「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その6) / 人柱の話~了
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。本篇は長いので、分割する。特に以下は「追記」とするも、長い。「選集」に従い(そちらでは、第「五」章と第「六」章に分離されてある)、分割する。
なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下) 南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……]
一四六三年、獨逸ノガットの堰《せき》を直すに、乞食を大醉させて埋め、一八四三年同國ハルレに新橋を立てるに、人民、其下に小兒を生埋《いきうめ》せうと望んだ。丁抹《デンマーク》首都コッペンハーゲンの城壁、每《いつ》も崩れる故、椅子に無事の小兒を載せ、玩具、食品をやり、他意なく食ひ遊ぶを、左官、棟梁、十二人して、圓天井を、かぶせ、喧ましい奏樂紛れに、壁に築き込んでから、堅固と成つた。伊國のアルタ橋は繰返し落ちたから、其《その》、大工、棟梁の妻を、築き込んだ。其時、妻が詛《のろ》ふて、今に、其橋、花梗《くわかう》[やぶちゃん注:花軸から分かれて出て、その先端に花をつける小さな枝茎のこと。]の如く、動搖する。露國のスラヴェンスク、黑死病で大《おほい》に荒らされ、再建の節、賢人の訓《おし》へに隨ひ、一朝、日出前《ひのでまへ》に人を八方に使《つかは》して、一番に出逢ふ者を捕へると、小兒だつた。乃《すなは》ち、新砦の礎《いしずゑ》の下に生埋して、之をヂェチネツ(小兒城)と改稱した。露國の小農共は、每家《まいいへ》、ヌシあり、初めて其家を立てた祖先がなる處と信じ、由つて、新たに立つ家の主人、或は、最初に新立《しんりつ》の家に、步みを入れた者が、すぐ死す、と信ず。蓋し、古代よりの風として、初立《いふだち》の家には、其家族中の最も老いた者が一番に入るのだ。或る所では、家を立て始める時、斧を使ひ初める大工が、ある鳥、又は、獸の名を呼ぶ。すると、その畜生は速やかに死ぬといふ。其時、大工に自分の名を呼ばれたら、すぐ死なねばならぬから、小農共は、大工を非常に慇懃に扱つて己の名を呼ばれぬやう力《つと》める。ブルガリアでは、家を建てに掛《かか》るに、通掛《とほりかか》つた人の影を糸で測り、礎の下に、其糸を埋める。其人は、直ちに、死ぬそうだ。但し、人が通らねば、一番に來合《きあは》せた動物を測る。又、人の代りに鷄や羊などを殺し」て、其血を土臺に濺《そそ》ぐこともある。セルヴヰアでは、都市を建てるに、人、又は、人の影を、壁に築《つ》き込むに、非ざれば、成功せず、影を築き込まれた人は、必ず、速やかに死す、と信じた。昔し、其國王と二弟がスクタリ砦を立てた時、晝間、仕上げた工事を、夜分、鬼が壞して、已まず。因つて、相談して、三人の妃の内、一番に食事を工人に運び來る者を築き込もう、と定めた。王と次弟は、私《ひそか》に之を洩らしたので、其妃ども、病《やまひ》と稱して、來らず。末弟の妃は、一向知らずに來たのを、王と次弟が捕へて、人柱に立てた。此妃、乞ふて、壁に穴を殘し、每日、其兒を伴れ來らたらせて、其穴から乳を呑ませること、十二ケ月にして、死んだ。今に其壁より石灰を含んだ乳樣《ちちやう》の水が滴《したた》るを、婦女、詣で拜む(タイラーの原始人文篇、二板、一卷一〇四―五頁。一八七二年板、ラルストンの露國民謠、一二六―八頁)。
[やぶちゃん注:「露國のスラヴェンスク」スロヴャンスク(ウクライナ語:Слов'янськ)は現在のウクライナ東部の都市で、ドネツィク州内の行政的な中心都市。今まさに、おぞましいプーチンが不当なウクライナ侵攻の最大のターゲットとしている地域である。ここが「黑死病」(腺ペスト)の猖獗を受けたのは一三四七年である。
「ヂェチネツ(小兒城)」機械翻訳で「子どもの城」をロシア語で変換すると、“детский замок”で、音写すると、「ジヤェッキ・ザーモク」である。
「タイラーの原始人文篇、二板、一卷一〇四―五頁」複数回既出既注だが、再掲しておくと、イギリスの人類学者で「文化人類学の父」と呼ばれる、宗教の起源に関してアニミズムを提唱したエドワード・バーネット・タイラー(Edward Burnett Tylor 一八三二年~一九一七年)が一八七一年に発表した「原始文化:神話・哲学・宗教・芸術そして習慣の発展の研究」(Primitive Culture, researches into the Development of Mythology, Philosophy, Religion, Art and Custom )。原本当該部は「Internet archive」のここ。
「一八七二年板、ラルストンの露國民謠、一二六―八頁」イギリスのロシア語学者ウィリアム・ラルストン・シェデン・ラルストン(William Ralston Shedden-Ralston 一八二八年〜一八八九年)の‘The songs of the Russian people, as illustrative of Slavonic mythology and Russian social life’ (「スラヴ神話とロシア社会の生活を象徴するロシア人の民謡」)。「Internet archive」のこちらから、原本当該部が視認出来る。]
其からタイラーは、人柱の代りに獨逸で空棺を、丁抹《デンマーク》で羊や馬を生埋にし、希臘では礎を据えた後ち、一番に通り掛つた人は、年内に死ぬ、其禍《わざはひ》を他に移さんとて、左官が羊、鷄を、礎の上で殺す。獨逸の古話に、橋を崩さずに立てさせくれたら、渡り初《そ》める者をやらうと、鬼を欺き、橋、成つて、一番に鷄を渡らせたことを述べ、同國に家が新たに立つたら、先づ、猫か犬を入らしむるがよいといふ等の例を列《つら》ねある。
