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2022/09/30

西原未達「新御伽婢子」 蛇身往生

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。

 注を文中及び段落末に挟んだ。]

 

     蛇身往生(《じや》しんわうじやう)

 江戶品川とかやいふ町はづれの或人の妻、久しく、いたはり居(ゐ)ける。

 此女、若かりし時は、美女のほまれ高く、世の人、爲ㇾ之(これがために)、心を盡(つく)し、身をくだく、たぐひを、はかるを、此男に、えにしをむすびて、離山(りざん)の私言(さゝめ)を、「我ためにや。」と疑ひ、甘泉(かんせん)のむつびを、掌(たなごゝろ)にとりて、年月、契りけるに、いつしか、いたう、いたはりにやつれ、日々に容㒵(ようばう)を失ひ、時々に、艶色(《えん》しよく)、衰行《おとろへゆく》。

[やぶちゃん注:「離山の私言(さゝめ)」「さゝめ」は「さゞめ」でもよい。「ささめごと」の略で、内緒話の意だが、特に男女間の恋の語らいを指すことが多い。さて、「離山」であるが、これ、私は不詳だが、思うに、男女の情事を言う「雲雨巫山」の「巫山」の誤りではないか? 「巫山」は現在の四川省巫山県にある山で、戦国時代の楚の懐王が、昼寝の夢の中で巫山の神女と情を交わしたが、別れに及んで神女は「私は、朝には朝雲となり、暮れには行雨となりましょう。」と約したという知られた故事によるものである。「文選」巻十九に載る宋玉の「高唐賦」見える故事である。

「甘泉」白居易の新楽府の一首「李夫人」の一句「甘泉殿里令寫眞」(甘泉殿里 眞を寫(うつ)さしむ)に基づく。漢の武帝と、「反魂香」や「傾城傾国の美女」の元となった寵愛された側室の李夫人を扱ったもので、「長恨歌」の前に作られ、その淵源となった作品である。同詩篇の全体はこちらがよい。]

 今は、賴なく、朝露(あしたのつゆ)の消《きゆ》るを待《まち》、夕(ゆふべ)の月の入(いり)なん命(いのち)みるめさへ、心ぼそき比《ころ》、女《をんな》、苦しげなる息の下に、夫《をつと》に向(むかひ)、いふ、

「年比《としごろ》日ごろ、馴染(なじみ)侍るほど、さりとも、定(さだめ)なき命を持てる身なれば、ひとりは、先に死し、ひとりは、家にとゞまるならひなれば、一方(《ひと》かた)の空しき時、必(かならず)、同じ黃泉(よみぢ)に友《とも》なはんと、いひかはせし事、枕の度(たび)ごと也《なり》し。今、既に、我が身、此世を早(はや)うせんとす。など、おなじみちの用意なんどし給はぬ事の、うたてさよ。」

と、打恨(《うち》うらみ)ていふ。

 男も、此女の、むべに健(すくやか)なる時こそ、をもはぬ[やぶちゃん注:ママ。]事まで戯(たはむれ)けめ、いつしか、年も老《おい》の始(はじめ)に傾(かたぶき)たるに、月日、經(へ)て、いたはりたれば、昔、見し妹(いも)が垣(かき)ねにもあらず、やつれたれば、打《うち》つけなる物いひさへ、惡(にく)かりけるにぞ、そらうそぶきて、聞(きか)ぬふりに、もてなす。

 女は、猶、たゆべくもなく、面(おもて)、血ばしりて、そゞろごと、するごとし。

[やぶちゃん注:「そゞろごと」「漫ろ言」。「何ということもなく言う言葉」の意で、それが総て恨み言であることを言う。]

 男、をそろしく[やぶちゃん注:ママ。]、病家を出《いで》て、外樣(とざま)に、やすらふ。

 此後にこそ、女房、誠に狂氣して、

「うらめしの夫や。腹立(はらだち)の心ざまや。かう、いひし物を、何《なん》と、契し物を。」

と、年月のねやのむつ言を、くり出《いだ》して、言(いひ)のゝしるに、親(したし)き者ども、耳を覆(おほふ)て去り、召つかふ者にも、つかみつけば、枕によらず、猶、心に任(まか)せ、聲を立《たつ》る。淺ましとも、いはんかたなし。

 爲方(せんかた)なくて、一門、談(だん)じ合せていふ、

「迚(とても)此者、ながく生(いく)べき命ならず。片時も置《おい》て苦痛を增(まし)、身の愧(はぢ)をかさねん事、よしなし。しめ殺して、菩提を、こまやかに弔(とふ)迄よ。」

