西原未達「新御伽婢子」 人魚評
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。
注は文中や段落末に挟んだ。]
人魚評(にんぎよの《ひやう》)
寬文弐の五月朔曰、日本、過半、大地震(《だい》じしん)して、國々、所々の神社・仏閣、或《あるいは》破壞(は《ゑ》)し、散乱し、民家、多く、崩れ、かたぶき、石垣を穿(うがち)、壁を落《おと》すによつて、爲ㇾ之(これがため)、忽(たちまち)、打墊(うちひし)がれ、死せる者、多く、腰・膝・手足を痛(いため)られて、片輪(かたわ)づきたるもの、數(かぞふ)るに不ㇾ足(たらず)。
其比《そのころ》、江州朽木(くつき)、かづら川のすそ、榎木(えのき)・町居(まちゐ)・小谷(こたみ)村といふ三ケ所は、後(うしろ)より、比良の尾つゞき、吹端山(ふきばた《やま》)といふ大嶽(おほだけ)、崩れかゝつて、一時(《いち》じ)に在家(ざいけ)の上に覆ひ、三所一同に、數百丈の底に埋(うも)れ、人畜(にんちく)、独(ひとり)として、たすかるもの、なし。後々(のちのち)數(かぞふ)るに、三百七十三人とせるせり[やぶちゃん注:ママ。「せり」でよい。或いは「せるなり」か。誤記か誤刻であろう。]。若(もし)纔(わづか)の土の下、木の陰に、うたれたらましかば、多の人の中に少々、助かる者もあるべきを、大山ひとつ、つきあげたる事に、逃(にぐべ)き便《たより》もなかりけるにや、漸々(やうやう)、田と、畑(はた)と、川とにして、三人の死骸を得たり。此外は、二度(ふたゝび)、求(もとむ)る事、なし。他國に子ある者あり、親を殘す有《あり》、歎き悲しむ事、斷《ことわり》に過《すぎ》たり。
凡《およそ》、地震といふ事、昔より、あまたたび、ふる事にて、古記にも、とゞめ、長明「方丈記」などに、しるされたれども、目下(まのあたり)、見聞(みきく)事社(こそ)淺ましけれ。
[やぶちゃん注:寛文二年五月一日(一六六二年六月十六日)の午の上刻(午前十一時から同 十二時頃)に近畿地方北部を中心に発生した大地震(現在、二つの地震が連続して発生したと考えられている)「寛文近江・若狭地震」。当該ウィキによれば(太字は私が附した)、マグニチュード七・五程度で、『強震は近江、若狭に加えて、山城、大和、河内、和泉、摂津、丹波、美濃、伊勢、駿河、三河、信濃と広範囲におよび、比良岳』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『付近で顕著であった』とあり、震源は、琵琶湖南西の湖底下と推定されている。『本地震は近江国や若狭国において地震動が特に強く甚大な被害が発生したが、震源域に近く、当時約』四十一『万人の人口を有し』、『依然として国内第二の大都市があった京都盆地北部においても被害が多発した』。『京都の被害状況から寛文京都地震、従来、震源域が琵琶湖西岸付近であるとする考えがあったことから、琵琶湖西岸地震と呼ばれることもある』。『地震被害を記録した文献資料を分析した』結果、『近江国や若狭国は「倒壊」「崩壊」の文言が多くあ』る『一方、京都盆地北部の被害状況を記録した文献には「損壊」「大破」の記述が多い事から』、『京都の被害は近江国や若狭国よりも軽微であったとしている』。『この日は大雨で、京都の地震動も強く』、「基煕公(もとひろこう)記」の宝永地震(宝永四年十月四日(一七〇七年十月二十八日)、東海道沖から南海道沖を震源域として発生したもので、マグニチュードは八・四から八・六程度)の『記録において「昔卅六年己前(数え年)五月一日、有大地震、有大地震事、其時之地震ノ五分ノ一也」とあり、宝永地震の京都における揺れは』、『振動が長くとも破損を生じる程で』、『建物が倒壊する程では無かったものの、京都では宝永地震でさえ』、『寛文地震の揺れの』五分の一『程度の強さであったことになる』。「殿中日記」には『京都において二条城の御番衆小屋などが悉く破損、町屋が千軒余潰れ、死人』二百『人余、伏見城も各所で破損したとある』、『また』、『同日記には、近江では、佐和山(現・彦根市)で城がゆがみ』、『石垣が』五、六『百間』(九百九~一キロ九十一メートル)に亙って、『崩れ、家千軒余』、『潰れ、死人』三十『人あまり、大溝(現・高島市)では』家屋が千二十二軒、潰れ、死人は三十八人、『牛馬も多く死に、朽木谷(現・高島市)は特に激しい地震動に見舞われ』、『家が潰れ』、『出火により辺りが残らず焼失したと記されている。