多滿寸太禮卷第七 花木弁論并貧福問答 / 多滿寸太禮・本文~了
[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれ(PDF・第七巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。標題中の「并」は「ならびに」と読む。最後の方の漢文の偈のようなものは、まず、白文で示し、後に( )で訓点に従って訓読したものを示した。但し、歴史的仮名遣の不全は訂した。]
花木(くわぼくの)弁論并貧福問答
中比(なかごろ)、攝津國武庫山(むこやま)のおくに、一人の隱士あり。
もとは住吉の神官の司(つかさ)にて、時めき、世に名をふれし秀才成りしが、最愛の妻にわかれて、忽ちに、世を、はかなく、位をしりぞき、あとを、かくして、山林の獨居をたのしみ、年比《としごろ》の財產を以《もつて》、居住の地を廣くもとめ、小童(こわらは)一人を仕丁(しちやう)として、うき世を、かろく、住けるが、自然と、諸木を愛し、四、五丁四方を、あらゆる植木をうへ込み、常は菓物を食(しよく)とし、四季の天變、飛花落葉に無常を增し、月にめで、花にたはむれて、年月を送る。
[やぶちゃん注:「攝津國武庫山」現在の兵庫県宝塚市武庫山(グーグル・マップ・データ航空写真)。]
いつの比よりか、見も馴れぬ二人の老人、常に庵(いほり)にとぶらひ來りて、友となりぬ。淸弁廣智(せいべんくわうち)にて、其物語り、古今(ここん)に、くらからず、むかしを、今、みる心地(こゝち)に語り、ひねもす、夜(よ)すがら、語りあかすに、あく時、なし。
そのさま、一人(ひとり)は、容貌、ゆふびにして、白色に、白髮(はくはつ)の翁(おきな)、常にみどりの帽子をかうむり、一人は靑衣《せいえ》を着(ちやく)す。貌(かほ)、まどかに、うす赤く、黑き帽子に、黃色(き《いろ》)なる衣(ころも)をきたり。
或る時、二人、入來り、例のごとくに、論談しけるが、黃衣《くわうえ》の老人、申《まをし》けるは、
「凡そ、人のたのしみとする第一は、春は花、秋は紅葉(もみぢ)と、みな人の賞翫(しやうぐ《わ》ん)し、もて遊ぶ。其品、多しといへども、花もみぢといふうちに、すべてみな、こもり侍るべし。是れにこそ、心得わかちがたき事こそあれ。惣(そう)じて、菓(くだもの)の類、栗・柹(かき)・ありのみ・かや・椎《しひ》・櫟(いちゐ)・金柑・橘(たち[やぶちゃん注:ママ。])なんどゝ、人の重寶、飢《うゑ》を休むる助けとも成《なり》なむ。花は仲春にひらき、さかりは、わづか一炊の眠《ねむり》のうちに、ちりみだれ、庭のちりあくたとなり、後(のち)は、はき淸めに、隙《ひま》なく、實(み)は殘れ共、人を養ふよすがも、なし。紅葉(もみぢ)は又、色付(いろ《づき》)たるといふ斗《ばかり》にて、花の香にも、おとり、木も、又、させる用木ともならず。色づく日より、かつ、ちりて、殿守(とのもり)の伴(とも)の宮づとの朝ぎよめにも、うみつかれ、拂ひもあへぬ落葉(おちば)をかなしみ、秋、すさまじき、夜もすがら、雨のふるがごとく、軒を埋み、木こり、鹿(しか)のかよひぢを、うづむ。何かは、おもしろき。さるに、むかしより、花紅葉(はなもみぢ)と、もてあそび、詩歌によまれ、愛せらるゝ事、甚だしきは、いかに。只、菓物の、枝もたはゝに成《なり》つらねたるは、見事なるに、人をもてなす德(とく)、ふかし。其外に、閑人(かんじん)のねふりをさまし、月花《つきはな》の詠(なが)めも、多くは、是れにぞ、心を養へる。かゝる、德深き物をさしこへて、用にもたらぬ花紅葉を愛するは、ひとへに愚智のなす所成《なる》べし。」
と語れば、一人の翁、眉に、しわをよせ、
