ブログ・アクセス1,810,000突破記念 梅崎春生 山名の場合
[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年十一月号『群像』に発表された。既刊本には収録されていない。
底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年七月沖積舎刊)に拠った。本篇は梅崎春生の作品の中では、相対的にルビが多い作品である。
傍点「﹅」は太字に代えた。文中に注を添えた。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、先ほど、1,810,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]
山 名 の 場 合
一
まず五味司郎太のことから始めましょう。
五味司郎太という男の頭は、ちょっと一風変った、なかなか印象的な形をしています。一目見ると忘れないほどです。どんな形かと言うと、つまり左右にだけ拡がっている。うしろは平たく切り立っている癖に、前から見ると、不自然なほど鉢が開いている。灰色がかった毛髪が、そこら一面にぼやぼやと密生していて、いわゆる巾着頭(きんちゃくあたま)というやつです。きっと赤ん坊の頃、上ばかり見て寝ていたに違いありません。これは当人のせいでなく、きっと母親の責任でしょう。
いつか学校の忘年会の折、年寄りの博物の教師がひどく酔っぱらって、五味司郎太の頭に抱きつき、このが頭蓋骨(ずがいこつ)をどうしても土産(みやげ)に持って帰るんだ、と言い張って聞かなかったことがあります。博物の教師が言うのだから、学術的な見地からしても、珍らしい型に属するのかも知れません。その時、当の五味司郎太はといえば、さほど動ずる気色(けしき)もなく、頭を抱きつかせたまま、いくらか迷惑そうな曖昧(あいまい)な笑いを浮べて、ゆっくりと盃(さかずき)を乾(ほ)していたという話です。五味司郎太は酒は強かった。いくら飲んでも内にこもって、外に出ないような酒でした。
[やぶちゃん注:「博物学」明治・大正・昭和初期までの小・中学校に於いて現在の科目で「生物学」に当たる動植物学や、同前で「地学」に相当する鉱物学を内容とする教科の名称。なお、次の段落中に、この学校を「夜学校」としていることから、ウィキの「夜学」によれば、『第二次世界大戦前の日本では主に、旧制専門学校、中等学校(旧制中学校・実業学校)の夜間部のことを指していた。また、青年学校のように夜学が前提の学校が存在した』とある。しかし、と言っても、以下、最後まで読んでみても、本篇の作品内時制を戦前・戦中ととることは出来ない。梅崎は自身の経験上から「博物学」という教科(正確には科目)を用いているだけで、これは発表時と同時代である。次の段の「燭光」の注も見られたい。後で山名と五味の年齢も出、同い年で申年と出、しかも近い過去に兵隊に行ったという記載も出、決定打は「原子雲」「終戦後」と言う表現もあるからである。従って、舞台は既に新制となった夜間中学か高校ということになる。]
五味は今年三十一歳になります。しかし見たところ三十五六に見えます。頭は大きいけれど顔は小さく、身体は小さいものですから、なんだかしなびたような感じで、老(ふ)けて見えるのです。背丈(せたけ)は五尺二寸ぐらい。歩くときは、ひょいひょいと拍子をとって、足が地に着かないような歩き方をします。この五味が出席簿を小脇にかかえ、学校の長い廊下を足早に歩いてゆく姿は、ちょっと特異な印象を見る人に与えました。だからここの生徒たちの中にも、その動作を真似たりあざ笑ったり、そんな不心得者も少しはいたくらいです。しかし大体において、五味は生徒の受けは悪くなかったようです。叱ったり怒鳴ったり、ひどい罰点をつけたりしないからでしょう。生徒が聞こうが聞くまいが、教えるだけ教えてさっさと教員室に戻ってくる、それが五味司郎太教諭のやり方でした。だから真面目な生徒の間には、五味先生の授業はすこし食い足りない、そんな不平の声もある程でした。この学校は夜学校でした。夜学校でしたから、本当に勉強したいと思って通ってくる生徒も、相当にいたのです。生徒の年齢もまちまちで、若いのがいるかと思うと、二十歳過ぎた生徒がいたりもしました。
教員室は玄関の横にある、南向きの大きな部屋でした。南向きと言っても、夜間の学校のことですから、日当りがいいも悪いもありません。電燈はまんなかに二百燭光がついてはいますが、ただ一つきりなので、隅の方まで光が充分に行きわたらない。五味の席はそのいっとう片隅の、うすぐらいところにありました。
[やぶちゃん注:「五尺二寸」一メートル五十七・五センチ。
「二百燭光」「燭光」は光度の単位で、日本では昭和二六(一九五一)年以来(本篇の発表年であるから、新時代の科学的印象を与えたであろう)、同三十六年に「カンデラ」を採用するまで用いられた。一燭は一・〇〇六七カンデラ。単に「燭」とも言った。換算過程は省略するが、「二百燭光」は現在の凡そ二百五十ワットに相当する。]
五味の隣りの席は山名申吉という、やはり若い国語の教師でした。山名申吉も五尺二三寸しかなく、人並以下の背丈ですが、その代りまるまると肥って、いくらか動作の鈍い男でした。瘦(や)せた五味司郎太といい対照をなしていました。
日がすっかり沈んで、夕闇(ゆうやみ)がせまってくると、校門のうすら闇を押し分けるようにして、生徒が続々と登校してきます。すると教員室にも、どこからともなく教員たちの姿が、ぽつりぽつりと現われて、やがて席はいっぱいになってしまう。あまり話し声も立てません。教員室を停車場の待合室にたとえた人がありますが、まったくここは夜の待合室に似ています。ぼんやりと始業の合図を待っているだけで、活気というものがほとんどないのです。それも無理もありません。ここの教員たちの大部分は、昼間は別の仕事や用事を持っていて、ここに教えに来るのは、おおむね片手間の内職や学資稼ぎが目的なのですから。机も本当は自分の机ではないのです。この校舎も校庭も、もともと昼間の学校のもので、夜学校は夜だけそれを使わせて貰っている形なのです。ですから教員室の机の引出しや本棚には、昼間部の教員の私物や公物が入っていて、夜間部の教員が割込む隙はほとんどないのです。机は与えられていても、その前に腰を掛けるだけで、実際にそれを使用するわけには行かない。なんだかひどく中途半端な状態で、落着かないのも当然です。夜間部専用の教員室をつくれと、しばしばかけ合ってみたのですが、ここの経営者であるところの老獪(ろうかい)な学校長は、予算がないとか空室がないとか、言を左右にしてなかなか応じて呉れない。だからますます待合室じみてくる。
山名申吉(肥って若い国語教師です)は、教員室のこの落着かない雰囲気を、あまり好きではありませんでした。皆うろうろ立ったり動いたり腰掛けたりして、いっこうに統一がなく、何となく鶏小屋を聯想させるからでした。山名は鶏が嫌いでした。山名は子供の頃、小学校から戻ってくると、鶏小屋の掃除が彼の役目になっていて、その頃から鶏という動物にはうんざりしていたのです。毎晩この教員室でじっと待っていると、なんだか自分も一羽の鶏になってゆくような気がしてくる。立ったら立ったで、そっくり鶏じみているし、坐ったら坐ったで、まるでトヤについたみたいです。しみじみとやり切れない感じです。山名申吉という男は、その風貌に似合わず、こんな風に屈折した自意識の持主でした。
[やぶちゃん注:「トヤ」言わずもがなであるが、「鳥屋」(鳥小屋)である。]
また山名申吉は、自分の教材や書籍をしまっておく場所のないことも、あまり面白くありませんでした。彼に割り当てられた机は、古びてがたがたの机で、引出しは昼間部の教員の持物でいっぱいです。机には大きな引出しがひとつと、小さな引出しが縦に五つ、それだけついています。この机のあり場所は隅っこの方で、薄暗いところですから、山名は時々こっそりと引出しをあけて、中味を調べてみたりします。引出しの中には、宿題用紙の束だとか、使い古しのノートだとか、三ダース入りの鉛筆箱とか、教育雑誌やパンフレットの類、そんなものがごちゃごちゃと詰めこまれていますが、一番下の引出しだけは、もっぱら私物用らしく、爪切鋏(ばさみ)とかハンカチとか小説本とか、映画のプログラムとか化粧品の空瓶などが、雑然と入っています。山名はこの引出しを調べるのが好きでした。あけるとぷんと白粉や香水の匂いなどがして、後ろめたいような微妙な快感が山名の神経をくすぐるのです。この机の昼間の主は、女教師なのでした。もちろん山名は、その女教師の顔も姿も見たことはありませんが、机にぶら下った名札から、その名前だけは知っていました。島津鮎子、そういう名前なのです。授業開始までのやり切れない時間、それを紛(まぎ)らすために、山名はしばしばその一番下の引出しをそっとあけて、島津鮎子のことなどを考えるのでした。山名の空想の中では、島津鮎子はすらりとした若い女性でした。鮎子という匂やかな名前をもった婆さんなどを、山名は想像することさえ出来ませんでした。それはそうでしょう。私にだって想像できません。
引出しをこっそりあけるなど、何程のこともないと思うでしょうが、山名申吉にとっては、これはなかなかの難事なのです。一番下の引出しに手をかけるためには、背を曲げてうんと屈(かが)まなくてはいけない。ところが山名の身体は、人並はずれて丸々と肥っているのです。椅子に掛けたままそこに指を届かせるのは、山名にとってはやっとの事なので、顔は充血し、もちろん呼吸もちょっと止めねばなりません。大っぴらに出来る仕事ではなく、隠微に迅速(じんそく)にやらねばならないのですから、ひどく気骨が折れるのです。幸い薄暗いからいくらかたすかるようなものの、やはりどこからか見られているような気がする。どうも具合がよろしくない。
山名の机は五味司郎太の机とくっついています。隅っこの席はこの二人だけで、あとは少し離れています。そこらに衝立や書棚などがあって、うまく外からの視線をさえぎって呉れる。しかし五味との間には何もないのですから、ここは筒抜けです。そして悪いことには、山名の机の五つの縦の引出しは、五味側の方にあって、つまり丸見えなのです。五味が実際に眺めているかどうかは知らないが、山名が屈みこむ背中にいつも感じるのは、その五味司郎太の視線でした。五味のやや灰色がかったような、ぼんやりした感じの眼玉なのでした。
