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« フライング単発 甲子夜話卷之二十六 15 大阪御城代寢所の化物 | トップページ | 「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その3) »

2022/09/17

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その2)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇は長いので、分割する。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

 日本で最も名高いのは、例の「物をいふまい 物ゆた故に 父は長柄《ながら》の人柱」で、姑《しばら》く和漢三才圖會に從ふと、初めて此橋を架けた時、水神の爲に人柱を入れねば成らぬと、關を垂水村に構へて人を捕へんとす。そこへ同村の岩氏某がきて、人柱に使ふ人を袴につぎあるものときめよ、と差しいでた。所が、さういふ汝こそ袴につぎがあるでは無《ない》かと捕はれて、忽ち、人柱にせられた。其弔ひに大願寺を立てた。岩氏の娘は河内の禁野《きんや》の里に嫁したが、口は禍ひの本《もと》と、父に懲りて啞《おし》で押《おし》通した。夫は幾世死ぬよの睦言《むつごと》も聞かず、姿有つて媚《こび》なきは人形同然と飽き果《はて》て送り返す途中、交野《かたの》の辻で、雉の鳴くを聞き、射《いる》にかゝると、駕の内から、妻が、朗らかに、「物いはじ父は長柄の人柱 鳴かずば雉も射られざらまし」とよんだ。そんな美聲を持ちながら、今迄、俺獨り、浪語《らうご》させたと、憤るうちにも、大悅びで、伴返《つれかへ》り、それより、大聲、揚げて累祖《るいそ》の位牌の覆へるも、構わず、ふざけ通した慶事の紀念に、雉子塚を築き、杉を三本植えつけたのが、現存す、てな事だ。

[やぶちゃん注:「長柄」「橋」現在のそれはここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが、古代から近世に至るまで、淀川や神埼川の川筋は、現在とは、かなり異なっていたため、時代によって現在の場所とは異なる別な場所にあった。基本、現在の大阪市淀川区東三国付近と吹田市付近とを結んでいた橋と考えられているが、正確な場所については、実ははっきりしていない。

「和漢三才圖會に從ふと、……」同書では、別な条の二箇所で言及されている。一つは「巻第七十四」の「攝津」の「川邊郡」中の「大願寺」の項。所持する原本から、まず、白文で、原本通りに起こし、後に訓点を参考に訓読した。【 】は割注。原本では標題(一行目)は一字上に抜きん出る。訓読中に〔 〕は私が補ったもの。なお、この大願寺は淀川区東三国(ひがしみくに)一丁目に現存し、本堂からちょっと北の離れた独立した場所に現在の「長柄人柱碑」(グーグル・マップ・データ航空写真)が建っている。「大阪市」公式サイトのこちらに碑の写真がある。その説明では、『長柄の人柱伝説はいろいろあるが、ここでは吹田垂水に巖氏長者という者が、財産もあり、なに不自由なく暮らせる身分であったが、この恩返しに架橋に難渋していた長柄橋の人柱となったと伝えられている(大願寺縁起)。』とあった。

   *

大願寺  在長柄【號孤雲山】

本尊無量壽佛 昔初作長柄橋時沂浪費人力而不

成或曰爲水神如入人柱則可成因玆埀水村置關待

往來埀水有岩氏何某者戲言曰如有人處著袴之跨

[やぶちゃん注:「戲」は(「霍」+「戈」)であるが、異体字のつもりらしいが、こんな字体ないので、「戲」とした。後も同じ。同様の処理をしたものが、他にもあるが、煩瑣なだけなので、注を略した。]

