西原未達「新御伽婢子」 髮切虫
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。
本篇には挿絵はない。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。]
髮切虫(かみきりむし)
或家中の侍、煩《わづらふ》事ありて、老醫・鍼醫を日每(ひごと)に招(まねひ)て、君臣佐使(くんしんさし)の術を盡す。
[やぶちゃん注:「君臣佐使」「日本薬学会」公式サイト内の「薬学用語解説」のこちらに、『漢方処方は複数の構成生薬のすべてが同じ重要性をもっているわけではなく、中心となる重要生薬と、その作用を補助し』、『中心生薬が十分』に『薬効を発揮できるようにする生薬で構成されている。このような役割を君臣佐使(くんしんさし)といい、中心生薬を君薬、君薬の作用を補助し』て『強める生薬を臣薬、君臣薬の効能を調節する作用をもつ生薬を佐薬、君臣佐薬の補助的な役割を』成して『処方中の生薬の作用を調節したり、漢方薬を服用しやすくする生薬を使薬と呼ぶ』とある。]
或朝(あした)、醫師の見舞けるに、未(いまだ)寢所を出《いで》ず。
「こなたへ。」
と請(しやう)ず。
左右(さう)なく奧に入《いり》て、脈をうかゞひ見んとするに、此病人、一夜の内に法躰(ほつたい)したり。
醫師、驚き、
「こは、何とて斯法躰し給ふ。御年《おんとし》も若《わか》し。上のゆるしも、早く出《いで》たる事よ。」
など、挨拶する。
侍、肝を消し、手をあげて、頭(づ)を撫(なづ)るに、實(げ)に、うつくしく、剃(そり)こぼしたり。
「是は。夢にも覺えぬ事。何者の所爲(しよゐ/しわざ)ぞ。外《そと》より、人のなすには、あらじ。召つかふ者共の、遺恨ありて、斯《かく》、はからふなるべし。侍の寢(ね)をびれて、かゝる事を、不ㇾ知《しらず》と、人口(じんこう)遁(のが)るゝに、所なし。仡《きつ》と、僉義(せんぎ)せん。」
と嗔(いかり)けるにぞ、下部共、初而(はじめて)見て、驚きける。
[やぶちゃん注:「かゝる事を、不ㇾ知と、人口(じんこう)遁(のが)るゝに、所なし。」「このような許し難い屈辱的な行いを成しておいて、誰にも知られることないままに、人の噂と、その罪を逃れ得るなどということは、これ、決してありえぬ!」。]
去れども、吟味の方便(てだて)もなく、惘然(ぼうぜん/あきれ)として居《をり》ける所に、其翌日、同じ家中の侍、壱人、中間《ちゆうげん》といふ男をつれて、町へ所用あつて、出《いで》ける。
絹卷物(きぬまき《もの》)などやうのもの、見廻り行く。白晝(はくちう/ ひる)に、是も、同じく法躰して、屋敷に歸る。中間、後(うしろ)より見て、
「是は。」
といふに、主(ぬし)も知りぬ。
是、又、猶、穿鑿すべき道なくて、暫(しばらく)、給仕をも、止(やめ)て居(ゐ)けるが、前の侍の法躰を聞《きき》てぞ、
「扨は。天魔の所行(しよぎやう)と思ひ居りけり。不ㇾ見ㇾ目(めに《みへ》ず)、耳に不ㇾ聞(きかず)、色もなく、音もなくて、かゝる事をなしける、不思義なる事にぞ有ける。
[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]
其比《そのころ》、町人にも、此たぐひ、粗(ほゞ)有けるとかや。俗に「髮切むし」といふもの、飛行《ひぎやう》して、目に見えず。「黑髮を、くらふ。」といひ、匉訇(のゝしり)けり。
[やぶちゃん注:「匉訇(のゝしり)」「訇」は「罵(ののし)る」「匉」は「大きな声の形容」である。
妖怪「髪切り」については、当該ウィキが博物誌的で一読に値する。]