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2022/09/28

西原未達「新御伽婢子」 聖㚑會

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     聖㚑會(しやう《りやう》ゑ)

 文月(ふみ《づき》)は、諸寺より始(はじめて)、在家に至(いたつて)て、孟蘭盆會(うらぼんゑ)の仏事を營み、なき人の哀(あはれ)をかぞへて、しるしの墓に詣《まうで》て、櫁(しきみ)、靑く供(くう[やぶちゃん注:ママ。])じ、水、凉(すゞ)しく、汲(くみ)かへなど、夜は、燈炉(とうろ)を高くかゞげ、更(ふく)るにしたがつて、すみ渡るに、年々(ねんねん)の春草(しゆんさう)、生《おひ》のびて、秋風《しうふう》に、やゝ、そよぎ、蚱(まつむし)・蛬(きりぎりす)の、なきかはして、淋しさを添(そへ)たる、いづれか、心ぼそからぬ。

[やぶちゃん注:「櫁」マツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum 。仏事に於いて抹香・線香として利用されることで知られ、そのためか、別名も多く、「マッコウ」「マッコウギ」「マッコウノキ」「コウノキ」「コウシバ」「コウノハナ」「シキビ」「ハナノキ」「ハナシバ」「ハカバナ」「ブツゼンソウ」「コウサカキ」などがある。最後のそれは「香榊」で、ウィキの「サカキ」によれば、上代にはサカキ(ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica )・ヒサカキ・シキミ・アセビ・ツバキなどの『神仏に捧げる常緑樹の枝葉の総称が「サカキ」であったが、平安時代以降になると「サカキ」が特定の植物を指すようになり、本種が標準和名のサカキの名を獲得した』とある。サカキは神事に欠かせない供え物であるが、一見すると、シキミに似て見える。名古屋の義父が亡くなった時、葬儀(曹洞宗)に参列した連れ合いの従兄が、供えられた葉を見て、「これはシキミでなく、サカキである。」と注意して、葬儀業者に変えさせたのには、感銘した。因みに、シキミは全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されていることも言い添えておく。

「蚱(まつむし)」この漢字は不審である。大修館書店「廣漢和辭典」によれば、「蚱」は第一に『くまぜみ、うまぜみ、やまぜみ』とし、第二に『蚱蜢(サクモウ)』とし、これは『ばったの一種。しょうりょうばった。いなごまろ』(これらはバッタ目 Orthopteraではあるが、ショウリョウバッタとイナゴ類は孰れもバッタ科 Acrididaeであり、コオロギ科 Gryllidaeであるマツムシと親和性は全くないから、形態から見てもマツムシをバッタと呼ぶことは私には出来ない)とし、或いは『ひきがえる』の意とする。最後の三番目には「くらげ」(刺胞動物のクラゲ類)が挙がって終わっている。ネットで調べても、この字をマツムシの意で用いているものはない。作者の誤認であろう。音は「サク・シャク・シャ」で、これを以上のバッタ類の鳴く音や飛ぶ音にオノマトペイアしたとするのは腑に落ちるが、マツムシの優雅な鳴き声には相応しくない。マツムシの博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 松蟲」を見られたい。なお、そこで注しているが、私は世間で罷り通っている明治になるまでの日本人は「松虫」と「鈴虫」が逆転していたとする説は正しいと思っていない。

「蛬(きりぎりす)」こちらは問題ない。同じく、「廣漢和辭典」によれば、「蛬」(音「キョウ・ク」)は『こおろぎ【こほろぎ】。古称、きりぎりす』(太字はママ)とある。同前で「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」を参照されたい。なお、前注の最後と全く同じく、定説としてまことしやかに教科書の注にまで書かれている、同前で、「螽斯(きりぎりす)」と「蟋蟀(こおろぎ)」が逆転していたとする十把一絡げ変換説も正しくないと考えている。それについては、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」の私の注の中で芥川龍之介の「羅生門」を素材として検証しているので、是非、読まれたい。

 わきて、十四日の曉(あかつき)より、

「なき玉(たま)の來(き)ます日也。」

と、上(かみ)ざまの貴も、賤山(しづ《やま》)がつの葛(くづ)の屋《や》にも、心の及(およぶ)、座(ざ)をまうけて、鼠尾草(みそはぎ)の、枝もたはゝに、露をもたせ、『槇(まき)の葉に霧たちのぼる』と見る迄、名香(めいかう)のくゆるに、供物(くもつ)、うづたかく、はつ草(くさ)のあつもの、所せきまで備へたる、

「此物かげにこそ、其仏は、まうで給はん。」

「其靈魂は、をはせん[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いひ、もてなすも、恠(あや)しの女童(《め》わらべ)の言種(ことぐさ)のやうなれど、すぜうには、侍る。

