西原未達「新御伽婢子」 仙境界
西原未達「新御伽婢子」 仙境界
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。漢文部は後に〔 〕で訓読文を附した。
本篇はやや叙述が複層的なので、注は適切と判断した近くに特異的に挟んだ。]
新御伽卷之四
仙境界(せんきやうかい)
夫(それ)、仙は、霞をくらひ、霧を吞(のみ)、雲にまたがり、空に居(きよ)して通力(つうりき)を得、神便(しんべん)を行《おこなふ》といへる事斗《ばかり》まさしくて、今の世に安定(さだか[やぶちゃん注:二字への読み。])に見たる人なしと、人中(にんちう)にて、いひ出《いで》たれば、其座に、信州七久里(《なな》くり)の鄕(さと)、慈尊寺の僧、輕秀といふ博學廣才の人の語られしは、
[やぶちゃん注:「神便」「神變」の代字であろう。古くは「じんぺん」と読み、人知でははかり知ることの出来ない不可思議な変化を起こす神がかった不思議な力の意。
「信州七久里の鄕」現在の長野県飯田市山本(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に七久里(ななくり)神社があるので、この附近か。
「慈尊寺」不詳。前記地区にはこの寺は現在は認められない。
「輕秀」不詳。この書き方からは、実際にその僧から直談したニュアンスである。]
「仙境に行(ゆき)し者こそ侍れ。我が寺近きあたりに、冨祐(ふ《いう》)の土民あり。男子、ふたり持てり。兄は家を繼(つぎ)て、農業に間(ひま)なく、弟は親の愛子(あいし)にて、万《よろづ》の藝にあそびて、世のうき事をしらず、只、榮耀にのみほこり、長生《ちやうせい》ならん事を願ふ。
倩(つらつら)思ふに、阿育王(あいくわう)の、七寶(《しつ》ぽう)も命つきんとする時、是をすくふ價(あたひ)なく、秦の始皇の幸《さひはひ》も恠(あや)しき徐福がはかりごとにて、還而(かへつて)崩(ほう)じ給ひし。人傳(《ひと》づて)の不死の藥、かけて、たのむも、愚《おろか》也。
[やぶちゃん注:「阿育王」アショカ王(在位と没年は紀元前二六八年頃 から紀元前二三二年頃)の漢音写。紀元前三世紀頃の古代インドのマウリヤ朝第三世の王。カリンガ国を征服し、ほぼ全インドを統一し、同時に仏教を保護・奨励した人物として広く知られる。
「七寶も命つきん」「七寶」は仏教で言う七つの宝玉・貴石・宝物(ほうもつ)を指すが、ここは仏の御加護が尽きて、命終が近づくことを、比喩的に言ったもの。
「秦の始皇の幸も……」言わずもがなであるが、秦の始皇帝(紀元前二五九年~紀元前二一〇年)は不老不死の仙薬を求めんとして、方士(道教成立以前の呪術師を指すが、後に道士と同義で用いられるようになった)徐福に東海の三神山に不死の薬を探しに行かせたが、彼は逃亡し、遂に戻ってこなかった。日本に来て、熊野や富士山に住んだともするが、これらは本邦で形成された伝説に過ぎない。始皇帝は巡行中に没したが、一説に、彼は宮中の学者や医師らが処方した不死の効果が期待出来る水銀入りの薬を服用していたというから、それが事実ならば、死因はその中毒によるとも考えられる。]
此等、おもひめぐらすに、命久しき類《たぐひ》、仙人に越(こえ)たるは、なし。我《われ》、
『仙術を學びて、世の珍しきためしとならん。』
と思ひたちけるが、此術道《じゆつだう》に師なし、と。
爰に、おもひせまりて、又、思ふ、
『今も、深山幽谷には、あらたにあり、といふに、尋《たづね》ばや。』
と出《いで》て行《ゆく》。
當國《たうごく》の㚑山(れいざん)なれば、先《まづ》、戶隱山(とがくし《やま》)にわけ入り、ふもと、川にして、淸凉(せいりやう)の水に、下浸(《おり》ひたり)、三七《さんしち》度の垢離(こり)をとりて、淸淨身(しやうじやうしん)になり、明神の寶前に詣(まふで)、祈誓しけるは、
「我、仙道を學(まなび)て、長生ならん事を思ふ。一道の師客(しかく)なきに依(よつ)て、御山《みやま》に上(のぼ)つて先達(せんだち)を待《また》んとほつす。願(ねがはく)は、神明の御方便(《ご》はうべん)によつて、此所願を成就せしめ給へ。然らば、五百千歲(ざい)、若(もし)は、三万、五万歲(ざい)、命、全(まつか)からんほど、日毎(《ひ》ごと)に詣で、法施(ほつせ)奉るべし。」