五味司郎太の眼玉は、いつもどんより沈んだ色をたたえています。幅の広い額の下に、その眼はふたつ並んでいます。睫毛(まつげ)もほとんど生えていない。色の薄い眉毛がぼやぼやとかぶさっているだけです。どうもこの男には、メラニン色素か何かが不足しているのではないか、と山名はいつも五味をそんな風に考えています。そしてその眼ですが、これがちょっとばかりおかしい。なんだか妙に焦点が合ってない感じなのです。たとえば五味が机の上の花瓶を見ているとする。そうすると彼の眼は、花瓶の二米[やぶちゃん注:「メートル」。]ぐらい向うを見ているような眼付になるのです。だから対坐して話していても、視線はこちらを向いているのに、こちらの顔を透過して、背後を見られてるような気がして来るのです。それが山名には時々、なんだか放っておけないような、また何となくいまいましい感じを起させるのでした。この男の網膜(もうまく)には一体何がうつっているのだろう。その向うでこいつは一体何を考えているのだろう。時に山名は本気でそんなことを考えたりします。ひょっとするとあの網膜には、何もうつってないのかも知れないな。どうもあの眼は、病気した鶏の眼にそっくりだ、などとも考えます。とにかく山名にとっては、何だか気にかかる、あまり面白くない眼でした。授業開始前のひととき、五味はいつも短い脚を椅子からぶらぶらさせ、れいの眼であちこちを見廻しています。山名にむかって世間話をしかけることもあります。また貧乏ゆすりをしながら、ぼんやりと天井を見上げていることもあります。そんな隙をねらって、山名はさも自分の引出しみたいな表情をつくって、軀(からだ)を曲げて一番下の引出しに手を伸ばします。今日はどんなものが入っているか、その仄(ほの)かな期待を楽しみながら。
その引出しの中味は、いつも少しずつ変化していました。たとえば書籍のたぐいにしても、フランスの近代小説が入っていたかと思うと、次には万葉集や手相の本が入っていたり、あるいは源氏鶏太と椎名麟三が同居していたり、料理の本や流行歌集や住宅設計案内書などが入っていたりする具合です。島津鮎子の読書方針には、てんで一貫性というものが欠けているようでした。また映画が好きだと見えて、よく映画館のプログラムがつっこんであります。そんなのを自分の私物のような顔をして、山名はつまみ上げ、机の上で点検したりするのです。
やはりある晩の授業前のことでした。山名がいつものように背をかがめて、よいとこしょと引出しをひっぱりますと、白い丸まった形のものが、隅っこに押し込んであるのがちらと見えました。山名の指は何気なくそれをひょいとつまみ上げました。つまみ上げるとそれはだらりとほぐれ、山名の指からしっとりとぶら下ったのです。山名はたちまち狼狽(ろうばい)しました。その布の指触りと言い、ぶら下った形と言い、それは明かに婦人の下着だったからです。山名はまっかになって、ぶら下げた手はそのまま、あわてて周囲を見廻しました。すると隣席の五味司郎太のどんよりした眼玉が、山名の指にぶら下ったものを、ぼんやりと見ていました。
「柔かそうだね。ああ、とても良い色だ」
と五味は独り言のように言いました。そして自分も手を伸ばして、その布地の端をつまむようにしました。薄暗い光のなかで、その白い布は軟かく微妙な陰影をはらんで、ふらふらと揺れました。五味は再び口を開きました。
「このくらいの明るさの中だと、白いものは何でも美しく見えるね」
「そうだね」
やっとのことで山名はそう答えました。そして急に怒ったような顔になり、ぶら下ったものをたぐり上げ、両掌でくるくると丸めると、引出しの元のところにぐいぐい押し込みました。それから何時もなら手でしめるのですが、この時ばかりは靴の裏を使って、ぴしゃりと引出しを乱暴に押し込みました。そし。で大きな呼吸(いき)をふうっと吐きました。
五味司郎太は、掌の玩具を突然取り上げられた幼児のような顔をして、その山名の横顔をしずかに眺めていました。
この出来事は山名の胸に、いつまでも厭な後味を引いていました。時折これを思い出す度に、山名は「何をあの巾着頭(きんちゃくあたま)!」などと呟(つぶや)いて、気持をごまかそうとするのでした。あの巾着頭が、何を見、何を感じ、何を考えているか。それがうまく摑(つか)めないものですから、なおのこと山名の気持は屈折して、やり切れないのです。へんに圧迫されるような感じでした。
山名は五味と知り合って、まだ一年になりません。山名がある先輩の世話で、この夜学校に赴任(ふにん)して一週間後に、五味が赴任して来たのです。だからここでは山名の方が、一週間先輩になる訳でした。机を並べているのも、そんな関係からです。五味は社会科を受け持っていました。同じ頃赴任してきたのだし、肥瘦(ひそう)の別はあれ背丈は同じくらいだし、席も隅っこにかたまっているし、年頃も同じなものですから、教員室の面々は、この二人を同類として取扱う傾向が多分にありました。実際にも山名がここで一番親しいのはまず五味でしょうし、五味からいっても同じことでしょう。親しいといっても、これは比較的余計に会話を交えるというだけで、特別の友情や親近感をもっているというのではありません。だいいち山名は、五味が平常何を考えているのか、それもまだよく判らないのでした。
山名申吉も五味と同じく、申歳(さるどし)生れの三十一歳です。二人ともまだ独身であることも共通していました。そしておどろいたことには月給の額もぴたりと同じなのです。そのことをある時偶然に、山名は知りました。
[やぶちゃん注:「申歳生れの三十一歳」発表時から、彼らは大正九(一九二〇)年庚申(かのえさる)であることが判り、この年齢は未だ数え年であることが判明する。因みに梅崎春生は大正四年生まれである。]
この夜学の会計事務をやっている魚住浪子という女が、ある月の給料日にうっかりして、二人の月給袋を間違えて渡したのです。その袋を開いて見て、山名は初めて五味と同給料であることを知ったのです。山名はその瞬間、何故だかひどくいやらしい気持がしました。自分でも説明出来そうにない妙に不快なしこりが、胸にこみ上げてくるのを感じました。そこで直ぐ、魚住浪子のところに押しかけて行ったのです。会計の部屋は教員室の隣りでした。そこは細長い部屋で、入口側の半分が校務や会計の席となり、窓側の半分は富岡という教頭の席になっています。学校長は夜は出て来ないので、富岡教頭が校長代理として、すべてを委(まか)せられているのです。富岡教頭はそれがいささか得意で、わざわざこんなところに机を据(す)えさせ、いい気持になっているのでした。魚住浪子の席は、そこから四米ほど離れたところにあります。彼女は杭にかぶさるようにして、一心に算盤(そろばん)を弾(はじ)いていました。
[やぶちゃん注:「学校長は夜は出て来ないので、富岡教頭が校長代理として、すべてを委(まか)せられている」現在も(少なくとも私が国語教師をしていた十年前までの神奈川県の公立高等学校の夜間部を持つところは)、このシステムは変わっていない。]
「なんだい。給料袋が違ってるじゃないか」
山名申吉はその机の前に立ち、頰をふくらましてそう言いました。
「これは僕んじゃないぞ。五味君のじゃないか」
「あら。そう」
魚住浪子は算盤の手を休め、ちらと給料袋を見ながら、無感動な声を出しました。
「じゃ五味さんと取換えといてよ」
「取換えるたって――」
と山名はちょっと口をもごもごさせました。なるほど当人同士で取換えるのが、一番早道だったかも知れません。そうと気がついたけれども、しかし山名は行きがかり上、おっかぶせるように言葉を継ぎました。
「そんなこと出来るかい。君の手違いなんだから、改めて君から渡し直してもらう」
「あら、そんな官僚的なこと言わないでよ。忙しいんだから」
「官僚的だって?」山名はズボンのバンドをぐいと引き上げました。「僕が官僚的なんかであるものか。官僚的というのはそんなんじゃないぞ。とにかく僕が五味君の給料を貰ういわれはないんだから、これは返すよ」
給料袋がばさりと算盤の上に落ち、魚住浪子の眼鏡がとたんにキラリと光りました。魚住浪子は度の強い眼鏡をかけていて、そのために眼が浮き上って見えるのです。金魚という綽名(あだな)がついていました。そして彼女は目に立たない程ですが、足が少しびっこでした。色は白いし、じめじめした性格ではないのに、そんなことのためか、二十八歳の今日までまだ独身です。ここに八年も勤続しているので、事務にも明るく、なかなか鼻柱の強いところがありました。若い教員なんかは、いつも彼女につけつけと言いまくられます。
「ほんとに面倒なひとね」
しかし押問答の末、ついに彼女はそう言いました。つまり折れたのです。
「じゃ仰(おお)せの通りにしますよ。すればいいんでしょ。五味さんの方がよっぽどサッパリしてて良いわ。七面倒くさいことは言ってこないし」
ふん、と山名は鼻の先で笑いました。
「同じ金額だから、どちらを貰っても同じなのにねえ」
そう呟きながら、魚住浪子は算盤の上から給料袋をつまみ上げました。ぽっちゃりとふくらんだ掌です。その掌の形を見ると、山名は妙な小憎らしさをそれに感じながら、口をもごもごさせました。
「ふん。五味君と僕とは、少し違うさ」
何が違うのか、自分でもはっきりしないまま、山名はそう口走りました。すると今度は魚住浪子が、ふん、と鼻の先で笑いました。
山名はこの魚住浪子を、初めからあまり好きではありませんでした。女らしい優しさがなく、態度にもものの言い方にも、こちらを莫迦(ばか)にしたようなところがあったからです。まだ男を知らないせいだろう、と山名は思ってもみるのですが、富岡教頭が魚住浪子に手をつけているという噂も、教員室の一部には流れているのです。山名もそれを耳にはさんだことがあります。魚住浪子が事務の勢力を握っているのは、教頭の後楯(うしろだて)があるせいだというのです。もちろん噂ですから、真偽のほどは判りません。しかし富岡教頭がなかなかの精力家であり、好色漢であることは、その風貌から推しても、ほぼ確かなことでした。厚目の眼鏡をかけた女の顔は、とかく男の好き心をそそるものだ、そういうことを言った人がありますが、それはどんなものでしょう。
富岡教頭は好色家であると同時に、なかなかの野心家でした。顴骨(かんこつ)の高い青黒い顔をした、五十がらみの男です。鼻下にはチョビ髭(ひげ)をたくわえています。しゃべる時に口の端に泡をためる癖があります。そして何時も、自分は若い人の味方であると公言し、自らもそう信じていました。本当は、自分自身の味方である以外の何ものでもなかったのですが。――校長代理になって以来、彼はしゃべり方まで変ってきたようです。以前のような一本調子のしゃべり方でなく、急に秘密らしく声をひそめてみたり、時には磊落(らいらく)そうな笑い声を立ててみたり、猫撫で声を使ってみたり、突然重々しい口調になってみたり、話術の変化をつくすようになりました。人心収攬(しゅうらん)のために必要だと、当人は考えているのですが、はたから見ると少しわざとらしく、また少し滑稽(こっけい)でした。
