「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 釘ぬきに就て(その5) / 釘ぬきに就て~了
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ六行目から。図は前回に掲出したもの)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇はやや長いので、分割する。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。]
結 論 考古學雜誌十卷六號板津君の一文と右に出《いだ》せる三氏の報知を見れば、和漢三才圖會に萬力と稱せる釘拔が、縱ひ其圖と些さか差《たが》ふとも、大體に於て一致して、近年迄、信濃、陸中等に行はれ、現今と雖も、全く跡を絕《たた》ざるを知る。故に、沼田君が、萬力の圖說は、決して寺島氏の虛構に非ず、何《いづれ》の地にか、其器、現存すべし、との推斷は中《あた》れり。此萬力は、足利時代、初めて用られしに非ず、鎌倉時代の世、既に、これ、有しを、沙石集が立證す。後世(維新前)、邦人、萬力の梃と、座を結合して、便利優等のコゼヌキを作れり。別に萬力の外に、其功を助くる釘戾し、又、反拔板あり來たりしを、後世、合せ攷《かんが》へて、萬力の梃に、釘戾し穴を加へたるが、今も盛岡地方に殘存する萬力なり。
追 記
釘貫を忍び返しと解せし例、黑川君が引かれし嬉遊笑覽、故事要訣の外、上に引ける戲曲、曾我姿富士に、忍び返しの釘貫、と出づ。
黑川君は引かねど、嬉遊笑覽一上、釘貫[やぶちゃん注:底本・「選集」ともに「貫」だけであるが、誤りであるので、「釘貫」とした。以前に示した国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 上」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここの右ページの「釘貫 忍び返し」の項の最後にある「○今」、「門戶のかんぬき……」以下を参照されたい。]の木の條に、「一代女と云《いふ》雙子《さうし》に、江戶すきや橋の邊を云《いふ》に釘貫《くぎぬき》の木陰《こかげ》とあり。天和・貞享頃迄は街の木戶の圍ひを斯云《かくいへ》りと見ゆ」と見ゆ。塵添壒囊抄《ぢんてんあいなうせう》五の三十四を見れば、町々の木戶を釘貫と云し樣子なれど、詳言せば、木戶自身で無く、其圍ひを云たる物か。寶永三年、門左作、曾我扇八景、中卷、「ヤアがいに生温つこい番太めと、奴が潛る大門の釘貫、松皮、木村鄕、三浦の平六兵衞が迎ひ也と、いかつに蹈込む奴が臑《すね》」。是も大門の側に續ける、間の明《あき》たる柵の圍ひを潛《くぐ》り入る意なるべし。此釘貫のヌキはツラヌク、又、サスの義か。クヮンヌキ(鐶貫)、指ヌキ(門左の門出八島發端及び薩摩歌、中卷、婦女の指サシと見ゆ)、繩ヌキ(繩をさし結ぶ皮履)、踏ミヌキ(足底に立てる刺)等、同例也。享保四年、門左作、平家女護島一に、惡僧南大門の貫の木、日向釘貫、周防、とあるは、何か所據《よりどころ》あるにや。多分、近松の手製なるべし。
[やぶちゃん注:「一代女」井原西鶴作の浮世草子「好色一代女」。貞享三(一六八六)年刊。
「天和・貞享」一六八一年から一六八八年まで。徳川綱吉の治世。
「塵添壒囊抄五の三十四」先行する原「壒囊抄」は室町時代の僧行誉の作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に、巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明したもので、「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて、七百三十七条としたのが、「塵添壒囊抄」(じんてんあいのうしょう)全二十巻である。編者は不詳で、享禄五・天文元(一五三二)年成立で、近世に於いて、ただ「壒囊鈔」と言った場合は、後者を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。当該部が「日本古典籍ビューア」のこちらで視認出来る。
「寶永三年」一七〇六年。
「享保四年」一七一九年。]
[やぶちゃん注:キャプションは、「第七圖」・「紋章釘拔と一ツ巴」。]
