「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 釘ぬきに就て(その3)
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(左ページ四行目)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇はやや長いので、分割する。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。]
後三年合戰繪詞に、將軍義家、兵に命じて、千任が舌を拔《ぬか》しむる處に、かなばしにて引き出す、とあり。凡そ箸と云《いふ》は一條《ひとすぢ》なるを、折り曲げて、兩の端、相對《あひむか》ひたるが本義なり。されど、其圖をみるに、今の釘拔に同じ。今、金物の匠は、唐剪刀《からばさみ》の如き物をキリバシと言えり。カナバシに似たる剪刀《はさみ》なれば、然云歟《しかいふか》。沙石集卷二、眞言の法をいふ所、之を譬へば、釘拔のさをは如來の加持力、坐は法界力、我手は以我功德力なり、釘拔の寄合て大なる釘を容易《たやす》く拔くが如し。重障、のぞこる事、自《おのづか》ら知られ侍り難し(紋にある釘拔とても、其器の兩端の向ひ合たるに似たればなり。關戶抔の釘貫は其義に非ず。上に見ゆ。)(以上、笑覽の文。)。
[やぶちゃん注:最後にあるように、以上の段落部分は全部が「喜遊笑覧」の先に示した「もぢ」の後の三分の二相当の完全引用文である(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション。右ページ七行目から終りの十三行目まで)。則ち、熊楠は実は「後三年合戰繪詞」を自分では見てはいないのではないかと私は思うのである。
「後三年合戰繪詞」現存する最古のものが作られたのは、鎌倉幕府が滅びた後の南北朝期の貞和三(一三四七)年。全六巻であったと考えられるが、現在は後半の三巻のみが残る。但し、この失われた詞書は、比叡山の学僧玄慧(げんえ)の著わした「奥州後三年記」などによって補うことができ、また、後代に描かれた同名の絵詞で視認可能である。サイト「北道倶楽部」の「武士の成立・論点4 奥州後三年記と義家の郎党」の、「『奥州後三年記』の残虐性」の項に図があり、中央に千任の舌抜きの図、左に木にぶら下げられ、足下に武衡の首がある図(次注参照)があるが、良く見えないものの、舌を引き出すのに用いているのは、何となく、「やっとこ」(=釘抜き)のようには見える。
「千任」千任丸( せんとうまる ?~寛治元(一〇八七)年十一月十四日)は陸奥の豪族清原家衡の家臣。「後三年の役」で家衡・武衡の軍が金沢柵(秋田県横手市)に立て籠もって源義家と対戦した際、千任丸は楼上から義家を激しく罵った。そのための敗北後、舌を抜かれ、木にぶら下げられた、足の下方には、先に斬首された主家の武衡の首が置かれて、力尽きて死ぬに至って、武衡の首を踏んで亡くなった。残虐極まりない光景である。「後三年合戦絵詞」の下巻の第三段にそれが以下のように書かれてある(以下は消滅したサイト「絵巻詞書集」のキャッシュから当該部を抜き出し、恣意的に漢字を正字化し、読み易くするために句読点や記号を挿入、段落・改行・記号を施し、推定で歴史的仮名遣の読みを添えた。下線太字は私が附した。
*
次に、千任丸を、めし出《いだし》て、
「先日、矢ぐらの上にていひし事、只今、申《まをし》てんや。」
といふ。
千任、首をたれて、ものいはず。
その舌を切《きる》べきよしを、「をきつ源直」といふ者、よりて、手をもちて、舌を引出《ひきいだ》さむとす。
將軍、大《おほき》に、いかりて、いはく、
「虎の口に手をいれむとす、はなはだ、おろかなり。」
とて、追立《おつた》つ、こと兵、いできて、えびらより、金はしを取《とり》いでて、舌をはさまむとするに、千任は、をくひ[やぶちゃん注:両頤のことか。]、あはせて、あかず。