日本にも甲子夜話五九に、「彥根侯の江戶邸は、本《も》と加藤淸正の邸で、其千疊敷の天井に乘物を釣り下げあり、人の開き見るを禁ず。或は云く、淸正、妻の屍を容れてあり。或は云ふ、此中に、妖怪、居《ゐ》て、時として、内より戶を開くをみるに、老婆の形なる者みゆ、と。數人の所話《はなすところ》、如是《かくのごとし》。」と。是は獨逸で人柱の代りに空棺《あきくわん》を埋めた如く、人屍《じんし》の代りに、葬式の乘物を釣下げて、千疊敷のヌシとしたので有るまいか。同書卅卷に、「世に云ふ、姬路の城中にオサカベと云ふ妖魅あり、城中に年久しく住めり、と。或は云ふ、天守櫓の上層に居て常に人の入るを嫌ふ。年に一度、其城主のみ、之に對面す。其餘は、人、懼れて、登らず。城主、對面する時、妖、其形を現はすに、老婆也、と云ひ傳ふ。(中略)姬路に一宿せし時、宿主《やどぬし》に問ふに、成程、城中に左樣の事も侍り、此所にてハッテンドウと申す。オサカベとは言《いは》ず。天守櫓の脇に、此祠ありて、其神に事《つか》ふる社僧あり、城主も尊仰せらる、と。」。老媼茶話に、加藤明成、猪苗代城代として堀部主膳を置く。寬永十七年極月、主膳、獨り座敷にあるに、禿《かむろ》、一人、現じ、汝、久しく在城すれど、今に此城主に謁せず、急ぎ、身を淨め、上下《かみしも》を著し、敬《つつし》んでお目見えすべし、といふ。主膳、此城主は、主人明成で、城代は予なり、外に城主、ある筈、なし、と叱る。禿、笑ふて、姬路のオサカベ姬と、猪苗代の龜姬を知らずや、汝、命數、既に盡きたり、と言ひ、消失《きえう》す。翌年、元朝《げんてう》、主膳、諸士の拜禮を受けんとて、上下を著し、廣間へ出ると、上段に新しい棺桶があり、其側に葬具を揃え[やぶちゃん注:ママ。]あり、其夕《ゆふべ》、大勢、餅をつく音がする。正月十八日、主膳、厠中《かはやうち》より煩ひ付き、二十日の曉に死す。其夏、柴崎といふ士、七尺ばかりの大入道を切るに、古い大ムジナだつた。爾來、怪事、絕えた、と載せある。
[やぶちゃん注:『甲子夜話五九に、「彥根侯の江戶邸は、……」「フライング単発 甲子夜話卷之五十九 5 加藤淸正の故邸」として、事前に電子化注しておいた。
『同書卅卷に、「世に云ふ、姬路の城中にオサカベと云ふ妖魅あり、……」同前。「フライング単発 甲子夜話卷之三十 20 姬路城中ヲサカベの事」を参照。
「老媼茶話に、加藤明成、猪苗代城代として堀部主膳を置く。……」既出既注。私の「老媼茶話巻之三 猪苗代の城化物」を参照。そちらで詳しい注もしてあるので、繰り返さない。]
垂加文集の會津山水記に云く、會津城以鶴稱之、猪苗代城以龜稱之〔會津城は鶴を以つて之れを稱し、猪苗代城は龜を以つて之れを稱す。〕と。これは鶴龜の名を付《つけ》た二女《にぢよ》を生埋《いきうめ》したによる名か。又、姬路城主松平義俊の兒小姓《ちごこしやう》森田圖書、十四歲で、傍輩と賭《かけ》してボンボリを燈《とも》し、天守の七階目へ上り、三十四、五のいかにも氣高き女、十二一重をきて、讀書するを見、仔細を話すと、爰迄確かに登つた印に、とて、兜のシコロをくれた。持つて下るに、三階目で大入道に火を吹消《ふきけ》され、又、取つて歸し、彼女に火をつけ貰ひ歸つた話を出す。此氣高き女、乃《すなは》ち、オサカベ姬で有らう。嬉遊笑覽などをみると、オサカベは狐で、時々、惡戲《いたづら》をして、人を騷がせたらしい。
[やぶちゃん注:「垂加文集の會津山水記」「垂加文集」は山崎闇斎(あんさい 元和四(一六一九)年~天和二(一六八二)年:江戸前期の儒学者・神道家)の漢詩文・和歌・和文集。刊本は死後の正徳四(一七一四)年。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の刊本のここに出る。但し、「會津山水記」冒頭と、同画像の左丁後ろから三行目に分離してあるのを繋げたものである。なお、後者の話は、「老媼茶話巻之五 播州姫路城」にも全く同じものが載るので、参照されたい。というより、怪力乱心を語らずの儒者の闇斎がこの話を載せるとも思われないので(ざっと全巻を見たが、それらしいものはないと思う)、熊楠は前の「老媼茶話」の話を、ここに書いてしまったに過ぎないように感じている。
「嬉遊笑覽などをみると、オサカベは狐で、時々、惡戲《いたづら》をして、人を騷がせたらしい」所持する岩波文庫版で探してみたのだが、どこに書いてあるのか判らなかった。判明したら、追記する。]
扨、ラルストン說に、露國の家のヌシ(ドモヴヲイ)は、屢々、家主の形を現じ、其家を經濟的によく取締り、吉凶ある每に之を知らすが、又、屢ば、惡戲をなす、と。而て、家や城を建てる時、牲《にへ》にされた人畜がヌシになるのだ。類推するに、龜姬、オサカベ等も人柱に立てられた女の靈が城のヌシに成《なつ》たので、後に狐、貉《むじな》と混同されたのだらう。
[やぶちゃん注:「露國の家のヌシ(ドモヴヲイ)」ロシア語で“домово́й”。音写は「ドモヴォーイ」が近い。当該ウィキによれば、『スラブ人の家の精。その名はスラヴ語派の「ドム(dom)」』(「家」・「家庭」の意)『から派生したとされる』。『ドモヴォーイは各家庭にいるとされ、家や家族を守る精霊である。暖炉の下や地下室、玄関に住む』『が、納屋や家畜小屋に住んで家畜の面倒をみるものもいる』。『ドモヴォーイはおおむね、灰色または白い体毛で、髪と顎髭をもつ毛深い老人や小人として表現され』(先に出た「術士メルリン」が、全身を黒毛で覆われており、その名には狼男と関係性があることと、強い親和性があるように思われる)、『角や尾を持つとも言われる』。『さらに、家畜や干し草の姿で現れることもある』。『人間がドモヴォーイの姿を見ることはとても稀なことであるが、それは同時にとても不幸なことである』。『人々はドモヴォーイを本来の名前で呼ばないようにし』、『チェロヴィク(あの人)やデドゥシュカデドゥコ(おじいさん)などの湾曲した表現で呼ぶ』。