西原未達「新御伽婢子」 自業自得果
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。
注を段落末に挟んだ。]
自業自得果(じ《ごふ》じとくくわ)
「端山(はやま)の花は、散(ちり)つくして、都わたり、名殘(なごり)すくなし。こよや、嵯峨の奧に、しれる所あり。」
と、友、ふたり、みたり、袖ひくにうかれ出《いで》て西にまうず。
[やぶちゃん注:「こよや」「來よや」。「一つ、来ないか?」の意であろう。]
京ばなれより、はるけき埜路(のぢ)を見渡したる、先(まづ)、めづらし。堇(すみれ)・蓮花菜(けゞな)の、しほらしく、金鳳(きんぽう)・春菊(しゆんぎく)の、おもひなく、はびこりて、色をまじへ、秋の錦にも、おさおさ、おとらず。
爰なん、平安城(みやこ)の外面(そとも)のしるし、藪の茂り、ながくめぐりて、岸根(きしね)さびたる水の色も、君が代、久(ひさ)に、すみわたるらんと、みやるに、賤が手わざの、いぶせく、はぎ、深く水に入《いり》て、根芹(ねぜり)引《ひく》あり、畑(はた)の畔(くろ)には、よめがはぎ、たんぽゝなど、あやしの草を、㚑照(れい《しやう》)にはあらぬ、愚《おろか》の女《め》の、まばらなる籠につみ入《いれ》て、をのがじゝ[やぶちゃん注:ママ。]、さそひたるも、おかし[やぶちゃん注:ママ。]。
[やぶちゃん注:「蓮花菜(けゞな)」季節と、和名の「けげな」及び「菜」の字から、私の好きなマメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus である。永く見ていないな、れんげの群れを。
「金鳳」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属ウマノアシガタ Ranunculus japonicus の本邦の異名キンポウゲ(金鳳花)。標準和名のそれは「馬の足形」。根生葉(こんせいよう:地上茎の基部についた葉)の形を馬の蹄に見立てたものと言われる。なお、「金鳳花」は中国名では、フウロソウ目ツリフネソウ科ツリフネソウ属ホウセンカ Impatiens balsamina の異名であるので、注意が必要。
「はぎ、深く水に入《いり》て」「はぎ」は「萩」で、マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza のハギ類であるが、季節柄、花は咲いていない。そもそもハギ類は水辺には生えていない。前に「賤が手わざの、いぶせく」とあれば、如何なる理由かは判らぬ(だから「いぶせく」)が、雑草扱いして、萩の草叢を刈って、水辺に投げ入れてあったものか。そこからパンして、「根芹(ねぜり)引《ひく》あり」と写したのであろう。
「よめがはぎ」キク亜綱キク目キク科キク亜科シオン属ヨメナ Aster yomena の異名。これも前と同じく、季節柄、花は咲いていないので注意。
「㚑照」草花の精霊の霊的な示現。]
南に瓦の軒(のき)、淋しく見ゆ。あれよ、西院の煙(けふり)立《たち》さらで、つねなき風の、人をおどろかすといふも、心ぼそし。
[やぶちゃん注:「西院」既出既注。非常に古くは葬送地・遺棄地であった。]
遠く詠(ながむれ)ば、やはたの山も、霞こめて見ゆ。右に延命地藏、まします。爰を「つぼ井」といふ。小田(おだ)かへす男に、故《ゆゑ》をとへば、