有綴縫者捕之爲人柱則可矣而岩氏處著袴卽然也

因爲人柱乃橋成就而後爲岩氏菩提所建寺

 夫木長柄なる橋もと寺もつくる也おこさぬ家は何にたとへん

岩氏女嫁河州禁野里悔父戲言不言如啞【詳見河内下】

△按嵯峨天皇弘仁三年依勅造西生郡長柄橋

又日本紀曰仁德天皇堀高津宮北之郊原引南水以

入西海因以號其水曰堀江又將防北河之澇以築茨

田堤是時有兩𠙚之築而壞之難塞時天皇夢有神誨

之曰武藏人強頸河内人茨田連衫子二人以祭於河

伯必獲塞則覔二人而得之因以禱于河神爰強頸泣

悲之沒水而死乃其堤成焉唯衫子取全匏兩箇臨于

難塞水乃取兩箇匏投於水中請之曰河神祟之以吾

爲幣故來也必欲得我者沉是匏而不合泛則吾知眞

神親入水中若不得沉匏者自知僞神何徒亡吾身乎

於是飄風忽起引匏沉水匏轉浪上而不沈則滃滃沈

以遠流是以衫子雖不死而其堤且成也【俗云人柱之始是也蓋茨田堤河内國雖非當郡因類附于此】

   *

大願寺  長柄に在り【孤雲山と號す。】。

本尊 無量壽佛

 昔、初めて長柄の橋を作る時、沂浪(ぎらう)[やぶちゃん注:岸に寄せる波浪。]〔がため〕、人力(じんりよく)を費しても、成らず。或るひと、曰はく、

「水神(すいじん)の爲めに、如(も)し、人柱(ひとばしら)を入るれば、則ち、成るべし。」

と。玆(これ)に因りて、埀水村(たるみむら)[やぶちゃん注:現在の大阪府吹田市垂水町(たるみちょう)。ここ。]に關を置いて、往來を待てり。埀水に、岩(いは)氏何某(なにがし)といふ者、有り。戲言(たはぶれごと)に曰はく、

「如(も)し、人、有りて、著(き)る處の袴(はかま)の跨(まち)[やぶちゃん注:袴の内股に当たる箇所。]綴-縫(つぎ)有る者を〔して〕、之れを捕へて、人柱と爲せば、則ち、可ならん。」

と。而(しか)るに、岩氏が著る處の袴、卽ち、然り。因つて、人柱と爲し、乃(すなは)ち、橋、成就す。而(しか)る後(のち)、岩氏が菩提の爲め、建〔つる〕所の寺なり。

 「夫木」

    長柄なる橋もと寺もつくる也

      おこさぬ家は何にたとへん

[やぶちゃん注:「夫木和歌抄」巻三十四の「雑十六」に所収する鎌倉中期の歌人で宮廷画家でもあった藤原信実(のぶざね 生没年未詳/一説に文永二(一二六五)年没とする)。藤原定家の甥。「日文研」の「和歌データベース」で確認したところ(16400番)、下の句の「おこさぬ家は」は、「おこさぬ家を」の誤りである。]

 岩氏の女(むすめ)は河州(かしう)禁野(きんや)の里に嫁(よめい)りして、父が戲言を悔(くい)て言(ものいは)ず、啞(おし)のごとし[やぶちゃん注:所持する平凡社「東洋文庫」訳注版では、ここに原拠を「国花記」と記す。]【詳(くはし)くは、「河内下」を見よ。】。

