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2022/09/17

西原未達「新御伽婢子」 女生首

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。

 読みの(*/*)は右/左の読み(左は意訳)を示す。]

 

     女生首(《をんなの》なまくび)

 或《ある》若僧(にやくそう)、宮古にて、人の娘に、いひかよはし、深き契りをこめにけり。

[やぶちゃん注:「宮古」「都」に同じ。京。]

 親師(おやし)の坊の仰《おほせ》にて、關東へ學問に下る。

[やぶちゃん注:「親師」ここは出家して就いている親代わりの師僧ととっておく。]

 馴(なれ)し女に、名殘(なごり)ありて、暫(しばらく)、虛病(きよびやう/うそ)に日を送りけれども、かくて有べきにもあらねば、今は歎(なげく)に、力(ちから)なく、女に暇乞(いとまごひ)して、既に東におもむけば、女、やるかたなく、戀悶(こひもだへ)、袖にすがりて、送り行《ゆく》。

 都をば、まだ、夜《よ》とともに出しかど、栗田口(あはたぐち)まで行《ゆき》かゝれば、空(そら)晨明(しのゝめ)に成《なり》にけり。

 僧、女に云(いふ)、

「いつまでも、つきぬ名殘に侍れど、明《あけ》はなれなば、いか斗《ばかり》、余所(よそ)の見る目も見ぐるし。たとへば旅程(りよてい/たびのほど)を雲に隔(へだつ)とも、頓而(やがて)の内に立歸(たちかへり)、空行月(そらゆく《つき》)の、めぐり逢(あひ)なん。是より、歸り給へ。」

と、いへば、女、是非を弁(わきま)へず、

「只今、別れ參らせ、片時(かたとき)、生(いく)べき、命、ならず。さればとて、つき添下(そひ《くだ》)らんも不ㇾ叶(かなはず)。唯(たゞ)、自(みづから)頸(くび)を切《きり》て、記念に持《もち》て、下り給へ。」

と、いひて、懷(ふところ)より小脇指(こわきざし)を取出《とりいだ》す。

 僧、あきれて、思ふ。

 

Onnanoikikubi

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

『是非ともに、此女の、生(いき)て歸らぬ心にて、かく、釼(つるぎ)迄、用意せし成《なる》べし。「歸れ」といふに、行(ゆき)やらず、つれんとするに不ㇾ叶、夜は、早、明《あかる》く成たれば、菟角(とかく)、時刻うつしては、あやしき恥に及ばん。』

と、情(なさけ)なくは思ひながら、雪とあやしむ肌に、氷の釼を押《おし》あてゝ、頸、討《うち》おとし、骸(かばね)をおさめ、頸を油單(ゆたん)に取包(とりつつみ)、袖を淚にひぢながら、東の旅途におもむき行《ゆく》。

[やぶちゃん注:「油單」一重(ひとえ)の布や紙に油を浸み込ませたもの。湿気や汚れを防ぐため、旅装の携帯として、また、敷物や風呂敷などに用いた。]

 飯沼《いひぬま》の弘經寺(ぐぎやうじ)といふ談林(だんりん)に、一所の寮をしめて居(ゐ)たり。

[やぶちゃん注:「飯沼の弘經寺」現在の茨城県常総市豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経寺(ぐぎょうじ:グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、室町時代の応永二一(一四一四)年、『名越流北条氏一族の出で、増上寺開山聖聡弟子だった嘆誉良肇(りょうちょう)の開山により下総国岡田郡飯沼村』『に創建された』。『良肇により僧侶の教育に力が入れられ、二世の松平氏宗家第四代松平親忠開基の大恩寺開山了暁(りょうぎょう)慶善、弘経寺三世の曜誉酉冏(ゆうげい)、徳川将軍家菩提寺大樹寺開山の勢誉愚底(ぐてい)、知恩院』二十二『世周誉珠琳(しゅりん)、松平氏宗家第三代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏(そんげい)などが輩出』した。『のち、北条氏と争っていた下妻城主多賀谷重経の陣が寺内に置かれ、戦禍により荒廃するが、徳川家康』の『次男結城秀康の開基で、結城弘経寺(茨城県結城市)が再建された』。『家康からも信仰されていた』十『世了学により再興され、江戸期には浄土宗の檀林』(仏教寺院に於ける僧侶の養成機関で仏教各宗派の学問所に当たる。「談林」に同じ。さすれば、本篇の時制も共時的と考えてよいであろう)『がおかれた。了学から五重相伝を受けた千姫から本堂の寄進もなされた』、江戸時代はかなり有名な寺であった。]

 此僧、外に出て歸る時、必(かならず)、女の聲して、たからかに笑ふ事、間(まゝ)多し。

 隣壁(りんぺき)の僧、不審をなし、隱間(ものゝひま)より、覗(のぞく)こと、あまたゝび、されども、此僧、獨(ひとり)のみで、人、更になし。纔(わづか)に狹(せば)き内なれば、いづくに、人、壱人《ひとり》、隱(かくす)べき、くまも、なし。

