西原未達「新御伽婢子」 三頸移ㇾ鏡
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。
注は文中や段落末に挟んだ。]
三頸移ㇾ鏡(《さん》きやう、かゞみにうつる)
因幡(いなば)の國(くにゝ)、或《ある》有德(うとく)の町人、源之丞とかやいふ、其身、榮耀にほこり、酒に長(ちやう)じ、色にまよひけるほどに、妾(せう/めかけ)といふものを、三人、爰(こゝ)かしこに宿(やど)し、置行《おきゆき》、かよひけり。こなたの事を、あなたに蜜(かく)[やぶちゃん注:漢字はママ。]し、かしこを爰に包(つゝみ)て、
「独(ひとり)の外《ほか》、心をかよはす事、なし。」
と、空(そら)をそろしき[やぶちゃん注:ママ。]ちか言(ごと)の數を重(かさね)ていひ、蜜しければ、女、何(いづ)れも、
「我ひとり、妾たり。」
と、思ひあがりて在《あり》しほどに、いつしか、今は、顯れて、皆、男を恨(うらむ)事、甚し。
[やぶちゃん注:「ちか言」「誓言」。]
或時、ひとりの女、「さわ」といへるがかたに行《ゆき》て、夜半(よは)過《すぐ》る迄、戯居(たはぶれゐ)る。
かゝる時、又、ひとりの女より消息(せうそこ)して、
「こよひ 必《かならず》 夜半のかねのならん時 わが方に おはせん」
と、の給ひし。
早(はや)、子(ね)の時は、過(すぎ)侍り。『鳥は物かは』といひけん、ふるごと、覺《おぼ》し出《いで》ずや、
「つらしや 心づよや」
など、細(こまか)に託(かこち)こしければ、男、此文《ふみ》を見て、
『今なん、其かたに、まからん。』
と思ふに、醉《ゑひ》のあまりに、眠(ねふり)のきざし侍れば、
「あすなん、其かたに、音づれ侍るべし。」
と使《つかひ》を歸す。
あるじの女も、打《うち》はらだちて、言傳(ことづて)侍る。
「おもひもかけぬ虛言(そらごと)をかまへて、子・丑の時を告(つげ)ずとも、枕を高(たか)ふ臥(ふし)給へ。殿(との)は、こなたの殿なれば、自(みづから)生(いき)てあるほどは、放ちは、やらぬ物を。」
と、さまざまのさがなし言(ごと)をいひて、使の者を追歸(《おひ》かへ)す。
[やぶちゃん注:「さがなし言」意地の悪い言葉。]
下女、歸りて、
「かく。」
と、いへば、こなたの女、嗔噫(しんい)を焦(こが)し、下女をつれて、有《あり》し男のかたに行(ゆき)、
「此戶(とを)、明《あけ》て給へ。」
と、遽(あはたゞしく)嗃(たゝけ)ども、内にも、早(はや)、
「かく。」
と知《しり》て、敢(あへ)て、音、なし。
とかくするほどに、今一人の妾(めかけ)も、此男に約せし事あり、
「うしみつ斗(ばかり)に來《きた》らん。」
と、いひこしければ、是も、猛(たけ)りて、爰に來《き》ぬ。
妾ふたり、下女ともに、四人、門の外に立《たち》て、此戶を、たゝく事、雷(らい)の、をこるがごとし[やぶちゃん注:ママ。]。
此時、内より、下女、さし心得《こころえ》て、
「さのみ、せばく、の給ひそ。今宵に限るうき世かは。明《あけ》なんあすを待給へ。今(こ)よひは、いたう醉臥(ゑひふし)給へば、步行(ぼこう[やぶちゃん注:ママ。])さへ、叶ひさふらはず。各《おのおの》、歸りをはしませ。」
と、なだめて、いらへけるにぞ、ふたりの女、聲うちかすめて、
「恨めしや、妬(ねた)ましや、よしよし、身こそ隔《へだ》たるとも、心は内に入《いり》なん物を。」
といふ聲斗(ばかり)罵(のゝしり)て、四人の女は、歸りぬ。
[やぶちゃん注:「嗔噫」「瞋恚」に同じ。
「せばく」「狹く」。狭量に。]
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。半幅一枚であるが、下方から上方の絵の順に時間が経過する。]
男は、前後を忘れて、寢(いね)たり。
女は、髮、けづりて、姿鏡(すがたみ)に、立《たち》むかへば、鏡の内に、女顏(をんなのかほ)、三人、うつる。
「はつ。」
と驚《おどろき》、
『若(もし)、我ならで、後(うしろ)に、人、ありや。』
と見歸るに、敢て、女、なし。
暫(しばし)、鏡をうつぶせて、又、取《とり》て見るに、いくたびも、かくのごとし。
是より、心神(しんしん)腦乱(なうらん)して、樣々、口ばしり、
『荒(あら)腹《はら》たちや、我に難面(つれなき)あの男を、命、取らん。』
と思ふに、肌(はだ)に納(をさめ)たる「盤若(はんにや)」の法(のり)の札に、をそれて、近付《ちかづき》得ず。
され共、
「物の間(ひま)、求(もとめ)て、終《つひ》には、思ひ知(しら)せん物を。」
と、罵(のゝしる)聲の、地にひゞき、踊(をどり)あがり、飛(とび)めぐりしが、種々(しゆじゆ)の惡相(あくさう)を顯はし、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]明(あけ)の日、むなしく成る。
男、是を見るより、身のあやまちを覺悟し、本宅にも歸らず、直(すぐ)に遁世修行の身となんぬ。
すべて、世のわざは、一心の所爲(しよゐ)より、惡趣に漂ひ、一心の所爲より、善所(ぜんしよ)に詣(まふ)ずる事なりかし。女は、我慢より、猶、我慢の奧をたどりて、廣劫(くわう《ごふ》)くらきに迷ふべきを、男は、菩提の心を發(おこ)して、山深く、行ひ、永(なが)く佛道修行の道人(《だう》にん)とぞ成《なり》ける。
[やぶちゃん注:「廣劫」「永劫」に同じ。
最後の、一般論としての、女性には結縁なくして永劫の瞋恚に迷い、男は菩提心を発心して道心堅固となるという、男女差別は中古旧来の仏教の変生男子(へんじょうなんし)的な差別意識は常套的で、この軽薄男があっさりと出家する都合のよさは如何にも「なんだかな」とは思うのであるが、ちょっと他に類話を見ない愛憎執着物怪談で、鏡の中の女たちの首の出現と、妾の一人の狂乱というカタストロフは、本書の中では、出色の一篇かとも思う。底本の旧所有者も、かく感じたものか、本篇の標題の頭に朱点を打っているのも頷ける。]