に載る宋玉の「高唐賦」見える故事である。

「甘泉」白居易の新楽府の一首「李夫人」の一句「甘泉殿里令寫眞」(甘泉殿里 眞を寫(うつ)さしむ)に基づく。漢の武帝と、「反魂香」や「傾城傾国の美女」の元となった寵愛された側室の李夫人を扱ったもので、「長恨歌」の前に作られ、その淵源となった作品である。同詩篇の全体はこちらがよい。]

 今は、賴なく、朝露(あしたのつゆ)の消《きゆ》るを待《まち》、夕(ゆふべ)の月の入(いり)なん命(いのち)みるめさへ、心ぼそき比《ころ》、女《をんな》、苦しげなる息の下に、夫《をつと》に向(むかひ)、いふ、

「年比《としごろ》日ごろ、馴染(なじみ)侍るほど、さりとも、定(さだめ)なき命を持てる身なれば、ひとりは、先に死し、ひとりは、家にとゞまるならひなれば、一方(《ひと》かた)の空しき時、必(かならず)、同じ黃泉(よみぢ)に友《とも》なはんと、いひかはせし事、枕の度(たび)ごと也《なり》し。今、既に、我が身、此世を早(はや)うせんとす。など、おなじみちの用意なんどし給はぬ事の、うたてさよ。」

と、打恨(《うち》うらみ)ていふ。

 男も、此女の、むべに健(すくやか)なる時こそ、をもはぬ[やぶちゃん注:ママ。]事まで戯(たはむれ)けめ、いつしか、年も老《おい》の始(はじめ)に傾(かたぶき)たるに、月日、經(へ)て、いたはりたれば、昔、見し妹(いも)が垣(かき)ねにもあらず、やつれたれば、打《うち》つけなる物いひさへ、惡(にく)かりけるにぞ、そらうそぶきて、聞(きか)ぬふりに、もてなす。

 女は、猶、たゆべくもなく、面(おもて)、血ばしりて、そゞろごと、するごとし。

[やぶちゃん注:「そゞろごと」「漫ろ言」。「何ということもなく言う言葉」の意で、それが総て恨み言であることを言う。]

 男、をそろしく[やぶちゃん注:ママ。]、病家を出《いで》て、外樣(とざま)に、やすらふ。

 此後にこそ、女房、誠に狂氣して、

「うらめしの夫や。腹立(はらだち)の心ざまや。かう、いひし物を、何《なん》と、契し物を。」

と、年月のねやのむつ言を、くり出《いだ》して、言(いひ)のゝしるに、親(したし)き者ども、耳を覆(おほふ)て去り、召つかふ者にも、つかみつけば、枕によらず、猶、心に任(まか)せ、聲を立《たつ》る。淺ましとも、いはんかたなし。

 爲方(せんかた)なくて、一門、談(だん)じ合せていふ、

「迚(とても)此者、ながく生(いく)べき命ならず。片時も置《おい》て苦痛を增(まし)、身の愧(はぢ)をかさねん事、よしなし。しめ殺して、菩提を、こまやかに弔(とふ)迄よ。」

と、しめし合せて、七、八人、立《たち》より、

「玉の緖の、絕《たえ》なば、たえね。」

と、理不盡に、いため、ころしぬ。

 いとゞ、女のなよやかなるに、久しき病に、影もなくやせたれば、たまりあへず、死《しに》けり。

 各《おのおの》、手にかけたる哀《あはれ》さに、㒵(かほ)を見合せて、袖をしぼり、外《そと》にありし夫を、呼(よび)かヘす。

 男、歸り、其事となく、物いひけると、ひとしく、死せる女、

「がば」

と起(おき)て、

「嬉しや、珍しや、今はの限(かぎり)を知(しり)て、我妻の聲の聞ゆるよ。」

と這《はひ》まはりて、猛(たけり)かゝる。

[やぶちゃん注:「妻」「夫」の意。]

 人々、驚《おどろき》、又、寄(より)て、しめころせども、一身、金剛のごとく、堅固なれば、盤石(ばんじやく)を持《も》て、うつ共《とも》、くだけず。

 干將《かんしやう》・鏌鎁(ばくや)が釼(つるぎ)とても、切《きり》くだく事、不ㇾ可ㇾ叶(かなふべからず)。

[やぶちゃん注:「干將・鏌鎁が釼」「鏌鋣」は「莫耶」とも表記し、中国の伝説上の名剣、若しくは、その剣の製作者である夫婦の名。剣については、呉王の命で、雌雄二振りの宝剣を作り、干将に陽剣(雄剣)、莫耶に陰剣(雌剣)と名付けたとされる。この陰陽は陰陽説に基づくものであるため、善悪ではない。また、干将は亀裂の模様(龜文)、莫耶は水の波の模様(漫理)が剣に浮かんでいたとされる(「呉越春秋」に拠る)。なお、この剣は作成経緯から、鋳造によって作成された剣で、人の干将・莫耶については、干将は呉の人物であり、欧冶子(おうやし)と同門であったとされる(同じく「呉越春秋」に拠る)。この夫婦及びその間に出来た子(名は赤、若しくは、眉間尺(みけんじゃく))と、この剣の逸話については、「呉越春秋」の呉王「闔閭(こうりょ)内伝」や「捜神記」などに登場しているが、話柄内の内容は差異が大きい。近代、魯迅がこの逸話を基に「眉間尺」(後に「鋳剣」と改題)を著わしている。なお、莫耶、莫邪の表記については、「呉越春秋」では「莫耶」、「捜神記」では「莫邪」となっているが、本邦の作品では、孰れも莫耶と表記することが多い。以上はウィキの「干将・莫耶」に拠ったが、より詳しい話柄は、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)』と、『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その2)』を見られたい。]

 去(され)ども、腰のぬけたるにて、立《たち》あがる事の叶はぬぞ、取所《とりどころ》なる。

 身の皮、鱗立(うろこ《だち》)て、木に、えりたる蛇(じや)のごとし。髮、空(そら)ざまにのぼりて、村《むら》だつ芦(あし)のごとし。口ばしる事、前に十倍せり。

[やぶちゃん注:「えりたる」「彫(え)りたる」。]

 此時、傳通院(でんづう《ゐん》)の老和尚を招きける。

[やぶちゃん注:「傳通院」現在の東京都文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗無量山伝通院寿経寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。増上寺・上野の寛永寺と並んで、「江戸の三霊山」と称された。詳しくは当該ウィキを参照されたい。]

 其比、伊勢天念寺懷山和尚(くわいざん《おしやう》)、關山(かんとう)に下向ましませしかば、相伴(《あひ》とも)に、此家に來り給ひ、敎化(きやうげ)し給ふ。

[やぶちゃん注:「天念寺」三重県津市寿町(ことぶきちょう)にある浄土宗地島山天然寺、或いは、同寺と関係の深い三重県津市久居寺町(ひさいてらまち)にある浄土宗見上山光月院天然寺か。少なくとも、伊勢に「天念寺」は現在は、ない。]

 法衣(ほうい)、たとく引《ひき》つくろひ、水晶の珠數、かた手に柄香炉(《え》がうろ)をたづさへ、かしこき香を燒(たき)て、心をおさめ、身を靜(しづか)に、弥陀の宝号(ほうごう)、しめやかに、ずして、病人の、いかれる前に、座し給ふ。

[やぶちゃん注:挿絵(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像の方がよい)で判る通り、香炉に柄がつけられており、持ち運べるようにしたものを指す。サイト「道具学」の「柄香炉」に三種の画像があり、『僧侶が法会の際に携行して香を献じるための仏具(僧具)の一種である』とある。]

 

Jyasinoujyou

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 余(よ)の人、行《ゆき》見れ共、つかみつかれて、命斗《ばかり》を、漸(やうやう)、我が物にして逃(にげ)歸るに、此和尚、目前(もくぜん)に座し給ふに、其勢(いきほひ)の衰《おとろひ》けるこそ、

「先《まづ》、仏力(ぶつりき)の妙(めう)也。」

と、いひあへり。

 時に、此女、老僧を、暫(しばし)、守《まぼ》り、

「我僧(わそう)は、何の用ありて、爰に來《きた》るや。」

と。

「汝、人間に生れて、則身(そくしん)、蛇(じや)のかたちを得。蛇は、人の家に住(すむ)事、あたはず。冷池(れいち)なくんば、あるべからず。此池を、もてるや。若(もし)なくば、我に、いみじき池あり。汝に、あたへんため、爰に來《き》ぬ。」

と。

 女、聞《きき》て、

「賢(かしこく)も、敎《おしへ》給ふ物かな。誠に、我が形、蛇に成《なり》たる事、爰(こゝに)知(しん)ぬ。一身、置所(おき《どころ》)なく、もえこがるゝぞや。其冷池は、いづこに侍る。」

と。

「西方《さいはう》にあり。名を『八功德池(《はつ》くどくち)』といふ。」

[やぶちゃん注:「八功德池」現代仮名遣「はっくどくち」。

極楽浄土にあるといわれている、八功徳の水をたたえた七宝より成る池。]

 女、又、

「そこにゆかんにも、我(わが)夫(をつと)をゐて(ゆか)ねば、よしなし。」

 僧、答《こたへ》て、

「暫(しばらく)、先《さき》に行《ゆき》て待(ま)て。夫をも、ゆかしめん。必《かならず》、たがふべからず。」

 女、聞《きき》て、

「扨《さて》、いかがして、行《ゆく》所ぞ。」

と。

「精進に念仏すれば、たち所に此池を得る也。此所《ここ》の有さま、」

と、ありて、

「かくありて。」

と、淨土の莊嚴の、をごそか[やぶちゃん注:ママ。]なるさま、独(ひとり)來《き》て、独《ひとり》行《ゆく》のことはり[やぶちゃん注:ママ。]、冨樓那(ふるな)の弁(べん)を、かつて、一時斗《ばかり》、説(とき)聞《きか》せ給ふほどに、信心歡喜(しんじんかんぎ)して、いつぞの程に、空ざまなる髮も、やはらぎ、楊柳(やうりう)の風にあへる氣色(けしき)し、鱗(うろこ)だちたる身の有さまも、滑(なめらか)に、端嚴(たんごん)の肌(はだへ)となり、ほつろていきうして、暫(しばし)、袂をしぼり、和尚を礼して云《いはく》、

「淺ましき道に踏まよひ侍りて、永く、黑闇(こくあん)のちまたに、さそらへんとせしを、有難き御敎(《おん》をしへ)に、報土(ほうど)の蓮(はちす)をとなつて[やぶちゃん注:ママ。「訪(おとな)つて」の誤りか。]、微妙(みめう)の音樂にあそばん事よ。今は、夫も、親も、いらず。人々、念仏して、我に力(ちから)を添(そへ)給へ。うれしや、たうとや。」

と、いひし後(のち)、余言(よごん)をまじへず、念仏の下《もと》に、往生しぬ。

 いみじき和尚の敎化にてこそ侍れ。

[やぶちゃん注:最終シークエンスの『……此所《このところ》の有さま、」と、ありて、「かくありて。」』の箇所は、どうも自信がない。当初、「此所の有さま」は、女の台詞かと思ったが、そうすると「かくありて」以下がジョイントが頗る悪い。されば、『「されば、その池の様子はのう、……」と、和尚は、まず、前置きして、「このような場所であってのう。……」』の意で分割した。或いは、「此所の有さまかくありて」に衍字で「とありて」が挟まったものかとも思った。大方の御叱責を俟つ。

「冨樓那(ふるな)の弁」釈迦十大弟子の内、「弁舌第一」と称された富楼那のような巧妙な弁舌。すらすらと、よどみなく、喋ることの喩え。

 個人的には、この話、怪奇談としても、僧の教化異譚としても、よく書けていると思う。]

2022/09/29

西原未達「新御伽婢子」 自業自得果

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注を段落末に挟んだ。]

 

      自業自得果(じ《ごふ》じとくくわ)

「端山(はやま)の花は、散(ちり)つくして、都わたり、名殘(なごり)すくなし。こよや、嵯峨の奧に、しれる所あり。」

と、友、ふたり、みたり、袖ひくにうかれ出《いで》て西にまうず。

[やぶちゃん注:「こよや」「來よや」。「一つ、来ないか?」の意であろう。]

 京ばなれより、はるけき埜路(のぢ)を見渡したる、先(まづ)、めづらし。堇(すみれ)・蓮花菜(けゞな)の、しほらしく、金鳳(きんぽう)・春菊(しゆんぎく)の、おもひなく、はびこりて、色をまじへ、秋の錦にも、おさおさ、おとらず。

 爰なん、平安城(みやこ)の外面(そとも)のしるし、藪の茂り、ながくめぐりて、岸根(きしね)さびたる水の色も、君が代、久(ひさ)に、すみわたるらんと、みやるに、賤が手わざの、いぶせく、はぎ、深く水に入《いり》て、根芹(ねぜり)引《ひく》あり、畑(はた)の畔(くろ)には、よめがはぎ、たんぽゝなど、あやしの草を、㚑照(れい《しやう》)にはあらぬ、愚《おろか》の女《め》の、まばらなる籠につみ入《いれ》て、をのがじゝ[やぶちゃん注:ママ。]、さそひたるも、おかし[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「蓮花菜(けゞな)」季節と、和名の「けげな」及び「菜」の字から、私の好きなマメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus である。永く見ていないな、れんげの群れを。

「金鳳」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属ウマノアシガタ Ranunculus japonicus の本邦の異名キンポウゲ(金鳳花)。標準和名のそれは「馬の足形」。根生葉(こんせいよう:地上茎の基部についた葉)の形を馬の蹄に見立てたものと言われる。なお、「金鳳花」は中国名では、フウロソウ目ツリフネソウ科ツリフネソウ属ホウセンカ Impatiens balsamina の異名であるので、注意が必要。

「はぎ、深く水に入《いり》て」「はぎ」は「萩」で、マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza のハギ類であるが、季節柄、花は咲いていない。そもそもハギ類は水辺には生えていない。前に「賤が手わざの、いぶせく」とあれば、如何なる理由かは判らぬ(だから「いぶせく」)が、雑草扱いして、萩の草叢を刈って、水辺に投げ入れてあったものか。そこからパンして、「根芹(ねぜり)引《ひく》あり」と写したのであろう。

「よめがはぎ」キク亜綱キク目キク科キク亜科シオン属ヨメナ Aster yomena の異名。これも前と同じく、季節柄、花は咲いていないので注意。

「㚑照」草花の精霊の霊的な示現。]

 南に瓦の軒(のき)、淋しく見ゆ。あれよ、西院の煙(けふり)立《たち》さらで、つねなき風の、人をおどろかすといふも、心ぼそし。

[やぶちゃん注:「西院」既出既注。非常に古くは葬送地・遺棄地であった。]

 遠く詠(ながむれ)ば、やはたの山も、霞こめて見ゆ。右に延命地藏、まします。爰を「つぼ井」といふ。小田(おだ)かへす男に、故《ゆゑ》をとへば、

「近昔(さいつごろ)、旱魃のため、道端をほりて、水を求《もとむ》るに、ひとつの瑠璃の壷、あつて、此地藏尊、其上に座(ざ)し給ふを得たり。ほり上(あげ)奉るに、其下より、凉水(りやうすい)、湧滿(わきみち)て、其時のみか、今に至りて、雨なきとしは、此井の水を、わかちて、此わたりの田面(たのも)をやしなふ。現(げん)に、人の命(いのち)をのべ給ふ、たうとき[やぶちゃん注:ママ。]本尊にて、まします。」

と語るに、皆、瑞喜す。

[やぶちゃん注:京都府南西部の八幡(やわた)市にある男山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の別名。石清水八幡宮(=男山八幡宮)が鎮座する。

「延命地藏」「つぼ井」現在の中京区西ノ京北壺井町にある壺井地蔵尊。本書刊行時、存命していた江戸初期の医者にして歴史家であった黒川道祐(どうゆう 元和九(一六二三)年~元禄四(一六九一)年)の書いた太秦広隆寺への参詣の道中を記した「太秦村行記」(うずまさむらこうき)によれば、この井戸から地蔵尊像が出たので、「壺井地蔵」と称し安置されたとされる。現在は水は涸れているが、近年まで湧いていたらしい。ブログ「京都のITベンチャーで働く女の写真日記」のこちらが、詳しく、写真も豊富である。由緒を記した説明版も画像で読める。それによれば、この壺井の水は、江戸時代には、罪人の京都市中引き回しの際の、罪人の末期の水とされたとある。以下、知られた京の寺院がいろいろ紹介されるが(作者は京案内をしたくて仕方がないらしい。展開とは無縁な確信犯である)、私は京都を数回しか歩いていない。従ってその観光ガイドをする立場にないし、しかも最後に出現するカタストロフには、それらの注は不要であるからして、以下、寺院・名跡の注は、ちょっと躓いた箇所を除き、原則、しないこととする。悪しからず。

 北に、妙心寺、打《うち》こして、衣笠山、金擱寺(きんかくじ)は、一峯(ほ)のそなたにすこし見ゆ。義滿公の御開基とかやいふ。

 等持寺は、尊氏公の御菩提寺。昔、軍(いくさ)に立《たち》給ひけるに、祈願して、「若(もし)此軍に勝利を得ば、一日に三个寺(《さん》がじ)建立すべし。」と。軍に打かち給ひて、此寺を、日の内に造立せしと。故に寺號に「寺」といふ字を、三つ入《いれ》て書《かき》けるとぞ。

 龍安寺は、細川勝元の興立。

 眞如寺は、高師直(こうのもろなを)、造(つくる)。

 皆、山のみ峙(そばだち)て、寺は麓に木隱(こがくれ)たり。

 其西に、塔婆、高く見ゆる。寬平の帝のかくれすませ給ひし仁和寺御室とをしゆ。去人のいふ、

「此帝《みかど》は、山を東にあてゝ、都のみえぬかたに住(すま)せ給ひし、といふに、東に山なし。」

といふ。

「其事よ、こなたに御室《おむろ》の古御所(ふる《ご》しよ)といふ有《あり》、昔は、爰にましましき。其前を、ほそ川、ながる。『をむろ川』といふ。川ばたに一宇あり。法金剛院也。左は、太秦。往昔《そのかみ》、聖德太子、秦(はだ)の川勝(《かは》かつ)と、君臣、御心《みこころ》を合《あはせ》て、草創有《あり》けるより、太子の「太」の字と「秦」の字を取《とり》て、此所《このところ》の名とす。」

といふ。本尊、藥師にてまします。

 西南に梅津、桂の里、みゆる。

 今、休(やすら)ふ所をとへば、

「安井村。」

といふ。道の右に、「金目(かなめ)の地藏」あり。

 其先を常盤(ときは)といふ。「乙子《おとご》の地藏」といふ。昔、西光法師、六地藏をつくりて、衆生、結緣の步(あゆみ)をはこぶ。六番目なれば、かく號(なづく)とかや。

「時なれば。」

とて、友どち、古歌を謳(うたふ)。

   ときはなる松のみどりも春くれば

    今ひとしほの色まさりけり

 其末(すゑ)、「中埜」といひて、さもしき者のすめる一村あり。「安堵が橋」・「廣澤」「大澤」あり・「八軒」といふ村は、土器(どき/かはらけ)作りのすむ里。

 其行《ゆく》すゑ、淸凉寺釋迦堂(せいりやうじしやか《だう》)なり。

「いひつゞくれば、「道の記」をつゞるやうなり。」

と、笑(わらふ)。

「よしや、かゝる道は化口(あだぐち)隙(ひま)なくて過《すぎ》ぬは、いとゞ遠く覺えて、足、たゆくこそ。猶、こゝら、古跡尋《たづね》て、物《もの》せん。」

と、いひしらふも、くどしや。先《まづ》、本尊の御戶(みと)、開帳しつ。すせうさ[やぶちゃん注:意味不明。識者の御教授を乞う。]、我のみか、道俗、市をなすも、嬉し。此御仏《みほとけ》》のたとき、昔は、いふも更なり、栖霞寺(せいかじ)、左に建(たち)て。彌陀を安置す。右に文珠院虛空藏の像、牛堂《うしだう》、たうとく、ならびます。此庭も、花は半(なかば)ちりて、空にしられぬ雪の庭に氈(せん)しかせ、小竹筒(さゝ《へ》)とりちらして、ひと、ふたと、のみたる慰(なぐさみ)、たとしへなし。友なる人、口《く》どく、俳諧の發句して、又、笑(わらふ)、

   釈尊も花にはゆるせ飮酒戒(《おん》しゆかい)

やゝやすらひて、猶、是より南にはこぶ。

[やぶちゃん注:「栖霞寺」現在の清凉寺本堂の東に建っている阿弥陀堂のこと。ここはもとかの源融(とおる)が嵯峨で営んだ山荘棲霞観で、彼の子どもらが、その意志を継いで源融が嵯峨で営んだ山荘が棲霞寺であり、それは後に清凉寺となったと、こちらにあった。

「文珠院虛空藏の像」清凉寺にある平安時代作の文殊菩薩木像ならば、ある。重要文化財で、こちらに、『元は本堂の本尊釈迦如来立像の脇に安置されていたが、現在は霊宝館に収蔵されている』とある。「虛空藏の像」は不詳。

「牛堂」サイト「京の霊場」の「 京羽二重大全」に載る仏像と現在の所在地の表の中に、「五大堂不動」が前掲書には「嵯峨清凉寺内牛堂」にあったとし、現在地は「清凉寺」とあるので、「牛堂」があったことは判明はした。]

 往生院より伎王兄弟(ぎわうはらから)と、ぢ仏の御影《みえい》を拜む埜々宮(の《のみや》)は、名のみ、ひろくて、せばき森に祠(ほこら)あり。物さびしさぞ、昔、聞《きき》しに増(まさ)り、

「火たきやの、かすかなるさへ、なし。」

と、いへば、

「なしとは、僞《いつはり》よ、爰に、みゆる。」

といふ。

「いづれ。」

と、とへば、茶を煮る姥(うば)が、葭垣(よしがき)、引《ひき》まはし、わら莚(むしろ)の床(とこ)をおしゆるぞ、かはりたる。尻かけて、茶を吞(のめ)ば、「ちろり」といふ物に、酒、うつして、天目、置双(《おき》ならべ)、

「ひとつ、聞(きこ)しめさぬか。」

といふ。

『ひなびたる所、都の外(ほか)に尋(たづね)ずは。』

と、珍し。又、ひとりの友、狂歌して、

   葭垣(よしがき)はしるしの杉もなき物を

    いかにまがへてよれる酒やぞ

[やぶちゃん注:この狂歌は、「この杉の痕跡もない葭垣の陋屋のくせに、どう紛らわしたって、出された酒を、有難く受けて飲めるものではないわいな。」といった謂いか。]

 天龍寺に入る。爰は夢窓の本願、五山のひとつ。靈龜山といふ、是も尊氏卿、大檀那として建立とぞ。

 南に出《いで》て、臨川寺。天龍寺の別院とかや。

 大井川にのぞめば、水上(すいしやう)、幽谷をしたひて、蕩々《たうたう》たり。

[やぶちゃん注:「大井川」大堰川。南丹市八木地区から亀岡市にかけての桂川の別名。]

 筏(いかだ)に乘(じやう)して、喧(かまび)しく漂(たゞよふ)男《をのこ》の、日に、くろみしも、むくつけし。

 橋を南に越《こせ》ば、山田といふ。僧都道照(だう《しやう》)の丹誠の祈(おのり)に、衣の袖に、ふり給ひし、虛空藏の靈場、法輪寺に參りて、先(まづ)、世のならはしに、現當(げんたう)の冨分(ふくぶん)を祈る、我ながら、欲深さよ。

 

Ayu

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 松尾(まつのを)西方寺、まうでんと、猶、南にゆくに、僕のいふ、

「只今、此所を北にまかりし者あり。『松の尾の者。』とて、『小鮎(こあゆ)くむ事の名人。』と、大勢、尻につきて行《ゆく》に、馴(なれ)し所の者さへ、おもしろがれば、いか斗《ばかり》の上手にや。少《すこし》、見給へ。」

といふ。

[やぶちゃん注:「松尾」西芳寺及び嵐山周辺の広域地名。]

「いづち、悤(ぞめく)も、あそびよ。行《ゆき》て見ん。」[やぶちゃん注:「ぞめく」は「浮かれ騒ぐ。」の意。但し、「悤」(音「ソウ」)の字は「あわてる・いそぐ」、「あわただしい・いそがしい」の意。]

と、又、川ばたに歸(かへる)げにも、去《さる》手きゝにて、水中、頸(くび)ぎは迄、波の行《ゆく》所を、疊の上を步(あゆむ)ごとく、いる、やいなや、小鮎、ふた升(ます)斗《ばかり》とりて、猶、網をつかふ。

 いかゞしたりけん、

「あはあは」

と、水に沉(しづみ)て、あがらず。

 去《され》ども、其邊《そのへん》の人、行《ゆき》て引《ひき》上げんともせず。

「毎(いつ)も水中に入《いり》て、半時(はんじ)、一時、心に任せて、あそぶ。かまはずと、見よ。」

といふ程に、

「さもこそ。」

と見居《みをり》て、

「たばこ、茶よ。」

といふほど、漸々(やうやう)、時、移(うつる)に、更に、あからず。

 一人の男、あつて、

「無興(ぶ《きやう》)なり。京人《きやうひと》も見物なるに、何が、水《みな》そこに、用ある。あがれ。」

と、いひて、おり、ひたり、足を持《も》て、底をさぐるに、かの者、ひとつの杭に、かゝりて、死居(しゝゐ)たり。

 引《ひき》あげてみるに、早(はや)、色《いろ》、反(へん)じ、水に醉《ゑひ》て、ふつゝかに肥《こえ》たり。

 去《され》ども、持《もち》たるあみは、手をしめて、放さず。

 心ある人、是を見て、いふ、

「此者、一生すなどりに、れんまし、水練、鵜(う)よりも、やすし。此網を、はなちて、をよぎ[やぶちゃん注:ママ。]たらましかば、なじか、命を失(うしな)はん、殺生の業《ごふ》、つもりて、身を殺せる事、『自業自得果』といふ物なり。」

と、いはれし。

 げにも、左にては有《あり》けれ。

 此哀(あはれ)さに、けふの遊(あそび)の、興、盡(つき)て、尋(たづぬ)べき花だに、見ず。直(すぐ)に家に歸りぬ。

[やぶちゃん注:私はこれは作者の実体験譚と思う。そう考えることによって、これは怪奇談ではなく、カタストロフとして、悲惨を読者に与える。怪奇談集としては、一つの手法として、全篇に及ぼす、ホラー効果は絶大と言えるし、『やらかして呉れたな』と憎くもなるが、個人的には生理的に、やや嫌な感じがする。それは、その事件の語りの前の三分の二の、「新御伽・番外・京都ムック」との筆致の落差が、あまりに大き過ぎるからであり、作者の最後の添え辞も常套的形式的で、その悲哀感が殆んど伝わってこないからである。

西原未達「新御伽婢子」 太神宮擁護

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。標題中の「擁護」(現代仮名遣「おうご」)は仏語で、仏・菩薩などが人の祈願に応じて、守り助けることを言う。

 注を段落末に挟んだ。]

 

新御伽巻六

    太神宮擁護(だいじんぐう《わう》ご)

 天和三のとしの春、江刕水口(みなくち)、去(さる)土民の女房、伊勢に參宮の心、しきり也。二才の子、ひとり、持(もて)りければ、いだきて出《いで》んも、はるばる難義なるべし。殘し置《おか》ば、飢《うゑ》なん。夫(をつと)に問(とひ)たりとも、やわか、ゆるすまじければ、とかく案じけれ共、唯、一向(ひたすら)引《ひつ》たつる斗(ばかり)、詣《まうで》たくおもひければ、今は堪(たへ)しのぶへくもあらず、或曉(あかつき)より、まぎれ出《いで》ぬ。乳(ち)のみ子を捨置(すておき)、亭主にもしらせずして、出《いで》る。

[やぶちゃん注:滋賀県甲賀(こうか)市水口町(みなくちちょう)水口(グーグル・マップ・データ)。

「やわか」ママ。「やはか」が正しい。副詞で下に打消推量表現を伴って、「よもや」「まさか」の意。

「引たつる斗」ここは民俗社会でよく用いられる、「神仏の招く超自然の力に自然に引っ立てられるかのように」のニュアンスであろう。]

 跡にて、此子、なきさけぶ事、暫(しばし)もやまず、おさおさ、母をみしりたる比《ころ》にて、余所(よそ)の乳味(にうみ)は、ふくみもやらず、男、大きにいかり、腹立て、

「かく、いとけなき子を置《おき》て、日かず、ほどふる物詣(ものまふで)、假令(たとへ)ば、己(おのれ)、所願ありて、身のほゐを祈る共、只、独(ひとり)ある小児(こ)を捨(すて)、爭(いかで)、神慮に叶(かなふ)べきや。哀《あはれ》を知らぬ心、畜類になん、をとり[やぶちゃん注:ママ。]たり。」

と惡口(あつこう)を盡(つく)す。

[やぶちゃん注:「ほい」ママ。「本意」であろうからして、「ほい」が正しい。「かねてよりの願い・宿願」の意。]

 一曰(ひとひ)、二日と過行《すぎゆく》内に、此子、次第に瘦枯(やせほそり)て、賴《たより》なく見ゆるに、父、悲しみ、粥(かゆ)・地黃煎(ぢわうせん)なんど、調(とゝのへ)、もだゆれ共《ども》、嬰児(《えい》じ)の、かひなく、弱果(よはりはて)て、四日といふに、むなしく成《なり》ぬ。やらんかたなく、悲しめ共、力なく、土中(ど《ちゆう》)におさめ、一基(《いつ》き)の主(ぬし)となし、淚の雨にかきくれ、打《うち》しほれたる所へ、女房、いせより、下向しけり。

[やぶちゃん注:「地黃煎」根が漢方生剤「知黄」とされるキク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の甘味のある根の粉末を添加して練った本邦の飴。ウィキの「地黄煎」によれば、室町時代には、同類のものが売り出されており、『江戸時代』『にも、飴としての「地黄煎」は製造・販売されており』、元禄五(一六九二)年に『井原西鶴が発表した』「世間胸算用」にも、『夜泣きに効くという趣旨で「摺粉に地黄煎入れて焼かへし」というフレーズで登場する』。元禄八年刊の「本朝食鑑」には、『膠煎(じょうせん)として紹介され、これを俗に「地黄煎」という、としている』。元徳二(一七一二)年刊の「和漢三才図会」に『よれば、膠飴(じょうせん)と餳(あめ)は湿飴』(しるあめ:水飴のこと)『とは異なり、前者は琥珀色、後者は白色であり、煮詰めて練り固めて製造する膠飴』(こうい:漢方名)『のなかでも、切ったもの(切り飴)を「地黄煎」という、と説明している』とある。

「もだゆれ共」夫は嬰児のために「ひどく苦しんで」世話したのであるが、の意であろうが、ちょっと無理のある表現である。]

 夫、更に目もやらず、歎きの床(とこ)に臥(ふし)ながら、女を、のゝしりて、いふ、

「何條(なんでう)、己(おのれ)參宮の心、切ならば、いとけなき者を、負《おひ》ても抱(いだき)ても、つれゆかぬぞ。つれ行《ゆく》事の、くるしくば、詣(まふで)ぬこそ、まさるべけれ。たまたま、ひとりの子をまうけて、朝(あした)の花、夕(ゆふべ)の月と詠《ながめ》し。情(なさけ)なくも、捨(すて)をきて[やぶちゃん注:ママ。]、あへなく、むなしく、消(きえ)しぞや。ふびんや、かはゆや。」

と、且は、恨(うらみ)、且は、歎(なげき)て、かきくどくに、女、きいて、少《すこし》も、なげかず、

「そなたは、何を、の給ふ。我、此子を置(おき)て出《いで》しを、隣(となり)成《なる》人の、跡を追《おひ》て、つれ來り、我に手渡し給ひしほどに、道のなんぎを思ひしかども、是非なく、つれて參宮せしが、長《なが》の旅路もくるしまず、殊更、健(すこやか)にて、乳(ち)を吞(のみ)て爰にあり。是、見給へ。」

と抱出(だきいだ)す。

 

Daijinguwougo

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 夫《をつと》、誠《まこと》と思はずながら、枕をあげて、見やりけるに、あらそふべくもなき、我子也。

「こは。そも、いかに。不審(いぶかし)。正(まさ)しく、此子、世を早(はやう)し、きのふのくれ、そこそこに土葬し置《おき》たるぞ。」

と。

 急ぎ、其所《そこ》に行《ゆき》て、土を穿(うがち)てみるに、棺の内に、「太神宮」の御祓(《おん》はらい)、箱ながら、いと、たうとくて、おはしける。

 男、甚(はなはだ)、感信(かんしん)して、

「おほけなくも、訇(のゝしり)ける事よ。」

と、悔悲(くいかな)しみけるとぞ。

 誠に、和朝(わてう)は神の御国(みくに)にて、かゝる御《おん》めぐみの數(かず)をしとふに、いか斗《ばかり》と限なきを、とり出て申《まをし》侍らんも、こと更《さら》めきたれど、曉季(ぎやうき)の今の世にも、誠(まこと)、心に祈るには、利生(りしやう)あらたにまします事よ。と有がたく思ひ奉る事の、あたらしければ、是を書《かき》しるし侍る。

[やぶちゃん注:「曉季」既に注したが、末法の世の初めの意であろう。

 因みに、江戸時代、中・後期には伊勢神宮参詣が爆発的に盛んになった。人ばかりではなく、驚くべきことに、犬や豚までが、単独で、参詣した。私の「耳嚢 巻之九 奇豕の事」の本文及び私の訳注を参照されたい。]

西原未達「新御伽婢子」 依ㇾ聲光物 / 巻五~了

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 なお、本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注を段落末に挟んだ。]

 

     依ㇾ聲光物(こゑによる、ひかりもの)

江刕上龍花村(かみ《りゆう》げむら)廣埜といふ山里に、長介といふ者あり。一在(《いち》ざい)より扶持(ふち)して、秋の田に實の入《いる》る時、年毎(としごと)、鹿(しか)を追《おは》する。

[やぶちゃん注:「江刕上龍花村」滋賀県大津市伊香立上龍華町(いかだちかみりゅうげちょう:グーグル・マップ・データ)。

「一在より扶持して」一村の代表者たる庄屋が、収穫直前の頃おいを見て、村内の者を雇い、賃金を与えて。

「鹿」この時期、猪も踏み込んで荒らすので、個人的には「しし」と読みたいところである。]

 近き年より、此者、軒(のき)に出《いで》て、

「ほいほい。」

といへば、一聲(こゑ)一聲に、其むかふたる方より、光物、來《きたつ》て、口に入《いる》。

 南に向(むか)ふていふには、南より、北に向へば、北より、東・西、猶、かくのごとく、百聲、千聲、よぶに、更に、やむ事なし。

 其幅、壱、弐尺もありて、長さ、十ひろばかり、ひとへに、紅絹(こうけん/《くれなゐ》のきぬ)を引《ひき》はへたるがごとし。

[やぶちゃん注:「十ひろ」「十尋」。成人男性が両手を左右へ広げた時の、指先から指先までの長さを言う慣習単位で、長さは一定しないが、曲尺(かねじゃく)でだいたい四尺五寸(約一・三六メートル)乃至は六尺(約一・八メートル)ほどである。えらく細長い紅の光りものを口の中に入れるさまは、イメージとしてはかなりエグい。]

 時々(よりより)、長介にかはりて、女房・子共も、出《いで》て呼(よぶ)に、更に此《この》光、なし。

 長介にとひて、

「此光物、口に入《いる》時、覺《おぼえ》ありや。」

と。答(こたへ)て、

「覺ゆる事、夢(ゆめ)斗《ばかり》も、なし。」

と。猶、

「くるしむ事、いたむ事、なし。」

と。

 いかなるわざと不ㇾ知《しらず》。

 天和の今なれば、末(すゑ)いかゞ終《をは》らん。いぶかし。

 

 

新御伽巻五

[やぶちゃん注:「天和」一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。本書の刊行は天和三(一六八三)年であるから、この謂いからは、本「噂話」は少なくとも数十年前というニュアンスである。]

2022/09/28

西原未達「新御伽婢子」 一念闇夜行

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注を適宜、入れた。]

 

     一念闇夜行(《いち》ねん、あんやをゆく)

 周防の國、或町に安次郞といふ者、隣里(りんり)に、相《あひ》かたらふ女ありて、山埜(さんや)を越《こえ》て、夜毎(よごと)にかよふ。

 ある夜、雨、そぼふりて、いと闇(くらき)に、いつもより、比(ころ)更(ふけ)て、彼(かの)かたに、たどり行《ゆく》。

 坂、ひとつ、あるを、たどりて、あなたにむかふ。

 

Rikonbyou

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。

 

 行《ゆく》べきかたを見れば、鞠のせいなる、火、ひとつ、こなたにむかひ、いそがす。

[やぶちゃん注:「せい」本来は背たけを表わす「背・脊」を大きさの意味で用いたものととる。]

 靜(しづか)ならず。

 地を去(さる)事、一尺余(よ)、足ある物のごとく、のぼり行《ゆく》。

 其光、尋常(よのつね)に易《かはり》、靑々(せいせい)として、もゆるげ也。

[やぶちゃん注:「靑々(せいせい)として」青白い陰火。]

 男、物すごく思へ共、其初(はじめ)、女にいひし事、有《あり》。

「命(いのち)かけて、戀渡《こひわた》し申《まをす》は、千世(ちよ)、ふとも、かわらじ[やぶちゃん注:ママ。]。夜ごとに通ひ來(く)る事を、怠(おこたら)ば、身も朽(くち)、爛(たゞれ)、手足もなく成《なり》なん。」

など、万(よろづ)の神かけて、誓ひたる、かね言(ごと)あれば、

『たとひ、此物に、わざをなされて、とにもかくにも成《なる》とても、此ちか言を、たがへし物を。』

と、おそろしさを、ねんじて、下り坂(ざか)を靜《しづか》にあゆむに、此火、男のちかく、一間斗《ばかり》に成《なり》て、引《ひき》かへし、先に立《たつ》て、もとのかたへ下《お》るゝ。

 猶、氣《け》うとくて、心よからねど、此火のひかりに、ちまたの、明(あか)く、月の夜のごとく行安(ゆきやすき)ぞ、とりへなる。

 男、やすらへば、火も、とまる。

 步は、おなじく、先にすゝむ。

 とかくして行《ゆく》ほどに、此火、外(ほか)へも、ちり失(うせ)ずして、我《わが》行《ゆく》かたの、女の家の、いつも忍ぶ藪の垣ねを、くゞりて、娘の隔室(へや[やぶちゃん注:二字への読み。])に入《いる》と思へば、かい消(きえ)て、なく成《なり》ぬ。

 猶、いぶかしく思ひながら、内に入《いり》て見るに、燈心、ほそくかゝげて、女はいたう寢入(ねいり)たり。

 やおら、ゆすりをこしければ、汗、雫(しづく)に成《なり》て、目を覺(さま)し、

「扨《さて》も。たゞ今、まざまざしき、夢、見し。」

といふ。

「いかに。」

と問《とへ》ば、

「こよひ、待宵(《まつ》よひ)過《すぎ》て、君の遲《おそく》をはする、いかにや。若(もし)、御心《おんここ》ちなど、例ならで、かゝるにや。」

と、覺束(おぼつか)なさの余り、道迄、立出《たちいで》、戀の山路(《やま》ぢ)に分(わけ)のぼり、坂の半(なかば)、行《ゆく》と思へば、其かたざまに、逢參《あひまゐ》らせ、打《うち》つれて歸る、と、思へば、御音(《おん》おと)なひに、夢、さめたり。あら、足、たゆや、あつや。」

と、いひて、語る。

 男、是に驚《おどろき》、

『扨は。』

と、おもひあはすれども、さらぬていに、もてなし、おそろしき心、身にそみければ、此後、虛病(そら《わづらひ》)に、かごとして、かよはず成《なり》ぬとかや。

[やぶちゃん注:「命(いのち)かけて、戀渡《こひわた》し申《まをす》は、千世(ちよ)、ふとも、かわらじ」の「申」は、実は「西村本小説全集 上巻」では、『中』となっている。しかし、同書の当該箇所を再現すると、「命(いのち)かけて恋渡(わた)し中は。千世(ちよ)ふともかわらじ」となるのだが、私にはこれでは上手く読めなかった。無理に読むなら、「恋渡し中」(うち)「は」で、「山を越えて恋路を渡ってくる内は、千年経ったって、変えるまい」の意だろうが、その場合、口上全体には「お前さんのことを飽きることがなかったならね」的なニュアンスを感じ、どうも厭な感じなのである。底本では、ここ(挿絵と同じ画像)の左丁の五行目の上から二字目なのだが、この崩し字は、橫の三画目と縦の最終四画目との接点部分に、明かに上へ跳ね上げた捻りが入っていることが判る。「中」を崩した場合、こうしたものは起こり難い。寧ろ「申」の崩しで時に見られる形であると断じた。意味も、その方がすんなりと躓かないように思われるのである。

 因みに、本篇の怪異は所謂、文字通りの「離魂病」という奴である。それも所謂、ドッペルゲンガー(Doppelgänger)のようなものではなく、本邦のセオリーに則った、シンプルに判り易いところの霊魂のみの離脱としての「火の玉」である。これは、江戸時代の怪談には、枚挙に遑がない。面倒なので引かないが、私の「怪奇談集」の中にも、複数、認める。しかも、少なくとも、江戸の怪奇談では、火の玉になるのは、男よりも断然、生きている就寝中の女の方が多いように思うのである。私は思うのだが、明治以降、「火の玉」が非科学的であるとして、人気が急速に落ちると(これは隅から隅まで露わにしてしてしまう電燈の伝来による、陰翳の徹底した凋落に基づく)、俄然、ドッペルゲンガーが流行り出しているように感ずる。なお、死に瀕した男ならば、ドッペルゲンガーとなって出現する例は、結構、多い。南方熊楠の「臨死の病人の魂寺に行く話」(「南方隨筆」底本正規表現版・オリジナル注附・縦書PDF版)を参照されたい。昨年、電子化注した『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』も参考になろう。]

西原未達「新御伽婢子」 聖㚑會

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     聖㚑會(しやう《りやう》ゑ)

 文月(ふみ《づき》)は、諸寺より始(はじめて)、在家に至(いたつて)て、孟蘭盆會(うらぼんゑ)の仏事を營み、なき人の哀(あはれ)をかぞへて、しるしの墓に詣《まうで》て、櫁(しきみ)、靑く供(くう[やぶちゃん注:ママ。])じ、水、凉(すゞ)しく、汲(くみ)かへなど、夜は、燈炉(とうろ)を高くかゞげ、更(ふく)るにしたがつて、すみ渡るに、年々(ねんねん)の春草(しゆんさう)、生《おひ》のびて、秋風《しうふう》に、やゝ、そよぎ、蚱(まつむし)・蛬(きりぎりす)の、なきかはして、淋しさを添(そへ)たる、いづれか、心ぼそからぬ。

[やぶちゃん注:「櫁」マツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum 。仏事に於いて抹香・線香として利用されることで知られ、そのためか、別名も多く、「マッコウ」「マッコウギ」「マッコウノキ」「コウノキ」「コウシバ」「コウノハナ」「シキビ」「ハナノキ」「ハナシバ」「ハカバナ」「ブツゼンソウ」「コウサカキ」などがある。最後のそれは「香榊」で、ウィキの「サカキ」によれば、上代にはサカキ(ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica )・ヒサカキ・シキミ・アセビ・ツバキなどの『神仏に捧げる常緑樹の枝葉の総称が「サカキ」であったが、平安時代以降になると「サカキ」が特定の植物を指すようになり、本種が標準和名のサカキの名を獲得した』とある。サカキは神事に欠かせない供え物であるが、一見すると、シキミに似て見える。名古屋の義父が亡くなった時、葬儀(曹洞宗)に参列した連れ合いの従兄が、供えられた葉を見て、「これはシキミでなく、サカキである。」と注意して、葬儀業者に変えさせたのには、感銘した。因みに、シキミは全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されていることも言い添えておく。

「蚱(まつむし)」この漢字は不審である。大修館書店「廣漢和辭典」によれば、「蚱」は第一に『くまぜみ、うまぜみ、やまぜみ』とし、第二に『蚱蜢(サクモウ)』とし、これは『ばったの一種。しょうりょうばった。いなごまろ』(これらはバッタ目 Orthopteraではあるが、ショウリョウバッタとイナゴ類は孰れもバッタ科 Acrididaeであり、コオロギ科 Gryllidaeであるマツムシと親和性は全くないから、形態から見てもマツムシをバッタと呼ぶことは私には出来ない)とし、或いは『ひきがえる』の意とする。最後の三番目には「くらげ」(刺胞動物のクラゲ類)が挙がって終わっている。ネットで調べても、この字をマツムシの意で用いているものはない。作者の誤認であろう。音は「サク・シャク・シャ」で、これを以上のバッタ類の鳴く音や飛ぶ音にオノマトペイアしたとするのは腑に落ちるが、マツムシの優雅な鳴き声には相応しくない。マツムシの博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 松蟲」を見られたい。なお、そこで注しているが、私は世間で罷り通っている明治になるまでの日本人は「松虫」と「鈴虫」が逆転していたとする説は正しいと思っていない。

「蛬(きりぎりす)」こちらは問題ない。同じく、「廣漢和辭典」によれば、「蛬」(音「キョウ・ク」)は『こおろぎ【こほろぎ】。古称、きりぎりす』(太字はママ)とある。同前で「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」を参照されたい。なお、前注の最後と全く同じく、定説としてまことしやかに教科書の注にまで書かれている、同前で、「螽斯(きりぎりす)」と「蟋蟀(こおろぎ)」が逆転していたとする十把一絡げ変換説も正しくないと考えている。それについては、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」の私の注の中で芥川龍之介の「羅生門」を素材として検証しているので、是非、読まれたい。

 わきて、十四日の曉(あかつき)より、

「なき玉(たま)の來(き)ます日也。」

と、上(かみ)ざまの貴も、賤山(しづ《やま》)がつの葛(くづ)の屋《や》にも、心の及(およぶ)、座(ざ)をまうけて、鼠尾草(みそはぎ)の、枝もたはゝに、露をもたせ、『槇(まき)の葉に霧たちのぼる』と見る迄、名香(めいかう)のくゆるに、供物(くもつ)、うづたかく、はつ草(くさ)のあつもの、所せきまで備へたる、

「此物かげにこそ、其仏は、まうで給はん。」

「其靈魂は、をはせん[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いひ、もてなすも、恠(あや)しの女童(《め》わらべ)の言種(ことぐさ)のやうなれど、すぜうには、侍る。

「鼠尾草(みそはぎ)」私は「禊萩」の表記が好きだ。フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps 。お盆の頃、紅紫色の六弁の小さな花を先端部の葉腋に、多数、つけるため、盆の供え花としてよく使われ、「盆花(ぼんばな)」「精霊花(しょうりょうばな)」などの名もある。兵十和名ミソハギの和名の由来は、ハギ(萩)に似て、古く禊(みそぎ)に使ったことに由来する。ここに出る「鼠尾草」(そびそう)は、花の咲く先端部のそれを鼠の尾に喩えたもの、また、田の畔や湿地或いは溝(みぞ)に植生するところから「溝萩」(みぞはぎ)とも呼ばれる。

「槇(まき)の葉に霧たちのぼる」「百人一首」の寂蓮法師のそれ、元は「新古今和歌集」の「巻第五 秋歌下」の(四九一番)、

   五十首歌たてまつりし時

村雨(むらさめ)の

 露もまだひぬ

    槇の葉に

   霧立ちのぼる

       秋の夕暮れ

である。]

   正月にうちしは夢か玉まつり

   まざまざといますかごとし玉祭

と、俳諧の發句せしを、哀《あはれ》のたぐひに、書つゞけられし。

 げに左にては有けれ、昔、徹書記(てつしよき)の、鄙(ひなに)さすらへ、日をふりて、都、こひしく佗(わび)けれども、をぼろげの御ゆるしもなきつくしける淚の下に、

   中々になき玉ならば古鄕に

    かへらん物をけふの夕ぐれ

と、よみしも、ことの葉斗《ばかり》、世に殘りて、誰(たれ)か、ふたゝび、かたちを見るありと、みはてぬ水の泡、消(きゆ)るに早き石の火の、賴(たのみ)なき世のならひ、いひ出《いづ》るも、さらなれど、念々に、無常ををどろかすは、時々(じじ)に、罪障のみ、いや、まし侍らんなど、秋の夜のながき後世(ごぜ)ばなし、物一重《ものひとへ》こなたに聽聞(ちやうもん)したる。

[やぶちゃん注:「正月にうちしは夢か玉まつり」作者不詳。小学館「日本大百科全書」によれば、中世末から近世にかけて形成されたと思われる本邦の祖霊信仰が定着してからは、正月は、盆とともに、年に二度の「魂(たま)祭り」(祖霊祭)の機会であって、個の存在を既に失って祖霊として融合同化した先祖の霊を迎え祀る厳粛な行事として形成されていた。『ところが』、『盆のほうは早くから仏教と結び付き、死者の霊の供養行事と考えられ、これに対抗して正月のほうは、死の穢(けがれ)に関係のない、清らかな祭りであることを強調した結果、盆と正月とはまったく別の行事のように理解されてきたが、年の夜に声をあげて死者の霊を呼び迎えるとか、東日本では年末か正月に、御魂(みたま)の飯に箸』『を突き立てて祖霊に供えるとか、主として西日本で元日に墓参をする習俗がある』の『は、いずれも正月の魂祭り(先祖供養)の名残である』とある。

「まざまざといますかごとし玉祭」北村季吟(寛永元(一六二五)年~宝永二(一七〇五)年)の発句。本書の刊行は天和三(一六八三)年であるから、まだ存命中である。]

 心なき身にも哀(あはれ)は知(しら)れぬ其中に、歲(とし)五十(いそぢ)斗《ばかり》の人の、聲して、語れしは、

「孟蘭盆に聖靈の故鄕(こきやう)に來(く)る事、正(たゞ)しく有《ある》事にこそ。予、五とせ已前(いぜん)、七月十日あまり、丹波に下り、園部の御城下に、所用を達して、商物(しやうもつ)の金子(きんす)、少々、うけとり、

「京に歸《かへる》。」

とて、高卒都婆(たかそとば)といふ在鄕(ざい《がう》)に一宿(《いつ》しゆく)しける。

[やぶちゃん注:「園部の御城」現在の京都府南丹市園部町小桜町に園部城跡(グーグル・マップ・データ)はある。

「高卒都婆」不詳。但し、私の古い電子化訳注の「耳囊 巻之三 丹波國高卒都婆村の事」に出るので、参照されたい。]

 此日、十三日、明《あく》れば、十四日成《なり》し

 其曉(あかつき)、宿(しゆく)の者ども其外、一在(《いち》ざい)の男女(なんいよ)、群出(むらがり《いで》)て、いひのゝしる事、あり。

 物さはがしく、目もあはねば[やぶちゃん注:眠れないので。]、あるじに、

「何事ぞ。」

と問《とふ》。

 

Sumibousi

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 されば、

「此となり在所、甲崎(かうさき)といふ所に、喜介と申《まをす》百姓の侍りしが、三十斗迄、妻も、なければ、子も、もたず、親なんどは、先にたち、剩(あまつさへ)、親《したし》き者も、絕(たえ)て、ひとり住(ずみ)にて侍りし。心まつたき者の、農業に怠りなければ、過分(くはぶん)の冨人(ふくじん)といふ迄こそなけれ、邊鄙(へんぴ)の渡世には、豊(ゆたか)なりしに、當年、卯月の中比《なかごろ》、不幸に頓死せしを、里の衆《しゆう》、哀(あはれ)がりて、樣々(さまざま)看病しけれど、終《つひ》に蘇生せず。野外(や《ぐわい》)に葬(はうふ)りて、一ぺんの煙(けふり)となせば、郊原(かうげん)に朽(くち)て、白骨(はつこつ)のみ、殘れり。

 後のわざは、とりいとなむ人も、なかりし。されども遺跡(ゆいせき)・山《やま》・畑(はた)など有《あり》しを、價(あたひ)にかへて、家をてんじて、一宇の庵室(あんじつ)をつくり、田地、少《すこし》、是によせて、發心者(ほつしんしや)を、住持《ぢゆうじ》させ、喜介が跡を弔(とは)せけるに、彼《かの》僧、いたづらにこそあれ、仏事・作善(さぜん)を、とりをこなはず、晝夜、圍碁・雙六・博奕(ばく《えき》)にあそび、得たる所の一室をも、沽却(こきやく)すべきに見えければ、所より、追出《おひだ》し、未(いまだ)、後住《こうぢゆう》、定まらず。

 十余日此かた、主(ぬし)なき庵《いほ》となつて、仏に香花(かう《げ》)を供(くう)ずる人なく、靈前に廽向(ゑかう)をなすわざも絕《たえ》て、偏(ひとへ)に鼬鼠(ゆうそ/いたちねずみ)のあそび所と成《なる》。

 今宵、夜半(よは)の過(すぎ)成《なり》し。

 去(さり)し喜介が聲にて、看經(かんきん)の勤(つとめ)、高らかに聞ゆ。

 隣家(りんか)の人、驚き、物のひまより、見れば、まさしき、昔の、喜介、白き姿に、すみ帽子(ばうし)して、仏前にむかひ居る。

 奇異の思ひをなし、ひとり、ふたりに、語るやいなや、一在所のみか、今のほどに、隣鄕(りん《がう》)まで、かくれなく、騷勤し侍る。

 かく珍しきたぐひ、いざ、友なひ行かん。」

[やぶちゃん注:「すみ帽子」「角帽子」。死者の額につける頭巾。二等辺三角形の布帛(ふはく)の底辺に紐をつけて額に当てて結んだ被り物。平安時代には黒色のものを用いて子ども用としたが、近世に入り、死者の額に白色のものを用いるようになった。「すんぼうし」「つのぼうし」「額烏帽子(ひたいえぼし)」とも言う。]

と、いさひ[やぶちゃん注:ママ。「いさい」(委細)とあるところを誤刻したか。]に語る。

『げに、ふしぎなるためし、都(みやこ)づとに、行《ゆき》てみばや。』

と、おもへど、今日しも、都は年の半(なかば)の仕切(しきり)といふ物にて、下(しも)が下(しも)がの賣人(ばい《にん》)は、とみの事、多し。

 いとゞ、亭主の長咄(ながばなし)に、夜(よ)も、しのゝめに明(あけ)ぬおもひながら、立(たち)よる間(ひま)もなければ、いとまこひて、のぼりけるに、みちみち、かの事に、噂して、埜人(やじん)、村老(そんらう)、甲崎に往還(わう《くわん》)する事、道も去《さり》あへず。

 此後《こののち》、爰に行《ゆく》事なければ、終所(をはる《ところ》)を不ㇾ知(しらず)。

 かゝる事の侍れば、『靈の此日來る』といふ事、白地(あからさま)也。」

と語られし。

[やぶちゃん注:「甲崎」この地名が唯一の期待だったのだが、見当たらなかった。残念。

 この話、俳人でもあった作者が直に語りかけてくる、直談で始まって、その後、寺へ詣でて、そこにいた五十ほどの商人の語りに転じて、死者が甦ったという奇譚となるのだが、その商人自身が、その白骨になったはずが、生身の元の状態に戻って蘇生したとする喜介の姿を見ていない(観察していない)という点で、「噂話」としては、脆弱である。しかし、周囲に、その噂が一晩の内に、物凄い速さで、伝播・感染(集団ヒステリー)して行ったという部分は、周縁的なリアリズムとしては、確かに本当の話のように上手く機能していると言える。而して、この一篇は、「都市伝説」=「噂話」のメタモルフォーゼの過程を暗に示して呉れているとも言える。この実見ではない話を読みながら、挿絵の中の喜介の姿を見た者が、話を面白くしようと、実際に見た、という形で話を書き変えて、尾鰭がつく、というありがちなプロセスである。そこも作者は実は確信犯で狙っているようにも私は思うのである。]

西原未達「新御伽婢子」 一夢過一生

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     一夢過一生(いちむ、いつしやうを、あやまつ)

「『癡人(ちじん)の面前に夢を説(とか)ず。』といへば、愚昧なる人には、我が見し夢も異人(こと《びと》)の咄(はなし)にも恠(あやしき)事、をそろしき[やぶちゃん注:ママ。]事、愁(うれへ)なる事、貧賤に成(なる)といふ事など、心して語り出すべからず。官位にのぼりたるの、冨貴(ふうき)に成《なり》たるの、などいふ、心ちよげなるたぐひは、尾に鰭を添へて、かたれ。」

とて、笑はせたる人、有《あり》。

[やぶちゃん注:「『癡人の面前に夢を説ず』「痴人の前に夢を説く」は朱熹の「答李伯諫書」(「李伯が諫(かん)に答ふる書」か)に基づく故事成語で、「愚か者に夢の話をする」は「無益なことをする」喩えである。]

「三歲の童子(どうじ)をすかす戯(たはぶれ)、髭口(ひげ《くち》)をそろへて、いはれけるこそ可笑《をかしけれ》。」

と、いひもて行《ゆけ》ば、又、小ざかしき有《あり》て、

「『我、夢にだも、周公をみず。』と、孔子も、の給へば、聖人すら、好み給ふ。况(いはんや)文盲(もんもう)の我(われら)をや。能(よき)を能と知らば、何(なん)ぞ惡(あし)き夢の氣味わろからで、あるべき。」

[やぶちゃん注:「我、夢にだも、周公をみず」は「論語」「述而第七」の「子曰甚矣吾衰也章」。「子曰、甚矣、吾衰也。久矣、吾不復夢見周公。」(子、曰はく、「甚しきかな、吾が衰へたるや。久しきかな、吾れ、復(ま)た、夢に周公を見ず。」と。)孔子が理想の君子として崇めた周公旦の夢を見なくなるほどに、老いぼれ、理想を求める志しが綿sから失われてしまったものか、と嘆いたもの。]

などいふに、独(ひとり)ありて、聲、打《うち》ひそめて、

「某(それがし)の隣家(りんか)に、ふしぎ成《なる》事こそ侍れ。夜部(よべ)、恠(あやしき)夢に襲《おそはれ》て、今日(けふ)、病(やま)ひづきて、死(しゝ)たる、といふ。可笑(をかし)や、けふは、夢物がたりに暮(くら)す日にこそ。」

「扨《さて》。それは、いかなる夢の、何として、病(やまひ)には成《なり》たる。」

と。

 語る。

――此男、下賤の町人ながら、少《すこし》和哥(わか)の道を學ぶ。程よりは、其道に自讃して、又、一文不知(《いち》もんふち)の人に向(むかひ)ては、柿本(かきのもと)の深味(しんみ)、山邊(やまべ)の骨髓をも、掌(たなごゝろ)に、にぎつたるやうに、廣言して、人を人ともおもはねば、惡(にく)まずといふ者、なし。

 然《しか》るに、過《すぎ》し夜、不審(いぶかしき)夢を見る。

 其さまをいはゞ、いづちとも知らず、かぎりなき廣き埜に、ひとり、有《あり》て、其わたり、見まはすに、秋草(しうさう)、雨を帶(おび)て、万虫(よろづのむし)の聲、哀(あはれ)に、暮《くれ》かゝる。月、玉《たま》をなして、風、浮雲(ふうん)を吹拂(ふきはら)へば、誠に美景の限(かぎり)ながら、廣野(くはうや)に、ひとり、立(たて)れば、物すごく、をそろし[やぶちゃん注:ママ。]。

 いづち來《き》にけん、露《つゆ》ふみ分し細みちも見えず、雲かゝる山も、なし。千種(ちぐさ)の原(はら)をかき分《わけ》て、たどる事、一里斗《ばかり》と覺えて、行《ゆく》さきを見れば、たえて人里も、なし。

 そのほどに、茂(しげ)き荊(うばら)に手足を破られ、蔦(つた)・栬(かへで)も何ならぬ、もみぢを亂し、麁衣(そい)は、かなしき、つゞりにさけて、身を隱す便(よすが)もなし。時雨(しぐれ)、心もなく、肌をうるほし、秋風(しうふう)、いたく落(おち)て、鬢髮(びんぱつ)をかなぐる。

「かゝる埜は、未(いまだ)見ず。音《おと》にのみ聞く、『日かずわするゝ』と、よみし武藏埜の原は、是にや。古しへ、今の歌人(うたびと)多くとも、驛路(えきろ)より遠詠(《とほ》ながめ)ならん。且(かつ)は、名(な)斗(ばかり)にこそ聞《きき》はせめ、我、此道に達して、たぐひなき人の、みはてぬ此原を、わけつくす事よ。」

と、又、爰にて、自讃す。

「六六の歌仙、中古は定家・家隆(か《りゆう》)・良經(よしつね)・雅經(まさつね)などや、我斗(わればかり)の器量にや在《あり》けん。」

など、空おそろしく身をほめて、夢中に二首を詠ず。

[やぶちゃん注:「栬(かへで)」楓。

「日かずわするゝ」「新千載和歌集」(南北朝時代の十八番目の勅撰集)に載る、「題しらず」の鎌倉中期の公卿・歌人の藤原従三位為理(?~正和五(一三一七)年)の、

 草枕おなじ旅寢のかはらねば

   日數(ひかず)忘るる武藏野の原

である。「日文研」の「和歌データベース」の同和歌集で通し番号を調べ、国立国会図書館デジタルコレクションの「国歌大観」の「五句索引 歌集部」のこちらで確認した。

「六六の歌」三十六歌仙。

「家隆」、鎌倉初期の公卿で歌人の藤原家隆。「新古今和歌集」の撰者の一人で、「小倉百人一首」では、従二位家隆「風そよぐ楢の小川の夕暮は御禊ぞ夏のしるしなりける」で知られる。

「良經」平安末から鎌倉初期にかけての公卿・歌人で、「新古今和歌集」の撰修に関係し、その「仮名序」を書き、「小倉百人一首」では「後京極摂政前太政大臣」として「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねむ」で載り、自撰の家集「秋篠月清集」も頓に知られる九条良経。

「雅經」平安末から鎌倉前期にかけての公卿で歌人の飛鳥井雅経(あすかいまさつね)。やはり「新古今和歌集」の撰者の一人で、「小倉百人一首」の「み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり」で知られる。]

   人はいさ草の名をだにたどるべく

     小萩をかざすむさしのゝ原

   めや遠き心やみると思ふまで

     薄にはるゝむさしのゝ月

と、よみて、爰にをゐて[やぶちゃん注:ママ。]、殊に自慢、甚しく、思ひあがりけるまゝ、野路(のぢ)のさびしさも打《うち》忘れ、猶、行《ゆ》くて見れば、ひとつの小池(しやうち)あつて、汀(みぎは)に、菖蒲《しやうぶ》・芦(あし)・まこも、滄波(さう《は》》にみどりの色をそへて、物すごき所あり。

「爰なん、『堀兼(ほりかね)の井』といふ所なるべし。」

と、心得がほに打諾(《うち》うなづき)、岸にのぞみて、水の面をながめ、

「爰にも、一首なくては。」

などゝ、小くびをひねりゐる所に、めてのかたより、なまぐさき風、一通り、しぶきて、むらたつ葭(よし)・芦、

「さはさは」

と戰(そよぎ)けるより、項(うなじ)のあたり、惡寒(ぞつと)とするおり、をそろしさ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、改めて、初(はじめ)分入(わけ《いり》)し時に、十倍せり。

[やぶちゃん注:「堀兼の井」現在の埼玉県狭山市堀兼にある堀兼神社内にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、そう称するものは他にもあるので、こことは定め難い。以下の引用参照。「狭山市」公式サイト内のこちらに、『堀兼之井は、堀兼神社の境内にあります。直径7.2メートル、深さ1.9メートルの井戸の中央には石組の井桁(いげた)がありますが、現在は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明です。この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができます』。『井戸のかたわらに2基の石碑がありますが、左奥にあるのは宝永5年(17083月に川越藩主の秋元喬知(あきもとたかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものです。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹(おう)形の地としたこと、堀兼は掘り難(がた)かったという意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがったまでで、確信に基づくものではないともあります。手前にある石碑は、天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明(きよはらのぶあき)の漢詩が刻まれています』。『それでは、都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか』? 『神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸後期に編さんされた』「新編武蔵風土記稿」を『見ても「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあります。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは、秋元喬知が宝永5年に石碑を建ててから以後のことと考えられます』とある。因みに、ここには現在は水はない。]

 

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[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 かく、風のをこる[やぶちゃん注:ママ。]方《かた》を見やれば、眞黑なる大木、太さふた抱(だき)斗《ばかり》なるが、此上に、ころびかゝる。

「はつ。」

と驚《おどろき》、逃(にげ)ざまに、其梢を見あげたれば、木にはあらで、名のみ聞《きく》蟒(やまかゞち)といふ物ならん、頭は、つき鐘(がね)なんど、動(うごく)ほどして、紅《くれなゐ》の舌、氷の牙、此男を、のまんとする。

 此時、大きなる聲して、うめきけるを、添臥(そひぶし)の女房、遽(おびたゞしく)起《おこ》しけるにぞ、夢は、覺(さめ)ける。

 起《おき》ても、猶、一身(いつしん)、大熱(《だい》ねつ)し、戰慄(ふるひわなゝく)事、更(さらに)不ㇾ止(やまず)。

 妻女、驚き、藥など、口にそゝぎ、暫(しばし)、靜(しづまる)と見えし。

「扨(さて)、いかなる夢を見て、かく迄、襲《おそはれ》給ふ。」

と問へば、有《あり》し夢中を、細(こまか)に語り、彼《かの》うはばみの所を語る時、俄《にはか》に、又、

「をそろしき物、見えたる。」

と覺えて、顏色(がんしよく)、靑く、眼(まなこ)の内、かはりて、

「あなをそろし。夜部の蟒(やまかゞち)、爰に來たり。あれ、追拂(《おひ》はら)へ、切《きり》ふせよ。」

と、手足を悶(もだへ)、一身、顚倒(てんどう)する事、不ㇾ止《やまず》。

病乱(びやうらん)しけるが、一日、かく、有《あり》て、たゞ今、息、絕《たえ》侍る。命終(めいじう)の有樣、えもいはれず、らうがはしさ、推量(《おし》はかり)給ヘ。」

と、かたられ侍る。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 常の人のならひ、名利(みやうり)につかはれて、慢心を先(さき)とする事、有(あり)。わたるわざながら、たはごとに、身におよばぬ憍心(きやうしん)、和歌の奧旨《あうし》なんどいふ事は、其職にあそぶ人だに、たやすく覺悟するは、なし、といふを、卑賤の、をろ心に[やぶちゃん注:ママ。「おろか」の誤字と脱字か。]、まさなくも、したり㒵かほ)なる、天のにくむ所、鬼神(きしん)の罰するたゝり、さも在《ある》べき事にぞ。

西原未達「新御伽婢子」 沉香合

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

      沉香合(ぢんのかうばこ)

 近曽(ちかごろ)、攝刕大坂に下り、爰かしこ、所用勤(つとめ)ける次(ついで)、大坂より一里隔たる平埜(ひらの)といふ所に尋ねしに、一寺あり、男女老少、參詣、おびたゞし。

「何事にや。」

と、茶店(ちやてん)の姥(うば)に問へば、

「『大念仏』と申《まをす》事の侍り。」

と。

「扨は。殊勝の事なめり。逆緣(ぎやく《えん》)の聽聞(ちやうもん)せん。」

と、仏前にのぞむに、勤行の時節、暫(しばし)、

「早(はやし)。」

と、いひて、傍(かたはら)の道俗、打《うち》もたれ、眠《ねむる》比《ころ》なり。

 此内に、我にひとしき他國の男、一人ありて、家《いへ》に杖つく斗《ばかり》の老人にむかひ、物がたりする有(あり)。

[やぶちゃん注:「逆緣」悪行がかえって仏道に入る機縁となること。ここは自遜。

「家に杖つく斗の老人」「家の中でも杖を突かねばならぬほどに見える高齢の老人。]

