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2022/09/25

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 婦女を姣童に代用せし事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で訓読を示した。]

 

     婦女(をんな)を姣童(わかしゆ)に代用せし事(明治四十五年五月『此花』二十一枝)

 

 『此花』第十六枝六丁表、紅絹野夫(こうけんやぶ)の西洋男色考末文に、西洋に婦女を雞姦すること、盛んなる記述を結(の)ぶ迚(とて)、「日本の男色は此樣《かやう》な事は無いらしい云々」と云《いへ》り。今日《こんにち》は然《しか》らん、併《しか》し、往昔、斯る事、日本にも有《あり》しは、嬉遊笑覽卷九、若衆女郞《わかしゆぢよらう》、古く有し者と見えて、吾嬬(あづま)物語に、まんさく、まつ右衞門、兵吉、左源太、きんさく、とらの助、熊之助抔(など)いふ男名《をとこな》、餘多(あまた)有り。是れ、もと、歌舞妓をまねびて、大夫と云《いひ》し頃より、佐渡島正吉《さどしましやうきち》抔(など)云《いへ》る大夫も有し名殘と見ゆ。是れ、其のみにも非ず、男寵《なんちよう》の流行(はやり)し故に、後迄も斯樣(かやう)の名を付《つく》る也。されど、大夫《たいふ》には非ず、皆、端(はし)、格子(はうし)の内也。勝山が奴風《やつこふう》の行はれしも此故也。箕山《きざん》云《いは》く、近年、傾城の端女《はしため》に、若衆女郞と云《いへる》あり。先年、祇園の茶屋に龜と云し女、姿貌《すがたかたち》を若衆に能く似せて、酌を取《とり》たり。され共、是、遊女ならず、是のみにて、斷絕しぬ。若衆女郞の初まる處は、大坂新町富士屋と云《いふ》家に、千之助とて有《あり》。此女は、初《はじめ》は葭原町(よしはらちやう)の局《つぼね》に在《あり》しが、自(おのづか)ら、髮、短く切《きつ》て、あらはし居《ゐ》たり。寬文九己酉《つちのととり》年より、本宅の局に歸りて、月代《さかやき》を剃《す》り、髮を捲上げにゆひ、衣服の裾、短く切り、後帶《うしろおび》をかるた結《むすび》にし、懷中に鼻紙、たかく、入れて、局に着座す。粧(よそほ)ひ、かはれる印《しるし》に、暖簾(のれん)もかへよとて、廓主《くるわぬし》木村又次郞が許しを得て、暖簾に定紋を付《つけ》たり。紺地に鹿の角を柿にて染入《そめいれ》たり。是、若衆女郞の濫觴(はじめ)なり。見る人、珍し、とて、門前に市を成す故に、こゝ彼處(かしこ)に、一人宛《づつ》出來る程に、今は餘多に成り、堺、奈良、伏見の方《かた》迄、弘《ひろ》まれり。是れ、衆道に好《すけ》る者をおびき入(いれ)むの謂(いはれ)ならんか。されども、よき女をば、若衆女郞には、し難し。其(それ)に取合《とりあひ》たる顏を見立《みたて》てすると見ゆ。大坂の若衆女郞は、外面より、其と知らしむる爲に、暖簾に、必ず、大きなる紋を染入《そめいる》ると云り。『洛陽集』に、靑簾憐《あはれ》なるものや柿暖簾(有和)(已上(いじやう)、笑覽(せ《ふ》らん)。

[やぶちゃん注:『此花』宮武外骨が明治四三(一九一〇)年一月に発刊した浮世絵研究雑誌。大阪で発行されたが、赤字が嵩んで廃刊となったが、同雑誌に寄稿していた朝倉無声(朝倉亀三)の手によって「東京版」として新たに継続発行されることとなった。第十六枝は明治四十四年七月十五日発行。参照したサイト「ARTISTIAN」の「此花(大阪版)(雑誌)」のリスト・データに「紅絹野夫」著とある。紅絹野夫は不詳。当該記事もネット上では読めない。雑誌巻号を「枝」とするのはなかなかに風流がある。

「雞姦」肛門性交。

「嬉遊笑覽卷九、若衆女郞、……」巻之九の「娼妓」の「若衆女郞」は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここ読みは所持する岩波文庫版(当該書はルビは現代仮名遣)を参考に打った

「吾嬬物語」仮名草子。作者不詳。徳永種久作という説がある。寛永一九(一六四二)年、京都で刊行。全一冊。「あづまをのこ」が江戸に来て,友人と上野・浅草などの名所を見物し、吉原に行く。遊郭の内を見て、遊女の評判を記す。寛永の元吉原の遊女評判記としての唯一の書であり、風俗資料として貴重とされる。江戸名所見物と遊女評判、文中の狂歌などに見るべきものがある(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「大夫」現代仮名遣「たゆう」。官許の遊女の内の最上位。「松の位(くらゐ)」(これは秦の始皇帝が雨宿りをした松を「大夫」に封じたという故事から)とも。