『しかし』、『ドモヴォーイのすすり泣いたり』、『うなったりする声は』、『よく聞かれるという』。『また、夜に家がきしむ音がするのは、ドモヴォーイが家事などを片付けているためだとされている』。『ドモヴォーイは火と暖かさが好きで、もし』、『ドモヴォーイを怒らせ』たりすると、『その家は火災に見舞われるとされている。そのため』、『人々は、夕食の一部をドモヴォーイに供えて機嫌をとる。また、引っ越しの際はドモヴォーイを連れて行くべく、暖炉の火の燃え木を持参して』、『転居先の新しい暖炉に火を移したり』、『箒などの生活用具の一部を持参したりする。もし』、『ドモヴォーイを古い家に置いていくと』、『転居先では凶事が起きると言われている』。『一方で』、『ドモヴォーイは長く住んだ家を離れるのを嫌がることから、転居前に新しい家の暖炉の下にパンを置いて』、『ドモヴォーイを引き寄せることもある』。『ドモヴォーイは、家族を守るため』、『悪い精霊や侵入者の殺害も厭わない。家族に危険が迫るとそれを知らせ、未来を教えることもある。夜にドモヴォーイの体に触れた時、温かければ』、『幸運があり、冷たければ』、『不運があるとされている』。『あるいは、就寝中にドモヴォーイに締め付けられたら』、『吉凶を尋ね、回答があれば』、『幸運があり、なければ』、『不運があるとされている』。『ドモヴォーイの泣き声は、家族の誰かの死が間近い知らせだともされている』。『気に入らない家族には』、『いたずらを仕掛けたり』、『嫌いな家畜は追いかけ回した末』、『餌を糞に変えて』、『餓死させたりする』。『ドモヴォーイにはドモヴィーハ』『という妻がいるとされて』おり、彼女は『床下や地下室に住んでいるとされる』。『ドモヴォーイは、古い時代の先祖の精霊がその起源だと考えられている』。『それまで』、『部族という単位でまとまっていた人々が』、『家族という単位で区別されるようになった時に、ドモヴォーイの概念が現れたという。それ以前に部族単位の先祖の精霊として知られていたのが』、『ロード』『であった』という。『ドモヴォーイおよび同種の神秘的な存在については次のような伝説がある。彼らはかつては天国に住んでいたが、至高神が天地を創造した際に反乱を起こしたため、至高神によって地上へ落とされたという。彼らの一部は人間の住む家や』、『その周辺に落ち、一部は森や湖や川に落ちた』。『家の中に落ちたのが』、『ドモヴォーイで、その家の人々と親しくなった。人家の周囲に落ちたのが』、『ドヴォロヴォイ、バーンニク、オヴィンニク、フレヴニクで、人間を警戒している。そして自然界に落ちたのが』、『ポレヴィーク、レーシー、ヴォジャノーイ、ルサールカで、人間に危害を加えるという』。『ドモヴォーイはウクライナではドモヴィークと呼ばれる。イングランドにはドモヴォーイとよく似た性質の精霊ブラウニーがいる』とある。私の偏愛するツルゲーネフの「獵人日記」中の優れた一篇「ビェージンの草原」(中山省三郎譯・サイト版)を読まれたい。「家魔(ドモヲイ)」や「水妖(ルサルカ)」が登場する少年たちによって語られる。]
又、予の幼時、和歌山に橋本てふ士族あり。其家の屋根に、白くされた馬の髑髏《どくろ》が有つた。昔し、祖先が敵に殺されたと聞き、其妻、長刀を持つて駈付《かけつけ》けたが、敵、見えず、せめてもの腹癒せに、敵の馬を刎ね、其首を持ち歸つて置いた、と聞いた。然し、柳田君の山島民譚集《さんとうみんたんしふ》一に、馬の髑髏を柱に懸けて、鎭宅除災の爲めにし、又、家の入口に立てゝ魔除《まよけ》とする等の例を擧げたのを見ると、橋本氏のも、丁抹《デンマーク》で馬を生埋《いきうめ》する如く、家のヌシとして、其靈が家を衞《まも》りくれるとの信念よりした、と考へらる。柳田君が遠州相良邊の崖の橫穴に石塔と共に安置した馬の髑髏などは、馬の生埋めの遺風で、其崖を崩れざらしむる爲に置いた物と惟《おも》ふ。
[やぶちゃん注:「山島民譚集」初版は大正三(一九一四)年七月に甲寅(こういん)叢書刊行会から「甲寅叢書」第三冊として甲寅叢書刊行所から発行された、柳田國男の日本の民譚(民話)資料集で、特に河童が馬を水中に引き込む話柄である河童駒引(かっぱこまびき)伝承と、馬の蹄(ひづめ)の跡があるとされる岩石に纏わる馬蹄石(ばていせき)伝承の二つを大きな柱としたものである。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で全電子化注を終えている。その『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(45) 「磨墨ト馬蹄硯」(2)』に図入りで、馬の頭蓋骨の家の梁に掛けられたものが記されてある。
「柳田君が遠州相良邊の崖の橫穴に石塔と共に安置した馬の髑髏」同前のリンク先の文中に、『前年自分ハ遠州ノ相良ヨリ堀之内ノ停車場ニ向フ道ニテ、小笠郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅カナル橫穴ヲ掘リ、【馬頭神】馬ノ髑髏ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。』と出るのを指す。]