「鼠尾草(みそはぎ)」私は「禊萩」の表記が好きだ。フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps 。お盆の頃、紅紫色の六弁の小さな花を先端部の葉腋に、多数、つけるため、盆の供え花としてよく使われ、「盆花(ぼんばな)」「精霊花(しょうりょうばな)」などの名もある。兵十和名ミソハギの和名の由来は、ハギ(萩)に似て、古く禊(みそぎ)に使ったことに由来する。ここに出る「鼠尾草」(そびそう)は、花の咲く先端部のそれを鼠の尾に喩えたもの、また、田の畔や湿地或いは溝(みぞ)に植生するところから「溝萩」(みぞはぎ)とも呼ばれる。

「槇(まき)の葉に霧たちのぼる」「百人一首」の寂蓮法師のそれ、元は「新古今和歌集」の「巻第五 秋歌下」の(四九一番)、

   五十首歌たてまつりし時

村雨(むらさめ)の

 露もまだひぬ

    槇の葉に

   霧立ちのぼる

       秋の夕暮れ

である。]

   正月にうちしは夢か玉まつり

   まざまざといますかごとし玉祭

と、俳諧の發句せしを、哀《あはれ》のたぐひに、書つゞけられし。

 げに左にては有けれ、昔、徹書記(てつしよき)の、鄙(ひなに)さすらへ、日をふりて、都、こひしく佗(わび)けれども、をぼろげの御ゆるしもなきつくしける淚の下に、

   中々になき玉ならば古鄕に

    かへらん物をけふの夕ぐれ

と、よみしも、ことの葉斗《ばかり》、世に殘りて、誰(たれ)か、ふたゝび、かたちを見るありと、みはてぬ水の泡、消(きゆ)るに早き石の火の、賴(たのみ)なき世のならひ、いひ出《いづ》るも、さらなれど、念々に、無常ををどろかすは、時々(じじ)に、罪障のみ、いや、まし侍らんなど、秋の夜のながき後世(ごぜ)ばなし、物一重《ものひとへ》こなたに聽聞(ちやうもん)したる。

[やぶちゃん注:「正月にうちしは夢か玉まつり」作者不詳。小学館「日本大百科全書」によれば、中世末から近世にかけて形成されたと思われる本邦の祖霊信仰が定着してからは、正月は、盆とともに、年に二度の「魂(たま)祭り」(祖霊祭)の機会であって、個の存在を既に失って祖霊として融合同化した先祖の霊を迎え祀る厳粛な行事として形成されていた。『ところが』、『盆のほうは早くから仏教と結び付き、死者の霊の供養行事と考えられ、これに対抗して正月のほうは、死の穢(けがれ)に関係のない、清らかな祭りであることを強調した結果、盆と正月とはまったく別の行事のように理解されてきたが、年の夜に声をあげて死者の霊を呼び迎えるとか、東日本では年末か正月に、御魂(みたま)の飯に箸』『を突き立てて祖霊に供えるとか、主として西日本で元日に墓参をする習俗がある』の『は、いずれも正月の魂祭り(先祖供養)の名残である』とある。

「まざまざといますかごとし玉祭」北村季吟(寛永元(一六二五)年~宝永二(一七〇五)年)の発句。本書の刊行は天和三(一六八三)年であるから、まだ存命中である。]

 心なき身にも哀(あはれ)は知(しら)れぬ其中に、歲(とし)五十(いそぢ)斗《ばかり》の人の、聲して、語れしは、

「孟蘭盆に聖靈の故鄕(こきやう)に來(く)る事、正(たゞ)しく有《ある》事にこそ。予、五とせ已前(いぜん)、七月十日あまり、丹波に下り、園部の御城下に、所用を達して、商物(しやうもつ)の金子(きんす)、少々、うけとり、

「京に歸《かへる》。」

とて、高卒都婆(たかそとば)といふ在鄕(ざい《がう》)に一宿(《いつ》しゆく)しける。

[やぶちゃん注:「園部の御城」現在の京都府南丹市園部町小桜町に園部城跡(グーグル・マップ・データ)はある。

「高卒都婆」不詳。但し、私の古い電子化訳注の「耳囊 巻之三 丹波國高卒都婆村の事」に出るので、参照されたい。]

 此日、十三日、明《あく》れば、十四日成《なり》し

 其曉(あかつき)、宿(しゆく)の者ども其外、一在(《いち》ざい)の男女(なんいよ)、群出(むらがり《いで》)て、いひのゝしる事、あり。

 物さはがしく、目もあはねば[やぶちゃん注:眠れないので。]、あるじに、

「何事ぞ。」

と問《とふ》。

 