膳所や大津(現・大津市)も被害が多く、水口』(みなくち)『城でも門、塀、御殿が破損した』。「落穂雑談一言集」には『伏見で町屋』三百二十『軒余倒壊、死人』四『人、近江志賀、辛崎(現・大津市)では田畑』八十五『町余がゆり込み、並家』千五百七十『軒が倒壊したとある』。「元延実録」には『愛宕神社や岩清水八幡宮が大いに破損、知恩院や祇園も大方破損したとあ』り、「厳有院実紀」によれば『二条城は各所が破損したが』、『禁裡院は無事である旨、また』、『丹波亀山城、篠山城、摂津尼崎城、近江膳所城、若狭小浜城は崩れ、近江国朽木谷では朽木陣屋が倒壊し、多くの家臣らと共に隠居していた先代領主の朽木宣綱が圧死したとある』。『当時の被害の様子や』、『余震を恐れる人々など』、『当時の状況を詳しく記録した読み物として売り出された浅井了意の』「かなめいし」(寛文二年八月から同年末までに成立)が、『災害の社会像を伝える最初の資料地震誌である。上巻は京都での実況見分的に描写、中巻は京都以外の地震の災害の概要、下巻は日本地震の先例をあげる』。『京の方広寺の大仏は』『慶長伏見地震』(文禄五年閏七月十三日(一五九六年九月五日発生。震源は現在の東大阪市内。マグニチュードは七・五前後。なお、この地震などを受けて同年十月二十七日に慶長に改元された)『でも倒壊するなど』、『度々』、『災難に見舞われていたが、本地震でも』慶長一七(一六一二)『年に再建された銅製の大仏が破損したとするのが通説であ』り、『大仏は木造で再建されることとなり、破損した旧大仏は解体され』ている。「慶延略紀」によれば、『二条城や大坂城も破損するほどの揺れであり、江戸でも小震であったとされ』、現在の広島県の『福山でも有感』されており、「殿中日記」には『「長崎表も地震之由」とある。被害の全体では死者』八百八十名『あまり、潰家約』四千五百軒と『される』とある。本「新御婢子」はこの地震から二十一年後の天和三(一六八三)年刊であり、作者の西村市右衛門も京住まいであるから、この地震を体験しているものと考えてよいのではないかと思う。彼の生年は不明だが、以上の書き出しの凄惨な事実提示は、伝聞とは思われない。而して、やや前ではあるが、本篇が真正のあり得たような「都市伝説」としての様相を、冒頭からくっきりと浮かび上がらせる稀有の絶大なる効果を持っているのである。
「江州朽木(くつき)」滋賀県西部(湖西)の高島郡にあった朽木村(くつきむら)。この附近。
「かづら川」不詳。
「榎木(えのき)・町居(まちゐ)・小谷(こたみ)村」現在の地名では見当たらない。見当たらないのは、しかし、ここに述べた通り、この地震による全壊・全滅というカタストロフによって、三箇所総てが絶えたと考えれば、逆に納得がゆく。
「吹端山(ふきばた《やま》)」不詳。これも、その山が三箇所を埋め尽くすほどに、致命的にピークが崩れ、消滅したとすれば、同じく納得できなくはない。ただ、ちょっと話を膨らましている可能性は高いように思う。因みに、後背部が比良山地で、旧朽木村の「端」という謂いからは、以上の三箇所があったのは、朽木比良附近(グーグル・マップ・データ航空写真)ではないかとは思われる。しかもここは、推定震源地の北西十五、六キロと直近である。
「斷《ことわり》に過《すぎ》たり」「ただ、自然現象だから仕方がないという道理で言い収められても、凡そ、それで納得出来るようなものではない。」。典型的な大震災の後の心的外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorder:PTSD)である。
「ふる事」「古る事」ではなく、「經る事」で、「そのれぞれの時代の人々が経験してきたこと」或いは「歴史に記されてきたこと」の意であろう。]
或人の云《いはく》、
「『聖賢、出《いで》給はんとては、麟・鳳(りん・ほう)、先(まづ)、現じ、国に災(さい)ある時は、異形(《い》ぎやう)の獸魚(じうぎよ)、あらはるゝ。』と云《いへ》り。かほどの凶事に、天神地祇(てんじんちぎ)のしめし給ふ前表(ぜんひやう)もなかりし事よ。今、曉季(ぎやうき)の濁世(ぢよくせ)なれば、惡事は、たゞちに、惡事ありて、兼年(けんねん)のしるしなし。」
といふ。
[やぶちゃん注:「麟・鳳」麒麟と鳳凰。「和漢三才図会巻第三十八 獣類 麒麟(きりん) (仮想聖獣)」と、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう) (架空の神霊鳥)」を参照されたい。