「仰《おほせ》は、さる事にて侍れども、いにしへより、かしこき人の詩歌にもよまれ、春秋の賞翫、としどしに絕《たえ》ず。つらつら、是れを思ふに、身と心とを、たくらべみるに、何れか尊(たつと)しとするに、身は心ある故にこそ、形はのこれども、心さりぬれば、忽ちに愛念を捨てて、却つておそれとし、遲しと野山に送り捨て、土となし、煙(けむり)とのぼりし後(のち)は、玉のありかを、そことしも、しらず。年月《としつき》を過ぎては、事《こと》とひかはすもの、なし。されば、菓物は、口に味はへ、身を養ふ便《たより》なれど、心をなぐさむ事は、花紅葉に、いかで、たぐゑむ[やぶちゃん注:ママ。]。尊きは申《まをす》に及《およば》ず、賤(いや)しき山がつ、木こり、草かりわらんべも、薪(たきゞ)に花を、折《をり》そへ、めかごに秋の千種(ちくさ)の花を刈りて、心をなぐさむ。およそ、一花(いつけ[やぶちゃん注:ママ。])ひらきては、冬ごもるうつ氣(き)を散(さん)じ、漸く、ちりがてになれば、心ある人は、世の盛衰を察し、限りなき哀れを興(もよほ)す。あるひは、花の下(もと)の半日(はんじつ)の客(かく)は、酒をのみ、詩歌に千々(ちゞ)の思ひを、のぶ。紅葉の比は、年の暮れやすき事を思ひ、生者必滅のことはりを觀じ、その身の便りとなし、すべて心を養ひ、めを、よろこばす事、誠に是れに過《すぎ》たるは、なし。口を養ふと、心をやしなふは、いづれか、まさらん。」
[やぶちゃん注:「たくらべみる」「た比(較)べ見る」。「比べてみる」の意。]
と、漢家本朝(かんかほんてう)の事を引《ひき》て、互ひに論義、數尅(すこく)に及ぶ。
黃衣《くわうえ》のおきな、重ねて云く、
「最も、花咲けば實(み)のるといへども、千草萬木(せんさうばんぼく)の、用ひらるゝ所は、みな、熟實(じゆくじつ)の時にあり。花ありて、實(み)のらずんば、誰(たれ)か一日の飢《うゑ》を助けむ。五穀、冨饒(ふねう)にして、人を冨ましむ。金銀は、至《いたつ》て寶(たから)と成りといへ共、米穀なくんば、何の益かあらん。冨貴の根本、みな、これより生(しやう)ず。夫れ、冨貴の勝利、無量の中に、第一、衆人(しゆにん)愛敬(あいぎやう)の德、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]ありて、その家、にぎはひ、ゆたかなれば、萬物(ばんもつ)に、ともしからず。金銀米錢。つねに絕ゆる事なければ、出で入る人を、もてなす。故に、上一人(かみ《いちにん》)より、下万民(しもばんみん)に、したしみ、ふかし。此の德あるとしれども、貧究(ひんきう)にては叶(かな)ひがたし。したしきは、うとみ、うときは、なを[やぶちゃん注:ママ。]、うとし。是れ、貧なる故にあらずや。」
靑衣《せいえ》のおきな、うち笑ひ、
「貧人(ひん《にん》)には愛敬(あいぎやう)なしとは、おろかなる事也。人のしたしむ德は、誠の道にあり。輕薄表裏をむねとし、酒食を以《もつて》まじはらんに、ともなふ人も、その心にひとしき故に、其《その》好む所、うすくなれば、心にそむきて、互ひに恨み出來(いでき)、千代(ちよ)と賴みしことばも、忽ち、變じ、誠なき愚人(ぐ《じん》)のまじはりは、かへつて嘲(あざけ)りの端(はし)成るべし。されば、其の友をみて、その心をしる、といへり。利慾(りよく)の爲(ため)にしたしむは、愛敬とは云(いふ)べからず。道理(だうり)にともなふをこそ、誠(まこと)のよしみならん。理(ことはり)にたがはざれば、德人(とくにん)の利欲の友には、まさるべし。凡そ、眞理(しんり)をさとる本智といふは、利欲の眼(まなこ)に見るべからず。一旦の榮花に、おごりをきわめ、主人の愛敬に、人をあなどり、無礼(ぶれい)を致すたぐひ、人のにくみを受け、身命(しん《みやう》)あやうき躰(てい)、かぞへ難し。しかある時は、德人(とく《じん》)にのみ、愛敬ありとも云ひがたし。貧しき者も、すなを[やぶちゃん注:ママ。]ならば、心あるは、哀れとも云ふべし。」
一人の翁(おきな)の云はく、
「仰せは、さる事なれども、凡人(ぼんにん)と生れては、無學無能にしては、尤も、人倫のたぐひならず。物を學び、おこなふ事も、貧しきにしては成りがたし。能き師につかへて、學文(がくもん)し、或《あるい》は藝をならはむにも、金銀を惜しまず、行(ぎやう)せんほまれをとる事、すみやか也。貧なれば、いたづらに年月(ねんげつ)を送る事は、石の、火の、うたざれば、出でざるたぐひならめ。」
黃衣《くわうえ》の翁(おきな)、こたへて、
