「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 屍愛に就いて
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇はやや長いので、分割する。上代特殊仮名遣紛いの当て字箇所や、漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。
本篇は二〇〇七年一月十日にサイトで「選集」版で「屍愛について」として公開しているが、今回は全く零から始めた。なお、標題下の書誌は底本では月が『五月』となっているが、古書サイトで当該原雑誌表紙画像を見たところ、「選集」の六月が正しいことが判ったので修正した。]
屍愛に就いて (大正十四年六月變態心理第十五卷第六號)
大正十四年二月の『變態性慾』九〇頁に、「江戶時代の文献に見えたる屍愛と殺人淫樂」の一篇がある。屍愛の例として唯一つ雨月物語にある、一僧が美童を寵愛の餘り、其の死屍に戯れ、終《つひ》には、其の肉を食ひ盡した話を擧げて有る。是は同性間の屍愛であるだけ事頗る異常を極めて居るが、異性間の屍愛を一例も擧げられなんだは殘り多い。但し、異性間の屍愛も江戶時代の文献に無いではない。
[やぶちゃん注:「江戶時代の文献に見えたる屍愛と殺人淫樂」調べてみたが、筆者不詳。『變態性慾』は日本精神医学会が大正一一(一九二二)年から大正一四(一九二五)年まで六巻を発行したもので、本篇初出の『變態心理』誌は、同会のその発展誌であるが、孰れも原雑誌に当たることは出来なかった。
「屍愛の例として唯一つ雨月物語にある、一僧が美童を寵愛の餘り、其の死屍に戯れ、終《つひ》には、其の肉を食ひ盡した話を擧げて有る」上田秋成の「雨月物語」の中でも、私の偏愛する「青頭巾」を指す。高校教師時代、オリジナルに何度も授業で用いた。私のサイト版で本文はこちらにあり、その授業案も雨月物語 青頭巾 授業ノートにあり、別に私が現代語訳したものも、雨月物語 青頭巾 やぶちゃん訳として公開しているので、参照されたい。]
例せば、寶永四年板、千尋日本織《ちひろやまとをり》二の四に、「下總の本庄といふ所は、隱逸の人、道心、比丘尼抔の餘多《あまた》住む處也。六時不斷の鉦の音いと殊勝に聞ゆる中にも勤め怠らず、朝に鉢を開き夕に戶ざすより、行きかう人もなく出《いづ》ることも稀なる道心あり。賤しからぬ生れ付き乍ら、鼻、落ちて、念佛の聲の、其れと知らるゝおかしさなりし。或時、其の邊《ほと》りに隱れまします智識の許《もと》に參りて懺悔しけるに、我れ、俗にて候ふ時は、小身の武家に勤め侍りし。主人の娘、優れて美はしく、十五歲の頃より痛《いた》わる事侍りて、緣にも付かず、兩親、いと惜しみ深く、もてなし玉ふ。我れ。勤めと云ひ乍ら、少し所緣なる者なれば、内外許され、行き通ふに、彼《か》の娘、いつとなく、我等に心をよせ、埋み火の下に焦がるゝ抔、ほこりかに聞かせ、文《ふみ》を袂に投げ入れなんどせしかど、當時、主人と仰ぐ上、人目の程、恐ろしく、よそ事《ごと》に打紛《うちまぎ》らかし過《すご》しぬ。兎角、月日重なり、病氣、重く、藥の業《わざ》も叶はず、祈る驗《しる》しもなくて、惜しきは、十七の秋の霜と消えぬ。たらちねの歎き申すに、言葉も續かず、戀慕ふよそ人は、ともに死なんとのみ歎きあへえり。漸く人々を勇め、野邊の送りも明日《あす》と定まり、今宵許りの名殘だに物言ひかはす事なく、誰彼《たれかれ》と集ひしも、みな、泣き寢入りて、夜も更《ふけ》ぬ。去れば、我《わが》思ひの切なるもこれまでぞと、猶も、死人《しびと》の一間に入りて、明くるを待ちて、守り居《ゐ》たりしが、流石、此の世の別れ、又有るまじき面影の、せめて變れるを見て、思ひ切らばやと、薄衣《うすきぬ》を引きのけて伺ふに、顏、貌《かたち》、世に美はしく生《うまる》る時に變らず、所々の温まり、未だ有りて愈よ、思ひを增《まし》つもりて、此時、倭里南紀一念起隣、空新奇人爾肌父憐弟世仁稀難累契離緖茹結眉指〔此の時、わりなき一念、起こり、空しき人に肌をふれて、世にも希(まれ)なる契りをぞ、結びし。〕。我乍ら、淺ましく、恥かしき、ありさまなり。明《あく》れば、野邊に送り、秋夕妙月《しうせきみやうげつ》と聞きて、驚くなき名のみ殘り、人々の歎きも、我れ一人の心に忘れもやらず、ふらりふらりと病み出《いだ》せしが、死人の肌を、ふれて、息冷《そくれい》の氣を受けける故にや、惣身《そうしん》、崩れ、鼻、落ちて、見苦しくなり行きぬ云々。」。かく懺悔した上、其の娘の幽靈、每夜、來ると告げたので、上人、機智を運《めぐ》らし、これを、退散、杜絕せしめた次第を載せて居る。
[やぶちゃん注:「寶永四年板、千尋日本織」同書は浮世草子で、作者は神秀法師、宝永四(一七〇七)年に京都で板行された。以上の本文引用は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにある同巻原本一括版PDFを参考にして(11コマ目以降)、一部に修正を加えた。熊楠が漢字にした箇所は、概ね、優先して残したので、原本そのままの表記ではない(因みに、「選集」も校合したようだが、一部におかしなところがあるので、殆んど参考にしていない。また、奇妙な当て字の箇所は、参考底本原本は普通にひらがな漢字交りで表記されている。他にそのように書き換えた版本があるのかどうかは判らない。どうも、熊楠が、わざと、面白がって、或いは、そこを猥褻として指摘されないように、確信犯として、かく、したのではないか? と私は疑っている。]
予の現住、紀州田邊町の或る人に聞いたは、黴毒《ばいどく》は、もと、屍犯より起つた、屍《しかばね》は、冷え切った物故、黴毒を、ひえと呼ぶ、と。シャレだらうと思ひ居《をつ》たが、本文を見れば、寶永の頃、既に、そんな說が行はれたのだ。明治十八年[やぶちゃん注:一八八五年。]頃、小石川の墓地で、屍と會へば、黴毒が癒ると信じ、掘出《ほりだ》す處を、寺僧に捉へられた者が有つたのも、病毒を本へ還納するといふ本意に出たものか。
