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2022/09/05

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 農民文次郞復讐略記

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○農民文次郞復讐略記

武藏州豐島郡小具《おぐ》村【里俗、「おふた村」と唱ふ。】王子村、近村《きんそん》のよし。

        大御番水野伯耆守組

         阿部鑑一郞知行所

          名主       利 右 衞 門

        利右衞門養子   文  次  郞

        新御番岡田勝五郞組

         羽田鐵之助知行所

               名主   次郞右衞門

小具の渡しは、元來、百姓渡しにて、古來より、あげ錢などいふ定めはなかりしに、右の次郞右衞門、近來《ちかごろ》、あげ錢をとりて、私《わたくし》に、つかひ捨たり。然るに、かのわたし船にて、修驗者と、渡し守と、鬪諍《たうじやう》いで來《き》し折、「この沒匁(いりめ)は、渡し船のあげ錢にて、つぐなふべし。」といふにより、次郞右衞門が私慾、あらはれにけり。よりて、名主利右衞門、これを憤りて、次郞右衞門と問答に及び、「件《くだん》のあげ錢は、以來、渡し場の入用に充つべし。」といへども、次郞右衞門、したがはず。且《かつ》、「年來《としごろ》、つかひ捨たるあげ錢は、さらなり、向後《かうご》も、己《をのれ》のみの利得にせん。」といふをもて、利右衞門、いよいよ、怒《いかり》に堪ず、今茲《こんじ》、文政九年春二月十四日、「次郞右衞門を擊果《うちはた》さん。」とて、渠《かれ》が宿所に赴きしに、利右衞門は、還《かへつ》て、次郞右衞門に、きり殺されけり。こゝに利右衞門が養子文次郞といふもの、この日、親の爲體《ていたらく》を、心もとなく思ふよしありて、跡より、ゆきて見るに、親利右衞門は既に殺されたりければ、即座に、かたき次郞右衞門を討《うち》とめしといふ【或《あるい》は、いふ、利右衞門は、その身の脇差を、次郞右衞門に奪ひとられ、その刄《やいば》にて殺されたり。次郞右衞門は、既に利右衞門を殺して、兩手を組み、思案して居《ゐ》たる處へ、文次郞、走り來て、矢庭《やには》に、又、その刄を取《とり》て、次郞右衞門を擊《うち》とめしとぞ。】。しかるに、次郞右衞門に、子供、二人あり。此ものども、僞りて、わが親をも、利右衞門をも、殺したるものは、文次郞也。次郞右衞門と利右衞門と鬪諍の上、組《くみ》あひたる處へ、文次郞、走り來て、次郞右衞門を切るときに、利右衞門をも切殺《きりころ》せし也といふにより、外に雙方《さうはう》の證人もなければ、吟味の筋、分明ならず。地頭の下吟味、滯りて、埒明かねし故、二月廿三日に至《いたり》て、やうやく、公儀へさし出《いだ》しになりしかば、御勘定奉行の掛りになりしといふ。裁許の事、いまだ知らず。なほ、又、異日《いじつ》に聞くことあらば、追書すべくになん【この節、ちまたを賣《うり》ありきしものは、「文次郞」を「文吉」とし、且、『利右衞門と次郞右衞門は、劍術をよくせしより、恨みを結びし。』など、書《かき》しるせしは、そら言《ごと》也。この「小具の渡し」は兩村のかゝりにて、この事より、利右衞門は、ふかく次郞右衞門を憎みし也。次郞右衞門は、元來、心ざま、よからぬものなりとぞ。】。丙戌二月二十七日雨窓《うそう》に識《しるす》。

[やぶちゃん注:「小具村」嘗つて、東京府北豊島郡に存在した尾久町(おぐまち)の旧村か。現在の荒川区北西部に当たり、「尾久」を含む地名が今も残る。「今昔マップ」のここを参照されたい。旧荒川(現在、隅田川に分岐)の右岸に当たる。左の戦前の地図を見ると、旧荒川の尾久村の北西に「上尾久」と書いた左に「小渡」とあるのが判る。或いは、舞台はここか

「丙戌二月二十七日」文政九(一八二六)年。

「雨窓」雨降る窓辺。]

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