西原未達「新御伽婢子」 死後血脉
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。
本篇には挿絵はない。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した(但し、以下の「序」はベタのママとした)。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。
必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]
死後血脉(しごのけつみやく)
宮古百万返(みやこ)は、往昔(そのかみ)、法然上人のすませ給へる御寺にて、いとたうとき㚑場(れいじやう)也。上人の御弟子せいくはん坊、相續ありてより、代々の知識、念佛三昧の敎(をしへ)を、諸人に施し給ふ。
[やぶちゃん注:「血脉」在家の受戒者に仏法相承の証拠として与える系譜。「けちみやく」とも読む。
「宮古百万返」の「宮古」は「都(みやこ)」で「京の都」の意であり、「百万返」は元は「百万遍念仏」で、弥陀の名号を、七日又は十日の間に百万回唱えることを言う。古く中国の僧道綽(どうしゃく)に始まると伝えられるが、本邦の浄土宗では元弘元(一三三一)年に後醍醐天皇の勅により、知恩寺八世善阿空円が疫病退散のために行なったのが、最初とされる。単に「百万遍」とも称する。而してその発祥とされる、現在の京都市左京区田中門前町(たなかもんぜんちょう)にある浄土宗大本山である長徳山百萬遍知恩寺(グーグル・マップ・データ)。一般には単に「知恩寺」と呼ばれているが、現在の宗教法人としての正式名称は「百萬遍知恩寺」である。京都における浄土宗四ヶ本山の一つであり、毎月行われる、念仏を称えながら大念珠を繰る「百萬遍大念珠繰り」で知られる。
「せいくはん坊」法然没後の京都に於ける法然の浄土宗教団の維持に努めた勢観房源智(寿永二(一一八三)年~暦仁元(一二三九)年)。父は平重盛の子師盛とされる。]
さいつ比《ころ》、内裏災上の砌(みぎり)、寺地を田中といふ東山に移されしかども、猶、佛法、はんじやうして、老若(らうにやく)、袖をつらね、男女(なんによ)、堂内に充濤して、詣(まう)ずる事にぞ、在《あり》ける。
[やぶちゃん注:この時制は、以上の記載を閲するに、明確に直近の「さいつ比」で、「内裏」が「炎上」し、百萬遍知恩寺が「寺地を田中といふ東山に移」したという記載から、ウィキの「知恩寺」を見ると、江戸時代の寛文元(一六六一)年に『火事で焼失するが』、翌寛文二年には、第三十九世光譽萬靈(こうよまんれい)上人(本文の主人公「万㚑大和尙」である。没年を知りたかったが、見出せなかった)に『よって現在地に移転し』、二『年後の』寛文四(一六六四)年に『本堂の釈迦堂が建てられ』、『再興された』とある。さらに京都の歴史的災害データを調べると、個人のサイト内の「京都のおもな災害(天災・人災)年表」で、この寛文元年の火災について、万治四年四月二十五日(一六六一年五月二十三日)に『「万治から寛文」へ改元』(この大火災がその改元理由である)、『内裏の火災』が先立つ同年一月十五日(グレゴリオ暦一六六一年二月十四日)巳の下刻(午前十一時頃)に『公家の二条家屋敷から出火し』、『大内裏、仙洞御所を焼く。公家屋敷』百十九軒・寺院十六ヶ所、町家五百六十八軒『を焼失』とあった。さて、本書は、京で天和三(一六八三)年に刊行されたものであるから、知恩寺の再建から数えても、僅かに十九年しか経っておらず、その閉区間内が本話柄内時制ということになる。則ち、これこそ、所謂、直近で起こったとされる、京の都のホヤホヤの湯気が立つような噂話=「都市伝説」(アーバン・レジェンド)ということになるのである。私は多くの怪奇談の電子化を手掛けているが、これだけ直近の時制が正確に指定されたそれは、決して多くない。特異点的同時制的怪談と言えるのである。]