「山名申吉教諭」
ある夜のこと、何を思ったか、富岡教頭はわざわざ山名を自分の席に呼びつけて、もったいぶった声で言いました。
「君はたしか、国文学が専攻だったね」
「はあ、そうです」と山名は不審げな顔で答えました。
「まあ掛けたまえ」と教頭は重々しくあごをしゃくりました。そして急に優しい声に変って、「――文学の研究も大へんだろうね。いや、大へんなことは判っておる。君みたいな真摯(しんし)な学究の徒が、いろんな悪条件にさまたげられて、やりたい研究も遅々として進まない。私は以前から見るに忍びなく、どうにかしたいと思っていましたじゃ」
山名はきょとんとした顔をしていました。どうも話がおかしかったからです。教頭は唇に泡をためながら、かまわず話を続けました。
「それでじゃ、いろいろ考えた結果、君の研究を文部省に推薦して、ひとつ研究費を交付いて貰おうと思ヽっておる。むろん私の一存でじゃ。それによってますます研究を深め、本校の名誉を上げて貰わねばならん。異存はなかろうね」
「はあ」わけも判らないまま、急に世間に認められたような気がして、山名はかすかに胸を張りました。「はあ。それで――」
「そいで君の文学部門における専攻は、何時代の文学だったかねえ?」
「は。そ、それは、ええと――」と山名は少しあわててどもりました。実は研究などは、何もしていなかったからです。そして苦しまぎれにとんちんかんな答え方をしました。「ええと、それはやはり、時代的に言えば、ずいぶん昔の方でして――」
「ははあ。そうすると、古代というわけかな」
「はあ。コ、コダイ文学です」
「私は国文学は専門外じゃが――」
教頭はおもむろに薬指の腹で、鼻下のチョビ髭のさきを満足げに撫でました。
「先頃知人にすすめられ、古事記だの日本書紀だのいう本を、ちょっと読んでみたが」そこで教頭はきたない歯ぐきを出してにやりと笑い、急に声を落しました。「――あの頃の、それ、何ちゅうか、つまり男女間の愛欲じゃね、あれはなかなか烈しくて、率直で、しかも健康なもんじゃな。あのあり方を分析研究すれば、現代人にとっても定めし有意義じゃろうと、私はその時しみじみと感じたよ。どうじゃね。私の感想は間違っておるかね」
「ごもっともな感想です」
小さな声で相槌を打ちながら、山名はそっと額の汗をふきました。教顛はえへんとせきばらいをして、ふたたび重重しい声に戻って言いました。
「そうか。君もそう思うか。では、君のテーマは、本朝古代文学における愛欲のあり方について、とでもするか。よかろう。それは面白かろう。ではそういうことに決めて、なにぶん一生懸命にやって呉れ給え」
それから教頭は机の引出しから、科学研究費交付金等取扱規程とか、研究助成補助金申請手続きとか、そんな書類を何枚も引っぱり出して、山名の方に突きつけました。気持もろくに定まらないまま、山名はぼんやりとそれを受取ってしまいました。そして立ち上ろうとすると、教頭が再び口を開きました。
「ええと、五味司郎太教論に、一寸ここに来るように言って呉れ給え」
山名が教員室の方に戻ってくると、五味司郎太教論はいつものように、短い脚を椅子からぶらぶらさせて、天井の節穴を眺めておりました。それは遠くから見ると、薄暗いところに生えた蕈(きのこ)みたいに見えました。山名は今度自分が書こうと思っている小説のことを、頭の中でちらと考えました。そして今貰った書類をそっと丸めて、何となく背中の方に廻してかくしながら、そろそろと自分の席に戻って来ました。
「教頭が君を呼んでるよ」
「あ、そう」
五味はそう答えて、おもむろに椅子からずり降りました。
ひょいひょいと歩いて行く五味の後姿を見た時、教頭は研究交付金のことを五味にも持ちかけるつもりだな、と山名は初めて気が付きました。山名は丸めた書類をぽいと机の上に投げ出し、しずかに腕を組みながら、
「ふん。古代の愛欲か」
と意味もなく呟きました。視線は五味の後姿に固定したままです。なにか憎しみに似たような感情が、磅礴(ほうはく)と山名の胸を満たしていました。
[やぶちゃん注:「磅礴」元は「交じり合って一つになること・混合すること」であるが、ここはそこから派生した「広く満ちること・広がり塞がること」の意。]
二
山名申吉は五味司郎太を、いつかぼんやりと憎んでいたのです。
何時頃からこんな感情が、胸に忍びこんできたのか、山名自身にもよく判りませんでした。初対面の瞬間から、その感じの原形があったような気もするし、またずっと後のような気もする。どうもはっきりしません。でも初めの中(うち)はやはり、憎悪という定まった形ではなく、漠然と屈折した関心、そんなものだったのでしょう。机も隣り合わせだし、年頃も独身であることも同じだし、皆からも同類項みたいに眺められている。そのことがまず山名の意識に、微妙にはたらいていたに違いありません。同類意識。競争意識。いや、それらとも少し違う。
実を言うと最初のうち、彼はむしろ五味を軽(かろ)んじ、その頭の恰好や不器用な歩きぶりや気の利かない言動などを、莫迦(ばか)にする気持も確かにあったのです。その気持はやや形を変えて、今でも山名の胸にほのかに動いている。妙に間の抜けたところが五味にはあって、それが教員室の愛嬌のひとつにもなっていました。山名ですらふき出したくなるようなことが、時々ありました。
それにも拘(かかわ)らず、独りで下宿にいる時などに、ふと五味司郎太の顔を思い浮べたりすると、山名は故もなく、なにか放って置けないような気持になってくるのです。大事な忘れ物をしたみたいな、思い出そうとしてもどうしても思い出せないような、咽喉元あたりがえぐいような気分です。その感じが山名には、どうもうまく摑(つか)めない。一方では憫笑(びんしょう)をかんじているくせに、他方では頰が硬ばって、笑いがそのまま笑いでなくなってしまう。そんな感じも強く胸に来るのではなく、遠くからおいでおいでをする具合に、かすかに神経の尖(さき)にからまってくるのです。
こういう自分の気持にはっきり気が付いたのは、小説をひとづ書いてみようと、山名が思い立ってからでした。
山名はもともと作家志望者ではありません。学校では国文学を修めたのですが、国文科が一番やさしそうだったからで、特に文学が好きだったからではありません。しかしこの一二年ほど前から、自分というものをハッキリさせるために、小説というものを書いてみようかなという気持が、少しずつ山名の胸に萌(きざ)し始めていたのでした。ぼんやりとあてもなく生きている自分が、そろそろやり切れなくなってきたのです。
[やぶちゃん注:「学校では国文学を修めた」梅崎春生は熊本五高を昭和一一(一九三六)年三月に二十一歳で卒業(二年時に落第したため。卒業時も試験の成績が悪く、卒業認定で教授会は三十分近く揉めた)し、四月に東京帝大文学部国文科に入学したが、自主留年した一年を含め、在学中の四年間は試験日以外の講義には一日も出席しなかったとされる。昭和一五(一九四〇)年三月、二十五で卒業、卒業論文は「森鷗外論」(八十枚・現代小説のみを対象としたもの)であった。卒業後は朝日新聞社・毎日新聞社・NHKなどを志願したが、総て不合格で、友人で後の作家霜田正次の紹介で、東京都教育局教育研究所の雇員(但し、教員でも何でもない、やっていることも怪しげで意味のない教育関連研究公機関の下っ端である)となっている。]
近頃特に山名申吉は、生れて今まで、目的も志もなく、何となく生きて来たような気がしてならないのでした。やはり年齢のせいもあるでしょう。田舎の平凡な家庭に生れ、周囲のすすめるまま学校に行き、卒業して何となく会社に勤め、自分の意志でなく兵隊に引っぱられ、今はこんな夜学の教師になっている。どんな者になりたいとも思わず、人を愛したこともなく、人生の片隅でのろのろと肥り、その日その日をぼんやりと過している。どうも最初のでだしが悪かったのではないでしょうか。彼は十二人兄弟の末弟に生れ、そのせいで両親からもうんざりされ、あまり構われもせず育ってきたのです。初めから何か茫漠としているのです。麻雀(マージャン)で言えば、最初からバラバラの手が来ていたようなものでした。平和(ピンホウ)を志そうとか、清二色(チンイーツウ)をねらってみようとか、対々和(トイトイホウ)に仕立ててやろうとか、山名の人生には、そんな目的や方針は、最初から立っていなかったのです。どうにかなるだろうと、いくらかたかをくくって、他人事(ひとごと)みたいに人生の摸牌(モウパイ)を繰返しているうちに、茫々(ぼうぼう)として三十一年が経ってしまったという訳でした。
[やぶちゃん注:私は麻雀を知らないし、やったこともないので、以上の三種の役も説明しようがない。ネットのオンライン麻雀サイト「麻雀豆腐」の「麻雀の役 一覧表 シンプル見やすい!」を参照されたい。「摸牌(モウパイ)」は『盲牌(モウパイ、モウハイ)』の古い表字で、『麻雀用語のひとつ。指の腹で牌の図柄の凹凸をなぞり、その感触で牌の腹を見ずにどの牌か識別すること』とウィキの「盲牌」にあった。]
『とにかく俺という人間は――』と山名申吉は近頃考えるようになりました。『生きることに生甲斐を感じなくてはならぬ。先ず生甲斐を!』
こうして山名は小説を書こうと思い立ったのでした。もちろん他人には秘密です。小説を書けば少しは何かがハッキリしてくるかも知れない。山名はそう思ったのです。では先ず小手慣らしに、自分の身辺に題材を求めることにしよう。
そして彼はいろいろ考えた揚句(あげく)、島津鮎子を書くことに決めました。あの机の昼間の女教師のことです。机を共有する見知らぬ女性、なかなか小説的構想ではないか。下宿の机に殊勝に向って、山名はひそかに沈思にふけります。ジョン・モールトンの小説にも、確かそんなのがあったようだ。あれはボックス氏とコックス氏の話だったかしら。――
[やぶちゃん注:「ジョン・モールトン」Jon Moultonだろうが、不詳。従って、「ボックス氏とコックス氏の話」=「小説」というのも不詳。]
ところが下宿に閉じこもっていても、小説はなかなか進行しませんでした。どんな風に書き出したらいいのか、一向にめどがつかないのです。だから机の前に坐って、ぼんやりと島津鮎子のことを空想しているだけ。あの引出しに入っていた白い下着、その色や感触などがあざやかに頭にうかんで、もやもやと悩ましくなってきたりする。すると意識の入口に、急にうすぐろい陰影みたいなものを感じて、山名は舌打ちをしながらペンを投げ出します。