「佐渡島正吉」(生没年未詳)は江戸前期の女歌舞伎役者。京都の遊女歌舞伎の中でも知られた佐渡島座の頭(かしら)で、「和尚(おしょう)」とよばれた。慶長一九(一六一四)年、江戸吉原の興行で、名声を博した。女歌舞伎は寛永六(一六二九)年に風紀を乱したとして禁止され、若衆歌舞伎がこれに代わった。

「端」「端女郞」。江戸時代の下級遊女。「局(つぼね)女郎」「見世女郎」「はしばいた」「はしたもの」「はしたじょろう」などとも呼んだ。

「格子」ここは、遊女屋の格子の所に出て、張見世をする遊女の総称。「見世女郎」「格子女郎」とも。但し、実は、別な、より高位の遊女をも指し、京都島原では遊女の第二級を「天神」をいい、大坂新町では第一級の「太夫」、また、江戸吉原では、それらに継ぐ第二級の遊女をも指した。これは大格子の内に自分の部屋を持っていることからの呼称である。

「勝山が奴風《やつこふう》の行はれし」勝山は江戸初期(十七世紀)、特に承応(じょうおう)・明暦年間(一六五二年~一六五八年)に、吉原で人気のあった遊女の源氏名。元は江戸・神田四軒町雉町にあった湯屋(ゆうや)「丹前風呂」の湯女(ゆな)であったが、承応二(一六五三)年八月、新吉原の楼主山本芳順に抱えられて吉原の太夫となり、明暦三(一六五七)年八月に廓(くるわ)を退いた。当該ウィキによれば、『勝山は元、丹前風呂と呼ばれる私娼窟をかねた風呂屋の従業員(湯女)であったが、そのころから派手な出で立ちで評判になっていたらしい。髪は自分で考案した上品な武家風の勝山髷(丸髷)に結い、腰に木刀の大小を挿して派手な縞の綿入れを着て歩き回り、江戸の若い女性達はこぞって彼女の風体を真似たという』。『人品卑しからぬ容姿と武家風の好みから、勝山は零落した武家の娘であったという説もあるが』、『湯女になる前の経歴は不明である』。『しかし』、『どれほど人気があるといっても丹前風呂は私娼窟であって、建前上』、『公娼を置いている吉原以外での売春行為は違法であった。幕府は吉原から』、『たびたび出される要請もあって』、『商売敵となる湯女や飯盛女などの厳しい取締りを行っていた』。『勝山も後に警動(私娼窟の一斉捜査)で逮捕され、そのまま吉原に身柄を引き渡されて遊女となった。岡場所と呼ばれる私娼窟で働いていた女達などの一部は』、『逮捕されたのちに吉原に身柄を移されて』、『遊女となる刑罰を適用されるが、もともと人気のあった彼女は』、『吉原に勤めて』後、『最高位の太夫にまで上り詰める。彼女の贔屓客になって吉原に登楼してくる諸大名の家臣や豪商によって諸藩に知られる存在となった』。『彼女の人気の程は、大阪の井原西鶴が』「西鶴織留」の『中に一代の名妓として彼女を紹介していることからも伺える』。「勝山風・丹前風」の項。『湯女時代に武家の使用人である旗本奴に人気が高かったこともあり、勝山の好みは男っぽい、武家がかったものが多かった』。『後に丸髷とも呼ばれる武家風の勝山髷は』、『上品な印象から』、『武家の奥方などにも好んで結われるようになり、当時の識者を嘆かせたという』。『現在』、『どてらとも呼ばれる広袖の綿入れ』である『「丹前」も』、『彼女が考案し』、『贔屓客の旗本奴や侠客に広まった。丹前風呂は堀丹後守の屋敷前という土地柄もあってか』、『血気盛んな若者が常連客に多く、彼らのような江戸初期の若者の派手な好みを丹前風とも言う』。『以下』、『勝山が考案し、愛用したとされる品々』を挙げると、「勝山髷」は『髷が大きな輪になっている華やかな武家風の髷』で、「勝山草履」は『鼻緒が朱色で』、『二本ある草履』であり、「丹前」は『派手な縞柄の広袖の綿入れ』で、『袖口などが別』な『布で覆われている』ものを指す。『また』、『のちに「花魁道中」と呼ばれる吉原の「外八文字」を踏む道中の足どり』も『彼女の考案という説がある。 それまでは京都・島原の太夫道中に倣って、吉原も「内八文字」の道中をしていたという』とある。

