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2022/09/05

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 八木八郞墓石

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○八木八郞墓石

江戶伊皿子《いさらご》【臺町の先。】大圓寺に、薩藩の大力士、八木八郞の墓あり。縮圖、左の如し。【◎圖、略ㇾ之。墓石高、八尺餘[やぶちゃん注:二・四三メートル超え。]、頂部、厚、一尺二、三寸[やぶちゃん注:三十六・三~三十九・一センチ。]、底部、厚、一尺四、五寸[やぶちゃん注:四十二・四二~四十五・四五センチ。]。】。

 貞享三丙寅六月十七日

 正山常眞庵主

  薩州生緣     八 木 八 郞

                行年十九歲

傳云《いはく》、八木八郞は多力也。この石、泉嶽寺の揚げ場にて、數《す》十人かゝりて、船より引あげんとしつゝ、あげかねたる折、八郞、其處《そこ》をよぎるとて、見つゝ頻りに笑ひしかば、船頭、車力等《ら》、これを怒りて、その笑ふゆゑを問ふに、八郞こたへて、「汝等、かばかりの石を、數十人して、なほ、引あげる事、得ならぬか。わが笑ひしは、この故也。」といふに、衆、みな、いよいよ怒りて、「おん身、今、この石を引あげて見せ給はゞ、石を、まゐらすべし。」と、いひけり。折から、雨後の事なりければ、八郞、木履《ぼくり》をはきながら、件《くだん》の石を引かつぎ、大圓寺の門前へもて來て、寺へ、あづけおきけり。この寺は八郞が菩提所なるによりて也。そのゝちに、八郞、早世しければ、則、その石をもて、墓表にしつと、いひ傳へたり。予、この事を聞《きき》て、その墓を見ぬるに、享和中の事なりき。大圓寺の墓所に到れば、衆墓に抽《ぬきんで》て、いと高きをもて、聞ずして、八郞が墓なりけりと知るに足れり。かくて、文政のなかばに至りて、「鱗齋漫錄」といふ寫本を閱《けみ》せしに、その書に、亦、この墓の事を載たり。鱗齋云、『余が近き邊の伊皿子に、大圓寺といへる薩州の菩提所あり。其墓所に「八木八郞」といへる士の石碑あり。竪の長さ、七、八尺、橫幅、下に至りては三尺程もあるべし。此石、もとは高輪なる薩州の下やしきの庭に、年久しく埋みありしが、其時分の主候、一時の戲れに、「かゝる石を引起す力量の者もあるべきや。」など聞えしに、八郞なるもの、年十九歲なりしが、たゞちに彼石を震起《ふるひおこ》し、大きなる井戶綱やうのものにて、身にからみ、庭上、二、三遍、負《おひ》あるき、又、もとの所に居置《すへおき》たり。主候をはじめ、其怪力に驚かざる者、なし。かゝりし程に、彼《かの》八郞、其夜、總身《さうみ》、いたみ、氣息、頻りにつまりて、終《つひ》に十九歲を一期《いちご》として、なき人の數に入たりし。主候、殊に惜み給ひ、「益なき事に、あたら若者を失ひしは、我言によれり。」とて、其跡、念頃《ねんごろ》に佛事、なし、彼大石《だいせき》を、とりあへず、墓じるしとは、なしたり。今、其石をはかるに、究竟《くつきやう》の鳶のもの、手引、十、四五人ならでは、車にて引くこと、なしがたしといへり。卽ち、八郞は延享の頃の人なりし。「南史」に、『羊侃嘗戲以數石、人八尺大圍者、執以相擊、悉皆破碎。』。「五雜俎」に、『三原王大孃、以ㇾ首戴十八人而舞。』など、昔より怪力のことを、和漢にしるせしもおほければ、疑ふべきことにもあらず。』。【以上、「鱗齋漫錄」の全文なり。この書には、墓石の圖もなく、歲月も、しるさず。只、延享の比の人といふのみ。延享は貞享のあやまりか。】。今、按ずるに、「漫錄」にいふ所、その實を得たるが如し。とまれかくまれ、八木八郞は、蜀の五丁力士《ごていりきし》の風あり。もし、戰國に生れなば、妻鹿《めが》孫三郞と伯仲すべきものなるに、この墓石をだも、知るものゝ多からぬは、遣憾ならずや。