「近昔(さいつごろ)、旱魃のため、道端をほりて、水を求《もとむ》るに、ひとつの瑠璃の壷、あつて、此地藏尊、其上に座(ざ)し給ふを得たり。ほり上(あげ)奉るに、其下より、凉水(りやうすい)、湧滿(わきみち)て、其時のみか、今に至りて、雨なきとしは、此井の水を、わかちて、此わたりの田面(たのも)をやしなふ。現(げん)に、人の命(いのち)をのべ給ふ、たうとき[やぶちゃん注:ママ。]本尊にて、まします。」
と語るに、皆、瑞喜す。
[やぶちゃん注:京都府南西部の八幡(やわた)市にある男山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の別名。石清水八幡宮(=男山八幡宮)が鎮座する。
「延命地藏」「つぼ井」現在の中京区西ノ京北壺井町にある壺井地蔵尊。本書刊行時、存命していた江戸初期の医者にして歴史家であった黒川道祐(どうゆう 元和九(一六二三)年~元禄四(一六九一)年)の書いた太秦広隆寺への参詣の道中を記した「太秦村行記」(うずまさむらこうき)によれば、この井戸から地蔵尊像が出たので、「壺井地蔵」と称し安置されたとされる。現在は水は涸れているが、近年まで湧いていたらしい。ブログ「京都のITベンチャーで働く女の写真日記」のこちらが、詳しく、写真も豊富である。由緒を記した説明版も画像で読める。それによれば、この壺井の水は、江戸時代には、罪人の京都市中引き回しの際の、罪人の末期の水とされたとある。以下、知られた京の寺院がいろいろ紹介されるが(作者は京案内をしたくて仕方がないらしい。展開とは無縁な確信犯である)、私は京都を数回しか歩いていない。従ってその観光ガイドをする立場にないし、しかも最後に出現するカタストロフには、それらの注は不要であるからして、以下、寺院・名跡の注は、ちょっと躓いた箇所を除き、原則、しないこととする。悪しからず。]
北に、妙心寺、打《うち》こして、衣笠山、金擱寺(きんかくじ)は、一峯(ほ)のそなたにすこし見ゆ。義滿公の御開基とかやいふ。
等持寺は、尊氏公の御菩提寺。昔、軍(いくさ)に立《たち》給ひけるに、祈願して、「若(もし)此軍に勝利を得ば、一日に三个寺(《さん》がじ)建立すべし。」と。軍に打かち給ひて、此寺を、日の内に造立せしと。故に寺號に「寺」といふ字を、三つ入《いれ》て書《かき》けるとぞ。
龍安寺は、細川勝元の興立。
眞如寺は、高師直(こうのもろなを)、造(つくる)。
皆、山のみ峙(そばだち)て、寺は麓に木隱(こがくれ)たり。
其西に、塔婆、高く見ゆる。寬平の帝のかくれすませ給ひし仁和寺御室とをしゆ。去人のいふ、
「此帝《みかど》は、山を東にあてゝ、都のみえぬかたに住(すま)せ給ひし、といふに、東に山なし。」
といふ。
「其事よ、こなたに御室《おむろ》の古御所(ふる《ご》しよ)といふ有《あり》、昔は、爰にましましき。其前を、ほそ川、ながる。『をむろ川』といふ。川ばたに一宇あり。法金剛院也。左は、太秦。往昔《そのかみ》、聖德太子、秦(はだ)の川勝(《かは》かつ)と、君臣、御心《みこころ》を合《あはせ》て、草創有《あり》けるより、太子の「太」の字と「秦」の字を取《とり》て、此所《このところ》の名とす。」
といふ。本尊、藥師にてまします。
西南に梅津、桂の里、みゆる。
今、休(やすら)ふ所をとへば、
「安井村。」
といふ。道の右に、「金目(かなめ)の地藏」あり。
其先を常盤(ときは)といふ。「乙子《おとご》の地藏」といふ。昔、西光法師、六地藏をつくりて、衆生、結緣の步(あゆみ)をはこぶ。六番目なれば、かく號(なづく)とかや。