予は餘り知らぬ事だが、本邦でも、上述の英國のパウリーや露國のドモヴヲイに似た、奧州のザシキワラシ、三河・遠江のザシキ小僧、四國の赤シャグマ等の怪がある。家の仕事を助け、人を威《おど》し、吉凶を豫示《よじ》し、時々、惡戲をなすなど、歐州の所傳に異ならぬ。是等、悉く人柱に立てた者の靈にも非るべきが、中には、昔し、新築の家を堅めんと牲殺《にへころ》された者の靈も、多少、あることゝ思ふ。飛驒、紀伊其他に老人を棄殺《すてころ》した故蹟が有つたり、京都近くに、近年迄、夥しく赤子を壓殺《おしころ》した墓地が有つたり、日本紀に、歷然と、大化新政の詔を載せた内に、其頃迄も人が死んだ時、自ら縊死して殉じ、又、他人を絞殺し、又、强《しひ》て死人の馬を殉殺し、とあれば、垂仁帝が殉死を禁じた令も洵《あま》ねく行はれなんだのだ。扨、令義解《りやうぎのげ》には、信濃國では、妻が、死んだ夫に殉ずる風が行はれたといふ。久米邦武博士(日本古代史八五五頁)も云はれた通り、其頃地方の殊俗《しゆぞく》は國史に記すこと、稀なれば、尋ぬるに由なきも、奴婢賤民の多い地方には、人權乏しい男女、小兒を、家の土臺に埋めたことは、必ず有るべく、其靈を、其家のヌシとしたのが、ザシキワラシ等として殘つたと惟《おも》はる。ザシキワラシ等のことは、大正十三年六月の人類學雜誌佐々木喜善氏の話、又、柳田氏の遠野物語等にみゆ。
[やぶちゃん注:「三河・遠江のザシキ小僧」「ザシキワラシ」に属する妖怪。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「座敷小僧 ザシキコゾウ」を参照されたい(記載は少ない)。同一対象の別名を「座敷坊主」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、「座敷小僧」の異名で、『静岡県周智郡奥山村字門谷(現・静岡県浜松市)などに現れたと言われる』。『村の中のある家の主人がイノシシを落とし穴で捕らえた後、その穴に金を持った人が落ちて死んだ、または盲目の金持ちをその穴に落として殺害したという話や』、『その家に泊まった坊主を殺害した、暗い中に連れ出して殺したなどの話があり』、『その死んだものの霊が現れるのだといい、その家に泊まった人の床の向きを逆にしたり、枕返しをすると言われる』。『その姿は』五、六『歳ほどの子供のようとも』、『坊主姿の按摩のようともいう』。『大津峠には、その殺された者を供養するためといわれる立て石があるが、その家には今なお祟りによって気のふれる者があるという』。『ほかの村でも坊主頭の按摩のようともいう』。『また』、『三河国北設楽郡本郷村(現・愛知県北設楽郡東栄町)では座敷小僧の名で伝わっており、ある酒屋を営む旧家に』十『歳ほどの子供のような姿で現れたといい、雇用人が奥座敷の雨戸を閉めに行ったときによく姿を見たという』。『南設楽郡長篠村大字横川(現・新城市)では、神田という裕福な家に座敷小僧が現れていたが、茶釜にツモノケ(機織りの器具)を当てるという禁忌を犯したために座敷小僧が家を去り、家はそれ以来衰退してしまったという』。『岩手県では旧家に座敷小僧が現れるといい、小児の姿をした家の神とされる』。『下閉伊郡岩泉町のある家では、奥座敷の真中の柱を踏むと枕元に現れたといい』四、五『歳ほどの赤黒い裸の坊主で、身長は』二『尺ほど、赤い綺麗な顔をしていたという』。『岩手県紫波郡のある旧家でも赤い顔の座敷小僧がおり、夜に炉に現れて火を起こしたりしたという。またこの地方では、座敷童子の正体をムジナとする説もある』。『宮城県本吉郡大島村(現・気仙沼市)でも』、『座敷坊主が家に現れて枕返しをした事例がある』。『民俗学者・佐々木喜善の著書においては座敷坊主は座敷童子の一種として分類されており』、『六部(旅の僧)を殺して金銭を奪った者が祟りに遭うなどの「六部殺し」の話が座敷童子の性格に付加され、座敷坊主の姿となったとする説もある』(私も佐々木の説を強く支持する)とある。
「四國の赤シャグマ」当該ウィキによれば、『四国に伝わる妖怪。人家に住み』つく、『赤い髪の子供のような妖怪で、座敷童子の仲間とする説もあり』、『座敷童子と同様、これが住み』つ『いた家は栄え、いなくなると』、『家が没落するともいう』。『詳細な特徴や行動は、地方によって異なる』とし、以下、「地域別の伝承」。『愛媛県(伊予国)での例』として、『新居郡神戸村(現・西条市)などの町村の人家に住み』つ『いていたとされる。夜に住人が寝静まった後で』、『座敷で騒ぎ始め、台所にある食べ物を食べてしまう』。『広見町(現・鬼北町)や宇和島市の伝承では』、『小坊主(こぼうず)とも呼ばれており、山仕事に出かけた男が家に帰ってくると、薄暗い家の中、囲炉裏で数人の赤シャグマが暖をとっており、男の帰宅に気づいた赤シャグマたちは床下へと姿を消したという』。この妖怪は、近代まで生き続け、明治三十二、三年頃(一八九九年~一九〇〇年)、『市ノ川鉱山にいた工学士の技師長が、新居郡の神戸』(かんべ)『村(現在の愛媛県西条市のこの附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の丘に家を建てようとしたところ、そこの土地から多数の人骨や土器が発見された。周囲の人々が「あそこは墓地の跡だ」と噂する中、技師長は平気で工事を進め、やがて家が完成した。その完成後も「あの家には赤シャグマが出る」と噂が続いていた』とある。次いで、『徳島県(阿波国)での例』として、『夜になると』、『仏壇の下から現れ、眠っている住人の足をくすぐるなどの悪戯を働く』。嘗つて『「化け物が出ると」と噂される古い一軒家があり、誰も住もうとしない中、ある老婆がその家を買って自宅とした。しかし夜になると』、『噂通り』、『赤シャグマが現れ、老婆をくすぐって悪戯した。老婆は結局、その家を立ち退いたという』。次に『香川県(讃岐国)での例』。『徳島の例と同様に香川でも、赤シャグマは夜中に人の足をくすぐるといわれる』、『また』、『香川の赤シャグマ独自の特徴としては、家の中のみならず』、『野外でも赤シャグマが現れるとする説があり、山中で大声を張り上げながら空を飛ぶともいう』。『三好郡足代村のある家で、住人たちが夜寝た後、赤シャグマが現れて』、『彼らをくすぐり、住人たちはすっかり疲れてしまった。翌日、その家の』一『人の男が畑仕事に出たところ、そこに赤シャグマが立っていた。それを見た男は、家へ駆け込むなり』、『気絶してしまったという』。『仲多度郡満濃町では、山中の赤シャグマに関する逸話もある。とある若者が仕事に雇われたものの、雇い主は若者を遊ばせておくだけで、若者は仕事がないことを不思議に思っていた。そんなある日』、一『人の村人が亡くなった。雇い主は墓をあばき、その屍を若者に運ばせて山へ行き、屍を餌にして』、『赤シャグマをおびき寄せ、射止めたという』とある。
