西原未達「新御伽婢子」 憍慢失
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。
注は最後に置いた。]
憍慢失(きやうまんのしつ)
城刕市原といふ所に空也の流(ながれ)を繼ぐ念仏師、世に「鉢たゝき」といふあり。寒夜の曉(あかつき)、七所(しよ)の墓所をめぐつて念仏し、廽向(ゑかう)する事、每夜也。
年々の冬每(ごと)に勤(つとめ)けるに、いつ別形(べつぎやう)の者にも出合《いであは》ず、をそろしき心、夢斗《ばかり》もなし。此男、自讚していふ、
「大かたの世の人は、人家より人家に行《ゆく》をさへ、夜、少《すこし》更(ふけ)ては、をそろしき[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]心を發《おこ》しまして、山埜の淋しきには、其儘も死する心ちに憶(おく)する者あり。我、數年《すねん》、三昧に行《ゆき》かよふといへ共、をそろしとも思ひ侍らぬは、生(むま)れ付《つき》の強勢(がうせい)なると、信心の金剛なるとに、有《り》。」
と、甚(はなはだ)、憍漫して、いつものごとく、詣ずる。
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]
ある三昧に廽向し、立歸らんとするに、其長(たけ)、弐丈も有らん、大の男、眼(まなこ)は、鏡に朱をそゝぎたる如く、口、鰐(わに)にひとしく、耳の根へ切れたるが、此男を、
「つくづく」
まもりて、立《たち》たり。
一目見るより、
「はつ。」
と、おもひ、目くれ、心まどひながら、漸々(やうやう)、余(よ)の道に逃(にげ)わしる[やぶちゃん注:ママ。]。
半町斗《ばかり》も來つらんほどに、又、前の男に少もたがはぬもの、出《いで》て眞(ま)むかふに、立《たち》ふさがり、
「何と。此《か》やうなるもの、あの三昧にも居(ゐ)たるや。」
といふ。
此時にこそ、氣を取失(《とり》うしな)ひ、大地に、まろび臥す。
やゝありて、時雨、一通《ひととほり》して、咽(のんど)をうるほし、天然(てんえん)に心づきて、あたりをみるに、東雲(しのゝめ)、漸々、明《あけ》はなれければ、とかくして、家に歸りけれ共、彼(かの)襲《おび》へ[やぶちゃん注:ママ。]、忘れがたくて、
「俤(おもかげ)に、たつ。」
と、いひしが、二、三日、經て、死《しに》けるとぞ。
[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]
すべて、仏法《ぶつぼふ》・世法《せいはふ》の事につきて、
「われこそわ[やぶちゃん注:ママ。]。」
と、慢心をおこす事、是ほどまで、正(まさ)しき妖《えう》をこそ見ざらめ、さしあたりて、知もなく、德もなき人に、おとり見ゆるぞかし。いかに、いはんや、さまでもなき所作をや。
[やぶちゃん注:「市原」現在の京都府京都市左京区静市市原町(しういちいちはらちょう:グーグル・マップ・データ)。
「鉢たゝき」「鉢叩・鉢敲」。平安時代の空也上人が始めたと伝えられる踊念仏(おどりねんぶつ)を元とする民俗芸能。瓢簞(ひようたん)を叩き、念仏を唱えて踊る。中・近世には門付(かどづけ)芸として半僧半俗の芸能者によって演じられた。挿絵の風貌を見ても、本格的な念仏修行者ではなく、普段は、そうした芸能を生業としている者である。但し、、特に十一月十三日の空也忌(これは実際の忌日ではなく、彼が東国教化のため、京の出寺したその日を忌日としたもの)より除夜の晩まで、洛中を勧進し、葬所を巡って念仏を唱えるそれを、曲りなりにも欠かさずにやっている点では、「空也の流(ながれ)を繼ぐ」正統な「念仏師」の一面を持ってはいる人物である。
「三昧」ここは「三昧場(さんまいば)」のこと。葬場・火葬場・墓地を言う。
「半町」約五十四メートル半。]