Sumibousi

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 されば、

「此となり在所、甲崎(かうさき)といふ所に、喜介と申《まをす》百姓の侍りしが、三十斗迄、妻も、なければ、子も、もたず、親なんどは、先にたち、剩(あまつさへ)、親《したし》き者も、絕(たえ)て、ひとり住(ずみ)にて侍りし。心まつたき者の、農業に怠りなければ、過分(くはぶん)の冨人(ふくじん)といふ迄こそなけれ、邊鄙(へんぴ)の渡世には、豊(ゆたか)なりしに、當年、卯月の中比《なかごろ》、不幸に頓死せしを、里の衆《しゆう》、哀(あはれ)がりて、樣々(さまざま)看病しけれど、終《つひ》に蘇生せず。野外(や《ぐわい》)に葬(はうふ)りて、一ぺんの煙(けふり)となせば、郊原(かうげん)に朽(くち)て、白骨(はつこつ)のみ、殘れり。

 後のわざは、とりいとなむ人も、なかりし。されども遺跡(ゆいせき)・山《やま》・畑(はた)など有《あり》しを、價(あたひ)にかへて、家をてんじて、一宇の庵室(あんじつ)をつくり、田地、少《すこし》、是によせて、發心者(ほつしんしや)を、住持《ぢゆうじ》させ、喜介が跡を弔(とは)せけるに、彼《かの》僧、いたづらにこそあれ、仏事・作善(さぜん)を、とりをこなはず、晝夜、圍碁・雙六・博奕(ばく《えき》)にあそび、得たる所の一室をも、沽却(こきやく)すべきに見えければ、所より、追出《おひだ》し、未(いまだ)、後住《こうぢゆう》、定まらず。

 十余日此かた、主(ぬし)なき庵《いほ》となつて、仏に香花(かう《げ》)を供(くう)ずる人なく、靈前に廽向(ゑかう)をなすわざも絕《たえ》て、偏(ひとへ)に鼬鼠(ゆうそ/いたちねずみ)のあそび所と成《なる》。

 今宵、夜半(よは)の過(すぎ)成《なり》し。

 去(さり)し喜介が聲にて、看經(かんきん)の勤(つとめ)、高らかに聞ゆ。

 隣家(りんか)の人、驚き、物のひまより、見れば、まさしき、昔の、喜介、白き姿に、すみ帽子(ばうし)して、仏前にむかひ居る。

 奇異の思ひをなし、ひとり、ふたりに、語るやいなや、一在所のみか、今のほどに、隣鄕(りん《がう》)まで、かくれなく、騷勤し侍る。

 かく珍しきたぐひ、いざ、友なひ行かん。」

[やぶちゃん注:「すみ帽子」「角帽子」。死者の額につける頭巾。二等辺三角形の布帛(ふはく)の底辺に紐をつけて額に当てて結んだ被り物。平安時代には黒色のものを用いて子ども用としたが、近世に入り、死者の額に白色のものを用いるようになった。「すんぼうし」「つのぼうし」「額烏帽子(ひたいえぼし)」とも言う。]

と、いさひ[やぶちゃん注:ママ。「いさい」(委細)とあるところを誤刻したか。]に語る。

『げに、ふしぎなるためし、都(みやこ)づとに、行《ゆき》てみばや。』

と、おもへど、今日しも、都は年の半(なかば)の仕切(しきり)といふ物にて、下(しも)が下(しも)がの賣人(ばい《にん》)は、とみの事、多し。

 いとゞ、亭主の長咄(ながばなし)に、夜(よ)も、しのゝめに明(あけ)ぬおもひながら、立(たち)よる間(ひま)もなければ、いとまこひて、のぼりけるに、みちみち、かの事に、噂して、埜人(やじん)、村老(そんらう)、甲崎に往還(わう《くわん》)する事、道も去《さり》あへず。

 此後《こののち》、爰に行《ゆく》事なければ、終所(をはる《ところ》)を不ㇾ知(しらず)。

 かゝる事の侍れば、『靈の此日來る』といふ事、白地(あからさま)也。」

と語られし。

[やぶちゃん注:「甲崎」この地名が唯一の期待だったのだが、見当たらなかった。残念。

 この話、俳人でもあった作者が直に語りかけてくる、直談で始まって、その後、寺へ詣でて、そこにいた五十ほどの商人の語りに転じて、死者が甦ったという奇譚となるのだが、その商人自身が、その白骨になったはずが、生身の元の状態に戻って蘇生したとする喜介の姿を見ていない(観察していない)という点で、「噂話」としては、脆弱である。しかし、周囲に、その噂が一晩の内に、物凄い速さで、伝播・感染(集団ヒステリー)して行ったという部分は、周縁的なリアリズムとしては、確かに本当の話のように上手く機能していると言える。而して、この一篇は、「都市伝説」=「噂話」のメタモルフォーゼの過程を暗に示して呉れているとも言える。この実見ではない話を読みながら、挿絵の中の喜介の姿を見た者が、話を面白くしようと、実際に見た、という形で話を書き変えて、尾鰭がつく、というありがちなプロセスである。そこも作者は実は確信犯で狙っているようにも私は思うのである。]

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