『京みやげに、珍しき事もこそ。』

と、ねぢりよりて、もらひ聞《ぎき》し侍るに、翁の云《いはく》、

「當寺の㚑寶(れいほう)に、『沈(ぢん)の香合(かうばこ)』あり。何(いづれ)の工(たくみ)のきざめるとも、知る人、なし。勤行(ごんぎやう)、滿たらん時、拜(をがみ)給へ。」

といふ。

 男、聞《きき》て、

「工のしれぬとは、天竺よりや、わたりし、天よりや、降(ふり)し。」

と。

「左には非ず。是につきて長(ながき)物語あり。念仏の初《はじま》らん迄に、聞(きゝ)給へ。

 近き比、和泉の堺に、松やの何某とて、有德(うとく)の人、あり。息女、ひとり、持てり。

 かたち、世にたぐひなく、情(なさけ)さへ、いとゞ深かりければ、をよぶをよばぬ[やぶちゃん注:ママ。「及ぶ及ばぬ」]音(おと)ふれて、通はす文(ふみ)の恨(うらみ)わび、ほさぬさ月《つき》の雨くらく、迷はぬ者もなかりしに、問《とひ》よる袖の多き中に、わきて、美男(びなん)の有《あり》けるに、早晚(いつしか)、深く、馴初(なれそめ)て、夜半《やはん》の鐘に枕をならべては、偕老のふすまを、うれしと、よろこび、橫雲(よこぐも)の朝(あした)に鳥の鳴(なく)時は、別離の袂(たもと)をしぼりて、悲し、とす。

 男も、親はらから、持てる身にて、いたうしのび、まいて女は、父母(たらちね[やぶちゃん注:二字への読み。])の咎(とがめん)事を恐れて、

『猶、さがなき人の口(くちに)さへ、かゝらん。』

と、限なく包(つゝみ)ければ、やゝ知る人も、なし。

[やぶちゃん注:「をよぶをよばぬ音」「及ぶ及ばぬ」で、「読んで貰えるか、到底、手にさえ及ばない恋文の音信(おとずれ)」の意であろう。

「さ月」「皐月」。陰暦であるから、梅雨の時期なので、「乾さぬ」と枕して、「雨くらく」と続く。

「さがなき人」性質(たち)の悪い人。]

 然るに、世の式に任せて、娘の親、

「誠のえにしを、とりむすび、既に、いつの日、送りむかへん。」

など、いひかはしければ、ふたりの人、おどろきて、今更のやうに歎く。

[やぶちゃん注:父母は当時の例式に従って、仲人を立てて、相応の人物を決め、いついつの日に婿として迎える、と告げたのである。]

 され共、男、女にいふ、

「日比、ふりたる情(なさけ)、すつるにては、なく侍れど、此事、いなび給はゞ、有し蜜事(みつじ)[やぶちゃん注:ママ。]の顯れて、たかしの濱のあだ浪に、うき名を流し給はん。我は、數《かず》なき埋木(むもれ《ぎ》)の、根(ね)ながら、朽(くち)てむなしくとも、花待《はなまつ》身にも侍らねば、たゞ、そこのため、いとおしきぞや。父母の心に身を任せて、そのかたさまに、ましませ。御心《みこころ》の僞(いつはら)ぬは、月ごろ日比、見し事にて、更に恨(うらみ)をのこさず。」

と、袖ほしわびて口說(くどけ)ば、女、更に、うけひかず、

「そも、うつゝなの、御こと葉や。包(つゝむ)ほどこそ久かるべきとは、かねて、いひかたらひし。たとひ、父母には背(そむく)とも、在《あり》し契りを捨(すつ)べきや。あゝ、世は、せばき世也。唯(たゞ)、身ふたりの置所《おきどころ》、此娑婆にては、をもほえず[やぶちゃん注:ママ。]。弥陀の蓮(はちす)のうてなこそ、心の儘に、すみよしの、まつぞ跡より、來ませ。」

とて、剃刀(かみそり)、取《とり》て自害におよぶ。

 男、

「暫し。」

と、とゞめ、

「我も、左こそ思ひしかど、心を引見《ひきみ》んため斗《ばかり》に、かくは申《まをし》》侍り。惡(にく)からずの心や。いで、手を取《とり》て、友(とも)なはん。」

と、最後の念仏、心靜にして、女を、さし殺(ころし)、男も同《おなじく》自害しぬ。

 双方の親、なけゝども、甲斐なし。

 

Jinkounokoubako

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 其比、奧より西国をめくる順礼ふたり、つれて、上がたに、のぼる。

 箱根の山にかゝりけるが、日は、漸々(やうやう)、暮《くれ》ぬ。

 いとゞ、心、せきて、道をいそぐに、上がたより、年十七、八とみえて、容㒵(ようがん)類(たぐひ)なき女の、色、靑ざめ、小袖、白く、裾、引《ひき》て、杖を梓(あづさ)にゆがめ、淚に成《なり》て來(く)る者、あり。

 二人の者共、

『はつ。』

と思ひ、

「いかにや、かゝる遠国(をんごく)の、殊に、人なき山中に、日さへ暮雲(ぼうん)に心ぼそきを、最媚(なまめき[やぶちゃん注:二字への読み。])たる女の、あるべき事とおもはれず。いかさま、化生(けしやう)の類(たぐひ)ならん。」

と、恐《おそれ》て、すゝまず。

 漸々、ちかづくまゝに、女、ほそく、甲斐なき聲やせて、順礼に云《いはく》、

「卒尒(そつじ)ながら、上がたへ、言傳(ことづて)申《まをし》たく侍る。泉州堺のいづこにて、『しかじか。』と尋給ひ、『娘があと、念比《ねんごろ》に弔(とひ)給へ。』と申てたべ。」

と、いひて、息を休(やすめ)る。

 順礼、いぶかしながら、

「御身、何人《なんびと》なれば、左《さ》の給ふ。」

と、いふ。

「恥かしながら、我、其家(や)の娘なるが、刄(やいば)の上に、むなしく成《なり》たり。若き者の、はづかしといふ類(たぐひ)、跡は只(たゞ)、いはずとも推量(《おし》はかり)おぼしめせ。たゞ、左斗(さばかり)申して、たべ。」

と、淚にむせぶ。

 順礼も、今は、思ひたゆめて、

『扨は。蜜夫(みつふ/かくし《をとこ》)などのため、死(しゝ)たる者ならん。』

と打諾(《うち》うなづき)、

「げに。さる事ならば、しるしや、送り給ふ。」

と、いふに、女、懷(ふところ)より、手拭(《て》のごひ)ひとつ、取出《とりいだし》、

「身に添(そふ)る物、是ならで、なし。父母は、是、能(よく)見知給へり。しるしにし給へ。相《あひ》かまへて、賴《たのみ》侍る。」

と、いひて、莪々(がゝ)[やぶちゃん注:ママ。]たる山の、岩が根を、坂道、遠く、たどり行《ゆく》とみえしが、順礼、泪《なみだ》に見送り、上(かみ)にのぼり、敎(あおしへ)し堺に行《ゆき》て、親に、此事、かたり、記念(かたみ)の物を渡すに、

「こは。いかに。」

と、驚《おどろき》、いひし事共、間(まゝ)聞《きき》て、今更に泣悶(なき《もだえ》)しが、順礼を、もてなし、樣々、引《ひき》とむれども、此人さへ、末(すゑ)の長路(ながぢ)を急ぎて、別れ行《ゆけ》ば、むなしき床(とこ)にひれ臥《ふし》ぬ。

 爰に此《この》御寺《みてら》の本尊、靈仏(れいぶつ)なる事をたうとび、當寺に別時大念仏(べつじだいねんぶつ)を執行(しゆぎやう)す。一七日、滿ずる日の旦(あした)、在《あり》し娘、忽然として、仏前に顯(あらは)れ、父母并(ならびに)上人に語《かたり》て云《いはく》、

「我、邪婬の惡執にひかれ、地獄に入《いり》なんとせしを、御弔(《おん》とふらひ)の力に、得脱(とくだつ)しぬ、いかにして報謝せん。」

と、掌(たなごゝろ)を合《あはせ》、本尊を礼し、沉(ぢん)の香合(かうばこ)を如來に捧(さゝげ)、かきけちて失せしを、其座に詣(まふで)たる人々、殘らず、見し。」と語る内に、念仏、初(はじまり)、聽聞し、事《こと》終(をはり)、かの香合を、望みて、拜(をがみ)けるに、げにも、凡卑(ぼんひ)の細工(さいく)とみえず。

 猶、住僧に、緣起、こまごま、とはまほしかりしを、いさゝか、私用を宿(やど)にのこし侍れば、歸り來て、程なく、京にのぼりしまゝ、問(とひ)のこしぬ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 去《さる》人の云《いはく》、

「死せる人は、中陰のほど、中有(《ちゆう》う)にあつて、生所(しやうしよ)、さだまらず、我ながら、仏所にまふでんも、惡趣に入らんも、しる事、なし。只、極善(ごくぜん)の者と、極惡(ごくあく)の者と斗《ばかり》、頓(とみ)に淨土と地獄に、をもむく[やぶちゃん注:ママ。]といへば、今、爰にして、はこねなんど、さまよひありかん事、心得ず、たゞ童(わらべ)の物がたりにこそ、いひふれたれ、信用するにたらず。」

と垣(かき)やぶりにいふに、かたへより、

「よしなきあらそいや[やぶちゃん注:ママ。]。所詮、弥陀の本國に歸らざる内、生(いき)ても死(しゝ)ても、皆、中有なる物お[やぶちゃん注:ママ。「物《もの》を」で誤刻であろう。]。」

と、いはれし。

 是(ぜ)なりや、非(ひ)なりや、大俗(《だい》ぞく)の身なれば、不ㇾ知(しれず)。

[やぶちゃん注:「中有」衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。この七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じ)が、その「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。恐らく、若い読者がこの語を知ることの多い契機は、芥川龍之介の「藪の中」の「巫女の口を借りたる死靈の物語」の中で、であろう。リンク先は私の古層の電子化物で、私の高校教師時代の授業案をブラッシュ・アップした『やぶちゃんの「藪の中」殺人事件公判記録』も別立てである。私は好んで本作を授業で採り上げた。されば、懐かしい元教え子もあるであろう。

 なお、本篇も作者自身の一人称で、実際に聴書した体裁をとった直近の「噂話」の形をとっている。知られた過去の人物に仮託した怪奇談は有象無象あるが、こうした等身大のものは、思いの外、多くはないのである。]

2022/09/27

西原未達「新御伽婢子」 人魚評

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     人魚評(にんぎよの《ひやう》)

 寬文弐の五月朔曰、日本、過半、大地震(《だい》じしん)して、國々、所々の神社・仏閣、或《あるいは》破壞(は《ゑ》)し、散乱し、民家、多く、崩れ、かたぶき、石垣を穿(うがち)、壁を落《おと》すによつて、爲ㇾ之(これがため)、忽(たちまち)、打墊(うちひし)がれ、死せる者、多く、腰・膝・手足を痛(いため)られて、片輪(かたわ)づきたるもの、數(かぞふ)るに不ㇾ足(たらず)。

 其比《そのころ》、江州朽木(くつき)、かづら川のすそ、榎木(えのき)・町居(まちゐ)・小谷(こたみ)村といふ三ケ所は、後(うしろ)より、比良の尾つゞき、吹端山(ふきばた《やま》)といふ大嶽(おほだけ)、崩れかゝつて、一時(《いち》じ)に在家(ざいけ)の上に覆ひ、三所一同に、數百丈の底に埋(うも)れ、人畜(にんちく)、独(ひとり)として、たすかるもの、なし。後々(のちのち)數(かぞふ)るに、三百七十三人とせるせり[やぶちゃん注:ママ。「せり」でよい。或いは「せるなり」か。誤記か誤刻であろう。]。若(もし)纔(わづか)の土の下、木の陰に、うたれたらましかば、多の人の中に少々、助かる者もあるべきを、大山ひとつ、つきあげたる事に、逃(にぐべ)き便《たより》もなかりけるにや、漸々(やうやう)、田と、畑(はた)と、川とにして、三人の死骸を得たり。此外は、二度(ふたゝび)、求(もとむ)る事、なし。他國に子ある者あり、親を殘す有《あり》、歎き悲しむ事、斷《ことわり》に過《すぎ》たり。

 凡《およそ》、地震といふ事、昔より、あまたたび、ふる事にて、古記にも、とゞめ、長明「方丈記」などに、しるされたれども、目下(まのあたり)、見聞(みきく)事社(こそ)淺ましけれ。

[やぶちゃん注:寛文二年五月一日(一六六二年六月十六日)の午の上刻(午前十一時から同 十二時頃)に近畿地方北部を中心に発生した大地震(現在、二つの地震が連続して発生したと考えられている)「寛文近江・若狭地震」。当該ウィキによれば(太字は私が附した)、マグニチュード七・五程度で、『強震は近江、若狭に加えて、山城、大和、河内、和泉、摂津、丹波、美濃、伊勢、駿河、三河、信濃と広範囲におよび、比良岳』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『付近で顕著であった』とあり、震源は、琵琶湖南西の湖底下と推定されている。『本地震は近江国や若狭国において地震動が特に強く甚大な被害が発生したが、震源域に近く、当時約』四十一『万人の人口を有し』、『依然として国内第二の大都市があった京都盆地北部においても被害が多発した』。『京都の被害状況から寛文京都地震、従来、震源域が琵琶湖西岸付近であるとする考えがあったことから、琵琶湖西岸地震と呼ばれることもある』。『地震被害を記録した文献資料を分析した』結果、『近江国や若狭国は「倒壊」「崩壊」の文言が多くあ』る『一方、京都盆地北部の被害状況を記録した文献には「損壊」「大破」の記述が多い事から』、『京都の被害は近江国や若狭国よりも軽微であったとしている』。『この日は大雨で、京都の地震動も強く』、「基煕公(もとひろこう)記」の宝永地震(宝永四年十月四日(一七〇七年十月二十八日)、東海道沖から南海道沖を震源域として発生したもので、マグニチュードは八・四から八・六程度)の『記録において「昔卅六年己前(数え年)五月一日、有大地震、有大地震事、其時之地震ノ五分ノ一也」とあり、宝永地震の京都における揺れは』、『振動が長くとも破損を生じる程で』、『建物が倒壊する程では無かったものの、京都では宝永地震でさえ』、『寛文地震の揺れの』五分の一『程度の強さであったことになる』。「殿中日記」には『京都において二条城の御番衆小屋などが悉く破損、町屋が千軒余潰れ、死人』二百『人余、伏見城も各所で破損したとある』、『また』、『同日記には、近江では、佐和山(現・彦根市)で城がゆがみ』、『石垣が』五、六『百間』(九百九~一キロ九十一メートル)に亙って、『崩れ、家千軒余』、『潰れ、死人』三十『人あまり、大溝(現・高島市)では』家屋が千二十二軒、潰れ、死人は三十八人、『牛馬も多く死に、朽木谷(現・高島市)は特に激しい地震動に見舞われ』、『家が潰れ』、『出火により辺りが残らず焼失したと記されている。膳所や大津(現・大津市)も被害が多く、水口』(みなくち)『城でも門、塀、御殿が破損した』。「落穂雑談一言集」には『伏見で町屋』三百二十『軒余倒壊、死人』四『人、近江志賀、辛崎(現・大津市)では田畑』八十五『町余がゆり込み、並家』千五百七十『軒が倒壊したとある』。「元延実録」には『愛宕神社や岩清水八幡宮が大いに破損、知恩院や祇園も大方破損したとあ』り、「厳有院実紀」によれば『二条城は各所が破損したが』、『禁裡院は無事である旨、また』、『丹波亀山城、篠山城、摂津尼崎城、近江膳所城、若狭小浜城は崩れ、近江国朽木谷では朽木陣屋が倒壊し、多くの家臣らと共に隠居していた先代領主の朽木宣綱が圧死したとある』。『当時の被害の様子や』、『余震を恐れる人々など』、『当時の状況を詳しく記録した読み物として売り出された浅井了意の』「かなめいし」(寛文二年八月から同年末までに成立)が、『災害の社会像を伝える最初の資料地震誌である。上巻は京都での実況見分的に描写、中巻は京都以外の地震の災害の概要、下巻は日本地震の先例をあげる』。『京の方広寺の大仏は』『慶長伏見地震』(文禄五年閏七月十三日(一五九六年九月五日発生。震源は現在の東大阪市内。マグニチュードは七・五前後。なお、この地震などを受けて同年十月二十七日に慶長に改元された)『でも倒壊するなど』、『度々』、『災難に見舞われていたが、本地震でも』慶長一七(一六一二)『年に再建された銅製の大仏が破損したとするのが通説であ』り、『大仏は木造で再建されることとなり、破損した旧大仏は解体され』ている。「慶延略紀」によれば、『二条城や大坂城も破損するほどの揺れであり、江戸でも小震であったとされ』、現在の広島県の『福山でも有感』されており、「殿中日記」には『「長崎表も地震之由」とある。被害の全体では死者』八百八十名『あまり、潰家約』四千五百軒と『される』とある。本「新御婢子」はこの地震から二十一年後の天和三(一六八三)年刊であり、作者の西村市右衛門も京住まいであるから、この地震を体験しているものと考えてよいのではないかと思う。彼の生年は不明だが、以上の書き出しの凄惨な事実提示は、伝聞とは思われない。而して、やや前ではあるが、本篇が真正のあり得たような「都市伝説」としての様相を、冒頭からくっきりと浮かび上がらせる稀有の絶大なる効果を持っているのである。

「江州朽木(くつき)」滋賀県西部(湖西)の高島郡にあった朽木村(くつきむら)。この附近

「かづら川」不詳。

「榎木(えのき)・町居(まちゐ)・小谷(こたみ)村」現在の地名では見当たらない。見当たらないのは、しかし、ここに述べた通り、この地震による全壊・全滅というカタストロフによって、三箇所総てが絶えたと考えれば、逆に納得がゆく。

「吹端山(ふきばた《やま》)」不詳。これも、その山が三箇所を埋め尽くすほどに、致命的にピークが崩れ、消滅したとすれば、同じく納得できなくはない。ただ、ちょっと話を膨らましている可能性は高いように思う。因みに、後背部が比良山地で、旧朽木村の「端」という謂いからは、以上の三箇所があったのは、朽木比良附近(グーグル・マップ・データ航空写真)ではないかとは思われる。しかもここは推定震源地の北西十五、六キロと直近である。

「斷《ことわり》に過《すぎ》たり」「ただ、自然現象だから仕方がないという道理で言い収められても、凡そ、それで納得出来るようなものではない。」。典型的な大震災の後の心的外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorderPTSD)である。

「ふる事」「古る事」ではなく、「經る事」で、「そのれぞれの時代の人々が経験してきたこと」或いは「歴史に記されてきたこと」の意であろう。]

 或人の云《いはく》、

「『聖賢、出《いで》給はんとては、麟・鳳(りん・ほう)、先(まづ)、現じ、国に災(さい)ある時は、異形(《い》ぎやう)の獸魚(じうぎよ)、あらはるゝ。』と云《いへ》り。かほどの凶事に、天神地祇(てんじんちぎ)のしめし給ふ前表(ぜんひやう)もなかりし事よ。今、曉季(ぎやうき)の濁世(ぢよくせ)なれば、惡事は、たゞちに、惡事ありて、兼年(けんねん)のしるしなし。」

といふ。

[やぶちゃん注:「麟・鳳」麒麟と鳳凰。「和漢三才図会巻第三十八 獣類 麒麟(きりん) (仮想聖獣)」と、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう) (架空の神霊鳥)」を参照されたい。

「前表」前触れ。前兆。

「曉季」末(すえ:季)の末法の始まり(曉(あかつき))の意であろう。

「兼年の」「その年よりもかねてから前に」の意であろう。]

 

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[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。この人魚、なかなか綺麗な顔立ちである。]

 

 其席に何がしの兵四郞とかや申されし、

「前表こそ、在《あり》けれ。某(それがし)、所用あつて、九州におもむくに、或浦の漁父(ぎよふ)が、手に、人漁(にん《ぎよ》)[やぶちゃん注:ママ。]ひとつ、䋄(あみ)にかゝりしを見ける。かたちは、順(じゆん)の「和名(わ《みやう》)」に『魚身人面(ぎよしんじんめん)なる物也』と。實(げに)も、そなり。顏は、うつくしき女にて、髮、禿(かふろ)のごとく、手足、人間にかはらず、其外は、魚にて、尾鰭(おひれ)・鱗(うろこ)あり。生船(いけぶね)にあれども、異物のごとく、はねをどる事もなく、め、まじろかず。若(もし)、人音《ひとおと》のする時は、目を閉(とぢ)で[やぶちゃん注:ママ。後の対表現から「て」の誤刻と思われる。]、不ㇾ動(うごかず)。止(やめ)ば、則(すなはち)、目を開(ひらい)て、漂泊(へうはく)す。此浦の者ども、

『是、目出度《めでたき》瑞(ずい)也。昔、北條早雲、壯年の比《ころ》、舟にて、他(た)の国へ渡り給ひしに、ひとつの鯉魚(りぎよ)、船に飛入(とびいる)。「是、吉(きつ)なり。」とて、料理(りやうり)て、船中、賞翫(しやうぐわん)し給ひしが、程なく、大業《たいげふ》をたて、八州(《はつ》しう)をしたがへ給ひし。斯(かゝ)る小魚(しやうぎよ)さへ、まして况(いはん)や、人魚をや。當浦(たううら)の榮(さかへ)、疑(うたがひ)なし。いざ、分(わかち)とりて、たうべん。』

といふ中に、小賢(こざかしき)ものありて、

『是、吉(きつ)に非(あら)ず。凶也。ちかきに思ひ合《あはする》事、あるべし。』

と、いひて、人魚は、もとの海中へ、はなちやりけるが、おもへば、此年、大地震、ふりける。」

[やぶちゃん注:『順(じゆん)の「和名(わ《みやう》)」』源順(したごう)の「和名類聚抄」の巻第十九の「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六」に、

   *

人魚 「兼名苑」云はく、『人魚、一名は鯪魚(りやうぎよ)【上の音は「陵」。】魚身人面なる者なり。「山海経注(せんがいきやうちゆう)」に云はく、『聲、小児の啼(な)くがごとし。故に之れを名づく。』と。

   *

と出る。名を音読みするのは、敬意を示すので問題ない。

「まじろかず」瞬きをしない。

「北條早雲、壯年の比、……」不学にしてこの話は知らない。そもそも、九州のただの漁師の言う台詞なのに、突如、北条早雲が出てくるのは、何だか、場違いだし、こんな語り自体、漁師の話らしくない。而して、この話、「平家物語」の巻第一の「鱸(すずき)」、清盛が未だ安芸守だった頃に、熊野参詣の途中、船に鱸が飛びこむという吉兆があったという話とクリソツで、それを元に作り替えた話であろう。或いは作者は、確信犯で仕込み、真実あった話としての本話が、実話ではないことを、暗に匂わせたかったのかも知れない。

「ふりける」「震(ふ)りける」。]

と、いはれしに、傍(かたはら)なる人の云《いはく》、

「地震のふりける年、出《いで》たるとて、人魚を凶とする事、信用しがたし。昔、上宮(じやうぐう)太子、在(いまそ)かりし時、龍宮より、捧(さゝげ)て、太子の長生(ちやうせい)ならん事を、はかる、と、いへり。凡《およそ》此魚を食すれば、千歲(《せん》ざい)を經(ふ)るともいひ、不老不死也とも、いへり。かゝる目出度類(たぐひ)、是、吉瑞(きち《ずい》)ならずや。人魚なく共《とも》、地震は、ふるべし。地震なくとも、人魚出現の時、あるべし。」

と、いはれし。何(いづ)れを是(ぜ)とし、何れを非(ひ)とすべき、不ㇾ知(しらず)。

[やぶちゃん注:「上宮太子」聖徳太子のこと。この話は「聖徳太子絵伝」にあるが、献上相手が「龍宮」であるはずはなく、そちらでは摂津の国で獲れた人魚が献ぜられたことになっている。しかし、太子はその奇体な異形の異魚を見て、これは吉兆ではなく、災いを齎すものだと断じている。

 最後に南方熊楠の「人魚の話」をリンクさせておく。]

西原未達「新御伽婢子」 幽㚑討ㇾ敵

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

新御伽 卷五

 

     幽㚑討ㇾ敵(《いう》れい、かたきをうち)

 西國の内、いづくとやらん、所は聞《きき》忘れ侍る。

 飯尾何某といふ士、有《あり》。岡沢誰《たれ》とやらんと、途中におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、不慮の口論を仕出(し《いだ》)し、互に惡口の上、既に討果(うちはた)さんとせしを、大勢、取扱(《とり》あつかひ)て押《おし》わけたり。

 理非をいはゞ、飯尾は、智謀、兼備(かねそなへ)て、堪忍(かんにん)を宗(むね)とし、岡沢は血氣の勇者にて、しかも憶病也。早く刀を拔(ぬき)たれ共、人なき間(ま)に切付《きりつけ》ず、大勢を見かけて、

「募(つのり)たり。」

と、人口(じんこう)にかゝりければ、無念にや在(あり)けん、人をして、飯尾を闇討(やみうち)にしけり。

[やぶちゃん注:「募たり」ちょっと話の運びとしては圧縮し過ぎである。止めに入ることになる「大勢」の中の誰かが、臆病な岡沢の癖に、というニュアンスをもって、「あいつ、きちまってるな。」と呟いたのであろう。それで、やおら抜刀したものの、その大勢に、止めに入られた結果、それらを「無念」に思ってか、卑怯にも人に頼んで、飯尾を闇討ちにした、というのである。]

 暫(しばし)は知れざりけれども、のちのち、それと沙汰しぬ。

 飯尾が妻、夫の討れたる時、懷胎したるが、父が死後に生れて、男子なりければ、名を「鬼七郞」と呼(よぶ)。

 襁褓(きやうばう/むつき)の内より、此母、子にかき口說(くどき)て云《いはく》、

「汝が父は岡沢が爲に討れて、世になし。早(はやく)生長(ひとゝなり)て、敵(かたき)をとり、尊㚑(そんれい)に手向(たむけ)よ。」

と。

 過行《すぎゆく》月日、送り寄(よせ)て、鬼七、十四歲に成《なり》けり。

 過《すぎ》こし年月も、只、其事斗《ばかり》を、いひ聞《きか》せ、竹馬に鞭打《うつ》比《ころ》より、只、兵術を稽古けるに、其年よりは、をそろしく[やぶちゃん注:ママ。]、敢(あへ)て討損(うちそんず)べくもなし。

「來年、十五にならば、必(かならず)、敵(てき)の屋敷へかけこみ、一太刀、恨(うらみ)よ。」

と、いひければ、武(たけ)き母が介抱に、いとゞ、すゝみ、勇むで、母にいふやう、

「來年を待《まつ》こそ、遠く侍れ。雷光朝露(でんくわうてうろ)のたのみなき命(いのち)に、ながゝらん月日を、むなしく待《まち》つけ侍らんは、おぼつかなし。我、わかくして、しか也《なり》、敵(かたき)の、さかり過《すぎ》たるを、あんあんとまもり居《をら》んに、若《もし》、病死をせしなどゝいはば、悔(くゆ)とも、益なからん。唯、思ひ立《たつ》時、速(すみやか)に屋敷にかけこみ、討(うち)申さん。」

と、いさむに、母、甚(はなはだ)喜び、

「いでや、敵(かたき)は、用心、きびしくて、容易(たやすく)いらん事、かたかるべし。方便(てだて)を以て討(うた)せん。」

と、是彼(これかれ)、思慮をめぐらす程に、其比《そのころ》、西國、疫癘(えきれい)はやりて、人數《にんず》を盡して、死す。鬼七も此病に臥(ふし)けるが、發病より九日といふに、空(むなしく)成《なり》ぬ。

 母、もだへ、こがれて、喚(さけべ)ども、甲斐なし。

 せめて、なきがらに、むかひ、なくなく、口說《くどく》やう、

「常に、汝にいひ聞せたる事、草の陰にても、忘るゝ事なくば、一念をはげみて、敵(かたき)の命をとれ。相《あひ》かまへて、忘失(ぼうしつ)せば、ふけうするぞ。此太刀は、汝が父の重寶(でうほう[やぶちゃん注:ママ。])にて、汝、存命の時、常に持《もた》せ侍り。今、此棺に、納(をさむ)るぞ。」

と、齒をかみて、淚にむせぶさま、

「理《ことわり》ながら、女にては、余(あまり)なれば。」

と、人、舌をまきて、をのゝく。

 其後、或夜、更(ふけ)て、大崎何がしといふ人、所用ありて、彼《かの》岡沢が表を通りしに、十四、五なると見えし少人(しやうじん)、大崎に向(むかひ)て、いふ、

「某(それがし)は、去(さる)屋敷に仕(つかふ)る者にて侍る。主人なる奧方、物恠(ものゝけ)にいたはり侍る。巫(かんなぎ)の申《まをし》侍るは、『此寢所(しんじよ)より、艮(うしとら)にあたりたる家の、屋札(やふだ)を取《とり》て、病人に載(いたゞかせ)よ。』と申すに、折節、傍(そば)に有合(ありあひ)、此使(つかひ)に當(あた)るに、夜陰(やいん)にて、物の色、あひ安定(さだか)ならず、幸《さひはひ》、そのかたに、一僕(《いち》ぼく)を召《めし》、灯燈《ちやうちん》を持《もた》せ給へば、借(かり)參らせ度(たく)侍る。病(やまひ)、癒《いえ》ば、君《くん》の御厚恩にこそ。」

と、詞(ことば)をたれていふに、大崎、

「容易(いとやすき)事なめり。火を借(かす)迄もなし。それ、札、まくりて得させよ。」

と、いへば、僕、ふりたてゝ、

「めりめり」

と、とると見えし。

「忝(かたじけない)。」

と一禮したるが、いづち行《ゆき》けん、不ㇾ知(しらず)。

「何樣、狐のたぼらかしけん。」

など、主從、笑ひゐるに、彼(かの)屋敷の内、物騷(《ものさはがしく》、聲高(こゑだか)に、

「只今、夜討(ようち)入《いり》て、主人を害せし。出《いで》あへ。」

と、よばわる。

[やぶちゃん注:「屋札」この場合は、神仏の守札を指す。]

 

Iureikatakiwotoru

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 大崎、驚き、

「かゝる所に長居し、罪をふわざも有《あり》なん、『瓜田不ㇾ納ㇾ履、李下不ㇾ正ㇾ冠。〔瓜田(くわでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠《かんむり》を正さず。〕』とこそいへ。」

と、足ばやに、のきぬ。

 三丁[やぶちゃん注:約三百二十七メートル。]斗《ばかり》行《ゆき》て、ほそく流れたる河あり。

 彼(かの)少人、又、爰《ここ》に在《あり》て、血、つきたる太刀を、水に洗ふ。

 大崎を見て、いふやう、

「只今の報恩、申すも、中々、言語(ごんご)に絕《たえ》たり。我は、當庄(しやう)飯尾何がしが悴、鬼七郞。能(よく)覺え給《たまふ》べし。此岡沢は、年來(ねんらい)の親の敵(かたき)なる事、擧ㇾ世(よ、こぞつて)知る所也。我、不幸にして、早世す。一身の妄執のみか、母にも、いたく諫(いさめ)られて、魂、爰に立歸《たちかへ》り、思ひの儘に討(うち)をほせぬ[やぶちゃん注:ママ。]。願(ねがはく)は、君、迚(とても)の情(なさけ)に、母に、此事、語りて給《た》べ。自(みづから)參侍らんが、司錄神(しろくじん)に申せし暇(いとま)の限(かぎり)、近ければ、又、黃泉(よみぢ)に歸る也。」と、頸(くび)と刀を、大崎に渡し、跡かたなく消(きえ)ぬ。

[やぶちゃん注:「司錄神」」地獄の裁判に於いては「司命(しみょう)」と「司録」という書記官が必要な実務処理を担当する。現世での堕獄した者の行いを漏れなく記し、閻魔王を始めとする十王の各冥官の判決文を録する。]

 大崎、奇異の思ひをなし、母に是(これを)授(さづく)るに、母、嬉しき顏ばせにて、語る。

「此太刀は、父が死して後に、此子、身を放さず持《もち》しを、罪ふかき事ながら、『一魂、歸りて、敵(かたき)を取れ。』と、せみやうし、棺の内に入(いれ)たりしが、扨《さて》は。終《つひ》に、此太刀にて、討けるよ。」

と、且は、喜び、且は、歎(なげき)て、淚を流しけるが、是より、妄執はるけければ、則(すなはち)、尼に成《なり》て、妻子の菩提を弔(とひ)けるとぞ。

[やぶちゃん注:「せみやう」訝しいが、「宣命(せみやう(せみょう))」か。しかし、これは、天皇の命令を伝える文書の一形式であって、おかしい。

「妻子」この「妻」は「夫」の意。]

西原未達「新御伽婢子」 名劍退ㇾ蛇 / 巻四~了

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 なお、本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     名劍退ㇾ蛇(めいけん、へびをしりぞく)

 都の外(ほか)、大原といふは、古(いにし)し[やぶちゃん注:ママ。]女院(にようゐん)、世を遁(のがれ)させ給ひし名のみして、其跡、たて[やぶちゃん注:「たえて」(絕えて)の脱字か。]、かすかに、あやしの賤(しづ)の女(め)の柴かづくわざなん、今、所がらとて、おかし[やぶちゃん注:ママ。]。

 其里に安左衞門とかやいふ、隱士(かくれたるさふらひ[やぶちゃん注:左の読み。右にはない。])あり。平生、釣を好(このん)で、夏(なつ)、川になれば[やぶちゃん注:ママ。「川」は誤記か誤刻、若しくは、「夏の川」であろう。]、或時は、鵜(う)の巢(す)前川(まへ《かは》)の浪にひたり、又、或時は賀茂・貴布祢(きふね)の流れにあそびて、いたらぬ渕瀨(ふちせ)もなく、わたらぬ水の氾(よどみ)もなし。

 或日、友をいざなひ、勢田の橋の下(しも)、南鄕(なんがう)といふ所に、適遥(せうやう)して、釣竿を下《おろ》す。

 爰に、ひとつの渕あり。

 昔より、此所に、

「をそろしき主あり[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いひ傳(つたへ)て、更(さらに)、

「殺生禁斷(せつしやうきんだん《の》)所也。」

と、皆人、釣せず、䋄(あみ)する事、なし。

 浪、蒼々と樣流(うづまき)、岸にふりたる松、くらく、水中に陰をひたし、誠に物すごき絕景也。

 友の人は、皆、心々《おもひおもひ》に、別れちりて、漁(すなど)る。

 爰に、此人、ひとり、彼(かの)渕をのぞみ見るに、鮞(はや)・鯥(むつ)などやうの魚、群(むらがる)事、重ねたるごとし。

 見るに不ㇾ堪(たへず)して、針をおろすに、魚を得る事、うつすがことく、

〽間(ひま)なく魚をとる時は 罪も むくひも わざはひも

と、ざれ歌、諷(うた)ひつべう覺えて、面白く、魂(たましひ)、空(そら)に成りてゐる。

 暫(しばし)して、浪、さはがしく、風、一通りして、などやらん、心ちよからぬ所に、水中より、名のみ聞(きく)、※蛇(うはばみ)斗《ばかり》の長(ながき)もの。岸の松の木にのぼるを見れば、一身、鱗(うろこ)だちて、肌のするどなる事、何(いづれ)を松、何れを蛇(じやせい)勢と、見わかず、下枝に蟠(わだかまり)、首(くび)をさげて、のまんとす。

[やぶちゃん注:「※」は「虫」+「白」。]

 をそろしさ[やぶちゃん注:ママ。]、いはんかたなく、竿も、ゑふごも、投捨(なげすて)、刀(かたな)をぬいて、追い拂ひ[やぶちゃん注:ママ。]、尻しざりに、逃去(にげさり)、大路(《おほ》ぢ)に出《いで》て、息も、つきあへず、あやしの茶店(ちやてん)に、少《すこし》、休らひ、猶、大原の里に歸りぬ。

 おもふに、此刀、信国(のぶくに)とかやなれば、近付(ちかづき)得ずして、危(あやうき)命(いのち)、のがれけるとぞ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、小松の重《しげ》もり卿、池どのゝもとに、晝寢してゐられけるに、此池の大蛇、重もりを、のまんと、うかゞひよるに、枕もとなる刀、をのれと拔(ぬけ)て、大蛇を池に歸しける。太刀風《たちかぜ》に目ざめて、此刀のぬけたるを見て、

「かく。」

と、しられしと、「平家」には書《かけ》り。

 是より、此刀を稱美して、「蛇(じや)かゑし[やぶちゃん注:ママ。]」と号(なづけ)られけるとぞ。

 古今(ここん)年數を隔だゝれども、名劍の德、つくる事なく、猶、後世(こうせい)までも、かゝるきどく、なん、在《あり》ける。

 

 

新御伽巻四

[やぶちゃん注:「女院」「平家物語」の「大原御幸」で知られる安徳天皇の母である平徳子。

「鵜(う)の巢(す)前川(まへ《かは》)」不詳。分離させても、京の川に該当するものがない。或いは、宇治川の鵜飼(うかい)を、かく言っているのかも知れないと感じはした。識者の御教授を乞うものである。

「南鄕」現在の滋賀県大津市南郷(グーグル・マップ・データ)。

「樣流(うづまき)」「西村本小説全集 上巻」では、ここは『□流』でルビに『うづまき』とあって、判読不能字となっている。私は脱字なのかと思ったのだが、底本には確かに漢字が書かれてある。私には、「樣」の崩ししか見えなかった。暫くこれを当てておく。

「鮞(はや)」淡水魚で食用とする複数の魚を指す「ハヤ」類(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、それが示す種は、本邦では概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指すと考えてよい。

「鯥(むつ)」上記注の最後の二種。ヌマムツは二〇〇三年に同属別種とされるまで、カワムツの変異型とされていた。

「信国」初代信国(生没年不詳:応安二(一三六九)年没か)は南北朝時代の山城国の知られた刀工。

「小松の重もり」平清盛の長男重盛。但し、ここに出る話は、「平家物語」ではなく、「平治物語」の「待賢門軍(いくさ)の事」の一節で、重盛ではなく、清盛の父(義父とも)忠盛の話。そもそもこのシークエンス、重盛には全く似合わないおかしな話である。筆者は書きながら、そう思わなかったことが、甚だ不審である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを底本として電子化する。

   *

賴盛は兜に熊手を切り懸けながら、取りも捨てず、見も返らず、三條を東へ、髙倉を下りに、五條を東へ、六波羅までからめかして落ちられけるは、中々に、優にぞ見えたりける。名譽の拔丸(ヌケマル)なれば、能く切れけるは理(コトワリ)なり。此の太刀を拔丸と言ふ故は、故刑部卿忠盛、池殿に晝寢(ヒルイネ)しておはしけるに、池より大蛇(ダイジヤ)あがりて、忠盛を呑まんとす。此の太刀枕の上に立てたりけるが、自らするりと拔けて、蛇(ジヤ)に懸りければ、蛇(ジヤ)恐れて池に沈む。太刀も鞘(サヤ)に返りしかば、蛇又出て呑まんとす。太刀又拔けて大蛇を追ひて、池の汀に立ちけり。忠盛之を見給ひてこそ、拔丸とは附けられけれ。當腹(タウフク)の愛子に依りて、賴盛之を相傳し給ふ故に、淸盛と不快なりけるとぞ聞えし。伯耆國大原の眞守(サネモリ)が作と云々(カヤ)。

   *

「池どの」平忠盛の正室で、清盛の継母に当たる池禅尼(いけのぜんに 長治元(一一〇四)年?~ 長寛二(一一六四)年?)。]

2022/09/26

西原未達「新御伽婢子」 憍慢失

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注は最後に置いた。]

 

     憍慢失(きやうまんのしつ)

 城刕市原といふ所に空也の流(ながれ)を繼ぐ念仏師、世に「鉢たゝき」といふあり。寒夜の曉(あかつき)、七所(しよ)の墓所をめぐつて念仏し、廽向(ゑかう)する事、每夜也。

 年々の冬每(ごと)に勤(つとめ)けるに、いつ別形(べつぎやう)の者にも出合《いであは》ず、をそろしき心、夢斗《ばかり》もなし。此男、自讚していふ、

「大かたの世の人は、人家より人家に行《ゆく》をさへ、夜、少《すこし》更(ふけ)ては、をそろしき[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]心を發《おこ》しまして、山埜の淋しきには、其儘も死する心ちに憶(おく)する者あり。我、數年《すねん》、三昧に行《ゆき》かよふといへ共、をそろしとも思ひ侍らぬは、生(むま)れ付《つき》の強勢(がうせい)なると、信心の金剛なるとに、有《り》。」

と、甚(はなはだ)、憍漫して、いつものごとく、詣ずる。

 

Hatitataki

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 ある三昧に廽向し、立歸らんとするに、其長(たけ)、弐丈も有らん、大の男、眼(まなこ)は、鏡に朱をそゝぎたる如く、口、鰐(わに)にひとしく、耳の根へ切れたるが、此男を、

「つくづく」

まもりて、立《たち》たり。

 一目見るより、

「はつ。」

と、おもひ、目くれ、心まどひながら、漸々(やうやう)、余(よ)の道に逃(にげ)わしる[やぶちゃん注:ママ。]。

 半町斗《ばかり》も來つらんほどに、又、前の男に少もたがはぬもの、出《いで》て眞(ま)むかふに、立《たち》ふさがり、

「何と。此《か》やうなるもの、あの三昧にも居(ゐ)たるや。」

といふ。

 此時にこそ、氣を取失(《とり》うしな)ひ、大地に、まろび臥す。

 やゝありて、時雨、一通《ひととほり》して、咽(のんど)をうるほし、天然(てんえん)に心づきて、あたりをみるに、東雲(しのゝめ)、漸々、明《あけ》はなれければ、とかくして、家に歸りけれ共、彼(かの)襲《おび》へ[やぶちゃん注:ママ。]、忘れがたくて、

「俤(おもかげ)に、たつ。」

と、いひしが、二、三日、經て、死《しに》けるとぞ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 すべて、仏法《ぶつぼふ》・世法《せいはふ》の事につきて、

「われこそわ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、慢心をおこす事、是ほどまで、正(まさ)しき妖《えう》をこそ見ざらめ、さしあたりて、知もなく、德もなき人に、おとり見ゆるぞかし。いかに、いはんや、さまでもなき所作をや。

[やぶちゃん注:「市原」現在の京都府京都市左京区静市市原町(しういちいちはらちょう:グーグル・マップ・データ)。

「鉢たゝき」「鉢叩・鉢敲」。平安時代の空也上人が始めたと伝えられる踊念仏(おどりねんぶつ)を元とする民俗芸能。瓢簞(ひようたん)を叩き、念仏を唱えて踊る。中・近世には門付(かどづけ)芸として半僧半俗の芸能者によって演じられた。挿絵の風貌を見ても、本格的な念仏修行者ではなく、普段は、そうした芸能を生業としている者である。但し、、特に十一月十三日の空也忌(これは実際の忌日ではなく、彼が東国教化のため、京の出寺したその日を忌日としたもの)より除夜の晩まで、洛中を勧進し、葬所を巡って念仏を唱えるそれを、曲りなりにも欠かさずにやっている点では、「空也の流(ながれ)を繼ぐ」正統な「念仏師」の一面を持ってはいる人物である。

「三昧」ここは「三昧場(さんまいば)」のこと。葬場・火葬場・墓地を言う。

「半町」約五十四メートル半。]

西原未達「新御伽婢子」 梭尾螺

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 なお、本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     梭尾螺(ほらの《かひ》)

 往昔(そのかみ)、松前に下りし人の語りしは、或山里に、旅店(りよてん)、求(もとめ)て、常ならず、日高(ひだか)なれば、寢もいられず、亭主を招(まねい[やぶちゃん注:ママ。])て、

「上がたになき、珍らしき事や、ある。」

と、万(よろづ)の物がたりさせて、聞《きく》に、だみたる聲の、言舌(ごんぜつ)ふつゝかなるぞ、先(まづ)、可笑(をかしき)。

「此所《ここ》の、さま後(うしろ)に、嶮岨(けんそ)の山、つゞきて、右へ遠く、左の方《かた》は、此山のとまりにて、尾さき、すさまじく、卓々(たくたく)たる岩かど、尖(とがつ)て、釼(つるぎ)のごとく、十町斗《ばかり》こなたに、入江の崩口(くづれ《ぎち》)有《あり》、そばだつ事、三町斗、手きゝの工(たくみ)に、鉋(かんな)もて、けづらせたるに、ひとし。此山上に至(いたつ)て、爰《ここ》を覗(のぞか)ば、いかに心つよき者も、目くれて、水に落《おち》ぬべし。」

[やぶちゃん注:「此所《ここ》の、さま後(うしろ)に」以下は、ここの附近の地勢の細部が描写されていることから、「旅店」=「宿」の亭主の台詞である。

「さま後」真後ろ。後背。

「卓々たる」ひときわ高く抜きんでているさま。

「十町」約一キロ九十一メートル。

「三町」約三百二十七メートル。]

「地震なんどにぞ、斯(かく)崩れたるものなるべし。」

と、とふに、亭主、語つて、

亭主「いくとせに成《なり》とも不ㇾ知《しれず》、某(それがし)の祖父(そぶ[やぶちゃん注:ママ。])にて在し者の語り侍る。是より北一里の間は、民家、多く續(つづい)て、數百軒(《すひやく》けん)、宮寺、有り。士農工商、有《あり》て榮(さかふ)る事、晝夜、市中(し《ちゆう》)のごとし。

 或時、何法眼(《なんのほふ》げん)とかやいふ名醫、此所《ここ》に一宿し給ふ。

[やぶちゃん注:「法眼」中世の以降の武家時代に医師・絵師・連歌師・儒者などに授けた称号。]

 既に寢所に入《いり》て、自(みづから)兩手を拳(にぎつ)て、脉《みやく》をうかゞふに、雀啄屋漏(じやくだくをくろう[やぶちゃん注:ママ。])の死脉、あらはる。

[やぶちゃん注:「雀啄屋漏」「死脈」「雀啄」は雀が物を啄(ついば)むようなリズムを指すか。鍼術で「雀啄術」というのがあり、サイト「東京都はり灸マッサージ師会」のこちらによれば、『直に(まっすぐに)鍼を下し、鍼尖を止める深さは患者の感受性と部位の状態に適宜したがうようにする。適当な深さまで鍼尖を進み入れたら、雀がチョクチョクと餌を啄むように連続的に鍼を上下させる。呼吸四五息も抜き刺ししたら、鍼尖をすっかり離して少し休んでから、またチョクチョクと抜き刺しする。たびたびこの様に抜き刺しして、最後によく捻ってから、直に鍼を引き抜き、鍼痕を速やかに閉じる』とあった。さすれば、緩急或いは間歇のある不整脈のように思われる。「屋漏」同前で、「屋漏術」がやはりあり、『まず鍼を五分ほど直に皮毛の分に刺入し、呼吸五六息ほど鍼を捻り天部の気をうかがってから、呼吸五六息ほど雨漏りの落ちるように荒く鍼を抜き刺しする。また鍼を五分ほど肌肉の分に刺入し、同じく鍼を捻り人部の気をうかがってから、荒く抜き刺しする。また更に鍼を五分ほど筋骨の分に刺入し、同じく鍼を捻り地部の気をうかがってから、荒く抜き刺しする』。『引き抜く時もまた、五分ほど直に引き、鍼を捻った後、荒く抜き刺し、また五分ほど引き、鍼を捻った後、鍼を抜き去り痕を閉じる』とあった。文字通り、雨漏りの雫のリズムで、早い脈を言うか。さらに調べると、「死脈」は日本鍼灸研究会の中川俊之氏の論文「死脈の変遷について」(『日本医史学雑誌』第 六十四巻第二号・二〇一八年発行・PDF)によれば、死脈は、脈の打ち方それ自体が、予後不良を表わす脈状を指すとあり、その論文中にも「雀之啄」「雀啄」と「屋之漏」「屋漏」の死脈が挙げられてあった。さらに、「J-Stage」のこちらからダウン・ロード出来る中谷義雄(なかたによしお)氏の論文「脈診」(『良導絡』第千九百六十六巻 ・一九六六年 ・百二十三号)を発見、そこに、「雀啄」は、『連続に三〜五回脉動がきて一呼吸程、脉動がなく又三〜五回脉動すると云う様に、丁度雀が物をつゝき食べる様にくる脉が現われると、四〜五日はもつが死亡することが多い。これは』、『脾』・『腎』『の機能が全く減退したからである』とあり、「屋漏」は、脉が不整脈を呈し、二呼吸の間に一動したり、雨漏の様に連なりてきたりする様な脉を云う。これも』『胃』『の機能が全く減退した為に死亡する』とあった。]

「恠(あやしい)かな、心神、安くして、更に病(やまひ)なし。」

と、重(かさね)て診(しん)するに、更(さらに)、止(やむ)事なく、死期(しご)近きにあり、と覺ゆ。

 若黨(わか《たう》)・仕丁(してう)其外、家(いへ)の彼是(かれこれ)、集(あつめ)て、脉を診するに、或《あるい》は、彈石(だんせき)、或《あるいは》、魚翔(ぎよしやう)、鰕遊(か《いう》)の脉、出(いで)て、皆、死脉ならぬは、なし。

[やぶちゃん注:「彈石」「魚翔」「鰕遊」総て中川氏の上記論文に載り、再び、中谷先生の前掲論文から引用すると、「弾石」は、『脉は硬く石を弾くが如く強く感じる脉、これは』『腎』『と』『肺』『の機能が全く減退したからである』とあり、「魚翔」は、『指にふれる様な、ふれない様な、脉動は早く去り、次の脉の来るのが遅い。寸部』(右手の手首附近を言う。当該論文の中に図有り)『では脉を感じないで魚の尾だけが、ひらひらと動く形に似ているのでこの名がある』。『腎』『の機能の全く減退した場合に起る』もので、『六時間以上はもたないことが多い』とあり、「鰕遊」は「蝦遊」で出、『浅く細長くふれる静かな中で一度脈動が強くふれているかと思うと又いつの間にかふれなくなる、蛙が水中にあって、にわかに水の底に入り』、『また』、『水の面にあらわれてきた様な感じの脉を云う』。『脾』・『胃』『の機能の全く減退した時に起る。この様な脉を呈すると間もなく死亡する』とあった。なお「蝦」には、「ひきがえる」の意がある。]

「扨は。此家か、若(もし)は、此里か、廣(ひろく)は、一國、同時に、天災にあふ事。必定(ひつ《ぢやう》)。遁(のがれん)には。」

と、亥の刻斗《ばかり》、俄《にはか》に宿(やど)を出《いで》て、道々、駕籠(のりもの)の内にして、自身の脉を見給ふに、壱里此方(こなた)の此山里にて、更に、本脉(ほんみやく)出《いで》たり。

 供の者をうかゞふに、敢(あへ)て、死脈、なし。

 是に驚き、宿の一家・親(したし)き者にも語り、聞せるより、一在(《いち》ざい)、ふれわたりて、周章(しうしやう)す。

 律義なるは、忽(たちまち)、所を去り、信用せざる者は、

「何條(なんでう)、ことなる事、あらん。」

と咋(あざわらひ)て、出ぬ者も、數多(すた[やぶちゃん注:ママ。])なりし。

 其夜の、子の刻の終(をはり)にや、西の方《かた》の高山(かうざん)、鳴(なり)ひゞく事、誠《まこと》に、大山《おほやま》、崩(くずれ)て、海に入《いるる》事なれば、喩(たとへ)をとるに、物、なし。

 此響(ひゞき)、近鄕、二、三里に動滛(どうよう)[やぶちゃん注:ママ。]するとひとしく、山、ふたつに碎(くだく)ると覺えし。

[やぶちゃん注:この「滛」の字には「搖」との同義はなく、「浸す・恣(ほしいまま)・ 淫(みだら)」の意で、代字としては相応しくない。]

 幾憶(いく《おく》)、限(かぎり)なき、ほらの貝、うねり出《いで》て、草木土石(さうもくどせき)、打交(《うち》まじり)、民家の上に覆《おほ》ひかゝりしに、「津波」といふ物、沖より、うつて、今、殘りたる岸(きし)を限(かぎり)に、一時(《いち》じ)に大海に打こみ、一物(《いち》もつ)も、殘らず、なりぬ。

 死たる人、かぞふるに、いとまなし。

 其外、牛馬犬鷄(ぎうばけんけい/  いぬにはとり)、山を家《いへ》とする狐狸兎猿(こりとゑん/きつねたぬきうさぎさる))此ひゞきに、驚き、岩に隱れ、木にのぼれ共《ども》、大地の根(ね)をたつて、崩(くづ)し行《ゆく》。

 波に遁去(のがれさる)便(たより)もなく、卽時に滅沒(めつぼつ)して、夢に夢見るありさま也し。

 それより、かく、家、なく、人、なく、あれ果(はて)て、さはがしき松の風、波の音のみ、枕にかよひて、近きわたりの在々所々にも、柴薪(しばたきゞ)を市(いち)にひさぐ、便りなく成《なり》て侍る。」

と語りしとぞ。

[やぶちゃん注:崩落・地震・津波をメインとした災害型怪奇談で、最後まで読ませる、優れた一篇である。標題を「梭尾螺(ほらの《かひ》)」(底本は「かひ」を「かい」とする)の割に出番は、「幾憶(いく《おく》)、限(かぎり)なき、ほらの貝、うねり出《いで》て」というワン・シーン(或いはカット・バック)だけであるが、これは無論、海産の、本邦の貝類では最大級クラスにランク・インする、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis

である。まず、漢名である「梭尾螺」であるが、「梭」は「ひ」(「杼」とも書く)で織機の付属用具の一つである、シャトルのことである。緯(よこ)糸とする糸を巻いた管を、舟形の胴部分の空所に収めたもので、端から糸を引き出しながら、経(たて)糸の間を左右に潜らせるためのもの。滑らかに確実に通すために舟形の左右が尖っており、ホラガイは著しく大きく、螺頂が尖っているのが目立つ類似性と、螺頂を古人が貝殻の「尾」部と認識したことによる命名と思われるが、そもそもが、腹足類(巻貝類)には螺頂が高く尖っているものは多く、ホラガイのような長巨大なそれよりも、寧ろ、中小型の別種の複数の種の方が「梭」の尾には似ており、実際に「梭」に遙かに酷似した、ズバリ、

吸腔目タカラガイ上科ウミウサギガイ科ヒガイ(梭貝)属ヒガイVolva volva habei

がおり、この漢名は私には全く腑に落ちないのである。次に、「何で地震で、法螺貝が山の中から出るねん?」とおっしゃる方は多かろうと思う。実は、山の崩落や地震時には、本邦では――妖怪のように――山から――法螺貝が出現する――ことが、江戸以前の民俗社会ではかなり頻繁に語られたのである。山に年経た海の法螺貝が住んでおり、それが神通力を得て、龍となって昇天するという「出世螺(しゅっせぼら)」伝承は、実はかなりメジャーで日本各地に残っているのである。というより、ちゃんとした本草書である貝原益軒の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 梵貝(ホラガイ)」でさえも、例外ではないのである。そこで益軒先生でさえ(太字は私が附した)、『今、按ずるに、俗に「ほらの貝」と云ふ。大螺なり。佛書に法螺(ほうら)と云ふ、是なり。海中、或いは山土の内にあり。大雨ふり、山くづれて、出(いづ)る事あり。大に鳴れりと云ふ。本邦、昔より軍陣に用(もちひ)て之を吹く。「源平盛衰記」に見ゑたり。佛書「賢愚經」にも、軍に貝を吹(ふく)こと、あり。亦、本邦の山伏、これを、ふく』とあり、さらに畳みかけるように、『後土御門院明應八年六月十日(ユリウス暦一四九九年七月十八日)、大風雨の夜、遠州橋本の陸地より、法螺の貝、多く出て、濵名の湖との間の陸地、俄(にはか)にきれて、湖水とつゞきて、入海(いりうみ)となる』というトンデモはっぷんの解説を大真面目でやらかしているのでも、お判り戴けるであろう。図入りのものでは、解説を上記の「大和本草」から殆ど丸ごと剽窃している『毛利梅園「梅園介譜」 梭尾螺(ホラガイ)』がよかろうが、「何で、山の中から法螺貝が?」という疑問には、人がまず立ち入らない深山に山伏の吹く法螺貝が置かれているのを、たまたま目撃したのを、「生きた法螺貝が山の中にいる」という錯誤を生んだというのが、最も無理がなく、納得出来るものと思う。或いは、本邦では先史時代より前の隆起によって貝の化石が山間部からもよく出土することとも関係すると思われる。ホラガイの化石が頻繁に出るというのは聴かないのだが、多数の貝化石が山中から出土すること自体が、近世以前の人間にとっては、それだけで怪奇であり、それは、容易に「巨大な貝の石に化けた奴らの親玉妖怪が、山中の洞穴辺りの中にきっといるに違いない。とすれば、それはもう、あの大きな法螺貝に決まってるぜ!」という連想に発展することは、極めて腑に落ちるのである。さらに、山伏が山中で吹くそれは、異様な音として、遠くまで響き、それが山崩れの音や現象と、幻想上の相似性を持って認識されたというのも、異論はあるまい。具体に妖怪としてのそれを見るなら、例えば、私の電子化物では、「佐渡怪談藻鹽草 法螺貝の出しを見る事」、或いは、同書の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や、「三州奇談卷之五 縮地氣妖」がある。なお、この話のモデルになった地震は不明である。本書は天和三(一六八三)年刊であるが、旅宿の亭主の祖父の記憶に基づくとしていること、松前藩が立藩してからのことと推定出来るので、その必要条件を満たし、被害の生じた津波が発生した地震は、慶長十六年十月二十八日(一六一一年十二月二日)に発生した「慶長奥州地震」である。主に被害を受けたのは現在の青森県・岩手県・宮城県で、地震の規模は諸説あるが、マグニチュード八・一と当該ウィキにはある。但し、この時に発生した津波が松前を襲ったかどうかも判らないし、松前藩内の海浜で大規模な山崩れが発生したという話も調べ得なかった。逆に、ウィキでは、『この地震において、現在の三陸海岸一帯は強震に見舞われたが、太平洋側沿岸における震度は』四~五『程度と推定され、地震による被害はほとんどなく、津波による被害が大きかったことから津波地震と推定されている』とあるので、松前で山崩れが起きた可能性は限りなくゼロに近い。ただ、本篇が「津波」を語っている点では、モデルであったという感じはする。]

西原未達「新御伽婢子」 茸毒

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

       茸毒(くさびらのどく)

 貞德翁の「なぐさみ草」といふ物に、『「春三月(みつき)のほど、鮒(ふな)の頭に毒あり。」と。或醫師のもとにて、春、鮒を料理せられしに、頭(かしら)ともに出《いだ》されける。是より、此人の學問のほど、推量(《おし》はかり)侍る。』と書《かけ》り。

[やぶちゃん注:『貞德翁の「なぐさみ草」』江戸前期の俳人・歌人・歌学者の松永貞徳(元亀二(一五七一)年~承応二(一六五四)年)の慶安五(一六五二)自跋のある「徒然草」の注釈書。「新日本古典籍総合データベース」で全ページを一回縦覧したが、発見に至らなかった。余裕ができたら、再度、挑戦してみる。

「春三月(みつき)のほど、鮒(ふな)の頭に毒あり」寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」(リンク先は私の古いサイト版電子化注)の「鮒(ふな)」の項に、

   *

「本草必讀」に云ふ、『鯽の頭、春月、腦の中に、蟲、有り。此の魚、原(もと)、田の稷米(しよくべい)の化生(けしやう)する故、肚(きも)に、尙、米の色、有り。』と。

   *

とあり、そこで私は注して、

   *

「腦の中に、蟲、有り」とあるが、鯉と同様、扁形動物門吸虫綱二生吸虫亜綱プラギオルキス目後睾吸虫上科後睾吸虫科の肝吸虫(肝ジストマ)Clonorchis sinensis及び同上科の異形吸虫科の横川吸虫Metagonimus yokokawaiさらに線形動物門双線綱センビセンチュウ目(旋尾線虫目)顎口虫科顎口虫属ユウキョクガッコウチュウ(有棘顎口虫)Gnathostoma spinigerumの感染が考え得る。ここでも背柱側筋内に多く寄生し、おぞましい皮下移動症状や脳障害・失明等を引き起こす有棘顎口虫Gnathostoma spinigerumを指しているか。

「本草必讀」という書は、東洋文庫版「和漢三才図会」訳注の後注には、『「本草綱目類纂必読」か。十二巻。』とのみあるだけである。中国の爲何鎭なる人物の撰になる「本草綱目」の注釈書であるらしい。

「稷米」はイネ目イネ科モロコシ(コウリャン)Sorghum vulgareを指すか。音読みならば「しよくまい」又は「しよくべい」、訓読としては「きびのもち」又は「きびまい」、二字で「きび」と読ます可能性もあるが、これら後者の訓読みではイネ目イネ科のキビPanicum miliaceumを指すことになってしまう。

   *

とした。以上の寄生虫をここでも候補としておく。最悪は一番最後の有棘顎口虫である。]

 すべて、食事には、旦(あした)暮(ゆふべに)、心を付《つけ》て用ひ、殊(こと)に、形の異相(いさう)なる物、時節の變(へん)なる類(たぐひ)、異(こと)やうなる料理、食する事、なかれ。「色𢙣不ㇾ食臭𢙣不ㇾ食失ㇾ飪不ㇾ食不ㇾ時不ㇾ食割不ㇾ正不ㇾ食不得其醬不ㇾ食」〔色、𢙣(あ)しき、食(くら)はず。臭(か)の𢙣しき、食はず。飪(じん)を失へる、食はず。時(とき)ならざれば、食はず。割(きりめ)正しからざれば、食はず。其の醬(あへもの)を得ずば、食はず。〕とこそ敎(をしへ)給ひけれ。

[やぶちゃん注:以上の漢文は「論語」の「鄕黨第十」にある「食不厭精章」。「Web漢文大系」(新字新仮名)のこちらで全文・訳注が読める。その語注によれば、「失飪」は『煮加減の適度でないもの。半煮えや煮過ぎたもの。』とあり、「不時」には、『「三度の食事以外」という説と、「季節外れのもの」という説の二説ある。』とされ、「醬」は『調味料。ソースの類。』とある。]

 予、先年、坂本の來迎寺に詣《まうで》ける時、小童(こわらは)に、一瓢(《いつ》へう)、提(さげ)させけるを、堂の前、拜して後《のち》、ゑんさきに平座(へいざ)して、小盃(《こ》さかづき)、ひとつ、ふたつ、たうべ、道のつかれを忘れ、御寺《みてら》も、殊更(ことさら)たうとく[やぶちゃん注:ママ。]成《なり》て、心おもしろく、

「惠心(ゑしん)の僧都の尊《たつと》き古(いにし)へも思はれ、他《ほか》に異(こと)なる靈場に、今日(けふ)しも詣來《まうでき》にける。年來(としごろ)の願望(ぐわんもう)、成《なり》し。」

などゝ、童に語りゐるほどに、何やらん、えんの下に、黑きものゝ、

「すごすご」

と跪(うづくまり)たるあり。

 

Kusabiranodoku

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 珍らしく、大きなる蟇(ひきがへる)の、土竜(うごろもち)の死(しゝ)たるを、足にて摩(なで)て、其汁(しる)を、奧に運ぶやうにして、立歸り、立歸り、同じ事、なん、しける。

 不思義にも、恠(あやし)くて、庭におり居(ゐ)、其行方(ゆきがた)を見れば、半間(まなか[やぶちゃん注:二字へのルビ。])斗《ばかり》奧の、つか柱(ばしら)の陰に、大きなる蛇、半死(なかばじに)なるに、此汁を塗る、と見えし。

 忽(たちまち)、蛇、頭(かしら)より、旭霜(きよく《さう》/あさひのしも)のごとく、

「みぢみぢ」

と解(とけ)て、其水、殘りたる跡に、赤き茸、一時(《いち》じ)に生じて、生長する事、〆治(しめじ)・初茸(はつたけ)のごとし。

 彼(かの)蟇、這出(はい《いで》)て、一方(《いつ》はう)より、喰(くらふ)事、心地好(こゝちよげ)也。

 是によつて、是を思ふに、茸といふ物、用捨(ようしや)して、不ㇾ可ㇾ食物也〔食ふべからざる物なり。〕と。

[やぶちゃん注:「坂本の來迎寺」現在の比叡山の東麓、琵琶湖岸に近い滋賀県大津市比叡辻にある天台宗紫雲山聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ:グーグル・マップ・データ)。開山は最澄とされる。単に来迎寺とも呼ばれる。当該ウィキによれば、長保三(一〇〇一)年に『源信(恵心僧都)がこの寺に入り、念仏道場として再興したという。源信がこの寺にいた時、紫の雲に乗った阿弥陀如来と二十五菩薩が現れるのを見たところから、紫雲山聖衆来迎寺と名付けたとされる』とある。

「蟇」本邦固有種であるヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus 。本邦には亜種で二種いるが、このロケーションは二種の孰れかを指すことは不可能である。博物誌及び亜種については、私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」を参照されたい。

「つか柱」「束柱」。この場合は本堂の床下にある短い支柱で、通常は束石と呼ばれる土台の基礎石の上に置く。

「〆治(しめじ)」菌界ディカリア亜界 Dikarya担子菌門真正担子菌(ハラタケ/原茸)綱ハラタケ目シメジ(占地)科シメジ属 Lyophyllum に属するシメジ類、或いは、ホンシメジ Lyophyllum shimeji を指すが、ここは前者でよかろう。

「初茸(はつたけ)」担子菌(ハラタケ)綱ベニタケ(紅茸)目ベニタケ科チチタケ(乳茸)属ハツタケ Lactarius hatsudake

「半間(まなか)」一間(けん)の半分。約九十一センチメートル。

「用捨して、不ㇾ可ㇾ食物也」ここでは、厳しく「茸は、かくも、怪しく、不浄のものであるから、食うことをやめるべきである」と言っている。]

 又、美濃の国にて、或山人(やまうど)、秋の旦(あした)[やぶちゃん注:早朝。]、木を樵(こり)に山へ入《いる》。其道、遙(はるか)にして、人、更(さらに)希也。

 半(なかば)にして、谷あり。爰に、ひとつの朽木(くち《き》)のくぼみに、平茸(ひらたけ)、

「ひし」

と生じて、重(かさな)りたる事、鳥の羽(は)のごとし。

「是は。能(よき)物こそあれ。」

と、木はこらずに、先《まづ》、是を取《とり》て、町に持(も)て行《ゆき》て、價(あたひ)に代(かふ)るに、よのつね、見事成《なり》ければ、若干(そこばく)の德を得たり。

「此たびこそ、誠に、薪、きらん。」

と、行(ゆく)道なれば、初(はじめ)の谷を過《よぎ》るに、彼(かの)朽木に、又、同じほどの平茸、生《おひ》たり。

[やぶちゃん注:この再度の山入りは、後の展開から、当日の午後或いは翌朝の早朝である。]

「是は。いかに。唯今、取《とり》て、片時(かたとき)を經(ふ)るに、又、生ずる事、不審。」

と、心を閑(しづめ)、其わたり、見めぐるに、此朽木の上より、水の滴(したゞる)あり。

 其源(みなもと)を求《もとむ》るに、一段上に、峒(ほら)ありて、大きなる蛇、半(なかば)腐(くさり)て、水に成りたるが、下に滴(したゞ)りて、件(くだん)の平茸となれると見えたり。