「豫示」前以って示すこと。
「飛驒、紀伊其他に老人を棄殺した故蹟」南方熊楠は大正七(一九一八)年八月の『土俗と傳說』(第一巻第二号・文武堂店発行)で「棄老傳說に就て」という極めて短い論考で、こことほぼ同じことを言っており(「青空文庫」のこちらで確認出来る)、そこに(一部の正字不全を恣意的に訂した)、『昨年押上中將から惠贈せられた高原(タカハラ)舊事に、「飛驒の吉野村の下に人落しと云ふ所あり。昔は六十二歲に限り此所へ棄てしと云ふ」とある』とあった。これは、調べたところ、岐阜県高山市上宝町(かみたからちょう)吉野と考えられる。
「日本紀に、歷然と、大化新政の詔を載せた内に、其頃迄も人が死んだ時、自ら縊死して殉じ、又、他人を絞殺し、又、强《しひ》て死人の馬を殉殺し、とあれば」「日本書紀」の「卷第廿五 天萬豐日天皇(孝德)」の「大化の改新」(狭義のそれは六四五年~六五〇年)の条の一節。昭和四(一九二九)年岩波文庫刊の黒板勝美編「日本書紀 訓読」下のここの頭注「殉死を禁ず」の以下を見よ。
「令義解」「養老令」の官撰注釈書。十巻三〇編であるが、その内の二編は欠けて伝わっていない。額田今足(ぬかだのいまたり)の建議で、勅命により清原夏野・菅原清公ら十二名によって編された。天長一〇(八三三)年完成し、翌年から法に準じて施行された。「令」の実際に当たっての法解釈の基準を公定文としたもの。しかし、国立国会図書館デジタルコレクションの写本を三度も調べたが、こんなことは出てこない。諦めかけたところ、フレーズ検索で三浦佑之氏の論文「殉死と埴輪」(『東北学』3・東北芸術工科大学東北文化センター・作品社刊・二〇〇〇年十月)を発見、そこに、『『令集解』巻五・職員令の弾正台条には、「信濃国の俗に、夫死すれば、即ち婦を以ちて殉と為す。若し此の類有らば、正すに礼教を以ちてす〔信濃国俗。夫死者即以婦為殉。若有此類者。正之以礼教〕」という記事があり、夫が死んだ場合に妻が殉死する(させられる)という風習のあったことがみえる。ただし、それが事実か否かを確かめることはできないが、家父長制が強固な社会であれば、王や主君に殉ずる臣下や奴婢と同じようなかたちで、女たちの殉死もありえたということは想像に難くない。』とあった。「令集解」は「りょうしゅうのげ」で、平安前期の法制書。全五十巻(現存は三十六巻のみ)。明法博士(律令学者)であった惟宗直本(これむねなおもと 生没年未詳)の著で、貞観(八五九‐八七七)頃の成立。養老令に関する私撰の注釈書で、先行の諸注釈書を集成し、さらに直本の説を加えたもの。大宝令の注釈書である「古記」を引用しているために、失われた大宝令を復元する最も有力な手がかりとなっている。さても、そこで国立国会図書館デジタルコレクションの清原秀賢ら写本(慶長二~四(一五九七~一五九九)年)で当該箇所を見たところ、あった! 「選集」でも、河出文庫の「南方熊楠コレクションⅡ 南方民俗学」でも、「令義解」だが、恐らくは熊楠の誤りで、「令義解」は「令集解」が正しいのだ! ここの左丁罫二行目の左の下方から、
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信濃国俗[やぶちゃん注:下方罫外のミセケチで修正。]、夫死者、即以婦為殉。若有此類者、正之以礼教。
(信濃の国の俗に、夫(をつと)、死すれば、即ち、婦(つま)以つて殉(じゆん)と為(な)す。若(も)し、此の類(たぐひ)有らば、正(ただ)すに、礼教(れいきやう)を以つてす。)
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とあるのだ!
「久米邦武博士(日本古代史八五五頁)」元佐賀藩士で近代日本の歴史学における先駆者である久米邦武(天保一〇(一八三九)年~昭和六(一九三一)年:明治政府に出仕して、明治四(一八七一)年の特命全権大使岩倉使節団の一員として欧米を視察、一年九ヶ月後に帰国して太政官吏員となり、独力で視察報告書を執筆。明治一一(一八七八)年、四十歳の時、全百巻から成る「特命全権大使 米欧回覧実記」を編集、太政官の修史館に所属して「大日本編年史」などの国史の編纂に尽力した。明治二一(一八八八)年、帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員に就任したが、明治二十五年に雑誌『史海』に転載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」の内容が問題となり、両職を辞任した。三年後、大隈重信の招きで、東京専門学校(現在の早稲田大学)で教壇に立ち、大正一一(一九二二)年の退職まで、歴史学者として日本古代史や古文書学を講じた)が明治三八(一九〇五)年に早稲田大学出版部から刊行した「日本古代史」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該部が読める。左ページの終りから三行目の「以上は」から、次のページの段落の終りまで。
「殊俗」特殊な限定的風俗習慣。
「奴婢賤民の多い地方には、人權乏しい男女、小兒を、家の土臺に埋めたことは、必ず有るべく、其靈を、其家のヌシとした」熊楠先生!! 「奴婢賤民の多い地方には、人權乏しい男女」などと言うのは早計ですぞ! 縄文人は夭折した子どもは竪穴住居の入り口や台所に相当する場所の地下に土器に入れて葬っている。これは、寧ろ、再生と守護の意味を持っているのであって、その濫觴は「賤」しい「男女」の非「人權」的・反「人」道的行為などではありませんぞ!!!