[やぶちゃん注:「獨(ひとり)のみで」「西村本小説全集 上巻」ではここは『独ならで』と起こされてある。確かに崩しからは、そう見えるが、それでは話が通じない。判読では、やや苦しいが、私は「のみで」と判じた。]

 とかくして、三年(《み》とせ)過《すぐ》る。

 其比《そのころ》、此僧の母、

「煩(わづらふ)事あり」

とて、飛脚、下りければ、僧、取不ㇾ敢(とりあへず)、登りぬ。

 其後《そののち》、三十日(みそか)斗《ばかり》して、此寮の内に、女の聲にて、哭喚(なきさけぶ)事、あり。

 各《おのおの》、肝をけし、寺内、騷動し、此戶《ここのと》に、鎖(じやう)のおりたるを、打《うち》ぬきて、内を見るに、あへて、人、なし。

 少《すこし》、澁紙包(しぶがみつゝみ)の内に、此聲、あり。

 醜(おそろし)ながら、ひらき見れば、飯櫃《いひびつ》やうの曲(まげ)たる物に、若く盛(さかん)なる女のくび、紅粉翠黛(こうふんすいたい)、生(いき)たる顏に、いやまさりて、けつらひ、愁へる眼、淚に浮(うき)、腫(はれ)たり。

 人々を見るより、恥かしげに、しほれしが、朝の雪の、日にあへる如く、

「じみじみ」

と、色、變じて、忽(たちまち)むなしく、枯(かれ)にけり。

 いかなる事とは知らねど、衆僧(しゆそう)、葬りて、跡、悃(ねんごろ)に弔とふ)。

[やぶちゃん注:このシークエンスはここまでの本書の中では、最もオリジナルティに富んだ、凄絶な場面である。

「けつらひ」「擬ひ」で「化粧して」の意。

「悃」には「真心」の意がある。]

 其後《そののち》、京より、飛脚下りて、

「かの若僧 急病をうけて 此いつの日 相果(《あひ》はて)ぬ 寮を明渡し申す」

といふ使也。

 各《おのおの》、思ひ合すれば、此頸の哭(なき)たる日、おなじ時也けり。

 後々、京にての、あらまし、聞へけるにぞ、皆人《みなひと》、舌を卷(まき)ぬ。

 一念(《いち》ねん)五百生繫念無量劫戀慕執着(《ごひやく》しやうけねんむりやうごうれんぼしうじやく[やぶちゃん注:ママ。])の報ひをうけん事、淺ましきかな。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

 昔、唐(もろこし)に吳子胥(ごししょ)といふものあり。吳王西施といふ后(きさき)にまよひ、政(まつりごと)の不ㇾ正(ただしざる)を諫(いさ)め申せしに、吳王、怒(いかつ)て、子胥が頸を討つ。吳子胥が云《いふ》、「我頸(くび)を吳の東門(とうもん)にかけよ。」と。則(すなはち)、かけぬ。其後《そののち》、吳王、越のとりこと成《なり》て、吳の東門を過(すぎ)けるに、子胥が頸、吳王のありさまを見て、笑ひけるとぞ。本朝(ほんてう)の古(いにし)へ、相馬の將門、謀叛を起しけるが、秀鄕のために討たれて、此頸、三月迄、色、不ㇾ變(へんぜず)、眼(まなこ)を不ㇾ塞(ふさがず)、「將門は米かみよりぞ切られける」とよみし歌にて、此頸、「からから」と笑ひ、眼(まなこ)をとぢ、枯死(かれじゝ)けるとぞ。猛きものゝふは、さる事も、ありなん。かたちやさしき女に、かゝる醜(おそろしき)事、又、類(たぐひ)なからんか。

[やぶちゃん注:「吳子胥」は伍子胥(?~紀元前四八四年)の誤り。私が教師時代、漢文で必ずやった好きな話である。しかし、ちょっと間違いが多い。まず、子胥は討たれたのではなく、夫差から、自害しろという意味で「屬鏤(しよくる)の劍(けん)を賜ふ」たので、「自剄(じけい)」して亡くなったのである。その最期に、彼は家人に告げて、 「必ず吾が墓に檟(か)を樹ゑよ。檟は材とすべきなり」と言う。この「檟」は棺桶に用いる木本の名であり、それは越に責められて死ぬ夫差の棺桶の材となると言うたのだ。そして「吾が目を抉(ゑぐ)りて、東門に懸けよ。 以つて越兵の吳を滅ぼすを觀(み)ん。」と言い放ったのだ。自死の直後に、この遺言を聴いた夫差は、怒髪天を衝き、命じて、子胥の「尸(しかばね)を取り、盛るに、鴟夷(しい)」(馬の皮で作った酒を入れるための袋)「を以つてし、之れを江(かう)に投」じたのだ。だから、彼の眼球は東門には、そもそも懸けられてはいないのだ。十年後、子胥の言った通り、越が呉を伐った。命乞いをしたが、許されず、夫差は、「吾れ以つて子胥を見る無し。」と呟いて、「幎冒(べきぼう)を爲(つく)りて、乃(すなは)ち死す。」(死者の顔を覆うための四角い布であるが、ここは「あの世で子胥に合わせる顔がない」から死の直前に自ら顔を覆ったのだ)と終わるのだ。]

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