「されば、貧なるとて、學問諸藝にとぼしからむや。世わたるたつきに、隙(ひま)なふして、暫くのいとまを得ては、たねんなく、つとむる故に、片時(へんじ)のつとめも、冨める人の、數日(すじつ)の功にも、まさるべし。いにしへより、學德才能の達人、多《おほく》は貧しき人にあり。さるほどならば、冨貴は、かへつて、さまたげなるべし。許由(きよゆう)は、ひさごをだにすて、孫晨(そんしん)は藁一束(そく)をたのしむ。財、多(おゝ)ければ、身を守るに、まどし[やぶちゃん注:「貧(まど)し」で、ここは「不十分である」の意。]。智惠と心こそ、眞(まこと)の寶なれ。聖賢の道をもとむる心ざしは、玉(たま)を淵になげ、金(こがね)は山に捨つべし、と見へたり。一旦の榮花は、おろかに賤しき者も、時にあへば、高き位にのぼり、をごりを、きわむ。冨貴にして、器用なりとも、身を治め、心をたつる事、愚かならば、しらぬ人よりは、おとり成るべし。」
靑衣の翁、重ねて、
「身を治め、心をたつる人も、冨める人こそ、やすかるべし。書籍(しよじやく)をもとめ、能き師にしたがひつとめむに、貧者の三とせの功より、冨める人の三日は、まさるべし。貧者は、心にけだい[やぶちゃん注:「懈怠」。]なしといへども、見語(けんご)すべきちから、なければ、いたづらにその利をかくして、愚人となり、冨める人は、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、病ひのうれへもなく、寒きに、衣服をかさね、あつきに暑氣(しよき)を除き、春は、花のもとにて、たはむれ、秋は、月のまへに、心をはらし、食(しよく)するに麁食(そじき)もなければ、心身、ゆたかにして、榮耀の上に命(いのち)も、ながし。諸病は辛苦より生(しやう)ずる。何ぞ貧者の及ぶ所にあらんや。」
黃衣の翁、こたへて云《いはく》、
「冨めるは、おごりにおこたりあれば、學に、うとし。一分(《いち》ぶん)の邪智に高ぶり、廣學大才(くわうがくたいさい)の躰(てい)たらく。をのれが恥ぢを、しらず。冨めるに病《やまひ》なしとは、愚かなる事ならずや。萬(よろづ)にゆたかなれば、冨める人は、身のはたらき、なふして、かへつて、病ひに犯され、短命なり。貧人(ひんにん)、心のごとくならねば、身躰、やすむ事、なふして、病ひもなく、一生をやすらかに過ぐるも、あり。福人は、命期(めいご)に至りて、金銀財寶に心を殘し、着(ぢやく)をはなれず。貧者は、心をとむべき寶もなければ、遠離(ゑんり)の心、つよくして、且つは、佛果にも至らんかし。」
靑衣の翁、
「ひとへに、後世(ごぜ)も、冨める者こそよからめ。身(み)、冨(ふ)ゆふなれば、心のまゝに、慈悲、ふかく、飢《うゑ》たるには食をあたへ、堂塔伽藍を建立し、佛像經卷をいとなみ、沙門を供養し、善根を殖(う)ゆる事、貧にしては成りがたし。しゆだつが、古(いに)しへも、祗園精舍を建立し、阿闍施太子(あじやせたいし)の万燈(まんとう)、みな、是れ、冨貴の德たるべし。貧者は、心ざしあるといへども、力(ちから)なければ、人の善根をうらやみ、修(しゆ)せざれば、むなし。されば、現在の果(くわ)をみて、未來をしるといへば、因・果の二つ、まことならば、善をなせし德人(とく《にん》》、其の果(くわ)を受けて、なんぞ成佛、うたがはむや。」
[やぶちゃん注:「しゆだつ」「須達」サンスクリット語「スダッタ」の漢音写。釈迦の時代の中インド舎衛城の長者。波斯匿(はしのく)王の大臣。釈迦に帰依し、祇園精舎を献じた。「給孤独(ぎっこどく)」「須達多(しゅだった)」「すだつ」とも呼ぶ。
「阿闍施太子」阿闍世。]
黃衣の翁、こたへて云はく、