『一体あいつは何を考えてんだろうな』
それは何時もあの五味司郎太のことでした。この俺が近頃くよくよしたり、あせったり、気がねしたりして生きているのに、あいつは劣性遺伝の型録(カタログ)みたいな恰好をしてる癖に、平気でぬっと生きているようなところがある。あの巾着頭は、人から笑われたって貶(けな)されたって、そんなことにはてんで無関心で、自分だけでこっそりやっているような趣きだ。無感覚なクラゲみたいなとこが、あいつには確かにある。そして山名はだんだん腹がたってくるのでした。俺があやまってつまみ出した下着を見て、冗談(じょうだん)に紛(まぎ)らして呉れるのならともかく、いい色だねえとは何ごとだろう。見て見ぬふりをするのが礼儀ではないか。だいいちあの眼玉が気に食わない。見ていながら、こちらを全然認めていないような眼付だ。よし、そのうちにきっと本音(ほんね)をはかしてやるぞ。
寝床にもぐり込んでも、山名はひとりで力みながら、そんなことをしきりに考えたりするのでした。相手が眼の前にいないので、ひとたび考え出すと果てしがないのです。五味のひとつひとつの言葉や表情などが、現実をはみ出て誇張され、なまなましく歪(ゆが)められ、そして山名の神経を剌戟してくるのでした。あるいは山名は自分でも気付かぬ心の奥底では、そういう思念や空想を愉(たの)しんでいたのかも知れません。と言うのは、実際に五味を前にすると、空想ほどは憎らしくもなく、それほどいらいらもしないのです。いくらか風変りな一人の同僚というに過ぎません。こだわりなく話し合うことさえ出来ます。ところが居ないとなると、なんだか頰がこわばるような感じで、放って置けない気持になってくる。
『俺はいつも架空の憎悪でもって他人につながっているのではないか?』
ある夜ふと、山名はそう考えました。彼は今まで、実際の人間を愛した記憶はほとんど無く、あるのは憎んだ記憶ばかりでした。彼にとって、他人に関心を持つというのは、淡い憎悪を抱き始めるということでした。少くとも今までの例ではそうでした。些細(ささい)なきっかけで人を憎む傾向が、山名という男には多分にありました。しかし彼はそれを表現はしない。その憎しみは山名の心の中で屈折し、内攻し、いくらか変形し、そしてそこで完了する。――五味を憎み始めたというのも、つまりは五味への関心が深まってきたせいでしょうか。無意思な蕈(きのこ)みたいな五味の顔を瞼(まぶた)に描きながら、山名はぼんやりと考えます。
『それにしても、あいつは何でもって他人につながっているのだろう?』
どうもつながっていないらしい。そう山名は漠然と感じる。すると五味の存在そのものが、急に山名の自尊心をするどく傷つけてくるのでした。自意識の強い男の例として、山名はひどく敏感な自尊心を持っていました。ふん、まるで俺だけがバタバタしているようじゃないか。
毎晩こんなことばかりを考えているものですから、どうも寝付きが悪いし、朝目覚めても頭がさっぱりしない。季節のせいもありました。むしむしと暑苦しい気候が、とかく彼の眠りを浅くするのです。それに悪いことには、彼の部屋に春先以来、鼠がやたらに繁殖したらしく、ひっきりなしに天井を走り廻るし、部屋の中にも平気で出没する。蒲団の上を駈け抜けたり、寝ている枕を齧(かじ)ったりするのですから、おちおち眠れたものではありません。
あれやこれやで山名申吉は、しだいに睡眠が不足し、とうとう神経衰弱気味を自覚するに到りました。
肥った男の神経衰弱なんて、瘦せた男の股(また)ずれと同じく、しごく不似合いなものですが、おかしなことにはこんな状態になってから、山名の体軀はいよいよ肥って来るようでした。それに従って動作も鈍重緩慢となり、何をするのも大儀になってきました。肥ったのではなく、むくんできたのかも知れません。
「ますます肉付きが良くなられて、私なんかうらやましいですな」
蟷螂(かまきり)のように痩せて骨ばったある同僚が、ある時山名に向って言いました。この同僚はユネスコ精神の信奉者で、『ホネスコ』という綽名(あだな)がついていました。
「はあ」
と山名は悪事を見つけられた子供のような顔になり、そして仕方なさそうに笑いました。肥る原因もないのに肥って行くことに、彼はいくらか引け目を感じていたのでした。
「君が傍に坐っていると、教員室が半分しか見えない」
別の夜の休憩時間に、椅子から脚をぶらぶらさせながらあたりを見廻していた五味司郎太が、ぽつんとそんなことを言いました。ごくあたり前の口調でです。ふと思ったままを、率直に口に出したという感じでした。よろしい。言ったな。今夜いろいろと考えてやるぞ。そう思いながら、しかし山名は強(し)いて微笑を頰に浮べ、わざとのろくさと答えました。
「そうかね。多分それは遠近の関係だろう」
すると五味は、両掌で枠(わく)の形をつくり、自分の顔の前にかざし、その間から山名の方を無遠慮にのぞきました。視野の中に山名の体が占める大きさを測定しようと試みるらしい。山名は尻がむずむずして、立ち上りたくなってきましたが、じっと我慢しながらおだやかに言いました。
「――僕はこれでもいいけれど、君はあまり肥らないようだね。体質の関係かな」
「いや」五味は掌の枠をゆるゆると解きながら、確信あり気に答えました。「僕はしょっちゅう頭を使うんでね、それで肥らないんだ」
山名の鼻翼がぴくりと動きました。そうすると俺はまるで頭を使ってないみたいだぞ、などと山名が考えている中に、五味はその話題に興味をなくした風にそっぽ向き、もう腕組みをして天井の節穴などを眺めておりました。言い返すきっかけもなくなり、山名はむしゃくしゃした気分になって、その五味の方をちらと横目で眺めました。原子雲に似たその頭の恰好が、へんに憎たらしく、同時にへんに遠く隔った感じとして、山名の視神経をいらいらと圧迫しました。気弱く眼をそらしながら、山名は心の中で呟きました。
『よし。この巾着頭のことを書いてやる』
山名の下宿の肌上の原稿用紙には、まだ一字も書いてありません。島津鮎子のことを書こうと、毎晩あれやこれや空想しているうちに、空想の中ですべてが完了してしまって、何も書くことがなくなってしまったのです。つまり心の中で小説を書き終ったという訳でしょう。
その夜遅く、山名は机の前にきちんと坐り、眼を閉じたり開いたりして、しきりに何かを考えていましたが、やがてペンをとり、原稿用紙の第一枚目に大きな字で。
『五味の場合』
と書きました。いよいよ五味司郎太のことを書く決意をかためたのです。『五味の場合』とは、自分ながら仲々しゃれた題名だと、山名はいささか満足な気持でした。初め『五味司郎太における人間の研究』としようかと思いましたが、すこし長すぎるし、またどこかで聞いたような語呂だと思って、やめにしたのです。今度こそはあまり空想にふけらず、五味司郎太の人となりを、着実に執拗(しつよう)に描いて行かねばならぬ。前の失敗にかんがみて山名はしみじみとそう思いました。先ずこの小説の書出しは、あの巾着頭の即物的な描写から始めよう。志賀直哉みたいな文体がいいかしら。それとも坂口安吾式の奔放な文体を採用しようかしら。
文体もまだハッキリ決めかねている中に数日が過ぎ、あの研究費交付金の通知の日がきました。この日は山名にとって、いくらか運命的な日でした。
その夜山名が授業から戻ってくると、魚住浪子が呼びに来たのです。この間の事件から、彼女は少し彼につんつんしている傾きがありました。
「教頭さんがお呼びだわよ」
山名が教頭室に入って行くと、富岡教頭は卓上鏡と顔をつき合わせ、伸びた鼻毛をしきりに抜いておりました。山名の顔を見るなり、磊落(らいらく)そうな大きな声で言いました。
「やあ、君、残念なことじゃったよ」
何のことだか咄嵯(とっさ)には判りませんでした。研究費交付金のことなんか、山名はすっかり忘れてしまっていたからです。そのきょとんとした顔を見て、教頭は補足するように急いで言葉を継ぎました。
「――君のあの研究費交付金のことな、あれは駄目じゃったよ。却下されたよ」
「はあ」
やっと思い出して、山名は気のない返事をしました。駄目なら駄目でもよかったのです。なまじ貰えば、論文をまとめねばならぬだけ面倒な話でした。そんな論文をまとめるより、『五味の場合』をまとめる方が、山名にとっては緊急事なのでした。しかしその返事を聞いて富岡教頭は、山名ががっかりしたと思ったらしく、とたんに慰めるような猫撫で声になりました。
「まあまあ、そう落胆せんでもええ。来年ということもある。君のあれは何じゃったかなあ。ええと、古代文学における色欲のあり方、と言うんじゃったな」
「愛欲のあり方、です」
「ああ、そうそう。愛欲も色欲も似たようなもんじゃ。なかなか面白いテーマだからして、ま、元気を落さず、そのまま研究を続けた方がよかろう。時になんだね、君はまたすこし肥ってきたようだね。健康第一。先ず健康。なによりのことじゃ」
「それが、その――」神経衰弱気味だと言おうとして、山名は途中で止めました。ふと頭にひらめくものがあって、そのことを訊ねることにしました。「それで、落っこちたのは、僕だけですか?」
「いや、なに」
富岡教頭は具合悪そうに、ふたつの鼻孔を指の腹でこすりました。そして口の中で適当な言葉を選んでいる風でしたが、やがて思い切ったように重々しく口を開きました。
「五味司郎太教諭はパスした。あれは社会部門だから、志望者が少かったせいじゃろ」
山名のふくらんだ瞼が、その瞬間ぴくりと慄えました。それから彼の体は大儀そうにぶわぶわと立ち上り、ゆっくりとお辞儀をして椅子を離れました。そして山名の顔は、向うの席に掛けている魚住浪子の顔と、ぴたりと会ったのです。彼女は机に頰杖をついて、どうも話を盗み聞きしていたらしい様子でした。視線が合うと、彼女はおもむろに頰杖を離してうつむきながら、片頰だけでにやりと笑いました。気の毒そうな笑いでもあり、照れたような笑いでもあり、憐れむような笑いでもありました。その机の前を、山名申吉はむっと表情を崩さず、しずかな足どりで通り抜けました。
自分の席に戻ってくると、隣りでは五味司郎太が、帰り支度を始めていました。山名申吉はその側にぼんやり立ち止り、空気でも見るような眼付でそれをじっと眺めていました。なんだか歯の奥がぎりぎりと鳴ったようです。やがてかすれたような声で話しかけました。
「研究費が降りることになったそうだね。よかったね」
