「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 明智左馬介の死期
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文は後に〔 〕で訓読を示した。]
明智左馬介の死期 (大正十四年十月變態心理第十六卷第四號)
變態心理九月號二五頁、下澤瑞世氏の「六十代老人の文化能力」中に、明智光俊が六十五歲で例の湖水乘切《のりき》りを行ふたやうに記されてあるのは、何に據つたものであらうか。飯田氏の野史二七九で見ると、左馬介光俊、或は光春、又、光昌という。光秀の叔父光安の子なり。光安、齋藤道三に仕へ、弘治二年、道三、其子義龍に殺された時、光安、明智城に據つて義龍を拒《ふせ》ぎ、敗死の際、其子光俊を、自分の亡兄光綱の子光秀に托したとあれば、光俊は光秀の從弟で年下である。明智系圖には、光秀、享祿元年生《うま》るといへば、天正十一年五十五歲で死んだので、明智軍記に載せた辭世に、五十五年夢、覺來歸一元〔五十五年の夢、覺(さ)め來(きた)つて一元に歸(き)す〕とあるのに合ふ。明智系圖には、左馬介を光秀の弟としてあるが、五十五歲で死んだ光秀の弟が、光秀に一日後れて、六十五歲で自殺したとは受取れぬ。されば近江輿地誌略一六に、左馬助、安土城に火をかけ、坂本城へ急ぐ途上、堀秀政と打出濱《うちではま》に戰ひ、辛うじて、坂本城に入り、叔父光廣六十七歲、左馬助四十六歲で、光秀の妻女諸共《もろとも》、自殺したとあるが正しく、光俊は六十五歲でなく、四十六歲で湖水を乘切つたと見える。
[やぶちゃん注:「明智左馬介」は本名を明智秀満(天文五(一五三六)年?~天正十年六月十四日(一五八二年七月四日):このウィキの生没年の数字に拠るなら、享年は四十七となる)という。私は鎌倉史ばかりがテリトリーで、戦国史以降には興味がなく、冥い。彼の名と事績も先般の大河ドラマ「麒麟がくる」で初めて知ったという為体である。されば、詳しいウィキの「明智秀満」をほぼ、全部、引用しつつ、自身も学ぶ。『織田家家臣の明智光秀の重臣。女婿または異説に従弟(明智光安の子)ともいうが、真偽の程は定かではない』。『同時代史料に出る実名(諱)が秀満で、当初は三宅弥平次と称し』、『後には明智弥平次とも名乗っている』。『俗伝として光春の名でも知られ、明智光春や満春の名でも登場する』。『左馬助(左馬之助)の通称も有名』。『俗伝では幼名は岩千代、改名して光俊とも』『言い、光遠と名乗った時期があるとする説もあるが、その他にも複数の別名が流布している』。以下、「出自」の項。まず、「三宅氏説」。『秀満は当初、三宅氏(三宅弥平次)を名乗っていた。三宅氏は明智光秀の家臣として複数の名前が確認できる。また俗伝では、明智光秀の叔父とされる明智光廉が三宅長閑斎と名乗ったとも言われる。一説には父の名を三宅出雲、あるいは美濃の塗師の子、児島高徳の子孫と称した備前児島郡常山の国人・三宅徳置の子という説もある』。次に「明智氏説」。「明智軍記」『などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると』、『次男)であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。ただ』、『西教寺所蔵明智系図によれば、実際に明智光春と言う人物は存在せず』、「系図纂要」か「明智軍記」での『名であり、明智光春の正式名は明智光俊であるとも』される。以下、「遠山氏説」。『明治期に阿部直輔によって謄写校正された』「恵那叢書」に『よると、明智光春(秀満)の父・光安が美濃国明知城主である遠山景行と同一人物とされており、それを参考にして遠山景行の子である遠山景玄が明智光春と同一人物、そして明智光春が秀満ではないかとの説が出されている。遠山景玄は元亀元年』(一五七〇年)『の上村』(かみむら)『合戦で戦死しているが、この説によると』、『史料の不整合もあり』、『誤伝であると』する。『また』、『遠山景行の妻が三河国広瀬城主三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだという補説もある。以下、「その他」の条。