[やぶちゃん注:「小石川の墓地で、屍と會へば、黴毒が癒ると信じ、掘出《ほりだ》す處を、寺僧に捉へられた者が有つた」調べてみたが、記事は見当たらなかった。所持するある本で読んだ記憶があるのだが、書庫の底に沈んで、ものを発見出来なかった。見つけたら、追記する。]
元亨釋書《げんかうしやくしよ》、一六に、釋寂昭、俗名大江定基、官に仕へて參州の刺史に至り、會《たまた》ま配《つれあひ》を失ふ。愛の厚きを以て、喪を緩《ゆる》ふす。因つて、九相《くさう》を觀て、深く厭離《おんり》を生じ、出家した、と述ぶ。九相は、人、死んで、九たび、變形するので、佛敎大辭彙卷一の八四四――五頁に圖を示し、詳說してある。愛の厚きを以て、喪を緩ふすとは、屍愛だ。宇治拾遺四には、「其女、久しく煩ひて、よかりける形も、衰えて、失せにけるを、悲しさの餘りに、兎角もせで、夜も、晝も、語らひ、臥亭口吸堂隣家樓〔臥して、口を吸ひたりける〕に、淺まし奇《き》、香の、口より出《いで》で來たりけるにぞ、疎《うと》む心、出で來て、泣く泣く、葬りてける。」と載つてゐる。是に似た印度の例は、明治四十五年七月に『此花』凋落號五一頁に出た予の「奇異の神罰」に引いて置いた通り、觀佛三昧海經七に在る。妙意といふ婬女を化度せんとて、世尊が美童を化成《くわせい》し、婬女、之と歡會すると、十二日、立年《たたね》ば、離れぬから、婬女も飽果《あきは》てゝ、死んでしまへ、といふ。そこで、美童、自殺して、其の屍が、七たび、變化するも、一向、離れず。婬女、慚愧して救ひを乞ひ、佛の神力で助かつたさうだ。之と反對に、佛說如來不思議秘密大乘經二には、菩薩が美女と現じて、男子の思ひを晴《はら》せやり、扨、忽ち、瘠せ死に、根門敗壞、臭穢不淨なるを見て、男子、逃げ去る時、その死女の身から、自然に聲を出し、法要を說《とき》て、かの男子を發心せしむ、とあり。此の方が、定基出家の話に、一層、起源をなしたらしい。源平盛衰記や遊女五十人一首には、定基の愛した女を赤坂の遊君力壽とし、三河雀七には、或る僧、參州本根の原で、力壽の靈に逢ふた時、彼女は「命終、近づきし時に、君(定基)名殘を惜しみつゝ、目乎殊肥口呼吸彼舌呼〔目を吸ひ、口を吸ひて、かの舌を〕吸出《すひいだ》し玉ふ。此愛念に輪廻して、終《つひ》に、惑ひの種となり、斯《かか》る苦《くるし》み、見玉へ、とて、左《さ》も美しき丹花の唇より、一丈餘りの紅の舌を、フツ、と吹き出だし、噫《ああ》、悲しや、と倒れ」、終に消え失せたので、其の僧、文殊山舌根寺と云ふ寺を立て弔ふた、と記してゐる。
[やぶちゃん注:「元亨釋書」鎌倉後期に書かれた仏教書。全三十巻・目録一巻。鎌倉末・南北朝初期の臨済僧虎関師錬(こかんしれん 弘安元(一二七八)年~正平元/貞和二(一三四六)年:京生まれ。一山一寧らに師事し、東山の法を継いだ。儒学・密教を学び、東福寺・南禅寺などに歴住し、東福寺に海蔵院を開創した。五山文学の先駆者とされる)著。元亨二(一三二二)年成立。仏教渡来から七百年間の高僧四百余名の伝記と史実を漢文体で記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「通俗元亨釈書和解」巻之中のこちらで当該箇所が読める。
「九相は、人、死んで、九たび、變形する」「佛敎大辭彙」は閲覧出来ないが、私も所持する「九相図絵巻」の類である。グーグル画像検索「九相図」をリンクさせておくが、閲覧は自己責任で。「宇治拾遺四」以上の大江定基の「宇治拾遺物語」所収の話は、私の「青頭巾」の「オリジナル授業ノート」に引用してある「宇治拾遺物語」の「三川(みかは)の入道遁世の事」[巻第四・七]を参照されたい。
『此花』宮武外骨が明治四三(一九一〇)年一月に発刊した浮世絵研究雑誌。大阪で発行されたが、赤字が嵩んで廃刊となったが、同雑誌に寄稿していた朝倉無声(朝倉亀三)の手によって「東京版」として新たに継続発行されることとなった。第十六枝は明治四十四年七月十五日発行。参照したサイト「ARTISTIAN」の「此花(大阪版)(雑誌)」のリスト・データに確かに載る。当該記事はネット上では読めない。雑誌巻号を「枝」とするのはなかなかに風流があったが、大坂版の終刊号を「凋落號」としたも、いい。
「奇異の神罰」本底本の後のここに出る。新字新仮名でよいのであれば、私のサイト版「奇異の神罰」がある。
「觀佛三昧海經」全十巻からなる仏典。東晋のインド僧仏駄跋陀羅(ぶっだばだら)訳。十二品に分けて、仏を観想する際の方法とその功徳について詳述する。仏駄跋陀羅(三五九年~四二九年)は漢訳略称を覚賢・仏賢・覚見とも言い、北インド出身であったが、当時の東晋に渡り、仏典の漢訳に携わった訳経僧であった。「大般涅槃経」「華厳経」「摩訶僧祇律」等、禅関連の経典漢訳で知られる。南方の引用するエピソードについては、森雅秀「『観仏三昧海経』「観馬王蔵品」における性と死」(PDFファイル)に詳しい。一読をお薦めする。
「佛說如來不思議秘密大乘經」西晋の法護の訳。漢文でよければ、「維基文庫」のこちらで読める。
「源平盛衰記」巻七の掉尾。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「源平盛衰記」三のここ(前ページ最終行に標題「近江石塔寺(あふみせきたうじの)事」のみがある)で視認出来る。
「遊女五十人一首」安田蛙文著の彩色絵草子。文化八(一八一一)年刊。「聖心女子大学図書館デジタルギャラリー」のこちらの9コマ目で視認出来る。
「三河雀」林花翁著。全四巻。宝永四(一七〇七)年自序。]