「箕山」藤本箕山(寛永三(一六二六)年~宝永元(一七〇四)年)は江戸前期の町人。畠山箕山とも呼ばれるが、根拠不詳。名は七郎右衛門。富裕な町人の家に生れ、若くして遊びの道に入り、また、松永貞徳門で俳諧を学んだ。古筆目利きにもすぐれ、「顕伝明名録」を著わし,その後、古筆目利きを職業としたが、家運が傾いて、客から幇間へ立場を変え、大坂新町の評判記「まさりくさ」を著わした。さらに諸国の遊里を渉猟、「色道大鏡」を完成させ、これは、後の浮世草子に大きな影響を与えた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「祇園の茶屋に龜と云し女、姿貌を若衆に能く似せて、酌を取たり。され共、是、遊女ならず」この「おかめ」さんは、あくまで男装の、春はひさがない正当な酌婦であったということ。

「大坂新町」大坂で、唯一、江戸幕府公認だった新町遊廓。現在の大阪府大阪市西区新町一・二丁目にあった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「葭原町」江戸の新吉原であろう。

「寬文九己酉年」一六六九年。

「かるた結」底本も「選集」も、さらに国立国会図書館デジタルコレクションの活字本の原文も「かりた結」なのだが、「かりたむすび」という帯の締め方は不明。唯一、岩波文庫版の「嬉遊笑覧」が、『かるた結(むすび)』とあり、これなら、現在もある帯の結び方で腑に落ちる。サイト「キモノ読ミモノ」のこちらで、「カルタ結び」の結び方が写真で示され、動画まである。見られたい。

「柿」柿渋(かきしぶ)。

「洛陽集」自悦編の俳諧集。江戸前期の成立。 なお、これ以下の部分は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本にはあるが、岩波文庫版にはない。

「有和」不詳。]

 東鑑卷廿、建曆二年十一月十四日、去る八日の繪合の事云々。又、遊女等を召進《めしまゐら》す。此等、皆、兒童(ちご)の形を寫し、ひやう文(もん)の水干に、紅葉、菊花抔(など)を付て之を着る。各々樣々の歌曲を盡す。此上、上手の藝者、年若き屬(たぐひ)は延年に及ぶと成《なり》。是れ、少女、美童に扮(いでたち)て、男童舞《おぐなまひ》を演ぜし也。然るに、天野信景の鹽尻(帝國書院刊行本)卷四十三に、此一節を評して、當時、遊女は男兒の爲(まね)す。今の兒童(ちご)は、遊女の形を爲(まね)す。時風、此《かく》の如歟《ごときか》、と云《いへ》るは、自分と同時代に、若衆女郞、行はれしを知《しら》ざりし也。

[やぶちゃん注:「東鑑卷廿」底本は巻数を「廿」とし、「選集」は『十九』とするが、「選集」は誤りである。以下、「吾妻鏡」第二十巻の建暦二年壬申(一二一二)年十一月十四日の条を示す。

   *

十四日丙辰。去八日繪合事。負方獻所課。又召進遊女等。是皆摸兒童之形。評文水干付紅葉菊花等著之。各郢律盡曲。此上堪藝若少之類及延年云々。

   *

十四日丙辰(ひのえたつ)。去(ん)ねる八日の「繪合(ゑあはせ)」の事、負方(まっかた)、所課(しよくわ)を獻ず。又、遊女等(ら)を召し進(しん)ず。是れ、皆、兒童の形(かたち)を摸(も)し、評文(ひやうもん)の水干(すいかん)に、紅葉・菊花等(など)を付け、之れを著(ちやく)し、各(おのおの)、郢律(えいりつ)、曲を盡す。此の上、藝に堪ふる若少(じやくせう)の類(たぐひ)、延年に及ぶと云々。

   *

この前の十一月八日に御所で「絵合せの儀」が行われた記事があり、大江広元の出品した小野小町の盛衰を描いたものと、同じ組の結城朝光の出品した本邦の四人の大師伝を描いたものを、将軍実朝がいたく気に入ったことから、老齢方の組の方が勝ちとなっていた。「所課」とは「負けた組の罰としての割当」を指し、「評文」は「装束に用いた彩色や刺繡による種々の色の組み合わせ文様を指す。「郢」は「郢曲」で催馬楽(さいばら)や風俗歌・朗詠・今様などの中古・中世の歌謡類の総称。「律」は、ここでは、周期的にくりかえされるリズムを意味する。「延年に及ぶ」とは長寿を言祝ぐ舞いを踊ったか、或いは、それらしい芸を披露したものと推定される。

「男童舞」読みは「少年」を意味する「童男」の読み「をぐな」を当てた。

「天野信景の鹽尻」江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここの右ページの上段十五行目に記されてある。]