 驚《おどろき》、いそぎ、立歸り、彼(かの)町に走行(はしり《ゆき》)て、

「先(さき)の平茸は、聞《きこ》し召《めし》たるや。」

といふ。

「いかにや、未(いまだ)食(しよく)せず。」

と。

「扨は。嬉しや、かうかうの事、侍り。是、大毒なるべし。價(あたひ)を返し侍る。夫(それ)、人の拾はぬかたへ、捨(すて)給へ。」

といふに、此人、肝(きも)を消し、

「此者の正直に、命(いのち)を助(たすかり)たる。」

と、よろこび、價は、强《しひ》て、是にとらせ、剩(あまつさへ)、酒など吞(のま)せ、

「去來(いざ)、後世(こうせい)の物がたりに、其所《そこ》、見ん。」

と、打《うち》つれ行《ゆく》に、實(げに)も、語りしごとくなりし、と。

[やぶちゃん注:「平茸」ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus 「日本山海名産図会 第二巻 石茸(いわたけ)・附記(その他の「きのこ」類の解説)」の私の「天花蕈(ひらたけ)」の注を参照されたい。]

 我、聞《きく》。近き比《ころ》、或人のもとに、客人(まろうど)五人、見來(まみへ《きた》)るに、蕎麥切(そば《ぎり》)を出《いだ》し、其上に西瓜を、すゝむ。此座に在《あり》し人、皆、食傷(しよくしやう)の病《やまひ》出來《いでき》て、吐瀉(としや)、甚しく、明(あけ)の夕《ゆふべ》、二人は、忽(たちまち)、死す。殘る三人、良(やゝ)煩ひて、漸々(やうやう)、命は別義なかりき。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 或人の云《いはく》、「西瓜と蕎麥、同食すべからず。此瓜の切口に、そば切を少《すこし》置《おく》に、忽、五增倍(《ご》ぞうばい)に、ふとく成《なる》物也。」と、いはれし。左もある事にや、此外、食類、さしあひ、世にしれる事を、爰にのせず。猶、宜禁(ぎきん)の事、「本草綱目」の奧旨《あうし》を尋《たづね》んに、委(くはし)かるべけれど、我が道に非らざれば、さしをく[やぶちゃん注:ママ。]のみ。

[やぶちゃん注:「宜禁(ぎきん)」「宜しいこと」と「禁じること」で、所謂、古くからある「食い合わせ」である。ウィキの「合食禁」によれば、漢語で『合食禁(がっしょくきん)、または食合禁(しょくごうきん)』と称するが、『日本で伝えられている合食禁は、元は中国から伝えられた本草学における薬物相互間作用の研究に加えて陰陽五行思想を食材にあてはめたものとされる。このため、科学的根拠の無いものもあるが、中には医学的に正しいとされるものも存在している』とあり、『中国では』「食経」(しょくけい)と『呼ばれる書物で』、『たびたび採り上げられ、例えば、元の忽思慧』(こつしけい)『による』「飲膳正要」には『「食物相反」の章が立てられて』、『「牛肉と栗子」などの例が挙げられている。日本では』「養老律令」の「職制律」に、『天皇に出す食事に合食禁を犯した場合には』、『内膳司の責任者(次官)である典膳は徒』(と:懲役刑)三『年の刑に処されるとある。また、南北朝時代に洞院公賢』(とういんきんかた)『が著したとされる』「拾芥抄」(しゅうかいしょう)や、『江戸時代初期に貝原益軒が著した』「養生訓」には『多くの食禁が記されている。ただし、これらの書籍には鰻(うなぎ)と梅干、天麩羅と西瓜、蕎麦と田螺などのような』、『今日知られる代表的な例は記されていない。これは鰻の蒲焼、蕎麦切り、天麩羅が江戸時代になってから食されるようになった食物であることによる』。「養生訓」には『蕎麦に関する例は一部挙げられているが、ごくわずかである』。『栄養面での合食禁も伝えられている』とある。そちらには出ていないが、この「蕎麦と西瓜」は、食い合わせの悪いものの一つとして江戸時代に挙げられてある。

「本草綱目」明の李時珍の本草書で、本邦で近世まで本草学のバイブル的存在であった。そこに載る「食い合わせ」の一例を挙げておくと、巻四十五の「介之一」の「龜鱉類」の「蟹」の項の「氣味」の条の最後に、

   *

時珍曰不可同柹及荆芥食發霍亂動風木香汁可解詳柿下

(時珍曰はく、「柹(かき)及び荆芥(けいがい)と同じく食ふべからず。霍亂(かくらん)を發し、風(ふう)を動かす。木香(もつかう)の汁、解すべし。「柿」の下に詳かなり。」と。)

   *

とある。そこで、巻三十の「果之二」「山果類」の「柹」の項を見ると、

   *

弘景曰生柹性冷鹿心柹尤不可食令人腹痛宗奭曰凡柹皆凉不至大寒食之引痰爲其味甘也日乾者食多動風凡柹同蟹食令人腹痛作瀉二物俱寒也時珍曰按王璆百一選方云一人食蟹多食紅柹至夜大吐繼之以血昏不省人一道者云惟木香可解乃磨汁灌之卽漸甦醒而愈也

(弘景曰はく、「生柹(なまがき)、性、冷。鹿心柹(かしんがき)、尤も食ふべからず。人をして腹痛せしむ。」と。宗奭(そうせき)曰はく、「凡そ、柹、皆、凉(りやう)たり。大寒に至らずして之れを食へば、痰を引く。其の味、甘なるが爲めなり。日に乾かす者を食へば、多く、風を動かす。凡そ、柹、蟹と同じく食すれば、人をして腹痛し、瀉を作(な)さしむ。二物、俱(とも)に、寒なればなり。」と。時珍曰はく、「按ずるに、王璆(わうこう)が「百一選方」に云はく、『一人、蟹を食ひて、多く紅柹(べにがき)を食へば、夜に至りて、大きに吐く。之れを繼ぐに、血を以つてす。昏(こん)じて、人、不省せり。一道者云はく、「惟(ただ)、木香のみ解(げ)す。乃(すなは)ち、汁を磨り、之れを灌(そそ)げば、卽ち、漸(やうや)く甦(よみがへ)り醒(さ)めて愈(い)ゆなり。」と。』」と。)

   *

とある。注は面倒なのでしないが、「荆芥」はシソ目シソ科イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifolia で、花穂が発汗・解熱。鎮痛・止血作用を持つ漢方生剤であり、「木香」というのは、同じく漢方生剤のキク目キク科トウヒレン属 Saussurea の根で、芳香性健胃作用がある。

 さて。では、この「蟹と柿」の禁忌は現在の認識ではどうかというと、サイト「リケラボ」の「鰻と梅干し、天ぷらとスイカ…「食べ合わせが悪い」組み合わせに科学的根拠はある?」によれば、管理栄養士棚橋伸子氏の曰わく、『蟹も柿も、漢方・薬膳の考え方において体を冷やす性質をもつとされる「寒性」の食物です。蟹も柿も旬は秋から冬。寒くなる季節なので、その時期に体を冷やす食材同士を組み合わせて食べるのは、あまりお勧めできません。冷え性の方は特に注意してくださいね』とあるのである。

 因みに、江戸時代の蕎麦は、今と異なり、蕎麦粉の純度が低く、さらに、精製も粗かった上に、蕎麦自体が食べ易いことから、食い過ぎる傾向があったと考えらえれ、そこに冷たい西瓜を食うと、恐らくは、胃腸には、結構、負担となったと思われ、一概に迷信として退けるべきものではないように私には思われる。

「奧旨」「奥義」に同じ。

 最後に一言。本篇は、怪奇談の中でも、その真実らしさを示す、特異点的作品と言える。何故なら、所謂、有り得そうな「噂話」ではなく、筆者自身の一人称で記されており、メインの前半は、作者自身の体験談として記されてあるからである。後半の美濃の樵りのそれも、また、最後の蕎麦と西瓜の短い話も直近の事件として、筆者自身が聴き書きしたものという体裁を採っている。最後の「食い合わせ」も、当時の読者には、肯ずるところ多かったのではないか? しかも、私のようには、「本草綱目」を辛気臭く引いていないところも庶民にとっては、寧ろ、好感が持てたに違いない。まさに、リアルな真正怪奇談の手本のような作品と言えるのである。

西原未達「新御伽婢子」 三頸移ㇾ鏡

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

        三頸移ㇾ鏡(《さん》きやう、かゞみにうつる) 

 因幡(いなば)の國(くにゝ)、或《ある》有德(うとく)の町人、源之丞とかやいふ、其身、榮耀にほこり、酒に長(ちやう)じ、色にまよひけるほどに、妾(せう/めかけ)といふものを、三人、爰(こゝ)かしこに宿(やど)し、置行《おきゆき》、かよひけり。こなたの事を、あなたに蜜(かく)[やぶちゃん注:漢字はママ。]し、かしこを爰に包(つゝみ)て、

「独(ひとり)の外《ほか》、心をかよはす事、なし。」

と、空(そら)をそろしき[やぶちゃん注:ママ。]ちか言(ごと)の數を重(かさね)ていひ、蜜しければ、女、何(いづ)れも、

「我ひとり、妾たり。」

と、思ひあがりて在《あり》しほどに、いつしか、今は、顯れて、皆、男を恨(うらむ)事、甚し。

[やぶちゃん注:「ちか言」「誓言」。]

 或時、ひとりの女、「さわ」といへるがかたに行《ゆき》て、夜半(よは)過《すぐ》る迄、戯居(たはぶれゐ)る。

 かゝる時、又、ひとりの女より消息(せうそこ)して、

「こよひ 必《かならず》 夜半のかねのならん時 わが方に おはせん」

と、の給ひし。

 早(はや)、子(ね)の時は、過(すぎ)侍り。『鳥は物かは』といひけん、ふるごと、覺《おぼ》し出《いで》ずや、

「つらしや 心づよや」

など、細(こまか)に託(かこち)こしければ、男、此文《ふみ》を見て、

『今なん、其かたに、まからん。』

と思ふに、醉《ゑひ》のあまりに、眠(ねふり)のきざし侍れば、

「あすなん、其かたに、音づれ侍るべし。」

と使《つかひ》を歸す。

 あるじの女も、打《うち》はらだちて、言傳(ことづて)侍る。

「おもひもかけぬ虛言(そらごと)をかまへて、子・丑の時を告(つげ)ずとも、枕を高(たか)ふ臥(ふし)給へ。殿(との)は、こなたの殿なれば、自(みづから)生(いき)てあるほどは、放ちは、やらぬ物を。」

と、さまざまのさがなし言(ごと)をいひて、使の者を追歸(《おひ》かへ)す。

[やぶちゃん注:「さがなし言」意地の悪い言葉。]

 下女、歸りて、

「かく。」

と、いへば、こなたの女、嗔噫(しんい)を焦(こが)し、下女をつれて、有《あり》し男のかたに行(ゆき)、

「此戶(とを)、明《あけ》て給へ。」

と、遽(あはたゞしく)嗃(たゝけ)ども、内にも、早(はや)、

「かく。」

と知《しり》て、敢(あへ)て、音、なし。

 とかくするほどに、今一人の妾(めかけ)も、此男に約せし事あり、

「うしみつ斗(ばかり)に來《きた》らん。」

と、いひこしければ、是も、猛(たけ)りて、爰に來《き》ぬ。

 妾ふたり、下女ともに、四人、門の外に立《たち》て、此戶を、たゝく事、雷(らい)の、をこるがごとし[やぶちゃん注:ママ。]。

 此時、内より、下女、さし心得《こころえ》て、

「さのみ、せばく、の給ひそ。今宵に限るうき世かは。明《あけ》なんあすを待給へ。今(こ)よひは、いたう醉臥(ゑひふし)給へば、步行(ぼこう[やぶちゃん注:ママ。])さへ、叶ひさふらはず。各《おのおの》、歸りをはしませ。」

と、なだめて、いらへけるにぞ、ふたりの女、聲うちかすめて、

「恨めしや、妬(ねた)ましや、よしよし、身こそ隔《へだ》たるとも、心は内に入《いり》なん物を。」

といふ聲斗(ばかり)罵(のゝしり)て、四人の女は、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「嗔噫」「瞋恚」に同じ。

「せばく」「狹く」。狭量に。]

 

Mitukubi

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。半幅一枚であるが、下方から上方の絵の順に時間が経過する。]

 

 男は、前後を忘れて、寢(いね)たり。

 女は、髮、けづりて、姿鏡(すがたみ)に、立《たち》むかへば、鏡の内に、女顏(をんなのかほ)、三人、うつる。

「はつ。」

と驚《おどろき》、

『若(もし)、我ならで、後(うしろ)に、人、ありや。』

と見歸るに、敢て、女、なし。

 暫(しばし)、鏡をうつぶせて、又、取《とり》て見るに、いくたびも、かくのごとし。

 是より、心神(しんしん)腦乱(なうらん)して、樣々、口ばしり、

『荒(あら)腹《はら》たちや、我に難面(つれなき)あの男を、命、取らん。』

と思ふに、肌(はだ)に納(をさめ)たる「盤若(はんにや)」の法(のり)の札に、をそれて、近付《ちかづき》得ず。

 され共、

「物の間(ひま)、求(もとめ)て、終《つひ》には、思ひ知(しら)せん物を。」

と、罵(のゝしる)聲の、地にひゞき、踊(をどり)あがり、飛(とび)めぐりしが、種々(しゆじゆ)の惡相(あくさう)を顯はし、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]明(あけ)の日、むなしく成る。

 男、是を見るより、身のあやまちを覺悟し、本宅にも歸らず、直(すぐ)に遁世修行の身となんぬ。

 すべて、世のわざは、一心の所爲(しよゐ)より、惡趣に漂ひ、一心の所爲より、善所(ぜんしよ)に詣(まふ)ずる事なりかし。女は、我慢より、猶、我慢の奧をたどりて、廣劫(くわう《ごふ》)くらきに迷ふべきを、男は、菩提の心を發(おこ)して、山深く、行ひ、永(なが)く佛道修行の道人(《だう》にん)とぞ成《なり》ける。

[やぶちゃん注:「廣劫」「永劫」に同じ。

 最後の、一般論としての、女性には結縁なくして永劫の瞋恚に迷い、男は菩提心を発心して道心堅固となるという、男女差別は中古旧来の仏教の変生男子(へんじょうなんし)的な差別意識は常套的で、この軽薄男があっさりと出家する都合のよさは如何にも「なんだかな」とは思うのであるが、ちょっと他に類話を見ない愛憎執着物怪談で、鏡の中の女たちの首の出現と、妾の一人の狂乱というカタストロフは、本書の中では、出色の一篇かとも思う。底本の旧所有者も、かく感じたものか、本篇の標題の頭に朱点を打っているのも頷ける。]

2022/09/25

西原未達「新御伽婢子」 金峯祟

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

      金峯祟(きんぷのとがめ)

 大和の金峯山は、往昔(そのかみ)、役行者の、道ふみ開きまして、金台兩部(こんたいりやうぶ)の㚑山(れいざん)、此嶽(だけ)に詣で祈願する輩(ともがら)、成就(じやうしう[やぶちゃん注:ママ。])せずといふ事なく、誠にいみじき御山にぞ在《あり》ける。

[やぶちゃん注:「金台兩部」「金胎兩部(こんたいりやうぶ)」に同じ。真言密教の本尊、大日如来の有する智徳を表わす「金剛界」と、理徳を表わす「胎蔵界」の両界。]

 爰に宮古の片邊(かたほとり)に何某の淨慶といふ禪門、莊歲(さうせい)の昔より、御獄に詣ずる事、年々歲々(ねんえんせいせい[やぶちゃん注:ママ。])、怠たらず。又、河刕より同《おなじく》詣《まうづ》る俗、四人あり。いつも、日の限り、極(きはまり)たる事にて、麓の宿(しゆく)に待合せ、同道にて、山上しける。

[やぶちゃん注:「宮古」「都」。京都。]

 或年、例のごとく、出《いで》あひて、御山《みやま》にのぼる。

 爰に、祕所、あつて、凡俗のあへて詣《まうで》ぬ所、あり。

 淨慶の云《いはく》、

「我、若(わかき)古へより、七旬の今、此御山を仰《あふぎ》て、山上、怠る事、一とせも、なし。縱(たとひ)いかなる祕所なりとも、此功(こう)の至德に依(よつ)て、そこに至らんに、何の罪か、あらん。」

と。

 河刕の人々のいふ、

「よしや、百年をかさね詣《まうづ》るとも、かゝる所へは、淸淨堅固の行者だに、尋常(よのつね)にして不ㇾ叶(かなはず)といふ。况《いはんや》、汚俗(《お》ぞく/けがれ )の身をや。是非に止(とゞまり)給へ。」

といふに、淨慶、更に聞入(きゝ《いれ》)ず。

「何の別事(べつじ)か有《ある》べき。」

と、言捨(いひすて)、器量(いかめしく)、かのかたへ、二杖、三杖、步むと見えし。

 一天、俄(にはか)に、黑雲、覆ひ、慕雨(ぼう/にわか )、車軸をながし、雷電(らいでん)、山を割(さく)かと恠(あやし)く、霧さへ、くらく、そびきて、近く居(ゐ)る人も、目にさへぎらぬ程なれば、互《たがひ》に、名を呼(よび)、聲をかはして、皆、一所に集(あつま)り、淨慶を呼(よぶ)に、更(さらに)、聲、なし。

 とかくして、雨、晴(はれ)、雷(らい)、閑(しづま)るに、終《つひ》に、淨慶、跡かたなく失(うせ)ぬ。

 谷・峯を、分(わかち)、尋(たづぬ)るに、二度(ふたゝび)、求る事、なし。

 力なく、人をして、京へ、

「かく。」

と知せけるに、妻子、大《おほき》に歎き、悲しめども、不ㇾ叶。

 とかくして、三年をへて、淨慶が山にて失せし日を、忌日(きにち)として、三囬忌(《さんくわい》き)の佛事をなす時、家(や)の棟(むね)に、淨慶、忽然として、立《たち》たり。

 向家(《むかひ》や)成《なる》人、見付《みつけ》て、其家へ、

「かく。」

と告(つぐ)る。

 驚《おどろき》、急《いそぎ》、外面(そと《も》》に出《いで》て見る。

 一目、見合《みあひ》て後、閃々(ぜんぜん[やぶちゃん注:ママ。])として、消失(きえ《うせ》)ぬ。

 是より後、

「月の夜、雨の夕(ゆふべ)など、折々、家の棟に、たつ。」

といふ沙汰、不ㇾ止(やまず)。

 思ふに、此人、慢心に繋縛(けばく[やぶちゃん注:ママ。]/つなぎしばら)せれらて、「天狗道」に入《いり》けむ、いぶかし。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、或若き男、妻を伴ひて、金剛藏王(こんがうざわう)の御前《おんまへ》へ詣《まうで》て、其所《そこ》に臥(ふせ)りける。寢(ね)ぼれたる心に、『自《おのれ》の家。』と思ひて、妻を犯しけり。

「住所《ぢゆうしよ》に有《あり》し時だに、精進なんど、怠(おこたる)時は、正《まさ》しくおそろしき事のみあるに、こよひしも、此、誤(あやまり)しつ。」

と、悲しく、川にをり[やぶちゃん注:ママ。]、水あみを、こたり申《まをし》て出《いで》ぬ。是は、はたち斗《ばかり》の事にや在《あり》けん。

 四十餘年を經て後、親しきもの、

「御《み》たけへ、まいる。」

とて、よろづ、けゞしかりければ、かのもの、いふ、

「我、わかき比《ころ》、かうかうの犯し、有《あり》けれども、今に、別事なし。さのみ、なをもくをもわれそ。」

と、いひしが、忽《たちまち》に、ふたつの眼(まなこ)、つぶれてけり。

 佛神の化機(けき)、かくのごとし。凡夫(ぼんぷ)の愚《おろか》なるを、かゞみ給ひ、且(かつ)は、懺悔(さんげ)のなをざりならぬより、その咎(とが)をゆるし給ひけるを、不善の心をもちて、垂跡(すいじやく)の御《おん》まかへを、かろしめ奉り、人の信心をさへ、乱(みだ)らんとせし、ふるきあやまり、更に、あたらしき重き科(とが)と也けり。

[やぶちゃん注:この評言部、私には、まともに読めない箇所が多い。

・「こたり申《まをし》て出《いで》ぬ」の「こたり」は――「水浴(みづあ)」み「を」し、垢離(こり)し「申」して「出」で「ぬ」――であろうか?

・「けゞしかりければ」は――「怪(け)げしかりければ」――で、「心配なことがさわにあるように思った」の意か?

・「なをもくをもわれそ」は「猶も、苦を、思はれそ」――で、「それ以上にご心配なされるな!」の意か?

・「かゞみ給ひ」「屈(かが)み給ひ」或いは「鑑み給ひ」「彼(か)が見給ひ」を考えたが、「給ひ」が前者では、おかしい。判らぬ。

・「乱(みだ)らん」は恐らく「乱そうとまでした」の意であろう。

 識者の御教授を乞うものである。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 婦女を姣童に代用せし事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で訓読を示した。]

 

     婦女(をんな)を姣童(わかしゆ)に代用せし事(明治四十五年五月『此花』二十一枝)

 

 『此花』第十六枝六丁表、紅絹野夫(こうけんやぶ)の西洋男色考末文に、西洋に婦女を雞姦すること、盛んなる記述を結(の)ぶ迚(とて)、「日本の男色は此樣《かやう》な事は無いらしい云々」と云《いへ》り。今日《こんにち》は然《しか》らん、併《しか》し、往昔、斯る事、日本にも有《あり》しは、嬉遊笑覽卷九、若衆女郞《わかしゆぢよらう》、古く有し者と見えて、吾嬬(あづま)物語に、まんさく、まつ右衞門、兵吉、左源太、きんさく、とらの助、熊之助抔(など)いふ男名《をとこな》、餘多(あまた)有り。是れ、もと、歌舞妓をまねびて、大夫と云《いひ》し頃より、佐渡島正吉《さどしましやうきち》抔(など)云《いへ》る大夫も有し名殘と見ゆ。是れ、其のみにも非ず、男寵《なんちよう》の流行(はやり)し故に、後迄も斯樣(かやう)の名を付《つく》る也。されど、大夫《たいふ》には非ず、皆、端(はし)、格子(はうし)の内也。勝山が奴風《やつこふう》の行はれしも此故也。箕山《きざん》云《いは》く、近年、傾城の端女《はしため》に、若衆女郞と云《いへる》あり。先年、祇園の茶屋に龜と云し女、姿貌《すがたかたち》を若衆に能く似せて、酌を取《とり》たり。され共、是、遊女ならず、是のみにて、斷絕しぬ。若衆女郞の初まる處は、大坂新町富士屋と云《いふ》家に、千之助とて有《あり》。此女は、初《はじめ》は葭原町(よしはらちやう)の局《つぼね》に在《あり》しが、自(おのづか)ら、髮、短く切《きつ》て、あらはし居《ゐ》たり。寬文九己酉《つちのととり》年より、本宅の局に歸りて、月代《さかやき》を剃《す》り、髮を捲上げにゆひ、衣服の裾、短く切り、後帶《うしろおび》をかるた結《むすび》にし、懷中に鼻紙、たかく、入れて、局に着座す。粧(よそほ)ひ、かはれる印《しるし》に、暖簾(のれん)もかへよとて、廓主《くるわぬし》木村又次郞が許しを得て、暖簾に定紋を付《つけ》たり。紺地に鹿の角を柿にて染入《そめいれ》たり。是、若衆女郞の濫觴(はじめ)なり。見る人、珍し、とて、門前に市を成す故に、こゝ彼處(かしこ)に、一人宛《づつ》出來る程に、今は餘多に成り、堺、奈良、伏見の方《かた》迄、弘《ひろ》まれり。是れ、衆道に好《すけ》る者をおびき入(いれ)むの謂(いはれ)ならんか。されども、よき女をば、若衆女郞には、し難し。其(それ)に取合《とりあひ》たる顏を見立《みたて》てすると見ゆ。大坂の若衆女郞は、外面より、其と知らしむる爲に、暖簾に、必ず、大きなる紋を染入《そめいる》ると云り。『洛陽集』に、靑簾憐《あはれ》なるものや柿暖簾(有和)(已上(いじやう)、笑覽(せ《ふ》らん)。

[やぶちゃん注:『此花』宮武外骨が明治四三(一九一〇)年一月に発刊した浮世絵研究雑誌。大阪で発行されたが、赤字が嵩んで廃刊となったが、同雑誌に寄稿していた朝倉無声(朝倉亀三)の手によって「東京版」として新たに継続発行されることとなった。第十六枝は明治四十四年七月十五日発行。参照したサイト「ARTISTIAN」の「此花(大阪版)(雑誌)」のリスト・データに「紅絹野夫」著とある。紅絹野夫は不詳。当該記事もネット上では読めない。雑誌巻号を「枝」とするのはなかなかに風流がある。

「雞姦」肛門性交。

「嬉遊笑覽卷九、若衆女郞、……」巻之九の「娼妓」の「若衆女郞」は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここ読みは所持する岩波文庫版(当該書はルビは現代仮名遣)を参考に打った

「吾嬬物語」仮名草子。作者不詳。徳永種久作という説がある。寛永一九(一六四二)年、京都で刊行。全一冊。「あづまをのこ」が江戸に来て,友人と上野・浅草などの名所を見物し、吉原に行く。遊郭の内を見て、遊女の評判を記す。寛永の元吉原の遊女評判記としての唯一の書であり、風俗資料として貴重とされる。江戸名所見物と遊女評判、文中の狂歌などに見るべきものがある(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「大夫」現代仮名遣「たゆう」。官許の遊女の内の最上位。「松の位(くらゐ)」(これは秦の始皇帝が雨宿りをした松を「大夫」に封じたという故事から)とも。

「佐渡島正吉」(生没年未詳)は江戸前期の女歌舞伎役者。京都の遊女歌舞伎の中でも知られた佐渡島座の頭(かしら)で、「和尚(おしょう)」とよばれた。慶長一九(一六一四)年、江戸吉原の興行で、名声を博した。女歌舞伎は寛永六(一六二九)年に風紀を乱したとして禁止され、若衆歌舞伎がこれに代わった。

「端」「端女郞」。江戸時代の下級遊女。「局(つぼね)女郎」「見世女郎」「はしばいた」「はしたもの」「はしたじょろう」などとも呼んだ。

「格子」ここは、遊女屋の格子の所に出て、張見世をする遊女の総称。「見世女郎」「格子女郎」とも。但し、実は、別な、より高位の遊女をも指し、京都島原では遊女の第二級を「天神」をいい、大坂新町では第一級の「太夫」、また、江戸吉原では、それらに継ぐ第二級の遊女をも指した。これは大格子の内に自分の部屋を持っていることからの呼称である。

「勝山が奴風《やつこふう》の行はれし」勝山は江戸初期(十七世紀)、特に承応(じょうおう)・明暦年間(一六五二年~一六五八年)に、吉原で人気のあった遊女の源氏名。元は江戸・神田四軒町雉町にあった湯屋(ゆうや)「丹前風呂」の湯女(ゆな)であったが、承応二(一六五三)年八月、新吉原の楼主山本芳順に抱えられて吉原の太夫となり、明暦三(一六五七)年八月に廓(くるわ)を退いた。当該ウィキによれば、『勝山は元、丹前風呂と呼ばれる私娼窟をかねた風呂屋の従業員(湯女)であったが、そのころから派手な出で立ちで評判になっていたらしい。髪は自分で考案した上品な武家風の勝山髷(丸髷)に結い、腰に木刀の大小を挿して派手な縞の綿入れを着て歩き回り、江戸の若い女性達はこぞって彼女の風体を真似たという』。『人品卑しからぬ容姿と武家風の好みから、勝山は零落した武家の娘であったという説もあるが』、『湯女になる前の経歴は不明である』。『しかし』、『どれほど人気があるといっても丹前風呂は私娼窟であって、建前上』、『公娼を置いている吉原以外での売春行為は違法であった。幕府は吉原から』、『たびたび出される要請もあって』、『商売敵となる湯女や飯盛女などの厳しい取締りを行っていた』。『勝山も後に警動(私娼窟の一斉捜査)で逮捕され、そのまま吉原に身柄を引き渡されて遊女となった。岡場所と呼ばれる私娼窟で働いていた女達などの一部は』、『逮捕されたのちに吉原に身柄を移されて』、『遊女となる刑罰を適用されるが、もともと人気のあった彼女は』、『吉原に勤めて』後、『最高位の太夫にまで上り詰める。彼女の贔屓客になって吉原に登楼してくる諸大名の家臣や豪商によって諸藩に知られる存在となった』。『彼女の人気の程は、大阪の井原西鶴が』「西鶴織留」の『中に一代の名妓として彼女を紹介していることからも伺える』。「勝山風・丹前風」の項。『湯女時代に武家の使用人である旗本奴に人気が高かったこともあり、勝山の好みは男っぽい、武家がかったものが多かった』。『後に丸髷とも呼ばれる武家風の勝山髷は』、『上品な印象から』、『武家の奥方などにも好んで結われるようになり、当時の識者を嘆かせたという』。『現在』、『どてらとも呼ばれる広袖の綿入れ』である『「丹前」も』、『彼女が考案し』、『贔屓客の旗本奴や侠客に広まった。丹前風呂は堀丹後守の屋敷前という土地柄もあってか』、『血気盛んな若者が常連客に多く、彼らのような江戸初期の若者の派手な好みを丹前風とも言う』。『以下』、『勝山が考案し、愛用したとされる品々』を挙げると、「勝山髷」は『髷が大きな輪になっている華やかな武家風の髷』で、「勝山草履」は『鼻緒が朱色で』、『二本ある草履』であり、「丹前」は『派手な縞柄の広袖の綿入れ』で、『袖口などが別』な『布で覆われている』ものを指す。『また』、『のちに「花魁道中」と呼ばれる吉原の「外八文字」を踏む道中の足どり』も『彼女の考案という説がある。 それまでは京都・島原の太夫道中に倣って、吉原も「内八文字」の道中をしていたという』とある。

「箕山」藤本箕山(寛永三(一六二六)年~宝永元(一七〇四)年)は江戸前期の町人。畠山箕山とも呼ばれるが、根拠不詳。名は七郎右衛門。富裕な町人の家に生れ、若くして遊びの道に入り、また、松永貞徳門で俳諧を学んだ。古筆目利きにもすぐれ、「顕伝明名録」を著わし,その後、古筆目利きを職業としたが、家運が傾いて、客から幇間へ立場を変え、大坂新町の評判記「まさりくさ」を著わした。さらに諸国の遊里を渉猟、「色道大鏡」を完成させ、これは、後の浮世草子に大きな影響を与えた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「祇園の茶屋に龜と云し女、姿貌を若衆に能く似せて、酌を取たり。され共、是、遊女ならず」この「おかめ」さんは、あくまで男装の、春はひさがない正当な酌婦であったということ。

「大坂新町」大坂で、唯一、江戸幕府公認だった新町遊廓。現在の大阪府大阪市西区新町一・二丁目にあった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「葭原町」江戸の新吉原であろう。

「寬文九己酉年」一六六九年。

「かるた結」底本も「選集」も、さらに国立国会図書館デジタルコレクションの活字本の原文も「かりた結」なのだが、「かりたむすび」という帯の締め方は不明。唯一、岩波文庫版の「嬉遊笑覧」が、『かるた結(むすび)』とあり、これなら、現在もある帯の結び方で腑に落ちる。サイト「キモノ読ミモノ」のこちらで、「カルタ結び」の結び方が写真で示され、動画まである。見られたい。

「柿」柿渋(かきしぶ)。

「洛陽集」自悦編の俳諧集。江戸前期の成立。 なお、これ以下の部分は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本にはあるが、岩波文庫版にはない。

「有和」不詳。]

 東鑑卷廿、建曆二年十一月十四日、去る八日の繪合の事云々。又、遊女等を召進《めしまゐら》す。此等、皆、兒童(ちご)の形を寫し、ひやう文(もん)の水干に、紅葉、菊花抔(など)を付て之を着る。各々樣々の歌曲を盡す。此上、上手の藝者、年若き屬(たぐひ)は延年に及ぶと成《なり》。是れ、少女、美童に扮(いでたち)て、男童舞《おぐなまひ》を演ぜし也。然るに、天野信景の鹽尻(帝國書院刊行本)卷四十三に、此一節を評して、當時、遊女は男兒の爲(まね)す。今の兒童(ちご)は、遊女の形を爲(まね)す。時風、此《かく》の如歟《ごときか》、と云《いへ》るは、自分と同時代に、若衆女郞、行はれしを知《しら》ざりし也。

[やぶちゃん注:「東鑑卷廿」底本は巻数を「廿」とし、「選集」は『十九』とするが、「選集」は誤りである。以下、「吾妻鏡」第二十巻の建暦二年壬申(一二一二)年十一月十四日の条を示す。

   *

十四日丙辰。去八日繪合事。負方獻所課。又召進遊女等。是皆摸兒童之形。評文水干付紅葉菊花等著之。各郢律盡曲。此上堪藝若少之類及延年云々。

   *

十四日丙辰(ひのえたつ)。去(ん)ねる八日の「繪合(ゑあはせ)」の事、負方(まっかた)、所課(しよくわ)を獻ず。又、遊女等(ら)を召し進(しん)ず。是れ、皆、兒童の形(かたち)を摸(も)し、評文(ひやうもん)の水干(すいかん)に、紅葉・菊花等(など)を付け、之れを著(ちやく)し、各(おのおの)、郢律(えいりつ)、曲を盡す。此の上、藝に堪ふる若少(じやくせう)の類(たぐひ)、延年に及ぶと云々。

   *

この前の十一月八日に御所で「絵合せの儀」が行われた記事があり、大江広元の出品した小野小町の盛衰を描いたものと、同じ組の結城朝光の出品した本邦の四人の大師伝を描いたものを、将軍実朝がいたく気に入ったことから、老齢方の組の方が勝ちとなっていた。「所課」とは「負けた組の罰としての割当」を指し、「評文」は「装束に用いた彩色や刺繡による種々の色の組み合わせ文様を指す。「郢」は「郢曲」で催馬楽(さいばら)や風俗歌・朗詠・今様などの中古・中世の歌謡類の総称。「律」は、ここでは、周期的にくりかえされるリズムを意味する。「延年に及ぶ」とは長寿を言祝ぐ舞いを踊ったか、或いは、それらしい芸を披露したものと推定される。

「男童舞」読みは「少年」を意味する「童男」の読み「をぐな」を当てた。

「天野信景の鹽尻」江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここの右ページの上段十五行目に記されてある。]

 又、必ず雞姦のためならずとも、其頃、僧が、男裝、男動作の女を、寺に蓄(やしな)ひしは、一代女卷二に、「脇塞(わきふさ)ぎを、又、明《あけ》て、昔の姿に返るは、女鐵拐《をんなてつかい》といはれしは、小作りなる生《うま》れ付の德也。折節、佛法の、晝も人を忍ばす、お寺小姓と云《いふ》者こそあれ。我、耻かしくも、若衆髮《わかしゆがみ》に中刺《なかぞり》して、男の聲、遣(つか)ひ習ひ、身振も、大略(おほかた)に見て覺え、下帶、かくも似る物かな。上帶も、常の細きに替《かへ》て、刀、脇指、腰、定めかね、羽織、編笠も心可笑(をかし)く、作り髭の奴《やつこ》に草履持たす抔、物に馴《なれ》たる太鼓持ちをつれ、世間寺《せけんでら》の有德《うとく》なるを聞出《ききいだ》し、庭櫻見る氣色《けしき》に、塀、重門《ぢゆうもん》に入りければ、太鼓、方丈に行きて、隙《ひま》なる長老に、何か小語(さゝや)き、客殿へ呼《よば》れて、かの男、引合《ひきあは》すは、此方(こなた)は御牢人衆(ごらうにんしゆう)なるが、御奉公、濟《すま》ざる内は、折節、氣慰みに御入《おはいり》有るべし。萬事、賴み上(あげ)る抔いへば、住持(ぢうじ)、はや、現《うつつ》になって、夜前《やぜん》、彼方《あなたがた》入《いら》いで叶はぬ子下藥《こおろしぐすり》を、去(さる)人に習ふて參つた、と云(いふ)て、跡にて、口、塞ぐも、をかし。後は酒に亂れ、勝手より、腥《なまぐ》さき風も通ひ、一夜宛《づつ》の情代(なさけだい)、金子二步に定め置き、諸山の八宗《しゆう》、此一宗を勸め廻りしに、何れの出家も珠數切らざるは無し」とあるにて、知るべく、天野氏自らも、鹽尻卷七〇に、享保五年、江城西曹子谷(えどのにしぞうしがや)の日蓮僧、婦人を少男《わかしゆう》に粧(よそほ)ひ、房中の慾をほしいままにせしを、寺男その女なるを知り、挑みて聽かれざりしより事起こり、かの僧その男を殺し、十二月二十七日、女と共に梟首《ごくもん》せらる、と記せり。

[やぶちゃん注:『一代女卷二に、「脇塞(わきふさ)ぎを、……」「世閒寺大黑(せけんでらだいこく)」の冒頭部。国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文学大系」第三巻 「井原西鶴集」(昭和七(一九三二)年誠文堂刊)のここで確認出来る。リンク先の同書は戦前のもので、伏字が多数見られるが、幸い当該部は、その憂き目に逢っていない。読みはそれを一部で参考にした。

「天野氏自らも、鹽尻卷七〇に、享保五年、江城西曹子谷(えどのにしぞうしがや)の日蓮僧、……」国立国会図書館デジタルコレクションの同前のここ(左ページ下段八行目)から次のページかけてで、視認出来る。]

 支那にも女を男裝せし例、齊、景公、婦人にして丈夫の飾をなす者を好み、國人、悉く之を服せしを、晏嬰《あんえい》、諫めたる事あり(說苑《ぜいゑん》卷七)。梁の慧皎(ゑかう)の高僧傳卷十に、宋の劉孟明、二妾を男裝し、異僧碩公に薦め、其操《みさを》を試《ここみ》し話、出づ。

[やぶちゃん注:「齊、景公」春秋時代の斉(せい)の第二十六代君主(在位:起原前五四七年~紀元前四九〇年)。当該ウィキによれば、『兄の荘公光が横死したあと、崔杼』(さいちょ)『に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は』名臣『晏嬰』(?~ 紀元前五〇〇年)『を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により』、『司馬穰苴』(じょうしょ)『を抜擢した。斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第』二『の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は』、『贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い』とある。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで「說苑」の当該部の影印本が視認出来る。

「說苑」中国の歴史故事集。漢の劉向(りゅうきょう)の編。古来の説話・寓話・逸話などを集め、その間に、教訓的な議論をはさんだもの。儒教的な理念によって歴史・政治を解釈しており、当時、既に儒教が普及していたことを示している。五十編あったが。大部分が散逸し、現在は宋の曾鞏(そうきょう)が復元した 二十巻本に拠っている。

「梁の慧皎(ゑかう)の高僧傳」南朝梁の僧慧皎(四九七年~五五四年)の撰になる中国への仏教伝来以来、後漢(西暦六七年)から梁の西暦五一九年までの四百五十三年間に及ぶ期間の高僧二百五十七名及び附伝する二百四十三名から成る壮大な伝記である。高僧の伝記を集めたもの。「梁高僧傳」「梁傳」とも呼ぶ。全十四巻。五一九年成立。当該ウィキによれば、『慧皎以前にも、梁の宝唱撰の「名僧伝」のように数種の僧伝が既に存在していたが、慧皎は、それら先行する類書の編集方針に満足できず、自ら新たに「高僧伝」を撰しようと思い立ったと、巻末に収められる自序において述べている。具体的には、「名僧伝」等は、世間で有名な僧、あるいは著名な僧の伝記を集めている。しかし、仏教の教えの観点から言えば、たとえ無名であっても、すぐれた僧、高僧は居る筈である。そういった僧の伝記が失われてしまうのを恐れて、「高僧伝」という名を立て、また、その観点から見て相応しいと判断した僧の伝記を収録した、と述べている』。以下の当該部は、「中國哲學書電子化計劃」のここで影印本で読める。]

 本邦にも、上杉景勝、女色を好まず、直江兼續(かねつぐ)、京都にて十六歲の美妓を購ひ、小姓に作り立《たて》て、景勝に薦め、一會して、姙む。然るに、景勝、其女なりしを知り、誠の男ならねば、詮なし、とて、之を卻(しりぞ)く。女、之を悲しみ、定勝を生んで、則ち、自殺せりと云ふ(奧羽永慶軍記《あううえいけいぐんき》卷卅九)。其前後、武功を勵むの餘り、女を斷(たち)し人、多く、松永方、中村新九郞は、武名を立《たて》ん爲め、一代男と稱し、妻女を具せず、童子(わらは)を我と均しく仕立て、陣中に連行(つれゆ)き、ともに討死にし(南海通記卷九)、景勝の養父謙信も、武功に熱して、一生、婦女を遠(とほざ)けしが、小姓を愛せる由、松隣夜話等に見ゆ。去(さ)れば、熊澤了介の集義外書卷三、大名抔の美女に自由なるが、男色を好(すき)て、子孫無き者有り、と云《いへ》り。内藤耻叟《ちさう》の德川十五代史に據れば、淺野幸長《よしなが》は此一例也。鹽谷宕陰《しほのやたういん》の昭代記に、元和六年、三條の城主市橋長勝、愛童三四郞を女婿《ぢよせい》としたるを、おのれ、臨終に世嗣ぎとせしを、遺臣ら、從はず、長勝の甥長正を立てんと請ふ。因《よつ》て長正に二萬石、三四郞に三千石を分かち賜ふとあるも、此類で、三四郞に妻《めあ》はせしは養女らしい。隨て、忠臣が主君に嗣(よつぎ)有《あら》ん事を冀(こひねが)ひ、男裝の女子を薦めし者、兼續の外にも多かるべし。

[やぶちゃん注:「奧羽永慶軍記」元禄一一(一六九八)年、出羽国雄勝郡横堀の戸部正直の著になる軍記物。全三十九巻。書名は天文(一五三二年~)・永禄から慶長・元和(~一六二四年)までの戦記の意で、陸奥・出羽両国の群雄の抗争と興亡を詳述している。先行する旧記を考証し、また、古老見聞の直談を聴いて編述されたとする。史実の誤りもあるが、参考にすべき価値があるものである。当該部は「史籍集覧」第八冊のここから視認出来る。予想外にかなり長い。

「松永」松永久秀。

「南海通記」讃岐出身の兵法家・歴史家であった香西成資(こうざいしげすけ 寛永九(一六三二)年~享保六(一七二一)年)南海道の中世史について記した通史。享保三(一七一八)年刊。「卷九」とあるが(「選集」も同じ)、「卷十」の誤り国立国会図書館デジタルコレクションの「史料叢書」の「南海通記」の「卷十」の「松永彈正與三好氏族京合戰記」(松永彈正と三好氏の族との京の合戰の記)の一節。左ページ四行目以下。短いが、一読、私は印象に残った。

「松隣夜話」関東管領足利持氏の死後の北条氏関東制圧から、天正一五(一五八七)年の上杉謙信の宮野城攻略までを記す。一説に兵法家宇佐美勝興(天正一八(一五九〇)年~正保四(一六四七)年:越後流軍学の祖とされる宇佐美定満の孫で、尾張藩・水戸藩を経て、寛永一九(一六四二)年に和歌山藩主徳川頼宣に仕えた)が作者ともされるが、年代の誤りや漢字の当て字が多く、史料としては確度が低いものらしい。

「熊澤了介の集義外書」江戸時初期の陽明学者熊沢蕃山(元和五(一六一九)年~元禄4(一六九一)年:「了介」は字(あざな))の著。全十六巻。宝永六 (一七〇九) 年刊。先行する原論に当たる「集義和書」の、経世治教論を集大成したもの。

「内藤耻叟」(文政一〇(一八二七)年~明治三六(一九〇三)年)は歴史学者・漢学者。元水戸藩士。藩校弘道館で藤田東湖らに学び、慶応元(一八六五)年、弘道館の教授となり、明治一一(一八七八)年、東京府小石川区長、同十九年には帝国大学教授となった。彼は「古事類苑」の編纂にも関与している。「德川十五代史」の初版は明治二五(1892)年から翌年にかけて初刊された。

「淺野幸長」(天正四(一五七六)年~慶長一八(一六一三)年)は和歌山藩主。長政の子。「慶長の役」で蔚山(うるさん)に籠城し、「関ケ原の戦い」では徳川方について功をたてた。

「鹽谷宕陰」(文化六(一八〇九)年~慶応三(一八六七)年)は江戸生れの儒学者。文政七(一八二四)年に昌平黌に入門し、また、松崎慊堂に学んだ。遠江掛川藩主の太田家に仕え、嘉永六(一八五三)年のペリー来航の際には献策して海防論を著した。文久二(一八六二)年、昌平黌教授に抜擢され、修史に携わった。「昭代記」は江戸年代記。没後の明治一二(一八七九)年刊。

「元和六年」一六二〇年。徳川秀忠の治世。

「市橋長勝」(弘治三(一五五七)年~元和六(一六二〇)年)は美濃国今尾藩主・伯耆国矢橋藩主・越後国三条藩初代藩主。当該ウィキによれば、初め、『織田信長に仕え、信長死後は豊臣秀吉に仕えた。九州征伐や小田原征伐に参戦し、文禄・慶長の役では肥前名護屋城に駐屯した』。「関ヶ原の戦い」では『東軍に与して、西軍に属した丸毛兼利の福束城を落とす武功を挙げた。その戦功により、戦後』、『今尾城で』一『万石を加増され』た。後、『伯耆矢橋へ移封され』、「大坂の陣」でも『功を挙げ』、元和二(一六一六)年、『越後三条』五『万石へ加増移封された。同年の徳川家康が死去する直前には』、『堀直寄や松倉重政らと共に枕元に呼ばれ、後事を託されている』。『江戸で病死し』、享年六十四であったが、『嗣子がなく』、『改易の対象になりかけたが、家康からの信任が厚く、長勝が晩年に老中に何度も嘆願書を差し出していたことなどが功を奏して、甥で養子の長政が近江仁正寺に移されることで跡を継いだ』とある。以下は引かないが、どうも、かなり変わった人物であることは確かなようである。

「長勝の甥長正」長政が正しい。]

 印度には、佛在世の時、女人、僧に勸め、非道中《ひだうちゆう》、行婬せし有り(摩訶僧祇律卷一)。佛、又、男裝を作(なし)て、女と不淨を行ふ罰を制せり(四分律藏卷五五)。法律の繁きは、罪人を殖やす理窟で、閑《ひま》多き坊主等《ら》、斯《かか》る物を讀み、好奇上《こうきじやう》より、異樣の行婬に及び、俗人、亦、之を學びて、終《つひ》に若衆女郞抔(など)を設けしやらん。

[やぶちゃん注:「非道中」修行中でない時の意であろう。

「好奇上より、異樣の行婬に及び、……」『なまじっか、「律」の中に、このような淫猥に関わる記載や、その禁制が書かれてあるものだから、それを読んで、逆に変態性欲の嗜好が昂進してしまい、少年を女装させて鶏姦をする行為を起さしめ、それが、後世の風俗社会に於いて、若衆女郎などを生み出す濫觴となったのではなかろうか?』の意。]

 歐州には、希臘、羅馬の昔、男子、婦女の非處を犯せし記、多く、「シーザル」を殺せし愛國士「ブルタス」も、「カトー」の娘で寡居したる「ポルチヤ」を娶《めと》り、每(つね)に斯く行ひしとぞ。諸國基督敎に化せし後も、此事、止まざりし證(しるし)は、十一世紀頃の「アンジェール」の懺法(ざんはふ)に、妻を、後方行《こうはうかう》、犯すれば、四十日、非道行、犯すれば、三年の懺悔を課す、とあり。又、九世紀に、「ロレーン」王「ロタール」、其妃「テウトバーガ」が、早く、其兄「ウクベール」に每(つね)に姣童(わかしゆ)同樣に非路行《ひろかう》、犯され、子を姙みしを、墮胎せし事ありとて、離緣を主張し、羅馬法王の干涉を惹起し、大騷動せり。兄が妹を非處行犯《ひしよかうはん》とは未聞の珍事也、况んや、其(それ)で子を姙みしに於いておや。但し、姙娠豫防の素志《そし》より出《いで》しが、誤つて孕ませしならん。老人が、妾の情夫の種をかづけられ、大分の金をとられしに懲《こり》て、新來の妾の非道のみ弄ぶ内、妾が老人の子と私《わたくし》して、自《みづか》ら入れ合せたといふ話、小柴垣卷二にあるを、參照すべし。又、十七世紀に高名なりし「ジャク・ジュヴァル」の半男女論(デーサーマフロヂト)に、其頃、パリの若き僧、娠(はら)みたるを禁監(きんかん)して、其出產を俟つ由、見ゆ。俗傳に、九世紀の「ジョアン」法王は、女が男裝せる也、難產で死せりといふ。但し、非道受犯の事、無し。

[やぶちゃん注:「ポルチヤ」ブルータスの再婚相手。彼は紀元前四五年に妻クラウディアと、突然、離婚し、シーザー(カエサル)に追討されている小カトーの娘ポルキア・カトニス(ブルータスの従姉妹)と再婚している。ウィキの「ブルータス」によれば、『友人であったキケロの記録によれば、この唐突とも思える行動についてブルトゥスが真意を明かさなかった』ため、『巷では小さな争論へと発展したとされ』、『母セルウィリアとも口論になったという』と、いわくつきのものだったらしい。なお、カエサル暗殺は翌紀元前四四年三月十五日のことであった。

『「アンジェール」の懺法(ざんはふ)』「懺法」は仏教用語では「せんぽふ(せんぽう)」と読み、仏教の懺悔(さんげ)の方法を説いた書やその方法・法事・法要を指すのである
が、ここは、キリスト教の懺悔(ざんげ)に於ける、その罰則としての規則を指している。「アンジュール」は判らぬが、フランス語の“un jour”(アン・ジュール)は「一日」だから、「一日の懺悔の規則」の意か。

「後方行」後背位。

「非道行」鶏姦。

『「ロレーン」王「ロタール」、其妃「テウトバーガ」が、早く、其兄「ウクベール」に每(つね)に姣童(わかしゆ)同樣に非路行《ひろかう》、犯され、子を姙みしを、墮胎せし事ありとて、離緣を主張し、羅馬法王の干涉を惹起し、大騷動せり』ロタールⅡ世(Lothar II 八三五年~八六九年)は中部フランク王国の国王ロタールⅠ世の次男で、中部フランク王国から分裂したロタリンギアの王(在位:八五五年~八六九年)当該ウィキによれば、八五五年、父ロタールⅠ世は『死に際し、自らの領地と皇帝位を三人の息子に分割することを決めた。次男であったロタールは』、『アーヘンを含むフリースラントから北部ブルグント(ジュラ山脈以北)に至るロタリンギアの地を与えられることとなった』。八六三『年に弟シャルルが相続人なく死去したため、ロタール』Ⅱ『世と兄皇帝ロドヴィコ』Ⅱ『世(ルートヴィヒ』Ⅱ『世)はシャルルの領地を分割することとし、ロタール』Ⅱ『世はリヨン、ヴィエンヌ、グルノーブル司教管区を得た』。八五五『年にボゾン家のアルル伯ボソ』Ⅲ『世の娘テウトベルガと結婚した。しかし正妻のテウトベルガとの間に子供を得られなかったので、彼女に近親者との不義密通を告白させて、これと離縁し、愛妾のワルトラーダと結婚しようと企てたが、ローマ教皇ニコラウス』Ⅰ『世らの反対に遭い果たせなかった』。八六七『年にニコラウス』Ⅰ『世が死去、兄ロドヴィコ』Ⅱ『世夫妻の仲介で』、『後任のハドリアヌス』Ⅱ『世との会見を果たし、離婚問題が再審議されることとなったが、それがなされる前』に『庶子のみを残してピアツェンツァで死去した』とある。

「小柴垣」春画の古い絵巻物「小柴垣草紙」の名を借りた好色本であろうが、不詳。

『「ジャク・ジュヴァル」の半男女論(デーサーマフロヂト)』不詳。識者の御教授を乞う。

「ジョアン」女教皇ヨハンナ(Ioanna Papissa, Ioannes Anglicus)。中世の伝説で八五五年から八五八年まで在位したとされる女性のローマ教皇。当該ウィキによれば、『歴史家たちは、創作上の人物と考えている。それは、反教皇的な風刺を起源とし、その物語にいくらかの真実が含まれているために、ある程度の信憑性を持って受け入れられたと考えられる』とある。詳しくはそちらを読まれたい。]

 支那に男が子を產みし記、多し。五雜俎卷五、晉時、曁陽人任谷、耕於野羽衣人與淫、遂孕、至期復至、以ㇾ刀穿其陰下一蛇子、遂成宦者云々、國朝周文襄、在姑蘇日、有男子生ㇾ子者公ㇾ不答、但目諸門子曰、汝輩愼ㇾ之近來男色甚於女、其必至之勢也〔晉の時、曁陽(きやう)の人、任谷(じんこく)、野に耕すに、羽衣(はごろも)の人を見、與(とも)に淫し、遂に孕み、期、至りて、復た、至る。刀(かたな)を以つて、其の陰の下を穿(うが)つに、一つの蛇の子を出だす。遂に宦者(かんじや)となる云々。國朝(こくてう)の周の文襄(ぶんじやう)、姑蘇(こそ)に在りし日、男子の子を生めりと報ずる者あり。公、答へず、但(ただ)、諸(もろもろ)の門子(もんし)に目(めくばせ)して曰はく、「汝輩(なんじら)、之れを愼しめ。近來(きんらい)、男色は女よりも甚だし。其れ、必至の勢ひなり。」と。〕。又、池北偶談廿四、男子生ㇾ子、福建總兵官楊富有嬖童二子男子云々、近樂陵男子范文仁亦生ㇾ子内兄張賓公親見ㇾ之〔「男子(なんし)子を生む」[やぶちゃん注:これは原本では本文ではなく、標題。後注のリンク先を見よ。] 福建總兵管の楊富(やうふ)に嬖童(へいどう)有り、二子を生む云々。近(ちか)くは、樂陵の男子、范文仁、亦、子を生む。内兄(ないけい)の張賓公、親しく之れを見たり。〕。

[やぶちゃん注:「五雜俎」さんざん注してきた、明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。本文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらで校合した。

「池北偶談」清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。康煕四〇(一九〇一)年序。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。以下は、「談異一」の内の、巻二十にある「丙丁龜鑑」の条。「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部が視認出来る。校合した結果、底本も「選集」も「楊審」とする名が「楊富」の誤字であることが判明したので訂した。]

 昔、高野山で姣童たりし人の話に、背孕《せばら》みと云事、有りしとか。所謂る、「小姓の脹滿(ちようまん[やぶちゃん注:ママ。])もしやそれかと和尙思ひ」で、是は、稀れに双生胎兒の一《ひとつ》が、他の一兒の體内にまき込《こま》れ、潜在して漸く長ずる者あれば、丁度、男が子を孕んだと見受らるゝ者と專門家から聞《きき》たり。然し、所謂、男子生ㇾ子は、多くは、婦女、男裝せる者が、出產せし者なるべし。

[やぶちゃん注:以上は、所謂、「寄生性双生児」(Parasitic twin)の内、一卵性双胎の両児が癒合した非対称性二重体(寄生性二重体)、疾患としては「畸形嚢腫」――体内に一方の双生児が完全に取り込まれてしまっているものを言う。極めて判り易く言えば、手塚治虫先生の「ブラック・ジャック」の「ピノコ」である。私の「耳囊 卷之四 怪妊の事 又は 江戸の哀しいピノコ」を参照されたい。但し、取り込まれいて、しかも、数年に渡って生体として反応し続け得るというのは、ちょっと私は信じ難い気はする。なお、二重体を素材として扱った小説として、私は阿波根宏夫作品集「涙・街」(一九七九年構想社刊)の「二重体(ダブル・モンスター)」を第一に挙げる。読まれたことがある方は恐らく少ないであろう。「凄い」の一言に尽きる名作である。

 なお、底本ではここで終わっているが、「選集」では「付言」として以下の付け足しがある。「選集」を底本として、新字現代仮名遣で、以下に掲げておく。

   *

【付言】

 第二一枝に、拙文「婦女を姣童に代用せしこと」出でて後、『源平盛衰記』巻三五、榛澤成淸(はんざわなりきよ)、巴(ともえ)女のことをその主人重忠に話すうち、義仲の「乳母子(めのとご)ながら妾(おもいもの)にぞ、内には童(わらわ)仕うようにもてなし、軍には一方の大将軍して、さらに不覚の名を取らず」とあるを見出だしつ。しからば、巴も姣童風態(わかしゆぶり)して木曾に隨身せるにて、まずは若衆女郎体《てい》のものたりしならん。また『覚後禅《かくごぜん》』第一七回によれば、支那に『奴要嫁伝(どようかでん)』なる書あり、一个(ひとり)の書生が隣りの室女(きむすめ)を非路行犯することを述べたるものの由なり。   (明治四十五年七月『此花』凋落号)

   *

「『源平盛衰記』巻三五、榛澤成淸(はんざわなりきよ)、巴(ともえ)女のことをその主人重忠に話すうち、……」国立国会図書館デジタルコレクションの和装本「源平盛衰記」三のここ(標題は「巴關東下向事」。当該部は左丁の後ろから三行目)で視認出来る。

「覚後禅」清代の小説「肉蒲團」(にくぶとん)の別名。全六巻二十回。李漁(一六一一年~一六八〇年)作とされる。主人公の青年「未央生」(びおうせい)が色道遍歴の末、仏門に帰依するという展開で、その性描写で知られる。確かに、「奴要嫁傳」という書名が同作に出るのは確認したが、それが実在するかどうかは、判らなかった。]

ブログ・アクセス1,820,000突破記念 梅崎春生 莫邪の一日

 

[やぶちゃん注:本篇は三部からなる連作で、それぞれは別な時期に異なった雑誌に発表され、昭和三〇(一九五五)年六月山田書店刊の作品集「山名の場合」に収録された際、三部が題名を章題として残す形で一篇として纏められた。それぞれの初出は後述する底本の解題によれば、

第一章「是好日」  昭和二六(一九五一)年二月号『改造』

第二章「黒い紳士」 昭和二六(一九五一)年四月号『文藝春秋』

第三章「溶ける男」 昭和二六(一九五一)年五月号『別冊文藝春秋』

にそれぞれ発表されたものである。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年七月沖積舎刊)に拠った。

 傍点「﹅」は太字に代えた。文中に注を添えた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日未明、1,820,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]

 

  莫 邪 の 一 日

 

     是 好 日

 

 失業者人見莫邪(ばくや)は、その朝も、午前六時きっかりに、眼が覚めた。

 莫邪は毎朝いつも、この時刻に目覚める。くるっても、五分とずれはしない。天体運行の機微を感応したかのように、ふしぎなほど正確に、彼の意識はとつぜんはっきりと、薄明に浮び上ってくる。それはこの数年来の、彼の動かない生理的習慣になっていた。それから彼は頸(くび)を捩(ねじ)って、枕もとの置時計の文字盤に、習慣的な視線をはしらせる。時刻を確かめ終ると、また元の姿勢にもどり、しずかに眼を閉じながら、手足をながながと伸ばす。猫が寝床にもぐり込んでおればおったで、ついでに外に蹴(け)り出してしまう。さしたる用事もないというのに、きっかり六時に目覚めるのは、すこしばかり迷惑でもあり、またすこしばかり忌々(いまいま)しくなくもない。ずっと若い頃は、こんなことは決してなかった。この戦争末期に、ほんの短い期間だが、軍隊に引っぱられて、そこでこんなやくざな習慣がついたに違いない。莫邪はなかば本気で、そう信じている。なにしろあの頃は、「総員起し」の寸前になると、声なき声に脅(おび)えたように、ひとりでに眼が覚めたものだ。その習慣が、五年後の今でも、彼につづいている。まるで火傷(やけど)の痕跡のように。

 五分間。瞼(まぶた)は閉じたまま、意識だけは安心して醒(さ)めている。今見ていた夢の後味や、昨夜就寝時に読んでいた本の後味を、思いかえすともなく反芻(はんすう)している。この短い時間が、莫邪にはひどく甘く香(かん)ばしい。じっさい彼は、三十五歳になるというのに、小説を読んだり夢を見たりして、涙を流すことがしばしばあった。その時だけの涙だけれども、それは彼に切なく甘美な瞬間であった。眼覚めの五分間に、それらのナッハシュマックを反芻することで、莫邪は今日という一日を、すっかり生きてしまったような気持になる。やがて五分間経つ。莫邪は眼をひらいて、狐がおちたようにむっくりと起き上る。そして廊下に出て、つき当りの浴室に入る。

[やぶちゃん注:「三十五歳」梅崎春生自身は、この発表当時、三十五、六歳であるから、この主人公人見莫邪と年齢はほぼ一致する。しかも、「戦争末期に、ほんの短い期間だが、軍隊に引っぱられて、そこでこんなやくざな習慣がついたに違いない」と言い、「総員起し」に神経症的拘りがあるところなども、海軍に召集された春生の経歴と一致する。後で莫邪が海兵団に属していたことも出る。

「ナッハシュマック」よく判らないが、ドイツ語の“nachschmach”(ナーックシュマーク)で「残光」か。]

 二間しかない手狭な家なのに、浴室だけは不似合に立派につくってある。彼は裸になって、湯槽(ゆぶね)に身を沈める。この家だけが、莫邪の唯一の財産であった。この家は、かつては彼の母の家であったし、それに妾宅(しょうたく)でもあった。浴室などを手厚につくってあるのは、そのせいである。母は戦争中に、肝臓癌(かんぞうがん)であっけなく死んでしまった。それでこの家は、彼のものになった。彼ひとりのものになって以来、この家は急速に荒れてきた。

「おおい。今朝のおつけの実は、なんだね」

 肩まで湯にひたって、莫邪は大きな声を出す。湯から突き出た莫邪の丸い顔は、もう普通の中年の、無感動な表情になっている。

「今日はお豆腐ですヨ」

 浴室の壁をへだてた向うが台所になっていて、そこで女中のお君さんが、コトコトと何かを刻んでいる。声がそこから戻ってくる。お君さんというのは、莫邪より三つ四つ歳上で、ずっと昔からこの家に居付いている。莫邪に属しているというより、この家の付属品にちかい。顔がひらたく、眼がちいさな女である。何をふだん考えているのか判らないけれども、莫邪に縁談がありそうになると、いつも頑強に陰険に、それに反対する。莫邪がいまだに独身でいるのは、ひとつはその所為(せい)でもある。彼女は夜は、廊下ひとつ隔てた四畳半に眠り、昼間はこまごました家事や炊事に従事する。あまり身体を動かすたちではなく、その日その日のことが済むと、あとはぼんやり昼寝をしたり、古雑誌を丹念に読みふけっていたりする。莫邪は時折この女を、疣(いぼ)のように意味のない存在だと思い、なにか無気味な感じにおそわれることがある。じっさいこの女は、馬鹿になった塩みたいなところがあった。彼女は莫邪から金を受取り、それでもって一月の家計を切り廻し、その点においてこの家全体を支配している。莫邪に保留されているのは、それに叱言をいう権利だけであるが、それに対しても、お君さんは、なかなか負けていない。不死身に切り返してくるのである。

[やぶちゃん注:「馬鹿になった塩」安い食塩でも精製度が高くなった現代ではあり得ないが、不純物が混入していたり、或いは湿気を吸収して、味がおかしくなった塩のこと。

「叱言」「こごと」。咎めたり、非難したりする言葉。 小言。 なお、「小言」と表記する場合には「不平を漏らす」といった意味合いを持つこともある。]

 しかし莫邪も、失業して以来、叱言をいう回数が、しだいに少くなった。失業して暇になり、よく考えてみると、自分の叱言も習慣にすぎないことを、うすうすと感じたからである。ある夜ラジオで偶然、落語の小言幸兵衛というのを聞いて、なおその感じが強くなっていた。その代りに、叱言が言いたくなってくると、それに先立って、覚えずにやにやと笑ってしまう癖がついてきた。自然と頰の筋肉が、そうなってしまうのだ。そんな笑いを、自分でも不潔だとは思うのだが、その不潔さすら自分に許そうと、莫邪は近頃は思っている。ほかのことはそのままにしておいて、そこだけ厳しく咎(とが)めだてするのも、変なことではないか。まったく妙な話ではないか。そう考え出して以来、莫邪の肉体はすこしずつ肥り始め、十五貫から十六貫となり、この頃では十八貫近くにもふくらんできた。いま湯槽の中にながめても、莫邪の乳は女みたいにぼったりして、湯のなかでゆたゆた揺れている。まさしく安易な恰好(かっこう)で、その贅肉(ぜいにく)は揺れうごいている。莫邪はなるたけそこらを見ないようにして、タオルをばちゃばちゃと使う。

[やぶちゃん注:「十五貫」「十六貫」「十八貫」順に五十六・二五、六十、六十七・五キログラム。]

 

「なに、ヒッカキ板だって?」

 味噌汁椀を口にもって行きながら、莫邪はそう反間した。

「そうよ。ヒッカキ板ですよ」

 お君さんはお膳の向うに坐って、貧乏ゆるぎをしながら、落着いた声で答えた。彼女はどんな場合でも、驚いたり激したりしたためしがない。いつも同じ調子で抑揚のない話し方をする。

「どこにそれをしつらえたんだね?」

「あそこの、廊下のすみですよ」

 お君さんは手をあげて、その方を指さした。飼猫が近頃大きくなって、むやみと気が荒くなり、襖(ふすま)や壁や障子などを、しきりに爪を立てて引っ搔く。もともと迷い込んできた仔猫で、お君さん一存で飼っているのだから、その被害を黙っている訳にも行かず、彼女に注意したのは、つい二三日前のことであった。廊下に面する障子の紙などは、ほとんど下辺はぼろぼろになっている。今朝も豆腐汁をなめながら、莫邪が言い出したのはそれであった。ところがお君さんの答は、ヒッカキ板というのをつくったから、もう大丈夫だと言うのである。どこかを引っ搔こうとする度に、猫をそこに連れて行くようにすれば、ついには猫も習慣になってしまって、なにかを引っ搔きたい衝動にかられると、ひとりでに、自発的にそこに行って、その板をガリガリと引っ搔くという仕組みである。彼女の落着いた説明では、そうであった。その度に猫を板の前に、誰が連れて行くのか。それをまじめに反問しようとして、莫邪は急に口をつぐんだ。そしてにやにやした笑いが、やがて莫邪の頰にぼんやり浮び上ってきた。

「どれ。ひとつ、見て来ようかな」

 汁椀を下に置くと、莫邪はゆっくり立ち上り、障子をあけて廊下に出た。廊下のすみのくらがりに、一尺四方の板が立てかけてある。そこらの板塀から折り取ってきたような、へんてつもない粗末な薄板である。含み笑いをしながら、その前にしゃがんで、莫邪はしばらくそれを眺めていた。その表面には、まだ爪跡はついていないようであった。

 莫邪がお膳の前に戻ってくると、お君さんは彼をまじまじと見詰めながら、しずかに口を開いた。

 「猫のことは猫のこととして、もうお金がなくなりましたよ。電気代も二三日中にくるし、薪(まき)もそろそろ買い足さねばならないし、八百屋さんにも、ずいぶん借りができたんですよ」

