西原未達「新御伽婢子」 明忍傳 / 「新御伽婢子」本文~了
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。
注を文中及び段落末に挟んだ。]
明忍傳(みやうにんでん)
都の西槇尾山(まきの《をさん》)といへる律院は、往昔(そのかみ)、弘法大師の開基とかや。昔は、高雄の別院にて、眞言宗成《なり》し。
何(いつ)の比《ころ》にや、明忍律師といへる、たつとき僧の、絕《たえ》て久しき律宗を、とり行初(《おこなひ》はじめ)給ひける。此律師は、もと、世の帝に仕へ給ひし公卿の麁子(そし)にて、幼少より、才、人にすぐれ、知、又、自《おのづから》高し。心德、ならびなく、「三重韻(《さんぢゆう》いん)」など、能(よく)誦空(そらん[やぶちゃん注:二字への読み。])じ給ひけるとぞ。兄(このかみ)なる人、父の家を繼(つい)で、上《かみ》につかへ給ふに、世、難有(ありがた)けるを見て[やぶちゃん注:ここの主語は出家前の明忍である。後注参照。]、世俗を、いとふ心、深く、終《つひ》に、家を出《いで》て、高雄の眞海僧正は、親(したし)き伯父(をぢ)にて、をわしければ[やぶちゃん注:ママ。]、常に、したしみ、よられける。
眞海、彼是(かれこれ)、四人、上(かみ)に訴へ、御ゆるしをかうふり、此宗をひろめ、今に盛に世に行はるゝ。
律師、又、惠心信德(ゑしんしんとく)の「往生要集」を、ひらいて、西方淨土に生《しやう》ぜん事を、願ひ給ふ。
或時、たまたま、
「高麗(こま)に、わたり給はん。」
とて、對馬(つしま)に至り給へるに、人、普(あまねく)、律宗の妙なる事を不ㇾ知(しらざり)けるにや、供養する人、なく、つねの烟(けふり)も、たえだえなれば、荒布(あらめ)といへる、あやしの物を聞《きこ》し召《めし》て、泄瀉(せつしや)といふ病《やまひ》をうけ給ふ。
[やぶちゃん注:本篇は以下の通り、実在した僧の伝記風の来迎奇譚の一篇で、特異点である。
「明忍」(天正四(一五七六)年~慶長一五(一六一〇)年)は、江戸初期に廃れていた律を復興した真言僧。京都出身で、俗姓は中原。高雄山神護寺の晋海(しんかい)の下で密教を学び、二十一歳で出家した。西大寺の友尊らとともに、高山寺で自誓(じせい)受戒(戒師がいない場合に仏前で自ら誓って「大乗戒」を受けることを言う)した。また、槇尾山平等心王院(まきのおさんびょうどうしんおういん:現在の真言宗大覚寺派の槇尾山西明寺(まきのおざんさいみょうじ:グーグル・マップ・データ)。平安時代の天長年間(八二四年~八三四年)に空海の弟子智泉が神護寺別院として創建したと伝わり、鎌倉時代の正応三(一二九〇)年に神護寺から独立した。その際、後宇多天皇から「平等心王院」の寺号を受けた)を復興し、そこに住した。慶長一二(一六〇七)年に教えを求め、当時の明に渡ろうとしたが、対馬で病いとなり、他界した。思想的には「律」と「真言宗」の思想を統合した立場をとっており、その思想的流れが、現在の真言律宗となっている(概ね、小学館「日本大百科全書」の主文に拠った)。なお、PDFで読める伊藤宏見氏の論考「対馬海岸寺明忍資料考及び墓塔訪問」もお薦めである。また、「真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺」公式サイト内にある「元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』(解題・凡例)」にも詳しい。
「麁子(そし)」嫡男でないことを言っている。
「三重韻」韻書の内で、室町中期(十五世紀後半)以降に流行した、入声(にっしょう)を除く三つの声調を、上下三段に重ねた「三重韻」と呼ばれる形式を指す。
「兄(このかみ)なる人」これは、「彼の兄」である中原康政のこと。どのような事かは不明であるが、先の伊藤氏の論考に、『二十四才の時、兄康政におもわしくないことがおこり』、弟の彼は出家してしまった、とある。ここは、そのことを、かく挿入してあるのである。
