「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 大三輪神社に神殿無りしと云ふ事
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。引用の一部の記号を変更した。]
大三輪神社に神殿無りしと云ふ事
(大正五年二月考古學雜誌第六卷第六號)
考古學雜誌第六卷第五號「本邦上古の戰鬪」二六八頁に、大類博士は、本邦古俗、神を森林に祀りし事を述べ、其著しき例として、大和の大三輪神社が神殿を有せざりし由を擧げらる。此事は、先年和歌山縣選出代議士中村啓次郞氏の衆議院に於る「神社合祀」に關する演說にも述られ、又、明治四十五年三月の「扶桑」誌其他に白井光太郞博士も述られ、信濃諏訪社、又、熊野地方の諸社に森、乃《すなは》ち、神社で、別に神殿を有せざりし者、多く、Mannhardt, ‘Der Baumkultus der Germanen und ihre Nachbarstamme,’ 1875, passim;Gubernatis, ‘La Mythologie des Plantes,’ 1878, tom.i, p.71 seqq. et p.272 seqq.;Dennett, ‘At the Back of the Black Man's Mind,’ 1906, p.246;Leonard, ‘The Lower Niger and its Tribes,’ p.288 等に載たる多くの例より推すも、本邦上世の風俗、まことに、かくありしものと知らる。但し、大三輪神社が創立より、徹頭徹尾、神殿なかりしというは、誤見にあらざるか。古事記傳卷二十三、意富美和之大神前《オホミワノオホカミノミマヘ》の傳の註に、『扨、此御社、今の世には御殿《みあらか》はなくして、たゞ山に向ひて拜み奉るは、いかなる故にか有む。古えは御殿有つと見えて、卽ち、書紀、此御代(崇神天皇)の八年の大御歌にも、「みわのとのゝあさとにもおしひらかねみわのとのとを」と詠み給ひ、開神宮《かみのみやの》門《みかど》云々」抔も見ゆ。又、日本紀略に、長保二年七月十三日、奉幣二十一社、依大神社寶殿鳴動也。有辭別と見え、童蒙抄に、三輪明神の社に詣りて此女に逢ふべき由を祈り申す程に、其社の御戶を押開き見え玉ふ、抔も見えたり。』と宣長は、いへり。(一月十日)
[やぶちゃん注:「大正五年」一九一六年。
「大類博士」西洋史学者で東北帝国大学教授大類伸(おおるいのぶる 明治一七(一八八四)年~昭和五〇(一九七五)年)。博士号は大正四(一九一五)年に日本城郭史の研究により東京帝大から授与されている。
「大三輪神社」現在の奈良県桜井市三輪にある現行の正式表記は「大神神社(おおみわじんじゃ)」である。大和国一宮。旧来は「美和乃御諸宮」「大神大物主神社」と呼ばれ、中世以降は「三輪明神」と称された。現行でも後背の三輪山を御神体とする。伝承等については、当該ウィキを参照されたい。
「中村啓次郞」(慶応三 (一八六七)年~昭和一二(一九三七)年)は政治家。和歌山県士族吉川定之進の二男。生れて間もなく、先代宗兵衛の養子となった。明治二三(一八九〇)年、英吉利法律学校を卒業、日清戦争では占領地行政に従事し、遼東半島還付後、台湾に赴任、後に台北弁護士会会長となり、日刊新聞『台湾民報』を創刊、同社重役となり、和歌山県郡部から推されて衆議院議員に立憲民政党から出馬、五回、当選している。熊楠と同じく神社合祀政策に批判的であった。
「明治四十五年」一九一二年。同年は七月三十日に大正に改元。
「白井光太郞」(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)は植物学者・菌類学者。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。熊楠は神社合祀の反対運動のために彼に協力を求め、白井はそれに応じていた。
「Mannhardt, ‘Der Baumkultus der Germanen und ihre Nachbarstamme,’ 1875,」ドイツの神話学者・民俗学者ヴィルヘルム・マンハルト(Wilhelm Mannhardt 一八三一年~一八八〇年)の「ドイツ人とその周辺部族の樹木信仰」。
「passim」「各所」の意。
「Gubernatis, ‘La Mythologie des Plantes,’ 1878, tom.i, p.71 seqq. et p.272 seqq.」イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年:著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる)の「植物の神話」。
「Dennett, ‘At the Back of the Black Man's Mind,’ 1906, p.246」二十世紀初頭、現在のコンゴ共和国を拠点として活動したイギリスの商人で、西アフリカの文化についての社会学的・人類学的・民俗学的研究に影響を与えた本を数多く執筆したリチャード・エドワルド・デンネット(Richard Edward Dennett 一八五七年~一九二一年)の「黒人の心の奥で」。
「Leonard, ‘The Lower Niger and its Tribes,’ p.288」アメリカの地質学者アーサー・グレイ・レオナルド(Arthur Gray Leonard 一八六五年~一九三二年)のニジェールの民俗誌「下ニジェール及びその諸民族」。「Internet archive」のこちらで当該箇所が視認出来る。
「古事記傳卷二十三、意富美和之大神前《オホミワノオホカミノミマヘ》の傳の註に、「扨此御社、……」国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここから(昭和五(一九三〇)年日本名著刊行会刊)。
「日本紀略」平安末期に成立した歴史書。「編年紀略」とも呼ぶ。全三十四巻。成立年・著者不詳。神代は「日本書紀」そのままで、神武から光孝までの各天皇は「六国史」の抄略、宇多天皇以後、後一条天皇までは「新国史」や「外記日記」などに基づいて編集されているが、「六国史」の欠逸を補う重要史料とされる。
「長保二年七月十三日、奉幣二十一社、依大神社寶殿鳴動也。有辭別」長保二(一〇〇〇)年七月十三日、二十一社に奉幣す。大神社が寶殿、鳴動せるに依つてなり。辭、別に有り。」。
「童蒙抄」「和歌童蒙抄」。平安後期の歌学書。全十巻。藤原範兼の著。久安元(千百四十五)年頃の成立か。「万葉集」以下の諸歌集の歌を、「日」・「月」などの二十二項の部類に分けて語釈・出典を記し、さらに雑体・「歌の病」・歌合判について述べたもの。]
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