かなばしにて、はを、つきやぶりて、その舌を引出《ひきいだし》て、これを切《きり》つ。
千任が舌を、きりをはりて、しばり、かがめて、木の枝につりかけて、あしを地につけずして、足のしたに、武衡が首をおけり。
千任、なくなく、あしをかがめて、これをふまず。
しばらくありて、力、つきて、足をさげて、ついに、主の首を、ふみつ。
將軍、これを見て、郎等どもに、いふやう、
「二年の愁眉、今日、すでにひらけぬ。但《ただし》、なを、うらむるところは、家衡が首を見ざる事を。」
といふ。
*
ここで「かなばし」(金箸)とあるが、ただの金属製の箸では、歯を突き破って、舌を引き出すことは困難であろう。「やっとこ」状のもので挟んでこそ、舌は引き出せ、それを固定して、やおら、小刀で舌を切るという順序を考えると、釘抜き状のものであって合点がゆくのである。
「沙石集卷二、眞言の法をいふ所、之を譬へば、……」先に示した「八 彌勒行者の事」の一節で、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫(昭和一八(一九四三)年刊)のここの右ページ九行目以降。
「紋にある釘拔とても、其器の兩端の向ひ合たるに似たればなり」しかし、南方家の丸に釘抜の紋はそのようには私には見えない(周囲の丸を梃(てこ)に見るのは無理がある)。但し、「梃釘抜(てこくぎぬき)」紋は如何にもそれらしい(リンク先はサイト「家紋のいろは」の当該紋)。
「關戶抔の釘貫は其義に非ず。上に見ゆ」前記の「もぢ」の最後の部分。この「關戶」云々は、これよりも前の「喜遊笑覧」の「釘貫 忍び返し」の終りにある「○今」、「門戶のかんぬき……」の部分で説明されており、最後の「天和貞享こと迄は街の木戶のかこいをかく」(釘貫)「いへりとみゆ」とあって、実際の釘貫とは違う、というのである。]
黑川君は、何故か、更に此《この》沙石集の文を引かず。笑覽の著者喜多村氏は之を引き乍ら、和漢三才圖會に釘拔を、二種、圖記せるを參酌せず。古來、本邦の釘拔は、和三所謂《いふところの》、一種形如鋏而肥、其頭圓以挾舊釘拔之〔一種、形、鋏のごとくにして、肥(ふと)く)、其の頭(かしら)、圓(まる)く、以つて、舊釘を挾(はさ)み、之れを拔く。〕ものに限れる樣心得て、釘拔紋を、其兩端向ひ合たるに似たる故の名と斷ぜるは遺憾なり。沙石集、述ぶるところの釘拔のさおは、梃《てこ》、坐は、和三、所謂、方寸半許鐵器、隨透穴〔方(はう)、寸半(すんはん)許(ばか)り)の鐵器にして、隨ふに穴を透したり。〕俗に云ふ座金を指せば、其釘拔は和三の、俗云萬力たるや、疑を容れず。若し、其が、今日普通なる如鋏而肥其頭圓以挾舊釘拔之ものを指《さし》たるならんには、サヲと云はずに、手とか、足とか、云たるべく、動いて用を爲す頭(俗稱クヒキリ)を動かずして役に立つ坐と唱ふべき道理なし。
[やぶちゃん注:私の『「和漢三才圖會」卷第二十四「百工具」の内の「千斤(くぎぬき)」』を参照されたい。]
予は萬力てふ釘拔を見し事、無し。但し、亡父は維新前より明治十四年まで和歌山市で金物商を營みたれば、維新前後、夥しく、名も出處も知れぬ雜多の金屬具を扱ふたる殘り物で、年久しく店頭常用の煙草盆の引出しにありたる方寸半ばかりの鐵器、和三の圖其儘なるが有りし。幼時の事とて記憶定かならねど、國の家老の邸の表門に打付有りし乳房狀の金屬製飾具の底に潛在せし座金と聞《きき》しと記憶す。兄なる者、每度、此座金を舊釘《ふるくぎ》にかぶせ、鑢(ヤスリ)、又、鉛の小棒を梃《てこ》として、和三所記同樣に拔き出すを樂みとし、鑢を損じ、鉛を曲げ了《をは》るとて、其都度、父母に叱られしを慥に覺え居り、十三歲で始て和三の千斤の條を見し時、卽座に萬力の何物たるを解せり。爾來、別段、萬力といふ器具を睹《み》ざるも、物理學の初步をも讀みし身の、釘に相應した座金と梃さえ[やぶちゃん注:ママ。]あらば、其釘は拔かれ得ると呑込み、隨つて、昔しは、特に萬力なる釘拔具ありしことと、和三の圖說を信じ居りしに、黑川君が萬力の圖說を寺島氏の假想に過ずと說れしと聞き、和三の圖說を疑ふに及べり。