と、丹誠に祈(いのり)て、巍々(ぎぎ)たる太山(みやま)にのぼれば、岩・松、峙(そばだち)て、鳥だに、かけりがだき嶮岨(けんそ)を、木のね・葛(くづ)のかづらにとりつき、漸々(やうやう)にのぼれば、荊(うばら)・刈(か)・榾(くい)に手足をつながれ、身を苦しめ、心をいたましむるに、又、數千丈、絕果(たえは)て人力(じんりき)叶ふべくもなき深谷、あり。
[やぶちゃん注:「刈」「刈萱・刈茅」(かるかや)であろう。原始的なイネ科 Poaceaeである単子葉植物綱イネ目イネ科 キビ亜科 Panicoideaeの多年草のキビ亜科オガルカヤ属オガルカヤ Cymbopogon tortilis var. goeringii オガルカヤと、メガルカヤ属メガルカヤ Themeda triandra var. japonica の総称。外見は薄(イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis )に似ている。
「榾」ここは人跡未踏の地であるから、「木の切れ端」=「ほだ」の意。]
「かづらきの神も在(まさ)ば、岩橋(いはばし)をわたし給へ。」
と独言(ひとりごと)して、力なく過ごし、山坂《やまさか》を凌(しのぎ)おり、こと道、いくばくを、めぐり、めぐりて、むかふに至る。
まことに、「雲橫二秦嶺一家何在」〔雲(くも) 秦嶺(しんれい)に橫(よこた)はつて 家(いへ) 何(いづ)くにか在(あ)る)と、物こゝろぼそし。
[やぶちゃん注:「かづらきの神」「葛城の神」。大和の国葛城山に住むとされた一言主神(ひとことぬしのかみ)。「役(えん)の行者」から、葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋を架けよと命ぜられたが、醜い容貌を恥じて、夜の間しか働かなかったため、遂に橋は完成しなかったという。
「雲橫二秦嶺一家何在」中唐の詩人韓愈の七言古詩「左遷至藍關示侄孫湘」(左遷せられて藍關(らんくわん)に至り、姪孫(てつそん)の湘(しやう)に示す)の第五句。昔からお世話になっている「Web漢文大系」のこちらで全詩の訓読注が見られる。]
とかくして、みえわたりたる峯つゞきの内、至《いたつ》て高き嶽(だけ)を求め、ふりたる松がねに、苔(こけ)朽(くち)たる石を、座とし、火打《ひうち》、取出《とりいだ》し、香(かう)を捻(ねん)じ、先《まづ》、明神の御かたを拜して後、虛空にむかひ、一心不亂に其事を祈(いのり)、目を閉(とぢ)て、暫(しばらく)、居(ゐ)る。
[やぶちゃん注:「香を捻じ」「捻香(ねんかう)」。「仏事に香を焚くこと」を意味する。]
半時《はんとき》[やぶちゃん注:一時間相当。]斗《ばかり》して、風、一《ひと》とをり[やぶちゃん注:ママ。]薰(かうばし)く、物の音なひ、
「さはさは」
と聞ゆ。
目を開(ひらき)て見れば、七旬(《しち》じゆん)[やぶちゃん注:七十歳。]斗《ばかり》と覺しき老翁(《らう》をう)、忽然と來れり。
其かたち、珍しくて、未(いまだ)目《め》なれず[やぶちゃん注:見慣れず。]、髮は縮(しゞみ)て、繪に書《かけ》る「出山(しゆつさん)の釋迦」のごとし。皮肉、瘦枯(やせがれ)て、木にきざめる空也(くうや)に似たり。顏色、靑白く、眼に黃なる光あり。
『まさしく、我がこふる人よ。』
と思ひ、石上(せきしやう)をおりて、敬(うやまひ)、礼(らい)す。
翁《をう》の云《いはく》、
「汝、仙界を尋《たづね》て祈願する事の切なるによつて、當山明神、誼(たく)し給ひて、爰にみえへたり。所望をかなへんに、暫《しばらく》、一七日《ひとなぬか》のほど、修(しゆ)すべき。行作(ぎやうさ)あり。汝、不慮(ふりよ)にして、古鄕(こきやう)を離れ、爰に來れり。親あり、兄あり、朋友あり。數日(すじつ)、相見《あひみ》る事、叶はず、若(もし)、行室(ぎやうしつ)にして、これらの事を思ひ出《いで》て、心、散乱せんには、願・行ともに、無になるべし。一先(ひとまづ)、里に歸り、暇乞(いとま《ごひ》)して來《こ》よ。」
と敎(をしへ)ければ、男、聞《きき》て、
「扨(さて)、其修行の過《すぎ》たらん時、古鄕に歸る事、成《なる》まじきや。」
と。
翁の云《いはく》、