○釘貰紋を用ひし、最も高名な人の隨一は福島正則也。鹽尻卷九五に出づ。辱知《じよくち》、上松蓊氏說に、氏の家紋、熊楠と同じく、丸に釘拔なり、木曾に上松てふ地有り、其邊より、出でしやらんと考へ居《をり》たるに、五年前、義仲の裔、木曾源太郞氏より、知《しり》得しは、義仲七代の孫、上松氏の始祖たり(熊楠、木曾系圖を按ずるに、義仲十三代の孫、家信、上松氏元祖也。)。德川幕府の世、木曾七人衆の内、三人迄、其祿を食む。金杉、芝園、二橋の間に、將監橋有り。七人衆の一人、改姓して、小笠原將監と名乘りしが、其邊、今の遞信官吏養成所の處に住んで、三千石を食《はみ》し、この家も丸に釘拔を紋とせり、と。續群書類從一二四の小笠原系圖、小笠原氏の門葉家老を列せる内に、南方氏あるは、上に云《いへ》り。而して又、木曾氏あり。木曾路名所圖會三に、木曾の分家、千村政知、小笠原貞慶に通じて、食邑《しよくいう》を沒すと記し、千村の始祖の兄より出でたる馬場氏は、釘貫を紋とす(黑川氏論文二五八頁)。推考するに、阿波に入《いり》たる小笠原の支流が、始めて、釘貫を紋とせりと言えど、其前より、信濃の小笠原家が、多少、釘貫を紋用せしか、若《もし》くは、三好氏の盛時、一家の好みに由《より》て、其釘貫紋を受《うけ》用ひしかで、木曾氏、衰へて、其支族、小笠原に降《くだ》り、其氏を冐《おか》し、其釘貫紋を受用ひし者、少なからざりしならん。
○中道氏通信に、斗南《となみ》藩の或人、第七圖のごとき紋、附たる羽織、著《き》たるを、尋ねしに、釘拔と一つ巴と答へぬ、となり。余に取《とり》て、未曾有の物なれば、記し置く。(大正九年三月十一日稿成)。
[やぶちゃん注:「福島正則」織豊時代から江戸前期の大名福島正則(永禄四(一五六一)年~寛永元(一六二四)年)。通称は左衛門大夫。豊臣秀吉に仕え、「賤ケ岳の戦い」の七本槍の一人として勇猛を馳せ、「小牧・長久手の戦い」や朝鮮出兵などで活躍した。文禄四(一五九五)年、尾張清洲城主。「関ケ原の戦い」では、徳川方につき、それによって安芸広島藩主となり、四十九万八千石を得たが、広島城の無断修築を咎められ、領地没収となり、元和五年、信濃川中島四万五千石に移封され、高井野に蟄居し、享年六十四歳(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「鹽尻卷九五」江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。
「辱知」「知をかたじけなくする」の意で、「知り合いである」ことを、遜って言う語。
「上松蓊」(うえまつしげる 明治八(一八七五)年~昭和三三(一九五八)年)は熊楠の粘菌研究の門弟の一人。「南方熊楠 履歴書(その24) 小畔四郎との邂逅」の私の注を参照。なお、以下の「上松氏」の紋と考証には興味が全く湧かないので、注しない。私は姓氏や家紋などというものには全く関心がないのである。悪しからず。
「斗南藩」戊辰戦争に敗れ、領地を没収された会津藩が明治二(一八六九)年十一月に再興を許されて移住した、現在の青森県むつ市田名部斗南岡(グーグル・マップ・データ)にあった藩。翌年四月から旧藩士らが転住を開始したが、寒冷の僻地の、過酷な自然条件の中で苦しい生活を強いられた。明治四(一八七一)年七月十四日の廃藩置県で「斗南県」となり、さらに九月には青森県に編入され、僅か二年足らずで斗南藩は消滅した。
以下、底本では、一行空けで、全体が二字下げ。「考古学会」への恨み節である。]
本篇は考古學雜誌に揭載されしも、其號を一部も考古學會より送りくれず。本誌(考古學雜誌)上にて學會外の者が學會員の說を駁する文を載するは不都合なりとて、爾來、熊楠に、一切、雜誌をくれず(それまでは投書を乞ふとて、一篇一號以來、數年、間斷なく贈られたる也。)。自分の文が揭載され乍ら、自分の手に入らぬ事となり、止を得ず、沼田賴輔氏に賴み、數本を手に入れ、予に材料を給せられたる人々に頒てり。學會の所行としては未曾有の、仕方、卑劣きわまることと、今に苦笑しおる[やぶちゃん注:ママ。]。(大正十五年九月十六日記)
« 「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 釘ぬきに就て(その4) | トップページ | 多滿寸太禮卷第六 直江常高冥婚の怪 »