「もう金がなくなったのかな。そこらに何か質草(しちぐさ)でもないかな」

「質屋にもって行けるようなものは、もう家にはありませんよ。それにあたしの今月の給金も、まだ貰っていないし。とても困るんですよ」

「それは困るだろうなあ」

「そうですよ。ほんとに大困りですよ。今日はどこからか、すこし都合つけてきて下さいよ」

 お君さんは経済の一切を握っているくせに、自分の給金は別にきちんきちんと請求して、それをごっそり溜め込んでいる。自分の身の廻りのことは、一家の経済でまかなうから、給金だけは手つかずで、そっくり貯金に廻っているらしい。その額も、長年のことだから、数万数十万にのぼっている筈だと、莫邪はかねてから漠然と推定している。しかしどんなに人見家の経済があぶなくなっても、彼女は自分の貯金を放出しようとはしないし、給金の遅滞をも決して許さない。失業このかた、莫邪身辺の金廻りは、頓(とみ)に悪くなってきているが、彼女のその方針と態度は、当初とすこしも変りなかった。それならそれでもいい。莫邪としても文句はないが、それでも一週間に一度くらいは、彼女を巧妙な方法で亡きものにして、貯金をごっそり横領することを、空想に描かないでもない。今も莫邪はなにか考えこむ顔付になって、黙って箸をうごかし、飯粒を口にはこんだり、豆腐汁をすすったりしている。今朝の豆腐は、ごりごりと固く、妙ににがい。苦汁(にがり)を入れすぎたんだな、などと頭のすみで仔細らしく莫邪は考えている。やがてすっかり食べ終ると、彼はお茶を注がせながら、独白のように言った。

「兄貴のところにでも行って、少しばかり貰って来ようかな」

「それがよございましょ。そうなさいませ」

 お君さんが膳を下げてしまうと、莫邪は大きく伸びをして、莨(たばこ)に火をつけた。とにかく今日は用事がひとつできた。そのことが莫邪に、すこしの安心をあたえた。兄貴というのは、莫邪の異母兄で、つまり莫邪の父親の正妻の子なのである。父親は漢学者のくせに、なかなかの粋人で、女遊びもしたし、妾(めかけ)をたくわえもした。そしてもうずっと前にオートバイに轢(ひ)かれて死んでしまったが、子供はその正妻の子と莫邪と、ふたりしかない。莫邪などという変った名前をつけたのも、この父親の趣味であった。莫邪というのは、古代の名剣の名だそうであるが、父親の望んだほど、実物の子は切味はよくない。むしろ正妻の子の方が羽振りがよくて、丸の内に事務所などを持ち、とにかく一家の風(ふう)を保っている。莫邪より五つ歳上にあたる、やせた機敏そうな男であった。

 莫邪は立ち上って、のろのろと服を着けた。近頃肥ってきたので、ひどく窮屈である。毎朝これを身につける毎に、彼は狂人用のストレートジャケットを着せられたような気分になる。服から出た部分が充血し、眼球もすこし飛び出したような感じになる。どこか自分でないような気がしてくる。しかしはたから眺めると、なかなか血色が良くて、思いわずらうことのないような人に見える。

 靴をはいて、外に出ると、莫邪は背骨をまっすぐに立てて、霜柱をさくさく踏みながら駅の方にゆっくりと歩いてゆく。

[やぶちゃん注:「狂人用のストレートジャケット」“straightjacket”。拘束着。凶暴な状態の人を拘束する手段として、腕を胴体に固く縛りつけるために使われるジャケットのような衣服。]

 

 人見経済研究所所長・人見干将(かんしょう)は、事務所の扉を排して入ってくる人見英邪の姿をみとめると、やせた眉目をかすかに曇らせて、かるく舌打ちをした。莫邪は肥った頰の筋肉をやや弛(ゆる)め、まっすぐに干将のデスクに歩いてくる。干将は眉根を寄せたまま、じっとそれを見ていた。

[やぶちゃん注:既に主人公莫邪の名の由来で語られているが、「干将」・「莫耶」は本来は「干將」、「莫耶」は「鏌鋣」とも表記し、中国の伝説上の名剣、もしくはその剣の製作者である夫婦の名。剣については、呉王の命で、雌雄二振りの宝剣を作り、干将に陽剣(雄剣)、莫耶に陰剣(雌剣)と名付けたとされる。この陰陽は陰陽説に基づくものであるため、善悪ではない。また、干将は亀裂の模様(龜文)、莫耶は水の波の模様(漫理)が剣に浮かんでいたとされる(「呉越春秋」に拠る)。なお、この剣は作成経緯から、鋳造によって作成された剣で、人の干将・莫耶については、干将は呉の人物であり、欧冶子(おうやし)と同門であったとされる(同じく「呉越春秋」に拠る)。この夫婦及びその間に出来た子(名は赤、若しくは、眉間尺(みけんじゃく))と、この剣の逸話については「呉越春秋」の呉王「闔閭(こうりょ)内伝」や「捜神記」などに登場しているが、話柄内の内容は差異が大きい。近代、魯迅がこの逸話を基に「眉間尺」(後に「鋳剣」と改題)を著わしている。なお、莫耶、莫邪の表記については、「呉越春秋」では莫耶、「捜神記」では莫邪となっているが、本邦の作品では、孰れも莫耶と表記することが多い。以上はウィキの「干将・莫耶」に拠ったが、より詳しい話柄は、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)』と、『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その2)』を見られたい。]

「また、金かね?」

 莫邪がデスクのむこうに腰をおろすと、干将はすぐに言った。感情を殺したような、職業的な低目の声であった。

「実はそうなんだよ。よく判るね」

「お前さんが来るのは、いつもそうじゃないか」

「そうだったかな。それほどでもないよ」

 干将は匂いのいい莨(たばこ)に火を点(つ)けながら、莫邪の方から眼をはなさないでいた。英邪は窮屈そうに椅子(いす)にかけて、顔だけはにこにこと笑っている。莫邪の全身にただようその無能な感じを、干将はあまり好きではなかった。こんな男なら、おれでもクビにしたくなると、干将は莫邪を眺めながら、ぼんやりと考えている。天気や家族のことについて二言三言話し合ったあと、女給仕が運んできた渋茶を、莫邪は唇を鳴らして飲んだ。カラーにしめつけられた咽喉仏(のどぼとけ)が、苦しそうに、ごくごくと上下するのが見える。死んだ父親の咽喉仏の形に、そっくりだと思いながら、干将も無意識にごくんと唾を呑みこんで、そしてしずかな声で言った。

「それで、あの復職の件は、一体どうなったんだい?」

「ああ。あれもいろいろ、やっているんだけれどね、署名なんかも、もう相当集まったし――」

 莫邪は茶碗をおいて、服の袖口で唇を拭きながら、語尾をあいまいに濁すようにした。そして何となく、眼を窓の方向に外(そ)らした。窓枠に截(き)りとられた曇り空には、無数の白い鳩が、白濁した汚点のように飛び交(か)っている。莫邪はそれを確かめるように、眼を二三度しばたたいた。

 莫邪が先頃まで勤めていたのは、ある小さな雑誌社で、社長がレッドパージに籍口(しゃこう)して社員を整理した際、彼もその人員の中に入っていたのである。同調者だという名目であったが、莫邪には身に覚えがないことであった。そこで旧(もと)の同僚が、莫邪の身上に同情し、復職嘆願書をつくって呉れ、それを莫邪が持ち廻り、その雑誌社関係の文化人の署名を貰って歩くことになったのだが、どうもこの仕事には彼はさっぱり身が入らなかった。むつかしい仕事ではない。持って行けば、誰でもすぐ署名して呉れるのである。文化人というものは、金を出す用件でないと判れば、急にやさしくなって、親切にしてくれるものであることを、莫邪はしみじみと知った。そしてこの仕事に身が入らないというのは、その際署名者たちの瞳の色の中に、必ずなにか過剰な光があってそれが莫邪を重苦しくさせるからであった。単に署名するだけで、ひとつの運命が好転する。その意識がすべての署名者の心の底を快くくすぐり、それが彼等の表情や動作に、ある過剰なものを付加してくるらしかった。それを見るのが辛いし、また徒労だという感じもやがて強くなって、十人ほどの署名を貰ったまま、莫邪はその嘆願書を茶簞笥(ちゃだんす)の上にほうり放しにしている。その間(かん)の事情を干将に聞かれるのは、ちょっと辛いことであった。

[やぶちゃん注:「藉口」口実を設けて言い訳をすること。かこつけること。]

「署名が集まれば、早く社長に提出すればいいじゃないか」

「うん。そうしようと思うんだけどね」

 莫邪は身体を捩りながら、話題をそこから外(そ)らそうとした。

「なにしろ、急に金廻りが悪くなってね。お君さんも、不機嫌なのさ」

「そりゃ不機嫌だろうな」

「まさかの時は、あの家も売ろうと思っているんだが――」

 干将が鼻で笑うような音を立てたから、莫邪は口をつぐんでしまった。そこへ向うの机から若い所員がやってきて、書類をデスクに拡げて用談を始めたので、莫邪は俄(にわ)かに手持無沙汰になって、窓の外を眺めたり、事務室の内部を見廻したりして、用談の済むのを待っていた。その間に卓上電話が二度もかかったりして、用談はなかなか済まなかった。干将は莫邪の存在を忘れたように、てきぱきと事務に没入していた。

 やがて所員が去ってしまうと、干将はぎいと廻転椅子を廻して、莫邪の方に向き直った。莫邪はさっきと同様に、窮屈そうに腰をおろして、顔をすこしあおむけてにこにこと頰をゆるめていた。この肥った男と父親を同じくしているという意識が、その瞬間妙な違和感となって、干将を不快にさせた。

「なかなか忙しそうだね」

 遠くから聞えてくるような声で、莫邪がぽつんと言った。干将はそれにすぐ返事をしないで、頭の中でいろんなことを考えめぐらしていた。莫邪がクビになったのも、同調者だというのは口実で、莫邪が無能だったからに過ぎないと、干将は察知している。しかしそのことについて、莫邪はどう考えているのだろう。あのにやにやと弛んだ顔のむこうで、この男は一体、何を考えているのだろう。そう思うと、ふとこみ上げてくるいらだちを押えながら、干将はやっと重々しく言葉を返した。

「忙しいね。暇のある人間が、しみじみとうらやましいよ」

「そうでもないだろ。暇なんてものは、疣(いぼ)みたいなもんで、あまり役にも立たないよ」

 それから二人は、さり気ない顔貌をむけ合ったまま、忙しさということについて、二三の意味のない会話を交した。その間に干将は、はっきりと自分の気持を決めてしまっていた。ある気まぐれな、すこし意地の悪い興味が、ちらと干将の心をかき立ててきたのである。

「金のことだがねえ――」

 会話がとぎれたとき、わざと退屈そうな口調を使って、干将は口を開いた。

「毎度々々のことだから、タダで上げるのも、実は僕は気がすすまないんだ。だからね、お前さんに今日一日の用事を頼んで、その分の日当を払おうと思うんだが、それでどうだね?」

「日当?」

「そう。日当さ」

 干将は落着いた声で答えた。莫邪は少し黙りこんで、椅子の上で二三度大きな呼吸をした。それから低い声で訊(たず)ねた。

「仕事って、どんなのだね?」

 干将はおもむろに胸のポケットから、小さな皮手帳を取出した。そしてばらばらめくりながら、今日の予定表を探しあて、ちらと上目で莫邪を見た。

「僕の名代で、会合に出て貰いたいんだ。ただ出席するだけでいい」

「何の会合だね」

「ええと」

 干将は手帳を眼に近づけて、丹念にメモを調べるふりをした。

「――二つあるんだ。ひとつは山形家の婚礼の祝賀会。山形ってのは、おれの軍隊時代の戦友さ。もうひとつは、川口家の告別式。これはおれの高等学校のときの友達。酔っぱらって、崖から落ちて死んだんだ。運の悪い奴だね。この二つだ。――どうだい。引受けるかい?」

「――引受けてもいいな」

 すこし経って、莫邪は無感動な声で、そう答えた。干将は紙入れを取出し、その中の紙幣束(さつたば)を狼のような手付きでバサバサと数え始めた。そしてその一部分を、莫邪の方へ、デスクの上にふわりとすべらせた。紙幣はデスクの端で、あぶなく落ちそうになって止った。見ているような見ていないような視線で、莫邪はそれを眺めていた。

「そこに一万円ある。香奠(こうでん)とお祝いの品を、その中から出して呉れ」

「僕の日当は?」

「日当もその中だ」

「そうすると――」莫邪の指が伸びて紙幣束にちらと触れた。「どんな割合になるんだね。この中から、日当と、香奠と、お祝いを出すとすればさ」

「それはお前さんに任せるよ」瞬間、意地悪い快感が湧きおこるのを感じながら、しかし干将は強(し)いてつめたい声で答えた。「その按分(あんぶん)はまったく、お前さんの宰領にまかせるよ。三三四だって二三五だって、一一八だって、何だっていいんだよ。いいようにおやり」

 莫邪はとたんにぶわぶわした笑いを頰にうかべた。すると干将も唇を曲げて、笑いに似た翳(かげ)をそこにはしらせた。瘦せた兄と肥った弟は、お互いに顔を見合わせたまま、しばらく声なき声を含んで笑い合っていた。やがてどちらからともなく笑いを収めると、莫邪の掌は紙幣束を摑(つか)んで、ポケットにそろそろと入って行った。

「じゃ、そう言うことにしよう。どうもありがとう」

「いえいえ。どういたしまして」

 干将は切口上でそう答え、あり合わせた紙片に、忙しげに両家の地図を書き始めた。莫邪は椅子から不安定に腰を浮かせ、そのすらすらしたペンの動きに、見惚(みと)れたような顔になっている。

 

 午後一時。

 町角の売店で、香奠袋を買った。二枚十円だというので、二枚買った。それから酒屋に寄り、猫印ウィスキーの箱入りを買った。それを小脇にかかえ、莫邪はせまい露地に曲りこみ、小さな中華料理屋の扉を押して入って行った。注文したチャーシュウメンが運ばれるまで、莫邪は卓に頰杖をついて、一万円の按分方法を考えたり、ウィスキーのラペルをぼんやり眺めていたりした。店の中に、客は彼ひとりであった。日が翳り、店内は薄暗く、うすら寒かった。告別式に出ることも、結婚祝いに出ることも、まださっぱりと現実感がない。時間がじりじりと経つとともに、自分自身が死んだ章魚(たこ)のように無意思になって行くのが判った。

[やぶちゃん注:「猫印ウィスキー」明治四(一八七一)年に横浜山下町のカルノー商会が輸入したアイリッシュ・ウィスキー、通称「猫印ウヰスキー」。バークス(“BURKES Fine old Irish Whiskey”)。本邦に輸入されたウィキスキーの最古参に属する。ブログ「たらのアイリッシュ・ウイスキー屋さん」の「日本に輸入された最初のウイスキーはアイリッシュ? 猫印ウイスキー」を参照されたい。猫マーク入りのボトル写真もある。そこに『バークス・ウイスキーがいつ頃まで販売されていたのかは分からなかった』とされつつ、『会社自体は創業が 1848 年、廃業が 1953 年』とあるから、本篇当時、まだあったものと思われる。なお、さらに、このウィスキーが『2017年に復活を果たした』ともある。但し、サイト「WHISKY Magazine Japan」の「戦前の日本とウイスキー【その2・全3回】」によると、『ジャパン・ヘラルドに記載されていた「WHEAT SHEAF」が』、このバークス『より7年早』く日本に舶来しているという記載があったことを言い添えておく。]

「ヒッカキ板、か」

と莫邪は呟(つぶや)いた。瓶のラベルには、猫が躍っている絵が印刷してある。その猫の四股の先は、内側へ丸くぐんにゃりと曲り込んでいる。うちの飼猫と毛並みが似ている。沈みこんでいるところから、両手を伸ばしてずり上るような気持で、彼はふたたび呟いた。

[やぶちゃん注:以上のように猫を描写しているが、グーグル画像検索「BURKE’S Fine old Irish Whiskey」では、躍っているようには見えず、座った後部は、尻尾を手前に巻き込んで後方に立てているように見受けられる。]

「おれにも、ヒッカキ板というものが、ひとつ欲しいもんだな」

 呟いてみたものの、それはどういう意味なのか、自分にもよく判らなかった。ただ莫邪は、一間四方もある板を眼の前に想像し、それをしきりに引っ搔いている自分自身を想像した。そしてためしに、両手を胸の前にそろえ、ちょっと空(くう)を引っ搔く仕草をしてみた。そこへ給仕の男がチャーシュウメンを運んできて、莫邪を見て妙な顔をした。そこで莫邪はその仕草をやめた。

「お待遠さま」

 この給仕男は、誰かに似ている。そう思いながら、莫邪は箸(はし)をとった。二箸三箸食べたとき、彼はそれを卒然として思い出した。軍隊で会ったある衛生兵に、この給仕男は似ているようであった。

 海兵団の医務室で、治療の順番を待っていたとき、莫邪の一人前の兵隊が、足指の瘭疽(ひょうそ)を手術されていた。手術しているのは、色の黒い若い衛生兵である。乱暴にメスを使って爪をごりごりと切り、クギヌキでそれをはさんで、ぐいと引抜く。見ているだけで、莫邪は脳貧血をおこして、ふらふらとしゃがみこんだ。すると手術を終った衛生兵が、莫邪の肩を引っぱり上げて、したたか頰を殴りつけた。

「なんだ、この野郎。貴様が手術されてるんじゃねえぞ。生意気な!」

[やぶちゃん注:「瘭疽」手足の指の末節の急性化膿性炎症。この部分は組織の構造上、化膿が骨膜・骨に達し易く、また、知覚が鋭いので、激痛がある。局所は化膿・腫脹・発赤・熱感を起こす。「ひょうそう」とも読む。]

 あの衛生兵の言葉は、一応理窟にあっていたなと、かたい肉を奥歯でかみながら、莫邪はぼんやりと考えた。あんな具合に割り切ってしまえば、世の中も渡りやすいだろう。しかしとても俺にはできそうにもない。そんなことを考えているうちに、莫邪はすっかり食べ終った。

「――さて」

 丼をむこうに押しやり、香奠袋を出してウィスキーの横にならべ、彼はひとりごとを言った。そしてしばらく考えて、紙幣束をとり出し、その中から五千円を数えて、また自分のポケットに収め、残りを香奠袋の中に押し込んだ。香奥袋は二枚ある。さっき何気なく買ったのだけれど、両方とも使わねば悪いような気になって、彼はまた考えこむ顔付になった。少し経って、彼はポケットからまた千円札を一枚つまみ出し、それをも一つの香奠袋の中に入れた。そして二つの袋にそれぞれ、人見干将、人見莫邪と署名した。そうするとすっかり落着いた気持になって、莫邪はにやと頰をゆるめた。

(兄貴もちかごろ、なかなか意地悪になってきたな)

 代金をはらって外に出ると、寒い風が顔に吹いてきた。町の遠くで、拡声器の試験をしているらしく、機械の声がきれぎれに風に乗って聞えてくる。

「――本日ハ、――晴天ナリ、――本日ハ、――晴天ナリ――」

 空は曇って暗かった。今日の一日に、祝賀の表情と、追悼(ついとう)の表情を、うまく使い分けねばならない。うまく行くかどうか、莫邪は少し心もとなかった。街には人があふれていた。すれ合う人々の表情や、街全体の表情に、莫邪はある歪(ゆが)みをかんじた。そして彼は、二三日前雑誌で読んだ、宇宙が歪んでいるという説を、突然思い出した。宇宙が歪んでいるなら、地球も当然歪んでいるだろう。その歪みの中で生きるには、人間もすこしは歪む必要があるだろう。

(そういう点からして――)

と彼は思った。どういう点からかは、彼にもよく判らなかった。

(今日という日も、なかなか好い日にちがいない)

 思考の尖端が、ぶわぶわと分厚なものに埋没している感じで、莫邪はウィスキーを胸にかかえ、無感覚な人形のように、人波をぬってまっすぐ駅の方に歩いて行った。

[やぶちゃん注:「宇宙が歪んでいる」中学時分に読んだ科学書では、アインシュタインは宇宙を綺麗な球体と予想したが、当時の宇宙物理学の観察では、馬の鞍の様な形をしていることが提唱されていたのを覚えている。しかし今、ネットを調べると、果てしなく彼方に広がり続ける平坦なものというのが優勢であるようだ。]

 

     黒 い 紳 士

 

 人見莫邪が最初にその男の姿を見たのは、くすんだ色調の杉の生籬(いけがき)にはさまれた、せまい路上である。

 赤土まじりのその小路の地肌は、濡れてじっとりと湿り、またいくらかぬかるんでもいた。莫邪がふと眼をあげると、二十米ほど前方を、その男はひとりであるいていた。ぬかるみを避け避け、生籬に肩を摺(す)るようにしながら、気ぜわしそうに背を丸め、ヒタヒタヒタと脚を動かしている。

 空は曇ってくらかった。雲の厚みに漉(こ)されたにぶい光が、まばらな電信柱や生籬や、煤色(すすいろ)の屋根瓦の上に、しっとりとひろがっている。その風景は光線の具合か遠近感がなく、なんだかひらべったい感じがした。そして莫邪の視界に狭隘(きょうあい)な路上をうごいているものは、その男の黒い後姿だけであった。

「まるでクロコみたいだな」

 ぬかるみを飛び越しながら、莫邪はふとそう思った。書割りじみた平板な風景のなかに、なにか人目をはばかる様子で、男の小さな輪郭が、ちらちらとうごめいている。黒具をつけた芝居の後見の動作をそれは何となく聯想(れんそう)させた。男は黒い服を着て、黒い中折帽を頭にのせている。はいている長靴も黒色であった。中折帽子はすこし大きすぎると見え、耳たぶまでスッポリかぶさっている。童話の黒い蕈(きのこ)があるいているようにも見える。妙に非現実的な感じであった。背丈も生籬の半分ぐらいしかない。対比の関係か四尺そこそこの高さにしか見えない。そのミニアチュアめいた奇妙な後姿が、なにか無気昧な滑稽さを瞬間に莫邪に伝えてきた。

「ええと――」

 へんに不安定な感じがやってきて、足がすくんだように、莫邪は立ち止っていた。電柱の下から、腐った木の葉のにおいが、ぼんやりと立ちのぼってくる。立ち止ったつじつまを合わせるように、莫邪の手はいそがしく動いて、やがてポケットの中から、干将が描いてくれた地図をとり出している。男の後姿からその紙片へ、莫邪は落着かない視線をうつした。

「道はこれでよかったのかな」

 異母兄の人見干将の依頼で莫邪は今から、山形家の結婚の祝賀会に出席するのである。山形というのは、干将の軍隊時代の戦友だというのだが、もちろん莫邪はその男の顔も素姓(すじょう)も全然知らない。知っているのは、その会が午後四時から始まるということだけである。なにかお祝いの品を持って行くように、と言ったのみで、他にはなにも干将は説明も指示もして呉れなかった。日当を出すというのでウカウカと引受けてきたのだが、いくら兄の代理とは言え、見も知らぬ男の祝宴に出るのはあまり面白そうなことではない。しかもそのあとで、午後の七時から、これも干将の名代として、川口という男の告別式にも出席しなくてはならないのである。日当を貰ったからには、これもすっぽかす訳にも行かないだろう。やせて神経質そうな干将の顔をちらりと思い浮べながら、莫邪はかすかに舌打ちをして呟いた。

「判りにくい地図だな、これは」

 スベスベした紙片に、万年筆で道順が書いてある。整然と書いてあるようだが、それをたどってここに来て見ると、実際の地形や距離とははなはだしく相違している。げんにこの狭い赤土の小路も、干将が書いた地図の上では、ひろびろとした鋪装路のような印象をあたえる。地理の感覚がないのかしら。紙片を縦にしたり横にしたりして、あやふやな道順をも一度たしかめ終ると、莫邪は面白くなさそうな顔付になって、また足を踏み出した。靴の裏でぬかるみがピチャリと音をたてる。見るとさっきの男の姿は、もう見当らなかった。

「ふん結婚祝賀会か」

 祝い品に買い求めた箱入りウィスキーを、けだるく左手に持ち換えながら、莫邪は足をひきずるようにして歩いた。そして地図が指示する通り、赤いポストから右に折れ、高さ二尺ばかりの地蔵のある辻を、さらに左に折れた。干将の地図では、その地蔵の位置に矢印をして、石造彫刻物などと書きこんである。石造彫刻物とは、いかにも干将らしい名付け方だ。この干将の地図に間違いなければ、山形邸はもう直ぐ近くの筈である。道は相変らずビチョビチョと濡れていて、冷たさがひたひたと靴下にもしみとおってきた。

「ちょっと道をききますが――」

 突然そういう声が近くから聞えたので、莫邪はぎょっとした。道端につみ上げた古材木のかげに、黒い人の姿がひとつ立っていた。

「山形という家は、どこらあたりですか」

 ウィスキーの箱を両手で胸に抱きかかえるようにして、莫邪は立ち止っていた。近頃肥って窮屈なチョッキの下で、動悸がごとごとと不規則に打っている。

「ごぞんじないかな。山形。山形という――」

「それは、そこです。すぐそこ」

 莫邪はあわてて答えた。眼の前に立っているのは、先刻の男である。古材木のかげにかくれて、莫邪が近づくのを待ち伏せていたらしい。さきほどはひどく矮小(わいしょう)に見えたが、向い合って見ると、それほどでもない。五尺二三寸[やぶちゃん注:一メートル五十八センチから一メートル六十一センチ。]はある。黒い帽子と服を着け、手にも黒い風呂敷包みを持っている。帽子も大きすぎるし、服もやはり身体に合っていない。帽子のひさしの奥から、南京玉(ナンキンだま)みたいな小さな黒い瞳が、じっと莫邪を見詰めている。そして色艶のわるい唇がやや開いて、黄色い歯列がのぞいている。動悸がややおさまってくると、莫邪はなにかすこし忌々しくなってきた。この男の顔の印象は、外国の漫画によく出てくる日本人の顔に、どことなく似ていた。

「あんたもそこに行くのかな」

 視線をウィスキーの箱にはしらせながら、男がふたたび訊ねた。なんだか腹話術師みたいに、唇をあまり動かさない。抑揚のない含み声である。そして急に言葉がぞんざいになってきたようだ。男の黄色い歯屎(はくそ)をながめながら、気押(けおさ)されたように莫邪はだまっていた。

「そうだろ。あんたも山形の家に行くんだろう」

 さっき見た後姿も、どことなく異様な感じであったが、今まぢかに相対しても、それと同じ感じが男の全身を、うっすらと膜のようにつつんでいる。歳も莫邪よりはすこし上らしい。そして男の視線は舐(な)め廻すように、莫邪の全身にうごいた。なぜか急に嘔(は)きたいような気分になって、それをこらえながら、莫邪はこっくりとうなずいて見せた。

「それならば話は早い」

 よく聞きとれなかったけれど、そんな風に言ったようである。そして男はくるりと向きを変えて、大き過ぎる長靴をガバガバと鳴らしながら、いきなり先に立って歩き出した。その音にうながされたように、莫邪もつられて足を踏み出している。どこかでラジオの長唄が鳴っている。

 

 祝賀会と言っても、大したことはない。天井の低い八畳の部屋に、机やチャブ台を継ぎあわせ、それにしいた白布の上に、皿や碗や盃やコップが、ごたごたと並んでいる。床の間の大きな壺には、松竹梅が不器用に活(い)けてある。道具立てはそれだけである。卓の上の器物も不揃いだし、白い卓布もうすよごれた感じであった。そして十二三人の男たちが目白押しに居並んで、それぞれの恰好で飲んだり食ったり、私語し合ったりしているのである。その一番すみっこの場所に、人見莫邪は中途半端な表情をこしらえて、窮屈そうに坐っていた。

 莫邪のところからガラス越しに、猫の額ほどの此の家の庭が見える。庭の半分は畠になっていて、ネギみたいな植物が五六本、そこらにヒョロヒョロと立っている。曇天のせいか庭もくらいし、部屋の中はもっとくらい黄昏(たそがれ)どきのような感じである。

「生憎(あいにく)と停電でございまして――」

 主人役の山形夫妻は、縁側の方から出たり入ったりしで、酒や料理をはこんだり、またそこに坐りこんで、酒を注いだりしている。この宴が済むと、午後七時何分の汽車で、新婚の旅に立つという話であった。新婦は度の強い眼鏡をかけた二十四五の女で、新郎は四角な顔をした朴訥(ぼくとつ)そうな男である。やはり一世一代のことだから、顔色もどことなくはればれとして、動作もいくらか生き生きとしているようである。こんな男といっしょに兄貴は軍隊に行ってたんだな、などと仔細らしく考えながら、莫邪は遠慮がちに料理に箸をつけたり、コップに手を伸ばしたりしている。莫邪が持参したウィスキーは、すでに二本とも栓をぬかれて、卓の上に立っているのである。酒はともかくとして、料理は冷えて不味(まず)かった。べつだん食慾はないのだが、黙って坐っているのも手持ぶさたなので、三十秒に一度くらいは、どうしても卓の方に手が伸びてしまう。

「どうも何から何まで行き届きませんで」

 料理がすっかり運び終ったと見えて、山形新婦が縁側に両手をついて、丁寧にお辞儀をした。客は一斉(いっせい)に箸の動きを止めて、そちらを向いて頭を下げたり、うなずき合ったりしている。光線が乏しいので、皆の顔は何だか怒ったような、憂鬱そうな感じをたたえている。座もはずんで来ないし、すこしも祝宴らしい感じがしなかった。

(やはりおれみたいに、お義理で来ている連中が多いのかな?)

 そんなことを考えながら、莫邪は無責任な視線でちろちろと薄暗い一座を見廻している。客の種類は、六十ぐらいの老人から、学生服の若い男まで、いろいろ雑多に並んでいる。客の間に横のつながりはあまり無いらしく、あちこちにぼそぼそと私語が起ってはいるものの、座全体の笑声歓語はすこしも聞えてこない。晴れやかな顔をしているのはだいたい主人役だけで、あとはさむざむとした顔でもっぱら飲食に没頭している。時間の動きがのろのろしていて、なんだか一向にはっきりしなかった。ひどく大儀なような、また肩の凝るような気分を持て余しながら、莫邪はコップに何度目かの手を伸ばしている。

(今夜おれが告別式に出席して、おくやみなどを述べる際に――)莫邪はコップのウィスキーをぐいと乾し、こんどは汁碗をとりあげて蓋をとった。(この一対の男女は宿屋の一室に入り、接吻などを交していることになるのかな)

 莫邪は頭の遠くで、派手な夜具や脱ぎ捨てられた下着の赤い色や、またむれたような炬燵(こたつ)のにおいなどを、ぼんやりと空想した。空想はしてみたものの、なんだかよそごとみたいで、眼前の山形夫妻の存在と、一向に結びつかなかった。腸のあちこちが急に熱くなって、ウィスキーがそこにひりひりと沁(し)み込んでゆくのが判る。莫邪はもったいらしい顔になって何となく低くせきばらいをした。

「さあさあ」

 新郎は中腰になって、やがて客の間に割り込みながら、酒やウィスキーを注いで廻っている。新郎の顔もすこし赤くなっている。弁当箱みたいな四角な顎を、嬉しそうにがくがくと動かしながら、

「さあさあ。たんと飲んで下さいよ。酒はもっともっと用意してあるんだから」

「これはなかなか、良い酒だね」

 盃を透かすようにしながら、そこらで誰かのとってつけたような声がした。

「良い酒ですよ。わざわざ故郷(さと)から取りよせたんだから。こんでも故郷ではね、村雨(むらさめ)という名の通った銘酒だ」

 汁腕に入っていた蓴菜(じゅんさい)が、どろりと気味わるく莫邪n舌をすべってつめたく咽喉に流れこむ。しばらく経つと酒の減りに比例して、座もすこしガヤガヤと浮き立ってくる気配があった。

[やぶちゃん注:「村雨」不詳。現在、非売品の特別醸造で、この名を持つ日本酒(熊本)があるが、この当時、あったとは思われない。「村醒」或いは「村雨」は、強く降ってすぐ止む雨に掛けて、「すぐに酔いが醒めてしまう酒(村を出る前に醒めてしまう酒)」という意から水を割ったような「アルコール度数の低い低品質の酒」のことを言う隠語としてあり、同時に、真逆の「村を離れたところまで来て、やっと酔いが醒める酒」と言う意で、「上等な酒」のことをも指すともされる。酒好きの梅崎だから、お遊びで前者の意で用いたものととっておく。]

「なあ。山形戦友」

 莫邪のすぐ近くの席で、ざわざわした私語の中から、こんどは別の声がとび出した。

「今日はお前はなかなか立派だぞ。死んだ井上戦友に見せたかったぞ」

 なんだか聞き覚えがあると思ったら、さきほどの黒服の紳士の声である。黒い紳士は莫邪から一人おいてむこうの席に坐っている。見るとその横顔は酒がはいったのか、いささか黄黒く変色している。大あぐらをかいて、しきりに盃を乾しているらしい。

「はあ。戦友でいらっしゃるか。それは大変でございましたな」

 莫邪の隣に坐っている老人が、指で焼竹輪をつまみながら、もごもごした声で相の手を打った。この老人も話し相手がほしかったらしい。この黒男が山形の戦友なら、干将の戦友にもなる訳だな、と思いながら、莫邪は横目でそのやりとりを観察している。黒男は掌をくにゃくにゃ動かしながら、いつか老人の方に向き直っている。

「そうですよ。――全くそんなもんだ。生き残った奴は、結婚も離婚もできるが、死んだ奴はとにかくなんにもできやしない。そんなもんですよ」

「はあ。それは道理だね。もっともだ。はあ」

 一座のうごきもだんだん活潑になってくるらしかったが、あたりが薄暗いから、和(なご)やかに浮き立ってくるという風ではなくて、酔いが陰にこもってイライラとふくれ上ってくる様子である。すこしずつ高まってくる濁ったざわめきの中で、莫邪の右手も惰性のように伸びたり縮んだりして、卓のものを口に運んでいる。いささか酔いが廻ってきたので、先刻のような手持ぶさたな退屈な感じは、やっとなくなってきた。そのかわり失業して以来の、久しぶりの酒だから、五体が妙にけだるくなり、眼球が瞼の底に沈下してゆくような感じがする。見も知らぬ男たちと膝を交えて、酒を飲んでいることも、さほど気にはならなくなってきた。とにかくこうやって飲んだり食ったりするだけで、名代としての役目は果たしていることになるのだから、他になにを思い煩(わずら)うことがあるだろう。ただひたすら飲めばいいのだ、と莫邪は心の中で自分に言い聞かせる。

 (日当だからな。なにはともあれ、日当仕事だからな)

 莫邪は肥った頰の筋肉をぶよぶよと弛(ゆる)め、口の中でしきりにそんなことを呟いている。それは本(ほんね)音でもあった。ほんとに山形夫妻が結婚しようと離婚しようと、こちらとは大した関係もないことだ。それよりも卓上の焼竹輪や酢ダコの味の方が、当面上の問題としては、ずっと莫邪に関係がふかいのである。

「ひどい戦争でしたね、あれは」

 黒い男は箸で卓上をなぞりながら、しきりにとなりの老人に説明している様子である。その声がふと耳に入ってくる。

「弾丸はヒュウヒュウ飛んでくるし、戦車はゴトゴトやってきくさるしさ。こちらは小銃だけで、その上弾丸も欠乏しかかっていると来る――」

「はあ。やっぱりね」

「そこですよ。井上戦友はヤケになって、とたんに発狂したんだ。まず銃を投げすてましたな。そしていきなり帯剣を引き抜いて、自分の眼につっこんで、眼玉をけずり落しましたな」

 老人はぽかんと口をあけて、傷(いた)ましそうにうなずいている。黒男は唇の間から舌をちろちろ見せて、憑(つ)かれたように眉根をよせて説明をつづけている。

「見えなきゃ済むと思ったんだね。それが凡人のあさましさ。とてもそうは行かない。耳がある。ちゃんとあるんだ。おっそろしい音が四方から聞えてくるちゅうんだ。だから井上戦友は、憤然と刃(やいば)をふるって、こんどは自分の耳をスポリと切り落しました」

「はあ、はあ」

「ところがまだ、それでは足りない。まだまだ。戦争には臭いというものもあるということだ。忘れちゃいけない。硝煙の臭い、ものの灼(や)ける臭い、血の臭い、言うに言われぬいろんなものの臭いなどが、うようよとだ」

「鼻も切りましたか」

 つまんで口まで持って行ったカマボコを、あわてて皿に戻しながら、老人が情けなさそうな声で反間した。黒い男は黄色い歯をむき出して深刻そうにうなずく。

「切りましたな。もっとも力が足りずに、半分しか切れなかった。あとに残るのは、味だけか。ふん。戦争には味はなかったようでしたなあ。タマは砥(な)めるわけにもいかんし――」

「それでその、井上戦友さんというお方は、一体どうなりました?」

「私らは彼の体を引きずって、土囊(どのう)のかわりにしましたです。もう呼吸もなかったし、なにしろ敵さんのタマがはげしくて、遮蔽物(しゃへいぶつ)のひとつも欲しい状況だったから。人間も五官をなくせば、もうせいぜい土囊ですな。――」

 ウィスキーを舌の先でころがしながら、莫邪は鬱然(うつぜん)たる表情でその問答を聞いている。

「その井上戦友に、この祝賀会を見せたかったという訳ですさ。なあ山形兵長」

 その山形新郎は大きな体を、なだれるように莫邪の傍に割りこませてくる。新郎はもはやいい機嫌になっている。酒でいい機嫌になったと言うより、こんなに大勢が自分を祝ってくれる、その意識に酔っているように見える。実際打ち見たところでは、客のみんなは祝いの感情でなく、その他の感情で酒を酌(く)んでいるように思えるのだが。そして新郎の分厚い掌が、莫邪の肩を親愛の情をこめたようにつかむ。

「兄上が来れなかったのは、じつに残念ですなあ。しかしお兄上もさぞかし、お忙しいことでしょうなあ。なかなか羽振りがきくそうで」

「はあ。なかなか忙しいようです」

「お帰りになったら、山形もやっと幸福な結婚の旅路に出たと、そうお伝えして下さいよ。しかしなんですなあ。人見の奴は瘦せているが、この弟御さんはご立派な体格ですなあ」

 莫邪はすこし顔をあおむけて、頰をにたにたとゆるめている。他人から褒(ほ)められると、莫邪の顔はいつもこんな表情になってしまうのである。縁側の方から、新婦が心もとなさそうな顔付で、しきりにこちらを眺めている。時間が心配なのじゃないかしら。座がようやく乱れてきて、向うの方では人影が立ったり坐ったり、皿や小鉢がふれ合って鳴ったり、またとげとげしい語調で議論が始まったりしている。電燈がつかない上に、日が傾いたらしく、あたりは俄(にわ)かに蒼然とくらくなってきたようだ。

「おい、山形。山形戦友てば」

 れいの男が黒い南京豆のような眼で、怒ったようにこちらを見て言った。

「ローソクぐらいはとぼせよ。暗くってこれじゃ飲めやしないじゃないか。今もこの御老人が、酒と間違えて醤油を飲んでしまったよ」

「ナミコ。おい、ナミコ」新郎は首をのばして、縁側の方を呼ぶ。

 縁側で新婦の姿がそそくさと動いて、やがて黄色い蠟燭(ろうそく)の光が、四つ五つ入ってくる。卓上のあちこちに立てられると、四方の壁に人々の影が、幽鬼のように揺れる。途絶えていたざわめきが、それにあおられたように、また部屋の内にひろがってくる。

「それにしても、なんだなあ。あ。ちょいと失礼」黒男は手足も使った様子もないのに、老人の膝をぐにゃりと乗り越えて、いつの間にかもうこちら側に坐っている。そして山形に盃をつき出しながら「ひょっとすると今夜は雨になるなあ。いや、この調子では雨になる。きっとなるな。すれば旅行も難儀だなあ。全くご愁傷さまなことだ」

「天気予報じゃ、晴れる見込みだというんだけどね」盃を受けながら、新郎は当惑した風(ふう)ににこにこして、朴直(ぼくちょく)な受け答えをする。

「晴れるもんか。それで宿屋はどこだい。もうきまっているのか」

 男の黒い洋服の膝が、莫邪の膝にひたひたとくっついている。それは風袋(ふうたい)だけで中味がないような、妙に手応えのない無気味な感触である。あかぎれの膏薬を熱した臭いに似た、へんに鼻にこもってくるような体臭が、男の体からただよってくる。服のにおいかしら。それともこの男の肌のにおいかしら。急に吐き出したくなるのを我慢して、莫邪はやっと口の中のコンニヤクを呑みこみ、あわててウイスキーの方に手を伸ばす。男はその莫邪を無視したように、言葉をつづけている。

[やぶちゃん注:「風袋」通常は品物の外観・見かけを言う。]

「宿屋についたら、用心しなさいよ。近頃の宿屋は妙なのがあるそうだからな。新婚部屋なんかは、外からのぞかれるような仕掛けになっているのが、時々あるという話だぞ」

「ほう。そんなものですかな」またさっきの老人が、性こりもなく横からもぐもぐと口を出す。

「そうでもないだろう」

「いや。そうでもある。おれも一度見たことがあるが、ありゃあなかなか、巧妙な仕掛けだった。ふん」

「嘘(うそ)ばっかり。嘘だろう」

 新郎はやや苦い顔になって、持て余したように言う。黒男は舌なめずりしながら、しきりに手酌で盃を重ねている。何だかイライラしたような飲みっぷりであった。莫邪は身体の半分だけが酔い、半分だけが醒めているような感じで、じっとそれを眺めている。すると急に追っかけられるような気持になって、下腹がきゅっと収縮し、小便が出たくなってくる。

 「なあ。山形戦友」黒男の声はすこしずつうるさく、すこしずつ高くなっている。無責任な厭らしさがその語調にはただよっている。「あの寒い守備隊でさ、お前といっしょにピイ屋に行っただろう。あのピイ屋の女でさ、蛙みたいな妓がいただろう。手足が細っこくってさ、お腹にはぜんぜんお臍(へそ)がなくってよ。そら、お前さんといっしょに、あの妓を真っ裸にしてさ、あれは滅法面白かったなあ――」

[やぶちゃん注:「ピイ屋」サイト「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館」の「日本軍慰安所」のこちらの証言に、中国の広東省の部落として、『語源は定かではないが、古参兵達は慰安所のことをピイ屋と呼び、慰安婦のことをピイと呼んでいた』とある。]

音となって、便所まで追っかけてきた。

 「妙な祝賀会だな」勢よく尿を放出しながら、莫邪は思ったままをひとりごちてみる。「祝賀会だというのに、みんなあんまり愉しそうでもないじゃないか。もっともそれは俺の責任でもないが」

ら、莫邪はしっかりと頭を働かしたつもりで呟(つぶや)いた。

「そしてあの黒服の男は、どうも他人事(ひとごと)じゃないようだぞ」

 他人事でなければ、何なのか。それは莫邪にもよく判らなかった。脈絡もなくそう呟いてみただけである。しかしただそれだけで莫邪は一応納得したような顔付になって、やがてトコトコと便所から出てきた。手を洗って手巾(ナンカチ)を探そうとして、ふとポケットの中から、がさがさしたものが指にふれてきた。香奠の紙包みなのである。一寸引き出して見て、莫邪はあわててそれをポケットの奥深く押し込んだ。そして自分に言い聞かせるように口の中で言った。

「これはここでは、出すんじゃなし、と」

 便所のすぐ横にうすぐらい三畳間がある。手巾で指をぬぐいながら莫邪は障子のすきまから、なんとなく内部を覗(のぞ)きこんでいた。ごたごたしたものがうっすらと眼に入ってくる。すばらしく大きな棺桶だと見えたが、よく見ると、それはどうも真新しい長特ちのようである。きっと新婦の嫁入道具なのであろう。その上に男物らしい黒い紋つきが、屍衣のようにだらりとかぶさっている。ナフタリンの香が、便所の臭気にまじって、妙に不吉な感じの臭いとなって、莫邪の鼻にながれてきた。

「もうこれだけ居たのだから、そろそろお暇(いとま)しようかな」

 隙間から眼を離してぐふんと鼻を鳴らしながら、莫邪はぼんやりとそう考えた。何だかここは変にチグハグで、どうもうすら寒い感じばかりがする。早くここを辞去して、明るい街の燈の下に行きたい。その思いがちらと莫邪の心をけしかけてきた。

 宴会場の八畳から、なにか甲高(かんだか)い声が聞えてくる。言い争っているような声音である。

 

 便所に立っていたので、その間にどういうことが起ったのか、よく判らない。莫邪がしばらくして部屋に戻ろうとすると、宴席は妙に険(けわ)しく殺気だっていて、人影がものものしく立ちゆらいでいる。狭い座敷にお客も主人役も総立ちになっているらしい。そこらで皿小鉢がチャリンところげ落ちる音がした。たかぶった声で、

「だからさ。話の筋はチャンと通っているんだ。それに君が口を出すいわれは、ないじゃないですか」

「そ、それが失礼だと言うんだ。何だい。今日は山形君のお祝いの席上だぞ」

「まあまあ」

 山形新郎がそこらに割り入って、しきりにあたりをなだめている風である。蠟燭の焰が人の動きにあおられて、ゆらゆらとゆらめいている。様子があぶないと見たのか、ナミコ新婦ももう主婦じみた智慧をはたらかせて、手早くビール瓶などを片付け始めている。別の声が、

「それじゃあこの家に申し訳ない。まあまあみんな落着いて。とにかく話せば判るというこんだ」

「何だよ。こいつが最初に生意気な口を利いたんですよ。しっぱたくよ、ほんとに」

「お、おい。よせやい。鞄(かばん)を、ど、どこに持って行くんだ、よう」呂律(ろれつ)の廻らない別の声が混ってきたりする。

「よう、兄ちゃん。兄ちゃんったら」

「なに。ひっぱたいてみろと言うんだ。やい、そこのきたない黒坊主」

「よせよ。よせってば。ほんとに判らねえのかよ」

 声ばかりが三重にも四重にも乱れ飛んで、誰と誰とがいさかっているのか、いっこう判然としない。とたんにうすっぺらな座布団がヒュツと風を切って飛んできて、莫邪の肩にぐしゃりと当った。急に声が切迫してごちゃごちゃに入り乱れる。

「まだ言うのか。お前たちは」壁ぎわに立ちはだかるようにして、あの黒服の男が服の袖をぐいとまくっている。強いて虚勢をはったような声で「そんならコナゴナにしてやるぞ。こっちに出てこい」

 人々の肩の間から黒男のまくった腕の形が、ちらと莫邪の眼にはいる。この男がいさかいの主体なのかな、と莫邪はひょっと考える。筋ばった牛蒡(ごぼう)のようなその腕には、剛(こわ)そうな黒い毛が一面に生えている。北海道はタラバ蟹(がに)の脚にそっくりじゃないか、と思った瞬間、押えつけたような声とともに、そこらで影がはげしく揺れ動き、何かがぶつかり合うにぶい音がして、莫邪の身体もはずみをつけて、いきなり横ざまに突き倒されていた。誰かの足がぐいと背中を踏みつけたような気もする。こぼれ酒に濡れた畳に両手を支え、しゃにむに体を捩るようにして莫邪ははね起きていた。

「よして。およしあそばして」

 そして短い悲鳴とともに、はね起きた莫邪の眼前で、こんどはナミコ新婦が畳の上に斜めにひっくりかえっている。やはりあおりを食って突き飛ばされたのだろう。派手な裾が勢よくまくれて、ハンペンみたいに真白い両脚の形が、瞬時にして莫邪の網膜に灼きついた。その時床の間でガチャンと音がして松竹梅を活(い)けた壺も倒れたらしい。そして飛んできた新郎にたすけられて、新婦はやっと起き上ろうとしている。切なく悲しそうな声で、

「――眼鏡。あなた、あたしの眼鏡がないわ」

 その声で騒ぎはしゅんとしずまったようである。みにくい昂奮のあとの、こわばったようなしらじらしさが、急に部屋全体を支配してきた。うろうろと立っている者。いっしょに眼鏡を探す者。マッチをともして蠟燭につけようとする者。床の間の壺を置き直そうとしている者。さまざまに動いている人々の上で、いきなり電燈が明るくパッとともる。やっと停電が直ったのだ・みんなの顔が一斉(いっせい)に電燈をまぶしそうに見上げている。わざとまぶしそうな表情をつくることで、うしろめたい感情を全部ごまかそうかとするかのように。

「やれやれ」

「点(つ)きましたか」

 そしてみんなガッカリしたような姿勢になって、そこらの畳をのろのろと拭ったり、皿や小鉢をわざとらしく並べ直したりしている。新婦をつきとばしたのは、どこの誰だか判らない。眼鏡は刺身皿のなかから、ワサビをくっつけて発見された。それから新郎が立ち上って、きまりのつかないような声を出して、一座を見廻した。

「さあ。さあ、どうぞ。一応お坐りになって。どうぞお静かに」

 しかしその声に応じて坐ったのは三四人だけで、あとは思い切り悪く、天井や庭を眺めたり、何となく非難がましい顔を見合わせたりして立っている。莫邪がふと気がつくと、あの黒い紳士の姿は一座のどこにも見えなかった。さっきの騒ぎの最中にうまく姿を消したのか。見ると部屋のすみに置いてあった筈の黒い帽子や風呂敷包みも、そっくり形を消しているようである。どさくさまぎれに巧く逃げてしまったにちがいない。

「汽車の時間のこともおありでしょうから」やがて和服の老人があたりに気兼ねをするような口調で口を切った。

「私どもはこれで失礼つかまつります。このたびはいろいろと、おめでとうございました」

「おめでとうございました」

 五六人の声が口々にそれに和した。そしてそそくさと自分の持ち物をとり上げて、どやどやと玄関になだれ出る。もはや用は済んだという感じである。莫邪の姿もその中にあった。せまい玄関は靴や下駄をはこうとするもので、たちまち大混雑になっている。莫邪はまっさきに玄関に飛び出たので、靴をはき終えるのも一番早かった。見渡すと、居並んだ下足のどこにも、れいの男の黒長靴はやはり見当らないようであった。莫邪の背後では、あとからの客ががやがやとひしめいている。

 (まるで寄席(よせ)のはね時みたいだな)表に出て、一応家内をふりかえりながら、莫邪は気持を引離すようにしてそう思った。(それにしても、あまり愉快な茶番じゃなかったようだが――)

 割り切れない顔で土間にひしめく客達のむこうに、送りに出てきた新郎新婦が並んで立っている。取ってつけたように、済まなさそうな表情をつくろうとしているが、その善良らしい二つの顔はやはり、嬉しさを押え切れない風にゆるむ気配である。瞬間なぜともなく、莫邪はその二つの善良な表情に対して、かすかな憎しみに似た嫉妬の情を、はっきりと意識した。憎まれ口をたたいてみたいような衝動が、矢のように莫邪の胸をひらめいて走り抜ける。しかし莫邪はその二人の顔に、あいまいな笑顔で遠く黙礼をすませただけで、くるりと背を向けて、黄昏(たそがれ)の赤土路を歩き出している。これで日当仕事の半分は済んだじゃないか。もう一方の自分自身に強いてそう納得させながら。

 頭の芯(しん)がかすかに痛かった。

 

 午後七時。

 明るい盛り場のなんとか酒蔵という酒店の片すみに、人見莫邪はぽつねんと腰をおろしていた。酔いが中断されたまま醒めかかってきたので、やがて気持もしらじらしく、身体もぎくしゃくと硬(こわ)ばっている。随意筋が不随意筋に入れかわってゆくような、そしてそのまま板のように凝(こ)ってゆくみたいな違和感が、仝身にひろがってくる。莫邪はポケットに手をつっこんだまま、しきりに背筋をゴリゴリと壁にすりつけていた。告別式に出席するのも、ひどく億劫(おっくう)な感じであった。

 「どうして人間は、何か事があれば、直ぐにあんな風(ふう)に集まりたがるんだろうな」気持を引き立てようとしながら、莫邪はそう呟いていた。「やはりあれも一種の群居本能(グレガリアスハビット)というやつかな」

[やぶちゃん注:「グレガリアスハビット」英語“gregarious habit”。音写は「グレギャリアス・ハビット」に近い。“gregarious”は「群居する・群居性の・群生する・叢生する・集団を好む」の意、“habit”は「気質・性質」の意。]

 立てこんだ客の間を縫って、やっと小女がコップを運んできた。莫邪は不精たらしく背を曲げて、億劫な唇をコップの方に持って行く。一口ふくむと予想通り、それは迎い酒のようににがかった。それから彼はおもむろに手を出して、コップをわし摑(づか)みにする。顔をしかめて残りを一息に口に流し込む。そして大きく呼吸(いき)をはき、しばらく考え込むような、また反応を確かめようとするような顔付になって黙っていた。やがてそこへ二杯目が運ばれてきた。

「やはり行かなくちゃならないだろうな」

 身体のしこりがゆるゆるとほぐれてくるのを感じながら、莫邪は柱時計を見上げる。通夜(つや)はもう始まっている時刻であった。莫邪はうるんだ眼をコップに戻し、干将のことや、自分の家のことや、猫のヒッカキ板のことや、自分の就職運動のことなどを、暫(しばら)くあれこれと考えた。コップの中に入っているのは、透明な焼酎(しょうちゅう)である。「やはり行くことにしよう」二杯目をすっかり飲みほした時に、莫邪はやっと決心したように呟いた。もっともこれは初めから、チャンときまっていた事で、本当は呟くまでもないことであった。「行くだけでいいんだからな。ラクチンな仕事だ」

 足を引きずるようにして店を出ると、夜気がひやりと頰にふれる。しかし駅につく頃には、酔いが快く内側から弾いてきて、身体も軽くなっていたし、情緒もいくらか浮き立ってくるようであった。電車はかなり混んでいた。目的の駅につくまで、莫邪は吊皮にぶら下って、窓ガラスにうつる自分の顔ばかりを、しげしげと眺めていた。ガラスの中の顔の感じた、莫邪の表情の動きに呼応して、さまざま微妙に変化する。結局、うつむき加減に眼をするどくした表情が、莫邪には一番気に入ったと見えて、目的駅のエンジンドアが開くと、彼はその表情をくずさないように保ちながら、しずしずと歩廊に降り立っていた。そして改札口の方にあるくとき、人混みの間二十米ほど前方に、見覚えのある姿を見たような気がして、彼はぎょっとその表情を変えた。

 その小さな姿は、人混みの間をすりぬけるようにして、芝居の黒子(くろこ)みたいにチョロチョロチョロと動いていた。莫邪は思わずそこに眼を据えて、急ぎ足になった。

「あいつだな!」

 うす暗い歩廊の前方を、それは不吉な黒い翳を引いて、ちらちらと隠見している。帽子の恰好や服の感じからして、それはあの黒い紳士の後姿にまぎれもない。と思ったとき、ごちゃごちゃと改札を通る一団にまぎれこんで、その黒い姿はふっと見えなくなったようである。追っかけるように急ぎ足で改札口を通り抜け、莫邪は明るい売店の前に立ち止って、油断なく四周(あたり)をきっと見廻した。へんてつもない商店街が三方に伸びているだけで、黒服の後姿はもうどこにも見当らなかった。だまされはしないぞという眼付になって、莫邪はなおもあちこちの薄暗がりを、暫くにらみつけていた。

[やぶちゃん注:「俺は大探偵リングローズだぞ!」イギリスの作家(インド生まれ・プリマス育ち)イーデン・フィルポッツ(Eden Phillpotts 一八六二年~一九六〇年)の二篇の探偵小説「闇からの声」(“A Voice from the Dark”:一九二五年)と、Marylebone Miser(「メアリルボーンの守銭奴」。邦訳題では「密室の守銭奴」「守銭奴の遺産」)で主役を演ずる探偵John Ringrose。私は推理小説を特には好まないが、前者は擬似怪奇談仕立てで、一九七〇年の夏、中二の時、NHKの銀河ドラマで翻案放映されたの見て、直後に訳本を読んだのでよく覚えている。]

 犯人を探索する大探偵のような表情をつくり、莫邪ははっきりと声に出して、そう独り言を言った。それはつい二三日前読んだ小説に出てくる探偵の名であった。そして肩をぐいとゆすり上げると、おのずからものものしい歩き方になって、明るい街路に足を踏み入れた。干将の高等学校の友人で、酔余(すいよ)崖から落ちて死亡したという、川口某氏宅の方向である。酔いが適当に自分を鼓舞してくるのを感じながら、莫邪はサッサッと空気を切るようなおもむきで、道をその方向にぐんぐんと進んで行った。そして目じるしの洗濯屋の角から、身体をひるがえすようにして右へ曲りこんだ。その狭い凸凹道の入口には、夜だというのに、まだ近所の女の子たちが集まって、わらべ歌を唱和して遊びさざめいている。

 

  かってうれしい花いちもんめ

  まけてくやしい花いちもんめ

  みかんまとめて東京へおくる

  ふるさとまとめて田舎におくろ

 

 女の子の輪が、小さくすぼまったり、道いっぱいに拡がったりして、莫邪の進行の邪魔をした。莫邪はあぶなく溝(みぞ)板からころげ落ちそうになって、やっとそこをすり抜けた。女の子たちはそんなことには無関心に、しきりに道びに打ちこんで歌い呆けている。その唱和は澄みきって夜気を徹って流れた。

 

  いちりっとらん

  だんごくってし

  しんがらほっけきょ

  となりのナミコちゃんちょっとおいで

 

 (あいつらはもう汽車に乗りこんだかな)突然その歌の文句にうながされたように、ナミコ新婦の真白い両足の瞬時の映像が、はっとするほど鮮やかに、莫邪の網膜によみがえってきた。その幻の二本の映像は、赤や緑の色彩の中からパッとおどり出して、一瞬切なくわななきながら捩(よじ)れ合っている。そして次の瞬間、憎しみに似たどろどろしたものが、その映像をじわじわと隈(くま)どってくるのを、莫邪はぼんやりと感知した。頭をふってその妄想からのがれようとしながら、今度は新婦ナミコの白い丸顔が、さきの肉体の映像から切りはなされた形で、ぽっかりと記憶の中から浮び上ってきた。それはとりすました新婦ナミコの顔ではなく、眼鏡をふっ飛ばされたときの、瞼がぼったりとふくらんだあの表情である。そのむきだしになった双の眼は、なにかを求めるように、たよりなげにまたたいている。(あれは好色そうな眼付だったな)気持がそこにつながるのを忌々(いまいま)しく感じながら莫邪はそう思う。しかし眼付それ自身が好色なのか、それを眺めている自分が好色なのか、ふと彼はとまどう気持になっている。そして莫邪はわざとらしい空ぜきをしながら、ポケットから仔細らしく地図をとり出して道をたしかめた。(しかし近眼の女が眼鏡をはずすと、一律に好色な眼付になるのは何故だろう?)

[やぶちゃん注:先の二つの「花いちもんめ」の前者の歌詞の後半は、私は唄った記憶がないのだが、調べたところ、長野県在住の女性のブログと思われる「桔梗原」の「花いちもんめ」の記事に、よく似た『♪みかんキンカン東京に送る ♪ふるさとまとめて田舎に送る』とあった。後者は本篇のシークエンスとしての繋がりから、最後の「となりのナミコちゃんちょっとおいで」から「花いちもんめ」の続きの歌詞ととったが、前三行の歌詞は、所謂、少女の手毬唄のそれを少女たちが流用した合成ものと思われる。サイト「世界の民謡・童謡」の「いちりっとらい(いちりっとらん) らいとらいとせ しんがらほっけきょ 夢の国♪」を参照されたいが、本歌詞と似たものでは、静岡県焼津市採取の、『いちりっとら らっきょうくってし』/『しんがらほっけきょの とんがらしんがらほい』というのが近いか。]

 歩いてゆくにつれて、道はますます暗くなり、夜気はいよいよ冷えてくるようであった。また生籬ばかりがつづく小路となったらしく、燈影はあたりからほとんど射してこない。真黒な路面は凸凹のまま、靴の下で凍った音を立てている。もはや大探偵リングローズの面影は消え、異土に迷いこんだ旅人みたいなあやふやな表情になりながら、莫邪は一歩々々を探るようにして、暗い露地を進んでいた。そこらの暗がりから、あの黒い紳士の化物じみた姿が突然現われそうな予感が、やがて莫邪の神経をじりじりとおびやかしてきた。その予感に対抗するように、闇にむけて眼を大きく見開きながら、莫邪は自分の考えの脈絡を、ふたたび昼間のあの奇妙な祝賀会の方へ引きもどそうとする。(あるいはみんな無意識裡に、新郎新婦のありかたを嫉妬したり憎悪したりしていたんじゃないかしら)その思いつきが突然莫邪にやってきた。その考えはいくらか彼の胸を苦しくもし、また同時に彼の頰をぶよぶよとゆるめてもきた。精虫を欠如した精液みたいに、たんに不潔なだけで全然無意味などろりとしたものを、そして莫邪は自分の内部にありありと感じ、また人々のなかにありありと感じた。咽喉(のど)の内側の軟肉が収縮したように、ギュツという生理的な音をたてた。(それにしてもあの奇妙ないさかいは、どうして起ったのだろう?)便所から戻ってきた時の、あの宴席のささくれだった不毛な感じの雰囲気を、莫邪はなにか嗜虐(しぎゃく)的な気分におちながらまた憶い出している。人生というものは、何も知らないで通り抜けてゆくのが大部分だから、その設問もほとんど無意味な筈であった。しかし莫邪は手探るようにその情景を反芻(はんすう)し、いきりたった声々の響きや、こぼれ酒を吸い上げた灰色の雑巾(ぞうきん)のにおいや、黒服の男のタラバ蟹の脚に似た腕の印象などを、しみじみと反芻した。それはやがて酔余の嘔吐(おうと)のときのような収縮性の苦しさと放散的な快感を、同時に莫邪の胸にもたらしてきた。つづいて思いつくままを彼は声にしてつぶやいてみた。

「光というものは、あれはいやらしく奇妙なもんだな。ことにあの人工の光線ときたら――」

 電燈がパツとともったあの瞬間の感じを、莫邪はありありとよみがえらせながら、闇の中でわざとらしく顔をしかめている。あの寸前に黒服の男は、鼠のように遁走(とんそう)してしまったのだ。いや遁走という感じはあたらない。ウミを持った傷口が、いよいよ熟し割れて、おのずからトゲを排出するように、あの男は宴席から自然と排出されてしまったんだ。そうだ。するとあの電燈の下に残っていたのは、このおれも含めて、もう御用済みのウミ共ばかりだった訳かな。だからあんな風(ふう)に、ぬけがらみたいにうつけた顔をして、どろどろどろと玄関に流れ出てきたわけだな。酔った頭の遠くの方で、なにかがしきりに合点々々しているのを感じながら、その時莫邪はふと顔を上げて立ちどまった。闇のなかにくろぐろとつづく屋並みの、眼前の一軒だけがあかあかと燈を点じて、黄色い光がその前の露地をほの明るくしているのである。干将の地図の見当からしても、その家が目的の川口家らしい。見ると立ちどまったすぐ傍の電柱に「川口家」と書いた紙片が貼られ、その下に描かれた指さしている手の形が、まさしくその家の玄関を指している。莫邪の眼はそれを見た。あたたかそうな光がその玄関から流れ出て、その燈色はいきなりやわらかくしっとりと莫邪の眼に沁み入ってきた。暗闇の妄想から解き放たれて、楽章の休止のように、思いがけない素直な平静さがとつぜん胸にみなぎってくるのを感じながら、莫邪はしずしずと足をうごかして、自然石の石階をのぼった。先刻のわらべ歌のかろやかな韻律が、その歩調とともに、彼の皮膚にしずかによみがえってきた。その幻の歌声は現実のそれよりも、はるかに縹渺(ひょうびょう)と澄みわたっていた。

 

  いちりっとらん

  だんごくってし

  しんがらほっけきょ

  となりのナミコちゃんチョットおいで

 

 しかし石階をのぼり切って、玄関のガラス扉をそっと引きあけたとき、莫邪の胸はどきんと波打って、思わず足が立ちすくんだ。玄関のコンクリートの床の上、ずらずらと並べられた通夜の客の靴の中に、見覚えのあるれいの黒い長靴が、男のガニ股の形そのままに、傲然(ごう)と突っ立っていたからである。その時玄関の奥の方から、なにかたのしそうな男たちの笑い声が、どっとあふれるようにこちらに流れてきた。通夜の宴がたけなわなのであろう。

「ここにも黒い紳士がいる!」

 莫邪はそっと敷居をまたぎ、肥った自分の身体を玄関の内に運び入れた。靴の裏皮に食いこんだ小石が、コンクリートの床面に摺(す)れて、ギチギチと厭な音を立てる。駅の歩廊でみとめたのは、莫邪の酔眼の見違いではなく、やはりあの黒服の後姿にちがいなかったようである。山形某も川口某も人見干将の友人であるのだから、黒い紳士が両者に対して、同じく友人であるということもあり得るだろう。それを厭らしい偶然だとは、莫邪は毛頭考えなかった。ただそこに脱ぎ捨てられた黒い長靴の形に、莫邪は胸の内側に一瞬ぼんやりした不快な焮衝(きんしょう)のようなものを感知して、思わず眼をそこから外らした。この通夜の宴席で、この長靴の主は、どんな役割を果たそうとしているのだろう。頭のすみでチラとそんなことを考えながら、莫邪は姿勢をととのえ、奥の部屋にむかって低い声で案内を乞うた。なんだか自分の声じゃないような気がしながら、莫邪はその呼び声を二三度くり返した。

[やぶちゃん注:「焮衝」本来は「身体の一局部が赤く腫れて、熱を持って痛むこと・炎症」の意。換喩。]

 

     溶 け る 男

 

 川口玩具製造工場主・川口真人(まさと)は、ある夜、自分の工場宿直室において、小使夫婦を相手に、約三時間にわたり、焼酎一升を酌(く)みかわした。小使老夫妻の勤続五周年をねぎらうためである。

 川口真人は学生時代、水上競技の選手をやった位だから、体軀も堂々として、酒も相当につよい。しかしその夜は、小使夫婦があまり飲まなかったし、川口自身の空(す)き腹のせいもあって、酔いの廻りがなかなか早く、瓶が残り少なになる頃から、呂律(ろれつ)が廻らなくなってきた。身体も言うことをきかなくなったらしく、便所の行き帰りなどにウオオウオオと唸(うな)り声をはり上げて、工場の板の間をごそごそと這(は)い廻ったりした由である。その揚句、宿直部屋を妓楼の一室と思い誤り、妓(おんな)を三四人呼べと強要し、小使夫婦をたいそう困らせた。

 工場の宿直室から、宵(よい)果てて、川口真人がどの道を通り、どんな風(ふう)にして帰って行ったかは、一切わからない。

誰も知らない。

 そして翌朝早く、この川口工場主の身体は、方角違いの某駅近くの崖下に、横たわって発見された。墜落(ついらく)したままの姿勢で、彼は顔を半分泥に埋め、すっかり息絶えていたという。

「保線工夫の方がそれを見、つけて――」黒い絹地の袖口から、白い襦袢(じゅばん)のふちを引出して、トミコ未亡人は眼の下をちょっと押えて見せた。黒白の布地はふれあって、さらさらと乾いた音を立てた。「すぐ警察に連絡して、それで警察からこちらへ、電話で知らせがありましたのですの」

 窮屈そうに膝をそろえて、人見莫邪はそれを聞いている。肥っているので、坐ると洋服の膝が盛り上ったようになる。その膝にのせた掌の血色もよすぎるし、額や頰の皮膚もほのぼのとあからんでいる。この男はここに来る前に、どこかで一杯飲んできたに違いないと、トミコ未亡人はとっさに見当をつけてしまっていた。莫邪は手をもじもじと上げて、カラーと頸(くび)筋の間に指をさしこみ、それを弛(ゆる)めるような動作をしながら、チラチラと祭壇の方を眺めていた。祭壇の正面には、故川口真人の大きな引伸し写真が、取澄ました顔をこちらに向けていた。低いわざとらしいせきばらいが二つ三つ、莫邪の咽喉(のど)から洩(も)れて出た。

「それで、やはり――」器用に追悼の表情がつくれなくて、莫邪は困ったような声を出した。「やはり、その、ずいぶんお酔いになったんで、それで――」

「間違って、おっこちたんですわ。それに生憎(あいにく)とあの夜は、闇夜でございましたし」と未亡人はくやしそうな声でひきとった。「工場の方で気を利かせて、引きとめてさえ呉れれば、まさかこんな羽目にはねえ――」

「そうです。そうです」初めて共感できた顔つきになって、莫邪はしきりに合点々々をした。そしてそれでもすこし言い足りない気持になって、急いで言葉をついだ。「こんなことは、はたの者が、よく気をつけて上げなくちゃあ。とにかく、板の間を這ってあるくほど、お酔いになっていらっしゃったそうだし――」

 三間つづきの部屋の、仕切りの唐紙(からかみ)を全部とりはずして、細長い通夜の座となっている。祭壇がしつらえてあるのは、その一番奥である。祭壇のそばに、黒金紗(きんしゃ)の喪服をまとって、トミコ未亡人がきちんと坐っている。喪服がよく似合って、頸筋がぬけるように白い。そのつややかな皮膚のいろは、人世の幸福とでもいったようなものを、瞬間何となく莫邪にかんじさせた。それをごまかすように莫邪は眼をパチパチさせ、頭をかるく下げながら、ことさら殊勝な声を出した。

「本来ならば、兄が参上する筈でございましたが、今夜はとりあえず、私が代理といたしまして――」

 しびれた膝を横にずらして、莫邪はやっと祭壇にむきなおった。香炉からは焼香の煙が、幽(かす)かにゆらゆらと立ち昇っている。ポケットから香奠(こうでん)包みを二つとり出して、作法通り台の上にそっと積み重ねた。兄のぶんと、自分のぶんのつもりなのである。そして莫邪は両掌を合わせ、顔をすこしあおむけて、額に入った写真をしばらく眺めていた。写真の川口真人氏の顔は、口を真一文字にむすび、アザラシみたいな表情でじっと莫邪を見おろしている。

(――なんてリアリティのない顔だろう!)