 又、必ず雞姦のためならずとも、其頃、僧が、男裝、男動作の女を、寺に蓄(やしな)ひしは、一代女卷二に、「脇塞(わきふさ)ぎを、又、明《あけ》て、昔の姿に返るは、女鐵拐《をんなてつかい》といはれしは、小作りなる生《うま》れ付の德也。折節、佛法の、晝も人を忍ばす、お寺小姓と云《いふ》者こそあれ。我、耻かしくも、若衆髮《わかしゆがみ》に中刺《なかぞり》して、男の聲、遣(つか)ひ習ひ、身振も、大略(おほかた)に見て覺え、下帶、かくも似る物かな。上帶も、常の細きに替《かへ》て、刀、脇指、腰、定めかね、羽織、編笠も心可笑(をかし)く、作り髭の奴《やつこ》に草履持たす抔、物に馴《なれ》たる太鼓持ちをつれ、世間寺《せけんでら》の有德《うとく》なるを聞出《ききいだ》し、庭櫻見る氣色《けしき》に、塀、重門《ぢゆうもん》に入りければ、太鼓、方丈に行きて、隙《ひま》なる長老に、何か小語(さゝや)き、客殿へ呼《よば》れて、かの男、引合《ひきあは》すは、此方(こなた)は御牢人衆(ごらうにんしゆう)なるが、御奉公、濟《すま》ざる内は、折節、氣慰みに御入《おはいり》有るべし。萬事、賴み上(あげ)る抔いへば、住持(ぢうじ)、はや、現《うつつ》になって、夜前《やぜん》、彼方《あなたがた》入《いら》いで叶はぬ子下藥《こおろしぐすり》を、去(さる)人に習ふて參つた、と云(いふ)て、跡にて、口、塞ぐも、をかし。後は酒に亂れ、勝手より、腥《なまぐ》さき風も通ひ、一夜宛《づつ》の情代(なさけだい)、金子二步に定め置き、諸山の八宗《しゆう》、此一宗を勸め廻りしに、何れの出家も珠數切らざるは無し」とあるにて、知るべく、天野氏自らも、鹽尻卷七〇に、享保五年、江城西曹子谷(えどのにしぞうしがや)の日蓮僧、婦人を少男《わかしゆう》に粧(よそほ)ひ、房中の慾をほしいままにせしを、寺男その女なるを知り、挑みて聽かれざりしより事起こり、かの僧その男を殺し、十二月二十七日、女と共に梟首《ごくもん》せらる、と記せり。

[やぶちゃん注:『一代女卷二に、「脇塞(わきふさ)ぎを、……」「世閒寺大黑(せけんでらだいこく)」の冒頭部。国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文学大系」第三巻 「井原西鶴集」(昭和七(一九三二)年誠文堂刊)のここで確認出来る。リンク先の同書は戦前のもので、伏字が多数見られるが、幸い当該部は、その憂き目に逢っていない。読みはそれを一部で参考にした。

「天野氏自らも、鹽尻卷七〇に、享保五年、江城西曹子谷(えどのにしぞうしがや)の日蓮僧、……」国立国会図書館デジタルコレクションの同前のここ(左ページ下段八行目)から次のページかけてで、視認出来る。]

 支那にも女を男裝せし例、齊、景公、婦人にして丈夫の飾をなす者を好み、國人、悉く之を服せしを、晏嬰《あんえい》、諫めたる事あり(說苑《ぜいゑん》卷七)。梁の慧皎(ゑかう)の高僧傳卷十に、宋の劉孟明、二妾を男裝し、異僧碩公に薦め、其操《みさを》を試《ここみ》し話、出づ。

[やぶちゃん注:「齊、景公」春秋時代の斉(せい)の第二十六代君主(在位:起原前五四七年~紀元前四九〇年)。当該ウィキによれば、『兄の荘公光が横死したあと、崔杼』(さいちょ)『に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は』名臣『晏嬰』(?~ 紀元前五〇〇年)『を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により』、『司馬穰苴』(じょうしょ)『を抜擢した。斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第』二『の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は』、『贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い』とある。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで「說苑」の当該部の影印本が視認出来る。

「說苑」中国の歴史故事集。漢の劉向(りゅうきょう)の編。古来の説話・寓話・逸話などを集め、その間に、教訓的な議論をはさんだもの。儒教的な理念によって歴史・政治を解釈しており、当時、既に儒教が普及していたことを示している。五十編あったが。大部分が散逸し、現在は宋の曾鞏(そうきょう)が復元した 二十巻本に拠っている。