「大正十三年六月の人類學雜誌佐々木喜善氏の話」「ザシキワラシの話」。同雑誌の三十九巻(一九二四年五月・六月号)の論考。「J-Stage」のこちらから原論考がダウン・ロード出来る。これは何時か電子化する。
「柳田氏の遠野物語等にみゆ」私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一七~二三 座敷童・幽霊」を参照されたい。]
數年前の大阪每日紙で、曾て御前で國書を進講した京都の猪熊先生の宅には、由來の知れぬ婦人が、時々、現はれ、新來の下女などは、之を家内の一人と心得ることあり、と讀んだ。沈香《ぢんかう》も屁《へ》も、たきも、ひりもしないで、たゞ現はれるだけらしいが、是も、其家のヌシの傳を失した者だらう。それから甲子夜話二二に、大坂城内に明《あか》ずの間あり、落城の時、婦女自害せしより、一度も開かず、之に入り、若《もし》くは、其前の廊下に臥す者、怪異に逢ふ、と。叡山行林院に、兒《ちご》がや、とて開《あ》かざる室《へや》あり、之を開く者、死す、と(柳原紀光《もとみつ》、閑窓自語)。昔し、稚兒が寃死《ゑんし》した室らしい。歐州や西亞にも、佛語で、所謂、ウーブリエットが、中世の城や大家に多く、地底の密室に人を押籠《おしこ》め、又、陷《おとしい》れて、自《おのづか》ら死せしめた。現に、其家に棲んで全く氣付かぬ程、巧みに設けたのもあると云ふ(バートン千一夜譚二二七夜譚注)。人柱と一寸似たこと故、書き添へ置く。
[やぶちゃん注:「猪熊先生」(いのくまなつき 天保六(一八三五)年~大正元(一九一二)年)は国学者で京都白峰宮(現在の白峰神宮)神官・白鳥神社祠官・京都第一高等女学校教諭。明治三九(一九〇六)年に宮中進講を務めた。
「甲子夜話二二に、大坂城内に明《あか》ずの間あり、落城の時、婦女自害せしより、一度も開かず、之に入り、若《もし》くは、其前の廊下に臥す者、怪異に逢ふ、と」事前に「フライング単発 甲子夜話卷之二十二 28 大阪御城明ずの間の事」として電子化注しておいた。
「叡山行林院」現在の延暦寺には、この名を確認出来ない。次の「閑窓自語」を見たら、「竹林院」とあった。「選集」も「行林院」。ちゃんと確認しろよ! 嘗ては比叡山の僧侶の隠居所としての里坊(さとぼう)の一つであった。現在も「元里坊旧竹林院」(庭園・茶室)として大津市坂本のここに残る。公式サイトはここ。
「柳原紀光、閑窓自語」柳原紀光(延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇一)年)は公家。安永四(一七七五)年に権大納言となったが、三年後、事のあって免官、さらに寛政八(一七九六)年には、しばしば身分不相応の行いがあったとして、永蟄居となって、そのまま没した。この間、その才識を傾注して、大著「続史愚抄」(亀山天皇より後桃園天皇に至る編年史)を編輯した)の随筆。吉川弘文館随筆大成版を元に漢字を恣意的に正字化して以下に示す。上巻「七六」の「延曆寺竹林院有兒靈語」(延曆寺竹林院に兒(ちご)の靈(れい)有る語(こと):推定訓読)である。読点を増やし、一部の句点を読点にし、濁点を添えた。一部に推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。
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七六延曆寺竹林院有兒靈語
山門に竹林院といへる坊あり。その内に兒かやといひて、ひらかざる間(ま)あり。寶曆七年[やぶちゃん注:一七五七年。]、法花會(ほつけゑ)の行事に、權右中辨(ごんのちゆうべん)敬明、まかりて、かの坊にやどりけるに、家人をして、ひそかに、かの間をひらき、こゝろみしむ。うちは、いとくらくて、なにもなかりけるが、冷氣、身ををそふ[やぶちゃん注:ママ。]とおぼえて、たちまち、かのもの、わづらひづき、家にかへると、そのまゝに、うせぬ。又、辨も、それより、心地、たゞならず、なやみて、その次のとし、三月ばかりに身まかりぬ。それよりして、行事辨(ぎやうじのべん)、登山するに、此坊に宿することを用ひず、となん。
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「寃死」濡れ衣を着せられて死ぬこと。不当な仕打ちを受けて死ぬこと。
「ウーブリエット」Oubliette。ウーブリエット。中世の城や要塞に設置された長期に亙って幽閉させるための地下牢。フランス語ウィキの“Oubliette”が非常によい。英語は“Dungeon”(ダンジョ(ェ)ン)。]
又、人柱でなく、刑罰として罪人を壁に築き込むのがある。一六七六年巴里板、タヴエルニエーの波斯《ペルシア》紀行一卷六一六頁に、盜人の體を四つの小壁で詰め、頭だけ出して、お慈悲に、煙草をやり、死ぬ迄、すて置く。その切願のまゝ、通行人が首を刎《は》ねやるを、禁ず、又、罪人を裸で立たせ、四つの壁で圍ひ、頭から漆喰《しつく》ひを流しかけ、堅まる儘に、息も、泣くこともできずに、惱死《なうし》せしむ、と。佛國のマルセルス尊者は、腰迄、埋めて、三日、晒されて、殉敎したと聞くが、頭から塗り籠《こめ》られたと聞かぬと、一六二二年に、斯る刑死の壁を見て、ピエトロ・デラ・ヴァレが書いた。
[やぶちゃん注:「タヴエルニエーの汝斯紀行」フランスの宝石商人にして旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)は、一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。これは彼の“Les six voyages de Jean-Baptiste Tavernier”の中のペルシャ部分か。「Internet archive」に英訳の「Travels through Turkey to Persia」というのがある。
「佛國のマルセルス尊者」英文サイトのこちらの“St. Marcellus, Bishop of Paris, Confessor”か。五世紀初頭に殉教。
「ピエトロ・デラ・ヴァレ」(Pietro Della Valle 一五八六年~一六五二年)ルネッサンス期にアジアを旅したイタリアの作曲家・音楽学者・作家。]