 そう思いながら、やがて莫邪はそこから眼を外らして、こんどは銀色の造花のはなびらや焼香台の上のものを、吟味するように眺め廻していた。台の端のところに、玩具の小さな象や狸(たぬき)や熊などが、五六箇ならべて飾ってある。その不似合いな配置が、ふと莫邪の視線をとらえた。それら玩具の動物たちは、そろって祭壇の方に尻をむけ、その小さく透明なガラスの目玉で、通夜の座のざわめきを無感動に見張っている。自分が見詰められているような気がして、莫邪はちょっとたじろいだ。側からトミコ未亡人のしずかな声がした。

「これが今度つくった、工場の新製品なんでございますのよ」

 次の部屋から、居並んだ弔間客たちの話し声や笑い声が、にぎやかに流れてくる。皿や盃の鳴る音もする。莫邪はぴょこんと仏前に頭を下げて、なにかあわてたように厚ぼったい座布団をすべり降りた。その動作を、未亡人の眼がつめたく眺めている。やっと役目を果たした面(おも)もちになって、莫邪は膝の上でなんとなく掌をこすり合わせた。

「ご焼香ありがとうございました。さ、どうぞこちらヘ――」

 そう言って未亡人が手をあげたので、黒い喪服の袖口からなめらかな二の腕が、しろじろとすべり出た。まぶしそうに顔をそむけて、莫邪は通夜の宴の方に眼をうつした。

そこらは莨(たばこ)の煙がいっぱいこもっていて、人影がちらちらと揺れたり動いたりしている。その中に黒っぽいひとつの姿を、彼の視線は寸時にしてとらえていた。腰をなかば浮かしながら、そこに眼を据(す)え、莫邪は思い切り悪くたずねてみた。

「あの黒い服を着た方も、やはり御主人の、学校時代のお友達かなにかで――」

「いえ。あの方は――」と未亡人の軀(からだ)がしなやかに伸び上る気配がした。「あの人はたくと、たしか御同業の方なんですのよ。やはり玩具の方の関係で――」

 莨の煙をゆるがしながら、あたらしい弔問客が部屋に入ってきたので、会話がふいにそこでとぎれてしまった。そこで莫邪は敷居ぎわまで後ずさりして、不器用に立ち上った。脚がしびれて、すこしよろよろする。そばの柱につかまりながら、この通夜の宴に加わるべきかどうか、莫邪はふととまどう表情になっている。あの黒服の男をのぞけば、見渡す通夜の客たちは、彼の見知らぬ顔ぶればかりであった。

 祭壇のそばでトミコ未亡人が、新参の弔問客にたいして、亡夫の横死の前後の事情を、再びくどくどと話し始めている。さきほど莫邪が聞いたその話と、順序から口調から、それはそっくり同じであった。喪章をつけたその歳若い客人は、先刻の莫邪と同じく、頭を垂れたかしこまった恰好で、それに神妙に聞き入っている。柱につかまったまま、よく動く未亡人のうすい唇を、莫邪は横目でチラとぬすみ見た。

「退屈な夜だな。もう帰ろうかな」未亡人の前では殺していた酔いが、じわじわと身内に戻ってくるのを感じながら、莫邪は口の中でうんざりしたように呟いた。「しかし帰るのも勿体ない話だな。香奠は払ったんだし――」

 通夜の座はすでに闌(た)けて、乱れを見せ始めている様子であった。酒盃やコップがしきりにやりとりされ、話し声や笑い声が雑然と湧き起っている。座の温気(うんき)にむされて、外気をさえぎるガラス戸の表面には、つぶつぶの水滴がいくつも宿り、するすると流れ落ちている。夜気のつめたさを、それは思わせた。莫邪はしずかに次の部屋に足を踏み入れた。

 

「どこかでお見受けしたようですな。ええと、どちらでしたかな」

 莫邪が盃を乾すと、かさねて徳利をつきつけながら、黒服の男はそう言った。貧乏ゆすりをしながら、ひどくうれしそうな、浮き浮きした声である。上機嫌に眼をあちこち動かして、落着いて返事を聞こうとする様子もない。

「ええ。さきほど、昼間にね」

 どうでもいいような気分になって、莫邪はそう答えている。そしてまた盃をぐいと乾(ほ)してしまう。安手な素焼の大きな酒盃であった。黒服の男が伸ばした徳利の口が、再びその縁にコツンとぶつかってくる。

「さあ、さ。早く飲まなくちゃ」

「大きな盃ですな。これは」

「なあにね、これは駅売りの茶瓶の蓋(ふた)ですさ」と黒服の男は肩を揺すって大声で笑い出す。「川口って奴は、ケチな男でね。旅行に出たって、そんなものを一々持って帰るんだ」

 莫邪の右手の方では、二三人の男が額をあつめて、切れたトカゲの尻尾は生きているかどうかということを、しきりに議論しているし、左手の席では、眼鏡をかけて顔のしわくちゃな男が、気狂い病院の話を、手振りを交えて相手に聞かせている。

「息子が気狂いだというんでね、その親爺さんが、息子をだましだましして、松沢病院に連れこんだとさ」

「ふん。ふん。それから?」

「そしたら診察の結果ね、息于さんは無事に帰されてさ、親爺さんが病院に入れられたという話なのさ。嬉しい話だね」

[やぶちゃん注:「松沢病院」東京都世田谷区にある精神科専門病院として古くより知られた都立松沢病院。現在は他の各診療科を備えた総合病院となっている。それまで東京市巣鴨にあった精神病院である東京府巣鴨病院が大正八(一九一九)年に現在地に移り、「東京府松澤病院」として診療を始めたのが始まりで、敷地面積も広大で、分棟式建物が並び、当時から開放病棟や作業場が建てられているなど、先進的な精神病院である。「松沢」は原立地の旧村名(当該ウィキに拠った)。]

 黒男は大きな笑い声を立てながら、莫邪にむきなおる。

 「そうだろな。なにしろケチな男さ。勤続五年のお祝いに、焼酎一本だとよ。その揚句に、崖からおっこちたりしてさ。ふふん、だ」

 それから暫く時間が経つ。莫邪はぼんやりした眼付で、向うの祭壇の方を眺めている。敷居や鴨居(かもい)にくぎられて、祭壇のある次の間全体が、額縁に入った異質な別世界のように見える。そこにトミコ未亡人が先刻と同じ姿勢できちんと坐っている。その喪服姿はふと遠近感をうしなって、べったりと平たく眺められてくる。言いようもない退屈な感じが、そこらにうすうすとただよっている。そして祭壇の奥からは、川口真人の照影が、無意思な視線をこちらにそそいでいる。莫邪は急に酔いが廻ってきて、死んだ章魚(たこ)のように身体がだるくなってくるのを、ありありと自覚した。

「板の間をゴソゴソ這ったりして、さ」莫邪は盃をおいて、誰にともなく口真似をしながら、両手で畳のケバをそっとかきむしってみる。「ふん。きっと玩具の熊の真似をしたんだな、あの工場主は」

「台湾の葬式には、泣き女というのがいてね」別の声がキンキンと耳の中に入ってくる。こちらに話しかけているのかどうかは判らない。「それが代表して泣いて呉れるんだよ。日当をもらって、葬列の先頭に立ち、ワアワア泣いて歩くんだ」

「悲しくもないのに、よく泣けるもんだね」

「そりゃ泣けるさ。ふだんから練習しているんだからね。でも、泣くってことは、大してむつかしいことじゃないさ。本来笑いと同じタチのものなんだ」

[やぶちゃん注:「泣き女」葬式に際して雇われて号泣する女性。現在の日本では職業としては存在しないものの、旧習として存在し、中国・朝鮮半島・台湾・ベトナム及びヨーロッパ・中東など、汎世界に散見される伝統的な習俗で、嘗ては職業としても存在していた。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。]

 時間がのろのろと動く。莫邪は柱にもたれて、鬱然とあぐらをかいている。その右の膝がいつの間にか、ひとりでに貧乏ゆるぎをしている。莫邪はそれを動くに任せながら、忌々(いまいま)しく視線をそこにおとしている。そして思っている。(すこし変だな)すり切れかかったズボンの膝頭が、そこだけ独立した生き物のように、しきりに小刻みに律動している。(これが動いていることだけが、今は確実なようだな。しかしそれにしても――)

 「日本という国は、つまり早く亡びてしまえばいいんだ」

 向う側から太いだみ声がやってきて、それがいきなり莫邪の思念を断ち切ってしまう。頭を総髪にした大きな顔の学者風の男が、小型の本のある頁を掌でピタピタと叩きながら、勢いこんでしゃべっている。

「この小説の中に、ペチェネーグ人というのが出て来るんだ。その註に、こういう説明がしてある。その説明がよ、ほんとに、おれの気に入ったんだ。いいか。読むぞ。中世ヴォルガ、ドナウの間に遊牧生活を営んだトルコ系の民族。近世に入って近隣諸民族の圧迫を受け。いいか。遂にはマジャール族と混淆して跡を絶った。な、跡を絶ったとさ。いいじゃないか。サッパリしていてさ。跡を絶つんだってさ。まことにサッパリしたいい言葉だ。そこで我が大和民族も――」

[やぶちゃん注:「ペチェネーグ人」当該ウィキによれば、「ペチェネグ」(Pechenegs:英語)は八世紀から九世紀に『かけてカスピ海北の草原から黒海北の草原(キプチャク草原)で形成された遊牧民の部族同盟』及びその構成民族の名。九『世紀末に遊牧民のハザール人とオグズ人の圧迫によって黒海北岸の草原に移住し、そこからフィン・ウゴル系の遊牧民マジャル人(後のハンガリー人)』(☜)、『ならびにスラヴ系の農耕民ウールィチ人、ティーヴェルツィ人を追い出した』。十『世紀を通じて』、『キエフ・ルーシ、ブルガリア、ハンガリー王国、ビザンツ帝国などの隣国と抗争を繰り広げた』。十一『世紀末に、遊牧民のポロヴェツ(クマン、キプチャク)に圧迫されて』、『ドナウ川を越え、ビザンツ帝国領内へ移住した。残った人々は、ポロヴェツに同化した』。『ペチェネグ人の系統に最も近い現存する民族はガガウズ人である』とあり、『「ペチェネグ」とはテュルク系の言葉で「義兄弟」を意味する』とある。]

 莫邪はしだいに瞼が重くなってくる。疲労と酔いがかさなって、全身の筋や関節から、力と張りをうばって行くらしい。時々引っぱり上げるように瞼を見開いて、彼は盃の方に手を伸ばす。祭壇のある部屋は、さっきと同じくきちんと仕切りにおさまっていて、トミコ未亡人の姿がその片隅に、象眼(ぞうがん)されたように端然とすわっている。盃をとる度に義務のように、莫邪はその方に眼を走らせる。

(辛いだろうなあ)その度に莫邪の皮膚の表面をそんな思いがちらと駆けぬける。(皆がこうして楽しく飲んでるというのに、罰を受けた生徒みたいに、あそこに坐っていなくてはならないなんて)

 しかしあの祭壇の部屋と、こちらの宴会の空気の食い違いも、もうそれほど莫邪は気にならなくなっている。古風で陰気な絵が壁にかかった居酒屋だと思えば、すっかりラクな気持ではないか。その莫邪の肩を、前に坐ったあの黒服の男の掌が、やがて勢よく叩く。

「おい。眠ってるのかあ。しっかりしろよ。おい」

 いつか座は雑然と乱れ果て、人影がそこらを行ったり来たり、またぼつぼつと櫛(くし)の歯がかけるように、立ち上って帰って行く客もあるらしい。戸をあけたてする毎に、玄関の方からひやりとつめたい空気が流れてくる。その都度莫邪はびくりと頰を動かして、柱から頭をもたげる。がやがやした騒音も、もはや大部分は素通りするだけで、いっこうに莫邪の耳の底にたまってこない。莫邪はけだるく鈍磨した心の片すみで、さっきの話の中の泣き女のことなどを考えている。日当を貰って泣いて見せるなんて、なかなかいい商売だな。こういう商売は、失業する憂いはないだろうなあ。考えがそこらあたりを堂々めぐりして、すこしも先に進んで行かない。しかし自分が失業中の境遇であることが、こんな酔いの底でも、まだ莫邪の胸をにぶく押しつけている。それがこの一座の溷濁(こんだく)した空気とあいまって、根源のない悲哀じみた感じとなって、ともすれば膜のように莫邪の全身をつつんでくる。日曜日の夜小学生がかんじる悲哀に、それはどことなく似かよっている。何しろ久しぶりに、しかも昼間からぶっつづけに飲んだんだからな、と思いながら、莫邪はなげやりな手を伸ばして、また素焼の盃をとり上げる。乱立した徳利もほとんど空になっていて、横だおれになったり、畳にころがり落ちたりしている。

 向うの方で、誰かが呂律(ろれつ)の乱れた調子で、俗謡をうたい出す声がする。

 黒服の男は歯をむき出して、間歇的(かんけつてき)に鶏のような笑い声を立てながら、しきりに洋服の袖をまくっている。

「愉快だなあ。ええ。今夜という今夜は」

 剛(こわ)い毛が密生したタラバ蟹みたいなその腕は、酔って血管がふくれ上って、全体が赤黒く変色している。なにか無責任な放恣(ほうし)をたたえ始めた一座の空気の頂角で、この黒男は唇のはしに白い唾をため、キョロキョロとあたりを見廻し、うきうきとしゃべったり笑ったりしている。

「ええくそ。こんな愉快な宴会は久しぶりだぞ。よし。ひとつ俺が、おどってやろうか」

 男が腕をふりまわす度に、アカギレの膏薬に似たにおいが、かすかにそこから流れてくる。鼻にこもってくるような、妙に刺戟的な体臭だ。そのにおいを嗅いだだけで、莫邪は突然この男を憎む気持になっている。布団のなかでふと自分の体臭を嗅ぎ当てたような、そんなやり切れなく屈折した嫌悪感が、莫邪の眉根を瞬間にくもらせている。

「人が死んだってなあ、しょげることはないさ」男の腕がはずみをつけて、莫邪の肩をがくがくと揺すぶる。「人が死んだってことは、残りの人間が生きてるってことさあ。なあ。そうだろう。なあ、おい」

「しょげてなんか、いるもんか」

 眉をしかめたまま、莫邪はそんなことを口の中で、もごもごと呟く。そしてしょげていない理由を説明しようとして、急に面倒くさくなってしまう。

 

 午後十時。人見莫邪の朦朧(もうろう)たる視界。

 そこに誰かが立って、卓をふまえるようにして、演説している。故川口真人の徳をたたえ弔意を表しているらしいのだが、あたりががやがやしているし、入れ歯が抜けたような声なので、なにをしゃべっているのかさっぱり判らない。

 れいの黒服の男は上衣を脱ぎすてて、足をぴょんぴょんさせながら、そこら中を踊り廻っていた。座についている客は、もうほとんどない。

 酒肴(しゅこう)のたぐいはおおむね片づけられて、火鉢や空膳だけがばらばらと残っている。危い足どりでその間隙を縫いながら、その黒い姿は手を伸ばしたり縮めたり、足を交互にはねあげて、出鱈目(でたらめ)な踊りをおどっている。

 ふらふらする足を踏みしめて、玄関に出る敷居の上に莫邪は立っている。もうそろそろ帰ろうと思うのだが、今眼の前のこの風景は、しごくありふれたような、また奇怪極まる状態のような気もして、どうもそこらがハッキリしない。自分がここに立っていることすら、ふしぎに現実感がない。

「――いちりっとらん。だんごくってし」と黒服の男はどら声をはり上げながら、ひょいひょいと奥の間の方に飛ぶように踊って行く。「しんがらほっけきょ。ほうほけきょ」

 川口未亡人にも一度あいさつして帰るべきかどうか、莫邪は乱れた頭でふと迷っている。むらがりおこる騒音が、頭の外側にあるのか、内側で鳴っているのか、とにかく莫邪の神経をざわざわとかきまわしてくる。……誰かがしきりに押してくれるような気がする。押されたまま無抵抗に莫邪は動いているー。――

 そしていつ靴を穿(は)いたのか、どうやって玄関を出たのか、莫邪は模糊として記憶がない。いつの間にか、ふわふわする地面を踏んで、彼はよろよろと歩いている。眼の先は悪夢のように溷濁(こんだく)して、うすぐらく揺れている。道を間違えたらしく、なんだかひろびろしたところに出たようである。夜の光がその広がりをぽんやりと明るくしている。そして莫邪の肩に、腕がかかっている。ひどく重い。誰かが莫邪の身体にとりすがるようにして、並んでよろめき歩いている。

「まだ、遠いのかあ」声がすぐ横から聞えてくる。あえぐような苦しそうな声だ。「道は、これで、いいのか」

「お前がいいって、言ったんじゃないか」

 反射的に莫邪はそう答える。隣の男は息使いを荒くして、黙って足を引きずっている。ここをまっすぐ歩けば、駅に出るのかどうか、全然わからない。莫邪の鼻に、あの膏薬を熟したようなにおいが、ぷんと揺れるようにただよってくる。あの男だな、と莫邪は思う。思っただけで、ただそれだけだ。夜気がひりひりと額につめたい。

「――もう、ここでいい」突然ふいごのように呼吸をはずませながら、その男がとぎれとぎれ言う。急にその軀(からだ)がぐにゃぐにゃと手応えがなくなって、悲鳴を上げるように、

「こ、ここでいい。ここ。が、おれの家だよ。早く寝床にねかせてくれえ」

 男の掌はそのまま莫邪の肩から、ずるずるとずれ落ちる。ぼろ布(きれ)のかたまりみたいになって、濡れた柔かい枯草の上にくずれ折れてしまう。急に莫邪の身体はかるくなる。

 草原にうずくまって、男の軀(からだ)は洋服の中でガタガタとふるえているらしい。歯がカチカチ鳴っているのが、かすかに聞えてくる。莫邪はその瞬間、ある光景を脳裡に髣髴(ほうふつ)と思い浮べている。四角に仕切られたあの祭壇のある部屋。香の煙がゆれるだけで、あとはひっそりと鎮(しず)もっている。喪服姿の未亡人が石像のように、その片隅に端坐している。でたらめなわらべ歌をうたいながら、黒服の男が手足をぴょんぴょん動かして、その部屋に入ってゆく。歯がカチカチ鳴るような音。そして未亡人のまわりをぐるぐる踊ってあるく。いちりっとらん。踊りながら男は猿臂(えんぴ)を伸ばして、端坐した未亡人の頰ぺたを一寸つつく。ぬめつくような皮下脂肪。しんがらほっけきょ。男の脚が未亡人の腰に、よろめくふりをして、ぐりぐりと押しつけられる。未亡人の姿体がくずれて、笛のような悲鳴があがる。とたんに額縁ががらがらと崩れて、水面を引っかき廻すように、その光景は微塵(みじん)に分裂し四散する。これは現実の光景なのか。倒錯した記憶がつくりあげた、虚妄(きょもう)の場面なのか。――

「――寒いよう。寒いよう」脚の下から男がかすかにうめき声を上げている。「寒いよう。早く布団(ふとん)を着せてくれよう」

 莫邪はギョツとして脚下をすかして見て、すぐ頭を上げて忙しく四周(あたり)を見廻す。布団はどこにあるのか。どこにしまってあるのか。周囲は薄暗くひろがった枯草原のように見える。どんなに眼を見張っても、町外(はず)れにぽっかり空いた小広場のような感じしかしない。ここにはだいいち、布団をしまうような押入れすらないではないか。「寒いよう」十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ほど先に、小さな建物らしい黒い影が見えるだけだ。薄黝(うすぐろ)いもやがかかったように、そこらもチラチラとはっきりしない。寒気が急に脚下から莫邪の膝にはいのぼってくる。なにかが追っかけてくるような気がして、思わず地団太を踏みたくなる。声がうめく。

「――早くなにか呉れえ。溶けてしまいそうだ。……ああ……おれは溶けてしまう……溶けてしまうよう」

 溶けたら大変だ。暗がりのなかで、莫邪は顔色を変え、凝然(ぎょうぜん)と立ちすくむ。溶けたら大変ではないか。早くどうにかしなくては。莫邪はピョンと飛び上って、建物らしい黒い影の方角に走り出す。枯芝が靴先にしきりにからまってくる。一目散に走っているつもりなのだが、身体の中心があやふやなので、家鴨(あひる)みたいによたよた進んでいるに過ぎない。つまずきそうになって、やっと莫邪はそこにたどりつく。窓もない暗く小さな建物。ざらざらしたセメントの壁。ただそれだけ。そこらいっぱいに排泄物の臭気がわっとみなぎっている。どう考えても、と壁に荒い呼吸をはきかけながら莫邪はつぶやく。こいつは共同便所じゃないか。押入れなんかであるものか。背後のさっきの地点から、男のうなり声が断続して、莫邪の耳にとどいてくる。莫邪はあわててふりかえる。大きな掌のような植物の葉が、ふと莫邪の手につめたく触れる。八ツ手の葉。莫邪の両手は反射的にいそがしく動いて、その八ツ手の葉をいくつもいくつも引きちぎる。そしてそれを束にして、呼吸をはずませて男のところにかけ戻ってくる。

「溶けるよう。ほんとに、溶けてしまうよう……」

 傷ついた獣のようなうなり声の上に、莫邪は大急ぎで八ツ手の葉をかぶせてやる。四枚、五枚、六枚。男の黒い躯は先刻よりも平たくなって、容積もぐんと減じている。月が雲から出たのか、四周(あたり)がすこしずつ明るくなってくる。男の軀は半分ぐらいに、減ってしまったようだ。駈けて一回往復しただけで、頭がふらふらして、前後もあやふやになっている。呼吸をはずませながら、しかし莫邪は自分では確かなつもりで、脚下の黒いかたまりに眼を近づける。そこらでプチプチプチとかすかな音がする。そして堪え難そうに男がまたうなる。これは身体が溶けてゆく音ではないか。莫邪は我を忘れて又飛び上って、黒い団子のように枯草原を便所の方に駈けてゆく。そして二分ほどして、ハアハアとあえぎながら、八ツ手の葉の束をかかえて駈け戻ってくる。そしてあわててそれらをばらばらと、男の軀の上にかぶせてやる。

「……溶けるよう。溶けてしまうよう……」

 男の声はだんだん幽かに、だんだんもの哀しくなっている。確かに更に容積が小さくなったようだ。黒い男の洋服は、中味を盗まれた米袋みたいに平たくなり、ズボンなどはほとんどぺちゃんこになっている。莫邪はぎくりとする。八ツ手の葉がその上に、不気味な掌のように、いくつも重なり合っては乗っている。莫邪は思わずはげますように口走る。

「――溶けないで。まだ溶けないで!」

「……溶けるよう。溶けるよう……」

 莫邪はまた走り出す。汗ばんできた顔で寒気を押し分けながら、一生懸命に走って行く。葉をいっぱい両手にかかえて、駈け戻ってくる。そしてまた駈け出す。心臓が破裂しそうになって、駈け戻ってくる。葉の束のまま地面にとり落して、そして、莫邪は胸郭を烈しく起伏させながら、声にならない嘆声を洩らす。

「――もう、すっかり、溶けてしまった」

 散らばった八ツ手の葉の下で、黒い姿は完全にぺちゃんこになり、もううめき声も聞えないし、身動きもしない。黒々とした枯草に吸いこまれたように、男の軀はすっかり体積を失ってしまっている。この見知らぬ草原に、唯一人になったことに気付いて、突然言いようもない寂寥感(せきりょうかん)にとらわれて、莫邪は思わずあたりを見廻している。この小暗い闇の色は、なんとしんしんとして、なんとひえびえとしていることだろう。背中や腹のべたべたした汗が気味悪く冷えてくるのを感じながら、莫邪はも一度脚下のふしあわせな同行者の残滓(ざんし)に、しみじみと顔をちかづける。散乱した八ツ手の葉の間から、小さな南京玉みたいな粒が二つ、くろく幽かに光っている。それだけを残して、あとの部分は、すっかり地面に同化し溶解し去っている。莫邪は肩をおとして、声を出して大きく溜息をつく。

「目玉だけ残ったって――」痛いような悲しいような気分になりながら彼は思う。「もう仕方がないさ。このおれだって、一生懸命にやったんだもの」

 もうこの位でいいだろう。莫邪は脚をあげて、男が溶解したそこらの地面を、八ツ手の葉の上から二三度踏みならす。そしてくるりと背をむけて、完全な孤独な酔漢の歩きかたになり、燈も見えない闇の中を、泳ぐように歩き出す。

 

2022/09/24

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 明智左馬介の死期

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文は後に〔 〕で訓読を示した。]

 

     明智左馬介の死期 (大正十四年十月變態心理第十六卷第四號)

 

 變態心理九月號二五頁、下澤瑞世氏の「六十代老人の文化能力」中に、明智光俊が六十五歲で例の湖水乘切《のりき》りを行ふたやうに記されてあるのは、何に據つたものであらうか。飯田氏の野史二七九で見ると、左馬介光俊、或は光春、又、光昌という。光秀の叔父光安の子なり。光安、齋藤道三に仕へ、弘治二年、道三、其子義龍に殺された時、光安、明智城に據つて義龍を拒《ふせ》ぎ、敗死の際、其子光俊を、自分の亡兄光綱の子光秀に托したとあれば、光俊は光秀の從弟で年下である。明智系圖には、光秀、享祿元年生《うま》るといへば、天正十一年五十五歲で死んだので、明智軍記に載せた辭世に、五十五年夢、覺來歸一元〔五十五年の夢、覺(さ)め來(きた)つて一元に歸(き)す〕とあるのに合ふ。明智系圖には、左馬介を光秀の弟としてあるが、五十五歲で死んだ光秀の弟が、光秀に一日後れて、六十五歲で自殺したとは受取れぬ。されば近江輿地誌略一六に、左馬助、安土城に火をかけ、坂本城へ急ぐ途上、堀秀政と打出濱《うちではま》に戰ひ、辛うじて、坂本城に入り、叔父光廣六十七歲、左馬助四十六歲で、光秀の妻女諸共《もろとも》、自殺したとあるが正しく、光俊は六十五歲でなく、四十六歲で湖水を乘切つたと見える。

[やぶちゃん注:「明智左馬介」は本名を明智秀満(天文五(一五三六)年?~天正十年六月十四日(一五八二年七月四日):このウィキの生没年の数字に拠るなら、享年は四十七となる)という。私は鎌倉史ばかりがテリトリーで、戦国史以降には興味がなく、冥い。彼の名と事績も先般の大河ドラマ「麒麟がくる」で初めて知ったという為体である。されば、詳しいウィキの「明智秀満」をほぼ、全部、引用しつつ、自身も学ぶ。『織田家家臣の明智光秀の重臣。女婿または異説に従弟(明智光安の子)ともいうが、真偽の程は定かではない』。『同時代史料に出る実名(諱)が秀満で、当初は三宅弥平次と称し』、『後には明智弥平次とも名乗っている』。『俗伝として光春の名でも知られ、明智光春や満春の名でも登場する』。『左馬助(左馬之助)の通称も有名』。『俗伝では幼名は岩千代、改名して光俊とも』『言い、光遠と名乗った時期があるとする説もあるが、その他にも複数の別名が流布している』。以下、「出自」の項。まず、「三宅氏説」。『秀満は当初、三宅氏(三宅弥平次)を名乗っていた。三宅氏は明智光秀の家臣として複数の名前が確認できる。また俗伝では、明智光秀の叔父とされる明智光廉が三宅長閑斎と名乗ったとも言われる。一説には父の名を三宅出雲、あるいは美濃の塗師の子、児島高徳の子孫と称した備前児島郡常山の国人・三宅徳置の子という説もある』。次に「明智氏説」。「明智軍記」『などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると』、『次男)であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。ただ』、『西教寺所蔵明智系図によれば、実際に明智光春と言う人物は存在せず』、「系図纂要」か「明智軍記」での『名であり、明智光春の正式名は明智光俊であるとも』される。以下、「遠山氏説」。『明治期に阿部直輔によって謄写校正された』「恵那叢書」に『よると、明智光春(秀満)の父・光安が美濃国明知城主である遠山景行と同一人物とされており、それを参考にして遠山景行の子である遠山景玄が明智光春と同一人物、そして明智光春が秀満ではないかとの説が出されている。遠山景玄は元亀元年』(一五七〇年)『の上村』(かみむら)『合戦で戦死しているが、この説によると』、『史料の不整合もあり』、『誤伝であると』する。『また』、『遠山景行の妻が三河国広瀬城主三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだという補説もある。以下、「その他」の条。「細川家記」には『塗師の子であると書かれており』、「武功雑記」では『白銀師』(はばきし:刀身の手元の部分に嵌める金具を作る職人)『の子であったと伝えているが、いずれも信用できない』。以下、事績。『秀満の前半生は』、「明智軍記」を『始めとする俗書でのみ伝わっているが、それは秀満の出自を明智氏と断じていることに留意する必要がある』。『明智氏説では、明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが、』弘治二(一五五六)年、『斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ』、『落城。その際に父は自害したが、秀満は光秀らとともに城を脱出し』、『浪人となったとする』。天正六(一五七八)年『以降に光秀の娘を妻に迎えている』(「陰徳太平記」)。『彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため』、『離縁されていた』。『その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは』天正一〇(一五八二)年四月である。その前年天正九年には、『丹波福知山を預けられて』、堺の商人で茶人の『津田宗及』(そうきゅう)『が当城を訪れた際に、これを饗応して』おり、天正十年まで『在城したとされている』(「御領主様暦代記」)。天正十(一五八二)年六月二日の「本能寺の変」では『先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き』、十三『日の夜、羽柴秀吉との』「山崎の戦い」で『光秀が敗れたことを知』り、十四『日未明、安土を発して坂本に向かった』。『大津で秀吉方の堀秀政と遭遇するが、戦闘は回避したらしく坂本城に入った』(これが本篇に出る「湖水乘切り」。後述される)同『日、堀秀政は坂本城を包囲し、秀満は』、『しばらくは防戦したが、天主に篭り、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名物が無くなる事を恐れて、これを荷造りし、目録を添えて』、『堀秀政の一族の堀直政のところへ贈った。このとき』、『直政は目録の通り請取ったことを返事したが、光秀が秘蔵していた郷義弘の脇指が目録に見えないが』、『これはどうしたのか』、『と問うた。すると秀満は、「この脇差は光秀秘蔵のものであるから、死出の山で光秀に渡すため』、『秀満自ら』『腰に差す」と答えたとされる』。同『日の夜、秀満は』、『光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺した後、腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる』(「川角太閤記」)。『その振る舞いは戦国武将の美学を具現化したようなもので、敵方も称賛している』(「惟任退治記」)。『秀満の父は』、『秀満が死去した後』、『間もなく』、『丹波横山で捕らえられ』、七月二日に『粟田口で磔にされたとあり』、「言経(ときつね)卿記」では、『この父の年齢を』六十三『歳としている』。「島原の乱」で『戦死した肥前国富岡城城代三宅重利は』、『秀満の遺児であったとする説がある』。以下「逸話」の項。『光秀は亀山を出発する前に謀反を起こす決意を告げ、一同が黙っていた中で』、『秀満が』、『まず』、『これを承諾したために、残る四人も承諾したとされる』(「信長記」)。『また別の末書によると、光秀は』二十九『日に亀山に戻り、はじめ』、『秀満に謀反の相談をしたが』。『その諌止にあい、次に利三ら四人に相談したが』、『四人とも反対した。そのため』、『光秀は躊躇したが、翌日』六月一日に『なって、さらに秀満に事の次第を告げたところ、秀満は』、『すでに四人にも語った上はもはや躊躇すべきではないとし、謀反を起こさせたとしている』。なお、『安土城退去の際、秀満軍が天主や本丸に放火したとされてきた』(「秀吉事記・「太閤記」)が、『フロイスの書状によると』、『安土城は織田信雄が焼いたと述べている。信雄は蒲生氏郷らと秀満の去った安土にすぐに入ったのであり』、「兼見卿記」に『安土城の焼失を』十五『日のこととしていることから考えると、安土城を焼いたのは秀満ではなく信雄であろうとされている』。『琵琶湖の湖上を馬で越えたという「明智左馬助の湖水渡り」伝説が残されている。光秀の敗死を知った秀満は坂本に引き揚げようとしたが、大津で堀秀政の兵に遭遇した。秀満は名馬に騎して湖水渡りをしたということになっている。狩野永徳が墨絵で雲竜を描いた羽織を着用し、鞭を駒にあてて琵琶湖を渡したというものもある。騎馬で湖水を渡ったという逸話の初出は』「川角太閤記」で『あるが』、『真偽は不明で』、『実際は、大津の町と湖水の間の道を』、『騎馬で走り抜けたというのが真相らしい』。『坂本城を敵に囲まれて滅亡が迫る中でも逸話がある。坂本城に一番乗りしようとした武士に入江長兵衛という者がいた。秀満は長兵衛と知己があり』、『「入江殿とお見受けする。この城も我が命も今日限り。末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい」と声をかけた。長兵衛は「何事であろう」と尋ねると』、『「今、貴殿を鉄砲で撃つのは容易いが、勇士の志に免じてそれはやめよう。我は若年の時より、戦場に臨むごとに』、『攻めれば』、『一番乗り、退却の時は』、『殿』(しんがり)『を心とし、武名を揚げることを励みとしてきた。つまるところ、我が身を犠牲にして、子孫の後々の栄を思っての事だった。その結果はどうであろう。天命窮まったのが』、『今日の我である。生涯、数知れぬ危機を潜り抜け、困難に耐えて、結局は』、『かくの如くである」と述べた。そして「入江殿も我が身を見るがよい。貴殿もまた我の如くになるであろう。武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」と述べた』(「武家事紀」)。『秀満は今日の我が身は明日の貴殿の身だと、一番乗りの功名を挙げても武士とは空しいものと言いたかったのである。そして秀満は話を聞いてくれた餞別として黄金』三百『両の入った革袋を投げ与えた。秀満の死後、長兵衛は武士を辞め』、『黄金を元手に商人となって財を成したと伝わる』。『光秀が津田宗及を招いて茶会を』二『度ほど催しているが、その際に饗応役を務めており、文化人としての知識もあったようである』(「宗及記」)とある。

「下澤瑞世」(しもさわずいせい ?~昭和六(一九三一)年)は著作物を見るに、文化心理学者のようである。

「飯田氏の野史」飯田忠彦(寛政一〇(一七九九)年~万延元(一八六〇)年:徳山藩(萩藩)出身で出奔し、後に宮家に仕官した国学者・歴史家)が「大日本史」の続編編纂を志して嘉永元(一八四八)年頃までに編纂を終えた「大日本野史」のこと。後、飯田が「桜田門外の変」に関与したとの容疑で逮捕され、それに抗議して自害したという事情もあって、原本は散逸して現存しないが、完成後、飯田が人に乞われて印刷に付されたものを元に、明治一四(一八八一)年、遺族の手で刊行された。

「弘治二年」一五五六年。

「享祿元年」一五二八年。但し、一説に生年を永正一三(一五一六)年ともする。

「光秀」「天正十一年五十五歲で死んだ」死亡年は「天正十年」の誤り。一般に天正十年六月十三日(一五八二年七月二日)に、坂本城を目指して落ち延びる途中、亡くなったことになっている。享年は五十四となる。

「明智軍記」元禄初年から十五年(一六八八年~一七〇二年)頃に書かれたとされる、明智光秀を主人公とした軍記物。著者不詳。全十巻。当該ウィキによれば、光秀の死後百年ほど経った頃に書かれた軍記物であり、『誤謬も多く、他書の内容と整合しない独自の記述が多くあって』、『裏付けに乏しいため、一般的に史料価値は低い』『とされる』とある。以下の辞世の当該箇所は「東京国立博物館デジタルライブラリー」の「明智軍記巻十二」の右上の「ページ一覧」から「16」コマ目をクリックされたい。

「近江輿地誌略」享保一九(一七三四)年に完成した近江国の自然や歴史等について纏めた地誌。膳所藩主本多康敏の命を受け、同藩士で藩儒で侍講でもあった寒川辰清(さむかわたつきよ 元禄一〇(一六九七)年~元文四(一七三九)年)が編纂したが、寛政一〇(一七九八)年に当時の藩主本多康完(やすさだ)によって幕府に献上されるまで、成立から実に六十五年もの間、秘匿されていた。]

2022/09/23

西原未達「新御伽婢子」 禿狐

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。

 注を段落末に挟んだ。]

 

     禿狐(かぶろきつね)

 都、西洞院(にしのとうゐん)柳(やなぎ)の水(みづ)の町といへる有り。此所に名水ありて、淸々冷々(せいせいれいれい)たる事、他(た)に異(こと)にして、いかなる旱魃にも、水、かはく色なく、洶々《きようきよう》として溢流(あふれなが)る。俗、呼(よん)で「柳の水」といふ。

[やぶちゃん注:京都府京都市中京区柳水町(りゅうすいちょう:グーグル・マップ・データ)。「京都市歴史資料館」の『情報提供システム 「フィールドミュージアム京都」』の「柳の水」によれば(コンマを読点に代えた)、『この地は、平安時代末期には崇徳院』『の御所があった所で,清泉があり』、『柳水として有名で千利休』『も茶の湯に用い,側に柳樹を植え』、『直接』、『陽が射すのを避けたと伝える。近世初期には、織田信長の息信雄』『がこの地に住し、寛永初年に北野五辻に移った後,肥後加藤家京邸となった。貞享年間』(一六八四年~一六八七年)『以降』、『明治』三(一八七〇)年『まで』、『この地に徳川御三家の一つ、紀州和歌山藩の京邸があった。この石標は、名水柳の水を示すものである。なお、この地を柳水町というのは,この柳の水に因むものである』とある。

「洶々」水音が騒がしいさま。]

 此町の何某(なにがし)とかやいふ人、南の橫小路聖(よここうぢひじり)町といふ處、友達のもとへがり、行《ゆき》て、夜半(よは)過《すぎ》て、我がかたに、歸る。

[やぶちゃん注:「南の橫小路聖町」現在の京都市中京(なかぎょう)区西ノ京南聖町(にしのきょうなんせいちょう)か。距離にして西に一キロほどの直近である。]

 西のとうゐんの辻にて、門のくゞりに、さしかゝりたるに、何者哉(や)らん、後(うしろ)より、ほそ腰に、いだきつきて、引《ひき》とゞむる、其重さ、磐石(ばんじやく)のごとし。

[やぶちゃん注:「西のとうゐんの辻」現行、西洞院通(にしのとういんどうり)は柳水町を南北に貫通しており、殆んど自分の家に近い。或いは、彼は独り者で、助力する者が周囲にもいなかったため、彼は帰って来た道を、再び、友人宅で戻ったのであろう。

「門」各町内に設置されてあった背戸であろう。]

 此男、あくまで不敵の人なりければ、

「心得たり。」

と、先(まづ)、兩の手を妻手(めて)にてとらへ、弓手(ゆんで)にて、後(うしろ)をつかむに、着物のやうにもあり、毛の生(おい)たるやうにも覺えて、

「むくむく」

と、したるを、とらへながら、出《いで》こし友のもとへ、引《ひき》づり行《ゆき》て、足をもつて、戶を嗃(たゝく)に、人々、驚(おどろき)、

「何事ぞ。」

といふ。

「否(いや)、曲者(くせもの)ひとつ、生捕(いけどり)たり。火を見せよ。」

と、いへば、周章(あはて)て、ともし火を出《いだ》し、後(うしろ)を見るに、長く、大きなる顏の、眞黑なる、人に似て、人にも非ず、髮を、中より、かり揃(そろ)ヘて、禿(かぶろ)といふものゝかたちなるが、

「何樣(なにさま)、恠(あやしき)ものぞ。」

といふ程こそあれ。

 

Kaburokitune

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。この一枚のみ、禿狐の振袖の模様部分と、友人の掲げた手燭(てしょく)の炎の部分に赤い色が着色されている。かなり丁寧な色付けがなされており、はみだしなどは、殆んど見られず、恰も色刷りしたかのようである。少なくとも、子ども手すさびのレベルではない。手間はかかるが、この一枚だけを二色刷りとしたものがあったのだろうか? 但し、以上に掲げた勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」東京大学教養学部図書館蔵の挿絵では、拡大鏡で調べたが、彩色した形跡は認められない。

 

 縄・細引(ほそびき)などを掛(かけ)て、縛り搦(からめ)、

「さらば、手を放せ。」

と、いふに、持《もつ》たる所を、放ち、ねぢ歸り、後(うしろ)を見れば、十重二十重《とへはたへ》にからめたる、繩ばかり殘りて、何も、なし。

 いかなる所爲(しよゐ)と不ㇾ知(しらず)。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 或人の云《いはく》、「前々、此辻に、十四、五なる禿、出《いで》て、人をおびやかす。雨風(あめかぜ)、或は、あやなく、くらき夜、必(かならず)有りて、「かぶろ狐」といふなり。」とぞ。是も此類(たぐひ)なるべし。此人の强力(がうりき)に、をそれてや、此のち、天和の今に至つて、五とせがほど、絕《たえ》て此妖恠《やうかい》出《いで》ずと。

[やぶちゃん注:「天和」一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。本書は事実、天和三(一六八三)年に刊行されている。まさに直近の都市伝説というわけである。本書のように、作中に頻繁に現在時制或いはそれに近き近過去の怪奇談を載せるものは、あまりない。これは本書の特徴と言ってよいと思われる。]

西原未達「新御伽婢子」 仙境界

西原未達「新御伽婢子」 仙境界

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。

 本篇はやや叙述が複層的なので、注は適切と判断した近くに特異的に挟んだ。]

 

新御伽卷之四

     仙境界(せんきやうかい)

 夫(それ)、仙は、霞をくらひ、霧を吞(のみ)、雲にまたがり、空に居(きよ)して通力(つうりき)を得、神便(しんべん)を行《おこなふ》といへる事斗《ばかり》まさしくて、今の世に安定(さだか[やぶちゃん注:二字への読み。])に見たる人なしと、人中(にんちう)にて、いひ出《いで》たれば、其座に、信州七久里(《なな》くり)の鄕(さと)、慈尊寺の僧、輕秀といふ博學廣才の人の語られしは、

[やぶちゃん注:「神便」「神變」の代字であろう。古くは「じんぺん」と読み、人知でははかり知ることの出来ない不可思議な変化を起こす神がかった不思議な力の意。

「信州七久里の鄕」現在の長野県飯田市山本(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に七久里(ななくり)神社があるので、この附近か。

「慈尊寺」不詳。前記地区にはこの寺は現在は認められない。

「輕秀」不詳。この書き方からは、実際にその僧から直談したニュアンスである。]

「仙境に行(ゆき)し者こそ侍れ。我が寺近きあたりに、冨祐(ふ《いう》)の土民あり。男子、ふたり持てり。兄は家を繼(つぎ)て、農業に間(ひま)なく、弟は親の愛子(あいし)にて、万《よろづ》の藝にあそびて、世のうき事をしらず、只、榮耀にのみほこり、長生《ちやうせい》ならん事を願ふ。

 倩(つらつら)思ふに、阿育王(あいくわう)の、七寶(《しつ》ぽう)も命つきんとする時、是をすくふ價(あたひ)なく、秦の始皇の幸《さひはひ》も恠(あや)しき徐福がはかりごとにて、還而(かへつて)崩(ほう)じ給ひし。人傳(《ひと》づて)の不死の藥、かけて、たのむも、愚《おろか》也。

[やぶちゃん注:「阿育王」アショカ王(在位と没年は紀元前二六八年頃 から紀元前二三二年頃)の漢音写。紀元前三世紀頃の古代インドのマウリヤ朝第三世の王。カリンガ国を征服し、ほぼ全インドを統一し、同時に仏教を保護・奨励した人物として広く知られる。

「七寶も命つきん」「七寶」は仏教で言う七つの宝玉・貴石・宝物(ほうもつ)を指すが、ここは仏の御加護が尽きて、命終が近づくことを、比喩的に言ったもの。

「秦の始皇の幸も……」言わずもがなであるが、秦の始皇帝(紀元前二五九年~紀元前二一〇年)は不老不死の仙薬を求めんとして、方士(道教成立以前の呪術師を指すが、後に道士と同義で用いられるようになった)徐福に東海の三神山に不死の薬を探しに行かせたが、彼は逃亡し、遂に戻ってこなかった。日本に来て、熊野や富士山に住んだともするが、これらは本邦で形成された伝説に過ぎない。始皇帝は巡行中に没したが、一説に、彼は宮中の学者や医師らが処方した不死の効果が期待出来る水銀入りの薬を服用していたというから、それが事実ならば、死因はその中毒によるとも考えられる。]

 此等、おもひめぐらすに、命久しき類《たぐひ》、仙人に越(こえ)たるは、なし。我《われ》、

『仙術を學びて、世の珍しきためしとならん。』

と思ひたちけるが、此術道《じゆつだう》に師なし、と。

 爰に、おもひせまりて、又、思ふ、

『今も、深山幽谷には、あらたにあり、といふに、尋《たづね》ばや。』

と出《いで》て行《ゆく》。

 當國《たうごく》の㚑山(れいざん)なれば、先《まづ》、戶隱山(とがくし《やま》)にわけ入り、ふもと、川にして、淸凉(せいりやう)の水に、下浸(《おり》ひたり)、三七《さんしち》度の垢離(こり)をとりて、淸淨身(しやうじやうしん)になり、明神の寶前に詣(まふで)、祈誓しけるは、

「我、仙道を學(まなび)て、長生ならん事を思ふ。一道の師客(しかく)なきに依(よつ)て、御山《みやま》に上(のぼ)つて先達(せんだち)を待《また》んとほつす。願(ねがはく)は、神明の御方便(《ご》はうべん)によつて、此所願を成就せしめ給へ。然らば、五百千歲(ざい)、若(もし)は、三万、五万歲(ざい)、命、全(まつか)からんほど、日毎(《ひ》ごと)に詣で、法施(ほつせ)奉るべし。」

と、丹誠に祈(いのり)て、巍々(ぎぎ)たる太山(みやま)にのぼれば、岩・松、峙(そばだち)て、鳥だに、かけりがだき嶮岨(けんそ)を、木のね・葛(くづ)のかづらにとりつき、漸々(やうやう)にのぼれば、荊(うばら)・刈(か)・榾(くい)に手足をつながれ、身を苦しめ、心をいたましむるに、又、數千丈、絕果(たえは)て人力(じんりき)叶ふべくもなき深谷、あり。

[やぶちゃん注:「刈」「刈萱・刈茅」(かるかや)であろう。原始的なイネ科 Poaceaeである単子葉植物綱イネ目イネ科 キビ亜科 Panicoideaeの多年草のキビ亜科オガルカヤ属オガルカヤ Cymbopogon tortilis var. goeringii オガルカヤと、メガルカヤ属メガルカヤ Themeda triandra  var. japonica の総称。外見は薄(イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis )に似ている。

「榾」ここは人跡未踏の地であるから、「木の切れ端」=「ほだ」の意。]

「かづらきの神も在(まさ)ば、岩橋(いはばし)をわたし給へ。」

と独言(ひとりごと)して、力なく過ごし、山坂《やまさか》を凌(しのぎ)おり、こと道、いくばくを、めぐり、めぐりて、むかふに至る。

 まことに、「雲橫秦嶺家何在」〔雲(くも) 秦嶺(しんれい)に橫(よこた)はつて 家(いへ) 何(いづ)くにか在(あ)る)と、物こゝろぼそし。

[やぶちゃん注:「かづらきの神」「葛城の神」。大和の国葛城山に住むとされた一言主神(ひとことぬしのかみ)。「役(えん)の行者」から、葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋を架けよと命ぜられたが、醜い容貌を恥じて、夜の間しか働かなかったため、遂に橋は完成しなかったという。

「雲橫秦嶺家何在」中唐の詩人韓愈の七言古詩「左遷至藍關示侄孫湘」(左遷せられて藍關(らんくわん)に至り、姪孫(てつそん)の湘(しやう)に示す)の第五句。昔からお世話になっている「Web漢文大系」のこちらで全詩の訓読注が見られる。]

 とかくして、みえわたりたる峯つゞきの内、至《いたつ》て高き嶽(だけ)を求め、ふりたる松がねに、苔(こけ)朽(くち)たる石を、座とし、火打《ひうち》、取出《とりいだ》し、香(かう)を捻(ねん)じ、先《まづ》、明神の御かたを拜して後、虛空にむかひ、一心不亂に其事を祈(いのり)、目を閉(とぢ)て、暫(しばらく)、居(ゐ)る。

[やぶちゃん注:「香を捻じ」「捻香(ねんかう)」。「仏事に香を焚くこと」を意味する。]

 半時《はんとき》[やぶちゃん注:一時間相当。]斗《ばかり》して、風、一《ひと》とをり[やぶちゃん注:ママ。]薰(かうばし)く、物の音なひ、

「さはさは」

と聞ゆ。

 目を開(ひらき)て見れば、七旬(《しち》じゆん)[やぶちゃん注:七十歳。]斗《ばかり》と覺しき老翁(《らう》をう)、忽然と來れり。

 其かたち、珍しくて、未(いまだ)目《め》なれず[やぶちゃん注:見慣れず。]、髮は縮(しゞみ)て、繪に書《かけ》る「出山(しゆつさん)の釋迦」のごとし。皮肉、瘦枯(やせがれ)て、木にきざめる空也(くうや)に似たり。顏色、靑白く、眼に黃なる光あり。

『まさしく、我がこふる人よ。』

と思ひ、石上(せきしやう)をおりて、敬(うやまひ)、礼(らい)す。

 翁《をう》の云《いはく》、

「汝、仙界を尋《たづね》て祈願する事の切なるによつて、當山明神、誼(たく)し給ひて、爰にみえへたり。所望をかなへんに、暫《しばらく》、一七日《ひとなぬか》のほど、修(しゆ)すべき。行作(ぎやうさ)あり。汝、不慮(ふりよ)にして、古鄕(こきやう)を離れ、爰に來れり。親あり、兄あり、朋友あり。數日(すじつ)、相見《あひみ》る事、叶はず、若(もし)、行室(ぎやうしつ)にして、これらの事を思ひ出《いで》て、心、散乱せんには、願・行ともに、無になるべし。一先(ひとまづ)、里に歸り、暇乞(いとま《ごひ》)して來《こ》よ。」

と敎(をしへ)ければ、男、聞《きき》て、

「扨(さて)、其修行の過《すぎ》たらん時、古鄕に歸る事、成《なる》まじきや。」

と。

 翁の云《いはく》、

「左にあらねど、今、歸來《かへりこ》ずば、悔(くゆ)る事、有《ある》べし。只、我が謂(いひ)に任せて、歸り、明日(あす)、山上(さんじやう)すべし。我も爰に來らん。」

と。

「然(しから)ば、仰《おほせ》に隨(したがふ)べし。君、又、爰に來らんとは、常に此山に住《すみ》給ふにては、なきや。」

と問(とふ)。

「我が常の住所《すむところ》は、是より西に去(さる)事、三百余里、伯耆(ほうき)の『釋迦が嶽』、但刕(たんしう)の『妙見山』、心に好む山なれば、常にあそぶ。去(され)ども、思ふに任せて、刹那刹那に、山々を飛行(ひぎやう)すれば、朝(あした)に伯州(はくしう)に有《あり》といへども、夕《ゆふべ》には冨士にものぼり、白山に俳徊、或は、金峯(きんぶ)・淺間・比良・熊埜・夷《えぞ》・松嶋、心に任せ、いたらずといふ所なし。又、座を去(さら)ずして見んと欲(ほつす)れば、壷中(こちう)に天地を藏し、橘裏(きつり/たちばなのうち)に山川(さんせん)を峙(そばだつ)。」

 又、問(とふ)、

「常に、何を以て食とし給ふにや。」

と。

「丹(たん)といふ物、あり。」

「いかなる物ぞ。みまくほし。」

と、いへば、懷(ふところ)より雪を丸(まるめ)たるごとき、白く、うつくしき藥を取出(《とり》いで)、一粒(《いち》りう)を、わかち、あたふ。

 戴(いたゞひ[やぶちゃん注:ママ。])て、口に入《いる》るに、其味、世にたぐふべきなく、

『「天の甘露」といふ物、かくこそ。』

と覺ゆ。

 又、問《とふ》、

「生所(しやうじよ)はいづれの国ぞや。今、いか斗《ばかり》年齡を過し給ふや。」

と。

 答《こたへ》て、

「唐(もろこし)、燕(《えん》の)宣帝の三年、始(はじめ)て、仙も學(まなび)て、凡《およそ》年數(ねんす)二千年、或時、たまたま、風雲に任せて、東に飛行する事、六千余里、此《この》日の本に至る。爰におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、寶地㚑場の、目馴《めなれ》ず、面白きほどに、国、ひろからずといへども、大国の古鄕(こ《きやう》)にかへて、あそぶ事、數百年也。」

と。

[やぶちゃん注:「燕宣帝の三年」西周末期燕国の第十六代国王宣侯(?~紀元前六九八年)。在位は紀元前七一一年から紀元前六九八年であるから、その三年は紀元前七〇九年となる。本話柄内時制を仮に本書刊行時の天和三(一六八三)年とするなら(実際には後の叙述からこれよりも、四、五年前である)、実にこの老人、二千三百九十二歳ということになる。]

 猶、久しき昔の物がたりども、こまごまと、とはんとせしに、翁の云《いはく》、

「汝、我が道にいらば、常に何事をも語りなぐさめん。今日、早(はや)、暮(くれ)に及びぬ。歸らん道、不審(いぶかし)かるべし。麓迄、友(とも)なふべし。いざ、こなたへ。」

と、先にたちて行《ゆく》と見えし。

 未(いまだ)七步にもたらざるに、忽(たちまち)、古鄕の南の端に、つれ來《きたつ》て、明日を契り、かきけちて、失《うせ》ぬ。

 

Senkyoukai

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 男は、里に入《いり》て、親のもとに歸るに、父母は、内にいまさず。

 兄と覺しき男、けさ迄、さかんなりし㒵(かほ)。波と、雪とに、老《おひ》さらぼひ、弟を見て、大きに驚(おどろき)、

「こは。いかに。」

と斗《ばかり》にて、淚にむせぶ。

 ふしぎの思ひをなし、そこら、見めぐるに、今朝見し童僕(どうぼく)ども、或は、小童(こわらは)成《なり》しが、四十、五十のよはひとなり、今みる童・小者(こもの)なんど、覺えたるは、なし。

「いかゞしたる事にや。」

と、兄に、とふ。

 兄(このかみ[やぶちゃん注:ここで初めて「あに」ではない読みが附されてある。])の云《いはく》、

「『いかゞ』とは、うつゝなや。我殿(わどの)は、此とし月、いづくに有《あり》て、音信(おとづれ)ざる。兩親、したしきものども、そこの行衞(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。] )を尋《たづね》わび、『世になき數(かず)になりたり。』と、出《いで》ゆきし日を「忌日(きにち)」とさだめ、廽向(ゑかう)する事、久し。是々《これこれ》。」

と、佛壇をひらくに、げにも、法名の文字、香(かう)の煙(けふり)に、ふすぼりて、みゆる。

 つゞきて、しらぬ位牌あり。

「いつれぞ。」

と、とふに、

「父母のふたり也。」

 此時、殊更に驚き、

「扨《さて》、某(それがし)が出《いで》たる日より、いくほどに成《なり》しや。」

と、とへば、

「其年は其法名に書(かけ)る。『元和(げんわ)七年辛酉《かのととり/しんいう》弥生(やよひ)中《ちゆう》の三日』。其後《そののち》、年號、うつり替り、寬永・正保(しやうほ)・慶安・承應(じやう《わう》)・明曆・万治、今、寬文九年己酉《つちのととり/きいう》、此間《このあひだ》、四十九年也。さるにても、斯(この)久しき間に、其裝(かたち)、昔にかはらぬこそ、ふしぎなれ。」

といふ。

 弟、聞《きき》て、

「去《され》ば、假初(かりそめ)、思ひよりて、仙術を学びん[やぶちゃん注:ママ。]ため、戶隱山に入《いり》て、かうかうの事、侍りしが、『纔(わづか)、一日送る。』と思ひしさへ、さばかり、久しく成《なり》けめ[やぶちゃん注:已然形はママ。]。邯鄲(かんたん)のかり枕に、五十年を夢見しといふに、我は、見ぬ夢に五十年を送りし。夫(それ)は一睡、是は一日(いちじつ)。たとひ、五千、八千歲の命を保(たもつ)とも、人間(にんげん)にあつて、十とせ、二十とせのほどにも覺ふべからず。「神仙不ㇾ死爲何事」〔神仙、死せざるも、何事をか爲(な)す〕といひし、誠《まこと》なるかな。長生も、心に足(た)る事を知らずんば、短命には、をとり[やぶちゃん注:ママ。]なん。憖《なまじい》に此道になづみて、惡趣に落(おち)んも、おそろし。只、凡人(ぼんいん)にありて、佛の道を尋《たづね》んには、しかじ。」

と、いふと、ひとしく未(いまだ)、詞(ことば)も終(をは)らざるに、忽(たちまち)、白頭(はくとう)の翁《おきな》となつて、一時(いちじ)に年來(ねんらい)の老《おひ》を重ねたり。

 此後《こののち》、年、少(すこし)經(へ)て、今は、四とせ斗《ばかり》先にもやあらん、兄弟、おなし年に、身まかり侍り。」

と語られける。

[やぶちゃん注:「神仙不ㇾ死爲何事」出典未詳。識者の御教授を乞う。

 以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、曇鸞(どんらん)大師の「觀無量壽經」のいみじき敎《おしへ》をさとりまして、仙經をやき捨給ひしも、此おとこの、とし月みじかきに驚きて、惡趣を、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、ながく、佛道に入《いり》けんも、かしこきさとり、似かよふべくや。

[やぶちゃん注:「曇鸞」(四七六年?~五四二年或いは五五四年)は北魏後半から北斉初頭にかけての、中国の浄土教僧。浄土真宗では七祖の一人とされる。俗名などについては不明。迦才(かさい)の「浄土論」に、出身地は汶水(もんすい)と記されてあるが、一般には「続高僧伝」によって、雁門(山西省)とされている。その「続高僧伝」によれば、十五歳に満たない頃、五台山中の文殊化現(もんじゅけげん)の霊跡を訪ね、感銘を受け、出家したとする。当時、湖北で盛んであった龍樹の空観を学んだ四論の学匠であった。五十歳を過ぎたころ、「大集経」の注釈の完成のために、長生不死の仙法を求め、陶隠居(六朝時代の医学者・科学者にして道教の茅山派の開祖でもある陶弘景(四五六年~五三六年)の自称)に仙経十巻を授かった。帰路、洛陽で菩提流支(ぼだいるし)三蔵に対面して、「長生不死の法で、この仙経に勝る法が、仏法のなかにあるか。」と問うたところが、地に唾をして菩提流支に叱責され、「観無量寿経」を授かった。これによって、仙経十巻を焼き捨て、深く浄土教に帰依した。以後、著作と念仏の教化とに命を捧げ、六十七歳で没したと伝えられている。迦才の「浄土論」には、学匠としてよりも、民衆とともに浄土へ往生した往生人として伝えられてある。著作には、曇鸞教学の真髄である「浄土論註」二巻がある。ほかに「讃阿弥陀仏偈」一巻、「略論安楽浄土義」一巻などがある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

2022/09/22

西原未達「新御伽婢子」 血滴成小蛇 / 「新御伽婢子」巻三~了

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     血滴成小蛇(ち したたり しやうじやとなる)

 奧州の或《ある》侍、主君の供して、都にのぼり、とある宿(やど)に着《つき》て、日をかさね、住居(すまひ)ける。

 比《ころ》しも、秋の半《なかば》なるに、月は、くまなき影ながら、古鄕(ふるさと)は遠く隔りて、わするなよ、といひし思ひ妻も、雲のあなたにと、おもふにぞ、昔、安部の仲麿の、唐(もろこし)に渡りて、「三笠の山に出《いで》し月かも」と、詠(ながめ)てしなど、思ひめぐらして、枕さびしきひとりねに、古鄕の文とて、持來(もてき)ぬ。

 黑過(くろみ《すぎ》)て、さまざま、書《かき》こしける中に、

   わがせこを都にやりて塩竃(しほがま)の

     笆(まがき)かしまの松ぞこひしき

とあるにぞ、猶、都には、住《すみ》わびける。

 折しも、杉戶一重の(すぎと《ひとへ》)あなたに、爪音(つまおと)、しめやかに、しのびごまして、さうが、しほらしく聞えけるを、

『誰(た)そや。此ふすまのあなたに音するは。』

と、問はまほしく思ひながら、

「心ならで、行《ゆき》かよふ道もなく、問(とひ)よる便(よすが)もがな。」

と、耳をそばだてゝ、聞居(《きき》ゐ)たり。

 さる折から、下つかへの女の、みえしを、うれしくて、招(まねき)よせ、

「此琴のあるじは、たそ。」

と、とふ。

「こざかしきものから、あれは、此家の独(ひとり)むすめにて侍る。年は二八《にはち》に、ひとつ、あまり給ふ。容色、うるはしく、心、又、情(なさけ)の深き事にて侍るを、聞《きき》知る人、多《おほく》いひかよはせ侍れど、親なん、はやく、ゆるしさぶらはねば、ひとり身にて、をはす。」

と、とはず語り迄、口《く》どくいひ、捨(すて)て立《たち》歸らんとするを、此東男(あづまをとこ)、かの女の袖を、ひかえ、

「なふ、その事よ。我ながら、恥かしけれど、此息女(むすめ)の事を、はや、疾(とく)聞《きい》て侍る故、遙(はるか)に遠きみちのくに、思ひは、ちかの鹽がまの煙の末の立《たち》まよひ、こがれて、爰に、のぼりし。哀《あはれ》を添(そへ)て、たび給へ。」

と、かきくどくに。下女は、よしなき物がたりに、

『むつかしき事の侍るかな。』

と思ひながら。一向(ひたすら)にせめければ、是非なく、事を請(うけ)あひぬ。

 男、嬉しくおもひ、何とも、言葉の色は、なくて、

    うちはへてくるしきものは人目のみ

     しのぶの浦のあまのたくなは

と、うすやうのかうばしきに書《かき》て、下女に、わたす。

[やぶちゃん注:「しのびごま」「忍び駒」。三味線の駒の一種。脚の部分が長く、その両端を胴の縁(ふち)に掛けて用いる。弦の振動が胴皮に伝わらないので、弱音になる。

「さうが」よく判らぬ。「奏が」(弾きざまが)の意かとも思ったが、歴史的仮名遣は「そう」で一致を見ない(但し、本書の歴史的仮名遣は異様に誤りが多い)。「箏が」(この時代は既に琴と同義)とも読めるが、とすると、前の「忍び駒」と齟齬する。しかし、ここは三味線ではなく、琴(箏)がシークエンスとしては相応しいとは思う。しかし、私の妻は六十年に及ぶ琴の名手であるが(五歲から始め、一時は本邦初の邦楽研究所第一期生ともなった(修了直前に中退))、琴自体がもともと、音が小さいので、そのような装置は私は知らないとのことであった。識者の御教授を乞う。

「二八に、ひとつ、あまり給ふ」十七歳。]

 女、是を懷(ふところ)にして、人めの隙(ひま)をうかゞひ。娘に渡(わ)たす[やぶちゃん注:ママ。]。

 何心なく、ひらきみて、㒵(かほ)、打《うち》赤め、

「恥かしや。自(みづから)が、年のはたちに近き迄、ひとり起居《おきゐ》のつれづれを、物うき事に思はんとの、心引《こころひき》みるつま琴(こと)の音《おと》に立(たつ)名(な)をなげゝとや。」

と。つれなく、下女に返しければ、侍に、

「かく。」

といふに、猶、絕(たゆ)べくもあらず、さまざまに、いひかよはす。

 女も、今は、心、よはく、

    みちのくのしのぶのあまのたく縄の

     たえずも人のいひわたる哉

と、讀《よみ》て、返しにせしかば、人しれぬ中《なか》となり、逢迄(あふまで)の命もがなと、思ひしも、悔(くやし)き迄に打《うち》とけて、かはらぬいろを、たのみあひけり。

 然るに、限りある鴻臚(かうろ)のならひ、主君、都をたち給ふに、男も同じ東路(あづまぢ)のみちのくにまかるに、女、別れを悲しみて、

「ともに、東に下らん。」

といふに、男、爲方(せんかた)なくて、いふ、

「されば、我もくるしきに、主命(しうめい[やぶちゃん注:ママ。])、重きとがめにて、女をつるゝ事、かたし。我國に下らば、近く、迎(むかひ)にのぼすべし。相《あひ》かまへて、待《まち》給ヘ。」

と、いたう、諫(いさめ)て、下りぬ。

[やぶちゃん注:「鴻臚」本来は中国の官職名で、外国からの来賓の応接を担当した職を指す。後に日本古代の官立の迎賓館「鴻臚館」の名称となったことから、ここは上洛した主君の付添役の意に転じたものだが、私にはあまりピンとこない。]

 男、此事を忘るゝにては、なけれど、本妻なるものゝ、たけく嫉妬する事を恐怖《おそれ》て、迎(むかひ)の事を捨置(すて《おき》)ぬ。

 都の女、戀佗(こひわび)て、まつとしきかばと僞(いつはり)し、昔の世まで思ひ出の、恨(うらみ)の數(かず)の事しげく、文《ふみ》、認(したゝめ)て下《くだ》しける。

 男、是におどろき、

「さりとも、今は、怖(おそろし)や。若《もし》、國の妻(つま)なんど、露(つゆ)斗《ばかり》知るならば、いかなる恥をか、かさねん。さりとて、人をのぼさずば、自(みづから)爰に來(く)る事もあり。所詮、むかひをのぼし、道にて討(うつ)て捨(すて)ん。」

と、下部(しもべ)弐人《ふたり》に、

「しかじか。」

と、いひ含(ふくめ)、都に、のぼす。

 

Syoujya

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 使(つかひ)、かしこにつけば、女、よろこび、取あへず、下りぬ。

 或《ある》舟渡しの川中《かはなか》にて、女、船ばたにのぞみ、手、あらふ、と見えし。

 中間《ちゆうげん》弐人、うしろより、あへなく、首を討(うち)をとせば[やぶちゃん注:ママ。]、むくろは、船に有《あり》ながら、首(くび)は波間に浮沈(うきしづ)む。

 件(くだん)の刀(かたな)を拭(のご)はんとするを、今、壱人《ひとり》の中間、押《おし》とめて、

「汝、国に歸り、何を證據に、『討《うつ》たる。』といふや。」

と、いへば、

「尤《もつとも》。」

とて、血刀(ちがたな)を、鞘《さや》におさめ、国に下る。

 主人に、事のよしを申《まをし》、件(くだん)の刀を渡す。

「何と、最後は、いかゞ有《あり》し、いしくも、能(よく)仕(し)まひし。」

などいひて、刀を拔(ぬき)みるに、頸きつて、十余日《じふよにち》になる刀、鞘より、やすやすとぬけ、きつさきより、鍔(つば)もとへ、血の滴(したゞ)ると、みえし。

 忽(たちまち)、ひとつの小蛇(しやうじや)と成《なり》て、男の頸(くび)にまとひつく。

 取《とつ》て捨(すて)んとするに、不ㇾ叶(かなはず)。

 痛(いた)め、くるしむる事、間《ひま》なし。

 本妻、此由を聞《きき》て、蛇にむかひ、さまざま、恥(はぢ)しめ、訇(のゝしる)に、おもはゆくや、在《あり》けん、皮一重(かはひとへ)下《した》に入《いる》とみえしが、口より、火烟《くわえん》を吹出(ふき《いだ》)し、晝夜、隙《ひま》なく、くるしめ、終《つひ》に、男を、取《とり》ころしぬ。

 ことはりながら、おそろしき怨念には、ありける。

 

 

新御伽卷三

[やぶちゃん注:この妖蛇、身体の皮膚の一皮下に潜り込んだのである。あたかも恐ろしいヒトに日和見感染をしたある種の寄生虫の幼体(鉤虫の一種であるアンシロストーマ属Ancylostoma)が、皮膚の下を蠢くのが確認出来る「エイリアン」レベルの気味の悪さだ(これは医学的には「皮膚幼虫移行症」と呼ぶ。私の「生物學講話 丘淺次郎 一 個體の起り」の「微細な幼蟲が人間の皮膚を穿つて體内に入込んで來るものもある」の私の注を参照されたい)。しかし、前振りがやや退屈に長い分、このエンディングはなかなかに、キョワいぞ!!!