「梁の慧皎(ゑかう)の高僧傳」南朝梁の僧慧皎(四九七年~五五四年)の撰になる中国への仏教伝来以来、後漢(西暦六七年)から梁の西暦五一九年までの四百五十三年間に及ぶ期間の高僧二百五十七名及び附伝する二百四十三名から成る壮大な伝記である。高僧の伝記を集めたもの。「梁高僧傳」「梁傳」とも呼ぶ。全十四巻。五一九年成立。当該ウィキによれば、『慧皎以前にも、梁の宝唱撰の「名僧伝」のように数種の僧伝が既に存在していたが、慧皎は、それら先行する類書の編集方針に満足できず、自ら新たに「高僧伝」を撰しようと思い立ったと、巻末に収められる自序において述べている。具体的には、「名僧伝」等は、世間で有名な僧、あるいは著名な僧の伝記を集めている。しかし、仏教の教えの観点から言えば、たとえ無名であっても、すぐれた僧、高僧は居る筈である。そういった僧の伝記が失われてしまうのを恐れて、「高僧伝」という名を立て、また、その観点から見て相応しいと判断した僧の伝記を収録した、と述べている』。以下の当該部は、「中國哲學書電子化計劃」のここで影印本で読める。]

 本邦にも、上杉景勝、女色を好まず、直江兼續(かねつぐ)、京都にて十六歲の美妓を購ひ、小姓に作り立《たて》て、景勝に薦め、一會して、姙む。然るに、景勝、其女なりしを知り、誠の男ならねば、詮なし、とて、之を卻(しりぞ)く。女、之を悲しみ、定勝を生んで、則ち、自殺せりと云ふ(奧羽永慶軍記《あううえいけいぐんき》卷卅九)。其前後、武功を勵むの餘り、女を斷(たち)し人、多く、松永方、中村新九郞は、武名を立《たて》ん爲め、一代男と稱し、妻女を具せず、童子(わらは)を我と均しく仕立て、陣中に連行(つれゆ)き、ともに討死にし(南海通記卷九)、景勝の養父謙信も、武功に熱して、一生、婦女を遠(とほざ)けしが、小姓を愛せる由、松隣夜話等に見ゆ。去(さ)れば、熊澤了介の集義外書卷三、大名抔の美女に自由なるが、男色を好(すき)て、子孫無き者有り、と云《いへ》り。内藤耻叟《ちさう》の德川十五代史に據れば、淺野幸長《よしなが》は此一例也。鹽谷宕陰《しほのやたういん》の昭代記に、元和六年、三條の城主市橋長勝、愛童三四郞を女婿《ぢよせい》としたるを、おのれ、臨終に世嗣ぎとせしを、遺臣ら、從はず、長勝の甥長正を立てんと請ふ。因《よつ》て長正に二萬石、三四郞に三千石を分かち賜ふとあるも、此類で、三四郞に妻《めあ》はせしは養女らしい。隨て、忠臣が主君に嗣(よつぎ)有《あら》ん事を冀(こひねが)ひ、男裝の女子を薦めし者、兼續の外にも多かるべし。

[やぶちゃん注:「奧羽永慶軍記」元禄一一(一六九八)年、出羽国雄勝郡横堀の戸部正直の著になる軍記物。全三十九巻。書名は天文(一五三二年~)・永禄から慶長・元和(~一六二四年)までの戦記の意で、陸奥・出羽両国の群雄の抗争と興亡を詳述している。先行する旧記を考証し、また、古老見聞の直談を聴いて編述されたとする。史実の誤りもあるが、参考にすべき価値があるものである。当該部は「史籍集覧」第八冊のここから視認出来る。予想外にかなり長い。

「松永」松永久秀。

「南海通記」讃岐出身の兵法家・歴史家であった香西成資(こうざいしげすけ 寛永九(一六三二)年~享保六(一七二一)年)南海道の中世史について記した通史。享保三(一七一八)年刊。「卷九」とあるが(「選集」も同じ)、「卷十」の誤り国立国会図書館デジタルコレクションの「史料叢書」の「南海通記」の「卷十」の「松永彈正與三好氏族京合戰記」(松永彈正と三好氏の族との京の合戰の記)の一節。左ページ四行目以下。短いが、一読、私は印象に残った。

「松隣夜話」関東管領足利持氏の死後の北条氏関東制圧から、天正一五(一五八七)年の上杉謙信の宮野城攻略までを記す。一説に兵法家宇佐美勝興(天正一八(一五九〇)年~正保四(一六四七)年:越後流軍学の祖とされる宇佐美定満の孫で、尾張藩・水戸藩を経て、寛永一九(一六四二)年に和歌山藩主徳川頼宣に仕えた)が作者ともされるが、年代の誤りや漢字の当て字が多く、史料としては確度が低いものらしい。

「熊澤了介の集義外書」江戸時初期の陽明学者熊沢蕃山(元和五(一六一九)年~元禄4(一六九一)年:「了介」は字(あざな))の著。全十六巻。宝永六 (一七〇九) 年刊。先行する原論に当たる「集義和書」の、経世治教論を集大成したもの。

