西原未達「新御伽婢子」 化女髷
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した(但し、以下の「序」はベタのママとした)。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。漢文脈部分は白文で示した後に〔 〕で訓読文を示した。
必要と思われる語句について、段落末に注を附した。
挿絵はない。なお、本篇については、始動ページの冒頭の私の注に引用を参照されたい。]
化女髻(けぢよのもとゞり)
武刕淺草の邊に、甲良(かうら)の何某(なにがし)とかやいふ人、在《あり》けり。
一年、江城(こうじやう)の民家、燒失する事、有《あり》。
甲良の何某も爲ㇾ之〔之れが爲に〕、住宅、一時の煙(けふり)となれり。其跡に、假屋(かりや)をしつらひ、暫(しばし)の居(きよ)とす。
其家來、太田三郞右卫門(《おほ》だ《うゑもん》)といふ者、幼少より螢雪のもとに、文學を好み、詩に眠(ねふり)、書(しよ)に倦(うむ)で、いを、やすく、寢ず。
或《ある》雪の夜、杜子美(としび)が七言律詩に、稍(やゝ)味はふ事ありて、卷臺(けんだい)に膝を容(いれ)て、夜、既に、いたう、更(ふく)る冬の月の影、冷(すさま)じく障子にうつるまゝ、そのかたを見やりたるに、色、うす靑き女房の、黑齒(かね)くろく付《つけ》たる其顏の、大き成《なる》事、たとへば、車輪のごとく、其長(たけ)、亭々(ていてい)たる深山木(みやまぎ)にひとしきが、太田にむかひ、
「莞爾(につこ)」
と笑ひて、立てり。
尋常の心に見ば、其儘(《その》まゝ)も絕(たえ)ぬべきを、太田、元來、文武兼備の侍(さふらひ)やはか、少《すこし》も、猶豫《いうよす》べき、
「すは。」
と、拔《ぬい》て、切付《きりつく》る。
𢶉(てごたへ)して、女は、消(きえ)ぬ。
此《この》太刀風《たちかぜ》に、燈(ともしび)、消《きえ》て、闇し。
下人を呼(よび)て、火を乞(こふ)に、いたく寢つきて出《いで》ず
遽(あはたゞしく)、起(おこす)にぞ、漸々(やうやう)、火を挑來(かゝげく)る。
「かうかうの事、あり。」
と、下人に聞(きか)せ、主從、血をしたひて、跡を尋《たづぬ》るに、其行方(ゆきかた)、なし。
滴(したゝ)る血の中に、女の髮の、いとうつくしく結(ゆひ)たるを、もとゆひながら、一ふさ、切落(《きり》おと)し在《あり》ける。
いかなるものゝ、變化(へんげ)と、しらず。
此黑髮は、年月經ても、かはる色なく、失(うす)る事もなく、正(まさ)に人間(にんげん)の髮なりけり、とぞ。
[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げで、字も小さい。]
「昔、三崎の何がしとかやいへる武家女郞《ぢやらう》の、此やしきに住(すみ)わびて、軒、かたぶき、門(かど)、むぐらに生(おひ)とぢられける人の、世にも人にも捨られて、恨死(うらみじに)にし給ひしが、それより、恠(あや)しき女のかたち、雨の夜、あらしの夕《ゆふべ》は、あらはるゝ。」
と、古き人の物がたりせられし。此たぐひなるべきや。