又、源氏物語に、光源氏、自ら藤壺を烝《じよう》した覺え有れば、夕霧が其の眞似をして紫の上を烝せんと用心して、紫の上に近付かしめず。然るに、秋風、暴《あら》く吹く混雜の折り、夕霧、初めて紫の上を見て、親とも覺えず、終夜、其の面影を念じて、眠らず。後、紫の上、死するに及び、野分の折り、見初めた面影、忘れられず、屍骸でも今一度見んと、几帳の帷子を引揚げて見ると、燈の、いとあかきに、御色《おほんいろ》は、いと白く光るように臥して、とかく打ち紛らすことありし生前の粧ひよりも、何心なく打ち伏したまえる死姿の方が一層よかつた、と有る。是も、屍愛が、外に發露せなんだもので、較《や》や、ローマ帝ネロが生母アグリツピナの屍の美をほめたと、似ておる。又、明治八年[やぶちゃん注:一八七五年。]頃、どこかの男が豫《かね》て戀して居《をつ》た女が死んだので、せめて、其の屍に逢はんと、掘り出すと、蘇生したので、女の兩親、許して婚姻せしめた例があつた。
[やぶちゃん注:「烝」「丞淫」の略。「目上の人と情交すること」。漢文から出た語。
「紫の上、死するに及び、野分の折り、見初めた面影、忘れられず、屍骸でも今一度見んと、几帳の帷子を引揚げて見ると、……」「御法」の帖の一節。「源氏物語の世界 再編集版」のここ。
「どこかの男が豫て戀して居た女が死んだので、せめて、其の屍に逢はんと、掘り出すと、蘇生したので、女の兩親、許して婚姻せしめた」これも読んだ記憶があるが、先のケースと同じで、発見したら追記する。]
支那で著しい例は、淵鑑類函三一四に、范曄《はんえふ》の後漢書に、「赤眉發掘諸陵、取寳貨、汙辱呂后、凡有玉匣者、皆如生、故赤眉多行淫穢」〔赤眉は諸陵を發掘し、寶貨を取り、呂后を汚辱す。凡そ玉匣(ぎよくこう)の有る者は、皆、生けるがごとし。故に赤眉は多く淫穢を行なふ。〕。呂后は夫高祖の在世、既に、色、衰へて、寵を戚夫人に奪はれ、七十一歲で崩じたと云へば、赤眉の嫉《そねみ》も、大分、物好きだ。又、列異傳を引いて、漢の桓帝の馮夫人、歿後七十餘年に、賊ありて、其の冢《つか》を發くと、顏色如故、但小冷、共姦通之、至鬬争相殺〔顏色は故(もと)のごとし。但し、小(すこ)しく冷えたり。共に之れに姦通し、鬪爭して相ひ殺すに至る。〕。後《の》ち、竇氏《とうし》、誅せられて、竇太后の代りに、馮夫人(ひようふじん)を桓帝に配せんとした時、陳公達と云ふ者、馮夫人は先帝の寵姬だつたが、屍骸が公園の溷《かはや》の如く、多人兒汚作例當上〔多くの人に汚(けが)された上は〕、天子に配食すべからず、と抗議したので、おぢやんと成り、依然、竇太后を据え置いた、とある。降つて、淸の蒲留仙の聊齋志異一四に、二八の處女商三官が、犬坂毛野同樣に、宴席果てたあとで、父の仇を討つ話あり。この女姣童の裝ひして、仇の枕席に侍し、之を殺し、自分も縊死する。仇の僕《しもべ》共、驅け付て、其屍を驗するに、女と知れたので、二僕、留まつて之を守るに、其貌、玉の如く、肢體溫軟、二人、謀つて、辱《はづかしめ》を加えん[やぶちゃん注:ママ。]として、先づ、近付《ちかづい》た一人、卒死したので、一同、大に驚き、神の如く敬った、とある。
[やぶちゃん注:「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」の当該巻のそれぞれの当該部で校合したが、字の異同はあるものの、特に問題はないと判断した。以上の人物については、事績を示す気がしない。悪しからず。
「淸の蒲留仙の聊齋志異一四に、二八の處女商三官が、……」所持する柴田天馬氏の訳によれば、敵討ちの動機は、父が酒に酔って、同じ村の豪家に逆らうような冗談をいったために、殴り殺されたことによる。中文サイト「漢川草廬」のこちらで原文なら見られる。]
佛典には四分律藏一に、若死屍半壞行不淨入、便偸蘭遮、若多分壞、若一切壞偸蘭遮、若骨間行不淨偸蘭遮〔若し、死屍の半ば壞《く》えたるに、不淨を行ひいて入るれば、便(すなは)ち偸蘭遮(とうらんじや)なり。若し、多分に壞え、若(もしく)は、一切、壞えたるも、偸蘭遮なり。若し、骨の間にて、不淨を行へば、偸蘭遮なり。〕。卷五五に、爾時比丘在塚間行、遙見死女人、身猶衣服莊嚴、卽便行婬、已疑、佛言汝波羅夷〔爾(そ)の時、比丘は塚(つか)の間に在りて行くに、遙かに、死せる女人の、身に、猶ほ、衣服の莊嚴(そうごん)なるを見る。卽ち、婬を行ひ、已(をは)りて疑ふ。佛、言はく、「汝は波逸夷(はいつ)なり。」と。〕。十誦律一に、難提比丘、林下に正坐するを、魔神が、之を破戒せしめんとて、美女と化け、前に立つた。比丘、之を見て、禪定、退失し、欲摩女身、女人卽却、漸漸遠去、便起隨逐、時彼林中有一死馬。女到馬所、則身不現。是比丘婬欲燒身故、便共死馬行婬、既行婬已、欲熱小止〔女身を摩《ま》せんと欲するに、女人、卽ち、却《しりぞ》き、漸々として遠く去る。便(すなは)ち、起ち、隨ひて逐(お)ふ。時に、彼(か)の林中に一つの死馬、有り。女、馬の所に到れば、則ち、身、現はれず。是の比丘、婬欲に身を燒く故に、便ち、死馬と婬を行ふ。既に婬を行ひて已(をは)れば、欲熱、少しく止む。〕とある。又、妙光女の死體越五百群賊俄汚〔死體を、五百の群賊、俄かに汚〕して五百金錢を置去《おきさつ》た珍譚は、大正五年一月の太陽に出した「田原藤太龍宮入の譚」に詳述して置いた。水鏡に、惠美押勝、敗軍して、其女が五百兵士に犯された、と有り。生きて居《をつ》てそんな多勢の相手はなるまいから、多分、妙光女の話の模造か、左も無くば、五百兵士の多分は、屍愛者だつたと見るの外はない。
[やぶちゃん注:仏典とするものは、大概、「大蔵経データベース」で校合し、幾つかの不審箇所を訂した。
「田原藤太龍宮入の譚」」所謂、「十二支考」の「龍」に当たるもの。「青空文庫」のこちらで、新字新仮名で読める。「竜とは何ぞ」の第五段落目を見られたい。
「水鏡に、惠美押勝、敗軍して、其女が五百兵士に犯された、と有り」国立国会図書館デジタルコレクションの活字校定本「水鏡」で見る(頭注の「押勝の叛逆」パート内。右ページ二行目)と、倍の千人とあるんですけど? 熊楠先生?]