其比《そのころ》、万㚑大和尙(まんれいだいおしやう)と申《まをし》て、いとたうとき上人、或夕暮、方丈の緣さきに御出有《おいであり》て、垣(かき)ほの、牽牛花(あさがほ)・南天(なてん)の葉のくまに、風の戰(そよぐ)に、折からの哀《あはれ》を覺《おぼ》しやりて、ねんず、引ならしおはしけるに、いづこともなく、藐(かたち)うるはしき女房、物かげに、すごすごと、たてる有り。思ひかけずや、
「何ものぞ。」
と問せ給ふに、苦氣(くるしげ)なる聲して、
「自(みづから)は、京三条の邊(ほとり)、わくやの何某(なにがし)と申《まをす》ものゝ娘にて侍る。上人の御血脉(《おん》けつみやく)を戴き參らせたく、詣で來り侍《はべり》。」
と、いと恥らへるさまに、いふを、上人、
「やすき程の事。」
とて、やがて、授(さづけ)給ふ。
をし戴(いたゞき)、伏拜罷出(ふし《をがみ》まかりいで)たり。
弟子なる僧を召(めし)て、の給ふ。
「此者(《この》もの)の風情(ふぜい)、心得ぬ所有《ところあり》。見《み》がくれに、行《ゆき》てみよ。」
と仰《おほせ》あるに、此僧、後(うしろ)につきて行(ゆく)。
日さへ、影なく入《いり》て、物の色あひ、覺束(おぼつか)なく、暮果(くれはて)たれば、
『見もらさじ。』
と、したひ行《ゆく》に、一町余(あまり)の程して、跡、きえて、なく成りぬ。
立歸《たちかへ》りて、
「かく。」
と申さば、御氣(《ご》き)の早き和尙にていますれば、御腹あしき事もや、
「聞(きか)ん。」
と、直(すぐ)に、かの女のいひし、わくやの何がしが所に至り、有し次第を語れば、あるじ夫婦、淚にかきくれ、
「我々、独(ひとり)の娘を、けさなん、死(しな)せ侍り。今はの時に、『知恩寺の御血脉を受(うけ)申《まをし》たき』よし、申せしを、『さりとも、今一度(《いまひと》たび)、病(やまひ)本復(ほんぶく)せん。いまいまし。』などゝ、只(たゞ)、藥(くすり)・祈(いのり)と、のみ、取《とり》まかなひ侍るほどに、あへなく、息たえ侍る。扨は、猶、死後迄も、その事を忘れやらず、御寺《みてら》に詣で侍りけるよ。」
と、なみだの内に、和尙の御《おん》かたを礼拜(らいはい)しけり。
扨、僧を佛前にいざなひ、
「𢌞向(ゑかう)なし給はれ。」
といふに、右の手に彼(かの)血脉を持《も》て、ねふれるごとくして、往生しぬ。
末世といへど、佛法のふしぎ、卑凡(ひぼん)のあらそふ事に、あらずかし。
[やぶちゃん注:「牽牛花(あさがほ)」サイト「日本科学未来館」の松浦麻子氏の「牽牛花をご存じですか? =七夕とあの植物のお話=」によれば、『アサガオ、別名を牽牛花(けんぎゅうか)といいます』。『昔々、中国で、ある農夫が、アサガオのタネを服用して病気が治ったので、自分の水牛を連れてアサガオのある田んぼにお礼を言いに行ったことから、「牽牛花」と呼ばれるようになったとか(牽牛とは、本来は「牛を引く」という意味です。)。日本では奈良時代に伝わってきて以来、生薬や園芸植物として親しまれてきました』。『江戸時代には、七夕の頃に咲くことも相まって、花が咲いたアサガオは「彦星(=牽牛星)」と「織姫星」が年に一度出会えたことを現しているとして、縁起の良いモノとされたとか』と記しておられる。ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil は、当該ウィキによれば、『種子は「牽牛子」(けにごし、けんごし)と呼ばれる生薬として用いられ、日本薬局方にも収録されている。