西原未達「新御伽婢子」 樹神罸 /「新御伽婢子」巻二~了
[やぶちゃん注: 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。
本篇に挿絵はない。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。
必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]
樹神罸(じゆじんのばつ)
上京五辻(《かみぎやう》いつつじ)といふ所有り。其わたり、なべて、絹を織(おり)て業(わざ)とする所にて、つゞきたる軒(のき)、いらかをならべ、誠に賑(にぎ)めけるさまにぞ在《あり》ける。
[やぶちゃん注:「上京五辻」現在の京都府京都市上京区五辻町(いうつじちょう):グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在も西陣織関連の店舗を見る。]
或絹やの背戶(せど)に、大きなる榎(え)の木あり。此古木に、
「主(ぬし)あり。」
とて、皆人(みな《ひと》)、恐怖(きやうふ/おそれおゝき)し、尊(たつと)びて、枝ひとつをも疎(おろそか)に折《をる》事なし。故に、枝葉(し《えふ》/ゑだは)欣々(きんきん)として、自(おのづから)茂り、黃昏(くわうこん/ひぐれ)に至るより、鳶・烏の、多《おほく》翅(つばさ)を休め、ねぐら求《もとむ》る便(たより)とぞなりける。
然るに、家(や)の主《あるじ》、此木の茂り、陰、くらく、手もとの明(あか)からぬを、
「うるさし。」
とて、枝をとり、葉を隙(すか)しけるに、流石(さすが)、樹神も、家業(か《げふ》)の切(せつ)なるを、𪫧舊(あはれみ)給ひけるにや、させる快異(けい)もなく、祟(たゝり)もなし。
家の主、是に侮(あなどり)、嘲哢(てうろう/あざけり)し、
「世の人のまよひより、神の、佛のと、用ひ、尊敬(あがむる)こそ可笑《をかし》けれ。年比《としごろ》、おそれおのゝきて、葉のひとつをも、とる事なきを、某(それがし)、枝葉(し《えふ》)を伐(きり)とるに、何のふしぎもあるにこそ。所詮、根もとを伐(きり)たふし、薪(たきゞ)にくだかんに、明(あか)りは、よく、さして、しかも、わり木は出來(いでき)ぬ。能(よき)事、二たつ、何か如ㇾ之(これにしかん)。」
と、頓而(やがて)、
「日傭(ひよう)といふ者を招(まねひ)て、きらせん。」
と、するに、人、をそれて、うけがふもの、なし。
「おかしの人の心や。將(いで)、某(それがし)切《きつ》て捨ん。」
と、斧を取《とり》て、二つ、三つ、つゞげ打《うち》に切付《きりつけ》しが、忽(たちまち)、眼(まなこ)くらみ、心神(こゝち)あしかりければ、
「明日こそ、切《きる》べけれ。」
とて、休(やすみ)けり。
其夜(そのよ)、寐(ね)ころび、茶など吞(のみ)て居(ゐ)たる所へ、いづくよりともしらず、若き女の、賤(いや)しからぬが、足に疵《きず》をみせて、亭主が傍(そば)により、うらめしげに、㒵(かほ)をまもり、物いひ出《いで》ん口つきにて、淚にむせび、さめざめと泣(なく)。
元來(もとより)、ふてきの男なれば、わきかへる茶を、ひとつ、女の㒵に、
「ざぶ」
と、かけ、起(おき)なをる[やぶちゃん注:ママ。]内に、女は、消(きえ)て失(うせ)ぬ。
是より、男、狂亂して、おめきさけび、己(おのれ)と斧を待《も》て、足手(あして)に切付《きりつけ》、鑊子《くわくし》[やぶちゃん注:鍋。]をとりて、茶を浴(よく)し、
「荒(あら)、あつや、たえがたや、」
と惱乱(なうらん)する事、二時(《ふた》とき)[やぶちゃん注:四時間。]斗《ばかり》して、狂《くる》ひ死《じ》にしけり。
彼(かの)木を、又の日、見けるに、梢の一茂り、枯凋(かれしぼみ)たり。
「實(げに)も、斧を持《も》て、木を切《きり》たれば、女の足に疵つき、女に茶を浴せければ、此木のいたゞき、枯痛(かれいたむ)事。木は、神にして、神、則(すなはち)、木なりけり。」
と、諸人《しよじん》、弥(いよいよ)、おそれをなす。
此木、茂りて、今にありとぞ。
[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]
なべて、樹神といふもの、其住(すみ)なれたる木ならで、外にやどらぬ物にや。昔、尾州味岡(あじ《をか》)といふ所にて、如法(によ《ほふ》)の衣鉢(えはつ)をかけたる僧、おこなふに、大木(《たい》ぼく)を切《きり》とらんとす。半(なかば)、切(きり)のこしたる時、ある俗に告(つげ)て云《いはく》、
「わがすむ木を、切とり給ふ故、居《を》る所なく成《なり》侍る。此僧に佗言(わびごと)して給へ。」
と。此人、答《こたへ》て、
「何とて、直(ぢき)に佗(わび)侍らぬ。」
といへば、
「我は、是、鬼神(きしん)のたぐひにて、如法の僧に、直(ぢき)に得《え》ちかづき侍らず。」
と。時に、此人、僧に、
「角(かく)。」
といへば、木の殘りを、きらざりけるとぞ。
[やぶちゃん注:「尾州味岡」現在の愛知県のこの附近の旧地区名。
「如法の衣鉢をかけたる僧」師と仰ぐ僧から正しい仏法の奥義を伝えられている禅僧を指す。
「得《え》ちかづき侍らず」この「得」は不可能の呼応の副詞「え」に当て字したもの。]