西原未達「新御伽婢子」 野叢火

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     野叢火(やさうのひ)

 都四条の北、大宮の西に、古しへ、淳和天王(《じゆんな》てんわう)の離宮ありける。こゝを西院(さいゐん)と名づく。後に橘の大后(《おほ》きさい)の宮、すみ給ヘり、といふ。

[やぶちゃん注:「淳和天王」桓武天皇第七皇子。先行する平城天皇・嵯峨天皇の異母弟。在位は弘仁一四(八二三)年から天長一〇(八三三)年。彼は薄葬を遺詔としたため、歴代天皇の中で唯一、大原野西院に散骨された。

「西院」既出既注

「橘の大后の宮」嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ 延暦五(七八六)年~嘉祥三(八五〇)年)。当該ウィキによれば、彼女は『仏教に深く帰依しており、自分の体を餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、または、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こすために、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず』、『路傍に放置せよと遺言し、帷子辻』(かたびらのつじ:京都市北西部にあったとされる)『において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれる』。『または、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある』とある。]

 時うつり、世はるかに、宮殿は皆、絕(たえ)て、纔(わづか)に名のみ殘り、今は埜夫(やぶ)のすみかとなれり。

 此南に壬生寺(じんしやうじ)とて、いとたうとき地藏のいまそかりけり。いつも、彌生の比《ころ》、大念佛を始めて、其間に狂言を盡し、猿の面(おもて)、着(き)たるおのこ、縄をつたひて、かるわざの曲(きよく)をなしける。茶店、軒をならべ、參詣の人、更に止(やむ)とき、なし。

[やぶちゃん注:「壬生寺」現在の壬生寺(みぶでら)。西院との位置関係からは、「南東」とすべきところか。

「猿の面、着たるおのこ、縄をつたひて、かるわざの曲をなしける」壬生狂言にあやかって、猿面を被った芸能者(軽業師)が興行を行ったものか。]

 

Yasaunohi

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 此寺の傍(かたはら)に、草茂り、松、生《おひ》たる埜《の》に、ひとつの㚑火(れい《くわ》)有《あり》て、闇夜(あんや/やみのよ)になれば、必《かならず》、其わたり、飛行(ひぎやう)す。

 其火、よの常にかはり、色、靑く光り、或時は、草にあり、或時は、空(くう)に、一所(《いつ》しよ)定(さだめ)ず。

 俗、「宗玄火(そうげんび)」と呼(よぶ)。

 其始(はじめ)を聞(きく)に、昔、此《この》地藏堂に、宗玄といふ下法師(した《ほふし》)、仏《ほとけ》の御燈(みあかし)をかゝげる事を領《りやう》ず。

 かたち、衣鉢にかざれども、心、鬼畜にひとしく、散錢・奉納の類《るゐ》、我(わが)意に任せて、かすめとり、殊に己《おのれ》が所作(しよさ)の燈明の油を盜(ぬすみ)、賣(うり)しろなす事、數年(す《ねん》)を經(ふ)れども、仏天(ぶつてん)、是を惡(にくみ)給ヘばにや、一生、冨貴(ふうきの)花《はな》もなく、榮耀(えいよう)の月を待得《まちえ》ず、終《つひ》に、無常の嵐の前に、業障(ごふしやう)の身を苦しめ、くらきより、くらき道に入《いり》ぬ。

 臨終の惡相に、人、猶、日來(ひごろ)の所爲(しよ《ゐ》)を思ひ合《あはせ》て、舌を卷(まく)。

 此後、此御堂の前後左右の埜中(のなか)に、燈炉(とうろ)の大さなる、火、ひとつ、飛行(ひぎやう)す。

 或時、此里の人の夢に、

「我は壬生寺(みぶでら)の宗玄にて侍り。かやうかやうの事ありて、今、焦熱の猛火(みやうくわ)にこがれ、此惡業を、つぐのふ、くるしさよ。一魄(こん[やぶちゃん注:ママ。])は、此土(《この》ど)にとゞまり、晝夜(ちうや)、くるしみ、身をやく也。」

と。

 猶、此事、繁(しげ)くいはんとせしが。消(きえ)て、跡なく、失(うせ)ぬ。

 それより、埜人(やじん)、此名を呼(よぶ)とぞ。

 寬文の比にや、去(さる)人、西院より、夜更(よふけ)て、京に歸る折ふし、雨さへ降(ふり)て、行路(ぎやうろ)、くらく、覺束(おぼつか)なし。かゝる所に、光、あつて、大(おほき)なる火、かたまりたる中に、法師の頸(くび)、顯れて、出《いで》きたる。

「あ。」

といふ聲の内より、男、忽(たちまち)、絕入(ぜつじゆ)したり。明がたに成《なり》て、行かふ人、藥をあたへ、水、そゝぎ、息出《いで》て、此事をかたりしにぞ。

「扨は。例の火。」

と知りぬ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 或人のいふ、

「宗玄といふ全體、有《ある》物にてなし。『叢原火(さうげん《び》/くさはら )』といふ物也。」と。字訓を、つけられし。一分《いちぶ》の才覺かと、おもはれて、信用しがたし。

[やぶちゃん注:以上は、

   *

 ある人が言うことには、

「『宗玄火(そうげんび)』という怪異の名指しは、実は、実際にあるものではない。それは、「そうげんび」、則ち、「叢(草)原火(そうげんび)」というのが真の名である。」と。この人は、わざわざ以上の左訓のように、字訓までご丁寧に、目の前で添えてくれたのだが、これは「そうげんび」の発音がたまたま一致することにかこつけて、小賢しい知恵を以って、私に示したもののように思われて、信用し難い。

   *

というのである。この附記が、これまた、結果して、本怪異の李愛リズムを、サイドから補強する形になっているのが、見え見えで、寧ろ、私は、「未達さんよ、あんたのこれも一分の才覚かと思われますな。」と言っておこう。

なお、「日文研」の「怪異・妖怪画像データベース」のこちらで、二種の本妖火の絵図が見られる(一つは「そふげん火」と名ざしている)。]

西原未達「新御伽婢子」 旅人救ㇾ龜

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 補篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     旅人救ㇾ龜(りよじんかめをすくふ)

 或人、京より肥後に下るとて、礒(いそぎはを、舩にて行(ゆく)に、濱ばたに、人、多《おほく》、走集(《はしり》あつま)りて、騷(さはぐ)所あり。

「鯨(くじら)さく市人《いちびと》か、將(はた)、鹽やく賤(すづ)の業(わざ)にや。」

と、同船、四、五人、皆、濱に上《あが》つて、

「何事ぞ。」

と見るに、壱間余《あまり》[やぶちゃん注:一・八メートル超。]の、龜、ひとつ、中に取《とり》こめて、浦の者ども、あやしき刄(やいば)を持《も》て、

「頸(くび)を切らん。」

「足をそがん。」

のと、口々に訇(のゝし)る中に、年よりたる男、ひとり、若き者共に詞(ことば)をたれ、手をつかねて、

「ひらに。ゆるして、たうべよ。」

といふを、旅人、

「何としたる事ぞ。」

と問(とふ)。

 翁の云、

「此浦は、皆、無下にいやしき魚獵師(うをれうし)にて侍る。此ほど、ふしぎに、獵のきゝ侍らねば、恠(あやしみ)思ふ所に、今、なむ、此龜、大網(《おほ》あみ)にかゝつて、あがり侍る。『かやうに異(こと)やうにすさまじき生ものゝ、波上(はしやう)を譟(さはがす)時、衆魚(しゆぎよ/《おほきうを》)、隣浦(りんぽ/となりのうら)に去(さつ)て、其邊(ほとり)に住(すま)ず。去(さる)故、是を生(いけ)て歸さば、毎(いつ)までも、障(さはり)となつて、世の諞(たづき)に方便(てだて)を失(うしなは)んずる。』と、若き者どもの、『殺さん。』といふに、此龜、淚をながす事、間(ま)なく、是なん、血にて侍る。見給へ。」

といふに、實(げに)も血の色なり。

「蟲類(ちう《るゐ》)ながら、此悲しみを知る事、哀(あはれ)に侍れば、某(それがし)、『遠き沖につれ行《ゆき》、猶、遙(はるか)に此沖を立《たち》されと申含(《まをし》ふくめ)ん。』と言(いひ)、佗(わび)、宥(なだめ)侍れど、是非なく、たすくまじきに極(きはま)りぬ。色をも、香をも、知る、都人におはすと覺え侍らふ。翁に、力を合《あはせ》給へ。」

といふに、皆、慈悲の心を發して、いふ、

「誠に、糞中(ふんちう)の金とやいはん。わらづとに錦(にしき)を包(つゝむ)たぐひかは。かゝる邊鄙(へんぴ)のはて、しかも、殺生に渡世する中にして、やさしき翁には侍る。」

と、浦人に、鳥目五百疋をあたへて、龜を乞(こひ)とり、翁に渡す。

 老人、よろこび、すぐに、小舩(こぶね)にかきのせ、沖に出《いづ》れば、人々も、もとの舩にうつりて、西へ行《ゆく》事、五里斗《ばかり》あつて、老人、歸る。

「何(なに)と、放ちけるや。」

と。

 翁のいふ、

「舩より出《いだ》して、海に入れ侍るに、さうなく、海に沈まず、兩の手を合《あは》するやうにして、首(かうべ)をうなだれ、禮義をとゝのへ侍る。能(よく)こそ助(たすけ)給ふ、ありがたさよ。」

など、いふ内に、むかふより、白波、一きは、高く立《たて》て來《きた》る者、あり。

「何事にや。」

と周章(あはてさはぐ)に、翁の、早く見付《みつけ》、

「先ほどの龜なり。」

といふに、誠に、そなり。

 此舟にむかひ、礼拜(れいはい)のかたちをなし、掌(たなごゝろ)を合する風情(ふぜい)して、又、水底(みなそこ)に入《いり》ぬ。

 時に、翁、人々にかたりて。

「彼(かれ)は此沖に數百歲を經(ふ)る龜也。各《おのおの》、慈悲に依(よつ)て、危(あやうき)命を、のがれぬ。愚癡(ぐち)の因(いん)によつて、蟲類には生るれども、愁(うれへ)たる思ひ、悅ぶ心、人間に、猶、かはらじ。有《あり》がたき御志(《おん》こゝろざし)や。我、又、かれにおなじく、此沖に住(すむ)もの也。」

といふより、壱つの大龜となり、白波に飛入(とび《いり》)しが、忽(たちまち)、龜、二つ、洋々として首(かうべ)をたれ、人々の船を礼拜する事、暫して、又、水底に入《いり》けるとぞ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

  唐《もろこし》にて、さる者、「龜を煮て、くらはん。」とて、下女にいひ付《つけ》、「甲(かう)を放(はなち)て、あらへ。」といふ。下女、背戶(せど)の礒(いそ)ばたに出《いで》て思ふに、『生としいける類ひ、命惜(いのちをし)まぬものは、非じ。わきて、龜は、四㚑(《し》れい)のひとつ、殊に、いのちながきものと。我、これを海に放さんに、あるじ、とがむる事ありて、我命(わがめい)を、とらん。たとひ、ころさるゝとも、此龜の一生のながきにくらべば、千がひとつならん。』と、慈愛の思ひ、しきりなれば、誤(あやまつ)て取にがしたるていにて、海に、はなち、たすけにけり。あるじ、大きにいかり、せめ、さいなむこと、命、助かりたる迄也。其後、此國、疫癘(えきれい)はやりて、此下女も煩(わづら)ひしを、主人、もとより、情なきものにて、家の外に捨(すて)けるに、件(きだん)の龜、來つて、身(み)、泥(どろ)をぬりけるにぞ、大熱、さめて、本復(ほんぶく)しぬ。又、本朝に、山陰(《やま》かげ)の中納言御子《ちゆうなごんのみこ》に、如夢僧都(によむそうづ)といふ人、ありき。此人、幼(いとけなき)とき、父黃門(くわうもん)・妻子、各《おのおの》、舟にて他のくにぐにに行《ゆき》給ふに、北の方は、僧都の繼母(まゝはゝ)也けるが、此僧都をにくみて、乳母(めのと)に賂可(まいなひ)をとらせ、取《とり》はづしたるふぜいにて、海にしづめけるを、いづくともなく、龜、ひとつ、來(きたつ)て、甲(かう)にのせて、沈めず。初《はじめ》より、あやまつたる躰(てい)なれば、助(たすけ)侍らねば、かなはぬ事にて、引上ゲぬ。是は中納言、其古(いにしへ)、龜の、人にとられて、既に殺(ころす)べかりしを、、助(たすけ)給ひし陰德によつて、今、御子の命をすくふ陽報(やうはう)ありける。夢のごとく、ふしぎに助かり給ふとて、如夢僧都と申けるとぞ。利根博智(りこんはくち)の僧にて、いまそかりけり。

[やぶちゃん注:この前半の中国の説話の原拠を、私は不学にして知らない。ご存知の方は、是非、御教授願いたい。

「四㚑」「㚑」は「靈」の異体字。陰陽五行説の四神の北の「玄武」のことを言う。

「本朝に、山陰の中納言御子に、如夢僧都といふ人、ありき。……」は「今昔物語集」の巻十九の「龜報山陰中納言恩語第二十九」(龜、山陰(やまかげ)の中納言に恩を報ずる語(こと)第二十九)である。以下に示す。本文及び注は所持する小学館古典全集を参考にした。

   *

 今は昔、延喜の天皇[やぶちゃん注:醍醐天皇。在位は寛平(かんぴょう)九(八九七)年~延長八(九三〇)年。]の御代に、中納言藤原の山陰[やぶちゃん注:公卿藤原山蔭(天長元(八二四)年~仁和四(八八八)年)。四条流庖丁式の創始者として知られている。但し、ご覧通り、ここの叙述には時制に齟齬がある。]と云ふ人、有りけり。

 數(あまた)の子、有りけるが、中に一人の男子(をのこご)有りけり。形ち、端正にして、父、此れを愛し養ひけるに、繼母(ままはは)有りて、父の中納言よりも、此の兒(ちご)を取り分き、悲しくして、養ひければ、中納言、此れを極めて喜き事に思ひて、偏(ひと)へに繼母に打ち預けてなむ養せける。

 而る間、中納言、太宰の帥(そち)に成りて、鎭西に下りけるに、繼母を後安(うしろやす)き者に思ひて有る程に、繼母、

『此の兒を、何(いか)で失なはむ。』[やぶちゃん注:「何とかして、この子を殺してしまおう。」。先の優しさは偽りのポーズに過ぎなかったのである。]

と思ふ心、深くして、「鐘(かね)の御崎(みさき)」[やぶちゃん注:現在の福岡県宗像市玄海町(げんかいまち)の響灘に突き出た鐘ノ岬。]と云ふ所を過ぐる程に、繼母、此の兒を抱(いだ)きて、尿(ゆばり)を遣る樣にて、取り□□[やぶちゃん注:「外(はず)し」の欠字。]たる樣にて、海に落し入れつ。

 其れを、卽ちは、云はずして、帆を上げて走る船の程に、暫し許(ばか)り有りて、

「若君、落入り給ひぬ。」

と云ひて、繼母、叫びて、泣き喤(のの)しる。

 帥、此れを聞きて、海に身も投ぐ許り、泣き迷ふ事、限り無し。

 帥の云はく、

「此れが死(しに)たらむ骸(かばね)なりとも、求めて、取り上げて來たれ。」

と云ひて、若干の眷屬を、浮船(うきふね)に乘せて、追ひ遣る。

 我が乘りたる船をも、留(とど)めて、

「何(いか)でか、此れが、有り無し、聞きてこそ、行かめ。聞かざらむ限りは、此に有らむ。」

と云ひて、留るなりけり。

 眷屬ら、終夜(よもすがら)、浮舟に乘りて、海の面(おもて)を漕ぎ行くと云へども、何にしてかは、有らむ。[やぶちゃん注:「どうして見つかることが、これ、あろうか、いや、ない。」。]

 漸(やうや)く、夜、曙離(あけはな)るる時に、海の面(おもて)□[やぶちゃん注:欠字。「靑」(あをあを)辺りか。]として渡るに、海の面を見遣れば、浪の上に、白らばみたる小さき物、見ゆ。

『鷗(かもめ)と云ふ鳥なめり。』

と思ひて、近く漕ぎ行くに、立たねば、

『怪(あや)し。』

と思ひて、近く漕ぎ寄せて見れば、此の兒の、海の上へに打ち□□[やぶちゃん注:「屈み」「屈(かがま)り」などか。]て居(ゐ)て、手を以つて、浪を叩きて有り。喜び乍ら、漕ぎ寄せて見れば、大笠(おほがさ)許(ばか)りなる龜の甲の上に、此の兒、居たり。

 喜び迷ひて、抱(いだ)き取りつ。

 龜は、卽ち、海の底へ入りぬ。

 帥の御船(みふね)の許(もと)に、迷(まど)ひ[やぶちゃん注:大慌てで。]漕ぎ寄せて、

「若君、御(おは)します。」

と云ひて、指し出でたれば、手迷(てまど)ひして抱くままに、喜び、泣きぬる事、極(いみ)じ。

 繼母も、

『奇異(きい)。』

と思ひ乍ら、泣き喜ぶ事、限り無し。

 此の繼母は、内心を深く隱して、思ひたる樣に持て成して有りければ、帥も、偏へに其れを憑(たの)みて有りけるなり。

 此くて、船を出(いだし)て行く間(あひだ)に、帥、終夜(よもすがら)、肝心(きもこころ)、碎けて、寢(いね)ざりければ、晝(ひ)る、寄り臥して寢入りてける夢に、

――船の喬(そば)に、大なる龜、海より頸を指(さ)し出でて、我に物云はむと思ひたる氣色有り。然(しか)れば、我れ、船の端(はし)に指し出でたれば、龜なりと云へども、人の言はむ如くして云はく、

「忘させ給ひにけるや。一と年(せ)、我れ、河尻(かはじり)[やぶちゃん注:淀川の河口。]にして、鵜飼(うかひ)の爲めに釣り上げられたりしを、買ひ取りて、放たしめ給ひし所の龜なり。其の後、『何(いか)にしてか、此の恩を報じ申さむ。』と思ひ、年月(としつき)を過ぐるに、帥に成り下り給へば、『御送(おほむおく)りをだに、せむ。』と思ひて、御船(みふね)に副(そ)ひて行く間に、夜前(やぜん)、「鐘の御崎」にして、繼母の、若君を抱きて、船の高欄(かうらん)を打ち越して、取□□す樣にして、海に落とし入れしかば、其れを、甲の上に受け取りて、『御船に送(おく)れじ。』と搔(か)き參りつるなり。今、行く末も、此の繼母に打ち解け給ふ事、無かれ。」

と云ひて、海に頸を引き入れつ、と、見て――

夢、覺めぬ。

 其の後(のち)、思ひ出すに、一と年、住吉に參りたりしに、「大渡(おほわたり)」[やぶちゃん注:不詳。]と云ふ所にして、鵜飼、有りて、船に乘りて來たるを見れば、大(おほ)きなる龜一つ、面(おもて)を指し出でて、我れに面を見合はせたりしかば、極めて糸惜(いとほ)しく思へて、衣を脫ぎて、鵜飼に與へて、其の龜を買ひ取りて、海に放つ事、有りき。今ぞ、思ひ出でたる。

『然(さ)は、其の龜なりけり。』

と思ふに、極めて憐れなり。繼母の、怪しく、樣惡(さまあし)く、泣き迷ひつる、思ひ合はされて、極めて惡(にく)し。

 其の後(のち)、兒をば、乳母(めのと)を具して、我が船に、乘せ、移しつ。

 鎭西に着きても、心に懸りて後(うしろ)めたく思(おぼ)えければ、別の所に、兒をば、住ましめて、常に行きつつぞ、見ける。

 繼母、其の氣色(けしき)を見て、

『心得たるなりけり。』[やぶちゃん注:「感づかれてしまったのだわ。」。]

と思ひて、何(いか)にも、云ふ事、無かりけり。

 帥、任、畢(をは)りて、京に返り上りて、此の兒をば、法師に成しつ。

 名をば、「如無(によむ)」と付けたり。既に[やぶちゃん注:一度は。]失(しつ)たりし子なれば、「無きが如し」と付けたるなりけり。

 山階寺(やましなでら)の僧として、後には宇多の院[やぶちゃん注:宇多天皇。在位は仁和三(八八七)年~寛平(八九七)年)。]に仕へて、僧都(そうづ)まで成り上(のぼ)りてぞ、有りける。

 祖(おや)の中納言、失せにければ、繼母、子、無くして、此の繼子の僧都にぞ、養はれて失せにける。事に觸れて、何(いか)に恥かしく思ひ出だしけむ。

 彼(か)の龜、恩を報ずるにしも非ず、人の命を助け、夢見せなどしけるは、糸(いと)只者(ただもの)には非ず。

『佛・菩薩の化身などにて、有けるにや。』

とぞ思ゆる。

 此の山陰の中納言は、攝津の國に總持寺と云ふ寺、造りたる人なり、となむ語り傳へたるとや。

   *]

西原未達「新御伽婢子」 夜陰人道

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     夜陰人道(やいんの《にふだう》)

 羽刕最上北寒河江庄(きたさがえの《しやう》)谷地(やち)といふ所に、八幡の社(やしろ)あり。圓福寺城林坊(じやうりんばう)とて、社僧と別當とあり。此二宇の間に、幅五間、長さ、六、七間斗(ばかり)の際目(さいめ)の堀あり。戢々《しゆうしゆう》たる水蓮、自《おのづから》高く、鯉魚群龜(りぎよぐんき)の、水に遊(あそぶ)、誠(まことに)旧池(きうち/ふるきいけ)のさまなり。

[やぶちゃん注:「羽刕最上北寒河江庄谷地」現在の山形県西村山郡河北町(かほくちょう)谷地(やち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「八幡の社」現在の谷地八幡宮

「圓福寺城林坊」ロイヤル麦茶氏のブログ「御朱印の日々」の「谷地八幡宮(山形県西村山郡河北町)」に江戸時代、『三度にわたり』、『大火で社殿等が焼失しておりますが、残存する文献および相伝によりますと、「人皇七十二代堀川院の寛治五年」(一〇九一)、『奥州清原氏平定を果たした源義家が神恩に感謝して白鳥村(現・村山市白鳥)に石清水八幡を勧請して祈願所にした」と伝えられております』。『天正年間』(一五七三年~一五九二年)『に谷地城主・白鳥十郎長久が築城の際、白鳥村より円福寺と共に現在の地に遷し、鎮守社としました。明治元年』(一八六八)『までは別当職円福寺』(☜)『をはじめ、円徒寺六寺坊により真言宗をもって奉仕されておりました』とある。谷内八幡宮の南西九キロ強離れたここに真言宗円福寺があるが、これか。さらに、谷内八幡宮の東直近には曹洞宗定林寺という寺もある。

「五間」約九メートル。

「六、七間」約十一~十三メートル弱。]

 或夜、風(はえ)、一とをり[やぶちゃん注:ママ。]、雨、そぼふりて、月のさやけくもなきに、城林坊の同宿、秀達といふ、聊(いさゝか)、用の事ありければ、緣に出《いで》、何となく、堀のかたを見やれば、隣(となり)の岸より、我方《わがかた》の岸へ、黑毛の生ひたる足を、打《うち》またげたる者、あり。

 


Yainnoniudau

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

『はつ。』

と思ひ、あふのきて見れば、寺の軒(のき)に、大の法師の、頸、三つ、かなへに双(なら)び、秀達を見て、此頸、一度に飛(とび)おるゝこと、蝶(てふ)のごとくなるに、走るとも轉(まろぶ)ともなく、戶の内に逃(にげ)歸りぬ。

[やぶちゃん注:「風(はえ)」「西村本小説全集 上巻」では、この読みを『はん』と判読しているが、意味も不明で、従えない。これは、西日本でよく用いられる南風の呼び名で、夏の南東季節風の地方名である「はえ」と判読した。ロケーションは東北であるが、作者は京の人であるから、これを用いても何ら違和感はないのである。

 余(あまり)の怖《おそろし》さに、

『若(もし)、此事を人に語らば、いかなる怨(あだ)をやなさん。』

と、あへて、いふ事、なし。

 其夜より、面影にたちて、稍(やゝ)煩(わづらひ)けり。

 此後、新發意(しんぼち)と、喝食(かつしき)と、つれだちて、緣に出《いで》たる夜、又、かくのごとし。

[やぶちゃん注:「新發意」僧となって間もない者。

「喝食」本来は、禅寺で諸僧に食事を知らせて食事の種類や進め方を告げること。また、その職名や、その役目をした有髪の少年を指すが、後に広く寺院の稚児(ちご)役を指すようになった。]

 二人の者、是を見るより、忽(たちまち)、死に入《いり》て、音、せず。

 誰(たれ)知るものゝなかりしを、かの同宿、此ものどもの出《いで》たるを、危(あやうく)思ひて、卒度(そつと)、覗居(のぞきゐ)しが、はたして此躰(てい)也。

 去(され)ども、独(ひとり)立出《たちいいで》て、たすけ起《おこす》べき氣力なく、住僧・下部、是彼(《これ》かれ)、をこして[やぶちゃん注:ママ。]、此事を告(つげ)て、漸(やうやう)、内にいだき入れ、さまざま、藥をふくめけるに、喝食は生出(いきいで)、小法師は、再(ふたゝび)、蘇生せず。

 此時に、秀達、こはごは[やぶちゃん注:「恐々(こはごは)」。]、有《あり》し次第を語りけるにぞ、各《おのおの》、初めて、驚(おどろき)ける。

 是より、夜になれば、此緣さきに出(いづ)る人、なし。

 いかなるものゝ所爲(しよゐ)にや、不ㇾ知(しらず)。

西原未達「新御伽婢子」 兩妻夫割

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     兩妻夫割(《りやう》さいをつとをさく)

 五条通むろ町のほとりに、古へ、俊成卿(しゆんぜいきやう)の「玉つしま」を勸請し給ひし地あり。今は、其かたち斗《ばかり》殘りて、人家の後(うしろ)にあり。号(なづけ)て新玉津島町といふ。

[やぶちゃん注:「五条通むろ町」現在のこの附近(グーグル・マップ・データ)。藤原野俊成の屋敷はここから、北の烏丸(からすま)の間にあったとされる。

「玉つしま」文治二(一一八六)年、後鳥羽天皇の勅命によって俊成が自邸内に和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている歌道の神「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」を勧請したのが濫觴。勧請された旧地は明らかでないが、現在は旧地の近いと推定される京都府京都市下京区玉津島町に「新玉津島神社」がある。]

 此所に武右衞門とかやいふ男、江戶に通(かよふ)事、一年を八分にして、二分ならでは、京に住(すま)ず。子、ひとり、持てり。

 此婦(ふ)、夫(をつと)にいふやう、

「常の人の契りには、夫となり、妻と成りては、一時片時(《いつ》ときへんし)の程だにも、はなるゝ隙を悲しみ、待わび、ゆきがてに、思ひなげくならひなるを、いかなりし中《なか》なれば、十とせ契りても、三とせにだに、及ばず。君、東へおもむき給へば、半分、道を送りて、又、半分、道に出向ふと、夢にうつゝに思ふぞや。古鄕(こきやう)を思ひ出《いで》給はゞ、必(かならず)、早く歸京し給へ。」

など、打恨(《うち》うらみ)たるさまに、しみじみとかたるに、男、いと能(よく)事請(《こと》うけ)して、亦、東に下りぬ。

 かくて、江戶に着(つく)に、爰にも馴染(なじむ)女房、在《あり》て、子、ひとり、持てり。

 此女に洵(くどき)し昔、京に定(さだ)まる妻ありといふ事を、深く密(かく)し、

「寡住(やもめずみ)なる我なれば、終《つひ》には、江戶に引越(ひきこし)て、必、二人、住(すむ)べき。」

と戲(たはぶ)れそめし中《なか》なりし。

 然るに、此女、武右衞門に託(かこち)て、

「我殿(わどの)は、都にて、我が身ごとき女をすえて、都は花と愛し、東の我は、えびすなどゝ呼(よぶ)とかや。去(さる)人の知(しら)せしぞや。昔、かはせし誓ひも、あり。殊更に、ひとり過《すぐ》しほどこそ、かやうに幼なきものさへ侍れば、最早、登(のぼり)を止(やめ)給へ。放(はなち)は、やらじ。」

と攜(すがりし)し氣色(けしき)、前々(まへまへ)見しに、事かはり、偏(ひとへ)に、鬼面のごとくなれば、男、甚(はなはだ)怖《おそろし》く、日比《ひごろ》の思ひも絕果(たえはて)けれど、何となく打諾(《うち》うなづき)、

「我も左(さ)こそ思へど、浮世の中の、事繁(ことしげ)く、要用(よう《よう》)盡る期(ご)もなければ、今迄、爰にとゞまらず、『京に思ふものあり。』とは、若(もし)は、そのかたの疑(うたがひ)か、若は、世の人のいひなしなるべし。さほどに恨(うらみ)思ひ給はゞ、今一《いまひと》のぼりを限りにて、万(よろづ)繕(つくろひ)て下るべし。必(かならず)。」

と、いひ捨(すて)、とかくに、袖を引《ひき》はなし、逸足(いしあし)はやく、逃(にげ)のぼる。

[やぶちゃん注:「託(かこち)て」「託つ」は「嘆いて言う・愚痴を言う・怨んで言う」の意。ここは最早、最大最悪の最後の意。

「そのかたの疑か」「その方(ほう)」(対峙している江戸妻)「が疑心暗鬼の妄想を致したものか」。

「いひなし」「言ひ做し」。事実でないことを事実のように言うこと。]

 みつけの宿(しゆく)迄、來《きた》るに、跡より、彼(かの)女子《をんなご》を、前にいだきながら、大聲たてゝ、追懸(《おつ》かけ)、

「さるにても、御身、きよくもなや、心に、我を疎(うとみ)はて、口(くち)によろづの僞(ひとだのめ)、いづち、放(はな)してやるべきぞ。」

と、飛鳥(ひてう)のごとく、早(はや)かりけり。

[やぶちゃん注:「みつけの宿」見附宿。東海道五十三次第二十八番目の宿場で(東海道のほぼ中間点)、現在の天竜川左岸。静岡県磐田市見付の中心部に相当する。

「僞(ひとだのめ)」「人賴め」。形容動詞「人頼めなり」(「人に頼もしく思わせる」の意)の名詞形。この「ひとだのめなり」は、和歌などでは、「実際は期待に反して頼りにならない」ことに言うのに用いられることが多く、ここはそれを究極化して「偽り」の意に転じたもの。

「いづち、放(はな)してやるべきぞ。」反語。「いづち」は「何方・何處」で、「どこだろうが、逃がしてやるものかッツ!」の意。この辺りは、「道成寺」の娘の変容辺りが作者の念頭にあるように感ぜられる(私はサイト内に「――道 成 寺 鐘 中――Doujyou-ji Chronicl」の独立ページを作っている程度には「道成寺」フリークである。]

 男、悶絕《もだえ》て逃(にぐ)れども、いつしか、女、追《おつ》つきて、右の腕《かひな》に攫(つかみ)つく。

 かゝる所に、今迄ありとも覺えぬ、都の妻、忽然と出來《いできた》り、左の腕に取《とり》つき、嗔(いか)れる眼(まなこ)に、東の女を、

「はた」

と白眼(にらみ)、

「二世《にせ》を兼たる我妻(《わが》つま)を、年來(ねんらい)、犯しける妬(ねたま)しさよ。恨(うらみ)、近きに報(むくふ)べし。」

と、聲の、地にひゞく。

[やぶちゃん注:「二世」民俗社会では古く平安時代より、愛し合っている者は、三世(さんぜ:輪廻に於いて生まれ変わりを三度繰り返すこと)に亙って結ばれるともされた。或いは現世の夫婦を数えずに、前世の二つを数えたものかも知れぬ。

「我妻」この「妻」は「夫」の意。

「近きに」ここは「今すぐに」の意でとっておく。]

 東(あづま)の女、いきまきて、

「己、いづちの何者にて、其虛言をかまふるぞ。いやいや、早く心得たり。夫が我をうとみ果て、此女に、いはするよな。よしよし、一たび、取付(とりつき)て、爭(いかで)か、爰を放さん。」

と、腕を持《もつ》て引《ひつ》たつる。

 男、引《ひき》はなさんと、悶絕《もだえ》ども、金剛力士のごとくにて、不ㇾ叶(かなはず)。

 京の女も、こらへず、

「都のかたへ。」

と諍(あらそ)ひ引《ひく》。

 其足音、大山《おほやま》も崩れて地に入《いる》かと、あやしく、互(たがひ)に、嗔(いかり)、罵(のゝしる)聲、譊々《どうどう》として喧(かまびすし)し。

[やぶちゃん注:「譊々」底本は上の一字に「しやう」と振るが、採らない。「譊」は漢音「ドウ」、呉音「ニヨウ」で、「争そう」の意。]

 

Ryousaiottowosaku

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここだが、絵草紙は子どもが悪戯をすることが多く、そちらでは、両婦の鬼面が擦り消されてしまっている。]

 

 次第に、つよく引《ひき》けるほどに、男、ふたつに引割(《ひき》さ)けるにぞ、おんな、東西へ別れ行《ゆく》と見えしが、かきけちて、失(うせ)ぬ。

 京の女の、

「夢うつゝに、半分(はんぶん)、道を行(ゆく)。」

と、いひしが、はたして、爰に、まのあたり來りけるこそ、つみ、深けれ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、ある男、妻に、心ざし、うすくなり行《ゆき》ければ、妾《めかけ》といふものを置《おき》て、わりなく、かたらひけるに、此妻、さらにうらみたるけしきもなく、日かずふるまゝ、秋の夜のながきに、いとゞねられもせず、ともしび、かゝげがちにゐる、折しも、しかの音《こゑ》の聞えければ、

  我もしかなきてぞ人にこひられし今こそよそに聲はきけども

と、すさみけるを、男、はづかしくて、妾を、をい[やぶちゃん注:ママ。]出し、昔に、いや、まさりて、契りける、とぞ。かゝる貞なる心こそ、なからめ。女のはかなき心から、かく、おそろしく、あやしきわざをなしけり。「詩經」には「螽蟖(《しゆう》し/いなご)」の篇を作りて、物ねたみを、いましめられし女たらんもの、つたえても、つゝしみ、おそるべき事にぞ。

[やぶちゃん注:評言の頭に引かれてある話は、「今昔物語集」の巻第三十の「住丹波國者妻讀和歌語第十二(丹波國に住む者、妻(め)の和歌を讀む語(こと)第十二)」である。以下に示す。

   *

 今は昔、丹波の國□□の郡(こほり)に住む者あり。田舍人(ゐなかびと)なれども、心に情(なさけ)有る者也けり。

 其れが、妻(め)を、二人、持ちて、家を並べてなむ、住みける。

 本(もと)の妻は、其の國の人にてなむ有りける。

 其れをば、靜かに思ひ[やぶちゃん注:まことに我慢出来ないように感じ。]、今の妻は、京より迎へたる者にてなむ有ける。其れをば、思ひ增(ま)したる樣也ければ、本の妻、

『心踈(こころう)し。』

ろ思ひてぞ過(す)ぐしける。

 而(しか)る間、秋、北方(きたのかた)に、山鄕(やまざと)にて有りければ、後(うしろ)の山の方(かた)に、糸(いと)哀れ氣(げ)なる音(こゑ)にて、鹿(しか)の鳴きければ、男(をとこ)、今の妻の家に居(ゐ)たりける時にて、妻に、

「此(こ)は何(いか)が聞き給ふか。」

と云ひければ、今の妻、

「煎物(いりもの)にても甘し、燒物にても美(うま)き奴(やつ)ぞかし。」

と云ひければ、男、心に違(たが)ひて、

『京の者なれば、此樣(かやう)の事をば、興ずらむ。』

とこそ思けるに、

『少し、心月無(こころづきな)し。』[やぶちゃん注:「ちょっと、興ざめしたな。」。]

と思ひて、只(ただ)[やぶちゃん注:「直ちに」の意か。]、本の妻の家に行きて、男、

「此の鳴きつる鹿の音(こゑ)は聞き給ひつや。」

と云ひければ、本の妻、此(かく)なむ云ひける、

  われもしかなきてぞきみにこひられしいまこそこゑをよそにのみきけ

と。

 男、此れを聞きて、

『極(いみ)じく、哀れ。』

と思ひて、今の妻の云ひつる事、思ひ合はされて、今の妻の志(こころざし)、失せにければ、京に送りてけり。然(さ)て、本の妻となむ、棲みける。

 思ふに、田舍人なれども、男も女の心を思ひ知て、此(かく)なむ、有りける。亦、女も、心ばへ、可咲(をかし)かりければ、此(かく)なむ、和歌をも讀ける、となむ語り傳へたるとや。

   *

「詩經」『「螽蟖(《しゆう》し/いなご)」の篇』「周南」の中の一篇「螽斯(しゆうし)」。キリギリスの声(ね)の賑やかなさまと、同種の繁殖力に、子孫の繁栄を喩えて言祝いだ歌。以下に示す。

   *

螽斯羽  詵詵兮

宜爾子孫 振振兮

螽斯羽  薨薨兮

宜爾子孫 繩繩兮

螽斯羽  揖揖兮

宜爾子孫 蟄蟄兮

 螽斯(しゆうし)の羽は 詵詵(しんしん)たり

 宜(うべ)なり 爾(なんぢ)の子孫は 振振たり

 螽斯の羽は 薨薨(こうこう)たり

 宜なり 爾の子孫は 繩繩(じやうじやう)たり

 螽斯の羽は  揖揖(しふしふ)たり

 宜なり 爾の子孫は 蟄蟄(しふしふ)たり

   *

訓読は恩師の故乾一夫先生の訓読に従った。「薨薨」は古注は「群衆するキリギリスの声」とするが、どうも納得は出来ない。現代語訳は『崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座』のこちらを参照されたい。]

2022/09/21

西原未達「新御伽婢子」 雨小坊主

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     雨小坊主(あめのこぼうず)

 都、八幡町(《はち》まん《ちやう》)といふ所に、新兵衞とかやいふ人、ある夜、雨しめやかに降(ぶり)て、風まぜなるに、小ぢやうちん、手づからして、夜半(よは)の比《ころ》、三条坊門(《さん》でうぼう《もん》)万里(まで)の小路(こう《ぢ》)を、西へ行《ゆく》に、六つか、七つ斗《ばかり》と覺しき小坊主、門の扉にそひて、雨だりに、そぼぬれ、すごすごと、たてるあり。

[やぶちゃん注:「都、八幡(まん)町」現在の京都府京都市中京区御所八幡町(ごしょはちまんちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)或いはその東の東八幡町辺りか(グーグル・マップ・データ)。

「三條坊門万里の小路」下京区万里小路町。前の八幡町の南直下一キロメートルほどの位置にある。]

 火を寄(よせ)て見るに、其さま、乞食やうの、いやしきものには非ず、いろ㛐娟(あでやか)に、手足の爪(つま)はづれ、淸ら也。衣裳、みぐるしからず。

[やぶちゃん注:「爪はづれ」「爪外れ」本来は「着物の褄のさばき方」であるが、転じて、「身のこなし」の意。]

『いかさま、げしうはあらぬ人の子なめり。』

と思ひ、

「いづく。いかなる人の子ぞ。」

と問ふに、こたへず。

 又、愁(うれへ)る㒵(かほ)もみえず。

 是彼(これかれ)、問定(とひ《さだめ》)て、

「送りもし、さもなくば、今宵は、我《わが》かたに伴ひて、寐(ね)させなん。」

と、いへど、尙、いらへず、萬里小路を、南にあゆむ。

『扨は。親のもとに行《ゆく》にこそ、雨、晴間なく、降(ふる)に傘をだに、着ず、哀(あはれ)。』

に思ひ、慈愛の心、甚しく、かさ、さしかけ、跡に付《つき》て行《ゆく》ほどに、四、五町[やぶちゃん注:四百三十七~五百四十五メートル強。]斗《ばかり》と覺えし道の眞中(まんなか)比《ごろ》にて、此小坊主、ふり歸るを見れば、顏の大きなること、よの常の人に、五双倍(《ご》さうばい)せり。

 三眼にして、鼻も、耳も、なきが、新兵衞を見て

「莞(につ)」

と、わらひ立《たつ》たり。

 見るに、身の毛、よだち、ひざ、ふるひ、目くるめきて、大地に、たふれたり。

 暫(しばし)して、自然(しぜん)と心づき、あたりを探見(さぐり《み》)るに、雨具、其儘、有《あり》て、身は、泥土(でいど)にまみれ、濡(ぬれ)しほれて、取所《とりどころ》なし。

[やぶちゃん注:「取所なし」「取(り)所」は、本来は「取り立てて言うだけの価値のある点」であるが、ここは「如何にも惨めな有様で、何とも言いようのないていたらくであった」というのである。]

 漸々(やう《やう》)、起《おき》あがり、菟角(とかく)する内に、空、しらじらしく、明渡(あけ《わた》)る。

『萬里の小路を南へ行《ゆく》。』

と思ひしが、夜明《よあけ》て、所を見れば三条の西、西院(さいゐん)とて、人を葬(ほうふ)るみちのべに、奄忽(あんこつ)して居(ゐ)たり。

「思へば、遠く、たぼらかされける哉《かな》。」

と、そこら、求(もとめ)て、駕籠(かご)にて、家に歸りしが、此夜より、煩ひて、四十日斗《ばかり》、起《おき》ず。

 され共、後(のち)は、別事なく、本復(ほんぶく)しぬ。

[やぶちゃん注:「西院」この附近サイト「京都ブログガイド」の『西院 読み方の由来は「賽の河原」』によれば、この辺りは平安時代には、京の都の民俗社会にあって、事実上の西の果てに相当した場所であったとし、嘗ては佐井川という川が流れており、そこに「賽の河原」があったとされ、当時は、この佐井川の辺りに、幼くして亡くなった子供の亡骸が遺棄されてあったともある。辺縁は、とかく、異界との接点でもあったのである。されば、この「雨の小坊主」が新兵衛を最後の連れて行ったのが、「西院」というのは、地獄の賽の河原で救われない子らの魂が、ここに向けさせ、回向を望んだものかも知れぬ。こんな話を読んでしまうと、最早。妖怪「雨降り小僧」の話など、しようと思っていたのが、しんみりしてしまって、やる気が亡くなった。妖怪「雨降小僧」は当該ウィキを読まれたい。なお、本篇はネットでは妖怪好きの偏愛する話のようで、現代語訳であるが、多くヒットする。それにしても、この程度の話を原話ではなく、現代語訳しなくては、読んでくれない世界とは、如何にも淋しい世となったものだ。近代以降、妖怪が消えていったのは、大多数が、しみじみとした古典世界で読むことを面倒臭がるようになった末世、真の末法の世界となったからに他ならないという感を、私は、強く感ずるのである。]

西原未達「新御伽婢子」 死後嫉妬

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

      死後嫉妬(しごのしつと)

 河刕に或人の妻、久しく、いたはりて、身まかりぬ。

 本願寺の門徒成《なり》ければ、時の御堂衆(《みだうしゆ》の一老、法敎坊を始(はじめ)、其外、あまたの僧衆を、都より請待(しやうだい)し、明晝《あくるひる》、野邊(のべ)に送らんと、元來、冨祐(ふ《いう》)の人なれば、葬礼の義式、他に異(こと)に、美をつくして經營す。

 其宵(よひ)、各《おのおの》、此家に泊り明かしぬ。

[やぶちゃん注:「法敎坊」不詳。]

 佛前に亡者をなをし[やぶちゃん注:ママ。「正しくおき直す」で「なほし」が正しい。]、其一間に、僧衆《そうしゆ》、各、寢(いね)たり。

 夜、いたう更入(ふけ《いり》)、閑(しづまつ)て、小雨(こさめ)、一《ひと》とをり[やぶちゃん注:ママ。]、風、そよめきて、物すごき比《ころ》、此棺郭(くわん《くわく》)、動(うごく)事、暫(しばし)して、亡者、忽(たちまち)、あらはれ出《いで》て、佛前の御(み)あかし、其外、其間(ま)の燈(ともしび)どもを、皆、吹(ふき)けちて、くらくなしぬ。

[やぶちゃん注:「棺郭」「棺」桶と、それをさらに外側から囲む「郭」、構造物や外側の容器部分を指す。ここは、棺桶そのままではなく、外側に別に設えた外装容器があったことを指す。言われてみると、以下の挿絵の棺桶は、内側に円状に組んだ棺桶板が見えるが、外側は、あくまで、つるんと、している。則ち、棺桶を、より大きな樽状の入れ物の中に入れて、蓋がしてあることが判然とする。]

 衆僧(しゆそう)、旅に疲(つかれ)、能(よく)寢入(ね《いり》)て、知らざりしを、同宿(どうじゆく)の僧、ひとり、始終を見居(ゐ)たれども、餘りの怖しさに、息をも、たてず、まして、聲をあぐる事、なし。

 かくて、晨明(あけがた)になる時、亭主、用の事ありて、箱の鎰(かぎ)を尋《たづね》ければ、從者共のいふ、

「其鎰は、召つかひの『りん』が帶に付《つけ》て、居(ゐ)侍り。」

とて、名を呼(よぶ)に、出《いで》ず。

[やぶちゃん注:「箱の鎰」金箱の鍵であろう。それを侍女が帯につけて持っているという設定自体が、既にして主人と、この女の関係が、家内に於いて、ただならぬものであったことが、臭ってくる仕掛けである。]

 ねやに入《いり》て、尋《たづね》ければ、頸(くび)は失せて、體(むくろ)斗(ばかり)殘る。

「こは、いかに。」

と驚き、騷ぎ、

「何ものゝ所爲(しよゐ)ぞ。」

と、取紛(とりまぎれ)たる中に、又、此事を、騷動す。

[やぶちゃん注:ここも主人自らが、侍女の部屋に入ること自体が、普通でない。番頭なりに起こしに行かせればよい。それをなにごともないかのように入るところ自体が、二人ができていることに他ならない。なお、図で、居間の脇に「りん」が寝ていることになっているが、これは挿絵上の節約のためで、ただ一幅の上下で鴨居で切って描いたに過ぎない。若い僧らの隣りに、襖一つ隔てただけで侍女が寝ること自体が、あり得ない。なお、さらに言えば、この挿絵は、本文に語られない、闇の中で行われた「りん」の首の引き抜いた後と、その生首を摑んで、してやったりと喜悦する亡き妻の凄まじいシーンをカップリングしたものだが、やはり、変則的な上下合成が、逆に、違和感を感じさせる。上部の雲形を半分に減らし、中央の鴨居を横水平ではなく、極少し斜めに渡せばよかったと私は思う]

 

Sigonosituto

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 爰に其宵、能(よく)したゝめたる棺郭の、繩、ちぎれ、蓋の、高くあきたるに、各《おのおの》、よりて、是を見れば、彼(かの)亡者、りんがくびを、引《ひき》ぬき、たぶさを、つかみ、指(さし)上《あげ》、嗔(いか)れる眼(まなこ)を、見ひらき、生(いけ)るがごとくして、死居《しにゐ》たりけるこそ、淺ましけれ。

 後々(のちのち)、此子細を聞(きく)に、亭主、此召つかひの「りん」に目をかけける、とて、日比《ひごろ》、恨(うらみ)、いきどをり[やぶちゃん注:ママ。]、おそろしき迄に、嫉妬が其思ひに煩(わづら)ひて、むなしく成りし。

 罪障、なを[やぶちゃん注:ママ。]殘(のこり)て、死後に恨《うらみ》を報(むくひ)けむ。怖しき事どもなり。

 此事、法敎坊、直(ぢき)の物がたりとて、京の檀主(だんしゆ)の、かたられ侍る。

[やぶちゃん注:これもつい先頃、当事者の一人に等しい偉い僧から、直談として聴いた出来立ての「噂話」という体裁をとっている。本書の著者西原一郎右衛門未達(みたつ)は京の書肆にして作家なわけであるから、所謂、「都市伝説」(urban legend)の際たる設定と言えるのである。]

西原未達「新御伽婢子」 夢害妻

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     夢害ㇾ妻(ゆめにつまをがいす)

 都(みやこの)片原(かたはら)に「絹布(きんぷ)の半衣裏(はんゑり)」といふ物を商買する男あり。

[やぶちゃん注:「絹布の半衣裏」 着物の下に着る下着である長襦袢(ながじゅばん)に付ける襟で、絹製のもの。

 或夜。ゆめ幻(うゝつ)ともなきに、枕に有《あり》し刄(やいば)をぬきて、我女房の傍(かたへに)臥(ふし)たるを、只、一太刀に切殺(きりころ)して、又、始《はじめ》のごとく、いねたり。

 明旦(みやうたん)、此事を、露(つゆ)覺えず、妻を起しけるに、いらへず。

 立《たち》よつて、見るに、切殺《きりころ》して有《あり》。

 

大きに驚(おどろき)、

『若《もし》、盜賊(とうぞくの)所爲(しよゐ)にや。』

と、立《たち》まはり、見めぐれども、戶の樞(くるゝ)、しとゞ落《おり》て、壁・板敷に怪しき道《すぢ》も、なし。

[やぶちゃん注:「樞」戸締まりのため、戸の桟から敷居に差し込む止め木。また、その仕掛け。

「道《すぢ》」私の当て訓。「(それらしい)跡」の意で選んだ。]

 氣を、おさめて[やぶちゃん注:ママ。]、つくづくと夜部(よべ)を思へば、誠にあやしく、などやらん、人と、猛き喧嘩したりと、夢見しにぞ。

[やぶちゃん注:「などやらん」何故だか判らないし、誰が相手だったかも判らぬ(人)。]

「扨は。現(うつゝ)に切《きり》たる成《なる》べし。」

と、あたりの人にも咄(はな)し、親類にもかたりて、恥(はぢ)かなしむ。

 此事、女房の親兄弟(《おや》はらから)、更に夢とせず、上《かみ》に訴へて、男は獄に押こめられけるが、何の意趣なく、誤(あやまつ)て討(うち)たるに糺明(きうめい)し後《のち》、囚(とらはれ)を、ゆるされけるが、直(すぐ)に發心(ほつしん)、修行の身となりぬ。不思議の惡緣より、善道には、入《いり》ける。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 「昔、去(さる)人、旅行の道にて、ある家を見れば、澁(さび)くちたる刀をぬきて、壇上(だんじやう)に崇(あがめ)、注連(しめ)、引《ひき》て、禮拜するあり。旅人、おもふ。

『いかさま、名劍なるが、奇瑞(きずい)などあるに依(よつ)て、かく、たうとむなるべし。』

と、立よつて、子細をとふ。亭主、答(こたへ)て、

「されば。無類の名作にて侍る。予、きのふ、ある所にて、大酒し、沈醉(ちんすい)の上に、覺えず、此刀をぬいて、人に切付《きりつけ》侍るに、しぶ皮もむけず。其浦(うら)の人々、よりて、是非なく、我を寐(ね)させ侍るとぞ。けさ、醉《ゑひ》さめて、始(はじめ)て此事を聞《きく》にぞ、若(もし)、此刀、よく切れ侍らば、人、又、我《わが》命《いのち》をたすけじ。思へば、命の親なる故、かくあがめ申す。」

といひしは、おかしながら、ことはりなり。」

と、いはれし。さもあるべき事にや。

[やぶちゃん注:これは現代で言えば、本人に殆んどちゃんとした記憶がないのであるから、一種の重篤な夢遊病様状態に於いて、則ち――心神喪失状態で――錯誤により、妻を殺害したと認定されたケースとなる。但し、事実そうであっても、江戸時代、こうした裁きが行われた可能性はないと思われる。それを言い張れば、寧ろ、佯狂(ようきょう)として、不届き極まりないとして、より重罪に処されたものと思う。その点でも、奇談ではある。本邦で、夢遊病状態にあったと認定されて、人を殺して無罪となったケースは知らないが、昭和四一(一九六六)年、アルコールに耐性が弱い男性(当時三十四歳)が、酩酊し、上司にガソリン様の液体をかけて殺害しようとしたが、未遂に終り、傷害を与えたが、別に、たまたまその場に居合わせた被告人の妻(同前二十七歳)も、その液体を浴び、それに被告人がライターの火などを以つて引火させ、翌日、妻を全身火傷で死亡させた事件があり、この裁判は精神鑑定(酒精酩酊試験を含む)の結果、裁判所によって『「急性酒精中毒(=酩酊)」により「一過性の精神障害の程度が極めて重篤なため、本件行為当時被告人は是非善惡を弁別する能力もしくはそれに従って行動する能力が全く欠如していたものと認め」、無罪の言い渡しを行った』、則ち、現在の「心神喪失」によって無罪とされた事件を知っている(以上の引用は所持する一九七九年みすず書房刊「日本の精神鑑定」の「愛妻焼殺事件」(秋元波留夫・萩原泉執筆担当分)に拠る)。また、十数年前に女性が男性を車で轢き殺したが、その女性被告人は解離性同一性障害が認定され、轢殺した際は別人格であったとして心神喪失で無罪と裁判所が言い渡した判例があったと記憶している(その後に控訴審などがどうなったかは不明)。]

西原未達「新御伽婢子」  / 則身毒蛇

 

[やぶちゃん注: 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

新御伽卷三

     則身毒蛇(そくしんのどくじや)

 無下に近き比《ころ》、肥前の辛津(からつ)邊に、或人の女房、五十にちかき有り。

[やぶちゃん注:「無下に近き比」ごく直近の出来事。あり得たような「噂話」の時制の必要条件である。

「肥前の辛津」現在の佐賀県唐津市(グーグル・マップ・データ)。]

 家(いへ)、時めきて、田園多く、子共、五人、持てり。

 女《むすめ》は外に嫁し、男、別に屋《や》作りて住(すめ)り。

 天和二年の冬、或夜、女《をんな》の夢に、若く、うつくしき女の、此わたりに見馴ぬが、枕もとにかしこまりて、此家《いへ》あるじの、前生(ぜんじやう)より始(はじめ)て、身の終(をはり)迄を、つらつら、語る事、ひとへに書(かき)たる物を、よむごとく、すみやかにして、

「必(かならず)、其月日、來り給へ。」

と言捨(いひすて)、歸ると思へば、正(まさ)しく、聲、耳に殘り、姿、幻術士(まぼろし[やぶちゃん注:三字への読み。])に見ゆ時、夢、覺(さめ)たり。

 甚(はなはだ)醜《おそろし》くて、一身、汗にひたる事、浴(よく/ゆあび)するがごとし。

 されども、夫にも、子にも、かたらず。

『夢は、五臟の虛(きよ)よりなすなれば、はかなく、跡なき事のみにて、誠、すくなし。何の異(こと)なる事、あらん。』

と、日數(《ひ》かず)をふるほどに、其後、家内に、人なく、女房、独(ひとり)、茶なんど、たうびて居(ゐ)る晝の最中(もなか)、紛《まぎらふべくもなき幻(うつゝ)の女、來りて、いふ、

「有《あり》し夜《よ》、枕によりて、こまごま、語り聞《きか》せし事を、大かたの僞(いつはり)と思ひたどり給ふこそ、淺ましけれ。必、其日、其身ながら、生(しやう)をかへんなんぞ。早く、夫(をつと)にもかたり、子共にも名殘(なごり)を惜(をし)み給はぬ、愚(おろか)なる人の、心かな。」

といふにぞ、あるじの女、

「はつ」

と思ひ、

「扨は。正夢といふ物なめり。去(さる)にても、御身、いかなる人なれば、かく念比(ねんごろ)に、我が過去・未來をしめし給ふ。過(すぎ)し夜の夢も、粗(ほゞ)覺え侍れど、なを[やぶちゃん注:ママ。]、此うつゝの時、きかさせ給へ。」

と。

「其事よ。我は溫泉(うんぜん)の麓の池に、數千歲(すせんさい)を經(ふ)る、大蛇なり。來(きた)る何日(いくか)に、三毒の惡苦(あくく)を請終(うけをは)りて雲上(うんじやう)にうかむ。此跡の池に、主(ぬし)を見定めて、其器(き)にあたりたるを、我が世繼(よつぎ)とする也。そこの果報を考(かんがう[やぶちゃん注:ママ。])るに、毒蛇の種姓(すじやう)、のがるゝ事、なし。よつて、爰(こゝ)をゆづる也。知せずとも、あらば、有《あり》なん事ながら、流石(さすが)、自(みづから)が一跡(《いつ》せき)を參らする往昔(わうじやく)の因(ちなみ)あるによつて、情(なさけ)に、かくは、告(つげ)侍る。相《あひ》かまへて、疑(うたがひ)を殘し給ふな。又、世の人に習ひ迷ひて、巫女(ぶによ)・祝(はふり)の祈念なんどに轉(てん)じかふる事も、更に、あたはず。」

と語(かたり)、かきけちて、失(うせ)ぬ。

[やぶちゃん注:「溫泉の麓の池」底本の「溫泉」の読みは「うんせん」。しかし、「うんせん」という特異な読みと、「麓」と言っていること、後で唐津から、その麓の池までの距離を「南十六里」(六十二・八三キロメートル)とすることを総合すると、これは現在の雲仙岳と断定出来る。そもそも雲仙岳の峰の一つである普賢岳一帯は近代に至るまで、「溫泉岳」と呼んでいた事実があるからである。「今昔マップ」の戦前の地図を見られたいが、更に、その地図を少し南西に移動させると、「温泉(うんぜん)」の地名が確認され、その東直近に「矢岳」というピークがあるが、そこから北西に降った標高八百三十一メートル位置に国土地理院図で「温泉(うんぜん)岳」とあるのである。その東の麓に「空池」という池があり、ここが、ここでいう「池」なのではないかと推定する。現在、大きな「鴛鴦ノ池」があるが、これは明治期には形成されていないからである。

 猶、此事につけて、問(と)はましき事ども、多かりしを、いひ出《いで》んとするに、失(うせ)ければ、惘然(ばうぜん)と、我が身を打《うち》まもり、

「情(なさけ)なき過世(すぐせ)かな。」

と、胸、打《うち》さはぎ、おそろしく、恥かしながら、亭主の歸りければ、

「かく。」

と語りて、淚をながし、子どもも呼寄(よびよせ)、生(いき)ながら別れん事を語り、泣(なく)。

 かくて、二日斗《ばかり》の後、座敷に、ひとり、晝寢し、襲(おそ)はれて、喚(うめく)事、すさまじ。

 人々、次の間に聞《きき》て、行《ゆき》て見るに、姿は、もとの姿ながら、大きなる事、ふしだけ、壱丈もやあらん、長き黑髮の、くねり動(うごく)事、浮藻(うきも)の波にさはぐがごとく、其一間(《ひと》ま)の熱さ、恰(あたか)も、燒(たき)たてたる浴室にひとし。

[やぶちゃん注:「ふしだけ」「臥し長(だけ)」で蹲ったその体高のことか。大蛇に化す以上はそれくらいのことは如何にも腑に落ちる。]

 皆、傍(かたはら)による事を恐怖《おそれ》て、敷居のこなたより、呼起(よびおこ)しければ、漸(やうやく)に起《おき》けるが、汗の滴るさま、空(そら)にしられぬ白雨(ゆふだち)なり。

 面色(めんしよく)、赤く、ため息、苦しげに、淚の下より、人々に向つて、いふ、

「今、將(はた)、有《あり》し日の女、枕に來り、むつましげに、万(よろづ)の物がたりし侍るほどに、則《すなはち》、我が身、蛇體(じやたい)と成《なり》て、是《これ》にむかひ、行さき、行末の、有《ある》べきうき身の、住所(すみどころ)の事など、問ひ習ふに、日每(《ひ》ごと)に、三度(ど)づゝ、熱湯を吞(のむ)といふ事を聞(きく)に及(およん)で、一身(《いつ》しん)、猛火(みやう《くわ》)の中にあるがごとし。」

 其内に、たすけ起されたれども、猶、苦しさの增りて、

「あら、あつや、たえがたや、」

と腦亂(なうらん)[やぶちゃん注:「腦」はママ。]する事、目もあてられず。

 漸(やうやう)、本心を失ひて、譫語(そぞろごと)、口《く》どく、手足を、たゆとふ事、水中を漂泊(へうはく/たゞよふ)するごとし。

 おもひなすに、誠に猛蛇(まうじや)のうごくに、似たり。

 水を好(このみ)て吞(のみ)けるが、後には、水の味(あぢは)ひをえらびて、

「是も、氣に入《いら》ず、かれも、あつさを消(け)さず。」

と嗔(いかる)。

 人々、もてあつかひ兼(かね)るに、自(みづから)敎へて、

「是より、南、溫泉(うんぜん)のふもとに、池、有(あり)。爰(こゝ)の水を汲(くま)せて、くれよ。」

と。

「それ也《なり》。」

と號(なづけ)て、近き池水(ちすい)を求(もとめ)、吞(のま)するに、用ひず。

「惡(にく)きものどもの、ふるまひや。我が久しく住(すめ)らん宿(やど)りなれば、兼て、風味(ふうみ)、克(よく)覺えぬ。疾(とく)、汲(くみ)よせて、我に、あたへよ。」

と、

「はた」

と邪睨(にらま[やぶちゃん注:弐字への読み。])へたる氣色(けしき)、白眼(はくがん/しろきまなこ)に、血をそゝぎ、見るより、毒氣(どくき)、備(そなは)れり。

 人、怖《おそれ》て、辛津より南拾六里をへたる溫泉《うんぜん》のふもと迄、人をして、汲《くみ》よせ、是をあたふるに、心よげに打笑《うちゑみ》、寒風に、肩、やせて、一荷(か)求《もとめ》し水を、只、四、五度(ど)に吞(のみ)ほして、猶、跡より、好みけるに、行程(《かう》てい)、遙(はるか)にして、良(やゝ)、隙《ひま》、多くかゝりければ、やるせなく、悶(もだへ)て、

「所詮、我、そこに至り、吞《のま》んには。」

と、

「むく」

と起《おき》て出《いで》て、行《ゆく》。

 辛津、溫泉(うんぜん)、同國ながら、程《ほど》隔たれば、每(いつ)、此女の行《ゆき》見《み》し習ひもなきに、案内もたのまず、其かたに走行(はしりゆく)。

 早卒(いちはやき)事、逸散(いつさん)の馬(むまの)ごとく、一門、打起《うちおこ》りて、跡をしたふに、追付《おひつく》べき力も、なし。

 

Sokusindokujya

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 彼(かの)池の汀(みぎは)に行着(《ゆき》つく)とみえしが、蒼々(さうさう)たる一天に、黑雲(こくうん)、俄(にはか)に重(かさな)つて、冥々(めいめい)たり。

 玉《たま》か礫(つぶて)かと怪しむ雨、うつすがごとく、魔風(まふう)、岑(みね)より動謠[やぶちゃん注:ママ。]し、蒼波(さう《は》)、岸を洗ふ。

 愧(おそろし)なんども、いふ限なし。

 此紛(まぎれ)に、女は、池に入《いり》けり。

 くらければ、みる人、なし。

 蓑笠(みのかさ)の助(たすけ)もなく、歸るに、びんなければ、木の下(もと)、岩の陰に、風雨を凌(しのぎ)て、二時《ふたとき》斗《ばかり》、過《すぐ》るほど、漸々(やうやう)、空、はれ、風、治(をさま)り、各《おのおの》、池にのぞみて、波の上を見渡たすに、二度(ふたゝび)、形、みえずなりぬ。

 日を經て、

「若(もし)、死骸(しがい)斗《ばかり》や、浮(うかぶ)。」

と、人を置《おき》て、守らせけれども、衣服だにみえずなりけるとぞ。

「かゝる事は、傳へても、きかず、正(まさ)しく見しにぞ、一身、縮(しゞまり)て、おそろしく、淺ましき事に覺え侍る。」

と、みし人、かたられ侍り。

[やぶちゃん注:「玉《たま》か礫(つぶて)かと怪しむ雨、うつすがごとく」「うつす」は「バケツから移すかのようにドバっと降る」の意ともとれなくはないが、思うに「す」は衍字で「打つがごとく」の方が躓かないと思う。]

西原未達「新御伽婢子」 樹神罸 /「新御伽婢子」巻二~了

 

[やぶちゃん注: 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇に挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

     樹神罸(じゆじんのばつ)

 上京五辻(《かみぎやう》いつつじ)といふ所有り。其わたり、なべて、絹を織(おり)て業(わざ)とする所にて、つゞきたる軒(のき)、いらかをならべ、誠に賑(にぎ)めけるさまにぞ在《あり》ける。

[やぶちゃん注:「上京五辻」現在の京都府京都市上京区五辻町(いうつじちょう):グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在も西陣織関連の店舗を見る。]

 或絹やの背戶(せど)に、大きなる榎(え)の木あり。此古木に、

「主(ぬし)あり。」

とて、皆人(みな《ひと》)、恐怖(きやうふ/おそれおゝき)し、尊(たつと)びて、枝ひとつをも疎(おろそか)に折《をる》事なし。故に、枝葉(し《えふ》/ゑだは)欣々(きんきん)として、自(おのづから)茂り、黃昏(くわうこん/ひぐれ)に至るより、鳶・烏の、多《おほく》翅(つばさ)を休め、ねぐら求《もとむ》る便(たより)とぞなりける。

 然るに、家(や)の主《あるじ》、此木の茂り、陰、くらく、手もとの明(あか)からぬを、

「うるさし。」

とて、枝をとり、葉を隙(すか)しけるに、流石(さすが)、樹神も、家業(か《げふ》)の切(せつ)なるを、𪫧舊(あはれみ)給ひけるにや、させる快異(けい)もなく、祟(たゝり)もなし。