と、しめし合せて、七、八人、立《たち》より、

「玉の緖の、絕《たえ》なば、たえね。」

と、理不盡に、いため、ころしぬ。

 いとゞ、女のなよやかなるに、久しき病に、影もなくやせたれば、たまりあへず、死《しに》けり。

 各《おのおの》、手にかけたる哀《あはれ》さに、㒵(かほ)を見合せて、袖をしぼり、外《そと》にありし夫を、呼(よび)かヘす。

 男、歸り、其事となく、物いひけると、ひとしく、死せる女、

「がば」

と起(おき)て、

「嬉しや、珍しや、今はの限(かぎり)を知(しり)て、我妻の聲の聞ゆるよ。」

と這《はひ》まはりて、猛(たけり)かゝる。

[やぶちゃん注:「妻」「夫」の意。]

 人々、驚《おどろき》、又、寄(より)て、しめころせども、一身、金剛のごとく、堅固なれば、盤石(ばんじやく)を持《も》て、うつ共《とも》、くだけず。

 干將《かんしやう》・鏌鎁(ばくや)が釼(つるぎ)とても、切《きり》くだく事、不ㇾ可ㇾ叶(かなふべからず)。

[やぶちゃん注:「干將・鏌鎁が釼」「鏌鋣」は「莫耶」とも表記し、中国の伝説上の名剣、若しくは、その剣の製作者である夫婦の名。剣については、呉王の命で、雌雄二振りの宝剣を作り、干将に陽剣(雄剣)、莫耶に陰剣(雌剣)と名付けたとされる。この陰陽は陰陽説に基づくものであるため、善悪ではない。また、干将は亀裂の模様(龜文)、莫耶は水の波の模様(漫理)が剣に浮かんでいたとされる(「呉越春秋」に拠る)。なお、この剣は作成経緯から、鋳造によって作成された剣で、人の干将・莫耶については、干将は呉の人物であり、欧冶子(おうやし)と同門であったとされる(同じく「呉越春秋」に拠る)。この夫婦及びその間に出来た子(名は赤、若しくは、眉間尺(みけんじゃく))と、この剣の逸話については、「呉越春秋」の呉王「闔閭(こうりょ)内伝」や「捜神記」などに登場しているが、話柄内の内容は差異が大きい。近代、魯迅がこの逸話を基に「眉間尺」(後に「鋳剣」と改題)を著わしている。なお、莫耶、莫邪の表記については、「呉越春秋」では「莫耶」、「捜神記」では「莫邪」となっているが、本邦の作品では、孰れも莫耶と表記することが多い。以上はウィキの「干将・莫耶」に拠ったが、より詳しい話柄は、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)』と、『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その2)』を見られたい。]

 去(され)ども、腰のぬけたるにて、立《たち》あがる事の叶はぬぞ、取所《とりどころ》なる。

 身の皮、鱗立(うろこ《だち》)て、木に、えりたる蛇(じや)のごとし。髮、空(そら)ざまにのぼりて、村《むら》だつ芦(あし)のごとし。口ばしる事、前に十倍せり。

[やぶちゃん注:「えりたる」「彫(え)りたる」。]

 此時、傳通院(でんづう《ゐん》)の老和尚を招きける。

[やぶちゃん注:「傳通院」現在の東京都文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗無量山伝通院寿経寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。増上寺・上野の寛永寺と並んで、「江戸の三霊山」と称された。詳しくは当該ウィキを参照されたい。]

 其比、伊勢天念寺懷山和尚(くわいざん《おしやう》)、關山(かんとう)に下向ましませしかば、相伴(《あひ》とも)に、此家に來り給ひ、敎化(きやうげ)し給ふ。

[やぶちゃん注:「天念寺」三重県津市寿町(ことぶきちょう)にある浄土宗地島山天然寺、或いは、同寺と関係の深い三重県津市久居寺町(ひさいてらまち)にある浄土宗見上山光月院天然寺か。少なくとも、伊勢に「天念寺」は現在は、ない。]

 法衣(ほうい)、たとく引《ひき》つくろひ、水晶の珠數、かた手に柄香炉(《え》がうろ)をたづさへ、かしこき香を燒(たき)て、心をおさめ、身を靜(しづか)に、弥陀の宝号(ほうごう)、しめやかに、ずして、病人の、いかれる前に、座し給ふ。