嬉遊笑覽卷一上に、「東雅に、南都に往《ゆき》て、僧寺の、ムロと云ふ物をみしかど、上世に室と云《いひ》し物の制とも、みえず。もと、これ、僧寺の制なるが故なるべしと云ふは非也。そは、宮室に成《なり》ての、製なり。上世の遺跡は、今も古き窖《あなぐら》の殘りたるが、九州などには有り、と云へり。彼《かの》土蜘蛛《つちぐも》と云し者などの、住みたる處もあるべしとかや。近くは、鎌倉に、殊に多く、是亦、上世の遺風なるべし。農民の、物を入れおく處に掘《ほり》たるも多く、又、墓穴もあり、土俗、是をヤグラと云ふ。日本紀に兵庫《へいこ》をヤグラと讀《よめ》るは、箭《や》を納《いる》る處なれば也。是は、其義には非ず、谷倉の義なるべし。因《より》て、塚穴をも、なべて、いふ。實朝公の墓穴には、岩に彫物《ほりもの》ある故に、繪かきやぐらといふ。又、囚人を籠《こめ》るにも用ひし迚《とて》、大塔の宮を始め、景淸、唐糸等が古跡あり(下略)。」。
[やぶちゃん注:『嬉遊笑覽卷一上に、「東雅に、南都に往《ゆき》て、……』岩波文庫版で所持するが、今までの検証から、熊楠の所持するものに近い正字正仮名の国立国会図書館デジタルコレクションの昭和七(一九三二)年成光館出版部刊で当該部(まさに同類書(百科事典)の巻頭である巻之一上の「居處」パートの「○室(むろ)〔やぐら〕」である)を以下に電子化する。書名は丸括弧だが、鍵括弧に代えた。濁点・句読点・記号を追加し、読みの一部を推定で( )を以つて歴史的仮名遣で添えた。《 》(カタカナ)はここでは原本のルビとした。【 】は編者の頭書。上代部分の読みはこんなところで時間を食いたくないので、勝手自燃流。
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【むろ】○むろは「神代紀」に窨(イン)[やぶちゃん注:「穴倉・地下室」の意。]をよめるがもとにて、地室(ぢむろ)をいふ。「古事記傳」に、『山の腹を橫に堀(ほり)て[やぶちゃん注:漢字はママ。以下同じ。]、石窟の如く構へたるをいふ。地を下へほりたるには、あらず。』といへり。宮室を造るも、其さまをうつしたれば、「室」を「むろ」とは、いひしなるべし。上つ代の家造は、柱を地中に築立(つきた)て、繩・つなをもて、結固(むすびかた)めしものなり。「書紀」、「顯宗紀」、「室壽御辭(むろじゆのおほんことば)」に『築立(つきたつ)る稚室葛根(わかむろのかづね)』、また、「大磬(だいけい)」の祭詞(まつりことば)に『此の敷坐(しきます)大宮、地底津根(ちのそこつね)乃(の)極美下津根(いやましのしもつね)云々』。古(いにしへ)に『於底津石根宮柱布刀斯理立(そこついはねに、みやばしら、ふとしり、たて)』[やぶちゃん注:これは「古事記」の「上つ巻」の大国主命のパートの一節。]など云ふは、上代、神宮も、人の舍も、伊勢神宮などの製の如く、地を堀て、柱を立(たつ)る故に、この稱あり。【堀立(ほつたて)】今世にも賤が戶には、是あり。堀立と云ふ。石すゑして、柱を立るは、の意のことなり。右の下津石根など云(いふ)は、只、深くほり立るを云なり。「鹽尻(しほじり)」に、『やんごとなき御所に「内室作(うちむろつく)り」といふあり。「いかなる製にや。」といふ人あり。予、云(いふ)、「これを、匠家(たくみ)に聞(きき)侍る。内室とは、天井なく、屋裏《ヤウラ》のまゝに造る事とぞ。紫宸殿・淸凉殿なども、『うちむろ作り』なりとかや。凡(およそ)諸寺の金堂なんども、『内室作』の法といへり。我(わが)熱田の神宮寺も、これ也。「日本紀」廿四、『舘堂』を『むろつみ』と訓ぜし。『室』字のみ、むろ」とよむには、かぎらず。」と云(いへ)り。「事跡合考」に、『坪(つぼ)曲尺《カネ》[やぶちゃん注:宮大工のことか。]の達人、正德[やぶちゃん注:一七一一年~一七一六年。]の比、予に語りて云(いはく)、「龜戶の聖廟の御本殿は、垂木(たるき)のかけやう、『一室作(ひとむろつく)り』といふ造りやう也。當世、あのすみかね作法、知りたる大工は、江戶中に一人もなし云々。誠に、めでたく出來たる宮殿なりしが、延享三年丙寅(ひのえとら)[やぶちゃん注:一七四六年。]二月、隣家よりの類火に燼滅(じんめつ)したるこそ、千歲(せんざい)の恨(うらみ)なるかな。」と、いへる。をしむべき事は、火にかゝる物、これのみならず、いづれか、をしからぬもの、有べき。此殿、絕ては、その製作も世になくなりぬるやうにおもへるは、これを記しゝ人はさら也、坪かねの達人も、わきまヘなきことゝ見ゆ。且ツ、「一室」といふことば、なし。是、内室を訛(なま)りたるにこそ。【虛室(うつむろ)】猶、おもふに、「内室」は「虛室《ウツムロ》」の義にて、「うつむろ」と訓(よむ)べし。「和訓栞(わくんのしほり)」に、『舘をよめるは、室積(むろづみ)の義、「周禮(しうらい)」に、『侯舘有積』と見えたり。「周防(すはふ)のむろづみ」も是なるべし。」といへり。「東雅」に、『南都にゆきて、僧寺の室といふものを見しかど、上世に室といひしものゝ制とも見えず、もと是(これ)、僧寺の製なるが故なるべし。」と、いへるは、非なり。そは、宮室になりての制なり。上世の遺跡は、今も古き窨ののこりたるが、九州などにはあり。』といへり。彼(かの)「土蜘蛛(つちぐも)」といひしものなどの住(すみ)たる處も有べしとかや。【やぐら】近くは、鎌倉に、殊に多し。是又、上世の遺風なるべし。農民の物を入置處に堀たるも多く、又、墓穴もあり。土俗、是れを「やぐら」といふ。「日本紀」に、「兵庫」を「やぐら」とよめるは、箭を入るゝ處なればなり。これは、その義には、あらず、「谷倉」の義也。よりて、塚穴をも、なべて、云ふ。實朝公の墓穴には、岩に彫物ある故に、「繪かきやぐら」と云ふ。又、「囚人を籠(こめ)るにも用ひし。」とて、大塔の宮をはじめ、景淸・唐糸等が古蹟あり(「散木集」)。連歌、堀河院御時[やぶちゃん注:堀河天皇の在位は応徳三(一〇八七)年~嘉承二(一一〇七)年)。]、出納(すいたふ)が腹立て、「へやのしう」とも云ものを、御倉のしたにこむるを聞(きき)て、源中納言國信、「へやのしうみぐらのしたにこもるなり云々、付よとせめ有ければをさめどのにはところなしとて」。又、「古事談」に、伶人助元を、左近府の下倉に召籠られしたぐひにや。されど、こは、窨藏(いんざう)にはあらざるべし[やぶちゃん注:ここに漢文白文の例示引用が割注で入るが、必要性がないという私の判断で略す。因みに岩波文庫版には、ない。]。又、「建保職人盡」、塗師の歌に、「土むろしてもほされざりけり」と有[やぶちゃん注:以上のの「と有」は岩波版で補った。]。今も、漆ぬるに、穴藏を用るとなじ。但し、麹(かうぢ)作るなどには、「むろ」といヘど、塗師などは「風呂」とのみ云ふ。箱の内に、水をそゝぎたるが、風呂の湯氣のやうなるより、「むろ」といふこと、いつしか、轉(なま)りて「風呂」といふにや[やぶちゃん注:ここにかなり長い割注が入るが、同前(岩波版なしも同じ)で略す。]。