「うん」風呂敷を結ぶ手をやめず、五味は答えました。それほど嬉しそうな顔でもありませんでした。「まあ雀の涙みたいなもんだね」
「ええと――」山名もやっと我にかえったように帰り支度を始めながら、感情を押し殺したような声で訊ねました。「それで君の研究題目は、何というの?」
「詐欺罪(さぎざい)の研究というのさ」
「サギ?」
「そら、広告詐欺だの、ペーパー詐欺だの、土砂流しだのって、よく新聞にも出てるだろう。あれだよ。人間のインチキのことだよ」
[やぶちゃん注:「広告詐欺」当時のそれは、新聞広告や雑誌広告で求人・物品売買などを謳って、手付金だけを奪取する詐欺のことであろう。
「ペーパー詐欺」詐欺商法の一つで、「ペーパー商法」とも言う。現物紛(まが)い取引で、金(きん)などの現物を売るとして代金を受け取り、現物の裏付けのない預かり証を渡す詐欺商法を指す。
「土砂流し」詐欺の一種の隠語。「御天気師」とも呼ぶ。単独又は共謀で行うもので、一人が贋造の金品を、通行人の来る前路の上に落しておき、他の同類が、通行人と一緒にそれ拾い上げ、警察へ届けようとする途次、種々の口実を設けて、拾得した金品をその通行人に預けて、信用させ、逆に、その人の所持する金品を借り受け、逃げる詐欺を指す。]
「へええ」
と言ったきり山名は口をつぐんでしまいました。五床司郎太と詐欺、なんだかあまり奇妙な組合わせなので、その感じが咄嵯(とっさ)に頭にすっと入ってこないのでした。そして山名はちょっと手を休め、頰の肉をたるませながら、ふと遠くを見るような眼付になりました。瞼の裡(うら)に、あの原稿用紙に書かれた『五味の場合』という文字が、ぼんやりと浮び上ってきたからです。やがて彼はぐふんと咽喉(のど)を鳴らし、椅子を机に押し込みながら、さり気ない調子で言いました。
「もうそろそろ一年になるね、お互いにここに勤め始めてから」
「そんなものになるかな」
気のない返事をして、五味は包みを小脇にひょいとかかえました。そして二人は机の間を縫って、出口の方に歩きました。薄暗い廊下に出て肩を並べると、ふたたび山名は口を切りました。
「それで、二三日前から考えたんだけれども――」上衣なしのシヤツの肩がちょっと触れ合いました。なんだかねとねとした感じがして、山名は反射的に肩をすくめました。
「一周年記念ということで、君と一献(いっこん)酌(く)み交したいと思ったんだけれどね」
二三日前に思い立ったということは事実でした。『五味の場合』を書き始めるには、まだまだ材料不足で、もっとデータを集めねばならぬことに気が付いたのです。
「飲むのは結構だね」
ひょいひょいと踊るように歩を踏みながら、五味はどっちとも取れる答え方をしました。もちろん山名は、たいヘん結構だ、という風に解釈して、予定の言葉を続けました。
「この間よそから上等ウィスキーを二本貰ったんでね」これは嘘でした。「今度の日曜、そいつを君んとこにぶら下げて行くよ。僕んとこは間借りだから、ちょっとまずいんだ」
五味が『何々方』ではなく、独立家屋に住んでいることを、庶務の名簿で調べて山名は知っていたのでした。独身で扶養家族もないのに、ちゃんと一軒の家を構えている。どんな恰好の家に住み、どんな生活をしているのだろう。『五味の場合』を書くためにも、是非それは見る必要があるのでした。しかし今はその必要だけでなく、なんだか遮二無二押しかけて見たい嗜欲(しよく)が、しきりに山名を駆り立てていました。もはやこのまま放って置くわけには行かない。
校門で五味と別れ、侘(わび)しい下宿の部屋に戻ってくると、山名は汗ばんだシャツを脱ぎ捨て、裸になって部屋の真中にどっかと坐りました。身体は疲れている癖に、神経はいらいらとたかぶっていました。天井裏を鼠がゴトゴトガタガタと走り抜け、細かい埃(ほこり)のようなものが、山名の肩にはらはらと降りかかりました。その乱雑な部屋のさまをぐるりと見廻し、山名はやがて呻(うめ)くように呟きました。
「却下されたのは、別に口惜しかない」
そして山名は、あの青黒い富岡教頭の顔や、魚住浪子の片頰の笑いなどを、ありありと思い浮べました。胸の奥がきりきりと疼(うず)き出すような感じがして、山名は思わず大きく息を吐き、自然と据えた眼付になりました。その視線は偶然、机上の『五味の場合』という字の上に、ぴたりととまっていました。その字のあたりにも、細かい埃がうっすらとつもっていました。その時山名の視野の端、丁度部屋の隅あたりに、黒い影のようなものがちらっと動いたようでした。
『五味の場合か。五味の場合と。そしてこの俺の場合と。俺が落っこちたのに、あの五味がパスしたということは――』と山名は唇を嚙んで思いながら、右手だけをしずかに横に伸ばし、そこに転がった古雑誌をそっと摑(つか)みました。くるっと体をひねると、その古雑誌を力まかせに部屋の隅に投げつけました。黒いものはぴょんと飛び上り、するりと唐紙(からかみ)の向うに姿を消しました。それは一尺以上もありそうな大きな黒鼠でした。
「また猫もどきの奴だな!」
ぜいぜいと呼吸をはずませながら、山名は吐き出すように言いました。それはこの家の鼠族の王様らしく、図抜けて巨大な体と髭(ひげ)をもった一匹の老鼠なのでした。それはちょいとした猫ぐらいの大きさがありました。だから山名はかねてからこの鼠を『猫もどき』という綽名(あだな)で呼んでいたのです。この間学校の机の引出しから、苦心して持ち帰ったあの島津鮎子の下着を、たちまちくわえて逃げたのも、この『猫もどき』でした。それ以来山名はこの『猫もどき』をひどく憎んでいるのです。鼠にすれば巣をつくる材料にくわえて行ったのでしょうが、山名にしてみれば、自尊心をも犠牲にし、疑われるかも知れない危険まで犯してやっと手に入れたものを、あっさり持ち逃げされて、腹に据(す)えかねるのも当然でした。現物は手から離れ、思い出すと身もすくむ恥かしい罪の引け目だけが、そっくり残っているのです。とてもやり切れた話ではありませんでした。
『とにかく何かを早く調整しなければならぬ。このまま放って置く手はない』
山名はむっと顔を硬(こわ)ばらせ、乱暴に押入れの戸をあけて、布団を引きずり出して、バタンバタンとしきながら思いました。
『このままでは俺は、何のために生きてるのかも判らない』
燈を消して布団のなかに山名はまるまると転がり、やがて息苦しく眼を閉じていました。暗い瞼の裏に、いろんなものの形がむくむくと動き、ふとしたはずみに鼠のような形になったり、巾着頭の形になったりしました。眠りをさまたげる幻想の小悪魔が、今夜もしげしげとおとずれて来そうな気配でした。
「先ず生甲斐を。とにかく生甲斐を!」
れいの架空の憎悪が、今夜に限って急に距離をちぢめて、なまなましく意識にからみつくのを感じながら、山名は念ずるようにそう呟き、どたんと寝返りを打ちました。
三
五味司郎太の住居は、郊外のしずかな場所にありました。
どこか素人(しろうと)くさい奇妙な建て方で、家というよりも小屋に似ていました。二十坪ばかりの敷地のまんなかに、それは建坪三坪かせいぜい四坪の、出来そこなった玩具のような不器用な家でした。敷地をぐるりと囲っているのは、不揃いな棒杭とチクチクした有剌鉄線で、その一箇所に人間がやっと出入りできるだけの狭い門が設けてありました。この家も囲いも門もみんな、五味が自分ひとりでこしらえたものでした。
五味司郎太は窓の縁に腰かけて、脚をぶらぶら揺りながら、灰色がかった眼でぼんやりと表の方を眺めていました。そして、さっきから、ちょっとセメントの空樽がころがって来るみたいだな、などと考えていました。有刺鉄線を透かした向うの道を、山名申吉の肥った姿が、午後四時頃の影を引いて、こちらに歩いてくるのです。なんだかふらふらしたような足どりで、両手には重そうにウィスキーの瓶を、一本ずつぶら下げていました。その姿が門を入ってきた時、五味司郎太はやっとこの間の約束を思い出しました。『ああ、そうそう。一周年記念とか何とか言ってたっけ』
五味ははずみをつけて、ぴょんと窓框(まどかまち)から床に飛び降り、部屋をななめにひょいひょいと横切って、扉を内側から押し開きました。
「やあ」
と言って山名申吉がくたびれた恰好で入ってきました。ぶら下げた瓶をだるそうに床に置き、手巾(ハンカチ)を出して顔いっぱいの汗を拭きながら、じろじろと部屋の中を見渡しました。
「まったく暑い日だね。目がくらくらする」
その部屋は板敷になっていました。家の中はこの部屋ひとつだけなのでした。部屋の一隅が炊事場所になり、そこに吊られた低い棚の上にコンロや飯盒(はんごう)やパンのかけらや大根の尻尾などが雑然ところがっていました。手製のまな板の上には、そこらで摘んできた野草らしい植物が、ひとつかみ乗っかっているのも見えました。
「自炊してるんだね。大変なことだ」
靴を脱いで部屋に上りながら山名が暑苦しそうに言いました。
「なに、兵隊の頃から慣れているんだ」
と五味はそっけなく答えました。座布団がひとつしかなく、主の五味がその上に坐ったものですから、客の山名は仕方なく板床の上に尻をおろす羽目になりました。そして肥満した山名が坐ると、床がみしみしと音を立てました。
「いい家だけど、なんだか妙なつくりだね」
物珍らしそうにきょろきょろしながら、山名は言いました。尻の下がみしみしと軋(きし)むので、なんだか落着かないのでした。
「僕がつくったんだよ。材木を買いあつめて」
「へえ。君が。そんな器用なことがやれるのかい」
「兵隊で覚えたんだ」五味は手を伸ばしてよごれたようなコップを二つ前に置きました。「僕はこれでも工兵だったんだよ。南方に三年も行ってたんだ」
それから二人はウィスキーを飲み始めました。暑くて仕様がないので、山名は失礼してシャツを脱ぐことにしました。シャツを脱ぐと山名の上半身は、まるでビニールの風船のように、肩だの胸だのが、ぶよぶよと不恰好にふくらんでいました。五味の眼はそれをちらちらと眺めていました。裸になってもやはり汗はじとじとと流れてくるのです。ガラス窓を透して西日がしたたかさし込むからでした。
それでも汗を垂らしながらしゃべったりコップを傾けているうちに、やがてほのぼのと酔いが廻ってくるようでした。山名は時々眼をくゎっと見ひらいたりして、出来るだけその酔いを戻そうと試みていました。今日はいろいろデータを集めねばならぬ関係上、野放図に酔うわけには行かないのでした。