「細川家記」には『塗師の子であると書かれており』、「武功雑記」では『白銀師』(はばきし:刀身の手元の部分に嵌める金具を作る職人)『の子であったと伝えているが、いずれも信用できない』。以下、事績。『秀満の前半生は』、「明智軍記」を『始めとする俗書でのみ伝わっているが、それは秀満の出自を明智氏と断じていることに留意する必要がある』。『明智氏説では、明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが、』弘治二(一五五六)年、『斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ』、『落城。その際に父は自害したが、秀満は光秀らとともに城を脱出し』、『浪人となったとする』。天正六(一五七八)年『以降に光秀の娘を妻に迎えている』(「陰徳太平記」)。『彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため』、『離縁されていた』。『その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは』天正一〇(一五八二)年四月である。その前年天正九年には、『丹波福知山を預けられて』、堺の商人で茶人の『津田宗及』(そうきゅう)『が当城を訪れた際に、これを饗応して』おり、天正十年まで『在城したとされている』(「御領主様暦代記」)。天正十(一五八二)年六月二日の「本能寺の変」では『先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き』、十三『日の夜、羽柴秀吉との』「山崎の戦い」で『光秀が敗れたことを知』り、十四『日未明、安土を発して坂本に向かった』。『大津で秀吉方の堀秀政と遭遇するが、戦闘は回避したらしく坂本城に入った』(これが本篇に出る「湖水乘切り」。後述される)同『日、堀秀政は坂本城を包囲し、秀満は』、『しばらくは防戦したが、天主に篭り、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名物が無くなる事を恐れて、これを荷造りし、目録を添えて』、『堀秀政の一族の堀直政のところへ贈った。このとき』、『直政は目録の通り請取ったことを返事したが、光秀が秘蔵していた郷義弘の脇指が目録に見えないが』、『これはどうしたのか』、『と問うた。すると秀満は、「この脇差は光秀秘蔵のものであるから、死出の山で光秀に渡すため』、『秀満自ら』『腰に差す」と答えたとされる』。同『日の夜、秀満は』、『光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺した後、腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる』(「川角太閤記」)。『その振る舞いは戦国武将の美学を具現化したようなもので、敵方も称賛している』(「惟任退治記」)。『秀満の父は』、『秀満が死去した後』、『間もなく』、『丹波横山で捕らえられ』、七月二日に『粟田口で磔にされたとあり』、「言経(ときつね)卿記」では、『この父の年齢を』六十三『歳としている』。「島原の乱」で『戦死した肥前国富岡城城代三宅重利は』、『秀満の遺児であったとする説がある』。以下「逸話」の項。『光秀は亀山を出発する前に謀反を起こす決意を告げ、一同が黙っていた中で』、『秀満が』、『まず』、『これを承諾したために、残る四人も承諾したとされる』(「信長記」)。『また別の末書によると、光秀は』二十九『日に亀山に戻り、はじめ』、『秀満に謀反の相談をしたが』。『その諌止にあい、次に利三ら四人に相談したが』、『四人とも反対した。そのため』、『光秀は躊躇したが、翌日』六月一日に『なって、さらに秀満に事の次第を告げたところ、秀満は』、『すでに四人にも語った上はもはや躊躇すべきではないとし、謀反を起こさせたとしている』。なお、『安土城退去の際、秀満軍が天主や本丸に放火したとされてきた』(「秀吉事記・「太閤記」)が、『フロイスの書状によると』、『安土城は織田信雄が焼いたと述べている。信雄は蒲生氏郷らと秀満の去った安土にすぐに入ったのであり』、「兼見卿記」に『安土城の焼失を』十五『日のこととしていることから考えると、安土城を焼いたのは秀満ではなく信雄であろうとされている』。