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さて、ここで喜多村信節(のぶよ)の「嬉遊笑覽」を、熊楠が無批判に引いて、そのまんま言いっ放しである点に於いて、鎌倉の郷土史研究をしている私は、複数箇所、指弾したいことがあるのである。まず、
「上世の遺風なるべし」というのは誤り
である。鎌倉の「やぐら」は戦前には、「上世の遺風」に当たる横穴古墳を模したものとする歴史家の説があったが、これは、現在では完全に否定されている。平地の少ない鎌倉に於いて、幕府創設以来、多くの墳墓が僅かな平地にやたらに作られ、都市機能を脅かす事態となり、かの「御成敗式目」の追加条目で――鎌倉御府内に墳墓や霊堂を建立することは禁じられている――のである。但し、この「御府内」というのは、平地に限るものであったと考えられ、仕方なく、御家人らは、柔らかく加工し易い砂岩の周縁の「鎌倉石」からなる山の斜面に、本来は建立すべき法華堂を模して、「やぐら」を建てたのである。その証拠に、「やぐら」の左右には、堂扉と同じく、木製の開閉式の扉を設置した後が見られるものが多く現存し、さらに「やぐら」の上面の前部に、朱で垂木(たるき)を模して描いた「朱垂木やぐら」と通称されるものや、「やぐら」内上部に天蓋を模した円形の彫り込みがあるものをも認める。龕があるものも有意に多い。構造が一見、横穴式古墳に似たところがあっても、それは偶然であって、「上世の遺風」なんどでは、なく、法規制に迫られて作り出した、鎌倉時代の新墳墓形式(多くは供養塔)なである。その証拠に、旧鎌倉御府内以外では、鎌倉時代に鎌倉の寺院が持っていた関東附近の寺領以外には、この「やぐら」はどこにも存在しないのである。なお、各種の「やぐら」については、私のサイト版の、幕末の文政十二(一八二九)年に植田孟縉(うえだもうしん)によって編せられた鎌倉地誌「鎌倉攬勝考卷之九」の「岩窟」の項を見られたい。貴重な当時の図も添えてある。なお、現在、御府内で現認可能な「やぐら」は凡そ千数百、埋蔵しているものも加えると、有に三千基を越えるものと思われる。
「塚穴」これも厳密に言えば、正確ではない。鎌倉の「やぐら」内から埋葬の副葬品や火葬骨が発見されたものもあるから、それは確かに墳墓であるが、供養塔が有意に多いと私は考えている。供養塔は卒塔婆などが一般化する前には、堂を別に作るのが普通であった。されば、真正の墳墓である「やぐら」の脇に同様の供養塔を安置する「やぐら」を増殖させるのは、頗る腑に落ちるのである。例えば、「百八やぐら」と呼ばれる鶴岡八幡宮の東北の、覚園寺の裏山、天園の西のそこは、アパートのように多層階に「やぐら」がみっちりと形成されているのである。さらに言えば、まさに以下の「実朝の墓」と呼ばれているものが、供養塔以外の何物でもないのである。
「實朝公の墓穴には、岩に彫物ある故に、繪かきやぐらといふ」「鎌倉攬勝考卷之四」の「壽福寺」の項の「右大臣實朝公庿塔」の挿絵が載るので見られたいが、並んだ北条政子の墓とともに、南北朝期の寿福寺復興期に造立された供養塔であって、分骨は、されていないと考えるのが正しい。実朝の首なしの亡骸は大御堂にあった勝長寿院(廃寺)に葬られたが(後の政子の遺骨も同じ)、今は人家が立て込んで、昔を偲ぶよすがもないのである。
「囚人を籠るにも用ひし迚、大塔の宮を始め、景淸、唐糸等が古跡あり」まず、「大塔の宮」だが、今、大塔の宮護良親王を祀る鎌倉宮には、まことしやかに岩窟の牢が「復元」と称して置かれてあるが、より古い記録を見るに、当時の親王は、「やぐら」のような岩牢・土牢(どろう)なんどではなく、ちゃんとした家屋に軟禁されていたというのが、事実と信じられる。平家に仕えた残党で悪七兵衛の名で知られる、頼朝暗殺を企んで捕縛された藤原「景淸」の牢や、同じく頼朝を暗殺しようとして失敗した木曽義仲の家来手塚光盛の娘で、父の仇を討たんとした「唐糸」の「やぐら」も、確かに現存はする。言い出すと、エンドレスになるので、サイト版「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀 附やぶちゃん注」の「葛原岡〔附唐絲ガ籠〕」の私の注を読まれたいが(ブログ単独版はこちら。護良親王の土牢のデッチアゲもそこで説明してある)、これらも、実際には、後世に創作された伝説や物語によって、リアリズムを出すために、勝手に後付けされたエセ「土牢やぐら」であって、何ら関係のない誰かの「やぐら」に過ぎないのである。]
紀州東牟婁郡に、矢倉明神の社、多し。方言に、山の嶮峻《けんしゆん》なるを倉といふ。諸莊《しよしやう》に嶮峻の巖山《いはやま》に祭れる神を、矢倉明神と稱すること、多し。大抵は、皆な、巖《いはほ》の靈を祭れるにて、別に社《やしろ》がない。矢倉のヤは伊波《いは》の約にて、巖倉《いはくら》の義ならんとは、紀伊續風土記八一の說だ。唐糸草紙に、唐糸の前、賴朝を刺《ささ》んとして、捕はれ、石牢に入れられたとあれば、谷倉よりは岩倉の方が正義かも知れぬ。孰れにしても、此ヤグラは、櫓と同訓ながら、別物だ。景淸や唐糸がヤグラに囚われた、とあるより、早計にも、二物を混じて、二重櫓の下に囚はれ居《をつ》た罪人の骸骨が、今度、出たなど、斷定する人もあらうかと、豫《あらかじ》め辯じ置く。
附 記 本文は、大正十四年六月三十日と七月一日の大阪每日新聞に掲載のまゝで、其の引用書目と揷註《さうちゆう》は、七月十一、十二日書き加へたものに、本年八月、又、增補した者である。
[やぶちゃん注:「紀伊續風土記」紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年に完成した。原本の当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここ(左ページ下段末)で確認出来る。]
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