[やぶちゃん注:挿絵(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像の方がよい)で判る通り、香炉に柄がつけられており、持ち運べるようにしたものを指す。サイト「道具学」の「柄香炉」に三種の画像があり、『僧侶が法会の際に携行して香を献じるための仏具(僧具)の一種である』とある。]

 

Jyasinoujyou

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]

 

 余(よ)の人、行《ゆき》見れ共、つかみつかれて、命斗《ばかり》を、漸(やうやう)、我が物にして逃(にげ)歸るに、此和尚、目前(もくぜん)に座し給ふに、其勢(いきほひ)の衰《おとろひ》けるこそ、

「先《まづ》、仏力(ぶつりき)の妙(めう)也。」

と、いひあへり。

 時に、此女、老僧を、暫(しばし)、守《まぼ》り、

「我僧(わそう)は、何の用ありて、爰に來《きた》るや。」

と。

「汝、人間に生れて、則身(そくしん)、蛇(じや)のかたちを得。蛇は、人の家に住(すむ)事、あたはず。冷池(れいち)なくんば、あるべからず。此池を、もてるや。若(もし)なくば、我に、いみじき池あり。汝に、あたへんため、爰に來《き》ぬ。」

と。

 女、聞《きき》て、

「賢(かしこく)も、敎《おしへ》給ふ物かな。誠に、我が形、蛇に成《なり》たる事、爰(こゝに)知(しん)ぬ。一身、置所(おき《どころ》)なく、もえこがるゝぞや。其冷池は、いづこに侍る。」

と。

「西方《さいはう》にあり。名を『八功德池(《はつ》くどくち)』といふ。」

[やぶちゃん注:「八功德池」現代仮名遣「はっくどくち」。

極楽浄土にあるといわれている、八功徳の水をたたえた七宝より成る池。]

 女、又、

「そこにゆかんにも、我(わが)夫(をつと)をゐて(ゆか)ねば、よしなし。」

 僧、答《こたへ》て、

「暫(しばらく)、先《さき》に行《ゆき》て待(ま)て。夫をも、ゆかしめん。必《かならず》、たがふべからず。」

 女、聞《きき》て、

「扨《さて》、いかがして、行《ゆく》所ぞ。」

と。

「精進に念仏すれば、たち所に此池を得る也。此所《ここ》の有さま、」

と、ありて、

「かくありて。」

と、淨土の莊嚴の、をごそか[やぶちゃん注:ママ。]なるさま、独(ひとり)來《き》て、独《ひとり》行《ゆく》のことはり[やぶちゃん注:ママ。]、冨樓那(ふるな)の弁(べん)を、かつて、一時斗《ばかり》、説(とき)聞《きか》せ給ふほどに、信心歡喜(しんじんかんぎ)して、いつぞの程に、空ざまなる髮も、やはらぎ、楊柳(やうりう)の風にあへる氣色(けしき)し、鱗(うろこ)だちたる身の有さまも、滑(なめらか)に、端嚴(たんごん)の肌(はだへ)となり、ほつろていきうして、暫(しばし)、袂をしぼり、和尚を礼して云《いはく》、

「淺ましき道に踏まよひ侍りて、永く、黑闇(こくあん)のちまたに、さそらへんとせしを、有難き御敎(《おん》をしへ)に、報土(ほうど)の蓮(はちす)をとなつて[やぶちゃん注:ママ。「訪(おとな)つて」の誤りか。]、微妙(みめう)の音樂にあそばん事よ。今は、夫も、親も、いらず。人々、念仏して、我に力(ちから)を添(そへ)給へ。うれしや、たうとや。」

と、いひし後(のち)、余言(よごん)をまじへず、念仏の下《もと》に、往生しぬ。

 いみじき和尚の敎化にてこそ侍れ。

[やぶちゃん注:最終シークエンスの『……此所《このところ》の有さま、」と、ありて、「かくありて。」』の箇所は、どうも自信がない。当初、「此所の有さま」は、女の台詞かと思ったが、そうすると「かくありて」以下がジョイントが頗る悪い。されば、『「されば、その池の様子はのう、……」と、和尚は、まず、前置きして、「このような場所であってのう。……」』の意で分割した。或いは、「此所の有さまかくありて」に衍字で「とありて」が挟まったものかとも思った。大方の御叱責を俟つ。

「冨樓那(ふるな)の弁」釈迦十大弟子の内、「弁舌第一」と称された富楼那のような巧妙な弁舌。すらすらと、よどみなく、喋ることの喩え。

 個人的には、この話、怪奇談としても、僧の教化異譚としても、よく書けていると思う。]

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