西洋にはイタリアの古い小說、シンチオのエカトンミチや、バンデロのノヴエレ等に散見したと覺えるが、委細は忘失した。一八八 [やぶちゃん注:字空けはママ。「選集」に『一字欠字』の割注がある。]年巴里板、ボールの色痴篇に、臨終を勤めに行《いつ》た僧が其死尸《しかばね》を汚した等、數例を擧ぐ。ブラントームの艶婦傳一には、ダルマチアの士人が姦夫を殺し、其屍と姦婦を同衾せしめ、屍臭に害されて、數日中に、姦婦は死んだ、とある。ヘロドトスの史書に、埃及の豪族の妻女や美女や名女は、死後、直ちにミイラ師に委ねず、三、四日して、初めて、渡す。曾て、新死の女屍を、ミイラ師我汚尸他事〔ミイラ師が尸(しかばね)を汚した事〕、其同輩より、ばれてから、こんなに成つたと述べ、又、希臘のコリンチアの王ペリアンドロスが、尋ぬべき件があつて、亡妻メリツサの靈を招かしむると、靈、現じて、其の使に向ひ、吾れ、死んだ時、吾が衣を燒かず、其の儘、吾《わが》屍體に、きせて、埋めた。故に、衣が吾に添はず(是は、支那人同樣、神靈に寄る物は、燒いて後、初めて達する、と古ギリシアで信ぜられたから)、裸でふるへ居《を》る次第で、何にも答へ得ぬ。但し、吾れ、眞にメリツサの靈たる證據として、王は冷たい竈《かまど》に王のパンを入れたと語れ、と云つて消え去つた。是は、王、一旦の怒りに、妻を打殺《うちころ》して後、其體に不淨を行ふた。王の外、誰も知らないのに、其を使ひが還つて告げたから、王も仰天して、確かに妻の靈が現われたと信じたのである、と記している。陰相を竈、陽相をパン又は忰《せがれ》と見立《みたて》るは歐人の習ひで、ブラントームの艶婦傳七に、老女の情事衰へぬ例を擧げて、「火燒きの名人より、古い竈は新しい竈より焚《たき》易く、一度焚けば、よく熱を保ち、よいパンがやける、と聞いた」と言つた。十六世紀に高名だつたジォヴァニ・デラ・カサの「竈の賦」には、陰相を大釜、後庭を小釜と云《いふ》た。日本で、昔は陰相を、今は後庭をお釜とよぶに、よく似ておる[やぶちゃん注:ママ。]。
[やぶちゃん注:「シンチオのエカトンミチ」不詳。
「バンデロのノヴエレ」イタリアの修道士で作家のマッテオ・バンデッロ(Matteo Bandello 一四八〇年~一五六二年:詳しくは参照した当該ウィキを見られたい)の代表作である“Novelle”(ノォヴェレェ:イタリア語で「説話集」「短編物語集」の意)。一五五四年に出版された二百十四篇からなる物語集。『ボッカチオ以来の伝統であった大きな物語の中に短篇を挿入していく形式をやめ、短篇を独立させ』ている。『物語の素材は』、『いろいろな場所からとられているが』、十六『世紀初頭の有名な王侯貴紳の逸話に取材される場合が多く、年代記のような趣を与えている。シェイクスピアの』戯曲「空騒ぎ」「ロミオとジュリエット」は、実は『この物語集から素材がとられている』とある。
「ボールの色痴篇」不詳。
「ブラントームの艶婦傳」フランスの作家で、嘗ては軍人・廷臣でもあったブラントーム(Brantôme 一五四〇年頃~一六一四年)。本名はピエール・ド・ブールデイユ(Pierre de Bourdeille)。サン=ピエール・ド・ブラントーム修道院の院長も勤めた。当該ウィキによれば、『名門の貴族の出で、ナバラ王国』(中世のイベリア半島北東部パンプローナより興った王国)『の宮廷で成人し、パリ、ポワティエで法律を学んだ。生涯の大半をフランス各地、ヨーロッパ諸国の漫遊と』、『戦争への参加に費やした。ユグノー戦争ではカトリック側に参加したが』、一五八四年に『落馬して重傷を負い』、『公的生活から引退』した。『自身の豊富な体験や見聞を記した』「高名貴女列伝」( Vies des dames illustres )や「貴紳武人列伝」『などを書いた』。『今日も読まれている』ものは、「著名貴婦人伝」の第二部の「好色女傑伝(艶婦伝)( les Dames galantes )で、『性的に奔放であったルネサンス末期の貴婦人たちにまつわる生々しい逸話を描いた作品である』とあるのがそれであろう。
「ダルマチア」Dalmatia。現在のクロアチア共和国南西部の一地方。リエカ以南のアドリア海岸部(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を指す。
「希臘のコリンチアの王ペリアンドロス」(Periandros ?~紀元前五八六年)は古代ギリシアのコリント(コリンソス)の僭主(本来の皇統・王統の血筋によらず、実力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となった者を指す)で在位は紀元前六二七年から没年まで。「ギリシアの七賢人」の一人とされる。交易の要地をよく掌握し、怠惰や奢侈を禁じ。産業・商業を奨励したため、コリントは繁栄を極めた。エジプトやリュディアとの友好を結び、アテネとミュチレネの調停をするなど、外交でも活躍し、詩人アリュオンを招くなど、コリント文化の繁栄にも寄与した人物である。サイト「臨床心理学用語事典」の「ペリアンドロス」によれば、『ペリアンドロスはリュシデを妻としましたが、彼はその妻をメリッサと呼んでいました』とあり、さらに、『ある日、妊娠中の妻リュシデがペリアンドロスを愚弄している、という噂や中傷を側室が流しました。それを真実と信じたペリアンドロスはリュシデを殺害してしまいます。後になって、側室の誹謗中傷だと知ったペリアンドロスは、その側室達も全員焼き殺してしまったそうです』とある。
『ジォヴァニ・デラ・カサの「竈の賦」』フィレンツェの詩人・作家にして司教・外交官・異端審問官でもあったジョヴァンニ・デッラ・カーサ(Giovanni della Casa 一五〇三年~一五五六年)の淫猥な詩篇“ Capitoli del forno ”。
「陰相」女性生殖器の膣周辺。
「後庭」肛門。]