北の壁際には、本がぎっしりと高く積み上げてありました。法律の本とか、そんなかたい本ばかりのようでした。乱雑に取散らした山名の部屋にくらべると、それだけでも堂々としていて、山名は先ほどからそこに漠然たる圧迫を感じていたのでした。そしてその傍の窓ぎわには画架(がか)が横向きに据えられ、二十号ほどのカンバスがそこにかけられているようでした。さっきからそれも気にかかっていて、山名はコップを持ったままやっと立ち上り、ふらふらとその前に近づきました。
「――君が描いたんだね」
カンバスの隅の Gomi という署名を読みながら、山名は言いました。それはこの家を表から描いた風景両らしいのでした。山名は絵のことはあまりよく判らないのですが、どうもこの絵は、構図や配置はわりに正確なのに、色の調子が変な感じでした。それはなんだかはっきりしない、色素の不足したような、ぼやけて濁った色調でした。やがて五味の声がうしろでしました。
「どうだい。いい色だろう」
山名は咽喉(のど)の奥であいまいな返事をしながら、心の中のメモに〈色素不足の風景画〉と書き込みました。その幻のメモには既に〈元工兵のお粗末な手製の家〉だとか〈床板のみしみし〉だとか〈座布団の横着〉だとか書き込まれてあるのでした。
最初の一本が空(から)に近くなる頃から、五味も酔ったと見えて、とたんに饒舌(じょうぜつ)になってきました。おかしなことには酔ってくると、ふだんはどこを見てるか判然(はっきり)しないぼんやりした五味の眼玉が、徐々にはっきりと焦点を定めてくるような気配がありました。つまりふつうの人間と逆なんだな、と思いながら山名はその眼を観察していました。それから五味はしきりに皿の野草のおひたしをつまみながら、詐欺の話や南方の兵隊生活の話などを始めました。この巾着頭がどんな戦闘帽をかぶっていたのかと思ったとたん、山名は烈しくウィスキーに噎(む)せかえり、飛沫をそこら中にとばして、すっかり恐縮したりあやまったりしました。詐欺の話とは、五味の父親が詐欺にかかって恨み骨髄に徹し、そこで苦労して息子の司郎太を法科大学まで通わせ、詐欺罪の研究をさせたという話でした。父親の話をする時でも、五味はれいの抑揚のない口調で、他人事(たにんごと)みたいなしゃべり方をしたので、かえって妙に間の抜けた可笑(おか)しさがありました。やはりこの巾着頭はどこか間が抜けている、南方ぼけでもしたのではないか、と山名は観察しながら、それでも感心したふりして相槌を打ったり、わざとにこにこして見せたりして聞いていました。いっぽう五味の方でも、山名のだらしなくたるんだ頰のへんを見い見い、どうもこの風船男には間の抜けたところがある、あまり肥り過ぎたので頭に血が充分のぼらないせいだろう、などと推察しながらしゃべっていたのでした。いつかあたりは薄暗くなり、ウィスキーはもう二本目に手がついていました。五味はゆらゆらと立ち上って電燈をつけました。
「ここは静かだね」瓶の方に手を伸ばしながら、山名が思い出したように言いました。確かなつもりでいても、もう相当手付きが怪しいようでした。「虫の音も聞えないじゃないか」
「静かなところじゃないと、僕は勉強できないんだ」と五味もコップを取上げました。彼も舌が怪しくなったらしく、いささか言葉がもつれる風でした。「雑音が入ると何も出来やしない」
〈雑音嫌悪の傾向〉山名はすぐにそれを心のメモに刻みつけました。酔っても忘れてはならないことでした。そしてついでに訊ねてみました。
「やはり勉強は夜なんだろうね」
「そうだね。昼間はいろいろ用事もあるし、今度の論文もどうしても夜の仕事になるだろう」
「あの文部省の交付金は、もう貰ったの?」
と山名は何気ない表情をつくって探りを入れました。
「ああ、貰ったよ」五味はウィスキーをごくりと咽喉(のど)におとしました。「身の廻りの品を買おうと予定してたのに、皆本屋の借金の方に廻ってしまった。いろいろ買いたいものがあったんだけれど」
「貰えただけでもいいさ。僕なんか――」ウィスキーのせいだけでなく、腹の中が急に熱くなるような気がして、山名はそう言ってしまいました。「僕なんか何も貰えなかった。中請書は出してみたんだけれどね」
「そうだってね」と五味は大して興味なさそうに言いました。「魚住浪子さんが、そう言ってた」
魚住浪子の名を発音する時、五味の舌はちょっともつれて、へんに粘っこい響きを立てました。山名はなんとなく面白くない気分になって、また瓶の方に手を伸ばしながら、呟(つぶや)くように言いました。
「どうして僕のは落っこちたのかな。別段欲しいという訳じゃないけれど、落っことすには落っことす理由がね――』
「研究費をやる価値なしと」五味はそっけなくさえぎりました。「審議会でそう認めたんだろ」
山名は鼻翼をびくりと動かして、じろりと視線を五味にむけました。電燈の光の具合か、五味の頭の鉢は、ふだんよりひとまわり大きく見えました。その頭をうつむき加減にして、五味は掌をうしろに廻し、老成した恰好で、しきりに首筋をもんでいました。山名の咽喉(のど)の奥がグウと鳴りました。
「南方にいた時神経をやられてね」頸(くび)をとんとんと叩き終え、五味はけろりとした顔になって言いました。「あちらの暑気は大へんなもんだった。なにしろ風が熱いんだよ」
「今でも悪いのかい」じっと見詰めたまま山名は探るように訊ねました。
「いや。もういいんだ。すっかり治ったんだ」
「全然異状なしか」
「なしだね。でも、まあ医者に言わせると、なにかショックを受けたりすると、ぶりかえすおそれもあるなんて言うんだけどね」
「ショックというと精神的の?」
「いろいろだろうね。でも医者の言うことなんか、あてにならないさ。あいつらはちょっと詐欺師みたいなところがあるな。オドシやハッタリを使ったりしてさ」
「僕も近頃、すこし神経衰弱気味なんだ」頰をわざとらしくゆるめながら、山名が言いました。妙にうわずった、うれしそうな声でした。「僕にもショックは悪いかな」
それを聞くと五味司郎太は、とつぜん咽喉を痙攣(けいれん)させるような声で、甲高(かんだか)く笑い出しました。それにつられたように山名申吉も、胸の贅肉(ぜいにく)をたぶたぶさせて、その笑声に和しました。二人は顔を見合わせたまま、しばらくの間その笑いの合唱を続行しました。やがてどちらからともなく笑いを収めると、それぞれ何か納得の行ったような顔になり、めいめいのコップに手を伸ばしました。
それから二人のコップを傾けるピッチが、急に早くなりました。それにつれておしゃべりの声も高くなり、呂律(ろれつ)もしだいに乱れてきました。そして一時間後には、両人とも気を合わせたように、すっかり酩酊(めいてい)してしまいました。
山名の胸の贅肉を指さして、土人女の乳房を思い出すと五味が笑いこけますと、山名は上半身をゆたゆたとくねらせて、踊りの真似をしました。床板がみしみし、きいきいと悲鳴を上げました。そしてそれからの聯想なのか、こんどは魚住浪子の名前が飛び出したりしました。なにしろめいめいでウィスキ一本ずつあけたのですから、お互いに朦朧(もうろう)となって、相手が何を言ってるのかもさっぱり判りません。それでも山名は、この訪問の目的がかすかながら頭に残っているらしく、
「なになに、魚住浪子が大好きだと。浪子ちゃんにべた惚れだと」
などと呂律も廻らぬ口で言いながら、心の中のメモでは不安心なのか、ズボンのポケットから本物の手帳を引っぱり出して、鉛筆でメモをなすくり始めました。すると五味も何を思ったのか、よろよろと自分も鉛筆をもってやって来て、そのメモを手伝おうとしました。
[やぶちゃん注:「なすくり」「擦(なす)くる」で、「表面を撫でるようにする」の意。私は使ったことがない。]
山名が、
「ええと。べた惚れと。べた惚れの五味の場合と」
と手帳に何やら書き込みますと、こんどは五味がその手帳を引ったくって、
「ええと。水ぶくれと。水ぶくれの神経衰弱と」
などと訳もわからないことを書き込む。皮手帳はあっちの手に行ったりこっちの手に渡ったりして、とうとうどの頁も乱れた鉛筆の跡でいっぱいになってしまいました。
それから先何がどういう具合になったのか、記憶がほとんどありません。朝ふと目を覚ますと、山名申吉は自分の下宿の部屋に、布団もしかずに寝ていました。頭ががんがん痛んで、そこらあたりが一面黄色に見えました。
「昨晩はどういう風(ふう)にして帰って来たのかな」
こめかみを指でぎりぎり押え、朦朧たる記憶を探りながら、山名は苦しげに呟きました。どこかの歩廊の上から線路めがけて放尿したような記憶もあるし、五味の家の門のところでつまずいて転んだような覚えもある。五味の頭に抱きついて、これを標本に持って帰るんだと、わめいたような気もする。みんな曖昧(あいまい)で断片的で、思い出すと身体が縮むような記憶ばかりでした。こんなにだらしなく酔っぱらったのは、山名は終戦後初めてでした。そして舌打ちをして体を起そうとすると、あちこちの節々がぎくぎくと痛み、山名は思わずうめきました。
「あまり良いウィスキーじゃなかったな。あんなものを飲ませやがって」
自分が持って行ったものであることもうっかり忘れて、山名は顔をしかめてぼやきました。
昼頃になって、表に出て濃い珈琲(コーヒー)を二杯ほど飲み、やっと人心地がつきました。それからまた宛(あ)てもないので、ふらふらと下宿にまい戻り、ぽんやり机の前に坐り込みました。漠然たる自己嫌悪でうんざりするような気分でした。そしてふと眼をおとすと、机上の大切な原稿用紙の上には、斑々(はんぱん)と薄黒い模様が散らばっているのでした。それは鼠の足跡でした。なかんずく『五味の場合』という文字の上に印された足跡が、いちばん毒々しくはっきりとしていました。自分が書こうと思った小説を侮辱されたような気がして、とたんに山名はむっとしました。
「また猫もどきの奴だな!」
二日酔いの状態にある時、人間はとかく情緒がたかぶりやすいものですが、この日の山名もそんな具合でした。彼は心中にかたく復讐をちかいながら、それをばりばりと破り捨て、次の一枚にあたらしく『五味の場合』と書き入れました。それからふと昨夜のメモを取っておく気になって、〈雑音嫌悪の傾向〉だとか〈神経ショック〉だとか、彼は心覚えを探り探りノートを取り始めました。その仕事をつづけながらも、実は昨夜のことを考えると、山名はなにか忌々(いまいま)しく、五味にうまくしてやられたという感じもするのでした。いろいろ収穫はあったにしろ、いい加減莫迦(ばか)にされたような感じが、心のどこかに残っていました。そしてそのままメモを進めている中に、山名は濛漠(もうばく)たる記憶の底から、とつぜん魚住浪子のことを思い出しました。それに続いてあの皮手帳のことが、ぱっと頭にひらめきました。山名はあわててペンを置いてポケットを探りました。手帳は折れ曲ってそこにありました。