『琵琶湖の湖上を馬で越えたという「明智左馬助の湖水渡り」伝説が残されている。光秀の敗死を知った秀満は坂本に引き揚げようとしたが、大津で堀秀政の兵に遭遇した。秀満は名馬に騎して湖水渡りをしたということになっている。狩野永徳が墨絵で雲竜を描いた羽織を着用し、鞭を駒にあてて琵琶湖を渡したというものもある。騎馬で湖水を渡ったという逸話の初出は』「川角太閤記」で『あるが』、『真偽は不明で』、『実際は、大津の町と湖水の間の道を』、『騎馬で走り抜けたというのが真相らしい』。『坂本城を敵に囲まれて滅亡が迫る中でも逸話がある。坂本城に一番乗りしようとした武士に入江長兵衛という者がいた。秀満は長兵衛と知己があり』、『「入江殿とお見受けする。この城も我が命も今日限り。末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい」と声をかけた。長兵衛は「何事であろう」と尋ねると』、『「今、貴殿を鉄砲で撃つのは容易いが、勇士の志に免じてそれはやめよう。我は若年の時より、戦場に臨むごとに』、『攻めれば』、『一番乗り、退却の時は』、『殿』(しんがり)『を心とし、武名を揚げることを励みとしてきた。つまるところ、我が身を犠牲にして、子孫の後々の栄を思っての事だった。その結果はどうであろう。天命窮まったのが』、『今日の我である。生涯、数知れぬ危機を潜り抜け、困難に耐えて、結局は』、『かくの如くである」と述べた。そして「入江殿も我が身を見るがよい。貴殿もまた我の如くになるであろう。武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」と述べた』(「武家事紀」)。『秀満は今日の我が身は明日の貴殿の身だと、一番乗りの功名を挙げても武士とは空しいものと言いたかったのである。そして秀満は話を聞いてくれた餞別として黄金』三百『両の入った革袋を投げ与えた。秀満の死後、長兵衛は武士を辞め』、『黄金を元手に商人となって財を成したと伝わる』。『光秀が津田宗及を招いて茶会を』二『度ほど催しているが、その際に饗応役を務めており、文化人としての知識もあったようである』(「宗及記」)とある。
「下澤瑞世」(しもさわずいせい ?~昭和六(一九三一)年)は著作物を見るに、文化心理学者のようである。
「飯田氏の野史」飯田忠彦(寛政一〇(一七九九)年~万延元(一八六〇)年:徳山藩(萩藩)出身で出奔し、後に宮家に仕官した国学者・歴史家)が「大日本史」の続編編纂を志して嘉永元(一八四八)年頃までに編纂を終えた「大日本野史」のこと。後、飯田が「桜田門外の変」に関与したとの容疑で逮捕され、それに抗議して自害したという事情もあって、原本は散逸して現存しないが、完成後、飯田が人に乞われて印刷に付されたものを元に、明治一四(一八八一)年、遺族の手で刊行された。
「弘治二年」一五五六年。
「享祿元年」一五二八年。但し、一説に生年を永正一三(一五一六)年ともする。
「光秀」「天正十一年五十五歲で死んだ」死亡年は「天正十年」の誤り。一般に天正十年六月十三日(一五八二年七月二日)に、坂本城を目指して落ち延びる途中、亡くなったことになっている。享年は五十四となる。
「明智軍記」元禄初年から十五年(一六八八年~一七〇二年)頃に書かれたとされる、明智光秀を主人公とした軍記物。著者不詳。全十巻。当該ウィキによれば、光秀の死後百年ほど経った頃に書かれた軍記物であり、『誤謬も多く、他書の内容と整合しない独自の記述が多くあって』、『裏付けに乏しいため、一般的に史料価値は低い』『とされる』とある。以下の辞世の当該箇所は「東京国立博物館デジタルライブラリー」の「明智軍記巻十二」の右上の「ページ一覧」から「16」コマ目をクリックされたい。
「近江輿地誌略」享保一九(一七三四)年に完成した近江国の自然や歴史等について纏めた地誌。膳所藩主本多康敏の命を受け、同藩士で藩儒で侍講でもあった寒川辰清(さむかわたつきよ 元禄一〇(一六九七)年~元文四(一七三九)年)が編纂したが、寛政一〇(一七九八)年に当時の藩主本多康完(やすさだ)によって幕府に献上されるまで、成立から実に六十五年もの間、秘匿されていた。]
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