中国の古医書』「名医別録」では、『牛を牽いて行き』、『交換の謝礼』を『したことが名前の由来とされている』。『粉末にして下剤や利尿剤として薬用にする』。『種子は煮ても焼いても炒っても効能があるものの』(☞)『毒性がとても強く、素人判断による服用は薦められない』。『朝顔の葉を細かに揉み、便所の糞壺に投じると』、『虫がわかなくなる。再びわくようになったら再投入する』とあることを明記しておく。有毒成分はファルビチン・コンボルブリンである。――因みに――私の家では朝顔の花が庭に植わることはない。私の母の実家は笠井という。母の父は、父の母の実の兄であるから、私の父母は従妹同士なのであり、私には色濃く笠井の血が流れている。笠井家は加賀藩の家老だったらしいが、その後裔の先祖の一人は、主命であったのか、自由意志であったか、はたまた乱心であったのかは判らぬが、脱藩して浪人となり、中部地方のどこかへ流れて行き、何でも、朝顔の植わった庭の中で切腹して果てたのだと伝えられており、笠井の家では代々邸内に朝顔を植えてはならぬという家訓がある。考えて見れば、私も小学校の時、理科の宿題で、シャーレで朝顔の発芽をさせた経験以外には朝顔の花を見たことがなかった。これは面白い禁忌の民俗伝承の一つとして、ここに場違いに注しておくだけの価値は――一種の奇談として――あろうかと思う。
「南天(なてん)」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica 。当該ウィキによれば、『葉は、南天葉(なんてんよう)』『または南天竹葉(なんてんちくよう)という生薬で』、『健胃、解熱、鎮咳などの作用がある。葉に含まれるシアン化水素は猛毒であるが、含有量はわずかであるため』、『危険性は殆どなく、食品の防腐に役立つ。このため、彩りも兼ねて弁当などに入れる』。『熊本県旧飽田町』(あきたまち)『(現熊本市)では、すり潰したナンテンの葉の汁を濾したものを小麦粉の生地に加えた麺料理「しるかえ」』『を作る』。『もっとも、これは薬用でなく、食あたりの「難を転ずる」というまじないの意味との説もあり』、『当初から、殺菌効果があると分かって赤飯に添えられたり、厠(手洗い)の近くに植えられたのかは定かではない』。『実は、南天実(なんてんじつ)』『または南天竹子(なんてんちくし)といい』、『実が成熟したときに、果穂ごと切り取って採取し、天日で乾燥して脱粒する』。各種の生薬成分が含まれているが、『鎮咳作用をもつドメスチンは、温血動物に対して多量に摂取すると、大脳、呼吸中枢の麻痺作用があり、知覚や運動神経にも強い麻痺を引き起こすため』、『素人が安易に試すのは危険である』とある。私は毒性のあるものは、必ず注することを節としている。悪しからず。
「ねんず」「念珠」。
「藐(かたち)」一見、「貌」の異体字かと見紛うが、これは誤字である。本字は「貌」とは全くの別字で、意味は「蔑(さげす)む・軽んじる・蔑(ないがし)ろにする」の他、「遙か・遠い」の意味しかない。
「京三条」二条城の南の、この東西(グーグル・マップ・データ)。
「わくや」漢字表記不詳。「涌谷」「和久屋」か。
の何某(なにがし)と申《まをす》ものゝ娘にて侍る。上人の御血脉(《おん》けつみやく)を戴き參らせたく、詣で來り侍《はべり》。」
「一町」百九メートル。
「御氣(《ご》き)の早き」一般には「怒りっぽい」ことを言う。
「御腹あしき事もや」何か、理由は判らないけれど、腹に据えかねた印象でもあったものか。
「いまいまし」「忌々し」で、「縁起が悪いことだ」「不吉ではないか」の意。
「佛法のふしぎ、卑凡(ひぼん)のあらそふ事に、あらずかし」「仏法の大慈大悲の神妙なる不可思議は、貴賤や賢愚の違いなど、ないものなのである。人智を超えて、広大にして無辺なのものなのである。」。]