手帳に書かれた文字はほとんど判読できないものばかりでした。昨夜の泥酔をそっくり描いたようなものでした。山名は顔をしかめて、一枚一枚めくって行きました。四B鉛筆で書かれたのは、五味の字です。五味の字もやはりわけが判らない。ぐにゃぐにゃした四B鉛筆の跡を、やっと『水ブクレ』などと判読して、山名は呟いたりしました。
「水ぶくれなんて、あいつ足にマメでもつくってたのかな」
ある頁にはやはり五味の鉛筆で、乱暴に絵が描いてありました。もちろん酔っぱらいの絵だから、めちゃくちゃな線です。頁の上方に描いてあるのは、爪がついているから、どうも指のつもりらしい。その指らしいものが二本。何かをつまんでる形かな、と思った時、山名の顔はさっと赤くなりました。それは指が何かをつまみ上げたところの絵でした。指からぶら下ったものの形は、そう見るとあの時のものの形とよく似ていました。いかにも皺(しわ)くちゃな布地の感じでした。絵の横には何か文字らしいものが書いてありましたが、それは支離滅裂でとても判読できませんでした。
「やったな」頰をびくびくさせながら、山名は暫くその字をにらみつけていました。「スケベエとかなんとか書いてあるんだろう!」
――その夕暮れ、山名申吉は顔をむっとふくらまして、学校の教員室に入って行きました。身体の節々が痛く、不機嫌でもあったのですが、昨夜の醜態を照れる感じもいくらかあったのでした。五味司郎太はもう来ていて、いつものように自分の席から、ぼんやりと教員室を眺め廻しておりました。二人は顔を合わせて、ちょっと目顔で挨拶し合っただけでした。山名のはどう見てもふくれっ面でしたけれども、五味の顔はいつもと同じ表情でした。別に親しげな色もなければ、その反対の色もない。初対面以来相も変らぬ、あのぼやっとした無感動な顔付です。昨夜一晩の交歓も、五味の情緒に何の影響も与えていない。全くそんな感じでした。莫迦にしてやがるな。山名も椅子に腰をおろし、不味(まず)い莨(たばこ)をしきりにふかしながら、何となくそう思いました。そう思うと彼はまた腹が立ってきました。力みかえっていたところを、ふいと肩をすかされた感じ。それが彼の鬱屈した怒りを行き場のないものにしました。
『やっぱり南方暑気の関係で――』とやがて山名は屈折した気持を持て余しながら、こんなことも考えてみました。『こいつの神経はどうかなったのに違いない。治ったなんて、嘘だろう』
するといくらか可笑(おか)しさがこみ上げてきて、山名はすこし頰の硬(こわ)ばりをゆるめました。そうでも考えなければ実はやり切れないのでした。その山名のズボンの膝のあたりを、さっきから五味は巾着頭をかしげて、じっと眺めていました。
「面白い形だね。ちょいと九州の形に似ているよ」やがて五味は背をかがめ指をそこに近づけながら、いつもの声で言いました。「鼠が食ったんだね」
そして五味の指が膝の皮膚に直接ひやりと触れたものですから、いきなり思考が中断され、山名はびくりとしてそこに眼をやりました。すると今までは気が付かなかったのですが、そこには直径二寸ほどの不規則な穴があいていました。その穴の形からしても、あきらかに鼠の仕業(しわざ)だと思われました。昨夜脱ぎ捨てたところを、嚙み破られたに違いありません。山名は狼狽しました。
「ちくしょうめ」
山名は思わずそこに掌をもって行きました。夏のズボンはこれ一着しか無いのでした。だからあわてるのも当然でした。その山名のあわてた指が穴のところで、五味の指にちらと触れ合いました。五味の指はへんにつめたく、湿ったゴムのような感触でした。
「ウィスキーをそこに零(こぼ)したんだろ」五味はその手を引込め、小さな欠伸(あくび)をしながら言いました。「鼠という動物は、あれで案外アルコールが好きなんだ。僕も南方で経験がある」
その声も耳に入らないように、山名は一心に穴を点検している風(ふう)でした。やがて充血した顔をのろのろと上げ、
「君んちには、鼠はいないのかね」
と聞きました。それはなんだか調子の外(はず)れたような変な声でした。
四
翌日の昼間でした。
ある盛り場の大通りを、人混みの間を縫うようにして、五味司郎太はひょいひょいと歩いておりました。買物袋を提げているところを見ると、何か買物に出て来たのでしょう。
偶然その時、その通りのある金物屋から、山名申吉が買物をすませて出て来ました。小脇にかかえているのは、特大の鼠取り器でした。そして彼はふと、歩いて行く五味の姿をそこに見付けました。呼び止めようとして、山名ははっと思い止った風に口をつぐみました。
五味は何も気付かない様子で、ひょいひょいと歩いて行きます。十米ほど遅れて、山名は見え隠れに五味の跡をつけ始めました。
ある大きなデパートの前までくると、五味の姿はふいに立ち止り、それから吸い込まれるようにその中に入って行きました。山名も直ちにそのあとを追いました。
ある売場のガラス棚の前に立ち止り、五味は頭をかしげて、その中の品物にじっと見入っておりました。買おうか買うまいかと考えている風でしたが、やがて思い直したと見え、ふっと離れて歩き出しました。
柱の陰から様子をうかがっていた山名申吉が、そこを飛び出して、足早にその売場の前にやって来ました。今しがた五味が眺めていたそのガラス棚には、爪切鋏がずらずらと陳列されてありました。山名はちょっと考え込む顔付になり、それから急に何かを思い付いた風に女店員を呼び、その一個を買い求めました。
その時五味は文房具売場の前に立ち、ガラス棚の中をのぞき込んでいました。そこには油絵具のチューブがきれいな配列で飾られていました。やがて五味は諦(あきら)めたように頭を振り、そこを離れました。
すると待ちかねたようにそこらの物陰から、山名の丸っこい姿が飛び出して来て、その前に立ちました。そしてチューブの配列を眺めてちょっと戸惑ったようでしたが、やはり直ぐに店員を手招きして、レモンイェローのチューブを指さし、そそくさと代金を支払いました。そして品物を受取ると、再びいそいで五味のあとを追いました。
今度は五味は帽子売場の前に立っていました。
山名は万年筆売場のかげにかくれて、その五味の姿をじっと見張っておりました。そしてなんだか嬉しそうなうすら笑いを浮べて、口の中で呟きました。
「神経ショックか」
五味が欲しそうに眺めたものを全部買い求めて、そっと気取(けど)られないように買物袋の中に入れてやる。家へ帰って買物袋をひろげると、五味は愕然(がくぜん)とするだろう。おれは心神喪失の状態で万引したのかな、と疑ったりして惑乱するだろう。などと考えて山名はうす笑いをしていたのでした。そのショックで南方の神経病がぶりかえすとなれば、なおのこと面白かろう。
「おや。あんなものが欲しいのかな」
向うの方でさっきから、五味は台から帽子をひとつつまみ上げて、その生地(きじ)を調べていましたが、今度はそれをひょいと頭に乗せました。かぶり心地を試してみるのでしょう。それはベレー帽でした。ベレー帽をいただいた巾着頭を遠望した瞬間、痙攣(けいれん)的な笑いがいきなりこみ上げてきて、山名の咽喉はしゃっくりのような音を立てました。体をよじって笑いを忍んでいるこの肥った男に気付いて、万年筆売場の売子のひとりが、気味悪そうな顔で後しざりしました。
五味はベレー帽を台の上にもどし、またぶらぶらと歩き出しました。
山名は笑いを収めてかくれ場所を飛び出し、そのベレー帽を摑(つか)みました。金を払ってそれを包ませ、五味のあとを追ってまたせかせかと階段をのぼりました。五味の姿はその登り口付近には見えませんでした。
あわててきょろきょろすると、はるか彼方に、あの特徴のある頭が、やっと見当りました。この階は、客の影がすくないので、山名は背丈を縮めるようにして、忍び足で、五味の方に近づいて行きました。
柱のかげからそっと覗(のぞ)くと、五味は楽器売場の前に立って、一合のグランドピアノに一心に見入っておりました。
「ピアノじゃとても買い切れない」自分の財布の中味を思い、山名はがっかりしたように呟(つぶや)きました。「第一あの買物袋に入り切りゃしない」
しかし実は五味はピアノを眺めているのではありませんでした。その黒いすべすべした楽器の肌にうつる自分の顔に見入っているのでした。この顔にベレー帽が似合うかどうか、そんなことをぼんやり考えていたのでした。やがて五味は首を振り振り、そこを離れました。
それから五味は階段をひょいひょいと降り、ふたたび表の通りに出ました。そこから近くの交叉点の安全地帯に立ち、やがてやって来た都電に乗り込みました。都電はなかなか混んでいて、すし詰めでした。五味は窓際に押しつけられて、呼吸(いき)苦しく外の景色を見ていました。
その五味の直ぐうしろに、山名申吉の肥った体が、人目を忍ぶようにちぢこまって立っていました。そして顔の筋肉を奇妙に硬ばらせ、電車の動揺を利用して、手をもそもそと動かしました。五味は外の景色にすっかり気を取られていたので、買物袋までには注意が廻りませんでした。まして山名がうしろに立っていることにも全然気がついていませんでした。――
その夕暮れ、この両人は教員室で顔を合わせました。いつもの通り目顔で挨拶し合っただけでしたが、山名は昨夜のふくれっ面と違って、今夜はにこにこと生甲斐のありそうな顔をしていました。五味の方は別段変化は認められないようでした。その五味をちらちらと横眼で窺(うかが)いながら、山名は落着かない風に貧乏揺すりをしてみたり、ひょいと顔をねじ向けて、近頃何か面白いことはないかね、などと話しかけたりしました。
五味は言葉すくなくそれに答え、あとは何時ものように脚をぶらぶらさせ、教員室を見廻したり、ぼんやりと天井を眺めたりしていました。
それから四五日が過ぎました。
真夜中のことでした。
山名申吉はぱっと眼が覚めて寝床からはね起き、急いで電燈をつけました。そして部屋の一隅に眼を走らせました。
そこに仕掛けた鼠取りに、黒いものが入っていて、がたがたと動いていました。
「しめた。猫もどきだ」
山名はわくわくしながら、顔をそこに近づけました。それはまさしくあの『猫もどき』でした。特大の鼠取りでしたが、『猫もどき』が入るとそれだけでいっぱいでした。
「やい」
と山名は呼びかけました。『猫もどき』はじっと山名を見返しました。もっとも顔を外(そ)らそうにも、金網いっぱいの超満員なので、首も動かせないのでした。入っているのはやっと体だけで、尻尾は全部外にはみ出ているような始末でした。山名はその顔をしばらく一心に見詰めていました。
「全く厭な眼付だ。五味の眼にそっくりだ」