「左にあらねど、今、歸來《かへりこ》ずば、悔(くゆ)る事、有《ある》べし。只、我が謂(いひ)に任せて、歸り、明日(あす)、山上(さんじやう)すべし。我も爰に來らん。」
と。
「然(しから)ば、仰《おほせ》に隨(したがふ)べし。君、又、爰に來らんとは、常に此山に住《すみ》給ふにては、なきや。」
と問(とふ)。
「我が常の住所《すむところ》は、是より西に去(さる)事、三百余里、伯耆(ほうき)の『釋迦が嶽』、但刕(たんしう)の『妙見山』、心に好む山なれば、常にあそぶ。去(され)ども、思ふに任せて、刹那刹那に、山々を飛行(ひぎやう)すれば、朝(あした)に伯州(はくしう)に有《あり》といへども、夕《ゆふべ》には冨士にものぼり、白山に俳徊、或は、金峯(きんぶ)・淺間・比良・熊埜・夷《えぞ》・松嶋、心に任せ、いたらずといふ所なし。又、座を去(さら)ずして見んと欲(ほつす)れば、壷中(こちう)に天地を藏し、橘裏(きつり/たちばなのうち)に山川(さんせん)を峙(そばだつ)。」
又、問(とふ)、
「常に、何を以て食とし給ふにや。」
と。
「丹(たん)といふ物、あり。」
「いかなる物ぞ。みまくほし。」
と、いへば、懷(ふところ)より雪を丸(まるめ)たるごとき、白く、うつくしき藥を取出(《とり》いで)、一粒(《いち》りう)を、わかち、あたふ。
戴(いたゞひ[やぶちゃん注:ママ。])て、口に入《いる》るに、其味、世にたぐふべきなく、
『「天の甘露」といふ物、かくこそ。』
と覺ゆ。
又、問《とふ》、
「生所(しやうじよ)はいづれの国ぞや。今、いか斗《ばかり》年齡を過し給ふや。」
と。
答《こたへ》て、
「唐(もろこし)、燕(《えん》の)宣帝の三年、始(はじめ)て、仙も學(まなび)て、凡《およそ》年數(ねんす)二千年、或時、たまたま、風雲に任せて、東に飛行する事、六千余里、此《この》日の本に至る。爰におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、寶地㚑場の、目馴《めなれ》ず、面白きほどに、国、ひろからずといへども、大国の古鄕(こ《きやう》)にかへて、あそぶ事、數百年也。」
と。
[やぶちゃん注:「燕宣帝の三年」西周末期燕国の第十六代国王宣侯(?~紀元前六九八年)。在位は紀元前七一一年から紀元前六九八年であるから、その三年は紀元前七〇九年となる。本話柄内時制を仮に本書刊行時の天和三(一六八三)年とするなら(実際には後の叙述からこれよりも、四、五年前である)、実にこの老人、二千三百九十二歳ということになる。]
猶、久しき昔の物がたりども、こまごまと、とはんとせしに、翁の云《いはく》、
「汝、我が道にいらば、常に何事をも語りなぐさめん。今日、早(はや)、暮(くれ)に及びぬ。歸らん道、不審(いぶかし)かるべし。麓迄、友(とも)なふべし。いざ、こなたへ。」
と、先にたちて行《ゆく》と見えし。
未(いまだ)七步にもたらざるに、忽(たちまち)、古鄕の南の端に、つれ來《きたつ》て、明日を契り、かきけちて、失《うせ》ぬ。
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]
男は、里に入《いり》て、親のもとに歸るに、父母は、内にいまさず。
兄と覺しき男、けさ迄、さかんなりし㒵(かほ)。波と、雪とに、老《おひ》さらぼひ、弟を見て、大きに驚(おどろき)、
「こは。いかに。」
と斗《ばかり》にて、淚にむせぶ。
ふしぎの思ひをなし、そこら、見めぐるに、今朝見し童僕(どうぼく)ども、或は、小童(こわらは)成《なり》しが、四十、五十のよはひとなり、今みる童・小者(こもの)なんど、覺えたるは、なし。
「いかゞしたる事にや。」
と、兄に、とふ。
兄(このかみ[やぶちゃん注:ここで初めて「あに」ではない読みが附されてある。])の云《いはく》、
「『いかゞ』とは、うつゝなや。我殿(わどの)は、此とし月、いづくに有《あり》て、音信(おとづれ)ざる。兩親、したしきものども、そこの行衞(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。] )を尋《たづね》わび、『世になき數(かず)になりたり。』と、出《いで》ゆきし日を「忌日(きにち)」とさだめ、廽向(ゑかう)する事、久し。是々《これこれ》。」
と、佛壇をひらくに、げにも、法名の文字、香(かう)の煙(けふり)に、ふすぼりて、みゆる。
