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2022/09/13

西原未達「新御伽婢子」 髑髏言

 

[やぶちゃん注: 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した(但し、以下の「序」はベタのママとした)。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。漢文脈部分がある場合は、白文で示した後に〔 〕で訓読文を示した。

 必要と思われる語句について、段落末に注を附した。]

 

     髑髏言(どくろ、ものいふ)

 摂刕丸橋(まるばし)といふ所に、大欲不道の男あり。

 隣鄕《りんがう》に「賴母子(たのもし)」といふ事をむすび置(おき)て、或時、そこに行《ゆき》ぬ。

[やぶちゃん注:「摂刕丸橋」現在の大阪府高槻市芝生町のこの附近か(グーグル・マップ・データ)。

「賴母子」「賴母子講(たのもしかう)」。近代以前にあった金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、籤(くじ)や入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったところで解散するもの。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行した。「無尽講」とも言う。]

 其道に、墓所、あり。

 爰を通る時、後(うしろ)の𧞓(もすそ)に、何やらん、重くかゝれる物、あり。

 ねぢむきて見れば、ひとつの髑髏(されたるかうべ)、着物に喰(くひ)つきたり。

 蹴(け)はなして行《ゆか》んとするに、此首(かうべ)、聲を出《いだ》して、男を呼歸(よびかへ)す。

 恠(あやし)ながら、

「何ぞ。」

と問(とふ)。

「我は、其昔、我殿(わとの)に厚恩(こうおん)を蒙(かふふり)し者也。『いかにもして、一世の内に、此恩を報はん。』と思ひしに、無常の世の習ひ、不幸にして身まかり侍る。今はのきは迄、其事のみ忘れざる一念によつて、」『君、若(もし)、此墓所(むしよ)を通り給はゞ。』と待し社(こそ)、久しけれ。我がいふ所を信じ給はゞ、大分(《だい》ぶん)、冨貴(ふつき)に成《なり》給ふ事を敎參《をしへまひら》せん。聞《きき》給はんや。」

と。

 男、恠怖(あやしくおそろし)ながら、「冨(とめん)」といふに、嬉しく、事請(ことうけ)しぬ。

 首(かうべ)のいふ、

「今夜、隣在(りんざい)の『賴母敷《たのもし》』に行《ゆき》給はゞ、其座にて、『唯今、路(みち)にて、古き髑髏の言(ものいふ)を聞(きゝ)し。』と申されんに、座中、動(どよみ)、笑ひて、誠に信ずる人、あらじ。『否(いや)、我、行《ゆき》て、ものをいはせて聞《きか》すべし。』とあらんに、猶、强《しひ》て、『僞(いつはり)。』とすべし。我(が)をつのりて、いはん時、多分、「かけ錄(ろく)」にならん。あひかまへて、少分(しやうぶん)のかけにし給ふな。『身代一跡(しんだい《いつ》せき)。』と定《さだめ》らるべし。其上、相違なき證文を書《かき》かはして後《のち》、爰に來り給へ。我、かくのごとく、ものをいふべし。然《しから》ば、其座に在《あり》あふものゝ、一跡を取給はん。かくてこそ、我が年來(ねんらい)の妄執は、はるけぬべけれ。さるにても、『髑髏(どくろ)の、ものをいふ事、有べき事にあらず。若(もし)狐狸(こり/きつねたぬき[やぶちゃん注:右/左の読み。])の諷掌(たぶらかす[やぶちゃん注:二字への読み。])にや。』と疑(うたがひ)給ふ事、有べし。昔、慈惠大師(じゑ《だいし》)の白骨(《はつ》こつ)の首(かうべ)、女人に「法花經」を敎へ給ひし事、有《あり》。小埜小町(おのの《こまち》)が「秋風の吹《ふく》につけてもあなめあなめ」と歌の上《かみ》の句をつらねしためし、世もつて傳へ知る所也。必《かならず》、つよくいひ募(つのり)て、此德をつぎ給へ。」