「内藤耻叟」(文政一〇(一八二七)年~明治三六(一九〇三)年)は歴史学者・漢学者。元水戸藩士。藩校弘道館で藤田東湖らに学び、慶応元(一八六五)年、弘道館の教授となり、明治一一(一八七八)年、東京府小石川区長、同十九年には帝国大学教授となった。彼は「古事類苑」の編纂にも関与している。「德川十五代史」の初版は明治二五(1892)年から翌年にかけて初刊された。

「淺野幸長」(天正四(一五七六)年~慶長一八(一六一三)年)は和歌山藩主。長政の子。「慶長の役」で蔚山(うるさん)に籠城し、「関ケ原の戦い」では徳川方について功をたてた。

「鹽谷宕陰」(文化六(一八〇九)年~慶応三(一八六七)年)は江戸生れの儒学者。文政七(一八二四)年に昌平黌に入門し、また、松崎慊堂に学んだ。遠江掛川藩主の太田家に仕え、嘉永六(一八五三)年のペリー来航の際には献策して海防論を著した。文久二(一八六二)年、昌平黌教授に抜擢され、修史に携わった。「昭代記」は江戸年代記。没後の明治一二(一八七九)年刊。

「元和六年」一六二〇年。徳川秀忠の治世。

「市橋長勝」(弘治三(一五五七)年~元和六(一六二〇)年)は美濃国今尾藩主・伯耆国矢橋藩主・越後国三条藩初代藩主。当該ウィキによれば、初め、『織田信長に仕え、信長死後は豊臣秀吉に仕えた。九州征伐や小田原征伐に参戦し、文禄・慶長の役では肥前名護屋城に駐屯した』。「関ヶ原の戦い」では『東軍に与して、西軍に属した丸毛兼利の福束城を落とす武功を挙げた。その戦功により、戦後』、『今尾城で』一『万石を加増され』た。後、『伯耆矢橋へ移封され』、「大坂の陣」でも『功を挙げ』、元和二(一六一六)年、『越後三条』五『万石へ加増移封された。同年の徳川家康が死去する直前には』、『堀直寄や松倉重政らと共に枕元に呼ばれ、後事を託されている』。『江戸で病死し』、享年六十四であったが、『嗣子がなく』、『改易の対象になりかけたが、家康からの信任が厚く、長勝が晩年に老中に何度も嘆願書を差し出していたことなどが功を奏して、甥で養子の長政が近江仁正寺に移されることで跡を継いだ』とある。以下は引かないが、どうも、かなり変わった人物であることは確かなようである。

「長勝の甥長正」長政が正しい。]

 印度には、佛在世の時、女人、僧に勸め、非道中《ひだうちゆう》、行婬せし有り(摩訶僧祇律卷一)。佛、又、男裝を作(なし)て、女と不淨を行ふ罰を制せり(四分律藏卷五五)。法律の繁きは、罪人を殖やす理窟で、閑《ひま》多き坊主等《ら》、斯《かか》る物を讀み、好奇上《こうきじやう》より、異樣の行婬に及び、俗人、亦、之を學びて、終《つひ》に若衆女郞抔(など)を設けしやらん。

[やぶちゃん注:「非道中」修行中でない時の意であろう。

「好奇上より、異樣の行婬に及び、……」『なまじっか、「律」の中に、このような淫猥に関わる記載や、その禁制が書かれてあるものだから、それを読んで、逆に変態性欲の嗜好が昂進してしまい、少年を女装させて鶏姦をする行為を起さしめ、それが、後世の風俗社会に於いて、若衆女郎などを生み出す濫觴となったのではなかろうか?』の意。]

 歐州には、希臘、羅馬の昔、男子、婦女の非處を犯せし記、多く、「シーザル」を殺せし愛國士「ブルタス」も、「カトー」の娘で寡居したる「ポルチヤ」を娶《めと》り、每(つね)に斯く行ひしとぞ。諸國基督敎に化せし後も、此事、止まざりし證(しるし)は、十一世紀頃の「アンジェール」の懺法(ざんはふ)に、妻を、後方行《こうはうかう》、犯すれば、四十日、非道行、犯すれば、三年の懺悔を課す、とあり。又、九世紀に、「ロレーン」王「ロタール」、其妃「テウトバーガ」が、早く、其兄「ウクベール」に每(つね)に姣童(わかしゆ)同樣に非路行《ひろかう》、犯され、子を姙みしを、墮胎せし事ありとて、離緣を主張し、羅馬法王の干涉を惹起し、大騷動せり。兄が妹を非處行犯《ひしよかうはん》とは未聞の珍事也、况んや、其(それ)で子を姙みしに於いておや。但し、姙娠豫防の素志《そし》より出《いで》しが、誤つて孕ませしならん。老人が、妾の情夫の種をかづけられ、大分の金をとられしに懲《こり》て、新來の妾の非道のみ弄ぶ内、妾が老人の子と私《わたくし》して、自《みづか》ら入れ合せたといふ話、小柴垣卷二にあるを、參照すべし。又、十七世紀に高名なりし「ジャク・ジュヴァル」の半男女論(デーサーマフロヂト)に、其頃、パリの若き僧、娠(はら)みたるを禁監(きんかん)して、其出產を俟つ由、見ゆ。俗傳に、九世紀の「ジョアン」法王は、女が男裝せる也、難產で死せりといふ。但し、非道受犯の事、無し。