 家の主、是に侮(あなどり)、嘲哢(てうろう/あざけり)し、

「世の人のまよひより、神の、佛のと、用ひ、尊敬(あがむる)こそ可笑《をかし》けれ。年比《としごろ》、おそれおのゝきて、葉のひとつをも、とる事なきを、某(それがし)、枝葉(し《えふ》)を伐(きり)とるに、何のふしぎもあるにこそ。所詮、根もとを伐(きり)たふし、薪(たきゞ)にくだかんに、明(あか)りは、よく、さして、しかも、わり木は出來(いでき)ぬ。能(よき)事、二たつ、何か如ㇾ之(これにしかん)。」

と、頓而(やがて)、

「日傭(ひよう)といふ者を招(まねひ)て、きらせん。」

と、するに、人、をそれて、うけがふもの、なし。

「おかしの人の心や。將(いで)、某(それがし)切《きつ》て捨ん。」

と、斧を取《とり》て、二つ、三つ、つゞげ打《うち》に切付《きりつけ》しが、忽(たちまち)、眼(まなこ)くらみ、心神(こゝち)あしかりければ、

「明日こそ、切《きる》べけれ。」

とて、休(やすみ)けり。

 其夜(そのよ)、寐(ね)ころび、茶など吞(のみ)て居(ゐ)たる所へ、いづくよりともしらず、若き女の、賤(いや)しからぬが、足に疵《きず》をみせて、亭主が傍(そば)により、うらめしげに、㒵(かほ)をまもり、物いひ出《いで》ん口つきにて、淚にむせび、さめざめと泣(なく)。

 元來(もとより)、ふてきの男なれば、わきかへる茶を、ひとつ、女の㒵に、

「ざぶ」

と、かけ、起(おき)なをる[やぶちゃん注:ママ。]内に、女は、消(きえ)て失(うせ)ぬ。

 是より、男、狂亂して、おめきさけび、己(おのれ)と斧を待《も》て、足手(あして)に切付《きりつけ》、鑊子《くわくし》[やぶちゃん注:鍋。]をとりて、茶を浴(よく)し、

「荒(あら)、あつや、たえがたや、」

と惱乱(なうらん)する事、二時(《ふた》とき)[やぶちゃん注:四時間。]斗《ばかり》して、狂《くる》ひ死《じ》にしけり。

 彼(かの)木を、又の日、見けるに、梢の一茂り、枯凋(かれしぼみ)たり。

「實(げに)も、斧を持《も》て、木を切《きり》たれば、女の足に疵つき、女に茶を浴せければ、此木のいたゞき、枯痛(かれいたむ)事。木は、神にして、神、則(すなはち)、木なりけり。」

と、諸人《しよじん》、弥(いよいよ)、おそれをなす。

 此木、茂りて、今にありとぞ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 なべて、樹神といふもの、其住(すみ)なれたる木ならで、外にやどらぬ物にや。昔、尾州味岡(あじ《をか》)といふ所にて、如法(によ《ほふ》)の衣鉢(えはつ)をかけたる僧、おこなふに、大木(《たい》ぼく)を切《きり》とらんとす。半(なかば)、切(きり)のこしたる時、ある俗に告(つげ)て云《いはく》、

「わがすむ木を、切とり給ふ故、居《を》る所なく成《なり》侍る。此僧に佗言(わびごと)して給へ。」

と。此人、答《こたへ》て、

「何とて、直(ぢき)に佗(わび)侍らぬ。」

といへば、

「我は、是、鬼神(きしん)のたぐひにて、如法の僧に、直(ぢき)に得《え》ちかづき侍らず。」

と。時に、此人、僧に、

「角(かく)。」

といへば、木の殘りを、きらざりけるとぞ。

[やぶちゃん注:「尾州味岡」現在の愛知県のこの附近の旧地区名。

「如法の衣鉢をかけたる僧」師と仰ぐ僧から正しい仏法の奥義を伝えられている禅僧を指す。

「得《え》ちかづき侍らず」この「得」は不可能の呼応の副詞「え」に当て字したもの。]

2022/09/20

西原未達「新御伽婢子」 雁塚昔

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。]

 

     雁塚昔(がんづかのむかし)

 河内國或里に地下侍(ぢげ《ざむらひ》有《あり》て、常に朋友を集め、圍碁・双六(すごろく)に好(すき)、狩(かり)・漁(すなどり)を業(わざ)となん、しけり。

 或時、又、碁を始(はじめ)て、千手百手(ちてもゝて)にいどみ、戰(あらそふ)折節《をりふし》、窓のむかふ、半町斗《ばかり》[やぶちゃん注:五十四・五四メートル。]の田の畔(くろ)に、水底(すいてい)に書(しよ)をうつして、白雁(はくがん)、ふたつ、おりたつ。

[やぶちゃん注:「地下侍」ある土地に土着し、平常は農耕に従事している下級武士。

「書(しよ)をうつして」白い双体の影を書(しょ)さながらに浅い水底に写して。]

 

Ganduka

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 侍、早く見付《みつけ》、頓而(やがて)、床(とこ)なる弓、おつ取《とり》、雁僕(かりまた)[やぶちゃん注:「僕」はママ。「俣」の誤字であろう。]の矢をつがひ、引《ひき》しぼりて、放つ。

 あやまたず、雄のほそくびに、射つけたり。

 雌は、是に驚きて、跡なく飛去(とびさり)ぬ。

 走行(はしり《ゆき》)て見るに、首は射切(い《きり》)て、なく成《なり》しを、さのみも尋(たづね)ず、引提(ひつさげ)て歸り、まさしく料理(りやうり)て饗應(もてな)し、己(おのれも)食(しよく)しつくしけり。

 角(かく)て、その年、暮ゆきて、春、新(あらた)に來り、一花(け)ひらくる朝(あした)より、永日(ゑいじつ)の三十日(みそか)を、三たび、數ふるほどを思へば、こよなふのどけしや。

 更衣《ころもがへ》の夏にうつりて、時鳥(ほとゝぎす)の初聲(はつこゑ)をきくより、一夏(げ)の過(すぐ)る隙(ひま)、又、久し。

 漸(やうやく)にして、文月(ふづき)にかはり、八月になる。

 去年(こぞ)の此比《このころ》を思へば、

「誠に、向(むかひ)の田の畔(くろ)に、雁(かり)の渡りし事、あり。」

と、其かたを見やりければ。又、鳥、ひとつ、おり立《たち》ぬ。

「嗄(すは)、願(ねがふ)所よ。」

と、弓、取り、矢、つがひ、心せきて、切《きつ》て、はなつ。

 思ふ圖(づ)に射付(い《つい》て)、是をも、得たり。

 みれば、白雁の雌なるが、羽がひの下に、雄《をんどり》の首《くび》を懷(いだき)たり。

 侍、驚(おどろき)、淚をながし、日を指折(ゆび《をり》)て思へば、

「去年(こぞ)の今日、雄の首を射切(《い》きり)たるが、其雌(めとり)、雄《をんどり》)の別れを悲しみ、此首を、身に添(そへ)、永き月日の、けふ迄、猶、其事に浮岩(あこがれ)、此所《ここ》には落(おり)たるなるべし。是を惟(おもふ)に、人斗《ばかり》情(なさけ)しらぬものは非じ。或時は鹿笛(しゝ《ぶゑ》)にあやつりて、偕老(かいらう)の契りをさけ、子に身を替(かふ)る猿を害し、鴛鴛《をし》のふすまを、おどろかし、鳩(はと)の比翼を射とる事、罪障(ざいしやう)いかゞ、おそろしや。かばかり、目下(まのあたり)、哀(あはれ)を見て、身の罪、しらぬ、はかなさよ。」

と、慚愧の心、切(せつ)なれば、

「是なん、菩提の知識なるべし。」

と一所(《いつ》しよ)の所帶(しよたい)を沽却(こきやく)し、髮、切《きり》て、ながく、佛道修行の道人《だうにん》となりしが、かの田の畔(くろ)を買求(《かひ》もとめ)て、ひとつの塚を筑(きづ)き、卒都婆(そとば)を建(たて)、二鳥《にてう》の跡(あと)、ねん比《ごろ》に吊(とひ)けり。

 俗、呼(よん)で「雁塚(がんつか)」といふ。今に古跡をのこしぬ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、ある人、鴛鴦《をし》の雄《をんどり》をころしけるに、其夜の夢に、いとうつくしき女、枕に來つて、うらめしげに、此おとこ[やぶちゃん注:ママ。]を打見《うちみ》て、

 日くるればさそひし物をあそ沼のまこもがくれの独(ひとり)ねぞうき

といふ歌をよみて、さめざめと、なく、と、みて、夢、さめ、おどろき、ぼだいしんをおこし、出家せしとかや。かほどまで、まざまざしき事こそなからめ、つまを殺され、子をとられ、恨惑《うらみまど》ふ所の畜類、人よりも、猶、まさるなれば、いとひても、なすまじきは殺生にこそ。

[やぶちゃん注:「嗄(すは)」「嘎」(音「カツ」。擬音語。但し、鳥の声などに用いる)の誤記か。

「偕老(かいらう)の契りをさけ」この「さけ」は「さき」(「裂き」)の誤用であろう。

「ふすま」「衾」。閨(ねや)のそれ。睦み合うことの隠喩。

「是なん、菩提の知識なるべし。」の「知識」は「契機」の意。「この出来事こそが、己(おのれ)が正しく菩提心を発する機会であったのだ!」の意。

「沽却」売却すること。

「昔、ある人、鴛鴦《をし》の雄《をんどり》をころしけるに、……」ここに示された話(言うまでもなく、本篇の種元)は、少なくとも、私は小学校三年生の時、角川文庫の小泉八雲の「怪談・奇談」でしみじみと読んだものだ。私の「小泉八雲 をしどり (田部隆次訳) 附・原拠及び類話二種」を見られたい。そこで、原話・類話なども十全に総て示してある。因みに、私は、来日後の小泉八雲の全作品の翻訳(初版「小泉八雲全集」底本)を、既にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で、二〇二一年一月に全電子化注を終えている。

西原未達「新御伽婢子」 髮切虫

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。]

 

     髮切虫(かみきりむし)

 或家中の侍、煩《わづらふ》事ありて、老醫・鍼醫を日每(ひごと)に招(まねひ)て、君臣佐使(くんしんさし)の術を盡す。

[やぶちゃん注:「君臣佐使」「日本薬学会」公式サイト内の「薬学用語解説」のこちらに、『漢方処方は複数の構成生薬のすべてが同じ重要性をもっているわけではなく、中心となる重要生薬と、その作用を補助し』、『中心生薬が十分』に『薬効を発揮できるようにする生薬で構成されている。このような役割を君臣佐使(くんしんさし)といい、中心生薬を君薬、君薬の作用を補助し』て『強める生薬を臣薬、君臣薬の効能を調節する作用をもつ生薬を佐薬、君臣佐薬の補助的な役割を』成して『処方中の生薬の作用を調節したり、漢方薬を服用しやすくする生薬を使薬と呼ぶ』とある。]

 或朝(あした)、醫師の見舞けるに、未(いまだ)寢所を出《いで》ず。

「こなたへ。」

と請(しやう)ず。

 左右(さう)なく奧に入《いり》て、脈をうかゞひ見んとするに、此病人、一夜の内に法躰(ほつたい)したり。

 醫師、驚き、

「こは、何とて斯法躰し給ふ。御年《おんとし》も若《わか》し。上のゆるしも、早く出《いで》たる事よ。」

など、挨拶する。

 侍、肝を消し、手をあげて、頭(づ)を撫(なづ)るに、實(げ)に、うつくしく、剃(そり)こぼしたり。

「是は。夢にも覺えぬ事。何者の所爲(しよゐ/しわざ)ぞ。外《そと》より、人のなすには、あらじ。召つかふ者共の、遺恨ありて、斯《かく》、はからふなるべし。侍の寢(ね)をびれて、かゝる事を、不ㇾ知《しらず》と、人口(じんこう)遁(のが)るゝに、所なし。仡《きつ》と、僉義(せんぎ)せん。」

と嗔(いかり)けるにぞ、下部共、初而(はじめて)見て、驚きける。

[やぶちゃん注:「かゝる事を、不ㇾ知と、人口(じんこう)遁(のが)るゝに、所なし。」「このような許し難い屈辱的な行いを成しておいて、誰にも知られることないままに、人の噂と、その罪を逃れ得るなどということは、これ、決してありえぬ!」。]

 去れども、吟味の方便(てだて)もなく、惘然(ぼうぜん/あきれ)として居《をり》ける所に、其翌日、同じ家中の侍、壱人、中間《ちゆうげん》といふ男をつれて、町へ所用あつて、出《いで》ける。

 絹卷物(きぬまき《もの》)などやうのもの、見廻り行く。白晝(はくちう/ ひる)に、是も、同じく法躰して、屋敷に歸る。中間、後(うしろ)より見て、

「是は。」

といふに、主(ぬし)も知りぬ。

 是、又、猶、穿鑿すべき道なくて、暫(しばらく)、給仕をも、止(やめ)て居(ゐ)けるが、前の侍の法躰を聞《きき》てぞ、

「扨は。天魔の所行(しよぎやう)と思ひ居りけり。不ㇾ見ㇾ目(めに《みへ》ず)、耳に不ㇾ聞(きかず)、色もなく、音もなくて、かゝる事をなしける、不思義なる事にぞ有ける。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 其比《そのころ》、町人にも、此たぐひ、粗(ほゞ)有けるとかや。俗に「髮切むし」といふもの、飛行《ひぎやう》して、目に見えず。「黑髮を、くらふ。」といひ、匉訇(のゝしり)けり。

[やぶちゃん注:「匉訇(のゝしり)」「訇」は「罵(ののし)る」「匉」は「大きな声の形容」である。

 妖怪「髪切り」については、当該ウィキが博物誌的で一読に値する。]

西原未達「新御伽婢子」 水難毒虵

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。本篇は珍しく標題に読みがない。「水難毒虵」(すいなんどくじや)。「虵」は「蛇」の異体字。]

 

     水難毒虵

 萬治三年庚子(《かのえ》ね)五月の比《ころ》、霖雨(りんう/ながあめ)降(ふり)つゞき、大洪水して、國々、所々の田園を損亡(そんばう)し、民屋(みんおく)、爲ㇾ之(これがため)に、浪《なみ》に漂流(たゞよ)ひ、或は、親を失ひ、子に離れたる者、いくばくといふ數を不ㇾ知《しらず》。

[やぶちゃん注:「萬治三年庚子五月」一六六〇年。五月一日はグレゴリオ暦で六月八日。徳川家綱の治世。]

 都、賀茂川の流れに、ひとつ家、溺れて、夜中に流れ來たる。燈(ともしび)は挑(かゝげ)ながら、女子共のなきさけぶ事、恰(あたか)も蚊虻(ふんばう/かあぶ)のごとし。

 男は、大音を盡して、

「助(たすけ)給へ、淺ましや、家さへあるに、老たる親、いときなき子共迄、河水《かはみづ》のために溺死するぞや、悲しや、情なや、」

と呼(よばへ)ども、舟をも、馬も、のり入《いる》べきたよりなく、河伯・水神も賴《たよる》にいとまなければ、人、川岸(かはぎし)に立《たち》ながら、淚を添(そへ)

て、見送りけり。

 其外、柱・桁(けた)・梁(うつばり)の類、はなればなれに浮沈(うきしづみ)、牛馬犬猫(ぎうばけんべう/うしむまいぬねこ)の獸(いきもの)、逆浪(さかまくなみ)に打《うち》こまるゝに、助(たすかる)事、更に、なし。

 爰に河内國三固(《さん》が)村といふ所に、内介(ない《すけ》)と云《いふ》冨祐《ふいう》の人、田畑あまた持(もち)侍りしが、此洪水(おほみづ)に氣遣ひて、田地の砌(みぎり)に出《いで》て、木を橫たへ、靑竹を伏(ふせ)て、水除(みづよけ)の要害、嚴しくかこひ、

「さりとも、此かまへにては、水難にあはじ。」

と賴《たのみ》をかけて見居(《み》ゐ)たるに、降(ふり)つゞく。

 急雨《きふう》の水上(みなかみ)、日々に、浪、あれて、危《あやふき》事、いふ斗《ばかり》なし。

 時に、不思義の白浪、一かたまりあつて、水の面《おもて》より高く、逆浪(さかまく)事、貳丈余り、偏(ひとへ)に雪山(せつさん/ゆきの )のごとし。

 彼(かの)内介が、命かけておもひし上田(《じやう》でん)の眞中(まんなか)にて、此波、泥中(でいちう)に打《うち》こむ事、凡《およそ》、壱、貳町[やぶちゃん注:百九~二百十八メートル。]も有なんとみえて、窪成(くぼく《なり》)ける。

 間(ま)なく、跡より、せく水に、忽(たちまち)、田畠、池となる。

 内助[やぶちゃん注:ママ。]、見るに、

「心狂し、悲しや、」

といふ一聲して、其儘、池に飛入(とび《いり》》しが、形、ひとつの蛇身(じやしん)となり、首は浪に、みえ、かくれ、尾をもつて、岸をたたき、暫(しばし)のほど、漂泊(たゞよひ)しが、又、水底(みなそこ)に入《いり》ける。

 妻子、歎《なげき》て、此池に來り、「淚に袖を ほしかねて 今日の日も 命の内に」と、よみたりし。

 晚鐘(いりあひ)の比になる迄に、池の面を詠《なが》め居《を》る時に、内介、昔の形に、角(つの)、生《はえ》、いかれる兩のきば、釼(つるぎ)のごとく、池水(ちすい)に、顯然(あらはれ)見えければ、妻子、おそろしながら、嬉しくあれ。

「内介。」

といふ聲の、下より、暗然として、消失《きえうせ》ぬ。

 是より、此池、今にあつて、雨あらき朝(あした)、霧くらき夕《ゆふべ》、必《かならず》、内介が姿、蛇に半《なかば》はなりて、水上(すいしやう/みづのうへ)に顯はるゝを、所の人はみる事とぞ。

[やぶちゃん注:「河内國三固(《さん》が)村」言っておくと、底本では「固」の読みは、「か」であるが、現在の地名を探し、それと一致させるために、「が」とした。現在の愛知県豊田市三箇町(さんがちょう)か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

 以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、天臺の學匠肥後阿闇梨黃圓(わうゑん)、出離(しゆつり)の道を悟(さとり)かねて、五十七倶胝《くてい》六十百千歳を待《まち》て、弥勒慈尊の出世にあひ、成佛を得んに、「生としいける中に、㚑蛇(れいじや)斗《ばかり》、命長きは、なし。」と、遠州櫻井が池に身を沈め、千尋(ちひろ)の大蛇と成《なり》給ふ。法然上人は、「はかなき、あじやりの心にもあるかな。」との給ひしとぞ。此土民、わづかの泥土(でいど)をおしみて[やぶちゃん注:ママ。]、永く、畜生の穢體(きたい)にうつり、世々に至りて、待《まつ》事もなく、身をくるしめけむ、哀なる事どもなり。

[やぶちゃん注:「肥後阿闇梨黃圓」法然の師である天台僧皇圓(承保五(一〇七四)年?~嘉応元(一一六九)年)。諡号を肥後阿闍梨という。当該ウィキによれば、『熊本県玉名の出身で』、『王朝末期に』『日本最初の編年体の歴史書』「扶桑略記」を撰した人物として知られる。『弥勒菩薩が未来にこの世に出現して衆生を救うまで、自分が修行をして衆生を救おうと、静岡県桜ヶ池に龍身入定したと伝えられる。湖畔の池宮神社では秋の彼岸の中日に池の中に赤飯を奉納する「お櫃納め」の行事が営まれる。また』、『皇円を本尊として祀る熊本県玉名市の蓮華院誕生寺では、皇円大菩薩』、乃至、『皇円上人と尊称されて人々の信仰を集めている』。示寂は九十六とされる。『関白藤原道兼の玄孫(孫の孫)で、豊前守藤原重兼の子として肥後国玉名荘(現熊本県玉名市築地』(ついじ)『に生まれた。兄は少納言藤原資隆』、『母親は玉名の豪族大野氏の娘とも推測されるが』、『不明。幼くして比叡山に登り』、『椙生(すぎう)流の皇覚のもとで出家得度し』、『顕教を修め、さらに密教を成円に学び』、『二人の名前からそれぞれ一字を取り』、『皇円と称したとされる。比叡山の功徳院に住み、その広い学徳により肥後阿闍梨』『と尊称された。浄土宗の開祖である法然は、皇円の下で学んだが、その後』、『離れ』た。事績は鎌倉末期に編まれた法然に関する「拾遺古徳伝」や「法然上人絵伝」に『頼らざるを得ない』が、『それらによると』、嘉応元(一一六九)年六月十三日、『遠州桜ケ池に大蛇の身を受けて入定したとされる。平安末期に盛んとなった弥勒下生信仰』、所謂、『弥勒菩薩が釈迦入滅後』、五十六億七千万年後、『この世界に現われ』、『三度』、『説法をして』、『衆生を救済するという信仰のために、その時まで菩薩行をして衆生を救うという願いを立てたものと思われる。遠州桜ケ池は静岡県御前崎市浜岡に現存する直径約』二百メートル『余の堰き止め湖で、湖畔には瀬織津比詳命(せおりつひめのみこと)を祭神として祀る池宮神社』(ここ)『があり、桜ヶ池主神として皇円阿闍梨大龍神をも祀っている。約』十キロ『離れた応声教院』(おうしょうきょういん)『には、大蛇のウロコと称されるものが祀られている』とある。

「千尋」一尋は六尺であるから、一キロ百メートル。

「倶胝」仏語の数単位。「一倶胝」は一千万。「一億」とする説もある。]

西原未達「新御伽婢子」 後世美童

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。なお、標題の「後世」は「こうせい」と読んでいるものの、これは「ごぜ」で、遂に添うことの出来なかった、この二人を、せめても後世(ごぜ)で生まれ変わって結ばれるようにと、作者が添えたものででもあろうか。]

 

      後世美童(こうせいのびどう)

 或國主の小扈從(こごしやう)に「何某(なにがし)の菅(すげ)の丞《じやう》」といふあり。

 御城下に吉四郞とかやいふ、賣人《ばひにん》の子、彼《かの》扈從に訓初(なれそめ)て、人しれぬ兄弟(きやうだい)の約(やく)をなし、比翼、なを、あかず、連理、古しと、相機關(あひかたらふ)。

[やぶちゃん注:「小扈從(こごしやう)」「子小姓」に同じ。しばしば主君の若衆道の相手とされた。

「賣人」商人(あきんど)。]

 

Gosenobidou

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。左の用人と奴二人を引き連れている二本差しは若き国主で、彼らの後にいるのが、「菅の丞」、その後ろの城の御壕の傍に彳んでいるのが、吉四郎であろう。]

 

 去共《されども》、家中法度(はつと)の衆道(しゆ《だう》)なれば、白地(あからさま)には、あひ見る事なく、只、蜜々(みつみつ)[やぶちゃん注:ママ。]の戯(たはふれ)なり。增而(まして)、城中に行(ゆき)て、こととふ事、かたし。

 然るに、此菅の丞、衣更着(きさらぎ)の始《はじめ》より、心神(こゝち)、煩(わづらは)しく、絕《たえ》て吉四《きちし》に疎(うと)かりけり。

[やぶちゃん注:「衣更着(きさらぎ)」如月。二月。]

 吉四、斯(かく)と忍聞(ほのぎゝ)て、あるにもあらず、悶(もだゆれ)ども、爲方(せんかた)なくて、臥沈(ふししづみ)、思ひやりたる悲しさは、見る歎きより、つらかりけり。

 去程《さるほど》に、菅の丞、嵐の前の花鬘(はなかづら)、末の心のむすぼゝれ、ひとひ、ひとひに言甲斐(いふかひ)なく、ながらふべくも見えざりしが、終《つひ》に、其月の後の二日に、息絕(いきたえ)けり。

 吉四、此事を聞しより、罔然(ばうぜん)として、あきれ居る。

 照りもせず、曇もはてぬ。といひし朧(おぼろ)の月、庭の種(くさ)にやどりて、氣色(けしき)、物あはれなるに、吉四、ありし昔を思へば、親の諫(いさめ)、世訕(よのそしり)をつゝむにも、且(かつ)は、

「嬉しき君が爲と思ひしも、それさへ仇(あだ)に成《なり》ける。」

と、或は歎き、或は詢(くどひ)て、寢(いね)もやらず、やるかたなきまゝ、壁にむかひて、去《いに》し每(いつ)、逢見《あひみ》し數《かず》を、爪折(つま《をり》)て、夢とも幻(うつゝ)ともなく、眠居(ねふり《ゐ》)る。

 さる折しも、菅の丞、もとの質(すがた)を其まゝに、卒然として、座(ざ)したり。

 吉四、うれしく、

「是、抑(そも)、いかに、懷敷(なつかし)や、いつはりのなき世なりせば。」

と、いひし。

「今、我が身には入間川(いるまがは)、あはれに消しと聞えしは、人の言葉のあだなりし。こなたへ。」

とて、袂(たもと)を取《とり》て引《ひき》ければ、まさしく、ありし俤(おもかげ)の、雲となり、雨となり、いづくともなく絕果(たえはつ)る。

 されども、ひかえし袂は、ちぎれて、手にぞ、殘りける。

 不思義にも、悲しくて、其行方《ゆくへ》を求(もとむ)るに、二度(ふたゝび)、歸る姿、なし。

「よしや、惡(にく)きは命(いのち)也《なり》。おくれて每(いつ)を期(ごす)べき。惟(おもふ)に、生者必滅(しやうじやひつめつ)の粧(ならひ)、『論ㇾ命江頭不ㇾ繋船』〔命(めい)を論ずれば 江(え)の頭(ほとり)に繋がらざる〕と作りし風前の燈(ともしび)、猶、危《あやふ》し。今、ありとても、つゐに行《ゆく》、獨(ひとりの)黃泉(よみぢ)、覺束(おぼつか)なし、罪障(ざいしやう)の山、足をそばだて、生死(しやうじ)の海(うみ)、手を引《ひき》て越(こえ)なん。」

と獨言(ひとりごとし)て、ありし袂を、引よせ、

   身にあまるなみだの雨をおぼへとや

    戀しき人の袖を添ふらん

と書《かき》て、終《つひ》に自害し終りぬ。

 哀(あはれ)成《なり》し事共也。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 此事は、井崎新右衞門といふ人、此歌、書《かき》たる袂を見たるよし、かたられ侍る。

[やぶちゃん注:「入間川」ルビは「西村本小説全集 上巻」では、『いりまがは』となっている。しかしどうも、落ち着かない感じがして、底本の当該丁を拡大して見たところ、「入」の第二画の末に読みの二字目が掛かっているのだが、それは、その末部分で左に一回転していると私は判読した。とすれば、これは「利」の崩しの「り」ではなく、「留」の崩しであると断じ、「いるまがは」とした。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その6) / 人柱の話~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。本篇は長いので、分割する。特に以下は「追記」とするも、長い。「選集」に従い(そちらでは、第「五」章と第「六」章に分離されてある)、分割する。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

 一四六三年、獨逸ノガットの堰《せき》を直すに、乞食を大醉させて埋め、一八四三年同國ハルレに新橋を立てるに、人民、其下に小兒を生埋《いきうめ》せうと望んだ。丁抹《デンマーク》首都コッペンハーゲンの城壁、每《いつ》も崩れる故、椅子に無事の小兒を載せ、玩具、食品をやり、他意なく食ひ遊ぶを、左官、棟梁、十二人して、圓天井を、かぶせ、喧ましい奏樂紛れに、壁に築き込んでから、堅固と成つた。伊國のアルタ橋は繰返し落ちたから、其《その》、大工、棟梁の妻を、築き込んだ。其時、妻が詛《のろ》ふて、今に、其橋、花梗《くわかう》[やぶちゃん注:花軸から分かれて出て、その先端に花をつける小さな枝茎のこと。]の如く、動搖する。露國のスラヴェンスク、黑死病で大《おほい》に荒らされ、再建の節、賢人の訓《おし》へに隨ひ、一朝、日出前《ひのでまへ》に人を八方に使《つかは》して、一番に出逢ふ者を捕へると、小兒だつた。乃《すなは》ち、新砦の礎《いしずゑ》の下に生埋して、之をヂェチネツ(小兒城)と改稱した。露國の小農共は、每家《まいいへ》、ヌシあり、初めて其家を立てた祖先がなる處と信じ、由つて、新たに立つ家の主人、或は、最初に新立《しんりつ》の家に、步みを入れた者が、すぐ死す、と信ず。蓋し、古代よりの風として、初立《いふだち》の家には、其家族中の最も老いた者が一番に入るのだ。或る所では、家を立て始める時、斧を使ひ初める大工が、ある鳥、又は、獸の名を呼ぶ。すると、その畜生は速やかに死ぬといふ。其時、大工に自分の名を呼ばれたら、すぐ死なねばならぬから、小農共は、大工を非常に慇懃に扱つて己の名を呼ばれぬやう力《つと》める。ブルガリアでは、家を建てに掛《かか》るに、通掛《とほりかか》つた人の影を糸で測り、礎の下に、其糸を埋める。其人は、直ちに、死ぬそうだ。但し、人が通らねば、一番に來合《きあは》せた動物を測る。又、人の代りに鷄や羊などを殺し」て、其血を土臺に濺《そそ》ぐこともある。セルヴアでは、都市を建てるに、人、又は、人の影を、壁に築《つ》き込むに、非ざれば、成功せず、影を築き込まれた人は、必ず、速やかに死す、と信じた。昔し、其國王と二弟がスクタリ砦を立てた時、晝間、仕上げた工事を、夜分、鬼が壞して、已まず。因つて、相談して、三人の妃の内、一番に食事を工人に運び來る者を築き込もう、と定めた。王と次弟は、私《ひそか》に之を洩らしたので、其妃ども、病《やまひ》と稱して、來らず。末弟の妃は、一向知らずに來たのを、王と次弟が捕へて、人柱に立てた。此妃、乞ふて、壁に穴を殘し、每日、其兒を伴れ來らたらせて、其穴から乳を呑ませること、十二ケ月にして、死んだ。今に其壁より石灰を含んだ乳樣《ちちやう》の水が滴《したた》るを、婦女、詣で拜む(タイラーの原始人文篇、二板、一卷一〇四―五頁。一八七二年板、ラルストンの露國民謠、一二六―八頁)。

[やぶちゃん注:「露國のスラヴェンスク」スロヴャンスク(ウクライナ語:Слов'янськ)は現在のウクライナ東部の都市で、ドネツィク州内の行政的な中心都市。今まさに、おぞましいプーチンが不当なウクライナ侵攻の最大のターゲットとしている地域である。ここが「黑死病」(腺ペスト)の猖獗を受けたのは一三四七年である。

「ヂェチネツ(小兒城)」機械翻訳で「子どもの城」をロシア語で変換すると、“детский замок”で、音写すると、「ジヤェッキ・ザーモク」である。

「タイラーの原始人文篇、二板、一卷一〇四―五頁」複数回既出既注だが、再掲しておくと、イギリスの人類学者で「文化人類学の父」と呼ばれる、宗教の起源に関してアニミズムを提唱したエドワード・バーネット・タイラー(Edward Burnett Tylor 一八三二年~一九一七年)が一八七一年に発表した「原始文化:神話・哲学・宗教・芸術そして習慣の発展の研究」(Primitive Culture, researches into the Development of Mythology, Philosophy, Religion, Art and Custom )。原本当該部は「Internet archive」のここ

「一八七二年板、ラルストンの露國民謠、一二六―八頁」イギリスのロシア語学者ウィリアム・ラルストン・シェデン・ラルストン(William Ralston Shedden-Ralston 一八二八年〜一八八九年)の‘The songs of the Russian people, as illustrative of Slavonic mythology and Russian social life’ (「スラヴ神話とロシア社会の生活を象徴するロシア人の民謡」)。「Internet archive」のこちらから、原本当該部が視認出来る。]

 其からタイラーは、人柱の代りに獨逸で空棺を、丁抹《デンマーク》で羊や馬を生埋にし、希臘では礎を据えた後ち、一番に通り掛つた人は、年内に死ぬ、其禍《わざはひ》を他に移さんとて、左官が羊、鷄を、礎の上で殺す。獨逸の古話に、橋を崩さずに立てさせくれたら、渡り初《そ》める者をやらうと、鬼を欺き、橋、成つて、一番に鷄を渡らせたことを述べ、同國に家が新たに立つたら、先づ、猫か犬を入らしむるがよいといふ等の例を列《つら》ねある。

 日本にも甲子夜話五九に、「彥根侯の江戶邸は、本《も》と加藤淸正の邸で、其千疊敷の天井に乘物を釣り下げあり、人の開き見るを禁ず。或は云く、淸正、妻の屍を容れてあり。或は云ふ、此中に、妖怪、居《ゐ》て、時として、内より戶を開くをみるに、老婆の形なる者みゆ、と。數人の所話《はなすところ》、如是《かくのごとし》。」と。是は獨逸で人柱の代りに空棺《あきくわん》を埋めた如く、人屍《じんし》の代りに、葬式の乘物を釣下げて、千疊敷のヌシとしたので有るまいか。同書卅卷に、「世に云ふ、姬路の城中にオサカベと云ふ妖魅あり、城中に年久しく住めり、と。或は云ふ、天守櫓の上層に居て常に人の入るを嫌ふ。年に一度、其城主のみ、之に對面す。其餘は、人、懼れて、登らず。城主、對面する時、妖、其形を現はすに、老婆也、と云ひ傳ふ。(中略)姬路に一宿せし時、宿主《やどぬし》に問ふに、成程、城中に左樣の事も侍り、此所にてハッテンドウと申す。オサカベとは言《いは》ず。天守櫓の脇に、此祠ありて、其神に事《つか》ふる社僧あり、城主も尊仰せらる、と。」。老媼茶話に、加藤明成、猪苗代城代として堀部主膳を置く。寬永十七年極月、主膳、獨り座敷にあるに、禿《かむろ》、一人、現じ、汝、久しく在城すれど、今に此城主に謁せず、急ぎ、身を淨め、上下《かみしも》を著し、敬《つつし》んでお目見えすべし、といふ。主膳、此城主は、主人明成で、城代は予なり、外に城主、ある筈、なし、と叱る。禿、笑ふて、姬路のオサカベ姬と、猪苗代の龜姬を知らずや、汝、命數、既に盡きたり、と言ひ、消失《きえう》す。翌年、元朝《げんてう》、主膳、諸士の拜禮を受けんとて、上下を著し、廣間へ出ると、上段に新しい棺桶があり、其側に葬具を揃え[やぶちゃん注:ママ。]あり、其夕《ゆふべ》、大勢、餅をつく音がする。正月十八日、主膳、厠中《かはやうち》より煩ひ付き、二十日の曉に死す。其夏、柴崎といふ士、七尺ばかりの大入道を切るに、古い大ムジナだつた。爾來、怪事、絕えた、と載せある。

[やぶちゃん注:『甲子夜話五九に、「彥根侯の江戶邸は、……」「フライング単発 甲子夜話卷之五十九 5 加藤淸正の故邸」として、事前に電子化注しておいた。

『同書卅卷に、「世に云ふ、姬路の城中にオサカベと云ふ妖魅あり、……」同前。「フライング単発 甲子夜話卷之三十 20 姬路城中ヲサカベの事」を参照。

「老媼茶話に、加藤明成、猪苗代城代として堀部主膳を置く。……」既出既注。私の「老媼茶話巻之三 猪苗代の城化物」を参照。そちらで詳しい注もしてあるので、繰り返さない。

 垂加文集の會津山水記に云く、會津城以鶴稱之、猪苗代城以龜稱之〔會津城は鶴を以つて之れを稱し、猪苗代城は龜を以つて之れを稱す。〕と。これは鶴龜の名を付《つけ》た二女《にぢよ》を生埋《いきうめ》したによる名か。又、姬路城主松平義俊の兒小姓《ちごこしやう》森田圖書、十四歲で、傍輩と賭《かけ》してボンボリを燈《とも》し、天守の七階目へ上り、三十四、五のいかにも氣高き女、十二一重をきて、讀書するを見、仔細を話すと、爰迄確かに登つた印に、とて、兜のシコロをくれた。持つて下るに、三階目で大入道に火を吹消《ふきけ》され、又、取つて歸し、彼女に火をつけ貰ひ歸つた話を出す。此氣高き女、乃《すなは》ち、オサカベ姬で有らう。嬉遊笑覽などをみると、オサカベは狐で、時々、惡戲《いたづら》をして、人を騷がせたらしい。

[やぶちゃん注:「垂加文集の會津山水記」「垂加文集」は山崎闇斎(あんさい 元和四(一六一九)年~天和二(一六八二)年:江戸前期の儒学者・神道家)の漢詩文・和歌・和文集。刊本は死後の正徳四(一七一四)年。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の刊本のここに出る。但し、「會津山水記」冒頭と、同画像の左丁後ろから三行目に分離してあるのを繋げたものである。なお、後者の話は、「老媼茶話巻之五 播州姫路城」にも全く同じものが載るので、参照されたい。というより、怪力乱心を語らずの儒者の闇斎がこの話を載せるとも思われないので(ざっと全巻を見たが、それらしいものはないと思う)、熊楠は前の「老媼茶話」の話を、ここに書いてしまったに過ぎないように感じている。

「嬉遊笑覽などをみると、オサカベは狐で、時々、惡戲《いたづら》をして、人を騷がせたらしい」所持する岩波文庫版で探してみたのだが、どこに書いてあるのか判らなかった。判明したら、追記する。]

 扨、ラルストン說に、露國の家のヌシ(ドモヴイ)は、屢々、家主の形を現じ、其家を經濟的によく取締り、吉凶ある每に之を知らすが、又、屢ば、惡戲をなす、と。而て、家や城を建てる時、牲《にへ》にされた人畜がヌシになるのだ。類推するに、龜姬、オサカベ等も人柱に立てられた女の靈が城のヌシに成《なつ》たので、後に狐、貉《むじな》と混同されたのだらう。

[やぶちゃん注:「露國の家のヌシ(ドモヴヲイ)」ロシア語で“домово́й”。音写は「ドモヴォーイ」が近い。当該ウィキによれば、『スラブ人の家の精。その名はスラヴ語派の「ドム(dom)」』(「家」・「家庭」の意)『から派生したとされる』。『ドモヴォーイは各家庭にいるとされ、家や家族を守る精霊である。暖炉の下や地下室、玄関に住む』『が、納屋や家畜小屋に住んで家畜の面倒をみるものもいる』。『ドモヴォーイはおおむね、灰色または白い体毛で、髪と顎髭をもつ毛深い老人や小人として表現され』(先に出た「術士メルリン」が、全身を黒毛で覆われており、その名には狼男と関係性があることと、強い親和性があるように思われる)、『角や尾を持つとも言われる』。『さらに、家畜や干し草の姿で現れることもある』。『人間がドモヴォーイの姿を見ることはとても稀なことであるが、それは同時にとても不幸なことである』。『人々はドモヴォーイを本来の名前で呼ばないようにし』、『チェロヴィク(あの人)やデドゥシュカデドゥコ(おじいさん)などの湾曲した表現で呼ぶ』。『しかし』、『ドモヴォーイのすすり泣いたり』、『うなったりする声は』、『よく聞かれるという』。『また、夜に家がきしむ音がするのは、ドモヴォーイが家事などを片付けているためだとされている』。『ドモヴォーイは火と暖かさが好きで、もし』、『ドモヴォーイを怒らせ』たりすると、『その家は火災に見舞われるとされている。そのため』、『人々は、夕食の一部をドモヴォーイに供えて機嫌をとる。また、引っ越しの際はドモヴォーイを連れて行くべく、暖炉の火の燃え木を持参して』、『転居先の新しい暖炉に火を移したり』、『箒などの生活用具の一部を持参したりする。もし』、『ドモヴォーイを古い家に置いていくと』、『転居先では凶事が起きると言われている』。『一方で』、『ドモヴォーイは長く住んだ家を離れるのを嫌がることから、転居前に新しい家の暖炉の下にパンを置いて』、『ドモヴォーイを引き寄せることもある』。『ドモヴォーイは、家族を守るため』、『悪い精霊や侵入者の殺害も厭わない。家族に危険が迫るとそれを知らせ、未来を教えることもある。夜にドモヴォーイの体に触れた時、温かければ』、『幸運があり、冷たければ』、『不運があるとされている』。『あるいは、就寝中にドモヴォーイに締め付けられたら』、『吉凶を尋ね、回答があれば』、『幸運があり、なければ』、『不運があるとされている』。『ドモヴォーイの泣き声は、家族の誰かの死が間近い知らせだともされている』。『気に入らない家族には』、『いたずらを仕掛けたり』、『嫌いな家畜は追いかけ回した末』、『餌を糞に変えて』、『餓死させたりする』。『ドモヴォーイにはドモヴィーハ』『という妻がいるとされて』おり、彼女は『床下や地下室に住んでいるとされる』。『ドモヴォーイは、古い時代の先祖の精霊がその起源だと考えられている』。『それまで』、『部族という単位でまとまっていた人々が』、『家族という単位で区別されるようになった時に、ドモヴォーイの概念が現れたという。それ以前に部族単位の先祖の精霊として知られていたのが』、『ロード』『であった』という。『ドモヴォーイおよび同種の神秘的な存在については次のような伝説がある。彼らはかつては天国に住んでいたが、至高神が天地を創造した際に反乱を起こしたため、至高神によって地上へ落とされたという。彼らの一部は人間の住む家や』、『その周辺に落ち、一部は森や湖や川に落ちた』。『家の中に落ちたのが』、『ドモヴォーイで、その家の人々と親しくなった。人家の周囲に落ちたのが』、『ドヴォロヴォイ、バーンニク、オヴィンニク、フレヴニクで、人間を警戒している。そして自然界に落ちたのが』、『ポレヴィーク、レーシー、ヴォジャノーイ、ルサールカで、人間に危害を加えるという』。『ドモヴォーイはウクライナではドモヴィークと呼ばれる。イングランドにはドモヴォーイとよく似た性質の精霊ブラウニーがいる』とある。私の偏愛するツルゲーネフの「獵人日記」中の優れた一篇「ビェージンの草原」(中山省三郎譯・サイト版)を読まれたい。「家魔(ドモヲイ)」や「水妖(ルサルカ)」が登場する少年たちによって語られる。

 又、予の幼時、和歌山に橋本てふ士族あり。其家の屋根に、白くされた馬の髑髏《どくろ》が有つた。昔し、祖先が敵に殺されたと聞き、其妻、長刀を持つて駈付《かけつけ》けたが、敵、見えず、せめてもの腹癒せに、敵の馬を刎ね、其首を持ち歸つて置いた、と聞いた。然し、柳田君の山島民譚集《さんとうみんたんしふ》一に、馬の髑髏を柱に懸けて、鎭宅除災の爲めにし、又、家の入口に立てゝ魔除《まよけ》とする等の例を擧げたのを見ると、橋本氏のも、丁抹《デンマーク》で馬を生埋《いきうめ》する如く、家のヌシとして、其靈が家を衞《まも》りくれるとの信念よりした、と考へらる。柳田君が遠州相良邊の崖の橫穴に石塔と共に安置した馬の髑髏などは、馬の生埋めの遺風で、其崖を崩れざらしむる爲に置いた物と惟《おも》ふ。

[やぶちゃん注:「山島民譚集」初版は大正三(一九一四)年七月に甲寅(こういん)叢書刊行会から「甲寅叢書」第三冊として甲寅叢書刊行所から発行された、柳田國男の日本の民譚(民話)資料集で、特に河童が馬を水中に引き込む話柄である河童駒引(かっぱこまびき)伝承と、馬の蹄(ひづめ)の跡があるとされる岩石に纏わる馬蹄石(ばていせき)伝承の二つを大きな柱としたものである。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で全電子化注を終えている。その『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(45) 「磨墨ト馬蹄硯」(2)』に図入りで、馬の頭蓋骨の家の梁に掛けられたものが記されてある。

「柳田君が遠州相良邊の崖の橫穴に石塔と共に安置した馬の髑髏」同前のリンク先の文中に、『前年自分ハ遠州ノ相良ヨリ堀之内ノ停車場ニ向フ道ニテ、小笠郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅カナル橫穴ヲ掘リ、【馬頭神】馬ノ髑髏ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。』と出るのを指す。]

 予は餘り知らぬ事だが、本邦でも、上述の英國のパウリーや露國のドモヴイに似た、奧州のザシキワラシ、三河・遠江のザシキ小僧、四國の赤シャグマ等の怪がある。家の仕事を助け、人を威《おど》し、吉凶を豫示《よじ》し、時々、惡戲をなすなど、歐州の所傳に異ならぬ。是等、悉く人柱に立てた者の靈にも非るべきが、中には、昔し、新築の家を堅めんと牲殺《にへころ》された者の靈も、多少、あることゝ思ふ。飛驒、紀伊其他に老人を棄殺《すてころ》した故蹟が有つたり、京都近くに、近年迄、夥しく赤子を壓殺《おしころ》した墓地が有つたり、日本紀に、歷然と、大化新政の詔を載せた内に、其頃迄も人が死んだ時、自ら縊死して殉じ、又、他人を絞殺し、又、强《しひ》て死人の馬を殉殺し、とあれば、垂仁帝が殉死を禁じた令も洵《あま》ねく行はれなんだのだ。扨、令義解《りやうぎのげ》には、信濃國では、妻が、死んだ夫に殉ずる風が行はれたといふ。久米邦武博士(日本古代史八五五頁)も云はれた通り、其頃地方の殊俗《しゆぞく》は國史に記すこと、稀なれば、尋ぬるに由なきも、奴婢賤民の多い地方には、人權乏しい男女、小兒を、家の土臺に埋めたことは、必ず有るべく、其靈を、其家のヌシとしたのが、ザシキワラシ等として殘つたと惟《おも》はる。ザシキワラシ等のことは、大正十三年六月の人類學雜誌佐々木喜善氏の話、又、柳田氏の遠野物語等にみゆ。

[やぶちゃん注:「三河・遠江のザシキ小僧」「ザシキワラシ」に属する妖怪。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「座敷小僧 ザシキコゾウ」を参照されたい(記載は少ない)。同一対象の別名を「座敷坊主」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、「座敷小僧」の異名で、『静岡県周智郡奥山村字門谷(現・静岡県浜松市)などに現れたと言われる』。『村の中のある家の主人がイノシシを落とし穴で捕らえた後、その穴に金を持った人が落ちて死んだ、または盲目の金持ちをその穴に落として殺害したという話や』、『その家に泊まった坊主を殺害した、暗い中に連れ出して殺したなどの話があり』、『その死んだものの霊が現れるのだといい、その家に泊まった人の床の向きを逆にしたり、枕返しをすると言われる』。『その姿は』五、六『歳ほどの子供のようとも』、『坊主姿の按摩のようともいう』。『大津峠には、その殺された者を供養するためといわれる立て石があるが、その家には今なお祟りによって気のふれる者があるという』。『ほかの村でも坊主頭の按摩のようともいう』。『また』、『三河国北設楽郡本郷村(現・愛知県北設楽郡東栄町)では座敷小僧の名で伝わっており、ある酒屋を営む旧家に』十『歳ほどの子供のような姿で現れたといい、雇用人が奥座敷の雨戸を閉めに行ったときによく姿を見たという』。『南設楽郡長篠村大字横川(現・新城市)では、神田という裕福な家に座敷小僧が現れていたが、茶釜にツモノケ(機織りの器具)を当てるという禁忌を犯したために座敷小僧が家を去り、家はそれ以来衰退してしまったという』。『岩手県では旧家に座敷小僧が現れるといい、小児の姿をした家の神とされる』。『下閉伊郡岩泉町のある家では、奥座敷の真中の柱を踏むと枕元に現れたといい』四、五『歳ほどの赤黒い裸の坊主で、身長は』二『尺ほど、赤い綺麗な顔をしていたという』。『岩手県紫波郡のある旧家でも赤い顔の座敷小僧がおり、夜に炉に現れて火を起こしたりしたという。またこの地方では、座敷童子の正体をムジナとする説もある』。『宮城県本吉郡大島村(現・気仙沼市)でも』、『座敷坊主が家に現れて枕返しをした事例がある』。『民俗学者・佐々木喜善の著書においては座敷坊主は座敷童子の一種として分類されており』、『六部(旅の僧)を殺して金銭を奪った者が祟りに遭うなどの「六部殺し」の話が座敷童子の性格に付加され、座敷坊主の姿となったとする説もある』(私も佐々木の説を強く支持する)とある。

「四國の赤シャグマ」当該ウィキによれば、『四国に伝わる妖怪。人家に住み』つく、『赤い髪の子供のような妖怪で、座敷童子の仲間とする説もあり』、『座敷童子と同様、これが住み』つ『いた家は栄え、いなくなると』、『家が没落するともいう』。『詳細な特徴や行動は、地方によって異なる』とし、以下、「地域別の伝承」。『愛媛県(伊予国)での例』として、『新居郡神戸村(現・西条市)などの町村の人家に住み』つ『いていたとされる。夜に住人が寝静まった後で』、『座敷で騒ぎ始め、台所にある食べ物を食べてしまう』。『広見町(現・鬼北町)や宇和島市の伝承では』、『小坊主(こぼうず)とも呼ばれており、山仕事に出かけた男が家に帰ってくると、薄暗い家の中、囲炉裏で数人の赤シャグマが暖をとっており、男の帰宅に気づいた赤シャグマたちは床下へと姿を消したという』。この妖怪は、近代まで生き続け、明治三十二、三年頃(一八九九年~一九〇〇年)、『市ノ川鉱山にいた工学士の技師長が、新居郡の神戸』(かんべ)『村(現在の愛媛県西条市のこの附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の丘に家を建てようとしたところ、そこの土地から多数の人骨や土器が発見された。周囲の人々が「あそこは墓地の跡だ」と噂する中、技師長は平気で工事を進め、やがて家が完成した。その完成後も「あの家には赤シャグマが出る」と噂が続いていた』とある。次いで、『徳島県(阿波国)での例』として、『夜になると』、『仏壇の下から現れ、眠っている住人の足をくすぐるなどの悪戯を働く』。嘗つて『「化け物が出ると」と噂される古い一軒家があり、誰も住もうとしない中、ある老婆がその家を買って自宅とした。しかし夜になると』、『噂通り』、『赤シャグマが現れ、老婆をくすぐって悪戯した。老婆は結局、その家を立ち退いたという』。次に『香川県(讃岐国)での例』。『徳島の例と同様に香川でも、赤シャグマは夜中に人の足をくすぐるといわれる』、『また』、『香川の赤シャグマ独自の特徴としては、家の中のみならず』、『野外でも赤シャグマが現れるとする説があり、山中で大声を張り上げながら空を飛ぶともいう』。『三好郡足代村のある家で、住人たちが夜寝た後、赤シャグマが現れて』、『彼らをくすぐり、住人たちはすっかり疲れてしまった。翌日、その家の』一『人の男が畑仕事に出たところ、そこに赤シャグマが立っていた。それを見た男は、家へ駆け込むなり』、『気絶してしまったという』。『仲多度郡満濃町では、山中の赤シャグマに関する逸話もある。とある若者が仕事に雇われたものの、雇い主は若者を遊ばせておくだけで、若者は仕事がないことを不思議に思っていた。そんなある日』、一『人の村人が亡くなった。雇い主は墓をあばき、その屍を若者に運ばせて山へ行き、屍を餌にして』、『赤シャグマをおびき寄せ、射止めたという』とある。

「豫示」前以って示すこと。

「飛驒、紀伊其他に老人を棄殺した故蹟」南方熊楠は大正七(一九一八)年八月の『土俗と傳說』(第一巻第二号・文武堂店発行)で「棄老傳說に就て」という極めて短い論考で、こことほぼ同じことを言っており(「青空文庫」のこちらで確認出来る)、そこに(一部の正字不全を恣意的に訂した)、『昨年押上中將から惠贈せられた高原(タカハラ)舊事に、「飛驒の吉野村の下に人落しと云ふ所あり。昔は六十二歲に限り此所へ棄てしと云ふ」とある』とあった。これは、調べたところ、岐阜県高山市上宝町(かみたからちょう)吉野と考えられる。

「日本紀に、歷然と、大化新政の詔を載せた内に、其頃迄も人が死んだ時、自ら縊死して殉じ、又、他人を絞殺し、又、强《しひ》て死人の馬を殉殺し、とあれば」「日本書紀」の「卷第廿五 天萬豐日天皇(孝德)」の「大化の改新」(狭義のそれは六四五年~六五〇年)の条の一節。昭和四(一九二九)年岩波文庫刊の黒板勝美編「日本書紀 訓読」下のここの頭注「殉死を禁ず」の以下を見よ。

「令義解」「養老令」の官撰注釈書。十巻三〇編であるが、その内の二編は欠けて伝わっていない。額田今足(ぬかだのいまたり)の建議で、勅命により清原夏野・菅原清公ら十二名によって編された。天長一〇(八三三)年完成し、翌年から法に準じて施行された。「令」の実際に当たっての法解釈の基準を公定文としたもの。しかし、国立国会図書館デジタルコレクションの写本を三度も調べたが、こんなことは出てこない。諦めかけたところ、フレーズ検索で三浦佑之氏の論文「殉死と埴輪」(『東北学』3・東北芸術工科大学東北文化センター・作品社刊・二〇〇〇年十月)を発見、そこに、『『令集解』巻五・職員令の弾正台条には、「信濃国の俗に、夫死すれば、即ち婦を以ちて殉と為す。若し此の類有らば、正すに礼教を以ちてす〔信濃国俗。夫死者即以婦為殉。若有此類者。正之以礼教〕」という記事があり、夫が死んだ場合に妻が殉死する(させられる)という風習のあったことがみえる。ただし、それが事実か否かを確かめることはできないが、家父長制が強固な社会であれば、王や主君に殉ずる臣下や奴婢と同じようなかたちで、女たちの殉死もありえたということは想像に難くない。』とあった。「令集解」は「りょうしゅうのげ」で、平安前期の法制書。全五十巻(現存は三十六巻のみ)。明法博士(律令学者)であった惟宗直本(これむねなおもと 生没年未詳)の著で、貞観(八五九‐八七七)頃の成立。養老令に関する私撰の注釈書で、先行の諸注釈書を集成し、さらに直本の説を加えたもの。大宝令の注釈書である「古記」を引用しているために、失われた大宝令を復元する最も有力な手がかりとなっている。さても、そこで国立国会図書館デジタルコレクションの清原秀賢ら写本(慶長二~四(一五九七~一五九九)年)で当該箇所を見たところ、あった! 「選集」でも、河出文庫の「南方熊楠コレクションⅡ 南方民俗学」でも、「令義解」だが、恐らくは熊楠の誤りで、「令義解」は「令集解」が正しいのだ! ここの左丁罫二行目の左の下方から、

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信濃国俗[やぶちゃん注:下方罫外のミセケチで修正。]、夫死者、即以婦為殉。若有此類者、正之以礼教。

(信濃の国の俗に、夫(をつと)、死すれば、即ち、婦(つま)以つて殉(じゆん)と為(な)す。若(も)し、此の類(たぐひ)有らば、正(ただ)すに、礼教(れいきやう)を以つてす。)

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とあるのだ!

「久米邦武博士(日本古代史八五五頁)」元佐賀藩士で近代日本の歴史学における先駆者である久米邦武(天保一〇(一八三九)年~昭和六(一九三一)年:明治政府に出仕して、明治四(一八七一)年の特命全権大使岩倉使節団の一員として欧米を視察、一年九ヶ月後に帰国して太政官吏員となり、独力で視察報告書を執筆。明治一一(一八七八)年、四十歳の時、全百巻から成る「特命全権大使 米欧回覧実記」を編集、太政官の修史館に所属して「大日本編年史」などの国史の編纂に尽力した。明治二一(一八八八)年、帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員に就任したが、明治二十五年に雑誌『史海』に転載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」の内容が問題となり、両職を辞任した。三年後、大隈重信の招きで、東京専門学校(現在の早稲田大学)で教壇に立ち、大正一一(一九二二)年の退職まで、歴史学者として日本古代史や古文書学を講じた)が明治三八(一九〇五)年に早稲田大学出版部から刊行した「日本古代史」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該部が読める。左ページの終りから三行目の「以上は」から、次のページの段落の終りまで。

 

「殊俗」特殊な限定的風俗習慣。

「奴婢賤民の多い地方には、人權乏しい男女、小兒を、家の土臺に埋めたことは、必ず有るべく、其靈を、其家のヌシとした」熊楠先生!! 「奴婢賤民の多い地方には、人權乏しい男女」などと言うのは早計ですぞ! 縄文人は夭折した子どもは竪穴住居の入り口や台所に相当する場所の地下に土器に入れて葬っている。これは、寧ろ、再生と守護の意味を持っているのであって、その濫觴は「賤」しい「男女」の非「人權」的・反「人」道的行為などではありませんぞ!!!

「大正十三年六月の人類學雜誌佐々木喜善氏の話」「ザシキワラシの話」。同雑誌の三十九巻(一九二四年五月・六月号)の論考。「J-Stage」のこちらから原論考がダウン・ロード出来る。これは何時か電子化する。

「柳田氏の遠野物語等にみゆ」私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一七~二三 座敷童・幽霊」を参照されたい。]

 數年前の大阪每日紙で、曾て御前で國書を進講した京都の猪熊先生の宅には、由來の知れぬ婦人が、時々、現はれ、新來の下女などは、之を家内の一人と心得ることあり、と讀んだ。沈香《ぢんかう》も屁《へ》も、たきも、ひりもしないで、たゞ現はれるだけらしいが、是も、其家のヌシの傳を失した者だらう。それから甲子夜話二二に、大坂城内に明《あか》ずの間あり、落城の時、婦女自害せしより、一度も開かず、之に入り、若《もし》くは、其前の廊下に臥す者、怪異に逢ふ、と。叡山行林院に、兒《ちご》がや、とて開《あ》かざる室《へや》あり、之を開く者、死す、と(柳原紀光《もとみつ》、閑窓自語)。昔し、稚兒が寃死《ゑんし》した室らしい。歐州や西亞にも、佛語で、所謂、ウーブリエットが、中世の城や大家に多く、地底の密室に人を押籠《おしこ》め、又、陷《おとしい》れて、自《おのづか》ら死せしめた。現に、其家に棲んで全く氣付かぬ程、巧みに設けたのもあると云ふ(バートン千一夜譚二二七夜譚注)。人柱と一寸似たこと故、書き添へ置く。

[やぶちゃん注:「猪熊先生」(いのくまなつき 天保六(一八三五)年~大正元(一九一二)年)は国学者で京都白峰宮(現在の白峰神宮)神官・白鳥神社祠官・京都第一高等女学校教諭。明治三九(一九〇六)年に宮中進講を務めた。

「甲子夜話二二に、大坂城内に明《あか》ずの間あり、落城の時、婦女自害せしより、一度も開かず、之に入り、若《もし》くは、其前の廊下に臥す者、怪異に逢ふ、と」事前に「フライング単発 甲子夜話卷之二十二 28 大阪御城明ずの間の事」として電子化注しておいた。

「叡山行林院」現在の延暦寺には、この名を確認出来ない。次の「閑窓自語」を見たら、「竹林院」とあった。「選集」も「行林院」。ちゃんと確認しろよ! 嘗ては比叡山の僧侶の隠居所としての里坊(さとぼう)の一つであった。現在も「元里坊旧竹林院」(庭園・茶室)として大津市坂本のここに残る。公式サイトはここ

「柳原紀光、閑窓自語」柳原紀光(延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇一)年)は公家。安永四(一七七五)年に権大納言となったが、三年後、事のあって免官、さらに寛政八(一七九六)年には、しばしば身分不相応の行いがあったとして、永蟄居となって、そのまま没した。この間、その才識を傾注して、大著「続史愚抄」(亀山天皇より後桃園天皇に至る編年史)を編輯した)の随筆。吉川弘文館随筆大成版を元に漢字を恣意的に正字化して以下に示す。上巻「七六」の「延曆寺竹林院有兒靈語」(延曆寺竹林院に兒(ちご)の靈(れい)有る語(こと):推定訓読)である。読点を増やし、一部の句点を読点にし、濁点を添えた。一部に推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。

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   七六延曆寺竹林院有兒靈語

山門に竹林院といへる坊あり。その内に兒かやといひて、ひらかざる間(ま)あり。寶曆七年[やぶちゃん注:一七五七年。]、法花會(ほつけゑ)の行事に、權右中辨(ごんのちゆうべん)敬明、まかりて、かの坊にやどりけるに、家人をして、ひそかに、かの間をひらき、こゝろみしむ。うちは、いとくらくて、なにもなかりけるが、冷氣、身ををそふ[やぶちゃん注:ママ。]とおぼえて、たちまち、かのもの、わづらひづき、家にかへると、そのまゝに、うせぬ。又、辨も、それより、心地、たゞならず、なやみて、その次のとし、三月ばかりに身まかりぬ。それよりして、行事辨(ぎやうじのべん)、登山するに、此坊に宿することを用ひず、となん。

   *

「寃死」濡れ衣を着せられて死ぬこと。不当な仕打ちを受けて死ぬこと。

「ウーブリエット」Oubliette。ウーブリエット。中世の城や要塞に設置された長期に亙って幽閉させるための地下牢。フランス語ウィキの“Oubliette”が非常によい。英語は“Dungeon”(ダンジョ(ェ)ン)。]

 又、人柱でなく、刑罰として罪人を壁に築き込むのがある。一六七六年巴里板、タヴエルニエーの波斯《ペルシア》紀行一卷六一六頁に、盜人の體を四つの小壁で詰め、頭だけ出して、お慈悲に、煙草をやり、死ぬ迄、すて置く。その切願のまゝ、通行人が首を刎《は》ねやるを、禁ず、又、罪人を裸で立たせ、四つの壁で圍ひ、頭から漆喰《しつく》ひを流しかけ、堅まる儘に、息も、泣くこともできずに、惱死《なうし》せしむ、と。佛國のマルセルス尊者は、腰迄、埋めて、三日、晒されて、殉敎したと聞くが、頭から塗り籠《こめ》られたと聞かぬと、一六二二年に、斯る刑死の壁を見て、ピエトロ・デラ・ヴァレが書いた。

[やぶちゃん注:「タヴエルニエーの汝斯紀行」フランスの宝石商人にして旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)は、一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。これは彼のLes six voyages de Jean-Baptiste Tavernierの中のペルシャ部分か。「Internet archive」に英訳の「Travels through Turkey to Persia」というのがある

「佛國のマルセルス尊者」英文サイトのこちらの“St. Marcellus, Bishop of Paris, Confessor”か。五世紀初頭に殉教。

「ピエトロ・デラ・ヴァレ」(Pietro Della Valle 一五八六年~一六五二年)ルネッサンス期にアジアを旅したイタリアの作曲家・音楽学者・作家。]

 嬉遊笑覽卷一上に、「東雅に、南都に往《ゆき》て、僧寺の、ムロと云ふ物をみしかど、上世に室と云《いひ》し物の制とも、みえず。もと、これ、僧寺の制なるが故なるべしと云ふは非也。そは、宮室に成《なり》ての、製なり。上世の遺跡は、今も古き窖《あなぐら》の殘りたるが、九州などには有り、と云へり。彼《かの》土蜘蛛《つちぐも》と云し者などの、住みたる處もあるべしとかや。近くは、鎌倉に、殊に多く、是亦、上世の遺風なるべし。農民の、物を入れおく處に掘《ほり》たるも多く、又、墓穴もあり、土俗、是をヤグラと云ふ。日本紀に兵庫《へいこ》をヤグラと讀《よめ》るは、箭《や》を納《いる》る處なれば也。是は、其義には非ず、谷倉の義なるべし。因《より》て、塚穴をも、なべて、いふ。實朝公の墓穴には、岩に彫物《ほりもの》ある故に、繪かきやぐらといふ。又、囚人を籠《こめ》るにも用ひし迚《とて》、大塔の宮を始め、景淸、唐糸等が古跡あり(下略)。」。

[やぶちゃん注:『嬉遊笑覽卷一上に、「東雅に、南都に往《ゆき》て、……』岩波文庫版で所持するが、今までの検証から、熊楠の所持するものに近い正字正仮名の国立国会図書館デジタルコレクションの昭和七(一九三二)年成光館出版部刊で当該部(まさに同類書(百科事典)の巻頭である巻之一上の「居處」パートの「○室(むろ)〔やぐら〕」である)を以下に電子化する。書名は丸括弧だが、鍵括弧に代えた。濁点・句読点・記号を追加し、読みの一部を推定で( )を以つて歴史的仮名遣で添えた。《 》(カタカナ)はここでは原本のルビとした。【 】は編者の頭書。上代部分の読みはこんなところで時間を食いたくないので、勝手自燃流。

   *

【むろ】○むろは「神代紀」に窨(イン)[やぶちゃん注:「穴倉・地下室」の意。]をよめるがもとにて、地室(ぢむろ)をいふ。「古事記傳」に、『山の腹を橫に堀(ほり)て[やぶちゃん注:漢字はママ。以下同じ。]、石窟の如く構へたるをいふ。地を下へほりたるには、あらず。』といへり。宮室を造るも、其さまをうつしたれば、「室」を「むろ」とは、いひしなるべし。上つ代の家造は、柱を地中に築立(つきた)て、繩・つなをもて、結固(むすびかた)めしものなり。「書紀」、「顯宗紀」、「室壽御辭(むろじゆのおほんことば)」に『築立(つきたつ)る稚室葛根(わかむろのかづね)』、また、「大磬(だいけい)」の祭詞(まつりことば)に『此の敷坐(しきます)大宮、地底津根(ちのそこつね)乃(の)極美下津根(いやましのしもつね)云々』。古(いにしへ)に『於底津石根宮柱布刀斯理立(そこついはねに、みやばしら、ふとしり、たて)』[やぶちゃん注:これは「古事記」の「上つ巻」の大国主命のパートの一節。]など云ふは、上代、神宮も、人の舍も、伊勢神宮などの製の如く、地を堀て、柱を立(たつ)る故に、この稱あり。【堀立(ほつたて)】今世にも賤が戶には、是あり。堀立と云ふ。石すゑして、柱を立るは、の意のことなり。右の下津石根など云(いふ)は、只、深くほり立るを云なり。「鹽尻(しほじり)」に、『やんごとなき御所に「内室作(うちむろつく)り」といふあり。「いかなる製にや。」といふ人あり。予、云(いふ)、「これを、匠家(たくみ)に聞(きき)侍る。内室とは、天井なく、屋裏《ヤウラ》のまゝに造る事とぞ。紫宸殿・淸凉殿なども、『うちむろ作り』なりとかや。凡(およそ)諸寺の金堂なんども、『内室作』の法といへり。我(わが)熱田の神宮寺も、これ也。「日本紀」廿四、『舘堂』を『むろつみ』と訓ぜし。『室』字のみ、むろ」とよむには、かぎらず。」と云(いへ)り。「事跡合考」に、『坪(つぼ)曲尺《カネ》[やぶちゃん注:宮大工のことか。]の達人、正德[やぶちゃん注:一七一一年~一七一六年。]の比、予に語りて云(いはく)、「龜戶の聖廟の御本殿は、垂木(たるき)のかけやう、『一室作(ひとむろつく)り』といふ造りやう也。當世、あのすみかね作法、知りたる大工は、江戶中に一人もなし云々。誠に、めでたく出來たる宮殿なりしが、延享三年丙寅(ひのえとら)[やぶちゃん注:一七四六年。]二月、隣家よりの類火に燼滅(じんめつ)したるこそ、千歲(せんざい)の恨(うらみ)なるかな。」と、いへる。をしむべき事は、火にかゝる物、これのみならず、いづれか、をしからぬもの、有べき。此殿、絕ては、その製作も世になくなりぬるやうにおもへるは、これを記しゝ人はさら也、坪かねの達人も、わきまヘなきことゝ見ゆ。且ツ、「一室」といふことば、なし。是、内室を訛(なま)りたるにこそ。【虛室(うつむろ)】猶、おもふに、「内室」は「虛室《ウツムロ》」の義にて、「うつむろ」と訓(よむ)べし。「和訓栞(わくんのしほり)」に、『舘をよめるは、室積(むろづみ)の義、「周禮(しうらい)」に、『侯舘有積』と見えたり。「周防(すはふ)のむろづみ」も是なるべし。」といへり。「東雅」に、『南都にゆきて、僧寺の室といふものを見しかど、上世に室といひしものゝ制とも見えず、もと是(これ)、僧寺の製なるが故なるべし。」と、いへるは、非なり。そは、宮室になりての制なり。上世の遺跡は、今も古き窨ののこりたるが、九州などにはあり。』といへり。彼(かの)「土蜘蛛(つちぐも)」といひしものなどの住(すみ)たる處も有べしとかや。【やぐら】近くは、鎌倉に、殊に多し。是又、上世の遺風なるべし。農民の物を入置處に堀たるも多く、又、墓穴もあり。土俗、是れを「やぐら」といふ。「日本紀」に、「兵庫」を「やぐら」とよめるは、箭を入るゝ處なればなり。これは、その義には、あらず、「谷倉」の義也。よりて、塚穴をも、なべて、云ふ。實朝公の墓穴には、岩に彫物ある故に、「繪かきやぐら」と云ふ。又、「囚人を籠(こめ)るにも用ひし。」とて、大塔の宮をはじめ、景淸・唐糸等が古蹟あり(「散木集」)。連歌、堀河院御時[やぶちゃん注:堀河天皇の在位は応徳三(一〇八七)年~嘉承二(一一〇七)年)。]、出納(すいたふ)が腹立て、「へやのしう」とも云ものを、御倉のしたにこむるを聞(きき)て、源中納言國信、「へやのしうみぐらのしたにこもるなり云々、付よとせめ有ければをさめどのにはところなしとて」。又、「古事談」に、伶人助元を、左近府の下倉に召籠られしたぐひにや。されど、こは、窨藏(いんざう)にはあらざるべし[やぶちゃん注:ここに漢文白文の例示引用が割注で入るが、必要性がないという私の判断で略す。因みに岩波文庫版には、ない。]。又、「建保職人盡」、塗師の歌に、「土むろしてもほされざりけり」と有[やぶちゃん注:以上のの「と有」は岩波版で補った。]。今も、漆ぬるに、穴藏を用るとなじ。但し、麹(かうぢ)作るなどには、「むろ」といヘど、塗師などは「風呂」とのみ云ふ。箱の内に、水をそゝぎたるが、風呂の湯氣のやうなるより、「むろ」といふこと、いつしか、轉(なま)りて「風呂」といふにや[やぶちゃん注:ここにかなり長い割注が入るが、同前(岩波版なしも同じ)で略す。]。