と、念比(ねんごろ)に敎へければ、男、甚(はなはだ)喜び、後《のち》を契りて、別れ行《ゆく》。

[やぶちゃん注:「かけ錄」「賭祿」が正しい。物を賭けて勝負すること。

「」平安時代の天台僧で第十八代天台座主で比叡山延暦寺の中興の祖として知られる良源(延喜一二(九一二)年~永観三(九八五)年)の諡号。は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の「元三大師」(がんざんだいし)の名で知られる。ここに出る話は、「撰集抄」の巻二の「第六 奥州平泉の郡(こほり)の女人、「法華經を授かる事(十四)」による。「大日本仏教全書」所収のものでは、「〔十四〕慈惠(じゑ)大師白骨の首(かうべ)女人に『法花』を授くる事」となっている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを見られたい。]

 扨、彼(かの)座に至れば、此物、かたりを仕出(しいだ)すに、案のごとく、一座、笑ひに成《なり》て止(やま)んとす。

 男、いきまき、せき切《きつ》て、

「各《おのおの》、愚癡文盲(ぐちもん《まう》)の心より、物のふしぎを知(しら)ぬ也。我、まざまざと、詞(ことば)を、かはし侍るを、垣破(かきやぶり)に、いひさくる、人の心の虛(うつけ)さよ。」

と、惡口(あくこう)して、氣をたてさするに、各、嗔(いかり)て、

「然らば、慥成《たしかなる》「かけ錄」を究(きは)めて、聞《きき》にまからん。」

といふ。

 男、

『嗄(すは)哉《や》、思ふ圖(づ)にのつたり。』

と、よろこび、家屋敷・諸具・田苑(でんゑん)に至る迄、相互(《あひ》たがひ)にかけに入《いれ》て、證據(しやうこ)の堅狀(《けんじやう》/かたき[やぶちゃん注:左のそれは「堅」のみの読み。])、取《とり》かはし、座中を卒《ひきゐ》て、此墓に、おもむく。

 

Syarekoube
  

 

 件(くだん)の首あり。

 男、立よりて、

「我、今、爰に來りぬ。いかにも聲を發して言(ものいへ)。」

と、いふに、此首(かうべ)、更(さらに)、音、なし。

 相手の衆中(しゆぢう)、動(どよ)めきて、嘲(あざけ)り、笑(わらふ)事、暫(しば)し。

 男、此時、赤面して、彼(かの)首を押動(《をし》うご)かし、後(うしろ)にまはり、前により、さまざま、いひ含(ふくむ)れども、更に其《その》甲斐なく、猶、人中(にちう)の大笑ひになる。

 かくて、大勢、罵(のゝしり)て、

「此者の所帶を請《うけ》とらん。」

といふ。

 種々(しゆしゆ)に侘(わび)るといへ共、人々に惡口しつ、日比(ひごろ)も、人の惡(にくんずる)者なりければ、堪忍を、くはへず。

 妻子に、漸々(やうやう)、襤褸(つゞり)一重づゝを、ゆるして、追出し、田地(でんぢ)・山・畑(はた)、悉く、わかち取《とり》ぬ。

 男、瞋噫(しんい)を焦(もや)して、又、彼《かの》墓所(むしよ)に行《ゆき》て、首に、いふ、

「我、汝に約せし事あり。なんぞ、多勢をつれて爰に來《き》し時、一言(《ひと》おと)を出さゞる。古く聞置《ききおき》し事、有《あり》。人、惡趣に落《おち》て、苦しみ多き中にも、閣王にいとまを申せば、罪の輕重によつて、一日片時(《いちじつ》へんし)のいとまをつかはし、娑婆に歸《かへ》し給ふとかや。始(はじめ)、片時の間(ひま)を得て、我に言葉をかはしけるか。又、呵責(かしやく)の時、來つて、冥路に歸りたる跡へ、人々を、ぐして來る物なるべし。然《しから》ば、又、爰に歸る時、有《ある》べし。其期《ご》を示してたうびよ。此者どもの疑(うたがひ)をも晴(はら)し、我(わが)奪(うばゝれ)し家財を、とり戾し、しかも、相手の所帶を、多く、我が物になさん時、其方《そのはう》の跡をも、懇(ねんごろ)に弔(とひ)て、得さすべし。」

