西原未達「新御伽婢子」 夜陰人道
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。
注は文中や段落末に挟んだ。]
夜陰人道(やいんの《にふだう》)
羽刕最上北寒河江庄(きたさがえの《しやう》)谷地(やち)といふ所に、八幡の社(やしろ)あり。圓福寺城林坊(じやうりんばう)とて、社僧と別當とあり。此二宇の間に、幅五間、長さ、六、七間斗(ばかり)の際目(さいめ)の堀あり。戢々《しゆうしゆう》たる水蓮、自《おのづから》高く、鯉魚群龜(りぎよぐんき)の、水に遊(あそぶ)、誠(まことに)旧池(きうち/ふるきいけ)のさまなり。
[やぶちゃん注:「羽刕最上北寒河江庄谷地」現在の山形県西村山郡河北町(かほくちょう)谷地(やち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「八幡の社」現在の谷地八幡宮。
「圓福寺城林坊」ロイヤル麦茶氏のブログ「御朱印の日々」の「谷地八幡宮(山形県西村山郡河北町)」に江戸時代、『三度にわたり』、『大火で社殿等が焼失しておりますが、残存する文献および相伝によりますと、「人皇七十二代堀川院の寛治五年」(一〇九一)、『奥州清原氏平定を果たした源義家が神恩に感謝して白鳥村(現・村山市白鳥)に石清水八幡を勧請して祈願所にした」と伝えられております』。『天正年間』(一五七三年~一五九二年)『に谷地城主・白鳥十郎長久が築城の際、白鳥村より円福寺と共に現在の地に遷し、鎮守社としました。明治元年』(一八六八)『までは別当職円福寺』(☜)『をはじめ、円徒寺六寺坊により真言宗をもって奉仕されておりました』とある。谷内八幡宮の南西九キロ強離れたここに真言宗円福寺があるが、これか。さらに、谷内八幡宮の東直近には曹洞宗定林寺という寺もある。
「五間」約九メートル。
「六、七間」約十一~十三メートル弱。]
或夜、風(はえ)、一とをり[やぶちゃん注:ママ。]、雨、そぼふりて、月のさやけくもなきに、城林坊の同宿、秀達といふ、聊(いさゝか)、用の事ありければ、緣に出《いで》、何となく、堀のかたを見やれば、隣(となり)の岸より、我方《わがかた》の岸へ、黑毛の生ひたる足を、打《うち》またげたる者、あり。
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]
『はつ。』
と思ひ、あふのきて見れば、寺の軒(のき)に、大の法師の、頸、三つ、かなへに双(なら)び、秀達を見て、此頸、一度に飛(とび)おるゝこと、蝶(てふ)のごとくなるに、走るとも轉(まろぶ)ともなく、戶の内に逃(にげ)歸りぬ。
[やぶちゃん注:「風(はえ)」「西村本小説全集 上巻」では、この読みを『はん』と判読しているが、意味も不明で、従えない。これは、西日本でよく用いられる南風の呼び名で、夏の南東季節風の地方名である「はえ」と判読した。ロケーションは東北であるが、作者は京の人であるから、これを用いても何ら違和感はないのである。]
余(あまり)の怖《おそろし》さに、
『若(もし)、此事を人に語らば、いかなる怨(あだ)をやなさん。』
と、あへて、いふ事、なし。
其夜より、面影にたちて、稍(やゝ)煩(わづらひ)けり。
此後、新發意(しんぼち)と、喝食(かつしき)と、つれだちて、緣に出《いで》たる夜、又、かくのごとし。
[やぶちゃん注:「新發意」僧となって間もない者。
「喝食」本来は、禅寺で諸僧に食事を知らせて食事の種類や進め方を告げること。また、その職名や、その役目をした有髪の少年を指すが、後に広く寺院の稚児(ちご)役を指すようになった。]
二人の者、是を見るより、忽(たちまち)、死に入《いり》て、音、せず。
誰(たれ)知るものゝなかりしを、かの同宿、此ものどもの出《いで》たるを、危(あやうく)思ひて、卒度(そつと)、覗居(のぞきゐ)しが、はたして此躰(てい)也。
去(され)ども、独(ひとり)立出《たちいいで》て、たすけ起《おこす》べき氣力なく、住僧・下部、是彼(《これ》かれ)、をこして[やぶちゃん注:ママ。]、此事を告(つげ)て、漸(やうやう)、内にいだき入れ、さまざま、藥をふくめけるに、喝食は生出(いきいで)、小法師は、再(ふたゝび)、蘇生せず。
此時に、秀達、こはごは[やぶちゃん注:「恐々(こはごは)」。]、有《あり》し次第を語りけるにぞ、各《おのおの》、初めて、驚(おどろき)ける。
是より、夜になれば、此緣さきに出(いづ)る人、なし。
いかなるものゝ所爲(しよゐ)にや、不ㇾ知(しらず)。