「時なれば。」
とて、友どち、古歌を謳(うたふ)。
ときはなる松のみどりも春くれば
今ひとしほの色まさりけり
其末(すゑ)、「中埜」といひて、さもしき者のすめる一村あり。「安堵が橋」・「廣澤」「大澤」あり・「八軒」といふ村は、土器(どき/かはらけ)作りのすむ里。
其行《ゆく》すゑ、淸凉寺釋迦堂(せいりやうじしやか《だう》)なり。
「いひつゞくれば、「道の記」をつゞるやうなり。」
と、笑(わらふ)。
「よしや、かゝる道は化口(あだぐち)隙(ひま)なくて過《すぎ》ぬは、いとゞ遠く覺えて、足、たゆくこそ。猶、こゝら、古跡尋《たづね》て、物《もの》せん。」
と、いひしらふも、くどしや。先《まづ》、本尊の御戶(みと)、開帳しつ。すせうさ[やぶちゃん注:意味不明。識者の御教授を乞う。]、我のみか、道俗、市をなすも、嬉し。此御仏《みほとけ》》のたとき、昔は、いふも更なり、栖霞寺(せいかじ)、左に建(たち)て。彌陀を安置す。右に文珠院虛空藏の像、牛堂《うしだう》、たうとく、ならびます。此庭も、花は半(なかば)ちりて、空にしられぬ雪の庭に氈(せん)しかせ、小竹筒(さゝ《へ》)とりちらして、ひと、ふたと、のみたる慰(なぐさみ)、たとしへなし。友なる人、口《く》どく、俳諧の發句して、又、笑(わらふ)、
釈尊も花にはゆるせ飮酒戒(《おん》しゆかい)
やゝやすらひて、猶、是より南にはこぶ。
[やぶちゃん注:「栖霞寺」現在の清凉寺本堂の東に建っている阿弥陀堂のこと。ここはもとかの源融(とおる)が嵯峨で営んだ山荘棲霞観で、彼の子どもらが、その意志を継いで源融が嵯峨で営んだ山荘が棲霞寺であり、それは後に清凉寺となったと、こちらにあった。
「文珠院虛空藏の像」清凉寺にある平安時代作の文殊菩薩木像ならば、ある。重要文化財で、こちらに、『元は本堂の本尊釈迦如来立像の脇に安置されていたが、現在は霊宝館に収蔵されている』とある。「虛空藏の像」は不詳。
「牛堂」サイト「京の霊場」の「 京羽二重大全」に載る仏像と現在の所在地の表の中に、「五大堂不動」が前掲書には「嵯峨清凉寺内牛堂」にあったとし、現在地は「清凉寺」とあるので、「牛堂」があったことは判明はした。]
往生院より伎王兄弟(ぎわうはらから)と、ぢ仏の御影《みえい》を拜む埜々宮(の《のみや》)は、名のみ、ひろくて、せばき森に祠(ほこら)あり。物さびしさぞ、昔、聞《きき》しに増(まさ)り、
「火たきやの、かすかなるさへ、なし。」
と、いへば、
「なしとは、僞《いつはり》よ、爰に、みゆる。」
といふ。
「いづれ。」
と、とへば、茶を煮る姥(うば)が、葭垣(よしがき)、引《ひき》まはし、わら莚(むしろ)の床(とこ)をおしゆるぞ、かはりたる。尻かけて、茶を吞(のめ)ば、「ちろり」といふ物に、酒、うつして、天目、置双(《おき》ならべ)、
「ひとつ、聞(きこ)しめさぬか。」
といふ。
『ひなびたる所、都の外(ほか)に尋(たづね)ずは。』
と、珍し。又、ひとりの友、狂歌して、
葭垣(よしがき)はしるしの杉もなき物を
いかにまがへてよれる酒やぞ
[やぶちゃん注:この狂歌は、「この杉の痕跡もない葭垣の陋屋のくせに、どう紛らわしたって、出された酒を、有難く受けて飲めるものではないわいな。」といった謂いか。]
天龍寺に入る。爰は夢窓の本願、五山のひとつ。靈龜山といふ、是も尊氏卿、大檀那として建立とぞ。
南に出《いで》て、臨川寺。天龍寺の別院とかや。
大井川にのぞめば、水上(すいしやう)、幽谷をしたひて、蕩々《たうたう》たり。