と、淚に成《なり》て、かきくどく時に、首、又、聲を出して、いふ、

「我、昨日、名を隱して、名のらず。只、『若干(そこばく)の恩を請《こひ》たるもの也。』と斗《ばかり》いひしを、いかゞ心得たるや。汝、一生、造惡の罪をのみつみて、芥子(けし)斗《ばかり》も、何の慈悲をか、なせるや。我は、往昔(そのかみ)、此丸橋の里におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、有德冨祐(うとく《ふいう》)の者なりしを、汝が父と、汝として、非道の猛惡を構(かまへ)て、我《わが》一跡(《いつ》せき)を諒取(かすめとり)、身の彳(たゝずみ)もならず、所をさへ、追失《おひうしな》はれし内山新三郞、我也。其恨み、骨髓に透《とほつ》て、飮食(いんしい[やぶちゃん注:ママ。])を斷(たち)て、此墳前(ふんぜん)に縊死(くびれしゝ)たり。今、此時、至(いたつ)て思ひのまゝに報(むくひ)し事、妄念、はれて、嬉しや。」

と、笑噱(あざわらふ)聲なり。

 男、是を聞(きけ)ども、己(おのれ)が惡も悔(くい)ず、猶、腹立(はらたち)嗔(いかり)て、大きなる石を取て、彼首を打碎(うちくだく)。

 去共(され《ども》)、一滴の血も流れず、痛(いたむ)けしきもなくて、やみぬ。

 誠に、死後に宛(あだ)を報(むくい)し事、おそろしき恨《うらみ》には在《あり》けり。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げで、字も小さい。]

 唐(もろこし)の昔、眉間尺(みけんじやく)といひしものゝ頸(くび)、七日七夜、釜に煮られて、此頸、爛(たゞれ)ず。口より、劍の先を吹出《ふきいだ》し、恨《うらみ》を死後に報(むくい)し。本朝の昔、相州三浦の荒次郞義意(よしもと)が、北条の爲に討たれて、此頸、三とせ、死せず、小田原久埜(くの)の總世寺(さうせいじ)の禪師(ぜんじ)、此頸にむかひて、

  うつゝとも夢ともしらぬ一ねふりうき世のひまを明ほのゝ空

と、よみて、手向給ふにぞ、肉、くちて、死せると也。かりにも、惡行をいとひて、善事にはすゝむべき事、とぞ。

[やぶちゃん注:「西村本小説全集 上巻」では、評言の「小田原久埜の總世寺の禪師」「禪」を『弾』と活字化しているのには、この髑髏ではないが――呆れてものが言えなかった。上下巻で二万五千円もした本が、この――為体(ていたらく)――だ!

「眉間尺」私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)』、及び、『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その2)』の本文と私の注を参照されたい。

「三浦の荒次郞義意」(明応五(一四九六)年~永正一三(一五一六)年)は戦国時代の武将にして相模三浦氏最後の当主。荒次郎は通称。官途名は弾正少弼。当該ウィキによれば、『三浦義同』(よしあつ)『の嫡男』。『父から相模国三崎城(新井城とも。現在の神奈川県三浦市)を与えられ』、永正七(一五一〇)年頃、『家督を譲られる。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏や上杉朝良に従って』、『北条早雲と戦』ったが、永正一〇(一五一三)年『頃には岡崎城(現在の伊勢原市)・住吉城(現在の逗子市)を後北条氏によって奪われ』てしまい、『三浦半島に押し込められた』。『父と共に三崎城に籠って』三『年近くにわたって籠城戦を継続するが、遂に三崎城は落城、父』『義同の切腹を見届けた後』、『敵中に突撃して討ち取られたと言う。これによって三浦氏は滅亡し、北条氏による相模平定が完了する事になる』。三浦浄心の「北条五代記」には、背丈は七尺五寸(二メートル二十七センチ)と『伝え、最期の合戦で身につけた甲冑は鉄の厚さが』二分(六センチ)もあり、『白樫の丸太を』一丈二寸(三メートル六十四センチ)に『筒切りにしたものを八角に削り、それに節金』(ふしがね)『を通した棒(金砕棒)をもって戦い、逃げる者を追い詰め』、『兜の頭上を打つと』、微塵に『砕けて』、『胴に達し、横に払うと』、『一振りで』五人や十人が『押し潰され、棒に当たって死んだものは』五百『余名になった。敵が居なくなると、自ら首をかき切って死んだ、と記されている』。但し、「北条五代記」より『前に成立したと推測されている』「北条記」には、『そのような記述はなく、永正』一五(一五一八)年七月十一日、父『義同や家臣たちと共に討死した、と記されている』とある。

「小田原久埜の總世寺」神奈川県小田原市久野(くの)にある曹洞宗阿育王山総世寺(グーグル・マップ・データ)。]

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