西原未達「新御伽婢子」 人喰老婆
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。
必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]
人喰老婆(ひとくひうば)
京、大宮丹波屋町といふ所に米穀を商ふ六右衞門とかやいふ男、神無月の中比《なかごろ》、夜、いと更て、
「親(したしき)ものゝ、病《やまひ》を訪(とふら)ふ。」
とて、室町錦の小路なる處に行《ゆく》に、月、冷(すゞ)しく、風、いたく、身にしみて、村時雨(むらしぐれ)、間(ま)なく、かよひければ、傘(からかさ)、打《うち》かたぶけて、四条を東に步むに、などやらん、寥落(ものすごき)心、いできて、前後(ぜんご)かへり見がちなり。
[やぶちゃん注:「丹波屋町」現在の京都市上京区丹波屋町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「錦の小路」ここの東辺りの病んだ親しい友の家はあったようである。]
かく、氣味よからぬ時しも、
「強《しひ》て行《ゆく》べきに非ず。立歸(たちかへり)、あすや、まからん。」
と、道、少《すこし》、踏戾(ふみもど)りしかども、
『おもへば、はなちがたきものゝ病勞(いたはり[やぶちゃん注:二字への読み。])を問ふに、今宵を延(のべ)て明朝(あす)を期(ご)せん事、いとゞ常(つね)なき人の身の、わきて煩(わづらふ)折《をり》》にさへあれば、今もや、いかゞ無二覺束一(おぼつかなし)、抑(そも)、又、遠境海路(ゑんきやうかいろ)の程か、埜山《のやま》》を越(こゆ)る難所(なんじよ)か、淺ましき心かな。』
と、心に我を恥かしめて、靜(しづかに)運(はこ)び行《ゆき》けるほどに、堀川の辻に出《いで》て、橋の詰(つめ)に渡りかゝる所に、北西の釘貫(くぎぬき)の傍(そば)より、
「なふ、なつかしや、六右衞門。」
と、いふて、逶迤(よろぼひ)出《いで》るものをみれば、月影に、色あひ、安定(さだか[やぶちゃん注:二字への読み。])ならねど、八旬[やぶちゃん注:八十歳。]斗《ばかり》と覺しき姥(うば)の、眞白(ましろ)なる髮を振乱(ふりみだ)し、眼(まなこ)、靑く、ひかりて、口、耳の根へ、きれたり。
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]
大手(《おほ》で)をひろげ、攫(つかみ)つかんとする。
男、
「はつ。」
と、おもひ、木履(ぼくり)・傘(かさ)打《うち》すてゝ、東をさして、逃(にげ)て行《ゆく》事、息も、つぎあへず。
[やぶちゃん注:「堀川の辻」四条堀川。ここに至る道程は「平安条坊図」で確認された方が判り易い。
「釘貫」挿絵の妖婆の向こうに見える「釘貫門」。両方の柱の上部に二本の貫を通し、下に扉を入れた門。「釘門」とも。種々の場所に用いられたが、ここは恐らく町内の木戸と思われる。
「逶迤」は音「ヰイ」、当て訓で「もごよふ」で、「(蛇などが)うねりながら行く・身をくねらせて動いて行く・のたくる」から「足腰が立たずはって行く・よろよろと行く」の意。]
漸々(やうやう)、病家(びやうか)に至りぬれども、病中なれば、あやしき咄(はなし)もせず、其夜は、そこに明(あか)して、旦(あした)に歸る。
ありし堀川の辻に至りて、夜部(よべ)を思へば、身の毛、よだちて覺えける。
爰に脫捨(ぬぎすて)たる履(ぼくり)を見れば、賤(いやしく)大きなる齒がた入《いり》て、咀碎(かみくだき)、傘も、引《ひき》さき、ほねも柄も、打《うち》ひしぎて置けるこそ、醜(おそ《ろ》[やぶちゃん注:脱字。補った。])しけれ。
何の所爲(しよゐ)ともしらず。
或人のいふ。
「人喰姥(ひと《くひ》うば)と云《いふ》物、此わたりに有《あり》て、雨、くらく、風、すごき夜は、出る、といふ。それなるべし。」
と。
又、明曆(めいりやく)の比にや、壬生(みぶ)の水葱宮(なぎの《みや》》に、人喰姥《ひとくひうば》といふもの、住(すみ)て、幼子(おさなひ[やぶちゃん注:ママ。「もの」を略したものか。])共《ども》を取喰ふと、沙汰して、洛中城外の騷(さはぎ)、數日(すじつ)止(やま)ざりき。
應長の比、
「伊勢の國より、女の鬼に成《なり》たるを、ゐて、登りし。」
とて、京白川(しらかは)のさはぎける、と。
つれづれに書(かき)しに、似かよひたる事にて、誰(たれ)見たるといふ人もなく、虛言(そらごと)ともいはで、いつとなく、靜(しづま)りぬ。
壬生に近き堀川なるによつて、此化生(けしやう)を「人喰姥」と号(なづけ)けるにや。
[やぶちゃん注:「夜部」「昨夜(よべ・ゆふべ)」に同じ。「ようべ」「よんべ」とも言った。
「明曆(めいりやく)」現行、「めいれき」と読むのが普通。一六五五年から一六五八年まで。家綱の治世。
「壬生の水葱宮」京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町にある元祇園椰(もとぎおんなぎ)神社・隼(はやぶさ)神社の近世までの呼称。ここは現在の名から判る通り、八坂神社の古跡に当たるという。
「應長」一三一一年から一三一二年まで。]
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