[やぶちゃん注:「ポルチヤ」ブルータスの再婚相手。彼は紀元前四五年に妻クラウディアと、突然、離婚し、シーザー(カエサル)に追討されている小カトーの娘ポルキア・カトニス(ブルータスの従姉妹)と再婚している。ウィキの「ブルータス」によれば、『友人であったキケロの記録によれば、この唐突とも思える行動についてブルトゥスが真意を明かさなかった』ため、『巷では小さな争論へと発展したとされ』、『母セルウィリアとも口論になったという』と、いわくつきのものだったらしい。なお、カエサル暗殺は翌紀元前四四年三月十五日のことであった。

『「アンジェール」の懺法(ざんはふ)』「懺法」は仏教用語では「せんぽふ(せんぽう)」と読み、仏教の懺悔(さんげ)の方法を説いた書やその方法・法事・法要を指すのである
が、ここは、キリスト教の懺悔(ざんげ)に於ける、その罰則としての規則を指している。「アンジュール」は判らぬが、フランス語の“un jour”(アン・ジュール)は「一日」だから、「一日の懺悔の規則」の意か。

「後方行」後背位。

「非道行」鶏姦。

『「ロレーン」王「ロタール」、其妃「テウトバーガ」が、早く、其兄「ウクベール」に每(つね)に姣童(わかしゆ)同樣に非路行《ひろかう》、犯され、子を姙みしを、墮胎せし事ありとて、離緣を主張し、羅馬法王の干涉を惹起し、大騷動せり』ロタールⅡ世(Lothar II 八三五年~八六九年)は中部フランク王国の国王ロタールⅠ世の次男で、中部フランク王国から分裂したロタリンギアの王(在位:八五五年~八六九年)当該ウィキによれば、八五五年、父ロタールⅠ世は『死に際し、自らの領地と皇帝位を三人の息子に分割することを決めた。次男であったロタールは』、『アーヘンを含むフリースラントから北部ブルグント(ジュラ山脈以北)に至るロタリンギアの地を与えられることとなった』。八六三『年に弟シャルルが相続人なく死去したため、ロタール』Ⅱ『世と兄皇帝ロドヴィコ』Ⅱ『世(ルートヴィヒ』Ⅱ『世)はシャルルの領地を分割することとし、ロタール』Ⅱ『世はリヨン、ヴィエンヌ、グルノーブル司教管区を得た』。八五五『年にボゾン家のアルル伯ボソ』Ⅲ『世の娘テウトベルガと結婚した。しかし正妻のテウトベルガとの間に子供を得られなかったので、彼女に近親者との不義密通を告白させて、これと離縁し、愛妾のワルトラーダと結婚しようと企てたが、ローマ教皇ニコラウス』Ⅰ『世らの反対に遭い果たせなかった』。八六七『年にニコラウス』Ⅰ『世が死去、兄ロドヴィコ』Ⅱ『世夫妻の仲介で』、『後任のハドリアヌス』Ⅱ『世との会見を果たし、離婚問題が再審議されることとなったが、それがなされる前』に『庶子のみを残してピアツェンツァで死去した』とある。

「小柴垣」春画の古い絵巻物「小柴垣草紙」の名を借りた好色本であろうが、不詳。

『「ジャク・ジュヴァル」の半男女論(デーサーマフロヂト)』不詳。識者の御教授を乞う。

「ジョアン」女教皇ヨハンナ(Ioanna Papissa, Ioannes Anglicus)。中世の伝説で八五五年から八五八年まで在位したとされる女性のローマ教皇。当該ウィキによれば、『歴史家たちは、創作上の人物と考えている。それは、反教皇的な風刺を起源とし、その物語にいくらかの真実が含まれているために、ある程度の信憑性を持って受け入れられたと考えられる』とある。詳しくはそちらを読まれたい。]