序にいふ、會津風土記に、城長茂《じやうのながもち》の妻、名は竈御前とある。本朝俚諺(正德四年)を嬉遊笑覽に引いて、本國の俗、妻を呼《よん》で釜といふは、據《よりどこ》ろ、あり。酉陽雜俎に、賈客が家に歸る道中で、臼の中で炊《かし》ぐ、と夢み、卜者王生に問ふと、歸つても妻を見じ、臼中に炊ぐは、釜がないのだ、と答へた。客、歸れば、妻、既に死んで居《をつ》た、とある。俚諺より六年前(寶永五年)に出た美景蒔繪松《びけいまきゑのまつ》は、伊勢古市《ふるいち》の艷女(アンニヤ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]のことを書いた物で、その凡例に、艶女を、もりする中居女、見通りは、下女乍ら、襷、掛けず、手拭、さげず、木綿の不斷着《ふだんぎ》に、絹布の二つ割り、廓《くるわ》にての遣手《やりて》に似て、遣手にあらねば、客と艶女の中に立つて、諸事世話をなす女、歷々方の前をも憚からぬ故、釜と名付けたるとみえたり、とあって、卷一に、「アンニヤの廊下のしゞら島か、あれは中居女のよしといふ釜、釜乍ら、大體では厶《ござ》んせぬ、兩町の内で指折りになる四天王の一人。」とある。是に據れば、本《も》と、茶席で釜を重んじた故、主婦、又、世話役の女を釜と呼んだのだ。但し、慶長十八年頃の寒川入道筆記《さむかはにふだうひつき》に、主人が、六尺[やぶちゃん注:下男の意。]に風呂をたけと命ずるに、たかれぬ、という。何故《なにゆゑ》と問ふと、「それに、かみ樣の御座《ござ》あるほどに、分かり申すまい。なぜに、苦しからず申せと、せつかれたれば、さらば、申さう、釜が、われ申した。それがかみ樣に構ふか、なかなか、構ひ申する。なぜに。たつに、五、六寸ほど、われ申した、と云つた」。それより六十年前に、八十九で死んだ山崎宗鑑の附句に、「臍能邊里遠途岐寶筮理解理」〔臍(ほぞ)の邊(あた)りを突(つ)き掘(ほ)ぜりけり」、「生柴《なましば》を小釜の下に折りくべて」ともあれば、陰相を釜ということは、天文頃、既にあつたのだ。
[やぶちゃん注:「城長茂」(?~建仁元(一二〇一)年)は平安後期から鎌倉初期の武将。越後国白河荘(現在の新潟県北蒲原郡の東南部)に居館を置いていた。兄資永の死後の治承五(一一八一)年六月に一万余の軍勢を率いて、信濃国に進軍、横田河原(長野市)で木曾義仲と戦ったが、敗北、同年八月には越後守に任命されるが、元暦元(一一八四)年の春以降に、越後に進攻した鎌倉方の軍勢に捕らえられ、囚人として鎌倉に送られた。文治四(一一八八)年九月、熊野の僧定任のとりなしで、頼朝と対面するが、御家人となることを、拒否した。しかし、翌年七月、頼朝から奥州征伐に参陣することを許され、その後、幕府御家人となったものと思われる。しかし、頼朝没後の正治三(一二〇一)年一月、鎌倉幕府打倒を企て、京で挙兵するが、失敗、同年二月に討たれた。長茂の京での挙兵に呼応して、甥の資盛や、妹坂額(ばんがく)が越後国で蜂起したが、幕府軍に討たれて、城一族は滅亡した(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「本朝俚諺(正德四年)」(一七一四年)「を嬉遊笑覽に引いて、本國の俗、妻を呼《よん》で釜といふは、據ろ、あり。酉陽雜俎に、賈客」(旅上人)「が家に歸る道中で、臼の中で炊《かし》ぐ、と夢み、卜者王生に問ふと、歸つても妻を見じ、臼中に炊ぐは、釜がないのだ、と答へた。客、歸れば、妻、既に死んで居《をつ》た、とある」井沢蟠竜(はんりょう)の著になる俚諺辞書。探すのに手間取ったが、巻之九の「娼妓」の「阿釜(おかま)」にあった。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本で、ここ。編者頭注の左ページの「阿釜と云事」。なお、原本「酉陽雜俎」では巻八の「夢」の中の一条で、「中國哲學書電子化計劃」の影印本で、ここの二行目「卜人徐道昇言、江淮有王生者、榜言解夢。賈客張瞻將歸夢……」以下が、それである。
「寶永五年」(一七〇八年)「に出た美景蒔繪松」市中軒 の著になる浮世草子。
「伊勢古市」現在の三重県伊勢市古市町(ふるいちまち)。伊勢内宮の門前町。個人サイト「古い町並みを歩く」の「伊勢市古市町の町並み」によれば、伊勢参りが江戸中期以降、全国的に流行り、『時に異常な大群衆が一時期、爆発的に伊勢参りに押し寄せ』、「おかげ参り」と呼ばれたとされ、『このおかげ参りは』、宝永二(一七〇五)年・明和八(一七七一)年・文政一三(一八三〇)年に『おこった。その折の人数については』、『本居宣長が「玉勝間」に』宝永二年四月九日より五月二十九日までに三百六十二万人と『記していて、「伊勢太神宮続神異記」にも』三百七十『万とほぼ同数あげている』とある。そして、この『おかげ参りで賑わったのは』、『古市から中之町にかけての間の山地区で、油屋・備前屋・杉本屋という三大妓楼のほか、柏屋・千束屋などの遊郭が並び、天明頃』(一七八一年~一七八九年)の『最盛期には遊郭』七十『軒、遊女』一千人、『大芝居小屋』二『軒・人家』三百四十二『軒を数え、一大歓楽街となった』とある。後に出る「兩町」は「りやうちやう」で、この古市町と中之町を言っているのかも知れない。
「艷女(アンニヤ)」遊女の意であるが、「アンニヤ」は「兄女」「兄姉」か。
「慶長十八年」一六一一年。江戸幕府開府から十年後。
「寒川入道筆記」は随筆。著者は定かではないが、松永貞徳ではないかと言われている。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「史籍集覧」第二十五のこちら(右ページ五行目)で確認できるが、どうも、この文の意を捉えかねている。この下男或いは一種の愚鈍で、この主人の妻と密通したものか? 「たつに」は「縱(たて)に」の意か? 判らん。]
誰も知る通り、西曆十一―十二世紀の間だ、敏辯無比の名を擅《ほしい》まゝにしたアベラールは、廿二も年下な才色兼備のエロイサを、名歌と美聲で、自分にべたぼれさせ、孕ませて後ち、拐去《かどわか》した仕返しに、エロイサの叔父に宮《きう》せられ、折角の令譽を大いに墮《おと》したが、二人の情愛は死に迨《およ》んで止まず(男六十三で死んだ時、女が四十一歲、是れも六十三で、一一六三年、死んだ)。エロイサ尼の臨終の言により、廿二年前に死んだアベラールと同葬せんとその墓を開くと、屍、忽ち、兩臂を擴げて、エロイサを抱きしめ、全たき愛は、死もこれを消す能はざるを示した。偕老は出來なんだが、確かに永々同穴を樂しんだ者だ。穴賢《あなかしこ》しと今に至つて讃稱さる(一八一一年トロア板、ムーシヨー戀話名彙一卷、其の條。ヂスレリ文海奇觀二板、一卷二二一頁以下。一八九一年板、エルドマン、哲學史。英譯、一卷一六一章)。屍が屍を抱いたのも、亦、別格の屍愛だ。
[やぶちゃん注:最後の参考書誌は注さない。悪しからず。