△按ずるに、「嵯峨天皇の弘仁三年[やぶちゃん注:八一二年。]、勅に依りて、西生(にしなり)の郡(こほり)に長柄の橋を造る。」と云云(うんぬん)。又、「日本紀」に曰はく、『仁德天皇、高津宮(たかつのみや)の北の郊原(かうげん)を堀(ほ)りて[やぶちゃん注:「堀」はママ。]、南〔の〕水(みづ)を引きて、以つて西の海に入るる。因りて以つて、其の水を號して「堀江」と曰ふ。又、將に北の河の澇(らう)を防(ふせ)がんとして、以つて「茨田堤(まむたのつつみ)」を築く。是の時、兩𠙚の築(つき)有りて、而(しか)れども、之れ、壞(く)〔えて〕、塞(ふさ)ぎ難し。時に天皇、夢に、神、有りて、之れを誨(をし)へて曰はく、「武藏の人(ひと)、『強頸(こはくび)』、河内(かはち)の人、『茨田連衫子(まむたのむらぢころものこ)』、二人を以つて祭らば、河(かは)の伯(かみ)、必ず、塞(ふさ)ぐことを獲(え)ん。」と。則ち、二人を覔(もと)めて、之れを得。因りて、以つて、河の神を禱(いの)る。爰(ここ)に、強頸は之れを泣(なき)いさち[やぶちゃん注:「泣きいさつ」は「激しく泣き叫ぶ」意の古代語。]、悲(かなし)〔びて〕、水に沒して死す。乃(すなは)ち、其の堤、成れり。唯(ただ)、衫子(ころものこ)は全(おな)じ匏(ひさご)兩箇(りやうこ)を取りて、塞ぎ難き水に臨みて、乃(すなは)ち、兩箇の匏を取りて、水中に投(な)げて、之れに請ひて曰はく、「河の神、祟(たゝ)りて、吾(みづから)を以つて、幣(ぬさ)と爲(せん)〔んとする〕故(ゆゑ)、來たるなり。必ず、我を得んと欲(ほつ)さば、是(こ)の匏を沉(しづ)めて、な合-泛(うかば)しそ。則ち、吾、『眞(まこと)の神』と知りて、親(みづか)ら、水中に入らん。若(も)し、匏を沉む〔る〕ことを得ずんば、自(みづか)ら、『僞(にせ)の神』と知(し)りて、何ぞ徒(いたづら)に吾が身を亡(ほろぼ)さんや。」と。是に於いて、飄風(つむじかぜ)、忽ち、起こつて、匏を引きて、水に沉めんとす。匏、浪(なみ)の上を轉(まろ)びつゝ、而(しかれ)ども、沈まず。則ち、滃--沈(とく すみやかに うきをど)り、以つて遠く流る。是れを以つて、衫子(ころものこ)、死せずと雖も、其の堤、且(ま)た、成るなり【俗に云ふ、「人柱の始め、是れなり。」と。蓋(けだ)し、「茨田堤(まむたのつつみ)」、河内の國なり。當郡(たうこほり)に非ずと雖も、類(るゐ)に因(よ)れば、此(ここ)に附す。】。

   *

「西生(にしなり)の郡(こほり)」読みは私が附したものだが、ウィキの「西成郡」によれば(そこでは標題を「にしなりぐん」とする)、『「日本書紀」に、大阪湾の中央に南北に突き出した上町台地の東部(河内湖沿い)を「難波大郡」(なにわのおおごおり)、西部(大阪湾沿い)を「難波小郡」(なにわのこごおり)と称したことが記載されている。大郡・小郡とは大化の改新の制度で、五十戸を「里」とし三里で「小郡」、四里~三十里で「中郡」、四十里以上で「大郡」となる。つまり外海に面しているわりには西側のほうが小さな集落だった』。和銅六(七一三)年に『郡・郷の名称が公式に定められ、東部の難波大郡を東生郡(後に東成郡)、西部の難波小郡を西生郡と称するようになった。西生の「生」は「生る」に由来し、「上町台地の西側に新たに生まれた集落」という意味であった』とある。位置は引用元の地図を参照されたい。