やがて吐き出すように山名はそう言いました。鼠の視線もじっと山名に固定していました。そう言えば、それはどこか五味司郎太の眼玉に、感じが似ていました。それはこちらを見ているくせに、こちらを通り抜けて向うを見ているような眼付でした。恐れも悲しみも喜びも、その眼にはないようでした。
「ほんとなら殺してやるところだが――」
島津鮎子の下着のことやズボンの穴のことを思い出して、山名はことあたらしくその顔を睨みつけました。あのズボンの穴は、山名は一晩つぶして、不器用につぎを当てたのです。実は新しいのを買おうと思ったのですが、五味にあの奇妙なプレゼントをしたおかげで、予算が無くなってしまったのでした。やがて山名は鼠から眼をそらしながら、忌々(いまいま)しそうに呟きました。
「まあ命だけはたすけてやる」
翌朝、病気欠勤の速達を学校宛てに出し、日が暮れるのを待ちかねて、山名は外出の支度をととのえました。そして大きな風呂敷を出し、その鼠取りを『猫もどき』ごと包み込みました。包まれると『猫もどき』は急に不安を感じたらしく、キュウキュウと啼(な)きました。それには耳もかさず、山名はその包みをしっかと小脇にかかえて立ち上りました。
『一体あいつはすこしはショックを受けたのかな?』
三十分ほどの後、山名はしきりにそんなことに考え耽(ふけ)りながら、電車に揺られていました。あの日ベレー帽其の他を、うまく五味の買物袋に辻(すべ)りこませたにも拘らず、歴とした反応がまだ五味にあらわれてこない。それが山名にはすこし不満なのでした。
『もし俺があんな目にあったとすれば、とても平気じゃおれないんだがな』
あいつは特別だからな、などと呟きながら、山名は包みを持ち換えました。包みは嵩(かさ)の割に不気味な重量感があるのでした。やがて電車から降りると、山名は心覚えの道をまっすぐ五味の家さしてとっとっと急ぎました。
五味の家は燈が消えていました。主は今頃学校の教壇に立っているのでしょう。山名は体を横にしてそっと門を入り、跫音(あしおと)を忍ばせて家のうしろ側に廻りました。そこに空気抜きの小窓があるのを知っていたのです。あたりにはかすかに虫音が聞えるだけで、あとはしんと静かでした。『こんど轡虫(くつわむし)をたくさん持ってきて、この庭に放してやろうか』山名は風呂敷包みの結び目をときながら、そう思いつきました。雑音があると勉強ができない。その五味の言葉を思い出したのです。『いずれそれも実行することにしよう』
小窓に鼠取りをあてがい、そろそろと落し戸を引きました。暗がりの中で鼠の体がじりじりと後しざりするのが見え、そしてふっと鼠取りが軽くなりました。小窓から家の中に入り込んだのです。
『さあ。あれが五味家の鼠の第一号だぞ』
門をすり抜けて道を戻りながら、山名は声なき声をたてて笑いました。五味の家には一匹も鼠がいない。ズボンの穴に気付いたあの時、山名の質間に答えて、五味はそう言ったのです。実はそれを聞いた瞬間に、山名の胸にこのアイディアが天啓のように湧き上ってきたのでした。鼠を生捕りして、そっとこの家にほうり込む。しかしその鼠をつかまえるとしても、まさか『猫もどき』がかかろうとは、昨夜まで予想もしなかったことでした。
その夜下宿に舞い戻り、ごろりと寝床に横たわったまま、山名は眼をぱちぱちさせて何かを考え込んだり、時々低い声で独り笑いをしたりしていました。五味の炊事場が荒される有様とか、天井をかけ廻る『猫もどき』の足音などが、山名の想像にまざまざと浮んでくるのでした。それから五味の困惑や狼狽を想像したり、今夜の自分の成功を祝福したりしているうちに、山名は突然妙なことに気が付きました。
『そう言えばこの俺もおかしいことはおかしいぞ』
あのアイディアが心に浮んで以来、山名は自分の胸の中に、今まで感じたこともない奇妙な情熱の高まりをずっと感じていたのでした。
生れて以来あてもなくぼんやり生きて来て、情熱などというものには自分は縁がないと思い込んでいたのに、三十一歳の今になって、とつぜんこんな情熱が湧き立ってきた。しかもその情熱が、五味司郎太という個人への厭がらせ、その一点だけに燃え上っている。そう気がつくと、山名はなんだか妙な感じがしないでもありませんでした。おかしいと言えば、少しおかしな話でした。
「しかしおかしいのは、なにもこの俺だけじゃない。人間はみんなおかしいよ」
どしんと寝返りを打ちながら、山名はそう呟きました。おかしいたって、あれ以来の毎日を充実して過してきたのは事実だから、それならそれでいいじゃないか。山名はそう自分に言い聞かせました。実際気がつくと、あれ以来夜もよく眠れるようになったし、彼を悩ましていたあの神経衰弱気味の感じも、すっかりけし飛んだような感じでした。
それからまた一週間ほど過ぎました。
二人は相変らず毎晩教員室で顔を合わせていました。別段変ったところもありませんでした。五味はいつもの五味だし、山名はまあいつもの山名でした。
ある夜の休憩時間、山名は膝に手を伸ばして、ズボンのつくろった箇所を何となく撫でていました。五味のぼんやりした視線が、ふとそこに止りました。
「修繕したんだね」
と五味はぽつんと言いました。
「ああ。自分でやったんだ」と山名は五味の方に顔をねじむけました。何だかいそいそとした動作でした。「実際鼠って奴は仕様がない動物だなあ。うちにはぞろぞろ居るんだ。君の家がほんとうにうらやましいよ」
実を言うと、鼠のことを訊ねてみたい欲望が、この数日しきりに胸をそそのかすのですが、山名はじっと我慢していたのでした。うっかり訊ねると尻尾(しっぽ)を出すおそれがあるからでした。しかし今は絶好の機会のようでした。それで山名はさり気(げ)なく言葉をつづけました。
「でも君の家に鼠が住みつかないのは、不思議だねえ」
「ちっとも不思議じゃないよ」
と五味はそっけなく答えました。
「不思議だよ、やっぱり」
山名は顔を元に戻しながら、つづけてさも自然らしく訊ねてみました。
「全然出て来ないのかね?」
「四五日前、一匹出て来たよ」と五味はあたり前の調子で言いました。「久しぶりに旨(うま)かった」
ぐっと咽喉(のど)が詰まるような気がして、山名は五味の顔を見ました。そして思わず押えうけたような声を出しまし
た。
「君は鼠を食べるのか?」
「ああ」と五味は気のなさそうにうなずきました。「南方でもずいぶん食べた」
山名はそれでしゅんと黙ってしまいました。南方の元工兵を忘れたのは、全くの不覚でした。これでは鼠が居付かないのも、当然の話でした。
『よし今度は轡虫(くつわむし)だ』
そっと唇を嚙みながら山名は心の中で呟きました。
あの一日の苦労が無駄になったことも、忌々しい極みでしたが、あの大鼠の運命を想うと、かつての憎しみも忘れて妙に可哀そうな気がするのでした。五味なんかに食べられるなんて、なんと不幸な鼠だろう。よし、俺が仇をとってやる。黙りこんだまま、むらむらと湧き上るものを体内に感じながら、山名はひそかに力んでいました。
それからまた十日ばかり、風のように過ぎました。
巷(ちまた)にはもう秋風が満ちていました。
ある夜、山名は相当に酔っぱらって、よろよろと自分の部屋に戻ってきました。学校の帰途、そこらの屋台で、ひとりで一杯ひっかけたのです。実は今日は学校から月給が出たのでした。しかし山名が酒を飲む気になったのは、そのせいだけではありませんでした。あまり面白くないことが今夜あったのです。
それは五味が今夜、しごく平気な顔をして、あのベレー帽をかぶって来たからでした。
あの買物袋への投げこみの効果については、いくらか危惧(きぐ)はあったにしろ、山名はまだまだ充分な自信を持っていたのでした。ところが今日はその自信を全然くつがえされたような形だったのです。
今夜ベレー帽に山名が気がついたのは、課業がすっかり終ってからでした。ふと隣りの席を見ると、五味がそれをちょこんと頭に載せていたのです。山名はぎょっとしました。
「それ、買ったのかい」
少し経って、山名はかすれた声で、そう訊ねました。
「いや」
と五味はかんたんに首を振りました。それだけでした。
「じゃ、貰ったのかい」また少し経って、山名はも一度訊ねました。
「いや」と五味は帽子に手をやって、位置を少し直しました。「買物から戻ってくると、僕の荷物の中に紛(まぎ)れこんでいたんだ」
「へんな話だね」
「へんでもないよ。誰かが間違えたんだろう」と手をおろしながら、五味は変哲もなく言いました。
「間違いということは、誰にでもあることだからね。珍らしくはないさ。どうだい、似合うかね?」
君の顔に似合うわけがない。そんな言葉が山名の口から飛び出る前に、背後からとつぜん魚住浪子の声がしました。
「あら、素敵ね。よく似合うわ」
その声を聞いて五味は嬉しそうに笑いました。五味のこんな笑い方は、山名はあまり見たことがありませんでした。
「はい。給料よ。五味先生」
魚住浪子は月給袋を持って来て呉れたのでした。五味には先生と呼ぶのに、俺には先生をつけない。そんなことを考えながら、山名は鬱然(うつぜん)とした表情で自分の月給袋を受取りました。全く面白くない気持でした。
こういう経緯(いきさつ)があって、山名はつい酒を飲む気持になったのでした。
しかし飲んでいるうちに、やはり酒というものは有難いもので、ふしぎな力が山名の胸にすこしずつ盛り上ってきたようです。
「よし、魚住浪子は俺がものにしてやる」
盃を傾けながら、山名はしきりにそう呟(つぶや)き、肩を力ませていました。五味はたしかに魚住に惚れている。その五味を打ちのめすには、確かにこれは効果的な方法だ。そう思うとあの奇妙な情熱が、ふたたびむくむくと山名に湧いてくるのでした。まったく不死身な情熱でした。
今は真夜中です。
山名申吉は布団の中に丸々と眠っています。酔っぱらって電燈を消し忘れたので、淡い光が彼の顔をしずかに照らしています。それは全く健康そうな、むしろ無邪気な感じの寝顔です。満ち足りた寝息が規則正しく鼻孔から出入りしています。
四五日前の夜五味の庭にそっと投げ込んだあの轡虫たちが、生憎(あいにく)とその庭の先住者たる蟷螂(かまきり)に、すっかりその夜のうちに全滅させられたことも知らないで、この肥った男はひたすら眠っているばかりです。
机上の原稿用紙は、『五味の場合』という題名だけが記されたまま、うっすらと埃をかぶっています。電燈の光はそこにもあわあわと落ちています。この『五味の場合』という小説は、おそらく題名だけで、中味は永久に書かれないのではないでしょうか。どうもそんな気が、私にはします。もうその必要も、山名にはなくなったでしょう。
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