「アベラール」中世フランスの論理学者にしてキリスト教神学者であったピエール・アベラール(Pierre Abélard 一〇七九年~一一四二年)。当該ウィキ他によれば、『「唯名論」学派の創始者として知られ、後にトマス・アクィナスらによって集成されるスコラ学の基礎を築いたとされる。弟子であるアルジャントゥイユ』(Argenteuil)修道院にいた『エロイーズ』(Héloïse:最高の貴族の子孫の非嫡出子)『とのロマンスでも有名』。『ラテン語式のペトルス・アベラルドゥス(Petrus Abaelardus)という名前でも知られる』。『ナントに近いパレ(Pallet)で生まれ、音声言語論者ロスケリヌス』(Roscelinus)と、『実在論者のギヨーム・ド・シャンポー』(Guillaume de Champeaux)『に師事、パリのノートルダム大聖堂付属学校で神学と哲学の教師となって非常な名声を博した』。一一一七『年頃、アベラールはノートルダム大聖堂参事会員フュルベールの姪エロイーズ』(一一〇一年~一一六四年)『を知った。エロイーズは容貌もよく、学問に優れていたため』、『国内でも有名であった。アベラールはエロイーズに魅力を感じ、フュルベールに住み込みの家庭教師となることを申し出た』。二十『歳以上年の離れていた』二『人は熱烈な恋に陥り、やがてエロイーズは妊娠した。アベラールはエロイーズをひそかにブルターニュの妹のところに送り、そこで男の子アストロラーベ(船乗りが航海で使う天文観測器の意)が生まれた』。『このスキャンダルに叔父フュルベールは激怒したが、アベラールは和解を申し出て、エロイーズと秘密の結婚をした。しかし』、『叔父が和解の条件を守らないことや』、『エロイーズを虐待することなどから、エロイーズをアルジャントゥイユ修道院に移した。これにフュルベールは激怒し、縁者らにアベラールを襲撃させ、睾丸を切断させた。アベラールは後にこれを』書簡の中で、『「罪を犯したところに罰を受けた」といっている。実行犯』二『人は捕らえられ、眼をえぐられ、陰部を切除された。この事件の後、アベラールはパリを離れてサン・ドニ修道院に移り、修道士となり、エロイーズはアルジャントゥイユ修道院の修道女になった』とある。]
予は東洋にこんな例が有るか知らぬが、十六國春秋に、後燕《こうえん》の昭文帝、符后を愛することが非常で、后が、夏、凍魚鱠《こほれるうをなます》を思ひ、冬、生地黃《まなじわう》を欲した時、皆な、有司に下して、必ず、見出だして、献《たてまつ》れ、ないでは、濟まさず、死刑に處す、と命じた。后、崩ずるに及び、帝、氣絕し、久しうして、蘇へり、百官を宮内に召して、哭せしめ、淚出《いで》た者を、忠孝とて、淚出ぬ者に罪を加へたので、一同、口に辛い物を含んで、淚を催した。帝は又、自分の兄の美妻に逼つて、后に殉死せしめ、廻り數里なる陵を營ましめ、それが成つたら、后に隨つて、此の陵に入るべし、と言った。斯る虐政に堪えず、臣下らは、謀反して、帝を殺した。元經薛氏傳七には、此の時、帝の屍を、符后の墓に會葬し、國人、之を笑ふたとあるが、是れ程、后に惚《ほ》け込んだ帝なれば、死した後も、地下に兩手を擴げて歡迎し、長夜の會を貪つたゞらう。又、本元の支那の書に見えぬが、俗傳が渡日したものか、今昔物語十の一八に、霍光、其の妻の屍を、柏木の殿に葬り、朝暮、食物を供へ禮して返る。一日、晚方に例の如く、食物を備ふると、其の妻、本《もと》の姿を現じ、光を捕へて、懷抱せんとす。光、恐れ迯る。其の腰を、妻の手で打たれ、家に還つて、腰、痛んで死んだ、と出てゐる。是は、妻の幽靈に、强いて据膳をすゝめられたのだ。屍が起きて來たとも見えるから、記して置く。
[やぶちゃん注:「後燕の昭文帝」慕容熙(ぼよう き/在位:四〇一年~四〇七年)。おぞましい事績は当該ウィキを見られたいが、そこに、四〇七年に皇后『苻訓英』(ふ くんえい)『が死去すると、悲しみのあまり屍を抱いて気絶し、棺を作らせて』、『その中で交合した。粥しか食べず、臣下にも悼んで泣くことを強要し、泣けない者は辛子を含んで涙を流した』とある。
「今昔物語十の一八に、霍光、其の妻の屍を、柏木の殿に葬り、……」「今昔物語集」巻第十の「霍大將軍値死妻被打死語第十八」。以下に電子化する。「新日本古典文学大系」版を参考に漢字を概ね正字化して示した。
*
今は昔、震旦(しんだん)の漢の先帝の時に、霍大將軍(くわくたいしやうぐん)と云ふ人、有りけり。心、猛くして、悟り、有り。此の人、國王の御娘を妻(め)として有り。
而る間、其の妻、死ぬ。將軍、限り無く戀ひ悲しむと云へども、亦、相ひ見る事、無し。而るに、將軍、忽ちに、栢(かしは)の木を伐りて、一(ひとつ)の殿(との)を造りて、此の死せる妻を、其の殿の内にして、葬(さう)しぬ。
其の後(のち)、將軍、悲しみの心に堪へずして、朝暮に、彼(か)の殿に行きて、食物(じきもつ)を備へて、禮(らい)して還る。此(かく)の如くして、既に一年を經(へた)る間に、將軍、日晚方(ひのくれがた)に、彼の殿に行きて、例の如く、食物を備ふる時に、昔の妻(め)、本(もと)の姿にして、出で來(きた)れり。
將軍、此れを見て、戀ひの心、深くして有りと云ふとも、恐(お)ぢ怖るる事、限り無し。
妻、將軍に語りて云はく、
「汝ぢ、我を戀ひて、此の如く爲(せ)る事、實(まこと)に、哀れに、貴(たふと)し。我れ、喜ぶ所也。」
と。
將軍、此の音(こゑ)を聞くに、彌(いよい)よ、恐ぢ怖る。
夜、深くして、人、無し。
將軍、
『逃げ去りなむ。』
と思ふ間に、妻(め)、將軍を捕へて、忽ちに、懷抱(くわいはい)せむとす。
將軍、怖ぢ迷(まど)ひて、逃げなむと爲(す)るを、妻、手を以つて、將軍の腰を打つ。
將軍、打(う)たれて、逃げて去りぬ。
家に歸りて後(のち)、卽ち、腰を痛(いた)むで、夜半に死ぬ。
其の後、天皇、此の事を聞き給ひて、此の女(むすめ)の靈(りやう)を貴(たふと)びて、封(ほう)百戶を加へ給ふ。
其の後は、國に災(わざはひ)起らむと爲(す)る時には、彼の殿の内、鳴る事、雷(いかづち)の音の如く也。
加之(しかのみならず)、新たなる事、多し。
其の殿の鳴る時は、世の人、
「例の栢靈殿(はくりやうでん)の音(おと)、鳴る。」
とぞ云ひける。
然(さ)れば、人を戀ひ悲しむ心、深くとも、然(しか)の如きの事をば、爲(す)べからず。靈(りやう)と成りぬれば、本(もと)の人の時の心は、失せて、極めて怖しき事也、となむ語り傳へたるとや。
*]
此の篇の初めに言つた同性間の屍愛に較《や》や似た例は西洋にも有つて、ソーシーの懺悔篇七章に、佛皇アンリー三世は嬖童《へいどう》の屍に跪《ひざまづ》き、其兩山のあいだに著口《くちづけ》したと載す。此皇は小姓遠幸州留事〔小姓(こしやう)を愛すること〕、度に過ぎ、小姓共、閉口して神使の聲色で、皇に外色《がいしよく》を嚴戒したといふ。
[やぶちゃん注:「ソーシーの懺悔篇七章」不詳。