つゞきて、しらぬ位牌あり。
「いつれぞ。」
と、とふに、
「父母のふたり也。」
此時、殊更に驚き、
「扨《さて》、某(それがし)が出《いで》たる日より、いくほどに成《なり》しや。」
と、とへば、
「其年は其法名に書(かけ)る。『元和(げんわ)七年辛酉《かのととり/しんいう》弥生(やよひ)中《ちゆう》の三日』。其後《そののち》、年號、うつり替り、寬永・正保(しやうほ)・慶安・承應(じやう《わう》)・明曆・万治、今、寬文九年己酉《つちのととり/きいう》、此間《このあひだ》、四十九年也。さるにても、斯(この)久しき間に、其裝(かたち)、昔にかはらぬこそ、ふしぎなれ。」
といふ。
弟、聞《きき》て、
「去《され》ば、假初(かりそめ)、思ひよりて、仙術を学びん[やぶちゃん注:ママ。]ため、戶隱山に入《いり》て、かうかうの事、侍りしが、『纔(わづか)、一日送る。』と思ひしさへ、さばかり、久しく成《なり》けめ[やぶちゃん注:已然形はママ。]。邯鄲(かんたん)のかり枕に、五十年を夢見しといふに、我は、見ぬ夢に五十年を送りし。夫(それ)は一睡、是は一日(いちじつ)。たとひ、五千、八千歲の命を保(たもつ)とも、人間(にんげん)にあつて、十とせ、二十とせのほどにも覺ふべからず。「神仙不ㇾ死爲二何事一」〔神仙、死せざるも、何事をか爲(な)す〕といひし、誠《まこと》なるかな。長生も、心に足(た)る事を知らずんば、短命には、をとり[やぶちゃん注:ママ。]なん。憖《なまじい》に此道になづみて、惡趣に落(おち)んも、おそろし。只、凡人(ぼんいん)にありて、佛の道を尋《たづね》んには、しかじ。」
と、いふと、ひとしく未(いまだ)、詞(ことば)も終(をは)らざるに、忽(たちまち)、白頭(はくとう)の翁《おきな》となつて、一時(いちじ)に年來(ねんらい)の老《おひ》を重ねたり。
此後《こののち》、年、少(すこし)經(へ)て、今は、四とせ斗《ばかり》先にもやあらん、兄弟、おなし年に、身まかり侍り。」
と語られける。
[やぶちゃん注:「神仙不ㇾ死爲二何事一」出典未詳。識者の御教授を乞う。
以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]
昔、曇鸞(どんらん)大師の「觀無量壽經」のいみじき敎《おしへ》をさとりまして、仙經をやき捨給ひしも、此おとこの、とし月みじかきに驚きて、惡趣を、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、ながく、佛道に入《いり》けんも、かしこきさとり、似かよふべくや。
[やぶちゃん注:「曇鸞」(四七六年?~五四二年或いは五五四年)は北魏後半から北斉初頭にかけての、中国の浄土教僧。浄土真宗では七祖の一人とされる。俗名などについては不明。迦才(かさい)の「浄土論」に、出身地は汶水(もんすい)と記されてあるが、一般には「続高僧伝」によって、雁門(山西省)とされている。その「続高僧伝」によれば、十五歳に満たない頃、五台山中の文殊化現(もんじゅけげん)の霊跡を訪ね、感銘を受け、出家したとする。当時、湖北で盛んであった龍樹の空観を学んだ四論の学匠であった。五十歳を過ぎたころ、「大集経」の注釈の完成のために、長生不死の仙法を求め、陶隠居(六朝時代の医学者・科学者にして道教の茅山派の開祖でもある陶弘景(四五六年~五三六年)の自称)に仙経十巻を授かった。帰路、洛陽で菩提流支(ぼだいるし)三蔵に対面して、「長生不死の法で、この仙経に勝る法が、仏法のなかにあるか。」と問うたところが、地に唾をして菩提流支に叱責され、「観無量寿経」を授かった。これによって、仙経十巻を焼き捨て、深く浄土教に帰依した。以後、著作と念仏の教化とに命を捧げ、六十七歳で没したと伝えられている。迦才の「浄土論」には、学匠としてよりも、民衆とともに浄土へ往生した往生人として伝えられてある。著作には、曇鸞教学の真髄である「浄土論註」二巻がある。ほかに「讃阿弥陀仏偈」一巻、「略論安楽浄土義」一巻などがある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]
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