「一切衆生悉有佛性、如來といへば、天地萬物草木(さうもく)、みな、佛性を、ぐす。春は、花咲き、秋は實(み)のる。是れ、正(まさ)に眞佛(しんぶつ)也。人、其《その》是非をさとり、よろしきにしたがふを、「天姓(てんせい)」といふ。此心、無我にして、見る事なしといへども、身(み)に善行(ぜんぎやう)あるにて、しるべし。「無我の善(ぜん)」とは、名聞(みやうもん)の利用、慢心、なく、行(ぎやう)するを、「大善(だいぜん)」とす。されば、達广大師(だるまたいし)は、無功德(むくどく)を武帝にしめし、貧女(ひんによ)が一燈(いつとう)、思ひはかるべし。古堂(こだう)に土(つち)をぬりし栴檀香(せんだんかう)、佛(ほとけ)に、はくを押(おし)たる阿羅漢(あらかん)、あげて、かぞへがたし。されば、地獄の罪人(ざい《にん》)に、羅刹(らせつ)ども、向(むかつ)て、『など、善根をなさずして、かゝるくるしみに、あへるぞ。』と、いかるに、罪人、『娑婆にて、身(み)、貧にして、をのづから善を、なさず。』と、こたへければ、『野べにさく花、川に流るゝ水一滴をも、佛(ほとけ)に供養せざらんや。いくたび、娑婆に往來し、『此たびは、さり共《とも》。』と、云《いひ》おしへつるに、『又、我々が手に、かかる。』と、いかりて呵嘖(かしやく)すると、いへり。一世(いつせ)の寶にまよひ、永き來世(らいせ)までを、くるしむ。淺ましき事ならずや。」
靑衣の翁、
「かさねて、何ぞ寶をよしなしといはんや。龍女(《りゆう》によ)が、寶珠(ほうじゆ)を釋尊に奉りしに、『我献納受(がけん《なふ》じゆ)。』と悅び給ひ、大施太子(たいせたいし)の寶珠を、龍宮に、もとめ給ふ。佛(ほとけ)も『世界㐧一。』とこそし給ふに、なんぞ益なからんや。」
こたへて云く、
「龍女が玉を捧げしも、大乘妙典を悟り得て、佛法の實寶(じつほう)には過ぎずと、無上の寶珠に執心を、とどめず、佛(ほとけ)に供養し奉る故に、我献納受し給ふ。されば、一水一花(いつすいいちげ)を、誠の心よりほどこすを、善根とは、いへり。龐居士(《はう》こじ)が、寶を江《え》にすてたりしためし、思ひやるべし。」[やぶちゃん注:「龐居士」(ほうこじ ?~八一五年)は唐代の仏教者。名は蘊(うん)。衡州(現在の湖南省衡陽)の人。馬祖と石頭に参禅し、印可を得るが、出家せず、晩年は家族と襄陽の鹿門山に住み、禅風を起こした。梁の傅(ふ)大士とともに、「東土の維摩」と称される。禅僧との問答が多く、その偈頌(げじゆ)三百首と合せて、早くより語録として纏められた(節度使于頔(うてき)の編と伝える)。宋代になって、禅宗が士大夫の信を得るようになるとともに、水墨画や文学の対象となり、「居士」の意味が拡大し、「龐居士」の伝記が大きく変貌していった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]
と語れば、一人の翁、
「陰陽(《いん》やう)・貧福・善惡不二、何れか分きて、いはむ。天あれば、地あり。貴邊(きへん)あれば、われあり。身を離れて、心も。なし。」
則ち、一句の語を、なす。
冨攀芳樹愁花盡
(冨(とみ)は 芳樹(はうじゆ)を攀(よ)ぢて 花の盡くる事を愁ふ)
と吟詠しければ、黃衣の翁、やがて、付く。
貧戀重衾覚夢多
(貧(ひん)は 重衾(ぢゆうきん)を戀(した)ふて 覚(さま)すこと 夢 多し)
かく詠じけるほどに、漸く、晨明(ありあけ)の月も、山のはに、かたむき、しのゝめの穴も、ほの%\と明わたれば、二人の老人(らうじん)も、かきけすごとくに行方(ゆきかた)なし。
あるじも、茫然(ぼうせん)として聞(きゝ)ゐたりしに、夢(ゆめ)のさめたるごとくに覺(おほ)えければ、
とことはに身をもはなれぬ友だにも月入ぬれば面(おも)かげもなし
と詠じて、あまりふしぎに覺え、此の事を、つくづく思へば、年比、諸木を愛しけるに、かの妖情(ようせい)、顯はれて、かゝる爭論(じやうろん)をなしけるにや。此事を悉く、かきあつめて、世につたへけるとぞ。
文臺屋次郞兵衞
中 村 孫 兵 衞
杉生五郞左衞門
板行
[やぶちゃん注:以上の奥附版元表示のみ、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを元にした。基礎底本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の再板本(推定)では、
日本橋南一丁目
東都書林 須 原 茂 兵 衞
寺町松原下ル丁
東都書林 勝村治右エ門
となっている。]