[やぶちゃん注:「大井川」大堰川。南丹市八木地区から亀岡市にかけての桂川の別名。]
筏(いかだ)に乘(じやう)して、喧(かまび)しく漂(たゞよふ)男《をのこ》の、日に、くろみしも、むくつけし。
橋を南に越《こせ》ば、山田といふ。僧都道照(だう《しやう》)の丹誠の祈(おのり)に、衣の袖に、ふり給ひし、虛空藏の靈場、法輪寺に參りて、先(まづ)、世のならはしに、現當(げんたう)の冨分(ふくぶん)を祈る、我ながら、欲深さよ。
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]
松尾(まつのを)西方寺、まうでんと、猶、南にゆくに、僕のいふ、
「只今、此所を北にまかりし者あり。『松の尾の者。』とて、『小鮎(こあゆ)くむ事の名人。』と、大勢、尻につきて行《ゆく》に、馴(なれ)し所の者さへ、おもしろがれば、いか斗《ばかり》の上手にや。少《すこし》、見給へ。」
といふ。
[やぶちゃん注:「松尾」西芳寺及び嵐山周辺の広域地名。]
「いづち、悤(ぞめく)も、あそびよ。行《ゆき》て見ん。」[やぶちゃん注:「ぞめく」は「浮かれ騒ぐ。」の意。但し、「悤」(音「ソウ」)の字は「あわてる・いそぐ」、「あわただしい・いそがしい」の意。]
と、又、川ばたに歸(かへる)げにも、去《さる》手きゝにて、水中、頸(くび)ぎは迄、波の行《ゆく》所を、疊の上を步(あゆむ)ごとく、いる、やいなや、小鮎、ふた升(ます)斗《ばかり》とりて、猶、網をつかふ。
いかゞしたりけん、
「あはあは」
と、水に沉(しづみ)て、あがらず。
去《され》ども、其邊《そのへん》の人、行《ゆき》て引《ひき》上げんともせず。
「毎(いつ)も水中に入《いり》て、半時(はんじ)、一時、心に任せて、あそぶ。かまはずと、見よ。」
といふ程に、
「さもこそ。」
と見居《みをり》て、
「たばこ、茶よ。」
といふほど、漸々(やうやう)、時、移(うつる)に、更に、あからず。
一人の男、あつて、
「無興(ぶ《きやう》)なり。京人《きやうひと》も見物なるに、何が、水《みな》そこに、用ある。あがれ。」
と、いひて、おり、ひたり、足を持《も》て、底をさぐるに、かの者、ひとつの杭に、かゝりて、死居(しゝゐ)たり。
引《ひき》あげてみるに、早(はや)、色《いろ》、反(へん)じ、水に醉《ゑひ》て、ふつゝかに肥《こえ》たり。
去《され》ども、持《もち》たるあみは、手をしめて、放さず。
心ある人、是を見て、いふ、
「此者、一生すなどりに、れんまし、水練、鵜(う)よりも、やすし。此網を、はなちて、をよぎ[やぶちゃん注:ママ。]たらましかば、なじか、命を失(うしな)はん、殺生の業《ごふ》、つもりて、身を殺せる事、『自業自得果』といふ物なり。」
と、いはれし。
げにも、左にては有《あり》けれ。
此哀(あはれ)さに、けふの遊(あそび)の、興、盡(つき)て、尋(たづぬ)べき花だに、見ず。直(すぐ)に家に歸りぬ。
[やぶちゃん注:私はこれは作者の実体験譚と思う。そう考えることによって、これは怪奇談ではなく、カタストロフとして、悲惨を読者に与える。怪奇談集としては、一つの手法として、全篇に及ぼす、ホラー効果は絶大と言えるし、『やらかして呉れたな』と憎くもなるが、個人的には生理的に、やや嫌な感じがする。それは、その事件の語りの前の三分の二の、「新御伽・番外・京都ムック」との筆致の落差が、あまりに大き過ぎるからであり、作者の最後の添え辞も常套的形式的で、その悲哀感が殆んど伝わってこないからである。]