   *

さて、ここで喜多村信節(のぶよ)の「嬉遊笑覽」を、熊楠が無批判に引いて、そのまんま言いっ放しである点に於いて、鎌倉の郷土史研究をしている私は、複数箇所、指弾したいことがあるのである。まず、

「上世の遺風なるべし」というのは誤り

である。鎌倉の「やぐら」は戦前には、「上世の遺風」に当たる横穴古墳を模したものとする歴史家の説があったが、これは、現在では完全に否定されている。平地の少ない鎌倉に於いて、幕府創設以来、多くの墳墓が僅かな平地にやたらに作られ、都市機能を脅かす事態となり、かの「御成敗式目」の追加条目で――鎌倉御府内に墳墓や霊堂を建立することは禁じられている――のである。但し、この「御府内」というのは、平地に限るものであったと考えられ、仕方なく、御家人らは、柔らかく加工し易い砂岩の周縁の「鎌倉石」からなる山の斜面に、本来は建立すべき法華堂を模して、「やぐら」を建てたのである。その証拠に、「やぐら」の左右には、堂扉と同じく、木製の開閉式の扉を設置した後が見られるものが多く現存し、さらに「やぐら」の上面の前部に、朱で垂木(たるき)を模して描いた「朱垂木やぐら」と通称されるものや、「やぐら」内上部に天蓋を模した円形の彫り込みがあるものをも認める。龕があるものも有意に多い。構造が一見、横穴式古墳に似たところがあっても、それは偶然であって、「上世の遺風」なんどでは、なく、法規制に迫られて作り出した、鎌倉時代の新墳墓形式(多くは供養塔)なである。その証拠に、旧鎌倉御府内以外では、鎌倉時代に鎌倉の寺院が持っていた関東附近の寺領以外には、この「やぐら」はどこにも存在しないのである。なお、各種の「やぐら」については、私のサイト版の、幕末の文政十二(一八二九)年に植田孟縉(うえだもうしん)によって編せられた鎌倉地誌「鎌倉攬勝考卷之九」の「岩窟」の項を見られたい。貴重な当時の図も添えてある。なお、現在、御府内で現認可能な「やぐら」は凡そ千数百、埋蔵しているものも加えると、有に三千基を越えるものと思われる。

「塚穴」これも厳密に言えば、正確ではない。鎌倉の「やぐら」内から埋葬の副葬品や火葬骨が発見されたものもあるから、それは確かに墳墓であるが、供養塔が有意に多いと私は考えている。供養塔は卒塔婆などが一般化する前には、堂を別に作るのが普通であった。されば、真正の墳墓である「やぐら」の脇に同様の供養塔を安置する「やぐら」を増殖させるのは、頗る腑に落ちるのである。例えば、「百八やぐら」と呼ばれる鶴岡八幡宮の東北の、覚園寺の裏山、天園の西のそこは、アパートのように多層階に「やぐら」がみっちりと形成されているのである。さらに言えば、まさに以下の「実朝の墓」と呼ばれているものが、供養塔以外の何物でもないのである。

「實朝公の墓穴には、岩に彫物ある故に、繪かきやぐらといふ」「鎌倉攬勝考卷之四」の「壽福寺」の項の「右大臣實朝公庿塔」の挿絵が載るので見られたいが、並んだ北条政子の墓とともに、南北朝期の寿福寺復興期に造立された供養塔であって、分骨は、されていないと考えるのが正しい。実朝の首なしの亡骸は大御堂にあった勝長寿院(廃寺)に葬られたが(後の政子の遺骨も同じ)、今は人家が立て込んで、昔を偲ぶよすがもないのである。

「囚人を籠るにも用ひし迚、大塔の宮を始め、景淸、唐糸等が古跡あり」まず、「大塔の宮」だが、今、大塔の宮護良親王を祀る鎌倉宮には、まことしやかに岩窟の牢が「復元」と称して置かれてあるが、より古い記録を見るに、当時の親王は、「やぐら」のような岩牢・土牢(どろう)なんどではなく、ちゃんとした家屋に軟禁されていたというのが、事実と信じられる。平家に仕えた残党で悪七兵衛の名で知られる、頼朝暗殺を企んで捕縛された藤原「景淸」の牢や、同じく頼朝を暗殺しようとして失敗した木曽義仲の家来手塚光盛の娘で、父の仇を討たんとした「唐糸」の「やぐら」も、確かに現存はする。言い出すと、エンドレスになるので、サイト版「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀 附やぶちゃん注」の「葛原岡〔附唐絲ガ籠〕」の私の注を読まれたいが(ブログ単独版はこちら。護良親王の土牢のデッチアゲもそこで説明してある)、これらも、実際には、後世に創作された伝説や物語によって、リアリズムを出すために、勝手に後付けされたエセ「土牢やぐら」であって、何ら関係のない誰かの「やぐら」に過ぎないのである。

 紀州東牟婁郡に、矢倉明神の社、多し。方言に、山の嶮峻《けんしゆん》なるを倉といふ。諸莊《しよしやう》に嶮峻の巖山《いはやま》に祭れる神を、矢倉明神と稱すること、多し。大抵は、皆な、巖《いはほ》の靈を祭れるにて、別に社《やしろ》がない。矢倉のヤは伊波《いは》の約にて、巖倉《いはくら》の義ならんとは、紀伊續風土記八一の說だ。唐糸草紙に、唐糸の前、賴朝を刺《ささ》んとして、捕はれ、石牢に入れられたとあれば、谷倉よりは岩倉の方が正義かも知れぬ。孰れにしても、此ヤグラは、櫓と同訓ながら、別物だ。景淸や唐糸がヤグラに囚われた、とあるより、早計にも、二物を混じて、二重櫓の下に囚はれ居《をつ》た罪人の骸骨が、今度、出たなど、斷定する人もあらうかと、豫《あらかじ》め辯じ置く。

 附 記 本文は、大正十四年六月三十日と七月一日の大阪每日新聞に掲載のまゝで、其の引用書目と揷註《さうちゆう》は、七月十一、十二日書き加へたものに、本年八月、又、增補した者である。

[やぶちゃん注:「紀伊續風土記」紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年に完成した。原本の当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここ(左ページ下段末)で確認出来る。]

2022/09/19

フライング単発 甲子夜話卷之二十二 28 大阪御城明ずの間の事

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧・記号も用いた。標題の「明ずの間」は以下の本文に従って「あけずのま」と読んでおく。]

 

22―28

大阪の御城内、御城代の居所の中に、「明けずの間」とて、有り、となり。此處《このところ》、大《おほい》なる廊下の側《かたはら》にあり。こゝは、五月落城のときより、閉《とざ》したるまゝにて、今に一度もひらきたること、なし、と云《いふ》。因て、代々のことなれば、若《も》し、戶に損じあれば、版《いた》を以て、これを補ひ、開かざることと、なし置《おけ》けり。此《ここ》は、落城のとき、宮中婦女の生害《しやうがい》せし所、となり。かゝる故か、後、尙、その幽魂、のこりて、こゝに入る者あれば、必ず、變殃《へんわう》を爲すこと、あり。又、其前なる廊下に臥す者ありても、亦、怪異のことに遇ふ、となり。觀世新九郞の弟宗三郞、かの家伎《かぎ》のことに因て、稻葉丹州、御城代たりしとき、從ひ往《ゆき》たり。或日、丹州の宴席に侍《じし》て、披酒[やぶちゃん注:ママ。「被酒(ひしゆ)」(酒を飲むこと)の誤判読か誤字と思う。]し、覺へず[やぶちゃん注:ママ。]、彼《かの》廊下に醉臥《すゐぐわ》せり。明日《みやうじつ》、丹州、問《とひて》曰く、「昨夜、怪《あやしき》こと、なきや。」と。宗三郞、「不覺。」のよしを答ふ。丹州、曰《いはく》、「さらば、よし。こゝは、若《もし》、臥す者あれば、かくかくの變、あり。汝、元來、此ことを不ㇾ知《しらず》。因て、冥靈《めいりやう》も免《ゆる》す所あらん。」と、云はれければ、宗三《さうざ》、聞《きき》て始《はじめ》て怖れ、戰慄《ふるへおののき》、居《を》る所をしらず、と。又、宗三、物語しは、「天氣、快晴せしとき、かの室の戶の透間《すきま》より窺《うかが》ひ覦《み》れば、其おくに、蚊帳《かや》と覺しきもの、半《なかば》は、はづし、半は、鈎《かぎ》にかゝりたるもの、ほのかに見ゆ。又、半揷《はんざふ》の如きもの、其餘の器物どもの、取ちらしたる體《てい》に見ゆ。然れども、數年《すねん》、久《ひさし》く、陰閉《いんぺい》の所ゆゑ、たゞ其狀《さま》を察するのみ。」と。何《い》かにも、身毛《みのけ》だてる話なり。又、聞く、「御城代某侯、其威權を以て、こゝを開きしこと有しに、忽《たちまち》、狂を發しられて、止《やみ》たり。」と。誰《たれ》にてか有けん。此こと、林子《りんし》に話せば、大咲《おほわらひ》して曰《いはく》、「今の坂城《はんじやう》は豐臣氏の舊《もと》に非ず。偃武《えんぶ》の後《のち》に築改《きづきあらため》られぬ。まして、厦屋《かをく》の類《たぐひ》は、勿論、皆、後の物なり。總て世にかゝる造說《ざうせつ》の實《まこと》らしきこと、多きものなり。其城代たる人も、舊事《きうじ》、詮索なければ、徒《いたづら》に齊東野人《せいとうやじん》の語を信じて傳《つたふ》ること、氣の毒千萬なり。」と云《いふ》。林氏の說、又、勿論なり。然《しかれ》ども、世には、意外の實跡も有り。又、暗記の言《げん》は的證とも爲しがたきなり。故に、こゝに兩端を叩《たたき》て、後定《こうぢやう》を竢《まつ》。

■やぶちゃんの呟き

「五月落城のとき」言わずもがな、「大坂夏の陣」。慶長二〇(一六一五)年五月八日、大坂城は落城、豊臣秀頼は母淀君とともに城内で自害した。

「觀世新九郞」能の小鼓方(ここの「家伎」はそれ)の流派名。

「稻葉丹州」稲葉正諶(まさのぶ 寛延二(一七四九)年~文化三(一八〇六)年)。従五位下丹後守。享和二(一八〇一)年十月十九日に大坂城代に就任し、文化元(一八〇四)年一月二十三日に京都所司代に転任、従四位下侍従となっている。彼は「寛政の改革」にも加わっている。

「半揷《はんざふ》」現代仮名遣「はんぞう」。「はざふ(はぞう)」等とも呼び、「𤭯」「楾」「匜」等の漢字もある。湯水を注ぐのに用いる器で、柄のある片口の水瓶であり、柄の中を湯水が通るようにしてある。その柄の半分が器の中に挿し込まれてあるところから、この名称がつけられた。

「林子《りんし》」お馴染みの、静山の盟友である儒者林述斎(はやしじゅっさい)。

「偃武」天下泰平。

「厦屋」大きな建造物や家屋内の作り物や調度具。

「造說」根拠のないことを言いふらすこと。

「舊事、詮索なければ」そのような古いことは、調べようがないことであるから。

「齊東野人」物の道理を知らない田舎者。人を軽蔑していう語。「孟子」の「万章(ばんしょう)上」に基づく。「斉東」は斉(せい)国の東の辺境で、「野人」は「田舎者」の卑語。

2022/09/18

フライング単発 甲子夜話卷之三十 20 姬路城中ヲサカベの事

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用いた。]

 

30―20

世に云ふ。姬路の城中に「ヲサカベ」と云《いふ》妖魅《えうみ》あり。城中に年久《としひさし》く住《すめ》りと云ふ。或云《あるいは、いふ》。天守櫓《てんしゆやぐら》の上層に居《ゐ》て、常に、人の入ることを、嫌ふ。年《とし》に一度《ひとたび》、其城主のみ、これに、對面す。其餘《そのよ》は、人、怯《おそ》れて不ㇾ登《のぼらず》。城主、對面する時、妖、其形を現《あらは》すに、老婆なり、と傳ふ。予、過《すぎ》し年、雅樂頭忠以《うたのかみただざね》朝臣に此事を問《とひ》たれば、「成程、世には然云《しかいふ》なれど、天守の上、別に替《かは》ること、なし。常に上る者も有り。然れども、器物を置《おく》に、不便《ふべん》なれば、何も入れず。しかる間、常に行く人も稀なり。上層に、昔より、日丸の付《つき》たる胴丸、壱つ、あり。是のみなり。」と語られき。其後、己酉《つちのととり/きいう》の東覲《とうきん》、姬路に一宿せし時、宿主《やどぬし》に、又、このこと問《とは》せければ、「城中に左樣のことも侍り。此處にては『ヲサカベ』とは不ㇾ言《いはず》、『ハツテンドウ』と申す。天守櫓の脇に此祠《やしろ》有り。社僧ありて、其神に事《つか》ふ。城主も尊仰《そんぎやう》せらるゝ。」とぞ【寬政「東行筆記」。是予所嘗錄下倣ㇾ此。】。

■やぶちゃんの呟き

「ヲサカベ」通常は漢字では「刑部姬」と表記される。「朝日日本歴史人物事典」の宮田登先生の解説によれば(コンマを読点に代えた)、『兵庫県の姫路城の天守閣に祭られている城の地主神といわれる。伝説では、天守閣に棲む妖怪とみなされる老女であり、築城の際に人柱となった女の変化とみられている。各地の人柱伝説では、築城や架橋の際に女性が埋められ、のちに神に祭られたと説明されている。刑部姫がいるという天守閣には、人は近づいてはならないとされ、ただ年に』一『回だけ、城主が対面を許されたという。築城以前に、この地域が聖地であり、土地の神が、そのまま地主神として、城の守護神に昇化したが、その霊異が強調されて禁忌が成立したと推察される。おさかべは、このあたりでは青大将(蛇)をさしており、原型は大蛇が地主神として崇拝されたものである』とある。

「雅樂頭忠以朝臣」播磨姫路藩第二代藩主酒井忠以(宝暦五(一七五六)年~寛政二(一七九〇)年)。

「己酉」天明九・寛政元(一七八九)年。「甲子夜話」で清(静山)自身の記録で、正確なクレジットが示されるのは、それほど多くはない。これは特異点の一つである。数え三十歳の時で、彼は安永四(一七七五)年二月、祖父誠信(さねのぶ)の隠居により、家督を相続している。

「ハツテンドウ」「ドウ」の表記にはちょっと問題があるが(会話だから仕方がない)、これは伝承に従えば、「八天堂(はつてんだう(はってんどう))」である。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の「姫山の地主神」に、姫路城築城を、実務上、指揮したのは池田輝政(永禄七(一五六五)年~慶長一八(一六一三)年)であるが、その『池田家では、鬼門』『にあたる城内北東部に、「八天堂(はってんどう)」という仏堂を建てた、とされて』おり、これに『関しては』、『史料がある』として、『小野市歓喜院(おのしかんぎいん)と多可町円満寺(たかちょうえんまんじ)には、「播磨のあるじ」を名乗る天狗が輝政にあてた書状と言われるものや、それにまつわる記録類が残されているのである』とあり、『この書状は』、『城内に寺院を建てよ』、『と輝政に要請するもので、慶長』一四(一六〇九)年十二『月と、現在の天守閣が完成したばかりのころの年代がついている。この書状は』、一旦は、『城内で発見され、直ちに輝政にも見せられたが、その時は黙殺された、という』。『しかし、その』二『年後、輝政が病』い『に倒れた。池田家では、円満寺の明覚(みょうかく)を招いて祈祷を行わせたが、その最中に、先の天狗の書状が』、『あらためて藩士から提出された。明覚は、この書状が要求するとおりに寺院を建立することを勧めたので、池田家では、鬼門(きもん)にあたる城内北東部に、「八天堂(はってんどう)」という仏堂を建てた、とされている』。『さらにこの』頃、『輝政の病』いは、『城が建っている姫山(ひめやま)の地主神(じぬしがみ)である長壁神(おさかべがみ)のたたりだ、との噂も流れていたという。長壁神は、もともとは姫山の上にまつられていたが、羽柴秀吉』『の姫路築城にともなって、城下の播磨総社(そうしゃ)に移されていた。そこで池田家では、長壁神社をも城内にまつり直した、とされている』とある。なお、引用元では、「諸国百物語」の中の関連怪談の二話を名指しのみしているが、それは私の「諸國百物語卷之三 十一はりまの國池田三左衞門殿わづらひの事」と、「諸國百物語卷之五 四 播州姫路の城ばけ物の事」で既に電子化注してあるので、読まれたい。

「東覲」参勤交代のこと。それ自体を「參覲交代」とも書いた。「覲」は「御目見えする」ことを指す。

『寬政「東行筆記」。是予所嘗錄下倣ㇾ此。』清(静山)は若き日より、筆記魔で、多くの記録を残している。これは寛政期の参勤交代の行き来に記したもの。後の部分は、「是れ、予が嘗つて錄せる所の下(か)」(条下)「に此れを倣(なら)ふ。」である。

フライング単発 甲子夜話卷之五十九 5 加藤淸正の故邸

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用いた。]

 

59―5

鳥羽侯【稻垣氏。】の邸《やしき》は麹町八丁目にありて、伯母光照《かうしやう》夫人、こゝに坐《おは》せしゆゑ、予、中年の頃までは、屢々、此邸に往《ゆ》けり。邸の裏道を隔《へだて》て、向《むかひ》は彥根侯【井伊氏。】の中莊《なかやしき》にして、高崖《たかきがけ》の上に、大《おほい》なる屋、見ゆ。「千疊鋪《せんじやうじき》」と、人、云ふ。又、云ふ。「この屋は、以前、加藤淸正の邸なりし時のものにて、屋瓦《やねがはら》の面には、その家紋、圓中《まるのなか》に桔梗花《ききやう》を出《いだ》せり。」と。又、この「千疊鋪」の天井に、乘物を【駕籠《かご》を云《いふ》】。釣下げてあり。人の開き見ることを禁ず。」。或は云。「淸正の妻の屍《しかばね》を容れてあり。」。或は云。「この中、妖怪、ゐて、時として、内より戶を開くを見るに、老婆の形なる者、見ゆ。」と。數人《すにん》の所ㇾ話《はなすところ》、この如し。然るに、その後、彼《かの》莊、火災の爲に、類燒して、「千疊鋪」も烏有《ういう》となれり。定めて、天井の乘物も焚亡《ふんばう》せしならん。妖も鬼も、倶に、三界、火宅なりき。

■やぶちゃんの呟き

「伯母光照夫人」調べたところ、志摩国鳥羽藩二代藩主(鳥羽藩稲垣家六代)稲垣昭央(てるなか 享保一六(一七三一)年~寛政二(一七九〇)年)の正室は松浦誠信(さねのぶ)の娘で、院号を光照院という。誠信は、長男の邦(くにし)の死後、後継者を三男政信と定めていたが、その政信は明和八(一七七一)年に、やはり、父に先立って死去したため、嫡孫である政信の子の清(静山)を後継者として定めたので、事実上は大伯母であるが、実質的な家督嗣子の関係からは「伯母」と称して問題ない。

「淸正の妻」当該ウィキを見ると、山崎片家娘を正室とし、他に継室の清浄院、側室に本覚院・浄光院・正応院の名が見える。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その5)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇は長いので、分割する。特に以下は「追記」とするも、長い。「選集」に従い(そちらでは、第「五」章と第「六」章に分離されてある)、分割する。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

追 記 英國で最も古い人柱の話は、有名な術士メルリンの傳にある。此者は賀茂の別雷神《わけいかづちのかみ》同然、父なし子だった。初め、キリスト生まれて、正法《しやうはふ/しやうほふ[やぶちゃん注:仏教用語では後者であり、それに準じて、私は「ほふ」と読みたい。]》、大《おほい》に興らんとした際、邪鬼輩、失業難を憂ひ、相謀つて一《いつ》の法敵を誕生せしめ、大に邪道を張るに決し、英國の一富家に禍《わざはひ》を降《くだ》し、先づ、母をして、其獨り息子を、鬼と罵らしめて、眠中、其子を殺すと、母は悔ひて、縊死し、父も悲しんで、悶死した。跡に、娘三人、殘つた。其頃、英國の法として、私通した女を生埋《いきうめ》し、若くは、誰彼の別なく、望みさへすりや、男の意に隨はしめた。邪鬼の誘惑で、姉娘、先づ、淫戒を犯し、生埋され、次の娘も同樣の罪で、多《おほくの》人の慰み物となった。季《すゑ》娘、大に怖れて、聖僧プレイスに救ひを求め、每夜、祈禱し、十字を畫いて寢よ、と敎へられた。暫く其通りして、無事だつた處、一日、隣人に勸められて飮酒し、醉つてその姉と鬪ひ、自宅へ逃げ込んだが、心騷ぐまゝ、祈禱せず、十字も畫かず、睡つた處を、好機會、逸《のが》す可らずと、邪鬼に犯され、孕んだ。斯くて、生まれた男兒がメルリンで、容貌優秀乍ら、全身黑毛《くろげ》で被はれて居《をつ》た。こんな怪しい父なし子を生んだは、怪しからぬと、其母を法廷へ引出《ひきだ》し、生埋の宣告をすると、メルリン、忽ち、其母を辯護し、吾れ、實は强勢の魔の子だが、聖僧ブレイス、之を予知して、生まれ落ちた卽時に、洗禮を行はわれたから、邪道を脫《のが》れた。予が人の種でない證據に、過去現在未來のことを知悉し居り、此裁判官抔の如く、自分の父の名さへ知らぬ者の及ぶ所でないと、廣言したので、判官、大に立腹した。メルリン、去《さ》らば、貴公の母を、喚べ、と云ふので、母を請じ、メを別室に延《ひ》いて、吾は誰の實子ぞと問ふと、此町の受持僧の子だ。貴公の母の夫だつた男爵が、旅行中の一夜、母が受持僧を引入《ひきいれ》て、會ひ居る處へ、夫が不意に還つて戶を敲いたので、窓を開いて逃げさせた。其夜、孕んだのが判官だ、是が虛言《そらごと》かと詰《なじ》ると、判官の母、暫く、閉口の後ち、實《まこと》に其通り、と告白した。そこで、判官、嚴しく其母を譴責して、退廷せしめた跡で、メルリン曰く、今、公の母は件《くだん》の僧方へ往つた。僧は此事の露顯を慙《は》ぢて、直ちに橋から川へ飛入つて死ぬ、と。頓《やが》て其通りの成行きに吃驚《びつくり》して、判官、大にメを尊敬し、卽座に、其母を放還した。

[やぶちゃん注:「術士メルリン」十二世紀に書かれた偽史「ブリタニア列王史」に登場する魔術師アンブローズ・マーリン(Ambrose Merlin)。当該ウィキによれば、『グレートブリテン島の未来について予言を行い、ブリテン王ユーサー・ペンドラゴンを導き、ストーンヘンジを建築した。後の文学作品ではユーサーの子アーサーの助言者としても登場するようになった。アーサー王伝説の登場人物としては比較的新しい創作ではあるものの』、十五『世紀テューダー朝の初代ヘンリー』Ⅶ『世が』、『自らをマーリン伝説に言う「予言の子」「赤い竜」と位置付けたため、ブリテンを代表する魔術師と見なされるようになった』とある。詳細はリンク先を読まれたい。

「ブレイズ尊者」マーリンの英語版ウィキに、彼を出生後すぐに洗礼した司祭として、“Blaise”の名が挙がっている。さらにフランス語ウィキの‘Blaise (légende arthurienne)を見ると、この“Blaise”という名前自体が、ケルト神話に於ける狼男を指し、ここにメーリンが毛に覆われていたということと、強い重層性を見ることが出来るという記載があった。]

 其れから五年後、ブリトン王ヴルチガーンは、自分は前王を弑して位を簒《うば》ふた者故、いつ、どんな騷動が起こるか知れぬとあつて、其防ぎにサリスベリー野《や》に立つ高い丘に堅固な城を構へんと、工匠一萬五千人をして、取掛《とりかか》らしめた。所が、幾度築いても其夜の間に、壁が、全く、崩れる。因つて、星占者《ほしうらなひ》を召して尋ねると、七年前に人の種でない男兒が生まれ居《を》る。彼を殺して、其血を土臺に濺《そそ》いだら、必ず成功する、と言つた。隨つて、英國中に使者を出して、そんな男兒を求めしめると、其三人が、メルリンが母と共に住む町で出會ふた。其時、メルリンが他の小兒と遊び爭ふと、一人の兒が、汝は誰の子と知れず、實は吾れ吾れを害せんとて魔が生んだ奴だ、と罵る。扠は、これが、お尋ね者と、三人、刀を拔いて立ち向ふと、メルリン、叮嚀に挨拶し、公等《こうら》の用向きは斯樣《かやう》々々でせう、全く僕の血を濺いだつて城は固まらない、と云ふ。三使、大に驚き、其母に逢ふて、其神智の事共を聞いて、彌《いよい》と呆れ、請ふて、メと同伴して、王宮へ歸る。途上で、更に驚き入つたは、先づ、市場で一靑年が履《くつ》を買ふとて、懸命に値を論ずるを見て、メが大に笑ふた。其譯を問ふに、彼は、其履を手に入れて、自宅に入る前に、死ぬはず、と云ふたが、果たして、其如くだつた。翌日、葬送の行列を見て、又、大に笑ふたから、何故と、尋ねると、此死人は、十歲計りの男兒で、行列の先頭に、僧が唄ひ、後に老年の喪主が悲しみ往くが、此二人の役割が顚倒し居る。其兒、實は、其僧が喪主の妻に通じて產ませた者故、可笑かしい、と述べた。由《よつ》て、死兒の母を嚴しく詰ると、果《はた》して、其通りだつた。三日目の午時頃、途上に何事も無きに、又、大に笑ふたので、仔細を質すと、只今、王宮に珍事が起つたから、笑うた、今の内大臣は美女が男裝した者と知らず、王后、頻りに言寄《いひよ》れど、從はぬから、戀が妒《ねた》みに變じ、彼れは妾《わらは》を强辱しかけた、と。讒言を信じ、大臣を捉へて、早速、絞殺の上、支解せよ、と命じた所だ。だから、公等の内、一人、忙《いそ》ぎ歸つて、大臣の、男たるか、女たるか、を檢査し、其無罪を證しやられよ、而して是は僕の忠告に據つたと申されよ、と言ふた。一使、早馬で驅付《かけつ》け、王に勸めて、王の眼前で内大臣が女たるを檢出して、之を助命した、とあるから、餘程、露骨な檢査をしたらしい。

[やぶちゃん注:「ブリトン王ヴヲルチガーン」五世紀、サブローマン・ブリテン時代のブリタンニア(現在のグレートブリテン島)に存在したと伝えられるブリトン人諸侯ヴォーティガン(Vortigern)のことか。当該ウィキによれば、『彼の存在は文学的にも注目され、前述の「ブリタニア列王史」にその名が見られた事からアーサー王伝説の登場人物の一人として取り上げられる事となり、さらに後年になってシェイクスピア外典の題材としても取り扱われている。サクソン人の侵攻を誘発した人物として古くから名が記されている事から』、『歴史の流れにおいて彼の役割をした人物は存在すると考えられているが、史的人物としてのヴォーティガンの実在性は、はっきりとしていない』とある。

「支解」遺体の手足を切断すること。死後の凌辱刑の一つ。]

 扨、是れ、漸く七歲のメルリンの告げたところと云ふたので、王、早く、其兒に逢ふて、城を固むる法を問はんと、自ら出迎えて、メを宮中に招き、盛饌を供し、翌日、伴ふて、築城の場に至り、夜になると、必ず、壁が崩るるは、合點行かぬといふに、其は、此地底に、赤白《せきびやく》の二龍が棲み、每夜、鬪ふて、地を震はすから、と答へた。王、乃(すなは)ち、深く、その地を掘らしめると、果して、二つの龍が在り、大戰爭を仕出《しで》かし、赤い方が、敗死し、白いのは、消《きえ》失せた。斯くて、築城は功を奏したが、王の意、安《やす》んぜず、二龍の爭ひは何の兆《きざし》ぞと、問ふこと、度《たび》重なりて、メルリン、是非なく、王が先王の二弟と戰ふて、敗死する知らせ、と明かして消え失せた。後ち、果して城を攻落《せめおと》され、王も后も焚死したと云ふ(一八一一年版、エリス著、初世英國律語體傳奇集例、卷一、二〇五―四三頁)。英國デヴォン州ホルスウォーシーの寺の壁を十五世紀に建てる時、人柱を入れた。アイユランドにも、圓塔下より、人の骸骨を掘出したことがある(大英百科全書十一板、四卷七六二頁)。

[やぶちゃん注:「選集」では、ここで第「五」章(「追記」の標題はない)が終わっている。

「一八一一年版、エリス著、初世英國律語體傳奇集例、卷一、二〇五―四三頁」

「大英百科全書十一板、四卷七六二頁」イギリスの古物収集家にして大英博物館主任司書を長年務めたヘンリー・エリス(Henry Ellis 一七七七年~一八六九年)の著作ではないかと思われるが、原題を調べ得なかった。]

西原未達「新御伽婢子」 人喰老婆

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

     人喰老婆(ひとくひうば)

 京、大宮丹波屋町といふ所に米穀を商ふ六右衞門とかやいふ男、神無月の中比《なかごろ》、夜、いと更て、

「親(したしき)ものゝ、病《やまひ》を訪(とふら)ふ。」

とて、室町錦の小路なる處に行《ゆく》に、月、冷(すゞ)しく、風、いたく、身にしみて、村時雨(むらしぐれ)、間(ま)なく、かよひければ、傘(からかさ)、打《うち》かたぶけて、四条を東に步むに、などやらん、寥落(ものすごき)心、いできて、前後(ぜんご)かへり見がちなり。

[やぶちゃん注:「丹波屋町」現在の京都市上京区丹波屋町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「錦の小路」ここの東辺りの病んだ親しい友の家はあったようである。]

 かく、氣味よからぬ時しも、

「強《しひ》て行《ゆく》べきに非ず。立歸(たちかへり)、あすや、まからん。」

と、道、少《すこし》、踏戾(ふみもど)りしかども、

『おもへば、はなちがたきものゝ病勞(いたはり[やぶちゃん注:二字への読み。])を問ふに、今宵を延(のべ)て明朝(あす)を期(ご)せん事、いとゞ常(つね)なき人の身の、わきて煩(わづらふ)折《をり》》にさへあれば、今もや、いかゞ無覺束(おぼつかなし)、抑(そも)、又、遠境海路(ゑんきやうかいろ)の程か、埜山《のやま》》を越(こゆ)る難所(なんじよ)か、淺ましき心かな。』

と、心に我を恥かしめて、靜(しづかに)運(はこ)び行《ゆき》けるほどに、堀川の辻に出《いで》て、橋の詰(つめ)に渡りかゝる所に、北西の釘貫(くぎぬき)の傍(そば)より、

「なふ、なつかしや、六右衞門。」

と、いふて、逶迤(よろぼひ)出《いで》るものをみれば、月影に、色あひ、安定(さだか[やぶちゃん注:二字への読み。])ならねど、八旬[やぶちゃん注:八十歳。]斗《ばかり》と覺しき姥(うば)の、眞白(ましろ)なる髮を振乱(ふりみだ)し、眼(まなこ)、靑く、ひかりて、口、耳の根へ、きれたり。

 

Hitokuhiuba

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 大手(《おほ》で)をひろげ、攫(つかみ)つかんとする。

 男、

「はつ。」

と、おもひ、木履(ぼくり)・傘(かさ)打《うち》すてゝ、東をさして、逃(にげ)て行《ゆく》事、息も、つぎあへず。

[やぶちゃん注:「堀川の辻」四条堀川。ここに至る道程は「平安条坊図」で確認された方が判り易い。

「釘貫」挿絵の妖婆の向こうに見える「釘貫門」。両方の柱の上部に二本の貫を通し、下に扉を入れた門。「釘門」とも。種々の場所に用いられたが、ここは恐らく町内の木戸と思われる。

「逶迤」は音「ヰイ」、当て訓で「もごよふ」で、「(蛇などが)うねりながら行く・身をくねらせて動いて行く・のたくる」から「足腰が立たずはって行く・よろよろと行く」の意。]

 漸々(やうやう)、病家(びやうか)に至りぬれども、病中なれば、あやしき咄(はなし)もせず、其夜は、そこに明(あか)して、旦(あした)に歸る。

 ありし堀川の辻に至りて、夜部(よべ)を思へば、身の毛、よだちて覺えける。

 爰に脫捨(ぬぎすて)たる履(ぼくり)を見れば、賤(いやしく)大きなる齒がた入《いり》て、咀碎(かみくだき)、傘も、引《ひき》さき、ほねも柄も、打《うち》ひしぎて置けるこそ、醜(おそ《ろ》[やぶちゃん注:脱字。補った。])しけれ。

 何の所爲(しよゐ)ともしらず。

 或人のいふ。

「人喰姥(ひと《くひ》うば)と云《いふ》物、此わたりに有《あり》て、雨、くらく、風、すごき夜は、出る、といふ。それなるべし。」

と。

 又、明曆(めいりやく)の比にや、壬生(みぶ)の水葱宮(なぎの《みや》》に、人喰姥《ひとくひうば》といふもの、住(すみ)て、幼子(おさなひ[やぶちゃん注:ママ。「もの」を略したものか。])共《ども》を取喰ふと、沙汰して、洛中城外の騷(さはぎ)、數日(すじつ)止(やま)ざりき。

 應長の比、

「伊勢の國より、女の鬼に成《なり》たるを、ゐて、登りし。」

とて、京白川(しらかは)のさはぎける、と。

 つれづれに書(かき)しに、似かよひたる事にて、誰(たれ)見たるといふ人もなく、虛言(そらごと)ともいはで、いつとなく、靜(しづま)りぬ。

 壬生に近き堀川なるによつて、此化生(けしやう)を「人喰姥」と号(なづけ)けるにや。

[やぶちゃん注:「夜部」「昨夜(よべ・ゆふべ)」に同じ。「ようべ」「よんべ」とも言った。

「明曆(めいりやく)」現行、「めいれき」と読むのが普通。一六五五年から一六五八年まで。家綱の治世。

「壬生の水葱宮」京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町にある元祇園椰(もとぎおんなぎ)神社・隼(はやぶさ)神社の近世までの呼称。ここは現在の名から判る通り、八坂神社の古跡に当たるという。

「應長」一三一一年から一三一二年まで。]

2022/09/17

西原未達「新御伽婢子」 女生首

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。

 読みの(*/*)は右/左の読み(左は意訳)を示す。]

 

     女生首(《をんなの》なまくび)

 或《ある》若僧(にやくそう)、宮古にて、人の娘に、いひかよはし、深き契りをこめにけり。

[やぶちゃん注:「宮古」「都」に同じ。京。]

 親師(おやし)の坊の仰《おほせ》にて、關東へ學問に下る。

[やぶちゃん注:「親師」ここは出家して就いている親代わりの師僧ととっておく。]

 馴(なれ)し女に、名殘(なごり)ありて、暫(しばらく)、虛病(きよびやう/うそ)に日を送りけれども、かくて有べきにもあらねば、今は歎(なげく)に、力(ちから)なく、女に暇乞(いとまごひ)して、既に東におもむけば、女、やるかたなく、戀悶(こひもだへ)、袖にすがりて、送り行《ゆく》。

 都をば、まだ、夜《よ》とともに出しかど、栗田口(あはたぐち)まで行《ゆき》かゝれば、空(そら)晨明(しのゝめ)に成《なり》にけり。

 僧、女に云(いふ)、

「いつまでも、つきぬ名殘に侍れど、明《あけ》はなれなば、いか斗《ばかり》、余所(よそ)の見る目も見ぐるし。たとへば旅程(りよてい/たびのほど)を雲に隔(へだつ)とも、頓而(やがて)の内に立歸(たちかへり)、空行月(そらゆく《つき》)の、めぐり逢(あひ)なん。是より、歸り給へ。」

と、いへば、女、是非を弁(わきま)へず、

「只今、別れ參らせ、片時(かたとき)、生(いく)べき、命、ならず。さればとて、つき添下(そひ《くだ》)らんも不ㇾ叶(かなはず)。唯(たゞ)、自(みづから)頸(くび)を切《きり》て、記念に持《もち》て、下り給へ。」

と、いひて、懷(ふところ)より小脇指(こわきざし)を取出《とりいだ》す。

 僧、あきれて、思ふ。

 

Onnanoikikubi

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

『是非ともに、此女の、生(いき)て歸らぬ心にて、かく、釼(つるぎ)迄、用意せし成《なる》べし。「歸れ」といふに、行(ゆき)やらず、つれんとするに不ㇾ叶、夜は、早、明《あかる》く成たれば、菟角(とかく)、時刻うつしては、あやしき恥に及ばん。』

と、情(なさけ)なくは思ひながら、雪とあやしむ肌に、氷の釼を押《おし》あてゝ、頸、討《うち》おとし、骸(かばね)をおさめ、頸を油單(ゆたん)に取包(とりつつみ)、袖を淚にひぢながら、東の旅途におもむき行《ゆく》。

[やぶちゃん注:「油單」一重(ひとえ)の布や紙に油を浸み込ませたもの。湿気や汚れを防ぐため、旅装の携帯として、また、敷物や風呂敷などに用いた。]

 飯沼《いひぬま》の弘經寺(ぐぎやうじ)といふ談林(だんりん)に、一所の寮をしめて居(ゐ)たり。

[やぶちゃん注:「飯沼の弘經寺」現在の茨城県常総市豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経寺(ぐぎょうじ:グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、室町時代の応永二一(一四一四)年、『名越流北条氏一族の出で、増上寺開山聖聡弟子だった嘆誉良肇(りょうちょう)の開山により下総国岡田郡飯沼村』『に創建された』。『良肇により僧侶の教育に力が入れられ、二世の松平氏宗家第四代松平親忠開基の大恩寺開山了暁(りょうぎょう)慶善、弘経寺三世の曜誉酉冏(ゆうげい)、徳川将軍家菩提寺大樹寺開山の勢誉愚底(ぐてい)、知恩院』二十二『世周誉珠琳(しゅりん)、松平氏宗家第三代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏(そんげい)などが輩出』した。『のち、北条氏と争っていた下妻城主多賀谷重経の陣が寺内に置かれ、戦禍により荒廃するが、徳川家康』の『次男結城秀康の開基で、結城弘経寺(茨城県結城市)が再建された』。『家康からも信仰されていた』十『世了学により再興され、江戸期には浄土宗の檀林』(仏教寺院に於ける僧侶の養成機関で仏教各宗派の学問所に当たる。「談林」に同じ。さすれば、本篇の時制も共時的と考えてよいであろう)『がおかれた。了学から五重相伝を受けた千姫から本堂の寄進もなされた』、江戸時代はかなり有名な寺であった。]

 此僧、外に出て歸る時、必(かならず)、女の聲して、たからかに笑ふ事、間(まゝ)多し。

 隣壁(りんぺき)の僧、不審をなし、隱間(ものゝひま)より、覗(のぞく)こと、あまたゝび、されども、此僧、獨(ひとり)のみで、人、更になし。纔(わづか)に狹(せば)き内なれば、いづくに、人、壱人《ひとり》、隱(かくす)べき、くまも、なし。

[やぶちゃん注:「獨(ひとり)のみで」「西村本小説全集 上巻」ではここは『独ならで』と起こされてある。確かに崩しからは、そう見えるが、それでは話が通じない。判読では、やや苦しいが、私は「のみで」と判じた。]

 とかくして、三年(《み》とせ)過《すぐ》る。

 其比《そのころ》、此僧の母、

「煩(わづらふ)事あり」

とて、飛脚、下りければ、僧、取不ㇾ敢(とりあへず)、登りぬ。

 其後《そののち》、三十日(みそか)斗《ばかり》して、此寮の内に、女の聲にて、哭喚(なきさけぶ)事、あり。

 各《おのおの》、肝をけし、寺内、騷動し、此戶《ここのと》に、鎖(じやう)のおりたるを、打《うち》ぬきて、内を見るに、あへて、人、なし。

 少《すこし》、澁紙包(しぶがみつゝみ)の内に、此聲、あり。

 醜(おそろし)ながら、ひらき見れば、飯櫃《いひびつ》やうの曲(まげ)たる物に、若く盛(さかん)なる女のくび、紅粉翠黛(こうふんすいたい)、生(いき)たる顏に、いやまさりて、けつらひ、愁へる眼、淚に浮(うき)、腫(はれ)たり。

 人々を見るより、恥かしげに、しほれしが、朝の雪の、日にあへる如く、

「じみじみ」

と、色、變じて、忽(たちまち)むなしく、枯(かれ)にけり。

 いかなる事とは知らねど、衆僧(しゆそう)、葬りて、跡、悃(ねんごろ)に弔とふ)。

[やぶちゃん注:このシークエンスはここまでの本書の中では、最もオリジナルティに富んだ、凄絶な場面である。

「けつらひ」「擬ひ」で「化粧して」の意。

「悃」には「真心」の意がある。]

 其後《そののち》、京より、飛脚下りて、

「かの若僧 急病をうけて 此いつの日 相果(《あひ》はて)ぬ 寮を明渡し申す」

といふ使也。

 各《おのおの》、思ひ合すれば、此頸の哭(なき)たる日、おなじ時也けり。

 後々、京にての、あらまし、聞へけるにぞ、皆人《みなひと》、舌を卷(まき)ぬ。

 一念(《いち》ねん)五百生繫念無量劫戀慕執着(《ごひやく》しやうけねんむりやうごうれんぼしうじやく[やぶちゃん注:ママ。])の報ひをうけん事、淺ましきかな。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、唐(もろこし)に吳子胥(ごししょ)といふものあり。吳王西施といふ后(きさき)にまよひ、政(まつりごと)の不ㇾ正(ただしざる)を諫(いさ)め申せしに、吳王、怒(いかつ)て、子胥が頸を討つ。吳子胥が云《いふ》、「我頸(くび)を吳の東門(とうもん)にかけよ。」と。則(すなはち)、かけぬ。其後《そののち》、吳王、越のとりこと成《なり》て、吳の東門を過(すぎ)けるに、子胥が頸、吳王のありさまを見て、笑ひけるとぞ。本朝(ほんてう)の古(いにし)へ、相馬の將門、謀叛を起しけるが、秀鄕のために討たれて、此頸、三月迄、色、不ㇾ變(へんぜず)、眼(まなこ)を不ㇾ塞(ふさがず)、「將門は米かみよりぞ切られける」とよみし歌にて、此頸、「からから」と笑ひ、眼(まなこ)をとぢ、枯死(かれじゝ)けるとぞ。猛きものゝふは、さる事も、ありなん。かたちやさしき女に、かゝる醜(おそろしき)事、又、類(たぐひ)なからんか。

[やぶちゃん注:「吳子胥」は伍子胥(?~紀元前四八四年)の誤り。私が教師時代、漢文で必ずやった好きな話である。しかし、ちょっと間違いが多い。まず、子胥は討たれたのではなく、夫差から、自害しろという意味で「屬鏤(しよくる)の劍(けん)を賜ふ」たので、「自剄(じけい)」して亡くなったのである。その最期に、彼は家人に告げて、 「必ず吾が墓に檟(か)を樹ゑよ。檟は材とすべきなり」と言う。この「檟」は棺桶に用いる木本の名であり、それは越に責められて死ぬ夫差の棺桶の材となると言うたのだ。そして「吾が目を抉(ゑぐ)りて、東門に懸けよ。 以つて越兵の吳を滅ぼすを觀(み)ん。」と言い放ったのだ。自死の直後に、この遺言を聴いた夫差は、怒髪天を衝き、命じて、子胥の「尸(しかばね)を取り、盛るに、鴟夷(しい)」(馬の皮で作った酒を入れるための袋)「を以つてし、之れを江(かう)に投」じたのだ。だから、彼の眼球は東門には、そもそも懸けられてはいないのだ。十年後、子胥の言った通り、越が呉を伐った。命乞いをしたが、許されず、夫差は、「吾れ以つて子胥を見る無し。」と呟いて、「幎冒(べきぼう)を爲(つく)りて、乃(すなは)ち死す。」(死者の顔を覆うための四角い布であるが、ここは「あの世で子胥に合わせる顔がない」から死の直前に自ら顔を覆ったのだ)と終わるのだ。]

西原未達「新御伽婢子」 古屋剛

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。

 読みの(*/*)は右/左の読み(左は意訳)を示す。]

 

      古屋剛(ふるやのかう)

 九州、或方(ある《かた》)の御内《みうち》に、赤松何某(なにがし)とかや云《いふ》勇猛(ゆうまう/はなはだたけきさふらひ)の士あり。儒窓(じゆさう/ まど)に眠(ねふる)事、良(やゝ)久(ひさしく)、義心、不ㇾ輕(かろからず)、武、また、兼備(けんび/かねそなへ)したり。

 もと、此主人、東(あづま)より爰に國替有し砌(みぎり)、御城の側(かたはら)に異やうに荒果(あれはて)て、いつ、人の住《すみ》たりとも覺えぬ、いたく朽(くち)たる屋敷あり。

 百性(ひやくしやう)[やぶちゃん注:ママ。]共を召(めし)て、問はせらるヽ。

 百性ども、申す。

「此屋敷には、化生(けしやう)、住《すみ》て、幾(いくばく)の人、屋移(《や》うつ)り在りても、一夜《ひとよ》をだに、明(あか)させ申さず。或は、迯去(にげさり)、或は、絕入(ぜつじゆ)し給ふになん、をはす。」

と申《まをす》。

「何条(なんでう)、上(かみ)より拜領し奉る所に、異(こと)ものゝ來て、主(しゆ)たらん事、あらん。赤松何某に爰《ここ》を得さす。堅(かたく)守りて、ぬしたるべし。」

と直(ぢき)に仰在《おほせあり》けり。

 赤松、

「忝《かたじけない》。」

と、御請《おうけ》申し、

『誠(まことに)、家中多きに、撰出(ゑらみだ)され、給はる事、若《もし》、化生住《すむ》事、虛僞(きよゐ/いつはり[やぶちゃん注:ママ。])ならずば、退治せよ。』

との御胸内(《きやう》ない/むね )、

「家門美目(かもんのびもく)、何(なに)が之《これ》に加(し)かん。」

と、日をかへず、直(すぐ)に屋敷に移り、其夜は、

「心だめしに。」

とて、身の出立《いでたち》、甲斐甲斐しく、太刀・鑓・長刀(なぎなた)、武器を雙(なら)べ、鉢巻し、具足櫃(《ぐそく》びつ)に腰をかけ、大蝋燭、日をあざむひて(さゝげ)、下侍(しも《ざぶらひ》)、四、五人、二列(れつ/つらなる)し、四方(よも)の咄(はなし)に、夜《よ》更(ふく)るを待(まつ)。

[やぶちゃん注:『赤松、「忝。」と、御請申し』この部分、「西村本小説全集 上巻」では、『赤松添と御請申し』となっているのだが、これでは、読みようがない。崩し字を見るに、確かに「添」の崩しに似てはいるが、意味からも、崩し方からも、これは間違いなく「忝」が正しいと断定出来る。

 既に半夜(はんや)の鐘、是生滅法(ぜしやうめつぱう)の響(ひゞき)を告(つげ)、世間、靜なるに、嵐雨(らんう/あらしあめ)、蘇鉄(そてつ)にそぼち、いとゞ物すごき比《ころ》、下侍、同時に、眠(ねふり)、きざして不ㇾ堪ㇾ忍(しのぶにたへず)、まろび寢(ね)ぬ。

 赤松は、至剛(しいかう[やぶちゃん注:ママ。])の人にて、氣を奪はれず、燈(ともしび)、猶、かゝげて、待(まつ)。

 時に、したたかなる足音して、來る物、あり。

 

Huruyanokau

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 障子を、

「くわつ」

と、あけ、

「えい。」

と云《いひ》て、座敷(ざしきへ)あがるものを見れば、其長(たけ)、天井にひとしき坊主、顏は臼(つきうす)の大きさして、眼(まなこ)、車輪のごとくなるが、赤松を、

「はた。」

と罵(にらん)[やぶちゃん注:漢字・読みともにママ。]で、立居(たちゐ)たり。

「すはや。」

と、刀をくつろげ、

『柄(つか)も、拳(こぶし)も、くだけよ。』

と、にぎつて、是《これ》も、法師を罵(にらん)で、眴事(まじろぐこと)、なし。

 暫(しばらく)有《あつ》て、法師の云《いふ》、

「天晴(あつぱれ)、男かな。今宵は更《ふけ》ぬ。明夜《みやうや》、疾(とく)まいりて、語らん。」

と、云捨(《いひ》すて)、又、もとの道を行《ゆく》に、其足音、家に響(ひゞき)て、雷(らい)のごとし。

 此時、既に、

『切付《きりつけ》なん。』

と思ひしが、

『否々(いやいや)、明夜來《きた》らんといひし所、面白し。又、いかなる異形(《い》ぎやう/ かたち)を化(け)して來らん、それを見ぬは、無念なり。』

と、靜(しづか)に侍共を動起(うごかしおこ)し、

「此在樣(ありさま)、見けるや。」

と問(とふ)。

 皆、口々に、

「何とは不ㇾ知(しらず)、庭に、物の音《おと》なひ、聞ゆと、ひとしく、一向(ひたすら)、眠(ねふり)出《いで》て、死入(しに《いる》)心ちし、何事をも、見ず。」

といふ。

 赤松、聞《きき》て、

「『明日の夜、必、來べき。』といひし程に、生(いけ)て歸しぬ。待《まち》つけて、各々(おのおの)、見よ。」

と、次の夜を、遲し、と待《まつ》。

 其夜は、早(はや)、戌(いぬ)の過《すぎ》、亥《ゐ》の初(はじめ)[やぶちゃん注:午後九時頃。]なるに、件(くだん)の足音、聞ゆると、宿直(とのゐ)の侍共、寢入事(ね《いること》)前のごとし。

 障子、明《かえ》て、いらんとする所を、すかさず、討(うた)んとしければ、法師、聲をかけて、言(いふ)、

「相構(《あひ》かまへ)て卒爾(そつじ)し給ふな。我は是《これ》、此所《このところ》の主(ぬし)として、數百歲(すひやくさい)を經(ふ)る。『此家に來《きた》る人、心、剛なるをもつて、つれづれの伽(とぎ)とせん。』と思ひ、多くの家うつりの初見(しよけん)に出《いづ》れば、我(わが)形(かたち)にをそれて[やぶちゃん注:ママ。]、絕入(ぜつじゆ)し、われかの氣色に成《なる》もあり、逃(にげ)まどひて、二度、爰に來らず。今、君が大剛なる事、千万人に勝り、向後(かうご)參り、昵語(むつまじくかた)るべし。初《はじめ》て昵近(ちかづき)のしるしに、我《わが》重寶(《ちよう》ほう)を引手物せん。」

と、刀一腰(こし)をあたふ。

 赤松、打諾(うちうなづき)、此刀をとるやいなや、拔討(ぬきうち)に切《きり》つけたり。

 手ごたへ、したゝかにして、法師は、庭に逃去(にげさり)、血は席上に紅(くれなゐ)を亂す。時に侍共を起し、燭(しよく)をかゝげ、血をしたい[やぶちゃん注:ママ。]、跡を求(もとむ)るに、一町斗《ばかり》、巽(たつみ)のかたに、藪あり。

 纔(わづか)の穴の内へ、血、流れたり。

 各《おのおの》、不審をなし、

「何樣(なにさま)、古き狸(たぬき)なるべし。ふすべよ。」

と言《いふ》こそ遲けれ。

 靑松葉をたきて、穴の中へ、あをち入るゝ。

[やぶちゃん注:「あをち」不審。「あふり」(煽り)の誤刻か。]

 暫(しばし)して、少(ちいさき)狸の、いくらともなく出《いづ》るを、突殺(つきころ)し、うちふせ、

「猶、此奧、覺束(おぼつか)なし。」

と、卽時に、弐間斗《ばかり》[やぶちゃん注:三メートル六十四センチ。]、堀(ほり)て[やぶちゃん注:ママ。]見るに、特牛(ことい)のふしたるほどの古狸(ふる《だぬき》》、深き疵(きづ)に苦しみて居(ゐ)けるを、引出《ひきいだ》して、切殺(《きり》ころ)しけり。

 扨、狸のあたへたる刀を、御前に披露するに、御家老の祕藏の名釼(めいけん)にて、刀箱(かたなばこ)に有しを、蓋(ふた)も鎖(じやう)も其儘にて、盜來(ぬすみ《きた》)るこそふしぎなれ、「あふひの刀」にて侍るとぞ。

[やぶちゃん注:「特牛(ことい)」正しい歴史的仮名遣は「ことひ」。古く「こというじ」とも言った。強健で大きな牡牛。頭の大きい牛。また、単に牡牛のこと。「こって」「こってい」等、変化した言い方が多い語である。

 以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、楠正成、㚑鬼(れいき)と成り來りて、大森彥七が名劍を奪はんとはかりしかども、取得る事、叶はざりしに、畜類の妖怪として、かゝる事をなしける、おそるべき事にこそ。

[やぶちゃん注:「楠正成、㚑鬼(れいき)と成り來りて、大森彥七が名劍を奪はんとはかりし」「太平記」由来の怪奇伝承。南北朝時代の武将。通称を彦七(ひこしち)と称した大森盛長。派生話はウィキの「大森盛長」に詳しい。盛長が楠木正成の怨霊に遭った伝説を描いた月岡芳年画「新形三十六怪撰」の「大森彦七道に怪異に逢ふ図」も見られる。「太平記」の原話の梗概は、サイト「日本伝承大鑑」の「愛媛」の「魔住ヶ窪」がよい。]

西原未達「新御伽婢子」 古蛛怪異

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。本話には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。

 読みの(*/*)は右/左の読み(左は意訳)を示す。標題の「恠異」の左にはなにもない。]

 

       古蛛恠異(こちうけ《い》/ふるきくも)

 美濃國本巢(もとず)と云《いふ》所の近邊(きんぺん)に、道の左右に、高木(かうぼく/たかきき)、生茂りたる所、あり。

「爰を夜中に通るもの、必(かならず)、死する。」

とて、暮(くれて)の後(のち)、人、敢(あへて)通路(つうろ)せず。

[やぶちゃん注:現在の岐阜県本巣(もとす)市(グーグル・マップ・データ)。]

 本巢に、牢人(らうにん)、有り、去(さる)子細あつて、武門を出《いで》、暫(しばらく)、彼(かの)在所に居(きよ)す。

 下部(しもべ)にいひ付《つけ》て、

「今宵、急用あつて、そこそこに遣(つかは)す。早く行(ゆき)て來(こ)よ。」

といふ。

 主命なれば、いなといふべきにあらず、彼地(かのち)に行(ゆく)。

 此下人、すぐれて憶病にさへ生(むま)れつきたれば、彼(かの)松原を通らん事、戰慄(みぶるひ)して、おそろし。

[やぶちゃん注:「戰慄」は「西村本小説全集 上巻」では『戦慓』と起こしてあるが、底本をよく見るに、これは「慄」であり、それでこそ、躓かないと判断した。]

『さりとて、𢌞り行(ゆけ)ば、大きなる嶮岨(けんそ/さかしきそば)を越(こえ)て、しかも二里余(よ)の費(ついへ)ありと云《いひ》、殊に、「急用あり」といふに、遲くなるべし。一期゛《いちご》[やぶちゃん注:濁点附きはママ。]の大事、爰(こゝ)にあり。』

と、思ひ思ひ、力(ちから)なく、松原にさしかゝり、足を空に、まどふ。

[やぶちゃん注:「さかしきそば」という読みは「けわしい切り立った崖」の意。]

 爰に、大きなる榎(え)の木、松に爭ひて、生出(おひ《いで》)たる、あり。

 此下を通る時、何とは不ㇾ知(しらず)、黑く、丸くて、一尺余りなる物、鑵子(くわんす)など、ひらめくやうに、榎の木より、

「つるつる」

と、おるゝ。

 星さへ出《いで》ぬ、くらき夜《よ》に、雨さへ、そぼちて、物すごく、此男、進退(しんたい/すゝみしりぞく)、爰にきはまり、彼(かの)木のかたを詠(ながむ)るに、七尺余(あまり)の女、色白きが、みどりの髮を、さばきて、眼(まなこ)もなき顏の、忽然として出來(いでき)たる。

 男、一目見るより、

「あつ。」

と、いふて、うつぶしにたふれて、死《しに》けり。

[やぶちゃん注:「死けり」言わずもがなだが、古典では広く気絶することを言う。]

 主人、下部の遲(おそく)歸るを、不思義に思ひ、外(ほか)につかふ僕(ぼく)もなければ、炬(たいまつ)取《とり》て、自(てづから)、彼(かの)道に行《ゆき》て見るに、彼男、木(こ)の下(もと)に、死《しし》てあり。

 主人、驚(おどろき)、水、そゝぎなどし、呼生(よびいけ)ければ、漸々、人心ちつきて、ありし次㐧を語る。

 召連(めしつれ)、歸らんとするに、彼(かれ)が臥(ふし)たる下に、恠(あやしき)もの、あり。

 火を、ふりたてゝ見れば、すさまじく大(おゝ[やぶちゃん注:ママ。])きにして、針のごとき毛の生(お)ひたる、蛛(くも)の死せるにて在《あり》けり。

 思ふに、是は、下部の、息を切《きつ》てはしる所を、取《とつ》て喰はんと、木よりさがる時、あやまつて、蛛に行《ゆき》あたり、其上へ打《うち》たふれたるに依(よつ)て、怪我の高名をしてんと、見ゆ。

 誠に、年來(ねんらい/としごろ)、此原(はら)に、化生(けしやう)、住(すみ)て、人を取《とる》といひし、是なるべし。

『「天晴(あつぱれ)、此蛛を、我(わが)平(たいらげ[やぶちゃん注:ママ。])たる。」と披露し、猛(たけ)き名を取《とり》、今一度(ど)、知行(ちぎやう)にも望姓(もとづ[やぶちゃん注:二字への読み。])かばや。』

と、おもひ、

『下部を生《いけ》ておかんに、此奸曲(かんきよく)、顯(あらは)るべし、所詮、切《きつ》て捨てん。』

と、心もとを、さしとをし[やぶちゃん注:ママ。]、死骸(しがい)を、深く、原上(げんじやう)に埋(うづ)み、彼《かの》蛛を引提(《ひつ》さげ)、里に歸り、所の者を寄(よせ)て、手柄を語る。

 人皆(《ひと》みな)、肝(きも)を消して、

「强力(がうりき)の人。」

と稱す。

 然るに、死《しに》ける下部、里中(さと《ちゆう》)の者の夢に、見えて、いふ。

「我、ケ樣(かやう)の事によりて、非業(ひ《ごふ》)の命を、とられぬ。不審あらば、其所(《その》ところ)の松が根を、穿(うがち)て見給へ。」

といふ。

 人々、よりて、夢を語るに、皆、ひとつことにして、露(つゆ)たがはず。

 ふしぎの思ひをなし、かの松原に行《ゆき》、見るに、實(げに)も、新(あらた)に埋(うづみ)たる、土、あり。

 ほりて見れば、下部が死骸なり。

 此故に、牢人は殺害(せつがい)せられけるとぞ。

[やぶちゃん注:作者は後半の人の心の鬼にこそ主眼をおいているように思われる。]

西原未達「新御伽婢子」 生恨

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

新御伽巻二

     生恨(いきてのうらみ)

 ある若人(わかうど)、女色にふけりて、是彼(これかれ)、いひかよはすかた、おほかるに、或時、かりそめ、傾國に泥(なづみ)てより、絕(たえ)ず、その里にかよひけり。

 わきて、わりなく思ひかたらふ女あるに、一夜もあはぬ折は、千とせを隔(へだつ)心ちし、春の日の永きには、暮を待わびて、駕僕(かぼく/のりもの おとこ[やぶちゃん注:ママ。右/左の読み。以下同じ。]をはしらしめ、夏の夜の短きには、鳥《とり》の鳴音(なくね)に、きぬぎぬの恨(うらみ)を數へて、かへり見がちの、わかれをなげき、年ごろ日ごろ、過(すぐ)る程に、女も、もとは川竹(かはたけ)のながれの身には侍れど、一夜(ひとよ)二夜の昔こそあれ、今は、さすがに、打とけて、むすびし紐を、ひとりして、あひ見る迄はの末ながく、千々の万(よろづ)の神かけて、空(そら)おそろしき誓言(ちかごと)を書(かき)、うば玉の黑髮を、切《きつ》ては、いとしき筋(すぢ)の數々(かずかず)を見せ、たらちねのゆづりし指を、そぎては、紅深(くれなゐふか)き思ひの色を送りけり。

 さるに、世の人の心の水のあすか川、かはるふちせのはやければ、浪行(なみゆく)花のよしのやま、去年(こぞ)の枝折(し《をり》)の道かえて[やぶちゃん注:ママ。]、余所(よそ)に男のかよひけり。

 女、さまざま、うらみ音(ね)の琴・三味線(さみせん)に慰(なぐさめ)ども、糸(いと)による物ならなくにと、いひしふることさへ、そひて、物がなしく、心ぼそさなん、増(まさ)りけり。

 

Ikitenourami

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここであるが、製本時に誤ったらしく、左右が逆になっている。

 

 去(され)ども、此男、ありし哀(あはれ)を思ひもかけず、妾(せう/てかけ)といふものに、心そめて、かたへ凉しき閑居(かんきよ/しづかにゐる)をしつらひ、木(こ)の下(もと)の床机(《しやう》ぎ/ゆか)に腰かけ、酒、打《うち》のみ、庭の草花を、二人、詠めて、

 塵をだにすべしとぞ思ふうへしより

  妹と我ぬるとこなつのはな

[やぶちゃん注:「ぬる」は「寢る」。]

などいふ、たんざくを付《つけ》て、たはぶれゐる折ふし、草の陰より、二尺斗《ばかり》の蛇、首(かしら)は、小指に目・口つきたるが、

「するする」

と、這出(《はひ》いで)、首のかたは、男の手に、尾の方は、女の手に、

「ひたひた」

と、まとひつき、しめ、呵責(さいなむ[やぶちゃん注:二字への読み。])事、たえがたし。

 此時、男、先非(せんぴ)を悔(くい)て、さまざま、云侘(いひわぶ)れ共《ども》、放(はなち)もやらず、次㐧《しだい》に、強(つよく)、痛むる。

 妾(せう)は、なを[やぶちゃん注:ママ。]、㒵(かほ)をも、あげず、苦(くるし)がりて、なくのみなり。

「かゝる㚑《りやう》には、佛神の力なくて、たすかる事、かたし。」

と、高僧を請(しやう)じ、「尊勝陀羅尼(そんしやうだらに)」其外、有驗(うげん)の法を修(しゆ)し、毒虫(どくむし)の禁物(きんもつ)を、かけなど、しけるにぞ、漸々(やうやう)、二十日斗の程して、蛇は解失(とけうせ)ける。

 去共(され《ども》)、其まとひたる手の跡は、くい入《いり》て、正(まさ)しく、今に殘れり。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げで、字も小さい。]

 此物がたりは、則(すなはち)、かのおとこ[やぶちゃん注:]の、「罪障懺悔(ざいしやうさんげ)のため、此卷に入《いれ》よ。」と、ありしまゝ、望(のぞみ)に任せぬ。ぬしの名も、遊女の名も、書《かき》あらはさんも、あらはなれば、やみぬ。

[やぶちゃん注:これも、所謂、共時的都市伝説で、この最後の添書によって、俄然、リアリズムを打ち出す狙いがある。当事者がこのような思いで、この怪奇談集に入れてくれと望んだとし、主人公の男の名も遊女の名も知っている、というのは、ちょっと例を見ない趣向ではある。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その4)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇は長いので、分割する。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

 

 こんな事が外國へ聞こえては、大きな國辱といふ人も有らんかなれど、そんな國辱は、どの國にもある。西洋にも人柱が多く行はれ、近頃まで、其實跡、少なくなかつたのは、上に引いたベーリング・グールド其他の民俗學者が證明する。二、三例を手當り次第列ねると、ロムルスがロ-マを創《はじ》めた時、フスツルス、キンクチリウス、二人を埋め、大石を覆ふた。カルタゴ人はフヰレニ兄弟を國界に埋めて護國神とした。西曆紀元前一一四年、羅馬が、まだ共和國の時、リキニア外二名の齋女《さいぢよ》、犯戒して男と交はり、連累、多く、罪せられた體《てい》、吾が國の江島騷動の如し。この不淨を祓はん爲め、ヴェヌス・ヴェルチコルジアの大社を立《たて》た時、希臘人二人、ゴール人二人を生埋《いきうめ》した。コルムバ尊者がスコットランドのヨナに寺を立てた時、晝間仕上げた工事を、每夜、土地の神が壞すを、防ぐとて、弟子一人(オラン尊者)を生埋にした。去《さ》れば、歐州が基督敎に化した後も、人柱は、依然、行はれたので、此敎は一神を奉ずるから、地神などは、薩張《さつぱ》りもてなくなり、人を牲に供えて[やぶちゃん注:ママ。]地神を慰めるてふ考へは、追々、人柱で土地の占領を確定し、建築を堅固にして、崩れ動かざらしむるてふ信念に變つた、とベ氏は說いた。是に於て、西洋には基督敎が行渡《ゆきわた》つてから人柱は、すぐ、跡を絕たなんだが、之を行ふ信念は變つた、と判る。思ふに、東洋でも、同樣の信念變遷が、多少、有つただらう。

[やぶちゃん注:「