 支那に男が子を產みし記、多し。五雜俎卷五、晉時、曁陽人任谷、耕於野羽衣人與淫、遂孕、至期復至、以ㇾ刀穿其陰下一蛇子、遂成宦者云々、國朝周文襄、在姑蘇日、有男子生ㇾ子者公ㇾ不答、但目諸門子曰、汝輩愼ㇾ之近來男色甚於女、其必至之勢也〔晉の時、曁陽(きやう)の人、任谷(じんこく)、野に耕すに、羽衣(はごろも)の人を見、與(とも)に淫し、遂に孕み、期、至りて、復た、至る。刀(かたな)を以つて、其の陰の下を穿(うが)つに、一つの蛇の子を出だす。遂に宦者(かんじや)となる云々。國朝(こくてう)の周の文襄(ぶんじやう)、姑蘇(こそ)に在りし日、男子の子を生めりと報ずる者あり。公、答へず、但(ただ)、諸(もろもろ)の門子(もんし)に目(めくばせ)して曰はく、「汝輩(なんじら)、之れを愼しめ。近來(きんらい)、男色は女よりも甚だし。其れ、必至の勢ひなり。」と。〕。又、池北偶談廿四、男子生ㇾ子、福建總兵官楊富有嬖童二子男子云々、近樂陵男子范文仁亦生ㇾ子内兄張賓公親見ㇾ之〔「男子(なんし)子を生む」[やぶちゃん注:これは原本では本文ではなく、標題。後注のリンク先を見よ。] 福建總兵管の楊富(やうふ)に嬖童(へいどう)有り、二子を生む云々。近(ちか)くは、樂陵の男子、范文仁、亦、子を生む。内兄(ないけい)の張賓公、親しく之れを見たり。〕。

[やぶちゃん注:「五雜俎」さんざん注してきた、明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。本文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらで校合した。

「池北偶談」清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。康煕四〇(一九〇一)年序。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。以下は、「談異一」の内の、巻二十にある「丙丁龜鑑」の条。「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部が視認出来る。校合した結果、底本も「選集」も「楊審」とする名が「楊富」の誤字であることが判明したので訂した。]

 昔、高野山で姣童たりし人の話に、背孕《せばら》みと云事、有りしとか。所謂る、「小姓の脹滿(ちようまん[やぶちゃん注:ママ。])もしやそれかと和尙思ひ」で、是は、稀れに双生胎兒の一《ひとつ》が、他の一兒の體内にまき込《こま》れ、潜在して漸く長ずる者あれば、丁度、男が子を孕んだと見受らるゝ者と專門家から聞《きき》たり。然し、所謂、男子生ㇾ子は、多くは、婦女、男裝せる者が、出產せし者なるべし。

[やぶちゃん注:以上は、所謂、「寄生性双生児」(Parasitic twin)の内、一卵性双胎の両児が癒合した非対称性二重体(寄生性二重体)、疾患としては「畸形嚢腫」――体内に一方の双生児が完全に取り込まれてしまっているものを言う。極めて判り易く言えば、手塚治虫先生の「ブラック・ジャック」の「ピノコ」である。私の「耳囊 卷之四 怪妊の事 又は 江戸の哀しいピノコ」を参照されたい。但し、取り込まれいて、しかも、数年に渡って生体として反応し続け得るというのは、ちょっと私は信じ難い気はする。なお、二重体を素材として扱った小説として、私は阿波根宏夫作品集「涙・街」(一九七九年構想社刊)の「二重体(ダブル・モンスター)」を第一に挙げる。読まれたことがある方は恐らく少ないであろう。「凄い」の一言に尽きる名作である。

 なお、底本ではここで終わっているが、「選集」では「付言」として以下の付け足しがある。「選集」を底本として、新字現代仮名遣で、以下に掲げておく。

   *

【付言】

 第二一枝に、拙文「婦女を姣童に代用せしこと」出でて後、『源平盛衰記』巻三五、榛澤成淸(はんざわなりきよ)、巴(ともえ)女のことをその主人重忠に話すうち、義仲の「乳母子(めのとご)ながら妾(おもいもの)にぞ、内には童(わらわ)仕うようにもてなし、軍には一方の大将軍して、さらに不覚の名を取らず」とあるを見出だしつ。しからば、巴も姣童風態(わかしゆぶり)して木曾に隨身せるにて、まずは若衆女郎体《てい》のものたりしならん。また『覚後禅《かくごぜん》』第一七回によれば、支那に『奴要嫁伝(どようかでん)』なる書あり、一个(ひとり)の書生が隣りの室女(きむすめ)を非路行犯することを述べたるものの由なり。   (明治四十五年七月『此花』凋落号)

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「『源平盛衰記』巻三五、榛澤成淸(はんざわなりきよ)、巴(ともえ)女のことをその主人重忠に話すうち、……」国立国会図書館デジタルコレクションの和装本「源平盛衰記」三のここ(標題は「巴關東下向事」。当該部は左丁の後ろから三行目)で視認出来る。

「覚後禅」清代の小説「肉蒲團」(にくぶとん)の別名。全六巻二十回。李漁(一六一一年~一六八〇年)作とされる。主人公の青年「未央生」(びおうせい)が色道遍歴の末、仏門に帰依するという展開で、その性描写で知られる。確かに、「奴要嫁傳」という書名が同作に出るのは確認したが、それが実在するかどうかは、判らなかった。]

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