是より前、昨年五月末日、平瀨作五郞氏來訪されし際、此人も福井縣人なるが、白井博士と等しく、余の家紋釘貫なるを見て、自分も同紋なるは奇遇と言《いは》れ、この紋は萬力てふ釘拔の畫なり、と語られたる事有り。因て、書《ふみ》を飛して、委細を問しに、釘貫紋は萬力に象《かたど》るとは、氏の先君の話にて、自分は萬力という具を見し事無しと答られ、予、大に失望せり。之に屈せず、萬力の存否を諸方の知人へ書面で問合せ、自身も尋ね步く内、田邊町の車力の棟梁、三谷福松氏(六十五歲斗り)、藏に萬力類似の物有りと聞き、借り來つて寫せる圖を爰に出す(第一圖)。
[やぶちゃん注:「亡父」熊楠の父南方弥兵衛(文政一二(一八二九)年~明治二五(一八九二)年:後に「弥右衛門」と改名。逝去時、熊楠はロンドンにおり、死に目に逢えていない)は和歌山城城下町の橋丁(現在の和歌山市)で金物商・雑賀屋を営んでいた。
「國の家老の邸の表門に打付有りし乳房狀の金屬製飾具」所謂、「釘隠し」のこと。
「兄なる者」次男坊であった熊楠の腹違いの兄(前妻との子で七つ違い)南方藤吉(安政六(一八五九)年~大正一三(一九二四)年)。ウィキの「南方熊楠」によれば、明治一一(一八七八)年より家督を継ぎ、「弥兵衛」を名乗ったが、好色にして気儘であったため、「破産するだろう」という父親の予言通り、妾を、五人、囲い、相場に手を出し、明治三〇(一八九七)年に破産、南方家を継いだ熊楠の実弟常楠の世話になった。
「十三歲で始て和三の千斤の條を見し時」ウィキの「南方熊楠」や各種年譜によれば、数え八歳の明治七(一八七四)年頃、近所の産婦人科佐竹宅で、「和漢三才図会」を初めて見、二年後(小学校を卒業し、鍾秀学校速成中学科に入学した)、売りに出ていたものを父にねだったが、買ってもらえず、岩井屋津村多賀三郎から「和漢三才図会」全百五巻を借覧し(持ち出しは禁じられた)、恐るべきことに、その場で記憶しながら、家に帰り、筆写をするということを始めている。この他、並行して十二歳までに本邦で本草学のバイブルとされた明の李時珍の「本草綱目」や、貝原益軒の「大和本草」、各種の諸国名所図会等の筆写も本格的に行っている。
「寺島氏」「和漢三才図会」の作者寺島良安。
「昨年」大正八(一九一九)年。
「平瀨作五郞」(安政三(一八五六)年~大正一四(一九二五)年)は植物学者。越前国足羽郡(あすわぐん)生まれ。福井藩中学を卒業し、明治八(一八七五)年、岐阜中学の図画教師となる。明治二十一年からは東京帝大理科大の小石川植物園内にあった植物学教室に勤め、明治二十六年には正規の助手となった。ここで教授用・研究用の画や顕微鏡用のプレパラートを作ったりしていたが、農学部の池野成一郎助教授(後に教授)の示唆を受け、植物園内のイチョウの雌の木になる銀杏の実を材料として、裸子植物に初めて精子を発見、受精の過程を追跡し、明治二十九年、「いてふノ精蟲ニ就テ」として発表した。同じころ、彼はソテツの精子も発見している。これらの発見は、植物分類学・細胞学・進化学上の一大事件であり、海外の学者にも称賛された。明治三〇(一八九七)年に大学を退職、その後は彦根中学や京都の花園中学の教員を勤めた。大正七(一九一八)年にはクロマツの受精に関する報告もしている(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]
[やぶちゃん注:「第一圖」「コゼヌキ」の図。底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像をトリミング補正した。指示記号「イ」(二ヶ所)・「ロ」・「ハ」とある。]
