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2022/09/07

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 德川家と外國醫者

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、本篇は昔、「選集」版で電子化したものが、「人柱の話」(次で電子化注する)の注で「徳川家と外国医者」として電子化しているが、今回は正規表現版として零から電子化し、注も附した。]

 

     德川家と外國醫者 (大正十四年六月變態心理第十五卷第六號)

 

 『變態心理』五月號五〇四頁に、三田村鳶魚《みたむらえんぎよ》先生は、家綱將軍の病中、支那醫を殿中に招くの議が遂行されなんだ事を記して、「其當時は、未だ異國人といふ者を氣嫌ひする樣な傾きがあつて、技倆は認めても、宮樣とか將軍とか、偉い人は決して診せなかつた云々。」とある。これを讀んだ人々は、延寶以前には貴人や諸侯は決して外國醫者にかゝらなんだと思はぬとも限らないから、述べて置きたいのであるが、武德編年集成に、家康が天正七年八月、其妻、築山殿を誅した原因は、此夫人は、甲斐から來た支那人減慶《げんきやう》といふ醫師を、治療の爲め、招きて、淫行を恣《ほしいまま》にし、又、彼を通じて武田氏に内應した、と記してゐる。それから、元和《げんな》二年五月二十二日、リチャード・ヰリアムが、リチャード・コックスヘ京都から贈つた狀には、家康最後の患ひを、主治醫が、癒す能はず、老體の病ひ故、壯者程に速く直らぬと云ふたのを怒り、縛つて寸斷せしめた。由つて、島津殿、其侍醫たる支那人を薦め、效驗著《いちじる》しと聞く、と記してゐる。

[やぶちゃん注:「三田村鳶魚」明治三(一八七〇)~昭和二七(一九五二)年)江戸の風俗・文学・演劇の考証家として知られる。本名は玄龍(げんりょう)。武州八王子生まれ。新聞記者・僧侶などを経て、自由民権運動に入り、明治末年から、広範な江戸文化研究に専心し、「未刊随筆百種」二十三冊の編纂の他、四十余種の著作を刊行している。私は不学にして殆んど読んだことがない。

「家綱將軍」徳川家光の長男で江戸幕府第四代征夷大将軍(在職:慶安四(一六五一)年~延宝八(一六八〇)年(没年:享年四十))。当該ウィキによれば、彼は生まれつき体が弱く病弱で、延宝八(一六八〇)年五月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥り、直後の五月八日に死去した。『死因は未詳だが、急性の病気(心臓発作など)と言われている』とある。

「武德編年集成」江戸中期に編纂された徳川家康の伝記。当該ウィキ他によれば、成立は元文五(一七四〇)年で、著者は幕臣で歴史考証学者であった木村高敦(延宝八(一六八〇)年~寛保二(一七四二)年)。『偽書の説、諸家の由緒、軍功の誤りなどの訂正が行われており』、寛保元(一七四一)年に『徳川吉宗に献上される』とある。「家康が天正七年」(ユリウス暦一五七九年)「八月、其妻、築山殿を誅した」という当日の記事は、「国文学研究資料館」の「電子資料館」の写本の同年八月「廿九日」の条にあるが(家康の家臣から自害を求められたが、拒否したため、斬首された)、熊楠が言うところの、その理由を記すのは、その前の七月「四日」の条の一節の五~七行目。但し、「唐人」の医師とするが、名は記されていない。築山殿(瀬名姫)の事績は当該ウィキを見られたい。

「減慶」この唐人の医師の名は、当該ウィキによれば、減敬げんきょう 生没年不詳)は、『戦国時代後期の医師とされる人物。滅敬(めっけい)とする記述もある』とあり、孰れにしても熊楠の「慶」は誤りである。「三河物語」に『よると、徳川家康の嫡男信康の正妻徳姫が実父織田信長に十二箇条の文を送っているが』、「三河後風土記」に『よれば、その中に築山殿(家康の正妻、信康の母)が甲州浪人医師減敬』(☜)『と密会し、これを使者として武田勝頼のもとへ送って、信康が甲州方に味方するとした旨の条がある。その他の条も合わせ、この十二箇条の内容により、信長は家康に築山殿と信康の殺害を命じたとされる。だが』、「三河後風土記」には『偽書説があり、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は信長の命ではなく』、『家康と信康の対立が原因とする説も出されている』とあって、解説中には、一切、「唐人」という記載はない

「元和二年」一六一二年。徳川秀忠の治世。

「リチャード・ヰリアム」不詳。或いは、関係があった、徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士三浦按針=ウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~ 元和六(一六二〇)年)の誤りか?

「リチャード・コックス」(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)はステュアート朝イングランドの貿易商人。スタフォードシャー州生まれ。江戸初期に日本の平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めた。在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks:元和元(一六一五)年から元和八(一六二二)年)はイギリスの東アジア貿易の実態や、日本国内の様々な史実を伝える一級の史料とされる。]

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