「佛皇アンリー三世」アンリⅢ世(Henri Ⅲ 一五五一年~一五八九年:暗殺死)はヴァロワ朝(dynastie des Valois)最後のフランス王(在位:一五七四年~一五八九年)。当該ウィキによれば、『アンリ』Ⅲ『世の死後』、『長い間、彼はホモセクシャルか、少なくともバイセクシャルであると考えられていた』。『アンリ』Ⅲ『世がホモセクシャルであることを示す良質な史料』『は多く』『あるものの、この件については』、『依然として議論がある』。ある研究者たちは、『アンリ』Ⅲ『世が多くの愛人を抱えており、ホモセクシャルではない(バイセクシャルかもしれないが)証拠を発見した。そこには男性の名前はなく、当時の彼は美しい女性を好むことで有名だった。アンリ』Ⅲ『世がホモセクシャルであると考えられたのは、彼が戦争や狩猟を嫌ったことが女々しいと受け取られており、また』、『同性愛者の男性は女々しいものであるという偏見があり、この事から敵対勢力(ユグノーと過激派カトリック)が』、『フランスの人々を彼に敵対させるよう』、『仕向けるために作った話であると結論付けている』とあった。
「外色」男色。]
ボールの色痴篇に吸血鬼(ヴアムピール)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。底本では「ワムピール」であるが、「選集」の表記(そちらではルビ)を採用した。]を屍愛と同事異名としてあるが、吸血鬼は佛經に見えた起屍鬼の類で、死人の靈が惡性の者に成ったり、他の惡鬼が死屍に付いたりして、其の死屍が、夜間、起きて、出步いて、人を害するので、さらに屍愛に關係せぬ(委細は、コラン・ド・プランシー、妖怪辭彙。大英百科全書、十一板、二七卷。トマス・ライトの中世英國論集第九論。アッボットのマセドニア俚俗、二一六頁已下。ガーネットの土耳其女と其の俗傳卷一の一三六―四一頁)等で見るがよい。
[やぶちゃん注:最後の書誌は、既出既注にものが多いので、注は附さない。悪しからず。]
之に反し、諸國に墓所や死人置場に近く宿つて、死人の靈と通じた多くの譚が有るが、その内には、多少、屍愛の事實に基いたのもあらう。搜神記一[やぶちゃん注:「選集」も同じだが、これは巻「十六」の誤り。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本を市にされたい。]に、駙馬なる語の源を說いて、辛道度《しんだうど》なる者、遊學して、雍州城西五里の地に至り、一つの屋敷に就て食を乞ふと、下女が引入れて、主人の女に目見《おめみ》えしめ、食事を振舞はれた。其がすむと、女曰く、我は秦王の娘で、曹國へ行つたが、夫なしに、死して、二十三年、此宅に獨居するのが淋しい、君と夫婦に成らうと逼つて、三度《みたび》、振舞つたのち、生きた人と、死んだ我れと、三晚以上、宿れば、禍ひあり、とて、紀念に金椀一を與へ、下女をして、送り出させた。數步、行かぬ内、顧みれば、家はなくて、荊棘《いばら》茂つた、一つの塚のみ、あり。怪しんで、懷中を調べると、只今、貰ふた椀は、ある。それから、秦國に至り、市に出して、其の椀を賣る折りも折り、王妃、車に乘《のり》て來り合せ、椀を見て、由來を問ふ。道度が、仔細を語るを聞き、妃、大いに悲しみ、且つ、疑ひ、人を遣はして、彼の塚を發《あば》き、柩を開かしむると、王女の屍と共に葬つた物が、皆な、有つたが、金椀のみは無かつた。衣を解いて、其の體をみると、情交の跡、確かだつた。王妃、始めて、道度の言を信じ、死んで廿三年にもなるに、生《いき》た人と交つた我《わが》娘は大聖だ、此の男は我が眞の婿だと在つて、彼を駙馬都尉に任じ、其に相應の金帛車馬を賜ひ、本國へ還らしめた。以來、女婿のことを駙馬と云《いふ》のだ、と。
[やぶちゃん注:「駙馬」元は、「馬車で、予備に外側につけておく馬・副馬(そえうま)」のことで、特に、「天子の乗輿に用いる副馬」であったが、そこから、天子の副馬を司る官名となり、さらに魏晉以後に、皇女の婿となった者は、必ず駙馬都尉の官に任ぜられたことから、「皇帝・貴人の婿」を指す語の変じた。]
法苑珠林《ほうをんじゆりん》九二[やぶちゃん注:「大蔵経データベース」で原本文を確認したところ、巻第七十五の誤りである。]に、晋の時、武都の太守李仲文、在郡中に十八歲の娘を死なせ、假りに葬つた。其の後、仲文、官職をやめ、張世之が之に代つた。其の子、字は子長、年二十で、厩にとまつて居《をつ》て、五、六夕、同じ夢を見た。十七、八の女の、顏色、常ならざるが現れて、吾は前の太守李仲文の娘で、早く死んだが、汝と相愛《あひあい》し、樂しむべく參つた、といふ。それから、一日、忽ち、白晝に、殊の外、よい匂ひの衣服を着て現はれ、遂に夫妻と成つたが、寢た時、衣が汗に沾《ぬ》れて、體が、全く、處女の如し。其の後ち、仲文は、婢《はしため》をして、娘の墓へ詣らせる途次、その婢が、世之方《のかた》に立ち寄り、仲文の娘の履《くつ》片足、子長の牀下《とこした》にあるを見付けて、此人は、吾《わが》主人の娘の墓を掘つたと呼《よば》はり、持ち歸つて、主人に示すと、仲文、驚いて、世之を詰《なぢ》り、世之は、其子に問ふて、始終を聞き知つた。そこで、李張、共に、怪しみ、棺《ひつぎ》を發《あらはに》して見ると、娘の體に、肉、生じ、顏、姿は元の如く、右脚に履をはき、左脚に履無し。其の後ち、娘、全く、死し、肉が落ちてしまつたから、泣いて別れたと云ふ。衣皆有汗如處女〔衣、皆、汗、有りて、處女のごとし。〕とは、破素された際、汗が衣に通ると云ふので、源氏物語に、源氏が、紫の上に、新枕の條に、「思ひの外に、心うくこそ、おはしけれな、人もいかに怪しと思ふらんとて、御衾をひきやり玉へば、汗に押し浸して、額髮も、いたう沾れ玉へり。」。難波江に、狹衣や、とりかへばや物語を引いて、女の世馴れてあると、無きとは、初めて逢へる男の心に知られる由を說きあるも、こんな事からであらう。
[やぶちゃん注:「法苑珠林」唐の道世が著した仏教典籍の一つにして類書。全百巻。六六八年成立。当該ウィキによれば、『引用する典籍は仏教のみならず』、『儒家、道教、讖緯、雜著など』四百『種を超え、また』、『現在は散逸し』てしまった「仏本行経」・「菩薩本行経」・「観仏三昧経」・「西域誌」・「中天竺行記」などの引用があり、旧『インドの歴史地理研究の上で』も『重要な史料となっている』とある。
「破素」(はそ/はす)」は「破瓜(はか)」に同じ。処女喪失。
「源氏物語に、源氏が、紫の上に、新枕の條に、「思ひの外に、心うくこそ、……」第九帖「葵」のこちら(サイト「源氏物語の世界 再編集版」当該部)。