 次に、「巻第七十五」の「交野(かたの)郡」の「三本杉雉子塚」の条を示す。

   *

三本杉雉子塚 在甲斐田與片鉾村之間

攝州垂水村岩氏女嫁于當郡禁野里而曾不言夫以

爲瘂也還送之過交野阡陌有雉鳴夫將射之女掲聲

詠歌聞于駕外

 物いはじ父はなからの橋柱なかすは誰も射られさらまし

夫聞之知不瘂喜相共歸家今有三株杉其地也長柄

橋柱仔細畧之

   *

三本杉雉子(きじ)塚 甲斐田(かひだ)と片鉾村(かたほこむら)の間[やぶちゃん注:現在のこの附近。]に在り。

攝州垂水(たるみ)村の岩氏が女(むすめ)、當郡禁野里(きんやのさと)[やぶちゃん注:現在の大阪府枚方市禁野本町附近。]に嫁(よめい)りす。而(しか)るに、曾(かつ)て言(ものい)はず。以つて、夫(をつと)、「瘂(おし)なり。」として、之れを還へし送る。交野(かたの)[やぶちゃん注:現在の大阪府交野市。]を過(よ)ぎる阡陌(ちまた)に、雉、有りて、鳴く。夫(をつと)、將に之れを射んとす。女、聲を掲(あ)げて、歌を詠ず。駕(のりもの)の外に聞(きこ)ふ[やぶちゃん注:ママ。]。

     物いはじ父はながらの橋柱なかずは雉も射られざらまし

夫、之れを聞きて、瘂ならざることを知りて、喜びて、相ひ共に、家に歸る。今に、三株の杉、有り、其の地なり。長柄(ながら)の橋柱の仔細あり〔→あれども〕、之れを畧す。

   *

この塚は現存しないようである。なお、この娘の話は、実際には父が迂闊にも、かく、言い、其の当人が惨酷にも人柱とされたことによって、心的外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorderPTSD)となり、一時的な失語症様の障害が起こったものと考える方が自然である。

 この類話が外國にも有り。埃及王ブーシーリスの世に、九年の飢饉あり、キプルス人フラシウス、每年外國生れの者一人を牲《にへ》にしたらよいと勸めたところが、自分が外國生れ故、イの一番に殺された由(スミスの希羅《ギリシアローマ》人傳神誌名彙卷一)。左傳には、賈大夫が娶《めと》つた美妻が、言はず、笑はず、雉を射取つて見せると、忽ち、物いひ、笑うた、とある(昭公二十八年)。

[やぶちゃん注:「埃及王ブーシーリスの世」ギリシア神話の人物。当該ウィキによれば、『エジプト王エパポスの娘リューシアナッサ』、『あるいはナイル川の河神ネイロスの娘アニッペーとポセイドーンの子で』、『アムピダマース』、『メリアーの父』。『ブーシーリスは残虐なエジプト王で、異国人をゼウスの生贄にしたが、ヘーラクレースに退治されたとされる』。『このブーシーリスの名は明らかにエジプトのオシーリス信仰の中心地ブシリスに由来している。エウリーピデースはサテュロス劇』「ブーシーリス」を『書いたが』、『散逸した』。『エジプトが長い間作物が実らなかったとき、キュプロスから予言者プラシオスがやって来て、毎年ゼウスに異国人を生贄にすれば作物は実ると告げた。そこでブーシーリスは』、早速、『その予言者を殺して生贄とし、毎年』、『異国人を殺してゼウスに捧げた。ヘーラクレースはヘスペリスの黄金の林檎を取りに行く冒険の』折りに、『エジプトにやって来て、ブーシーリスに捕らえられた。しかし縄を引きちぎって自由となり、ブーシーリスとアムピダマースを殺した』。『ヒュギーヌスによれば予言をしたのはピュグマリオーンの兄弟の子トラシオスで、トラシオスは予言を証明するために自ら犠牲になった』。『また』、『ブーシーリスは異国人を殺し続け、それを知ったヘーラクレースはわざと捕らわれて、ブーシーリスと神官たちを殺したという』。『シケリアのディオドーロスによれば、ブーシーリスはアトラースの娘たちヘスペリティスを手に入れようとし、海賊たちにさらわせた』。『しかし』、『ブーシーリスは異国人を生贄にしていたため』、『ヘーラクレースに殺され』、『ヘスペリティスをさらった海賊たちもヘーラクレースに退治されたという』とある。

「左傳」「春秋左氏傳」。孔子の編纂と伝えられている歴史書「春秋」(単独の文献としては現存しない)の代表的な注釈書の一つで、紀元前七〇〇年頃から約二百五十年間の魯国の歴史が書かれてある。