「前表」前触れ。前兆。
「曉季」末(すえ:季)の末法の始まり(曉(あかつき))の意であろう。
「兼年の」「その年よりもかねてから前に」の意であろう。]
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。この人魚、なかなか綺麗な顔立ちである。]
其席に何がしの兵四郞とかや申されし、
「前表こそ、在《あり》けれ。某(それがし)、所用あつて、九州におもむくに、或浦の漁父(ぎよふ)が、手に、人漁(にん《ぎよ》)[やぶちゃん注:ママ。]ひとつ、䋄(あみ)にかゝりしを見ける。かたちは、順(じゆん)の「和名(わ《みやう》)」に『魚身人面(ぎよしんじんめん)なる物也』と。實(げに)も、そなり。顏は、うつくしき女にて、髮、禿(かふろ)のごとく、手足、人間にかはらず、其外は、魚にて、尾鰭(おひれ)・鱗(うろこ)あり。生船(いけぶね)にあれども、異物のごとく、はねをどる事もなく、め、まじろかず。若(もし)、人音《ひとおと》のする時は、目を閉(とぢ)で[やぶちゃん注:ママ。後の対表現から「て」の誤刻と思われる。]、不ㇾ動(うごかず)。止(やめ)ば、則(すなはち)、目を開(ひらい)て、漂泊(へうはく)す。此浦の者ども、
『是、目出度《めでたき》瑞(ずい)也。昔、北條早雲、壯年の比《ころ》、舟にて、他(た)の国へ渡り給ひしに、ひとつの鯉魚(りぎよ)、船に飛入(とびいる)。「是、吉(きつ)なり。」とて、料理(りやうり)て、船中、賞翫(しやうぐわん)し給ひしが、程なく、大業《たいげふ》をたて、八州(《はつ》しう)をしたがへ給ひし。斯(かゝ)る小魚(しやうぎよ)さへ、まして况(いはん)や、人魚をや。當浦(たううら)の榮(さかへ)、疑(うたがひ)なし。いざ、分(わかち)とりて、たうべん。』
といふ中に、小賢(こざかしき)ものありて、
『是、吉(きつ)に非(あら)ず。凶也。ちかきに思ひ合《あはする》事、あるべし。』
と、いひて、人魚は、もとの海中へ、はなちやりけるが、おもへば、此年、大地震、ふりける。」
[やぶちゃん注:『順(じゆん)の「和名(わ《みやう》)」』源順(したごう)の「和名類聚抄」の巻第十九の「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六」に、
*
人魚 「兼名苑」云はく、『人魚、一名は鯪魚(りやうぎよ)【上の音は「陵」。】魚身人面なる者なり。「山海経注(せんがいきやうちゆう)」に云はく、『聲、小児の啼(な)くがごとし。故に之れを名づく。』と。
*
と出る。名を音読みするのは、敬意を示すので問題ない。
「まじろかず」瞬きをしない。
「北條早雲、壯年の比、……」不学にしてこの話は知らない。そもそも、九州のただの漁師の言う台詞なのに、突如、北条早雲が出てくるのは、何だか、場違いだし、こんな語り自体、漁師の話らしくない。而して、この話、「平家物語」の巻第一の「鱸(すずき)」、清盛が未だ安芸守だった頃に、熊野参詣の途中、船に鱸が飛びこむという吉兆があったという話とクリソツで、それを元に作り替えた話であろう。或いは作者は、確信犯で仕込み、真実あった話としての本話が、実話ではないことを、暗に匂わせたかったのかも知れない。
「ふりける」「震(ふ)りける」。]
と、いはれしに、傍(かたはら)なる人の云《いはく》、
「地震のふりける年、出《いで》たるとて、人魚を凶とする事、信用しがたし。昔、上宮(じやうぐう)太子、在(いまそ)かりし時、龍宮より、捧(さゝげ)て、太子の長生(ちやうせい)ならん事を、はかる、と、いへり。凡《およそ》此魚を食すれば、千歲(《せん》ざい)を經(ふ)るともいひ、不老不死也とも、いへり。かゝる目出度類(たぐひ)、是、吉瑞(きち《ずい》)ならずや。人魚なく共《とも》、地震は、ふるべし。地震なくとも、人魚出現の時、あるべし。」
と、いはれし。何(いづ)れを是(ぜ)とし、何れを非(ひ)とすべき、不ㇾ知(しらず)。
[やぶちゃん注:「上宮太子」聖徳太子のこと。この話は「聖徳太子絵伝」にあるが、献上相手が「龍宮」であるはずはなく、そちらでは摂津の国で獲れた人魚が献ぜられたことになっている。しかし、太子はその奇体な異形の異魚を見て、これは吉兆ではなく、災いを齎すものだと断じている。
最後に南方熊楠の「人魚の話」をリンクさせておく。]