此器《き》、方言コゼヌキ、釘をコジ揚《あげ》て拔くの義、長さ二尺一寸[やぶちゃん注:六十三・六センチ。]の方柱形の鐵梃の頭尾に鋼を裝へる者にて、幅も厚さも平均七分[やぶちゃん注:約二センチ。]乍、尾を急に三絃の撥樣に廣く薄くして柱等をコジ起すに便にす。其頭部は全長の凡そ十分一を占め、前端に近づくほど、微少乍ら漸く其幅を增し、著しく其厚さを增す。頭部は桿《かん》と直《す》ぐに續かず、稍々《やや》傾斜せる狀、三絃の海老尾《えびを》に似たり。扨、頭部の後端近き兩側に、堅固の鐵鋲もて、長持の鐶《かなわ》の如き鋼《はがね》の鐶《かん》を留《と》む。この鐶、自在に前後に廻り動けど、梃の頭部の前端に近き兩側、やや膨れあるに妨げられて、一定の姿勢(第一圖ロ)を踰《こえ》て梃頭を廻り下る能はず。蓋し、此姿勢に在《あり》ては鐶頭の上緣が、梃頭の上面と殆ど一平面に見え、鐶脚の上緣が梃頭の上面と八度程の角度を構え、梃頭の前端と鐶頭の間に幅三、四厘[やぶちゃん注:〇・九~一・二ミリ。]の透き間を生ず(第一圖イ)。鐶が後に向《むかつ》て廻るほど、この透き間が大きくなるは、言を俟《また》ず(第一圖ハ)。釘をして、この透き間に入れしめ、梃頭の前端を釘に當つれば、鐶、廻り下って、梃端と力を戮《あは》せ、釘を、〆つけ、緊持して、滑り動かせず。その時、梃をコジ揚ぐれば、いかな釘も、たやすく拔かる。大釘は、是でなければ、拔けず、甚だ重寶なる物なり。
[やぶちゃん注:「海老尾」三味線の、竿の端の、海老の尾のように後方に曲がった部分の名称。]
三谷氏所藏の品は、明治九年[やぶちゃん注:一八七六年。]鍛工《たんこう》[やぶちゃん注:鍛冶屋。]に作らしめたと語らる。今でさえ[やぶちゃん注:ママ。]不便極まる田邊に、其頃、外國より傳ふる筈も無く、其上、山本幸次郞とて實體《じつてい》なる六十三歲の左官頭領の話に、七、八歲の時、既に此器を見たりといひ、又、最近拙妻の麁緣《そえん》有る[やぶちゃん注:ちょっとした縁がある。]東牟婁郡請川《うけがは》村の舊家須川氏(昔し、饑饉年に窮民に業を與えん[やぶちゃん注:ママ。]爲め、八棟造りの大厦《たいか》を建て、棟上げの節、山茶《つばき》の木で作りし槌《つち》を天井へ忘れ置しに、每夜、化けし。其大厦の煙突に、盜賊三人、年久しく住みしなど、珍談多き家なり。この家の支流に須川德卿あり。世に希なる算學者で、甞て、川を航する船を算盤で置き留《と》めたと云ふ)に、維新前より此器を藏するを、誰も彼も、其何物たるを知らず有りし由、確かに聞たれば、此コゼヌキは、必ず、本邦在來の物なるべく、全く鎌倉時代、既に行れたる、萬力の座と梃とを結合して、邦人が作出《つくりいだ》せるに外ならじ。此事、東洋にも自生せる器械の進化、灼然たるものありし好例として、ピツト・リヴアース將軍に告げまし物をと思へど、物故して、はや、二十年なるを如何せん。
[やぶちゃん注:「東牟婁郡請川村」現在の和歌山県田辺市本宮町(ほんぐうちょう)請川(うけがわ)周辺。
「ピツト・リヴアース將軍」イギリスの軍人・考古学者で、「イギリス考古学の父」と呼ばれるアウグストゥス・ヘンリー」レーン=フォックス・ピット=リバーズ(Augustus Henry Lane-Fox Pitt-Rivers 一八二七年~一九〇〇年)。ヨークシャー出身。「クリミア戦争」に従軍した。武器・土俗器などを収集・分類し、一八八三年にオックスフォード大学に寄贈している 。一八八二年の退役後、ウィルトシャーの所領で、先史・古代ローマやアングロ・サクソン時代の遺物の発掘を行なった。大規模な発掘という、当時としては画期的な考古学の方法を導入し、また、進化論的立場を取り、武器の形態的な発展を研究した。主著「クランボーン・チェイスの発掘」(Excavations in Cranborne Chase :一八八七年~一八九八年)は考古学の古典とされる。クリミア半島やエジプトのテーベの発掘なども行なった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。彼と南方熊楠が接触した事実は諸本では見当たらないものの、両者の学問的嗜好は合い、熊楠のロンドン滞在は一八九二年から一八九九年であるから、対面する機会は十分にあったとは思われる。]
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