「眞海僧正」前注の通り、「晉海僧正」が正しい。但し、彼が明忍の伯父であったかどうかは確認出来なかった。
「高麗」とあるが、事実は、大陸の当時の明(みん)である。
「荒布(あらめ)」不等毛植物門褐藻綱コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis 。私の「大和本草卷之八 草之四 海藻類 始動 / 海帶 (アラメ)」を参照されたい。
「泄瀉(せつしや)」激しい下痢症状。何らかの消化器系の重篤な疾患を患っていたか。]
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]
其病中(びやう《ちゆう》)、猶、念仏の勤行、怠《おこたり》給はず、正しく終り給へるとき、紫雲(しうん)揚々(やうやう)とたなびきて、前なる藪の茂みに、覆《おほ》ひかゝりけるが、偏(ひとへ)に、紫の絹を引《ひき》はへたるがごとし[やぶちゃん注:ママ。「はへたる」は「映えたる」であろう。]。
對馬の屋かたよりは、程遠《ほどとほ》けれども、失火(しつくわ)のごとくみえしに、人々、馬をはせて、爰に來(く)る。
此奇異を拜(をがみ)て、甚(はなはだ)、たつとびあへり。
此《この》終り給へる時、一尺余(よ)の、木の太皷(たいこ)の撥(ばち)やうの物にて、疊をたゝき、臥(ふせ)ながら、念仏し給ひけるに、聖衆(しやうじゆ)の來迎(らいがう)を現(げん)に拜(をがみ)給ひ、淨人に仰《おほせ》て、
「其有樣を記(き)せよ。」
と、の給へ共《ども》、此僧、筆に堪《たえ》ざるにや、書《かき》煩(わづら)ひければ、自(みづから)、筆、取《とり》て、
「此苦は、暫(しばらく)の程《ほど》。あの聖衆の紫雲(しうん)、淸凉雲(せいりやううん)の中《なか》に、若(もし)、まじはりたらば、いかほどの喜悅ぞや。繪に書《かき》たるは、万分(まんぶん)が一《いち》、八功德(《はつ》くどく)の池《いけ》には、七寶《しつぱう》の蓮花、樹林には、瑠璃(るり)の枝葉(し《えふ》)等《など》也。」
と、書《かき》さして、終(をはり)給ひしとかや。
有がたき事共也。
其後、此記、おなじく持《もち》給へる「ばち」、淨人、槇尾(まきのを)に持來《もちきた》り、臨終のありさま、語りけるに、又、人、奇異の思ひをなしけり。
今に此寺の㚑寶(れいはう)として、目下(まのあたり)、拜みける。
慶長十五の比《ころ》とかや。
[やぶちゃん注:「八功德(《はつ》くどく)の池」「八功德池」(はっくどくち)は極楽浄土にあるといわれている、八功徳の水をたたえた七宝より成る池。
以下の評言部は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]
唐(もろこし)、霊芝元昭律師(れいしげんせうりつし)の、
「生《いき》ては、毘尼(びに)をひろめ、死《しし》ては、安養(あんやう)に生《しやう》ずる。」
と宣ひけるが、うたがふらくは、明忍は、其さいたんなるか。
[やぶちゃん注:「霊芝元昭律師」北宋の僧元照(がんじょう)律師(大智律師 一〇四八年~一一一六年)。南山律学(なんざんりつがく)の復興者として知られる。参照した「奈良市」公式サイト内の「文化財」の「絹本著色元照律師像」のページによれば、彼の『教学を学んだ入宋僧の俊芿』(しゅんじょう 永万二・仁安元(一一六六)年~嘉禄三(一二二七)年)『が、元照の著した』「四分律行事鈔資持記」『(しぶんりつぎょうじしょうしじき)等の多数の律書や、元照と道宣の絵像などを建暦元』(一二一一)『年に請来したことが契機となって、元照の教学が』、『わが国に伝わり』、『戒律復興に影響を与え』た、とある。
「さいたん」「最端」か。
以下、奥附。「㒸」は「歲」の異体字。天和三年で、一六八三年。]
新御伽卷六大尾 江戶神田新草屋町
西村 半兵衞
京三條通
天和參㒸 同 市良右衞門
亥九月上旬 八幡町通
大津屋 庄兵衞