「賈大夫が娶つた美妻が、言はず、笑わず、雉を射取つて見せると、忽ち、物いひ、笑うた、とある」中国お得意の喩え話として昔話として挿入されてあるもの。所持する一九八九年岩波文庫刊「春秋左氏伝」下(小倉義彦訳)によれば、賈大夫は容貌が醜かったとある。

「昭公二十八年」紀元前五一四年。魯の第二十五代君主。昭公姫稠(ひちゅう)。在位は紀元前五四一年から紀元前五一〇年。

 以下の一段落は附記で、底本では全体が一字下げ。]

 攝陽群談一二に、嵯峨の弘仁三年六月、岩氏、人柱に立ったと見え、卷八に、其娘、名は光照前《てるひのまへ》、美容、世に勝れて、紅顏、朝日を嘲るばかり也、とある。今二つ、類話は、朝鮮、鳴鶴里《めいかくり》の土堤《どて》、幾度、築いても、成らず、小僧が、人柱を立てよ、とすゝめた處ろ、誰《たれ》も其人なきより、乃《すなは》ち、かの小僧を人柱に入れて成就した。ルマニア[やぶちゃん注:ママ。「選集」も同じ。]の古い唄に、大工棟梁マヌリ、或る建築に取懸《とりかか》る前夜、夢の告げに、其成就を欲せば、明朝一番に其場へ來《きた》る女を人柱にせよ、と。扨、明朝一番に來合せたは、マヌリの妻だったので、之を人柱に立てたと云ふのだ(三輪環氏傳說の朝鮮二一二頁。一八八九年板、ジョーンスとクロップのマジャール俚譚、三七七頁)。

[やぶちゃん注:「攝陽群談」江戸時代に編纂された摂津国の地誌である。全十七巻。岡田徯志(けいし)編。元禄一一(一六九八)年序(開始時)で三年後の元禄十四年完成した。江戸時代に刊行された摂津の地誌としては、記述が最も詳しく、和歌名所も多く収録されてある。巻十二のそれは、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本の当該部が視認出来る。

「卷八に、其娘、名は光照前《てるひのまへ》、美容、世に勝れて、紅顏、朝日を嘲るばかり也、とある」同前で、巻八(PDF一括版)8コマ目以下の「雉子畷(きじなはて)」の項(挿絵有り)にある。

「三輪環」(みわたまき 生没年未詳)は当時、「朝鮮平壤高等學校普通學校敎諭」であった人物。国立国会図書館デジタルコレクションで同書(大正八(一九一九)年博文館刊)が視認でき、当該話は「人柱」で、ここ

「ジョーンスとクロップのマジャール俚譚」不詳。マジャル人(ハンガリー語:magyarok)は国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族の名。]

 此程の本紙(大正十四年六月廿五日大阪每日)に、誰かが、橋や築島に、人柱はきくが、築城に人柱は聞かぬ、といふ樣に書かれたが、井林廣政氏から、曾て伊豫大洲《おほず》の城は立てる時お龜てふ女を人柱にしたので、お龜城と名づく、と聞いた。此人は大洲生れの士族なれば、虛傳でも無《なか》らう。

[やぶちゃん注:「本紙」私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』(リンク先は私のサイト版)を受けての謂いで、本決定稿は大正一四(一九二五)年九月発行の『變態心理』第十六巻第三号であるから、この謂いは本来は相応しくない。リンク先の「上」の第三段落に出る。「選集」では、冒頭が、『大正十四年六月二十五日『大阪毎日新聞』に、』となっている。但し、本篇の最後に「附記」があり、『本文は、大正十四年六月三十日と七月一日の大阪每日新聞に掲載のまゝで」ある旨の断り書きはある。

「井林廣政」不詳。

「伊豫大洲の城」四国の伊予国喜多郡大洲(現在の愛媛県大洲市大洲のここ)にあった城。当該ウィキによれば、『この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で』、元徳三/元弘元(一三三一)年の『ことであると伝わる』とあり、「伝説」の項に、『人柱伝説」』として、『川に面した高石垣の工事が難航したため、人柱を立てる事となり、籤によって「おひじ」という若い女性が選ばれ、おひじは』、『やむなく生き埋めにされ人柱となった。その後、工事は無事完了し、おひじの最期の願いにより、大洲城下に流れる川を肱川と名付け、大洲城を「比志城」とも呼んだという』とあった。名前が違うが、以下の段落で補填されてある。