[やぶちゃん注:サイト「科学技術振興機構」のこちらから、問芝志保氏の論文「明治大正期の東京における名墓の観光化」(『宗教学・比較思想学論集』第二十所収・PDF)がダウン・ロード可能であるが、そこに八木八郎の紹介がなされてある(墓碑写真有り)。ところが、そこには、彼の死について、驚天動地の別説が示されてある。以下である。『小姓の八郎が、薩州家の庭で家臣らに対して頻りに力自慢をするので、皆は「この大石を担いで池の周りを歩けるか」と八郎を煽った。すると八郎は本当にその石を担いで池を三周してみせたため、一同は大変驚いた。ところが』、『八郎の父は、八郎は』、『生来』、『人を侮る癖があり、このままでは』、『いずれ』、『主君に害を及ぼす』、『と厳しく咎めた。しかし』、『八郎がそれを聞き入れなかったため、立腹した父は』、『なんと』、『八郎を手討ちにしてしまった』というのである。こちらの方が、私は本当らしいと感じたことを言い添えておく。

「江戶伊皿子【臺町の先。】大圓寺」旧芝伊皿子町(しばいさらごまち)にあった曹洞宗泉谷山(せんこくざん)大圓寺。この当時は、現在の港区三田四丁目の「NTTデータ三田ビル」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のある位置にあったが、同寺は後に東京都杉並区和泉(いづみ)に移転している。

「貞享三丙寅六月十七日」グレゴリオ暦一六八六年八月五日。綱吉の治世。但し、後に「八郞は延享の頃の人なりし」とある。しかし、延享は一七四四年から一七四八年までで、この「貞享」よりも後になるから、これは筆者が「貞享」とすべきところを誤ったものとする馬琴説に従う。

「行年十九歲」「貞享三」年から数えで機械逆算すると、彼の生まれは寛文八(一六六八)年。家綱の治世。

「享和中」一八〇一年から一八〇四年まで。

「文政のなかば」文政は十三年までで、一八一八年から一八三〇年まで。

「鱗齋漫錄」不詳。

「其時分の主候」第二代薩摩藩主島津光久。

「南史」中国の正史で「二十五史」の一つ。唐の李延寿の撰。高宗(在位:六四九年~六八三年)の代に成立。南朝の宋・斉・梁・陳の四国の正史を改修した通史。南朝北朝の歴史が、それぞれ自国中心であるのを是正し、双方を対照し、条理を整えて編集したもの。

『羊侃嘗戲以數石、人八尺大圍者、執以相擊、悉皆破碎。』推定訓読する。「羊侃(やうがん)は、嘗つて、戲れに數石(すうせき)を以つてし、人の八尺の大圍《だいゐ》の者、執りて、以つて、相ひ擊ち、悉く、皆、破碎せり。」。羊侃(ようがん 四九五年~五四九年)は北魏及び梁の武将にして政治家。文武孰れにも秀でた人物とされる。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「三原王大孃、以ㇾ首戴十八人而舞。」「三原王大孃(さんげんわうだいじやう)、首を以つて、十八人を戴(の)せて舞ふ。」。「三原王大孃」は不詳。

「蜀の五丁力士」伝説上の人物。蜀の王が、山道を穿たせるために、命じた五人の力士。

「妻鹿孫三郞」南北朝時代の武将妻鹿長宗(めがながむね 生没年未詳)の通称。播磨妻鹿の功山(こうやま)城主。「太平記」によれば、力が勝れ、相撲では日本六十余州に無敵とする。正慶/元弘三(一三三三)年の「元弘の乱」では、一族十七名とともに、赤松則村方に組みし、北条勢と戦った(講談社「日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

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