「難波江」不詳。てっきり、安永の頃に記したとする、かの松平定信の十七条から成る女訓書のそれと思って、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を何度も視認したが、熊楠の言うような部分が見当たらなかった。]
珠林同卷に、又、云ふ、唐の王志、益州縣令に任じ、期、滿ちて、歸鄕の途中、綿州で、其娘、未婚で死んだから、棺を其の地の寺に停め、そこに累月、留まつた。其の先より、此の寺に留《とま》つて居《をつ》た學生《がくしやう》の房内へ、此の死んだ娘が盛裝して來り、戀慕の情を明かしたので、相知つて月を經た(爰に知ると云《いふ》は交《まじは》るの義で、英語に同じ)。後ち、女が鋼鏡一つ、巾、櫛、各一を學生に與へ、辭別した。家來共が出發に臨み、件の物件、紛失に驚き、寺中を搜し、學生の房中で見出したから、盜人と見て縛つて置いた。學生は事實を說き、まだ衣服二枚も紀念品として貰ふたと云つたので、棺を開き見れば、衣服が、二枚、ない。女の身をみれば、人に幸された徵《しるし》あり。因つて、解放して、どこの人かと聞くに、元、岐州生れで、父が南の方へ任官して往くのに隨ふたが、兩親共、死んだに由つて、諸州を廻り、學問し、程無く岐州へ還る積りであると云ふ。王志もまた、岐州へ還る者であるから、扨は同鄕の人だとて、衣馬を給し、著《き》飾らせ、つれ歸つて娘の夫とし、甚《いた》く憐愛した、とある。これは殯禮《ひんれい》の爲め、棺を寺内に置《おい》たと知つて、其學生が私《ひそ》かに、棺を開き、每夜、屍愛を肆《ほしい》まゝにしたので、これに似た例がボールの色痴篇に出ている。屍に付いた物を盜んで、其の女の靈に逢ひ、又は、相愛した證據とし、女の親を騙《かた》つた話は續沙石集五下、本朝虞初新誌卷上等に見えてゐる。
[やぶちゃん注:先に同じく、「大蔵経データベース」で原文を確認した。
「英語に同じ」“have sexual intercourse”、“have sex”、“have coitus” 、“make love”等。
「續沙石集五下」「新日本古典籍総合データベース」のこちらから視認出来るのだが、今、余裕がなく、ざっと縦覧した限りでは、どの話か判らなかった。
「本朝虞初新誌」は文人・漢学者の菊池三渓(文政二(一八一九)年~明治二四(一八九一)年)が本邦の俗伝や古典を漢文訳したもの。明治一六(一八八三)年刊。「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで視認出来るが、同前で子細に読んでいないものの、恐らくは「嬌賊」の後に附属してある「附記騙盗」であろうとは思われる。孰れも悪しからず。]
【追記】
左の經文の方が寂昭の話によく似て居《を》る。
趙宋の西天三藏傳梵大師法護等が譯した佛說如來不思議祕密大乘經卷の二に曰く、若し、或は、男人、染心を貪る者ありて、殊妙端嚴の色相に愛着せば、菩薩、即ち、其前に於て、爲めに、端嚴女人の相を現じ、彼《か》の弟子、染愛の心に隨ひて、悉く其意の如くす。時に、彼《か》の女人、染着を以ての故に、形容、枯悴し、卽ち、命終に趣き、根門、敗壞、臭穢不淨なり。時に、彼の男子、無智を以ての故に、厭惡《えんを》して去る。即ち、其人、死滅の身、自然、聲を出《いだ》し、爲めに、法要を說き、彼の男子をして、心に開悟を生じ、阿耨多羅三貌三菩提《あのくたらさんみやくさんぼだい》に退轉せざらしむ、と。
[やぶちゃん注:「大蔵経データベース」で確認したが、多少、漢字表記が異なるが、熊楠の訳なので、そのままとした。
「寂昭」先に出たが、大江定基の法号。
「趙宋」宋(ここは北宋)に同じ。この呼称は王室の姓に基づくもの。
以下は、底本では全体が三字下げ。]
追 補 (大正十五年十月五日夜十時記)
大江匡房《おほえのまさふさ》の續本朝往生傳に、寂昭、妻の屍を早く葬らず、九相を觀て道心を起したことを記した前に、沙門賢救住二因幡國一、德行被二境内一、威重ㇾ自二刺史一、造二密室之間一、不ㇾ令二人見一、獨自入ㇾ此觀念坐禪、或云昔所ㇾ愛之小童、早夭二天年一、不二早瘞埋一、見二沒後相一、起二不淨觀一、此觀成熟、證入日深[やぶちゃん注:底本は「氵」+「茶」であるが、「選集」に従った。]、凝斷二一分無明一、臨終正念、端坐念佛二遷化一」〔沙門の賢救、因幡の國に住し、德行(とくぎやう)は境内に被(かふむ)り、威は刺史よりも重し。密室の間を造りて、人をして見せしめず。獨り自(みずづか)ら此(ここ)に入り、觀念坐禪す。或るひと云はく、「昔、愛する所の小童(せうどう)、早く天年を夭(よう)す。早くに瘞-埋(うづ)めずして、沒後の相(さう)を見、不淨觀を起こす。此の觀、成熟(じやうじゆく)して、證入(しやうにふ)すること、日に深し。凝(こ)りて、一分(いちぶ)の無明をも斷(た)ちしか。臨終には正念し、端座念佛して遷化す」と。〕と記しおる。前年、中學敎科書に編入されて、問題を惹起した上田秋成の雨月物語五なる、下野のある阿闍梨が童子の屍を愛する餘り、之を啖《くら》ひ盡した譚は、この賢救法師の事より、案出した物か。
[やぶちゃん注:「大江匡房」(長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)は平安後期の公卿で儒学者・歌人。詳しい事績は当該ウィキを見られたい。
「續本朝往生傳」慶滋保胤(よししげのやすたね)の撰になる「日本往生極楽記」(寛和年間(九八五年~九八七年)成立。唐の「浄土論」・「瑞応伝」に倣って日本の往生者の伝を集め、四十二項目四十五人を僧尼・俗人男女の順に漢文体で記したもの)の後を継いで、往生者四十二人の事績を漢文体で記したもの。康和三(一一〇一)から天永二(一一一一)年にかけて成立したもの。天皇・公卿・僧侶・在俗男女(尼を含む)の順で記すが、この記載順序は他に類例を見ないものである。国史・別伝を素材とする伝もあるが、匡房に近い人々の伝が多いこと、匡房が国司として在任した大宰府・美作(みまさか)の往生者が加えられるなど、自己の見聞によるところが多いと考えられている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。当該部は、「新日本古典籍総合データベース」のここ(右丁五行目以降)から視認出来る。
底本では、この最後に、出版元「岡書院」の「編者」と署名する『右「追補」は印刷完了後追送せられたものなるを以て著者の指令に遵』(したが)『ひ別刷貼付する事とせり、諸彥』(しよびん:多くの優れた人。ここは「読者諸氏」の意)『御諒承を乞ふ。』とある。]
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