 以下、底本では全体が一字下げの追記。]

 橫田傳松《よこたでんまつ》氏よりの來示に、大洲城を龜の域と呼んだのは後世で、古くは比地《ひぢ》の城と唱へた。最初、築いた時、下手《しもて》の高石垣が、幾度も崩れて、成らず、領内の美女一人を抽籤《ひきくじ》で人柱に立てるに決し、オヒヂと名づくる娘が中《あた》つて生埋《いきうめ》され、其より、崩るる事、無し。東宇和郡多田村關地《せきぢ》の池も、オセキてふ女を人柱に入れた傳說あり、と。氏は郡誌を編んだ人ときくから、特に書き付けて置く。

[やぶちゃん注:「橫田傳松」(明治一二(一八七九)年~昭和一五(一九四〇)年)の詳細事績は判らないが、愛媛県喜多郡内子町(うちこちょう)城廻(しろまわり)にあったと思われる戦国時代の城についての「曽根城史」(昭和八(一九三三)年瑞雲堂刊)や、論考「伊予の蔵川珍談」等の著作がネット上では確認出来るので、郷土史研究家であろう。

「東宇和郡多田村關地の池」現在の愛媛県西予市宇和町(うわちょう)信里(のぶさと)に「関地池」が確認出来る。]

 淸水兵三君說(高木敏雄氏の日本傳說集に載す)には、雲州松江城を堀尾氏が築く時、成功せず、每晚、其邊《そのあたり》を、美聲で唄ひ通る娘を人柱にした、今も普門院寺の傍《かたはら》を東北《とうぼく》を謠ひながら通れば、必ず、其娘、出《いで》て泣く、と。是は、其娘を弔ふた寺で、東北を謠ふ最中を捕《とら》はつたとでもいふ譯であらう。現に、予の宅の近所の邸に、大きな垂枝松《しだれまつ》あり、其下を、夜更けて八島を謠ふて通ると、幽公《いうこう》がでる。昔し、其邸の主人が、盲法師に藝させ、八島を謠ふ所を試し切りにした、其幽《いう》じるしの由、いやですぜ、いやですぜ。

[やぶちゃん注:「淸水兵三君說(高木敏雄氏の日本傳說集に載す)」「日本傳說集」はドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年:大正二~三年には、『鄕土硏究』を柳田国男とともに編集している。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した)が郷土研究社から大正二年八月に刊行した「日本傳說集 附・分類目次解說索引」のこと。「人柱傳說第二十」があり、「(ロ)源助柱」があり、『出雲國の大橋』の人柱の話が載り、最後に情報提供者を『淸水兵三君』とあるのだが、話が全く違う。不審。なお、この話は、小泉八雲も記している。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (七)・(八)』を読まれたい。

「雲州松江城を堀尾氏が築く時」ウィキの「松江城」によれば、慶長五(一六〇〇)年、「関ヶ原の戦い」で『戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、隠岐・出雲』二十四『万石を得て』、『月山富田』(がっさんとだ)『城に入城し、松江藩が成立。月山富田城は中世山城であり』、『近世城下町形成には不利であったので、運送などに有利な宍道湖と中海を結ぶ太田川の近く、末次』(すえつぐ)『城跡を城地の候補とし』、慶長一二(一六〇七)年に『末次城のあった亀田山に築城を開始』し、四年後の慶長十六年正月に、『松江城は落成し』た、とある。「松江城」公式サイトのこちらに、『築城の際、石垣に積み上げても積み上げても』、『どうしてもうまくいかない部分があったため、人柱を立てることとなった。折しも盆踊りの時期であったため、城下で盆踊り大会が催され、その中で一番美しく踊りのうまい娘が攫われ生きたまま人柱にされた。その石垣は無事に積み上げることができたが、城下で盆踊りが行われると天守が大きく揺れ動き、御城下に災いがあるとされ、いまでも松江城近くでは盆踊りは行われていない』。『松江藩の藩主が』二『代続けて改易になったのも娘の祟りだという人もいる』とある。

「東北」謡曲。三番目物。旅僧が都の東北院で梅を眺めていると、昔この梅を植えて愛でていた和泉式部の霊が現われ、当時の様子を語るもの。

「八島」謡曲。二番目物。伝世阿彌作。「平家物語」に依拠する。旅僧が讚岐国八島の浦で塩屋に一夜の宿を乞う。主(あるじ)の老漁夫は、求められるままに源平合戦のさまを語り、自分が義経の霊であると、仄めかして、姿を消す。その夜、僧の夢の中に義経の亡霊が現われ、屋島の合戦で波に流された弓を命がけで拾い上げた弓流しの有様を語り、修羅道で苦しむさまを示すというもの。]

 英國とスコットランドの境部諸州の俗信に、パウリーヌダンターは、古城砦、鐘樓、土牢等にある怪で、不斷、亞麻《あま》を打ち、石臼で麥をつく樣《やう》の音を出す。其音が例より長く、また、高く聞ゆる時、其所の主人が死又は不幸にあふ。昔し、ピクト人は、是等の建物を作つた時、土臺に人血を濺《そそ》いだから、殺された輩《やから》が形を現ずる、と。後には、人の代りに、畜類を生埋めして、寺を强固にするのが、基督敎國に行はれた。英國で犬又は豚、瑞典《スウェーデン》で綿羊《めんやう》抔で、何《いづ》れも其靈が墓場を守ると信じた(一八七九年板、ヘンダーソン北英諸州俚俗二七四頁)。甲子夜話の、大坂城内に現ずる山伏、老媼茶話《らうあうさわ》の、猪苗代城の龜姬、島原城の大女、姬路城天守の貴女等、築城の人柱に立つた女の靈が、上に引いた印度のマリー同然、所謂、ヌシと成りて、其城を鎭守した者らしい。ヌシの事は末段に述ぶる。

[やぶちゃん注:「選集」では、ここで第「二」章が終わっている。

「パウリーヌダンター」不詳。綴りも不明。以下の原本の他の箇所を見る余裕はなかった。悪しからず。

「ヘンダーソン北英諸州俚俗」イギリスのウィリアム・ヘンダーソン(William Henderson 一八一三年~一八九一年)なる人物が書いた‘Notes on the Folk-lore of the Northern Counties of England and the Borders’ (「イングランド北部の郡と国境域の民間伝承に関するノート」)。「Internet archive」の原本の当該ページはここ

「ピクト人」Picti或いはPicts。古代スコットランドにいた民族。その言語はインド=ヨーロッパ語系には属さないとされる。 pictiは「彩色された」などの意味があり、彼らが入墨の習慣をもっていたことを暗示させる。三世紀末から記録に現われ、三六七年頃から王国を形成し、ローマを攻撃した。七~八世紀に強盛を誇り、八四三年頃には、スコットランドの他部族と合し、ピクト人の王にして最初のスコットランド王とされるケネスⅠ世(ケネス・マカルピン Cináed mac Ailpín 八一〇年~八五八年)が支配権を握った(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「甲子夜話の、大坂城内に現ずる山伏」「フライング単発 甲子夜話卷之二十六 15 大阪御城代寢所の化物」。事前に電子化注しておいた。

「老媼茶話」三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した、会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ怪奇談集。私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇を電子化注してある。

「猪苗代城の龜姬」「老媼茶話巻之三 猪苗代の城化物」を参照されたい。

「島原城の大女」「老媼茶話巻之五 嶋原の城化物」。同前。

「姬路城天守の貴女」「老媼茶話巻之五 播州姫路城」。同前。知られた姫路城の女怪長壁姫(おさかべひめ)である。]

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